上に立つ権威に従いなさい ローマ人への手紙13章1~7節

2020年8月9日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙13章1~7節

タイトル:「上に立つ権威に従いなさい」

 

 きょうは「上に立つ権威に従いなさい」というタイトルでお話したいと思います。私たちが救われたのは私たちが何かをしたからではなく、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じたからです。そして、その信仰さえも、一方的な神の恵みによるものです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)そのように、神の一方的な恵みによって救われた私たちは、この世にあってどのように生きるべきでしょうか。

 

パウロは、このローマ人への手紙12章からそのことについて実際的な面から語ります。その土台は、全き献身です。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)そして、次に、その基本的な生き方として「愛」について語りました。きょうのところでパウロは、それに続いてクリスチャンのこの世における生き方の基本的な原則を取り上げています。それは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。第二のことは、自分の良心のためにも従うべきです。神によって立てられた権威に従うということは神に従うことですから、そうすることによって、良心に自由と平安を受けることができるからです。第三のことは、それはすべての人に対して言えることです。すべての人に対して義務を果たさなければなりません。

 

 Ⅰ.上に立つ権威に従いなさい(1-2)

 

 まず第一に、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。1-2節をご覧ください。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

 

 ここでパウロは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであると言っています。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。どういう意味ですか?これは、私たちがこの地上において生きるとき、それがどのような手段によって成り立ったものであれ、その権威に従わなければならないということです。なぜなら、そうした権威でさえ神の許しによって立てられたものであるからです。したがって、その権威に逆らうということがあるとしたら、それはそうした権威に対して逆らっているのではなく、神に対して逆らっているということになるのです。であれば、そのさばきを自分自身の身に招くことになるのは当然のことです。もちろん、どんな政府であれ、どんな組織であれ、この地上にあるかぎり、完全であるということありません。必ずどこかに欠陥があるものです。しかし、その欠陥の程度がどうであれ、それは神によって存在しているのであって、神の許しなしにはあり得なかったものなのです。ですから、この地上の権威に従うということは神様に従うことなのです。ですから、この地上の権威に従うなら平和が与えられ、そうでなかったら混乱や争いが生じることになります。なぜなら、私たちの神様は、混乱の神ではなく秩序の神だからです。

 

 それは、聖書が一貫して述べていることです。たとえば、Ⅰペテロ2:13-19にはこうあります。

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」(Ⅰペテロ2:13-19)

 

  ここには、「善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」とあります。なぜでしょうか?善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。たとえ、不当な苦しみを受けることがあっても、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることなのです。もちろん、キリスト者は誤りを認めたり、違法行為を黙認したり、自己保全から妥協することはありません。もし、何か異なることがあれば、たとえ相手が時の政府であっても訴える必要があります。けれども、どのように訴えるかということです。デモに参加するのが当然であるかのように考えている人もいます。また、教会はこの世の権力(国家)と戦うことが聖書の意図していることであるかのように捉えている指導者もいます。しかし、聖書が教えていることはそうではなく、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うということです。それが善良で優しい主人であるからというだけでなく、たとえ横暴な主人であっても従いなさいということです。私たちはそのためにこの世に遣わされているのです。そのことを通して主を証し、神の救いのご計画が実現していくためです。ですから、もし政府やその他上に立てられた権威が違法なことをする場合は、そのことを丁寧に発信し、進言し、また提言しますが、敵に立ち向かうように暴力で対抗したりはしないのです。これが聖書の基本原則です。

 

 イスラエルの民がエジプトを出て荒野に導かれた時、レビ族の中のケハテという氏族の子でコラという人がいましたが、彼はモーセとアロンがイスラエルの民の上に立って指導しているのに腹を立て、彼に逆らってこう言いました。

「あなたがたは分を越えている。自分たちはみな残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)

すると神様は激しく怒られ、彼らが立っていた地面が割れ、彼らとその家族、また彼らに属するすべてのものを呑みこんでしまいました。指導者モーセに逆らった罪のゆえです。神様はお立てになった権威に逆らう者に、同じような裁きを下されます。なぜ?存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招くのです。

