ヨハネの手紙第二1章1~13節「真理と愛のうちに」

きょうは、ヨハネの手紙第二から学びます。ヨハネの手紙第二は、見ていただくとおわかりのように、とても短い手紙となっております。あまりにも短いので章に区切ることができず、いわば1章だけにまとめられています。そのためこの手紙は個人的な傾向が強く、教会宛てに書かれた他の手紙のように広く公の場で読まれなかったということもあって、正典に入れるべきかどうか大いに論じられたという経緯があります。しかしどんな過程をたどったとしても、この手紙が疑いのない神のことばであることは、今日全世界の福音的な教会において受け入れられていることから明らかであり、かえってそのような批判を受けたことによって、この手紙が自らの正当性を証明することになりました。

きょうはこのヨハネの手紙第二から、「真理と愛のうちに」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ. ほんとうに愛しています(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」

 

この手紙は「長老から、選ばれた婦人とその子供たちへ」宛てて書かれています。長老とはヨハネのことです。ヨハネが自分を「長老」と呼んでいるのは、もちろん彼が霊的な面で教会の指導者であったということもありますが、実際にこの手紙を書いていたとき、かなりの高齢であったからでしょう。この手紙を書いた時、彼は90歳を超えていたのではないかと言われています。彼は、自分の晩年に、残された人々に伝えたい大切なことを、この手紙に託したのです。

 

それは何か?それは、真理のうちに歩むということです。ですから、この手紙の書き出しの部分には、この「真理」という言葉が何度も繰り返して書かれてあるのです。まず1節には「真理を知っている人はみな、愛しています。」とあります。また2節には、「真理は私たちのうちにとどまり」とか、「そして真理はいつまでも私たちとともにあります。」とあります。また3節にも、「父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」とあります。

 

これは、「選ばれた婦人とその子どもたちへ」宛てて書かれました。選ばれた婦人とその子どもたちとはだれのことを指しているのかははっきりわかりません。おそらくこれは特定の婦人とその子どもたちというよりは、教会のことを指して言われていると理解して良いかと思います。というのは、教会はキリストの花嫁であり、その教会にはいろいろな霊的成長段階にある神の子どもたちがいるからです。

 

その手紙の書き出しにおいて、ヨハネはいきなり「私はあなたを本当に愛しています。」と言っています。このように言える人はあまりいないのではないでしょうか。特に、自分の気持ちをストレートに伝えるのが苦手な私たち日本人にとっては、なかなか勇気のいることです。

しかもここには「本当に愛しています」とあります。「本当に愛しています」を英語で言うとどうなるかというと、I really love you.̋です。しかし、英語の訳ではここを、̏I love in the truth̋と訳しています。つまり、真理をもって愛する、です。

ですからこれは真理に基づいた愛で、決して感情的なものではないということがわかります。どんなにすばらしい愛でも、真理にもとづいてなければ、真理に結びついていなければ、中味の薄っぺらいものになってしまいます。

残念ながら私たちの感情はいつも一定ではありません。その感情にのみ左右されているとしたら、とても「永遠の愛」と呼べません。そのような愛が長続きすることは望めないからです。

ヨハネがここで「私はあなたを本当に愛しています」と言っているのは、その愛が真理に基づいていることを前提にしたものだったのです。

 

では「真理」とは何でしょうか。古今東西、多くの哲学者や宗教家、賢人と言われる人たちがこの答えを模索してきましたが、彼らが到達した答えは、あのピラトのように「真理とは何ですか?」という疑問符でしかありませんでした。

しかし、聖書にはその答えがはっきりと示されてあります。それはイエス・キリストです。ヨハネの福音書14章6節には、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とあります。「わたし」とはだれのことでしょうか?イエス様です。イエス様こそ真理そのものであられます。そして、その真理についてあかしするためにこの世に来られました。ですから、イエス様を見れば真理がわかります。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

ヨハネは、このイエス様を見て、真実の愛とはどのようなものなのかがわかりました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

ヨハネがここで、「本当に愛しています」というとき、それはこの真理に基づいたものだったのです。このような愛こそいつまでも残るものであり、いつまでも長続きするものです。

パウロはコリント第一13章の中で、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)と言っていますが、このような真実な愛こそ何ものにもまさって尊いものなのです。

 

このように、この手紙の書き出しが愛の呼びかけによって綴られていることは、まことに興味深いものがあります。というのは、ここに、私たちの人間関係の土台が何であるかがはっきりと示されているからです。それは身分の違いや金銭関係によって結びついたものではなく、愛という一番すぐれているものを土台にしているということです。愛によってこそ最高の人間関係が成り立つのであって、愛がなければこうした人間関係が築き上げられることはありません。これは夫婦関係や友人関係など、あらゆる関係において言えることです。

