聖書箇所:エレミヤ書5章1~19節(エレミヤ書講解説教12回目)
タイトル:「義人はいない、一人もいない」
エレミヤ書5章に入ります。きょうは、エレミヤ5章1~17節から「義人はいない、一人もいない」というタイトルでお話します。これは有名な聖書のみことばの一つです。この世には何十億という人がいますが、神の目にかなう正しい人は一人もいません。それゆえ、私たちは自分もまたその罪人の一人であることを自覚して、イエス様によって与えられる神の義をまとい、イエス様の御声に聞き従う者でありたいと思います。
きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、義人はいない、一人もいないということです。第二のことは、神を求めない者に対する神の訴えです。第三に、そのような者に対する神のさばきの実行です。
Ⅰ.義人はいない、一人もいない(1-5)
まず、1~5節までをご覧ください。「1 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。2 彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」3 「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」4 私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」
きょうのところでエレミヤは、エルサレムの町を行き巡るようにと命じられています。何のためでしょうか?そこに公正を行う、真実を求める人がいるかどうかを見つけるためです。「公正を行う、真実を求める人」とはどういう人でしょうか。それは、神の目にかなった人のことです。単にいい人であるとか、優しい人であるというのではなく、聖書の基準に従って生きている人、神の目にかなった正しい人のことです。
彼らは、口先では「主は生きておられる」と言っていました。これは4章2節にも出てきましたが、中身が伴っていませんでした。ただ口先だけの、偽りの誓いにすぎなかったのです。「偽り」ということばは、「真実」の反対語で、「空っぽ」という意味です。つまり、彼らの誓いは空っぽでした。信じてはいるがその通りには生きていませんでした。主が求めておられたのは、そのような空っぽの信仰ではなく中身が伴った真実の信仰です。そのような人が1人でもいれば、主はその人のゆえに、エルサレムのすべての人を赦そうと言われたのです
この話で思い出すのは、創世記18章で、神がアブラハムに語られたことばです。ソドムとゴモラの罪は非常に大きいので、それを見た主は彼らを滅ぼし尽くそうとされましたが、その時アブラハムは、必死にとりなします。そこに甥のロトが住んでいたからです。それでアブラハムはこう言います。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい人が50人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお許しにならないのですか。」(創世記18:23-24)と。
すると主は、「もしソドムで、わたしが正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」(18:26)と言われました。
じゃ45人だったらどうですか、30人だったら、20人だったら、10人だったら・・・と、その人数を少なくしていきます。値切るように神様と交渉するわけです。おそらく、ロトの家族だけでも10人くらいはいたので、10人くらいにすれば大丈夫だろうと思ったのでしょう。すると主は言われました。もし10人でも、そこに正しい者がいけば、滅ぼさない、と。
しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされました。10人もいなかったのです。でもきょうのところには10人どころじゃありません。1人です。もしも、そこに公正と真実を求める正しい人が1人でもいたら、その人のゆえにエルサレムを赦そうと言われたのです。つまり、神様はどこまでも愛の神様であるということです。たった1人でも正しい人がいれば赦してくださる。そしてその1人を最後まであきらめずに捜してくださるのです。本当に小さな可能性まで捜そうとされるわけです。
そうしてエレミヤは町に行きました。その結果どうだったでしょうか?3節をご覧ください。「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」
そこでエレミヤが見たのは、コチコチになった民の姿でした。神様から悔い改めるようにと懲らしめを受けても、悔い改めようとしませんでした。堅い甲羅をまとったアルマジロのように、顔を硬くして、立ち返ることを拒んだのです。人が深刻な病気をして、命からがら助かった人が、その病気の前と後で生活が変ったという人は、だいたい10人に1人くらいしかいないそうです。ここでも、イスラエルは神様から深刻なさばきを受けても全然変わらず、はねつけてしまうだけでした。神様のさばきが悔い改めの機会とならなかったのです。
ところでここには、「顔を岩よりも硬くして」とありますが、顔は私たちの意志とか思いが表れる場所でもあります。つまり彼らは心が表れる顔を、岩のように堅くしたのです。別のことばで言うと、信仰が顔に出ていたということです。神様との関係が顔に出ていたのです。頑なな顔ですね。カチカチで、堅い顔になっていました。皆さんの顔はどうでしょうか。カチカチになっていませんか。
いったいどうしてか。エレミヤは考えます。そして彼は思いました。4~5節をご覧ください。「4私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」
