そうすれば、幸せになる エレミヤ書40章1~16節

聖書箇所:エレミヤ書40章1~16節(旧約P1368、エレミヤ書講解説教70回目)
タイトル:「そうすれば、幸せになる」
エレミヤ書40章に入ります。今日のタイトルは、「そうすれば、幸せになる」です。どうすれば幸せになるのでしょうか。主のみこころに従うなら、です。9節に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。なぜなら、それが神様のみこころだからです。神のみこころに従うなら、あなたは幸せになるのです。
今日は、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、エレミヤの選択です。彼はバビロンに行くこともできましたが、エルサレムに留まり、貧しいユダの民の中に住むことを選びました。なぜでしょうか。それが神のみこころであると確信したからです。第二のことは、ユダの総督に任じられた総督ゲダルヤの誓いです。彼はエルサレムに住むユダの民に、バビロンの王に仕えるようにと勧めました。なぜなら、それが神のみこころだからです。そうすれば、幸せになると、彼は確信していたのです。第三のことは、主のみこころに従うためには状況をよく見極める必要があるということです。それを誤ると、とんでもない結果になってしまうことがあります。ですから、神のみこころに従うためにはそれを妨げる悪魔の策略に対処し、状況をしっかりと見極めなければなりません。
 Ⅰ.エレミヤの選択(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。
「40:1 【主】からエレミヤにあったことば。バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」
ここに、「主からエレミヤにあったことば」とありますが、本文を見るとどこにも主のことばは見当たりません。この後で主がエレミヤに語られるのは42章7節です。ですから、このエレミヤにあった主のことばとは、ここから始まるエレミヤ書にとって一つのまとまりとなる45章の終わりまでの表題と考えられます。この一つのまとまりには、エルサレムが陥落した後どのようなことが起こったのかが記録されてあります。それ全体の表題なのです。では、その時どんなことがあったのでしょうか。
この1節の残りの部分には、「バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」とあります。
ここには、捕囚の民として鎖につながれていたエレミヤを、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンが釈放した時のことが記されてあります。「ラマ」とは、エルサレムの北方8キロのところにあるベニヤミン領内にある町ですが、エレミヤはそこで釈放されました。エルサレムが陥落した後、バビロンに捕え移されるユダの人々はこのラマに集められたのですが、その中にエレミヤもいたのです。それを見たバビロンの親衛隊の長ネブザルアダンは、即座に彼を釈放しました。なぜでしょうか?その理由が2節から4節までにあります。
「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」
彼はバビロンの親衛隊の長でしたが、エルサレムが陥落した時バビロンの王ネブカドネツァルからこのように命じられていました。39章12節です。
「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」
バビロンの王がなぜこのように言ったのかはわかりません。おそらく彼は、エレミヤが語っていたことを聞いていたのでしょう。つまり、バビロンに降伏することが主のみこころであり、ユダの民が生き残る道であるということを、です。そのように預言していたエレミヤを、ネブカドネツァルはよくしてあげようと思ったのです。それは親衛隊の長のネブザルアダンも同じでした。2節と3節にあるように、彼がエレミヤを連れ出して、彼に、「あなたの神、主は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。そして主はこれを下し、語ったとおりに行われた」と言っているように、彼は幾度となくエレミヤの語っていた預言を聞いていたのです。それがそのとおりになったのを見て、それはイスラエルの神、主がなされたことであると認め、その偉大な神の御業のゆえに、エレミヤを釈放しようと思ったのです。
本当に皮肉なことですが、契約の民であるイスラエル人が認めなかったことを、何と異邦人であったネブカドネツァルやネブザルアダンは認めていたのです。彼らの目には、それがイスラエルの神、主の御業であることが明らかだったのです。信者である人たちには見えていないことが、未信者の人たちに見えていることがあるわけです。それで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤの手にある鎖を解いて釈放し、彼に二つの選択肢を与えました。一つは、彼と一緒にバビロンへ行くか、もう一つは、もし行きたくなければ、どこでも自分の好きなところへ行っても良いということでした。もし彼と一緒にバビロンに行くなら、エレミヤが生活するのに困ることが無いように彼の世話をするとまで約束しました。さあ、このネブザルアダンの提案を聞いて、エレミヤはどのように反応したでしょうか。5節と6節をご覧ください。
