心を翻すことなく エレミヤ書34章1~22節


聖書箇所:エレミヤ書34章1~22節(旧約P1357、エレミヤ書講解説教64回目)
タイトル:「心を翻すことなく」
きょうは、エレミヤ34章から、「心を翻すことなく」というタイトルでお話します。「心を翻す」とは、心を変えること、考えを改めることです。私たちは、聖書の御言葉を聞いたり、読んだりする中で、その御言葉に一度は従おうと決意するも、次の瞬間には、目先の利益を優先して、再び心を翻すという弱さがあるのではないでしょうか。主に救われ、主のみこころに歩む者として、私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。一度主の御言葉に従うと決めたら、心を翻すことなく、聖霊の助けを受けながら、どこまでも主の言葉に従うことが求められているのです。
きょうの箇所には、ゼデキヤとユダの民が一度は主の御言葉に従って奴隷の解放を宣言するも、状況が変わると目先の利益を優先して、心を翻してしまいました。それは主のみこころを損うことでした。その結果、彼らは神のさばきを受けることになります。私たちは心が動かされやすい者ですが、主の助けを受けて、一度神の前で誓った誓いを最後まで果たさなければなりません。
Ⅰ.ゼデキヤ王への警告(1-7)
まず1~7節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」6 そこで預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語った。7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。」
前章の33章ではエレミヤはゼデキヤによって監視の庭に監禁されていましたが、この34章ではエレミヤはゼデキヤ王の元に自由に出入りしています。すなわち、この34章の出来事は33章以前の出来事、すなわち、まだ監禁されていなかった時のことです。エレミヤ書は、年代順ではなくテーマ順に並べられているので、話が遡ることがあるのです。
1節には、「バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。」とあります。これは、バビロンの王ネブカドネツァルが、エルサレムとそのすべての町を攻めていたときのことです。そのとき主からエレミヤに主の言葉がありました。それは2~5節にある内容ですが、エルサレムはバビロンの手によって落ちるということ、そしてゼデキヤはその手から逃れることはできないということ。彼は捕らえられて、ネブカドネツァルの手に渡されるからです。それは主によって定められた避けることができないことなのだから、それを受け入れるべきだ、ということでした。そうすれば、彼は剣で死ぬことはなく、処刑されたりすることなく、平安のうちに死ぬことができると。「平安のうちに死ぬ」とは、自然に死ぬということです。彼はそれ以前の王たちと同じように、ユダヤ人の習慣に従って丁重に葬られることになるということです。
そこでエレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語りました。そのとき、バビロンの王の軍勢は何をしていたかというと、エルサレムとユダに残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていました。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからです。ラキシュはエルサレムから南西に45㎞にある町で、アゼカはラキシュの北東16㎞にあった町です。バビロン軍はまずこの町を攻撃しました。それはこの町が堅固な要塞都市だったからです。かつてアッシリアがイスラエルを攻撃した時も、この堅固な要塞都市であるラキシュを攻めてから、満を持してエルサレムを攻めました。バビロンも同じルートでエルサレムを攻略しようとしたのです。籠城攻めは日本では豊臣秀吉が得意としていた戦法ですが、敵を城に閉じ込めて、相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つのです。この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありません。バビロン軍はそのことをよく知っていました。ですから、誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要都市のすべてを攻め滅ぼしてから、エルサレムを包囲したのです。
エルサレムに閉じこもっていたゼデキヤは、もはやイスラエルの国内からの援軍は期待できませんでした。残る頼りは、ひそかに同盟を結んでいたエジプトからの援軍だけです。きっとエジプトが来て助けてくれると期待していましたが、待てども暮らせど、エジプトからの援軍はやって来ませんでした。バビロン軍は、難攻不落の呼び声高いエルサレムを無理に攻め落とそうとはしないで、彼らが外に出られないように中に閉じ込めました。これが18か月、1年半にも及びました。エルサレムの人は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかと脅える毎日でした。しかもそれが1年半も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなってもおかしくありません。食料も底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ちていきました。そこで彼はエレミヤのところにやって来て、神の助け求めたのです。その時のやりとりがエレミヤ書21章1~2節の内容です。
