投稿日: 2018/05/16 投稿者: Tomio Ohashi
ヨハネの手紙から学んでおります。1章のところでヨハネは光の中を歩む人とはどういう人なのかについて述べました。それは自分が罪人であることを認め、その罪を悔い改める人です。そうすれば光であられる神と交わりを保ち、光の中を歩むことができます。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださるからです。
そして前回のところでは、光の中を歩む人のもう一つの特徴を述べました。それは兄弟を愛するということです。自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいるのであって、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかがわかりません。闇が目を見えなくしているからです。しかし、自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
きょうのところには、光の中を歩む人のもう一つの姿が描かれています。それは御父を愛するということです。言い換えると、世を愛さないということです。もしだれかが世を愛するなら、その人のうちに御父の愛はありません。きょうはこの「世を愛してはならない」ということについてお話ししたいと思います。
Ⅰ.子どもたち、若者たち、父たち(12-14)
まず12節から14節までをご覧ください。
「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが、御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」
ヨハネは1節で、「私の子どもたち」と呼びかけて、彼らが罪を犯さないようにと勧めましたが、ここでもまた「子どもたち」と呼んでいます。しかし、ここでは「子どもたち」だけでなく、「父たち」、「若者たち」という呼びかけもなされています。どういうことでしょうか。おそらくこれは、神の家族の構成というか、クリスチャンの霊的成長段階を表しているのではないかと思われます。つまり、神の家族には信仰的に子どものような人がいれば、若者のような人、そして父のような人がいるということです。それは単に年齢的にそうであるということではなく、霊的成長の段階においてそうであるということです。この世では幼児、青年、成人、そして老人という四つのステージに分けられますが、クリスチャンの成長段階は子供たち、若者たち、父たちの三つの段階に分けられるということです。
まず子供たちとはどういう人たちのことでしょうか。12節をご覧ください。ここには、「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。14節には、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「子ども」と訳されている原語のギリシャ語では「テクニオン」と言う言葉で、これは、いわゆる「子ども」のことです。これに対して、「幼子たち」とは「ダイギオン」ということばが使われています。これは「小さな幼子」を意味しています。ですから、ここでは生まれたばかりの小さな幼子とちょっと成長した子どもを一つのカテゴリーに入れているのです。
この子どもたちに言われていることはどんなことでしょうか。それはイエスの血によってあなたの罪が赦されたということです。もう罪責感に悩むことはありません。あなたのすべての罪は赦されて神の子どもとされました。それは14節でも言われています。ここには、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「御父を知った」というのは、神がどのような方であるかを知ったということ、つまり、神は愛であるということを知ったということです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3:16)つまり、あなたの罪は赦されたという信仰の基本的事実を知ったということです。
これが信仰の出発点です。すべてのクリスチャンの土台であります。しかもここに「イエスの名によって」とあるように、それは自分の努力や決心によってではなく、イエスの御名を信じることによって一方的に与えられた恵みです。イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目に死からよみがえってくださったことによって救いの御業は完成しました。この救いは、主イエスの御名を信じるすべての人にもたらされたのです。これがすべてのクリスチャンの土台です。御霊によって新しく生まれたクリスチャンはこの事実を知り、ここに立っていなければなりません。
しかし、罪赦されたクリスチャンはいつまでもそれだけにとどまっていてはいけません。そこから霊的にステップアップしていかなければならないのです。それが次の「若者たち」という段階です。13節をご覧ください。ここには「父たち」とありますが、その前にその後にある「若者たち」を見ていきましょう。子どもは急に父になるわけではなく若者という成長段階を通って父になっていくからです。この「若者たち」に言われていることはどのようなことでしょうか。ここには、「若者たち。私があなたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。14節にも同じことが繰り返して語られています。14節には、「若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」ほとんど同じ内容です。
