なぜ泣いているのですか ヨハネの福音書20章1~18節

 イースターおめでとうございます。私たちは今日、特別の日を迎えました。イエス・キリストがよみがえられた日です。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られました。葬られたというのは、完全に死んだということです。しかし、キリストは聖書に書いてあるとおりに三日目に墓からよみがえられました。そして、それが事実であることを示すために、12人の弟子たちをはじめ、多くの人たちに現われてくださったのです。これが、最も大切なこととして聖書が私たちに教えていること、良い知らせ、福音です。今朝は、この復活のキリストについて、ヨハネの福音書から一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.見て、信じた(1-10)

 

 まず、1節から10節までをご覧ください。1,2節をお読みします。

 「1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」」

 

 「週の初めの日」とは日曜日のことです。朝早くまだ薄暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られていた墓に行きました。他の福音書を見ると、他に2人の女たちが一緒であったことがわかります。彼女たちは、イエスが十字架につけられたときもずっと十字架のそばにいました。そして、イエスのからだが十字架につけられた場所の近くの墓に納められるのを確認すると、安息日が明けるのを待って墓に向かって行きました。いったいなぜ彼女たちは墓に行ったのでしょうか。マルコ16:1には、「イエスに油を塗りに行こうと思い」とあります。イエスが十字架で死なれた直後、イエスの身体には香料が塗られましたが、十分ではないと思ったのでしょう。その女たちの中で、ヨハネはマグダラのマリアにスポットを当てています。なぜ彼女にスポットを当てたのかはわかりません。おそらく、彼女はキリストと出会い、その人生が大きく変えられたからだと思います。

 

 彼女は、かつて悲惨な人生を歩んでいました。ルカ8:2を見ると、彼女は七つの悪霊につかれていました。一つや二つではありません。七つです。尋常ではありません。そのため彼女は、非常に苦しい日々を過ごしていました。その彼女がイエス様によって悪霊を追い出してもらったのです。どれほどうれしかったことでしょう。彼女は悪霊から解放されるとイエスに従い、イエスに仕えました。彼女はだれよりもイエスを愛していました。というのは、だれよりも多く赦されたと感じていたからです。ルカの福音書7章には、イエスがパリサイ人シモンの家に招かれ食事をしたときのことが記されてあります。そこに一人の罪深い女が香油の入った石膏の壺を持ってイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐいました。そして、その足に口づけして香油を塗ったのです。その罪深い女とはこのマグダラのマリアでした。パリサイ人シモンはそれを見て、心の中でこう思っていました。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っているはずだ。この女は罪深いのだから。」(ルカ7:39)すると、イエスはあの有名なたとえ話を語りました。500デナリを借りている人と50デナリを借りている人がいてどちらも返すことができなかったので、金貸しが二人とも借金を帳消しにしてやると、この二人のうちどちらが金貸しをより多く愛するようになるかという話でした。「より多く帳消しにしてもらった方だと思います」とシモンが答えると、イエスは彼に、「あなたの判断は正しい」と言われました。そして、彼女がこのようなことをしたのは、彼女の多くの罪が赦されたからだ、と言われたのです。なぜなら、多く赦された者は多く愛しますが、少ししか赦されない者は少ししか愛さないからです。すなわち、彼女は多く赦されたので、多く愛したのです。彼女は他の女たちと一緒に十字架でのイエスの死を最後まで見届けました。自分の愛する主が死んでしまったことで、彼女の心は悲しみで一杯でした。ですから彼女は、安息日が終わるやいなや墓に向かって行ったです。

 

 墓に行ってみると、墓を塞いでいた大きな石が取りのけられているのを見ました。すると彼女は中を確認することもしないで、走って、シモン・ペテロとイエスが愛されたもう一人の弟子、これはこの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らのところに行って、「だれかが墓から主を取って行きました」と告げました。彼女の頭の中にはイエスが復活したという考えはこれっぽっちもありませんでした。ふっかつの「ふ」の字もなかったのです。

 

 3節から8節までをご覧ください。

「3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」

 

そこで、ペテロともう一人の弟子のヨハネは外に出て、急いで墓に行きました。二人は一緒に走りましたが、ヨハネの方がペテロよりも速かったので先に墓に着きました。ヨハネの方が若かったからでしょう。この時ヨハネは20代、ペテロは30代後半ぐらいだったと思われます。30代も後半になると。息が切れて早く走ることができなくなります。思っているように走れないのです。それで、ヨハネの方が先に着きました。ヨハネは墓に着くと身をかがめて中を見ましたが、中には入りませんでした。なぜでしょう。ヨハネはそういう性格だったからです。そういう人がいます。石橋をたたいて渡るような人です。世の中にはいろいろな人がいます。石橋をたたいて渡る人、石橋をたたいても渡らない人、石橋をたたかずともさっさと渡る人です。ヨハネは石橋をたたいて渡る人でした。慎重に行動するタイプだったのです。だから、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、中には入らなかったのです。

