神を恐れ、神の命令を守れ 伝道者の書12:1~14

伝道者の書12章をお開きください。伝道者の書からの最後のメッセージとなります。伝道者は、最後にこの書の結論を述べます。それは13節にありますが、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである。」ということです。

伝道者はこれまで「生きる」をテーマに人生の意味や目的について語ってきました。そしてわかったことは、「すべては空」であるということです。「空の空。すべては空。」です。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になると言うのでしょうか。なりません。伝道者はそれを知ろうとしてあらゆる知識や知恵を増し加えようとしました。思う存分快楽も味わってみました。事業を拡張して自分のために邸宅を建て、いくつもの庭園を造り、毎晩のようにエンターテーメントショーを催して楽しみました。しかし、そうしたことで彼の心の空白を埋めることができたかというとそうでなく、できませんでした。その時には満たされているように感じても、次の瞬間にはまた空しさが襲ってきたのです。最終的にすべての人は同じ結末を迎えます。みな死んで行くのです。であれば、生きるということにいったい何の意味があるというのでしょうか。

 あります!それは、この天地万物を造られ、私たちを造られた神を信じ、神を喜び、神のために生きることです。すべては神の御手の中にあります。人はどんなに頑張ってもすべてのことを見極めることができません。明日何が起こるかもわからないのです。自分ではどうすることもできないことがあります。ですから、すべてを支配しておられる神を認め、神にゆだねて生きることこそが最善なのです。つまり、神を恐れ、神の命令を守ることです。これが人間にとってすべてなのです。今日はこの伝道者の書の結論から、私たちの人生の幸いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(1-8)

 まず、1節から8節をご覧ください。1節をお読みします。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

伝道者ソロモンは、11章9節で「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」と言いました。これは「心の赴くままに生きなさい」ということではありません。その逆で、神様のみこころに歩めということです。神のみこころならば思い切ってチャレンジしたらいい、ということですね。ですから、9節の後半部分ではちゃんと釘が刺されていて、「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」とあるのです。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。そのことをしっかりと覚えておきなさいというのです。

ですから、若いからと言って何をしても良いというわけではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴うことがあるのです。そういうことで人生を台無しにしてはいけません。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。それは、どのような生き方なのでしょうか。それがこの1節にあるように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。あなたが若い時に、あなたの造り主を心に刻みなさい、ということです。

画家のゴーギャンは地上の楽園を目指して旅立ち、タヒチ島に辿り着きました。しかし、そこも彼にとって楽園とはなりませんでした。彼は自分の最後の作品に、自分の心の内を表すかのようなタイトルを付けました。そのタイトルとは、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」というものでした。

私たちがこの問いに対する答えを見出すためには、私たちにいのちを与え、私たちの人生にすばらしい計画を持っておられる創造主なる神を知らなければなりません。

ここでは、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とあります。どういう意味でしょうか。旧約時代の平均寿命は40歳にも満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られていたのです。20歳になった若者の平均寿命が七十年、八十年という現代の日本とは全く意味が違います。終わりまでの時間はごくわずかでした。その終わりを前にして今のこの時を創造主から与えられたかけがえのない賜物として受け止めなさい、という意味が込められているのだと思います。そういう意味では、この聖句は必ずしも若者だけへの呼びかけられているメッセージではありません。むしろ高齢になってあとどれくらい生きられるのかを考える多くの人たちへのメッセージでもあるのです。

ここには、「わざわいの日が来ないうちに」とあります。「また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」とあります。創造主訳聖書では、これを「老人になって、希望が無いという日が来ないうちに」と訳しています。老人になると希望がないというわけではありませんが、若い時のように心で願うことを元気にやり遂げる力はありません。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに、創造主なる神を心に留めよ、というのです。

伝道者は2節からその年月とはどのようなものであるかを説明しています。2節には、「太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。」とあります。「太陽と光、月と星が暗くなる」とは、肉体的にも精神的にも言えることです。老年になると、目はかすみ、心は悲観的になりがちです。「また雨の後に雨雲が戻って来る前に」とありますが、この場合の「雨」とは、人生の試練のことを指していると思われます。青年期にも雨がありますが、老年期になるとそれが頻繁に現れるという意味です。