「40:5 しかしエレミヤがまだ帰ろうとしないので、「では、バビロンの王がユダの町々を委ねた、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住みなさい。でなければ、あなたが行くのによいと思うところへ、どこへでも行きなさい。」こうして親衛隊の長は、食糧と品物を与えて、彼を去らせた。40:6 そこでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、その地に残された民の間に住んだ。」
エレミヤは、なかなか動こうとしませんでした。それはネブザルアダンに対する敬意のゆえでしょう。彼と一緒にバビロンへ行くなら私があなたの世話をしようとまで言ってくれたのに、それをむげに断るのは申し訳ないと思ったに違いありません。そんなエレミヤに対してネブザルアダンは、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住むようにと勧めました。エレミヤがずっと動かないでいるのを見たネブザルアダンは、それはエレミヤがバビロンに行きたくないという意志表示だと受け止めたのです。それでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行き、彼とともに、その地に残された民の間に住みました。エレミヤにとっては貧しいユダの民と一緒にエルサレムに残るよりは、安定した生活が保障されていたバビロンへ行った方がはるかに良かったはずです。それなのに彼は、ユダにいる残りの民と一緒にいることを選んだのです。なぜでしょうか。2つの理由が考えられます。
一つは、その地の総督に任じられたゲダルヤの存在です。5節には「シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤ」とありますが、彼の父親のアヒカムは、かつてエレミヤのいのちを救った人でした。26章24節には、「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。これはどういう背景で語られたかというと、当時のユダの王エホヤキムは、エレミヤのように預言していたシェマヤの子ウリヤをエジプトから連れて来させて剣で打ち殺しましたが、エレミヤはその難を逃れることができました。それはこのゲダルヤの父アヒカムの助けがあったからです。アヒカムはエレミヤをかばい、彼が民の手に渡されて殺されることがないように手配したのです。エレミヤはそのことを感謝して、若くして総督となった彼の息子のゲダルヤを支援するために、エルサレムにとどまろうと思ったのかもしれません。
しかし、エレミヤがエルサレムの住むことを選んだ最大の理由は、それが彼に与えられていた使命だったからです。42章2~3節をご覧ください。
「42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」」
ここにはユダに残っていた人々がエレミヤのところに来て、神のみこころを求め、彼らのために祈ってくれるようにと懇願したとあります。バビロンに捕え移された人たちはそこである程度の生活が保障されていましたが、バビロンに連れて行かれずエルサレムに残された民はみな貧民で、日々の生活もままならず、大変混乱していました。エレミヤはそうした状況を見て、そこに残った貧しいユダの民に仕えることこそ神のみこころであり、自分に与えられている使命だと確信したのです。確かにバビロンへ行ってネブザルアダンの保護の下、平和に暮らすことも考えたでしょう。でも彼は自分にとって何が良いかということよりも、神に喜ばれることは何か、何が良い事で神に受け入れられ、完全であるのかを求めたのです。
へブル11章24~25には、「24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」とあります。聖書ではエジプトとかバビロンはこの世の象徴として描かれていますが、信仰によって、モーセがエジプト王のファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったように、エレミヤも信仰によって、この世の楽しみにふけるよりも、神の民とともに苦しむことを選び取りました。それが神のみこころであると受け止めたからです。
皆さんがエレミヤの立場だったらどうしたでしょうか。あなたの好きなようにしても良いと言われたら、「ヤッター!」とこぶしを突き上げて喜びますか。こんな所にいるよりも、ネブザルアダンの保護の下、バビロンで平和に暮した方がよっぽどいい」と決断したでしょうか。それでも良かったんです。それは神が許されていたことでしたから。それでも彼がエルサレムにとどまったのは、自分に与えられている神様からの使命を確信していたからです。
このような時私たちは、自分の愛がどこにあるかが試されます。でもそれを判断する決め手というか、目安は何かというと、このエレミヤのように自分に与えられている使命は何なのか、役割は何かを考えて祈ることです。あなたに与えられている使命は何ですか。神があなたにしてほしいと願っておられることは何でしょうか。それを知ることは、あなたがより良く神のみこころを知り、みこころに従うために有益なことです。
