聖書箇所:エレミヤ書36章1~32節(旧約P1360、エレミヤ書講解説教66回目)
タイトル:「焼かれても、再び」
今日は、エレミヤ36章全体からお話します。少し長い箇所ですが、全体を通して見ていきます。その方が流れを掴むことができわかりやすいと思います。今日のメッセージのタイトルは「焼かれても、再び」です。主はエレミヤに、あなたは巻物を取り、これまで語ってきたことを書き記すようにと命じたので、エレミヤは書記のバルクを呼んで主のことばを口述筆記させましたが、それを知ったユダの王、ヨシヤの子エホヤキムは、その書き記された神のことばを、暖炉の火で燃やしてしまいます。もうこれで終わりかと思いきや、主は再びエレミヤに、もう一つの巻物を取って、エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せと言われました。プラス、さらに同じような多くのことばもそれに書き加えられました。それが、私たちが今持っているエレミヤ書です。結果的に、最初の巻物が焼かれることによって神はもっと内容が豊かで、また詳しく明瞭な形でご自身のことばを残してくださいました。神のことばは決して滅びることはありません。この神の言葉を握って離さず、それに従って歩むなら、どんな困難の中でも、知恵と力が与えられ、真っ直ぐに進むことができます。走っても倒れることはありません。御言葉を握る人には勝利と祝福が与えられるからです。
Ⅰ.巻物に書き記されたみことば(1-10)
まず1~10節をご覧ください。1-3節をお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
これは、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年のことです。エホヤキムの第四年とは紀元前605年のことです。これは35章でレカブ人の忠実さの話がありましたが、それよりも更に数年前の出来事です。この年は古代近東の国際情勢においては重要な年でした。それはこの年にバビロンがユーフラテス河畔のカルケミシュでアッシリアを滅ぼし、そのアッシリアを助けようとしてやって来たエジプトも壊滅的に討ち破ることによって、その覇権を確立した年だからです。そしてこの年にネブカドネツァルがナボポラッサルに代わって正式に王位を継承しました。その年に主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節と3節です。
「2あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
主はエレミヤに、ヨシヤの時代から今日までの間に、主が彼に語ったことばをみな、巻物に書き記すようにと言われました。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の治世の第13年ですから、紀元前627年のことです。その時からこの時に至るまでの約20数年の間に主が彼に語られたことことばをみな、巻物に書き記すようにというのです。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。それは語られた神のことばを文字にすることによってそれをユダの民に明確に伝えるためです。皆さんもそうでしょう。「私は説教を聴いても、こっちの耳から入ってすぐこっちの耳から出ていくんですよ!」と言われるのをよく聞くことがありますが、御言葉を聞くだけだとなかなか記憶に残すことができません。それで神はこのように巻物に書き記すことによっていつでもその内容を確かめることができるようにしたのです。それは1日や2日でできるものではありません。数日間、あるいは数十日に及ぶ大仕事だったでしょう。それでも神がエレミヤにそのように命じられたのは、3節にあるように、もしかすると、主が彼らに下そうとしているわざわいを聞いて、彼らがそれぞれ悪の道から立ち返るかもしれないと思われたからです。そうすれば、主も彼らの咎と罪を赦すことができます。つまり、主がエレミヤにご自身のみことばを書き記すようにと言われたのは、ユダの民の罪、咎を赦すためだったのです。主はどこまでもあわれみ深い方です。あなたの下には永遠の腕があるのです。
4節をご覧ください。それでエレミヤは、ネリヤの子バルク呼びました。口述した主のことばを巻物に書き記すためです。それは、この時エレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行けなかったからです。なぜ彼は閉じ込められていたのでしょうか。それは彼が神殿で語った説教に対して、当時の祭司や預言者たちが反感を持っていたからです。たとえば、6章には、当時の預言者や祭司たちが、平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っているのを聞いたエレミヤは、それは偽りだと糾弾しました(6:14)。また、7章には、彼らが「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と語っていたのに対して、そういうことばに騙されてはならない、と叫びました。それよりも、あなたがたの生き方と行いを改めるようにと(7:4-5)。そうしたエレミヤの態度に対して、エホヤキム王はじめ当時の宗教指導者たちが怒り、彼が主の宮に出入りできないようにしていたのです。
しかし、いかなる人間も、いかなる方法も神のことばを妨げることはできません。神のことばを語れないならば文書によって、自分が監禁されて語れないならば代理者を通してでも、神はご自身のことばが語られるようにされたのです。エレミヤはバルクを呼び、エレミヤに語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記しました。そしてその巻物に記された主のことばを、断食の日に主の宮で民に読み聞かせました。それはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月のことです。ということは、この巻物が書き記されるまでに約1年のかかったということです。バルクは、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、断食が布告された日に、主の前でこれを読み聞かせました。
それは第九の月の断食の日でした。この第九の月の「断食の日」とは、大贖罪日と呼ばれる日で、ユダの民にとって特別な日でした。この日は悔い改めと罪の赦しを受ける日なのです。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日の一つになっています。今日のイスラエルでも、この日はすべての仕事が休みとなり空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日にはすべての民は断食して、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うのです。そのような日にバルクは神殿でエレミヤから託された巻物を読み上げたのです。それは、人々に悔い改めを促すには最もふさわしい日でした。
神のことばは、誰が伝えても同じ力を現わします。ですから、「誰を通して」伝えられるかが重要なのではなく、「誰の」ことばが語られるのかが重要なのです。エレミヤが伝えた時も神の力が現れましたが、バラクが書き記した御言葉を読んだ時も同じ力が現れました。それは彼らが伝えたことばが全能なる神のことばだからです。バラクは神のことばを書き記すのに1年もかかりました。バラクはそれを主の前で断食が布告された日に、書記シァファンの子ゲルマヤの部屋で、すべての民の前で民全体に聞こえるように、大胆に読み上げました。何が彼をこんなに勇敢な者に変えたのでしょうか。それは神のことばに対する信頼です。神のことばに対する信頼こそ、私たちをもそのような者に変えるのです。
Ⅱ.焼かれた神のことば(11-26)
そのバルクが語った神のことばに対して、人々はどのように応答したでしょうか。次に、11~26節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての【主】のことばを聞き、12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。14 すべての首長たちは、クシの子シェレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻物を手に持って彼らのところに入って来た。15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私は墨でこの書物に記しました。」19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」20 彼らは巻物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべてのことを報告した。」
神のことばは生きていて力があります。両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します(ヘブ4:12)。バラクが読んだ御言葉は大きな反響を巻き起こしました。エレミヤの預言にこれといった反応を示さなかった首長たちが、巻物の内容を確かめたいと、バルクに求めたのです。そこでバルクは彼らの前で再び巻物に記された御言葉を読みました。バルクが御言葉を読んでいる間、16節にあるように、御言葉が彼らの心を刺し通したので、彼らは驚きと恐れでいっぱいになりました。そこには重大な警告とさばきの内容が込められていたからです。さばきの内容とは、バビロンによって滅ぼされるということです。すると彼らは、このことは必ず王に告げなければならないと言いました。しかし、そうなれば彼らの身に危険が迫るのではないかと心配して、バルクにこう言いました。19節です。
「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」
神のことばによって心が動かされた首長たちは、行動によってその変化を表しました。エレミヤの自由を拘束していた彼らはエレミヤとバルクをかくまい、巻物を王にもっていく伝達者となりました。こうした劇的な行動の変化の中心には、いつも神のことばがあります。神のことばによって神を恐れる心が、私たちの行動を変えるからです。
次に、21~26節をご覧ください。ここにはその神のことばを聞いたエホヤキムの反応が記録されてあります。「21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。24 これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、【主】は二人を隠された。」
この巻物のことを聞いたエホヤキム王は、ユディに命じてそれを取りに行かせました。ユディはそれを書記エリシャマの部屋から取ってくると、それを王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせました。すると王は、とんでもない行動に出ました。何とそれを小刀で裂いては暖炉の火の中に入れてしまったのです。そして巻物のすべてを暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。それは第九の月のことでした。ユダヤの暦の第九の月とは、私たちの暦では11月の終わりから12月にかけての頃ですが、海抜800メートルにあるエルサレムの冬は寒さが大変厳しくなります。部屋には暖炉がたかれていました。するとユディが3,4段落を読むごとに、エホヤキム王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火の中に入れたのです。これらのことばを聞いても、王も家来たちもだれ一人恐れおののくことなく、衣を引き裂くこともしませんでした。悔い改めようとしなかったのです。巻物を燃やすことに反対する人はいましたがそれはごく小数の人たちで、大半の人たちはそうではありませんでした。そればかりか、王はバルクとエレミヤに逮捕状を出し、彼らを捕らえるようにと命じたのです。
しかし、主が二人を隠されました(26)。どのように隠されたのかはわかりません。ただ言えることは、主のことばを信じそこに生きる人には主の守りがあるということです。どうしてそのようになったのかはわからないけれども、神様が成してくださったとしか言いようがない場合があります。皆さんもそういうことを体験したことがあるのではないでしょうか。私もたくさんあります。人間的には考えられないことを神様が成してくださったということが。それはまさに神様の不思議であり、神様の御業です。神に信頼する者には必ず神の恵みと神の祝福だけでなく、神の守りがあるのです。
ここで一つ考えてみたいことは、実はこの出来事の約20年前に、彼の父親であるヨシヤ王が神殿修復の際に「律法の書」を発見した時どのような態度を取ったかということです。それはエホヤキム王とは正反対の態度でした。彼らは親子ですが、彼らほど対照的な親子も珍しいと思います。ヨシヤ王は書記シャファンが巻物に記された「律法の書」を朗読したとき、深い悔い改めを表しました。Ⅱ列王記22章11節にはこうあります。
「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」
ヨシヤ王は神のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いて悔い改めました。彼はまず自分自身が真剣に悔い改め、そして民にも悔い改めを求めました。それ以降、ユダ王国ではヨシヤの宗教改革と言われる霊的リバイバルが起こったのです。その結果、神はヨシヤ王と民を祝福されました。しかしその子どもであるエホヤキム王は、父がしたように衣を裂いて悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分が気に食わない神のことばを聞いてそれを焼き、滅ぼそうとしたのです。神のことばをいのちと祝福として受け入れる人は神の祝福を受けますが、そんなの関係ない、不必要なものだとみなす人は、神の怒りを免れることはできません。
最近、私たちの教会のために毎月祈りをもって捧げてくださっている方からこんなメールがありました。
「先生、こんばんは。私は、人手不足なので助けて応じ介護施設で働き始めました。しかし、ベテラン職員の思わぬイジメに合いました。一部職員が職員を、入居者さんを感情むき出しに声を荒げています。悲しいです。仕事が仕事だけについ感情的になるのでしょう。僕は、イエス様が弟子の足を洗った様にこれでいいかなと自問しながら仕事をしてます。」
これが神を恐れる人とそうでない人の違い、神のことばに従って生きる人とそうでない人の違いです。神のことばに従って生きる人は、イエス様が足を洗った様に生きます。そしてそこには神の祝福が必ずもたらされるのです。
私は毎年、赤い羽根の共同募金に協力させていただいているのですが、集金に来られた方がこういうのです。「教会に来られる方はみんな、何と言うか、お顔が優しいですよね。この前教会の前を通った時そこに2~3人のご婦人たちがいたのでお話させていただいたんですが、皆さんとてもほがらかでした。それはやっぱりキリスト教の教えから来ているんですかね。」
私はそれを聞いて、正直、とても嬉しかったです。もしかすると募金に協力したので少し良いことを言おうと思ったのかもしれませんが、神のことばは生きているなぁと思いました。神のことばを聞いてそれを受け入れ、それに従って生きる人は、神が祝福してくださり、そのようにお顔まで穏やかになるんだと。これは本当だと思います。もしこれが週1回の礼拝だけでなく毎日だったら、どれほど穏やかな顔になるでしょう。
