愛は律法を全うする ローマ人への手紙13章8-10節

2020年8月23日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙13章8-10節

タイトル:「愛は律法を全うする」

 

 きょうは、「愛は律法を全うする」というタイトルでお話したいと思います。大学で法律を学ばれた方が、ある時私にこんなことを言われたことがあります。

「いくら法律を作っても社会は少しも良くならない。」

社会的に義務を果たし、宗教的に戒めを守ることも大切ですが、それだけでは完全ではないというのです。完全になるためには何が必要なでしょうか。先ほど読んでいただいた箇所にはこうあります。10節、「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。」を全うします。」

新改訳聖書第三版では、「愛は律法を全うします。」と訳しています。全うするとは、完成する、完全にするということです。何が律法を全うするのでしょうか。何が律法を完成するのでしょうか。愛は律法を全うします。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

 

第一に、他の人を愛する人は、律法を完全に行っているということです。なぜなら、愛は、隣人に対して害を与えないからです。

第二のことは、律法にはいろいろな戒めがありますが、そうした律法のすべては、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばに要約されるということです。

第三のことは、ですから、愛は律法の要求を満たすということです。

 

 Ⅰ.愛は律法を守っている(8)

 

 まず、第一に、他の人を愛する者は、律法を完全に守っているということについてです。8節をご覧ください。ここには、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。」とあります。

 

  この13章1節のところからパウロは、神の恵みによって救われたキリスト者はこの世にあってどのように歩むべきなのか、その原則について語ってきました。その一つは、上に立つ権威に従いなさい、ということでした。また、すべての人に対して義務を果たしなさい、ということでした。クリスチャンはこの世から救われ神の国に属する者となったがゆえに、この世に対しては何の義務や責任も追わないというのではなく、税金を納めるべき人には税金を納め、関税、貢ですね、関税を収めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬わなければなりません。その流れの中で、次に対個人にあってはどうあるべきなのかを語るのです。その基本原則は、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」ということです。これは、どういう意味でしょうか?

 

 ある人はこのところから、クリスチャンは何人に対しても、いっさいの借りがあってはならないと考えています。たとえば、アメリカにカルバリーチャペルという大きな教会がありますが、この教会は1970年代に「イエス愛の革命」として全米に、そして全世界に福音宣教のムーブメントを引き起こした教会ですが、その教会の開拓者で主任牧師のチャック・スミス先生はそのように考えています。私たちが福島にいた時、その教会の牧師の一人であったボブ.ヘイグ先生ご夫妻がいのちの水計画で中国に聖書を運ばれた帰りに日本に立ち寄られた際に私たちの教会に来られたことから知り合い、私たちが渡米した際に御夫妻宅に宿泊させていただいた際に、コスタメサにあるカルバリーチャペルの会堂を案内してもらいました。それは落ち着いた雰囲気の立派な会堂でしたが、その時、ボブ・ヘイグ牧師がこう言われたのです。「この教会ではクリスチャンはいっさい借りがあってはならないと信じているので、この会堂も銀行等からのローンを一切受けないで建てたんですよ」。これだけの会堂を一切のローン無しで建てたのはすごいなぁと思いましたが、それはこの聖書のみことばの理解に基づいているからです。この教会では、文字通りクリスチャンは何人からも何の借りもあってはならないと考えているのです。

 

しかし、別の方は、これはそういう意味ではなく借りたものに対してはきちんと返さなければならないことを教えているのだと解釈しています。すなわち、借りたものをいつまでも放置したままではいけないというのです。確かに貸し借りは人間関係を壊す危険性があります。それはその人の心を縛り、自由を奪い、卑屈なものにし、健全な人間関係を妨げてしまう危険性があるのです。