「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
2節に「主がかつてあらゆる奇しいみわざを行われたように」とありますが、これはエレミヤから遡ること100年前のヒゼキヤ王の時代のことです。エルサレムがアッシリアの王セナケリブの猛攻を受けて陥落寸前になったとき、ヒゼキヤ王が部下を預言者イザヤに遣わしたときの出来事です。その時どんなことが起こったのでしょうか。その時イザヤは力強く、主が救ってくださると答え、実際にアッシリア軍は一晩で18万5千人もの兵が疫病で死んでしまいました。それで彼らはエルサレムから逃げ去ったのです。ゼデキヤ王はその時のことを思い出し、その時のように主が救ってくださることを期待して、自分の部下をエレミヤのところへ遣わしたのですが、イザヤの時とは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。2節の後半と3節をご覧ください。主はこう言われました。「見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。あなたはその手から逃れることはできない。あなたは必ず捉えられて、彼の手に渡されるから」です。何と主はバビロンと戦ってくれるというのではなく、反対にゼデキヤをバビロンの手に渡すと言われました。そしてエルサレムに住む者は、人も家畜も疫病で死んでしまうと。そして最後はゼデキヤとその家来、その民はバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されることになるというのです。助かる道はたった一つしかありません。それはバビロンに降伏することです。そうすれば彼は剣で死ぬことを免れ、平安のうちに死ぬことができます。3節には「必ず」とありますが、それは必ず起こることです。主が「必ず」と言われることは、必ずそうなるからです。バビロンの王に服することは屈辱的なことではありますが、そうすることで、捕囚の地でゼデキヤが安らかに死ぬことができるのであったなら、どんなに幸いであったかと思います。また、その死を悼む民がいたということも大きな慰めであったはずです。
しかし、ゼデキヤはそうしませんでした。この後の39章4~7節をご覧いただくとわかりますが、彼は最後までバビロンの王に降伏しませんでした。その結果、ゼデキヤはエレミヤが預言した通り悲惨な死を遂げることになります。39章4~7節にはこうあります。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
 ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出ましたが、カルデアの軍勢、これはバビロンの軍勢のことですが、彼らの後を追うと、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいたバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れてきました。ネブカドネツァルはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺しました。さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめたのです。最後は獄中で死んでしまいます。彼が最後に自分の目で見たのは、自分の目の前で自分の息子たちが虐殺されるということでした。何とむごいことでしょうか。いったいなぜそこまで悲惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは、彼がエレミヤを通して語られた神のことばを受け入れなかったからです。エレミヤのことばを聞いて彼がそれを受け入れていたならば、彼の死は本当の意味で「安らかな死」となっていたことでしょう。それは私たちへの教訓でもあります。神が語られたことは必ずそのようになるのですから、私たちは心を頑なにしないで、神のことばに素直に従わなければなりません。
皆さんは、アテローム性動脈硬化という病気をご存知ですか。これは、コレステロールの蓄積と動脈の壁の傷跡のせいで起こる動脈硬化のことです。 霊的心の硬化も起こることがあります。 心の硬化は、神の真理を示されたのに、それを認めることも受け入れることも拒否することで起こります。箴言4章23節に、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」とあります。あなたはどうでしょうか。あなたの心は硬化してはいないでしょうか。何を見張るよりも、あなたの心を見守らなければなりません。いのちの泉はそこから湧くからです。
Ⅱ.心を翻したゼデキヤとエルサレムの民(8-11)
次に、8~11節をご覧ください。「8 ゼデキヤ王がエルサレムにいる民全体と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、【主】からエレミヤにあったことば。9 その契約は、各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないというものであった。10 契約に加わったすべての首長と民は、各自、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから奴隷を去らせた。11 しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」
