2020年9月20日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:ローマ人への手紙13章11-14節
タイトル:「主イエス・キリストを着なさい」
きょうは、「主イエス・キリストを着なさい」というタイトルでお話したいと思います。中世の偉大な神学者アウグスチヌスは、このみことばによって回心し、その生き方が劇的に変えられたと言われています。彼は成績が優秀で、カルタゴの大学に留学し、真理探求に情熱を燃やしていましたが、マニ教にはまり、ある女性との間に子どもまでもうけてしまいましたが、結婚が許されず、彼の内面に葛藤を生みました。それで、383年にイタリアのミラノに行くのですが、そこで「取って読め。取って読め」という子供が歌う声を聞いて、そこにあった新約聖書を開いたのです。そのとき偶然に開いたのがこの箇所でした。それまで、自分の力でいくら努力してもなかなか聖い生活に入ることができずもがき苦しんでいた彼は、この箇所を読んだときたちまち心が平安に満たされ、疑惑の雲がすっかり消え失せたのでした。それで383年にミラノの司教アンブロシウスからキリスト教の洗礼を受けたのです。彼はこれまでの深い眠りから覚め、新しいいのちある生活へと変えられたのでした。
きょうは、この箇所から、世の終わりに生きる私たちクリスチャンはどのように歩むべきなのかつにいてお話したいと思います。第一のことは、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということです。第二のことは、ですからクリスチャンは目を覚ましていなければなりません。第三のことは、古い着物を脱ぎ捨て新しい着物を着なければならないということです。
Ⅰ.今がどのような時か知っているのですから(11a)
まず、11節をご覧ください。ここには、「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。」とあります。
クリスチャンは、今がどのような時なのかを知っています。この「時」という語は、ギリシャ語で「カイロス」という語です。新約聖書には「時」を表す言葉として二つの言葉が使われています。一つは「クロノス」で、もう一つが「カイロス」です。「クロノス」は、すべての人に平等に与えられている時のことです。その時の流れの中で、私たちは生まれ育ち、年を取り、死んでいくのです。時計の針がカチカチと時を刻んでいるその間に、流れていくその時のことです。それに対してもう一つの「カイロス」は、多くの人は知りませんが、クリスチャンだけが知っている時のことです。それはどのような時かというと、「神の時」のことです。今、伝道者の書を学んでいますが、3章に有名な言葉が出てきます。それは、「天の下のすべての営みには時がある。」(3:1)この「時」が「カイロス」です。もちろん旧約聖書はへブル語で書かれていますので、へブル語では「エーマ」という語ですが、これをギリシャ語に訳すと「カイロス」となるのです。同じ3:11にも「神のなさることは時にかなって美しい。」とありますが、その「時」も「カイロス」です。これは時間で計ることができる「時」ではなく計ることができない「時」、その中に突如して洗われる「神の時」のことなのです。ここでは、キリストが再臨される時、この世の終わりの時のことを指して使われています。11節に、「今は救いが私たちにもっと近づいているのですから。」とあることからもわかります。これはキリストの再臨の時のことであり、救いが完成する時のことです。その時が近づいているというのです。
皆さん、この世はただいたずらに続いていくのではありません。やがて終わりの時がやってきます。その時主イエスが天から再び来られ、すべてのクリスチャンをこの世の闇から救い出してくださるのです。黙示録にはその時の様子を、次のように描かれています。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1-4)
その時神に従うすべてのクリスチャンの目から涙が拭い去られ、もはや痛みも悲しみも叫びも苦しみもありません。警察やレスキュー隊、病院、リハビリセンターも必要ありません。すべての悲しみや苦しみから解き放たれるからです。その真ん中には神と小羊であられる主イエスがおられ、水晶のように光るいのちの水の川が流れ出ていて、そのいのちの水の川が諸国民の民をいやすのです。それは私たちクリスチャンにとってもっとも喜ばしい時です。そういう時がやって来るのです。