以前、私は家の外壁を洗浄しようとケルヒャーというメーカーの高圧洗浄機を買いました。買ってまだ箱も明けていないうちに、教会の方のお友達で塗装業を営んでいる方から、仕事で使いたいので貸していただけないかと言われてお貸ししたことがありました。しかし、数カ月経っても返していただけなかったのでご自宅にお電話したところ、訳があって家を出ているということでした。連絡先を教えていただきましたがいくら携帯に電話してもつながらず、諦めていたところ、別の塗装会社の方が営業で回って来られたので、その方と連絡を取りたいのですが、と事情を説明すると、「じゃ、俺が何とかしますから」と言って連絡してくれたのです。すると、その方が5年ぶりでしょうか、「すみません」と新しいものを買ったのでしょう、持って来てくれました。高圧洗浄機くらいだったので良かったですが、これが多額の金銭だったら大変なことになっていたでしょう。このことを通して教えられたことは、物品にせよ、金銭にせよ、他人から貸し借りはしないようにすべきであり、どうしても借りなければならない事態が生じた時には、すみやかにお返しするように努めるべきであるということです。そうでないと、人間関係なり、別の問題に発展してしまう恐れがあるからです。しかし、ここで言わんとしていることはそういうことなのでしょうか。

 

 ここで、マタイ5:42を開いていただきたいと思います。イエスは、次のように教えておられます。「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」ここでイエスは、「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」と言っておられます。ということは、求める者に貸したり、借りたりすることがあるということを前提に、その場合どうしたら良いかということを教えられたわけですから、貸したり、借りたりということが、あながち悪であるということではないということが分かります。

 ルカ6:35には、「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。」とあります。ここでは、「返してもらうことを考えずに貸しなさい。」と言っておられます。もし他人から借りることをいっさい禁じているのであれば、このようなことを言われなかったでしょう。では、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」というのはどういう意味なのでしょうか。

 

 私の恩師の尾山令仁先生は、この「借り」と訳されている言葉は、ギリシャ語「σφειλω」(シュペイロオ)という言葉ですが、この言葉は、果たすべき義務があるという意味があることから、ここでは単に何らかの貸し借りのことを言っているのではなく、果たすべき義務全般について教えられていると言っています。つまり、負債を無くすこと、義務を遂行することです。今日多くの人々は、権利は主張しても義務については平気で見過ごし、これを果たそうとしない傾向にありますが、そうしたことがあってはいけないというのです。(聖書講解シリーズ「ローマ人への手紙P534)たとえば、1節には「上に立つ権威に従うべきだす」とありますが、それもまた果たすべき義務の一つです。もちろん、返すべきものを返すというのも、果たさなければならない義務です。それを果たさないとしたら、それは決して神のみこころではないし、神に喜ばれることではありません。

 

 しかし、このところをもう少し読んでいくと、ここでのテーマは「借金をするな」とか、「義務を果たせ」ということではなく、それ以上のことであることがわかります。つまり、その後のところに「ただし、互いに愛し合うことは別です」とあることからもわかるように、「互いに愛し合う」ことの大切さを伝えるために、愛の負債について言いたかったのです。すなわち、上に立つ権威に従うとか、すべての人に対しを義務を果たすといったクリスチャンのこの世における生き方の原則から、互いに愛し合うという対人関係における原則について教えようとしていたのです。それが、その後にある「ただし」という言葉が私たちに伝えていることです。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」。「ただし」です。「ただし、互いに愛し合うことは別です」と。愛の負債は別なのです。なぜでしょうか。他の人を愛することは、律法の要求を完全に満たすことになるからです。ですから、愛の負債をして、その負債を返そうと生きることは良いことなのです。その負債こそ、他の人を愛することだからです。

 

 この場合の愛の負債とは何を指しているのでしょうか?もちろんそれは、他の人から受ける愛のことです。他の人から愛を借りて、その愛を返していく。そうやって互いに愛し合って生きていくわけです。しかし、その根底にあるのは神様の愛です。神様が私たちを愛してくださったので、その愛の負債を今度は隣人に対して負っていくわけです。そのようにして互いに愛し合うことが、律法を完全に守ることになるのです。

 

 神様は、その大きな愛をもって罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神を神ともせず、自分勝手に生きていた私たちは、もう滅ぼされても致し方ないような者でしたが、あわれみ豊かな神様はその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。それがイエス・キリストの十字架での贖いです。イエスは、十字架の上で私たちの罪の負債をすべて支払ってくださいました。ですから、イエスは十字架の上で「完了した」「テテレスタイ」と言われたのです。あなたの罪の負債はイエス様が完済してくださいました。あとは、その神の救いの御業に感謝して、受け取るだけです。そうすれば、だれでも救われます。感謝じゃないですか。あなたが何か良いことをしたからとか、まともに生きたからというのではなく、この救い主を信じることで神に義と認められ、天国に行けるようになったのですから。多くの人は、自分は正しいので天国に行けると思っていますが、その根拠というか、基準は何ですか。全部自分です。自分が勝手にそのように思いこんでいるだけで、そんなに正しいわけではありません。義人はいない、一人もいない、のです。

