クリスマス礼拝メッセージ
聖書箇所:マタイ1章18~25節、イザヤ7章10~17節
タイトル:「その名はインマヌエル」
クリスマスおめでとうございます。私たちのために御子イエスをこの世に送ってくださった主なる神に感謝し、心から御名をほめたたえます。今日はクリスマス礼拝ですが、こうして愛する皆さんとともに主を礼拝できることを感謝します。
今日はマタイの福音書1章とイザヤ書7章から、「その名はインマヌエル」というタイトルでお話したいと思います。これは非常に重要なテーマです。というのは、聖書全体を貫いている中心的なメッセージだからです。
皆さん、キリスト教の中心は何か、聖書全体のメッセージを一言で言うとしたら何かと尋ねられたら、何と答えるでしょうか。私なら、こう答えます。それは「インマヌエル」である、と。すなわち、「神が私たちとともにおられる」という約束です、と。これが聖書全体の中心的なテーマです。これがイエス・キリストの誕生によって実現しました。だからクリスマスは意味があるのです。
きょうは、この「インマヌエル」について三つのことをお話したいと思います。第一に、私たちのためにお生まれになられた主イエスはインマヌエルの預言を成就するために来られたということ。
第二に、私たちの人生における真の解決は、このインマヌエルとして来られた主イエスにあるということ。
ですから第三のことは、主イエスをあなたの罪からの救い主として受け入れてください、ということです。
Ⅰ.その名はインマヌエル(マタイ1:18-23)
まず、マタイの福音書1章18~23節を見ていきましょう。18節をご覧ください。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」
マタイの福音書はイエス・キリストの系図を記した後、「イエス・キリストの誕生は次のようであった」という文で始まっています。イエス・キリストはどのように誕生したのでしょうか。ここには、母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった、とあります。それがどのようにして明らかになったのかはわかりません。そのことについて聖書は何も語っていないからです。でも、おそらくマリア自身がヨセフに伝えたのでしょう。
当時、ユダヤにおいては、婚約は結婚とほとんど同一視されていました。婚約していれば一緒に住んでいなくとも、二人は法的に夫婦とみされていたのです。一緒に暮らしてもいない妻マリアが身ごもったと聞いたとき、ヨセフはどんな気持ちだったでしょうか。それは私たちには想像できないほど苦しかったに違いありません。
結婚していないマリアが身ごもった、しかも聖霊によって身ごもったというではありませんか。それを聞いたヨセフは、ただ自分は裏切られ、マリアが姦淫の罪を犯したとしか考えられなかったでしょう。聖霊によって身ごもったというマリアの言葉を受け入れることなど到底できなかったはずです。このマリアに対して、いったい自分はどうすれば良いのか、悩みに悩みました。そして行き着いた結論は、ひそかに離縁する、ということでした。それが19節にあることです。19節をご覧ください。
「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」
ヨセフはマリアを本当に愛していたのでしょう。ですからそれを表ざたにしてマリアがさらし者となり、辱められて、石打ちの刑で処刑されることなど、耐えがたいことだったのです。しかし、ここに「夫のヨセフは正しい人で」とあります。この「正しい人」というは、律法に忠実に従うという意味での正しさのことです。ですから彼は、律法を破り、姦淫の罪を犯したとしか思えないマリアを受け入れることもできませんでした。それでどうしたでしょうか。それでヨセフは悩みに悩んで、ひそかに離縁しようと決めたのです。
しかし、彼がそのように決断した時、神がご介入されました。20節をご覧ください。
「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。」と。
ルカの福音書においてマリアに対して語られたように、ここでも主の使いはヨセフに「恐れるな」と語られました。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさいと。なぜなら、その胎に宿っている子は聖霊によるからです。どういうことですか?