3節をご覧ください。「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」

「家を守る者は震え」とは、高齢になって手足が震えることのたとえです。また「力のある男たちは身をかがめ」とは、足腰が弱くなって身をかがめるようになることです。かつてまっすぐに伸びていた足腰が体重を支えることができなくなり、腰が曲がってしまいます。みんなそうです。「粉を引く女たちは少なくなって仕事をやめ」おもしろいですね。これはおそらくこれは歯が抜けてしまうことを表現しているのだと思います。粉が少なくなると女たちの仕事ができなくなるように、歯が少なくなると噛み合わせができなくなるということです。歯本来の仕事ができなくなります。おもしろいことに、この「粉をひく女」は英語では「The grinders」と言いますが、臼歯(きゅうば)も同じ「grinders」という言葉を使うそうです。「grinders」が少なくなると仕事にならないのです。「窓から眺めている女たちの目は暗くなる」とは、高齢によって視力が低下することを表現しています。

そればかりではありません。4節をご覧ください。高齢になるとどうなりますか?「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。」

「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」とは、耳が遠くなるということです。周りの人の声が聞こえなくなります。騒々しい音も気にならなくなるのです。「鳥の声に起き上がり」とは、朝の目覚めが早くなるということです。鳥の鳴き声でも起きてしまうからです。私の寝室の隣は小さなベランダになっていますが、しばらく前に2羽の鳩がひっきりなしにやって来るようになりました。そして朝から唸っているのです。それで私は目が覚めてしまいます。歳をとったということでしょうか?「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」とは、歌を歌っても低くなったり、弱くなったりするということです。つまり、高齢になると声がかすれ、高い音程が出せなくなり、歌う能力が低下するのです。

さらに5節にはこうあります。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」

「高いところを恐れる」とは、高所恐怖症のことです。若い時は何でもなかったのに、年を取ると、はしごを上ったり、高い所に立ったりするのが怖くなります。「道でおびえる」とは、坂道を歩くのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じるということです。創造主訳聖書ではそのことをわかりやすく訳しています。「息切れがして、坂道を上るのが大義になり、足の自由がきかず、立ち往生し」と訳しています。

「アーモンドの花は咲き」とは、頭が白くなることです。アーモンドは白い花を咲かせるのですが、それが満開に咲くように、頭が白くなります。私の頭もアーモンドの花のようになりました。

「バッタは足取り重く歩き」とは、老人の歩き方を表現しています。確かに老人になると若い時のようにシャキシャキと歩くことは困難になります。バッタが歩いているのを見るとわかりますが、バッタが歩く時はよろよろ歩きますが、そのように身をかがめてよろよろ歩くようになるということです。

「風鳥木は花を開く」これも難解です。「風鳥木」とはスパイスに用いる「ケッパー」の木のことです。へブル語で「ハパックス」と言います。これが「欲望する」という意味の「アーバー」に由来していることから、これは食欲とか、性欲のことを意味していると考えられています。また、「開く」という語ですが、へブル語で「ターフェール」という語です。これは「しぼむ」を意味する「パラル」という語に由来していることから「開く」ではなく「しぼむ」ではないかと考えられているのです。ですから風鳥木は花を開くとは、食欲や性欲が減退することを意味しているのではないかと考えられます。口語訳ではそのように訳しています。口語訳では、「その欲望は衰え」となっています。また、創造主訳聖書でも「性欲もなくなり」と訳しています。さらに、英語の訳はすべてそのように訳しています。

「And desire no longer is stirred.」(NIV)

「And desire fails.」(NKJV)

「and all desire will be gone.」(TEV)

これが、ここで言わんとしていることでしょう。人は老年になると、食欲も性欲も減退し、何の楽しみも見出せなくなります。

そして、「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」これは、死を迎えるということです。「泣く者たちが通りを歩き回る」とは、葬儀に参列した人たちが死を悼み悲しみ、葬送の列に加わっている様子を語っています。

6節をご覧ください。「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」(6)こうして、ついには死がやって来るということです。歳月が経つと人の肉体は老い、衰え、ついには死に至ります。この地上で、死を免れることができる人はひとりもいません。死はすべての人に平等に訪れるのです。

では、人は死んだらどうなるのでしょうか。7節には、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。人は死んだら、肉体は土から造られたので土に帰りますが、霊はこれを与えてくださった神のもとに帰ります。もちろん、神が提供された救いを信じた人とそうでない人とでは行き先が異なります。信じた人は神がおられる天国へ、それを拒否した人は神がいない所、ハデスに行くことになります。