 

 先週、ある青年から相談があるので時間を取っていただけないかと電話がありました。どんな方かなぁと思っていたら、びっくりしました。まだ若い男性だったからです。お歳を尋ねたら23歳だというじゃないですか。しかも、なかなかのイケメンです。そんな人がいったいどんな悩みがあるというのでしょう。もしかしたら彼女さんのことかなぁと思っていたら、そうじゃないのです。死ぬのが怖いというのです。小さい時に曾祖父が死んだとき、自分もいつか死ぬんだと思うと、いてもたってもいられなくなりました。何とか高校に行きましたが、いつもそのことが頭をよぎるので、ついに怖くて不登校になってしまいました。それでも何とか克服して大学に進みましたが、やっぱりだめでした。3年生になってパニックに陥り、中退したのです。それから父親の勧めで専門学校に進みましたが、根本的な問題が解決されていないのでいつも不安があるということでした。母親に相談すると、「今、死ぬことを考えなくてもいいんじゃない。その時に考えれば。」と言われますが、じゃ、その時に答えがあるのかというとないわけです。心療内科の医師からは、「人はみな死ぬから生きるんだ!」と言われました。死ぬから生きるんだと言われても、だったら生きる意味がないんじゃないかと思い、悩んでいたとき、九州の佐賀県に住んでいるおばあちゃんが紹介されて電話してくれたのです。

 

 良く電話してくれました。だって「死」の解決はどこにもないじゃないですか。それはただ聖書の中にしかありません。聖書には、死んだらどうなるかについてはっきりと書かれてあります。人は死んだら肉体は滅びても、霊魂は永遠に生きます。問題は、どこで永遠を生きるのかということです。人は生まれながらに罪を持っているので、その罪を持ったままでは神の国に入れていただくことができず、神の国に入れていただくにはその罪を清めてもらわなければなりません。そのために、神は御子イエスをこの世に送り、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださいました。それは、御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。御子を信じる者はさばかれることがありません。信じない者はすでにさばかれています。神のひとり子の御名を信じなかったからです。これが福音です。あなたがどれだけ良いことをしたかではなく、罪深い者の代わりに死んでくださった救い主を空け入れ、信じたかどうかです。信じる者は救われます。なぜなら、キリストがあなたの罪の身代わりとなって死んでくださったからです。

 

 創世記1章を開いて3時間、このことについて話しました。聖書を開いて説明したいですがいいですかと言うと、「いや、僕は宗教を信じないと思います」と言われたので、信じるか、信じないかは、あなたが決めることです。ただ「死」のことについて知るには聖書を見るのが一番わかりやすいと思いますというと、しふしぶ開いた彼でしたが、聖書から一緒に学ぶと、「ホントおもしろいですね」と目を丸くしていました。そして、別のことを聞いてもいいですか、と自分の仕事のことや将来のことについてもいろいろと聞いたのでかなり時間がかかりましたが、若い青年の人生について一緒に考える時が持てたことはとても感謝なことでした。

 

 そして、そのように神の愛とあわれみによって救われた私たちは、神に対して愛の負債を負った者として、今度はそれを神に対して支払わなければならないのです。どうやって愛の負債を支払っていけばいいのでしょうか。互いに愛し合うことによってです。だれに対しても、何の借りもあってはいけませんが、ただし、互いに愛し合うことは別なのです。こうした負債は負ってもいいのです。いや、負うべきです。そうやって互いに愛し合うことこそ、私たちクリスチャンが、この世において隣人に対してあるべき姿なのです。

 

 この世には二つのタイプの人が存在しています。隣人を愛し、愛されながら生きる人と、誰の愛を受けもしないし、誰にも与えもしないで、自分一人で生きていこうとする人です。「僕は誰をも愛さないし、誰からも愛されなくてもいい。僕は一人で生きていく」という人がいますが、これは実はとても高慢なことなのです。「人」という字は、互いに支え合ってこそ成り立っているのであって、自分一人で生きていくことなどできないものだからです。

