ヨハネの手紙第一3章11~25節「互いに愛し合うこと」

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪

、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪にとどまらないということでした。クリスチャンでも罪を犯すことがあります。でも罪を楽しみ、そこにとどまっていることはありません。罪を犯す者は神から生まれた者ではなく、悪魔から生まれた者です。このことによって神の子どもと悪魔の子どもを区別することができます。もちろん、ここで言われている「義」とは人の目に正しいということではなく、神の目で正しいということです。ですからイエス・キリストを救い主として信じなければ、だれも義と認められることはありません。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23-24)とあるとおりです。救い主を信じ受け入れることによって義と認められます。そしてそのように認められた者は、義を行う者へと変えられていくのです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。もしそうでないとしたら、神の子どもではありません。

 

しかし、神の子どもか悪魔の子どもかの区別は、それだけによるのではありません。10節の終わりにはそれを区別するもう一つのポイントが記されてあります。それは兄弟を愛しているかどうかということです。ここには、「兄弟を愛さない者もそうです。」とあります。「そうです」とは、神の子どもではなく悪魔の子どもであるということです。兄弟を愛さない者は神の子どもでなく悪魔の子どもです。つまり、クリスチャンではないということです。なぜヨハネはそこまで言い切るのでしょうか。きょうは、この「互いに愛し合うこと」について三つのポイントお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.互いに愛し合うべきであること(11-15)

 

まず、第一のことは、互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている命令であるということです。11節から15節までをご覧ください。

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」

 

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」「使信」とは「教え」とか「命令」のことです。それが、私たちが初めから聞いている神の教えであり、神の命令です。イエス様はこのように言われました。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35)

 

ですから、これは何も新しい教えではないのです。これはイエス様ご自身が教えられたことであり、私たちが初めから聞いていることです。イエス様はここで、私たちが互いに愛し合うなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになると言われました。クリスチャンが互いに愛し合うことが最高の証だというのです。逆に、クリスチャン同士がいがみ合ったり、言い争ったり、憎み合ったり、嫉みあったりするなら、それは最悪の証であると言えます。だれもイエスが救い主であることを認めないでしょう。それはキリストの栄光を傷つけることになります。ノンクリスチャンを愛するよりもクリスチャン同士が互いに愛し合うことの方がもっと効果的な証になるのです。クリスチャン同士が互いに愛し合うことが一番の証です。だからといってノンクリスチャンを蔑ろにしてもいいとか、あしざまにしてもいいということではありません。ノンクリスチャンに対しても愛をもって仕えていくことは当然のことですが、それよりももっと効果的な証があると言っているのです。それはクリスチャンが互いに愛し合うことです。クリスチャンが互いに愛し合うなら、ノンクリスチャンはそれを見てあこがれさえ抱くようになります。「そんな愛など見たことがない、世の中はみんな自分勝手で自分のことしか考えられないのに、血のつながりもない、全く生まれも育ちも、背景も異なる者同士が、しかも年齢や性別も違う者同士が、お互いにお互いのことを喜び、お互いに献身的に仕え合って、こんなにも熱く愛し合うことができるのはどうしてなのだろう」と思うようになるのです。そんな愛など見たことも、聞いたことも、感じたこともありません。このような愛の共同体にぜひとも自分も加えてほしいものだと願うようになるのです。それなのに、兄弟を憎むということがあるとしたら、それは何を物語っているかというと、その人は永遠のいのちにとどまっていないということ、すなわち、神の愛を知らないし、神の救いを経験してもいないということです。つまり、神の子どもではないということなのです。

 

ヨハネはここでその一つの事例を取り上げてそのことを説明しています。それはカインです。12節をご覧ください。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

カインについては皆さんもよくご存知だと思います。ここでヨハネは、「カインのようになってはいけません」と言っています。なぜでしょうか。なぜなら彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺したからです。彼は弟アベルを殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。彼のどのような行いが悪かったのでしょうか。

 

創世記4章を見ると、カインは地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。そして、しばらく時が過ぎて、主へのささげ物を持って来たとき、カインは大地の実りを主へのささげ物として持ってきましたが、アベルは、自分の羊の初子の中から、しかも肥えたものを持ってきました。すると神はアベルとそのささげ物に目を留めましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったい何が問題だったのでしょうか。この箇所だけを見ると、カインはいかにも適当にささげ物をもって来たかのような印象がありますが、そういうことではありません。問題は、それが神の定めた方法によるものであったかどうかということです。すなわち、弟アベルは神が定めた方法で、神が求めた物をささげたのに対して、カインはそうではなかったのです。カインは神が求めた方法ではなく、自分の考えで、自分の方法によってささげたので、神に受け入れられなかったのです。神が定めた方法とは動物の犠牲をささげることでした。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。いのちとして宥めを行うのは血であるからです。(レビ17:11)カインはそのことを両親のアダムとエバから聞いていたのに守りませんでした。そして自分の考えによってささげ物をささげたのです。一方、アベルはどうだったかというと、彼は神が定めた方法でささげました。なぜ彼はそのようにしたのでしょうか。

