民数記14章

民数記14章

 

 きょうは民数記14章から学びます。

 

Ⅰ.信仰と不信仰の狭間で(1-12)

 

まず1節から12節までをお読みします。「すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を?奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」モーセは主に言った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。」

 

イスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。なぜでしょうか。10人の偵察隊の報告を聞いたからです。彼らはカナンの地を偵察し、そこに大きく強い敵がいることを知り自分たちは上っていくことはできないと言ったのです。彼らは、彼らとともにおられる主の約束を信じることができませんでした。そこで絶望していたのです。そして不平を言いました。こんなことならエジプトを出てくるんじゃなかった。このまま進んで行っても結局殺されてしまうことになる。妻子たちもさらわれてしまだろう。だったらエジプトに帰った方がいい。しかし、彼らがエジプトにいたとき、どんな状態だったでしょうか。彼らは過酷な奴隷生活を強いられていました。主はその中から彼らを救い出してくださったのに、再びそのエジプトの地に戻ろうというのです。

 

これが神を忘れ、自分で何とかしようともがく人間の姿です。私たちが信仰を持って歩んで行こうとすれば、そこには必ず問題が起こります。自分の前に大きな岩が横たわり行く道が遮られたかのようになったり、自分を食い尽くす敵に遭遇することがあるのです。その度にその問題を見ていたら、このイスラエルの民のように嘆いてしまうことになります。引き下がれば初めに出てきたときよりも悲惨になるのです。中にはクリスチャンになってからの方が苦しくなったという人がいます。それは、ある面で事実です。なぜなら、それまでは自分の思いのままに生きていたのに、クリスチャンになると神のみこころに従って生きようとするので、そこに戦いが生じるからです。クリスチャンになったのにまだ自我に生きようとすれば、その自我との戦いで苦しく感じるのです。そういう人はいつも「この世」というエジプトに戻りたがるので、問題が起こるたびに、このように泣き叫ぶことになるのです。それを乗り越えて真の自由を体験できるようになると違います。本当に主のみこころに生きることのすばらしさを実感することができます。

 

こうしたイスラエルのつぶやきに対して、モーセはどのように対処したでしょうか。5節をご覧ください。「モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。」(5)どういうことでしょうか。イスラエル人をエジプトから連れ出したことを民に謝っているのでしょうか。そうではありません。モーセとアロンはただ主にひれ伏し、主が御業を行ってくださるようにと祈っているのです。なかなかできることではありません。イスラエル人のモーセに対するリーダーシップを完全に無視したような発言にも、モーセとアロンは怒らず、ただ地にひれ伏しました。主の御前にひれ伏したのです。これが主に仕える姿です。

 

そのとき、その地を探って来た者たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって言いました。「イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」」(7-9)

  彼らはどこまでも信仰に立っていました。たとえイスラエルのすべてが右の方に流されて行っても、自分たちは主のみこころに従うという覚悟、信仰があったのです。ここで彼らは、あの強い民のことを、自分たちの餌食になる、と言っています。いったいなぜこのように言うことができたのでしょうか。それは、彼らが信仰に立っていたからです。彼らは自分たちには全能の主がともにおられるということ、そして、その主が約束の地を与えてくださるという信仰がありました。だからこのように確信を持って言うことができたのです。このように見ると、信仰に立ったときに見えてくる世界と、そして不信仰になったときに見えなくなる世界があることがわかります。

 

そのとき、イスラエルの全会衆が、彼らを石で打ち殺そうと言い出しました。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われて、こう仰せになられました。11節、12節です。「主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を?奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」」

 

いつまでも主に従おうとしないイスラエルに対して、主は疫病で彼らを打って滅ぼしてしまうと言われたのです。そして、モーセを彼らよりも大いなる国民にすると言われました。どういうことでしょうか。主はやり直しのご計画として、モーセ個人からご自分の民を創り出そうと提案されたのです。アブラハムに約束された「大いなる国民」のご計画を、今度はモーセを通して生まれる新しい民を通して実現されると言われたのです。

 

Ⅱ.モーセのとりなし(13-25)

 

しかし、モーセはこの提案を拒みました。13節から19節までをご覧ください。「モーセは主に言

った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。 もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

 