皆さん、この世には何と多くの悲しみや苦しみがあるでしょうか。今もコロナ禍にありますが、他にもは毎年のようにじしん台風といった自然災害によって家を失い、家族を失って、どれほど多くの人たちが深い悲しみを負っているでしょうか。どれほど多くの方々が病気で苦しんでおられることでしょう。。人間関係の問題でどれほど多くの人々が悩み、苦しんでいることか。結婚や子育て、仕事のことで疲れ果ている人もたくさんおられます。しかし、やがてそうした悩み、苦しみ、悲しみ、痛みから完全に解放され、真の喜びと平安がもたらされる時がやって来るのです。それはキリストが再臨される時であり、私たちの救いが完成する時です。
クリスチャンは、この時を知っているのです。それがいつなのかはわかりませんが、確実に近づいています。パウロがこの手紙を書いたのは今から約二千年前ですが、その時に比べたらはるかに近づいていると言えます。マタイ24章を見ると、イエス様はその前兆について語られました。その時には、「私こそキリストだ」という偽キリストが大ぜい現れ、多くの人々を惑わします。あるいは、戦争も絶えないでしょう。方々でききんと地震が起こります。やがて反キリストが現れ、にせ預言者が多く起こって、キリストを信じる者を激しく迫害するでしょう。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです。「これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいているということを知りなさい」(マタイ24:33)と言われました。
私たちはこのようなしるしの多くを見ています。3.11では未曾有の大地震を経験しました。津波や原発の被害は大きく、未だに復旧できていない状況です。世界中を見ても、自然災害は至る所で起こっています。最近も「ドコモ口座」不正引き出し事件がありましたが、非常に巧妙な手口でサイバー金融犯罪が発生しています。何がどうなっているのかもわからないくらい、社会全体がパニックに陥っています。確かにその時は近づいているのです。イエス様は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)と言われましたが、この世の終わりは必ずやって来るのです。
Ⅱ.目を覚ましなさい(11b)
ではどうしたらいいのでしょうか。パウロは11節の後半のところで次のように言っています。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。」クリスチャンは世の終わりが近づいているということを知っているのですから、目を覚ましていなければなりません。
クリスチャンの内科医の天里待三さんは「眠れぬ夜のために」という小論文の中で、現代の社会は情報を得やすい社会であると同時に、その情報が刺激となり、睡眠を妨げることがあるので、夜9時以降はテレビの番組などもよく注意して選択し、なるべく刺激にならないような番組を選んで見るべきだと助言しています。そして何よりもの解決は、主に身を横たえることだと言っています。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)
私たちが思い煩ってなかなか眠れないとき、それを考えないようにとその問題から逃げようとしたり、その問題を後回しにするのではなく、その問題を神様にゆだねること、それが最も良い解決方法だというのです。ですから、私たちが一番眠りやすいのはいつかというと礼拝の時なんです。神様が平安を与えてくださるので、いつもはなかなか眠れない人でもぐっすりと休むことができます。ただ礼拝中に休まる時には一つだけ注意が必要です。それは聖書を持ったまま居眠りしてはいけないということです。周りの人が起きてしまうから・・・。これは、今は亡き本田弘慈先生の冗談です。
しかし、ここでは居眠りのことではなく、眠りから目を覚ますようにと言われています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています・・・と。どういうことでしょうか?キリストの再臨が近づいているので、それに備え、目を覚ましていなさいということです。
マタイ25章には、愚かな5人の娘と賢い5人の娘のたとえがあります。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。一方、賢い娘たちはというと、自分のともしびといっしょにちゃんと油も用意していました。花婿が来るのが遅れたので、娘たちは、みな、うとうとと眠り始めました。ところで、夜中になって、突然、「そら、花婿が来たぞ。迎えに出なさい。」という声がしたのです。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えましたが、愚かな娘たちは、ともしびは持っていても油を用意していませんでした。焦った娘たちは油を用意していた娘たちにお願いしました。どうか油を分けてくれださいと。ところがその賢い娘たちは、「いいえ、分けてあげるだけの余分な油はありませんので、店に行って、自分の分を買ってください」と答えました。仕方なく娘たちが油を買いに店に行くと、ちょうどその時に、花婿がやって来たのです。油の用意をしていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼に祝宴に行くことができましたが、用意していなかった娘たちは、間に合いませんでした。「ご主人さま。どうぞ開けてください」とお願いしても、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言われ、戸は堅く閉められてしまいました。まさに備えあるところに憂いなしです。目を覚ましているとは、それがいつ来ても大丈夫なように、備えておくことなのです。
