2021年5月30日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:雅歌1章9~17節(雅歌シリーズ③)
タイトル:「ただ一つの願い」
雅歌から学んでいます。きょうはその3回目となります。これは花婿と花嫁の関係を歌った歌ですが、神とイスラエル、また、キリストと教会との関係をたえとて歌われています。前回のところで花嫁は、「私は黒いけれども美しい」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。自分がどんなに汚れた者だと思っていても、花婿なる主が、「女の中で最も美しいひとよ」と呼んでくださる。それゆえ、花嫁なるクリスチャンは、黒くても美しい、と告白できるのです。きょうはその続きです。
Ⅰ.わが愛する者よ(9-11)
まず9~11節をご覧ください。「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。そこに銀をちりばめて。」
これは、花婿のことばです。「わが愛する者よ」という呼びかけは、雅歌全体で9回も用いられています。これが雅歌における重要な概念です。花婿にとって花嫁は「愛する者」なのです。
花婿はここで花嫁をファラオの戦車を引く雌馬になぞらえています。当時エジプトの馬は最高の馬でした。それは王だけが乗ることができる馬だったのです。今で言うと、ロールスロイスとかベントレーといった車です。ロールスロイスとかベントレーといっても皆さんはわからないでしょう。これらは、ロイヤルファミリーが乗る世界最高の乗り物です。ネットで調べてみたら実に美しい車で、価格は何と16億円もします。女性を乗り物になぞらえるなんて嫌だ!という方もおられるかもしれませんが、それほど美しいということです。最高であると。私たちは時々自分を見て「私はなんて黒いんだろう」と思うことがありますが、イエス様はそんなあなたを見て「ファラオの雌馬のように美しい」と言ってくださるのです。
10節をご覧ください。ここには「飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。」とあります。どういうことでしょうか。これは、ファラオの雌馬を飾り立てられていた装飾品のことでしょう。ファラオの雌馬には様々な装飾品が飾り立てられていました。そのように、花嫁も種々の装飾品を身に着け美しく輝いています。
11節には、「私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。それに銀をちりばめて。」とあります。「金の飾り輪」とは、王宮の皇族が身に着けるものです。現代で言うなら「ティアラ」のようなものです。日本でも皇族の女性方が美しいドレスとティアラの装飾を身に着けている姿を見ることがありますが、とてもきれいですね。ここには銀をちりばめた金の飾り輪を作ろうとあります。どういうことでしょうか。聖書では「銀」は贖いの象徴として用いられています。また「金」は神性の象徴です。つまり、キリストの贖いによって救われ火で精錬することによって、神のご性質に作り変えるということです。
時として私たちは火で精錬されるような痛みや苦しみを負うことがありますが、それはいったい何のためかというと、金の飾り輪を作るため、すなわち、そのことによって、あなたを神のご性質に似た者として造り変えるためであるということです。神はあなたを美しく飾るために、あえて精錬されることがあるのです。それは私たちの罪に対する刑罰ではなく、私たちをキリストに似た者とするためなのです。私たちの罪の刑罰は、キリストが十字架で代わりに受けてくださいました。キリストが贖いとなってくださったので、私たちはもう裁かれることはありません。神が私たちを打たれるのは、私たちをもっときよめてくだるためなのです。
Ⅰペテロ3章3~4節には、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とあります。神の御前で価値あるものは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりといった外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄です。こうしたもので飾ってくださるのです。
ところで、ここに突然「私たちは」とあります。急に複数形になっているのです。いったいどういうことでしょうか。これは花婿のことばですから、「私は」となるはずなのに「私たち」と複数形になっているのです。ある人たちはこれを、1章3節の「おとめたち」のことではないかと考えています。つまり、花婿がおとめたちと一緒に金の飾り輪を作ると言っているのではないかというのです。またある人たちは、これを尊厳の複数といって、ヘブル語では尊厳なものを表現する時には複数形をとることがあるので、「私たち」と言っているのではないかと考えています。