ヨセフの苦しみは、マリアの胎の子はいったいだれの子なのか、どうして身ごもってしまったのかということでした。それに対して神が言われたことは、それは聖霊によるのだ、ということでした。聖霊によって宿ったのだ、と。つまり、神がそれをなさったのだということです。だからそれ以上思い悩む必要はない、というのです。主の使いはさらに続けてこう言いました。21節です。
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
聖霊によって身ごもったというマリアの言葉を信じられず、また、愛しているのにも関わらず、身重であるマリアを見捨てるというヨセフの「正しさ」は、ここで神によって完全に打ち砕かれることになります。律法に従うだけの「正しい人」であったヨセフは、この驚くべき出来事をご自分の民をその罪から救うために実現された神の御業である信じ、この主に従って生きるようにと求められたのです。聖霊によって身ごもったマリアを迎え入れ、生まれた男の子に「主は救いである」という意味を持つ「イエス」という名前を付けなさいという命令が与えられたのです。
このようにクリスマスの出来事においては、マリアだけではなく、ヨセフにも神から大きな役目なり、使命が与えられていたことがわかります。それは聖霊によって身重になったマリアを受け入れ、支え、守り、そして、生まれてくる男の子には「イエス」と名付けるという役目です。そして、ヨセフは自分には理解できなくとも、この主の命令に従います。24~25節にあるように、眠りから覚めたヨセフは、主の使いが命じたとおりに、自分の妻マリアを受け入れ、生まれた男の子に「主は救いである」意味持つ「イエス」という名前を付けたのです。
重要なのは、この一連の出来事は何ために起こったのかということです。これを書いたマタイは、この一連の出来事はただ偶然に起こったことではなく、旧約聖書に預言されていたみことばが成就するためであったと告げるのです。それが22~23節にある内容です。ご一緒に読みましょう。
「22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」
このすべての出来事、つまり、まだ一緒に住んでいないマリアが身ごもったという出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった、ということです。その預言とは、皆さんもよくご存知のように、旧約聖書イザヤ書7章14節の御言葉です。そして重要なのは、その名は「インマヌエル」と呼ばれるということです。意味は、「神は私たちとともにおられる」という意味です。つまり、ご自身の民をその罪から救うためにお生まれになられたイエスは、イザヤ書で約束されていた「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださる方であるということです。
このことは、とても重要です。というのは、聖書で言うところの「救い」とは何かを明確に表しているからです。つまり、聖書で言う「救い」とは、罪が赦されて永遠のいのちが与えられることですが、それは、言い換えると「神がともにおられる」ということなんです。これが聖書で言う「救い」です。私たちが「救われる」という言葉を用いるとき、それはたとえば病気が癒されることとか、貧乏から解放されること、あるいは、何らかの問題が解決することを言いますが、聖書で言うところの救いとはそうした問題の解決ばかりでなく、そうした問題の根本的な原因である罪からの救いを意味しているのです。つまり、これが本当の解決であるということです。
確かに病気が癒されることも素晴らしいことです。私も眼の病気で苦しみかなり落ち込みましたが、一昨日抜糸のため病院へ行ったら眼圧が下がっていて、正常の数値になっていました。本当にうれしかったですね。
貧乏から解放されることもそうです。借金地獄という言葉もありますが、抱えている借金を完済してゼロになったらどんなに解放されることでしょう。あるいは、家庭の問題や職場の問題、人間関係の問題が解決したらホッとするでしょう。しかし、本当の解決はそうした問題の根本にある罪から救われることなのです。
