民数記10章

民数記10章

 

 きょうは、民数記10章を学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

 

 Ⅰ.銀のラッパ(1-11)

 

 まず1節から11節までをご覧ください。「主はモーセにこう告げられた。「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。これらが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入り口の、あなたのところに集まる。もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。また、短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するためには、短く吹き鳴らさなければならない。集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く大きく吹き鳴らしてはならない。祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の掟である。また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」」

 

1節と2節には、「主はモーセにこう告げられた。「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。」とあります。

主はモーセに、銀のラッパを二本作るようにと命じました。それによって、会衆を召集したり、また宿営を出発させたりするためです。すなわち、イスラエルが荒野を進軍する時の合図のためにです。彼らが荒野を進軍する時のしるしは、雲の柱と火の柱でした。神は彼らを導くために、昼は雲の柱、夜は火の柱の中にいて、彼らの前を進まれ、夜も昼もこの柱は彼らの前から離れませんでした。すなわち、神は彼らと共にあって、彼らを導かれ、その行く道を守られたのです。そればかりではなく、神は荒野を進軍するためにこの二つの銀のラッパを与えられました。

 

この二本のラッパが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました(3)。この二本のラッパはそれぞれ異なった音色を出していたと思われます。そうでなければ、二本のラッパを吹きならす時と、一本のラッパを吹きならす時の聞き分けが困難になるからです。もし一本のラッパだけが長く吹き鳴らされたら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました(4)。  

それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発しなければなりませんでした(5)。二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します(6)。このように分団を召集するときには長く、出発するときには短く吹き鳴らしたのです。ある学者は、出発する時には短く、召集する時には長く吹き鳴らしたのは、進軍する時には人々の心をかき立てたり、励ましたりするためであり、召集する時には、連続したむらのない響きが適していたからではないか考えています。

 

これは神の祭司であるアロンの子が吹かなければなりませんでした。これは代々ににわたる定めです。アロンの子らは、広い荒野において、ラッパの合図を正しく聞き分けられるように、イスラエルの民を指導したのです。そして民はこのラッパの音を聞くたびに、自分たちが神の導きの下にあって、「神われらと共にいます」ことを意識したに違いありません。

 

9節をご覧ください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時にも、このラッパを短く吹き鳴らしました。その時には短く、大きく鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えられるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。

 

また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らしたとあります。過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りなどにも吹き鳴らされたのです。

 

このように、イスラエルが荒野を進軍する時に、ラッパを吹き鳴らさなければなりませんでした。それは、ラッパを吹かなければ、主がその民を忘れておられるということではありません。私たちがラッパを吹き鳴らす前から、主は私たちのことを覚えておられ、その必要に応えてくださいます。しかし同時に、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきない。」(ピリピ4:6)とあるように、戦いの時にラッパを吹き鳴らすのは、主に拠り頼んでいることの表れであり、いけにえの場合は、主を覚えて、喜びと感謝をもってささげる信仰告白となったのです。戦いの時に祭司たちがラッパを吹き鳴らしたという例は、Ⅱ歴代誌13章13~16節に見られます。また、民数記31章6節にも、ミディアン人との戦いに、モーセがピネハスにラッパを持たせて送り出したとあります。このように、ラッパを吹き鳴らしたのは、神への信頼の証だったのです。あなたは、このラッパを吹き鳴らしているでしょうか。人生の荒野を進軍するにあたり、私たちもラッパを吹きならし、神の助けを祈り求めましょう。

 

Ⅱ.出発の順序(11-28)

 

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちます。ここにはその順序が記されてあります。「二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命により初めて旅立った。まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタンエル。ゼブルン部族の軍団長はヘロンの子エリアブ。幕屋が取り外され、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。聖なるものを運ぶケハテ人が出発。なお、幕屋は、彼らが着くまでに建て終えられることになっていた。また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。ダン部族の宿営の旗が、全宿営のしんがりとして軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。-以上がイスラエルの子らの軍団ごとの出発順序であり、彼らはそのように出発した。」

 

イスラエルがシナイの荒野を出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。モーセを通して語られた主の命令のとおりです。

 

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたが、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発しました。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。
 その次に出発しはたのは、レビ族の内、ゲルション族とメラリ族でした。幕屋が取り外されると、幕屋を運ぶゲルション族とメラリ族が出発したのです。レビ族にはもう一つケハテ族がいますが、なぜ彼らはゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのでしょうか。ケハテ族は幕屋の中にあった聖なる物を運ぶ役割が与えられていましたが、そのためには彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたんですね。すごいです。実に整然としています。

その幕屋の後に進んだのがその次に進んだのがルベン族の宿営です。すなわち、南側に宿営していた部族です。まずルベン族が出発し、シメオン部族とガド部族が続きました。

次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。

最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族でした。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の護衛に回りました。

 

以上がイスラエル人の軍団ごとに出発した順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、イスラエルの民は神の箱(神の臨在)を中心にキリストの恵みによって、聖霊が導かれるままに前進して行ったということです。神の民の共同体にはこのような秩序があったのです。どのような順序でも良かったわけではありません。そこには三位一体の神の導きによる順序があったのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

 

Ⅲ.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

 

最後に29節から36節までを見て終わります。まず32節までをお読みします。「さて、モーセは、彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主が与えると言われた場所へ旅立つところです。私たちと一緒に行きましょう。私たちはあなたを幸せにします。主がイスラエルに良いことを約束しておられるからです。」彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の国に、私の親族のもとに帰ります。」するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとっては目なのですから。私たちと一緒に行ってくだされば、主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」」

 

彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子ホバブのことです。ここでモーセは彼に一緒に行きましょう、と言っています。なぜでしょうか。それは、彼が一緒ならば荒野を旅することも安心だと思ったからです。31節を見ると、モーセは「どうか私たちを見捨てないでください。」と言っています。彼ならどこで宿営したらよいかをよく知っていたので、自分たちの道案内人になってほしかったのです。荒野を旅することは死を意味することでした。何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、そのような中を進むことは一般的には不可能なことでした。しかし、ずっとミディアンの荒野に住んでいた彼なら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていたので、一緒に行ってもらえたら安心できると思ったのです。

 

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、荒野を旅するイスラエルを導かれるのは誰であるのかを見てきました。それは主なる神ご自身です。主は、荒野を旅するイスラエルを整え、備えてきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し、上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその荒野を熟知しているからといっても、レウエルの息子ホバブに道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜ彼に一緒に行くようにと言ったのでしょうか。

 

それはモーセが彼に道案内をしてほしかったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのレウエル(イテロ)とその家族に恩返しをしたかったからです。彼らを幸せにしたいと思ったからでしょう。29節には「私たちはあなたを幸せにします」と言っていますし、32節にも「主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」と言っています。彼は、主がイスラエルに良いことをしてくださると信じていました。それを彼らにも分かち合いたかったのです。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住むようになりました(士師1:16,4:11)。

 

それは33節以降を見てもわかります。実際にイスラエルの荒野の旅を導いたのはホバブではなく、主ご自身でした。「こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人はホバブではなく、主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

 

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と。つまり真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは主ご自身だったのです。モーセは出発するときにはその主が立ち上がり敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

 

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切なものです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。