エレミヤの苦悩 エレミヤ書4章19~31節

聖書箇所:エレミヤ書4章19~31節(エレミヤ書講解説教11回目)

タイトル:「エレミヤの苦悩」

 

きょうは、エレミヤ4章19節から31節までの箇所から、「エレミヤの苦悩」というタイトルでお話します。エレミヤは、前回のところでユダの民に、「悪から心を洗いきよめよ」と勧めました。彼らの生き方と彼らの行いが、彼らの身に滅びを招いたからです。その滅びから救われるためには、悪から心を洗いきよめなければなりません。ユダの民に神のさばきを伝えなければならなかったエレミヤの心境は、いかばかりであったかと思います。

 

きょうの箇所には、その預言者エレミヤの苦悩が描かれています。きょうはエレミヤの苦悩について三つのことをお話します。第一に、エレミヤの苦悩は、はらわたが引き裂かれるような激しいものでした。第二に、この神のさばきの結果です。そこには何もなく、あったのはただの絶望だけでした。第三のことは、だから神に立ち返れ、ということです。この神のさばきから救うことができるのは、イエス・キリストだけです。

 

Ⅰ.私のはらわた、私のはらわたよ(19-22)

 

まず、19節から22節までをご覧ください。「19 私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。20 破滅に次ぐ破滅が知らされる。まことに、地のすべてが荒らされる。突然、私の天幕が、一瞬のうちに私の幕屋が荒らされる。21 いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。22 「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」」

ユダの不従順に対する神のさばきは、バビロンを用いて彼らをさばくというものでした。それを示されたエレミヤは、こう叫びました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」

ドキッとしますね。「私のはらわた、私のはらわたよ」と叫ぶのですから。「はらわた」とは、人間の感情の中心があるところという意味です。日本語にも「はらわたが煮えくり返る」という表現がありますね。言いようがないほど激しく腹を立てることです。それほど悶えたということです。なぜエレミヤはそれほど悶えたのでしょうか?ユダに対する角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからです。それはバビロンによってエルサレムに破滅がもたらされるということです。エレミヤはそれを聞いたとき、はらわたが引き裂かれるような思いになったのです。

 

エレミヤの愛国心、そして祖国の滅亡を告げられた悲しみは、いかばかりだったかと思います。ロシアがウクライナに軍事侵攻しましたが、ウクライナの人たちはどれほどの痛みと悲しみはいかばかりかと思います。彼らが何か悪いことをしたから侵攻されたわけではありません。一方的なロシアの策略によって侵略されているのです。しかも、もしNATOやアメリカが軍事参入すれば第三次世界大戦に発展しかねないということで、ウクライナ軍が自国防衛のためにも戦っているのです。かわいそうです。でもこれは今回のロシアのウクライナ侵攻だけのことではありません。いつ、いかなる時にこのような事が起こるかわからないのです。それはある日突如として襲ってきます。もしあなたが、2011年3月11日に東日本大震災が発生するということがわかっていたら、あるいは2001年9月11日に同時多発テロが起こることを事前に知っていたら、必死になって同胞たちに警告を発したのではないでしょうか。でも、だれひとり耳を傾けてくれないのです。それがこの時エレミヤが体験した苦悩でした。彼は、民がこの後もずっと悔い改めなければユダの国は滅びると聞いたとき、はらわたが悶え、「黙っていられない」と叫んだのです。

 

使徒パウロも同じでした。彼は、同胞のユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないのを見て、こう言いました。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:2-3)

ユダヤ人は神に選ばれた民なのに、神の救いであるイエス・キリストを受け入れようとしませんでした。それどころか、信じているユダヤ人を迫害したのです。パウロもかつてはそうでした。まさか十字架につけられたイエスがメシヤであるはずがないと思っていました。しかし彼はダマスコに向かう途中で復活の主と出会って変えられました。「サウロ。サウロ。どうして私を迫害するのか。とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ・・・。」そのとき、彼の目からうろこが落ちました。彼は、このイエスこそキリスト、救い主であるということがはっきりわかったのです。そして彼の名は「サウロ」から「パウロ」へと変えられました。意味は「小さい者」です。イスラエルの最初の王であった「サウロ」という名前から、だれよりも小さな者、罪深い者という意味の「パウロ」になったのです。そして、それまではクリスチャンを迫害していましたが、今度はキリストを伝える者になりました。

彼はどこへ行っても、「イエスこそキリスト、救い主。この方を信じる人はだれでも救われる」と語りました。けれども、同胞のユダヤ人たちは信じようとしませんでした。それどころか、パウロを憎み、激しく迫害したのです。同胞のユダヤ人が信じようとしないのを見たパウロは、大きな悲しみがあり、絶えず痛みがありました。いや、「自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよい」とさえ思ったほどです。

この時のエレミヤと同じです。それは、一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っていたからです。

 