そして、ヨセフが聖霊によって身重になったマリアを妻として迎え入れたことによって、そのことが実現しました。この男の子は人間的にはあり得ないことですが、人間的な方法によってではなく聖霊によってマリアの胎に宿りました。それはこの方がご自分の民をその罪から救ってくださるためです。神は聖なる、聖なる、聖なる方ですから、ちょっとでも罪や汚れがあるところには住まうことはできません。それで神は人間的な方法によってではなく、聖霊によって救い主イエスをマリアの胎に宿らせ、生まれさせることによって、その民を罪から救うという御業を開始されたのです。そしてこの方がその罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえることによってその救いの御業を完成してくださいました。それゆえ、この方を信じる人はだれでも罪から救われるのです。そうです、「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださったのです。ですから、この方を信じる者は罪から救われ、神がその人とともにいてくださいます。これが救いです。多くの人は「救われる」ということは、死んでから天国に行くことだと考えていますがそれだけではないんです。この世で生きていながらも、それを体験することができるのです。それはこの「神、共にいまし」です。あなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるなら、その瞬間にあなたの罪は赦され、永遠のいのちが与えられます。「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」が実現するのです。
「沈黙のレジスタンス」という映画をご覧になられた方はおられるでしょうか。これは実話を基にして作られた映画です。マルセル・マルソーという、パントマイムの巨匠の若き日々を描いたものです。実は彼は、フランスに生きるユダヤ人でした。第二次世界大戦中、ドイツではヒトラーが政権を握ると、国内のユダヤ人たちは次々と迫害の対象となりました。そして、ドイツの国内でたくさんのユダヤ人孤児が生まれるんです。
その孤児たちは、ユダヤ人組織によってフランスに送られて難を逃れるのですが、やがてフランスもナチスドイツに侵略され、併合され、占領されてしまいます。フランスに逃げてきたユダヤ人孤児たちの世話をしたのが、フランスユダヤ人のレジスタンス組織だったんですが、マルセル・マルソーはそのメンバーでした。
やがてナチスは、フランスに大きな力を振るうようになります。そして、フランス国内では、親ナチスの政権が誕生し、フランスのユダヤ人孤児たちも強制収容所に送られることになります。そこで、どこにも逃げ場がなくなったこのユダヤ人のみなしごたちを助けるためにある極秘プロジェクトが始まったんです。それは、フランスの隣にある、永世中立国のスイスに、この子どもたちを亡命させるというプロジェクトでした。しかし、通常の国境は、すでにナチスにコントロールされていました。そこで、マルセル・マルソーは、子どもたちにボーイスカウト、ガールスカウトの服を着させ、自分はそのリーダーになりすまし、ピクニックに行くように芝居を打って、フランス国外脱出をはかるのです。
ところが途中、ドイツ併合エリアを通らなければなりません。電車の中にナチスのゲシュタポ(秘密警察)が乗り込んで、身元調査を始めるんですが、ユダヤ人の孤児たちは、皆ゲシュタポに両親を殺されるのを見ていたので、その制服を見るだけで震え上がってしまうのです。しかし、すぐさま落ち着きを取り戻します。なぜなら、マルセル・マルソーがギューッと手を握ったり、ハグしたり、そして共にいて堂々とゲシュタポと渡り合うその対応を見たからです。そして、とうとうスイスに脱出することが出来たのです。
何を言いたいのかというと、共にいることは、勇気を与える最良の手段なであるということです。キリストは、死の世界から、永遠のいのちの天国にあなたを導くために来てくださいました。そしていつもあなたと共にいてあなたを助け、守り、励まして、あなたがこの地上での生涯を歩む上で必要な力を与えてくださいます。そしてあなたが死んでもあなたと共におられるインマヌエルの神なのです。
Ⅱ.ここに本当の解決がある(イザヤ7:10-14)
ところで、これは主が預言者を通して語られたことが成就するためであった、とありますが、それがどのような文脈で語られたのかを見ていきたいと思います。イザヤ7章14節をご覧ください。
「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
この預言が語られたのは前730年頃のことですが、その背景には、戦争という現実がありました。当時はアハズという王が南ユダ王国を治めていましたが、彼はアラムの王レツィンとエフライム、これは北イスラエル王国のことですが、その北イスラエルの王ペカが軍事同盟を結んで攻撃してくるという知らせを聞いたのです。とりわけアハズにとってショックだったのは、同胞の北イスラエルがアラムの王と手を組んだことでした。その知らせを聞いたアハズ王はどうなったかというと、「王の心も民の心も林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」(イザヤ7:2)とあります。そんな動揺していたアハズの下に預言者イザヤが遣わされ、神からの言葉を伝えるのです。
