民数記10章

民数記10章

 

 きょうは、民数記10章を学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

 

 Ⅰ.銀のラッパ(1-11)

 

 まず1節から11節までをご覧ください。「主はモーセにこう告げられた。「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。これらが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入り口の、あなたのところに集まる。もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。また、短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するためには、短く吹き鳴らさなければならない。集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く大きく吹き鳴らしてはならない。祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の掟である。また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」」

 

1節と2節には、「主はモーセにこう告げられた。「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。」とあります。

主はモーセに、銀のラッパを二本作るようにと命じました。それによって、会衆を召集したり、また宿営を出発させたりするためです。すなわち、イスラエルが荒野を進軍する時の合図のためにです。彼らが荒野を進軍する時のしるしは、雲の柱と火の柱でした。神は彼らを導くために、昼は雲の柱、夜は火の柱の中にいて、彼らの前を進まれ、夜も昼もこの柱は彼らの前から離れませんでした。すなわち、神は彼らと共にあって、彼らを導かれ、その行く道を守られたのです。そればかりではなく、神は荒野を進軍するためにこの二つの銀のラッパを与えられました。

 

この二本のラッパが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました(3)。この二本のラッパはそれぞれ異なった音色を出していたと思われます。そうでなければ、二本のラッパを吹きならす時と、一本のラッパを吹きならす時の聞き分けが困難になるからです。もし一本のラッパだけが長く吹き鳴らされたら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました(4)。  

それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発しなければなりませんでした(5)。二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します(6)。このように分団を召集するときには長く、出発するときには短く吹き鳴らしたのです。ある学者は、出発する時には短く、召集する時には長く吹き鳴らしたのは、進軍する時には人々の心をかき立てたり、励ましたりするためであり、召集する時には、連続したむらのない響きが適していたからではないか考えています。

 

これは神の祭司であるアロンの子が吹かなければなりませんでした。これは代々ににわたる定めです。アロンの子らは、広い荒野において、ラッパの合図を正しく聞き分けられるように、イスラエルの民を指導したのです。そして民はこのラッパの音を聞くたびに、自分たちが神の導きの下にあって、「神われらと共にいます」ことを意識したに違いありません。

 

9節をご覧ください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時にも、このラッパを短く吹き鳴らしました。その時には短く、大きく鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えられるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。

 

また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らしたとあります。過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りなどにも吹き鳴らされたのです。

 

このように、イスラエルが荒野を進軍する時に、ラッパを吹き鳴らさなければなりませんでした。それは、ラッパを吹かなければ、主がその民を忘れておられるということではありません。私たちがラッパを吹き鳴らす前から、主は私たちのことを覚えておられ、その必要に応えてくださいます。しかし同時に、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきない。」(ピリピ4:6)とあるように、戦いの時にラッパを吹き鳴らすのは、主に拠り頼んでいることの表れであり、いけにえの場合は、主を覚えて、喜びと感謝をもってささげる信仰告白となったのです。戦いの時に祭司たちがラッパを吹き鳴らしたという例は、Ⅱ歴代誌13章13~16節に見られます。また、民数記31章6節にも、ミディアン人との戦いに、モーセがピネハスにラッパを持たせて送り出したとあります。このように、ラッパを吹き鳴らしたのは、神への信頼の証だったのです。あなたは、このラッパを吹き鳴らしているでしょうか。人生の荒野を進軍するにあたり、私たちもラッパを吹きならし、神の助けを祈り求めましょう。

 

Ⅱ.出発の順序(11-28)

 

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちます。ここにはその順序が記されてあります。「二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命により初めて旅立った。まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタンエル。ゼブルン部族の軍団長はヘロンの子エリアブ。幕屋が取り外され、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。聖なるものを運ぶケハテ人が出発。なお、幕屋は、彼らが着くまでに建て終えられることになっていた。また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。ダン部族の宿営の旗が、全宿営のしんがりとして軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。-以上がイスラエルの子らの軍団ごとの出発順序であり、彼らはそのように出発した。」

 

イスラエルがシナイの荒野を出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。モーセを通して語られた主の命令のとおりです。

 

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたが、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発しました。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。
 その次に出発しはたのは、レビ族の内、ゲルション族とメラリ族でした。幕屋が取り外されると、幕屋を運ぶゲルション族とメラリ族が出発したのです。レビ族にはもう一つケハテ族がいますが、なぜ彼らはゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのでしょうか。ケハテ族は幕屋の中にあった聖なる物を運ぶ役割が与えられていましたが、そのためには彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたんですね。すごいです。実に整然としています。

その幕屋の後に進んだのがその次に進んだのがルベン族の宿営です。すなわち、南側に宿営していた部族です。まずルベン族が出発し、シメオン部族とガド部族が続きました。

次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。

最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族でした。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の護衛に回りました。

 

以上がイスラエル人の軍団ごとに出発した順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、イスラエルの民は神の箱(神の臨在)を中心にキリストの恵みによって、聖霊が導かれるままに前進して行ったということです。神の民の共同体にはこのような秩序があったのです。どのような順序でも良かったわけではありません。そこには三位一体の神の導きによる順序があったのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

 

Ⅲ.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

 

最後に29節から36節までを見て終わります。まず32節までをお読みします。「さて、モーセは、彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主が与えると言われた場所へ旅立つところです。私たちと一緒に行きましょう。私たちはあなたを幸せにします。主がイスラエルに良いことを約束しておられるからです。」彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の国に、私の親族のもとに帰ります。」するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとっては目なのですから。私たちと一緒に行ってくだされば、主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」」

 

彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子ホバブのことです。ここでモーセは彼に一緒に行きましょう、と言っています。なぜでしょうか。それは、彼が一緒ならば荒野を旅することも安心だと思ったからです。31節を見ると、モーセは「どうか私たちを見捨てないでください。」と言っています。彼ならどこで宿営したらよいかをよく知っていたので、自分たちの道案内人になってほしかったのです。荒野を旅することは死を意味することでした。何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、そのような中を進むことは一般的には不可能なことでした。しかし、ずっとミディアンの荒野に住んでいた彼なら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていたので、一緒に行ってもらえたら安心できると思ったのです。

 

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、荒野を旅するイスラエルを導かれるのは誰であるのかを見てきました。それは主なる神ご自身です。主は、荒野を旅するイスラエルを整え、備えてきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し、上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその荒野を熟知しているからといっても、レウエルの息子ホバブに道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜ彼に一緒に行くようにと言ったのでしょうか。

 

それはモーセが彼に道案内をしてほしかったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのレウエル(イテロ)とその家族に恩返しをしたかったからです。彼らを幸せにしたいと思ったからでしょう。29節には「私たちはあなたを幸せにします」と言っていますし、32節にも「主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」と言っています。彼は、主がイスラエルに良いことをしてくださると信じていました。それを彼らにも分かち合いたかったのです。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住むようになりました(士師1:16,4:11)。

 

それは33節以降を見てもわかります。実際にイスラエルの荒野の旅を導いたのはホバブではなく、主ご自身でした。「こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人はホバブではなく、主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

 

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と。つまり真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは主ご自身だったのです。モーセは出発するときにはその主が立ち上がり敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

 

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切なものです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。

善にはさとく、悪にはうとく ローマ人への手紙16章17~27節

2021年6月20日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙16章17~27節

タイトル:「善にはさとく、悪にはうとく」

 

ローマ人への手紙最後のメッセージです。パウロはこの最後の章の16節までのところで、偉大な同労者たちの名前を挙げて挨拶を送りました。ですから、そこで終わっても良かったのですが、その挨拶を書き送る中で、まだ彼らに伝えていない大切なことがあると思ったのでしょう。それをここに述べています。それは、異端者に注意するようにということです。このローマ教会の中には使徒たちの教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者が入り込んでいました。そういう者たちを警戒し、そこから遠ざかるようにと勧めたのです。

 

私たちの信仰生活を自動車の管理にたとえると、そこには二つのタイプがあるのではないかと思います。一つは整備型で、もう一つは修理型です。整備型の人は、車が故障したり、何か問題が起こる前に常に整備をしておく人で、ほとんど故障することがないので、安全に、かつ快適に運転することができます。一方、修理型というのは、何か問題が起こるまで対策しようとしない人です。たとえば、雪が降るまでタイヤを交換しないとか、どんなにタイヤの溝がすり減っていても、パンクするまで交換しません。車が故障するまでほとんど整備しないのです。壊れてから考えればいいと思っているからです。ですから、重大な時に車が動かなくなったり、故障して、大変な思いをすることがあります。

 

私たちの信仰生活も同じで、常に祈りとみことばによってしっかりと備えている人と、そうでない人がいます。何かトラブルが起こるまで何もせず、トラブルが起こってから対処すればいいと考えるのです。皆さんはどちらのタイプでしょうか。主が望んでおられるのは前者のタイプです。何かが起こってしまってからだと取り返しがつかないことがあります。勿論、どんなに備えていても避けられない問題もあります。しかし、何があっても大丈夫なようにみことばと祈りによってしっかりと備えておくことが肝心です。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.善にはさとく、悪にはうとく(17-19)

 

まず17~19節をご覧ください。「兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」

前回の最後の節、16節でパウロは、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。」と言いましたが、そうした主にある親密な交わりを破壊するものが、間違った教え、異端の考えです。そうした教えは教会に分裂とつまずきを与え、その親密な交わりを破壊してしまうことになります。ですからパウロは、死とたちの教えに背き、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒するように、彼らから遠ざかるようにと、強く勧めています。

 

パウロは、信仰の教えについて他の面では比較的に寛容であるのに対し、このように間違った教え、異端者の教えに対してはかなり厳しく、断固した態度を取るようにと言っています。たとえば、同じローマ人への手紙14章には食べ物に関する教えが語られていますが、その中で彼は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(14:1)と言っています。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。でも、食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をたばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのだからです。大事なことは、信仰の本質的なことです。神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきで、他の部分に関しては、いわゆるグレーゾーンについては、それぞれが持っている信仰の確信に従って行動すべきだと言っています。しかし、この異端の教えについてはそうではなく、警戒するように、また、彼らから遠ざかるようにと厳しく命じています。

 

パウロは、ガラテヤ人への手紙1章6~8節ではこのように言っています。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」と言っています。

 

パウロはここで、そのような教えを「ほかの福音」と呼んでいます。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。福音のような装いはしていても本当の福音とは違う教えことです。そういう教えが結構あります。よく話を聞いていると、聖書の話をしているようだけれどもどこか違っていたり、あからさまに福音を否定するようなことを言う人たちもいます。

 

先週、教会に次のようなメールが届きました。

「突然のメール、失礼いたします。ぜひ、読んで下さって、返信していただければ幸いです。よろしくお願い致します。

今は、イエス様の再臨の時であり、収穫の時です。収穫の知らせを伝えます。神様の種(御言葉)で生まれた人たち(受けた人たち)を収穫します。神様の種で生まれた人は、収穫の働き手に出会って、収穫されて来る事を願っています。今は、各枝派が、黙示録(啓示録)の預言と、その成し遂げられた実体をあかししています。知りたいと思われる方は、参加できます。

イエス様の再臨は、新約の四福音書の預言と黙示録の預言で約束した、約束の牧者に来られます。新約の黙示録の預言の成就の時は、イエス様が成し遂げられて、約束の牧者は、それを、すなわち、成し遂げられる事を、黙示録1章~22章まで全て見て聞いた者です。イエス様が黙示録を成し遂げられる事を、1章から22章まで、一章、一章全て見た者が、黙示録全章をあかしします。収穫されなかった人が、収穫の知らせを聞いても関心のない人たち、啓示録の預言が成し遂げられているとしても、感動しない人たち、信じない人たち。啓示録を加減すれば、天国に入れず、災害を受けます(啓22:18-19)。これを知りながらも、黙示録を知ろうとしないという事は、まことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、このような人は、狼が羊のなりをした人です。