しかし、そうではありません。ここで花婿が「私たち」と言っているのは、実際に花婿がそのような方であられるからです。そうです、ここで「私たち」と複数形になっているのは、花婿はキリストのことですから、三位一体の神を表しているのです。旧約聖書にはこのような表現が他にもあります。たとえば、創世記1章26節には、神が人を造られたとき「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。神はここでご自分のことを「われわれ」と言われたのです。なぜ「わたし」ではなく「われわれ」なのでしょうか。神様は三人おられるからです。三人ですが一人、これが三位一体です。神様は三位一体なるお方なのです。エホバの証人の方はこれを受け入れることができないので、これを尊厳の複数だと考えています。神様は尊厳な方なので「わたし」とは言わないで「われわれ」と言われたのだと。しかし、そうではありません。神は三位一体のお方なので「われわれ」と言われたのです。花嫁を金の飾り輪で美しく飾ってくださるのは花婿なるキリストの御業ですが、それは父なる神と子なる神キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神による共同の御業なのです。三位一体の神が、金の飾り輪であなたをさらに美しく飾ってくださいます。銀をちりばめて。イエス・キリストの贖いを通して、私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。感謝ですね。
であれば、私たちが人生の中で試練や困難に直面したとき、それは三位一体の神が私たちをさらに美しく整えるためになされている愛の御業であると受け止め、神がなさることに期待して、すべてを神に任せなければなりません。
Ⅱ.私の愛する方は(12-14)
次に12~14節をご覧ください。「王が長椅子に座っておられる間、私のナルドは香りを放っていました。私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」
これは花嫁のことばです。「王が長椅子に座っている間」とは、婚宴のテーブルについている間ということです。そのテーブルに着いている間、花嫁が放つナルドの香りは、王である花婿をうっとりさせるほど放たれていました。ナルドとは、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それが油に混ぜ合わされたものがナルドの香油です。それは標高が高いところに生息していたことから、非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。
新約聖書を見ると、ベタニヤのマリヤが十字架を目前にイエス様に注いだのは、このナルドの香油でした。彼女がこの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でめぐったとき、家は香油の香りでいっぱいになったとありますが(ヨハネ12:3)、それほど強い香りでした。それは簡単に消えるものではありませんでした。ですから、イエス様が十字架に付けられたときも、また死んで葬られたときにも残っていたでしょう。マリヤがイエス様に香油を注いだのはそのためでした。彼女はイエス様の埋葬の備えにと、前もってイエスのからだに香油を塗ったのです。もっともマリヤは自分ではそんな意識はなかったでしょう。しかし、結果的にそうなりました。それはイエス様にとってどれほどの大きな慰めであったでしょうか。ひとり十字架に付けられたときに、このナルドの香油が慰めとなり、その苦しみを乗り越える一助となったに違いありません。
このナルドの香油は、花婿を祝福するものです。それがこの宴の席で放たれました。花嫁は花婿を愛するがゆえに、自分にとって大切な宝物である高価なナルドの香油をささげたのです。あなたはどうでしょうか。あなたは、あなたを愛して自分のいのちをささげてくださった花婿に何をささげるでしょうか。
そればかりではありません。13節には、「私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。」とあります。何でしょうか、「乳房の間に宿る没薬の袋」とは。これは当時の習慣からきています。当時、婦人たちは体臭を消すために没薬の袋を胸の間に潜めていました。没薬は、着物や体によい香りを付けるために用いられたものです。今でいうと柔軟剤のようなものでしょうか。中には強力に消臭するだけでなく、良い臭いがずっと持続するものもあります。しかし、これは単に体臭を消すためではなく、あることを預言していました。それはイエスの死です。というのは、イエス様が誕生したときも、十字架で死なれたときもこの没薬が用いられたからです。
イエス様が誕生したとき東方の博士たちがイエスに幼子イエスに贈り物を持ってやって来ました。黄金、乳香、没薬です。なぜ黄金と乳香と没薬だったのでしょうか。黄金は、キリストが王であることを表していました。ですから、王なるキリストにとってふさわしい贈り物でした。乳香は、一般の家庭では用いられず神殿での礼拝に用いられていたことから、神にとってふさわしい贈り物でした。そして没薬は、死体が腐るのを防ぐ防腐剤として埋葬の際に用いられていました。すなわち、これはキリストが犠牲的な死によって人々を救いに導く方、救い主であることを表していたのです。ですから、キリストがお生まれになられたとき東方の博士たちが黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのは、まことに王であり、神であり、救い主であるキリストにふさわしいものだったのです。
ここでは、その没薬です。これは常に死と関わりがある香りでした。これが乳房の間に宿したのは、そのことを忘れないためです。つまり、イエス様が私たちを救うために十字架で死んでくださったことを忘れないためです。本当にイエス様を愛する人は、このことを忘れません。いつも自分の胸に刻むのです。それは女性が首につけるネックレスのロケットのようなものです。ロケットとは飛行機のロケットのことではなく、チャームが開閉式になっていて中に写真や薬などを入れられるようになっているものです。よくバレンタインとか、バプテスマ式とか、婚約式とかに贈り物として贈られます。愛する人の写真をその中に入れてネックレスにしていつも胸の間に置くわけです。遺骨の一部をその中に入れている人もいます。イエス様を愛する人はそのことを忘れません。自分の真っ黒い罪のために十字架で死んでくださったという神の恵みを、いつも心に留めるのです。
