クリスチャンの生き方の原則 ローマ人への手紙14章13~23節

2020年11月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章13~23節

タイトル:「クリスチャンの生き方の原則」

 

 テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師で「たいせつなきみ」という絵本を画いたマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家です。その彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車してしまうということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座っているね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。

 ある日、少し強い口調で彼が言うと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。ある日、娘が母親に「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、彼女はこう答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それがキリストの弟子としての生き方の大切な一つのポイントです。

きょうのところでパウロはこう言っています。14、15節です。「私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」

彼は、食べ物のことで、それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。しかし、そのことで気になる人もいて、そのことで心を痛めている人がいるなら、もはや愛によって歩んでいるとは言えません。その人への配慮が必要であるということです。

 

 Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

 

 まず、13~16節までをご覧ください。「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。」

 

 前回の箇所でパウロは、信者相互の対人関係において、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(1)と勧めました。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。十人十色で、教会には実にさまざまな考えを持った人がいます。それが聖書の教えと反しない限り、そうした考えを受け入れることが求められているのです。ここには「信仰の弱い人」とありますが、それは、律法に囚われてキリストにある自由を享受できないでいた人たちです。食べ物や日のことで、「こうしなければならない」という教えに縛られていました。しかし、信仰の強い人はそうではなく、生きるにしても、死ぬにしてもキリストのために生きているわけですから、律法を完全に成就された主に喜ばれることは何かを求めて生きていたので、そうした律法に囚われた生き方から解放されていました。真の意味でキリストにある自由を享受していたのです。しかし、そうでない人たちもいたのです。その人たちは、「信仰が弱い人たち」と言われていますが、そういう人たちをさばいてはいけないし、受け入れるようにいなければならないのです。

 

 きょうのところでは、13節ですが、ここでは、「いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」とあります。兄弟に対して妨げになるものとか、つまずきになるものとは、そうした自分の考えこそ正しくて、相手の考えは間違っていると断罪することによって、その人が信仰につまずいてしまう、信仰から離れてしまうようになることです。そのように妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい、と言うのです。

 

 パウロ自身はどうであったかというと、旧約聖書には汚れた食べ物について記されてありますが、彼自身は食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。それが彼の確信だったのです。言わば、彼は信仰が強い類の人に分類される人でした。そうした律法には捉われることはなく、何を食べても、何を飲んでも問題ない、問題は何のために食べ、何のために飲むのかということです。ですから、彼はⅠコリント10:31でこう言っているのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにする。それが彼の生きる目的であり、基準でした。だから、そうした律法からは完全に解放されていたのです。

 

 しかし、一方でそうでない人たちもいました。何かが汚れていると考える人には、汚れているのです。それがレビ記にある「汚れた動物」のことなのか、コリント書にある「偶像にささげられた肉」のことなのかわかりませんが、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。そして、もし食べ物のことで、その人たちが心を痛めているならば、それは愛によって行動しているとは言えないのです。なぜなら、キリストはその人のためにも代わりに死んでくださったのであり、そのような人を、食べ物のことで滅ぼすようなことがあるとしたら、愛によって行動しているとは言えないからです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとっては車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことでもし夫が気になっていり、嫌に思っているならば、そのようなことはしないと決心することこそ、思いやりであり、愛の配慮であるということです。

 

 パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。これは何度も言うようですが、あくまでも、聖書の原則に照らし合わせてみて、聖書もその行動を避難していないという確信の下でのことです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するように命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

 

 15章3節を見ると、「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。」とあります。キリストご自身も自分の権利を自制されました。いや、放棄されました。キリストは神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。キリストが十字架につけられた時、それをながめていた民衆は「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしりましたが、彼はそのようにはしませんでした。できなかったからではありません。キリストがその気だったら十字架から飛び降りて、そのように言う人を裁き、地獄に送ることもできたでしょう。しかし、キリストはそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたらキリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。キリストはまだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、キリストが十字架で死なれたのは私たちの益のためであったということです。キリストは自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動するということです。つまり、自分の考えによって行動するのではなく信仰の弱い人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それはその人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。それなのに、食べ物のことでその人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えません。

 

 Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

 

 第二のことは、信仰の本質とは何か、神の国の本質とは何なのかを考えるということです。17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?ここには、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(17節)とあります。

 

 パウロがここで強い関心を抱いていることは、神の国とは何なのかということです。神の国の本質は飲み食いすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのです。義とは神様との正しい関係のことです。つまり、キリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことです。平和と喜びとは、その結果得られる神との関係、そして人との関係のことです。これが神の国の本質的なことなのです。何を食べるのかとか、何を飲むかということではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味どうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるわけです。この本質的なこととそうでないことの判断基準間違うと、教会が混乱してしまうことになります。そして、教会では意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

 