 

へブル人への手紙の著者はこう言っています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証されました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証してくださったからです。」(へブル11:4)つまり、アベルは信仰によってささげたのです。ささげ物をささげるということは礼拝するということです。どのように礼拝すればいいのでしょうか。神が定めた方法があります。神が定めた方法でなければ神に受け入れられません。このことは後に私たちの罪の身代わりとして神にささげられた神の小羊イエス・キリストを指し示すものでした。イエス・キリストを通してでなければだれも神のみもとに行くことはできません。どんなに自分の方法で神に受け入れられようと思っても、それは受け入れられないのです。それはこのカインのようです。

 

カインは自分のささげ物が受け入れられなかったことで、弟のアベルをねたみました。自分のささげ物が受け入れられないのに、なぜあいつがささげた物が受け入れられたのか、自分はこんなに不幸なのに、なぜあいつがあんなに祝福されているのか、自分にはこんなに力があってこんなこともできるのに、なぜあいつが注目されなければならないのか、そう言ってねたんだのです。これが悪い者から出た者のモデルです。カインは悪い者から出た者の典型でした。そして、私たちもカインのように兄弟を殺すなら、カインと同じように悪い者から出た者、つまり、神の子どもと呼ばれる資格はないということを覚えておかなければなりません。

 

兄弟を殺すとはどういうことでしょうか。私たちはカインのように人を殺す者ではありません。しかし、人を殺すとは文字通り人を殺すことだけではないのです。イエス様はマタイの福音書5章で、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)と言われました。兄弟に対して怒ったり、「ばか者」と言ったり、「愚か者」というようなことがあるとしたら、それは人を殺していることと同じです。もしあなたがだれか他の兄弟姉妹のことを悪く言うなら、それは人を殺していることと同じことなのです。実際にそれを聞いた人はそのような目でその人を見るようになるでしょう。あなたが悪く言ったとおりに、その人は悪く見るようになります。「あっ、知らなかった。あの人がそんなに悪い人だったなんて・・・」「この人がこんなにひどい人だったなんて・・」そう思い込んでしまいます。事実を確認すればただのうわさ話にすぎないことも、それを真に受けてしまうことで、そのようなフィルターでその人を見てしまうようになります。それは人を殺すことと等しい行為です。恐ろしいですね。注意したいです。

 

いったいなぜカインはそのようなことをしたのでしょうか。悪い者から出たからです。悪い者とは悪魔のことです。悪魔から出たので兄弟を愛することができなかったのです。しかし、神から出た者は兄弟を愛します。14節をご覧ください。ここには、「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。」とあります。いったいどのようにして私たちは死からいのちに移されたことを知ることができるのでしょうか。それは兄弟を愛することによってです。兄弟を愛する者は神から生まれた者ですが、兄弟を憎む者はみな、人殺しです。それによって、私たちは神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかを判別することができます。皆さん、クリスチャンであることのしるしとは何でしょうか。クリスチャンであるしるしは十字架のネックレスを首にぶら下げていることではありません。あるいは、車に魚のマークを貼ることでもないのです。皆さん、なぜ多くのクリスチャンが車に魚のシールを貼っているかご存知ですか。それはクリスチャンの信仰を表しているからです。魚はギリシャ語で「イクスース」と言いますが、その魚のそれぞれの文字が、「イエス・キリストは私たちの救い主です」という意味を表わすことばの頭文字になっているからです。それはすばらしい信仰の告白ですが、しかし、それをただ車に貼っているからクリスチャンだというわけではありません。あいるは、いつも教会に通うことがクリスチャンだと言うことを保証するのでもありません。クリスチャンのしるしは、その人が神によって生まれた神の子どもであるというしるしは、兄弟姉妹を愛し合しているかどうかです。その愛こそクリスチャンであることのしるしなのです。そこに永遠のいのちがあります。そこで永遠のいのちを満喫することができるのです。

 

詩篇133篇1~3節を開いてください。そこにはこうあります。

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさであろう。兄弟たちが一つになって ともに住むことは。それは、頭に注がれた貴い油のようだ。それは、ひげに、アロンのひげに流れて 衣の端にまで滴る。それはまた ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

主はどこにとこしえのいのちの祝福を命じられたのでしょうか。それは兄弟が一つとなって住むことの中に、です。兄弟姉妹が互いに愛し合うという交わりの中に、です。そこで永遠のいのちの祝福を味わうことができます。クリスチャン同士が互いに愛し合わなければ、永遠のいのちを味わうことかできません。だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることがないからです。それは生ける屍であり、生きているようでも死んでいる冷たい存在でしかありません。