 

 ヨハネ13章には、イエスがペテロの足を洗おうとした時彼が「決して私の足を洗わないでください」と言ったことが記されてあります。イエス様に足を洗ってもらうなんてとんでもないと思ったのでしょう。それは奴隷のすることでしたから。するとイエス様はこう言われたのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(ヨハネ13:8)どういうことでしょうか。「わたしの愛を受けないと、あなたは私と何の関係もないことになる」ということです。

 

 皆さん、クリスチャンとは、イエス様の愛を受けた者、イエス様から愛された者です。どうしてあなたはイエス様を信じることができんですか。イエス様がどれほど自分を愛してくださったかがわかったからです。こんな罪深い者を愛してくださいました。その愛がわかったので信じることができたのです。イエス様の愛をたっぷり受けているからこそ、イエス様を愛するようになったのであり、この世に出ていってイエス・キリストの愛を伝える者に変えられたのです。

 

 パウロは、ローマ1:14で「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」と言っています。彼は、生涯負債を負った者であるという認識を持っていたのです。その負債とは何でしょうか?それは愛の負債です。神からいただいたイエス・キリストの愛の負債、恵みの負債です。パウロはイエス様の愛をたくさんいただいて、その恵みを驚くほど経験しました。彼は、「キリストの愛が私を取り囲んでいるのです。」(Ⅱコリント5:14)と言いました。彼がキリストの福音を伝えるためにどんなに激しい迫害にあっても挫折しなかったのは、キリストの愛が取り囲んでいたからです。「キリストから受けた愛がこんなに大きいのに、この程度で倒れるわけにはいかない」と堅く決心していたからなのです。使徒パウロを支えていたのは、この愛の負債から出ていたものだったのです。

 

 本当に謙遜な人とは、兄弟姉妹や、教会の人たちから、そして特に神様から数え切れないほどの愛と恵みを受けていると自覚している人のことです。互いに愛し合うことを通して、その愛の負債を返済していきたいと願っている人です。なぜなら、他の人を愛する人こそ、律法を完全に守っているからです。

 

 Ⅱ.愛は律法を要約する(9)

 

 第二に、愛は律法を要約するということです。9節をご覧ください。ここには、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」とあります。これは、十戒の後半部分の対人関係に関する戒めです。ユダヤ人たちは、この十戒を拡大解釈して、さまざまな戒めを生み出していきました。何と613もの規則になったのです。しかし、そのようにたくさんある戒めも、結局のところ、一つの戒めに要約できるというのです。それは何でしょうか。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。

 

 マタイ22章を見ると、あるときひとりの律法の専門家がイエス様のところにやって来て、「先生。律法の中でたいせつな戒めはどれですか。」と尋ねたことが記されてありますが、それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。イエス様はこういわれました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

 

 律法全体と預言書とは、聖書全体のことです。聖書全体でたいせつな戒めは神を愛せよという戒めと、隣人を愛せよという戒めの二つの戒めだというのです。いや律法全体がこの二つの戒めにかかっているというのです。ローマ人への手紙の中でパウロが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約されると言ったのは、この十戒の後半部分の人間相互の関係の部分を引用していたからです。神を愛することと、隣人を愛することが律法全体、聖書全体の中心、要約なのであって、このみことばに生きるとき、ほんとうに麗しい人間関係を築いていくことができるのです。

 

 4世紀の偉大な神学者アウグスティヌスは、「神様だけを愛してください。そして後は、あなたの好きなようにしてください」と言いました。彼は、もし私たちが神様だけを愛しているなら、あとは何をどう生きようと全く問題にはならないと確信していました。なぜなら、神様を愛しているなら、神様のみことばに従うようになるからです。これが福音です。私たちを縛るものは何もありません。こうしなければならないというものは何もないのです。ただ「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛」するだけで十分です。そうすれば、当然隣人を愛するようになるでしょう。これがすべての問題解決です。すべての問題解決の鍵は、この神への愛なのです。

 