あなたはどうでしょうか。羊飼いのいない羊のように弱り果てている隣人を見て、どのような思いをいだいているでしょうか。エレミヤは、「私のはらわた、私のはらわたよ。私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と叫びました。イエス様も、そのような群衆を見て、羊飼いのいない羊のような彼らを、深くあわれまれました。私たちも同じです。神様を信じないで自分勝手に生きている人を、聖書では罪人と言っていますが、そうした人たちには永遠の滅びがあることを知ったなら、黙ってなどいられないはずです。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と、嘆かずにはいられないはずなのです。

 

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」の最後のシーンで、シンドラーが自分の指輪などの貴重品を見ながらこう叫びます。「ああ、これでもう一人の命を救うことができたのに・・・。」シンドラーは自分の身分を利用してナチスから多くのユダヤ人を救ったにもかかわらず、さらに多くの人を救えなかったことを後悔して涙を流したのです。

 

エレミヤも、ユダが神に背き続けた結果彼らにもたらされる神のさばき、具体的にはバビロンに滅ぼされるということですが、その宣告を示された時、もう黙ってなどいられませんでした。彼のはらわたは激しく引き裂かれました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、嘆いたのです。これこそ、神のさばきの宣告を示された者の自然な応答ではないでしょうか。

 

なぜイエス様は死んだラザロの墓の前で泣かれたのでしょうか。ラザロが生き返ることを知っておられたのに・・。それは、ラザロが死んだことを悲しんだ人々の涙をご覧になられたからです。それは罪によってもたらされたものです。「罪の報酬は死です。」(ローマ6:23)とある通り、それは永遠の死に至ります。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

イエス様が永遠のいのちを与えてくださいました。それなのに、罪の中にとどまり、このいのちを失うことがあるとしたらどんなに悲しいことでしょうか。イエス様が群衆を見て、羊飼いのいない羊のようであるのを見て悲しまれたように、罪によって滅んでいくたましいを見て、このエレミヤのように「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、悲しむのではないでしょうか。最近、自分以外の人たちのために痛み、苦しんだことがあるでしょうか。罪によって滅んでいくたましいのために痛み、悲しみ、一人も滅びることがないように、涙をもって祈る者でありたいと思います。

 

Ⅱ.私が見ると(23-28)

 

次に、23節から28節までをご覧ください。「23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。24 私が山々を見ると、見よ、それは揺れ動き、すべての丘は震えていた。25 私が見ると、見よ、人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていた。26 私が見ると、見よ、豊かな地は荒野となり、町々は主の前で、その燃える怒りによって打ち壊されていた。27 まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。28 このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。」」

 

バビロンの侵略によってユダに下る惨状が語られます。ここには、「私が見ると」ということばが何回も繰り返されています。23節には「私が地を見ると」とあります。また「天を見ると」とあります。24節にも「私が山々を見ると」、25節にも「私が見ると」、26節にもあります。「私が見ると」。何回も「見ると」ということばが繰り返されてあるのです。なぜ何回も繰り返しているのでしょうか?これを語っているのはエレミヤです。エレミヤはバビロンの侵略によってユダがどうなったのかを見て、それを具体的に伝えようとしたのです。エレミヤが見たのは、まず地と天でした。彼が地を見ると、そこは茫漠として何もなく、天を見ると、そこに光はありませんでした。山々を見ると、それは揺れ動き、すべての丘が震えていました。つまり、神のさばきが下った時の状態が、天地が創造される以前の混沌とした状態にたとえられているのです。

 

創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇が大水の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。これと同じです。茫漠としていました。「茫漠」とは、混沌としている状態のことを言います。新改訳聖書第2版では「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、実際には何もなかったのではなく「混沌としていた」ので、新改訳聖書第3版からは「茫漠」と訳すようにしました。2017版でもそうです。茫漠として何もない状態になるのです。

 

次にエレミヤは、カメラがズームインしたかのように、ひとりの人間もいなくなり、空の鳥も飛び去った状態を描いています。25節です。さらにエレミヤは、あの乳と蜜が流れる豊かな地は荒野となり、町々は、打ち壊されているのを見ました。つまり、そこに見たのは絶望であったということです。悔い改めない者にもたらされる結末は、恐れと絶望なのです。それは主の燃える怒りによってもたらされたものです。28節には「わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない」とあります。この「語り」、「企て」、「悔いず」、「やめることはしない」という四つの動詞は、それが確実に起こる事を示しています。

 

しかし、このところをよく見ると、そのようなさばきの中に、救いの希望が語られていることがわかります。27節をご覧ください。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」どういうことでしょうか?これは、全地は荒れ果てるが、滅ぼし尽くすことはしないということです。つまり、ユダの民がすべて滅ぼし尽くされるわけではないということです。残された者がいるのです。主は、アブラハムと交わした約束のゆえに、ご自身の民を完全に滅ぼすことはなさらないのです。ユダの民がバビロンに捕囚の民として連れて行かれても、少数の残りの者たちを残し、約束の地に帰らせてくださり、そこで国を再建できるようになさるのです。すごいですね。ここに希望があります。エレミヤはユダの荒廃と破滅のみを見ていましたが、その中に希望も含まれていたのです。それが滅ぼし尽くしはしない、ということだったのです。

 