教会と牧者と教徒たちに教理、すなわち、御言葉がないのは、御言葉であられる神様とイエス様がない証拠です。天地の間に、聖書に精通する所は、ただ、新天地イエス教会と、その聖徒たちだけです。来て見て下さい。そして、聞いて見て下さい。」

 

何を言っているのかわかりませんね。意味不明です。確かに、今は再臨の時であり、収穫の時であるのは間違いないです。また、その時どのような人たちが収穫されるのかは、神の御言葉によって新しく生まれた人たちです。しかし、だからといって、黙示録を知ろうとしない人はまことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、狼が羊のなりをした人たちであるということはありません。なぜなら、収穫される人たちは黙示録を知ろうとしているかどうかではなく、御言葉を通して神の御子イエス・キリストを信じた人たちだからです。また、それを知っているのは天地の間に、聖書に精通している新天地イエス教会と、その聖徒たちだけであるというのも極端です。自分たちだけが正しく、そうでない者たちは間違っていると主張すること自体、間違っていると言えるからです。

 

この新天地イエス教とは何者か調べてみると、この団体は1984年にイ・マンヒという人によって創設された新興宗教です。正式名は”新天地イエス教証しの幕屋聖殿”(新天地イエス教証幕屋聖殿)と言います。昨年韓国で新興宗教の施設でコロナのクラスターが発生したというニュースがありましたが、それがこの新天地イエス教会の一つの施設です。その教えの特徴は、聖書の中でもヨハネの黙示録を重要視し、聖書の内容を新天地独自の例えや比喩、例示を使って解き明かします(間違った解釈)。また、教祖のイ・マンニという人物を再臨のイエス・キリストだと教えています。主イエスは、世の終わりには自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。(マタイ24:5)と預言されましたが、まさに聖書が教えている偽キリストであることがわかります。

現在、信者数は25万人くらいいます。驚くことは、近年1年間で10万人もの人たちが入信したと言われています。どうしてそんなに多くの人たちがこ信じるのでしょうか。その手口がかなり巧妙です。新天地は、キリスト教会に潜り込んで、自分の正体を隠して教会員になります。そして熱心に奉仕をして役員クラスになり、教会をのっとることを計画し実行するのです。そうやってキリスト教会を破壊させ、新天地に導くのが彼らのやり方であり、成長の秘訣です。韓国では新天地が潜り込んでいない教会はないといわれるほど、手を伸ばしており、現在、統一教会以上に被害を及ぼし、警戒されています。
 日本でも活発に活動していて、多くの若者が大都市を中心に集まっています。一昨年、私たちの教会で洗礼を受けた1人の姉妹は、この新天地に通っていましたが、教祖が再臨のイエスだと聞き、何だかおかしいなぁと別のクリスチャンに相談して教会に来られました。もし来なかったら今頃新天地の幹部になっていたかもしれません。恐ろしいことです。

 

また、最近教会によくセミナーの案内を送ってきたり、電話で勧誘する人グループがあります。キリスト教福音浸礼会と言います。このグループは「グッドニュース宣教会」という名前で活動しているので、プロテスタント、しかも福音派の仲間ではないかと思ってしまいますが、実はそうではなく、その正体は「救援派(クオンパ」というキリスト教の異端です。グッドニュース宣教会、キリスト教福音浸礼会は、朴玉洙(パク・オクス)という人が代表ですが、その教えの特徴は、本当の救いは「救いを悟る」ことによってのみ得られるもので、救いを悟っていない多くのクリスチャンは救われていないとするものです。悔い改めを繰り返すのは救われていない証拠であり、悔い改める必要もない、と言います。救われた者は罪を犯すことはないので悔い改める必要がありません。悔い改める人は地獄の子で、自分を罪人と思っている多くのクリスチャンは死後地獄に行くわけで、救いを悟っている人はそういうことがないのだから、「私は義人だ」と告白するべきである、というのです。律法は完全に撤廃されたので、盗み・殺人・姦淫などを犯しても罪にあたらないとい言います。

どう思いますか。聖書の教えを知らない人は「あ、そうなんだ」と思うかもしれませんが、聖書ではそのように教えられていません。私たちはイエス・キリストを信じることで救われ天国への切符を受けることができますが、でも地上にいる間は不完全な者なので罪を犯すわけです。しかし、そのような者も赦されていると約束されているので、悔い改めて神の御心に歩むのです。

 

このように、ちょっと聞いただけではどこが間違っているのかわからないかもしれませんが、聖書が教えている福音の教えと違うことを教える人たちがいます。そういう人たちを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。そうでないと、やがて教会全体が根底から揺さぶられてしまうことになります。教会にとって本当に恐ろしいことは外側からの攻撃よりも、内側にはびこる異端的な教えです。外からの攻撃があると、不思議なことに教会は燃え上がりますが、内側からの異端的な教えが内部に広がると、教会は分裂して倒れてしまうことになります。それは収穫の時に現れるいなごの群れのようです。一年間しっかりと農作業をやってきたのに、突然いなごの群れがやってきて、すべての穀物を食い尽くしてしまうのです。これまで汗と涙を流して伝えた神のみことばを全部揺さぶって、神の民を悪魔のしもべに変えてしまうことになるのです。これが、みことばをねじ曲げて伝える異端のやっていることです。そのような人たちを警戒しなければなりません。だからパウロは、そのように誤った教えを宣べ伝える人たちがいるとしたら、そういう人はのろわれるべきだと言っているのです。

 

18節をご覧ください。ここには、そのような人たちの特徴が記されてあります。「そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。」

そういう人たちは主イエスに仕えているのではなく、自分の欲望に仕えています。この「欲望」と訳されていることばですが、これは原語では「腹」と訳されることばです。キリストの十字架に従うのではなく、自分の欲望と自分の考えに従って歩んでいるのです。これが福音だと言いながら、福音をねじ曲げてしまうのです。しかも彼らは滑らかなことば、へつらいのことばで迫ってくるので、それが異端かどうかを判別するのが難しいのです。まさに羊のなりをした狼ですね。このような教えを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。

 

「警戒しなさい」とか「遠ざかりなさい」というは、いかにも消極的な対処法であるかのように見えます。なぜ「戦いなさい」とか「対処しなさい」ではないのでしょうか。それは、こうしたこれこそ異端に対して最も有効な対処法だからです。たとえば、ヨハネ第二の手紙1章10~11節には、「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。ですから、私たちは異端を教える人たちから遠ざかることが賢明なのです。そうでないと間違った教えを持っている人たちは、極めて巧妙に私たちを自分の側に引き入れようとするからです。

 

以前、私の家にエホバの証人の方がよく来られました。玄関のインターホンを鳴らすと、「私たちは聖書の教えをお知らせしているものですが、ご主人は聖書に興味はございませんか?」と言われるのです。少なくとも、私の家は教会ですよ。看板もあれば、十字架も掲げてあります。そういうところにやって来て「聖書に興味はありませんか」と言われるのですから、相当の自信と度胸があるのだと思います。むしろ、相手がクリスチャンであれば、ある程度聖書を知っているので都合がいいのです。またクリスチャンは人がいいので、このような人たちを無碍に断らないということを知っていので、そういう弱みに付け込んでやって来るのです。

もちろん、「ございます」ので、「わかりました。ちょっとお待ちください」とできるだけ爽やかな服装で、満面の笑みをうかべながら、「お待たせしました。」と玄関のドアを開けると、そこには実に優しそうなご婦人が二人おられるではありませんか。上品な笑顔と、上品な服装をして。一人の人が話すのを、もう一人の人が静かに聞いておられます。「ご主人、この世の現状を見てどのように思われますか。」

「この地上の楽園に入るためには神を信じなければなりません。イエスは神に近い人間ですが神ではありません。唯一まことの神を信じなければなりません。」

それで私が「聖書には何と書いてあるでしょうか。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。イエス様こそ人となられたまことの神であって、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたことで救いの御業を成し遂げてくださいました。なぜなら、この方は神が約束されたメシヤ、救い主、神ご自身であられるからです。だれでもこの方を信じる人は救われるのです。」とお話すると、初めは穏やかに接してくれていた方が、だんだん険しい顔になってきて、ついには口から泡をふいて、「こんなに聖書を勉強している牧師さんに会ったことがない」と言って去って行かれました。こんなに聖書を勉強している牧師がいないのではなく、こんなに真面目に相手をする牧師はいないということでしょう。残念ながら、それ以来、私のところには来なくなりました。要注意人物のリストに上げられているのでしょう。教会を避けて行くようになりました。

私はずっと前からエホバの証人の方が熱心に伝道している姿を見ていて、もしかすると、あっちの方が正しいのではないかと思ったことがありまして、そして、自分の信じていることが間違っていたら大変だと思い、エホバの証人方と10回にわたり論じたことがあります。残念ながら、その時も5回くらいやった後で体調が良くないということで最後まで続けることができませんでした。その時も「こんなに聖書を勉強していると思わなかった」と言っておられました。彼らの教えがどのようなものなのかを学ぶことで、自分が信じていることが正しいということを確信を持つことができて本当に良かったと思っています。しかし、聖書では、一番良い対策は、彼らと論じるのではなく、彼らを警戒し、彼らから遠ざかることです。

 

19節でパウロは、「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」と言っています。従順であるだけでは危険です。私たちはこの世の中で信仰者としてしっかり立っていくためには、「善にはさとく、悪にはうとく」なければなりません。「善にはさとく、悪にはうとく」とはどういうことでしょうか。「さとく」とは、「賢く」とか「鋭く」ということです。一方「うとく」とは、疎遠であることです。ですから、「善には賢く、悪には疎遠であれ」という意味になります。一般的な傾向として、私達は悪いことには賢く、善をなすことには知恵が回らないものです。コロナの給付金を巡っても、いろいろな手口でだまし取ろうとする犯罪があとを絶ちません。つくづく,この世の人は悪事に賢いなあと感心させられますが、ここでは逆です。善に対して賢く、悪に対してはうとくなければなりません。

 

Ⅱ.平和の神(20)

 

第二のことは、神にゆだねることです。20節をご覧ください。ここには、「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」とあります。

 

17~19節において、私たちが注意すべきことについて教えられてきましたが、ここでは、それと同時に神の助けが必要であることが述べられています。神の助けがなければ、私たちは悪魔に勝利することはできません。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」という表現は、創世記3章15節で預言されたことですが、異端の元祖とも言うべきサタンに対する神の究極的な勝利が実現するという意味です。その創世記3章15節をご覧ください。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、女の子孫から出るキリストが、敵である悪魔を踏み砕くという預言です。聖書に一番最初に出てくる福音の預言なので、「原始福音」と呼ばれています。主イエスは十字架と復活によってそれを成就してくださいました。しかし、最終的には主が再臨する時まで待たなければなりません。ですからここに「すみやかに」とあるのです。パウロは、終末的な神の勝利が「すみやか」に来ると信じていました。

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」(Ⅱテサロニケ1:8-10)

 

パウロは、ここに希望を持っていました。皆さん、私たちの真の希望はどこにあるのでしょうか。ここにあります。主は確かに来られます。その時が近づいています。これこそ私たちの真の希望です。この希望を握りしめている時、私たちは主を喜び、賛美をささげることができます。そうでいなと、目の前のことに心と思いが奪われ、落胆したり、絶望したりすることになります。この世にある矛盾とか葛藤というのは、私たちの力や方法によって解決できるものではありません。けれども、主が再び来られるとき、それらのすべてを正しくさばいてくださいます。ですから、この方にすべてをゆだねることができます。