 

 今、大田原教会の祈祷会ではⅠサムエルから学んでいますが、先週は24章から学びました。そこには、ダビデを殺すたちに追って来たサウルが、ダビデが隠れていた洞穴に用を足すために入ったとき、ダビデのしもべたちが、「今日こそ、主があなた様に、「見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ」と言われたその日です。」と言いましたが、ダビデはサウルに撃ちかかるようなことをせず、後ろからそっと近づくと、サウルの上着の裾を、こっそりと切り取りました。なぜか。主に油注がれた方に手を下して、主に罪を犯すことなどできないと考えたからです。サウルがどんなに神のみこころからズレているような王であっても、主に油を注がれた器である以上、それは神が立てた権威だと認めていたのです。ですから、主君サウロを殺す機会があっても彼は決して自分から手をかけるようなことをしませんでした。すべてのさばきを神にゆだね、神が裁いてくださることをじっと待ったのです。ですから彼は神に祝福されたのです。ダビデは、神が立てた権威にいつも従ったのです。

 

 最近、ある著名な社会学者が「現代人が経験する混乱は、父親不在の社会になったために生まれたものである」と言いました。「父親不在の社会」とはどのような社会なのでしょうか?昔は家庭で父親が一言言えば、家の中の秩序が整いました。父親の言葉には威厳があったのです。父親が、「こら」と叱れば、「悪いことをしてはいけない」という思いが植え付けられました。けれども今は、この権威が失墜してしまいました。なぜ?妻が夫を軽んじているからです。父親が「こら」と言うと、脇で妻が「あんた何よ。いいじゃない」なんと言うので、子供たちも本気で父親の言うことを聞かなくなってしまったというのです。社会学者たちは、こうした混乱は19世紀に自由主義が広がったために起こったと言っています。自由主義とは、既存の宗教的、社会的権威を一切排除して、理性と文化が人間を進歩させるという考えです。つまり、人間中心主義です。しかし、果たしてそうした人間の理性が社会を進歩させたでしょうか。権威を軽んじた結果、社会が進歩したどころか崩壊していくことにつながっていったのです。

 

 聖書はキリスト者に、神が与えられたすべての権威に従うようにと教えています。この権威を回復しなければなりません。例えば家庭における一夫一婦制も、親子の関係も、神の創造の時から定められていた神の秩序です。神さまは人類をアダムとエバに創造されました。即ち、一人の男性と一人の女性を創造してくださったのです。そして、その二人は一心同体の夫婦となり、その夫婦によって子どもたちを与えてくださいました。親子の関係は最初からそのように神が定められたものなのです。家庭に権威を与えたのは神さまですから、子どもたちが自分の父と母に従うとき、それは神に従うことになるのです。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神に対して逆らうことになります。それは神が定めた秩序なので、子どもは親に従わなければならないのです。

 

 もちろん、そのためには父と母は子どもたちに対して不公平な裁きをしたり、虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになるというのは言うまでもありません。そして、子どもはそのような親を見るとき、神に対して誤解したり、疑ったり、逆らう者になるでしょう。父と母が正しくその権威を用いないと、逆に子どもを神に逆らわせるようにしてしまうことになります。親が悪い支配をするとき、子どもたちを悪に導くことになるのです。エペソ人への手紙6章4節でパウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペソ6:4)と命じています。その意味は、「悪い支配をするなら、支配の権威に立つ者は支配される者に悪い影響を与えることになる」ということにもなるのです。

 

 これは教会においても同じことです。教会の牧師、長老、役員といった組織は神が与えたものですから、教会は主のゆえに従うことが求められます。それは、へブル13:7に「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることがないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」とあることからもわかります。同様のことは、Ⅰペテロ5:5やへブル13:7にもあります。教会の牧師、役員、指導者も失敗することがあるでしょう。どうしたら良いかわからなくて悩むこともあります。あるいは間違った判断をしてしまうこともあります。しかしそれでも従うのは、それが神によって立てられた権威であり、神が定められた秩序だからなのです。