1840年、ロンドンのある洋服屋に、一見何の取り柄もなさそうな店員がいました。彼は御言葉を愛し、毎日御言葉を読みました。今日で言えば、毎日喜んでディボーションをして神を喜んでいるような人です。そんなある日、彼は自分の人生を変える御言葉を目にしました。
「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(Ⅰコリント15:2)
この御言葉を読んだ瞬間、彼は「これだ」と思いました。そして、彼はすぐにその御言葉を握り締めました。何の取り柄もない自分のような者でも、御言葉を固く握るなら、主は必ず用いてくださると確信したのです。そして、数人の青年たちとともに日曜日ごとに集まりを始めました。それがYMCAの始まりでした。皆さんは、YMCAを始めた人をご存知でしょうか。ジョージ・ウイリアムズという人です。あの有名なジョン・ワナメーカーではありません。ジョン・ワナメーカーはYMCAの建物を建てた人ですが、YMCAを始めた人はジョージ・ウィリアムズです。
御言葉を握る人には神の恵みと祝福があります。そして神はそのような人をご自身の働きのために用いてくださいます。そして主が用いる人を、主は必ず守ってくだるのです。
バルクが読み上げた御言葉によって変えられた首長たちは、巻物の内容をエホヤキムに伝えました。彼らの願いは巻物に記された預言のことばを聞いて、エホヤキム王が変えられることでした。しかし王はそれを受け入れるどころか、エフディが読み上げるごとにそれを裂いて暖炉に投げ入れました。エホヤキムの態度は、神のことばを聞いて嘆き悲しみ、衣を裂いて悔い改めた父のヨシヤ王とはあまりにも対象的でした。神のことばはすべての人に平等に与えられていますが、すべての人が同じ反応をするとは限りません。あなたはどのような反応をしていますか。ヨシヤ王のようにそれを聞いて衣を裂いて悔い改めていますか。それとも、このエホヤキム王のようにそれを軽んじ暖炉に燃やすでしょうか。どのように受け入れるかは、あなたの選択にかかっているのです。
Ⅲ.決して滅びない神のことば(27-32)
エホヤキム王によって暖炉の火に燃やされた神のことばですが、それで滅びてしまったかというとそうではありません。神のことばは決して滅びることはありませんでした。27~32節をご覧ください。「27 王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。28 「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。【主】はこう言われる。あなたはこの巻物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの地を滅ぼし、ここから人も家畜も絶えさせる、と書いたのか』と。30 それゆえ、【主】はユダの王エホヤキムについてこう言われる。エホヤキムには、ダビデの王座に就く者がいなくなり、彼の屍は捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に対して、わたしが告げたが彼らが聞かなかった、あのすべてのわざわいをもたらす。」32 エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」
エホヤキム王は巻物を燃やしてしまいましたが、それで神のことばが破壊されたわけではありません。その後、主はエレミヤに、焼かれた巻物に書かれた内容をもう一度書き記すようにと命じられました。時間をかけてやっと完成した巻物が焼かれてしまった後で、再び初めから書き直すという作業は、いかに困難で忍耐を要することでしょうか。
まだワープロの時代です。私が牧師になって10年くらい経った頃でしょうか、ワープロを使って毎週日曜日の説教の原稿を書いていました。今もそうですが、私は昔から完全原稿と言って、一字一句すべて書く完全原稿を書くようにしています。そうすれば、あとはレンジでチンするだけで済みますから。そのワープロで土曜日の夜、翌日の説教の原稿を書いて完成したときです。まだ3歳くらいだった二番目の娘がそのワープロと遊んでいて、デリートキーを押してしまったのです。私は青ざめました。何時間もかけて完成した説教の原稿です。それが一瞬にして消えてしまったのです。私は元々こうした機器の取り扱いが苦手で、もしかするとCtrlキー+Zで復元できたのかもしれませんが、そんな知識など全くなかった私はただオドオドするばかりでした。「どうしよう。明日の朝までもう1回書かなければならないのか」何時間もかけて書いた説教をもう一度書くなんて考えられません。でもやるしかありませんでした。娘には「絶対触っちゃだめだからね。」と厳しく叱りつけ、そして一晩かけて一から書き直したのです。それを考えたら、1年以上もかけて書き上げた巻物をすべて失ってしまい、その後で、「もう一度初めから書くように」と言われたら、再度、それに取り組む意欲が起こるだろうかと、考えてしまうところです。
しかし、エレミヤは、もう一つの書物を取ってそれをバルクに与え、バルクは再びエレミヤが口述した内容を書き記しました。何という忍耐深さ、何という行動力でしょうか。それは神のことばはどんなことがあっても決して滅びることはないということを示しています。だれかが聖書を撲滅しようとも、神のことばである聖書は決して滅びることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人が50年間でこれを破壊できることを示そう。」と豪語しましたが、彼が死んで20年経ってから、そのヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が買い取り、そこで聖書が印刷されるようになりました。人々がどのように神のことばから逃れようとしても、神のことばは決して滅びることはないのです。
それどころか、最初の巻物は焼かれましたがそれによってよりすばらしい第二の巻物が完成しました。第一の巻物はヨシヤの時代からエホヤキムの治世の第四年までの預言でしたが、第二の巻物はそれ以降の新しい預言も含まれたものだからです。私たちが今手にしているエレミヤ書は、この第二の巻物が書かれたものです。それは最初のものよりも更に詳しく、さらに内容が豊かになったものです。神の計画や神のことばを破壊しようとする試みは必ず失敗に終わります。しかし、神のことばは決して滅びることはありません。第二の巻物が新たに書き記されることによって伝承され続けました。神殿が焼失し、国が滅び、民が祖国から切り離され捕囚とされることがあっても、神のことばは人々に命を与えることばとして残ったのです。しかし、神のことばを無きものにしようとしたエホヤキムの行為は、ダビデ王家とその王国、その領土を失うことを決定付けました。このことにエホヤキムは気付きませんでした。そこに気付くことから真の悔い改めが生まれます。そのために神のことばは新たに書き直され、残っているのです。ここに希望があります。神のことばは絶対に滅びることはありません。そればかりか、神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。今もあなたの心に力強く働いてくださいます。この神のことばに信頼し、神のことばに堅く立ち続けましょう。神は必ずあなたの人生の中に働き、あなたが考えられないような不思議な御業を成してくださいますから。
投稿者: Ohashi
レカブ人から学ぶ エレミヤ書35章1~19節
聖書箇所:エレミヤ書35章1~19節(旧約P1359、エレミヤ書講解説教65回目)
タイトル:「レカブ人から学ぶ」
きょうは、エレミヤ35章から、「レカブ人から学ぶ」というタイトルでお話します。レカブ人とはモーセのしゅうとイテロの子孫でミディアンの地に住んでいた遊牧民族ケニ人の子孫と考えられています。彼らは、イスラエル人がモーセによってエジプトから救い出され時、イスラエル民族に加わり、エルサレム近郊に定住しました。そのケニ人の話がここに出てくるのです。なぜでしょうか?レカブ人の模範的な態度を取り挙げることによってユダの民の罪を指摘するためです。良い手本を挙げて過ちを指摘するのは効果的です。その良い手本とはどのようなものでしょうか。それはどこまでも妥協しない忠実な生き方です。彼らは異邦人でありながら、先祖レカブが自分たちの命じたことばに従って誠実さを貫きました。その忠実な態度がここで主に称賛されているのです。それに対してイスラエルはそうではありませんでした。彼らは先祖の言葉どころじゃない、最も大切な方である神の言葉に聞き従おうとしませんでした。
それはユダの民だけのことではありません。それは私たちにも言えることです。私たちは主イエスによって罪から救い出され神の民となったにも関わらず、あまりにも簡単に神への忠実さを忘れて、自分の思いを優先させてしまっていることはないでしょうか。レカブ人たちは確かに狭いところはありますが、彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり表明し、その信仰の現れとして、日々御言葉に従って生きる誠実さが求められているのです。しっかりと神の御言葉に聞き従う者となるために、レカブ人の誠実な生き方から学びたいと思います。
Ⅰ.レカブ人から学ぶ(1-11)
まず1~11節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」3 そこで私は、ハバツィンヤの子エレミヤの子であるヤアザンヤと、その兄弟とすべての息子たち、レカブ人の全家を率いて、4 【主】の宮にある、イグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは首長たちの部屋の隣にあり、入り口を守る者、シャルムの子マアセヤの部屋の上であった。5 私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。11 しかし、バビロンの王ネブカドネツァルがこの地に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデアの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう』と言って、エルサレムに住んだのです。」
1節に「ユダの王、エホヤキムの時代に」とあります。前回の34章はユダの王ゼデキヤの時代のことでしたから、さらにそれ以前の話となります。ちなみに、ユダの王はゼデキヤの前がエホヤキン(エコンヤ)、その前がエホヤキムです。ここではそのエホヤキムの時代のことが取り上げられているのです。年代的には、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前になります。その時代に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。
「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」
レカブ人とは、先程お話したようにそのルーツはモーセのしゅうとイテロで、もともとミディアンの地に住んでいた民族ですが、イスラエルがエジプトを出た時、彼らと一緒にカナンに来てそこに定住しました。そのレカブ人の家に行って彼らに語り、主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよというのです。不思議な命令です。何か祝い事でもあったのでしょうか。そうではありません。レカブ人たちの忠実さを試そうとしたのです。レカブ人はぶどう酒を飲みません。それは6節にあるように、先祖ヨナタブが「あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。」と命じていたからです。それはこの時から約200年も前のことです。ヨナタブが命じたのは実はそれだけではありませんでした。7節にあるように、家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、所有したりしてはいけないということも命じていました。いったいなぜ彼はこんなことを命じたのでしょうか。それは当時の北王国イスラエルではバアル礼拝が盛んに行われていたからです。そしてその原因は都市型の生活を送っているからだと考えたのです。都市型の生活をしていると世俗化し、偶像礼拝に陥りやすいと感じた彼は、自分の子孫たちがそうならないために、この誓いを守り通すようにと命じたのです。その一つのことがぶどう酒を飲んではならないということだったのです。それなのに主はそのレカブ人の家に行って、彼らに酒を飲ませよと言われました。なぜでしょうか。それは彼らの忠実さを試すためでした。彼らが先祖ヨナタブの命令にいかに忠実であるかをイスラエルに示すためだったのです。忠実さはイスラエルの民が最も必要としていたことでした。サタンは、罪を犯させるために私たちを誘惑しますが、しかし神は、私たちの信仰を成長させるために私たちを試されます。エレミヤの勧めに対して、レカブ人はどのように応答したでしょうか。6~7節をご覧ください。
「6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。」
レカブ人たちはすぐにエレミヤのことばを拒絶しました。彼らの先祖ヨナタブの命令に背くことなどは、彼らには考えられないことだったからです。続いて彼らはこう言いました。8~10節です。
「8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。」
彼らは先祖ヨナタブが命じたすべての命令に聞き従ってきました。この時点ですでに200年も経過していました。それでも彼らはずっと先祖ヨナタブの命令を守り、そういう生活を続けてきたのです。聖書には禁酒禁煙も天幕生活も命じられていません。勿論、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であり、その自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい(Ⅰコリント6:19-20)という御言葉に照らし合わせて考えると、お酒やたばこは避けた方が鶏鳴なのは確かです。でもそれはお酒やたばこに限らず、からだに悪影響を及ぼすすべてのことに言えることでしょう。しかし、彼らがそうした生活を貫き通したのはそうした理由からではなく、自分たちの弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない生き方をするためにはこの戒めを守ることが必要だと判断したからです。
「朱に染まれば赤くなる」という言葉がありますが、それは人との出会いや付き合いがそれだけ重要だという意味です。モーセの子孫であるレカブ人は、カナンでの生活と宗教に反対し、ぶどう酒も飲まず、天幕生活を続けました。彼らは世俗から離れて暮らすことによって、物質的な豊かさよりも、先祖との霊的交わりを重視したのです。
聖書の中には、彼らと同じように世俗を離れ、荒野で暮らし、主との濃密な霊的交わりを保とうとした人たちがいます。たとえば、バプテスマのヨハネはその一人でしょう。彼は荒野で叫ぶ声となって、主が来られるために人々の心を備えました。彼はらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でした。
旧約聖書に出てくる「サムソン」もそうです。彼はナジル人といって神から特別な使命が与えられて生まれてきた者として、ぶどう酒は飲んではならない、汚れたものには触れてはならない、頭にかみそりをあててはならないという決まりがありました。残念ながら彼はそれをいとも簡単に破ってしまいましたが・・。
