民数記4章

民数記4章

 

 きょうは民数記4章から学びます。

 

 Ⅰ.ケハテ族の奉仕(1-20)

 

 まず1節から20節までをご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセとアロンに告げられた。「レビ人のうち、ケハテ族の頭数を、その氏族ごと、一族ごとに調べよ。それは会見の天幕で任務に当たり、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」

 

ここには、レビ族たちの奉仕について書かれてあります。まずケハテ族です。レビ族の先祖はレビですが、レビ族には三つの種族がおりました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。彼らは祭司の家系をサポートする聖職者たちでした。そのレビ人のうち、最初がケハテ族です。まず3節には、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までのすべての者とあります。イエス様も幼い頃から主に仕えておられましたが、メシヤとして公の生涯に入られたのはおおよそ30歳でした。またⅡサムエル記5章4節を見ると、ダビデがイスラエルの王になったのも30歳の時でした。それが神によって定められた時だったのです。そして引退の年は50歳でした。50歳と聞いて、「若いなあ、まだまだできるのに」と思われる方も少なくないのではないでしょうか。なぜ50歳なのかはわかりません。おそろく、聖なる神が臨在される幕屋の奉仕のためには体力、気力、経験が必要だったからでしょう。

 

このケハテ族に与えられた奉仕はどんなことだったでしょうか。4節から16節までをご覧ください。「ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものに関わることで、次のとおりである。宿営が出発するときは、アロンとその子らが入って行って、仕切りの垂れ幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、その上にじゅごんの皮の覆いを掛け、またその上に真っ青の布を広げ、担ぎ棒を通す。また、臨在の机の上に青色の布を広げ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のための瓶を載せ、またその上に常供のパンを置く。これらのものの上に緋色の撚り糸の布を広げ、じゅごんの皮の覆いでこれをおおい、担ぎ棒を通す。青色の布を取って、燭台とともしび皿、芯切りばさみ、芯取り皿、また、燭台のために用いる、油のためのすべての器具をおおい、この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮の覆いの中に入れ、これを担ぎ台に載せる。また金の祭壇の上に青色の布を広げ、それをじゅごんの皮の覆いでおおい、担ぎ棒を通す。聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮の覆いでそれをおおい、これを担ぎ台に載せ、祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に広げる。その上に、祭壇で用いるすべての用具、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮の覆いをその上に広げ、担ぎ棒を通す。宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼    

彼らの奉仕は、最も聖なるものに関わることでした。まず宿営が進んで行く時に、モーセとその子らが幕屋に入って行き、仕切りの幕を降ろし、それであかしの箱を覆いました。この垂れ幕にはケルビムが織り込まれていましたが、それは青、紫、白、緋色の糸で織られていました。この四つの色の糸こそキリストご自身を表していたものです。キリストの神としての栄光の輝きです。その上にじゅごんの皮の覆いをかけました。これもキリストを表していました。これは人として来られたキリストの姿です。じゅごんの皮はどす黒い色をしていて見た目にはあまりきれいではありませんが、人としてのキリストの姿もそうでした。見た目ではあまりきれいではありませんでした。しかし、その中身は神の栄光に満ちていました。そして、その上に真っ青の布を広げ、担ぎ棒を通しました。これは天の象徴です。神の国はみずぼらしく外側からは魅力を感じないようなものかもしれませんが、中身すばらしいのです。中に入ると天国を味わうことができます。神を賛美し、祈り、神のことばに触れるとき、さながら天国のすばらしさを味わうことができるのです。それが神の国です。そのように聖所の器具はじゅごんの皮と真っ青の布で覆われました。

 

しかし、祭壇の器具だけは別の色の布が用いられました。13節を見ると、祭壇は青色の布ではなく紫色の布を使いました。なぜでしょうか。それは十字架を表していたからです。紫色と聞けば、私たちはすぐにピンときすね。それはイエス様が着せられた紫色の着物です。ヨハネ19章2節には、十字架につけられる時、紫色の着物を着せられたとあります。イエス様は私たちの罪のための供え物となって十字架で死んでくださいました。そして、三日目によみがられました。イエスこそ死からよみがえられたまことの主、まことの王であられます。紫色の布はそれを表していたのです。

 

15節を見てください。「宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死ぬことのないようにするためである。これらは、会見の天幕でケハテ族が運ぶ物である。」

レビ人が奉仕できた年齢が30歳から50歳までであったもう一つの理由がここにあります。それは、集中力が必要であったからということです。彼らの奉仕は特に注意を要するものでした。なぜなら、聖所の用具に関することだったからです。なぜこれが注意を要したのかというと、扱い方を間違えると命の危険があったからです。彼らがそれに触れて死ぬことがないようにする必要がありました。

 

Ⅰ歴代誌13章9~10節には、ウザが神の箱に触れて死んだことが書かれてあります。ダビデが神の箱をキルヤテ・エアリムから自分の町に運ぼうとしていたとき、牛がそれをひっくりかえそうとしたので、ウザが手を伸ばして箱を押さえました。すると神が怒り発せられ、ウザはその場で死んでしまいました。それほど神は聖なる方であり、私たちが勝手にふれることなどできない方なのです。ですから、この奉仕に当たる時には特に注意し、決して自分の思いつきで行ってはならなかったのです。

