聖書箇所:エレミヤ書36章1~32節(旧約P1360、エレミヤ書講解説教66回目)
タイトル:「焼かれても、再び」
今日は、エレミヤ36章全体からお話します。少し長い箇所ですが、全体を通して見ていきます。その方が流れを掴むことができわかりやすいと思います。今日のメッセージのタイトルは「焼かれても、再び」です。主はエレミヤに、あなたは巻物を取り、これまで語ってきたことを書き記すようにと命じたので、エレミヤは書記のバルクを呼んで主のことばを口述筆記させましたが、それを知ったユダの王、ヨシヤの子エホヤキムは、その書き記された神のことばを、暖炉の火で燃やしてしまいます。もうこれで終わりかと思いきや、主は再びエレミヤに、もう一つの巻物を取って、エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せと言われました。プラス、さらに同じような多くのことばもそれに書き加えられました。それが、私たちが今持っているエレミヤ書です。結果的に、最初の巻物が焼かれることによって神はもっと内容が豊かで、また詳しく明瞭な形でご自身のことばを残してくださいました。神のことばは決して滅びることはありません。この神の言葉を握って離さず、それに従って歩むなら、どんな困難の中でも、知恵と力が与えられ、真っ直ぐに進むことができます。走っても倒れることはありません。御言葉を握る人には勝利と祝福が与えられるからです。
Ⅰ.巻物に書き記されたみことば(1-10)
まず1~10節をご覧ください。1-3節をお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
これは、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年のことです。エホヤキムの第四年とは紀元前605年のことです。これは35章でレカブ人の忠実さの話がありましたが、それよりも更に数年前の出来事です。この年は古代近東の国際情勢においては重要な年でした。それはこの年にバビロンがユーフラテス河畔のカルケミシュでアッシリアを滅ぼし、そのアッシリアを助けようとしてやって来たエジプトも壊滅的に討ち破ることによって、その覇権を確立した年だからです。そしてこの年にネブカドネツァルがナボポラッサルに代わって正式に王位を継承しました。その年に主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節と3節です。
「2あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
主はエレミヤに、ヨシヤの時代から今日までの間に、主が彼に語ったことばをみな、巻物に書き記すようにと言われました。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の治世の第13年ですから、紀元前627年のことです。その時からこの時に至るまでの約20数年の間に主が彼に語られたことことばをみな、巻物に書き記すようにというのです。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。それは語られた神のことばを文字にすることによってそれをユダの民に明確に伝えるためです。皆さんもそうでしょう。「私は説教を聴いても、こっちの耳から入ってすぐこっちの耳から出ていくんですよ!」と言われるのをよく聞くことがありますが、御言葉を聞くだけだとなかなか記憶に残すことができません。それで神はこのように巻物に書き記すことによっていつでもその内容を確かめることができるようにしたのです。それは1日や2日でできるものではありません。数日間、あるいは数十日に及ぶ大仕事だったでしょう。それでも神がエレミヤにそのように命じられたのは、3節にあるように、もしかすると、主が彼らに下そうとしているわざわいを聞いて、彼らがそれぞれ悪の道から立ち返るかもしれないと思われたからです。そうすれば、主も彼らの咎と罪を赦すことができます。つまり、主がエレミヤにご自身のみことばを書き記すようにと言われたのは、ユダの民の罪、咎を赦すためだったのです。主はどこまでもあわれみ深い方です。あなたの下には永遠の腕があるのです。
4節をご覧ください。それでエレミヤは、ネリヤの子バルク呼びました。口述した主のことばを巻物に書き記すためです。それは、この時エレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行けなかったからです。なぜ彼は閉じ込められていたのでしょうか。それは彼が神殿で語った説教に対して、当時の祭司や預言者たちが反感を持っていたからです。たとえば、6章には、当時の預言者や祭司たちが、平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っているのを聞いたエレミヤは、それは偽りだと糾弾しました(6:14)。また、7章には、彼らが「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と語っていたのに対して、そういうことばに騙されてはならない、と叫びました。それよりも、あなたがたの生き方と行いを改めるようにと(7:4-5)。そうしたエレミヤの態度に対して、エホヤキム王はじめ当時の宗教指導者たちが怒り、彼が主の宮に出入りできないようにしていたのです。
