聖書箇所:エレミヤ書25章15~38節(エレミヤ書講解説教48回目)
タイトル:「憤りのぶどう酒の杯」
きょうは、エレミヤ書25:14~38から「憤りのぶどう酒の杯」というタイトルでお話します。15節に「この憤りのぶどう酒の杯」とあります。これは、神のさばきを象徴しています。神はユダの民に対して、エレミヤを通して絶えず、しきりに語りかけたのに聞かなかったので、この憤りのぶどう酒の杯を飲ませるようにと言われました。それはユダの民だけではありません。神に敵対するすべての人にも言えることです。神はご自身に敵対するすべての人に、この憤りの杯を飲ませます。いったいだれがこの杯から逃れることができるでしょうか。だれもできません。ただ私たちが飲むべきその神の憤りの杯を身代わりに飲んでくださった罪なき神の御子イエス・キリストを信じ、彼を受け入れる人だけが逃れることができます。イエスを救い主として受け入れた人はみな神の怒りから逃れることができ、安心して神の前に立つことができるのです。その人は、詩篇23篇にあるように神の怒りの杯ではなく、神の祝福の杯に溢れるようになります。
Ⅰ.憤りのぶどう酒の杯(15-29)
まず、15~29節をご覧ください。17節までをお読みします。「15 まことにイスラエルの神、【主】は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。16 彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」17 そこで、私は【主】の御手からその杯を受け取り、【主】が私を遣わされたすべての国々の民に飲ませた。」
主は、エレミヤにこの憤りのぶどう酒の杯をご自分の手から取り、それをご自身が遣わすすべての国々に飲ませるようにと言われました。「この憤りのぶどうの杯」とは、神がさばきのために送られる剣を象徴しています。これを飲むと、もう自分では立っていられないほどふらつき、狂ったようになります。そのような神の怒りがさばきとして注がれるのです。この憤りの杯のたとえは、聖書の中には頻繁に用いられています。たとえば、エレミヤ13:12~14でも用いられましたし、他にもいろいろな預言者がこのたとえを用いています。そして、私たちの主イエスもこの杯について言及しています。主イエスはゲッセマネの園でこの神の憤りの杯についてこう祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
それはユダだけに対して語られたのではなく、当時の周辺諸国全体に対しても語られました。それが「わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」と言われていることです。ですから、エレミヤは主の御手からその杯を取り、主が遣わされるすべての国々に飲ませました。それは世界規模のさばきだったということです。それはエルサレムから始まり、エジプト、さらにはバビロンに至る当時の周辺諸国全体に対して語られていたさばきだったのです。
ここには、それらの国々が具体的に列挙されています。18~26節をご覧ください。「18 まず、エルサレムとユダの町々とその王たち、高官たちに。彼らを今日のように廃墟とし、恐怖のもと、嘲りとののしりの的とするためである。19 また、エジプトの王ファラオと、その家来たち、首長たち、そのすべての民、20 すべての混血の民、ウツの地のすべての王たち、ペリシテ人の地のすべての王たち、すなわちアシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者たち、21 エドム、モアブ、アンモン人、22 ツロのすべての王たち、シドンのすべての王たち、海のかなたにある島の王たち、23 デダン、テマ、ブズ、もみ上げを刈り上げているすべての者たち、24 アラビアのすべての王たち、荒野に住む混血の民のすべての王たち、25 ジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディアのすべての王たち、26 北国のすべての王たち、近い者も遠い者も一人ひとり、地の面のすべての王国である。そして、彼らの後でバビロンの王が飲む。」
まずエルサレムとユダの町々とその王たち、高官たちです。また19節にあるように、南はエジプトの王ファラオと、その家来たち、首長たち、そのすべての民です。そしてすべての混血の民、ウツの地のすべての王たちです。ウツの地とは、あのヨブの出身地です。死海の南にあります。さらにそこから北上してペリシテ人の地のすべての王たちに及びます。すなわちアシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者たちです。これらはみな地中海沿いにあるペリシテ人の地にある都市でした。さらに、エドム、モアブ、アンモン人たちです。これはヨルダン川の東側にある地です。今でいうとヨルダンの辺りの地域になります。さらにツロ、シドンのすべての王たちです。ツロとシドンはイスラエルの北にある地域です。現在のレバノンの辺りです。さらにデダン、テマ、ブズ、もみ上げを刈り上げているすべての者たちです。これはアラビア半島の辺りに住んでいる人たちのことを指します。さらにその範囲は広がり、25節にはジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディアのすべての王たちとあります。エラムとは、ペルシャの昔の呼び名で、現在のイランのことです。メディアはイラクの北部クルド人が住んでいる地域です。そして最終的にそれはバビロンに至ります。26節には「バビロンの王が飲む」とあります。バビロンはイスラエルをさばく神の道具として用いられますが、そのバビロンも神に敵対したので、この杯を飲むことになるのです。ですから、イスラエルばかりでなく、こうした周辺諸国も神の憤りのぶどう酒を飲むことになるのです。これはどういうことでしょうか。