 

 それは、私たちが国家に従うのも同じです。私たちが国に従うのは国が間違いのないことをしているからではありません。なぜ、こんな政策をするのかと首をかしげることも少なくありません。このコロナの対策においても、どうしてこんな対策をするのだろうと思うことも多くありました。しかし、それでも国家に従うのは、それが、神が立ててくださった神の権威だからです。神が政府という組織を作られ、政府で働く人たちを備えてくださったからなのです。政治家たちや官僚たちはみな、神に仕えるしもべたちなのです。そういう認識をもっていつも仕えてもらえたら本当は一番いいのですが、政府においてはそういう人は皆無に等しいのでなかなか期待することはできません。それでも私たちが従うのは、政府もまた神によって与えられた神の秩序だからなのです。パウロは、こうした人たちのために祈るようにと勧めているのはそのためです。

 

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Iテモテ2:1-2)

 

 それは、この社会のすべての関係においても言えることです。大学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしないで、逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。それが神のみこころであり、神が立てた秩序なのです。それは私たちが敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため、つまり、私たちの祝福のためでもあるのです。

 

 Ⅱ.良心のためにも従いなさい(3-5)

 

 なぜ上に立つ権威に従わなければならないのでしょうか。ここにもう一つの理由が書かれてあります。それは、自分の良心のためでもあります。3-5節をご覧ください。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

 

 「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。」良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。もっとも、いくつかの例外はあったとしても、一般的には良いことをするとき、人はほめられるのです。

 

先月、アメリカワシントン州で酒に酔った男が交通事故を起こしたとき、非番だったエリオットさんは社内にいた人の無事を確認すると、事故を起こした男が現場から立ち去ろうとしているのに気付き、身柄を拘束しようすると、男はエリオットさんに襲い掛かり、彼女の首をヘッドロックしました。エリオットさんが窒息しそうになったとき、「その人から手を放せ」と勇敢にその男に次々と飛びかかったのは5人の少年たちでした。それでエリオットさんはヘッドロックから逃れることができ、少年たちが地面に押さえつけた男に手錠をかけて逮捕したのです。この5人の少年たちがいなかったら、エリオットさんは殺されていたかもしれません。エリオットさんは感謝してもしきれません、と言いました。そして、子の5人の少年たちには、Community Heroism Award(地域社会英雄賞)が送られました。良いことをすればクリスチャンであってもなくてもほめられるのです。逆に、悪いことをしたらだれであっても罰を受けます。この世の支配者は、あなたに益を与えるための、神のしもべだからです。彼らは神のしもべであって、良い行いをすればほめられ、悪を行えば、悪の報いを受けるのです。

 

ここには「神のしもべ」ということばが2回も使われています。つまり、パウロは上に立つ権威というのはすべて神から与えられたものであって、その権威に従うということは神ご自身に従うことであり、神を恐れることであると受け止めていたのです。その権威に従わないということは神に従わないことでもあり、クリスチャンとしてふさわしい態度ではあるとは言えません。これは神が与えたものなので、神に信頼して、神を恐れて、神に対する感謝をもって、神が立てた権威者に従うということこそ、キリスト者にとってふさわしい態度です。そうでなかったら、良心に責めを感じるようになるでしょう。罪責感を抱くようになってしまいます。私たちはいつも、神の御前に、責められることのない良心をもって歩むべきです。そのためにも私たちは、神様が立ててくださった権威に従わなければならないのです。

 

 それにしても、パウロの信仰は見上げたものです。彼は、国家やその他の支配者もすべて神の御手の中にあると信じていました。つまり、摂理の神への信仰をもっていたのです。もちろん、それは冒涜的な権威に対して無批判であったということではありません。時としてはダニエル書に出てくるあの三人の少年シャデラク・メシャク・アベデネゴのように、いのちをかけて王の命令を拒絶しなければならないという局面もあるでしょう。しかし、そうした中にあっても、すべてのことが神の御手の中にあって、立てられた権威はすべて神によるものだと受け止めて従おうとしたのです。