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。「わざわいの日が来ないうちに」。わざわいの日が来ないうちに、神に会う備えをしなければなりません。人は死んだらどうなるのでしょうか。へブル9章27節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。人は死んだら神の前に立つようになります。神の御前に立って人生の精算する時がやって来るのです。死んでもまた救われるチャンスがあるというのは間違っています。わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚え、あなたの救い主を信じなければなりません。その日に備えて生きることこそ真に知恵のある生き方なのです。そのような人は、この世の富や栄誉に執着することをしません。そして、自分にいのちを与えてくださったいのちの源であられる神を認め、神を恐れて生きるのです。

あなたはどうですか。神ではないほかのものに全精力を注いではいないでしょうか。もうそうであるなら、あなたの人生においてどんな調整が必要でしょうか。やがて老年期を迎え、肉体は衰えて行きます。ついには銀のひもが切れ、金の器は打ち砕かれることになります。しかし、いつまでも変わらないものがあります。それはあなたを創り、あなたにいのちを与えてくださった創造主なる神です。これこそ、私たちが真に追い求めていくべきものなのです。ですからあなたは、あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えなければなりません。

Ⅱ.真理のことば(9-12)

次に9節から12節までをご覧ください。9節と10節をお読みします。「伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。」

伝道者は知恵ある者でした。そのうえ、その知恵を民に教えました。彼は思索し、探求して、多くの箴言をまとめました。箴言とは人生論のことです。また、真の祝福と喜びを与え、人生を有意義にするための真理のことばです。それは、箴言としてまとめられた聖書のことばのことです。それは神から出たものであり、伝道者の書もまた聖霊によって記された神のことばです。

11節と12節です。「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。」(11-12)

ここには「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」とあります。「突き棒」とは士師記3章31節には「牛を追う棒」とありますが、牛が後ろに下がると当たって痛くなるように付けてある棒のことです。それで土を耕すようにするわけです。そのように、鈍い者を教え、正しい道に導くという意味です。「よく打ち付けられた釘のよう」とは、よく打ち付けられた釘はしっかりしていることから、信頼に値するという意味です。これらは一人の牧者によって与えられました。この牧者とは誰でしょうか。ここでは伝道者ソロモンのことですが、ソロモンを通して語られた神の知恵、イエス・キリストのことです。私たちにはこのような真理のみことばが与えられているのです。ですから、私たちはこの真理のことばに耳を傾け、従わなければなりません。

伝道者は、さらにもう一つのことを注意しています。それは、彼は多くの書物を書くこともできましたが、どんなに多くの本を書いてもきりがないということです。むしろ、そうしたものに没頭すると、かえって疲れ果ててしまうことになります。学びにはきりがありません。あれもこれも学ぼうとするあまり、大切なものを見失ってしまうことになります。本当に大切なのは神によって与えられた聖書です。聖書以外のものをいくら学んでも、結局のところ疲れ果ててしまうことになります。これで十分なのです。

箴言30章5節には、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」とあります。神のことばには力があります。私たちは日々様々なプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになることがありますが、そうしたプレッシャーに押しつぶされることなく、耐える力を与えてくれるのは、これが神によって与えられた神のことばだからです。この神のことばが私たちを生かすのです。

以前、ある教会の礼拝で説教をした時、礼拝後に一人の女性が私の所に来て「昨日、聖書を買いました。表紙の裏に私に相応しいことばを何か書いてください」と言いました。その人は教会に初めていらしたという方だったので、どんなことばがいいかなぁと考えながらその方のお顔を見ていると、ある一つのみことばが思い浮かびました。それは、イザヤ書43章4節のみことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」それで、そのみことばを書いて渡すと、その方はしばらくそれをじっと眺めていましたが、それを胸に抱くようにして帰って行かれました。それから数カ月後に、その方からメールが来ました。

「実はあの日、私は先生が書いてくださったことばがどんなことばであろうと神様からのことばとして受け取る覚悟でした。実は私はあの時、売春の仕事をしていました。こんな汚れた自分にふさわしいことばとは、どんなことばだろうと思って待っていました。すると先生は驚くべきことばを書いて下さいました。こんな私が「高価で尊い」なんて信じられませんでした。「神に愛されている」なんてとても思えませんでした。しかしあのことばで私の心は救われました。最近、私はイエス・キリストを信じました。仕事も会社の事務をしています。あの聖書のことばが私の人生を変えてくれました。」