27~29節をご覧ください。ここにこうあります。「27 「あなたは彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしがあなたがたの間に送る剣のゆえに、飲め、酔え、吐け。倒れて起き上がるな。』28 もし、彼らが、あなたの手からその杯を取って飲むことを拒むなら、彼らに言え。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは必ず飲むことになる。29 見よ。わたしの名がつけられているこの都に対して、わたしはわざわいを下し始めているからだ。あなたがたは罰を免れようとするのか。免れることはできない。わたしがこの地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ──万軍の【主】のことば。』」
彼らがどんなにその杯を飲むことを拒んでも、そこから逃れることはできません。それほど神のさばきは徹底しています。実はこれは二重の預言になっています。近い未来における預言と遠い未来における預言です。近い未来においては、バビロンによって神のさばきが周辺諸国にもたらされるということですが、遠い未来においては、世の終わりに神が全世界をさばかれるということを表しています。イエスは今から二千年前に世の罪を取り除く神の小羊としてこの世に来られましたが、世の終わりにはすべてをさばくさばき主として来られます。黙示録14:10にこうあります。「その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。」
「その者」とは、神を恐れず、獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けている者のことです。すなわち、イエス・キリストを信じていない者たち、イエス・キリストの贖いを受けていない者たちのことです。そのような人たちは世の終わりにおいて必ず神にさばかれ、この憤りのぶどうの杯を飲むようになります。それは徹底したもので、だれもそれから逃れることはできません。それから逃れる唯一の道は、私たちの代わりに神のさばきを受けてくださった神の子イエス・キリストを信じて受け入れることです。先ほども申し上げましたが、イエスはゲッセマネの園でその怒りの杯を飲み干されました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
罪なき神の御子が、どうして神の怒りの杯を飲まなければならなかったのでしょうか。それは、私たちをこの神の怒りから救うためでした。イエスは、罪のゆえに私たちが飲まなければならない杯を身代わりに飲んでくださったのです。ここに罪の赦しがあります。だから、絶対に神にさばかれることはありません。ヨハネ5:24を開いてください。ここにはこうあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24)
「さばきに会うことはない」とは、この神のさばきのことです。イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。絶対に神のさばきにあうことがありません。神の憤りのぶどう酒の杯を飲まされることはないのです。
最近、ある方からメールをいただきました。それは救いの確信に関することでした。救いと永遠の命を信じて与えられることは聖書の言葉として知っておりますが、「確固たる確信」を得るにはどうすればいいでしょうか?教えてください。という内容でした。日曜学校の出身で、20才で洗礼を受け50代になっておられます。いろいろなご事情がおありだったのでしょう。イエス様を信じていますが、しばらく教会生活からは離れておられるとのことでした。でも2ヶ月前にクリスチャンの母親が脳梗塞で亡くなり、今は再会が唯一の望みです。しかし永遠の命の確信がないので、毎日泣いておられるとのことでした。もしも確信があれば、「再会につながる希望」を持てるはず、とわかってはいるのですが。
皆さん、永遠のいのちの確信がないと、毎日泣いて過ごすようになります。もしも確信があれば「再開につながる希望」を持てるはずです。私はすぐに返信を差し上げ、感情ではなく聖書の御言葉を信じるようにと伝えました。すにわち、イエスを信じるなら救われる、永遠のいのちを持つという聖書の言葉です。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)
「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Ⅰヨハネ5:11-12)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