エレミヤは思いました。公正と真実を求める正しい人を見つけることができなかったのは、卑しい者たちの中から探していたからだ。もっと身分の高い人たちのところへ行って探せば、きっと見つかるはずだと。なぜなら、彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているはずだからです。この「主の道」とか「神のさばき」とはいうのは類似語で、神のことばのことを意味しています。貧しい者たちは、仕事とか食べることで忙しくて、聖書を学んでいる暇がないのだから、主の道を知らないのも無理もないでしょう。でも身分の高い人たちは、お金に余裕があるのでそんなに働かなくてもいいし、その分聖書を学ぶことができるので、神様のことを、神様の道を知っているに違いない。そういう人たちのところに行って探せば、きっと見つかるに違いない。そう思ったのです。実際、エルサレムには神のことばを学ぶ学校があったそうです。そういうところで祭司とか、預言者とか、レビ人たちは学んでいました。そういう人たちならきっと知っているに違いないと考えたのです。
この「身分の高い者」という言葉ですが、原文には定冠詞が付いています。英語の「The」ですね。「その人」とか「あの人」です。英語のKing James Versionでは、「The great man」と訳しています。「あの身分の高い人」です。きっとエレミヤの心の中には、だれだかわかりませんが、思い浮かぶ人がいたのかもしれません。あの人のところに行けば、きっとわかっているに違いない。
結果はどうでしたか?5節をご覧ください。5節の後半には、「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」とあります。「くびき」とか「かせ」というのは、神の教え、律法、聖のことです。それは、神の民が成長していくうえで欠かすことができないものでした。イエス様も「わたしのくびを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と言われました。しかしユダの民はこのくびきを砕き、かせを断ち切っていました。ないがしろにしたのです。
このようにユダの民は、神の民であるにもかかわらず、意識的に、また無意識的に神の教えを無視し、神に逆らっていました。そこには公正と真実を求める人が一人もいなかったのです。それはユダの民、イスラエルだけのことではありません。私たちも同じです。公正と真実を求める人は一人もいません。神の目にかなう正しい人はだれもいないのです。このことを使徒パウロは聖書を引用してこう言いました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)
ノーマン・ビンセント・ピール牧師が書いた「聞かれない祈り」という本の中で、こんな逸話が紹介されています。
ピール牧師がまだ少年だったころ、彼は1本の大きくて真黒なシガレットを拾いました。彼は、面白半分に、路地裏に隠れてそのシガレットに火をつけました。味は悪かったのですが、なんとなく大人になったような気がしました。
ところが、近づいてくる父親の姿が目に入りました。彼は急いでシガレットをうしろに隠し、平静を装いました。
父親の感心を他のことに向けるために、彼はサーカスの宣伝が載った大きな広告板を指さしました。
「行っていい?お父さん。この町にサーカスが来たら、行こうよ。」
父親の答えは、ピール少年にとって、一生忘れられない教訓となりました。
父親は静かな声で、しかし、威厳を込めてこう言いました。
「息子よ。不従順の煙がくすぶっている間は、決して願い事をしてはいけないよ。」
皆さん、おわかりでしょうか。私たちは、この少年のように不従順の煙がくすぶらせているのに、「主は生きておられる」と平気で誓うのです。しかし、そのような偽りの誓いのゆえに、神のさばきを受けることになります。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはでき」(ローマ3:23)とあるように、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのです。それはあなたも例外ではありません。義人はいない。一人もいないのです。
Ⅱ.神の告訴状(6-13)
それゆえ、ユダに神のさばきが下ります。6~13節をご覧ください。6節には「そのため、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。豹が彼らの町々をうかがい、町から出る者をみなかみ裂く。彼らは背くことが多く、その背信がすさまじいからだ。」とあります。
「森の獅子」とか「地の狼」、「荒れ地の豹」とは、バビロン軍のことを指しています。意識的であろうが、無意識的であろうが、神に背いたイスラエルの民に対して、神はバビロン軍を送り、侵略させるというのです。
このような神のさばきに対して、中には、「えっ、神様はそんなに厳しい方なんですか」「神は愛です、と聖書で言っているのに、それは嘘なんですか」と言う方がおられるかもしれません。しかし、そうじゃないんです。神様は赦したいのです。しかし、ユダがそれを拒んでいるのです。それが7~13節で語られていることです。いわばこれは神様の告訴状ということができると思います。
「7 「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた。8 彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。9 これらについて、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。10 ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない。そのつるを除け。それらは主のものではないからだ。11 実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──主のことば──12 彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。13 預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」」
