2020年3月29日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:ローマ人への手紙12章9~13節
タイトル:「偽りのない愛で」
きょうは「偽りのない愛で」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、12章からのクリスチャン生活の実際的な歩みについて勧めています。「こういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)それはまず、私たち自身を神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげるということから始まります。そして、私たちは一人一人キリストのからだの器官として、各自に分け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。すなわち、預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧める人であれば勧め、分け与える人であれば分け与え、指導する人であれば熱心に指導し、慈善を行う人であれば喜んでそれを行いなさいということ(12:3-8)でした。
今回は、その3回目となりますが、ここでは兄弟姉妹の基本的なあり方について言及されています。それは愛です。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。」とあります。新改訳第三版では、「善に親しみなさい。」です。
クリスチャンの基本的なあり方、それは愛に生きるということです。クリスチャンがキリストのからだである教会において一つになるとき、それがほんとうの意味でキリストのからだとなるのです。どんなにすばらしい賜物が与えられていても、もしそこに愛がなかったら何の意味もありません。このように賜物について教えた後で愛について語るというケースは、コリント人への第一の手紙13章と同じです。12章で賜物について語ったパウロは、続く13章でこう述べています。
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)
たとえ異言の賜物が与えられていても、たとえ預言の賜物が与えられていても、またあらゆる奥義と知識とに通じ、山を動かすほどの信仰をもっていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛こそ、すべての働きや賜物をその根底において支えるものであり、すべてを結ぶ帯なのです。きょうは、この「偽りのない愛で」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、愛には偽りがあってはいけないということです。クリスチャンは本物の愛で愛さなければなりません。第二のことは、クリスチャンは兄弟愛をもって心から互いに愛し合わなければなりません。第三のことは、そのためには望みを抱いて喜びましょうということです。
I.愛には偽りがあってはいけません(9)
まず第一に、愛には偽りがあってはならないということです。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善にから離れないようにしなさい。」とあります。
パウロはまず、愛には偽りがないようにと勧めています。この「偽りがあってはなりません」という言葉は、役者が演技をすることを表す言葉です。つまり、演技をするように愛してはならないという意味です。この世の中には演技の愛が何と多いことでしょうか。いかにも愛しているかのように見せかけて、実際にはただ演技をしているだけということがあります。表面的には愛しているようでも、心の中ではそうでないケースが多いのです。しかし、愛には偽りがあってはなりません。つまり、偽りのない愛、本物の愛で愛さなければならないのです。
では本物の愛とはどのようなものなのでしょうか。ここにはその一つの特質が描かれています。それは、「悪を憎み、善から離れない」ということです。皆さん、本当の愛は、悪を憎み、善に親しみます。不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。
ある時、一人のお母さんが、子どものことで相談に見えました。中学生になったばかりの娘が急に反抗的になったが、その理由がよく分からない、ということでした。今度は、その娘さんを呼んで話を伺うと、一つのことを話してくれました。小学校を卒業して春休みに入り、いよいよ中学生になるという時でした。四月になって、母親の実家のおばあちゃんに会いに行こうと、二人で電車に乗るために切符を買おうとしたら、母親がこう言ったのです。「あんたはまだ小さいから小学生の料金で乗れるわよ」と。4月1日を過ぎれば自分はもう中学生だからと、「今日から私は大人の料金」と思っていたのですが、お母さんが「あんたは小さいから子どもの料金でも大丈夫。聞かれたら小学生って言うのよ」と言われて、子供料金で乗せられたのです。その時彼女はえらく傷つきました。「大人ってずるいなぁ」と。そのことでこの母親は、娘の信頼を失ってしまったのです。たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのです。本物の愛は、悪を憎み、善から離れません。