皆さん、これが神の約束です。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちが受けなければならない罪のさばきを受けてくださったので、この方を信じるなら永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。その瞬間、移ります。それ以外に、この神の怒りから逃れる道はありません。もしあなたがこの神の愛を受け入れ、あなたの身代わりとして十字架で死んでくださった救い主を受け入れるなら、あなたのすべての罪は赦され、あなたに対する神の怒りの杯は完全に取り除かれるのです。そしていつでも安心して神の前に立つことかできるのです。あなたはその準備が出来ていますか。
イ・ドンウォン牧師の著書「わがたましいのナビゲーション」に、このような話があります。ケネディ大統領は、この世を去る数か月前、国家朝祷会に出席し、ビリー・グラハム牧師の「永遠を準備せよ」というメッセージを聞きました。朝祷会後、ケネディ大統領はビリー・グラハム牧師に、説教の内容についてもう少し話を聞きたいのでホワイトハウスに来てもらえないかと頼みました。しかし、その時ビリー・グラハム牧師は風邪をひいて、大統領にうつしたくなかったので、今度話をしましょうと断りました。ケネディ大統領が暗殺された11月3日、このニュースを聞いたビリー・グラハムは、数か月前にもう少し話をしてくれないかと頼んだ大統領の切ない顔が浮かんだそうです。あの日、風邪を口実にケネディと永遠についての話を分かち合うことができず、福音を十分に伝えられなかったことが人生最大の後悔だと、ビリー・グラハムは伝記の中で告白しています。
私たちには明日のことはわかりません。いつ、どこで、どんな死を迎えるかわかりません。聖書は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言っています。どれだけ多くの人々が過ぎ去ったチャンスを振り返り、すすり泣くことでしょうか。今、愛する人々を永遠の国へ招待すべきです。愛する家族や隣人に、神の愛を伝える時です。永遠を準備しましょう。私たちのために十字架で死なれ、罪の贖いを成し遂げてくださった救い主イエス・キリストを信じ、神の怒りのぶどう酒の杯を取り除いていただきましょう。
Ⅱ.主の再臨に備えて(30-33)
次に、30~33節をご覧ください。「30 あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して言え。『【主】は高い所からほえ、聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって猛々しくほえ、ぶどう踏みをする者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。31 その叫び声は地の果てまでも響き渡る。【主】が諸国の民と争い、すべての肉なる者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。──【主】のことば──32 万軍の【主】はこう言われる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大いなる暴風が地の果てから起こる。33 その日、【主】に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。』」」
ここでは、主の諸国への怒り、あらゆる罪人への怒りが三つの比喩によって表現されています。第一に30節にあるように、主の怒りは獅子の叫び声のように全地に響き渡ります。第二に、これも30節にありますが、主の怒りは酒ふねでぶどう踏みをする者たちのように、地の全住民に向けられます(30)。第三に、主の怒りは戦いの時の騒音のように地の果てまでも響き渡ります。このように主のさばきが詩的な表現で3回も繰り返して強調されています。それはこの神の怒りがどれほど激しいものであるかを物語っているからです。そのまとめが33節です。ご一緒に読みましょう。
「その日、【主】に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。」
「その日」とは、世の終わりのことを表しているキーワードの一つです。近い未来においては、それはバビロンによって諸国の民を征服することを表していますが、遠い未来においては、世の終わりに神の小羊であられるキリストが再臨のさばき主として来られることを表しています。ですから、ここに「主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び」とあるのです。バビロンによって殺されるのではありません。主によって殺されるのです。それは主がさばき主として来られるからです。その日、主によって殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることもなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなります。何とも恐ろしい光景です。そして、その日、すなわち、キリストが再臨される日が刻一刻と近づいています。ロシアのウクライナ侵攻やハマスのイスラエルへの攻撃を見てもわかります。聖書の預言のとおり、世の終わりが着実に近づいています。その日、キリストを信じた人は永遠のいのちを受け神の怒りから救われますが、信じない人たちはこの神の憤りの杯を飲むことになります。私たちがこの神のさばきから逃れる唯一の道は、神の救いを受け入れることしかありません。神の救いイエス・キリストを信じ、主とともに歩むということです。そうすれば、どのようなさばきが来ようとも、恐れる必要は全くありません。その人はイエス・キリストにあって神と和解し、神の平和をいただくからです。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(詩篇4:8)とある通りです。