 

一方ペテロはというと、石橋をたたかずとも渡る人でした。彼はヨハネよりも遅れて墓に着きましたが、墓に着くなりさっさと中に入って行きました。慎重なタイプの人と突進するタイプの人がいるとしたら、彼は突進するタイプの人でした。私みたいな人間です。ペテロを見ていると自分を見ているような気がします。闘牛のように突進していきます。彼が中に入って行くとどうでしょう。そこには亜麻布が置いてありましたが、不思議なことに、イエスの頭を包んでいた布とイエスのからだを包んでいた布が、離れたところに置いてありました。しかも、きちんと丸めてです。いったいこれはどういうことか。このような番組がありますね。様々なミステリー事件の真相を、手がかりをもとに解明していく推理バラエティーです。「誰が?」「なぜ?」「どのように犯行を行ったのか?」という情報を基に、事件の解決に挑戦していくのです。ここでは、墓の中に入ってみるとイエスのからだがなく、そこにあったのは亜麻布だけ。しかも、その亜麻布は頭を包んでいた布と、からだを包んでいた布が離れたところにあった。しかも、それぞれの布はちゃんと丸めてありました。いったいこれはどういうことか?もし誰かがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、こんな手のこんだことをするでしょうか。しません。からだに巻かれていた布は、香料や没薬が染み付いてベトベトになっていたはずです。それをわざわざほどいて、しかも丁寧に丸めて置いておくようなことをする人はいません。ただそのまま運べば良かったのですから。しかし、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布とは、離れたところに別々に置いてありました。そこにあるはずのイエスのからだだけが消えて無くなっていたのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

 

8節をご覧ください。そのとき、先に墓に着いていたヨハネも中に入りました。そして、見て、信じました。いったい何を信じたのでしょうか。ヨハネはその状況をつぶさに見て、イエスがよみがえられたと信じたのです。確かにそこにイエスのからだがありませんでした。マグダラのマリアは、だれかが墓から主を取って行ったと言うけれども、現場の状況から見てあり得ないことです。だって、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布が別々に、離れたところに置いてあったんですから。しかも、丁寧に丸めて。もしマリアが言うようにだれかがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、そんな手の込んだことはしないでしょう。しかも、墓を見守っていた番兵たちもいないのです。墓を塞いでいた大きな石は脇に転がしてありました。これらの物的証拠を検証すれば、導かれる結論は一つしかありません。それは、イエスはよみがえられたということです。ヨハネは、それを見て、信じたのです。ただ感情的にそう思ったのではなく、一つ一つの証拠を見て、そのように判断したのです。

 

皆さん、私たちが何かを見るという時、いろいろな見方があります。たとえば、ただ何となく見るということがあります。その場合は、ぼんやり見ています。そのように見ながら、「あ、ここにマイクがある」「ここに講壇がある」と認識しているのです。しかし、もう一つの見方があります。それはじっと見るとか、注意深く見るということです。それがどんなものなのかを観察するわけです。ヨハネが見たのはこれでした。彼はただぼんやりと見たのではなく、注意深く見ました。マグダラのマリアは、イエスのからだが無いのを見てだれかが取って行ったと思いましたが、ヨハネはその状況を注意深く見て、そうではないと判断したのです。そして、イエスはよみがえられたと結論付けたのです。でも確かなことはまだわかりません。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していなかったからです。

 

Ⅱ.なぜ泣いているのですか(11-16)

 

一方、マリアはどうだったでしょうか。11節から16節までをご覧ください。

「11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

ペテロとヨハネは、自分たちのところに帰って行きました。彼らはイエスがよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していませんでした。一方、マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。彼女がどれだけイエスを思っていたのか、愛していたのかがわかります。愛する方が亡くなり、そのからだがないのです。いったいどこに行ってしまったのか。帰ろうにも帰れません。帰りたくない。そして泣きながら、からだをかがめて墓の中を覗き込んだのです。すると、イエスのからだが置かれてあった場所に、白い衣を着た二人の御使いが座っていました。一人は頭のところに、もう一人は足のところに。彼らはマリアに言いました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」普通だったらその光景に驚いて「これは夢か幻か、あなたはだれですか。これは現実ですか」とか言ってもおかしくなかったでしょうが、彼女にとって天使なんてどうでも良いことでした。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません。」(13)と、主のからだが無いという状況にただうろたえるばかりでした。

 