ゼデキヤは、エレミヤの告げる神の言葉に心底から耳を傾けて真剣に聞こうしませんでしたが、そのことばを気にしていたのでしょう。彼はエルサレムにいた民全体と一つの契約を結びました。それは、奴隷を解放するということです。おそらく彼は、自分に向けられる神の怒りをなだめる方法を考えていたのでしょう。そこで、バビロンから独立を勝ち得るために神の恵みと祝福が必要だと感じたのです。それで彼はエルサレムにいる民全体と契約を結び、彼らを解放しました。奴隷というのは、同じユダヤ人の奴隷のことです。レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから奴隷にしてはならない、と規定されてあります(レビ25:42,55)。しかし当時、経済的な理由から自発的に奴隷になる者がいたのでしょう。そのような場合は、奴隷は6年間働いて、7年目には解放されることになっていました(申命記15:12~18)が、彼らの先祖たちは、それを守ってこなかったのです。それを今、解放しようというのです。それは主の目にかなうことでした。
しかし、その後で、彼らは心を翻し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させたのです。いったい何があったのでしょうか。11節をご覧ください。「しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」
 一度はエルサレムの民全体とユダヤ人の奴隷を解放すると契約したのに、どうして彼らは心を翻してしまったのでしょうか。ここには記されてありませんが、その背景にはエジプトのファラオの軍勢が彼らを助けるためにやって来たことがあります。そのことはエレミヤ書37章5節にありますが、そこにはこうあります。「また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。」
 待ちに待ったエジプトの援軍がやって来たのです。カルデヤ人とはバビロン人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレムを救出するためにやって来たことを知り、一時エルサレムの包囲を解くのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れるに足らずだ、私たちは自由だ、と小躍りしました。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それがこの11節の背景にあることです。それを見た民は、心を翻してしまいました。奴隷を取り戻したいという思いにかられるようになったのです。バビロンに包囲されている間は奴隷も大した仕事もなかったのであまり必要ではありませんでした。むしろ、奴隷を養うにはお金がかかります。ただ飯を食わせるよりは、解放した方がましだと考えましたが、バビロンの包囲が解かれたというのなら話は別です。いてもらった方がどんなに楽なことか・・・。彼らは急に心を翻しました。神聖な神との契約を踏みにじってしまったのです。
苦しい時の神頼みではありませんが、人が神を求めるのは、結局自分都合であったりすることが多いのです。それは、現代の私たちも同じではないでしょうか。自分の都合で信仰を持つ。いわゆるご利益信仰です。ご利益を求めて祈ること自体は悪いことではありませんが、私たちが考えるご利益と神が与えようとしておられるご利益とではちょっと違いがあります。私たちは目先の状況に左右されその利益を考えてすぐに心を翻してしまいますが、神はそのような方ではありません。神は約束されたことを最後まで忠実に守られます。神が私たちに約束しておられることは、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それは言い換えると、神のようになる、ということです。そのために神はあらゆる方法を用いておられるのです。それは時には嬉しいことであったり、時には受け入れがたい辛いことであるかもしれませんが、どのような道を通させるにしても、最後は希望なのです。それなのに、目先の利益を優先し、それに振り回され、神との契約を軽んじることがあるとしたら、中身はこの世の人と何ら変わらないということになります。ただ礼拝の習慣を持っているだけの、取ってつけたような信仰にすぎないだけです。もしそうであるなら、このゼデキヤと同じように、神の御怒りから逃れることはできません。神を信じているというのであれば、心から神を恐れ、神を敬い、神につながった、神第一の歩みを求めるべきなのです。
Ⅲ.どんな境遇にあっても(12-22)
その結果、どうなったでしょうか。最後に12~22節をご覧ください。12~16節をお読みします。「12 すると、【主】からエレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。15 ところが、あなたがたは今日、立ち返って、各自が隣人の解放を告げてわたしの目にかなうことを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。』」
イスラエル人は知っていました。「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない」と。しかし、彼らの先祖は、主の命令に聞き従わず、耳も傾けませんでした。ところが、ゼデキヤはじめ、この時代のユダヤ人たちは違います。彼らは今日、立ち上がって、各自が隣人の解放を告げて主の目にかなうことを行いました。ここではそのユダの民がほめられているのです。しかし彼らは息つく暇が出来ると、以前の状態に戻ってしまいました。神の名で呼ばれる家、神の前に立てた契約をあまりにも簡単に捨ててしまったのです。彼らは神がどのような方かを知っていたのに、自分の利益のために神を侮る態度を取ったのです。それで神は「わたしの名を汚した」と叱責されました。人の心はころころ変わるから”こころ”と名付けられたそうです。とにかく定まりません。チョッとした事でもスグにぐらついてしまいます。しかも、自分だけではないし周りに色々な人がいるものだから、違うココロや価値観に触れるとたちまち心が揺さぶられてしまうのです。