 イエスが復活された後、イエスはペテロに何を確認されたでしょうか?この愛です。イエスはペテロに、「あなたはわたしを愛しますか」と三度も繰り返して尋ねられました(ヨハネ21:15,16,17)。ペテロは、イエスが三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたことに心を痛め、主よ。あなたいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と言うと、イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。なぜイエスは三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたのでしょうか?それは、この愛があれば、あとは何の問題もないからです。ペテロはかつて三度、イエスを知らないと否定しました。この愛がなかったからです。彼はほんとうにイエスを愛していたのかというとそうではなく、自分を愛していました。自分中心の信仰でした。ですから、イエスを三度も否定したのです。自分の身を守ろうとして・・・。主はそれに対応するかのように、「ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか。」と三度、確認されたのです。それがあればもう十分です。

 

 皆さんはいかがですか。皆さんはイエス様を愛していますか。それともペテロのように、自分の信仰、自分に都合の良い信仰になってはいないでしょうか。あのときのペテロのように、「主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたが十分ご承知のことです」と告白できるなら、それで十分です。なぜなら、イエス様を愛するなら、イエス様のみことばに従うようになるからです。問題はイエス様を愛しているかどうか、この一点にかかっているのです。イエス様を愛するなら、隣人を愛するようになります。なぜなら、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられたからです(ヨハネ13:35)。神を愛すること、隣人を愛することが、律法全体の要約であって、中心です。私たちが隣人を愛するなら、それは律法を完全に行っていることになるのです。

 

 Ⅲ.愛は律法を全うする(10)

 

 第三のことは、それゆえに、愛は律法を全うするのです。10節をご覧ください。「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

この「全うする」と訳されたことばは、「プレローマ」というギリシャ語ですが、これは「充満する」という意味です。つまり、私たちが隣人を愛するなら、神様のみこころに生きているわけであって、そこに神様の祝福が満ち溢れるようになるというのです。

 

先週、ここでも説教してくれた谷澤悠人兄からメールがありました。長らく祈っていただいていた進路のことですが、千葉県から通知があり、10月採用の児童福祉司に合格し、10月から児童相談所で働くようになったということでした。ずっと彼の話を聞き、お祈りさせていただいた者として、自分のことのようにうれしく、本当に良かったですね、と返信しました。彼は自分では受かる確信は全くなかったと言いますが、私は絶対に合格するという確信がありました。それは彼が優れているからではなく、もちろん、優秀な兄弟ですが、それ以上に神の導きを感じていたからです。彼はずっとそのために祈ってきましたし、自分がクリスチャンとしてどのように神に仕えていったら良いのか、社会的に弱い方々に仕えることを通して主に仕えていきたいと願っていたからです。

 

その兄弟が、フェイスブックでこんなことを言っていました。

「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、・・・世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」と中国の作家の方方さんは述べたという。

 

以前から危機に瀕していた人たちは、コロナ禍でより危機的な状況にある。DVに苦しむ大人、虐待に怯える子ども。非正規雇用など経済的脆弱性を持つ労働者やその家族。ホームレスの人。途上国の農民や低賃金労働者。難民…

日本は、弱い立場に置かれた立場の人々を助け、支える文明国家としてあることができるだろうか。

政権開始後、すぐに生活保護基準引き下げを行った現政権が、果たして弱い人々によりそうことができるであろうか。

社会福祉の歴史を学ぶと、福祉が弱い立場にある人々への「ほどこし」から、人間の基本的な「権利」へと変わっていったことがわかる。変わっていったというより、多くの犠牲を伴いながら、社会学者や社会運動家、無名の市民たちが「権利」としての福祉を勝ち取っていった。その根底には、特定の人々だけでなく(例えば古くから貧困は怠惰な人々だと思われてきた)、すべての人が弱い立場に置かれる可能性があるという考え方がある。

少し考えれば当たり前のことだ。現代で考えても、病気やパワハラ等によって仕事を続けられなくなれば、途端に経済的に弱い立場に置かれる。結婚した相手や親がストレスなど暴力を振るってきたら、事故にあって障害を負ったら、自然災害にあったら…数かぎりないリスクの中で生きている僕たちは、いつ弱い立場に置かれるかわからない。つまり、今弱い立場にある人たちに冷たい社会や国家は、未来の僕たちに対して冷たい社会であり国家である。