「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。」(イザヤ7:4)
「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。心を弱らせてはならない。」これがその時アハズにとって一番必要なメッセージでした。とは言っても、このような状況で落ち着いていろという方が難しいかもしれません。しかしそれがどのような状況であったとしても、彼に求められていたことは、神の前に静まること、神がイスラエルの主であることを覚えることだったのです。
心を静めることのできないアハズに対して、イザヤは続けて神のことばを語ります。「それは起こらない。それはあり得ない」と。「それ」というのは、アラムとエフライムが攻めてくることです。それは起こらない。その上で神はアハズにこういうのです。
「あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない」(イザヤ7:9)
神の約束を信じること、それが堅く立つために必要なことでした。しかし、アハズは信じることができませんでした。これだけの励ましをもらっても、神を信じ切ることができなかったのです。
それはアハズに限ったことではありません。私たちもそういう時があります。私たちも神を信じています。そして、こうして神に祈ったり、礼拝したりしていますが、しかし、現実の生活の中で何らかの問題に直面すると、神を信じ切れない時があります。神に頼るのではなく、御言葉を信じるのでもなく、自分の思いのまま衝動的に動いてしまうことがあるわけです。現実に振り回され、信仰に堅く立つことができないのです。不安になった時、大きな問題に直面した時こそ、私たちはみことばに信頼し、神を信じなければならないのに、それができないという時があるのです。
そんなアハズ王に対して神はさらにイザヤを通して語られました。「あなたの神、主に、しるしを求めよ。」(イザヤ7:11) と。しかし、アハズは「私は求めません。主を試みません。」と言って、神のことばを明確に拒否しました。
そこで神は自ら彼に一つのしるしを与えられました。それがこのインマヌエル預言です。
「見よ。処女が身ごもっているそして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
つまり、これは神に対するアハズの信仰の結果として与えられたものではなく、逆にアハズの不信仰と不従順の結果、それにも関わらず神から与えられた神の恵みの約束だったのです。アハズがあくまでも自分の考えに従って行動していたので、神の方から一方的にそのしるしが与えられたのです。そのしるしとは何ですか。それは、処女が身ごもって、男の子を産み、その名を「インマヌエル」と呼ぶということでした。いったいこれは何のしるしなのか。この場合のしるしとは、神に信頼するなら守られるというしるしです。それが、処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と呼ばれるようになるとうのはどういうことなのかさっぱりわかりません。
昔からこの箇所は非常に難解な箇所だと言われてきました。英国の有名な説教家チャールズ・スポルジョンは、この箇所は聖書の中でも最も難解な箇所の一つだと言いました。それほど解釈が難しい箇所なのです。何がそんなに難しいのかというと、ここに出てくる処女とはだれのことなのか、男の子とはだれのことなのかがはっきりわからないことです。それもそのはずです。処女がみごもるなんてことはあり得ないことだからです。そんな話今まで聞いたこともありません。ですから、これがしるしだと言われても、いまいち、ピンとこないわけです。
このことについて詳しく知りたい方は、以前私が礼拝でイザヤ書からお話した講解説教がホームページに載っていますのでそれを参考にしていただけたらと思いますが、確かなことは、これはこの時から約700年後に生まれるキリストのことを預言していたということです。どういうことかと言いますと、ここに本当の解決があるということです。アハズ王にとっては、確かにエフライム(北イスラエル)とアラムの連合軍が攻めてくるということは脅威だったでしょう。何とかしてそこから救われたいと、彼は北の大国アッシリヤに助けを求めました。それでアラムとエフライムは滅ぼされ問題は解決したかのように見えましたが、それは本当の解決ではありませんでした。本当の危機はその後でやって来ることになんです。昨日の友は今日の敵というようなことが起こるわけです。何と今度は自分たちがそのアッシリヤに攻められて苦しむことになるのです。ですから、それは本当の解決ではありませんでした。本当の解決はどこにありますか。本当の解決はここにあります。インマヌエルと呼ばれるお方です。すなわち、イエス・キリストにあるのです。これが、神が与えてくださったしるしだったのです。