しかし、いかなる人間も、いかなる方法も神のことばを妨げることはできません。神のことばを語れないならば文書によって、自分が監禁されて語れないならば代理者を通してでも、神はご自身のことばが語られるようにされたのです。エレミヤはバルクを呼び、エレミヤに語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記しました。そしてその巻物に記された主のことばを、断食の日に主の宮で民に読み聞かせました。それはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月のことです。ということは、この巻物が書き記されるまでに約1年のかかったということです。バルクは、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、断食が布告された日に、主の前でこれを読み聞かせました。
それは第九の月の断食の日でした。この第九の月の「断食の日」とは、大贖罪日と呼ばれる日で、ユダの民にとって特別な日でした。この日は悔い改めと罪の赦しを受ける日なのです。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日の一つになっています。今日のイスラエルでも、この日はすべての仕事が休みとなり空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日にはすべての民は断食して、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うのです。そのような日にバルクは神殿でエレミヤから託された巻物を読み上げたのです。それは、人々に悔い改めを促すには最もふさわしい日でした。
神のことばは、誰が伝えても同じ力を現わします。ですから、「誰を通して」伝えられるかが重要なのではなく、「誰の」ことばが語られるのかが重要なのです。エレミヤが伝えた時も神の力が現れましたが、バラクが書き記した御言葉を読んだ時も同じ力が現れました。それは彼らが伝えたことばが全能なる神のことばだからです。バラクは神のことばを書き記すのに1年もかかりました。バラクはそれを主の前で断食が布告された日に、書記シァファンの子ゲルマヤの部屋で、すべての民の前で民全体に聞こえるように、大胆に読み上げました。何が彼をこんなに勇敢な者に変えたのでしょうか。それは神のことばに対する信頼です。神のことばに対する信頼こそ、私たちをもそのような者に変えるのです。
Ⅱ.焼かれた神のことば(11-26)
そのバルクが語った神のことばに対して、人々はどのように応答したでしょうか。次に、11~26節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての【主】のことばを聞き、12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。14 すべての首長たちは、クシの子シェレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻物を手に持って彼らのところに入って来た。15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私は墨でこの書物に記しました。」19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」20 彼らは巻物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべてのことを報告した。」
神のことばは生きていて力があります。両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します(ヘブ4:12)。バラクが読んだ御言葉は大きな反響を巻き起こしました。エレミヤの預言にこれといった反応を示さなかった首長たちが、巻物の内容を確かめたいと、バルクに求めたのです。そこでバルクは彼らの前で再び巻物に記された御言葉を読みました。バルクが御言葉を読んでいる間、16節にあるように、御言葉が彼らの心を刺し通したので、彼らは驚きと恐れでいっぱいになりました。そこには重大な警告とさばきの内容が込められていたからです。さばきの内容とは、バビロンによって滅ぼされるということです。すると彼らは、このことは必ず王に告げなければならないと言いました。しかし、そうなれば彼らの身に危険が迫るのではないかと心配して、バルクにこう言いました。19節です。
「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」
神のことばによって心が動かされた首長たちは、行動によってその変化を表しました。エレミヤの自由を拘束していた彼らはエレミヤとバルクをかくまい、巻物を王にもっていく伝達者となりました。こうした劇的な行動の変化の中心には、いつも神のことばがあります。神のことばによって神を恐れる心が、私たちの行動を変えるからです。
次に、21~26節をご覧ください。ここにはその神のことばを聞いたエホヤキムの反応が記録されてあります。「21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。24 これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、【主】は二人を隠された。」
この巻物のことを聞いたエホヤキム王は、ユディに命じてそれを取りに行かせました。ユディはそれを書記エリシャマの部屋から取ってくると、それを王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせました。すると王は、とんでもない行動に出ました。何とそれを小刀で裂いては暖炉の火の中に入れてしまったのです。そして巻物のすべてを暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。それは第九の月のことでした。ユダヤの暦の第九の月とは、私たちの暦では11月の終わりから12月にかけての頃ですが、海抜800メートルにあるエルサレムの冬は寒さが大変厳しくなります。部屋には暖炉がたかれていました。するとユディが3,4段落を読むごとに、エホヤキム王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火の中に入れたのです。これらのことばを聞いても、王も家来たちもだれ一人恐れおののくことなく、衣を引き裂くこともしませんでした。悔い改めようとしなかったのです。巻物を燃やすことに反対する人はいましたがそれはごく小数の人たちで、大半の人たちはそうではありませんでした。そればかりか、王はバルクとエレミヤに逮捕状を出し、彼らを捕らえるようにと命じたのです。