 

クリスチャンにとっての最高の使命は、日々、目を覚まして、この再臨の主を待ち望むところにあります。日々の生活において不義なことや傷つくことがあっても、落胆したり絶望したりしないで、主がすべてのことを正しくさばいてくださると信じて、待ち望まなければなりません。それこそ確かな希望であり、真の解決なのです。私たちに必要なのはこの世の不条理に対してあくせくすることではなく、サタンを踏み砕く主にゆだねることです。

 

Ⅲ.福音に生きる(25-27)

 

第三のことは、福音に生きることです。25~27節をご覧ください。パウロはこの手紙の最後のところで、「〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。〕」と言って、この手紙を結んでいます。

 

これは頌栄です。頌栄というのは、神の栄光をほめたたえることですが、このローマ人への手紙のしめくくりとしての頌栄は、内容が盛りだくさんというか、文章が長いので、その意味があまりハッキリしません。いったいパウロはここで何を言いたいのでしょうか。27節にあるように、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえにありますように。」ということです。ではこの知恵に富む唯一の神とはどのようなお方なのかというと、その前の26節に書かれてあるように、「あなたがたを堅く立たせることができる方」です。ではどのように堅く立たせることができるのかというと、またまたその前に書かれてあるように、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、です。すなわち、25節にあるように、私の福音とイエス・キリストの宣教によってであります。

 

パウロは、自分に示され、自分が宣べ伝えた福音こそまことの福音であるということを知ってほしいのです。この福音によってです。ですからここでパウロが言いたかったことはどういうことかというと、パウロが宣べ伝えていた福音によってあなたがたを堅く立たせることのできる知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえにありますように、ということなのです。

 

皆さん、福音こそ私たちを信仰に堅く立たせてくださることができるのです。パウロは、この手紙の最初のところで次のように宣言しました。1章16節です。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

 

皆さん、福音は力です。単なる概念ではありません。それは、救いを得させる神の力なのです。たとえ私たちの周りが偶像で溢れ、神の教えをねじ曲げるような人たちがいても、あるいはそのことによって教会が、社会がどんなに枯れた骨のような状況であっても、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。それは二千年前に伝えられた昔話ではなく、今も生きて働き、私たちのたましいを変え、人生を変える力なのです。

 

皆さんは「バウンティ号」という船をご存知じでしょうか。この船は1787年にイギリス政府が南洋諸島の一つであるタヒチという島にパンの木の栽培のために100人ほどの人たちを送り込んだのですが、その際に乗り込んだ船の名前です。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはみな魅力的でした。

しかし、彼らは次第に堕落してしまい、本国からの命令を無視するようになり、口やかましい船長に反抗して、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのです。

その後彼らは本国から逮捕させるのを恐れ、ピトケアン(Pitcairn)という島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶ生活を始めました。そうなると彼らの間でけんかが絶えなくなりました。特に熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのけんかがひどくなり、殺し合いまでするようになりました。そして最後にたった一人ジョン・アダムズという人だけが残されたのです。

すべての西洋人がいなくなり、多くの混血の子どもだけが生まれ育つようになりました。しかし、それから30年後、そこを通りかかったアメリカの船がその島に上陸してみると、驚くべき光景を目にしたのです。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。いったい何があったのでしょうか。

仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに多くの人を殺して生き残ったジョンは、難破した「バウンティ号」に戻ってみると、そこに一冊の聖書を見つけました。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引きつけられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改め、彼は神の人に変えられました。

その後聖霊の導きによって、その島の子どもたちに字を教え、神のみことばである聖書を教えました。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島はパラダイスのようになったのです。これは福音の力、一冊の聖書の力によるものでした。

 

神のことばは生きていて力があります。この神のことば(福音)によって私たちは救われ、変えられ、信仰に堅く立つことができるのです。そして、あらゆるサタンの攻撃に打ち勝つことができるのです。今、私たちに求められていることは、この福音に生きることです。パウロはローマ人への手紙8章35節で、次のように問いかけています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

この問いに対する答えはこうです。続く37節でパウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

もし私たちが自分の人生を主の御手にゆだね、復活の主に信頼するなら、何が起こっても途方に暮れることはありません。どんなことがあっても、私たちがそれに飲み込まれたり、滅ぼされてしまうことはないのです。圧倒的な勝利者になるのです。これが復活の力であり、福音のメッセージです。

 

皆さんはどうでしょう。何に頼って生きていますか。自分の考えとか自分の力でしょうか。でもそれだけでは私たちは折れてしまうことがあります。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストに信頼して生きることによってのみ、私たちはあらゆる困難を乗り越えることができるのです。

 

1968年に、ある科学者がインディアンの墓で、600年前に作られたと思われる、種でできた首飾りを発見しました。その科学者がその種の一つを取って植えたところ、何と芽を出し成長を始めたのです。600年間も休眠状態であったはずのその種には生命力が宿っていたのです。大切なのはその種を植えることです。あなたの心に福音の種を植えるなら、どんなに休眠状態にあろうとも、あなたも芽を出し、成長し、豊かな人生の実を結ぶことができるのです。この種には驚くべき偉大な神の力が宿っているからです。さあ、この福音の種をあなたの心に、また私たちの住んでいる社会に植えましょう。そうすればあなたの人生に全能の神が働いて、偉大な御業を成してくださるのです。

 

旗じるしは愛 雅歌2章1~7節

2021年6月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌2章1~7節

タイトル:「旗じるしは愛」

 

 雅歌からお話しております。きょうはその4回目となりますが、2章1節から7節までの箇所から「旗じるしは愛」というタイトルでお話します。

 

Ⅰ.茨の中のゆりの花のようだ(1-2)

 

まず、1~2節をご覧ください。1節には、「私はシャロンのばら、谷間のゆり。」とあります。

 

これは、花嫁が花婿に語っていることばです。花嫁は、自分はケダルの天幕のように黒いけれども、花婿が「あなたは女の中でもっと見美しいひとよ」と言ってくださるので、ソロモンの幕のように美しいと宣言することができました。花婿の誉め言葉はそれだけではありませんでした。1章9節では、「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。」と言いました。なんですか、馬になぞらえるなんて!という人もいるかもしれませんが、それは最高級の馬のことであり、それほど美しいということの表現でした。そればかりか、覚えていますか、15節には「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」とありましたね。鳩のように美しく、きよらかであるということです。花婿は花嫁に対して何度も「美しいひとよ」と言うものですから、花嫁はすっかり気分がよくなって、ここでこう言うのです。「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」。人は自分が愛されていることがわかると自分のイメージが変わります。他のだれが何と言おうとも、自分が愛する方がそのように言ってくださるのです。彼女はこれまで「私は黒いけれども美しい」と言っていましたが、「私はシャロンのばら、谷間のゆり」と言うまでになったのです。

 

「シャロン」とはヨッパからカイザリヤまでの地中海沿岸の肥沃な平原のことです。砂漠の多いこの地域にあっては、花が咲き草木が生い茂る特別な場所です。そのシャロンに咲くばらのようだというのです。この「ばら」という語ですが、新改訳第三版では「サフラン」と訳しています。このことばは聖書の中では他に1か所だけに出てきます。それはイザヤ書35章1節ですが、そこには「サフラン」と訳されています。「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。」新改訳2017ではこの「ばら」に※が付いていて、欄外注の説明には「サフラン」とあります。英語のある聖書(米改定標準訳)には「クロッカス」と訳されています。おそらく、「サフラン」か「クロッカス」のどちらかではないかと思います。花がよく似ていますが、サフランのめしべの方がクロッカスのめしべに比べて著しく長いのが特徴です。どちらにしても確かなことは、この花はシャロンに咲く美しい花であるということです。

 

また、彼女は自分を「谷間のゆり」にたとえています。「ゆり」は、野にあふれていた草花でした。イエス様は新約聖書の中でこのゆりについ言及しています。マタイ6章28節です。「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」この「野の花」の「花」が「ゆり」です。第三版では「野のゆりが」と訳しています。これは野原に普通に咲いていた花でした。彼女は慎ましやかに、自分を野に咲いているありふれたゆりの花であるとしながら、ただのゆりの花ではない、谷間のゆりだと言っているのです。谷間のゆりとは何でしょうか。谷間とは、過酷な環境の中でもひっそりとたたずんだ場所です。彼女は自分がそうした野のゆりの花にすぎない者でも、そうした過酷な環境の中でもたくましく生きているゆりの花なのだと言っているのです。つまり、美しさとたくましさを備えた花であるということです。

 

まさにイエス様がそのような方でした。中世のキリスト教の多くの聖画を見ると、青い目をした色白の、弱々しい姿のイエス様の姿を描いたものが多いですが、実際はそうじゃなかったと思います。イエス様は大工の息子でしたから、もっとがっちりしていたのではないかと思います。何よりも、神の子としての栄光と神々しさに溢れていたでしょう。見た目では他の人とあまり変わりはないように見えても、この方には神の御霊が無限に注がれ、神の栄光に満ち溢れて。まさにシャロンのばら、谷間のゆりです。ここでは花嫁がそのように言われています。イエス様がそのようなお方なので、その花嫁である教会もそのようになっていくのです。

 

そんな花嫁に対して花婿はなんといっているでしょうか。2節をご覧ください。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」これは花婿のことばです。どういう意味でしょうか。

 

「茨」とはとげのある小さな草木です。その中にあってとりわけ美しいゆりの花、それが花嫁です。この茨とは他の女性たちのことを指しています。1章5節には「エルサレムの娘たち」のことが記されてありますが、彼女たちは茨のような存在と言えるでしょう。そうした娘たちの中にあってその美しさが際立っていました。確かに彼女はどこにでもあるような野のゆりにすぎないかもしれませんが、しかし、そんな彼女の美しさと比べたら、他の女性たちは茨のようだと言っているのです。それほどに花婿にとって花嫁は特別な存在であるということです。

 

実際、イエス様があなたを見るときそのように見ておられます。あなたはひときわ美しいと。あなたの周りには確かに才能に溢れた人、輝いた人がいるかもしれない。回りのみんなからちやほやされ、羨ましい限りのような人がいるかもしれない。それと比べたら自分には何の才能もなく、いたって平凡で、これといった取り柄があるわけでもないし、本当に情けないとあなたは思っているかもしれないが、そんなあなたを見てイエス様は「あなたは美しい」とおっしゃってくださるのです。「あなたと比べたら、他は茨のようだ!」と。

 

イエス様の目であなたは唯一無二の特別な存在なのです。イザヤ43章4節にこうあります。「わたし目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このように見てくださる主に感謝したいと思います。そして、私たちの目ではなくイエス様の目で自分はどういう者なのかということを、正しく受け止めたいと思います。

 

Ⅱ.あの方の旗じるしは愛でした (3-6)

 

次に、3節から6節までをご覧ください。3節をお読みします。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。」

 

これは、そんな花婿のことばを受けて花嫁が語っていることばです。ここで花嫁は花婿を称賛しています。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。」「林の木々」とは「雑(ぞう)木林(きばやし)」のことです。ここで若者たちが雑木林にたとえられているのです。つまり、花婿が若者たちの間におられるのは、雑木林の中に植わったりんごの木のようだと。それだけ特別な存在であるということです。

 