私の友人の牧師に、仙台で牧会しておられる鈴木茂という牧師がおられますが、この年末年始にかけて何度かメッセンジャーでのやり取りをしました。その中で鈴木先生がこのようなことを言われました。
「私たちはここで31年目に入ります。本当に時の流れは速いです。ここでこんなにも長く留まるとは思いませんでした。100%はわかりませんが、でも気持ちの中ではここでよかった、と思っています。我武者羅の期間は、もう過去のことで、今は体が「No」と教えてくれます。これも恵みですね。今思うと、40代前半までは、朝から晩まで、とは言わないですが、水曜日の朝の祈り会の学びの後、個人的な学びや相談を聴いたり、そして夜の祈り会で再び学びを導いたり・・・。今思うと、不思議なことです。今はできません。よかったのかどうか???これも100%わかりません。今は、自分の心、人の心のケアーや形成を中心に歩んでいます。昔のようにはいきませんが、今の方がいいように感じます。ある意味これから、と思える部分もあります。妻も私も今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。と、言っても大したことはできていませんが。」
謙遜な先生らしいことばだなぁと思いますが、このメールを読ませていただいて私の心に留まったのは、「これで良かったのかどうか100%わかりません」という言葉と、「今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。」という言葉です。そうなんですよね、これで良かったのかどうか100%わかる人などいないと思うんです。でもその中で先生ご夫妻は心のケアー、情緒的なケアーを中心に働きをされておられる。それが自分たちに与えられた役割であると受け止めておられるからです。
そうなんです、私たちもこれで100%良かったと言える人なんていないと思うんです。またこれから先、これが道だ、これに歩めというご聖霊様の声を聞いても、100%確信できるかというとそうではないと思います。それが大きければ大きいことであるほど、私たちは悩みます。でもそのような中でもエレミヤのように、あるいは鈴木先生のように、神様から与えられている使命は何か、自分が果たすように神からゆだねられている役割は何かを知るなら、確信をもってその道を選択することができるのではないでしょうか。
いずれにせよ、大切なことは、エレミヤが自分の思いのままに選択したのではなく、神のみこころを求めて祈った結果そのようにしたということです。注意しなければならないことは、それが神のみこころではないのに、ただ自分の思い、自分の心が欲していることなのに、あたかもそれが神のみこころであるかのように思い込んでしまうことです。そういうのを勘違いと言います。そういうことがないように、私たちはいつも本物である神のことばを聞き、それを見分けることができるように祈らなければなりません。
Ⅱ.ゲダルヤの誓い(7-12)
次に、7~12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。
「40:7 野にいた軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地の総督にして、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たちを彼に委ねたことを聞いた。40:8 そして彼らはミツパにいるゲダルヤのもとに来た。ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナンとヨナタン、タンフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザンヤ、そして彼らの部下たちであった。」
エルサレムに残った貧しいユダの民の統治のため、バビロンの王ネブカドネツァルは、アヒカムの子ゲダルヤをその地の総督として任命しました。それで野にいた軍の高官たちやその部下たちはみな、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ました。「ミツパ」はエルサレムの北方10キロにあるベニヤミンの領内にある町ですが、ゲダルヤがミツパにいたのは、エルサレムが焼き払われていたのでそこに行政機関を置くことができなかったからです。それで彼らはみなミツパにいたゲダルヤの下にやって来たのです。
そのときゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言いました。9節10節です。
「40:9 シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓った。「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。40:10 この私は、見よ、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデア人の前に立とう。あなたがたは、ぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むがよい。」」
