2023年9月27日(水)バイブルカフェ
聖書箇所:ヨシュア記23章
きょうは、ヨシュア記23章から学びます。
Ⅰ.あなたがたのために戦ったのは主である(1-5)
まず1~5節をご覧ください。「1 【主】が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて老人になった。3 あなたがたは、自分たちの神、【主】が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、【主】である。4 見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が絶ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族にくじで分けた。5 あなたがたの神、【主】ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、【主】があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。」
前回までのところで見てきたように、カナンにおけるイスラエルの戦いは終結し、イスラエルはその割り当てに従って安息が与えられました。それから多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。そこで彼は全イスラエルを呼び寄せて、その長老たち、かしらたち、さばきつかさたちに語ります。いうならば、これはヨシュアの遺言です。高齢になり自分の死が近いことを悟ったヨシュアはイスラエルの民を集めて、これからのイスラエルの状況を予測しながら、主の深い御旨を語ったのです。
その内容とは、まず、彼らのために戦われたのは、彼らの神、主であるということでした(3)。主なる神がイスラエルに対していかに良いことをしてくださったか、いかに恵み深くあられたかと言うことです。新聖歌172番には、「数えてみよ 主の恵み」という賛美がありますが、まさにヨシュアはこのところでまず、主が成してくださった数々の良きことを思い起こすようにと語っているのです。
カナンの地を占領するために、ヨシュアは実に多くの労苦を強いられてきました。時には死に直面したこともありました。明日の命はもうないかもしれないと、眠れない夜を過ごしたこともありました。そのような戦いが続く中で、ヨシュアはイスラエルの民を率いて敵を打ち破り、ついにカナンの地を勝ち取ることができました。にもかかわらず、ヨシュアはここで自分たちがどれほど苦労したか、また自分たちの功績がいかに大きかったかということを全く語らず、むしろ、それらを成してくださったのは、「あなたがたの神、主である」と語ったのです。1節の初めの言葉もそうですね。「主が周囲のすべての敵からイスラエル守って安息を与えられた」とあります。主がどれほどすばらしいことをしてくださったかということです。主語はいつでも「主」です。主が良い事を始めてくださり、主がそれを完成させてくださいました。自分たちは、主がしなさいと命じることに従っただけです。
ここにヨシュアの徹底した謙遜さをみます。彼は神の前で決して自分自身の功績を数え上げず、それらは全て主の業であると、主に栄光を帰したのです。それゆえに彼は主と共にあって大胆に事をなすことができたのです。私たちもこのことを忘れてはなりません。私たちのために戦われたのは主であって、主が数々の良き業を成してくださったことを覚え、主に感謝するものでありたいと思います。
Ⅱ.十分気を付けて(6-13)
次に6~13節をご覧ください。「6 また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、7 これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、【主】にすがりなさい。9 【主】は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、【主】を愛しなさい。12 しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して、これらの異邦の民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っているこれらの者たちと親しく交わり、彼らと姻戚関係に入り、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来ることがあれば、13 あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、【主】がお与えになったこの良い地から滅び失せる。」
ここには、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならないとあります。モーセの律法の書とは創世記から申命記までのモーセが書いた書ですが、ここでは特にモーセによって語られた神の律法のことです。ヨシュアは、モーセを通して主がお命じになったことをことごとく行いました。これからもこのモーセによって語られた神の命令を守り行わなければなりません。ここには、「断固として」とか、「右にも左にも外れず」とあります。徹底的にそれに従わなければならないということです。どうしてでしょうか。7節には、その理由として次のように記されてあります。「これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。」ヨシュアが懸念していたことは、そこに残された異邦の民と交わってしまうのではないか、ということでした。なぜそれが問題だったのでしょうか。そのことによってイスラエルの民が彼らの神々の名を口にするようになり、それらを拝んだり、仕えたりするようになるからです。
ここに「これらの異邦の民と交わらないようにするためである」とありますが、この「交わる」という言葉は「共有する」とか「一つになる」という意味です。単に接触するということではありません。もし、この世は汚れているからこの世と接触してはならないと命じられているとしたらどうでしょう。私たちはこの世から出て行かなければなりません。けれども、神はそのようなことを命じられているのではなく、この世と妥協して、この世と交わることがないようにと命じられたのです。キリスト者は、この世の中に生きる者ですが、この世のものではないということです。ヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(Ⅰヨハネ2:15)と言いました。またパウロは、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14)と言いました。ですから、私たちはこの世にいて、この世との関わりの中で生きてはいますが、この世と一つとなってはならないのです。私たちはこの世のものではなく、神のものだからです。その神にすがり、神の命令を守り行わなければなりません。なぜでしょうか。