 

私たちキリスト者は、往々にしてこの社会を悪とみなし社会の権威に対して敵対していこうという思いを抱きがちですが、このような摂理の信仰のゆえに、立てられた権威に従っていこうという姿勢は重要なのです。コロサイ人への手紙の中には、こうあります。

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22-23)

何事につけ、主に対してするように心を尽くすのがクリスチャンです。人が見ていれば熱心にやっているふりはするけれど人が見ていなければ手を抜くぞというのは、要領のいい人であるかもしれませんが、神のしもべとしてふさわしい姿であるとは言えません。神のしもべとは、だれが見ていてもいなくても、主に従うように、地上の主人に心から仕える人なのです。

 

 Ⅲ.義務を果たしなさい(6-7)

 

 第三のことは、だれにでも義務をはたさなければならないということです。7-8節をご覧ください。

「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

 

ここには「みつぎ」と「税」ということばが出てきますが、当時の世界では、それぞれ違った税を表していましたが、今日ではその両者を含めて税金全般のことだと言っていいでしょう。すなわち、ここでは納税の義務について教えられているのです。納税について聖書は何と教えているでしょうか?みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさいと命じています。 

 

 当時のユダヤ人は、このように異教徒に対して税や貢を納めるということは、神以外のものに仕えることになるのではないかということで毛嫌いしていました。ですから、税を取り立てる人、取税人は、罪人のかしらのように思われていたのです。しかし、それがローマ帝国であっても、異教徒であったとしても、それは納めなければならないものなのです。なぜですか?義務だからです。「義務」というのは負債のことです。8節には、愛以外には何の借りがあってはならないと教えられていますが、すべての義務というのは、借金を返すように果たしていかなければならないものだというのです。貢や税を納めることはその義務です。それは恐れなければならない者を恐れ、敬うべき者を敬うことなのです。それは形に表された権威者への服従でもあるということです。

 

 このことについてイエス様は何と言われたでしょうか?マタイ17:24-27を開いてみましょう。

「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」彼は、「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

 

 このところでイエス様は、この世の王たちは自分の子どもたちからではなく、ほかの人たちから税を取り立てるので、子どもたちにはその義務はないが、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚の口から1枚のスタテル硬貨を取って税金として納めるようにと言われました。

 

 それは私たちクリスチャンにも言えることです。確かに私たちはイエス様を信じたことで神の国に属するものになりましたが、それはこの世の義務や責任をないがしろにしてもいいということではありません。だれにでも義務を果たさなければならないのです。正直に生きることが求められているのです。

 

 これは日本のキリスト者にとっては大きなチャレンジです。というのは、アメリカでも、韓国でも、もし教会に献金をすればその分は控除の対象になりますが、日本ではそのようにはならないからです。税金として国に納めるくらいなら少しでも神様にささげたいと思ってささげても、それは控除になりません。ということはどういうことかというと、献金にプラス税金も支払わなければならないということです。でも、聖書が私たちに教えていることはどういうことかというと、この世の義務や責任をしっかりと果たしなさいということです。それがこの世におけるクリスチャンが取るべき態度なのです。それこそ神に服従している証であり、神が私たちに望んでおられる生き方なのです。私たちがそのように神に従って生きるなら、神はその信仰に報いてくださるでしょう。むしろ、クリスチャンがたくさん税金を収めることができるというのは、それだけ神様がたくさんのものを与えてくださっているということですから、むしろそのことを感謝すべきではないでしょうか。

 

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた神の秩序だからです。天の御国を仰ぎ見ながら、この地上に生きる者として与えられた責任を十分に果たしていく者でありたいと思います。それは私たちが平安で静かな一生を過ごすため、私たちの祝福のためでもあるのです。これが、聖書が教えているこの世に生きるキリスト者の基本原則なのです。