民数記33章

きょうは民数記33章から学びます。

 

Ⅰ.イスラエル人の旅の行程(1-49)

 

  1. 出エジプト(1-4)

 

まず1節から4節までをご覧ください。「1 モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとにエジプトの地から出て来たイスラエルの子らの旅程は次のとおりである。2 モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書き記した。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。3 彼らは第一の月、その月の十五日に、ラメセスを旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエルの子らは、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。4 エジプトは、彼らの間で主が打たれたすべての長子を埋葬していた。主】彼らの神々にもさばきを下された。」

 

ここには、イスラエルがエジプトを出てから今の時点、すなわちヨルダン川の東側のエリコの向かいにあるモアブの草原までどのように導かれてきたかの旅程が記されてあります。まず4節までのところには、彼らがエジプトを出た時のことがまとめられています。まずイスラエルは、モーセとアロンの指導のもとに軍団ごとにエジプトから出発しました。それは、1年後にシナイの荒野で整備されたような整えられたものではありませんでしたが、ある程度の秩序を保っていたことがわかります。そうでないと約60万人の男子と、女子、それに子供を加えて200万人を超える人たちと、多くの家畜を引き連れて一夜のうちに旅立つことは困難だったからです。ここで強調されていることは、彼らは「全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。」ということです。それは主が力強い御手によって連れ出されたからです(出エジプト13:9,14,16)。

 

  1. 第一段階~エジプトからシナイの荒野まで~(5-15)

 

次に、5節から15節までをご覧ください。「5 イスラエルの子らはラメセスを旅立ってスコテに宿営し、6 スコテを旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。7 エタムを旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテの方に向きを変え、ミグドルの前で宿営した。8 ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。9 マラを旅立ってエリムに行き、そこに宿営した。エリムには十二の泉と、七十本のなつめ椰子の木があった。10 それから、彼らはエリムを旅立って葦の海のほとりに宿営し、11 葦の海を旅立ってシンの荒野に宿営した。12 シンの荒野を旅立ってドフカに宿営し、13 ドフカを旅立ってアルシュに宿営し、14 アルシュを旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。15 それから、彼らはレフィディムを旅立ってシナイの荒野に宿営し、」

 

ここにはエジプトを出てからシナイ山までの旅程が記されてあります。ここではまず8節の「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい」ということばが強調されています。これは出エジプト記14章にある出来事ですが、イスラエルがエジプトを出た後、背後からエジプト軍が追ってきました。目の前は紅海で全く逃げ場を失うという絶対絶命のピンチの中で、主が奇跡的なみわざによって海の真ん中に乾いた道を作られ、それを通って救われました。

 

それから9節の、「エリムには12の泉と、70本のなつめやしの木があり、そこに宿営した」ということも強調されています。そこではどんなことがあったでしょうか。これは出エジプト15章にある出来事ですが、彼らは荒野の旅の中で水がなく苦しんでいたときマラという所に来て水を見つけました。しかし、その水は苦くて飲むことができませんでした。それでモーセが主に叫ぶと、主が1本の木を示されたのでそれを水の中に投げ入れました。するとそれは甘くなり、飲むことができるようになりました。それで彼らはエリムに到着することができました。それは、彼らが主の命令に聞き従うなら主は彼らをいやし、なつめやしの木のように潤してくださることを教えるためのものでした。

 

そして、14節の「レフィデム」に宿営したことについて、それぞれ簡単な出来事が記録されています。そこでも彼らは、飲み水がなく大変苦しみました。しかし、モーセがホレブの岩の上に立ち岩を打つと、そこから水が流れ出ました。彼らは主を信じることができず主と争ったため、そこはマラ(争う)と名付けられました。大切なことはどんな時でも主の御声に従うことであるということです。そして、レフィデムではもう一つの大切な出来事がありました。それはアマレクとの戦いです。ヨシュアが戦い、モーセが祈りの手を上げて祈ったことで、彼らは勝利することができました。

 

  1. 第二段階~シナイの荒野からリマテまで~(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。「16 シナイの荒野を旅立ってキブロテ・ハ・タアワに宿営した。17 キブロテ・ハ・タアワを旅立ってハツェロテに宿営し、18 ハツェロテを旅立ってリテマに宿営した。」

 

ここには、シナイの荒野からリマテまでの旅程が記されてあります。ここから民数記に記録されてある内容です。彼らはシナイの荒野で律法が与えられ、幕屋が与えられ、また大掛かりな人口調査が行われ、軍隊が編成されて、神の民として整えられてシナイの荒野からカナンの地に向かって出発しました。それはエジプトを出た第二年目の第二の月の二十日のことでした(民数記10:11)。