私は、毎週日曜日朝9時に那須の礼拝に行き、その後で11時に大田原で行われる礼拝に向かいますが、以前那須から大田原に向かう途中、スピード違反の取り締まりをやっていました。ちょうど前の車が捕まってしまいました。それほどスピードを出していなかったのに、あれで捕まっては大変だと思いましたが、もし、スピード違反の取り締まりをやっているとわかっていたら事前に用心していたでしょう。泥棒に入られるのも同じです。夜の何時に来るかがわかっていたら、目を覚まして見張っているはずです。おめおめと家に入られるというようなことはしません。イエス様が来られるのも同じです。いつ来られるのかわかりません。ですから、いつ来られてもいいように、よく用意しておかなければなりません。
Ⅲ.イエス・キリストを着なさい(12-14)
第三に、では、どのように用心していたらいいのでしょうか。古い着物を脱ぎ捨てて、新しい着物を着なさい、キリストを着なければならないということです。12-14節までをご覧ください。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」
パウロはここで、夜が更けて、昼が近づいたので、着替えをしなさいと言っています。やみのわざを脱ぎ捨てて、光の武具を着けなさいと言っています。やみのわざとは何でしょうか。パウロはここで、やみのわざを三つのグループに分けて説明しています。最初のグループは「遊興と酩酊」です。これは酒を飲んでどんちゃん騒ぎすることです。泥酔は人の感覚が麻痺した状態です。クリスチャンは信仰的に、倫理的に鈍くなってはいけないのです。
第二のグループは「淫乱と好色」です。これは性的不道徳を指しています。この手紙を書いたコリントでは、このような罪が広くはびこっていました。「好色」は破廉恥なことで、はずかしさを忘れることです。
第三のグループは「争いとねたみ」です。これは争いに関する罪のことです。ある注解書によると、これは酔っぱらったり、性的な罪の中に深く落ち込んでいかないような比較的正しい人が陥りやすい罪だとありました。
要するに、これらの行為は生まれながらの古い人の生き方で、肉の欲を満たすことです。それが表れるとこうしたわざになるのです。それは、ガラテヤ書にある肉の行いのリストを見てもわかります。そこには、「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19-21)とあります。
しかし、クリスチャンはこうしたやみのわざを捨てて、光の武具を身につけなければなりません。ここで「武具を身につけようではないか」と言われているのは、まさに今は戦いの時だからです。戦いに出かけようとするとき、ゴムの切れたズボンをはいて行くようなことはしません。そんなことをしたらズボンをあげている間に、敵にやられてしまいます。戦いに出かける時には、それにふさわしい武具を身につけなければなりません。すなわち、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取らなければなりません。(エペソ6:14-17)
それは、主イエス・キリストを着るということです。ここでパウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。キリストを着るとはどういうことでしょうか?キリストを着るとは、キリストと一つになることです。ひかりの子どもとして、ふさわしい生活をすることです。
よく街の中を歩いていると「イエス・キリスト以外に救いはない」とか、「イエスは主です」と書かれたTシャツを着ている方を見かけることがあります。また、車を運転していても、魚のかたちをしたステッカーをはっているのをよく見かけます。あのさかなのマークが何を意味しているかを知っている人は、「あ、あの人もクリスチャンだ」とわかりますが、そうでないと、「あれっ、このマークは何だろう」となります。あれは、ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字「イクトゥス」ですが、それがちょうどギリシャ語で「魚」という意味になるのです。そこで、自分もクリスチャンだということを表すためにあの魚のマークをつけているわけです。