弱い立場にある人々の危機的状況が顕在化する中で、日本は、世界の各国はどのようにその人々の叫びに応えていくのか。自分ごととして注意してみていかなくてはならない。

そして、もう一つ。「僕」は、弱い立場にある人々に何ができるだろうか。今この国や世界に漂っている、「自分(自国)第一主義」や「自己責任論」にはもううんざりだ。だけど、じゃあ、僕はその空気に汚染されていないだろうかと問われると自信を持てない。

小さな一歩だけど、ホームレスの人々の収入源となる『THE BIG ISSUE』という雑誌の定期購読を始めた。支援の意味と、その雑誌を通して、日本や世界の社会問題を少しでも知っていきたいと思っている。福祉の勉強も継続する。その中で、「僕」に何ができるかを考えていく。

誰もが愛され、大切にされなくてはいけないんだ。そういう社会にしていかなくてはいけないんだ。この子の笑顔を見ながら、強くそう思う。そして、かわいい…」

 

「この子」とは、歩くんのことですが、私は、この文章を読んでみて、改めて、この社会で弱い立場にある人たちに何ができるのかについて考えさせられました。そして、そこに生きることこそ、隣人を愛することなのではないかと示されました。というのは、イエス様もあの良きサマリヤ人のたとえの中で、そのように教えられたからです。それは、ある律法の専門家が「私の隣人とはだれですか。」と尋ねたことに対するイエスの答えでした。

 

エルサレムからエリコに向かって下って行った人が、強盗に襲われ、その人の来ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去りました。

そこへ、たまたま祭司が一人、その道を下って来ましたが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じように神に仕えるレビ人も、その場所に来て彼を見ましたが、彼もまた反対側を通り過ぎて行きました。

ところが、旅をしていた一人のサマリヤ人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思い、近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱しました。

次の日、彼は五千円札を2枚取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。彼は言いました。その人にあわれみをかけてやった人だと思います。」

するとイエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

つまり、隣人を愛するというのは、行って、おなじようにすることです。

 

しかし、なかなかできることではありません。先週、キャンプで虫に足を食われ、近くの皮膚科に行ってみると、とても込んでいて、診察まで3時間も待ちました。いろいろな方がおられました。そこに2人の娘さんを連れた妊婦の方が来られました。その方は娘たちに、「きょうはいっぱいだからここで待っていようね」と言いました。私が座っていたベンチの脇を見ると、二人分が空いていました。ということは、私が向かい側に移動すればこの親子は座れるなと声をかけようと思った瞬間、別のおばあちゃんがそこに座ってしまったので、ことばに詰まってしまいました。「どうぞこちらに座ってください」と言えなかった。幸い、すぐに別の椅子が空いたので良かったですが、行って、同じようにするということは易しいことではありません。大切なのは思うことではなく、実行することです。言って、同じようにすることです。

 

 以前「しあわせの隠れ場所」という映画を観たことがあります。これは、「ブラインド・サイド~アメフトがもたらした奇蹟~」という実話を元に映画化されたものです。

 テネシー州メンフィスのスラム街に生まれ、家庭に恵まれず、十分な教育も受けられずに、ホームレスのような生活をしていた黒人少年マイケル・オアーが、裕福な白人女性リー・アンの一家に家族として迎え入れられ、アメフット選手としての才能を開花させ、やがてNFLのドラフト指名を受けてプロとしてプレーするまでになった話です。

 舞台はニューヨークや LA ではなく、人種に関してとても保守的な南部です。並大抵では出来ないことを、この主人公のリー・アンはやったのです。彼女は当初この大きな黒人少年を「ビッグ・マイク」と読んでいたのですが、彼が「ビッグ・マイク」と呼ぶのは止めてというと、彼女は「わかったわ。これからはマイクと呼ぶわ。あなたは私の息子よ」と言い切るのです。

 いったい彼女はなぜそんなことができたのでしょうか。彼女はクリスチャンでした。そして、神様が自分をどれだけ愛してくださったのかを知りました。そして、彼女もまた、この愛に生きるように変えられたからです。

 

 「あなたも行って、同じようにしなさい」私たちもイエス様から愛された者として、その愛を隣人に対して実践していく者でありたいと思います。「愛は律法の要求を満たします。」そこに神様の祝福が溢れるようになるのです。