どのように特別なのか、その後のところで言われています。まず、「その木陰に私は心地よく座り」とあるように、その木陰で休むことができます。「寄らば大樹の陰」ということわざがあります。どうせ頼るなら、大きくて力のあるものに頼ったほうが安心できるし、なにかと得だという意味です。 雨宿りをしたり、暑い日ざしを避けようとして木陰に身を寄せるときには、大きな樹木の陰がなにかと好都合であるということです。まさに私たちの花婿は「大樹の陰」です。皆さんは何を大樹としているでしょうか。お金ですか、仕事ですか、それとも資格といった類のものでしょうか。そうしたものもある程度は必要でしょう。しかし、そうしたものが全く頼りにならないときがやってきます。こうしたものがあなたを裏切ることもあります。あれほど必死で働いてきたのに、いったいそれはどういうことだったんだろう、ということがあるのです。仕事であろうと、資格であろうと、そうしたものが役に立たないときがあるのです。しかし、私たちの花婿は、決してあなたを失望させることはありません。この方は林の木々の中のりんご、雑木林の中にしっかりとそびえ立つりんごの木のように、あなたをすべての災いから守ってくださるからです。

 

詩篇91篇お開きください。これは主に身を避ける人がいかに幸いであるのかを歌った歌です。1~2節だけとも思いましたが、とてもすばらしい詩なので、全体をお読みしたいと思います。

「1いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。

2 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦私が信頼する私の神」と。

3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。

4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。

5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。

6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

7 千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない。

8 あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。

9 それはわが避け所主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。

10 わざわいはあなたに降りかからず、疫病もあなたの天幕に近づかない。

11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。

12 彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。

13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。

14 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。

15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。

16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」」

すばらしいですね。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は、全能者の陰に宿ります。私たちが苦しいときに主を避け所とするなら、主がいつもともにいて私たちを救ってくださいます。日本語で「お陰様で」ということばがありますが、この「お陰様で」という言葉は、辞書で調べてみると、神仏の加護の意味がある“御蔭”(おかげ)が語源とされている、とありました。この神仏とはだれでしょうか。これはこの全能者のことです。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿ります。そのおかげで完全に守られるのです。そういう意味でのりんごの木です。

 

私が福島で牧会していた時、一人の婦人が突然教会に来られました。それは土曜日の朝のことでした。「すみません、お話を聞いていただけるでしょうか」と、ご自分のことを話されました。アルコール中毒だったご主人が2階からたたき落ち、首の骨を折り1年半の間寝たきりになっていました。農家の仕事もできなくなったので農機具を処分しようと農機具屋に来ましたが、教会があるのを見て来ました、ということでした。お話をお聞きしましたが、どうしてあげることもできず、主があわれんでくださるようにと祈りました。そして、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)のみことばから、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったこと、そして三日目によみがえってくださり、私たちの救いの御業を成し遂げてくださったことをお話し、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」(ローマ10:13)とお話すると、その場でイエス様を信じました。全能者の陰に宿ったのです。

数日後にご主人が入院している病院に行きました。ご主人は気管切開し呼吸器につながれていました。「こりゃ無理だ」と内心思いましたが、神様が癒してくださるように、そしてこの苦しみから救ってくださるようにと祈りました。

イエス様を信じてからこの姉妹は意欲的に仕事を探しました。するとある営業の仕事が与えられました。「先生、仕事が与えられました。感謝します。イエス様のお陰です。」と喜びが電話から伝わってきました。「良かったですね。どんなお仕事ですか」と尋ねると、何かの営業のお仕事でした。「日曜日はお休みになれますか」と聞くと、休んでも月1回くらいということでした。それで「もう少し祈りましょう。神様は必ず良い仕事を与えてくださると思います。」と言うと、「先生ひどい!」というのです。「せっかく仕事が与えられたのに。これからのことを考えると良い仕事だと思ったのに」と。

それで彼女はどうしたかというと、もともと農家の方で、りんごとかさくらんぼとかを栽培していたのですが、りんご畑に行ってりんごの木の下で祈りました。祈ったというよりもボーっとしていたといった方がいいかもしれません。すると、ある一つのことを思い出したのです。それは義理の両親がご主人のために掛けていた生命保険のことです。病院の医師は回復の見込みが有りと診断書に書いていたので保険金は受け取れない状態になっていましたが、もしかすると無にしてくれるのではないかと思ったのです。「どう思いますか」と言うので、「こういう状態がずっと続いているので、医師に相談したらいいと思います」と言うと、医師は「あ、そうだね、回復の見込みは無いね」とあっさりと「無」にしてくれたのです。それでご両親が掛けてくれていた保険が下りて、苦しい生活から解放されたのです。

それからしばらくして、私が大田原に来てからのことですが、ご主人が奇跡的に意識を回復し立ち上がることができるまでになりました。そしてなんとか杖をついて教会にも来られるようになったのです。教会の創立30周年の時に、後ろから私の肩をたたく人がいるので誰かなぁと思ったら、そのご主人でした。ご主人は介護を受けて自立生活ができるまでになり、イエス様を信じて救われました。ご主人だけではありません。二人のお子さんも、義理のご両親もみんなイエス様を信じて救われたのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがありません。主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

すべてはあのりんごの木から始まりました。イエス様を信じて祈り、イエス様の陰に宿ったことで、イエス様が助けてくださったのです。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。

 

あなたは何の陰に宿っていますか。いと高き方の隠れ場、全能者の陰に宿る人は幸いです。ところで、いと高き方の陰に宿るといっても、りんごの木ではちょっと小さいんじゃないかと心配する方もおられるかもしれませんね。でも大丈夫です。この「りんごの木」という言葉ですが、これはヘブル語では「タプアハ」という語です。これはりんごの木というよりは杏子の木、アプリコットの木のことです。それは10mくらいになります。ですから、陰として十分なのです。しかし、これがりんごの木であろうと杏子の木であろうと、これは花婿なるキリストのことですから、主イエスの陰に宿ることが大切であるということです。主に信頼する者は失望させられることはないからです。

 

このりんごの木ですが、もう一つのことは、その実は甘いということです。3節に「その実は私の口に甘いのです」とあります。これは、5節にも「りんごで元気づけてください」とありますが、私の口に甘く、私たちを元気づけてくれる神のみことばのことを表しています。詩篇の19篇10節には、「それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。主のおしえは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘いのです。

また、詩篇119篇103節にはこうあります。「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」それは甘いのです。それはただ甘いだけではありません。それはあなたを励まし、あなたを元気づけてくれます。

 

あなたはこのみことばを味わっているでしょうか。全能者の陰に宿り、この方が与えてくださる実、みことばの実を口にすることで、あなたも元気づけられます。私たちもキリストの花嫁として、主よ、あなたは林の木々の中のリンゴのようですと、その木陰に宿り、その実を口にする者でありたいと思います。

 

そして4節をご覧ください。ここにはこうあります。「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした。」

「あの方」とは、花婿のことです。花婿が花嫁を伴ってくださいました。どこに伴われましたか?酒宴の席に、です。「酒宴の席」とは、宴会とか、祝宴の席のことです。田舎娘の花嫁がこうした宴の席に出ること自体恥ずかしいことだったでしょう。身を引くような思いだったに違いありません。そんな花嫁を気遣って花婿は彼女をひときわ励まし、安心を与え、配慮しているのです。

 

その花嫁の上に翻っていた旗じるしは何でしたか。「愛」です。愛でした。「旗じるし」とは、兵士がどの部隊に属しているのかを示すものです。それは、誰が軍を率いているのかが一目でわかるような目印でもありました。強い武将なら「俺がここにいるぞ!」と相手を威圧するメリットもありました。その旗じるしが愛だったのです。それはイエス・キリストの十字架によって表された神の愛のことです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

クリスチャンはみな、この旗じるしの下に呼び集められた者です。イエス・キリストの愛に属するものとされたのです。教会のシンボルが十字架であるゆえんはここにあります。どの教会にも十字架が掲げられているのは、ここに神の愛が示されたからです。これが花嫁である教会の上に翻っていた旗じるしでした。

 

もしこの旗じるしが「愛」ではなく「聖」だったらどうでしょうか。あるいは、「義」だったらどうでしょう。誰も近づくことができなかったでしょう。私たちはあまりにも汚れているので、どんなに自分で聖くなろうとしてもなれないからです。しかし、神はそんな私たちを愛してくださいました。確かに私たちは汚れた者、罪深い者ですが、そんな私たちが滅びることがないように神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださいました。そして、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んでくださり、それを信じる人が救われるようにしてくださったのです。それが十字架です。神は世界中どこででも、この十字架の旗じるしを掲げて、私たちが帰るのを待っておられるのです。あなたをとっても愛しておられる造り主が。

 

5節をご覧ください。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで元気づけてください。私は愛に病んでいるからです。」「干しぶどうの菓子」は「干しぶどう」とは異なります。これはケーキ状に圧縮したぶどうの菓子で、ダビデが契約の箱を運んだ者たちに与えたものの一つです(Ⅱサムエル記6:19)。これは今日でも旅人を元気づけるために与えられると言われています。それは腐らず保存が効くことで、最高の贈り物とされていました。それはイエス・キリストご自身の象徴でもあります。ヨハネ6章27節には「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」とあります。イエス様こそいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物です。私たちには、このような食べ物が与えられています。その食べ物によっていつも力づけてもらうことができるのです。

 

また、「りんごで元気づけてください」とあります。このりんごもイエス様のことを象徴しています。3節にも「その実は私の口に甘いのです」とありましたが、それは花嫁を元気づけてくれるものでした。詩篇145篇14節には、「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」とあります。主は倒れている者をみな支え、かがんでいる者をみな起こしてくださいます。マタイ11章28節には、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。有名なことばですね。おそらく教会の看板に書かれてある聖句で一番多いのがこのみことばではないかと思います。もしあなたが疲れているなら、重荷を負っているなら、イエス様のもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてくださいます。りんごで元気づけてくださるのです。

 

6節をご覧ください。花嫁は続いてこう言っています。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」

直訳では「左」「右」です。それが腕なのか手なのかははっきりわかりません。新改訳第三版では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」と訳しています。ここでは左の腕でしっかりと支え、右の手で優しく抱きしめているイメージです。それは確かな保護と細やかな愛情を表しています。毎日が不安ですという方がおられますか。今月の支払いもギリギリで、この先どうやって生きていったらいいかわかりませんと。でも大丈夫、あなたはこの方の確かな保護を受けているのですから。健康面で不安ですという方がおられますか。安心してください。主があなたを守ってくださいます。それはただ困ったときの神頼みではなく、いつでも、どんな時でも、あなたのすぐそばにいてあなたを助けてくださいます。この方はあなたの花婿なのです。力づよい御腕と細やかな愛の御手をもって守ってくださるのです。

 

私の好きなみことばの一つに、申命記33章27節のみことばがあります。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

すばらしいですね。私たちの下にはこの永遠の腕があります。神が常にあなたを支える腕となってくださいます。敵に立ち向かう力を与えてくださいます。自分で戦うのではありません。死に勝利され復活されたキリストが戦ってくださるのです。私たちは、神に信頼して従ってゆくのみです。

 

Ⅲ.愛が目ざめるとき(7)

 

最後に7節を見て終わりたいと思います。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

 

これは花婿のことばです。同じことばが3章5節と8章4節にも繰り返して出てきます。この繰り返しによって一つの場面を締めくくっていると言えます。ここで花婿はエルサレムの娘たちに、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いしています。花嫁を揺り動かしたり、かき立てたりしないように。愛がそうしたいと思う時までは、そっとしてあげてくださいと。

「かもしか」や「野の雌鹿」は、非常に敏感な動物です。ちょっとした物音でも飛び跳ねて逃げて行きます。そのかもしかや野の雌鹿にかけて、花嫁を揺り起こしたり、かき立てたりしないでほしいと懇願しているのです。どうしてでしょうか。

 

