きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらその神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であることを誇りから形式的に律法に仕えていました。そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であると言いました。御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てました。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、なぜ神は彼らをご自分の民として選ばれたのか、その理由を語ります。それは神が真実な方だからです。
きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実です。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に応えましょう。
Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)
まず、第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったいと何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。
「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」
パウロは2章で異邦人同様、ユダヤ人も罪を犯しているのなら、しかも彼らは律法を知りながらそれを破っているのであれば、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっとひどいのではないかと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、と自問自答します。ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何なのか。
これに対してパウロは、「大いにあります」と答え、ユダヤ人のすぐれている点を語ります。それは彼らには神のことばがゆだねられていることです。これはシナイ山で与えられた十戒を中心とした神からのことばのことです。申命記4章12節には、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られました。このような民族は他にはありません。これはユダヤ人にとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地が与えられました。またソロモンの時代には世界で最も栄え、世界中のあこがれの的になったほどです。しかし、彼らにとって最もすばらしい特権は、この神のことばがゆだねられていたことでした。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい祝福です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これがすべてです。これで十分です。これは他の民族にはありませんでした。これはユダヤ人だけに与えられた特権であり、他の民族はユダヤ人を通して聞かなければならなかったのです。そういう意味でユダヤ人は、神と他の民族の橋渡しをする務め、使命が与えてられていたと言えるでしょう。彼らにはこのような特権が与えられていたのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持ってはいませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力ある神のことばが与えられていたのです。
イスラエルの長い歴史の中で彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であったということに尽きると思います。永遠のまことの神を知ること以上に大きな祝福はないのですからです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりもすぐれたものであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法律、中国の政治の知恵よりもはるかに優る宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。
そして、実は私たちにもこの特権がゆだねられています。第二テモテ3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)とありますが、この神のことばである聖書が与えられています。今から150年前、200年前はまだ日本語に訳されたばかりだったので、英語とか、ラテン語で読まなければなりませんでした。しかし、最近は日本語にも翻訳され、昨年も新改訳2017が出版されたように、少しずつわかりやすくなっています。訳としてまだぎこちないところもありますが、ラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすくなっています。いづても、だれでも、自由に、聖書のみことばを読めるようになりました。それは本当に祝福ではないでしょうか。
1,450年頃まではヨーロッパにも印刷機がなかったので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことができませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられるかと思いますが当時の聖書は非常に大きなもので、すべて手書きで書かれてあり、それに盗まれないように鎖までかけられていました。教会に来て聖書を盗むのです。今では国際ギデオン協会の方々が、「どうぞ聖書を読んでください」と学校の校門で配っても、「い~らない」と言ってゴミ箱に捨てる人も多くいます。昔では考えられないことです。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管されていたのです。それでクリスチャンはいつ聖書のことばを聞くことができたのかというと、日曜日に礼拝に集まった時だけでした。ですから、礼拝では牧師がみことばを長く朗読しました。できるだけ神のみことばを聞きたかったのです。今でも伝統的な教会に行くと、毎週の礼拝で旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師によって朗読されることがあります。教会員は聖書を持っていなかったので、日曜日の礼拝で、みことばをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができました。それほど貴重なものなのです。ですから、みことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。長い時には2~3時間続きました。立っていますから居眠りなどはできません。彼らは礼拝のために礼拝堂入った時から終わって出て行く時までずっと立ちっぱなしで礼拝することも少なくなかったのです。それでもみことばが聞きたかった。みことばに飢え渇いていたのです。聖書が少なかった時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったのです。
私たちは今、聖書を読もうと思えばいつでも読むことができます。しかも一冊だけでなく何冊も持っているという人もいるでしょう。いや私はスマホで見てるという人もいます。日本語だけでなく英語や他の国の聖書も持っているという人もいます。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは神のことばが与えられていることに感謝して、みことばから教えられ、これをまだ知らない人たちに伝えていくという使命を果たしていく者でありたいと思います。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことだったのです。
Ⅱ.神は真実な方です(3-4)
次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。
どういうことでしょうか。ユダヤ人にのことばが与えられていたとしても、もし彼らがそれに従わなかったとしたらどうなるのでしょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。パウロは力を込めて言います。「絶対にそんなことはありません。」なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方だからです。神は彼らにみことばを与え、もしこのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)。それで彼らはこのみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。むしろこれを背き続けてきました。ではこの約束は全く意味がなかったということなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、彼らが不真実であったとしても、神は常に真実な方だからです。人間は平気で約束を破ります。どんなに神の前で誓ってもいとも簡単に破ってしまいます。しかし、神は違います。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。どこまでも守られるのです。なぜなら、神は真実な方だからです。ここに神との契約の確実性があるのです。ですからこれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になるものではないのです。イエス様は次のように言われました。
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)
キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではありません。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)
何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、あしあとが一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですか。」いてくださらなかったのではありません。一緒におられました。ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、主があなたを背負っていたからだ・・と。
本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさいません。あなたが不真実でも、常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。
Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)
ではこの真実な神の前に、私たちはどうあるべきでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えましょうということです。5~8節です。
「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」
このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんどん悪いことをしようではないか」と言う人がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと言っています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じレベルにまで引き下げてしまうのであって、神は絶対者であってさばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を創造されただけでなく、この世界を動かしておられます。そして最後にこの世界をさばかれます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張しても通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすです。ローマ人への手紙5章15節に、「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」とあります。
皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ち溢れているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに越えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と言いました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)カナの結婚式では一瓶や二瓶ではない、庭にあった大きな石がめ六つの水をぶどう酒に変えてくださいました。男だけで五千人の人たちが腹ペコだった時には、五つのパンと二匹の魚で彼らの空腹を満たされたばかりか余ったパン屑を集めると大きなかごで十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じる者に、神は溢れほどの恵みを注いでくださいます。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の恵みに答える者でありたいと思うのです。
中国の家の教会の指導者でアクラ張という牧師がおられましたが、私が福島の教会を牧会していたとき先生は二度も教会に来て説教してくださいました。一見、よれよれのおじいちゃんのようですが、一度説教が始まったら、それは火が出るような説教でした。
「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に国が管理する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きに従って教会を辞めました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごすことになりました。
1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され1982年にアメリカへ移住、その後まもなくして人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。
アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2つの教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業しフルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6)とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。
あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。
「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)
私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。
「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)
選ばれた民に主はこう語っておられます。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)
愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。
「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18)
「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)
「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実とご慈愛を仰ぎます。
残り少なくなった私たちの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」
これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。