Ⅲ.神の和解を受け入れなさい(34~38)
ですから、第三のことは、神の和解を受け入れなさい、ということです。34~38節をご覧ください。「34 牧者たちよ、泣き叫べ。群れの飼い主たちよ、灰の中を転げ回れ。あなたがたが屠られ、散らされる日が来たからだ。あなたがたは、尊い器が砕かれるように倒れる。35 逃げ場は牧者たちのうちから消え失せる。逃れ場は、群れの飼い主たちのうちから。36 牧者たちの叫ぶ声がする。群れの飼い主たちの泣き声が。【主】が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。37 平和な牧場も、【主】の燃える怒りによって荒れすたれる。38 主は若獅子のように仮庵を捨てた。虐げる者の怒り、主の燃える怒りによって、彼らの国が荒れ果てるからだ。」
「牧者たち」とは、政治的、霊的リーダーたちのことです。その日、国の支配者たち、政治的、霊的リーダーたちも、悲嘆の涙に暮れることになります。彼らは尊い器が砕かれるように倒れるのです。新改訳第三版はこれを「あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。」と訳しています。どちらも言わんとしていることは同じです。美しい雄羊が倒れるように倒れる、尊い器が粉々に砕かれてしまうように粉々に砕かれてしまうことになるということです。逃げ場は牧者たちのうちから消えうせ、逃れ場は、群れの飼い主たちのうちから消え失せます。主が彼らの牧場を荒らしておられるからです。平和な牧場も、主の燃える怒りによってあれ果てることになるのです。ですから、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。
これが預言者の役割です。預言者は神のさばきを宣言とともに神のあわれみに立ち返るように勧めなければなりません。これが神のみこころです。神は一人も滅びることを望んでおらず、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。さばくことが目的なのではなく、救うことが目的なのです。神はあなたが救われることを望んでおられます。自らを滅びに至らせる必要はありません。自らを地獄に落とす必要はないのです。わざわざ神に罰せられる必要はありません。この神のさばきと救いを宣言しなければなりません。これが預言者の務め、私たちに与えられている務めです。エレミヤはそれを忠実に果たしました。私たちもそれを忠実に果たさなければなりません。世の終わりは刻一刻と近づいています。エレミヤの時代はバビロンが周辺諸国をさばきましたが、世の終わりには、神が逃げ場を失った人たちをさばくことになります。尊い器が砕かれるように砕かれることになるのです。だから、イエスを信じなければなりません。イエスを信じない人の最後は悲惨です。そういうことがないように、キリストの福音によって救われた私たちは、滅び行くたましいに向かってこの福音を伝えていかなければならないのです。聖書にこうある通りです。「20こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:20-21)
ナイアガラの滝のそばへ行くと、急流が滝に落ちる手前の最後に渦巻く地点がありますが、そこにこういう標識があるそうです。「この地点を越えると救助不可能」(Past Redemption Point)。固い地盤を踏んでいても、その下の滝の水を眺めると、「この地点を越えると救助不可能」という意味が伝わってくるそうです。そこを越えれば、永遠に戻って来られないからです。
聖書には、ぶどう園の主人の息子を殺した農夫たちの話があります(マタイ21:33-46)。彼らは「この地点を越えると救助不可能」の表示を無視して超えてしまい、永遠に戻って来ることができない救助不可能の領域に落ちてしまいました。「この地点を越えると救助不可能」という表示を無視したのには、主人が遠くにいたからでもあったでしょう。
人々は神が遠くにいる不在人のように考え、神の御子であるイエス・キリストを無視したり、あざけることもあります。しかし、神は確かに生きておられ、この世の歴史を治めておられます。それにもかかわらず神が介入されないかのように感じるのは、それは一重に神が忍耐しておられるからです。しかし、神は永遠に忍耐されるのではありません。イエス・キリストを拒んだものたちについにはさばかれ、憤りのぶどう酒の杯を飲ませることになります。そうならないように、神の和解を受け入れてください。神は、罪を知らない方をあなたのために罪とされました。それは、あなたがこの方にあって神の義となるためです。そうすれば、あなたは神の憤りのぶどう酒の杯から逃れることができます。私たちは神の怒りではなく、神の愛の中を生きる者でありたいと思います。