愛とはそういうものだからです。愛とはだれか他の人にせかされて動くようなものではなく、そうしたいという思いが内側から起こされてはじめて動くものだからです。第三版では「愛が目ざめたいと思うときまでは」となっています。それは恣意的に起こすことがあってはいけないということです。愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではないのです。「この人を絶対に愛して行きます。」「永遠に愛します」と口で言ったとしても、そうすることはできません。愛には「目ざめ」が必要なのです。この目覚めがないのにどれだけ自分の意志で愛そうと思っても、限界があります。といっても、それは花嫁自身の中からは出てくるものではありません。聖霊の助けと促しなしには「目ざめる」ことはないのです。それゆえに「愛の目ざめ」は尊いのです。しかもその愛が「目ざめる」ときには「強さ」を表します。8章6節に「愛は死のように強く」とあるとおりです。そして、その愛は大水も消すことができません(8:7)。

 

花婿なる主イエスへの愛も同じです。牧師にどれだけ強く勧められても、自分の中にそうしたいという思いが与えられなければ盛り上がることはありません。一時的に心が高まることがあるかもしれませんが、すぐにしぼんでしまうことになるでしょう。花嫁の心はかもしかや野の鹿のように繊細なので、内側から自然に愛が湧いてくるまで待たなければなりません。その中で聖霊ご自身があなたに触れてくださり、あなたに慰めと励ましを与えてくださいます。愛がそうしたいと思うとき、愛が目覚めるときがやってきます。その愛は死のように強く、大水も消すことができないほどの力となって表れるのです。

 

パウロは、エペソの教会の人たちのためこう祈りました。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:14~21)

私たちも祈りましょう。私たちの内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、私たちの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いている私たちが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますようにと。

 

民数記9章

民数記9章

 

きょうはレビ記9章から学びます。

 

Ⅰ.過越のいけにえを献げよ(1-5)

 

まず1~5節までをご覧ください。「エジプトの地を出て二年目の第一の月に、主はシナイの荒野でモーセに告げられた。「イスラエルの子らは、定められた時に、過越のいけにえを献げよ。あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時に、それを献げなければならない。それについてのすべての掟とすべての定めにしたがって、それをしなければならない。」モーセがイスラエルの子らに、過越のいけにえを献げるように告げたので、彼らはシナイの荒野で第一の月の十四日の夕暮れに過越のいけにえを献げた。イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った。」

 

1節を見ると、時は、再び、第二年目の第一の月に遡っています。出エジプト記40章17節の後のことです。モーセは、主が命じられたとおりに幕屋を建設しました。それはイスラエルがエジプトを出て第二年目の第一の月でした。その月の第一日に幕屋が完成しました。それから、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられました。それがレビ記に記されてある内容です。ですから、この箇所は、その時にまで遡っているのです。出エジプト記には、モーセは主が命じられた通りに幕屋を設営すると、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちたとありますが、民数記には、その前に主がモーセに命じられたことが記されてあります。それは、過越しのいけにえをささげるということです。

 

2節には「イスラエルの子らは、定められた時に、過越のいけにえを献げよ」とあります。イスラエルの民は主のことばに従い、定められた第一の月の夕暮れに過越しのいけにえをささげなければなりませんでした。過越のいけにえとは、イスラエルがエジプトを出るときにささげたいけにえのことです。それは出エジプト記12章3~13節までにありますが、主がエジプトにわざわいを下し、ご自身の民を救われたことを覚えるためでした。

イスラエルの民は、おのおのその父祖の家ごとに羊一頭を用意し、それを十四日の夕暮れにほふり、その血を取って家々の門柱と、かもいにつけ、その夜にその肉を食べました。種を入れないパンと苦菜を添えて。腰には帯を締め、足にくつをはき、手には杖を持っていました。すぐに旅立てるように支度を整えて食事をしたのです。そして、その夜神はエジプトの地を行き巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、初子という初子はすべて打ちました。ただ門柱とかもいに羊の血が塗ってある家だけは、そのさばきを通り越したのです。そこには神のわざわいがもたらされることはありませんでした。

 

あの出来事から一年後に、イスラエルがシナイの荒野で旅を始めるにあたり、主はその過越のいけにえを献げるようにと命じられたのです。どうしてでしょうか。それはイスラエルの民にとって過越の小羊の血は、エジプトから救い出されたときだけではなく、荒野の旅をするときにも必要だったからです。その旅はエジプトからの救いと切り離されたものではなく、むしろ、その贖いによって荒野の過酷な生活を耐え忍び、前に向かって進んで行くための力となったのです。荒野にひそむ様々な危険やわなも、過越の子羊の血によって乗り越えることができたのです。

 これは私たちにもいえることです。この過越の小羊とはイエス・キリストのことですが、イエス様が十字架で血を流し私たちの身代わりとなって死んでくださったことは、私たちがイエスさまを信じて救われた時だけでなく、その後の荒野での生活、この地上における信仰の歩みにおいても、常に必要なものなのです。そうでなければ、荒野の旅を全うすることはできません。天の都に向かう私たちの信仰の旅においては、常にキリストの血潮に立ち返る必要があるのです。キリストが成し遂げてくださった十字架のみわざを仰ぎ見ていかなければならないのです。

それが聖餐式です。イエス様は弟子たちの最後の晩餐の席で、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:24)と言われました。また、夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを呑むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:26)と言われました。ここでのポイントは、「わたしを覚えて」ということです。なぜ主を覚える必要があるのでしょうか。それが私たちの信仰生活の土台であり、力だからです。主は、私たちに出来ないことをしてくださいました。それは全く罪のない方が私たちのために死んでくだることによって、私たちが罪から救われ、永遠のいのちが与えられる道を開いてくださいました。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。それは私たちの救いだけでなく、私たちの信仰の歩みにおけるすべてに言えることです。私たちがこうして生かされているのも、私たちの日々の生活が守られているのも、すべて神の恵みなのです。それは今だけでなく、これからも同じです。私たちの人生にはこれからもいろいろなことが起こるでしょう。しかし、何が起こっても大丈夫です。ご自身の恵みによって私たちを救ってくださった主は、これからも恵みによって救ってくださいますから。何があっても大丈夫です。この信仰の土台のゆえに、私たちの生活が保障されているのです。ですから、私たちはこの神の恵みを忘れてはならないのです。いつもここに帰らなければなりません。初めの愛に帰らなければならないのです。

 

Ⅱ.もし死体によって身を汚したら(6-14)

 

しかし、様々な事情でこの過越しのいけにえをささげることができなかった場合はどうしたらいいのでしょうか。6~14節までをご覧ください。「しかし、人の死体によって汚れていて、その日に過越のいけにえを献げることができなかった人たちがいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に進み出た。 その人たちは彼に言った。「私たちは、人の死体によって汚れていますが、なぜ、イスラエルの子らの中で、定められた時に主へのささげ物を献げることを禁じられているのでしょうか。」モーセは彼らに言った。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたのうち、またはあなたがたの子孫のうちで、人の死体によって身を汚している者、あるいは、遠い旅路にある者はみな、過越のいけにえを主に献げることができる。その人たちは、第二の月の十四日の夕暮れに、それを献げなければならない。種なしパンと苦菜と一緒にそれを食べなければならない。そのうちの少しでも朝まで残してはならない。また、その骨は折ってはならない。すべて過越のいけにえの掟のとおり、それを献げなければならない。身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえを献げることをしないなら、その人は自分の民から断ち切られる。その人は定められた時に主へのささげ物を献げなかったので、自分の罪責を負う。もし、あなたがたのところに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、過越のいけにえの掟と、その定めとにしたがって献げなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、あなたがたには掟は一つである。」」

 

もし人が死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえを献げることができなかったらどうしたらいいのでしょうか。モーセの律法によれば、そのような人たちはいけにえをささげることができませんでした。5章2~4節を振り返ってみましょう。ここには「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」イスラエルの子らはそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。主がモーセに告げられたとおりにイスラエルの子らは行った。」とあります。このような人たちは身を汚しているということで、宿営の外に追い出されたのです。過越しのいけにえをささげることができませんでした。

 

するとモーセは彼らに言いました。8節です。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」

モーセにもわからないことがあったんですね。彼は、このことについて主がどのように命じられるのかを聞くために祈りました。すると主はモーセに、そのような人でも、過越しのいけにえを献げることができると仰せになられました。そのような人は、一か月遅れの、第二の月に十四日の夕暮れに、それを献げなければなりませんでした。なぜなら、それはとても重要なことだからです。過越のいけにえをやめるようなことがあったら、そのような者は民から断ち切られなければなりませんでした。過越のいけにえは、それほど重要なことだったのです。すべて過越しのいけにえの掟のとおりに、献げなければならなかったのです。

 

実際に一か月遅れで過越のいけにえを献げたという例があります。Ⅱ歴代誌30章1~5節をご覧ください。「ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に人を遣わして、またエフライムとマナセに手紙を書いて、エルサレムにある主の宮に来て、イスラエルの神、主に過越のいけにえを献げるように呼びかけた。王とその高官たちとエルサレムの全会衆は協議して、第二の月に過越のいけにえを献げようと決めた。というのは、身を聖別した祭司たちが十分な数に達しておらず、民もエルサレムに集まっていなかったので、そのときには献げることができなかったからである。このことは、王と全会衆の目に良いことに思えたので、彼らはベエル・シェバからダンに至るまで、イスラエル全土に通達を出し、エルサレムに来てイスラエルの神、主に過越のいけにえを献げるよう、呼びかけることを決定した。規定どおりに献げている者が多くなかったからである。」

 

この時ユダの王ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃に対して、まず宗教改革を行いました。主に過越のいけにえを献げることから始めたのです。なぜなら、身を聖別した祭司たちの数が十分ではなく、民もエルサレムに集まっていなかったので、そのときには献ゲルことができなかったからです。それで第二の月の十四日に過越しのいけにえを献げようと決めたのです。

そこで、イスラエルとユダの全会衆に呼び掛けてエルサレムに集まり、過越のいけにえを献げるようにと手紙を書き送りました。その結果、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲しましたが、主は、アッシリヤの王の手からイスラエルを救い出されました。主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、主張を全滅されたのです(Ⅱ歴代誌32:21)。まさに子羊の血による勝利でした。たとえそれが一か月遅れであっても、それは省くことができない重要なことであり、それが神の命令に従って献げられるとき、そこに偉大な神の力と勝利がもたらされるのです。それは最初の過ぎ越しの祭りに勝るとも劣らない神の祝福なのです。

 

主の晩餐、聖餐式もそうです。それは、子羊の血による救いを表していました。今、すべての人にこの救い主キリストが与えられています。誰でも、イエスを救い主として信じるなら救われるのです。これが福音です。この福音が私たちにも差し出されています。それを受け入れるなら私たちの罪は赦され、聖めていただくことができますが、それを拒むなら、罪の赦しはありません。ですから、私たちはみなこの過越しのいけにえを献げなければなりません。主の聖餐を受けなければならないのです。もしかすると、何らかの罪、汚れがあるかもしれません。それでもその場で悔い改めて受けるべきです。もしそのときに受けられなくても、次の機会には受けることができるように備えておくべきです。あなたがキリストの十字架に信頼するなら、あなたもその恵みを受けることができるのです。

 

時として私たちも汚れることがあります。イスラエルの民が死体にさわって自分の身を汚したように、私たちも自分の身を汚すことがあるのです。でも私たちは何度でもやり直すことができます。私たちが罪を犯すとき、自分は失敗した、もうだめだ、教会に行く資格なんてない、信仰を続けることなどできないと意気消沈することがありますが、私たちはやりなおすことができます。私たちは神に立ち返り、キリストのみこころにかなった生活をやり直すことができるのです。いや、やり直さなければなりません。自分勝手に判断してキリストから距離を取って生きるのではなく、主が与えられた機会を用いて悔い改め、新しい人生を始めていかなければならないのです。それが福音です。

 

Ⅲ.主の命により(15-23)

 

次に15~23節までをご覧ください。「幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。」

 

イスラエルの民が旅立つとき、彼らの導き手となったのは雲の柱と火の柱でした。モーセが幕屋を設営した日に、雲が幕屋をおおいました。夕方には幕屋の上に火の柱があって、それが朝までありました。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えました。雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立ち、そして、雲がとどまると、その場所で宿営していました。雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立ちました。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立ったのです。彼らとしては、突然雲が上がっても、まだ出発したくないという時もあったでしょうが、それでも、昼でも、夜でも、雲が上がれば、いつでも旅立ったのです。また、一日でも、二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立ちませんでした。ただ雲が上ったときだけ旅立ったのです。長い期間、宿営していたら退屈になってしまうかもしれませんが、それでも彼らは雲がとどまっている限り、宿営をつづけました。

 

これはどういうことでしょうか。それは、イスラエルが主の命令によって旅立ち、また主の命令によってとどまったように、私たちも主の導きに従って進まなければならないということです。私たちの生活は彼らの生活よりもずいぶん便利になりました。いつでも行きたい所に行くことができ、泊まりたい所に泊まることができます。やりたいことをし、やりたくないことはしない、何でも自由にできます。けれども、そのような自由が必ずしも良いとは限りません。何の問題もないようでも、実はそこに大きな落とし穴があるのです。

 

ヤコブはこう言っています。「「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。」(ヤコブ4:13-15)

主のみこころなら、です。私たちのいのちは完全に主によりかかっています。ですから、主のみこころのみを求めて、主のみこころが成し遂げられることを願い求めて、生きていかなければなりません。人生の行程に、突然の変化があるかもしれません。しかし、柔軟になるべきです。主がなされることを見つめ、その導きに従うべきなのです。

 

イスラエルに与えられていたのは雲の柱でした。それは神がそこにおられ、彼らを導いておられるしるしでした。同じように、神は私たちに聖霊を与え私たちの歩みを導いておられます。中には、「イスラエルはいいなぁ、目に見える形で導かれて。迷うことなく、安心して進んでいけたに違いない。」と思う人がいるかもしれません。確かに彼らには目に見える形での道しるべが与えられていましたが、だからといってそれでよかったのかというとそうでもないのです。というのは、彼らはそのような確かな道しるべが与えられていたにもかかわらず、不平や不満を言っては神の怒りを招いていたからです。彼らは目に見えるものがあっても文句を言いました。大切なのは、それが目に見えるかどうかというとこではなく、見えても見えなくても従うことです。

 

十字架と復活の主を信じた私たちには、約束の聖霊が与えられています。私たちはイスラエルと同じように、みことばと聖霊の導きに従って前進することができるのです。何と幸いなことでしょうか。大切なのは、神がどのように導いておられるかを知るということともに、その導いてくださる神の御声に聴き従うことです。主の恵みによって与えられたこの信仰の歩みを、神の聖霊の導きに従って歩んでいくものでありたいと思います。

 

民数記8章

民数記8章

 

 民数記8章を学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

Ⅰ.燭台のともしび(1-4) 

 

「主はモーセに告げられた。「アロンに告げよ。『あなたがともしび皿を載せるとき、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい』と。」アロンはそのようにした。主がモーセに命じられたとおりに、燭台の前に向けてともしび皿を載せた。燭台の作りは次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。」

 

主はモーセに、アロンに告げて言うようにと命じられました。七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにと。それでアロンは、主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取り付けました。

 

至聖所には神の臨在の栄光の輝きがありますが、聖所は真っ暗でした。この燭台のともしびによって明るくなります。主はこのようにして聖所の中に光があることを望まれたのです。それにしても、いったいなぜ急に燭台のともしびの話が出てくるのでしょうか。少し不思議な感じがします。しかし、その後の箇所を読むと、その意味が明らかになります。

 

Ⅱ.レビ人のきよめ(5-13)

 

では次に、5節から13節までを見ましょう。「主はモーセにこう告げられた。 「レビ人をイスラエの子らの中から取って、彼らをきよめよ。あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らにかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめる。そして若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたはまた別の若い雄牛を罪のきよめのささげ物として取る。あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエルの全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。 アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主に献げる。」

 

主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りないためすべての務めを行なうことはできません。そこで主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられたのです。

 

レビ人は、まずきよめられなければなりませんでした。その方法は7節以降にあります。まず、罪のきよめの水を彼らに振りかけます。次に、彼らは全身の毛をそり、その衣服を洗います。このようにして身をきよめなければなりませんでした。このように、レビ人の奉献式は水の洗いから始まりました。このことは、クリスチャンがどのようにきよめられるのかを教えています。クリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげる者ですが(ローマ12:1)、そのときに必要なのが、身をきよめるということです。どうやってきよめたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ1章9節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちをきよめるのは御子イエスの血です。そして、そのようにイエスの血によってきよめられた者は、イエスの御姿に変えられていくために、神のみことばによってきよめられるのです(ヨハネ17:17,エペソ5:26)。しかし、ここで注意しなければならないのは、自分をきよめるということを、多くのクリスチャンは自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考えていることです。そのため、自分は汚れた者であり、主に受け入れられる資格はない、奉仕する資格はないと思ってしまうのです。しかし、それは誤っています。主が私たちをきよめてくださるのは、ただご自身の血と聖霊の恵みによって成されていくものなのです。

 

 それが、燭台のともしびが表していたことでした。ここで1節から4節までに記されてあった燭台のともしびの意味が明らかになります。このレビ人のきよめの前に、燭台のともしびを整えなければならなかったのは、このレビ人のきよめの前提というか土台が、燭台のともしびであったということです。つまり、イエス・キリストと聖霊ご自身であるということです。ヨハネ8章12節には、「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあります。またゼカリヤ書4章をみると、ともしび皿の油は主の御霊である聖霊のことを指していることがわかります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たち(教会)の心を明るくされるのです。この燭台の光があるからこそ、水の洗いがあるのです。この順番が大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分の考えで自分自身の内側を見つめるということではなく、聖霊によってキリストの光を照らしていただくことなのです。それによって私たちはきよめられるのです。ゼカリヤ書に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書かれてあるとおりです。私たちの働きは、私たちの能力や力によって行われるのではなく、ただ神の恵みと神の力によって成されていくものなのです。燭台であられるキリストと、油であられる聖霊の働きことが、レビ人のきよめに必要なものであり、その前提、土台にあるものなのです。

 

 9~11節には、「あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエルの全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」とあります。
 モーセがレビ人を会見の天幕の前に近づかせると、イスラエルの全会衆を集め、彼らはレビ人の上に手を置きます。これはどういうことかというと、レビ人がイスラエル全会衆を代表していたということです。イスラエルの代表として、その働きをゆだねられていたのです。それはレビ人だけではなく、イスラエルのすべての人も一緒に奉仕をしていることを意味していました。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前にささげているのです。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。このようにしてレビ人を奉献物として主にささげたのです。

 

 Ⅲ.レビ人の奉仕(14-22)

 

 次に14~22節をご覧ください。「こうして、あなたはレビ人をイスラエルの子らのうちから分け、レビ人はわたしのものとなる。この後、レビ人は会見の天幕に入って奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物として献げなければならない。彼らはイスラエルの子らのうちから正式にわたしに与えられたものだからである。すべてのイスラエルの子らのうちで、最初に胎を開いた、すべての長子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。イスラエルの子らのうちでは、人でも家畜でも、すべての長子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。わたしは、イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりにレビ人を取った。わたしは、イスラエルの子らのうちからレビ人をアロンとその子らに正式に付け、会見の天幕でイスラエルの子らの奉仕をし、イスラエルの子らのために宥めを行うようにした。それは、イスラエルの子らが聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないようにするためである。」モーセとアロンとイスラエルの全会衆は、レビ人に対してそのようにした。主がレビ人についてモーセに命じられたことすべてにしたがって、イスラエルの子らは彼らに行った。レビ人は身の汚れを除き、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前に献げた。またアロンは彼らのために宥めを行い、彼らをきよめた。この後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。」

 

このようにしてレビ人は、主の奉仕に就くことができました。彼らはイスラエル人のうちから正式に主のものとなったからです。すべてのイスラエル人のうちで最初に生まれた初子の代わりに、主は彼らをご自身のものとして取られました。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子は主のものです。エジプトの地で、主がすべての初子を打ち殺した日に、主は彼らを聖別してご自身のものとされたからです。主はそのイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取ったのです。

 それで主はイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕で奉仕ができるようにしました。ですから、主の奉仕をするときに必要なことは「私は主のものである」という確信です。主が私をここに置いてくださり、ご自身のみこころに従って用いられるという思いです。私たちが奉仕をしているときに感じることの一つは、孤独です。主が私のことを気にかけておられるのか、ちゃんと見ていてくださるのか、といった思いです。しかし、主はいつもともにいてくださいます。なぜなら、私たちは主のものとされているからです。モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行ないました。

 

Ⅳ.レビ人の奉仕(23-26)

 

最後に、23~26節までを見て終わりたいと思います。「主はモーセにこう告げられた。「これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務に当たるのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。あなたはレビ人に、彼らの任務に関してこのようにしなければならない。」」

 4章3節には、会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までの男子であると言われていましたが、ここでは25歳以上となっているのは、おそらくインターンの期間も含めてのことでしょう。インターンとして5年間奉仕し、30歳から50歳までフルに仕えるようにと定められていたのです。Ⅰテモテ3章には監督の資質が書かれてありますが、そこには「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(3:6)とあります。25歳からでも奉仕できますが、実際にはよく経験を積んで30歳から奉仕するようになっていたのです。また、50歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕できませんでした。会見の天幕での奉仕は、それほど肉体的にも、精神的にも、霊的にも、集中を要したからでしょう。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできましたが、自分で奉仕することはできませんでした。50歳以上の人は、サポートする側、監督をする側に回り、実際の奉仕をすることはなかったのです。

ただ一つの願い 雅歌1章9~17節

2021年5月30日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章9~17節(雅歌シリーズ③)

タイトル:「ただ一つの願い」

 

 雅歌から学んでいます。きょうはその3回目となります。これは花婿と花嫁の関係を歌った歌ですが、神とイスラエル、また、キリストと教会との関係をたえとて歌われています。前回のところで花嫁は、「私は黒いけれども美しい」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。自分がどんなに汚れた者だと思っていても、花婿なる主が、「女の中で最も美しいひとよ」と呼んでくださる。それゆえ、花嫁なるクリスチャンは、黒くても美しい、と告白できるのです。きょうはその続きです。

 

Ⅰ.わが愛する者よ(9-11)

 

まず9~11節をご覧ください。「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。そこに銀をちりばめて。」

 

これは、花婿のことばです。「わが愛する者よ」という呼びかけは、雅歌全体で9回も用いられています。これが雅歌における重要な概念です。花婿にとって花嫁は「愛する者」なのです。

 

花婿はここで花嫁をファラオの戦車を引く雌馬になぞらえています。当時エジプトの馬は最高の馬でした。それは王だけが乗ることができる馬だったのです。今で言うと、ロールスロイスとかベントレーといった車です。ロールスロイスとかベントレーといっても皆さんはわからないでしょう。これらは、ロイヤルファミリーが乗る世界最高の乗り物です。ネットで調べてみたら実に美しい車で、価格は何と16億円もします。女性を乗り物になぞらえるなんて嫌だ!という方もおられるかもしれませんが、それほど美しいということです。最高であると。私たちは時々自分を見て「私はなんて黒いんだろう」と思うことがありますが、イエス様はそんなあなたを見て「ファラオの雌馬のように美しい」と言ってくださるのです。

 

10節をご覧ください。ここには「飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。」とあります。どういうことでしょうか。これは、ファラオの雌馬を飾り立てられていた装飾品のことでしょう。ファラオの雌馬には様々な装飾品が飾り立てられていました。そのように、花嫁も種々の装飾品を身に着け美しく輝いています。

 

11節には、「私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。それに銀をちりばめて。」とあります。「金の飾り輪」とは、王宮の皇族が身に着けるものです。現代で言うなら「ティアラ」のようなものです。日本でも皇族の女性方が美しいドレスとティアラの装飾を身に着けている姿を見ることがありますが、とてもきれいですね。ここには銀をちりばめた金の飾り輪を作ろうとあります。どういうことでしょうか。聖書では「銀」は贖いの象徴として用いられています。また「金」は神性の象徴です。つまり、キリストの贖いによって救われ火で精錬することによって、神のご性質に作り変えるということです。

 

時として私たちは火で精錬されるような痛みや苦しみを負うことがありますが、それはいったい何のためかというと、金の飾り輪を作るため、すなわち、そのことによって、あなたを神のご性質に似た者として造り変えるためであるということです。神はあなたを美しく飾るために、あえて精錬されることがあるのです。それは私たちの罪に対する刑罰ではなく、私たちをキリストに似た者とするためなのです。私たちの罪の刑罰は、キリストが十字架で代わりに受けてくださいました。キリストが贖いとなってくださったので、私たちはもう裁かれることはありません。神が私たちを打たれるのは、私たちをもっときよめてくだるためなのです。

 

Ⅰペテロ3章3~4節には、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とあります。神の御前で価値あるものは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりといった外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄です。こうしたもので飾ってくださるのです。

 

ところで、ここに突然「私たちは」とあります。急に複数形になっているのです。いったいどういうことでしょうか。これは花婿のことばですから、「私は」となるはずなのに「私たち」と複数形になっているのです。ある人たちはこれを、1章3節の「おとめたち」のことではないかと考えています。つまり、花婿がおとめたちと一緒に金の飾り輪を作ると言っているのではないかというのです。またある人たちは、これを尊厳の複数といって、ヘブル語では尊厳なものを表現する時には複数形をとることがあるので、「私たち」と言っているのではないかと考えています。

 

しかし、そうではありません。ここで花婿が「私たち」と言っているのは、実際に花婿がそのような方であられるからです。そうです、ここで「私たち」と複数形になっているのは、花婿はキリストのことですから、三位一体の神を表しているのです。旧約聖書にはこのような表現が他にもあります。たとえば、創世記1章26節には、神が人を造られたとき「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。神はここでご自分のことを「われわれ」と言われたのです。なぜ「わたし」ではなく「われわれ」なのでしょうか。神様は三人おられるからです。三人ですが一人、これが三位一体です。神様は三位一体なるお方なのです。エホバの証人の方はこれを受け入れることができないので、これを尊厳の複数だと考えています。神様は尊厳な方なので「わたし」とは言わないで「われわれ」と言われたのだと。しかし、そうではありません。神は三位一体のお方なので「われわれ」と言われたのです。花嫁を金の飾り輪で美しく飾ってくださるのは花婿なるキリストの御業ですが、それは父なる神と子なる神キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神による共同の御業なのです。三位一体の神が、金の飾り輪であなたをさらに美しく飾ってくださいます。銀をちりばめて。イエス・キリストの贖いを通して、私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。感謝ですね。

 

であれば、私たちが人生の中で試練や困難に直面したとき、それは三位一体の神が私たちをさらに美しく整えるためになされている愛の御業であると受け止め、神がなさることに期待して、すべてを神に任せなければなりません。

 

Ⅱ.私の愛する方は(12-14)

 

次に12~14節をご覧ください。「王が長椅子に座っておられる間、私のナルドは香りを放っていました。私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

 

これは花嫁のことばです。「王が長椅子に座っている間」とは、婚宴のテーブルについている間ということです。そのテーブルに着いている間、花嫁が放つナルドの香りは、王である花婿をうっとりさせるほど放たれていました。ナルドとは、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それが油に混ぜ合わされたものがナルドの香油です。それは標高が高いところに生息していたことから、非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

 

新約聖書を見ると、ベタニヤのマリヤが十字架を目前にイエス様に注いだのは、このナルドの香油でした。彼女がこの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でめぐったとき、家は香油の香りでいっぱいになったとありますが(ヨハネ12:3)、それほど強い香りでした。それは簡単に消えるものではありませんでした。ですから、イエス様が十字架に付けられたときも、また死んで葬られたときにも残っていたでしょう。マリヤがイエス様に香油を注いだのはそのためでした。彼女はイエス様の埋葬の備えにと、前もってイエスのからだに香油を塗ったのです。もっともマリヤは自分ではそんな意識はなかったでしょう。しかし、結果的にそうなりました。それはイエス様にとってどれほどの大きな慰めであったでしょうか。ひとり十字架に付けられたときに、このナルドの香油が慰めとなり、その苦しみを乗り越える一助となったに違いありません。

 

このナルドの香油は、花婿を祝福するものです。それがこの宴の席で放たれました。花嫁は花婿を愛するがゆえに、自分にとって大切な宝物である高価なナルドの香油をささげたのです。あなたはどうでしょうか。あなたは、あなたを愛して自分のいのちをささげてくださった花婿に何をささげるでしょうか。

 

そればかりではありません。13節には、「私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。」とあります。何でしょうか、「乳房の間に宿る没薬の袋」とは。これは当時の習慣からきています。当時、婦人たちは体臭を消すために没薬の袋を胸の間に潜めていました。没薬は、着物や体によい香りを付けるために用いられたものです。今でいうと柔軟剤のようなものでしょうか。中には強力に消臭するだけでなく、良い臭いがずっと持続するものもあります。しかし、これは単に体臭を消すためではなく、あることを預言していました。それはイエスの死です。というのは、イエス様が誕生したときも、十字架で死なれたときもこの没薬が用いられたからです。

 

イエス様が誕生したとき東方の博士たちがイエスに幼子イエスに贈り物を持ってやって来ました。黄金、乳香、没薬です。なぜ黄金と乳香と没薬だったのでしょうか。黄金は、キリストが王であることを表していました。ですから、王なるキリストにとってふさわしい贈り物でした。乳香は、一般の家庭では用いられず神殿での礼拝に用いられていたことから、神にとってふさわしい贈り物でした。そして没薬は、死体が腐るのを防ぐ防腐剤として埋葬の際に用いられていました。すなわち、これはキリストが犠牲的な死によって人々を救いに導く方、救い主であることを表していたのです。ですから、キリストがお生まれになられたとき東方の博士たちが黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのは、まことに王であり、神であり、救い主であるキリストにふさわしいものだったのです。

 

ここでは、その没薬です。これは常に死と関わりがある香りでした。これが乳房の間に宿したのは、そのことを忘れないためです。つまり、イエス様が私たちを救うために十字架で死んでくださったことを忘れないためです。本当にイエス様を愛する人は、このことを忘れません。いつも自分の胸に刻むのです。それは女性が首につけるネックレスのロケットのようなものです。ロケットとは飛行機のロケットのことではなく、チャームが開閉式になっていて中に写真や薬などを入れられるようになっているものです。よくバレンタインとか、バプテスマ式とか、婚約式とかに贈り物として贈られます。愛する人の写真をその中に入れてネックレスにしていつも胸の間に置くわけです。遺骨の一部をその中に入れている人もいます。イエス様を愛する人はそのことを忘れません。自分の真っ黒い罪のために十字架で死んでくださったという神の恵みを、いつも心に留めるのです。

 

「恵」という漢字は、十字架を思うと書きます。十字架を忘れません。常に胸の間に十字架があるのです。十字架のネックレスのようですね。十字架が神と私たちのアクセスとなりました。このことを思うのです。このことを思うことが、私の乳房の間に宿る没薬の袋です。

 

さらに、花嫁は花婿にこのように言っています。14節をご覧ください。「私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

「ヘンナ樹」とは「へんな木」のことではありません。これはエジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。白またはピンク系の花を咲かせます。ここにはエン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹とありますね。エン・ゲディは、死海の西岸にある荒野です。かつてダビデがサウルに追われて隠れたのがこのエン・ゲディの荒野でした。それは、荒野にある唯一のオアシスでした。いのちがみなぎるところ、それがエン・ゲディです。

 

このヘンナ樹ですが、この木は長さ2センチ、幅1センチほどの楕円形の小さな葉をつけます。主にマニュキュアとかタトゥーなどの染料として使用されます。ヘナの白髪染めがありますが、それがこのヘンナ樹です。ですから変な木ではありません。花はバラの花のような甘い香りがします。それを求めて花嫁は花婿に引き寄せられるのです。

 

ところで、この「ヘンナ樹」ですが、へブル語では「コーフェル」(כֹּפֶר)と言います。ですから、新共同訳ではこれを「コフェルの花房」と訳しています。この「コーフェル」(כֹּפֶר)ということばは、創世記6章14節では「やに」とか「樹脂」表す「タール」と訳されています。また、詩篇49篇8節では、「贖いの代価」と訳されています。「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:8)この「贖いの代価」が「コーフェル」です。つまり、この「コーフェル」という語は、贖いという概念をもっているのです。ですから、ここで花嫁が花婿のことを「ヘンナ樹の花房」と言うとき、それは花嫁なる教会が花婿なるキリストの血によって贖い出された存在であることをも表しているのです。イエス様は私たちにとってヘンナ樹の花房なのです。ご自身の尊い血によって贖い出してくださいました。そのように麗しいお方であるからこそ、私たちはこの方を慕い求めるのです。

 

Ⅲ.私たちの家(15-17)

 

最後に15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」

これは、花婿が花嫁に語っていることばです。ここで花婿は花嫁に、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と言っています。皆さんは自分の奥さんにこんなことばかけたことがあるでしょうか。「ああ、あなたは美しい。わが愛する妻よ。」アメリカでは自分の気持ちを正直にことば表現しますが、日本人はことばで表現するのが苦手です。「あなたは私を愛しているの」と聞かれると「言わなくてもわかるでしょ」とか、「もうそんな年じゃないよ」などと言うのです。でもここで花婿は花嫁に対して「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と呼び掛けています。すごいですね。何がそんなに美しいのでしょうか。目です。

 

花婿はここで、「あなたの目は鳩」と言っています。ポッ、ポッ、ポッ、鳩ポッポです。「嫌だ!鳩なんて」と思われる方もいるかもしれませんが、鳩は美しいものを形容しているのです。それほど美しい、それほど清らかであるということです。目は人の心を映し出す鏡とも言われますから、あなたの目は鳩というとき、それは最高の誉めことばでもあるのです。あなたの目は「蛇」なんて言われたらどうでしょう。どうも人を惑わしそうなイメージがあって気持ち悪いですが、あなたの目は鳩と言われると、なんだか素直な人のようでうれしいいんじゃないですか。

 

興味深いことに鳩には、一夫一婦という習性があります。鳩ですから一雌一雄となるでしょうか、その人だけという習性です。その人だけをじっと見つめます。他の相手に目もくれません。その相手だけです。一生涯同じパートナーだけを見つめます。そのように花婿だけを一点に見つめる花嫁の一途な瞳に、花婿の心が奪われるのです。イエス様だけを見つめて離れない花嫁の目がどれほど麗しいかがわかります。

 