「これでは」というのは、神が警告を与えたのに、それでもかたくなって拒み、なおも罪を犯し続けるのでは、ということです。甚だしいにも程があると。これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。できません。これは、裏を返せば赦したいということです。神様は彼らを赦したいのです。助けたいのです。でも彼らの側でそれを受け入れないのです。むしろ、悪に悪を重ねるようなことをしました。
7節から、その悪が具体的に挙げられています。まず、彼らは神を捨て、神でないものによって誓っていました。これは偶像礼拝のことです。このようにまず、神を礼拝するということが破壊されていたわけです。
それでも神は、なおも驚くべき恵みをもって彼らを満ち足らせると、今度は姦淫を犯し、遊女の家で身体を傷つけました。これは文字通り姦淫を犯したということと、霊的に姦淫したということの両方を含んでいます。というのは、こうした霊的姦淫、偶像礼拝には、肉体的姦淫が伴っていたからです。
さらに8節には「肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。」とあります。「いななく」とは、馬が声高く鳴くことです。それは発情した状態を指しています。理性を失って、完全に情欲、欲望に支配された状態のことです。もうどうにもとならない、です。十戒の最後、第十戒は、「あなたの隣人の家を欲してはならない。」(出エジプト20:17)ですが、これは第十戒の違反です。むさぼりの罪です。欲望ですね。このように、神様との垂直の関係が壊されると、人同士の横の倫理関係が成り立たなくなります。
ですから、9節で主は「これらについて、わたしは罰しないだろうか」と言われるわけです。この9節の最後のところに、「このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」とありますが、この「国」と訳された語は、「異邦人の国」を指すことばです。神の民が神にとって、もう異邦人のようになってしまっているわけです。このような民を、どうして赦すことができるだろうか。どうして罰しないでおられるだろうか。復讐しないでおられるだろうか。それはできない、というのです。どこまでもかたくなになって神に背き、罪を犯し続けるなら、神様は罰せずにはおられないのです。罰したくなくても、罰するしかないわけです。それは神様からしたら不本意なことです。なぜなら、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。Ⅰテモテ2章4節にこうあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」でも、神の慈愛を無視し、悔い改めずに罪を犯し続けるなら、罰せずにはおられないのです。
続く10節にはぶどう畑が出てきますが、この「ぶどう畑」とは、イスラエルのことを指しています。このぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせと言われるのは神様ご自身です。神様はぶどう畑であるイスラエルの石垣に上り、それをつぶすようにと、バビロンに命じているのです。
その理由が11節にあります。イスラエルの家とユダの家はが、ことごとく主を裏切ったからです。イスラエルの家とは北イスラエル王国のこと、ユダの家とは、南ユダ王国のことです。北王国イスラエルは既に滅ぼされていました。B.C.722年に、アッシリヤによって滅ぼされました。そして、それが今南ユダ王国にも語られているのです。この後B.C586年に、彼らもバビロンに滅ぼされてしまうことになります。それは彼らがことごとく神様を裏切ったからです。神様は真剣に彼らに向き合おうとしておられたのに、神の民の方は、自分たちのしていることを深刻に受け止めていませんでした。
それは12節を見るとわかります。彼らは主を否定してこう言いました。「主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない。」
どういうことでしょうか。どんなに主が警告を与えても、それをまともに受けませんでした。わざわいが来る、さばきがあると言われても、そんなことは起こらないと、悠々自適に生きていたわけです。やりたい放題、好き勝手に生きていたのです。
そればかりではありません。13節には「預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。「風になり」とは実体がないということです。預言者たちの存在はあってないようなもの、風のようなものだと揶揄しているのです。
この12節と13節のことばは、エレミヤが預言者として何回も聞かされて来た、自分が体験してきたことばだったのでしょう。彼が預言者として神様のことばを伝えても、民の方は「なに、預言者か、あいつらは風みたいなもんだ」と馬鹿にしていたのです。それはこのエレミヤが預言のことばを語った時代、それはヨシヤ王の時代ですが、政治的には強大なアッシリヤ帝国がちょっと力が弱まって、政治的な空白ができた時代でした。そのためユダは比較的に平穏だったのです。だからエレミヤのことばを民は真剣に受け止めなかったのです。風のように流していたわけです。しかし、神様は侮られるような方ではありません。神のことばが無に帰することはないのです。神のことばは必ず成し遂げられます。必ず、実現するのです。