ゲダルヤは、エレミヤの預言をきちんと聞いていました。エレミヤは彼らに、バビロンに服しその中で生きるなら、あなたがたは幸せになると言っていましたが、その通りに伝えたのです。さすがアヒカムの子どもですね。アヒカムについては先ほど見たようにエホヤキム王の時代にエレミヤを救った人物ですが、彼にはそうした霊的な目と、神を恐れる思いがありました。そうした父親の後ろ姿を見て育った彼にも、そうした思いがあったのでしょう。それだけではありません。ゲダルヤの父親の父親、すなわち祖父のシャファンという人物はヨシヤ王の時代に書記を務めていた人です。エレミヤが預言者として召されたのはそのヨシヤ王の第13年でしたが(1:13)、ゲダルヤはこの祖父のシャファンを通してもエレミヤの預言をずっと聞いていて、神のみこころが何であるかをわきまえることができたのです。ですから彼はエレミヤが預言していたとおり、バビロンに服し、バビロンの王に仕えるなら、あなたがたは幸せになると明言することができたのです。
それだけではありません。彼はこのミツパに住んで、自分たちのところに来るカルデア人の前に立とうと言っています(10)。どういうことですか?自分が責任をもってカルデア人と交渉するという意味です。だからあなたがたはぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むようにと勧めたのです。そこには相当の覚悟があったことがわかります。イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われましたが、エレミヤ同様彼も、自分のいのちを削っても、他の人にささげる覚悟がありました。なぜ?彼も神のみこころを求め、みこころに従いたいと願っていたからです。
そんな彼のもとに、さらに多くの人たちが集まって来ました。11節、12節には、「11 モアブや、アンモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人もみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。12 そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての場所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した。」とあります。
これらの人たちは、バビロンが攻めて来たことを知って周辺の諸国に逃亡していた人たちです。そんな彼らもゲダルヤが総督になったといううわさを聞いて、ミツパの彼のもとに集まって来たのです。彼らもまた夏の収穫を採り集め、安定した生活をすることができました。それはみこころに従ったゲダルヤのことばに従ったからです。もちろん、その背後にはエレミヤの助言があったのは間違いありません。主のみこころに従うなら、必ず祝福されるのです。
Ⅲ.ゲダルヤの失敗(13-16)
しかし残念ながら、その安定は長続きしませんでした。その理由は、ゲダルヤが神のみこころを見極めるのを失敗したからです。13~16節をご覧ください。
「40:13 さて、野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパのゲダルヤのもとに来て、40:14 彼に言った。「あなたは、アンモン人の王バアリスがネタンヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのをご存じですか。」しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、彼らの言うことを信じなかった。40:15 カレアハの子ヨハナンは、ミツパでひそかにゲダルヤに話して言った。「では、私が行って、ネタンヤの子イシュマエルを、だれにも分からないように打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか。」40:16 しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」
野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパにいたゲダルヤのもとに来て、アンモン人の王バリアスがネタンヤの子イシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしていることを密告します。なぜアンモン人の王がゲダルヤを打ち殺そうとしたのかはわかりません。おそらくゲダルヤがユダの総督になったとき、アンモンに逃れたユダの民がゲダルヤのところに帰って行くのを見て、快く思わなかったのでしょう。それで彼はネタンヤの子のイシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしたのです。しかし、ゲダルヤは彼らの言うことを信じませんでした。むしろイシュマエルの暗殺を逆に申し出たカレアハの子ヨハンナに対して、「そんなことをしてはいけない。あなたこそ、イシュャマエルについて偽りを語っているからだ。」と叱責しました。
