民数記12章
きょうは民数記12章から学びたいと思います。
Ⅰ.モーセに対する非難(1-3)
まず1節から3節までをご覧ください。「そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」主はこれを聞かれた。モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。」
「そのとき」とは、11章にある出来事があったときのことです。イスラエルの民は神の山シナイ山から旅立ちバランの荒野にとどまりましたが、そこで民はひどく不平を鳴らしました。そこで主は彼らに対して怒りを燃やされたので、宿営をなめ尽くされました。その場所の名は「タブエラ」でしたね(11:3)。モーセはひどく困り果てたので主に祈ると、主は二つの解決を示されました。一つは、モーセのそばに70人の長老を置いてくださるということです。彼らがモーセとともに民の重荷を負うので、モーセの重荷は軽くなれます。そしてもう一つのことは、彼らが肉を食べられるようらにするということでした。男だけで60万人もいるのにどうやってそんなことができるのでしょうか。主はモーセにこう言われました。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」(23)そして、そのことば通りに、主は彼らに肉を与えました。どうやって?主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来てくださったのです。それを宿営の近くに落とされたので、民はそれを集めて食べました。しかし、彼らはまだ肉を噛み終わらないうちに、主の怒りが彼らに降ったので、多くの民が激しい疫病ら打たれて死にました。その場所の名は「キブロテ・ハ・タアワ」ですイスラエルはそこからハツェロテに進み、そこにとどまりました。「そのとき」です。モーセの姉ミリアムがアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難したのです。
このクシュ人の女が誰のことを指しているのかはっきりわかりません。モーセにはチッポラという妻がいました。彼女はミデアン人イテロの娘です。「クシュ人」とは、エチオピア人のことなので、ミデアン人であるチッポラのことではないように思えますが、もしかするとチッポラが死んだ後の二番目の妻のことなのかもしれません。いずれにせよ、イスラエル人ではない異邦人の女を妻としていたのです。そのモーセの妻のことでミリアムとアロンがモーセを非難しました。なぜでしょうか。妬みがあったからです。自分はモーセの姉なのにモーセばかり用いられて自分が全く認められていないことに不満があったのです。モーセが異邦人の女を妻としていたことで、それを利用してモーセを非難したのです。しかし、その根底にあったものはモーセに対する妬みでした。、このような妬みは地に属するものであり、肉に属し、悪霊に属するものです。ヤコブ3章14-15節には、「 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。私たちの中にもすぐにこうした妬みが入り込んできます。他の人が祝福されるのを見たり聞いたりすると、落ち込んでしまうのもその一つです。私たちは、自分の中にこうした妬みがないかどうかを点検しなければなりません。確かにモーセにも欠陥がありました。しかし、モーセは神によって立てられた神のしもべです。主が彼をお立てになったのです。そのモーセを非難して彼の評判を傷つけるということは、神ご自身を傷つけることと同じです。ミリアムはそのことを理解していませんでした。
ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。」とあります。私たちは平気で上に立てられた権威を非難したり、悪口を言ったりすることがありますが、それは神ご自身を非難することになるのです。なぜなら、上に立つ権威は、すべて神によって立てられたものだからです。勿論、私たちはキリストにあって一つであり、そこにはだれが偉いかといった上下関係はありません。みな平等です。けれども秩序があります。神によって立てられた権威を非難することは神の秩序を乱すことであり、神のみこころではないのです。むしろ上に建てられた権威を理解し、祈り、支えていくことが求められているのです。
ところで、モーセはミリアムとアロンから非難されても、怒ったり、反発したりしませんでした。なぜでしょうか。もしかしたら、確かに自分は足りない人間だと思ったのかもしれません。それでも彼は神によって立てられたリーダーです。「だったら自分でやってみたらいい。できないから」と言ってもおかしくなかったのに、何も言いませんでした。ここには、「モーセは、地上のだれにもまさって非常に柔和であった」とあります。第三版では「謙遜であった」となっています。彼は、地上のすべてにまさって謙遜だったのです。謙遜であるとはこういうことですね。悪口や非難されてもすぐに腹を立てたりしません。それをすべて神にゆだねるのです。モーセはそういう人でした。
Ⅱ.神のしもべモーセ(4-8)
次に4節から8節までをご覧ください。「主は突然、モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出て行った。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出て行くと、主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」」
すると主は突然、モーセとアロンとミリアムの三人に、天幕の所に出るようにと言われました。モーセも傷ついていましたが、それ以上に傷つかれたのは主ご自身でした。ですから、主は黙っておられなかったのです。彼らが出て行くと、主は雲の柱の中にあって降りて来られ、このように仰せになられました。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」
どういうことでしょうか。「幻の中で知らせる」とか「夢の中で語る」というのは、誰かの解き証しが必要であるようなあやふやな語り方で語るということです。しかし、モーセに対してはそうではありません。モーセに対しては口と口で語り、明らかに語ります。謎で話すようなことはしません。なぜなら、彼は全家を通して忠実な者だからです。どういう意味でしょうか。神の家全体のために忠実であるということです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言し不思議を行なっているのを見て「なんてすばらしいんだろう」と興奮し、自分もそのような奉仕に携わりたいと思ったかもしれませんが、モーセはそういうつもりで奉仕していたのではなく、ただ神に忠実であることに徹していただけでした。神から与えられた使命を全うするために与えられていた賜物を用いて仕えていたのです。彼は自分の分をよくわきまえて、与えられた奉仕に集中していたのです。
時に私たちも、そうした目ざましいわざや興奮するような事に携わりたいと思う傾向がありますが、そうではなく、自分に与えられた使命を認識し、そのために与えられた賜物を用いて、忠実に与えられた役割を果たすことが求められます。そのことが、ローマ12章3節で教えてられています。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」