いったいなぜ神がともにおられるということが本当の解決なのでしょうか?なぜなら、神はキリストにおいてアラムやエフライムの連合軍やアッシリヤによる攻撃から救われるといったところではない、永遠の滅びに追いやろうとするサタンの攻撃、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからです。このイエスが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、神はこの救いの御業を成し遂げてくださいました。永遠の滅びから、永遠の救いの中へと、すなわち、永遠に神が私たちと共におられるという約束の中へ私たちを導いてくださったのです。ですから、イエス様は私たちのどのような問題や苦しみからも救うことがおできになるのです。これが本当の解決であり、救いなのです。これがクリスマスに実現したのです。
Ⅲ.インマヌエルの実現のために(マタイ1:24-25)
ですから第三のことは、あなたを罪から救うために生まれてくださった救い主イエスをあなたの心に受け入れてくださいということです。そのとき、このインマヌエルの預言があなたに成就することになります。マタイの福音書に戻りましょう。1章24~25節をご覧ください。
「24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」
ヨセフは眠りから覚めたとき、主の使いが命じられたとおりに、マリアを自分の妻として迎え入れました。起きて思い巡らしているだけではもがき苦しむだけでしたが、眠りと夢の中で神が働いてくださり、彼を新しく造り変えられました。それで彼は神のご計画に身をゆだねることができたのです。ここにインマヌエルの約束と祝福に生きるヨセフが誕生しました。
それはヨセフだけではありません。あなたも神の御言葉に信頼し、あなたを罪から救うためにお生まれになられたイエスを信じるなら、あなたにもインマヌエル、神はあなたとともにおられるという御言葉が実現します。それはイエスを信じた時だけではありません。いつも、いつまでも、ともにいてくださいます。
マタイの福音書を見ると、この1章で「神は私たちとともにおられる」と約束してくださった主は、その最後の28章でも共におられると約束しておられます。28章20節です。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
そればかりではありません。その真ん中にもこの約束が出てきます。18章20節です。
「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」」
つまり、インマヌエルとして生まれ手くださった方は世の終わりまでいつまでも共にいてくださるだけでなく、この地上の生涯を歩む時も共にいて支え、励ましてくださるのです。
であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。その名は「インマヌエル」と呼ばれるお方はいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを守ってくださいます。これが本当の救いです。インマヌエルという名でこの世に来られた方は、遠くから私たちの苦しみを眺めておられる方ではなく、いつもあなたとともにいて自らが先頭に立ち、罪と死に真正面から戦ってくださるお方なのです。
あなたが心配しておられることは何ですか。何を恐れていらっしゃいますか。ひとりぼっちで孤独を感じておられますか。自分や家族の病気で不安な日々を過ごしておられますか。将来に何の希望もないと絶望しておられますか。でも、主はあなたのために生まれてくださいました。あなたは一人ぼっちじゃないのです。主があなたとともにおられます。どんなことがあってもあなたを見捨てることはありません。世の終わりまで、いつもあなたとともにおられます。この方に信頼しましょう。クリスマスに与えられる喜びは、まことに私たちのために与えられた救いの恵みです。それは神があなたとともにおられるという約束です。この神に信頼して、この地上の生涯を全うさせていただきましょう。
最後に、ロバート・コリアー著、「冬の嵐の中の小鳥の歌」から抜粋した詩を引用して終わります。
信頼
わたしは一度 神を信頼したのだから
いつまでも 神を信頼する
わたしが立とうが 倒れようが、その道は最善
風と嵐の中に、主は決して わたしを捨て置かれない
神はすべてを 送ってくださるのだ
風と嵐の中に、主は決して、あなたを捨て置くことはなさいません。いつもともにいて、あなたを最善に導いてくださいます。この神に信頼しましょう。メリー・クリスマス!主の恵みと平安が、あなたとともにありますように。