 

ですから、もしあなたが人間関係で悩んでいるとしたら、ここから点検する必要があります。自分は聖書の言う真実の愛を持っているだろうか。自分のことしか考えられないということはないか、

この本当の愛を土台とした人間関係を築いていかなければなりません。ヨハネが「私はあなたを本当に愛しています。」と言っているように、私たちも「あなたを本当に愛しています」と堂々と言える愛の実践家になりたいものです。

 

Ⅱ.互いに愛し合いましょう(4-6)

 

第二のことは、そのような真実な愛をもって互いに愛し合いましょう、ということです。4節 から6節までをご覧ください。

「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」

 

ヨハネは、「あなたの子どもたちの中に」、すなわち、選ばれた婦人の子どもたちの中に、真理のうちに歩んでいる人たちがいるのを知って非常に喜んでいました。「歩んでいる」というのは、生活スタイルそのものです。それは単なる知識ではなく、その中を生きているということです。

 

それをベースに、ヨハネは彼らにお願いしています。それはヨハネが新しい命令として書いているのではなく、初めから持っていた命令ですが、互いに愛し合いましょう、ということです。これこそ、神の命令に従って歩むということです。愛のうちに歩むこと、それが神の命令だからです。

 

明治の文豪、徳富蘆花(Tokutomi Roka)は、「天に星あり。地に花あり。人には愛無かるべからず」と言いました。星があってこそ天の雄大さを見ることができます。花があってこそ地上は美しく彩られます。そして愛があってこそ人と人との交わりや社会生活が健全に営まれます。その愛が無ければならない、と言ったのです。

 

パスカルは「パンセ(瞑想録)」の中でこう言っています。「彼は十年前に愛した婦人を、もはや愛さない。そのはずである。彼女は以前とは同じではなく彼も同じではない。彼も若かったし、彼女も若かった。今や彼女は別人である。彼は、彼女が昔のようであったら今なお愛したかもしれない。」つまり、十年前とは容姿がすっかり変わってしまったため、もはや愛さない、というのです。

皆さん、どうですか。このような愛ほど不安定なものはないですね。だれでも年を取れば老けていくものです。昔のような美しさを保つのは不可能だとは言いませんが、かなり困難なことです。それなのに、そうなったら愛さないというのではたまったものではありません。

 

しかし聖書が私たちに示している愛とは、そのようなものではありません。それはイエス様によって表された、人知をはるかに越えた愛です。それはどこまでも赦し、どこまでも受け入れ、どこまでも与えて行く愛です。よくキリスト抜きの愛は「だからの愛」だと言われます。「美しいから愛する」とか「性格が良いから愛する」、「親切にしてくれるから愛する」といった条件付きの愛です。

しかし神の愛は違います。神の愛はこうした条件を一切付けずに相手を無条件で受け入れ、与える愛です。「汚いども愛します」「ひどい食べ方だけれども愛します」「いつまでたっても悪い癖が治らないけど愛します」という「けれどもの愛」です。それが、主イエス様が十字架で示してくださった愛です。ヨハネは十字架の下でその愛を見ました。ここに愛があるということがわかったのです。

 

イエス様は、自らの特権を主張されることなく、十字架の死をもってすべてを与えてくださいました。私たちは「~だから愛する」というのに値しない者であるにもかかわらず愛してくださったのです。何という愛でしょう。だから私たちもこの愛をもって互いに愛し合うべきなのです。

 

札幌キリスト福音館の牧師だった三橋萬利(Mitsuhashi Kazutoshi)先生は、3歳のとき小児麻痺にかかり、両足と右手の機能を失いましたが、21歳の時にイエス様の御言葉を聞いてクリスチャンになりました。その後、教会で出会った幸子夫人と結婚されると、2004年までの50年間、教会で牧師をしながら幸子夫人に背負われて、国内、国外で幅広い伝道活動をされました。結婚当初は今のように乗用車が少ない時代でしたので、リヤカーに乗った萬利先生を幸子夫人がそのリヤカーを自転車にくくって伝道するという凄まじいものでした。

それにしても幸子夫人はよく萬利先生の伝道活動を支えたものです。というか、よく結婚を決断されたなぁと思います。幸子夫人が萬利青年と結婚したのは、二十歳の誕生日を迎える二日前のことでした。当時看護学生だった彼女は、両親や兄弟たちの猛烈な反対の中を、看護学校を中退して結婚されました。小児麻痺のため片手と両足の自由を失っていた相手です。生活するにも経済力がありませんでした。そんな相手と結婚して、一生夫を背負って生きていかなければならない娘の行く末を案じない親などいません。勘当までしてその結婚に反対した肉親の気持ちを踏みにじるようにして相手との結婚に踏み切ったのは、幸子夫人の方でした。何が彼女をそうさせたのでしょうか。