「若い者たち」とは、「悪い者に打ち勝った」人たちです。それは霊の戦いにおいて勝利した人たちのことを指しています。すなわち、敵である悪魔の誘惑や攻撃に勝利した人たちのことです。頼もしいですね。血気盛んというか、力強さを感じます。人間の成長段階においても20代、30代の若者は力があります。あまり肉体的な疲れを感じません。まさかユンケルとかリポビタンDといった栄養剤を飲んでいないでしょう。集中力があります。それは信仰的にも同じで、彼らは霊の戦いにおいて悪い者に打ち勝つことができます。どのようにして打ち勝ったのでしょうか?14節には、「あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。それは神のことばにとどまることによってです。「とどまる」という言葉は、この手紙におけるキーワードの一つです。神のみことばがその人にとどまることによって、悪魔に打ち勝つことができるのです。逆にみことばにとどまっていなければ、敗北してしまうことになります。神のことばにとどまらない若者は無鉄砲のように、ただ勢いがあるだけでどこに飛んで行くかわかりません。しかし、神のことばにとどまるなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
次は「父たち」です。13節をご覧ください。「父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたが知るようになったからです。」これと同じことが14節にも繰り返して語られています。父たちの特質は何でしょうか。「初めからおられる方」を知っているということです。「初めからおられる方」とはだれのことですか。そうです、イエス・キリストのことです。ヨハネの福音書1章1~3節にはこうあります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」
イエス・キリストこそ初めからおられた神です。父たちとは、この方を知るようになった人たちです。どういうことでしょうか?この「知る」ということばは原語のギリシャ語では「ギノスコー」ということばで、これはただ知識的に知るということではなく、体験的に知るという意味があります。つまり、この人たちはイエスを体験的に知ったことでこの方と深く交わり、その結果イエスのように変えられた人たちであるということです。これがクリスチャンの目標でもあります。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。良い行いをすることによって救われるのではなく、良い行いをするために救われたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いさえもあらかじめ備えてくださいました。それはイエス様に似ることによって、イエス様のようになることによってもたらされます。ですから霊的に成熟している人たちを見てください。だれの目にも魅力的です。輝いています。理想的ですね。何があっても動じません。そこには平安があります。いつも内なる喜びにあふれているのです。
先日、東京バプテスト教会の阿久津恵美さんが二人のご友人と一緒にさくらの教会を訪ねてくださいました。阿久津さんは大田原のご出身の方ですが東京に行ってから教会に行くようになりクリスチャンになられました。大田原の出身の方がどうやって信仰に導かれたのかとても興味があり、大田原に向かう車の中で尋ねました。「ところで、阿久津さんはどうやってクリスチャンになられたのですか?」すると彼女はこう答えられました。
「私はキリスト教の幼稚園に通っていたので小さい時からキリスト教には抵抗はなかったんですが、上京して就職した職場がかなり殺伐としていて人間関係も最悪だったんです。しかしその中に一人だけいつもにこにこしていて平安そうな同僚がいたんです。だからその人に、「あなたはどうしてそんなに平安でいられるの」と尋ねたら、その人はクリスチャンで毎週教会に行っているということでした。それで違う教会でしたが日曜日に教会に行ってみたんですが、皆さんとても温かく迎えてくださいました。でもあまり伝道してくれなかったので結局クリスチャンになるまで10年くらいかかっちゃったんですが、イエス様を信じることができて感謝です。」
イエス様のような人はだれの目にも明らかです。いろいろな困難や苦しみがあっても動じません。だれもがそのようになりたいと思うような魅力をもっています。それが霊的大人です。ここでは「父たち」と呼ばれています。言い換えると、そのような人はイエス様だけで十分ですという人です。イエス様が自分のすべてなのです。前回のところにも、「神のうちにとどまっているという人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」とありましたが、そういう人は、イエス様が歩まれたように歩みます。イエス様ならどうするかということを考えて歩むのです。若い時はそうではありませんでした。あれもこれもといろいろなことに関心がありました。しかし霊的に成熟してくるとだんだん一つに絞られていきます。イエス・キリストだけで十分ですとなるのです。
使徒パウロは、Ⅰコリント2章2節でこう言っています。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(Ⅰコリント2:2)
彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。なぜなら、キリストは神の力、神の知恵であられるからです。かつてパウロはあれもこれもといろいろ追い求めていましたが、神のお取り扱いを受けると彼の関心一つのことに絞られました。それが初めからおられる方を知るということだったのです。
皆さんはどうでしょうか。皆さんは今どの段階におられるでしょうか。皆さんが子どもであることはすばらしいことです。イエス様を信じて罪赦されたということは最高の祝福です。それはすべてのクリスチャンが知らなければならないことであり、すべてのクリスチャンの土台です。でもそこにとどまっていてはなりません。私たちはさらに成長することができます。若者として勝利を味わうことができます。みことばによって霊の戦いに勝利することができるのです。しかし、そこで止まっていてもいけないのです。さらに進んですばらしい霊的高嶺に達することができます。それは初めからおられた方を知るということ、イエス・キリストのようになることです。それを目指して進まなければなりません。