カレアハの子ヨハンナは将校として有能で、物事に対処するのに長けた人物でした。ユダの人たちのために総督ゲダルヤを守らなければならない。そしてそのためにだれにもわからないように先制攻撃をした方がよいという助言は、政治的判断としては優れていました。けれども、ゲダルヤ本人はというと、こうした現実的な危機に対しては全く無頓着、極端なお人好しでした。こうした動きに対して先に打ち殺すまではしなくても、自分の周りにたとえば警備兵を置くとか、イシュマエルの動きをしっかり監視するなど、何らかの対策を取るべきだったのに、ヨハンナの助言を聞くどころか、逆に彼がイシュマエルを妬んで彼について悪く言いふらしていると思って叱責したのです。
確かに、このような時、リーダーはどのように対処したらよいか悩むところです。ある面でゲダルヤの対応は神を恐れる者として、陰口とか悪口とか、密告といったことを鵜呑みにせず、真実を確かめるまでは慎重に取り扱おうとしたという点では評価できます。しかし、総督として、また群れのリーダーとして、目の前に起こっている動きを見極めるという点では失敗しました。特に、このネタンヤの子イシュマエルですが、41章1節には「王族の一人」と紹介されていますが、彼の祖父エリシャマは、ダビデの息子の一人でした(Ⅱサムエル5:16)。あのソロモンの兄弟にあたります。ということは、イシュマエルはダビデのひ孫にあたる人物だったのです。ゲダルヤとしては、まさかダビデの家系に属する者が主のみこころに反して自分を暗殺するなどあり得ないと思ったのでしょうが、脇が甘かった。ダビデの家系に属する者だからこそ、そのような危険性があったのです。つまり、イシュマエルは自分がダビデの家系であることから、自分こそユダを統治する人物としてふさわしい者であるという思いから、ゲダルヤに敵対する恐れがあったのです。それを見極めることができませんでした。
リーダーシップの本を開くと、リーダーには未来を見通す目が必要だと異口同音に語られています。ではどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。人間には明日のことさえわからないのですから、そのような人間がどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。
私の尊敬する牧師の一人に、兵庫県で牧会しておられる大橋秀夫という先生がおられます。私の名前と一字しか違わないので、以前アメリカからロバート・ローガンという教会成長学者が来日した時、先生をBig Ohashiと呼び、私をLittle Ohashiと呼びました。私の方が背が高いのにLittle Ohashiとは失礼じゃないかと思いましたが、私などはこの先生の足元にも及ばないので、やはりLittle Ohashiだと納得したわけですが、このBig Ohashiが「聖書を読むとリーダーシップがわかる!」という本をお書きになり、昨年のクリスマスにわざわざ送ってくださいました。その本の最後のところに、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しておられます。
「彼らは、「時間」すなわち人生を現在から過去を見て前に進むと考えている。ちょうどボートに乗って向こう岸に漕ぎ出すのと同じなのだ。未来は見えない。見えるのは過去だけ。まっすぐに進むために目印となるのは進んできた航跡(こうせき)だ。それによって起動を修正しながら進むと考えている。日記は、そんな自分の人生を進むうえでの航跡と言えるだろう。それをもって人生を紡ぎ、心の闇を克服することができると考える。」
未来を見通すために過去を見る。過去を見て起動を修正しながら進んで行くというユダヤ人の時間に対する見方は見事だなぁと思いました。その過去を見る上で勿論日記をつけるのも良いでしょう。それを見て過去を振り返ることは有益なことです。しかし、その中でも聖書を見て振り返ることはもっと有益なことです。なぜなら、そこには自分の過去だけでなく、この歴史を動かされた神の軌跡を見ることができるからです。
残念ながら、ゲダルヤはそういう目を持っていませんでした。彼には霊的な目と神を恐れる思いがありましたが、過去の歴史から学ぶという実践的な面に欠けていたのです。
かくしてゲダルヤによる統治は、わずか2か月で終わってしまいました。これは、ユダヤ人にとっては衝撃的なことでした。ですから彼らはそれ以来、エルサレムの陥落を記念する断食と並行して、ゲダルヤの死を哀悼するための断食を行うようになりました。それが、第七の月の断食(ゼカリヤ7:5,8:19)です。
私たちは、このゲダルヤの暗殺から何を教訓として学ぶことができるでしょうか。神のみこころに従うためにはそれを妨げる様々な悪魔の策略があるということ、そしてその策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなければならないということです。エペソ6章14~18節には、その武具とはどのようなものかが記されてあります。すなわち、「6:14腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」ということです。それがみこころに生きるために求められているのです。
そうすれば、あなたはしっかりと神のみこころを見極めることができます。そうすれば、あなたは幸せになるのです。たとえそれがこの世の考えと違うことであっても、みことばと祈り、信仰によってみこころに堅く立ち続けるなら、あなたは幸せになるのです。そのような生涯を共に送らせていただきましょう。そのために神のみこころを知り、みこころに従うことを求めていきたいと思います。