実は、その頃、三橋先生は教会員の兄弟姉妹たちによって、送り迎えされていたのですが、幸子夫人はそのお手伝いをしていました。お手伝いをしているうちに、「もしこの人に手足となる良い助け手が与えられたら、彼自身の持つすばらしさがもっと引き出されて、生かされていくのではないだろうか」と思っていました。そしてあるクリスチャンの姉妹を思いながら、「あの人が三橋さんの良い助け手となるといいなぁ」と思って祈りはじめたら、その祈りとは裏腹に、「あなたはどうですか?あなたは?」とのささやきを神様から受けました。いいえ、私はできません、と反論しましたが、聖書のみことばが与えられました。

「人がその友のために自分のいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

幸子夫人にとっては、自分の都合や計画を主張することをやめ、相手を受け入れ相手の益を図ることがいのちを捨てることに通じる愛だと思いました。

人を受け入れるのに自分を主張していたのではどうしようもありません。相手を認め、相手を受け入れ、自分を与えていくところに愛の行為が生まれてくるのです。

 

主イエス様は、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と言われました。ご自分の御子をお与えになったほどに世を愛され、一人も滅びることを望まれない神の御旨を自らの心の内にはっきりとどめて歩む者、それがクリスチャンの性質であると言えるでしょう。それが神の命令です。それは新しい命令ではなく、初めから与えられていた命令です。これがクリスチャンの本質です。神の命令を心から受け入れそれに従って生きる者だけが、「私は神を愛しています」と言える者なのです。すぐにはそうなれないかもしれませんが、少しずつでもその愛に生きる者となるように祈り求めていきたいと思います。

 

Ⅲ.キリストの教えにとどまる(7-13)

 

最後に7節から13節までを見て終わりたいと思います。まず11節までをお読みします。

「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」

 

「こう命じるのは」とは、その前で勧められてきたこと、すなわち、互いに愛し合いなさい、という命令です。こう命じるのはなぜか、ここにはその理由が述べられています。すなわち、「人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。」

 

ヨハネの第一の手紙のメッセージでもお話ししましたが、この手紙が書かれ当時、危険な教えとして警戒していたグノーシス主義の教えが教会の中に入り込んでいました。グノーシス主義は、霊は善であり物質は悪であるという極端な二元論を唱えていました。この教えに立つと、霊である神が物質である肉体をとってこの地上に生まれるはずがないということになります。7節の「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たち」というのは、こうした教えが背景にあっての警告です。神が肉体をとって人間として生まれてくるはずはないし、人の姿をしたイエスが神であるわけがないというのは、昔も今も変わらない人間の哲学的思想なのです。

 

このような人を惑わす者たち、反キリストに対して、私たちはどうあるべきなのでしょうか。8節には、「気を付けなさい」とあります。「気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。」彼らの特徴の一つは、私たちが労して得たものを失わせる、すなわち台無しにするところにあります。「労苦して得たもの」とは、イエス・キリストの御名による救いのことです。これが無駄になってはいけません。これは神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに与えられたものです。この恵みが無駄にならないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなければなりません。初めに信じるだけでなく、それを最後まで保たなければなりません。そこに大きな意義があります。

 

9節の「先を行って」とは「行き過ぎ」のことです。「境界線がある領域から出て行く」ことを意味します。行き過ぎはよくありません。ではその境界線とはどこでしょうか。ここには、「キリストの教え」とあります。「キリストとの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています」

キリストがどのような方なのか、その本性についての教えは、私たちが御父と御子を持っているのか、いないのか、つまり永遠のいのちを持っているのか、いないのかの重大なに分かれ目です。ここを逸脱してはいけません。キリストの教えにしっかりととどまっていなければなりません。

 

この「教え」と訳されたことばは「教理」とも訳せますが、私たちはどちらかというと教理を軽視しがちです。もう分かっていることだ。神さまとの出会いと体験が大事なのであって、聖書を体系的に知的に理解するのは信仰を死なせる、というのです。違います。キリストの教えは、知的ではなく、霊的なのです。この教えにとどまっていれば、御父と御子を持っている、つまり交わりがある、ということです。キリストの教えにとどまっていなければ、どんなにすばらしい体験でも全く無意味なのです。

 

では、このような反キリストに対して、人を惑わす者たちに対して、どのように対処したらいいのでしょうか。10節と11節をご覧ください。ここには、「あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。

ちょっと厳しすぎるんじゃないですか。愛がありません。クリスチャンならもっと優しくすべきです。家に受け入れてはいけないとか、あいさつのことばをかけてもいけない、そういう人にあいさつをすれば、その悪い行いをともにすることになるというのは、ちょっと狭いんじゃないですか。

