聖書箇所:ヨシュア記18章
きょうはヨシュア記18章から学びたいと思います。
Ⅰ.新たな拠点シロ(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「18:1 イスラエルの子らの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らに服していたが、18:2 イスラエルの子らの中に、相続地を割り当てられていない七部族が残っていた。」
16章、17章には、エフライム族とマナセ族、すなわちヨセフ族に与えられた相続地の割り当てについて記されてありました。この18章には、まだ相続地を割り当てられていない7つの部族の相続について記されてあります。1節には、イスラエルの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕が建てられたとあります。これまでイスラエルのカナン侵略の拠点はギルガルでした。その拠点をシロに移したのです。なぜでしょうか。会見の幕屋とは、その中に契約の箱が置かれてあり、神ご自身が自らを現わされる所です。それはイスラエルの民にとって最も重要な所でした。というのは、イスラエルは単なる民族主義的な共同体ではなく、創造主なる神を中心とした宗教的共同体であったからです。そのシンボルとしての幕屋をシロに建てたというのは、そこがイスラエルの中心となることを意味していました。シロはエフライムの土地にあり、イスラエルのほぼ真ん中に位置していました。そこに幕屋を建てたのは、1節に「この地は彼らによって征服されていた」とあるように、イスラエルのカナン侵攻がある程度区切りがついたからです。それで、約束の地の端にあったエリコの隣にあったギルガルから、全体の中心であったシロに本拠地を移したのです。そしてそこに12部族の中心となるべく会見の幕屋を建てることで、さらに一致団結して神の約束の実現に向かっていこうとしたのです。
Ⅱ.七つの部族への相続地の割り当て(3-10)
次に、3~10節までをご覧ください。「18:3 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「あなたがたの父祖の神、【主】があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。18:4 部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。18:5 彼ら自身でそれを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南にある自分の地域にとどまり、ヨセフの家は北にある自分の地域にとどまる。18:6 あなたがたはその地の七つの割り当て地を書き記し、私のところに持って来なさい。私はここで、私たちの神、【主】の前で、あなたがたのためにくじを引こう。18:7 しかし、レビ人はあなたがたの間に割り当て地を持たない。【主】の祭司として仕えることが彼らへのゆずりだからである。ガドとルベンと、マナセの半部族は、ヨルダンの川向こう、東の方で自分たちの相続地を受けている。【主】のしもべモーセが彼らに与えたものである。」18:8 その人たちは立って出て行った。その際ヨシュアは、その地について書き記すために出て行く者たちに命じた。「さあ、あなたがたはその地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに帰って来なさい。ここシロで、【主】の前で、私はあなたがたのためにくじを引こう。」18:9 その人たちは行って、その地を巡り、それぞれの町を七つの割り当て地に分けて書物に書き記し、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。18:10 ヨシュアはシロで、すなわち【主】の前で、彼らのためにくじを引いた。ヨシュアはそこで、彼らへの割り当てにしたがって、その地をイスラエルの子らに分割した。」
ところが、2節を見ると、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない部族が7つ残っていました。7つの部族というのは、ヨルダン川の東側の地を相続したガド族とルベン族とマナセの半部族に、ヨルダン川の西側で既に相続したユダ族とエフライム族、マナセの半部族の5つの部族を除いた7つの部族です。彼らは自分たちの割り当て地を受け取っていましたが、その地に進んで行くのをためらっていたのです。彼らはこれまでヨシュアの指導の下勇敢に戦って来たのに、なぜ自分たちの相続地を受け取る段階になって与えられた地を占領しに行くのをためらっていたのでしょうか。確かに、カナンの地を相続することは彼らにとっては待ち望んでいた夢でしたが、現実的には色々と困難がありました。前回のところでも、ヨセフ族がヨシュアのところにやって来て、「谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」(17:16)と言ったように、敵の数の多さや装備を見て恐れ、なかなか出て行けなかったのでしょう。今すぐやらなくてもしばらくは大丈夫、カナンの地の主なところは手に入れたのでしばらくは様子を見ようと、主から与えられた使命に対して踏み出すのを先延ばしにしていたのです。