こうやって見ると、聖書が教える愛とこの世で言う愛とには、大きなギャップがあることがわかります。聖書で言う愛とはその動機に注目しますが、この世で言う愛は行いと結果に注目するからです。世の中では貧しい人たちにお金を与え、飢えている人たちに食べ物を分け与える人たちを、愛に満ちた人、道徳的な人だと考えますが、聖書では愛がある人というのはそうした行為や結果だけでなく、動機まで問われるのです。したがって、どんなに美しい行為をしたとしてもその動機が適切でなければ、それは愛とは言えないのです。聖書の観点から見るならば、本当の愛とは神との関係によって与えられる愛を動機として現れるものです。なぜなら、愛は神にあるからです。何回も引用しますが、ヨハネの手紙の第一4:9-10には、こうあります。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9-10)
本当の愛は神にだけあるのです。神がそのひとり子をこの世に遣わしてくださり、私たちのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。ここにとは、十字架にということです。神は、そのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったということの中に、神の愛が示されました。この愛に満たされることによって初めて周りの人たちと喜びと悲しみを分かち合うことができるのです。そうでなかったら、その人が意識しても、しなくても、それはただ自己満足のための、打算的な愛になってしまいます。そのような愛の中には、決して真実な愛が芽生えることはありません。
Ⅱ.兄弟愛をもって互いに愛し合う(10)
第二のことは、兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさいということです。10節をご覧ください。ここでパウロは、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」と言っています。
「兄弟愛」という言葉の原語は、ギリシャ語の「フィラデルフィア(Philadelphia)」です。これは9節に出てくる「愛」とは違います。9節に出てくる「愛」は「アガペー」という言葉で、私たちに対する神の愛を表していますが、この10節に出てくる「兄弟愛」は、クリスチャン相互において現れる愛のことです。つまりここでパウロが言わんとしていることは、教会において互いに愛し合うことができるのは、一方的な神の愛と恵みを知った者であるということです。神の愛を知った者は、今度はその愛を兄弟姉妹の中で「兄弟愛」として実践しなさいということです。この「互いに愛し合う」という言葉は、先週の礼拝でのテーマでした。イエス様は十字架につけられる前夜、弟子たちに新しい戒めを与えました。何でしたか。「互いに愛し合いなさい」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。「互いに愛し合う」というのは、家族的な親しい愛を表わす言葉です。世のすべての交わりの中で家庭こそ安心といこいの場ではないでしょうか。なぜなら、そこには麗しい愛の交わりがあるからです。その愛で互いに愛し合わなければなりません。それは教会が神の家族であり、クリスチャンが互いに兄弟姉妹だからです。
神様の愛を知らない人は、兄弟愛をもって互いに愛し合うことはできません。ローマ1:29-32には、神を神としてあがめず、神様に感謝もせず、自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている人間の姿が描かれています。「29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」
これらはどれも愛に反する思いや行為です。神から離れ、自分を含めた偶像を神としている社会では、自分勝手になっていく傾向があります。自分の考えが物事の判断のものさしになるのです。その結果、一つになることができません。そこには愛のひとかけらもありません。特に注目していただきたいのは31節の「情け知らずの者」という言葉です。これは「アストロゴス」という言葉ですが、12:10に出てくる「互いに愛し合い」という「ストロゴス」という言葉にそれを打ち消す「ア」という言葉が付いたものです。ですからこの「情け知らずの者」というのは、家族の愛を持っていない、家族的な愛と親しみを知らない人のことになります。それは愛に反するこの長いリストの中で、一つの要素として取り上げられています。つまり、神を知らない罪深い人間の特徴というのは、本当の家族の愛を持つことができないということです。親を親と思わず、従おうともしません。悪意、陰口、争い、欺き、悪巧みなど、自分勝手に生きようとするのです。そうした態度や行いが、彼らの家族関係の特徴となっているのです。
最初の人間アダムとエバが罪を犯した時彼らの関係は破壊され、そこにあった麗しい交わりが失われたように、家族のような関係が破壊されてしまいました。それが罪深いこの世における人間関係なのです。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。クリスチャンは神の愛、キリストの十字架によって罪贖われた者として、互いに兄弟姉妹であり、神の家族なのですから、その愛をもって互いに愛し合わなければならないのです。