現代ではカトリックの修道院などはその一つです。彼らは世俗から離れてただひたすら祈りとみことばに励んでいます。
しかし、レカブ人たちは先祖ヨナタブが自分たちの祝福のためにはこれを守らなければならないということをずっと守り通してきたのです。彼らは何から何まで融通のきかない人たちだったわけではありません。11節には、彼らがエルサレムに定住するようになったいきさつが記されてありますが、それはバビロンの王ネブカドネツァルが北イスラエルを支配していたアッシリアを攻め上って来たのでそれを避けるためでした。それまで彼らは北王国イスラエルを転々としていましたが、その危険から身を避けるためには先祖レカブの命令から外れても安全に住むことができるエルサレムに定住したのです。つまり、彼らは定住してはならないというレカブの命令に固執しなかったということです。しかし、生き方については拘りを見せました。たとえ、主の宮に招かれ、神の人である預言者エレミヤから酒を飲むようにと勧められても、それを拒否しました。それを200年も250年も続けて来たのです。確かにレカブ人の考え方はセクト的で狭いと思われるかもしれません。彼らは世俗の文化を拒否し、禁欲し、神の言葉よりも教祖の言葉を重んじます。しかし彼らのそうした揺るがぬ信仰とその純粋性には学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
みなさんは、アーミッシュをご存じでしょうか。アーミッシュは、16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタントの一派ですが、彼らは基本的には、農耕・牧畜を行って、自給自足で生活しています。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術や、製品、考え方は拒否します。この現代において、自動車を使わず馬車に乗っているのですよ。電気は引いていません。もちろん、テレビ、パソコン、家電などは使いません。風車・水車の蓄電池を使ったり、ガスでうっすら明かりをつけたり、調理したりしています。中には、それすら使わない人たちもいるそうです。収入は、キルトや蜂蜜の販売、一部の地域では、レストランや馬車での観光を行って得ています。現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人いるといわれていると言われています。
アーミッシュには、神との霊的交わりを保つために、『オルドゥヌング』という戒律があります。それは以下のようなものです。
・交通手段は馬車を用いる。屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。
・ アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
・怒ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。
・読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
・讃美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
・義務教育(8年間)以上の高等教育を受けてはいけない。それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。
・化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。(決められた服装がある)
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。
などなど。他にもたくさんの戒律がありますが、原則として、快楽を感じることは禁止されています。このような戒律を破った場合、懺悔(ざんげ)や奉仕活動の対象となります。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁されることもあるそうです。
ここまでいくとどうかなぁと思いますし、私たちは彼らのような狭い考え方に倣わなければならないということはありませんが、彼らの愚直なまでの誠実さには学ぶべきものがあるのではなでしょうか。私たちは神に選ばれて救われ、神の民とされた者として、どれだけ神の言葉に忠実に生きているでしょうか。人から何かを勧められた時、それをみことばと照らし合わせて、譲れないものは譲れないと、確固たる生き方をしているでしょうか。私たちはレカブ人がカナンに定住しながらもその文化や習慣に流されないで生きていたように、この世にあって神の御言葉にしっかりと立った生き方が求められているのではないでしょうか。
Ⅱ.ユダの民の不従順(12-17)
次に、12~17節をご覧ください。「12 すると、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言う。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたは訓戒を受け入れて、わたしのことばに聞き従おうとしないのか──【主】のことば──。14 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲んでいない。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。15 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。16 実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。17 それゆえ──イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる──見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らは聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らは答えなかったからだ。』」」
主はなぜエレミヤに、レカブ人にぶどう酒を飲ませよとの命令を与えたのでしょうか。主はここでその理由を説明されます。それはユダの民の不従順さを責めるためです。レカブ人たちは、先祖の命令を守りぶどう酒を飲まなかったのに対して、ユダの民は、預言者が語り続けた神の言葉に聞き従わず、自分勝手な道を歩んできました。人は信頼する相手のことばに耳を傾けるものですが、ユダの民にはそのような態度が見られませんでした。15節には、「ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない」とありますが、これは十戒の第一戒の戒めを破ることでした(出エジプト20:3)。それゆえ、イスラエルの神万軍の主は、ユダとエルサレムの住民に、「すべてのわざわいを下す」と言われたのです。具体的には、バビロン捕囚という出来事です。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その住民はバビロンに捕え移されることになります。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、ここでレカブ人たちが称賛されているのは彼らの信仰ではなく、彼らが家を建てないで荒野に住んだことや、ぶどう畑を所有しなかったことではなく、あくまでも先祖レカブの命令にどこまでも忠実であったという点です。というのは、モーセの律法では逆にそのようにするようにと命じているからです。もし彼らがイスラエル人であるなら、彼らは家を建て、ぶどう畑を所有し、定住生活をしなければなりませんでした。しかし、彼らは異邦人であったためその必要がなかっただけのです。ですから、彼らが称賛されたのはそういう点ではなく、あくまでも先祖の命令にどこまでも忠実であった、誠実であったという点においてなのです。この点を見落としてはなりません。
Ⅲ.レカブ人たちへの祝福(18-19)
一方、レカブ人たちには祝福が宣言されます。18~19節をご覧ください。「18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。19 それゆえ──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない。』」」
レカブ人たちへの祝福は、「レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない」ということです。どういうことでしょうか。「わたしの前に立つ人」というのは、祭司職を意味する表現ですが、先程も申し上げたように、彼らは異邦人で先祖を信仰していたので、「神殿に仕える人」という意味ではなさそうです。この「神の前に立つ人」とは、永遠に途絶えることがないという意味です。つまり、今日でもこの地上のどこかにレカブ人の子孫が生存していることになります。ただイザヤ書66章18~21節には、千年王国においてはイスラエル人だけでなく、異邦人の祭司も立てられると預言されているので、もしかするとその中にレカブ人も含まれるということを示しているのかもしれません。いずれにせよ、レカブ人は先祖の命令に聞き従い、そのすべての命令を忠実に守り、彼が命じたとおりに行ったので、神から祝福されたのです。
これはレカブ人だけではありません。私たちにも求められていることです。異邦人のレカブ人がその先祖の命令に対してそこまで忠実に守り続けてきたのならば、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、神に対してもっと忠実でなければなりません。彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとして、日々神の言葉に従って生きるという誠実さが求められているのです。
皆さんは、NHKの朝の連続テレビ小説の「とと姉ちゃん」をご存知でしょうか。これは、戦後すぐに創刊され、日本中の多くの家庭で読まれた生活総合雑誌「あなたの暮らし」の創刊した大橋 鎭子(しずこ)をモデル化した小説ですが、主人公の常子の家には父竹三が決めた3つの家訓がありました。それは、一つ。朝食は家族皆でとること。一つ。月に一度、家族皆でお出掛けすること。一つ。自分の服は自分でたたむこと。父竹三は娘とたちが幼いうちに病気で亡くなりますが、この家訓は生きていて、この家族はこの家訓に従って生きていくのです。
昔は、多くの家にこのような家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうか。今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「譲れないものは譲れない。これは守らなければならない」という不動の軸になるものが必要なのではないでしょうか。神の民にとってそれは神の言葉である聖書です。私たちは自分たちの譲れない生き方として、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとしての祈りと御言葉の時を持ち、それに聞き従うというそうした生き方を貫いていきたいと思うのです。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼されることはありません。忠実さこそ信頼の鍵なのです。
心を翻すことなく エレミヤ書34章1~22節
聖書箇所:エレミヤ書34章1~22節(旧約P1357、エレミヤ書講解説教64回目)
タイトル:「心を翻すことなく」
きょうは、エレミヤ34章から、「心を翻すことなく」というタイトルでお話します。「心を翻す」とは、心を変えること、考えを改めることです。私たちは、聖書の御言葉を聞いたり、読んだりする中で、その御言葉に一度は従おうと決意するも、次の瞬間には、目先の利益を優先して、再び心を翻すという弱さがあるのではないでしょうか。主に救われ、主のみこころに歩む者として、私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。一度主の御言葉に従うと決めたら、心を翻すことなく、聖霊の助けを受けながら、どこまでも主の言葉に従うことが求められているのです。
きょうの箇所には、ゼデキヤとユダの民が一度は主の御言葉に従って奴隷の解放を宣言するも、状況が変わると目先の利益を優先して、心を翻してしまいました。それは主のみこころを損うことでした。その結果、彼らは神のさばきを受けることになります。私たちは心が動かされやすい者ですが、主の助けを受けて、一度神の前で誓った誓いを最後まで果たさなければなりません。
Ⅰ.ゼデキヤ王への警告(1-7)
まず1~7節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」6 そこで預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語った。7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。」
前章の33章ではエレミヤはゼデキヤによって監視の庭に監禁されていましたが、この34章ではエレミヤはゼデキヤ王の元に自由に出入りしています。すなわち、この34章の出来事は33章以前の出来事、すなわち、まだ監禁されていなかった時のことです。エレミヤ書は、年代順ではなくテーマ順に並べられているので、話が遡ることがあるのです。
1節には、「バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。」とあります。これは、バビロンの王ネブカドネツァルが、エルサレムとそのすべての町を攻めていたときのことです。そのとき主からエレミヤに主の言葉がありました。それは2~5節にある内容ですが、エルサレムはバビロンの手によって落ちるということ、そしてゼデキヤはその手から逃れることはできないということ。彼は捕らえられて、ネブカドネツァルの手に渡されるからです。それは主によって定められた避けることができないことなのだから、それを受け入れるべきだ、ということでした。そうすれば、彼は剣で死ぬことはなく、処刑されたりすることなく、平安のうちに死ぬことができると。「平安のうちに死ぬ」とは、自然に死ぬということです。彼はそれ以前の王たちと同じように、ユダヤ人の習慣に従って丁重に葬られることになるということです。
そこでエレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語りました。そのとき、バビロンの王の軍勢は何をしていたかというと、エルサレムとユダに残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていました。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからです。ラキシュはエルサレムから南西に45㎞にある町で、アゼカはラキシュの北東16㎞にあった町です。バビロン軍はまずこの町を攻撃しました。それはこの町が堅固な要塞都市だったからです。かつてアッシリアがイスラエルを攻撃した時も、この堅固な要塞都市であるラキシュを攻めてから、満を持してエルサレムを攻めました。バビロンも同じルートでエルサレムを攻略しようとしたのです。籠城攻めは日本では豊臣秀吉が得意としていた戦法ですが、敵を城に閉じ込めて、相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つのです。この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありません。バビロン軍はそのことをよく知っていました。ですから、誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要都市のすべてを攻め滅ぼしてから、エルサレムを包囲したのです。