 

このことから教えられることは、神の奉仕は決して自分の考えや自分の思いで行ってはならないということです。それは神の方法で行われなければなりません。キリストを中心に行なわなければならないのです。自分でよかれと思ってすることが、死を招いてしまうこともあります。神の召しもないのに、あたかも召されたかのようにふるまうと大変なことになってしまいます。神の奉仕は、みことばに従ってキリスト中心に行われなければなりません。

 

さらに主はモーセにこう告げられました。17~20節です。「【主】はモーセとアロンにこう告げられた。「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである。」

 

主はモーセとアロンに、「ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない」と言われました。それは、彼らが最も聖なるものに近づいて、あるいは一目でも聖なるものを見て死なないためです。

神は聖なる方であって、だれも見ることも、近づくこともできない方です。近づこうものなら、たちまち滅ぼされてしまいます。しかし、神はご自身の方から近づいてくださいました。神は御子イエスをこの世に送り、イエスの血によって大胆に神に近づくことができるようにしてくださいました。それが十字架の御業です。イエスが十字架でその御業を完成したとき、神殿の幕が真っ二つに裂けたのはそのことを示しています。ですから、私たちは今、このイエスの血によって大胆に神に近づくことができ、神を「アバ父」(お父さん)と呼ぶことができるのです。何という恵みでしょうか。それは本当に幸いなことです。しかし、神が聖なる方であることに変わりはありません。この聖なる方を自分の思い通りに動かそうとするなら、そこには主の御怒りが下ることを覚えておかなければなりません。

 

私たち人間がこの聖なる神に仕えることは不可能なことです。しかし、神はあわれみのうちに私たちを救ってくださり、ご自身の民とし、必要な知恵と力、そして助けを与えてくださいます。私たちはこの聖なる神の前にへりくだり、恐れと感謝と信仰をもって御前に進み出て、心からの奉仕をささげたいと思います。

 

Ⅱ.ゲルション族の奉仕(21-28)

 

次にゲルション族の奉仕について見ていきましょう。21節から28節までをご覧ください。「【主】はモーセにこう告げられた。「あなたはまた、ゲルション族の頭数を、その一族ごと、氏族ごとに調べ、三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で任務に当たり、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕と運ぶ物は次のとおりである。幕屋の幕、会見の天幕とその覆い、その上に掛けるじゅごんの皮の覆い、会見の天幕の入り口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入り口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。ゲルション族のすべての奉仕、すなわち、彼らが運ぶすべての物と彼らのすべての仕事は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは彼らに、任務として、彼らが運ぶ物をすべて割り当てなければならない。以上がゲルション人諸氏族の会見の天幕における奉仕で、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの指揮下にある。」

 

ケハテ族同様、ゲルション族も会見の天幕で奉仕をできる者は、30歳以上50歳までの年齢制限がつけられています。その奉仕は、幕屋の幕に関する奉仕でした(25-26)。すなわち、幕屋の幕と会見の天幕とその覆い、その上に掛けるじゅごんの皮の覆い、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運ぶことと、これらに関係するすべての奉仕です。これをアロンの子イタマルが監督しました。

 

ここでのポイントは、まずアロンとその子らによって聖所の器具が覆われ、次にケハテ族によって運ばれ、そしてその後で彼らが幕を取り降ろしたということです。ここには一つの順序、一つの流れがあります。また、この奉仕のために監督者が立てられました。アロンの子イタマルです。彼らは勝手に奉仕したのではなくアロンとその子らの命令により、イタマルという監督の指導のもとに行われたのです。

 

Ⅲ.メラリ族の奉仕(29-33)

 

次にメラリ族の奉仕についてみていきましょう。29節から33節までをご覧ください。「メラリ族について、あなたはその氏族ごと、一族ごとに、彼らを登録しなければならない。三十歳以上五十歳までの者で、務めに就き、会見の天幕の奉仕をすることができる者たちをすべて、登録しなければならない。会見の天幕での彼らのすべての奉仕の中で、彼らが任務として運ぶ物は次のとおりである。幕屋の板、その横木、その柱とその台座、庭の周りの柱と、その台座、杭、ひも、これらの備品と、その奉仕に使うすべての物である。あなたがたは、彼らが任務として運ぶ備品を、名を挙げて割り当てなければならない。これが会見の天幕でのすべての仕事に関するメラリ人諸氏族の奉仕で、これは祭司アロンの子イタマルの指揮下にある。」」

 

メラリ族もイタマルの監督の下で奉仕します。奉仕ができたのは30歳以上50歳までの者です。彼らの奉仕は、幕屋の板、横木、台座、釘などです。これはかなりの重労働でした。ですから44節を見るとわかりますが、彼らの人数が最も多かったのです。3,200人です。それだけ手がかかったということです。釘1本、ひも1本の細かい作業も求められました。

 