聖書のことばは、私たちに生きる力を与えてくれます。私たちは、この神のことばに生きるものでありたいと思います。私たちの周りにはたくさんの書物がありますが、でも、学びに没頭すると、からだは疲れます。しかし、神のことばは私たちを生かしてくれます。私たちが信頼するのは、一人の牧者、神の子イエス・キリストによってもたらされた神のことばなのです。

Ⅲ.神を恐れ、神の命令を守れ(13-14)

最後に、13節と14節を読んで終わりたいと思います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

結局のところ、私たちの人生にとって最も重要なことは何なのでしょうか。それは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということです。なぜなら、神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからです。最終的なさばき主である神を恐れ、神の命令を守ることこそ、すべての人にとって知恵ある人生であると言えるのです。

ルカの福音書12章16~21節に、イエス様が話された愚かな金持ちのたとえ話があります。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちはどういう点で愚かだったのでしょうか。それは「ピント外れの価値観」を持っていた点です。彼は大豊作の作物を、新しい倉を建ててその中に十分に蓄えました。そして自分のたましいにこう言いました。

「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

これは単なる独り言や心の中のつぶやきではありません。これは彼の人生観そのものでした。物がたくさん貯まったことで、たましいの安全までも保障されたと思ったのです。彼は「物でたましいの安全を買うことはできない」という大原則を忘れていました。ですから神から「愚か者」と叱責されたのです。「愚か者」とは「感覚を失った者」という意味です。彼は人生における正しい感覚を失ってしまっていたのです。

そんな彼に神は言われました。「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と。その「今夜」とは、まさに宴会の真最中のことです。「もう大丈夫、安心だ、楽しもう」と言っていたその時です。「今夜」つまり、人生の終わりは誰にでもやって来ます。しかし、それがいつ来るかは誰にも分かりません。

しかし、神の前に富む者は、この人生の終わりにしっかりと備えています。「肉体の死」ということに出会っても、失わないものをちゃんと持っているのです。それはまことのいのち、永遠のいのちです。死ぬ時に手放さなければならないものをいくらっていても、それは本当の豊かさではありません。死を越えてもなおその手に残るもの、それは永遠の神との関係です。イエス・キリストを救い主として信じる者に与えられる永遠のいのちです。

同じルカの福音書16章19~31節には、「金持ちとラザロ」の話が出て来ますが、「ラザロ」はその永遠のいのちを得た人です。金持ちは毎日贅沢に暮らし、神様を求めようともせず、自分中心の生活をしていました。一方ラザロは惨めな生活で、神様の助けなしには生きられない存在でした。それは「ラザロ」という名前からもわかります。「ラザロ」という名前は「神は助け」という意味があります。彼は神の助けなしには生きていけないと告白していたのです。彼らの死後、金持ちはハデスに、ラザロはアブラハムの懐、つまりパラダイスにいました。私たちの人生は、死んで終わりではありません。生きている間の行いに応じて、神様の裁きがあり、天国と地獄に振り分けられるのです。人は、誰でも心に罪を持っています。神様

信じない自己中心的な人生を送った人は天国には行けません。しかし、イエス様は今から2000年前に十字架にかかられ、私たちを罪の束縛から解放して下さいました。罪を悔い改め、十字架の贖いと復活を信じるなら、その罪は赦され、罪のない者として永遠のいのちを受けることができます。たとえ死んでも天国に行くことが出来るのです。


 このような人こそ、神を恐れ、神の命令に歩む人です。創造者である神を信じ、神と共に歩む時、私たちの霊は満たされます。もはや、むなしい生き方ではなく、天に希望を置き、意味のある生き方が始まるのです。重要なのはスピードよりも方向です。どの方向に向かって生きているのかということです。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいが来ないうちに。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

あなたはどうですか。あなたの人生が後悔や嘆きではなく感謝と賛美に満たされたものとなるように、ここで伝道者ソロモンが見いだした知恵を心に刻んでいただきたいと思います。すべてを支配しておられる神を認め、神を恐れ、この神とともに意味のある人生を送らせていただこうではありませんか。