エルサレムに閉じこもっていたゼデキヤは、もはやイスラエルの国内からの援軍は期待できませんでした。残る頼りは、ひそかに同盟を結んでいたエジプトからの援軍だけです。きっとエジプトが来て助けてくれると期待していましたが、待てども暮らせど、エジプトからの援軍はやって来ませんでした。バビロン軍は、難攻不落の呼び声高いエルサレムを無理に攻め落とそうとはしないで、彼らが外に出られないように中に閉じ込めました。これが18か月、1年半にも及びました。エルサレムの人は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかと脅える毎日でした。しかもそれが1年半も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなってもおかしくありません。食料も底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ちていきました。そこで彼はエレミヤのところにやって来て、神の助け求めたのです。その時のやりとりがエレミヤ書21章1~2節の内容です。
「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
2節に「主がかつてあらゆる奇しいみわざを行われたように」とありますが、これはエレミヤから遡ること100年前のヒゼキヤ王の時代のことです。エルサレムがアッシリアの王セナケリブの猛攻を受けて陥落寸前になったとき、ヒゼキヤ王が部下を預言者イザヤに遣わしたときの出来事です。その時どんなことが起こったのでしょうか。その時イザヤは力強く、主が救ってくださると答え、実際にアッシリア軍は一晩で18万5千人もの兵が疫病で死んでしまいました。それで彼らはエルサレムから逃げ去ったのです。ゼデキヤ王はその時のことを思い出し、その時のように主が救ってくださることを期待して、自分の部下をエレミヤのところへ遣わしたのですが、イザヤの時とは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。2節の後半と3節をご覧ください。主はこう言われました。「見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。あなたはその手から逃れることはできない。あなたは必ず捉えられて、彼の手に渡されるから」です。何と主はバビロンと戦ってくれるというのではなく、反対にゼデキヤをバビロンの手に渡すと言われました。そしてエルサレムに住む者は、人も家畜も疫病で死んでしまうと。そして最後はゼデキヤとその家来、その民はバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されることになるというのです。助かる道はたった一つしかありません。それはバビロンに降伏することです。そうすれば彼は剣で死ぬことを免れ、平安のうちに死ぬことができます。3節には「必ず」とありますが、それは必ず起こることです。主が「必ず」と言われることは、必ずそうなるからです。バビロンの王に服することは屈辱的なことではありますが、そうすることで、捕囚の地でゼデキヤが安らかに死ぬことができるのであったなら、どんなに幸いであったかと思います。また、その死を悼む民がいたということも大きな慰めであったはずです。
しかし、ゼデキヤはそうしませんでした。この後の39章4~7節をご覧いただくとわかりますが、彼は最後までバビロンの王に降伏しませんでした。その結果、ゼデキヤはエレミヤが預言した通り悲惨な死を遂げることになります。39章4~7節にはこうあります。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出ましたが、カルデアの軍勢、これはバビロンの軍勢のことですが、彼らの後を追うと、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいたバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れてきました。ネブカドネツァルはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺しました。さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめたのです。最後は獄中で死んでしまいます。彼が最後に自分の目で見たのは、自分の目の前で自分の息子たちが虐殺されるということでした。何とむごいことでしょうか。いったいなぜそこまで悲惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは、彼がエレミヤを通して語られた神のことばを受け入れなかったからです。エレミヤのことばを聞いて彼がそれを受け入れていたならば、彼の死は本当の意味で「安らかな死」となっていたことでしょう。それは私たちへの教訓でもあります。神が語られたことは必ずそのようになるのですから、私たちは心を頑なにしないで、神のことばに素直に従わなければなりません。
皆さんは、アテローム性動脈硬化という病気をご存知ですか。これは、コレステロールの蓄積と動脈の壁の傷跡のせいで起こる動脈硬化のことです。 霊的心の硬化も起こることがあります。 心の硬化は、神の真理を示されたのに、それを認めることも受け入れることも拒否することで起こります。箴言4章23節に、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」とあります。あなたはどうでしょうか。あなたの心は硬化してはいないでしょうか。何を見張るよりも、あなたの心を見守らなければなりません。いのちの泉はそこから湧くからです。
Ⅱ.心を翻したゼデキヤとエルサレムの民(8-11)
次に、8~11節をご覧ください。「8 ゼデキヤ王がエルサレムにいる民全体と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、【主】からエレミヤにあったことば。9 その契約は、各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないというものであった。10 契約に加わったすべての首長と民は、各自、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから奴隷を去らせた。11 しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」
ゼデキヤは、エレミヤの告げる神の言葉に心底から耳を傾けて真剣に聞こうしませんでしたが、そのことばを気にしていたのでしょう。彼はエルサレムにいた民全体と一つの契約を結びました。それは、奴隷を解放するということです。おそらく彼は、自分に向けられる神の怒りをなだめる方法を考えていたのでしょう。そこで、バビロンから独立を勝ち得るために神の恵みと祝福が必要だと感じたのです。それで彼はエルサレムにいる民全体と契約を結び、彼らを解放しました。奴隷というのは、同じユダヤ人の奴隷のことです。レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから奴隷にしてはならない、と規定されてあります(レビ25:42,55)。しかし当時、経済的な理由から自発的に奴隷になる者がいたのでしょう。そのような場合は、奴隷は6年間働いて、7年目には解放されることになっていました(申命記15:12~18)が、彼らの先祖たちは、それを守ってこなかったのです。それを今、解放しようというのです。それは主の目にかなうことでした。
しかし、その後で、彼らは心を翻し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させたのです。いったい何があったのでしょうか。11節をご覧ください。「しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」
一度はエルサレムの民全体とユダヤ人の奴隷を解放すると契約したのに、どうして彼らは心を翻してしまったのでしょうか。ここには記されてありませんが、その背景にはエジプトのファラオの軍勢が彼らを助けるためにやって来たことがあります。そのことはエレミヤ書37章5節にありますが、そこにはこうあります。「また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。」
待ちに待ったエジプトの援軍がやって来たのです。カルデヤ人とはバビロン人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレムを救出するためにやって来たことを知り、一時エルサレムの包囲を解くのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れるに足らずだ、私たちは自由だ、と小躍りしました。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それがこの11節の背景にあることです。それを見た民は、心を翻してしまいました。奴隷を取り戻したいという思いにかられるようになったのです。バビロンに包囲されている間は奴隷も大した仕事もなかったのであまり必要ではありませんでした。むしろ、奴隷を養うにはお金がかかります。ただ飯を食わせるよりは、解放した方がましだと考えましたが、バビロンの包囲が解かれたというのなら話は別です。いてもらった方がどんなに楽なことか・・・。彼らは急に心を翻しました。神聖な神との契約を踏みにじってしまったのです。
苦しい時の神頼みではありませんが、人が神を求めるのは、結局自分都合であったりすることが多いのです。それは、現代の私たちも同じではないでしょうか。自分の都合で信仰を持つ。いわゆるご利益信仰です。ご利益を求めて祈ること自体は悪いことではありませんが、私たちが考えるご利益と神が与えようとしておられるご利益とではちょっと違いがあります。私たちは目先の状況に左右されその利益を考えてすぐに心を翻してしまいますが、神はそのような方ではありません。神は約束されたことを最後まで忠実に守られます。神が私たちに約束しておられることは、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それは言い換えると、神のようになる、ということです。そのために神はあらゆる方法を用いておられるのです。それは時には嬉しいことであったり、時には受け入れがたい辛いことであるかもしれませんが、どのような道を通させるにしても、最後は希望なのです。それなのに、目先の利益を優先し、それに振り回され、神との契約を軽んじることがあるとしたら、中身はこの世の人と何ら変わらないということになります。ただ礼拝の習慣を持っているだけの、取ってつけたような信仰にすぎないだけです。もしそうであるなら、このゼデキヤと同じように、神の御怒りから逃れることはできません。神を信じているというのであれば、心から神を恐れ、神を敬い、神につながった、神第一の歩みを求めるべきなのです。
Ⅲ.どんな境遇にあっても(12-22)
その結果、どうなったでしょうか。最後に12~22節をご覧ください。12~16節をお読みします。「12 すると、【主】からエレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。15 ところが、あなたがたは今日、立ち返って、各自が隣人の解放を告げてわたしの目にかなうことを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。』」
イスラエル人は知っていました。「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない」と。しかし、彼らの先祖は、主の命令に聞き従わず、耳も傾けませんでした。ところが、ゼデキヤはじめ、この時代のユダヤ人たちは違います。彼らは今日、立ち上がって、各自が隣人の解放を告げて主の目にかなうことを行いました。ここではそのユダの民がほめられているのです。しかし彼らは息つく暇が出来ると、以前の状態に戻ってしまいました。神の名で呼ばれる家、神の前に立てた契約をあまりにも簡単に捨ててしまったのです。彼らは神がどのような方かを知っていたのに、自分の利益のために神を侮る態度を取ったのです。それで神は「わたしの名を汚した」と叱責されました。人の心はころころ変わるから”こころ”と名付けられたそうです。とにかく定まりません。チョッとした事でもスグにぐらついてしまいます。しかも、自分だけではないし周りに色々な人がいるものだから、違うココロや価値観に触れるとたちまち心が揺さぶられてしまうのです。
そんな心が変わらないでいることは、私たちの力でできることではありません。そこには聖霊の助けが必要なのです。そして、目先の状況で心を変えないためには、神がどのような方なのかという事実に目を向けなければなりません。パウロは、ピリピ4章11~14節でこう言っています。「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
アーメン!パウロはどんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を知っていました。それは神の救いイエス・キリストでした。ですから、目先の状況がどうであっても、彼の心は変わらなかったのです。彼は彼を強くしてくださる方によって、どんなことでもできことを知っていました。心が変わらないということも、です。それは彼が神の恵みを深く知っていたからです。それは私たちも同じです。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる者に約束された聖霊の助けによって、私たちもどんなことでもできるのです。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。でも聖霊の導きに従って歩むなら、決して肉の欲を満足させることはありません。心がころころ変わることはないのです。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、知恵の種に出会って人生の方向を変えることができました。1866年に発表された小説「罪と罰」は、このような変化が実を結んだ作品です。彼が若かった頃、青年作家として多くの作品を執筆したことで傍若無人で高飛車な態度を取っていました。そんな彼が秘密警察に加担して逮捕され、シベリアへ流刑されました。自分を知る人が誰一人いない場所で、無期で強制労働に服する生活が続きました。昼は強制労働を強いられ、夜は厳しい寒さの中暗い屋根裏部屋で一人絶望に陥りながら過ごしました。
その頃、誰かがドストエフスキーに聖書を手渡しました。それで、彼は毎晩聖書を読むようになりました。そして、聖書の中で神に出会い、みことばを通して神の御声を聞いたのです。ついに、彼は後年心血を注いで一つの作品を書き上げました。それが「罪と罰」です。これは彼がみことばにって新しく生まれ変わった者として、人間の良心の問題を取り扱った作品となっています。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。みことばには人を変える力があります。それは、みことばが読まれると同時に読む人の心に働くからです。
