あなたはどうするつもりなのか エレミヤ書5章20~31節

聖書箇所:エレミヤ書5章20~31節(エレミヤ書講解説教13回目)
タイトル:「あなたはどうするつもりなのか」

きょうは、エレミヤ書5章の後半からお話します。タイトルは「あなたはどうするつもりなのか」です。このタイトルは、31節の最後のことばから取りました。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか」。「あなたがた」とは、南ユダ王国の人たちのことです。イスラエル王国は、ソロモン王の後で北王国イスラエルと南ユダ王国に分かれました。B.C.931年のことです。北王国イスラエルはすでにB.C.722年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされてしまいました。そして今、B.C.627年頃ですが、預言者エレミヤは南ユダ王国の民に向かって、神のことばを語っているのです。テーマは「神に立ち返れ」です。

ユダの民は神との契約を破り、神でないものによって誓っていました。いわゆる偶像礼拝です。霊的姦淫ですね。その背信はすさまじいものでした。エルサレム中のどこを探しても、公正と真実を求める人は一人もいませんでした。5章1節には「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。」とあります。でも、そういう人はエルサレム中どこを探しても一人もいませんでした。義人はいない。一人もいない、です。
  それで主は、さばきを宣告されました。遠くの地から一つの国を来させて、彼らを食らうと言われたのです。それはバビロン軍のことです。17節には、「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」とあります。まさにいなごがすべてを食い尽くすように、バビロン軍によってユダのすべてを食い尽くすと宣告されたわけです。しかし、すべてを滅ぼし尽くすことはなさいません。そこにわずかながら残りの民を残してくださるとも約束されました。このような神のさばきの宣告に対して、結局、あなたがたはどうするつもりなのか、と問い掛けられているのです。

 

三つのことをお話します。第一のことは、どこまでも主を恐れないユダの民の姿です。彼らには強情で逆らう心がありました。それで彼らは神から離れて行きました。

第二のことは、その結果です。彼らの悪事は社会全体に及んでいきました。それは彼らの咎と罪のゆえです。社会悪の根本的な原因はここにあるのです。

そして第三のことは、このようなことに対する神のさばきです。神は黙ってはおられません。必ずその悪を罰します。それに対して、あなたはどうするつもりなのかということです。

 

Ⅰ.神を恐れない民(20-25)

 

まず、20~25節までをご覧ください。「20 ヤコブの家にこれを告げ、ユダに言い聞かせよ。21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。23 しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。24 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。25 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

21節では、ユダの民を「愚かで思慮のない民よ」と呼び掛けられています。なぜこのように呼び掛けられているのでしょうか。神を恐れていなかったからです。神の民である共同体が神を恐れない。本当の神がいらっしゃるのに、恐れないのです。聖書には、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とありますが、その一番大切な主を恐れるということを捨ててしまったわけです。それで「愚かで思慮のない民」になりました。新共同訳では「心ない民」と訳されています。「愚かで、心ない民よ」。心に神様の導きを求めないということです。心は私たちと神様が結ばれる所です。エレミヤは4章4節のところで、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言いました。大切なのは肉体の割礼ではなく心の割礼です。心が神様と結ばれるということが大事なのです。でもその大切な心がだめになっていました。23節のことばでいうなら、強情になってしまったのです。出エジプト記にはよく「うなじのこわい民」とありますが、まさにうなじのこわい民となりました。神に対してコチコチに固まっていたのです。神に逆らい、神を無視して生きるようになってしまいました。

 

その結果、どうなりましたか。21節には「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」とあります。詩篇135篇15~18節にはこうあります。「15 異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。16 口があっても語れず目があっても見えない。17 耳があっても聞こえずまたその口には息がない。18 これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。」
 偶像を拝むことで偶像のようになってしまいます。目があっても見えず、耳があっても聞こえません。偶像に頼る者はみなこれと同じです。目があっても見えず、耳があっても聞こえなくなります。本当の神様のことばがわからなくなってしまうのです。

 

彼らがどれほど強情であっかが22節にあります。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」どういうことでしょうか。

創造主訳聖書には「わたしは海と陸を分け、それぞれの地域を定めた」とあります。神が天と地を創造されました。神はそこに海と陸の境界を設けられたわけです。被造物全体は、その神が定められた境界を越えることはありません。すべては神が定めた秩序と法則によって保たれているのです。どんなに波が荒れ狂っても勝てず、鳴りとどろいても越えられません。自然界のすべては神の定めに従います。境界を越えることはないのです。しかし、この民はそうではありません。この民には逆らう心がありました。神を恐れ、神に従うどころか、自分勝手な道に向かって行ったのです。
  