アフリカにイーク族という部族がいるそうです。この部族は互いに話をしません。話をするとしても、それはすべて嘘です。朝起きると、男たちは遠方に目を向けて座っています。互いに言葉は交わしません。そして誰かが獲物を見つけるといきなり立ち上がって、その獲物と反対の方向に走り出します。仲間の目を騙(だま)すためです。それから獲物に近づいていきます。他人のために獲物を捕ることもしません。全部自分のためです。ですから獲物を獲って家に戻ると、まず自分が最初に食べ、妻にも与えますが、4~5歳以上の子供には与えないので、子供が死ぬことも珍しくありません。死人を葬ることをせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのです。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在しています。
程度の差こそあれ、現代の社会とそんなに変わらないのではないでしょうか。みんな自分さえよければいいと思っています。今、新型コロナウイルスでマスクの品薄が続いていますが、テレビはそのマスクを自宅に何十箱と買いだめしている人を取材していました。このくらいあれば家族5人で使っても1年間は間に合う・・と。それだけあったら医療機関に提供するとか、老人介護施設に提供するとか、困っている人に差し上げればいいのにと思いますが、そのようには考えないで、どれだけ自分が助かるかと、自分のことしか考えられません。それがこの世です。このような社会に誰が住みたいと思うでしょうか。このような教会に誰が来たいと思うでしょうか。教会に行ってみたらだれも話しかけてもくれないとか、何しに来たの?というような目で見られるとしたら、ほんとうに悲しいです。
今、シカゴの大学で学んでいる娘が大阪に引っ越した時、どの教会に行こうかといろいろな教会を探したところ、ある教会に行くことにしました。娘は車いすの生活をしているのでできれば礼拝堂が1階にある教会がいいなぁと思っていたら、その教会は礼拝堂が3階にあってエレベーターもありませんでした。しかし、その教会に初めて行ったとき、そこで応対してくれたおばちゃんがとても温かいというか、温かいを越えて熱い方で、大歓迎で迎えてくれたそうです。「よく来ました。あなたは私たちの家族です。何の気兼ねもいりませんよ。」と言うと、「今、仲間を連れてきましたから・・」と屈強な男たちを何人か連れて来て、娘を背負って3階まで運んでくれました。そうした熱心さは集会にも表れていて、全体的に熱いものを感じたそうです。それは本人だけでなくボランティアで一緒に行ってくれたヘルパーさんも同じように感じました。これまで別の教会にも一緒に行ったことのあるこのヘルパーさんは、「教会もいろいろあるんですね。」と言うと、「こういう教会なら来てみたい」と言いました。こういう教会なら来てみたいという、こういう教会というのは、家族愛に溢れた教会です。そういう教会にはだれでも行ってみたいと思うものです。
では、そのためにはどんなことが必要なのでしょうか?パウロは、その次のところでこのように言っています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」どういう意味でしょうか?ピリピ2:3-8節を開いください。ここには、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とあります。
パウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めています。そして、その模範としてキリストの姿を取り上げています。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。これが、人を自分よりもすぐれた者と思うということです。つまり、人を自分よりもすぐれた者と思うということは、自分と誰かを比較してその人を自分よりも優れていると思うということではなく、人を自分よりも大切だと思いなさい、ということなのです。「尊敬しなさい」という意味です。
イエス様は私たちのことを大切な存在だと認めてくださったがゆえに、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださいました。自分の方が大切だと思っていたのであれば、そのようなことはしなかったでしょう。しかし、イエス様はご自分の栄光をかなぐり捨ててくださいました。それは、私たちのことを愛しておられたからです。それは一方的な愛でした。私たちに愛される資格があったので愛してくださったというのではなく、そうでないにもかかわらず、愛してくださいました。もし相手がすべてにおいて自分よりも優れた人であるならば、自分のいのちを捨ててもいいと思うことがあるかもしれません。しかし、キリストは私たちがまだ罪人あったとき、私たちのために死んでくださいました。そのことによって神は、私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。イザヤ43:4に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますが、それはこのことです。神はその愛を十字架で示してくださいました。それが「アガペー」の愛です。「他の人のことを自分よりも大切だと思いなさい」というのは、この十字架の愛で愛しなさいということなのです。この愛があって初めて、私たちにも愛が生まれ、兄弟愛をもって互いに愛し合うということが可能になるのです。
Ⅲ.望みを抱いて喜び(12)