モーセは、イスラエルの咎を赦してくださいと懇願しました。なぜでしょうか。その一つの理由は、主ご自身の栄誉のためです。もし主がご自身の導かれた民を滅ぼすようなことがあったとしたら、異邦の民は、「主はこの民を彼らが誓った地に導き入れることができなかったので、途中で彼らを荒野で殺した」というようになるでしょう。そんなことになれば、主の御名が汚されることになります。もう一つの理由は、「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」ということです。これは、主の約束のことばです。モーセはその主の約束のゆえに、そのことばを引用して祈っているのです。主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」だから、どうかその大いなる恵みによって赦してくださいと祈ったのです。

 

Ⅰヨハネ5章14節に、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。主のみこころとは、主のみことばにあります。そのみことばの約束を握りしめて祈ることが重要です。主は弟子たちに主の祈りを教えてくださいましたが、その中でこのように祈るようにと言われました。

『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』を私はしめて祈ることの大切さを教えられます。(マタイ:9-13)

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。これが私たちの祈りです。現実はそうでないかもしれませんが、主はご自身のみこころに従って働いておられます。だれがこのみこころに逆らうことができるでしょうか。まことに人とは何者なのでしょうか。どんなにその知恵を結集したところで、主の足元にも及びません。むしろ、その結果は悲惨さを生み出すばかりです。地球温暖化によって山火事や洪水は深刻な問題となっています。これらの問題は人間が自分さえよければいいと、目先の快楽を求めた代償によるものです。しかし、神はすべてを支配しておられます。私たちの理解をはるかに超えて、すべてを支配しておられるのです。私たちに必要なのはこの方を認め、この方の御前にひれ伏すことです。そして、主よ、あなたのみこころがなりれますようにと祈ることなのです。

 

Ⅲ.神の答え(20-25)

 

 それに対して主は、どのように答えられたでしょうか。20節から25節までをご覧ください。「主は言われた。「あなたのことばどおりに、わたしは赦す。しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。平地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け。」」

 

モーセの祈りを聞かれた主は、イスラエルを赦すと言われました。しかし、主の栄光と主が行ったしるしを見ながら十度も主を試みて、主の声に聴き従わなかったので、主が先祖たちに誓った地を見ることはないと言われました。これでは赦していないということではありません。主は彼らの罪を赦されるのですが、彼らは自分たちが蒔いたものを刈り取らなければならないということです。多くのクリスチャンは、罪が赦されるということはその結果を何も負わないことであるかのように考えていますが、そうではありません。罪が赦されるということは罪に対する咎めをまったく受けない、ということです。罪は赦され、きよめられ、忘れ去られ、遠くに追いやられ、海の深みに投げ込まれます。ですから、もはや罪の責めを負わなくてもよいのです。けれども、その罪の刈り取りはしなければならないのです。

 

たとえば、ダビデはバテシェバとの姦淫によって夫のウリヤを殺してしまいましたが、それを主に悔い改めとき主はその罪を赦してくださいました。けれども、その罪の結果は刈り取らなければなりませんでした。初めに生まれる子どもは死に、自分の息子たちの間には悲劇が重なりました。また、息子アブシャロムによってエルサレムから追われることになります。ダビデはそれを主によるものと認めましたが、決して自分がさばかれていると思いませんでした。むしろ、これらの出来事を通して、罪のおぞましさとその刈り取りの現実を学んだのです。それによって彼の主に対する信仰と愛はますます精錬されていきました。それは主がダビデのことを「わたしの愛する者」と呼ばれたことからもわかります。同じように、この時のイスラエルも主に対する不信仰の罪は赦されましたが、その罪に対する報いは受けなければならなかったのです。

  しかしカレブは違います。彼は他の者と違った心を持っていて主に従い通したので、主は彼を約束の地に導き入れ、彼の子孫はその地を所有するようになる、と約束されました。これが信仰による報いです。信じる者はたとえ神の裁きがあろうとも滅びることなく、命を持つことができます。裁きから免れる道とは、神とキリストを信じることなのです。

 