アメリカの有名なリバイバリストであったD・L・ムーディーは、イエス様を信じて生まれ変わり、最初のうちは喜びに満たされていました。ところがいくらもたたないうちに、生まれ変わった喜びはなくなり、世の楽しみを求め始めました。そこで彼は山に登って一週間の断食祈祷をして、恵みに満たされて山から下りてきました。しかし、その恵みもしばらくすると消えてしまいました。彼はひどく落胆し、「主よ、私は捨てられた者です」と嘆きました。そんなある日、聖書を読んでいると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)というみことばに目が留まりました。その瞬間、彼の心が熱くなりました。「私は聖書を読んでいなかった。だから信仰が育たず、成熟できなかったんだ。」その時から彼は聖書を一生懸命に読みました。すると、彼の生活が代わり始めました。罪と世のことが消え去り、心が聖められて聖霊に満たされていったのです。
信仰生活の基本は、神が生きておられると信じることです。そして、その神のことばに生きることなのです。神のみことばに満たされると、みことばが生きて働き、その人を変えていきます。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。そして、そのみことばに従うとき、私たちの生活が変わっていくのです。イスラエルの問題はここにありました。みことばを聞きませんでした。主のことばを否定していたのです。つまり、はみことばがなかったのです。自分の思いのままに、勝手気ままに生きていました。その結果、神のさばぎか彼らに臨んだのです。神が生きておられると信じるなら、神の御前で生きるようになり、罪を捨てる人生へと導かれていきます。そして、すべてのことにおいて神を認める信仰は、みことばを毎日黙想して従う生活に現れるのです。
Ⅲ.イスラエルを攻める遠くから来る一つの国(14-19)
しかし、主は侮られる方ではありません。「主は何もしない」と言っている間に、民は自分の頭の上に神の怒りを積み上げていました。そして、ついに神の堪忍袋の緒が切れる時がやってきます。神様がみことばで語られた通り、民に対するさばきが実行に移されます14~19節をご覧ください。まず14節には「それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「あなたがたがこのようなことを言ったので、見よ、わたしはあなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす。」とあります。
ユダの民がそのようなことを言ったので、主はエレミヤの口から出ることばを火炎放射器のように、彼らに浴びせます。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くすのです。それは神様による神の民への徹底したさばきです。具体的には外国が襲ってくるわけです。15~17節をご覧ください。「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めるために、遠くの地から一つの国を来させる。──主のことば──それは古くからある国、昔からある国、その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。その矢筒は開いた墓のよう。彼らはみな勇士たち。彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」
神様は神の民をさばくために、外国を道具として用いられわけです。「古くからある国」とか「昔からある国」とはバビロン帝国のことです。この時は新バビロニア帝国でしたが、それは昔からありました。旧バビロニア帝国です。その起源は、創世記11章のバベルの塔にまで遡ります。あの「バベル」とは「バビロン」のことです。人類はここから地の全面に散らされていきました。ですから、歴史は古いのです。ユダの民はその言語を知りません。何を話しているのか聞き取れない国、それがバビロンです。主はイスラエルを攻めるために、この外国のバビロンを用いるのです。
「その矢筒は開いた墓のよう」とは、その放つ矢によって確実に死ぬということです。つまり、バビロン軍の破壊力を表しているのです。それはスピーディーで、パワフルで、すべてを食い尽くすいなごのようです。17節には「食らい」ということばが4回も繰り返して用いられています。「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、」彼らはすべてを食らい、エルサレムを廃墟とするのです。
まさにモーセが警告した通りです。モーセは約束の地に入るイスラエルの民に、もし彼らが主の御声に聞き従わず、モーセが彼らに命じた、主のすべての命令と掟を守り行わなければ、すべてのわざわいが彼らに臨み、彼らをとらえると言いましたが(申命記28:15)、その通りになったのです。
18~19節をご覧ください。ここには、「18 しかし、その日にも──主のことば──わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない。」とあります。19『われわれの神、武捨は、何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか』と尋ねられたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、自分の地で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分の地ではない地で、他国の人に仕えるようになる。』」とあります。
19節のことばは、自業自得ということです。「主は、何の報いとして、こんなことを私たちにしたのか」それは、彼らの神、主を捨てて、異国の神々に仕えたからです。それは神様の問題ではなく、身から出た錆なのです。