 

互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている使信です。それが、神が私たちに命じていることです。だから私たちは互いに愛し合うのです。自分の感情では受け入れることができない相手であっても、神がそのように命じておられるのでそれに従うのです。それによって私たちが神によって生まれた者であることがわかります。死からいのちに移ったことを知るのです。神から生まれた者として神の命令に従う、それが神の子どもとされたクリスチャンの基本的な姿なのです。

 

Ⅱ.それによって愛がわかった(16-18)

 

第二のことは、なぜ互いに愛し合うのか、その理由です。それは私たちが神から生まれた者であり、死からいのちに移った者として当然のことですが、ここにはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、自ら進んで愛し合う根拠が記されてあります。それはキリストの愛です。16節から18節までをご覧ください。16節をご一緒に読みましょう。

「キリストは私たちのために、ご自身のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

 

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それは私たちが罪のうちに滅びることがないためです。私たちのすべての罪を赦すために、キリストはご自分のいのちを捨ててくださった。それほどまでに私たちは愛されているのです。ですから、私たちも互いに愛し合うべきです。兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。兄弟姉妹を愛せないというのは、どんなに私たちが愛されているのかを知らないか、それとも忘れているからです。「どうしてもあの人を赦すことができない」というのは、自分がイエス様によって赦されたということを知らないからです。私のような者が赦されたということを知るなら、もう言葉にならないくらいうれしくて、人を赦せないという思いはどこかへ吹っ飛んでしまうでしょう。私たちが主にどれほど愛されているかを知るなら、もはや兄弟姉妹を愛せないとか、赦せないということはありません。主があなたに対してどれほどあわれんでくださったのか、どれほど忍耐してくださったのかを思うとき、あなたも兄弟姉妹に対してあわれみを示さずにはいられなくなります。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。

 

17節を見てください。それなのに、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。いません。神の愛はとどまっていません。そんなに神のあわれみを受けていながら、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすことがあるとしたら、それは神の愛からかけ離れたことなのです。

 

皆さんは、「シティ・オブ・ジョイ」という映画を観たことがありますか。この映画はインドのカルカッタにあった「シティ・オブ・ジョイ」という無料診断所を舞台に繰り広がれる話です。あるときこの街にイギリス人の医師でマックスという人が、一人の少女の命を救えなかったことから自分の無力さに打ちのめされ、空虚な心を埋めるかのようにやって来ます。ある日彼は暴漢に襲われた時、ハザリという貧しいインド人に助けられ、この「シティ・オぶ・ジョイ」に運ばれてきます。マックスはパスポートを無くしたことからこの診療所「喜びの街」を手伝うことになりますが、その町のボスが診療所の家賃を値上げしたことで暴動が起こります。そうした街の腐敗に耐えられず、そこから逃げようとするマックスに対して、もう一人の診療所の医師ジョアンナはこう告げるのです。

「人が生きてくくというのは大変なことよ、みんな生まれた瞬間から希望と絶望の間であがいているの。人生には三つの選択肢しかないわ。傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むか。最悪の選択肢は逃げる傍観者だわ。」
人生には三つの選択肢しかありません。それは、傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むかです。最悪の選択肢は逃げる傍観者です。あなたには三つの選択肢しかないのです。傍観するか、逃げるか、それとも飛び込むかです。困った人を見て「ああ、かわいそうだすね」「何と不幸なことでしょう」とただ眺めているか、そのようなことに関わるのはごめんですと、そこから逃げ去るか、どんなに傷つけられても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込むかです。関わることは時間的に、労力的に、経済的に犠牲が伴うことですが、それが愛するということなのです。

 

あの良きサマリア人はそうした。強盗に襲われ傷ついた人を見たとき、かわいそうに思い、彼に近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き解放しました。翌日、彼は宿屋の主人に二枚のデナリ硬貨を差し出し、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(ルカ10:35)と言いました。

一方、神に仕える祭司がそこを通りかかったとき、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じく、レビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

この三人のうちでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみ深い行いをした人です。イエスは言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 

愛について語ることは簡単です。でも実際に愛することは簡単なことではありません。そこには自己犠牲が伴うからです。でも私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。ことばや口先で愛することも大切です。ここには、「ことばや口先だけで愛することをせず」とありますから、ことばや口先で愛することも大切であることがわかります。

「あなたはちっとも愛していると言ってくれないんだから・・」

「何、言ってんだ。結婚してどのくらい経つと思っているの。言わなくたってわか

るだろう。」

これはだめです。言わないとわからない時があります。愛をもって真理を語ることも必要なんです。でも、それだけではいけません。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければなりません。ただの傍観者であったり、それを見てあわれみの心を閉ざしたり、そこから逃げるのでもなく、どんなに傷ついても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込んで行かなければならない時があるのです。私たちにはそれができます。なぜなら、愛を知ったから。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。こんなどうしようもない者が愛されたということが分かったので、兄弟姉妹を愛せずにはいられないのです。

