すべては神のみわざ 伝道者の書8章9~17節

2021年1月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章9~17節(旧約P1149)

タイトル:「すべては神のみわざ」

 

 きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

 まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。

しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる
 雨が降っていたのだ
 あの音のようにそっと 

世のためにはたらいていよう

雨があがるように

しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。

その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。

この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。

「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。

家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。