Ⅱ.世を愛してはならない(15-16)
では、イエス様だけを愛し、イエス様だけを求めて生きるためにはどうしたらいいのでしょうか。15節と16節をご覧ください。「あなたは世をも世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものです。」
これは子どもたちだけでなく、若者たちにも、父たちにも、すべての人に対して語られていることです。それは世も世にあるものも、愛してはならないということです。どういうことでしょうか?これは「社会から孤立して生きなさい」ということではありません。また、「自分の趣味や楽しみはすべて捨てなければならない」ということでもないのです。また、社会から離れれば離れるほど自分がきよくされると思い込んで、「私は新聞など読みません。新聞などという世のものに触れると心が汚れますから。」とか、「テレビも見ません。見るのはNHKと『ライフライン』だけです」というのも違います。ここで言われている「世」とは、神によって造られながら神を認めようとせず、神に敵対して悪魔の支配下にある領域のことです。つまり、「御父から出たものではなく、この世から出たもの」です。それはどういうものかというと、16節にあるように、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」といったものです。悪魔はこのようなものをもって人を神から引き離そうと誘惑してきます。
「肉の欲」とは何でしょうか。「肉の欲」とは、人間の持って生まれた肉の性質、堕落した罪深い性質のことです。ガラテヤ5章19~21節には、「肉のわざは明らかです。すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」とあります。
詳訳聖書には、この「肉の欲」とは「官能的な満足に対する渇望」とあります。この世の不品行や姦淫とかいわゆる性的不道徳な欲望のことだと言われています。一般に、欲それ自体は問題ではありません。性欲にせよ食欲にせよ、ほんらい神様が人間に与えられたよいものなのです。しかし、これらの欲は神様がお許しになったルールのなかでのみ人間を幸福にするのであって、それを逸脱すると肉の欲となってしまいます。
「目の欲」とは何でしょうか。目の欲とは、外側から目を通して入ってくる誘惑のことです。ものの外観に惑わされ、真の価値を見失ってしまうことです。井戸垣彰先生は、「目の欲は肉の欲が働く入口である。」(「新聖書講解シリーズ」P157)と言っています。「肉の欲」はしばしば目から入ってくるからです。たとえば、エバが食べてはならないという木の実を取って食べたのは、悪魔に誘惑されて、それを見たからです。それを見ると、その木は食べるのによさそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかったのです。それで彼女はその見を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べました。また、ダビデがバテシェバと姦淫を行った時も、自分の部下であるウリヤの妻バテシェバを見て、その美しさに魅了されたのが原因でした。
人は何を見るかによって思いが形成され、それが行動に現れていきます。ですからイエス様も、情欲をいだいて女を見るものは、姦淫を犯したと言われたのです。それは心で犯す罪のことです。ですから、何を見るかということはとても重要なことなのです。あなたは何を見ているでしょうか。目の前にどんなものを置いていますか。気を付けたいですね。目の欲は私たちの回りにあふれています。そして目の欲は飽くことを知りません。それが私たちの肉をあおるのです。ですから、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)とあるように、目に注意しましょう。いつも良いものを見るようにしたいものです。そして、御霊に満たされ、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)とあるように、御霊の実を身につけたいと思います。
次は「暮らし向きの自慢」です。「暮らし向きの自慢」とは、英語では「Pride of life」とあります。それは自分の生活を誇ることです。たとえば自分がどんな豪邸に住んでいるかとか、高級車を持っているかとか、どれだけ貯金があるかとか、ブラントもののバッグを持っているかとか、あるいは、自分がどんなに賢い人間かを誇ることもそうです。大邸宅に住むこと自体が罪ではないし、ベンツやBMWといった高級車に乗ることも罪ではありません。貯金をすることも、ブランドもののバッグやスーツを持っていることも、それ自体では罪ではありません。しかし、そのようなものを持っているから自分を偉いと思う心があるならば、そうした虚栄心や起こりがあるとしたらそれは世を愛しているのであって、御父から出たものではないということを覚えておかなければなりません。
いったいなぜこの世にあるものを愛してはならないのでしょうか。15節と16節をもう一度ご覧ください。ここにその理由が記されてあります。それは、「もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」それは「御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」すなわち、もしこの世を愛するなら、そこには、御父を愛する愛はありません。愛の性質上、人は二つのものを同時に愛することはできないのです。一方を愛して他方を憎むか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。イエス様はこのことをマタイの福音書6章24節でこのように言われました。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」