 

Ⅲ.互いに愛し合うことによって(19-24)

 

第三に、その結果です。互いに愛することによってどうなるのでしょうか。19節から24節までをご覧ください。まず19節と21節に注目してください。

「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で心安らかでいられます。たとえ自分の心が責められたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

「そうすることによって」とは、互いに愛し合うことによってということです。互いに愛し合うことによって、私たちは自分が真理に属していることを知ります。真理とは何でしょうか。真理とはイエス・キリストです。イエス様は、「わたしは道です。真理です。いのちです。」と言われました。ですから、互いに愛し合うことによって、私たちが真理に属していることを知るというのは、イエス様に属しているということ、つまり、クリスチャンであるということを知るということです。自分はクリスチャンであるという確証を得るのです。イエス様を信じていても、本当に救われているかどうか、本当に天国に行けるのかどうか、クリスチャンなのかどうかわかりませんという方がおられますか。そういう方は兄弟姉妹を愛してください。それによって、自分が真理に属しているということを知り、神の御前で安らかでいられることができます。救いの確信を得られるのです。

 

たとえ自分の心が責めたとしても、です。私たちは自分の心が責められる時があります。神のみこころに従わなかった時や、自分の思いや感情で行動した時、言わなくてもいいようなことを言って人を傷つけてしまった時、「ああ、本当に自分はだめな人間だな、なぜこんなことをしてしまったんだろう、」と自分を責めることがあります。これでもクリスチャンなのかとがっかりすることがあります。しかし、たとえ自分の心が責めても、安らかでいられます。なぜなら、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知であられるからです。どういうことですか?私たちは時として大きな罪を犯し、そのことを自分でも信じられないことがありますが、神にとっては全然不思議なことではありません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。

 

詩篇139篇1~3節には、「主よ、あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ、 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。」とあります。神は、私たちのすべてを知っておられます。私たちは、自分で自分を知っていると思っていますが、実際のところは知らなければならないことも虫っていません。ですから罪を犯したりするとびっくりするのです。「なんで私がこんなことをしちゃったのか・・。」「考えられない・・・」でもそう思うのはあなただけであって、神はそう思っていません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。だから、たとえあなたの心があなたを責めても、全然心配いりません。神が弁護してくださいます。私たちが互いに愛し合うことによって真理に属しているということを神が証明してくれるので、全く心配いらないのです。21節、そのように、自分の心が責めないから、私たちは神の御前に確信を持つことができます。「私は全然責められません。何をしても平気です。自分の心が自分を責めるなどという経験をしたことがありません」それはここで言っていることではありません。それはただ鈍感であるだけです。ここで言っていることは、そうした良心が痛むようなことがあっても真理に属しているという確信のゆえに、平安でいられるということです。なぜ?「そうすることによって」です。互いに愛し合うことによって、そのような者でも真理に属しているということを知ることができるからです。

 

それだけではありません。22節をご覧ください。「そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」どういうことでしょうか?神の子どもとされたということです。子どもであれば、求めるものは何でも受けます。子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような親はいません。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。いません。自分の子どもには良いものを与えます。同じように、天の父はご自分に求める者たちに良いものを与えてくださいます。聖霊を与えてくださいます。それは私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。では、神の命令とは何でしょうか。神が喜ばれることとは何でしょう。

 

23節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」

皆さん、神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。これが神の命令です。ただ互いに愛し合うのではありません。まず御子イエス・キリストの御名を信じることです。誤解しないでください。私たちの罪が赦されるのはただイエス様の十字架の血によってです。その神の御子イエス・キリストの名を信じること、すなわち、キリストを救い主として心に受け入れ、その口で告白することによってのみ救われます。私たちの行いによるのではありません。しかし、そのようにイエス・キリストの御名を信じた者は互いに愛し合いなさいという具体的な行いを通して、自分が神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまるということ、すなわち、救われているという確信を持つことができるのです。なぜなら、それは神が私たちに与えてくださった御霊が証してくださるからです。まさに、Ⅰペテロ4章7節に「愛は多くの罪を負おうからです。」とあるとおりです。

 

ですから皆さん、私たちも互いに愛し合いましょう。それによって私たちは真理に属していることを知ることができます。たとえ自分の心が自分を責めるようなことがあっても、神の御前に心安らかでいられます。まず私たちを愛し、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったキリストの愛を受け入れましょう。こんな私のために神がどれほどの愛を注いでくださったのかを知り、その御子イエス・キリストの名を信じましょう。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合いましょう。それによって私たちは神に属していることを知り、救いの確信を得ることができるのです。まさに愛は多くの罪を負おうからです。