ところで、ここでおもしろいと思うことは、主はカレブが「他の者と違った心」を持っていると言われたことです。主がカレブを喜こばれたのは、彼の行ないよりも、その心でした。なぜなら、その心が行動になって表われてくるからです。一時的に主に従っているかのような信仰ではなく、ずっと従い通す信仰、それは、そうした心から生まれてくるものなのです。主は私たちの一つ一つの行動よりも、主に対してどのような心をもっているかを問うておられるのです。そして、次のように言われました。「平地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け。」
  「葦の海」とは紅海のことです。それは彼らがいるカデシュ・バルネアからかなり後方にあります。しかし、ここでは葦の海まで行くようにと言っているのではなく、葦の海の道を通りとあるので、実際に葦の海まで後退したのではなく、その道まで後退したということです。なぜなら、低地にはアマレク人とカナン人が住んでいたからです。だから、カデシュ・バルネアから迂回させて、紅海の北端にあるところを通らせ、死海の東側、今のヨルダン川のほうから回って北上するようにさせたのです。

 

 Ⅳ.荒野での死(26-45)

 

最後に26節から終わりまでを見て終わりたいと思います。まず26節から38節までをお読みします。「主はモーセとアロンに告げられた。「いつまで、この悪い会衆は、わたしに不平を言い続けるのか。わたしは、イスラエルの子らがわたしにつぶやく不平を聞いた。彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえたちの子どもについては、わたしは彼らを導き入れる。彼らはおまえたちが拒んだ地を知るようになる。しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。主であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。また、モーセがあの地の偵察のために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆にモーセに対する不平を言わせた者たちもだ。」こうして、その地を悪く言いふらした者たちは、主の前に疫病で死んだ。しかし、あの地を偵察しに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブは生き残った。」

 

 イスラエル人は、会見の天幕における主の栄光を見ても、ずっとつぶやいていたようです。そこで主は次のように言われました。「彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。」(28)

 イスラエル人は、「この荒野で死んだほうがましだ」と言いました。また、「妻子がさらわれてしまう」とも言いました。だから、彼らが言ったとおりのことをしよう、と言うのです。ここには、「わたしは生きている」とあります。主は生きておられます。ですから、主をないがしろにしてはいけません。主はご自身の前で発したことばは、必ずそのとおりにするのです。たとえそれが自分の不満から生じたことであっても、主の前で発したことばであれば、主は聞いておられるのでそのとおりになさるのです。注意しなければなりません。主は生きておられるのです。彼らは、この荒野で死体となって倒れ、主につぶやいた者で、二十歳以上の者たちはみな倒れて死ぬ、と仰せになられました。それ以下の子供たちが新しい世代として約束の地に入ることになります。けれども、信じ続けたヨシュアとカレブだけはそのまま約束の地に入ることができます。

 

Ⅰコリント2章14節から3章3節までには、人間には三つの種類の人がいることを教えています。一つは、「生まれながらの人間」(2:14)です。この種類の人たちは御霊による新生を体験していません。それは、エジプト(この世に属している)にいる人だと言い換えることができます。そしてもう一つは「御霊の人」(2:15)です。御霊に導かれて生きている人です。これらの人たちは御霊によってすべてのことをわきまえます。それは、神の約束の地に入った人たちと言うこともできるでしょう。それは、戦いがなくなる、ということではありません。約束の地に入っても敵との戦いがあります。けれども、主が戦ってくださることを知っているので、いつも主により頼んで、主によって勝利することができます。

 そして、もう一つの種類は、「肉に属する人」(3:1)です。「キリストにある幼子」と呼ばれています。この人たちは御霊によって新しく生まれましたが、御霊によって生きることを知らない人たちのことです。肉によって生きています。肉の欲求が自分の行動に先行してしまうのです。ですから、罪に敗北してしまうのです。平和よりも争いを好みます。ねたみによって人を裁きます。この時のイスラエルのようにこの世という荒野で少しでも嫌なことや苦しいことがあるとすぐに泣き叫び、神のみこころを痛めるだけでなく、そうでない人たちをも不信仰へといざなうのです。

 