「恵」という漢字は、十字架を思うと書きます。十字架を忘れません。常に胸の間に十字架があるのです。十字架のネックレスのようですね。十字架が神と私たちのアクセスとなりました。このことを思うのです。このことを思うことが、私の乳房の間に宿る没薬の袋です。
さらに、花嫁は花婿にこのように言っています。14節をご覧ください。「私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」
「ヘンナ樹」とは「へんな木」のことではありません。これはエジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。白またはピンク系の花を咲かせます。ここにはエン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹とありますね。エン・ゲディは、死海の西岸にある荒野です。かつてダビデがサウルに追われて隠れたのがこのエン・ゲディの荒野でした。それは、荒野にある唯一のオアシスでした。いのちがみなぎるところ、それがエン・ゲディです。
このヘンナ樹ですが、この木は長さ2センチ、幅1センチほどの楕円形の小さな葉をつけます。主にマニュキュアとかタトゥーなどの染料として使用されます。ヘナの白髪染めがありますが、それがこのヘンナ樹です。ですから変な木ではありません。花はバラの花のような甘い香りがします。それを求めて花嫁は花婿に引き寄せられるのです。
ところで、この「ヘンナ樹」ですが、へブル語では「コーフェル」(כֹּפֶר)と言います。ですから、新共同訳ではこれを「コフェルの花房」と訳しています。この「コーフェル」(כֹּפֶר)ということばは、創世記6章14節では「やに」とか「樹脂」表す「タール」と訳されています。また、詩篇49篇8節では、「贖いの代価」と訳されています。「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:8)この「贖いの代価」が「コーフェル」です。つまり、この「コーフェル」という語は、贖いという概念をもっているのです。ですから、ここで花嫁が花婿のことを「ヘンナ樹の花房」と言うとき、それは花嫁なる教会が花婿なるキリストの血によって贖い出された存在であることをも表しているのです。イエス様は私たちにとってヘンナ樹の花房なのです。ご自身の尊い血によって贖い出してくださいました。そのように麗しいお方であるからこそ、私たちはこの方を慕い求めるのです。
Ⅲ.私たちの家(15-17)
最後に15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」
これは、花婿が花嫁に語っていることばです。ここで花婿は花嫁に、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と言っています。皆さんは自分の奥さんにこんなことばかけたことがあるでしょうか。「ああ、あなたは美しい。わが愛する妻よ。」アメリカでは自分の気持ちを正直にことば表現しますが、日本人はことばで表現するのが苦手です。「あなたは私を愛しているの」と聞かれると「言わなくてもわかるでしょ」とか、「もうそんな年じゃないよ」などと言うのです。でもここで花婿は花嫁に対して「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と呼び掛けています。すごいですね。何がそんなに美しいのでしょうか。目です。
花婿はここで、「あなたの目は鳩」と言っています。ポッ、ポッ、ポッ、鳩ポッポです。「嫌だ!鳩なんて」と思われる方もいるかもしれませんが、鳩は美しいものを形容しているのです。それほど美しい、それほど清らかであるということです。目は人の心を映し出す鏡とも言われますから、あなたの目は鳩というとき、それは最高の誉めことばでもあるのです。あなたの目は「蛇」なんて言われたらどうでしょう。どうも人を惑わしそうなイメージがあって気持ち悪いですが、あなたの目は鳩と言われると、なんだか素直な人のようでうれしいいんじゃないですか。
興味深いことに鳩には、一夫一婦という習性があります。鳩ですから一雌一雄となるでしょうか、その人だけという習性です。その人だけをじっと見つめます。他の相手に目もくれません。その相手だけです。一生涯同じパートナーだけを見つめます。そのように花婿だけを一点に見つめる花嫁の一途な瞳に、花婿の心が奪われるのです。イエス様だけを見つめて離れない花嫁の目がどれほど麗しいかがわかります。
そして、何といっても聖書において鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、花婿があなたの目は鳩のようだというとき、それは単に私たちの目が鳩のように美しいというだけでなく、私たちの中に住まわれる聖霊様の聖さ、聖霊様の美しさを見ておられるのです。見た目が美しいということ以上に、その内側の美しさを見られるのです。なぜなら、あなたの内側には聖霊様がおられるからです。花婿であられる主イエスは私たちの醜さ、愚かさ、汚さを見るのではなく、私たちの内におられる聖霊様をみておられるのです。それを見て、あなたは美しい、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。ここにおられる方々にも同じように言われます。なぜなら、イエス様はあなたの内におられるご自身のいのちを見ておられるからです。