18節のことばは、10節にもありましたが、滅ぼし尽くすこときしないという約束です。そのような徹底した神のさばきの中にも、神は残りの民を残してくださるという約束です。ここに希望があります。絶望的に見えますが、ここにかすかな希望が残されているのです。神は、ユダが絶滅することを赦されたのではありません。敵の攻撃に、一定の制限を設けられました。それはすでに4章27節でも語られたとおりです。そこでは「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」とありました。ここでも同じことを語っておられます。神様は、アブラハムの約束のゆえに、イスラエルをお守りになられるのです。まさに「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とある通りです。
きょうのところをまとめると、ずっと罪のリストが挙げられて、最終的に外国からバビロン軍がやって来て、その国を食い尽くすわけです。その結果、社会の崩壊に至ります。彼らの安心した暮らしが破壊され、混乱に陥ります。今の日本も同じではないでしょうか。表面的には安心を装っていても、社会は崩壊し、混乱をきたしています。いつ崩壊するかわかりません。いったい何が問題なのでしょうか。その悲惨の原因をずっと辿って行くと、公正と真実、正義と真実を求めなかったからではないかということが、きょうのところが教えていることです。公正と真実を求めなかった民の行き着く先が、彼らのおかれている社会状況の大変さ、悲惨さに至るのです。逆に言えば、公正と真実を一人一人が求めるなら、このような悲惨な結果を招くことはないと言えます。
「大草原の小さな家」というアメリカのテレビドラマがありますが、その中にこんな話がありました。舞台は19世紀のアメリカの西部の開拓された小さな田舎町です。その小さな町には、人口も少ないので、小さな教会がありましたが、日曜日は教会がありますが、ウイークデイは子どもたちの小学校になっていました。
ある日曜日の礼拝が終わって、牧師が提案するのです。私たちの教会ももうそろそろ会堂の入り口のところに鐘を付けたらどうかと。集まった教会の人たちは、その提案をそれぞれ喜んで受け入れ、みんなうれしそうにしていました。ところが、そのドラマでよく出てくる雑貨屋を営んでいる金持ちの家庭がいて、奥さんがすごく見栄っ張りなんです。「じゃ、私が全部寄付しますわ。思いっきり隣町に負けないようないい鐘を付けましょう」と言うんですね。「その代わり私が寄付をしたというプレートを下に付けてください」と言うわけです。その発言で、教会のメンバーが一気にその意見が割れてしまいました。自分はお金が無いから、寄付は受けてプレートはつけていいという人がいれば、教会にそんな寄付した人の名前を彫り込むなんていうのは滅相もないという人の意見が、喧々諤々となってしまいました。その結果礼拝出席が半分くらいになってしまいます。半分くらいいなくなってしまったのです。牧師は提案した責任を感じて辞任することが決まりました。
その話を聞いていた目立たないおじさんがいました。ジョーンズさんという人なんですが、彼は話すことができない障害を持った方でした。彼の仕事は鋳物師で、鉄とかを溶かしてやかんとか鍋とかを作る仕事でした。彼は子どもたちに人気者でした。鋳物でキリンとかウマとかを作ったりしてプレゼントをしていたからです。そこで彼は考えました。子どもを集めて、話すことができないので黒板に書いて、子供たちに指示をするんです。すると、学校が終わった子どもたちがワァーとジョーンズさんの家に集まって来て、こそこそと指示を受けたら自分たちの家に帰って、家にある鉄のものをジョーンズさんのところにこそっと持って行くのです。灯油缶とかやかんとか使われていないものを持って行くわけです。ジョーンズさんはそれを溶かして鐘にするんですね。
しばらく経って、牧師が辞任のあいさつをする時です。日曜日の朝でした。小さな町全体に鐘の音が鳴り響きました。大人はびっくりして音のする方向に馬車を走らせて行きます。教会の上に鐘が付いていて、紐を引っ張ってジョーンズさんが鐘を鳴らしていました。大人たちは何となく気付いていたんですが、自分の家から鉄の物が無くなった理由がやってわかったわけです。そして子供たちが喜ぶ姿を見て、自分たちの過ちを認めました。
私はこのドラマを見て思ったことは、それは大草原の小さな家に出てくる教会だけでなく私たちの教会も、私たちの家庭も、いや、私たちのこの社会すべてに言えることではないかということです。その原因は何か、自分は正しいと思い込んでいることです。そのことに気付かないのです。しかし義人はいない、一人もいない。神様の前に正しい人は一人もいないのです。きょうの箇所にあったように、私たちの中にはだれ一人として正しい人はいないのです。しかし、聖書が言うのは、ただ一人の正しい人がおられたということです。イエス様だけが公正と真実を求めて、ひたすらそこに生き抜いてくださいました。この方が勝ち取ってくださった正しさを、私たちは身にまとうことが許されています。会堂の入り口に高く掲げられたこのジョーンズさんの鐘が、和解の調べを告げたように、十字架につけられたイエス様から私たちは、和解のことばを聞くことができるのです。イエス様は十字架の上からこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないからです。」(ルカ23:34)
私たちは、自分でも知らないうちに、また知りながら、罪を重ねて行きます。しかしそれを全部知った上で赦してくださった方がおられます。罪で死に、罪で滅ぼし尽くしかねなかった私たちを救ってくださったイエス様、このイエス様の御声を私たちは聞き、これを信じ従っていきたいと思います。