ローマ人への手紙3章9~31節「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということです。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決ということではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

 

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

 

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

 

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかった者はひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられるので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

 

本当にそうです。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなにひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。

私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

 

よく教会に行くとすぐに「罪」「罪」って罪のことばっかり言われるから行きたくないの、と言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のことであり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。

しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

 

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味しています。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪です。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いのことであって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

 

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

 

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことですか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

 

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人アダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに創造主なる神が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されたのです。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

 

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に架けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

 

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。古代キリスト教の神学者で説教者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus,354-430)は、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが、私たちが救われる唯一の道なのです。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難など山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。

「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできません。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

 

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

 

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

 

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によるからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行や、慈善事業をしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神からの賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけを頼りとし、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなります。

 

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの人々があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思います。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。主があなたとともにおられます。主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

 

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。