この預言のとおり、イスラエルはB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれますが、主は彼らを滅ぼし尽くすことはなさらないで、70年後に彼らをイスラエルに帰還させてくださいました。残りの者を残してくださるのです。

 

つまり、神がイスラエルをさばかれるのは、彼らをさばくためではなく、彼らを救うためなのです。時として、神様は私たちに鞭を与えることがあります。神の鞭は非常に痛いものです。適当に打つのではなく、強い力で振り下ろします。それは、私たちをさばいて死に至らしめるためではなく、私たちへの深い愛のためなのです。このようにして神は、ご自身の救いのご計画を成し遂げてくださるのです。ですから私たちは、難しい状況ではなく神ご自身を見つめるとき、神が鞭を与えられる究極的な目的を知り、喜ぶことができるのです。まさに、神がバビロンを通してイスラエルをさばかれたのは、彼らを滅ぼすためではなく、救うためだったのです。

 

あなたはこの神の救いのご計画と摂理を信じていますか。さばきの中にも神のあわれみがあると受け止めましょう。その中にある神の愛と慰めのメッセージを、しっかりと受け止めたいと思います。

 

Ⅲ.神に立ち返れ(29-31)

 

ですから、第三のことは、神に立ち返れということです。29節から31節までをご覧ください。「29 騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った。すべての町が捨てられ、そこに住む人はいない。30 踏みにじられた女よ、あなたはいったい何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を塗って大きく見せたりして。美しく見せても無駄だ。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとしている。31 まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」」

 

実際に、どのように神の審判が下るのでしょうか。ここには、騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った、とあります。すべての町が捨てられ、そこに住む人は一人もいなくなります。「踏みにじられた女」とはユダのことです。その時彼らは何をしていましたか。彼らは緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を大きく見せたりして、美しく見せようとしていました。どうしてこんなことをしていたのでしょうか。「緋の衣」とは、高級ブランド品のドレスのことです。「目を塗って大きく見せる」とは、化粧をして美しく見せようとすることです。つまり、ここではユダの姿を、緋の衣や化粧で自分を飾り立てる遊女にたとえているのです。この遊女はかつての恋人たち、つまりバビロンに媚(こ)びを売って助かろうとしますが、そんなことをしても無駄です。その滅びから免れることはできません。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとするからです。

 

結局のところ、彼らはバビロンの攻撃によって、悲惨な状況に陥ることになります。それが、31節にあることです。「まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」

ここでは、ユダの最後が二つのたとえで表現されています。一つは初子を産む女のようなうめきで、もう一つは、敵の手によって殺される者の姿です。「殺す者たち」とは、バビロン軍のことです。その攻撃によって気力さえも失ってしまうほどの、何もかも空しくなってしまうような状態になるということです。まさに廃人のようになるのです。

 

これが罪のもたらす結果です。ですから、いつまでも罪の中にとどまっていてはいけない。神の忍耐を軽んじて、神に背き、自分が好むように、自分の好き勝手に生きるというのでだめなのです。もしそういうことがあるとしたら、このイスラエルやユダのように、神のさばきを受けてしまうことになってしまいます。そして、そのような状態から自力で救済しようとしてもできません。だから、神に立ち返らなければならないのです。もっと具体的に言うならば、神の救いを受け入れなければなりません。それは、私たちの救い主イエス・キリストです。私たちを罪から解放できるのは、イエス・キリストだけです。ローマ5章9節にこうあります。「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によっての怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ですから、あなたがキリストを通して神に立ち返るなら、あなたは義と認められ、この神の怒りから救われることができるのです。キリストを通して、神に立ち返りましょう。そして、神の怒りから救われたことを感謝しようではありませんか。

 

私は小さい頃から口笛が下手で、あまりうまく吹くことができませんが、無意識に口笛を吹いたり、口ずさむときがあります。最もよく口ずさむ賛美は、新聖歌268番です。

  • 悲しみ尽きざる 憂き世にありても 日々主と歩めば 御国のここちす

ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

  • かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の 中にも建てらる

ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

  • 山にも谷にも 小屋にも宮にも 日々主と住まえば 御国のここちす

    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

 

この世を歩んでいると、誰でもさまざまな苦しみを味わいます。しかし、人間のまことの苦しみと不幸は、外の環境によって生まれるものではありません。それは私たちの中に神がおられないために生まれるのです。

悲しみの多いこの世では、高い山、荒野、粗末な家などが、私たちにとって不幸と苦しみになることがあります。しかし、この聖歌の歌詞のように罪の荷を降ろし、主とともに歩むなら、それはどこにあっても御国となるのです。

この世の多くの苦しみと悩みが私たちを不幸にするのではありません。私たちの心にイエス・キリストがおられないために、不幸になるのです。

しかし、イエス・キリストの血によって義と認められるなら、どんなに不幸のように見えても、さながら天国のようになります。聖霊によって、神の愛があなたの心に注がれるからです。このキリストを通して神に立ち返りましょう。これが、私たちが神の怒りから救われる唯一の道です。このキリストによって、私たちは高らかに神を賛美し、神に感謝をささげましょう。