そんな心が変わらないでいることは、私たちの力でできることではありません。そこには聖霊の助けが必要なのです。そして、目先の状況で心を変えないためには、神がどのような方なのかという事実に目を向けなければなりません。パウロは、ピリピ4章11~14節でこう言っています。「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
アーメン!パウロはどんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を知っていました。それは神の救いイエス・キリストでした。ですから、目先の状況がどうであっても、彼の心は変わらなかったのです。彼は彼を強くしてくださる方によって、どんなことでもできことを知っていました。心が変わらないということも、です。それは彼が神の恵みを深く知っていたからです。それは私たちも同じです。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる者に約束された聖霊の助けによって、私たちもどんなことでもできるのです。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。でも聖霊の導きに従って歩むなら、決して肉の欲を満足させることはありません。心がころころ変わることはないのです。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、知恵の種に出会って人生の方向を変えることができました。1866年に発表された小説「罪と罰」は、このような変化が実を結んだ作品です。彼が若かった頃、青年作家として多くの作品を執筆したことで傍若無人で高飛車な態度を取っていました。そんな彼が秘密警察に加担して逮捕され、シベリアへ流刑されました。自分を知る人が誰一人いない場所で、無期で強制労働に服する生活が続きました。昼は強制労働を強いられ、夜は厳しい寒さの中暗い屋根裏部屋で一人絶望に陥りながら過ごしました。
 その頃、誰かがドストエフスキーに聖書を手渡しました。それで、彼は毎晩聖書を読むようになりました。そして、聖書の中で神に出会い、みことばを通して神の御声を聞いたのです。ついに、彼は後年心血を注いで一つの作品を書き上げました。それが「罪と罰」です。これは彼がみことばにって新しく生まれ変わった者として、人間の良心の問題を取り扱った作品となっています。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。みことばには人を変える力があります。それは、みことばが読まれると同時に読む人の心に働くからです。
しかし、ユダの民は簡単に心を翻してしまいました。それゆえ神は厳しいさばきを宣告されます。それが17~22節にある内容です。17節には、「それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに──【主】のことば──剣と疫病と飢饉の解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。」とあります。つまり、心を翻したユダの民に対して「剣と疫病と飢饉の解放を宣言する」と言われたのです。また、18節には、彼らが神の前で結んだ契約のことばを守らず、神の契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする、と言われました。これは神とアブラハムとの間で契約を結ぶ話の中でも述べられています(創世記15章)。これは、双方の契約当事者が向かい合った引き裂かれた動物の間を通ります。もし、その契約をどちらかが破れば、その引き裂かれた動物のようになる、つまり、二つに引き裂かれるというものです。
いったんは退却したバビロン軍ですが、彼らは引き返して来て、エルサレムとユダの町々を破壊することになります。そして22節にあるように、「彼らはこの都を攻め取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」のです。神との契約を守るということは、それほど重いことなのです。
旧約聖書の中に、この神との誓いを果たした美しい女性の話が出てきます。それは「ハンナ」です。長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はそれをご覧になり、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、神が喜ばれるものです。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。
 一方、祭司エリの4人の息子のうち2人の息子のホフニとピネハスは、ペリシテ人との戦いによって戦死します。それは彼らが主を軽んじたからです。主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(Ⅰサムエル2:30)と言われました。
あなたはどうでしょうか。状況の変化に心が揺さぶられ、目先の利益を優先して、一度は主の御言葉に従うと決意しても、それを翻す弱さがあるのではないでしょうか。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを軽んじる者は軽んじられる。」のです。主に心を定め、心を翻すことなく、主の御言葉に従いましょう。自分が動かされやすい者であることを自覚し、主の助けを求めて祈りながら、主との約束を果たしていきましょう。