そのときです。彼女がこう言ってうしろを振り向くと、そこにイエスが立っているのを見ました。しかし、彼女にはそれがイエスであることがわかりませんでした。もしかすると、朝早かったので寝ぼけていたのかもしれません。あるいは、入口の方が明るくて、立っている人が黒く見えたのかもしれません。いや、涙で目が曇っていてはっきり見えなかったのでしょう。ただ一つはっきりと言えることは、彼女の悲しみは、そこにいる人がだれであるのかがわからないほどのものであったということです。

 

それで、イエスは彼女に言われました。15節です。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエスは決してマリアが泣いている理由がわからなかったわけではありません。イエスはマリアの気持ちを全部ご存知の上でこのように言われたのです。

 

マリアは、イエスのからだがだれかに盗まれたと思っていました。それで悲しんでいたのです。しかし、今は悲しむ時ではありません。今は喜ぶ時です。なぜなら、その主イエスがここにいるからです。主はよみがえりました。それなのに、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。彼女が捜していたのは死んだイエスのからだでした。しかし、イエスはよみがえられたのです。よみがえられて、今、あなたの目の前に立っています。なぜ泣いているのですか。彼女はイエスが目の前に立っているにもかかわらず、イエスが復活したことを認めることができず、そこにいるのは園の管理人だと思っていたのでずっと泣いていたのです。そして、その人にこう言いました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください。私が引き取ります。」

おじさん、頼みます。教えてください。あなたじゃないんですか、主のおからだを運び去ったのは・・。彼女の目は涙で曇っていたので、はっきり見ることができませんでした。

 

しかし、そんな彼女の目が開かれる時がやって来ます。それは、イエスが彼女の名前を呼ばれた時です。16節、「イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、へブル語で「ラボに。」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

 

イエスは彼女の名前を呼ばれました。ヨハネ10:3には、「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」とあります。良い牧者は羊たちの名前を呼んで連れ出しますが、羊たちはその声を知っているのです。

先日、久しぶりに下の娘が家に戻りました。いつも忙しくてなかなか戻って来ないのですが、久しぶりに3~4日ゆっくりしていきました。しかし、今回は一人ではありませんでした。チワワという愛犬を連れて来たのです。名前は「ラブ」です。それがなかなかかわいいのです。でも「ラブ」なんて呼びたくなかったので、「チワ」と呼んだら全然反応してくれないのです。「チワ、こっちおいで。頼むから」と言っても来ない。でも娘が「ラブ」と呼ぶと、しっぽをふって喜んでついて行きます。どこまでも。トイレに行く時にもリビングから出ないようにドアを閉めると、「クーン、クーン」と泣くのです。娘を愛しているのです。そっちの主人よりも、こっちの主人の方がいいよ、と言っても見向きもしません。娘の話ではうるさい人は嫌いだそうで、かえって脅えるというのです。だから、静かに「チワちゃん」で呼んでみましたが、やはりだめでした。チワワは、主人の声を知っていたのです。同じように、羊たちは、牧者の声を聞き分けます。イエス様が「マリア」と呼ばれると、彼女はそれがイエス様だとすぐにわかりました。それで、「ラボニ」、すなわち「先生」と言ったのです。イエス様がマリアの名前を呼ばれたとき、マリアの心の眼が開かれたのです。当時、「マリア」という名前の人はたくさんいました。この朝イエスの墓に一緒に行ったのも、もう一人のマリアと一緒でした。ヤコブの母マリアですね。ですから、当時マリアという名前の人はたくさんいましたが、マグダラのマリアは「マリア」と呼ばれたとき、彼女はそれがイエス様だとすぐに気付いたのです。

 

イエス様はマリアの名前を呼ばれたように、あなたの名前も呼んでくださいます。私は時々イエス様が自分の名前を呼ばれる時のことを想像することがあります。「トミオ→」「トミオ↑」「トミオ↓」「トミオ 」イントネーションによって受け止め方も全然違いますね。きっとマリアを呼ばれた時は、優しく呼ばれたことでしょう。「マリア」。主は、私たちの名前も優しく呼んでくださいます。それによってどれほど慰められることでしょうか。どれほど勇気づけられることか。イザヤ42:1~5にこうあります。

「1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43:1-5a)

あなたを創造され、あなたを形造られた主があなたの名前を呼び、「恐れるな」と言ってくださいます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と言ってくださる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださるのです。私たちの人生には悲しみで涙するようなことがどれほどあるでしょう。しかし、私たちの救い主イエス・キリストは死からよみがえられ、あなたの名前を呼んでくださるのです。この主の御声を聞きながら歩めることはどんなに感謝なことでしょうか。

 

Ⅲ.すがりついてはいけません(17-18)

 

最後に、17節と18節を見て終わります。

「17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」

 