しかし、ユダの民は簡単に心を翻してしまいました。それゆえ神は厳しいさばきを宣告されます。それが17~22節にある内容です。17節には、「それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに──【主】のことば──剣と疫病と飢饉の解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。」とあります。つまり、心を翻したユダの民に対して「剣と疫病と飢饉の解放を宣言する」と言われたのです。また、18節には、彼らが神の前で結んだ契約のことばを守らず、神の契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする、と言われました。これは神とアブラハムとの間で契約を結ぶ話の中でも述べられています(創世記15章)。これは、双方の契約当事者が向かい合った引き裂かれた動物の間を通ります。もし、その契約をどちらかが破れば、その引き裂かれた動物のようになる、つまり、二つに引き裂かれるというものです。
いったんは退却したバビロン軍ですが、彼らは引き返して来て、エルサレムとユダの町々を破壊することになります。そして22節にあるように、「彼らはこの都を攻め取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」のです。神との契約を守るということは、それほど重いことなのです。
旧約聖書の中に、この神との誓いを果たした美しい女性の話が出てきます。それは「ハンナ」です。長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はそれをご覧になり、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、神が喜ばれるものです。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。
一方、祭司エリの4人の息子のうち2人の息子のホフニとピネハスは、ペリシテ人との戦いによって戦死します。それは彼らが主を軽んじたからです。主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(Ⅰサムエル2:30)と言われました。
あなたはどうでしょうか。状況の変化に心が揺さぶられ、目先の利益を優先して、一度は主の御言葉に従うと決意しても、それを翻す弱さがあるのではないでしょうか。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを軽んじる者は軽んじられる。」のです。主に心を定め、心を翻すことなく、主の御言葉に従いましょう。自分が動かされやすい者であることを自覚し、主の助けを求めて祈りながら、主との約束を果たしていきましょう。
主は私たちの救い エレミヤ書33章14~26節
聖書箇所:エレミヤ書33章14~26節(旧約P1356、エレミヤ書講解説教63回目)
タイトル:「主は私たちの救い」
きょうは、エレミヤ33章後半から、「主は私たちの救い」というテーマでお話します。16節には「主は私たちの義」とありますが、同じ意味です。創造主訳聖書では「義」を「救い」と訳していて、こちらの訳の方がわかりやすいと思ったので、そのようなタイトルにしました。
前回の箇所で主は、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」と語られました。この「大いなること」とは、エルサレムの回復のことです。エルサレム(イスラエル)は神に背き、神の戒めを守らなかったので主は彼らから御顔を隠されましたが、もし彼らが主を呼ぶなら、主は彼らが知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。今回はその続きです。主がどのようにエルサレムを回復なさるのかをご一緒に見ていきましょう。
Ⅰ.主は私たちの義(14-16)
まず14~16節をご覧ください。「14 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『【主】は私たちの義』と名づけられる。」」
「見よ、その時代が来る」ということばは、世の終わりを示す特徴的な語です。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす」とあります。「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束」とは、サムエル記第二7章12、13節で語られたことばのことです。主はダビデに次のように言われました。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
これは主がダビデと結ばれた契約なのでダビデ契約と言われているものですが、主はこの契約に基づいて、その日、ダビデのためにいつくしみの約束を果たすというのです。具体的にはダビデのために義の若枝を芽生えさせるということです。これはイエス・キリストによって成就するメシヤ預言です。すでにエレミヤ書23章5節にもこのことばが出てきました。主は、イスラエルとユダに語られたいつくしみの約束のゆえに、ダビデの子孫からメシヤを起こし、公義と正義によってエルサレムを治めてくださると言われました。その結果、エルサレムは安らかな町、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。すばらしいですね、主はご自分がダビデと交わした約束のゆえに、エルサレムを救い、そこで公義と正義を行い、そこが(エルサレム)が安らかに住めるようにしてくださるのです。そしてそこは「主は私たちの義」と呼ばれるようにしてくださるのです。これはイエス・キリストが最初に来臨した時に成就しましたが、実はそれだけのことではありません。来るべき千年王国において、エルサレムに完全な平和をもたらしてくださるのです。
ここではエルサレムは擬人化されています。これは私たちのことでもあるからです。「エルサレム」ということばに自分の名前を入れてよんでみるとわかりやすいと思います。その日、大橋富男は安らかに住み、こうして大橋富男は「主は私たちの救い」と名付けられる。その日がやってきます。私たちはかつてエルサレムのように神に背き、自分勝手な道を歩んだことでバビロンに滅ぼされたような者ですが、主はそんな私たちを救うためにご自分の永遠の契約に基づいて神の救い、神の御子イエス・キリストを与えてくださり、すべての罪からきよめてくださいました。それで私たちも「主は私たちの救い」と呼ばれるようになったのです。
パウロはこのことをエペソ2章1~8節でこう述べています。「1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
これは神の賜物です。自分の罪過と罪との中に死んでいたということは、もはや自分では何もできないということです。そんな死人同然の者を、神はキリスト・イエスにあって私たちとともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。
そのことをここでは「いつくしみの約束」ということばで語られています。エルサレム(イスラエル)は、バビロンによって滅ぼされもはや死んだも同然、自分たちの力ではどうしようもない状態でしたが、神はそんな彼らを救い、安らかに住むことができるようにしてくださったのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?それは神が彼らといつくしみの契約を結んでくださったからです。
詩人の谷川俊太郎さんが、「ぼくのゆめ」という題の詩を書きました。
「おおきくなったら なにになりたい?/と おとながきく/いいひとになりたい/と ぼくがこたえる/おこったような かおをして おとなはいう/もっと でっかいゆめがあるだろ?/えらくならなくていい/かねもちにならなくていい/いいひとになるのが ぼくのゆめ/と くちにださずに ぼくはおもう/どうして そうおもうのかわからない/だけど ほんとにそうおもうんだ/ぼんやり あおぞらをみていると/そんぐ(ぼくがかっているうさぎ)のあたまを なでていると」。
皆さんは、自分の子どもが大きくなったら何になりたいと聞かれ、「いい人になりたい」と言ったら、どう反応するでしょう。ある生命保険会社の調査によると、昨今の子どもがなりたいと思っている第一位はユーチューバーだったそうです2位はマンガ家、イラストレーター、プログラマー、アニメーター、3位は芸能人、4位、ゲームクリエーター、5位はパティシエ、だそうです。牧師になりたいという人はだれもいませんでした。この時代をよく反映しているなあと思いますが、他方、親たちはどう考えているかというと、親たちが「子どもについてほしくない職業」としてあげたのは、1位ユーチューバー、2位芸能人、3位自衛隊、4位政治家、5位は介護士でした。まあ、ユーチューバーや芸能人とあげたのは、これらは不安定な仕事ですから、もっと安定した職業に就いてほしいと思うのはわかるような気がします。世界で戦争や紛争が絶え間なく起こっている現代では、命を大切にしてほしいという気持ちもわかるような気がします。政治家も国のビジョンを描いていくのはカッコいいなぁと思いますが、やはりあまりに利権にまみれ、金まみれの世界に不快感を持つのでしょう。意外なのは、「介護士」ですね。おそらく親たち自身もお世話になるであろうエッセンシャルワーカーであるにもかかわらず、大切な仕事には間違いありませんが、あまりにも過酷すぎるという思いがあるからでしょう。
いろいろな職業がある中でも、どの人にも共通していることは、みんな「いい人になりたい」と思っていることです。でも、そもそもいい人とはどんな人なのでしょうか。エレミヤ17章9節に「人の心は何よりねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とあります。そんな心がねじ曲がった人間が、いったいどうやっていい人になることができるのでしょうか。できません。私たちがどんなに頑張っても、自分ではいい人だと自負している人でも、神の目にかなったいい人になることはできないのです。それがイスラエル、エルサレムの結果でした。そしてバビロン捕囚という悲劇を生んだのです。
そんな中でもし私たちがいい人になりたいと思うなら、それはひとえに神の恵みでしかあり得ません。たとえばここに「公正」と「義」ということばがありますが、およそあらゆる政治において、この二つのものは欠くべからざる礎であるのは確かですが、いったいこれがどこからもたらされるのかというと、それは私たち人間ではなく、実に神の恵みから来るのです。
ですから、14節で主は「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみ約束を果たす。」と言われたのです。これは「いつくしみの約束」なのです。私たち人間には到底できないことですが、神が一方的に与えてくださいました。その日、神はイスラエルとユダにいつくしみの約束を果たしてくださいます。良いことを成し得ない悲しいこの世に、神はご自身の「よいこと」をしてくださるのです。それがきたるべきメシヤ、イエス・キリストです。主は私たちを悪から救ってくださいます。私たちが救いなのではありません。救いは主です。主が私たちの救いなのです。その主が私たちを救い、安らかに住まわせてくださるのです。
この「主は私たちの義」という語は、エレミヤ23章6節にも出てきましたが、ヤハウェなる神は、救いという面だけでなく、すべての点でご自分の民の必要となってくださいます。戦いで勝利が必要なときには「ヤハウェ・ニシ」となってくださいます。意味は「主は旗」です。心の平安が必要な時には「ヤハウェ・シャローム」(主は平安)となってくださいます。今のエルサレムに最も必要なのは、公義と正義です。ですから主が「私たちの正義」になってくださるのです。
そしてすばらしいのは、主ご自身が正義であられるというだけでなく、エルサレムの町も同じ名前で呼ばれるようになることです。それは私たちがキリストを信じたことによってキリストと一つにされたからです。その結果、あなたのただ中にキリストの義がとどまるようになりました。これはすごいことです。私たちはクリスチャンと呼ばれていますが、どうしてそのように呼ばれるのでしょうか。それはキリストの義が転嫁されたからです。罪深い私たちはとても義なる者とはかけ離れた者ですが、キリストを信じたことで、キリストの義が転嫁されたのです。パウロはこのことをこう言っています。Ⅱコリント5章21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)キリストの義が転嫁されたからです。
私たちはエルサレムのように救いも希望も何一つない荒れ果てた人生でしかありませんでしたが、神は、罪を知らないこの方を、私たちの代わりに罪としてくださったので、罪から救われ、神の都に安らかに住むことができるようになりました。それは神の豊かな恵みによるものです。このことを忘れないようにしましょう。そして、キリストと一つにされていることを喜び、キリストに感謝したいと思います。
Ⅱ.いつまでも絶えることがない神の契約(17-22)
次に、17~22をご覧ください。「17 まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。18 また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」19 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。20 【主】はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
「まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。」これはエレミヤ書22章30節で、主がエホヤキムの子エコンヤに語られたことばです。エコンヤは神の指輪の印のように尊く権威ある存在でしたが、「わたしは聞かない」と神のことばに従わなかったことから、神はご自分の指輪の印であるエコンヤを抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われました。彼はそこで死ぬことになります。ということはどういうことかというと、ダビデ王家が絶たれてしまうということです。しかし、神はダビデの子エコンヤの子孫であるヨセフの子を通してではなく、ダビデの別の息子ナタンからこの王家を起こされるのです。つまり、ダビデの息子ナタンの子孫マリヤを通してこれを実現なさるのです。詳しくは22章のメッセージを読み返してください。このようにして主は再び来られて、ダビデの座に着いてくださるのです。何を言いたいのかというと、神の契約はどんなことがあっても変わることはないということです。ダビデの王家は断絶したが、主はその切り株から新しいダビデ王家につながる王(正義の若枝)を通してご自身が約束されたことを果たされるのです。