 

キブロテ・ハ・タアワでは、イスラエルの民が食べ物のことでつぶやいたので、うずらが与えられましたが、主は彼らの欲望に対して怒りを燃やし、激しい疫病で民を打たれたので、欲望にかられた民はそこで死に絶えました。ここで印象的なみことばは、民数記11:23の「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」というみことばです。主の御手が短いことはありません。主はどんなことでもおできになる方です。私たちに求められていることは、この主にただ従うことなのです。

また、ハツェロテでは、ミリヤムとアロンがモーセに逆らったのでミリヤムは神に打たれてらい病になりました。

 

そして、18節にはリテマに宿営したとありますが、このリテマとはどこにあるのかがよくわかりません。ハツェロテの後で、この荒野の旅程で最も悲劇的な事件が起こりました。それは、カデシュ・バルネアでの出来事です。約束の地まで間もなくというところにやって来たとき、イスラエルはその地を偵察すべく12人のスパイを送るのですが、そのうちの10人は否定的な情報をもたらし、そのことを信じたイスラエルの民は嘆き悲しみました。彼らは主のみことばに従いませんでした。主は「上って行って、そこを占領せよ。」と言われたのに、彼らは民のことばを信じておびえてしまったのです。それでイスラエルはその後38年間も荒野をさまよってしまうことになりました。ただヌンの子ヨシュアとカレブだけが主に従い通したので、後に約束の地に入ることができましたが、その他の20歳以上の男子はみな荒野で死に絶えてしまいました。しかし、その出来事がここには全く記録されていません。不思議です。いったいなぜでしょうか。民数記12:16には、「ハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した」とあり、13:26には、「パランの荒野のカデシュ」とあるので、この二つの荒野の近くにあったのがこのリテマではないかと考えられているからです。つまり、このリテマこそがカデシュ・バルネアではないかと考えられているからなのです。

 

  1. 第三段階~リテマからホル山~(19-40)

 

次に、19節から40節までをご覧ください。「19 リテマを旅立ってリンモン・ペレツに宿営し、20 リンモン・ペレツを旅立ってリブナに宿営した。21 リブナを旅立ってリサに宿営し、22 リサを旅立ってケヘラタに宿営し、23 ケヘラタを旅立ってシェフェル山に宿営した。24 シェフェル山を旅立ってハラダに宿営し、25 ハラダを旅立ってマクヘロテに宿営した。26 マクヘロテを旅立ってタハテに宿営し、27 タハテを旅立ってテラフに宿営し、28 テラフを旅立ってミテカに宿営した。29 ミテカを旅立ってハシュモナに宿営し、30 ハシュモナを旅立ってモセロテに宿営した。31 モセロテを旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し、32 ベネ・ヤアカンを旅立ってホル・ハ・ギデガデに宿営し、33 ホル・ハ・ギデガデを旅立ってヨテバタに宿営し、34 ヨテバタを旅立ってアブロナに宿営し、35 アブロナを旅立ってエツヨン・ゲベルに宿営した。36 エツヨン・ゲベルを旅立ってツィンの荒野、すなわちカデシュに宿営し、37 カデシュを旅立ってエドムの国の端にあるホル山に宿営した。38 祭司アロンは主の命によりホル山に登り、そこで死んだ。それは、イスラエルの子らがエジプトの地を出てから四十年目の第五の月の一日であった。39 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。40 カナンの地のネゲブに住んでいたカナン人、アラドの王は、イスラエル人がやって来るのを聞いた。」

 

ここには、そのリテマからホル山までの旅程が記されてあります。これがいつの出来事なのかははっきりしていませんが、おそらくカデシュ・パルネアでの出来事の後の38年に及ぶ旅程ではないかと思われます。エジプトを出てから40年目の第五の月の一日に、アロンはこのホル山で死にました。それはメリバの水の事件(民数記20:11)で、モーセとアロンが主に従わなかったからです。それで彼らは約束の地に入ることができませんでした。

 

  1. 第四段階~ホル山からモアブの草原まで~(41-49)

 