そのようにして自分の信仰を表すこともすばらしいことですが、ここではむしろそれにふさわしい生き方、生活をしなさいということです。当時のクリスチャンは、キリストという着物を着て歩いていると人々から思われるほど、それがにじみ出ていたのです。そのように歩みなさいということです。
先日、数年前まで大田原にいて、今は千葉県の鴨川にいる中国人のクリスチャンと電話でお話ししました。結婚したばかりなのに、奥様が中国に戻っている間にコロナウイルスが発生し、来日できなくなってしまいました。長期滞在のビザの在る日とは来日して二週間の自宅待機をすれば大丈夫なのですが、婚姻関係のビザが切れてしまい来れなくなってしまったのです。こちらから中国に行くことはできますが、そうすれば中国で二週間の自宅待機をし、日本に帰国してまた二週間の自宅待機をしなければならないので、約1か月を自宅待機しなければならないため行くにも行けないのです。それで電話の声もトーンダウンしていて、何となく寂しい感じでした。
彼をさらに寂しくさせたのは、最近、鴨川にある日蓮宗のお寺に行った時、そこで日本のクリスチャンの評判を聞いたのですがそれがとても悪かったので、とてもがっかりしたらしいのです。中国でクリスチャンというととても優しく親切で、温かく、隣人を心から愛するので評判がいいのです。私も実際に中国に行ってみてそれを肌で感じました。私たちを心からもてなしてくれるのです。自分たちの暮らしもそんなに楽でなさそうなのに、自分たちのことよりも訪問した客のために最大限のもてなしをしてくれるのです。これはすごいです。どこに行ってもそうです。中国人がみんながそうかというとそうではなく、やはり自分勝手な人が多いらしいのですが、クリスチャンになると他の人のことを顧みるようになるのです。しかし、彼が日本で接するクリスチャンは意外と自分のことばかり考えていて、この人がクリスチャンなのかどうかわからないのです。いわゆる、キリストの香がしないのです。日本のキリスト教はどうなるんでしょうかと問われましたが、日本のクリスチャンのことを考える前に、今自分が置かれているところから始めていかなければならないんじゃないかなと言うと、「そうですね」と納得してくれました。
以前、阪神タイガースにスタンリッジという投手がいましたが、彼はクリスチャンでそのような生き方をしていました。チームが勝ってヒーローインタビューを受ける時はいつも、チームメイトのマートン選手と同様に、必ず「神様は私の力です!」とメッセージを送ります。それは彼が、自分が神様の良い証人になりたいと願っているからです。ですから、シーズン中であるにもかかわらず、横浜市にある本郷台キリスト教会が主催する野球教室に出かけて行っては子供たちに野球を教え、神様の話もするのです。
「私はクリスチャンとして野球をしています。それは野球をしている時もそうでない時も、神様のために自分は生きているからです。なぜ、私が神様を信じるようになったか?それはイエス様が私のことをとても愛してくれたからです。イエス様は全世界のすべての人たちのためにこの世に来られ、私の罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。だから、私はマットと共に、野球を見てくれている人たちに「神様は私の力です」と言いたいのです。」
ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」と歌いました。(詩篇16:8,9)また、ネヘミヤは、「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:9,口語訳)と言いましたが、そのようにいつも神様を目の前に置いて、神様を中心として生きること、また、イエス様を喜びたたえながら生きること、それがイエス・キリストを着るということなのではないでしょうか。それこそ、主の再臨が近い今、私たちクリスチャンに求められている姿なのです。
皆さんは、このような備えができているでしょうか?イエス様がいつ来られても大丈夫でしょうか?普通、人はどこかに出かける時にはよく準備して行くものです。それなのにイエス様の再臨が近いのにその備えができていないとしたら、それこそおかしいことです。なぜなら、私たちは二,三日の旅にではなく、永遠の旅に出かけるわけですから。そのための準備をしっかりとしておかなければなりません。イエス様が来られるというのに、罪に汚れた衣服を着ていたとしたら大変です。そうではなく、ひかりの武具を身につけなければなりません。主イエス・キリストを着なければならないのです。「マラナ・タ」という祈りがあります。意味は、「主よ。来てください」です。私たちはいつも「マラナ・タ」と祈りつつ、主のご再臨に備えておきたいと思います。