ヨハネ1章10~11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。「この方」とは、イエス様のことです。イエス様はもとからこの世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この世はすべてイエス様によって造られたのですから、被造物であるこの世は、当然イエス様を受け入れるはずなのにそうではありませんでした。神に逆らい、創造主であるイエス様を受け入れませんでした。別のことばで言うと、境界を越えてしまったということです。それはこのユダの民だけではありません。私たちも同じです。

 

そればかりではありません。24節と25節をご覧ください。「彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

「初めの雨」と「後の雨」とは、下の欄外の説明にあるように「秋の雨」と「春の雨」のことです。「初めの雨」が「秋の雨」、「後の雨」が「春の雨」です。このようにイスラエルには年2回雨季がありました。この雨がイスラエルを潤し、豊かな収穫をもたらしてくれたのです。それなのに彼らには、神に対する恐れも、感謝もありませんでした。その結果、25節にあるように、この恵みの雨がとどめられてしまいました。25節の「良いもの」とは、この恵みの雨のことです。エレミヤ書14章1~6節を見ると、南ユダに干ばつがあったことがわかります。14章1節には「日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。」とあります。

「2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」(エレミヤ14:2-6)

もちろん、水道もない時代ですから、干ばつになると食料も十分に用意することができず、いのちの危険がありました。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる」というのは、そういう状態を表しているのだと思います。それは、この恵みの雨がとどまったからです。いったいどうしてこの恵みの雨がとどまってしまったのでしょうか。
  25節にその理由が記されてあります。それは「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」ということです。神があなたに良いものを拒んでいるのではありません。あなたの咎がこれを追いやり、あなたの罪がこの良いものを拒んだのです。罪によって雨が降らなくなったのです。

私たちは天気予報という技術があって、今年の夏は暑くなりそうだとか、台風がもうすぐ来るのでそれに備えた方がいいという報道を聞いて行動するわけです。私たちの生活のかなりの部分が、こうした科学技術に頼ることで成り立っているわけです。でも、たとえば、今年の夏は罪によって酷暑になるでしょうと言われても、あまりピンとこないのではないかと思います。でもここではそういうことが言われているわけです。

 

エレミヤの時代、天気がどうなるかは、私たちよりも深刻だったはずです。彼らはまことの神である主を信じてエジプトを出て約束の地にやってきましたが、そこに元々の宗教、土着の宗教がありました。それはバアルと呼ばれる宗教で、豊穣をもたらすと信じられていました。私たちはバアル宗教というと遠い宗教のようで、自分たちとは全く関係ないと思っていますが、それは私たちにとっても身近なものだと思います。というのは、バアル宗教が求めていたのは豊かさであったからです。私たちも豊かさを求めているという点では同じではないでしょうか。手段は違います。でも科学技術というものを絶対的なもののように頼って豊かさを求めているとするなら、バアル神を信じている人たちと何ら変わらないのです。真の神を捨てて、雨を降らせると言われるバアル神に、神の民が反れて行ってしまったわけです。それで干ばつがやって来ました。雨の神、豊穣の神を信じていたのに干ばつで飢饉がやって来たというのは何とも皮肉な話です。つまり、バアルには本当の力がないわけです。世界を創られたのは聖書の神様です。世界を創り、それを保っておられるのは真の神様ただ一人なのです。この神様がいのちの源です。いのちの源から反れて行くということは切り離されるということであって、結果的に民は飢えと渇きに襲われることになったのです。近年、毎年のように異常気象が起きるようになって、異常が普通のようになって来ていますが、その原因はどこにあるのかというと、聖書はこういうのです。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。

 

人間の罪によってこの気象が壊れていると言っても過言ではないのです。詩篇34篇9~10節にこうあります。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」

主を恐れる者には、何一つ欠けることはありません。もし良いものに欠けることがあるとしたら、それは私たちの罪がその良いものを拒んでいるからなのです。神は良い方ですから、良いものを与えてくださるのは当然なのです。天のお父さんは、私たちを祝福したいと願っておられるのです。でも、その祝福を私たちが自分の罪によって拒んでいるのです。折角、お父さんとお母さんが子どもに良いものを与えたいと思っているのに、子どもの方で拒んでいるとしたら悲しい限りです。こんなに子どもを愛しているのに、こんなに子どもに与えたいのに、子どもの方で「いらない」と拒む。「欲しくない」と言う。残念です。

 

Ⅱ.根本的な原因(26-28)

 

次に、26~28節をご覧ください。ユダの民の罪が列挙されています。「26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きで満ちている。だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる。28 彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。」

 