9~11節にこうあります。「9 【主】は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、【主】を愛しなさい。」
主は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われました。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかったのです。この主が絶対的な勝利の秘訣です。だから彼らは自分自身に十分気を付けて、彼らの神、主を愛さなければならないのです。
ここには、「あなたがたは一人で千人を追うことができる。」とありますが、これは決して大げさな表現ではありません。私たちはもうすぐ士師記を学びますが、そこにはギデオンという士師が出てきます。彼はたった三百人の戦士で、十三万五千人のミデヤン人を打ち破ることができました。ですから、人数や強さは主にあって問題ではなりません。問題は、何にすがるのか、だれと共に歩むのかということです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)主がともにおられるなら、必ず勝利がもたらされます。それは彼らのこれまでの歩みを見てきてもわかるでしょう。主がともにおられるなら、私たちは一人で千人を追うことができるのです。
ですから、もしも、堕落して、これらの異邦の民の生き残っている民と親しく交わり、彼らと婚姻関係に入るようなことがあるとしたら、それが罠となり、落とし穴となり、彼らの脇腹にむちとなり、目のとげとなり、やがて主がお与えになったこの良い地から滅び失せることになるのです。後にバビロンがイスラエルを攻めたときに、このことばが実現しました。エルサレムは破壊され、バビロンへの捕囚の民となりました。
Ⅲ.主が約束されたことは一つもたがわずみな実現した (14-16)
最後に14~16節までをご覧ください。「14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。15 あなたがたの神、【主】があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、【主】の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」」
14節には「見よ。今日、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」とあります。これはヨシュアが自らの死が間近に迫っていることを自覚していたことを示しています。人が最後に語ることばはその人が本当に言いたかったことで、最も重要なことばであると言えます。その最後の最後にヨシュアが語ったことはどんなことだったのでしょうか。
ヨシュアはまず、「あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。」と言っています。何を知るのでしょうか。それは、「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことです。それは一つもたがわず、みな、彼らのために実現しました。ここでヨシュアは、「一つもたがわず」と繰り返して語ることで、神の約束の完全性、確実性を強調しています。自分たちが信じる神は、約束されたすべてのことを完全に果たしてくださったお方。その一つも欠けることなく、一つもたがわず、みな実現してくださった。これはすばらしい証しです。主が言われたことはすべて実現し、何一つ実現しなかったものはなかったというのですから。私たちにもたくさん神からの約束が与えられていますが、神は一つもたがわず、みな実現してくださいます。
しかし、ヨシュアが肝に銘じておくようにと言われる内容は、神が約束された良いことが彼らに実現したように、主はまたすべての悪いことを彼らにもたらし、ついには主が彼らにお与えになられた地から彼らを根絶やしにされるということでした。すなわち、「主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」ということです。どういうことでしょうか。
ヨシュアは人間にとっていかなる時が一番危険であるかを知っていました。つまり、神の約束が完全に成就したかのように思われる時こそ、最も危険な時でもあるということです。だから彼は残る民に警告を発することを忘れませんでした。私たちにとって最大の危機とは、困難に直面した時ではありません。どんなに辛く苦しくても、それは決定的な危機ではないのです。なぜなら、そのような困難に直面する時、私たちはそれを乗り越えようと苦しみの中でもがき祈るため、神の助けによってそれを乗り越えることができるからです。私たちの人生における最大の危機は、むしろその困難が去り、問題が解決して、すべてが順調にいっていると思われる時なのです。
イスラエルの民は長年の夢を果たし、約束の地を獲得することができました。これからさらにどんな素晴らしいことが起こるかと人々は期待していたことでしょう。民はまさに祝福の絶頂期にあり、成功と喜びに酔いしれていたわけですが、実はそのような時こそ最も危険な時であったのです。ヨシュアはそのことを感じてここで警告したのです。「勝って兜(かぶと)の緒をしめよ」ということわざがありますが、勝利したと思える時こそ決して有頂天にならず、兜の緒をしっかりとしめなければなりません。悪魔は知恵があり、どのような時が一番つけ込みやすいのか、いつ攻撃すればよいのかをよく知っているのです。そして、このように勝利に酔いしれている時こそ、彼らにとっての最も大きなチャンスであるということを熟知しているのです。
ですから、私たちは誘惑に陥らないように祈っていなければなりません。神に従うことこそが、悪魔の策略を打ち破る最も友好的な手段であることを覚え、順境の時、成功の中にある時こそ主を覚え、主を第一とし、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。これこそ私たちの人生における危機を乗り越え、真に成功に導かれていくために必要なことなのです。
もしあなたが今、失敗と挫折の中にいるなら主を賛美しましょう。主はあなたの内に働かれ、そのご計画を遂行されることによってやがてあなたは困難を克服し、素晴らしい祝福にあずかることでしょう。しかし、もしあなたが今、成功と勝利の中にあるならばそのことを感謝するとともにますます主に撚り頼み、主を第一として歩みましょう。そのときあなたは神に喜ばれる者として、神の祝福された人生を歩んでいくことができるのです。