しかし、主が二人を隠されました(26)。どのように隠されたのかはわかりません。ただ言えることは、主のことばを信じそこに生きる人には主の守りがあるということです。どうしてそのようになったのかはわからないけれども、神様が成してくださったとしか言いようがない場合があります。皆さんもそういうことを体験したことがあるのではないでしょうか。私もたくさんあります。人間的には考えられないことを神様が成してくださったということが。それはまさに神様の不思議であり、神様の御業です。神に信頼する者には必ず神の恵みと神の祝福だけでなく、神の守りがあるのです。
ここで一つ考えてみたいことは、実はこの出来事の約20年前に、彼の父親であるヨシヤ王が神殿修復の際に「律法の書」を発見した時どのような態度を取ったかということです。それはエホヤキム王とは正反対の態度でした。彼らは親子ですが、彼らほど対照的な親子も珍しいと思います。ヨシヤ王は書記シャファンが巻物に記された「律法の書」を朗読したとき、深い悔い改めを表しました。Ⅱ列王記22章11節にはこうあります。
「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」
ヨシヤ王は神のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いて悔い改めました。彼はまず自分自身が真剣に悔い改め、そして民にも悔い改めを求めました。それ以降、ユダ王国ではヨシヤの宗教改革と言われる霊的リバイバルが起こったのです。その結果、神はヨシヤ王と民を祝福されました。しかしその子どもであるエホヤキム王は、父がしたように衣を裂いて悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分が気に食わない神のことばを聞いてそれを焼き、滅ぼそうとしたのです。神のことばをいのちと祝福として受け入れる人は神の祝福を受けますが、そんなの関係ない、不必要なものだとみなす人は、神の怒りを免れることはできません。
最近、私たちの教会のために毎月祈りをもって捧げてくださっている方からこんなメールがありました。
「先生、こんばんは。私は、人手不足なので助けて応じ介護施設で働き始めました。しかし、ベテラン職員の思わぬイジメに合いました。一部職員が職員を、入居者さんを感情むき出しに声を荒げています。悲しいです。仕事が仕事だけについ感情的になるのでしょう。僕は、イエス様が弟子の足を洗った様にこれでいいかなと自問しながら仕事をしてます。」
これが神を恐れる人とそうでない人の違い、神のことばに従って生きる人とそうでない人の違いです。神のことばに従って生きる人は、イエス様が足を洗った様に生きます。そしてそこには神の祝福が必ずもたらされるのです。
私は毎年、赤い羽根の共同募金に協力させていただいているのですが、集金に来られた方がこういうのです。「教会に来られる方はみんな、何と言うか、お顔が優しいですよね。この前教会の前を通った時そこに2~3人のご婦人たちがいたのでお話させていただいたんですが、皆さんとてもほがらかでした。それはやっぱりキリスト教の教えから来ているんですかね。」
私はそれを聞いて、正直、とても嬉しかったです。もしかすると募金に協力したので少し良いことを言おうと思ったのかもしれませんが、神のことばは生きているなぁと思いました。神のことばを聞いてそれを受け入れ、それに従って生きる人は、神が祝福してくださり、そのようにお顔まで穏やかになるんだと。これは本当だと思います。もしこれが週1回の礼拝だけでなく毎日だったら、どれほど穏やかな顔になるでしょう。
1840年、ロンドンのある洋服屋に、一見何の取り柄もなさそうな店員がいました。彼は御言葉を愛し、毎日御言葉を読みました。今日で言えば、毎日喜んでディボーションをして神を喜んでいるような人です。そんなある日、彼は自分の人生を変える御言葉を目にしました。
「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(Ⅰコリント15:2)
この御言葉を読んだ瞬間、彼は「これだ」と思いました。そして、彼はすぐにその御言葉を握り締めました。何の取り柄もない自分のような者でも、御言葉を固く握るなら、主は必ず用いてくださると確信したのです。そして、数人の青年たちとともに日曜日ごとに集まりを始めました。それがYMCAの始まりでした。皆さんは、YMCAを始めた人をご存知でしょうか。ジョージ・ウイリアムズという人です。あの有名なジョン・ワナメーカーではありません。ジョン・ワナメーカーはYMCAの建物を建てた人ですが、YMCAを始めた人はジョージ・ウィリアムズです。
御言葉を握る人には神の恵みと祝福があります。そして神はそのような人をご自身の働きのために用いてくださいます。そして主が用いる人を、主は必ず守ってくだるのです。