それは、その次に出てくるレビ人の祭司たちについても言えることです。18節には、「また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」とあります。エルサレムが崩壊すれば、当然神殿も崩壊します。そうなると、レビ人の祭司たちは無用の人となってしまいます。必要なくなるわけです。しかし主はそんな祭司たちを励ますために、レビ人の祭司たちの制度は永遠であると再確認しているのです。そのことは民数記25章10~13節で約束されていたことでした。つまり、神の契約はいつまでも絶えることはないのです。もちろん、祭司たちの活動が再開されるのは、神殿が再建されてからのことですから、これは千年王国でのことを表しているのでしょう。
それゆえ主は、こう言われるのです。20~22節です。「「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
このように神は、ご自分の契約を絶対に破棄することはなさいません。このことを思うとき、私たちはどんな状況の中にあっても勇気と希望をいただくことができます。目に見えることでがっかりしないでください。目に見えることで自分には無理だとあきらめないでください。主の偉大さを祈りの中で認め、果敢に前進していこうではありませんか。
Ⅲ.神の契約はまだ続いている(23-26)
最後に、23~26節をご覧ください。「23 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。24 「あなたはこの民が、『【主】は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25 【主】はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26 わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」
ここに、主が選んだ二つの部族とありますが、これはユダとイスラエルのことです。彼らは、自分たちは見捨てられたと思っていました。それで彼らは絶望していたのです。しかしそんな彼らに神は、いや契約の民はまだ残っている、続いていると慰めるのです。夜と昼の法則、天地運行の法則が変わらない限り、彼らと結んだ契約が破棄されることはないと、力強く宣言するのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」とは、神の民イスラエルのことですが、神は契約に基づいて、そのイスラエルの民を祖国へと帰還させてくださるのです。
このことは、異邦人クリスチャンである私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、イスラエルが神によって選ばれたのと同じように、私たちもまた選ばれた者であるということです。このことをパウロはエペソ1章4~5節でこう言っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
信じていない人たちについて、彼らは選ばれていないと言ってはなりません。聖書は、そのようには教えていないからです。すべての人が、イエス・キリストによって救いに招かれています。この選びは、永遠に変わることはありません。あなたは神によって救われるように選ばれているのです。私たちはここに慰めを求めたいと思います。目に見える現実がそうでなくても、たとえ明日が見えない夜でも、あなたに対する神の約束はどんなことがあっても絶対に変わることはありません。このみことばの約束をしっかり握って、その偉大な主とともに歩んでいこうではありませんか。主は私たちの救い。そして主はあなたの救いなのです。
わたしを呼べ エレミヤ書33章1~13節
聖書箇所:エレミヤ書33章1~18節(旧約P1355、エレミヤ書講解説教62回目)
タイトル:「わたしを呼べ」
きょうは、エレミヤ33章前半の箇所から、「わたしを呼べ」というタイトルでお話したいと思います。
Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)
まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
エレミヤは、ユダの王最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは、ユダにとって不幸なことしか預言しない不吉な預言者のように思えたのでしょう。そのエレミヤがまだ監視の庭に監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは2節と3節にある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。英語では「Call to me」、わたしを呼び求めよ、です。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。「大いなること」とは何でしょうか。これはエルサレムの回復のことです。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめて終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」
ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にはどんなことでもおできになります。あなたが神を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなること、すなわち、エルサレムを初めのように回復させ、建て直してくださいます。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。
このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそれを無そうとしているのかはわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うこともそうです。神様は監禁されていたエレミヤに、アナトテにある畑を買いなさいと言われました。いったいどうして?崩壊寸前になっていたアナトテの畑を買ったって二束三文です。なぜ買わなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばです。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょうか。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。なぜなら、神さまは全能者であられるからです。
2節をご覧ください。ここには、「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。」とあります。主はこの天地を創られた創造主です。この方にとってできないことは一つもありません。ヨブは自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えは、これでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)
皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。
6~9節をご覧ください。この時、主はエレミヤにエルサレムの傷を癒やし、回復し、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、咎を赦すと約束させ、以前のように彼らを建て直というのです。主は、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの背いた咎をすべて赦してくださいます。でもこれらは彼らが良いことをしたからではありません。それは新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 新しい契約については31章で見たように、御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、あなたがその罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分でこすり落とそうとアタックを使っても、あなたの罪は決して拭い落とせるものではありませんが、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)とある通りです。御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださることを信じましょう。
Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)
次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がそれをしてくださいます。主は約束を反故にされ方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(イザヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばりのとおりにされたのです。
アメリカに自動車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに自動車を買ってくれとせがみました。父親は「自動車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、自動車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、自動車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「自動車を買ってくれないのに、なぜお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章9節を開いてみなさい。そこには自動車があるはずだ」と言いました。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに自動車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:9)
廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、賛美と感謝をささげようではありませんか。主はかならずあなたに大いなることをしてくださるからです。
Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)
最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。山地の町々でも、シェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになるのです。これは牧者が羊の数を数える場面を思い浮かべますが、これはユダの全地で羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。神を読んでください。そうすれば、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。
ある人が、神さまを信じてからも、古い習慣が根強く残っていました。それは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしました。ところが次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。
その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、祈る事だと。主の示しを感じました。その問題をまず祈りに持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。ある時は経済的苦境に陥りました。突然の大変な出費があり、給料前で手元にお金が無くなった。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に少し借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は、まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っていた。驚いて聞くと、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。
どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。
アナトテの畑を買ったエレミヤ エレミヤ書32章1~44節
聖書箇所:エレミヤ書32章1~44節(旧約P1352、エレミヤ書講解説教61回目)
タイトル:「アナトテの畑を買ったエレミヤ」」
前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。
私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。
「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。
このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。
その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。
きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。
Ⅰ.イスラエルは絶対に滅びない(35-37)
まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。
これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。
皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。
37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。
これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。
これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。
これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。
イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。
イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。
何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。
神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。
Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)
最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。
そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。
これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。