ですから第三のことは、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょうということです。この見える世界の現実を見たら、互いに愛し合うということなどできません。目の前の様々な現象に振り回されて怒ったり、すねたり、ひがんだりするでしょう。なぜなら、この世は戦場だからです。戦場というのは戦いの場なのです。どこに行っても戦いがあります。いろいろな問題にぶつかります。しかし、そんな戦場にいても上を見上げるなら、やがてもたらされる永遠の御国と永遠の祝福にあずかることができるという希望のゆえに、喜びと平安を得ることができるのです。
パウロは8:18で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。救い主イエス・キリストを信じる者に約束されている将来は栄光です。この栄光が約束されているがゆえに、私たちは大いに喜び、患難をも乗り越えることができるのです。私たちが喜べるのは今の状況が楽しいからではないのです。たとえ今はそうでなくても、やがてそのような栄光と祝福にあずかることができるという希望があるから喜ぶことができるのです。この望みのゆえに、私たちは苦手のような人であっても兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことができるのです。
今、新型コロナウイルス感染が世界的に拡大している中で、最も拡大が広がっているのはイタリアです。そのイタリアのロンバルデイア州(北部イタリア)の医師の証Julian Urban氏が、次のような証を書きました。
「私は、この数週間、暗い悪夢の中で、今イタリアで起きて見ていることを経験するなど
とは、今まで決して想像すらしませんでした。悪夢のせせらぎは、今や大河となってどんどん大きくなるばかりです。
最初数人の患者が来て、それから数十人、その後数百人となりました。私たちが今しているのは、最早医療行為ではなく、誰が生き誰が死ぬべきかの決断を下す事なのです、これらの患者は、今まで生涯にわたってイタリアの健康税を払ってきたのにです。
数週間前まで同僚と私は無神論者でした。 神の存在を除外し科学的知見に基づいて学んできた医師が、そう考えるのは珍しいことではありませんでした。ですから私も、両親が教会に行くのを心の中では嘲笑っていました。
9日前のことですが、私たちの病院に、75歳になるある牧師が入院してきました。彼はとても親切な人でしたが、深刻な呼吸困難を発症していました。彼は聖書を持っており、彼自身が非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせていました。その姿に、我々は非常に驚かされ感銘を受けていました。我々医師たちは、皆疲れており、落胆し、精神的にも肉体的にも燃え尽きていたのです。そういうわけですから、私たちは時間を見つけては彼の話に聞き入っていました。我々はもう限界だった。できる事は何もなく、人々が、刻一刻、毎日死んでいるのです。完全に消耗しきっていました。すでに2名の同僚の命が失われ、他の者たちも感染していました。
そんな極限の中で、ようやく私たちは、神に助けを求めなければならないことに気づき始めたのです。早速私たちは、2、3分でも時間を見つけては、神に祈ることを始めました。
私たちが互いに話すとき、私たちはかつて強硬な無神論者だったにもかかわらず、信じがたいことに、今や私たちは、日々の平安を求めつつ、病人を支え続けることが出来るようにと、主の助けを乞うているのです。
昨日, 75歳の牧師が亡くなられました。ここ3週間で120人以上の死者が出て、我々は憔悴しきっていました。彼は、自身が瀕死の状態にあり、私たちも苦境の只中にあったにもかかわらず、私たちがもはや見いだすことさえ望むことができない平安をもたらしてくれたのです。牧師は主のもとに旅立ちました。今の状況が続くなら、私たちも彼の後を追うでしょう。
6日間家に帰れず、最後に食事をとったのがいつだったかも思い出せない状況の中で、私はこの地上に自分が置かれている意味を見出しました。今はもう、誰かを助けるためにこの命を使い果たすことができたら本望です。 私は今、困難と仲間の死との極限の中におりながら、どういうわけか、自分が神に立ち返ることができたと言う幸せに満たされているのです。どうかイタリアのために祈ってください。」
私は、この75歳の老牧師の愛に感銘を受けました。この牧師は、ご自分も非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせたり、祈ったりして励まし続けました。そして、疲れ切っていたこの医師が主のもとに立ち返るきっかけを与えてくれました。いったいこの牧師はどうしてこのようなことができたのでしょうか。それは、神の愛を知っていたからです。偽りのない愛、真実の愛を知っていたので、苦しみの中にある人をその愛で愛することができたのです。
私たちもかつては罪過と罪の中に死んでいたものです。そんな私たちを神は愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださいました。そのことによって愛がわかったのです。だから、私たちも互いに愛し合うことができるのです。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。この神の愛による関係を求めていきましょう。それは、私たちの目が自分から神の愛に、この世から天の御国に向けられることによってもたらされるのです。