しかし、こうした荒野での試みは私たちの肉が削がれ、御霊の人へと変えられていくための訓練の時でもあるのです。私たちは御霊によって神の約束と祝福を得ることができますが、そのためには荒野の道を通らなければなりません。なぜなら、荒野の旅は、その約束に至るために肉の部分が削がれて、信仰によって生きていくことを学ぶことができるからです。私たちは、御霊に導かれることを知るために、しばしの間、肉の中でもがく時を神は許されるのです。自分自身で罪の問題を解決しようとしますができないために敗北を味わいますが、その間に、「自分」というものに死なければいけないことに気がつきます。自分には何も良いものがなく、かえってキリストの愛に満たされて、自分ではなくキリストが自分を通して働いてくださるようにと願うようになるのです。信仰によって神の約束をそのまま信じ従うことによって、主に働いていただく御霊の領域に入ることができるのです。

 

31節からのところをご覧ください。イスラエルが不信仰になったそのつけは、荒野でさまよい続け、最後は死に絶えるというものでした。そして、これが私たちクリスチャンの霊的現実でもあります。つまり、私たちがいつまでも自分にたより信仰によって生きなければ、自分の肉が死ぬまで、いつまでも同じところを巡回するような生き方をしなければいけなくなるのです。

 神は私たちにキリストのいのちを与えられました。私たちは罪を赦されただけではなく、罪に対して死に、キリストに対して生きている者とされました。このいのちに生きるために必要なのは信仰です。たとえ自分の問題がアナク人のように巨大に見えてもそれをキリストにあって死んだものだとみなし、信仰によって前に踏み出ることが必要なのです。しかし、肉が優先すると霊の荒野をさまようことになってしまいます。前進もできず、後戻りもできないです。しかし、私たちのこの世における歩みは自分の肉の領域、神にゆだねていない領域を聖霊によって示され、それを死んだものとみなし、御霊によって進むことです。カデシュ・バルネアまで来たら、前に進むしかなかのです。

 「モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。 あの悪く言いふらした10人のイスラエル人は、40年を待たずしてすぐに死にました。

 

39節から終わりまでをご覧ください。「モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエルの子らに告げると、民は嘆き悲しんだ。翌朝早く、彼らは山地の峰の方に上って行こうとして言った。「われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。」モーセは言った。「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」しかし、彼らはかまわずに山地の峰の方に上って行った。主の契約の箱とモーセは、宿営の中から動かなかった。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て彼らを討ち、ホルマまで彼らを追い散らした。」

 

どういうことでしょうか。彼らは「それじゃ、山に上ればいいのか」と、今度は山に登って行こうとしました。何ともあまのじゃくです。上って行けと言われると嫌だと言い、じゃ行かなくていい、滅びるだけだと言うと、上って行くというのですから。しかし、問題は、山に登って行くかどうかということではありません。主に聞き従うかどうかです。たとえ山に登ったとしてもそれが主の命令によるものでなければまったく意味がありません。大切なのは、主は何と言っておられるのかであり、それを聞き、それに従うことなのです。

 

ヘブル人への手紙には、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。(へブル3:15)」とあります。信仰とは、御声に聞き従うことです。御声を聞くそのときでなければ、私たちは後で従おうとしても力が出てきません。なぜなら、それは信仰によるものではないからです。信仰とは、神の御声を従順で素直な心で聞くことに他なりません。そのときに、自分ではなく神の力が自分のうちに働き、それで神のみわざが自分のうちに成されるのです。イエスさまによっていやされた人たちが、どのようにいやされたかを思い出してください。イエスさまが「起き上がりなさい。」と言われたそのときに起き上がりました。「右手を伸ばしなさい。」といわれたそのときに、伸ばしました。みな、信仰をもって聞いたからです。

 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」

信仰のないところには、主がともにおられないので成功しないのです。敵に打ち負かされることになります。それでも、彼らはなりふり構わず山地の峰のほうに登って行きました。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動きませんでした。契約の箱は、主の臨在です。動かなかったということは、主がともに出て行かれなかったということです。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らしました。

  こうして私たちは生き残ったカレブとヨシュアの信仰と、荒野で死に絶えたイスラエル人の不信仰を見てきました。両者の違いは何だったのでしょうか。それは、信仰によって見ていたかどうかということです。主にあって見ていたか、それとも自分の視点で見ていたかの違いでした。自分から出発して、「自分はこれだけのことができる。これだけのことができない。」と計算して、行動することは、人間の世界では通用しますが、信仰の世界では通用しません。ですから、主のみこころは何か、何が良いことで、完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ、ただ神が仰せになられたことを信仰によって受け止め、前進していく者となりましょう。