マリアは、自分の名前を呼ばれるとそれがイエスであることがわかり、うれしくて、うれしくて、イエス様にすがりつこうとしました。するとイエスは言われました。「わたしにすがりついてはいけません」触れると汚れてしまうからではありません。事実、この後でイエス様は疑い深いトマスにご自身を現されたとき、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(27)と言っています。ですから、触れることが問題ではなかったのです。では何が問題だったのかというと、イエスがまだ父のもとに上っていなかったということです。父のもとに上って行かないと、神との和解が成立しないからです。天に上り、父なる神の右の座に着かれることによって、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことが本当であることが証明されるのです。どうしてそれで召命されるのかというと、イエスが約束された聖霊が来られるからです。約束の聖霊が遣わされることによって、確かにイエスは罪の赦しのために十字架で死なれ、その死の中からよみがえられたということがわかるのです。つまり、イエスは確かに救いの御業を完成したことがわかるのです。ですから、イエス様は17節でこう言われたのです。

「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 

このようにして、マグダラのマリアは、復活の最初の目撃者として弟子たちのところに遣わされました。イエス様が復活して最初にご自身を現されたのは、このマグダラのマリアだったのです。それは一番弟子のペテロでも、イエスに愛された弟子のヨハネでもなく、ましてや、イエス様を十字架につけた祭司長や律法学者たちでもなく、たった一人の罪深い女性、マグダラのマリアにご自身を現されたのです。イエスに敵対する者は、復活したイエスを見ることができませんでしたが、ただイエス様を心から愛する者にご自身を現されたのです。主の復活を見たのは、主を愛する者だけだったのです。

 

ヨハネ14:18~21を開いてください。ここには、「18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」」とあります。イエス様は、ご自身を愛する者にご自身を現してくださるのです。

 

マグダラのマリアは、イエスを失い、深い悲しみの中に沈んでいました。しかし、イエスが彼女に現われてくださいました。そのことがわかったとき、彼女の悲しみは飛び上がるほどの喜びに変えられました。当の本人は、イエス様が目の前にいるにもかかわらず、それがイエス様だとわかりませんでした。涙で心の目が曇っていたからです。しかし、イエス様に名前を呼ばれたとき、それがイエス様だとはっきりわかりました。

 

皆さんはどうですか。マリアが深い悲しみで涙していたように、不安や悲しみに押しつぶされてはいないでしょうか。でも、イエス様はよみがえられました。そして、こう言われます。

「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

主は、あなたの名前を呼ばれます。イエス様は復活して、あなたのうしろに立っておられるのです。あなたがこの復活の主イエスを信じ、主があなたとともにおられることを信じるなら、確かに不安や恐れはあるでしょうが、主がその涙をすっかり拭ってくださいます。なぜなら、キリストは死からよみがえられたからです。主はあなたを捨てて、孤児とはしません。もはやあなたは1人ではありません。復活したイエス・キリストがいつまでもあなたとともにおられます。このことがわかれば、どのような問題も、どのような困難も、どのような悲しみも必ず乗り越えることができます。

今、国中が、いや全世界がコロナウイルスの脅威にさらされています。現状を見れば恐れ以外の何ものでもないでしょう。しかし、復活された主を見るなら、そこに希望を見いだすことができます。なぜなら、そこに真の解決があるからです。いずれ、この感染症も終息するでしょう。しかし、それは最終的な解決と希望ではありません。なぜなら、もっと困難な時代を迎えることになるからです。しかし、クリスチャンにとってどんなに困難な時代がやって来ても、恐れる必要はありません。最終的な希望がどこにあるのかを知っているからです。それはキリストの再臨です。イエス様は、ルカ21:28でこう言われました。

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」

「これらのこと」とは、終末に起こるしるしのことです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなければなりません。あなたがたの贖いが近づいているのですから。ですから、これらのことは、クリスチャンにとっては贖いが近づいているしるしなのです。それは救いの完成の時であり、クリスチャンにとっての希望の時です。その時が近づいているのです。最終的な希望がどこにあるのかを聖書から教えられ今を生きることができるというのは、何と幸いなことでしょうか。そこに希望を持つことができるからです。キリストはそのためによみがえられました。永遠のいのちが与えられている私たちは、この困難の先にある再臨の希望を確信して生きることができるのです。

沖縄にある「オリブ山病院」の理事長で、読谷(よみたん)バプテスト伝道所の牧師である田頭真一(たがみ・しんいち)先生は、このように言っておられます。「最大の問題は新型コロナウイルスで死ぬことではなく、イエス・キリストを知らずして死ぬことです。最大の希望は感染が終息することではなく、再臨のイエス・キリストをお迎えすることなのです。」アーメン。

「なぜ泣いているのですか」「だれを捜しているのですか」主はよみがえられました。あなたの名を呼んでおられます。その御声を聞き、主があなたと共におられることを信じてください。あなたもこの希望に生きることができますように。