イスラエルの旅程の最後は、ホル山からモアブの草原までの道のりです。41節から49節までをご覧ください。「41 それから、彼らはホル山を旅立ってツァルモナに宿営し、42 ツァルモナを旅立ってプノンに宿営し、43 プノンを旅立ってオボテに宿営し、44 オボテを旅立ってモアブの領土のイエ・ハ・アバリムに宿営した。45 イイムを旅立ってディボン・ガドに宿営し、46 ディボン・ガドを旅立ってアルモン・ディブラタイムに宿営した。47 アルモン・ディブラタイムを旅立って、ネボの手前にあるアバリムの山々に宿営し、48 アバリムの山々を旅立って、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原に宿営した。49 すなわち、ヨルダン川のほとり、ベテ・ハ・エシモテからアベル・ハ・シティムに至るまでのモアブの草原に、彼らは宿営した。」

 

彼らはホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った(民数記21:4)ので、まず南に下り、エツヨン・ゲベルまで南下して、次いで、エドムを避けながらプノンまで北上したものと思われます。そして、やっとの思いで今、約束の地に入る手前まで来たのです。

 

それにしても、いったいなぜここで40年間の荒野の旅路を書き記す必要があったのでしょうか。これは主の命令であったとありますから、そこには何らかの主の意図があったものと思われます。おそらくそれは、それが力強い主の御手によって導かれたことを示すねらいがあったのでしょう。それは「旅立って、宿営した」という言葉が何回も繰り返されていることからもわかります。彼らは雲の柱と火の柱によって導かれました。彼らはその時は、雲しか見えなかったかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができたのです。

 

また、これが私たちの信仰の歩であることを示すためだったのでしょう。私たちの信仰生活は、このイスラエルの荒野の40年の旅程に見られるように、まさに「旅立って、宿営し、そして所有する」生活なのです。へブル11:8には、アブラハムが信仰によって相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行ったことが記されてあります。なぜでしょうか。彼は堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいただければからです。「13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(へブル11:13~16)

これが、私たちの信仰生活です。私たちは、この地上では旅人であり、寄留者であるにすぎません。私たちが目指すのは、天の故郷です。そこに至るまでには実にさまざまな出来事が起こりますが、それでも私たちが前進して行くのは、もっと良い故郷、天の故郷を目指しているからです。ですから、たとえこの地上でさまざまなことが起こっても、それでも私たちは天の故郷を目指して、「旅立って、宿営し、そして所有する」のです。この地上の旅で一喜一憂してはなりません。それよりもはるかにすぐれた天の故郷を仰ぎ見て、この地上の旅路を進んでいかなければならないのです。

私たちにはわからないことがあります。でも、確かに主は雲の柱と火の柱をもって導いておられます。主の御手がいつも私たちの上に置かれているのを見て、信仰をもってそれにすべてをゆだねつつ、信仰の旅路を歩ませていただきたいと思います。

 

Ⅱ.カナンの地に入るとき(50-56)

 

 最後に50節から56節までをご覧ください。「50 エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げられた。51 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがヨルダン川を渡ってカナンの地に入るときには、52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払って、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をすべて打ち壊さなければならない。53 あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住め。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。54 あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地とせよ。大きい部族には、その相続地を大きくし、小さい部族には、その相続地を小さくしなければならない。くじで当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。55 もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、脇腹の茨となり、彼らはあなたがたが住むその土地であなたがたを苦しめる。56 そしてわたしは、彼らに対してしようと計画したとおりを、あなたがたに対してすることになる。」」

 

ここには、カナンの地に入る時に守るべき事項が語られています。それは、その地の住民をことごとく彼らの前から追い払うようにということです。彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造もすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、打ち壊さなければなりません。なぜでしょうか?それは、それが主の土地であって、彼らが所有するように、主が彼らに与えてくださったものだからです。すなわち、それは主の聖なる地であるからです。そこに、他の神々があってはならないのです。だから、それらを徹底的に粉砕しなければなりません。そうでないと、その偶像が彼らを悩ますようになるからです。事実、ヨシュアの死後、彼らはその地の住民を追い払わなかった結果、偶像礼拝に引きずり込まれる結果となりました(士師2:11,12)。敵に苦しめられ、神にさばきつかさが与えられますが、やがてまた偶像に引かれていくことを繰り返すようになるのです。それは特に士師の時代に著しいですが、イスラエルが偶像と全く縁を切ることができなかったことはその歴史が証明しています。

 

私たちの住むこの日本の社会のおいても、こうした異教的な風習がたくさんありますが、主に贖われたものとして、聖なる者として、そうしたものに心が奪われることがないように、それらを取り除いていくことが求められています。このくらいはいいだろうと妥協せず、汚れから離れ、何が良いことで、神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。(ローマ12:2、Ⅱコリント6:14-18)。