そんな7つの部族に対して、ヨシュアはこう言いました。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのですか。」(3)神はすでにこの地を彼らに与えておられるのになぜその命令に従い取り組もうとしなかったのでしょうか。それは彼らが無力だったからではありません。あるいは遠慮深かったからでもありません。それは、彼らに全能の神により頼む信仰がなかったからです。生きて働いておられる主を正しい目をもって見上げていなかったので、目の前にある課題を否定的にばかりとらえ、その歩みが止まっていたのです。それはあのヨセフ族の言い訳と同じです。ヨセフ族もヨシュアのところに来てこう言い訳しました。「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(17:18)
その地は、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えた地です。つまり、その地は神の一方的な恵みによって与えられた地なのです。そのような恵みを受けた者として神が私たちに求めておられることは、神が共にいて働いてくださることを信じて従うことです。神に信頼して神の御業に取り組まなければなりません。神の恵みによって救われた私たちは、神とともに働く者であり、神の御業を行い神の使命を果たしていかなければならないのです。
いったいどのように取り組んで行ったらいいのでしょうか。4節をみると、ヨシュアは「部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。」と言っています。7つの部族から3人ずつを選び出しまだ割り当てられていない地を行き巡らせ、彼らにその相続地のことを書き記してもらい、それをヨシュアのところに持って来らせます。そしてその地を7つの割り当て地に分割し、主の前でくじを引きます。
ここには、何回も繰り返して、それを書き記すようにと命じられています。(4、6、8、9)何回も繰り返して書かれているということは、それだけ重要なことであるということです。それは彼らを信仰による行動へと突き動かすためでした。たらたらして手足の動きが止まっている彼らにもう一度約束の地を見て来させ、そこにどんな町々があるのか、改めて主が約束して下さっているものを細かく調べさせることによって、本来自分たちが取り組むべき仕事に着手できるように駆り立てるためだったのです。そのためには、彼らが獲得しようとしている地がどのような所で、そのためには誰と戦わなければならないのかということを具体的に書き記す必要がありました。そのようにすることで、より行動に移すことができるからです。彼らはその地を行き巡りそれを7つの割り当て地に分割しそれを実際に書き記すことによって、神に信頼して出て行く勇気が与えられたのです。
私たちはどうでしょうか。この7部族のように主は素晴らしい祝福を用意しておられるのに適当なところで満足し、信仰の歩みをストップしていることはないでしょうか。確かに主に従う生活には戦いがあります。イスラエルの行く先にもなお敵がいましたし、他の課題もありました。しかしそこで問われていることはその困難さを人間的に計算して難しそうだからやめようというのではなく、主に信頼する者を主は必ず助けて下さると信頼して、どのような中でも御言葉に従うことを何よりも大切にして進み行くことなのです。何よりも心に留めたいことは、1節でみたように、主は私たちのただ中にいることを覚えることです。主はご自身の約束のとおりに、私たちをこの地に導いてくださいました。そして、私たちとともにいると約束してくださいました。この主に信頼して、主が導いてくださる地がどのような所なのかを行き巡り、それを心に刻みたいと思います。主に従う歩みには常に困難はあるでしょうが、しかし、共にいて下さる主が、その歩みを助け、それを乗り越えることができるように導いて下さいます。その主により頼んで、困難も乗り越えさせて頂いて、主が用意下さっている祝福を十分に受け取り、主の御名があがめられるような歩みを続けていきたいものです。
Ⅲ.ベニヤミン族の割り当て地(11-28)
次に、11~28節までをご覧ください。「18:11 ベニヤミン部族の諸氏族のくじが引かれた。くじで当たった彼らの地域はユダ族とヨセフ族の間にあった。18:12 北側の境界線はヨルダン川から始まる。その境界線はエリコの北の傾斜地に上り、西の方へ山地を上る。その終わりはベテ・アベンの荒野である。18:13 さらに境界線はそこからルズに向かい、ルズの南の傾斜地を過ぎる。ルズはベテルである。それから境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルを下る。18:14 さらに境界線は折れ、西側を、ベテ・ホロンの南向かいの山から南へ回る。その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムである。これが西側である。18:15 南側はキルヤテ・エアリムの外れを起点とする。その境界線は西に出て、メ・ネフトアハの泉に出る。18:16 さらに境界線は、レファイムの谷間にあるベン・ヒノムの谷を北から見下ろす山の外れへ下り、ヒノムの谷をエブスの南の傾斜地に下り、エン・ロゲルを下り、18:17 北の方に折れ、エン・シェメシュに出て、アドミムの坂の反対側にあるゲリロテに出て、ルベンの子ボハンの石に下り、18:18 アラバに面する傾斜地を北へ進み、アラバに下る。18:19 そして境界線はベテ・ホグラの傾斜地を北へ進む。境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端である。これが南の境界である。18:20 ヨルダン川が東側の境界線である。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であり、その周囲の境界線である。18:21 ベニヤミン部族の諸氏族の町々はエリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、18:22 ベテ・ハ・アラバ、ツェマライム、ベテル、18:23 アビム、パラ、オフラ、18:24 ケファル・ハ・アンモニ、オフニ、ゲバ。十二の町とその村々。18:25 ギブオン、ラマ、ベエロテ、18:26 ミツパ、ケフィラ、モツァ、18:27 レケム、イルペエル、タルアラ、18:28 ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブア、キルヤテ。十四の町とその村々。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地である。」