 1994年に山形県米沢市で、東北リバイバルミッションが行われました。会場は、米沢市の郊外にある恵泉キリスト教会のミーコ記念ホールでした。私も実行委員の一人として準備に当たっていましたが、その中で意外なことが話題になりました。それは、当日の夕食をどうするかということでした。遠くから来られる方もいるので、夕食のことも考えておいた方が良いのではないかというのです。まさに五つのパンと二匹の魚です。「こんなへんぴな所でそれだけの人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが食べるにしても、周りにはコンビニ一つありません。すると、実行委員長をしておられた千田次郎先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題になることが多いから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」

そんなものかなぁと思って夕食も準備し当日を迎えましたが、千田先生が言われたとおりでした。食べ物になるとみんな目の色が変わるのですね。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースが多い。そういえば、初代教会で最初に起こった問題も食べ物のことでした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。それは、彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。このように、食べ物のことでは問題が起こりやすいのです。あるいは、食べ物のようなことでは問題が起こりやすいと言った方がいいかもしれません。しかし、このときは千田先生の経験から出た知恵によって美味しい食事を用意したこともあって、とても和やかな、温かい集会になりました。

 

 しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことなのです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり譲ったりしなくとも、そうでないことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりません。そして、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。すなわち、19節にあるように、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていかなければならないということです。

 

  Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

 

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。「食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

 

 パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。

 

それとは逆に、食べてはいけないと思っていたのに食べても全く問題がないのよと説得された場合はどうしたら良いのでしょうか。自分で納得して食べたのであれば問題はありませんが、そうでないのに食べるということがあるとすると、良心に責めを感じてしまうことになります。その場合の原則は、22節にあるとおりです。「あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。」

 

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなければなりません。前回のことばで言うと、5節にあります。「それぞれ自分の中で確信を持ちなさい。」ということばです。人から言われたからと言って、疑問を抱きながら食べるとしたら、それは罪です。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪なのです。ですから、自分の確信を持っていなければなりません。そういう意味では、だれかほかの人が何と言ったかということが重要ではなく、自分自身が聖書の言うところの「自由」の教理をよく理解し、それをバランスよく自分自身に適用しなければなりません。そのようにして、自分の確信を持っていなければならないのです。そうすれば、ほかの人が言ったことばに振り回されることなく、自分の確信として行動することができるようになるはずです。

 

 今、C-BTEの学びが行われていますが、ちょうど先週の木曜日で取り扱った箇所が、このローマ14章でした。そこでは、私たちの信仰は、規則という土台の上に建て上げられているか、原則という土台の上に建て上げられているかで決まるということを学びました。原則を理解して初めて、他人の意見に左右されずに、信仰に建て上げられるようになるからです。そして、この箇所をその原則に生き、キリストにある自由を守るための大事な箇所として学んだわけです。その原則とは何か、それは、それぞれが神の御前で自分の信仰としての確信を持っているということです。そうすれば、つまずいたり、さまたげられることもありません。

 

 以前、福島で牧会していたとき、ある人から「先生、クリスチャンがカラオケに行くのはどうなんですかね」と聞かれたことがありました。私は一度もカラオケに行ったことがないので、正直のところ、カラオケがどういうところなのかわからないのです。それで、ある日曜日の礼拝後に青年たちが集まって討論することになりました。テーマは「カラオケは罪か」です。おもしろかったですね。いろいろな意見が出ました。カラオケに行くには問題ないけれども、そこで飲んだり、騒いだりするのはどうかとか、カラオケに行くなら、自分の家で賛美した方がいいんじゃないかとか、いや、友達に伝道するためにそうした付き合いで行くのは問題ないんじゃないかとか、です。皆さん、どうですか。カラオケは罪ですか。

 今日の聖書の箇所は、このように「白黒の判断をつけることが難しい領域」に直面した時、どうしたら良いかのヒントを与えてくれます。それは、神の御前で自分の信仰の確信を持っていなさい、ということです。しかも、その確信を相手に押し付けるのではなく、相手の考えも受け入れなければなりません。キリストはその人も哀詞、その人のために変わりに死んでくださったほどの人だからです。その人の意見をさばくのではなく、尊重しなければなりません。それは、神の国は食べたり、飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。これをカラオケに適用するとしたら、神の国はカラオケに行っても良いかどうかということではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきです。

 

 どうですか、何だからスッキリしませんか。私たちはとかくこれをしても良いのか悪いのか、そうした規則という土台の上に立ちがちですが、大切なのは、この福音の原則に立つことです。その中から、私たちはどうすべきなのかを判断することです。そういう意味で重要なのは、私たちが福音をどのように理解しているか、聖書の自由の教理をどのように理解し、それをバランスの取れた、成熟した適用をしているかどうかということです。そして、そこにはたえず信仰の仲間がいるわけで、不必要にその人たちの感情を害さないようにその自由を控えめに、無理に人に押し付けることをせずに用いるということです。

 

 皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるというだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じで、教会は福音の真理の上に立たなければなりません。しかし、それだけではだめです。それと同時に、兄弟姉妹に対して寛容でなければなりません。互いにさばきあうのではなく、互いに平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていこうではありませんか。