民数記17章

民数記17章

 

今日は、民数記17章から学びます。前回のところでは、コラとその仲間たちがモーセに反抗した結果、生きたままよみに下るという神のさばきを受けたことを学びました。神が祭司として選ばれたのはアロンの家系であって、彼らはそれを認め受け入れなければならなかったのです。今日の箇所には、そのことをさらに別の方法で示されます。それが有名なアロンの杖です。

 

 Ⅰ.族長たちの杖(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」6 モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。」(1-7)

 

主はモーセに、イスラエルの子らに、彼らから杖を部族ごとに一本ずつ、全部で12本を取り、その杖に自分の名前を書き記すように言われました。それを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置くようにと言われたのです。何のためですか。神が祭司として選びお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

 

「杖」は、イスラエル人が日常的に使っていたものです。たとえば、創世記38章18節には、ユダが息子のエルと結婚したタマルに「しるしとして何をやろうか」と言うと、彼女は「あなたの印章とひもと、あなたが手にしている杖」と答えています。

また、出エジプト記4章2節では、ミデヤンの荒野で羊を追っていたモーセが神に召されたとき、主が彼に、「あなたが手にしている杖を地に投げよ。」と言われました。それは羊飼いの杖であると同時に、神の御業を行う杖であったのです。その杖を取るようにと言われました。勿論、それらは枯れ木でした。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置くと、神が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。まさに「枯れ木に花を咲かせましょう」というわけです。枯れ杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司として選んでおられる者であるということをはっきり示そうとされたのです。

 

それで族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖12本を渡したので、モーセはそれらを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置きました。

 

Ⅱ.アロンの杖(8-13)

 

するとどうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」11 モーセはそのようにした。主が命じられたとおりにしたのである。」(8-11)

 

その翌日のことです。モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいました。イスラエルではアーモンドは春を告げる花として、1月から2月に咲きます。それが一晩で花を咲かせ、実を結ばせたのです。これは明らかに創造主なる神の御業でした。枯れた木からいのちを芽生えさせることは神にしかできないことだからです。ある人は、切り取ったばかりの生木を置いたのではないかと言う人もいますが、決してそうではありません。たとえそうであっても、水のない所で一夜のうちに実を結ぶことなどあり得ないことです。これは5節にあるとおり、主が大祭司として選んでおられるのはアロンであることをイスラエルの子らに示し、彼らがモーセとアロンに向かって言い立てている不平を遠ざけるために成された神の御業だったのです。主はそれを彼らが目で見える形で証明してくださいました。いくら言葉で説明しても納得しない彼らに、目に見える形で示してくださったのです。「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」と言いますが、意味は、「目覚める」とか「見張る」です。すなわち、主がこれを見張っている、はっきりと見つめているということです。

 

神は、死んだような枯れた木からも花を咲かせ、実を結ばせることのできる方です。それは死者の中からキリストを復活させてくださった神の御業を現わしていました。神は十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせてくださったのです。すなわち、このアーモンドの杖はキリストご自身を予表していたのです。それは、このあかしの箱の中に入れられたものをみてもわかります。10節には、このアロンの杖があかしの箱の中に収められたとあります。あかしの箱、すなわち、契約の箱には他に、契約の板とマナが治められていました。契約の板は、モーセがシナイ山で神から授けられた、十戒を記した二枚の石の板のことです。またマナは、神の民が荒野で飢えていたとき、神が40年間の荒野での旅の間中、毎朝、降らせてくださったもので、神の慈しみを示すものです。それと一緒にこのアロンの杖が収められたのは、アロンが類い稀な大祭司としての使命を持っていることを示すと同時に、それがイエス。キリストご自身を指示していたからなのです。考えてみると、この契約の箱自体がイエス・キリストを指し示すものでした。その中に二枚の石の板とアロンの杖、マナの入った金の壺が収められていたのは、これらすべてがイエス様を指示していたからなのです。その枯れたような杖から芽が出て、花が咲き、実を実らせました。

 

皆さんはアーモンドというと何を思い出すでしょうか。私はアーモンドチョコレートを思い出します。美味しいですよね。別にチョコレートでなくてもアーモンドの実自体が美味しいです。キリストによってつける実も同じです。ガラテヤ5章22~23節には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。これらはキリストを信じることによってもたらされる御霊の実です。それらは実に麗しいものです。私たちにはキリストを信じ、キリストの結び合わされることによって、復活のいのちが与えられ、麗しい実をつけることができるのです。

 

主はアロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。それは逆らう者たちへの戒めのためでした。しるしとして保管しておくためです。これもまた実物教育でした。主がアロンの家系を選んで祭司職に召しておられるという証拠として、逆らう者たちへの戒めとしたのです。また彼らが主に対して不平を漏らすことをなくし、彼らが死ぬことがないようにするためです。このように主の前に証拠物件を置くということは、事件が決着したことを意味していました。そして、この配慮は、イスラエルの民が二度とこのような過ちを犯して死の罰を受けることがないように、というものだったのです。

 

Ⅲ.神の恵みにお頼りして(12-13)

 

それに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。12節と13節をご覧ください。「12 しかし、イスラエルの子らはモーセに言った。「ああ、われわれは死んでしまう。われわれは滅びる。全員が滅びるのだ。13 すべて近づく者、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは。ああ、われわれはみな、死に絶えなければならないのか。」」(12-13)

 

ここでイスラエルの子らは、自分たちは滅んでしまうと叫んでいます。どうしてでしょうか。すべて主に近づく者、主の幕屋に近づく者は死ななければならないと、律法にあるからです。それなのに彼らは、自分たちも祭司として神に近づくことができると言い張ってしまいました。しかし、神に選ばれた者でない者が主の幕屋に近づこうとするならば、主の恐るべき裁きを受けることになります。主に反抗して神に近づこうとすることがいかに恐ろしいものであるかを痛感したのです。それで彼らは叫んだのです。それは言い換えると、彼らは主の恵みを理解していなかったからであると言えます。祭司を通して与えられる恵みがどれほど大きなものなのを理解せせず、あくまでも自分の力で神に近づこうとしていたのです。彼らにとって必要だったことは、神がどれほど深く、あわれみ深い方であるかを知ることでした。そして、その主の恵みにお頼りし、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れることだったのです。つまり、信仰を持つことです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人はいつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白する者です。そういう者は恐れがありません。なぜなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れが締め出されるからです。

 

そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司イエス・キリストです。へブル4章14~16節をご覧ください。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは神の子イエスという偉大な大祭司によって、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、私たちのために神にとりなしてくださるからです。それは私たちの力や行いによるのではなく、大祭司イエスのとりなしによるのです。

 

そのことに彼らは気づきませんでした。神がアロンを大祭司としてお立てになったのは、彼らが死ななくても良いようにとりなしの働きをするためでした。ですから、彼らはその神の権威を受け入れ、神が立ててくださったアロンの祭司職を認めなければならなかったのです。しかし、そうでなかったので、彼らは自分たちが滅びてしまうのではないかと怯えていたのです。

 

それはイスラエルの子らだけではありません。ややもすると、私たちも彼らと同じような過ちを犯してしまうことがあります。自分の力で神に近づこうと考えてしまうことがあります。しかし、神は行いによってではなく、恵みによって私たちを救ってくださいました。神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活の御業を信じる信仰によって救われ、大胆に恵みの御座に近づくことができるようにしてくださったのです。そのために立てられたのが、大祭司イエスです。キリストのとりなしによって私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられたがゆえに、私たちはキリストに信頼し、そのとりなしをいただいて、神に近づく者でありたいと思うのです。

民数記16章

民数記16章

 

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回のところで、主の命令に背いて約束の地に上って行かなかったイスラエルの民に対して、主が、彼らが約束の地に入ったときにささげるべきささげものの規定について語られたことを学びました。イスラエルの民は確かに主の命令に背いたため二十歳以上の者はみな約束に地に入ることができませんでしたが、それでも、主は彼らに希望を語ったのです。

今回の箇所には、そのイスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたときに起こったもう一つの大きな事件について語っています。それはコラの子たちの反抗です。

 

Ⅰ.コラの子たちの反抗(1-35)

 

  • 子らの子たちの反抗(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。「1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ル

ベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」」

 

ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち250人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向ったことが記されてあります。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。彼らはなぜそのように言ったのでしょうか。

 

ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ゲルション族は、幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は、板とか、土台、柱などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇など、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主の栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取り替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。コラは、そのケハテ族に属する者でした。それゆえ、彼らは祭司たちをねたんでいたのです。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのかと。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があると主張したのです。

 

しかも、その理由がもっともらしいのです。3節を見ると彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちだけが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。

皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの群れに属していますが、その一つの特徴は会衆制にあります。会衆制とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく、会衆みんなの総意によって決められるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって特別な権力があるわけではないのです。ですから、私たちの教会では毎月定期的にミーティングを行い、教会の運営をみんなで話し合って決めているのです。また、年に一度は総会を持ち、教会の方向性をみんなで確認しています。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にして、あたかもそれが正当であるかのように言いました。

 

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには250人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったのかもしれません。また250人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

 

またそこにはイスラエルが荒野を40年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと考えられます。人は物事が順調に進んでいる時はこうした不平や不満は抑えられがちですが、いざ困難に直面するとそうした不平や不満が一気に噴出し、このような反抗という形で表れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5章6節には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

 

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

 

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、7 明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」」

 

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の御許しの中で起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主がだれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るように、と言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた者であるということです(レビ10:1-2)。

 

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。「8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。11 事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」」

 

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりもさらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足せず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。

 

神はご自身のみからだである教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召して賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対して反抗することでもあるのです。

ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

 

 3.神のさばき(12-35)

 

次に、12~35節までをご覧ください。「12 モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「われわれは行かない。13 あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地にわれわれを導き入れず、畑とぶどう畑を、受け継ぐべき財産としてわれわれに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。われわれは行かない。」

15 モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」16 それからモーセはコラに言った。「明日、あなたとあなたの仲間はみな、主の前に出なさい。あなたも彼らも、そしてアロンも。17 あなたがたは、それぞれ自分の火皿を取り、その上に香を盛り、それぞれ主の前に持って行きなさい。二百五十の火皿を、あなたもアロンも、それぞれ自分の火皿を持って行きなさい。」18 彼らはそれぞれ自分の火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンと一緒に会見の天幕の入り口に立った。19 コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。

20 主はモーセとアロンに告げられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」22 二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」23 主はモーセに告げられた。24 「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」25 モーセは立ち上がり、ダタンとアビラムのところへ行った。イスラエルの長老たちもついて行った。26 そして会衆に告げた。「さあ、この悪い者どもの天幕から離れなさい。彼らのものには何もさわってはならない。彼らのすべての罪のゆえに、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から離れ去った。ダタンとアビラムは、妻子、幼子たちと一緒に出て来て、自分たちの天幕の入り口に立った。

28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。30 しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく?み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

31 モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。32 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を?み込んだ。33 彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。34 彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも?み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。35 また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。」

 

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの来ようとしませんでした。なぜでしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセがコラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

 

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集め、モーセとアロンに逆らわせようとしたのです。

 

すると主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主が怒っておられました。そして、主はそのように反逆する民を滅ぼそうとされたのです。

 

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何とモーセとアロンは、自分たちに逆らい主に反逆した者たちのためにとりなして祈りました。ここまで反抗した相手のためにとりなすことは人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。すごいですね。

 

すると主は、この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言うようにと言われました。彼らを滅ぼそうとされたからです。それに巻き込まれないように彼らから離れるようにと言われたのです。しかし、モーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節にある内容です。

 モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせる、と言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れると、彼らとその家族、またコラに属するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだりました。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。そのよみに、生きながら下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださいました。

また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった250人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、恐ろしい神のさばきを受けたのです。

 

Ⅱ.祭壇のための被金(36-40)

 

次に、36節から40節までをご覧ください。「36主はモーセに告げられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出し、火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 いのちを失うことになったこれらの罪人たちの火皿は、打ちたたいて延べ板とし、祭壇のためのかぶせ物とせよ。それらは、主の前に献げられたので、聖なるものとなっているからである。これらはイスラエルの子らに対するしるしとなる。」

39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちが献げた青銅の火皿を取り、それを打ち延ばして祭壇のためのかぶせ物とし、40 そのことがイスラエルの子らに覚えられるようにした。これは、アロンの子孫以外の資格のない者が、主の前に進み出て香をたくことのないようにするため、その人が、コラやその仲間のような目にあわないようにするためである。主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

 

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇のかぶせ物について記されてあるここから17章にしたのではないかと考えられます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、250人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

 

ここで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のためのかぶせ物を作るようにと言われました(出エジプト27:1-3,38:1-2)。「かぶせ物」とは、アカシヤ材で作った祭壇の上にかぶせた青銅のことです。「青銅」はすべての金属の中で最も火に強いと言われますが、それは罪に対する神の怒りの激しさを示していました。それをかぶせたのです。火皿も青銅で出来ていました。何のためでしょうか。それは「しるし」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。それは自分たちへの戒めとするためでした。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示していました。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されました。これはしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

 

 Ⅲ.さらなる神罰(41-50)

 

最後に41節から50節までをご覧ください。「41 その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」42 会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。43 モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。44 主はモーセに告げられた。45 「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。

46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」

47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。50 アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。」

 

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、モーセとアロンに向かって不平を言ったのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさばきがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

 

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そしてモーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われました。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。

するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの14,700人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを指し示しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

 

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うことよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとっても陥りやすい過ちです。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果、このような滅びを招いてしまうのです。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。

 

花婿を導いた花嫁 雅歌7:11-8:4

聖書箇所:雅歌7章11節~8章4節

タイトル:「花婿を導いた花嫁」

 

 雅歌も終盤を迎えています。きょうは雅歌7章11節から8章4節までの箇所から、「花婿を導いた花嫁」というタイトルでお話します。今日の箇所には、花婿を導く花嫁の姿が描かれています。たとえば、11節には、「さあ、私の愛する方よ、私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。極めつけは8章2節のことばです。「私はあなたを導いて、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませて差し上げましょう。」

とあります。ここにはきっきりと「あなたを導いて」とか「お連れして」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。

 私たちはいつも花婿であるキリストに導かれていると思っていますが、もちろん、そういう面もありますが、同時に花婿を導いているという側面もあります。これまではどちらかというとイエス様に導かれること、イエス様に何かをしていただくことが中心の信仰でしたが、それと同時に、霊的、信仰的に成長していく中で、今度はイエス様を導く者に、イエス様に喜んでささげる者へと変えられていくのです。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.恋なすびは香りを放つ(7:11-13)

 

まず、7章11~13節までをご覧ください。「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」

 

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿から「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ。」(7:1)と言われると、10節でこう告白しました。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

これは、花嫁が単に自分を花婿にささげるというだけでなく、また、自分よりも花婿を優先するというレベルでもなく、「あの方は私を恋い慕う」、つまり、花婿にとって自分が関心の的であると告白したのです。もう何があっても大丈夫です。花婿が必ず守ってくださいますから。そうした平安の中で完全に憩っているのです。花婿は必ず良いことをしてくださるという確信があります。だって自分は花婿にとって関心の的なのですから。ただ花婿がいて、自分をつかんでいてさえすれば、それで十分なのです。つまり、花婿にすべてを完全にゆだねているのです。花嫁はそこまで成長しました。

そして、花嫁は続いてこう言っています。11節、「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」

この「村」とは8章2節にある母の家、実家のことです。エルサレムの都会にある王宮のような華やかなところだけでなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょう、と誘っているのです。

 

その理由が12節に書かれてあります。「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。」

彼女は6章3節で「シュラムの女よ」と呼ばれていますが、シュラムがあるガリラヤ地方ではぶどうの木が芽を出したり、ぶどうの木が花を咲かせたり、ざくろの花が咲いたりするのを見ることができます。そうした自然の中で夫婦の交わりを持つことができます。それは、エルサレムのような都会では不可能なことです。

 

13節をご覧ください。「恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。」

実家があるガリラヤには「恋なすび」も豊かに実っています。「恋なすび」は「マンドレイク」という名で知られていています。昔から薬草として使われていましたが、受胎効果が有るとも思われていました。創世記30章14節では、不妊で悩んでいたラケルが姉のレアに、息子ルベンが取って来た恋なすびを譲ってほしいと言っているのはそのためです。恋なすびは良い香りを放つため、性的欲情をかき立てるものでもありました。それは花婿と花嫁の関係をより親密にするものです。そこには、恋なすびが香りを放ち、すべての最上の果物がありました。それは花嫁が花婿のために蓄えておいたものです。ですから、ここで花嫁は花婿との関係をより一層親密にするものを用意しています、と言っているのです。

 

それは、私たちにも必要なことです。花婿なるキリストとの関係をより親密にするものが必要です。たとえば、私たちが手にしているこの聖書はその一つでしょう。聖書は「恋なすび」であるとも言えます。イエス様との関係をより親密にさせてくれます。聖書を通してイエス様の心を知り、イエス様との関係をより身近に感じさせてくれます。聖書はまさに恋なすびなのです。

 

また、教会での交わりもそうです。私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになると、どこからか信仰を捨てるようにとか、少なくともあまり熱心にならないようにというプレッシャーと受けることがあります。そうした中にあっても動揺しないでしっかりと希望を告白するために、あるいは、信仰から出てくる愛と善行を促すように励まし合うために、教会に集まる必要があります。それはただ習慣として集まるというだけでなく、集会が心の習慣の一部となるような積極的な関わり方が求められるのです。そうでないと、信仰から離れてしまうことになるからです。教会での交わりはまさに恋なすびであり、イエス様との関係をより親密にするために必要なものなのです。

 

他にどのようなものがあるでしょうか。静かな場所で祈ることもそうでしょう。イエス様のことばを思いめぐらして祈るとき、イエス様の麗しさ、その愛に満たされます。信仰の良書を読むのもいいです。特に、信仰に生きた人たちの証は、私たちの信仰を励ましてくれます。バイブルスタディー祈祷会に参加することも大切です。バイブルスタディーに参加することで、それまで気付かなかったことに気付かされます。

昨年8月にスタートしたC-BTEのクラスは、先週基本原則シリーズⅠを終了しました。基本原則シリーズⅠでは、クリスチャンライフのベーシックなことを学びますが、参加している数人の兄弟から、この学びがなかったらただ教会の礼拝に出席して、与えられた奉仕をして終わりということになっていたのではないかと思います、と言うのを聞いて、この学びを継続してきてよかったなぁと思いました。まさにこうした学びも恋なすびです。

私たちには恋なすびが必要です。イエス様との関係を親密にするためのものを蓄えておきたいと思います。

 

Ⅱ.花婿を導いた花嫁(8:1-3)

 

次に、8章1~3節をご覧ください。これも花嫁のことばです。1節には、「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに会ってあなたに口づけしても、だれも私を蔑まないでしょうに。」とあります。どういうことでしょうか。

 

この「口づけ」とは、あいさつとして交わされる軽い口づけのことです。しかし中東では、今でもそうですが、男女が公に人々の前で口づけを交わすことはできませんでした。それが許されたのは家族の間柄に限られていたのです。中東では、女性が外に出る時は覆いを付けなければならず、外に出て異性と一緒にいることができたのは、唯一血のつながった兄弟だけだったのです。ですから花嫁はここで、もしあなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、外であなたに会って口づけしても、だれにも蔑まれないのに、と言っているのです。つまり、花婿に対する愛情の表現には限界があるということです。もっと自由に、もっとあからさまに、もっと強く花婿に対する愛を表したいと切に願っているのです。

 

皆さんはどうでしょうか。この花嫁のように花婿イエスをもっと愛したいと願っておられるでしょうか。もっと自由に、もっと豊かに、もっと親密に愛を表したいと強く願っているでしょうか。確かに、教会にいる時は大きな声で賛美することができます。涙して祈ることもできるでしょう。でも家に帰ったらどうでしょうか。クリスチャンは自分だけという家庭も少なくありません。そうなると、夫やこどもたちの前で祈ったりするのを躊躇してしまうかもしれません。職場ではどうでしょうか。クリスチャンばかりの職場だったら何でもないことでも、ノンクリスチャンが圧倒的に多いところでは教会の話やイエス様の話をするのをはばかってしまいます。そんな中でももっとイエス様を賛美したい、もっとイエス様と交わりたい、もっとイエス様のすばらしさを伝えたいと願っているならどんなにすばらしいことでしょうか。それほどまでにイエスに夢中で、イエスの愛に捉えられる者になりたいです。

 

2節には「私はあなたを導いて、私を育ててくれた母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの加重をあなたに飲ませて上げましょう。」とあります。

「私を育ててくれた母の家」とは、花嫁の実家のことです。花嫁にとって実家は、あまりいいイメージがありませんでした。1章6節を見ると、そこは兄弟たちにこき使われた所であり、顔が浅黒くなるまでぶどうの番人をさせられたところです。ですから、できればあまり近づきたくなかったはずです。しかし、その実家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて上げたいと言っているのです。なぜでしょうか。そこは花婿と出会った思い出の場所だからです。かつて花婿を見失ったとき、花嫁が彼を見付けたのもこの実家の近くでした。ですから、母の家はもう嫌なところではなくなったのです。そこは花婿と出会うことができたすばらしい場所という思いを抱くことができるようになりました。

 

それは私たちにも言えます。私たちにも実家のようなところがあります。別に実家が悪い所という意味ではありませんよ。彼女の場合はそれが実家であったというだけのことですが、そのようにいじめられたり、意地悪されたり、侮辱されたり、こき使われたりと、あまり良いイメージを持つことかできない場所があるということです。しかし、そんなところでも、イエス様と出会うなら、そこは最高の場所となります。

 

その実家である母の家に導いて、そこにお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁の果汁をあなたに飲ませて上げましょうというのです。えっ、逆じゃないですか。そこに導いて、ぶどう酒やざくろの果汁を飲ませてくれるのは花婿の方ではないのですか。これまでもずっとそうでした。いつも花婿が花嫁を導いてくださいました。花嫁が花婿を導くなんておこがましいことです。でもここでは花婿が導いているのではなく、花嫁が導いてと言っています。花嫁が花婿を母の家にお連れしたいと言っているのです。どういうことでしょうか。

 

確かに、私たちはイエス様に導かれている者です。私たちが救いに導かれたのもそうです。それはイエス様の導きによるものであり、一方的な恵みです。しかし、同時に、私たちもイエス様を導いている面があるのです。たとえば、イエス様は大宣教命令の中で、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)と言われましたが、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われたイエス様は、同時に、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われました。つまり、私たちが出て行くところには、いつもイエス様が共におられるのです。言い換えると、クリスチャンがイエス様をお連れするという面があるということです。それはイエス様に何か指図するということではなく、イエス様が喜んでくださるところにお連れするということです。花嫁がお連れしたかったのは、彼女を育ててくれた母の家でした。そこで香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて差し上げたかったのです。

 

「香料を混ぜたぶどう酒」とは、究極の喜びを表しています。「香料」は祈りの象徴、「ぶどう酒」は喜びの象徴です。祈りに喜びが混ぜ合わされているというのは、あるいは、喜びに祈り混ぜ合わされているというのは、ただの喜びではなく究極の喜びであるということです。それは尽きることがない喜びです。揺らぐこともなく、失われることもありません。そのような喜びを花婿に差し上げましょう、と言っているのです。

 

ヨハネの手紙第三1章3節にはこうあります。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。」

この手紙は、当時エペソの教会の長老であったヨハネが書いた手紙ですが、ここで彼は、「兄弟たちがやって来て、あなたがたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます」と言っています。彼にとっての喜びは、クリスチャンが真理に歩んでいるということでした。それはヨハネに限ったことではなく、牧師であればみんなそうです。クリスチャンが真理に歩んでいること、信仰に堅く立っているということを聞くことほど大きな喜びはありません。それは大牧者であられるイエス様も同じです。イエス様が喜んでくださることは、私たちが真理のうちに歩むことです。そのようなものを飲ませてさしあげることかできます。

 

それは、ざくろの果汁にも言えることです。よくスーパーに行くとざくろのジュースが置いてありますが、ざくろは強い抗酸化力があるので、ガンや腎臓病の予防に効果的だと言われています。また、美白化粧品にも使用されるエラグ酸を含むので、くすんだ肌を美白肌へと導いてくれるそうです。それは疲れたからだを癒す効果がある最高の飲み物でした。それを飲ませい差し上げましょう、というのです。それはどれほど花婿を爽やかな気持ちにさせることができたでしょうか。こうしたものをイエス様にささげることができるのです。

 

これまで私たちは、イエス様から何かをしていただくことしか考えられなかったかもしれませんが、でも私たちが霊的、信仰的にステップアップしていく中で、今度はイエス様に差し上げることができるようになってきます。イエス様にとって喜びとなるもの、イエス様にとってすがすがしく、爽やかにさせるものをささげることができるのです。そのためには、まず自分自身をささげたいですね。なぜなら、イエス様が求めておられるのはお金でも、時間でも、労力でもでもなく、私たち自身であるからです。つまり、献身するということです。それがイエス様にとって最もうれしいことであり、喜んでくれることなのです。花嫁が花婿に自分をささげるように、キリストの花嫁である私たちは、花婿であるキリストに自分をささげたいと思うのです。

 

3節をご覧ください。ここには「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」とあります。これも2章6節で語られていたことの繰り返しです。あの方の左の腕が私の頭の下にあるとは、左の腕でがっちりと支えているというイメージです。そして右の腕が私を抱いてくださるとは、優しく抱きしめているというイメージです。ちょうど母親が赤ちゃんを抱っこしている姿です。それは確かな保護と細やかな愛情を表現しています。あなたが危険に陥らないようにがっちりと支えていてくれます。あなたがつまずいて倒れそうになった時、主は力強い御手をもって支えていてくださるのです。

あなたはそのようなイエス様の愛情を感じているでしょうか。包み込むような優しい愛情を受けているでしょうか。イエス様の腕が、文字通りあなたをしっかり支えているということを覚えていてください。イエス様がおられるなら寂しくありません。もう何も怖くはないのです。あなたの下には永遠の腕があるからです。ここに真の満たしと安心感を得ることができます。あなたにとってイエス様がそのような方であるかどうかをもう一度考えてほしいと思います。

 

Ⅲ.揺り起こしたり、かき立てたりしないでください(4)

 

最後に、4節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」と。これは2章7節と3章5節にもありました。振り返ってみましょう。2章7節には、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。また、3章5節にも、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。それがここでもう一度繰り返して言われているのです。

なぜ繰り返して言われているのでしょうか。2章7節で説明した時にもお話しましたが、この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているからです。ですから、8章5節から、また新しい場面を迎えることになります。それはこの雅歌全体のクライマックスです。しかし、それだけでなく、実は、このことがとても大切なことだからです。その大切なことを思い起こしてほしかったのです。

私たちは大事なことでもすぐに忘れてしまいます。喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れるで、どんなに大事な教訓でも、喉元を過ぎるとそれがどんなに熱かったのかを忘れてしまいます。思い起こす必要があります。だから繰り返して語られているのです。「ああ、これは本当に大事なことでした。」と思い起こさせているのです。その内容はどんなことかというと、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」です。これは直訳すると、「あなたがたは揺り起こしたり、かき立てたりして、私の愛を目覚めさせないでください。私が良いと思う時までは。」となります。私が良いと思う時までは、私がそうしたいと思う時までは、揺り起こしたり、かき立てたりしないで、そっとしておいてくださいとお願いしているのです。

 

このエルサレムの娘たちはたびたび登場していますが、彼女たちの存在は本当に有難いものです。その度に何かを気付かせてくれます。たとえば、5章9節では花嫁が花婿を見失ったとき、彼女は必至になって花婿を捜すも見つからなかったとき、このエルサレムの娘たちにお願いして、一緒に捜してください、そしてあの方を見付けたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。

するとこのエルサレムの娘たちは言いました。「いったいあなたにとって花婿はどんな存在なんですか、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」と。それで花嫁はハッとして、花婿のすばらしさを思い起こし、その存在のすばらしさを告白しました。「あの方のすべてがいとしい。これが私の愛する方、これが私の恋人です。」いわば、彼女の思いを引き上げてくれたわけです。有難いことです。

 

しかし、そのような存在であるがゆえに、時にはお節介とも思われる言動をすることがありました。それで花嫁は「ちょっと待ってください、私は静かに考えたいのです。私がそうしたいと思う時まで、私の心を揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。」とお願いしているのです。花嫁は、花婿との愛の関係をどれほど大切にしているかがわかります。事ある度に花婿との関係を思い起こしては、花婿との関係を大事にしているのです。彼女の成長ぶりが伺えます。

 

事ある度にイエス様との関係を思い起こすこと、これは私たちにも求められていることです。あなたにとってイエス様はどのような存在でしょうか。あなたとイエス様との関係はどうでしょうか。あなたにとってイエス様との関係が何よりも大切となっているでしょうか。イエス様との関係がどうなのかを、私たちも事ある度に思い起こし、キリストの愛に目覚めるように祈りたいと思います。

高貴な人の娘よ 雅歌7章1~10節

聖書箇所:雅歌7章1~10節

タイトル:「高貴な人の娘よ」

 

 きょうは、雅歌7章から学びます。花嫁が花婿を見付けると、花婿は何事もなかったかのように花嫁を受け入れ、花嫁の美しさを再び称賛しました。そして自分の車に乗せて二人だけの親密な交わりを持つことができる場へと連れて行きました。その時でした。エルサレムの娘たちの声が聞こえてきました。「帰りなさい、帰りなさい」。もう帰りたくない、このままずっと花婿との二人だけの時間を過ごしたいと思っていた花嫁でしたが、エルサレムの娘たちも花嫁の姿を見ることを切に願ったのです。今回はその続きです。

 

 Ⅰ.高貴な人の娘(1a)

 

 まず、1節をご覧ください。1節をお読みします。「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」

 

 これは花婿のことばです。花婿のことばが9節まで続きます。ここで花婿は花嫁の美しさを絶賛しています。文字通り彼女のつま先から頭のてっぺんまでその美しさを絶賛しているのです。よく読んでいくと顔を赤らめてしまうような表現が続きますが、このところを読んでいくと、花婿がどれほど花嫁を愛しているかがわかります。それは同時にイエス様が私たちをどれほど愛しておられるかということでもあります。なぜなら、この花婿とは主イエスのこと、そして花嫁とは私たち教会のことを指しているからです。

 

 いったい花嫁のどこがそんなに美しいのでしょうか。ここには「高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。」とあります。花婿は花嫁のことを「高貴な人の娘よ」と呼んでいます。しかし、この花嫁は決して高貴な出の娘ではありませんでした。1章6節をご覧ください。彼女は農家の娘であったことが紹介されていました。ただの農家の娘であったというだけでなく、家では使用人のようにこき使われていたのです。ここには「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。」とあります。彼女は兄弟たちが怒りを燃やし、彼らのぶどう畑の番人にしたので、彼女の肌は日に焼けて、浅黒くなったと嘆いています。彼女はそのことでコンプレックスを持っていました。しかし、花婿はそんな彼女に目を留めて花嫁とし、王家に迎え入れてくれました。それゆえ彼女は、「私は黒いけれども美しい。」と宣言することができたわけです。卑しい娘が、高貴な娘としての立場を与えていただいたのです。それで、高貴な人の娘よ、と呼ばれるようになりました。

 

 それは私たちも同じです。私たちもかつては罪過と罪との中に死んでいた者ですが、キリストを信じ、キリストと結び合わされたことによって、神の子と呼ばれるようになりました。高貴な人の娘よ、と呼ばれるようになったのです。ガラテヤ人への手紙3章26節には、「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」とあります。人間の親子でさえ、子どもという身分のゆえに親から様々な祝福を受けることが出来ます。子どもであるというだけでその家の鍵が与えられ、家の中のものは何でも自由に使うことさえできるわけです。

 

私が結婚したばかりの頃、アメリカの妻の実家に行ってみて驚いたのは、冷蔵庫が大きいことです。しかも製氷機付きです。中には日本では飲んだことがないようなジュースがたくさんあるではありませんか。その頃はバブル期で日本の円が高く、円に換算するとものすごく安いのです。「ああ、飲みたいなぁ」と思っても、人の家の冷蔵庫を開けるのは失礼だと思いずっと我慢していましたが、でも飲みたくなってある時妻に「冷蔵庫からジュースを飲んでもいいかな」と言ったら「もちろん、いいよ」というので「それじゃ」と言って恐る恐る冷蔵庫を開けて飲んだのです。あとで妻の両親から「だれだ、冷蔵庫の中のジュースを勝手に飲んだのは」と怒られるのではないかとビクビクしていましたが、だれも何も言いませんでした。なぜ?私は家族の一員になったからです。家族の一員なったので冷蔵庫を開けて何を飲んでも文句を言われないのです。

 

ましてや、私たちは人間の家族ではなく神の家族に迎え入れられ、神の子どもとされました。この天地万物を創造された方の子どもになるということは、神の御住まいである天の御国を受け継ぐ者となったということです。これらすべては神の恵みです。それは私たちの行いによって勝ち得たものではありません。神様が一方的にイエス・キリストを通して与えてくださったものです。それゆえに、私たちも「高貴な娘よ」と呼んでいただける身分、立場とされたのです。そのことをしっかりと覚えておきたいと思います。

 

 ところで、この「高貴な」という言葉ですが、これはヘブル語では「ナディーブ」と言います。意味は「積極的である」とか「自発的である」、「寛大である」、「気高い」です。ですから、新共同訳ではこれを「気高いおとめよ」と訳しています。気高いとは、道徳的に優れているとか、人格的に優れている、王家のような高い身分であることを指しています。ですから、口語訳では「女王のような娘よ」と訳しています。

 

それはイエス様のような人のことです。イエス様は王の王、主の主であられる方なのに、決して傲慢ではありませんでした。イエス様は神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を空しくし、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、自らを低くして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。王の王、主の主であられる方が、しもべの中のしもべになられたのです。これこそ高貴な人です。真に高貴な人とは、ただ自分の家柄や身分を自慢するのではなく、イエス様のようにへりくだって、しもべなる人のことです。そのような人こそ神の子としてふさわしい気高い人なのです。私たちは高貴な人の娘としてふさわしい人になれるように求めていきたいと思います。

 

Ⅱ.人を喜ばせる愛よ(1b-9)

 

次に、1節後半から9節までをご覧ください。ここには、この花嫁の美しさが具体的に語られています。まず1節の後半をご覧ください。ここには「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」とあります。

 

まず、花嫁の足です。花嫁の美しさの一つは、サンダルをはいた足でした。サンダルをはいているとはどういうことでしょうか。シンデレラのようなかかとの高い透き通ったサンダルでも履いていたのでしょうか。そういうことではありません。サンダルをはいたとは、彼女が高貴な人の娘であったということを表しています。当時、貧しい人はサンダルをはきませんでした。裸足だったのです。しかし、彼女はサンダルをはいていました。それだけ高貴な人であったということです。

 

 次は「ももの丸みです」です。ここには「あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ」とあります。何ですか、「ももの丸み」とは。新改訳聖書第三版には「丸みを帯びたもも」と訳しています。創造主訳聖書では「まろすやかなもも」と訳しています。これはまろやかなもものことです。ももはももでも果物の桃ではなく、足からもものつけ根までの部分を指しています。その部分が一番まろやかなのです。人間のももと鳥のももを比べるのはどうかとも思いますが、鶏肉で一番おいしいのは「もも」の部分です。引き締まっていて、旨味とコクが感じられます。脂肪分が多く、調理した時にジューシーに仕上がるのが特徴です。ですから、からあげや照り焼きなどに使われるのはこの「もも肉」なのです。

 

それは名人の手のわざです。名人の手で作り上げられた飾りのようであるということです。いわば職人技であるということです。まろやかなももが職人技であるというのはすごいですね。実はこれは私たちにも言えることで、私たちは神の職人技による作品なのです。エペソ2章10節には「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。クリスチャンを見れば、誰が造ったのかは一目瞭然です。それは神の芸術作品なのですから。名人の手で作られた飾りようなものなのです。

 

 さらに、2節には「ほぞは丸い杯。混ぜ合わせたぶどう酒は尽きない。腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている。」とあります。

 何ですか、「ほぞ」とは?皆さん、聞いたことがありますか。これは「おへそ」のことです。「おへそ」を美的に表現したのが「ほぞ」です。「おへそ」は俗語です。これは雅歌ですから、雅の歌です。上品で、精錬された歌なので、「へそ」と言わず「ほぞ」と言っているのです。私たちもこれからは上品に言いましょう。「ほぞ」。

 

それは杯のように丸い形になっていました。丸い杯とは、丸く見事な形をしているということです。でべそではありません。ですから、混ぜ合わせたぶどう酒は尽きないのです。もしへそが出ていたらぶどう酒を注ぐことができません。しかし、花嫁のおへそは丸い杯のように見事な形をしていたので、ぶどう酒を注ぐことができました。それは祝福が溢れている状態を象徴しています。詩篇23篇5節には「私の杯はあふれています。」とあるのはそのことです。最近はおへそにピアスを付けている人もいますが、そんなことをしなくてもこの花嫁もおへそは祝福に溢れた魅力的なものでした。

 

では、お腹はどうでしょうか。「腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている」とあります。小麦色の山とは健康的で、血色が良いという意味です。よく小麦色の肌といってその美しさを表現することがあります。

しかもそれがゆりの花に囲まれています。ゆりの花というと白色を思い浮かべるかと思いますが、これは赤色です。アネモネとかチューリップなど野原を真っ赤に染める花でした。それは若々しく健康的であるということです。

ですから、腹はゆりの花で囲まれた小麦色の山のようであるというのは、山のようにお腹がポッコリと出ているということではなく、そのように血色が良く、健康的なお腹であるということです。その真ん中にあるのがおへそです。ほぞです。そこがぶどう酒の杯に溢れているのです。そこから喜びがあふれています。これは何のことかというと、ヨハネの福音書7章37~39節のことを表しています。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われました。私を信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。この「その人の心の奥底から」という言葉は、欄外の注釈には直訳「腹から」となっています。イエス様のもとに来て飲むなら、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。これは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について言われたのですが、それは腹から流れでるようになるのです。まさにお腹の中心にあるほぞから混ぜ合わせたぶどう酒が溢れるということです。そのような喜びと祝福の生ける水の川が流れ出るのです。

 

 あなたのほぞはどうですか。生ける水の川が流れていますか。混ぜ合わせたぶどう酒が溢れているでしょうか。もうカラカラで何もないという状態ではないでしょうか。イエス様のもとに来て飲むなら、イエス様を信じるなら、あなたの心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。

 

 3節をご覧ください。「二つの乳房は、二匹の子鹿、双子のかもしかのようだ。」ここでは花嫁の乳房を絶賛しています。この表現は4章5節にもありました。「乳房」は祝福と恵みの象徴です。それが二匹の小鹿、双子のかもしかにたとえられているのは、それが若々しく、跳びはねるような、張りのあるもので、しかも、バランスがとれていることを表しています。とてもきれいな乳房であるということです。ここでは肉体的な乳房の美しさよりも、霊的にそうであるということです。つまり、花嫁の心が若々しく、みずみずしく、張りがあって、跳びはねるように魅力的であるということです。

 

あなたの心はどうでしょうか。精神的、霊的にアップダウンしていませんか。あなたが花婿であるキリストにあるなら、あなたも双子のかもしかのように若々しく、瑞々しく、跳びはねるような、しかもバランスのとれた心となります。

 

4節をご覧ください。今度は首と目と鼻です。「首は象牙のやぐらのようで、目は、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池。鼻は、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」

すごい表現ですね。象牙のやぐらとか、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池とか、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようと言われてもピンときません。象牙のやぐらとは、なめらかで白いことを表しています。それが「やぐら」のようにスラっとしているということです。花嫁の首はそのように美しい首でした。京都の舞子さんのようです。

バデ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池のような目ですが、「ヘシュボン」とは、巻末の地図を見ていただくとわかりますが、エルサレムから東にヨルダン川を渡って約60㎞のところにあります。死海の北東に位置しています。ここはかつてモアブの首都でした。ですから、一国の首都であったような立派な町だったのです。その門です。「どんなもんだい」という声が聞こえてきそうです。それはバテ・ラビムと呼ばれる門でした。そこには大勢の人たちが集まりました。その近くにあったのがヘシュボンの池です。それは、特に澄んだ池でしたが、そのヘシュボンの池のように澄んだ目であるということです。その澄んだ目を見ただけで引き付けられるような魅力的な目でした。

 

鼻はどうですか。ここには「鼻は、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」とあります。すごい比喩ですね。ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらです。レバノンについては4章8節でも説明しましたが、そこには北からアマナの頂、セニルの頂、ヘルモンの頂と、山脈が南北に連なっています。レバノン山脈と呼ばれています。全長は150㎞にも及びます。そのレバノン山脈にあるやぐらからダマスコの方を見張るようなスラっとした高い鼻であるということです。

 

5節をご覧ください。今度は頭です。「頭はカルメル山のようにそびえ、髪の毛は紫の羊毛のよう。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」

カルメル山で有名なのは、神の預言者エリヤが、バアルとアシェラの預言者たちと対決した場所です。それがこのカルメル山でした。しかし、もともとの意味は「実り豊かな地」です。そこは実り豊かな美しい地でした。それは髪の毛に表れていました。「髪の毛は紫の羊毛のよう。王はそのふさふさとした髪のとりこになった。」すなわち、羊毛のようにふさふさしているということです。それだけ豊かであるということ、それだけゴージャスであるということです。

 

ただふさふさしているというだけではありません。ここにはその髪の色が紫色であると言われています。どうしたのでしょうか。これまでは「ギルアデの山を下るやぎの群れのようだ」と、その黒髪が称賛されていました。しかし、ここでは紫になっています。あの美しい黒髪を紫色に染めたのでしょうか。ある注解によると、光に当たって紫色に見えたのではないかと説明してありますが、そういうことではありません。ここで強調しているのは「紫色」です。それは高貴な色です。それは王家の気高さを表現しているのです。つまり、1節には「高貴な人の娘よ」とありましたが、彼女は王家に嫁いだことで、王家の一員、ロイヤルファミリーに迎え入れられたということを表現しているのです。それが花嫁の立場です。感謝ですね。

私たちもイエス様に出会って、イエス様を信じたことで、イエス様と一つに結ばれました。王の王、主の主である神の家族の一員とされました。私たちの髪の毛も紫色になっています。ふさふさとしています。このことを忘れないようにしたいです。

 

次に、6節をご覧ください。「ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。」

ここで花婿は花嫁を、「人を喜ばせる愛よ」と呼んでいます。愛を擬人化しているのです。英語で愛する人のことを「my love」と呼ぶことがあります。私の愛する人よ、という意味です。ですから「人を喜ばせる愛よ」というのは、「私を喜ばせる 愛する人よ」ということです。

 

聖書には、神は愛なり、とあります。その神が私たちのことを「愛よ」と呼んでいるのです。それほどまでに私たちは神に愛されているのです。イザヤ書43章4節には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。最近、教会の看板に書かれてある聖書のことばで一番多いのはこのことばです。一昔前まではマタイ11章28節のみことばでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」しかし、今は違います。今一番多いのはこのことばです。今の時代を反映しているのでしょうか。みんな愛に飢えています。みんな愛を求めています。その愛はどこにあるのでしょうか。ここにあります。神は愛です。この神がイエス・キリストをお与えになったほどにあなたを愛してくださいました。ここに神の愛があるのです。この愛を信じる者、キリストの花嫁に対して主は「私の愛する人よ」と呼び掛けてくださるのです。

 

7節をご覧ください。ここには「あなたの背たけはなつめ椰子の木のよう、乳房はその実の房のようだ。」とあります。

「なつめ椰子の木」は、へブル語で「タマル」と言います。「美しい」という意味があります。ですから、ここで花婿は花嫁の背たけをなつめ椰子の木にたとえて、美しいと言っているのです。ファッションモデルのようにスラッとしていたのかもしれません。私はどうみてもずんぐりむっくりで・・という方がおられますか。がっかりしないでください。あなたの花婿はあなたを見てこのように言ってくださるのですから。

 

また乳房はその実の房のようです。新改訳改訂第3版では「あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」とありますが、正確にはこの新改訳2017の訳のように「その実の房のようだ」となっています。なつめ椰子の実は「デーツ」として有名ですが、その実の房のようだというのです。皆さんは、デーツの実の房を見たことがありますか。ネットで調べてみるとぶどうの房のように、あるいはバナナの房のようになります。でももっと大きいのです。まさにふさふさしています。ですから、ここで花婿は、花嫁の乳房を見て、なつめ椰子の木の実の房のように豊かであると言っているのです。

 

8節をご覧ください。「私は言った。「なつめ椰子の木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香りはりんごのようであれ。」どういうことでしょうか。

「その枝をつかみたい」とは、そのなつめ椰子の実の房をつかみたいということです。それは先ほど申し上げたように、ぶどうやバナナよりももっと大きな房になります。それをつかんでかぶりつきたいと言っているのです。これは乳房のことですから、乳房をつかみ取りたいとか、かぶりつきたいというのは性的描写のことです。聖書にこのような描写があるとびっくりしますが、これはあくまでも夫婦の間の性生活のことですから、それはむしろすばらしいことです。それをつかみ取りと思うほど魅力的であるということですから。だから、ここに「あなたの乳房はぶどうの房のようであれ」とあるのです。なつめ椰子の実の房のようであれと言われているのです。

 

また、「息の香りはりんごのようであれ」と言われています。このりんごについても2章3節や2章5節にもありましたが、それは甘い香りを放ちます。それは花婿の香り、イエス・キリストの香りでもあります。花嫁の息の香りがそのような香りであればいいのにというのです。

 

そして9節には口づけのことが記されてあります。「あなたの口は最良のぶどう酒のようであれ。」そのぶどう酒は、私の愛する方に滑らかに流れ、眠っている者たちの唇に流れる。」

時々妻に「あなたはきょう何を食べましたか」と言われることがあります。口が臭いというのです。何を食べたかって、ラーメンとか、カレーライスとか、そういうものを食べた後は口が臭くなります。しかし、花嫁の息の香りはりんごのようです。花嫁との口づけは、最良のぶどう酒のように、なめらかで甘く、眠っている花婿の唇を開かせます。もう何から何まで魅力的です。花婿と結ばれた花嫁の姿は、花婿の心を完全に満たすのです。

 

これがキリストの花嫁である私たちの姿です。それは花婿の心を魅了するほどの美しさです。それは花嫁である私たちが花婿と結ばれ、一つになり、高貴な人の娘とされたからです。私たちは取るに足りない卑しい者ですが、花婿に愛され、高貴な人の娘としていただいたものとして、ますますキリストの心を魅了するような者となりたいと思います。

 

Ⅲ.あの方は私を恋い慕う(10)

 

最後に、10節を見て終わりたいと思います。これまでは花婿が花嫁の美しさを絶賛していましたが、ここから8章4節まで花嫁のことばが続きます。その最初のことばがこれです。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

 

これまで花婿は花嫁の美しさを絶賛してきましたが、何といっても花嫁の一番の美しさは、その心でした。ここで彼女は「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と告白しています。

「私は、私の愛する方のもの。」という告白は、これで3回目になります。最初の告白は、2章16節にありました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

「私の愛する方は私のもの」という告白は、「あなたは私のもの」という所有の意味が強く表現されていました。花嫁にとって花婿は自分の楽しみであり、花嫁は自分の視点からしか花婿の愛を捉えることができませんでした。どういう事かと言うと、自分の人生の中に神様の祝福を加えようとする、自分の視点で神様の恵みを利用している愛です。神様、こうしてください。神様、私はこれが必要です。これはいりませんと、祝福や問題ばかりに目がいき、それを解決してほしいがためのイエス様です。まだ自分が中心にいます。

 

ところが、前回見たように6章3節の段階では、その愛に成長が見られました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

ここでは順序が逆になっています。「私の愛する方は私のもの」よりも、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白できるようになりました。つまり、自分より花婿が中心で、自分はその次なのだと自覚するようになったのです。自己中心的な愛から、献身的な愛へと変えられたのです。神様のみこころが中心で、その中で生きるように変えられました。あなたのご計画の中で私を祝福してくださいと、自分が中心ではなく、みことばが中心となり、その上で自分の生活を整えていくようになったのです。これは大きな成長です。自分を献げることができるようになったのですから。

 

しかし、ここではそれだけではありません。ここで花嫁は、「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と告白しています。

ここで花嫁は、自分が完全に花婿のものであるというだけでなく、「あの方は私を恋い慕う」と、自分が花婿の関心の的であると告白しているのです。もう何をしても、何が起こっても怖くありません。イエス様が必ず守ってくださいますから。つまり、平安の中で完全に憩っている状態です。イエス様が私に対して必ず良いことをしてくださるという確信があるのです。ただイエス様が共におられ、自分をつかんでいてくだされば、それで十分なのです。イエス様にすべてを完全にゆだねているのです。そこまでレベルアップしました。

 

あなたは今、どの段階にいますか?あなたの愛が成長する秘訣は、礼拝です。ワーシップです。私たちに対するイエス様の愛を知れば知るほど、イエス様に対する愛は成熟していきます。あなたは高貴な人の娘と呼ばれるようになりました。それが、花嫁のアイデンティティーです。イエス様は、あなたをこよなく愛してくださいました。その愛を知れば知るほど、あなたは安心してすべてを主に献げることができるようになるのです。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と、私たちも告白する者でありたいと思います。

民数記15章

民数記15章

 

 きょうは民数記15章から学びたいと思います。まず1節から16節までをお読みします。

 

Ⅰ.穀物のささげ物と注ぎのささげ物(1-16)

 

1 主はモーセにこう告げられた。

2 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、

3 食物のささげ物を主に献げるとき、すなわち、特別な誓願を果たすためであれ、進んで献げるものとしてであれ、例祭としてであれ、牛か羊の群れから全焼のささげ物かいけにえをもって、主に芳ばしい香りを献げるとき、

4 そのささげ物をする者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを、主に献げなければならない。

5 また全焼のささげ物、またはいけにえに添えて、子羊一匹のための注ぎのささげ物として、四分の一ヒンのぶどう酒を献げなければならない。

6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパを献げ、

7 さらに注ぎのささげ物として、ぶどう酒三分の一ヒンを献げなければならない。これは、主への芳ばしい香りである。

8 また、あなたが特別な誓願を果たすために、若い牛を全焼のささげ物、もしくはいけにえとする場合、あるいは交わりのいけにえとして主に献げる場合は、

9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物を献げ、

10 また注ぎのささげ物として、ぶどう酒二分の一ヒンを献げなければならない。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

11 牛一頭、雄羊一匹、いかなる羊、やぎについても、このようにしなければならない。

12 あなたがたが献げる数に応じて、それらの数にしたがって、一頭、一匹ごとにこのようにしなければならない。

13 すべてこの国に生まれた者が、主への芳ばしい香りの、食物のささげ物を献げるには、このようにこれらのことを行わなければならない。

14 また、あなたがたのところに寄留している者、あるいは、あなたがたのうちに代々住んでいる者が、主への芳ばしい香りである、食物のささげ物を献げる場合には、あなたがたがするようにその人もしなければならない。

15 一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである。

16 あなたがたにも、あなたがたのところに寄留している者にも、同一のおしえ、同一のさばきが適用されなければならない。」」

 

13章と14章には、イスラエルの民がカデシュ・バルネアまで来ていたこときに、不信仰になって、神の約束のことばに背いたため、荒野を40年間さまようことになってしまったということが記されてありました。そして、この15章に入ると、様々なささげ物の規定が記されています。イスラエルの不信仰とこのささげ物の規定がいったいどんな関係があるのでしょうか。

 

1節には、「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」とあります。これは、荒野での長い辛く苦しい期間を経てカナンの地に入ることのできる新しい世代の者たちに対して語られていることがわかります。彼らがカナンの地に入ってから守るように命じられているのは、いけにえをささげるにあたっての新しい規定ではなく、すでに命じられている規定に対する補足的なもので、これによって以前の規定は完全に満たされることになります。つまり、この穀物のささげものは、彼らが約束の地に入ってから得られる収穫のことで、それはいのちの象徴でありました。確かに彼らは不信仰によって40年もの間荒野でさまよわなければなりませんでしたが、やがて新しい世代がその地に入るとき、そこで豊かないのちを受け継ぐようになるという希望が語られたのです。

 

このように主はイスラエルの失敗のその後で、その失敗にもかかわらず、彼らに希望のメッセージを語ることを忘れませんでした。たとえ彼らが不信仰に陥って失敗しても、神様はご自身の約束を忠実に果たされる方であり、失望のどん底にあっても、その変わらない希望を垣間見させてくださるのです。荒野で死なせることを告げられた後で、約束の地における収穫物のささげものについて語られた主は、そのような配慮をもっておられたのです。

 

そのささげものについては3節から記されてあります。されは、特別誓願を果たすためであっても、自分から進んでささげるものであっても、主に喜ばれるささげ物として、完全に焼き尽くすいけにえや、そのほかのいけにえのために、牛や羊を焼いてささげる時には、子羊一頭ごとに、それぞれ穀物のささげものとして、三分の一ヒン(1ヒンは3.8リットル=約1.2リットル)油を混ぜた小麦粉十分の二エパ(1エパは23リットル=4.6リットル)と、注ぎのささげものとして、四分の一ヒン(1ヒンは3.8リットル=約1リットル)のぶどう酒をささげます。

雄羊の場合には、穀物のささげものとして油三分の一ヒン(約1.2リットル)を混ぜた小麦粉十分の二エパ(約4.6リットル)と、注ぎのささげ物として三分の一ヒン(約1.2リットル)のぶどう酒をささげます。

若い牛の場合は、穀物のささげものとして、二分の一ヒン(約2リットル)をの油を混ぜた小麦粉十分の三エパ(約7リットル)と、そそぎの油としてぶどう酒二分の一ヒン(約2リットル)をささげます。

これを表で表すと以下のとおりとなります。

 

いけにえ

穀物のささげ物

注ぎのささげ物

 

子羊1頭ごとに

油1/4ヒンを混ぜた小麦粉1/10エパ

ぶどう酒1/4ヒン

 

雄羊1頭ごとに

油1/3ヒンを混ぜた小麦粉2/10エパ

ぶどう酒1/3ヒン

 

若い牛1頭ごとに

油1/2ヒンを混ぜた小麦粉3/10エパ

ぶどう酒1/2ヒン

 

1ヒンは3.8リットル、1エパは2.3リットル。ささげ物の種類によらず、いけにえの動物の種類により、1頭ごとに以上の規定によってささげられました。これが主に喜ばれるささげものです。

 

14節からのところには、それはイスラエル人に対してだけでなく在留異国人も、あるいは、彼らのうちに代々住んでいる者たちも同じようにしなければならないと規定されています。それはイスラエルの民と同じです。どういうことでしょうか?それは創世記12章3節で神がアブラハムに語られた約束の成就と考えることができます。神はアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と仰せになられましたが、イスラエルに与えられる祝福を異邦人にも押し流そうとされたのです。もちろん、その約束はイエス・キリストによって実現するものです。イエス・キリストによって文字通り隔ての壁が取り除かれ、キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つとされ、同じ祝福にあずかるようにされるのですが、その中にあって、こうしてすでに神のイスラエルに対する祝福が、異邦人にももたらされていたのです。

 

Ⅱ.初物の麦粉で作った輪型のパンのささげ物(17-21) 

 

次に17節から21節までを見てください。

17 主はモーセにこう告げられた。

18 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたを導き入れようとする地にあなたがたが入り、

19 その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければならない。

20 初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として献げ、打ち場からの奉納物として献げなければならない。

21 初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を献げなければならない。」

 

ここでも、彼らが約束の地に入り、その地のパンを食べる時どうしなければならないかということが教えています。約束の土地で得た収穫物は動物のいけにえとして添えるだけではなく、その初物を献えなければなりませんでした。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として奉納物として主に献げなければならなかったのです。

 

ヨシュア記5章10~12節を見ると、イスラエルはヨルダン川を渡ってギルガルに宿営したとき、彼らはすべて割礼を受け、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過ぎ越しのいけにえをささげ、その翌日、その地の産物と炒り麦を食べたて言われていますが、おそらくこの時に、初物の麦粉で作られた物が、主にささげられたのであろうと思われます。その翌日からマナが降るのが止みました。しかも、このように初物の麦粉のうちから献げられるのは、約束の地に入った時だけでなく、代々にわたってのことです(15:21)。それは、あなたの家に祝福が宿るためであります。

 

主はいつも「初もの」を私たちに求められます。初めに生まれてきた男子、つまり初子は主のものです。それは一番良いものを意味しています。残りものではなく、自分にとって最も大切なものをささげるのです。そのことによって、私たちのすべては主のものであり、主の恵みによって生かされていることを信仰によって認めることになるのです。ですから、初物をささげるということは、とても重要なことだったのです。私たちも約束の地に入ったならば、すなわち、霊的な恵みと祝福を経験したならば、初物を主にささげなければなりません。それは、私たちの家に祝福が宿る霊的な原則なのです。

 

Ⅲ.あやまって罪を犯した場合(22-36)

 

次に22節から36節までを見ていきましょう。

22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、

23すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、

24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。

25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。

26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。

27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。

28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。

29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。  

30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒涜する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。

31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」

32 イスラエルの子らが荒野にいたとき、安息日に薪を集めている男が見つかった。

33 薪を集めている者を見つけた人たちは、その人をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。

34 しかし、その人をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、彼を留置しておいた。35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」

36 そこで、全会衆は主がモーセに命じられたように、その人を宿営の外に連れ出し、石で打ち殺した。-

 

ここには、もし彼らがあやまって罪を犯した場合、どうしたらいいかが教えられています。これは、レビ記14:13-21で取り扱われていることですが、違うのは、レビ記の方では、「主がするなと命じられたことの一つでも行って」罪を犯した時のことであるが、ここでは逆に、「代々に渡って主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行わないときは」(23)とあるように、不履行の罪に陥った時はどうしたら良いかを教えていることです。

 

その場合、前者の場合は、若い雄牛を1頭罪のためのいけにえとしてささげましたが、後者の場合は、若い雄牛1頭を全焼のいけにえとして、また定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、そしてさらに罪のきよめの注ぎのささげ物として雄やぎ1頭をささげなければなりませんでした。このように祭司がイスラエル人の全会衆のための贖いをする時には、過失の場合のいけにえに従っていけにえをささげたので、イスラエルの全会衆も、在留異国人も赦されました。

 

ここでは「過失のため」とか、「過失だから」と、「過失」が強調されています。過失とは何でしょうか。過失とは、不注意によって、うっかりと、あやまって犯した罪のことです。故意にではありません。あやまってしたのだから、このようにして全焼のいけにえをささげるなら赦されたのです。

 

また、個人があやまって罪を犯した場合も同じです。一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげ、祭司が贖いをすれば、その者は赦されました。ところで、会衆全体が罪を犯した場合は、若い雄牛をささげなければなりませんでしたが、個人の場合は雌やぎとなっています。それは、会衆全体の場合の方が、責任が重かったからでしょう。

 

しかし、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければなりませんでした。「故意に」と訳されていることばは「高く上げた手」という意味で、「主に向って手を振り上げる」とか、「公然と主に逆らって」という意味で用いられています。それは、主を冒涜することであり、主のことばを侮り、その命令をわざと破ることです。そのような者は民の間から断ち切られなければなりません。

 

これは、私たちクリスチャンにとっても非常に厳粛な意味を持っています。クリスチャンはキリストの死によって贖われた者であるとはいえ、故意にみことばに背くことがあるとすれば、それがどんなに大きな罪であるかを、よく考えなければなりません。

イエス様は「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)と言われました。人はその犯すどんな罪でも赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえに罪に定められます。「聖霊をけがす」とはどういうことでしょうか。すでに私たちはイエスの血によってあらゆる罪を洗い流していただき、聖霊の内住を受けている者です。ですから、キリストにある者が罪に定められることは決してありません。御霊の内住を受けているクリスチャンは「聖霊をけがす罪」を犯すことができないのです。

 

そもそもこのことばが語られた背景を見ると、エルサレムから下って来た律法学者たちが、イエス様のなされた御業を見て「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていたことに対して、弟子たちに語られたことです。彼らはイエスを信じようとしていなかったばかりか、イエスが汚れた霊につかれていると言っていました(30)。この「言っていた」という言葉は、過去の行いを指すよりも、その時の状態の状態を指しています。すなわち、過去に一度、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言ってしまったからといって、その一度きりの行いのために永遠に赦されないというのではありません。また言葉で言うことだけが問題なのではなく、人がイエスさまのことをどう判断しているのか、ということが問題です。

 

ですから、これは今、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていて、これからも言い続けるのならば、あなたは永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる危険にさらされている、という警告のことばなのです。もしこれが警告ではなく「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていた人たちが、すでに聖霊をけがす罪を犯していて、永遠に赦されないことを宣言することなのなら、イエスさまが23節で彼らを傍に呼んで、彼らに対してこのように言うことはなかったでしょう。

つまり、聖霊をけがす罪とは、イエスさまの言葉を聞き、イエスさまの行いをみて、聖霊が人の心にイエスさまを受け入れるように働きかけているのに、そのはたらきに逆らって心を閉ざし、イエスさまなんて信じない、彼は悪霊につかれているのだ、と言い続けることです。神が人を赦されようとしないのではなく、人が神の赦しを受け入れないので、そのような人が、とこしえの罪に定められます。一方、どんなに罪深い者でも、イエスを信じなら、すべての罪は赦されていることに安息することができるのです。

 

また、ヘブル書10章26節には、「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、」とあります。これも解釈が難しい箇所です。真理の知識とはキリストが人間の身代わりに死なれたことによって信じる人は救われるという知識のことですから、この知識を信じて受け入れた人が、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていないとしたら、クリスチャンには罪の清めのためのいけにえは残されていないことになります。しかし、クリスチャンといえども人は皆罪を犯します。そのためにイエスさまがおられるわけで、ことさらに罪を犯したからもはや罪のいけにえがないとしたら、救われたクリスチャンと言えど不安になるのではないかと思います。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

イエス様が完全な罪のためのいけにえとしてご自身を十字架でささげてくださったのに、それを拒否するなら、その人たちの罪を贖うことのできるいけにえは、もはやありませんよ、ということなのです。28節には「モーセを律法を拒否する者は、二人または三人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。」とありますが、この「拒否する」とか、「無視する」というのは、故意に逆らうということです。たとえば、律法には「殺してはならない」という戒めがありますが、そのつもりがないのに誤って殺人を犯してしまった人には救済の道が用意されていました。しかし、故意に人を殺したら死刑です。そのように、律法を故意に無視する人は死刑なのですから、ましてや、私たちに完全な救いを与えてくださるイエス・キリストを故意に無視する人は、永遠の滅びに向かうのは当然ではないか、というのです。

 

そのような人の特徴として29節のところで紹介されています。それはまず、神の御子を踏みつける人です。神様がせっかく私たちのために遣わしてくださった御子を足の下に踏みつけるというのは、御子だけでなく父なる神様をもこれ以上ないほど甚だしく侮辱することになるからです。

 

また、そういう人は神の恵みを侮ります。神は、私たちを愛し、私たちを救うために御子イエスを送ってくださいました。そのイエス様を救い主として信じる人々の内には、聖霊が宿ってくださり、いつも共にいて教え、導き、守ってくださるのです。それによって、「神は私たちとともにおられる」という聖書の約束が実現しました。私たちが神様を知ることができるのも、イエス様を救い主として信じることができるのも、新しいいのちを与えられて神様とともに生きることができるのも、聖霊の働きがあるからなのです。もし、その恵みの御霊を侮るなら、神様が差し出してくださっているすべての祝福を拒否することになるのです。

 

つまり、ここで言われている「拒否する者たち」とか「逆らう者たち」というのは、自分の意志でキリストに背を向け、神の御子イエス様が救い主であることを認めず、十字架による罪の赦しも受け入れず、聖霊のみわざも否定する人たちです。神を侮った生き方をしている人たちのことです。

 


 そして、29節には、そういう人たちの特徴が書かれています。

 

民数記に戻ってください。32~36節には、その具体例が書かれてあります。イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男がいました。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来ました。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておきましたが、すると、主はモーセに、その者は必ず殺されなければならない、と言われたので、全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺したのです。どういうことでしょうか。

 

薪を集めることなんて本当にささいなことではありませんか。それ自体は決して悪いことではありません。それなのになぜこの男は殺されなければならなかったのでしょうか。それは、神が定めた安息日を守らなかったからです。彼はそれを知らずにではなく、意図的に、故意に行いました。つまり、知りながら行ったのです。彼は神に逆らい、神を侮っていたので、そのような行為をしたのです。それは新約聖書の光に照らされるなら、まさに自分の意志でキリストに背を向け、神の御子イエス様が救い主であることを認めず、十字架による罪の赦しも受け入れず、聖霊のみわざも否定する生き方です。そういう人にはもはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、永遠の滅びがもたらされることになるのです。

 

Ⅳ.着物のすそのふさ(37-41)

 

最後に37節から41節までをご覧ください。

37 主はモーセに告げられた。

38 「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

39 その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

41 わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。

 

ここで主はイスラエル人に、着物のすその四隅に房を作り、その房に青いひもをつけるように言いました。何のためでしょうか。それは彼らがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うためです。そして、淫らなことをする自分の心と目の欲に従ってさまよい歩くことがないようにするためです。こうして彼らが、神のすべての命令を思い起こして、これを行い、神の聖なる者となるためです。マタイ23章5節を見ると、律法学者やパリサイ人たちは、この着物の房を長くしていたとあります。何のためでしょうか。他人の目を引くためです。彼らはこのようにして、自分たちがいかに律法をよく守っているのかを誇示しようとしていたのです。

 

しかし、これは自分たちのわざを誇るためではありません。むしろ逆で、日常生活において、彼らがいつもそれを見て、積極的にも、消極的にも、自らを戒め、励まして、主の命令を守り行うためだったのです。その心がないのに形だけ長くしても意味がありません。それは、彼らが神の命令を思い起こして、これを行い、彼らが神の聖なるものとなるため、つまり、神との交わりの中で、心から神を喜ぶ者となるためでした。それこそが、神がイスラエルをエジプトから救い出された目的です。私たちもいつも主の愛の中にとどまり、罪から救い出してくださった方を覚え、感謝と喜びをもって、主のみこころに歩む者でありたいと思い。

帰りなさい、帰りなさい 雅歌6章1~13節

2021年9月19日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑫)

聖書箇所:雅歌6章1~13節

タイトル:「帰りなさい、帰りなさい」

 

 きょうは、雅歌6章から学びます。花婿を見失った花嫁は必至になって捜し求めますが、そのために彼女はこの質問に明確に答えなければなりませんでした。それは、「あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」という質問です。それに対して彼女は、「これが私の愛する方、これが私の恋人です。」と答えることができました。他の人にとってどうであろうと、この方は自分にとって本当に大切な方であるという確信を持つことができたのです。きょうの箇所はその続きです。

 

 Ⅰ.成長する愛(1-3)

 

 まず、1節から3節までをご覧ください。「あなたの愛する方はどこへ行かれたのでしょう。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方はどこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

 

 1節は、エルサレムの娘たちのことばです。花嫁は花婿がいかに優れた方なのかを告白すると、エルサレムの娘たちは心動かされ、「私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」と申し出ました。

 

このところから教えられることは、主への賛美は人々の心を動かすということです。エルサレムの娘たちは、花嫁がなぜそんなに必死になって花婿を捜し求めるのか理解できませんでした。しかし、花嫁が花婿のすばらしさをほめたたえたとき、彼女たちの心が動かされ、自分たちも一緒に捜したいと思うようになったのです。これが伝道です。伝道とは、イエスさまとの愛の関係から生まれてくるものです。イエスさまとの愛の関係があると、必然的にこの方について話さずにはいられなくなります。「あの方のすべてがいとしい」と。その方を心からほめたたえ礼拝するなら、それを見るノンクリスチャンは、イエスさまを知りたいと思うようになるのです。勿論、トラクトを配ったり、機会がある度にイエスさまを証することは大切なことですが、最も効果的な伝道は、花嫁である教会が一つとなって花婿であるキリストをほめたたえることなのです。そのとき、この世はイエスさまを知るようになります。

 

イエスさまが教えられたのはこのことです。ヨハネの福音書17章21節を開いてください。ここには、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。

これは、十字架を前にして祈られたイエスさまの祈りです。イエスさまは「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたがたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」と言われました。「彼ら」とはイエスさまの弟子たちのことです。また私たちクリスチャンのことでもあります。どうしたらこの世は、神がイエスを遣わされたと信じるようになるのでしょうか。それは、父がイエスのうちにおられ、イエスが父のうちにいるように、私たちすべてのクリスチャンが一つになることによってです。教会が一つになって主を礼拝し、主をほめたたえている姿を見ることによって、この世はイエスこそ神の子であると信じるようになるのです。これが、イエスさまが教えられたことです。

ですから、私たちに求められていることは、私たちが互いに愛し合い、心を一つにしてイエスさまをほめたたえることです。もしかすると、それを見たノンクリスチャンは初めのうちは驚き怪しむかもしれませんが、だんだんとそこにはこの世にはない本当の愛があることを知って、「私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」と申し出るようになるのです。

 

2節と3節をご覧ください。「私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿がどこか遠くへ行ってしまったのではないかと思っていましたが、実はごく近くにいました。花婿は「自分の庭」にいたのです。花嫁はどうやって花婿の居場所がわかったのでしょうか。ふと花婿の庭に目をやってみたら、花婿が自分の庭に下って行くのを見たのです。花婿はそこで群れを飼うために、ゆりの花を摘むために、香料の花壇へと下って行きました。それで彼女はこう言いました。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」どういうことでしょうか。

 

このことばをよく覚えておいてください。彼女がこのように言ったのはこれが2回目です。2章16節でも同じように告白しました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」しかしここでは彼女はまず、「私はあなたのもの」と告白しています。ここに花嫁の成長を見ることができます。以前の彼女なら「私は私の愛する方のもの」という前に、「私の愛する方は私のもの」と告白していました。まず「私」でした。でもここではそうではありません。その前に「私はあの方のもの」と告白できるようになりました。愛がより純粋になっているのです。花婿といっしょにいることができるという喜びだけではなく、それ以上に自分が夫のものであるということを喜んでいるのです。彼女は花婿との関係の危機を経験したことで、人生の優先順位が変えられました。花婿に対する愛が深くなるにつれ、自己中心的であった愛が献身的な愛へと変わったのです。

 

それは私たちにも言えることです。イエスさまと出会い、イエスさまを信じたことで、イエスさま私のもの、私はイエスさまのものとなりました。このようにイエスさまと一つとなれることはすばらしいことですが、こうした夫婦の危機を乗り越えることによってイエスさまに対する愛がさらに深められ、それまで自己中心的であった愛が献身的な愛へと変えられていくのです。

 

あなたはどうですか。あなたは人生の試練を通して何を学びましたか。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」から「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」と人生の優先順位が変えられ、主への愛が深められ、それまで自己中心的であった信仰が、主のみこころにかなった献身的な信仰に変えられているでしょうか。

 

Ⅱ.旗を掲げた軍勢のように恐ろしい(4-10)

 

次に、4節から10節までをご覧ください。花嫁のことばを聞いた花婿は、花嫁の美しさをほめたたえます。4節には「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しい。あなたはエルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる。」とあります。

「ティルツァ」とは、後にイスラエルは北と南に分かれますが、その北イスラエル王国の首都です。後に北王国イスラエルの首都は「ティルツァ」から「サマリヤ」に移ります。ですから、サマリヤに移される前に首都があった町が「ティルツァ」です。意味は「本物の美しさ」です。ですから「あなたはティルツァのように美しい」とは、「あなたは本当に美しい」という意味になります。花婿は花嫁を見てそのように喜んだのです。これが花婿であるイエスさまが花嫁である私たち教会を見る目です。

また「エルサレムのように愛らしい」とありますが、「エルサレム」とはご存知のようにイスラエル南ユダの首都です。哀歌2章15節には、このエルサレムを「美の極み」とか「喜びと言われた都」と言われています。ですから、これは美の極みであり、喜びの都です。

これら二つの町に共通しているのは、美しさと堅固さです。堅固な城壁に守られていて、揺るぎない土台にありました。王国の都としての栄光と尊厳があります。そのように花嫁も全イスラエルの美しさと栄光に輝いていたのです。

 

しかし、ここにはもう一つのことが言われています。それは「旗を掲げた軍勢のように恐れられる」です。どういうことでしょうか。旗を掲げるとは、戦いで勝利したことを表しています。勝利した軍勢が旗を掲げました。戦いに負ければ、旗は屈辱のうちに取り去られました。けれども、その旗が掲げられる時には、いつも勝利の栄光がありました。花嫁はそのような存在なのです。花婿の前で美しく愛らしい花嫁は、一方で、天の都のように堅固で揺るぐことがない、いつも勝利者としての尊厳があるということです。

 

でもここには「その軍勢は恐れられる」とあります。恐ろしいというのは、美しいとか愛らしいというイメージとは相入れない表現のように感じます。しかし、これは鬼のように恐ろしいというイメージではありません。その恐ろしさは、神の聖さと密接に関連しています。神は聖なる方です。ですから、イエス・キリストによって罪が贖われたクリスチャに求められていることは「聖なるもの」であることです。Ⅰペテロ章16節には、「あなたがたは聖なるものであなければならない。わたしが聖だからである。」と書いてあるからです。」(Ⅰペテロ1:16)とあります。もし花嫁なる教会がこの世に融合し、この世に媚びることがあるとしたら、神の聖さを失い、同時に「恐ろしさ」も失うことになってしまいます。反対に、その聖さを保つなら、旗を掲げた軍勢のように恐れられることになります。そのような花嫁には真の魅力があります。その姿に花婿はとりこにされ、釘付けにされるのです。ですから、花嫁のすばらしさはただ美しいというだけでなく、「美しさ」と「恐ろしさ」を合わせ持った存在として、主の栄光を現わし続ける存在なのです。

 

5節をご覧ください。「あなたの目を私からそらしておくれ。それが私を引きつける。あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ。」

花嫁の目が花婿を引きつけます。花嫁のひとみが花婿の心を引きつけるのです。これはどういうことかというと、もしあなたがイエスさまを見るなら、イエスさまの心はあなたに釘付けになるということです。私たちはいつもイエスから目を離さないようにしましょう。

 

その後のところには、「あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ」とあります。同じことが4章1節でも語られていました。流れるような黒髪の美しさを表現しています。

 

また、6節と7節には「歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」とありますが、これも4章2~3節で語られていたことです。「洗い場から上って来た雌羊の群れのよう」とは、真っ白であるということです。また、「双子で、一方を失ったものはそれらの中にはない」とは、歯並びの美しさを表現しています。上歯と下歯が見事に揃っています。欠けた歯は一つもありません。

「頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」というのは、赤くて思わずかみつきたくなるような美味しそうな頬であるということです。

 

8節と9節には、「王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。彼女は、母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめた。」とあります。

ソロモンには300人の王妃と、700人の側女がいました。ここに王妃は60人、側女は80人とありますから、その初期の頃のことでしょう。彼には多くの王妃と側女がいました。おとめたちは数知れないほどです。しかし、どれだけ多くの王妃がいても、どれだけ多くの側女がいても、どれだけ数知れないほどのおとめたちがいても、あなたは別格だと言っているのです。だったら花嫁だけにしておけばいいのにと思いますが、それがソロモンの弱さでもありました。しかし、それほど多くの女性たちがいても、花嫁だけは特別な存在でした。しかもそれはその王妃たちや側女たちも認めるほどでした。「娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめました。」

「あなたは私にとってはきれいだけど、客観的に見たらそうじゃないかもしれない」ではないのです。だれが見てもそうなのです。花婿が見ても、他のおとめたちが見ても、くらべものにならないくらい彼女はきれいで特別な存在でした。

 

10節をご覧ください。「このひとはだれでしょう。暁のように見下ろし、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」

彼女には、暁の光、月のような美しさ、太陽のような輝き、旗を掲げた軍勢のような恐ろしさがありました。これが花嫁である私たち教会の姿でもあります。花婿なるキリストにとって、教会はそのように特別な存在なのです。彼女が同じような罪、同じような失敗を繰り返したにも関わらず、です。彼女は同じような失敗を繰り返し花婿を見失ってしまいました。にもかかわらず花婿は花嫁を一切非難したり、責め立てたりしないで、心から受け入れています。いや、受け入れているどころか、これ以上ないことばで称賛しているのです。9節には「汚れのないひと、私の鳩はただ一人」と言っています。だから、汚れていますって。それなのに花婿は決して彼女を責めないのです。それは彼女の罪を大目に見ているとか、見逃しているということではなく、花婿が彼女の罪を代わりに負ってくださったからです。贖ってくださいました。ですから、もし罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主は何度でも赦してくださるのです。そして、それらの罪をすっかり思い出すことをしないのです。イザヤ1章18節にこうあります。

「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

すばらしいですね。たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。これが永遠の神の約束です。ですから、私たちも同じような失敗を繰り返すような者ですが、同じ罪を犯すような弱い者ですが、それでもイエスさまに立ち返るなら何度でもやり直すことができるのです。そして、あなたは暁の光のように、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍隊のように、光り輝く存在となり、力強い存在となるのです。なぜなら、その旗じるしは「愛」だからです。私たちの花婿であられるキリストは愛によって戦ってくださるからです。

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)

最後に愛は勝ちます。正義で戦ってはいけません。律法で戦ってもいけません。それは人を滅ぼしてしまうことになります。しかし、愛は人を救います。愛はすべての罪を覆うからです。事実、神の愛があなたを救いました。花婿なるキリストはその十字架の愛によって私たちを救ってくださいました。この主イエスの愛を知れば知るほど、主イエスとの交わりが深くなればなるほど、私たちの主に対する愛と信頼も深められ、揺るぎないものになるのです。

 

Ⅲ.帰りなさい、帰りなさい(11-13)

 

最後に、11節から13節までをご覧ください。11節と12節をお読みします。「私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。気づいたら、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」

 

これは花嫁のことばです。花嫁は、くるみの木の庭へ下って行きました。新緑を見るためにです。また、ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るためにです。新緑とはいのちの象徴であり、ぶどうの木とざくろの花は祝福と喜びの象徴です。このような庭で花嫁は花婿に会うのです。あなたもくるみの木の下に行ってみてください。そこで神との交わりをもってください。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。そこはあなたの心を清々(すがすが)しくしてくれます。

 

ところで、気づいたら、花嫁は民の高貴な人の車に乗せられていました。民の高貴な人とは花婿のことです。この方はイスラエルの王でした。その方の車に乗せられていたのです。知らないうちにさらわれたということではありません。花婿の庭の美しさに魅せられてうっとりしていたら、急に花婿の車に乗せられてドライブに連れて行かれたという感じです。こんなに素敵なことがあるでしょうか。あこがれの花婿の車に乗せられて連れて行かれるのです。嫌な人ならともかく、愛してやまない人の車に乗せられて、二人だけの時間を持つことができるのです。まさに夢のような時間です。もうずっとこのままいたいと思ったことでしょう。

 

しかし、そのときこのような声が聞こえました。13節です。「帰りなさい、帰りなさい。シュラムの女よ。帰りなさい、帰りなさい。私たちがあなたを見ることができるように。」

これはエルサレムの娘たちのことばです。この言葉から、この花嫁はシュラムの女であったことがわかります。「シュラム」という町の名前は聖書には他に記述がなく、どこにあるのかはっきりわかりません。それでこの「シュラムの女」は、架空の女だと解釈されるようになりました。

一方で、ダビデの晩年にダビデに仕えた美しい女性でシュネムの女でアビシャグという女性がいますが(Ⅰ列王記1:3)、この女性のことではないかと考える人もいます。すなわちこれは「シュラム」ではなく「シュネム」のことではないかというのです。

さらに、ソロモンには多くの王妃と側女がいましたが、その中の一人ではないかと考える人もいます。

いったい何が正しいのかわかりません。しかし、わからなくていいのです。なぜなら、これはある一人の女性というよりも、不特定多数の教会、私たちクリスチャンのことだからです。「シュラム」とはことばには「完全」とか「平和」という意味があります。ですから、「シュラムの女」とは完全な方の女性とか、平和の方の女性ということに意味になります。そうです、完全な花婿イエス・キリストの花嫁、シュラムの女なのです。

 

そのシュラムの女に、エルサレムの娘たちが呼び掛けています。「帰りなさい、帰りなさい。」です。これが繰り返して言われています。繰り返されているということは強調されているということですが、ここには強い願望が表れているのです。だれが言っているのでしょうか。エルサレムの娘たち、あるいは、彼女の周りにいた人たちです。彼女たちはこの花嫁のまばゆいばかりの存在に「幸いだ」と言い、彼女をほめたたえました。その彼女たちに「帰りなさい」と呼び掛けているのです。「帰って来てください」と強く願っているわけです。何のためでしょうか。ここに「私たちがあなたを見ることができるように」とあります。彼女を見るためです。ですから「帰りなさい」とは、どこかへ行ってしまいなさい、ということではなく、自分たちのところに帰って来てくださいということです。なぜ?私たちがあなたを見ることができるように。あなたを見たいのです。あなたがどんなに美しく、どんなにすばらしいのかを。

 

一方で花嫁は何をしていましたか。ドライブです。花婿の車に乗せられて、花婿と二人だけのデートを楽しんでいました。そこで花婿との親密な時間を堪能していたのです。その一方で、エルサレムの娘たちが「帰ってください」と叫んでいるのです。どういうことでしょうか。

 

この箇所から、イエス様の御姿が変貌した出来事を思い出します。マタイの福音書17章にあります。イエスさまはペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて高い山に登られると、弟子たちの目の前で御姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。それは神の子としてのイエスさまの栄光の御姿でした。

するとそこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていました。それを見たペテロは、そのすばらしい光景に黙っていることができず、こう言いました。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)

つまり、そこにテントを三つ張って、ずっとキャンプしましょうと言ったのです。どうして彼はそんなことを言ったのでしょうか。あまりにもすばらしい光景だったからです。実のところ彼は何を言ったらよいのかわからなかったのです。それほどすばらしい光景だったのです。

しかし、山の麓では何が起こっていたでしょうか。そこには病気で苦しんでいる人たちや悪霊で苦しんでいる人たち、罪によってさまざまな問題で悩んでいる人たちがたくさんいました。彼らはみなイエスさまの救いを必要としていたのです。彼らは山の麓から叫んでいたでしょう。「帰って来てください」「帰って来てください」、帰って来て、私たちを助けてくださいと、懇願していました。

 

私たちにもこのような時があります。礼拝で祈りやみことばを通して主の臨在に包まれているように時、まるで夢心地であるかのようなすばらしい体験をしている時に、「帰って来てください」という声を聞くことがあるわけです。できればずっとそこにとどまっていたい。もうその場から離れたくない。そのすばらしい余韻にずっと浸っていたい。もう罪の現実には戻りたくないと思うような時があります。しかし、そのような時に「帰って来てください」という声が聞こえてくるのです。「私たちはあなたを見たいのです。私たちのために帰って来てください」そういう声を聞くわけです。山の上の栄光から下りて来て、麓にいる私たちを助けてくださいという声を聞くのです。そうです、私たちは主を礼拝し主と深い交わりを持つ時と同時に、そこから下りて来て、山の麓で輝くことが求められているのです。イエス様はこう言われました。

「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14-16)

あなたがたは世の光です。光を升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らすことができます。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなければなりません。あなたに向かって「帰って来てください」という声に耳を傾かせる必要があるのです。あなたはその声を聞いているでしょうか。まず花婿であられるイエスさまとのりが必要です。くるみの木の庭に行って、そこで祈り、復活の主のいのちに触れてください。そこで永遠の喜び、永遠の平安、永遠の祝福を味わってください。気づいたら、花婿の車に乗ってドライブに連れて行かれることもあるでしょう。しかし、どうか忘れないでください。山の麓には、あなたを見たいと望んでいる人たちがいることを。あなたを通して、主がどれほどすばらしい方なのかを知り、天におられる父があがめられるようになることを、主は望んでおられるのです。

 

最後に、13節の残りの部分を見て終わりたいと思います。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのか。二つの陣の舞のように。」

これは花婿のことばです。7章1節から花婿のことばが続くので、本来であれば、そちらに入れた方が自然ですが、ここにあるので、この13節との関係を見ていきたいと思います。これは、花婿がエルサレムの娘たちをはじめ、そこにいる人たちに言っていることばです。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのか。二つの陣の舞のように。」

 

この「二つの陣」とはヘブル語では「マハナイム」と言います。新改訳聖書第三版には※が付いていて、下の説明に「マハナイムの舞」とあります。背景には、創世記32章1~2節の出来事がありますが、この「舞」は喜びの踊りを表しています。それは勝利の喜びです。しかし、こう言うこともできるのではないでしょうか。すなわち、それは救いの喜びであるということです。その喜びの踊り、喜びの舞です。

ルカの福音書15章10節にはこうあります。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあふれるのです。私たちもその喜びの舞に招かれています。それは山の上の栄光の場にいるだけでは味わうことができないものです。山の麓で苦しんでいる人たちの前でキリストの光を輝かせることによってもたらされるのです。そこにいる人たちが花婿の愛を一杯受けて美しく輝いた栄光の花嫁、あなたの姿を見て、主に立ち返ることができるように、「帰りなさい、帰りなさい。」という叫びに応えて、彼らの前で主の栄光を輝かせたいと思います。そして、ともに二つの陣の舞、マハナイムの舞をしようではありませんか。

模範となった教会 Iテサロニケ1章4~10節

聖書箇所:Iテサロニケ1章4~10節
タイトル:「模範となった教会」

 きょうは、テサロニケ人への手紙第一1章4節から10節までのところから「模範となった教会」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは7節のみことばかり取りました。「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったのです。」このテサロニケの教会は、パウロが第二回目の伝道旅行の時に設立された教会です。前回お話ししたように、パウロはこのテサロニケで3回の安息日にわたって伝道しました。3回の安息日にわたってとは、3週間にわたってということです。そこではユダヤ人たちからの激しい迫害があったので、パウロたちは次の伝道地(ベレヤ)に行かなければなりませんでした。しかし、パウロたちが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちの信仰でした。そうした激しい迫害の中で、どうなってしまっただろうか、中には離れてしまった人がいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされているかもしれない。そうした不安の中でアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わしたのです。

 すると、パウロたちは既に次の伝道地のコリントにいましたが、テモテが戻って来て彼らの様子を報告しました。それによると、彼らはそうした激しい迫害の中でも信仰に堅く立っているというだけでなく、パウロたちと再会することを心待ちにしているということでした。パウロはそれを聞いてとても喜び、彼らはマケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったと絶賛したのです。彼らはどのような点で信者の模範となったのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 Ⅰ.私たちの福音(4-5)

 まず4節と5節をご覧ください。4節には「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」とあります。
 パウロはテサロニケの人たちが神に選ばれた者たちであることを確信していました。聖書には、神が、予めだれを救いに選んでおられる、という真理があります。このようなことを話すと、「それでは、人が滅びるように神は定めておられるのか。」とか、「私は神から選ばれていないのか。」という人たちがいますが、そういうことではありません。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。その神の救いであるイエス・キリストを自分の救い主として認めて、信じているかどうかです。信じているなら、選ばれていますし、信じようとしないなら、もしかしたら選ばれていないのかもしれません。けれども、救いはすべての人に用意されています。ただ自分が、イエスさまを救い主として受け入れればよいのです。

 この神の選びについて考えるとき、大事なのは、パウロがここで言っているように、「神に愛されている」という確信です。あなたは神に愛されているという確信があるでしょうか。私たちが救われたのは、私たちが何か神に愛されることを行なったからではありません。ただ神が愛してくださったからです。私たちはむしろ神に憎まれて当然の者でした。神を神とも思わず、自分勝手に生きていたからのですから。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。ですから、この神の選びについて考えるとき、私たちは神に選ばれているのか、いないのか、ということではなく、この神の愛と恵みについて考えなければなりません。

 5節をご覧ください。ここには「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。」とあります。なぜ彼らは福音を信じたのでしょうか。なぜなら、パウロが語った福音は、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信が伴っていたからです。これが福音です。コリント人への手紙には、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)」とあります。また、「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(2:4)」ともあります。
福音はただのことばではありません。福音は神の力なのです。パウロが伝えた福音のはただのことばではなく、そこに力と聖霊と強い確信が伴っていました。これはしるしや奇跡といった神の不思議な御業が伴ったというだけでなく、彼らの生き様を通して福音が力強く証しされていたということです。「あの人はどこか違うなあ。本当にいい人だ。ただのいい人を越えて、何か神の力を感じる」といった感じです。それはここに、「私たちの福音」とあるからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。それは、私たちが所有している福音のことです。福音が自分たちのものになっているということです。ただ私たちが信じているというだけでなく、それがすっかり板についているという感じです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が溢れていました。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

 先週、C-BTEⅡの中で、教会の使命に参加するという学びがありましたが、その中で福音を飾る生き方の大切さについて学びました。すなわち、効果的な証を続けて行く基盤は、教会でも家庭でも、社会でも、イエス・キリストの福音を飾るにふさわしい生き方をするということです。それがここでパウロが言っている「私たちの福音」です。それは、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信が伴って届けられる福音なのです。あなたはどうですか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われましたが、私の福音と言えるまでにはなっていないかもしれません。この福音が「私の福音」と言えるまで福音にしっかりととどまり、福音に生きる者でありたいと思います。そこに力と聖霊と強い確信が伴うようになるからです。

 Ⅱ.聖霊による喜び(6)

 次に6節をご覧ください。ここには「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」とあります。

 福音は力と聖霊と強い確信を伴ってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。ここには「あなたがたもまた多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」とあります。
テサロニケの人たちも、パウロたちと同じように、激しい迫害に遭っていました。使徒の働き17章を見ると、ユダや人たちはヤソンという人の家を襲い、その兄弟たちを捕らえると役人たちのところに引っ張って行き、カイザルにそむいているという告発をしました。そしてやヤソンから保証金を取ったうえで釈放したのです。このような苦難の中にいたのにも関わらず、彼らは喜んでみことばを受け入れ、主に倣う者になりました。なぜなら、それは聖霊によるものだったからです。

聖書が語っている「喜び」は、普段、一般に語られている喜びとは異なります。回りの状況が良ければ、私たち人間は喜び、悪くなれば不満になったり、不安に陥ります。しかし、聖書では、どのような状況のときにも喜べる力が与えられる、と教えています。 どうしてそのように喜べるかと言いますと、クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけではなく、目に見えない世界も見ているからです。使徒ペテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)と言いました。神が、キリストの血によって私たちの罪を赦してくださったこと。永遠のいのちを賜ってくださったこと。神の国を相続していること。神の子どもとされていること、など、これらはみな、目に見えません。けれども、聖霊がこれらの真理を私たちに啓示してくださるので、信仰によって見ることができるのです。

 先週、大田原教会のケビン兄が膀胱がんで入院し手術を受けられました。これが2回目です。1回目は今から19年前に大腸がんを患いました。その時は100回くらいがんの悪夢に悩まされたと言います。しかし、今回は違います。医師からのがんの告知も冷静に受け止めることができ、すべてを主にゆだねることができました。むしろ、奥様の方が自分の責任ではないかと自分を責めて苦しんでいらっしゃいました。それで入院される2日前にお二人で教会に来て、お祈りの時を持ちました。ピリピ4章6~7節のみことばを読んで祈りました。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 すると、奥様にも平安が与えられ、すべてを神様にゆだねることにしました。家にはケビンさんの机の上にも奥様の机の上にもこのみことばが置かれました。そして、主はこの御言葉の約束の通りにケビンさんの手術を守ってくださり、金曜日には退院できるようにしてくださいました。月曜日に手術をして金曜日に退院ですよ。早いですね。しかし、どれだけ早く退院できかというよりも、その間ずっとご夫妻に平安が与えられたことが感謝です。本当に不思議です。それは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからのです。目に見えませんが、この方を信じたことですべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられたことを信じ、すべてをゆだねて祈るとき、人知をはるかに超えた神の平安に包まれるのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていました。聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者になったのです。

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じた結果、この聖霊が与えられました。ですから、この聖霊によって、どんな苦難の中にあっても、聖霊よる喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者になることができるのです。

Ⅲ.模範となった教会(7-10)

第三のことは、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7節と8節をご覧ください。「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。 主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」

 すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、パウロ一行はこのテサロニケの町にわずか1か月くらいしか滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちはそうした多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主倣う者になりました。それを聞いたときパウロは、どれほどうれしかったことでしょう。その喜びが8節でこのように表現されています。
「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」
この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていく様を表しています。彼らの信仰はマケドニアとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の模範となって響き渡りました。そればかりか、このことばは完了形になっています。つまり、ずっと響き渡り続けていたということです。一時的に響いただけではなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。もう何を言う必要がないほどでした。これほどのほめことばはありません。何も言う必要がないほどの信仰です。

私たちのそうなりたいですね。私たちの信仰がこの那須町だけでなく栃木県の全域に、いや全国に、全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になりたらどんなにすばらしいことでしょうか。絶対にそうなります。なぜなら、これは御霊なる主の働きによるものだからです。私たちの力では主に倣う者になることはできませんが、御霊なる主にはできます。御霊なる主は私たちを、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、この御霊により頼むなら、かつてテサロニケで起こったことが、この教会にも起こると信じます。かつて中国の教会がそうであったように、日本の教会も、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れるなら、あらゆる所に響き渡るようになるのです。

そのためにはどうしたらいいのでしょうか。二つのことがあります。一つは、9節にありますが、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えることです。「人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」
パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケには多くの偶像がありました。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。そこにはギリシャ神話の神々を信奉しているたくさんの人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていました。しかし彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになりました。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。中途半端な決別ではありません。明確な方向転換です。180度変わったのです。

それは単に木や石できた偶像ばかりではなく、私たちの心の中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあります。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神を第一にして、心から神に仕える者でなければなりません。あなたにとっての偶像とは何でしょうか。

それから、もうひとつのことは10節にあるように、主の再臨を待ち望むということです。「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」

これはどういうことかというと、テサロニケの人たちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかるとそのために備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。私たちも娘が生まれた時は部屋の壁紙からカーテンまでも交換しました。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。その日は本当に近いように感じます。昨年と今年とコロナウイルス感染症が猛威をふるいました。まだ終わっていませんね。今もこれと闘っています。地球の環境を見ても、地球温暖化による気候変動によって山火事や台風、ハリケーンなどの自然災害が多発しています。百年に一度と言われる豪雨が毎年のように起こっています。今日曜日の夜に「日本沈没」という映画でドラマ化されて番組がやっていますが、日本が沈没することがあるかどうかはわかりませんが、かつて関東大震災があったような大地震がいつ起こるかはわかりません。もし核戦争が起こったら地球はひとたまりもないでしょう。これらのことは世の終わりの前兆なのです。その後イエス様が再臨されます。それは必ずやって来るのです。

こうしてみると、今日、神の御子イエス・キリストを待つ私たちも、かつて地上を歩まれたイエス・キリストを見てはいないけれども愛しており、やがて再び来られるイエス・キリストを見てはいないけれども信じています。このことにおいて、このテサロニケの人たちの信仰に連なっているわけです。そして、彼らが主イエスは来られる、神の国は到来するとの希望の中で信じて待ち続けた日々を、今も私たちは生き続けているわけです。

きょうは、この後でクリスマスのメッセージ動画を撮ります。早いですね。まだ10月なのにクリスマスです。でも、来月の第四聖日からはアドベントが始まるのです。「アドベント」とは「来る、到来する」を意味することばで、神の御子イエス・キリストがこの地上に来る。到来する。その日に向かって備えつつ過ごすのがアドベントです。それは、私たちにとって「待つ」ことを経験する日々でもあるのです。神の御子の到来を信じ、待ち続けた人々の歩みに連なること、それが私たちがアドベントを過ごす大事な意味なのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、主が来るのを待ち望んでいました。それこそ、真の希望です。真の希望とは、与えられたかと思ったらすぐに消えてしまうような一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それが復活の希望です。やがてキリストが来られるとき、私たちは永遠に朽ちない栄光のからだに復活します。それがクリスチャンの希望であり、真の希望なのです。

私たちが主の到来を迎えるのも、どんなに世界が闇に覆われても、どんなに苦難が圧倒しようとも、どんなに試練が続こうとも、それでもそれを覆してあまりある圧倒的な光が到来する、神の救いが来る、必ず来る、生ける神がそう約束し、その約束に真実を尽くし、聖書がそれを証ししている—このことの確かさを信じるがゆえなのです。

民数記14章

民数記14章

 

 きょうは民数記14章から学びます。

 

Ⅰ.信仰と不信仰の狭間で(1-12)

 

まず1節から12節までをお読みします。「すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を?奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」モーセは主に言った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。」

 

イスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。なぜでしょうか。10人の偵察隊の報告を聞いたからです。彼らはカナンの地を偵察し、そこに大きく強い敵がいることを知り自分たちは上っていくことはできないと言ったのです。彼らは、彼らとともにおられる主の約束を信じることができませんでした。そこで絶望していたのです。そして不平を言いました。こんなことならエジプトを出てくるんじゃなかった。このまま進んで行っても結局殺されてしまうことになる。妻子たちもさらわれてしまだろう。だったらエジプトに帰った方がいい。しかし、彼らがエジプトにいたとき、どんな状態だったでしょうか。彼らは過酷な奴隷生活を強いられていました。主はその中から彼らを救い出してくださったのに、再びそのエジプトの地に戻ろうというのです。

 

これが神を忘れ、自分で何とかしようともがく人間の姿です。私たちが信仰を持って歩んで行こうとすれば、そこには必ず問題が起こります。自分の前に大きな岩が横たわり行く道が遮られたかのようになったり、自分を食い尽くす敵に遭遇することがあるのです。その度にその問題を見ていたら、このイスラエルの民のように嘆いてしまうことになります。引き下がれば初めに出てきたときよりも悲惨になるのです。中にはクリスチャンになってからの方が苦しくなったという人がいます。それは、ある面で事実です。なぜなら、それまでは自分の思いのままに生きていたのに、クリスチャンになると神のみこころに従って生きようとするので、そこに戦いが生じるからです。クリスチャンになったのにまだ自我に生きようとすれば、その自我との戦いで苦しく感じるのです。そういう人はいつも「この世」というエジプトに戻りたがるので、問題が起こるたびに、このように泣き叫ぶことになるのです。それを乗り越えて真の自由を体験できるようになると違います。本当に主のみこころに生きることのすばらしさを実感することができます。

 

こうしたイスラエルのつぶやきに対して、モーセはどのように対処したでしょうか。5節をご覧ください。「モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。」(5)どういうことでしょうか。イスラエル人をエジプトから連れ出したことを民に謝っているのでしょうか。そうではありません。モーセとアロンはただ主にひれ伏し、主が御業を行ってくださるようにと祈っているのです。なかなかできることではありません。イスラエル人のモーセに対するリーダーシップを完全に無視したような発言にも、モーセとアロンは怒らず、ただ地にひれ伏しました。主の御前にひれ伏したのです。これが主に仕える姿です。

 

そのとき、その地を探って来た者たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって言いました。「イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」」(7-9)

  彼らはどこまでも信仰に立っていました。たとえイスラエルのすべてが右の方に流されて行っても、自分たちは主のみこころに従うという覚悟、信仰があったのです。ここで彼らは、あの強い民のことを、自分たちの餌食になる、と言っています。いったいなぜこのように言うことができたのでしょうか。それは、彼らが信仰に立っていたからです。彼らは自分たちには全能の主がともにおられるということ、そして、その主が約束の地を与えてくださるという信仰がありました。だからこのように確信を持って言うことができたのです。このように見ると、信仰に立ったときに見えてくる世界と、そして不信仰になったときに見えなくなる世界があることがわかります。

 

そのとき、イスラエルの全会衆が、彼らを石で打ち殺そうと言い出しました。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われて、こう仰せになられました。11節、12節です。「主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を?奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」」

 

いつまでも主に従おうとしないイスラエルに対して、主は疫病で彼らを打って滅ぼしてしまうと言われたのです。そして、モーセを彼らよりも大いなる国民にすると言われました。どういうことでしょうか。主はやり直しのご計画として、モーセ個人からご自分の民を創り出そうと提案されたのです。アブラハムに約束された「大いなる国民」のご計画を、今度はモーセを通して生まれる新しい民を通して実現されると言われたのです。

 

Ⅱ.モーセのとりなし(13-25)

 

しかし、モーセはこの提案を拒みました。13節から19節までをご覧ください。「モーセは主に言

った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。 もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

 

モーセは、イスラエルの咎を赦してくださいと懇願しました。なぜでしょうか。その一つの理由は、主ご自身の栄誉のためです。もし主がご自身の導かれた民を滅ぼすようなことがあったとしたら、異邦の民は、「主はこの民を彼らが誓った地に導き入れることができなかったので、途中で彼らを荒野で殺した」というようになるでしょう。そんなことになれば、主の御名が汚されることになります。もう一つの理由は、「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」ということです。これは、主の約束のことばです。モーセはその主の約束のゆえに、そのことばを引用して祈っているのです。主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」だから、どうかその大いなる恵みによって赦してくださいと祈ったのです。

 

Ⅰヨハネ5章14節に、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。主のみこころとは、主のみことばにあります。そのみことばの約束を握りしめて祈ることが重要です。主は弟子たちに主の祈りを教えてくださいましたが、その中でこのように祈るようにと言われました。

『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』を私はしめて祈ることの大切さを教えられます。(マタイ:9-13)

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。これが私たちの祈りです。現実はそうでないかもしれませんが、主はご自身のみこころに従って働いておられます。だれがこのみこころに逆らうことができるでしょうか。まことに人とは何者なのでしょうか。どんなにその知恵を結集したところで、主の足元にも及びません。むしろ、その結果は悲惨さを生み出すばかりです。地球温暖化によって山火事や洪水は深刻な問題となっています。これらの問題は人間が自分さえよければいいと、目先の快楽を求めた代償によるものです。しかし、神はすべてを支配しておられます。私たちの理解をはるかに超えて、すべてを支配しておられるのです。私たちに必要なのはこの方を認め、この方の御前にひれ伏すことです。そして、主よ、あなたのみこころがなりれますようにと祈ることなのです。

 

Ⅲ.神の答え(20-25)

 

 それに対して主は、どのように答えられたでしょうか。20節から25節までをご覧ください。「主は言われた。「あなたのことばどおりに、わたしは赦す。しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。平地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け。」」

 

モーセの祈りを聞かれた主は、イスラエルを赦すと言われました。しかし、主の栄光と主が行ったしるしを見ながら十度も主を試みて、主の声に聴き従わなかったので、主が先祖たちに誓った地を見ることはないと言われました。これでは赦していないということではありません。主は彼らの罪を赦されるのですが、彼らは自分たちが蒔いたものを刈り取らなければならないということです。多くのクリスチャンは、罪が赦されるということはその結果を何も負わないことであるかのように考えていますが、そうではありません。罪が赦されるということは罪に対する咎めをまったく受けない、ということです。罪は赦され、きよめられ、忘れ去られ、遠くに追いやられ、海の深みに投げ込まれます。ですから、もはや罪の責めを負わなくてもよいのです。けれども、その罪の刈り取りはしなければならないのです。

 

たとえば、ダビデはバテシェバとの姦淫によって夫のウリヤを殺してしまいましたが、それを主に悔い改めとき主はその罪を赦してくださいました。けれども、その罪の結果は刈り取らなければなりませんでした。初めに生まれる子どもは死に、自分の息子たちの間には悲劇が重なりました。また、息子アブシャロムによってエルサレムから追われることになります。ダビデはそれを主によるものと認めましたが、決して自分がさばかれていると思いませんでした。むしろ、これらの出来事を通して、罪のおぞましさとその刈り取りの現実を学んだのです。それによって彼の主に対する信仰と愛はますます精錬されていきました。それは主がダビデのことを「わたしの愛する者」と呼ばれたことからもわかります。同じように、この時のイスラエルも主に対する不信仰の罪は赦されましたが、その罪に対する報いは受けなければならなかったのです。

  しかしカレブは違います。彼は他の者と違った心を持っていて主に従い通したので、主は彼を約束の地に導き入れ、彼の子孫はその地を所有するようになる、と約束されました。これが信仰による報いです。信じる者はたとえ神の裁きがあろうとも滅びることなく、命を持つことができます。裁きから免れる道とは、神とキリストを信じることなのです。

 

ところで、ここでおもしろいと思うことは、主はカレブが「他の者と違った心」を持っていると言われたことです。主がカレブを喜こばれたのは、彼の行ないよりも、その心でした。なぜなら、その心が行動になって表われてくるからです。一時的に主に従っているかのような信仰ではなく、ずっと従い通す信仰、それは、そうした心から生まれてくるものなのです。主は私たちの一つ一つの行動よりも、主に対してどのような心をもっているかを問うておられるのです。そして、次のように言われました。「平地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け。」
  「葦の海」とは紅海のことです。それは彼らがいるカデシュ・バルネアからかなり後方にあります。しかし、ここでは葦の海まで行くようにと言っているのではなく、葦の海の道を通りとあるので、実際に葦の海まで後退したのではなく、その道まで後退したということです。なぜなら、低地にはアマレク人とカナン人が住んでいたからです。だから、カデシュ・バルネアから迂回させて、紅海の北端にあるところを通らせ、死海の東側、今のヨルダン川のほうから回って北上するようにさせたのです。

 

 Ⅳ.荒野での死(26-45)

 

最後に26節から終わりまでを見て終わりたいと思います。まず26節から38節までをお読みします。「主はモーセとアロンに告げられた。「いつまで、この悪い会衆は、わたしに不平を言い続けるのか。わたしは、イスラエルの子らがわたしにつぶやく不平を聞いた。彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえたちの子どもについては、わたしは彼らを導き入れる。彼らはおまえたちが拒んだ地を知るようになる。しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。主であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。また、モーセがあの地の偵察のために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆にモーセに対する不平を言わせた者たちもだ。」こうして、その地を悪く言いふらした者たちは、主の前に疫病で死んだ。しかし、あの地を偵察しに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブは生き残った。」

 

 イスラエル人は、会見の天幕における主の栄光を見ても、ずっとつぶやいていたようです。そこで主は次のように言われました。「彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。」(28)

 イスラエル人は、「この荒野で死んだほうがましだ」と言いました。また、「妻子がさらわれてしまう」とも言いました。だから、彼らが言ったとおりのことをしよう、と言うのです。ここには、「わたしは生きている」とあります。主は生きておられます。ですから、主をないがしろにしてはいけません。主はご自身の前で発したことばは、必ずそのとおりにするのです。たとえそれが自分の不満から生じたことであっても、主の前で発したことばであれば、主は聞いておられるのでそのとおりになさるのです。注意しなければなりません。主は生きておられるのです。彼らは、この荒野で死体となって倒れ、主につぶやいた者で、二十歳以上の者たちはみな倒れて死ぬ、と仰せになられました。それ以下の子供たちが新しい世代として約束の地に入ることになります。けれども、信じ続けたヨシュアとカレブだけはそのまま約束の地に入ることができます。

 

Ⅰコリント2章14節から3章3節までには、人間には三つの種類の人がいることを教えています。一つは、「生まれながらの人間」(2:14)です。この種類の人たちは御霊による新生を体験していません。それは、エジプト(この世に属している)にいる人だと言い換えることができます。そしてもう一つは「御霊の人」(2:15)です。御霊に導かれて生きている人です。これらの人たちは御霊によってすべてのことをわきまえます。それは、神の約束の地に入った人たちと言うこともできるでしょう。それは、戦いがなくなる、ということではありません。約束の地に入っても敵との戦いがあります。けれども、主が戦ってくださることを知っているので、いつも主により頼んで、主によって勝利することができます。

 そして、もう一つの種類は、「肉に属する人」(3:1)です。「キリストにある幼子」と呼ばれています。この人たちは御霊によって新しく生まれましたが、御霊によって生きることを知らない人たちのことです。肉によって生きています。肉の欲求が自分の行動に先行してしまうのです。ですから、罪に敗北してしまうのです。平和よりも争いを好みます。ねたみによって人を裁きます。この時のイスラエルのようにこの世という荒野で少しでも嫌なことや苦しいことがあるとすぐに泣き叫び、神のみこころを痛めるだけでなく、そうでない人たちをも不信仰へといざなうのです。

 

しかし、こうした荒野での試みは私たちの肉が削がれ、御霊の人へと変えられていくための訓練の時でもあるのです。私たちは御霊によって神の約束と祝福を得ることができますが、そのためには荒野の道を通らなければなりません。なぜなら、荒野の旅は、その約束に至るために肉の部分が削がれて、信仰によって生きていくことを学ぶことができるからです。私たちは、御霊に導かれることを知るために、しばしの間、肉の中でもがく時を神は許されるのです。自分自身で罪の問題を解決しようとしますができないために敗北を味わいますが、その間に、「自分」というものに死なければいけないことに気がつきます。自分には何も良いものがなく、かえってキリストの愛に満たされて、自分ではなくキリストが自分を通して働いてくださるようにと願うようになるのです。信仰によって神の約束をそのまま信じ従うことによって、主に働いていただく御霊の領域に入ることができるのです。

 

31節からのところをご覧ください。イスラエルが不信仰になったそのつけは、荒野でさまよい続け、最後は死に絶えるというものでした。そして、これが私たちクリスチャンの霊的現実でもあります。つまり、私たちがいつまでも自分にたより信仰によって生きなければ、自分の肉が死ぬまで、いつまでも同じところを巡回するような生き方をしなければいけなくなるのです。

 神は私たちにキリストのいのちを与えられました。私たちは罪を赦されただけではなく、罪に対して死に、キリストに対して生きている者とされました。このいのちに生きるために必要なのは信仰です。たとえ自分の問題がアナク人のように巨大に見えてもそれをキリストにあって死んだものだとみなし、信仰によって前に踏み出ることが必要なのです。しかし、肉が優先すると霊の荒野をさまようことになってしまいます。前進もできず、後戻りもできないです。しかし、私たちのこの世における歩みは自分の肉の領域、神にゆだねていない領域を聖霊によって示され、それを死んだものとみなし、御霊によって進むことです。カデシュ・バルネアまで来たら、前に進むしかなかのです。

 「モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。 あの悪く言いふらした10人のイスラエル人は、40年を待たずしてすぐに死にました。

 

39節から終わりまでをご覧ください。「モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエルの子らに告げると、民は嘆き悲しんだ。翌朝早く、彼らは山地の峰の方に上って行こうとして言った。「われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。」モーセは言った。「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」しかし、彼らはかまわずに山地の峰の方に上って行った。主の契約の箱とモーセは、宿営の中から動かなかった。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て彼らを討ち、ホルマまで彼らを追い散らした。」

 

どういうことでしょうか。彼らは「それじゃ、山に上ればいいのか」と、今度は山に登って行こうとしました。何ともあまのじゃくです。上って行けと言われると嫌だと言い、じゃ行かなくていい、滅びるだけだと言うと、上って行くというのですから。しかし、問題は、山に登って行くかどうかということではありません。主に聞き従うかどうかです。たとえ山に登ったとしてもそれが主の命令によるものでなければまったく意味がありません。大切なのは、主は何と言っておられるのかであり、それを聞き、それに従うことなのです。

 

ヘブル人への手紙には、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。(へブル3:15)」とあります。信仰とは、御声に聞き従うことです。御声を聞くそのときでなければ、私たちは後で従おうとしても力が出てきません。なぜなら、それは信仰によるものではないからです。信仰とは、神の御声を従順で素直な心で聞くことに他なりません。そのときに、自分ではなく神の力が自分のうちに働き、それで神のみわざが自分のうちに成されるのです。イエスさまによっていやされた人たちが、どのようにいやされたかを思い出してください。イエスさまが「起き上がりなさい。」と言われたそのときに起き上がりました。「右手を伸ばしなさい。」といわれたそのときに、伸ばしました。みな、信仰をもって聞いたからです。

 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」

信仰のないところには、主がともにおられないので成功しないのです。敵に打ち負かされることになります。それでも、彼らはなりふり構わず山地の峰のほうに登って行きました。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動きませんでした。契約の箱は、主の臨在です。動かなかったということは、主がともに出て行かれなかったということです。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らしました。

  こうして私たちは生き残ったカレブとヨシュアの信仰と、荒野で死に絶えたイスラエル人の不信仰を見てきました。両者の違いは何だったのでしょうか。それは、信仰によって見ていたかどうかということです。主にあって見ていたか、それとも自分の視点で見ていたかの違いでした。自分から出発して、「自分はこれだけのことができる。これだけのことができない。」と計算して、行動することは、人間の世界では通用しますが、信仰の世界では通用しません。ですから、主のみこころは何か、何が良いことで、完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ、ただ神が仰せになられたことを信仰によって受け止め、前進していく者となりましょう。

これが私の愛する方 雅歌5章8~16節

2021年9月5日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑪)

聖書箇所:雅歌5章8~16節

タイトル:「これが私の愛する方」

 

 きょうは、「これが私の愛する方」という題でお話します。これは花嫁のことばです。16節にあります。花婿を見失った花嫁は必至になって捜し求めますが見つかりませんでした。そこでエルサレムの娘たちに一緒に捜してくれるようにお願いすると、エルサレムの娘たちが、どうしてそんなに必死に探すのですかと尋ねます。それに対する答えがこれです。「これが私の愛する方、これが私の恋人です。」これはとても大切な告白です。私たちが何を信じ、何を大事にしているのかを明らかにするからです。私たちの愛する方はどのようなお方なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.何がまさっているのですか(8-9)

 

 まず、8節と9節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。あなたがたにお願いします。私の愛する方を見つけたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。」

 

 ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「私の愛する方を見つけたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。」いったい何があったのでしょうか。花婿を見失ってしまったのです。原因は何でしたか。無関心でした。やっとのことで花婿と結ばれたというのにある種の倦怠感に陥り、「戸を開けておくれ」という花婿のことばに応答しませんでした。「ああ、もう面倒かけないでください。私はベッドに入ってしまったんですから。また足を洗うなんて嫌です!」と言って開けようとしなかったのです。これは2回目でした。まだ結婚していない婚約時代にも同じようなことがありました。2章でしたね、11節には「冬は去り、雨も過ぎて行ったから、春がやって来て、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山場との声が、国中に聞こえるようになったのだから、さあ立って、出ておいで。」と呼びかけたのに、花嫁は出て来ませんでした。もじもじしてベッドから起き上がろうとしなかったのです。その時は花婿のことをあまりよく知りませんでした。すなわち、無知が原因で応答しなかったのですが、今回は違います。今回は花婿と結ばれ共に生活する中で花婿のすばらしさを十分知っていたにもかかわらず、花婿の呼びかけに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした無関心によって花婿を見失ってしまったのです。

 

 すると、エルサレムの娘たちが尋ねます。9節です。「あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。」

 これはとても大切な質問です。エルサレムの娘たちは、彼女が「愛に病んでいる」とは言うけれども、いったい彼のどこがそんなにすぐれているのですか、ほかの親しい者たちよりも何がそんなに優っているのですかと尋ねているのです。花嫁は、自分の愛する方の愛を取り戻すためにこの質問に答えなければなりませんでした。ただ自分が喪失感の中にいるから助けてほしいというのではなく、花婿こそが自分の愛する方であるということをはっきりさせなければならなかったのです。

 

 これは私たちにも言えることです。いったい私たちはなぜこうして日曜日に教会に来るのでしょうか。なぜ家で聖書を読んだり祈ったりするのでしょうか。なぜ神の家族である教会の交わりを大切にするのでしょうか。なぜ奉仕をしたり、献金したり、伝道したりするのでしょうか。すべての答えがここにあります。つまり、自分が何を信じているのか、何を大事にしているのかをはっきりさせなければならないということです。それを聞かれた時にはっきりさせることができるのは、その愛が本物であることのしるしでもあります。そうでないと私たちの信仰生活は海に浮かぶ舟のように、安定感を欠いたものになってしまいます。

 

Ⅱ.万人に抜きん出ている方(10)

 

それに対する彼女の答えを見てみましょう。10節をご覧ください。「私の愛する方は、輝いて赤く、万人に抜きん出ています。」

これは花嫁のことばです。花婿がどれほどすばらしい方なのか、何がそんなに優っているのかを語っています。ここでは、「私の愛する方は、輝いて赤い」とあります。この「輝く」といことばは、目もくらむほどの輝きを表しています。太陽よりも明るく、この世のものとは思えないほどの輝きです。

 

マタイの福音書17章には、イエス様がペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた時のことが記されてあります。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。マルコの福音書には、その白さはこの世の職人にはとてもなし得ないほどの白さであったとあります。この世の職人とはクリーニング屋さんのことです。その衣はこの世のクリーニング屋さんがどんなに頑張ってもなし得ないほどの白さで、輝いていたのです。イエス様は目もくらむほどの輝きをもっておられる方なのです。これがイエス様の本当の姿です。普段気軽に話しかけ、教えを聞き、寝食を共にしている方は、本当は自分たちなど近づくことができないほど栄光に満ちたお方であり、天より遣わされた神のひとり子であられたのです。

その姿に圧倒されたペテロは、何を言ったらいいのかわからず、だったら黙っていればいいのに、思わず口走ってしまいました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、エリヤのために一つ、モーセのために一つ。」(マタイ17:4)実際には、彼は何を言ったらいいのかわかりませんでした。あまりにも恐ろしくて、気が動転していたからです。それほど白く、それほどきよく輝いていたのです。

 

また、ここには「赤く」とありますが、この「赤く」と訳されたことばは「血色が良い」ということです。Ⅰサムエル記16章12節にダビデのことについてこうあります。「エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。」この「血色が良く」ということばが「赤く」です。この時ダビデはまだ少年でしたが、彼の顔は血色が良く、健康的で、立派でした。ですから、この花婿はどのような方かというと、非常に血色が良く、パワフルな方、力強い方であるということです。

 

これが私たちの愛する方、主イエスです。イエス様は非常に輝いていて、力強いお方です。確かに心優しくへりくだっていますが、同時に、輝いて赤く神としての権威をもっておられる方なのです。イエス様は天地万物の創造主であられ、神としての栄光を身にまとっておられる方なのです。

 

ですから、万人に抜きんでているのです。この「抜きんでている」ということばは、へブル語で「ダガール」という語です。意味は「旗を持つ者」です。6章4節に「だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる」とありますが、この「旗を掲げる」です。同じことばが6章10節にも使われています。「抜きんでている」と「旗を掲げる者」にどんな関係があるのかというと、どちらも目立っていて際立っており、他と比べようがないほど優れているという点です。それで、ここに「抜きん出ている」と訳されているのです。イエス様は万人に抜きん出ているお方なのです。

 

イエス様と万人とを比べてみてください。この歴史上には偉大な人物が何人も登場しましたが、イエス様に優る人は一人もいませんでした。日本百科事典を見ると、アレキサンダー大王については4分の1ページが割かれてありますが、イエス・キリストについてはまるまる1ページが割かれています。本来であれば1ページでも収められないほどですが、何とか1ページでまとめたという感じです。ちなみにナポレオンについては2分の1ページです。明治天皇に至っては8分の1ページしか割かれていません。イエス様についてはまるまる1ページです。イエス様がどれほど偉大なお方であるかがお分かりいただけると思います。

また、イエス様は釈迦、孔子、ソクラテスと並んで4大聖人に数えられていますが、他の3人と比べてみてください。全く比べようがありません。イエス・キリストの方がはるかに優れています。ある人がこのように言いました。「もしソクラテスが部屋に入ってきたら、私たちは立ち上がって彼に敬意を表すでしょう。でも、もしイエス・キリストが部屋に入ってきたら、私たちはひれ伏して彼を礼拝するでしょう。」これはもっともなことです。イエス様はソクラテスとは比べものにならないほど偉大なお方だからです。

 

それはこの歴史を見てもわかります。イエス様は文字通り、歴史を二分されました。この方の誕生を境に、歴史は二つに分かれたのです。B.C(紀元前)とA.D(紀元)ですね。B.C.とは主が来られる前という意味のBefore Christの頭文字を取って表記されますが、A.D.は、主が来られてからという意味のAnno Dominiの頭文字です。これはラテン語で、「主が来られてから」を意味しています。だったらAfter ChristでA.C.でも良かったのではないかと思いますが、なぜか主が来られてからはラテン語のA.D.から取られました。

ある歴史学の教授が何人かの大学生たちに「今年は2021年ですが、この数字は何を表していますか」「人類の歴史を意味するHistoryとはどういう意味ですか」と聞くと、誰も答える学生がいなかったそうです。この2021年とは、主イエスが生まれてから2021年が経ったということです。すなわち、歴史を表すHistoryという言葉は、もちろんギリシャ語のヒストリアという言葉から来ていますが、またこういうこともできるのです。His Story、彼の物語です。彼とは誰でしょうか。イエス・キリストです。この歴史はイエス・キリストの物語なのです。イエス様は文字通り歴史を分けたお方、歴史を支配しておられるお方なのです。聖書では、イエス様は王の王、主の主と言われていますが、アレキサンダー大王や、ナポレオン、釈迦や孔子などが全く足元にも及ばないお方、万人に抜きん出ておられる方なのです。

 

Ⅲ.これが私の愛する方(11-16)

 

私の愛する方は、どのような方なのでしょうか。次に11~16節までをご覧ください。ここではもっと具体的に語られています。まず11節にはこうあります。「その頭は純金。髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒く、」

 

まずその頭です。その頭は純金、髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒いのです。想像してみてください。その頭は純金です。聖書では「純金」は神性の象徴として描かれています。すなわち、花婿なる主イエスは神であるということです。ただの聖人とか教祖とかということではなく神ご自身なのです。それはイエス様が「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:31)と宣言されたことからもわかります。これは明らかな神宣言でした。ですからそれを聞いたユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとしたのです。神を冒涜していると思ったからです。しかし実際は、イエス様は神を冒涜したのではなく神ご自身であられました。だから、「わたしと父とは一つです」と言われたのです。

 

髪の毛はどうでしょうか。髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒く、とあります。なつめ椰子の枝とは、なつめ椰子の枝についた実のことです。それはデーツで有名ですが、それはバナナのように大きな房になっています。すなわち、フサフサしているということです。また「烏のように黒く」とは、黒々としているということです。それはギルアデの山を下って来るやぎの群れのように美しく、勇ましくもあります。聖書では髪の毛は力の象徴でもありますので、花婿なるキリストは決して朽ちることがない永遠のいのちに溢れておられる方であると言えます。

 

12節をご覧子ください。「目は乳で洗われ、池のほとりに住む、水の流れのそばの鳩のよう。」

今度は目です。「目は乳で洗われ」とは、充血しないで潤っているということです。つまり、美しい、澄んだ目をしているということです。それは池のほとりに住む、水の流れのそばの鳩のようです。また出てきました。鳩です。ソロモンは鳩が好きなんですね。何回も出てきます。これは何度もお話してきたように美しさと聖さの象徴です。また、平和の象徴でもあります。イエス様があなたを見る目は鳩のようにきよらかで美しく、平和で優しい目なのです。

 

ルカの福音書22章61節に、「主は振り向いてペテロを見つめられた」とあります。鶏が鳴く前に三度も主を否定したペテロを見つめられた主の目は、彼の失敗を裁いたり咎めたりするような目ではなく、愛情とあわれみに溢れた目でした。というのは、そのことを前もって知っておられたからです。イエス様は彼にこう言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

イエス様は初めから知っておられました。ペテロがご自身を裏切るということを。それでもなお彼のために祈られました。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやるためです。そのためにはペテロ自身が力づけてもらわなければなりませんでした。そして、イエス様はそのようにされました。そのような目で彼を見つめられたのです。その目は鳩のように優しく、平和に満ちていました。

 

13節をご覧ください。次は頬です。「頬は香料の花壇のようで、良い香りを放つ。唇はゆりの花。没薬の液を滴らせる。」

頬は香料の花壇のようです。何ですか、香料の花壇のようとは。イエス様と一緒に過ごせば過ごすほど良い香りに包まれるということです。イエス様と一緒にいると、花畑にいるようです。そんな香りが漂ってきます。アロマセラピーのように心をリラックスさせていただくことができます。

 

唇はゆりの花です。ゆりの花というと白いゆりを思い浮かべるかもしれませんが、これは赤い花です。野のゆりというとイスラエルではアネモネとかチューリップ、ひなげしなどの赤い花のことを指していました。そのように赤く美しいということです。ただ美しいだけでありません。ここには「没薬の液を滴らせる」とありますね。「没薬」は防腐剤としても使われました。ですから、イエス様の唇は防腐剤としての役割も果たしたのです。

 

詩篇119篇9節には、「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるのでしょうか。それは別に若い人だけということではなくすべての人に言えることですが、それは主のみことばのとおりに、道を守ることによってです。主イエスの唇には没薬の液が滴り落ちているからです。

 

14節です。14節には「腕は金の棒でタルシシュの宝石がはめ込まれ、からだは象牙の細工でサファイアでおおわれている。」とあります。

「金の棒」とは「金の輪」のことです。腕には金の輪があり、そこにタルシシュの宝石がはめ込まれていたということです。それは王の権威を象徴していました。イエス様は王としての権威を持っておられるということです。

その金の輪には、タルシシュの宝石がはめ込まれています。「タルシシュの宝石」とはエメラルドのことです。それは大祭司が付けていた胸当て、エポデと言いますが、それにも付けられていました。それはイスラエルの12部族のことを象徴しています。それはまた私たちクリスチャンのことでもあります。つまり、あなたは神であるイエス・キリストの腕でしっかり守られているということです。

さらに、からだはサファイアでおおわれた象牙の細工のようでした。サファイアも大祭司の胸当て、エポデに刻まれていました。天国を描写する新しいエルサレムを飾る宝石としても使われています。イエス様のからだはそのサファイアで包まれているのです。

 

足はどうでしょうか。15節をご覧ください。「足は大理石の柱で、純金の台座に据えられている。その姿はレバノンのよう。その杉の木のようにすばらしい。」

足は大理石の柱です。それはがっちりしていて力強いということです。しかも、その柱は純金の台座に据えられていました。純金も神の性質を表しています。決して崩れることがないという意味です。その姿はレバノンの杉の木のようです。レバノンの杉といったら最高の杉材です。花婿はレバノンの杉の木のようにすばらしいお方であるということです。

 

では口はどうですか。16節には、「その口は甘美そのもの。」とあります。英語の聖書の多くは、イエス様のことばを赤字にしています。そのことばを見ると、まさに甘いぶどう酒のようです。ルカの福音書4章22節には、「人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて」とあります。イエス様の口から出てくることばは、聞いている人に恵みを与えることばでした。

 

つまり花嫁は、花婿の頭のてっぺんから足のつま先まですべてが優れており、万人に抜きん出ている方であると言っているのです。すべてがいとしいと。この「いとしい」ということばは、英語のNKJV(欽定訳)では「lovely」と訳しています。好ましい、望ましい、慕わしい、麗しい、快いということです。すなわち、花婿はパーフェクトであり、完璧な方であるということです。どこか一部だけがすばらしいというのではなく、全部がすばらしいのです。すべてがいとしい。この花婿以外に完璧な方は、この世界広しといえども他にはいません。この方だけです。この方が私の愛する方、私たちの主イエス・キリストなのです。使徒4章12節にはこうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

私たちを救うことができるのは、私たちの主イエス・キリストだけなのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。これが私の愛する方、これが私の恋人です。

 

新聖歌206番に「いつくしみふかき」という有名な賛美歌がありますが、この賛美歌のもともとのタイトルは「What A Friend We Have In Jesus 」となっています。訳すと「何とすばらしい友でしょう」となります。イエス様は何とすばらしい友でしょう。この歌は、アイルランドの大学教師ジョセフ・スクライヴェン(Joseph M. Scriven)によって書かれました。スクライヴェンは、自らの婚約者を事故と病気で2度とも失いました。愛する者を失い深い悲しみに暮れていた彼でしたが、闘病生活をしていた母親を慰めるために、どんな絶望の中でも主イエスに信頼する気持ちを詩に込めて送ったのです。これが原作です。

 

What a Friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!

イエスは何という友でしょう 私たちのすべての罪と悲しみを負ってくださるとは
何という恵みでしょう すべてを神にゆだねて祈ることができるのは

 

O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer.

しかし、私たちは何としばしば平安を失うことでしょう 何と不要な痛みを抱くことか 

すべてのことを神にゆだねて祈らないからです

 

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.

試練や誘惑がありますか 困難がありますか
落胆してはいけません すべてを主にゆだねて祈ってください

 

Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer

こんなに真実な友があるでしょうか?私たちのすべての悲しみを共に担ってくださいます
主イエスは私たちの弱さのすべてを知っておられます すべてをゆだねて祈ってください。

 

 何とすばらしい友でしょう。これがあなたの愛する方、あなたの主イエスです。この方がどんなにすばらしい方なのかを知れば知るほど、あなたは確信をもって「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することができるようになります。そしてこの告白があなたの信仰に直結していくのです。

 

 マタイの福音書16章のところで、イエス様は弟子たちに二つの質問をされました。一つは「人々はわたしのことを誰だと言っていますか」ということであり、もう一つは「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という質問です。

最初の質問に弟子たちはこう答えます。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」(マタイ16:14)つまり、群衆はイエス様に対して様々な見解を持っていましたが、突き詰めると、イエス様はキリスト、メシヤ、救い主という理解はなかったということです。

そのような中でイエス様は「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ6:15)と言われました。するとペテロがこう答えました。「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)

するとイエスは彼に言われました。「わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ16:18)

何と、このペテロの信仰の告白の上に、神の教会を建て上げると言われたのです。この岩とは、ペテロのことではありません。ペテロが語った信仰の告白のことです。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言ったその告白の上に、キリストの教会が立っているのです。ですから、私たちがイエスをだれだと言うかはとても重要なことなのです。それによって私たちの信仰のあり方が決まるからです。あなたにとって、イエス様はどのような方でしょうか。

 

今月は保守バプテスト同盟の月です。同盟の諸教会の旗席を覚えてお祈りしたいと思いますが、同盟の新しい議長は米沢の恵泉キリスト教会の牧師、金野正義先生です。先日、教会から送られて来た週報を見ておりましたら、そこに先生のこんな証が載っていました。

「私は大学に入って、初めて親元を離れました。山形に来て、親戚の家に下宿させていただきました。親戚はクリスチャンではなかったので、「教会に行け」とは言いませんでした。大学で新しく出来た友人たちも「日曜日に遊ぼう」と誘ってくれました。私は、クリスチャンホームで育ちました。親が熱心で、「日曜礼拝を死ぬ気で守りなさい」と小さい時から教えられました。実家にいる時は、半ば強制的に「日曜日は教会」という生活を送りました。しかし、環境が変わり、私は「教会に行かない」という選択肢を気兼ねなく選べる環境になりました。ある日曜日、私は礼拝を休むという選択をしました。自分の意志で休みました。しかし、思い描いていたような一日にならず、なんとも言えない苦い思いを抱きました。次の週、今度は自分の意志で「教会に行く」という決意をしました。それまで、なんとなく教会に行っていましたが、そのときから自分の意志で「教会に行く」と決意したのです。この決断をもって「イエス様を、自分の主として生きる」と決めたその日から私の人生は変えられ続けています。あの日から神様とより親密になったと思います。」(2021.7.18.週報)

 

「あなたはわたしをだれだと言いますか」この質問はあなたにとっても大切な質問です。あなたの周りの人にとって、この方は「キリスト」ではないかもしれません。その周りの意見は周りの意見として、あなたは、イエス様をどのようなお方として告白するのか、この質問にどう答えるのかが、イエス様とより親密になるか、ならないかの分岐点となるのです。私たちも「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したいものです。この花嫁のように「これが私の愛する方。これが私の恋人です。」と告白して生きたいと思うのです。

信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐 Iテサロニケ1章1~3節

2021年8月29日礼拝メッセージ

聖書箇所:Iテサロニケ1章1~3節

タイトル:「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」

 

 きょうから、雅歌と並行して、このテサロニケ人への手紙から学びたいと思います。この手紙はパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれました。新約聖書にある多くの手紙はパウロによって書かれましたが、その中でもこのテサロニケ人への手紙は、最も初期に書かれたものです。

 

パウロがテサロニケを訪問したのは、彼の第二回目の伝道旅行の時でした。アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたパウロは、トロアスに下りますが、そこで彼は一つの夢を見ます。それは、ひとりのマケドニア人が、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」(使徒16:10)と懇願するものでした。その夢を見たパウロは、それは神が自分たちを招いて彼らに福音を宣べさせるためだと確信し、ただちにマケドニアに渡ることにしました。ヨーロッパでの伝道の始まりです。こうして福音がエーゲ海を渡り、初めてヨーロッパへもたらされることになったのです。

 

 マケドニアに渡ったパウロたちは、サモトラケ、ネアポリスに行き、そしてマケドニア地方の主要な町であったピリピに向かいました。しかし、そこに滞在している間に投獄されるという苦しみを体験しましたが、そのことを通して、牢屋の看守とその家族全員が救われるという御業が行われました。

 

その次に向かったのが、このテサロニケです。その時の様子が使徒の働き17章1~10節にありますので、ちょっと長いですが、開いてみたいと思います。

「1 パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。2 パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。3 そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。

4 彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。5 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」8 これを聞いた群衆と町の役人たちは動揺した。9 役人たちは、ヤソンとほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。」

 

ここで重要なのは、2節にある「3回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った」ということです。3回の安息日とは3回の土曜日にわたってということで、3週間のことを意味しています。つまり、パウロたちはこのテサロニケには3週間から1か月くらいしかいることができなかったということです。そんな短い時間でしたがパウロたちが聖書に基づいてイエスこそキリストであると説明し、論証すると、彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロたちに従って信仰に入りましたが、ユダヤ人たちはねたみにかられて騒ぎを起こしたので、このままではどうなってしまうかわからないと、隣のベレヤという町に向かったのです。それにしてもすごいですね。6節には「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。」と言われています。まだ伝道してそんなに経っていなかったのに、世界中を騒がせていると言われるほどの影響を与えていたのです。

 

それにしても、パウロが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちのことでした。彼らは救われたばかりなのに、そうした激しい迫害の中で信仰に立っていることができるだろうか。中には離れてしまう人もいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされたかもしれない・・・。そんな不安と恐れの中で、パウロはアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わすのです。

 

 テサロニケから戻ってきたテモテは、パウロたちは次の伝道地コリントにいましたが、そこで彼らが信仰に堅く立っているということ、そしてパウロたちと再会することを心待ちにしていると報告しました。パウロはそれを聞くととても喜びました。しかし、中にはキリストの再臨について誤って理解している人たちがいることを聞いて、彼らに福音の基本的な教えを伝えるために、また、彼が信仰に堅く立つようにと励ますために、この手紙を書いたのです。

 

皆さん、聖書の教えを正しく理解することは大切なことです。それによって結果が決まるからです。何を、どのように信じているかによって、そのライフスタイルが決まるのです。ですから、聖書を正しく理解することはとても重要です。教会は雰囲気も大切ですが、それよりも、聖書の正しい理解が必要です。このテサロニケ人の手紙を通して、聖書の基本的な教えを一つ一つ学んでいきたいと思います。

 

Ⅰ.恵みと平安があなたがたにありますように(1)

 

早速、本文を見ていきましょう。まず1節をご覧ください。「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 

パウロはいつものようにあいさつから手紙を書き始めています。ここでは、差出人がパウロだけでなくシルワノ、テモテからとなっています。シルワノとはシラスのことです。シラスは、パウロが第二回目の伝道旅行に出かける際、バルナバに代わってパウロの同行者となった人物です。テモテは、その第二回伝道旅行の途中、ルステラで一行に加わりました。そのシルワノとテモテの名前も記されているのです。なぜでしょうか。

一つには、このテサロニケでの伝道はパウロ一人によって行われたのではなく、そこにはシルワノとテモテもいたからです。そのシルワノとテモテの名前も書き記すことによって、それを受け取ったテサロニケの人たちが当時のことを懐かしみ、親しみを感じるとともに、大きな慰めと励ましが与えられるのではないかと思ってからです。

 

もう一つの理由は、このテサロニケでの働きはパウロ一人によってなされたのではなく、そこにはこのシルワノやテモテもいて、彼らとの協力によって成されたものであることを強調したかったのではないでしょうか。つまり、宣教の働きは決してパウロのような一人の人によって成されるものではなく、そこにはシルワノやテモテのような協力者や、あるいはここには名前が記されないような人たちの助け、チームワークによってなされるものであるということです。確かにパウロは偉大な伝道者でしたが、伝道はパウロ一人の手によって成し遂げられるものではなく、そうした様々な人たちとの協力関係によって成し遂げられるということです。そこにパウロがいて、またそれを支える人たちがいて、そのような人たちが祈り合い、助け合ってこそ、成し得ることができるのです。特に、背後で祈ってくれる人たちの存在はどれほど大きな力でしょうか。伝道というと、実際にそれに携わる人たちだけの働きのように見えますが、実はこうした背後にある人たちの祈りや、それを支える人たちの協力があってこそ力強く前進していくものなのです。

 

1節をもう一度ご覧ください。ここにはテサロニケ人の教会へ、とあります。これはパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれた手紙です。しかし、ただのテサロニケ人の教会ではありません。ここには、「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ」とあります。どういうことでしょうか?それはこのテサロニケ人の教会は神とキリストの教会であるということです。この教会はパウロが開拓した教会ですがパウロの教会ではなく、神の教会なのです。たとえそれがパウロによって開拓された教会であっても、キリストにある神の教会なのです。ですから、教会を構成しているクリスチャン一人一人は神とキリストのうちにあって結ばれ、生かされてこそ成長することができるのです。たとえその教会の設立にどんなに貢献した人であっても、あるいは、その教会にどんなに長くいる人であっても、神とキリストの地位に取って代わることはできません。教会はキリストのからだであり、神ご自身のものなのです。それゆえ、教会はみことばと祈りによって神とキリストに堅く結びついてこそしっかりと立ち続けることができるのです。パウロはこのテサロニケに1か月ほどしかいられませんでした。そして、残された教会は激しい迫害の中にありました。しかし、それでも彼らがしっかりと信仰にとどまることができたのは、パウロが宣べ伝えた神と主イエス・キリストにとどまっていたからなのです。

 

そのテサロニケの教会のためにパウロは祈っています。「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この順序が大切です。「平安と恵み」ではなく、「恵みと平安」です。恵みがあってこそ平安があります。その逆ではありません。神の恵みを知らなければ平安はないということです。神の恵みとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストによる救いです。それは一方的な神の恵みによるものです。エペソ人への手紙2章5節には、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」とあります。何の功績もない者が救われました。ただ救い主イエス・キリストを信じただけで救われたのです。自分の力ではどうすることもできませんでした。イエス・キリストを救い主と信じたことで救われたのです。それが恵みです。

 

先日、大田原の伊藤得子姉のご主人が召されました。8月8日の日曜日に、ご主人が体調を崩して入院したとお電話がありました。おそらく、まだ検査の結果が出ていませんが、おそらく肺がんではないかということでした。結婚して60年、ずっとイエス様のことを伝えてきたのにちっとも信じると言わないので、毎日お手紙を書いているということでした。コロナ禍で面会することができないからです。伊藤さんの願いは、ただイエス様を信じてほしいということでした。そのご主人が今わの際(きわ)にいました。もう無理かなぁと思っていたら、翌々日に病院から電話があり、容体が急変したので来てほしいということでした。それで急いで病院に駆けつけると、このような時期ですから普通であれば面会が叶いませんが、病室に入れていただくことができただけでなく、娘の奈保子さんと3人で賛美とお祈りの時を持つことができました。4~5時間も。しかも、普通看護師さんが出入りし落ち着かないのですが、その時はほとんど誰も病室に入って来ませんでした。そこで得子姉がこれが最期かと思って、「お父さん、今までもずっとお話してきたけど、イエス様にごめんなさいしないと天国に入れていただけないの。だから、イエス様ごめんなさいして。イエス様赦してください。イエス様を信じます。」と言って言うと、ご主人は酸素マスク越しにはっきりと応答してくれたのです。おそらく、自分の死を悟り、これまで得子姉が信じてきたイエス様を信じて天国に入れていただきたいと思ったのでしょう。そのようにして得子姉の祈りが聞かれたのです。結婚して60年、得子姉は全然聞いいないと思っていましたが、実はちゃんと聞いておられ、最後の最後に救いに導かれたのです。これは神の一方的な神の恵みではないでしょうか。若い時に信仰に導かれる人もいれば、青年期、壮年期に導かれる人もいます。そして、得子さんのご主人のように今わの際で信仰に導かれる人もいます。しかし、永遠のいのちという報酬は、皆同じです。9時に来た人も、12時に来た人も、3時に来た人も、5時に来た人も、永遠のいのちという同じ報酬、最高の恵みが与えられるのです。だったら夕方5時に信じようと言わないでください。 あなたの一生がどれだけあるのかは誰も知らないからです。それはただ神のみぞ知ることです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

 

この恵みがわかると平安がもたらされます。なぜなら、この平安は神によって罪が赦され神との平和が与えられたことによってもたらされるものだからです。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)  

  神が私たちに与えてくださる平安は、世が与えるのとは違います。この世が与える平安は一時的なものです。掴んだかと思ったらすぐに消えてしまうようなはかないものです。しかし、神が与えくださる平安は、この世が与えるのとは違います。それはこの恵みに基づいた平安なのです。どんなことがあっても奪い取られることはありません。主イエスはこのような平安を与えてくださるのです。それはイエス様を信じることによって神との敵対関係が解消され、神が共にいてくださることによってもたらされるものなのです。

 

 Ⅱ.いつも神に祈っています(2)

 

 次に、2節をご覧ください。パウロはテサロニケの人たちにあいさつを送ると、今度は彼らのために祈ります。「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」

 

 パウロはいつもテサロニケの人たちのために祈っていました。彼の祈りは時々思い出したかのように祈りではありませんでした。また、ほんの少数の人たちのためだけの祈りでもありませんでした。彼の祈りは彼らすべてのために、いつも祈る祈りでした。このような祈りは、神との交わりと祈りに十分時間を割かなければできないことです。テサロニケ人の教会はこうした祈りによって生まれました。それはパウロのこうした祈りに、聖霊なる神が働いてくださったからです。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)とあるとおりです。パウロの伝道のすべては、こうした祈りによるものだったのです。

 

様々な情報が飛び交うこの時代にあってそうした情報に振り回されてしまうことがありますが、しかし、昔も今も変わらない神の働きは、祈りによるものであるということを信じ、私たちもいつも、すべての人のために、心を合わせて祈る教会でありたいと思います。

 

 Ⅲ.信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐(3)

 

 第三のことは、パウロの祈りの内容です。3節をご覧ください。ここには、「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」とあります。

 

パウロはいつも彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしていました。

「信仰の働き」とは何でしょうか。この言葉は一見、矛盾しているようにも聞こえます。なぜなら、信仰は信じることであって、働くことではないからです。信仰と行いは、相容れないもののように感じます。しかし、本当の信仰には必ず行いが伴います。ヤコブはこう言っています。「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)これはどういうことかというと、私たちが救われるためにはただ信じるだけでいいのですが、そのように信じたのであれば、そこには結果として必ず行いが伴うということです。もし行いがなかったら、そのような信仰は死んだものと同じです。これは当然と言えば当然のことです。神の恵みがわかり、イエス・キリストによって救われたら、感謝と喜びに満ち溢れ、それに応答したいと思うようになるからです。もしそれがないとしたら、本当に信じたのかどうか疑問ですし、もしかすると、救いについて正しく教えられていないという可能性もあります。テサロニケの教会の人たちには、こうした働きが伴っていました。それは彼らが信仰が本物であったということです。

 

それだけではりません。彼らには「愛の労苦」がありました。「愛の労苦」とは何でしょうか。この「労苦」と訳されたことばは「打つ」とか「たたく」、「切る」という意味から派生したことばです。つまり、痛みが伴うということです。

 

皆さん、愛には痛みが伴います。愛しても、愛しても報われなかったらどうでしょうか。辛いです。苦しいです。それは打ちたたかれたり、切られたりしたかのような気持ちになります。ですから、本当の愛には痛みが伴うのです。労苦が伴います。それは神の愛を考えるとわかります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神はそのひとり子をこの世にお与えになったほどに世を愛されました。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ここに、それがどれほどの痛みがあったかが記されてあります。それは、そのひとり子をお与えになったほどに」です。この「ほどに」ということばの中に、そがどれほど辛く、苦しいものであったのかが現わされています。

 

私の二番目の娘は19歳のとき、原因不明の難病に襲われ、車いすでの生活を余儀なくされました。後でその病気は「ネマリンミオパチー」という難病であることがわかるのですが、その時はあまりよくわからなくて、おそらく視力も完全に失い、失明するでしょう、と医師から告げられました。その時私は車の中で一人大声で泣いたのを覚えています。ましてそのいのちが取られるとしたら、どれほど辛く、苦しいことでしょう。これが愛です。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、あなたを愛してくださいました。それなのに、その愛を受け入れず、見向きもしないとしたら、どれほど悲しいことでしょうか。愛には労苦が伴うのです。

 

しかし、愛することをやめてはいけません。なぜなら、私たちはこの愛によって救われたからです。たとえ報いが得られなくても、たとえ感謝されなくても、愛することを止めてはならないのです。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければなりません(Ⅰヨハネ3:18 )。テサロニケのクリスチャンたちには、このような真実な愛がありました。

 

そしてもう一つ、ここには「主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」とあります。主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐とは何でしょうか?これは主イエス・キリストが再び来られるという再臨の希望のことです。聖書には、イエス様が再臨されるとき、私たちは一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになると教えられています。これが真の希望です。4章13~18節をお開きください。

「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」

 

テサロニケ人の教会の中には、この主の再臨について誤って理解している人たちがいました。人は死んだら終わりだと考えている人たちがいたのです。であれば、イエス様を信じてもいったい何の意味があるというのでしょう。何の意味もありません。その結果、他の望みのない人たちのように悲しむ人たちがいたのです。

そこでパウロはそうじゃないんだと、眠った人たちについて知らないでいてほしくない、ちゃんと知ってほしいと、ここで教えているのです。それは彼らが他の望みのない人たちのように悲しまないためです。イエスが死んで復活されたと信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを連れて来るのです。どうやって?復活することによってです。主ご自身が天から下って来られるとき、まずキリストを信じて死んだ人たちが活き返り、次に、地上に生きている人たちが、彼らと一緒に空中に引き上げられ、空中で主と会うことになります。これを神学用語で「空中携挙」と言います。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいることになるのです。私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。よみがえるといっても、このような肉体によみがえるのではありません。霊のからだです。神の国は物質的なものではなく霊だからです。このようなことをお話すると、牧師さん、大丈夫ですか、いよいよきましたか?と言われそうですが、これは本当のことです。これは私が言っていることではなく聖書が言っていることです。私たちの理性ではなかなか受け入れることが難しいかもしれませんが、永遠に変わることがない聖書がこのように言っているのですから間違いありません。一つだけ確かなことは、もし人が死んだらどうなるのかがわからなければ、ここにあるように、望みのない人々のように悲しむことになるということです。しかし、このことをはっきり知っている人にとっては希望となります。ですから、この最後のところでパウロは「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」と言っているのです。これがイエス・キリストに対する望みです。

 

しかし、この望みを持つためには忍耐が求められます。それが近いということはわかっていても、それがいつなのかがはっきりわからないからです。いつまで続くのか、どこまで行くのか、全くわからない中でずっと我慢することはたやすいことではありません。しかし、そのような中にあっても私たちは、忍耐をもって主イエス・キリストが再び来られる時を待ち望まなければなりません。それがあるからこそ私たちはあきらめたり、投げ出したり、絶望したりしないで、最後まで耐え忍ぶことができるからです。

 

Ⅰコリント13章13節を開いてください。ここには、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。これは結婚式でもよく読まれる箇所で、なじみのある聖書の言葉ですが、この信仰と希望と愛こそが、私たちを堅く立たせてくれるのです。

 

信仰のない働きはむなしいものです。愛のない労苦、望みのない忍耐は長続きしません。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛がありました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐がありました。そして、それが彼らの励ましとなり、慰めとなり、希望となり、激しい迫害の中にあっても信仰に堅く立ち続ける力となったのです。たった3週間、あるいは1か月だったかもしれません。パウロが、シルワノが、テモテがその地を離れて行かなければならないという状況にあっても彼らがしっかりと信仰に立ち続けることができたのは、この信仰と希望と愛があったからなのです。

 

皆さんはどうでしょうか。信仰の働きがありますか。愛の労苦はどうでしょう。望みの忍耐がありますか。あなたがクリスチャンになってどれだけ経験したか、どれだけ聖書の知識があるか、どんなにすばらしい賜物があるかは全く関係ありません。若くても用いられます。たとえ経験がなくても、どんなに能力がなくても、用いられるのです。信仰の働き、愛の労苦、主イエスキリストへの望みの忍耐があれば、どんな状況にあっても、あなたは信仰に堅く立ち続けることができるのです。私たちもこのテサロニケの教会の人たちのように、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐によって、堅く信仰に立ち続ける教会でありたいと思います。