皆さん、どうでしょう。意外とこういうことばにつまずかれる方も少なくありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

当時は家々で礼拝が行われていました。ですから、この「家」というのは、一般的な私たちの「家」とは違い、そうした信者たちが集まっているところにキリストの教えを持っていない者が入り込んで来たらということです。そういう時には断固とした態度を取らなければなりません。伝道者だから、牧師だから、教師、預言者だからと、簡単に受け入れてはならないということです。私たちはとかく「イエス様」の御名を使っていれば大丈夫だろうと、何でも安易に受け入れてしまうことがありますが、それは必ずしも安全だというわけではありません。

最近の異端は羊のなりをした狼のように、まるで私たちと同じ格好で教会に入り込み、十分に安心させてから、ごっそりと奪っていくというケースが少なくないのです。お隣の韓国ではそうしたケースが横行しているとよく聞きます。

 

ですから、「イエス」という名を使っていれば安心だというわけではないのです。キリストの教えの核心について間違った教えをしているのであれば、それは偽りであって、本物のイエス・キリストとは似ても似つかぬものなのです。そうした者たちを受け入れてはなりません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになるからです。

これは新しくクリスチャンになった人には、特に必要なことです。安易に受け入れてしまうと、こちらの弱点を突いてどんどん入り込まれてしまうことになります。彼らはそうした訓練を受けているのですから。

 

キリスト教の代表的な異端の一つにエホバの証人というグループがありますが、彼らは教会にまで来て伝道します。教会の前には「大田原キリスト教会」と書かれた看板があるのに、その教会に堂々とやって来るのです。なぜ教会まで来るのか不思議に思い聞いたみたことがありました。「どうして教会にまで来られるんですか」すると、二人のうちの一人がこう言われました。「教会の牧師はあまり聖書を知らないと聞いているので良い知らせを伝えたいと思いまして・・」エホバの証人の方々は、キリスト教会の人たちはほとんど聖書を学んでいないので、一番ターゲットにしやすいと思っているのです。

しかし、その人が帰り際に言われました。「でも、こちらの教会の牧師は聖書をよく知っておられるので驚きました。一般の教会の牧師さんはこれほど知りません。」いや、一般の教会の牧師さんは聖書を知らないのではなく、ただ相手にしないだけです。でも私は心優しくへりくだっているので、できるだけわかってほしいと、すべての人に接しているので知っているかのように見えただけのことです。

 

ですから、もしこちらが曖昧な態度を持っていたら、相手はそこを付いて攻撃してくるでしょう。柔和で、優しい態度で・・。危険です。キリストの教えを持っていない者は、神を持っていません。そのような人が訪ねて来た時は、丁重に断りつつも、毅然(きぜん)とした態度で臨むべきです。そして、人が何と言おうと、人間が救われる道は、まことに神であられ、まことに人であって、あの十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリスト以外にはないということを、天下に示さなければなりません。

 

異なった教えに惑わされず、健全なキリストの教えにとどまることを、ヨハネはどれほど強く願っていたことでしょうか。

今日の私たちも、ちまたのさまざまな教えに惑わされずに、唯一のキリストの教えにとどまって、主に喜ばれる信仰生活を全うしていきたいものです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。ここには最後のあいさつが書かれてあります。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」

愛の使徒と呼ばれるヨハネは、キリストの教えを持っていない者、いわゆる反キリストや、惑わす者に対しては、あいさつをしてもいけない、と警告しましたが、キリストの教えを持っているクリスチャンに対してはそうではありません。ここには、「たくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」とその心情を綴っています。

それは何のためでしょうか。ここには、それは「私たちの喜びが満ち溢れるために」とあります。

 

これがキリストの愛の中にある者同士の姿です。キリストの愛を信じ、その愛に生かされているクリスチャンは、互いに交わりを求め、互いに祈り、共に喜び合うのが自然なのです。へブル10章25節には、「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」とありますが、それはむしろ、キリストの愛の中に入れられた者であれば当然すぎるほど当然なことなのです。

 

もし互いに愛し合っているなら、夫婦でも、親子でも、友人でも、愛のある交わりを求めることでしょう。クリスチャンでありながら同じ主にある兄弟姉妹たちとの交わりに対して無関心であるとしたら、その愛はどこか間違っていることに気付かなければなりません。そして、キリストの愛の中に入れられた者として、その集いを尊び、その交わりに積極的に関わりながら、ますます篤く愛し合う者でありたいと思います。

ヨハネのように、紙と墨ではしたくありません。あなたがたのところに行って、直接お話ししたい。喜びも、悲しみも共有したいと言える、そんな交わりを求めていきたいと思うのです。それがキリストによって救われた者の、真理と愛に生きる者の姿なのです。