これが、主があなたを見られるときのまなざしです。主はあなたを見下げたり、白い目で見たり、けなしたりすることは全くありません。ただ誉めことばと励ましのことばだけです。私たちの目はかすんだり、曇ったりしていてそんなにきれいじゃありませんが、主はそんなあなたの目を見て、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。
16節と17節をご覧ください。「私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方。私たちの寝床も青々としています。私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」
これは花嫁が花婿に歌っていることばです。「私たちの寝床も青々としています」彼女は花婿にほめられたことで、ますます彼を恋い慕っています。肉体的に感情的に燃えているのです。寝床が青々としているというのは、そのことを表現しています。別にベッドが青いということではありません。肉体が一体となることを求めているのです。これは詩篇23篇2節にもあります。「主は私をみどり牧場に付させ、いこいのみぎわに伴われます。」主は私を緑の牧場に付させるとは、その交わりの豊かさを表しているのです。
ではその家はどうでしょうか。花嫁はこう言っています。「私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」
これは、私たちの家は最高の家であるということです。当時、杉の木は最高の建材でした。花婿と花嫁の家は、この杉の木でできていました。垂木とは、屋根の下地になる建材です。屋根の一番高い棟木から桁(けた)にかけて、斜めに取り付けられる部材のことです。屋根を拭く材料の重さによっても違いますが、和式の家の標準的な間隔は45㎝です。「屋根の善し悪しは垂木で決まる」と言われるほど重要な木です。その垂木が糸杉でできています。つまり、朽ち果てたボロ家ではないということです。欠陥住宅ではありません。しっかりとした作りで、安心して住める堅固な家です。いつ倒れるかわからないような心配もありません。これが、花婿が建ててくださる家です。
その家とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章1~3節をご覧ください。私たちの花婿であられるキリストは、私たちのためにこのような家を用意してくださると言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」
すばらしいですね。私たちにはこのような家が用意されています。この地上にあっては、部屋が狭いとか、気密性が悪いとか、フローリングが剥がれるとか、害虫が入り込んでくるとか、不便なこともありますが、イエス様が私たちのために天に用意しておられる家は、完璧です。虫やさびで傷物になったり、泥棒が壁に穴を開けて盗みに入り込むこともありません。また、強風で倒れる心配があるような貧弱なものではなく、どんな嵐が襲ってきてもびくともしない堅固な家です。
それはかつて主がダビデに約束されたことでした。主はダビデにこう言われました。「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル記7:13) それはとこしえまでも堅く立つ王国、ダビデの子として生まれるキリストによって立てられる天の御国です。この家を用意してくださいました。これは杉の木でできた梁、糸杉でできた垂木の最高の家です。どんなに大きな嵐が襲ってきてもビクともすることがありません。これほど安心できる家はありません。私たちの愛する方は、私たちをこの家に導いてくださるのです。
であれば、私たちに求められていることは何でしょうか。それはこの花婿を慕い求めることです。鳩のように、花婿だけを見つめて生きることなのです。ダビデはこう言いました。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)
あなたは何を求めていますか。ダビデは、ただ一つのことを主に願いました。それはいのちの日の限り主の家に住むことです。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすためです。私たちも一つのことを求めましょう。いのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。これが花婿なるキリストが私たちに願っておられることです。あなたが花婿のために何をするかではなく、花婿があなたのために何をしてくださったのかということです。花婿なるキリストは、私たちのために一つの家を建ててくださいました。そして私たちがその家に住むために、私たちの罪を贖ってくださいました。十字架の上で。それゆえに、私たちは美しいと言っていただけるのです。
ですから、私たちに求められているのはこの花婿を慕い求め、見つめて離すことなく、主の家に住まうことです。そこで花婿なるキリストし親しい交わりを持つことなのです。ベッドも青々としています。それは杉の木の梁、糸杉の垂木でできた堅固な家です。この方と一つになることを求めましょう。主との交わりがさらに祝福され、豊かなものになりますように。