バルクが読み上げた御言葉によって変えられた首長たちは、巻物の内容をエホヤキムに伝えました。彼らの願いは巻物に記された預言のことばを聞いて、エホヤキム王が変えられることでした。しかし王はそれを受け入れるどころか、エフディが読み上げるごとにそれを裂いて暖炉に投げ入れました。エホヤキムの態度は、神のことばを聞いて嘆き悲しみ、衣を裂いて悔い改めた父のヨシヤ王とはあまりにも対象的でした。神のことばはすべての人に平等に与えられていますが、すべての人が同じ反応をするとは限りません。あなたはどのような反応をしていますか。ヨシヤ王のようにそれを聞いて衣を裂いて悔い改めていますか。それとも、このエホヤキム王のようにそれを軽んじ暖炉に燃やすでしょうか。どのように受け入れるかは、あなたの選択にかかっているのです。
Ⅲ.決して滅びない神のことば(27-32)
エホヤキム王によって暖炉の火に燃やされた神のことばですが、それで滅びてしまったかというとそうではありません。神のことばは決して滅びることはありませんでした。27~32節をご覧ください。「27 王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。28 「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。【主】はこう言われる。あなたはこの巻物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの地を滅ぼし、ここから人も家畜も絶えさせる、と書いたのか』と。30 それゆえ、【主】はユダの王エホヤキムについてこう言われる。エホヤキムには、ダビデの王座に就く者がいなくなり、彼の屍は捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に対して、わたしが告げたが彼らが聞かなかった、あのすべてのわざわいをもたらす。」32 エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」
エホヤキム王は巻物を燃やしてしまいましたが、それで神のことばが破壊されたわけではありません。その後、主はエレミヤに、焼かれた巻物に書かれた内容をもう一度書き記すようにと命じられました。時間をかけてやっと完成した巻物が焼かれてしまった後で、再び初めから書き直すという作業は、いかに困難で忍耐を要することでしょうか。
まだワープロの時代です。私が牧師になって10年くらい経った頃でしょうか、ワープロを使って毎週日曜日の説教の原稿を書いていました。今もそうですが、私は昔から完全原稿と言って、一字一句すべて書く完全原稿を書くようにしています。そうすれば、あとはレンジでチンするだけで済みますから。そのワープロで土曜日の夜、翌日の説教の原稿を書いて完成したときです。まだ3歳くらいだった二番目の娘がそのワープロと遊んでいて、デリートキーを押してしまったのです。私は青ざめました。何時間もかけて完成した説教の原稿です。それが一瞬にして消えてしまったのです。私は元々こうした機器の取り扱いが苦手で、もしかするとCtrlキー+Zで復元できたのかもしれませんが、そんな知識など全くなかった私はただオドオドするばかりでした。「どうしよう。明日の朝までもう1回書かなければならないのか」何時間もかけて書いた説教をもう一度書くなんて考えられません。でもやるしかありませんでした。娘には「絶対触っちゃだめだからね。」と厳しく叱りつけ、そして一晩かけて一から書き直したのです。それを考えたら、1年以上もかけて書き上げた巻物をすべて失ってしまい、その後で、「もう一度初めから書くように」と言われたら、再度、それに取り組む意欲が起こるだろうかと、考えてしまうところです。
しかし、エレミヤは、もう一つの書物を取ってそれをバルクに与え、バルクは再びエレミヤが口述した内容を書き記しました。何という忍耐深さ、何という行動力でしょうか。それは神のことばはどんなことがあっても決して滅びることはないということを示しています。だれかが聖書を撲滅しようとも、神のことばである聖書は決して滅びることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人が50年間でこれを破壊できることを示そう。」と豪語しましたが、彼が死んで20年経ってから、そのヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が買い取り、そこで聖書が印刷されるようになりました。人々がどのように神のことばから逃れようとしても、神のことばは決して滅びることはないのです。
それどころか、最初の巻物は焼かれましたがそれによってよりすばらしい第二の巻物が完成しました。第一の巻物はヨシヤの時代からエホヤキムの治世の第四年までの預言でしたが、第二の巻物はそれ以降の新しい預言も含まれたものだからです。私たちが今手にしているエレミヤ書は、この第二の巻物が書かれたものです。それは最初のものよりも更に詳しく、さらに内容が豊かになったものです。神の計画や神のことばを破壊しようとする試みは必ず失敗に終わります。しかし、神のことばは決して滅びることはありません。第二の巻物が新たに書き記されることによって伝承され続けました。神殿が焼失し、国が滅び、民が祖国から切り離され捕囚とされることがあっても、神のことばは人々に命を与えることばとして残ったのです。しかし、神のことばを無きものにしようとしたエホヤキムの行為は、ダビデ王家とその王国、その領土を失うことを決定付けました。このことにエホヤキムは気付きませんでした。そこに気付くことから真の悔い改めが生まれます。そのために神のことばは新たに書き直され、残っているのです。ここに希望があります。神のことばは絶対に滅びることはありません。そればかりか、神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。今もあなたの心に力強く働いてくださいます。この神のことばに信頼し、神のことばに堅く立ち続けましょう。神は必ずあなたの人生の中に働き、あなたが考えられないような不思議な御業を成してくださいますから。