多くの人が悩むのは、同時に二人の主人に仕えようとするからです。しかし同時に二人の主人に仕えることはできません。神にも仕え、富にも仕えることはできません。神に仕えるのか、富に仕えるのか、二つに一つであって、その中間など絶対にないのです。両方を大事にし、両方に仕えようとするなら、間違いなく神以外のものに支配され、飲み込まれてしまうことになってしまうでしょう。
Ⅲ.世と世の欲は過ぎ去る(17)
ではどうしたらいいのでしょうか。金ではなく神を愛しましょう。世と世にあるものではなく、神を愛しましょうということです。最後に17節をご覧ください。「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」
どうして世と世の欲を愛してはならないのでしょうか。ここにもう一つの理由が述べられています。それは過ぎ去ってしまうものだからです。いつまでも続くものではありません。永続しないものに愛を注いで何になるでしょう。何にもなりません。すべては水の泡です。この世に重きを置くなら、残念ながら最後は消えて無くなってしまいます。
しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。それは岩の上に家を建てた人のようです。イエス様はマタイの福音書7章のところでこう言われました。
「ですから、わたしのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイ7:24-27)
あなたは何の上に土台を据えていますか。岩の上ですか、それとも砂の上ですか。この世に土台を据えるなら、それは見え目では良いかもしれませんが、人生に洪水が押し寄せたると、倒れてしまうことになります。しかし神のみこころを行うならば、永遠の神の国に土台を据えて生きるなら、どんな嵐が襲って来てもびくともすることはありません。岩の上に建てられているからです。これこそ神を愛する者、神のみこころを行う者です。
私たちの信仰生活の目標はイエス様のようになることです。しかしその過程にはそれを妨げるものが何と多いことでしょう。様々な誘惑があります。悪魔は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものをもって誘惑してきます。だからヨハネは、私たちが罪を犯さないためにどうしたらいいのかを教えているのです。それはイエス・キリストです。私たちには御父の前で弁護してくださる義なるイエス・キリストがおられるのです。この方が助けてくださいます。
「あなたがたの経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
イエス様も私たちと同じ試練を経験なさいました。四十日四十夜、断食した後で荒野に上って行かれました。すると試みる者がやって来て、イエス様を誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)
これは肉の欲です。空腹を覚えているときそんなことを言われたら、どの石もパンのように見えるでしょう。でもイエス様は答えて言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイ4:4)
大切なのは神のみことばが何と言っているかであって、自分の肉の欲を満たすことではないと言って退けました。
すると再び悪魔がやって来て、今度はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の頂に立たせて言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。神はあなたのために御使いを送り、その両手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たらないようにするでしょう。」(マタイ4:6)
これは暮らし向きの自慢です。もしそうなれば英雄になれるでしょう。自分がどんなにすごい者なのかを誇ることができます。でもそんな悪魔の誘惑に対してイエス様はキッパリと言いました。「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある。」(マタイ4:7)
すると今度はイエス様を高い山に連れて生き、この世のすべての王国と栄華を見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(マタイ4:8)
これも大きな誘惑ですね。人は目に見えるものに弱いからです。私はいつも教会の隣の土地を見ていて、「ここが教会の駐車場になったらいいなぁ」と思っていますが、そんな時、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを上げようと言われたら、心がグラグラするのではないかと思います。グリグラですよ。しかし、イエス様はこう言われました。「下がれ。サタン。あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」(マタイ4:10)
すると悪魔はイエス様を離れて行きました。イエス様はここにある肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった悪魔の誘惑に勝利しました。なぜでしょうか。御父を愛しておられたからです。御父から出ておられたからです。神から出た者は、神のみこころを行います。
そして、このイエス様が、いつも私たちとともにいてくださいます。それは私たちの模範のためでした。イエス様は私たちが受ける試練や誘惑を前もって経験され、それをよく知っておられました。この方があなたとともにいて助けてくださるのです。あなたは決して一人ではありません。主がいつも共にいて助けてくださることをどうぞ忘れないでください。そして、この主にあって悪魔の誘惑に勝利させていただきましょう。世と世にあるものを愛するのではなく、あなたのためにいのちを捨てるほど愛してくださった主を愛しましょう。そのようにして少しずつでもイエス様のような者に変えられていくことを求めていきたいと思います。
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