ここには、ユダの社会全体に悪が溢れているような状態が描かれています。彼らの中には悪しき者たちがいて、鳥を捕まえるように人を捕まえて、わなをかける人がいました。つまり、社会的弱者の人たちが、搾取されていたわけです。彼らは弱者を食べてしまって、自分たちは太っていました。不正な手段で富を築き、私腹を肥やしていたのです。単に霊的姦淫を犯して偶像礼拝に走っていたというだけでなく、それが社会全体にも大きく反映していました。エレミヤはこのような状態を見て、こう言っています。30節、「恐怖とおぞましいことがこの国に起こっている。」恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっていると言ったのです。

 

いったいどうしてこのようなおぞましい社会になってしまったのでしょうか。それは南ユダだけでなく、現代の世界にも言えることです。おぞましい社会、おぞましい世界になってしまいました。いったいどうしてこのような社会になってしまったのでしょうか。それは社会ということよりも、一人一人の罪に起因しているのです。その罪の最たるものは、神を神として崇めないということです。神を認めない、感謝もしない、そして、神以外のものを神とすることです。つまり、神を恐れないということです。ここに原因があります。これがすべての社会悪の根本原因なのです。ここにスポットを当てずにいくら社会改革をしようとしてもできません。政治の力、経済の力、福祉の力、慈善活動によって、それをしようとしても限界があるし、究極的な解決にはならないのです。根本的な原因が処理されなければ解決できません。次から次に悪が生まれてきます。オレオレ詐欺が後を絶ちません。次から次に新しい技を繰り出してきます。頭がいいんですね。そんなことに頭を使うなら、もっと良いことのために使えばいいのにと思いますが、実に巧妙に手を変え品を変えて襲ってきます。政権が交代しても何も変わりません。だから、人々は失望するのです。だれがやっても同じだというあきらめになってしまいます。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのです。

 

Ⅲ.あなたはどうするつもりか(29-31)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて神に立ち返れということです。29~31節をご覧ください。「29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。30 荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」」

 

こうした状況に対して主はどうされるでしょうか。29節には、主は必ず罰せられると言われます。神様はこの状況を把握していないのではありません。見て見ぬふりをしているのでもありません。主はこのような状況を十分知っておられ、それに対して必ずさばきをなさるのです。黙認するということは絶対にありません。水に流すとか、帳消しにするといったことはなさらないのです。なぜなら、神は正義の神であり、聖なる方だからです。罪を放置するなどとてもできない方なのです。必ず罰せられるのです。

 

30節と31節は、神様の驚きを表しています。荒廃とおぞましいことがこの国に起こっています。預言者たちは偽りの預言をし、神に仕えるはずの祭司は自分勝手に治めています。そればかりか、ユダの民はそれを喜んでいるのです。このことに神は驚かれ、嘆いておられるのです。こうした彼らの罪、咎には、必ず神の審判がくだることになります。結局、あなたはどうするつもりなのか、と神はチャレンジしておられるのです。

 

でも、どうぞこのことを覚えておいてください。神様がこのようにチャレンジしているということは、その前に悔い改めのチャンスを与えているということです。だから警告を与えているのです。今ならまだ間に合います。今ならまだやり直せます。あなたにも神のあわれみがあるのです。あなたもやり直すことができます。あなたには罪の赦しが提供されているのです。罪の滅びから免れる道が用意してあるのです。その道とは何でしょうか。イエス・キリストです。イエス様は言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことはありません。永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

 

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。

「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。

『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」これが、クリスチャンが抱く希望です。

 

あなたには、この希望があるでしょうか。どんなに恐ろしい神の審判があっても、私は神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているという確信があるでしょうか。イエス・キリストを信じるなら、だれも、また何も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」神のさばきに会うことがないように、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じてください。そういう人はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。また、そのような人の人生を神が祝福し、初めの雨と後の雨をもって潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。

 

あなたの過去には取り返しがつかないこともあるでしょう。人から絶対に許さないと言われたこともあるかもしれない。自分でも自分を赦せないと思うこともあるでしょう。でも、全然関係ありません。神には赦せない罪など一つもないからです。もう罪悪感や罪責感に苛(さいな)まれる必要もありません。人を責める必要もなければ、人に攻められる必要もありません。イエス・キリストがあなたの代わりに罰を負ってくださったからです。罰せられるべきあなたの代わりに罰せられたので、あなたには赦しが提供されているのです。

神のさばきは確実に及んできます。でもそれは神の本意ではありません。神の本意は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返り、神のさばきから免れることなのです。今は恵みの時、今は救いの日です。あなたには神のあわれみが注がれています。その神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くのです。

 

あなたはどうするつもりなのか。この神のチャレンジに、今のうちに応答してください。神の赦しと神の救いを受け取ってください。そうすれば、神のさばきに会うことはありません。必ずバビロンがどこからかやって来ます。想像もつかないような破壊と喪失がもたらされます。でもイエス様を信じる者は救われます。それを決断するのはいつですか。今なのです。