思うべき限度を超えて思い上がってはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。他の人を見て羨み自分もそれを持ちたいなあと思うことがあっても、主が一人一人に分け与えてくださった信仰の量りがあります。その量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。
パウロはこの御霊の賜物について、Ⅰコリント12章でこのように述べています。少し長いですが、読みたいと思います。
「12:1さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。
12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。
12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。
12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。
12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
12:28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。
12:29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。
12:30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。}
ここでパウロは、皆が使徒ではなく、皆が預言者ではない。皆が教師ではなく、すべてが力あるわざではない。」と言っています。皆違います。しかし、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部゛んを備えてくださいました。そして、ここで注目したいことは、22節のことばです。それは、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない部分であるということです。それは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄え欲するものでおおうことで、見苦しいと思う部分がもっと恰好の良いものとなるためです。そのようにして、からだの中に分裂がなく、各部分が互いに配慮し合うためです。この奥義は偉大ですね。この世の中では弱い部分を排除しようとしますが、神の国においてはかえって無くてはならないものとして尊ばれるのです。そのようにして、調和が保たれているのです。
あなたにはどのような賜物が与えられているでしょう。それは地味で、きらびやかしたものではないかもしれませんが、それがどのようなものであれ、主のしもべに求められていることは忠実であることなのです。
Ⅲ.主の懲らしめ(9-16)
最後に、ミリアムの高慢に対する主のさばきを見て終わりたいと思います。9節から16節までをご覧ください。「主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」モーセは主に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください。」しかし主はモーセに言われた。「もし彼女の父が彼女の顔に唾したら、彼女は七日間、恥をかかされることにならないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリアムが戻るまで旅立たなかった。それから民はハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営した。」
主の怒りがミリアムとアロンに向かって燃え上がると、主は天幕の上から離れ去って行きました。すると、ミリアムはツァラートに冒されたようになり、雪のように白くなりました。ツァラ―トとは重い皮膚病のことです。すると、アロンがモーセに「わが主よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」と言いましたが、主は彼女を七日間宿営の外に締め出さなければならないと言われたので、そのようにしました。
モーセは、自分を非難したミリアムのために祈りました。彼には赦す心があったのです。愛は寛容であり、愛は親切です。自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人がした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてをしのびます。まさにモーセは愛の人でした。愛をもって行動したのです。しかし、主は彼女を七日間、宿営外の外に締め出しておかなければならないと言われました。どういうことでしょうか。
「彼女の顔に唾をする」とは、彼女を辱めるということです。死刑ではないけれども、このように唾をかけられて、辱めを受けるという刑が律法にありました。それと同じように、ミリアムは神の懲らしめを受け、自分の罪を悲しみ、もう二度と同じことをしないという悔い改める期間が求められたのです。それが七日間、宿営の外に締め出されるということです。
それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出されましたが、民はミリアムが連れ戻されるまで、そこにとどまり、旅立ちませんでした。それはミリアムだけでなくイスラエル全体がこのことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するためではなく、愛をもっておられるからです。へブル12章5~13節に次のようにあるとおりです。「そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。」
こうしてモーセたちは、ハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営しました。イスラエルの民は、約束の地に向かう荒野の道中ですぐにつぶやき、激しい欲望にかられてその多くの民が滅びました。また、モーセの姉ミリアムは、主のしもべモーセを非難して主の懲らしめを受けました。これらのことはみな何に起因していたのでしょうか。それは、主のあわれみと真実から離れてしまったことです。主は私たちに良くしてくださいます。一見、いつもと同じことの繰り返しのように感じるかもしれません。物足りないと感じるかもしれませんが、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てくるのです。そして非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序を乱すことや平和を壊すことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むことが、天に向かって進む私たちのこの荒野での歩みにおいて求められていることなのです。