11節以降は、その7つの部族の内、まずベニヤミン族の割り当て地について記しています。11節にあるように、彼らの地域は、南はユダ族、北はヨセフ族(マナセ族)の間の地域でした。その境界線は、12~20節に記されてあります。そして、そこにある町々が21節から記されています。前半の21~24節は東側の町々で、全部で12の町と、それに属する村落です。25~28節は西側の町々で、全部で 14の町と、それに属する村落です。
こうやってみると、ベニヤミン族に与えられたのは極めて小さな領土でした。それは、ベニヤミン族がイスラエルの12部族の中でも、最も小さな部族であったことによります。彼らはその人数、部族の小ささによって、ほんのわずかの領地しか与えられなかったのです。しかし、この割り当てられた領土をみると、そこには重要な場所が含まれていることに気付きます。13節を見ると、「そこから境界線は、ルズに向かい、ルズの南のほうの傾斜地に進む。ルズはベテルである。さらに、境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルに下る。」とあります。
この「ベテル」とは「神の家」という意味です。これはあのヤコブの物語と関連していることに気付きます。ヤコブが兄エサウから逃れて叔父のラバンの所へ行く途中、ある町に来ました。彼はそこで石を枕にして寝ますが、不思議な光景を見ました。それは天から地にはしごがかけられていて、神の天使が上がったり、下がったりしているというものでした。彼は夢ら目が冷めたとき、いかなる孤独の中にあっても、主は自分とともにいてくださるということを知り、そこに祭壇を築いて、その祭壇に「神の家」、すなわち、ベテルと名付けたのです。(創世記28章)
このようにベニヤミン族は小さくあまり力のない部族でしたが、ヤコブ以来、人々がその所に来て、祈りと賛美をささげる聖なる場所「ベテル」を、自分の領地に取り込んでいたのです。つまり、ベニヤミン族に与えられた領地は小さかったけれども、重要な場所をしっかりと押さえ、自分たちのものとしていたのです。エルサレムもそうです。彼らはエブス(エルサレム)も自分たちの領土に取り込みました。
このように要所を押さえるというベニヤミン族の姿勢は、その後もずっと続きました。たとえば、B.C.931年に、イスラエルが北と南に分かれて戦争した時には、当時主導権を握っていたユダ族に対して不満を抱いていた他のイスラエル10部族が挑んだ戦いでしたが、12部族の中で最も小さかったベニヤミン族はユダ族とそれ以外の10部族の間に立ちながらも、結局ユダ族に付いたのです。1対10ですから、力の差は歴然です。しかも、大義名分も十部族にありました。にもかかわらず、彼らはユダ族に付いたのです。その結果、どうなったかというと、やがて北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、その10部族は、世界中に散り散りになり「失われた10部族」と言われるようになりました。要するに、この10部族は歴史のかなたに消えて行くことになるのです。そして、パレスチナには、ユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残ることになります。やがてこの2つの部族もバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れて行かれますが、しかし、70年の捕囚の期間の後で再びエルサレムに帰還し、もう一度イスラエルを再興していくのです。そして彼らは以後「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。それはユダ族に由来しているからです。ベニヤミン族もやがてこのユダ族に吸収されていきますが、しかし部族としては、その名を遺すことになるのです。
このベニヤミン族の生き方は、私たちに大切なことを教えてくれます。つまり、私たちにとって重要なことは、自分にどれだけ力があるかとか、どれだけ有利な条件の中にいるかということではなく、たとえ小さく弱い存在であっても、「要所を押さえていく生き方」が肝心だということです。
では、私たちの人生における要所とは何でしょうか。それは聖書に示されているように、神への信仰です。なぜなら、人はそのように神に造られているからです。私たちにとって真実な神への信仰を持つかどうかということは、極めて重要な事柄なのです。私たちの人生を不幸にするさまざまな原因がありますが、その根本的な原因は罪です。しかし、神はイエス・キリストを通してその罪から解放してくださいました。この十字架の贖いの御業を信じる私たちは、人生の要所を得ているのです。この要所を押さえているのなら、たとえそれがどんなに小さな領土でも、何も恐れることはありません。ただ神を見上げ、神に従って生きる人生こそ、私たちにとって最も重要なことなのです。この要所を押さえて、私たちも充実した人生を送らせていただきたいと願うものです。