このようにして神の幕屋の奉仕が行われました。まずアロンとその子らがもっとも重要な仕切りの幕をとりおろし、それで神の箱をおおい、また他の聖なる用具にもおおいをかけ、それをケハテ族に託します。そして次にゲルション族が幕を取り外します。そして、幕が取り外されたところで、最後にメラリ族が板、横木、釘、などを取り外したのです。これらはすべて主の命令によって行われました。だれかが勝手に行えば、全体の作業に支障をきたしました。そこには互いのコンビネーションが求められます。

 

大田原教会の隣にコンビニがありますが、数年前に店舗の拡張工事が行われました。9月下旬に古い建物が取り壊されると、2か月足らずで新しい建物が完成しました。それをずっと見ていて感じたことは、全体が機能的に動いていたことでした。全体を統括している人がいて、その命令に従って各部門が迅速に動いていました。もしその命令に従わなかったら完成にはもっと時間がかかったでしょう。あるいは、作業がバラバラになっていたかもしれません。これだけ早く新装オープンすることができたのは、統括の下に全体がその命令に従って動いたからです。

 

これが神の奉仕です。この4章の至るところに「主の命により」とあるのに気づかれた方もおられるかと思いますが(37,41,45,49節)、モーセを通して示された主の命令によって、それぞれの監督者たちが立てられ、その監督者たちの割り当てにしたがって、それぞれが奉仕してこそ神の家が建て上げられていったのです。教会も同じです。教会の奉仕においても、このコンビネーションが求められます。神はおのおのに御霊の賜物を与えてくださいました。それは互いがいたわり合い、補い合い、助け合い、支え合って、キリストのからだを建て上げるためです。そこには分裂がなく、互いにいたわりあうように、一つ一つの奉仕が割り当てられているのです。その調和が保たれる時、キリストのからだは力強く建て上げられていきます。そうでないと、分裂してしまうことになってしまいます。エペソ4章1節から16節までのところには、このことについて言われています。

 

ですから、私たちはいつもこのことに敏感になり、自分に与えられている賜物が用いられ、その賜物がしっかりと組み合わされ、結び合わされることを求めていかなければなりません。その時キリストのからだである教会は成長して、愛のうちに建て上げられるのです。自分だけはという考えは許されません。

 

34~49節には、これらの主の命令に従い、ケハテ族、ゲルション族、メラリ族の幕屋で奉仕する者たちが調べられ、登録されたことが記されてあります。「そこでモーセとアロンと会衆の上に立つ族長たちは、ケハテ族をその氏族ごと、一族ごとに、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めに就くことのできる者を、すべて登録した。その氏族ごとに登録された者は、二千七百五十人であった。これはケハテ人諸氏族で登録された者であって、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、モーセを通して示された【主】の命によって、モーセとアロンが登録した者たちである。ゲルション族で、その氏族ごと、一族ごとに登録され、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めに就くことのできる者の全員、その氏族ごと、一族ごとに登録された者は、二千六百三十人であった。これはゲルション人諸氏族で登録された者たちで、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、【主】の命により、モーセとアロンが登録した者たちである。メラリ人諸氏族で、その氏族ごと、一族ごとに登録され、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めに就くことのできる者の全員、その氏族ごとに登録された者は、三千二百人であった。これはメラリ人諸氏族で登録された者であり、モーセを通して示された【主】の命により、モーセとアロンが登録した者たちである。モーセとアロンとイスラエルの族長たちが、レビ人を、その氏族ごと、一族ごとに登録した登録者の全員、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕で労働の奉仕と運搬の奉仕をする者の全員、その登録された者は、八千五百八十人であった。彼らは【主】の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。【主】がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」

 

その合計は8,580人でした。その人数は一見多いようにも見えますが、しかし、移動のたびに幕屋を整える奉仕は激務であったことと思います。だからこそ、これらの奉仕が主からのものであることを確信されるために、主によって登録される必要があったのです。この数は日本で主に仕えている牧師の数とほぼ同数です。牧師によって主に仕える期間に違いはありますが、それがどれだけであったとしても、主に召され、主に仕えることができることを感謝し、与えられた奉仕を全うさせていただきたいと願わされます。

 

最後に49節を読んで終わります。ここには、「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」イスラエルの民は主の命により、モーセを通して命じられたとおりにこれを行いました。

 

イスラエルの民が約束の地に向かって進んでいくために、神はイスラエルにこのような登録と割り当てを行いました。それは彼らが力強く前進していくためです。それは私たちも同じです。私たちもキリストの旗印を高く上げ、この世の旅路において敵に勝利するために、十字架のキリストを見上げなければなりません。そして、神によって神のために召された者として、神の命に従って、神に仕えなければなりません。私たちは主によって前進し、主の命によって動く群れなのです。それは自分から出たものではありません。キリストのからだである教会の一員として登録され、互いに励まし合い、助け合い、結び合って、主に仕えル群れです。私たちはそのために数えられているのです。私たちが自分に与えられている務めを全うすることで群れ全体が生かされ、強められ、共に約束の地に向かって前進していくことができるのです。