イスラエルは滅びない エレミヤ書31章35~40節
聖書箇所:エレミヤ書31章35~40節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教60回目)
タイトル:「イスラエルは滅びない」
前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。
私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。
「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。
このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。
その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。
きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。
Ⅰ.イスラエルは滅びることはない(35-37)
まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。
これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。
皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。
37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。
これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。
これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。
これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。
イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。
イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。
何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。
神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。
Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)
最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。
そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。
これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。
士師記13章
士師記13章
士師記13章から学びます。
Ⅰ.マノアとその妻(1-7)
まず1~7節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。2 さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。
13:3 【主】の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。4 今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。5 見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」6 その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いのようで、たいへん恐ろしいものでした。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。7 けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。今後、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神に献げられたナジル人だから』と。
」
イスラエル人は、再び主の目の前に罪を行いました。それで主は40年間、彼らをペリシテ人の
手に渡されました。ペリシテ人は地中海に面している地域に住んでいた民族で、イスラエルの地においてもガザやアシュケロンなど、沿岸地域に住んでいました。そのペリシテ人の手に渡されたのです。しかも、40年の長きに渡ってです。これは、預言者サムエルがペリシテ人に勝利する時まで続きます(Ⅰサムエル7章)。サムソンが士師として活躍するのは20年間ですが、それはペリシテ人による圧政の期間の間に入る出来事です。
ところで、ダン族に属するマノアという人がいました。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがありませんでした。当時は、子どもがいないということを神の呪いと受け止められていたので、そのことは彼らにとってとても悲しい出来事でした。そんな彼女に、ある日主の使いが現れて、男の子を産む、と告げました。それゆえ、ぶどう酒や強い酒を飲んだり、汚れた物をいっさい食べないように気を付けよ、と告げたのです。また、その子の頭にかみそりを当ててはならない、とも言いました。なぜなら、その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人であるからです。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。
ナジル人とは、「聖別されたもの」という意味です。民数記6章1~8節には、このナジル人について、次のように記されてあります。「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。主のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。ナジル人としての聖別の全期間、彼は主に対して聖なるものである。」
ここにはナジル人に対して、三つの命令が与えられています。一つは、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないということ、二つ目のことは、ナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりをあててはならないということ、そして三つ目のことは、死人のところに入って行き、死人に触れてはならないということです。ぶどう酒や強い酒を飲んではならないというのは、生活の楽しみを自発的に断ち、神への献身を表明することを表していました。また、頭にかみそりをあてないというのは、そのことで軽蔑されるようなことがあっても、神への献身のゆえにどのような軽蔑をも甘んじて受けることを表していました。当時の人は前髪を短く刈っていたので、ナジル人の誓願をすることで前髪が伸び、人々から軽蔑されるということもあったのです。しかし、どんなに軽蔑されても、神に献身した者はそれさえも甘んじて受けなければなりませんでした。そして、死体に近づくことは、汚れを避けることを意味していました。たとえそれが肉親であっても、死体に近づいて身を汚すことは許されませんでした。その厳格さは、大祭司と同等のものでした。一般の祭司でさえ、肉親の死体に近づくことは許されていたのです(レビ記21:1-4,10-11)。
このナジル人の誓願には、一定期間で終わるものと、終生の誓願とがありましたが、サムソンは終生のナジル人でした。しかし、彼の父母も一定期間ナジル人として生きることが求められたのです。
聖書の中には、生まれながらのナジル人が3人います。このサムソンと預言者サムエル(Ⅰサムエル1:11)、そして、バプテスマのヨハネ(ルカ1:15)です。彼らは、主のために聖別された僕としての人生を歩みました。そして、主イエスもこのナジル人としての生涯を歩まれました。主イエスは、この世から分離し、父なる神に完全に従うことによって、聖別された生涯を歩まれたのです。そして、そのイエスを信じ、イエスにつながり、イエスに従う私たちにも、霊的には、このナジル人とされたと言ってもよいでしょう。ですから、クリスチャンはみな、ナジル人として生きることが求められているのです。
パウロはⅡコリント6章14~18節で、次のように言っています。「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」」
ここで勧められていることは、まさにこのナジル人として生きなさいということです。それはこの世から隔離された修道院のような生活をしなさいということではありません。この世にいながらも、この世のものではなく、神のものとして、この世と分離して生きなさいということです。それは主イエスがこの世から分離し、父なる神に完全に従ったように生きるということです。なぜなら、私たちはこの世から救い出され、神のものとされたものだからからです。神のものとされた者は、この世にあっても神のものとして聖別し、世の光、地の塩として生きていかなければならないのです。
Ⅱ.マノアに現れた主の使い(8-14)
次に8~14節までをご覧ください。「8 そこで、マノアは【主】に願って言った。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」9 神はマノアの声を聞き入れられた。それで神の使いが再びこの女のところに来た。彼女は畑に座っていて、夫マノアは彼女と一緒にはいなかった。10 この女は急いで走って行き、夫に告げた。「早く来てください。あの日、私のところに来られたあの方が、また私に現れました。」11 マノアは立ち上がって妻の後について行き、その人のところに行って尋ねた。「この女にお話しになった方はあなたなのですか。」その人は言った。「わたしだ。」12 マノアは言った。「今にも、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めと慣わしはどのようなものでしょうか。」13 【主】の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったすべてのことに気をつけなければならない。14 ぶどうからできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」
それで女は夫のところに行き、そのことを告げると、マノアは主に願って言いました。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」
マノアは妻の報告を聞き、主に願って言いました。神が遣わされた神の人を再び遣わして、生まれてくる子に何をすれば良いか教えてくれるように・・・と。
すると、神はマノアの祈りを聞かれたので、神の使いが再び彼の妻のところに来ました。その時マノアは彼女と一緒にいなかったので、彼女はすぐに夫を呼びに行き、その人のもとに連れて来ました。おもしろいですね。マノアが懇願したのに、神の使いはまたマノアのところではなく妻のところにやって来ました。また、マノアが妻に連れられてその神の人のところへ行ったとき、その神の使いが言ったことは、以前彼の妻に告げたことを繰り返しただけでした。つまり、「わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」(13)ということだけだったのです。なぜでしょうか?それはその必要がなかったからです。神のみこころはすでにマノアの妻に告げられました。彼にとって必要だったことは、そのことに聞き従うことだったのです。
時として、私たちも、既に与えられている御言葉で満足できず、もっと先のことや新しいことを知りたいと願うことがありますが、大切なのは、先のことが見えなくても、新しい情報が示されなくても、今与えられていることに感謝し、目の前に示されたことを忠実に行っていくことです。そうすれば、次にすべきことが示されるようになるでしょう。
Ⅲ.わたしの名は不思議(15-25)
次に、15~23節までをご覧ください。「15 マノアは【主】の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできるでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」16 【主】の使いはマノアに言った。「たとえ、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のささげ物を献げたいなら、それは【主】に献げなさい。」マノアはその方が【主】の使いであることを知らなかったのである。17 そこで、マノアは【主】の使いに言った。「お名前は何とおっしゃいますか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちはあなたをほめたたえたいのです。」18 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」19 そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で【主】に献げた。主のなさる不思議なことを、マノアとその妻は見ていた。20 炎が祭壇から天に向かって上ったとき、【主】の使いは祭壇の炎の中を上って行った。マノアとその妻はそれを見て、地にひれ伏した。21 【主】の使いは再びマノアとその妻に現れることはなかった。そのときマノアは、その人が【主】の使いであったことを知った。22 マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」23 妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、【主】は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」
マノアとその妻は、その時点でも主の使いが誰なのかを理解していませんでした。彼らはその人を預言者のひとりだと思っていたのです。そこで、その人をもてなしたいと思い、彼らの家に留まってもらうようにお願いしました。しかし、その人は、たとえ留まっても、食事のもてなしは受けないと断りました。そして、もし全焼のささげ物を献げたいなら、主に献げなさい、と命じたのです。
するとマノアは、その人に名前を尋ねました。「お名前は何とおっしゃいますか。」彼としては、このことが成就したら、預言者としてその人をほめたたえようと思ったのでしょう。すると、主の使いは、「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」と言いました。「不思議」という名前は不思議な名前です。しかし、それはその人物が神であることを指していました。というのは、不思議を行うことができるのは神だからです。神は不思議な方です。そして、その不思議を千年以上も後にご自身の御子イエス・キリストを通して表してくださいました。まさに、神のなさった最高・最大の「不思議」は神の御子が人となってこの世に来られ、その十字架の御業によって救いの道が開いてくださったことです。預言者イザヤはそのことを前もって預言し、やがて来られるメシヤがどのような方であるのかをこう告げました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」。(イザヤ9:6)
そして、主はマノアとその妻に不思議な御業を見せてくださいました。マノアが主の使いに言われるとおり子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げると、炎が祭壇(岩)から出てきて捧げ物を焼き尽くしたかと思ったら、主の使いが天に向かって上って行ったのです。それで、マノアとその妻は地にひれ伏しました。自分たちは死ぬのではないかと思ったのです(出エジプト記33:20)
しかし、マノアの妻は、こう言いました。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」
それはそうです。彼らを殺すつもりであれば、彼らがささげた全焼のいけにえをお受けになられるはずはありません。主が全焼のいけにえをお受けになられたというのは、主が彼らの祈りを聞かれたことを示していました。ですから、マノアの妻の言っていることは正しいのです。妻の方が霊的な目が開かれていました。
私たちもクリスチャンになってからでも、このように神のさばきを恐れてしまうことがあります。けれども、神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです(ヨハネ3:17)。もし神が私たちを滅ぼすつもりなら、私たちに御子を与えられるはががありません。神は私たちを救い、私たちに永遠のいのちを与えるために、御子を与えてくださいました。私たちは、御子にあって、神の御救いに入れていただいたのです。この神の愛を受け取り、安心して主の道を歩ませていただきましょう。
最後に24節と25節をご覧ください。「24 この女は男の子を産み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、【主】は彼を祝福された。25 【主】の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」
主の使いの言ったとおり、マノアの妻は男の子を産み、その子を「サムソン」と名づけました。「サムソン」という名前は、「太陽」という意味の言葉から来ています。いわば、「太陽の子」という意味です。それはまた、彼の使命を象徴している名前でもありました。彼はイスラエルの民をペリシテ人の圧政から救い出す太陽となるからです。主が彼を祝福してくださったので、彼は大きく成長して行きました。それは肉体的にというだけでなく、知的にも、霊的にも、です。そして、彼が大きく成長して行ったとき、主の霊が彼を揺り動かしました。「マハネ・ダン」とは、「ダンの陣営」という意味です。主はダンの陣営で、彼を揺り動かし始めたのです。
このサムソンの姿には、いくつかの点でイエス・キリストとの類似点があります。たとえば、その出産が通常とは違っていたという点です。サムソンの母は不妊の女でしたが、主の助けによって男の子を身ごもりました(ルカ1:34-35)。そして、主イエスの母マリヤも処女でしたが、いと高き方の力、聖霊の力によって男の子を宿しました。また、サムソンは「太陽の子」という意味の名前でしたが、イエス・キリストは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)と呼ばれました。さらに、サムソンが主の祝福を受けて成長したように、主イエスも、神の恵みがその上にあったので、成長し、強くなり、知恵に満ちて行きました(ルカ2:40)。そして何よりも、サムソンも主イエスも、主の霊に揺り動かされて活動されました。つまり、サムソンは来るべきメシヤのひな型であったのです。私たちも、主の霊に揺り動かされ、主の霊に満たされて、神から与えられた使命を全うさせていただけるように祈りましょう。
新しい契約 エレミヤ書31章31~34節
聖書箇所:エレミヤ書31章31~34節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教59回目)
タイトル:「新しい契約」
Ⅰ.古い契約(31-32)
■出エジプト19章5節
「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
Ⅱ.新しい契約(33)
■ローマ3:10-12
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
■レビ記17章11節
「いのちとして宥めを行うのは血である。」
■ローマ10:10
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
■エレミヤ書31章3節
「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」
Ⅲ.神を知るようになる(34)
■カール・ヒルティー
「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」
■榎本保朗牧師
「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」
■コロサイ3章13節
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい。」
■ヨハネ13:34
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
士師記12章
士師記12章
士師記12章からを学びます。
Ⅰ.エフライム人との内紛(1-7)
まず1~7節までをご覧ください。「1 エフライム人が集まってツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」2 エフタは彼らに言った。「かつて、私と私の民がアンモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたに助けを求めたが、あなたがたは彼らの手から私を救ってくれなかった。3 あなたがたが救ってくれないことが分かったので、私はいのちをかけてアンモン人のところへ進んで行った。そのとき、【主】は彼らを私の手に渡されたのだ。なぜ、あなたがたは今日になって、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。」4 エフタはギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これは、エフライムが「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからである。5 ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、ギルアデの人々はその人に、「あなたはエフライム人か」と尋ね、その人が「そうではない」と答えると、6 その人に、「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺した。こうしてそのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。7 エフタはイスラエルを六年間さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。」
エフタがアンモン人との戦いを終えると、エフライム人がツァフォンに進み、エフタに詰め寄って来てこう言いました。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」
彼らの不満は、エフタがアンモン人と戦う際になぜ自分たちに声をかけなかったのかということでした。エフライム族は、マナセ族とともにヨセフ族から枝分かれした部族です。そのエフライム族が、どうしてここでエフタに不満を述べたのでしょうか。それは彼らには、自分たちこそ卓越した部族であるという自負心があったからです。その自負心が高ぶりとなって表面化することがたびたびありました。
たとえば、ヨシュア記17章14節のには、土地の分割の際にヨシュアに詰め寄り、「あなたはなぜ、私たちにただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほどの数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」と言っています。自分たちは主に祝福された特別な部族だと主張したわけです。それに対してヨシュアは、「あなたが数の多い民であるなら、森に上って行って行きなさい。そこでペリジ人やレファイム人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」(ヨシュア17:15)と答えました。ヨシュアが言ったことはもっともなことでした。そんなに主に祝福されたのなら、そんなに数の多い民であるなら、自分たちで切り開けばいいではないか。それなのに、そのことでつべこべ言っているのは、彼ら自身の中に問題があるからではないかと諫めたわけです。
また、士師記8章1節でも、ギデオンがミディアン人との戦いを終えた後で彼のところに詰め寄り、「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」(8:1)と激しく責めました。この時はギデオンが彼らをなだめ、平和的な解決を図りましたが、今回は違います。エフタは強硬な姿勢で対応しました。
2節と3節を見ると、そうしたエフライム人のことばに対して、かつてエフタがアンモン人と戦った際にエフライム族に呼びかけたものの彼らが出て来なかったからだと語り、自分を脅迫するのは筋違いだと反論しています。そして、ギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦い、彼らを打ち破ったのです。それは、エフライムが、「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからです。エフライムはギルアデ人のことを侮辱して、逃亡者呼ばわりしたのです。それは、異母兄弟たちから追い出され逃亡者となった経験があったエフタにとっては断じて受け入れられることではなく、逆に彼の神経を逆なですることになりました。
ついに、あってはならない部族間の内紛が勃発しました。ギルアデの人々はエフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取り、エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、その人がエフライム人かどうかを方言によって見分け、もしエフライム人ならその場で殺しました。すなわち、その人に「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺したのです。こうして四万二千人のエフライム人が倒れました。
元はと言えば、エフライム人の高ぶりがこの悲劇の原因でした。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。心の高慢は隣人との間に争いを生み、やがてその人を滅ぼすことになります。あなたはどうでしょうか。隣人との間に平和がありますか。もし争いがあるとしたら、あなたの中にエフライムのような自負心や高ぶりがあるからかもしれません。へりくだって.自分の心を点検してみましょう。
Ⅱ.9番目の士師イブツァン(8-10)
次に8~10節までをご覧ください。ここには、9番目の士師でイブツァンのことが記されてあります。「8 彼の後に、ベツレヘム出身のイブツァンがイスラエルをさばいた。9 彼には三十人の息子がいた。また、彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者に嫁がせ、息子たちのために、よそから三十人の娘たちを妻に迎えた。彼は七年間イスラエルをさばいた。10 イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。」
「イブツァン」という名前の意味は「速い」です。その名に相応しく、彼についての言及はわずか3節だけです。彼はベツレヘムの出身で、三十人の息子と、三十人の娘がいました。それだけ彼は裕福であり、権力を持っていたということです。しかし、何と言っても彼の特徴は、その三十人の娘たちを自分の氏族以外の者に嫁がせ、自分の息子たちのためには、よそから三十人の娘たちを迎えたという点です。なぜこんなことをしたのでしょうか。彼は息子と娘たちを他の氏族と結婚させることによって争いを回避し、平和を確保しようとしたのです。いわば、それは政略結婚でした。このようなことは日本の戦国時代ではよく行われていたことでしたが、当時の士師たちの間では珍しいことでした。彼はこのようなことによって氏族の結束を強めようと思ったのかもしれません。
Ⅲ.10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンの時代(11-15)
最後に、10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンを見て終わります。11~15節までをご覧ください。「11 彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間イスラエルをさばいた。12 ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地アヤロンに葬られた。13 彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。14 彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間イスラエルをさばいた。15 ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地ピルアトンに葬られた。」
エロンについての言及はもっと短いです。彼については、彼がゼブルン人で、十年間イスラエルをさばいたということ、そして、ゼブルンの地アヤロンに葬られたということだけです。つまり、彼の出身地と士師としてさばいた期間、そして葬られた場所だけです。
そして、彼の後に登場するのはピルアトン人ヒレルの子アブドンです。彼についての言及も同じで、彼についてもその出身地と生活、そしてさばいた年数、葬られた場所しか記されてありません。
「ピルアトン」とは「丘の頂」という意味で、その町はエフライムにありました。ですから、彼はエフライムの出身でした。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていたとあります。当時ろばは高貴な人が乗る動物だったので、ここから彼は非常に裕福で社会的地位が高かった人物であったことがわかります。彼が士師としてさばいたのはわずか8年間でした。しかしそれは、平和と繁栄の時代でした。
このエロン、アブトンがイスラエルをさばいたのはわずか18年間という短い期間でしたが、それは10章1~5節で見てきたトラやヤイルの時代のように、平和と繁栄の時代でした。それはトラとヤイルの時のように特記すべきことが少ない平凡な日々の積み重ねであったかもしれませんが、それこそが神の恵みだったのです。それは何よりも神が与えてくださった秩序の中で、互いに神を見上げ、神とともに歩んだということの表れでもあります。何気ない当たり前の平凡な日々中に隠されている主の恵みに目を留める者でありたいと思います。そして、そのような中で一生を終えてこの世を去っていく人こそ、本当に幸いな人生を歩んだ人と言えるのです。あなたにとっての幸いな人生とは、どのような人生でしょうか。