そして、何といっても聖書において鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、花婿があなたの目は鳩のようだというとき、それは単に私たちの目が鳩のように美しいというだけでなく、私たちの中に住まわれる聖霊様の聖さ、聖霊様の美しさを見ておられるのです。見た目が美しいということ以上に、その内側の美しさを見られるのです。なぜなら、あなたの内側には聖霊様がおられるからです。花婿であられる主イエスは私たちの醜さ、愚かさ、汚さを見るのではなく、私たちの内におられる聖霊様をみておられるのです。それを見て、あなたは美しい、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。ここにおられる方々にも同じように言われます。なぜなら、イエス様はあなたの内におられるご自身のいのちを見ておられるからです。

 

これが、主があなたを見られるときのまなざしです。主はあなたを見下げたり、白い目で見たり、けなしたりすることは全くありません。ただ誉めことばと励ましのことばだけです。私たちの目はかすんだり、曇ったりしていてそんなにきれいじゃありませんが、主はそんなあなたの目を見て、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。

 

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方。私たちの寝床も青々としています。私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは花嫁が花婿に歌っていることばです。「私たちの寝床も青々としています」彼女は花婿にほめられたことで、ますます彼を恋い慕っています。肉体的に感情的に燃えているのです。寝床が青々としているというのは、そのことを表現しています。別にベッドが青いということではありません。肉体が一体となることを求めているのです。これは詩篇23篇2節にもあります。「主は私をみどり牧場に付させ、いこいのみぎわに伴われます。」主は私を緑の牧場に付させるとは、その交わりの豊かさを表しているのです。

 

ではその家はどうでしょうか。花嫁はこう言っています。「私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは、私たちの家は最高の家であるということです。当時、杉の木は最高の建材でした。花婿と花嫁の家は、この杉の木でできていました。垂木とは、屋根の下地になる建材です。屋根の一番高い棟木から桁(けた)にかけて、斜めに取り付けられる部材のことです。屋根を拭く材料の重さによっても違いますが、和式の家の標準的な間隔は45㎝です。「屋根の善し悪しは垂木で決まる」と言われるほど重要な木です。その垂木が糸杉でできています。つまり、朽ち果てたボロ家ではないということです。欠陥住宅ではありません。しっかりとした作りで、安心して住める堅固な家です。いつ倒れるかわからないような心配もありません。これが、花婿が建ててくださる家です。

 

その家とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章1~3節をご覧ください。私たちの花婿であられるキリストは、私たちのためにこのような家を用意してくださると言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

すばらしいですね。私たちにはこのような家が用意されています。この地上にあっては、部屋が狭いとか、気密性が悪いとか、フローリングが剥がれるとか、害虫が入り込んでくるとか、不便なこともありますが、イエス様が私たちのために天に用意しておられる家は、完璧です。虫やさびで傷物になったり、泥棒が壁に穴を開けて盗みに入り込むこともありません。また、強風で倒れる心配があるような貧弱なものではなく、どんな嵐が襲ってきてもびくともしない堅固な家です。

 

それはかつて主がダビデに約束されたことでした。主はダビデにこう言われました。「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル記7:13) それはとこしえまでも堅く立つ王国、ダビデの子として生まれるキリストによって立てられる天の御国です。この家を用意してくださいました。これは杉の木でできた梁、糸杉でできた垂木の最高の家です。どんなに大きな嵐が襲ってきてもビクともすることがありません。これほど安心できる家はありません。私たちの愛する方は、私たちをこの家に導いてくださるのです。

 

であれば、私たちに求められていることは何でしょうか。それはこの花婿を慕い求めることです。鳩のように、花婿だけを見つめて生きることなのです。ダビデはこう言いました。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたは何を求めていますか。ダビデは、ただ一つのことを主に願いました。それはいのちの日の限り主の家に住むことです。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすためです。私たちも一つのことを求めましょう。いのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。これが花婿なるキリストが私たちに願っておられることです。あなたが花婿のために何をするかではなく、花婿があなたのために何をしてくださったのかということです。花婿なるキリストは、私たちのために一つの家を建ててくださいました。そして私たちがその家に住むために、私たちの罪を贖ってくださいました。十字架の上で。それゆえに、私たちは美しいと言っていただけるのです。

 

ですから、私たちに求められているのはこの花婿を慕い求め、見つめて離すことなく、主の家に住まうことです。そこで花婿なるキリストし親しい交わりを持つことなのです。ベッドも青々としています。それは杉の木の梁、糸杉の垂木でできた堅固な家です。この方と一つになることを求めましょう。主との交わりがさらに祝福され、豊かなものになりますように。

民数記7章

民数記7章

 

きょうは民数記の7章から学びます。まず1節から9節までをお読みします。

 

1.ささげ物(1-9)

 

「モーセは幕屋を設営し終えた日に、これに油注ぎをして、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具にもそうした。彼がそれらに油注ぎをして聖別したとき、イスラエルの族長たち、すなわち一族のかしらたちが近づいた。彼らは部族の長たちで、登録に当たった者たちである。彼らは自分たちのささげ物を主の前に持って来た。それは覆いのある台車六台と雄牛十二頭で、族長二人につき車一台、一人につき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に引いて来た。 すると主はモーセに告げられた。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」そこでモーセは台車と雄牛を受け取り、それをレビ人に与えた。ゲルション族には、その奉仕に応じて台車二台と雄牛四頭を与え、メラリ族には、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて、台車四台と雄牛八頭を与えた。しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものに関わる奉仕は、肩に担いで運ぶことだったからである。」

 

1節を見ると、「モーセは幕屋を設営し終えた日に」とあります。モーセが幕屋を建て終ったのは、イスラエルがエジプトを出てから二年目の、第一月の月の一日のことです。出エジプト記40章17節にそのように記録されてあります。それから一か月間、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から、彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。その後、神はモーセに人口調査をするように命じられました。それが民数記の最初に記されてあることです。それは彼らがエジプトを出て二年目の第二の月の一日のことです。それなのに、ここにはモーセが幕屋を建て終った日の話にさかのぼっています。いったいなぜでしょうか?おそらく二つの理由があったと考えられます。

 

第一のことは、モーセは幕屋を完成させましたが、これからイスラエルが約束の地に向かって進んでいく上で、何か足りないものでしょう。それは、イスラエルが旅をするときの運搬用具です。旅をするときには、幕屋を分解して運ばなければなりません。それを運ぶトラックが必要でした。そこで彼らは、その車とそれを引っ張る牛をささげるのです。それが7章に記されてある内容です。ですから、幕屋は完成して聖別したけれども、これから旅立つにあたって、今度はそれを運ぶトラックが必要になったことを、ここで振り返って記録しているのです。

 

もう一つの理由は、この7章はささげものについて記録されていると申し上げましたが、そのささげものについて記す前に、奉仕について記す前に、それに先行することがあったということを示すためです。それは何でしょうか?それは神の恵みであり、神の祝福です。6章の終わりのところには、アロンによる神の祝福のことばが述べられていました。それはイスラエルが何かをしたからではありません。彼らはただ自分を主にささげたので、主は彼らを祝福してくださいました。彼らが何かをしたから祝福されたのではなく、神が一方的に祝福したのです。これが神の祝福です。神は私たちが奉仕をしたから、献金をしたから祝福してくださるのではなく、その前に一方的に祝福してくださる方なのです。つまり、私たちの奉仕やささげものの前に神の恵みが先行するということです。そうした神の愛や恵み、祝福があるからそれに応答してささげるのです。それが私たちの奉仕です。その逆ではありません。ですから、ここに一か月さかのぼってイスラエルのささげ物について記されているのです。

 

それでは2節から9節までをご覧ください。イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたちがささげ物をしました。それは覆いのある台車6台と雄牛12頭で、族長2人につき車1台、1人につき牛1頭でした。族長2人で車1台ですから、車は全部で6台、族長1人につき牛1頭ですから12頭になります。それを幕屋の前に連れてきました。

 

すると主はモーセに告げて仰せられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(5)そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えました。

 

レビ族には三つの氏族がいました。ゲルション族、メラリ族、ケハテ族です。まずゲルション族には車2台と雄牛4頭です。車は全部で6台、雄牛は全部で12頭ありましたので、それを三つに分ければ車2台と雄牛4頭というのは妥当な数です。しかし、メラリ族はそうではありませんでした。メラリ族には車4台と雄牛8頭です。つまり残りの車と雄牛のすべてがメラリ族に与えられたのです。ということは、残りはゼロになります。ですから、ケハテ族には何も与えられませんでした。これはどういうことでしょうか?

 

私たちはこういう記事を読むと不公平ではないかと感じます。ある人たちはたくさん受けているのに自分たちはそうではないと不満になります。特に格差社会が広がっているような今日の社会においてはそのような傾向があります。たとえば、コロナで時短要請が出されたとき、これに協力した飲食店には一律の協力金が支払われましたが、店の規模によって経費も違うので一律というのはおかしいのではないかという不満が出ました。ここではその逆で一律ではないということでの不満です。これは本当に不公平なのでしょうか?

 

ここで鍵になる言葉は「その奉仕に応じて」(5,7,8,)という言葉です。これは奉仕に応じて与えられました。民数記4章を見ると、彼らの奉仕が割り当てられていたかがわかります。ゲルション族にはどのようなに奉仕が割り当てられましたか。彼らには幕屋の幕、会見の天幕とその覆い、その上にかけるじゅごんの皮の覆い、会見の天幕の入り口の垂れ幕、・・およびこれらに関するすべての奉仕」でした(4:25,26)。それはかなりの重量がありました。ですから、人力で運ぶのは大変だったのです。彼らの奉仕には車2台と牛4頭が必要でした。メラリ族はどうでしょう。彼らは幕で覆うところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されました(29-33)。彼らは幕屋の板や横木、台座といった重いものから、釘1本、ひも1本に至る小さな奉仕に至るまで行いました。ですから、もっと人手が必要でしたし、当然、車や牛といった運搬用具も必要だったのです。ではケハテ族はどうだったのでしょうか。ケハテ族に割り当てられていた奉仕は、最も聖なるものにかかわることでした。それは、聖所のすべての器具を運ぶというものでした(4:15)。それに触れてもいけませんでした。それに触れることがあると死んでしまうからです。ですから、それにかつぎ棒を通し、肩にかついで運ばなければならなかったのです。

 

Ⅱサムエル6章には、これとは違った方法で運んだ結果、神の怒りに触れて死んだ人の事件が記されてあります。そうです、ウザです。彼はダビデの命令によってユダのバアラから自分の町に神の箱を運び入れようとしました。それで彼らは、神の箱を新しい車に載せてアビナダブの家から運び出したのです。しかし、ナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして神の箱を押さえたところ、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はそのかたわらで死んでしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。それはこの民数記に書いてあるような方法によって運ばなかったことです。それは肩にかついで運ばなければなりませんでした。箱に触れて死なないためです。それなのに彼らはそれを新しい車に載せて運ぼうとしました。それが問題だったのです。

 

ですから、ケハテ族には車も牛も必要ありませんでした。幕屋の燭台以外はかつぎ棒を通して、肩にかついで運んだからです。それは不公平ではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。彼らはそれを肩にかつぐことが許されていたのですから。栄光の主に密着するかのようにして奉仕することができました。主の臨在をもっとも近く感じることができたのです。それは何よりも特別な奉仕でした。そんなにすばらしい特権は他にはありません。車や牛によってではなく、聖なるものに密着しながら歩むことができたからです。それは不公平どころかむしろ、人もうらやむようなすばらしい恵みだったのです。

 

このところから教えられことは、私たちクリスチャンにとっての幸いは何かということです。私たちにとっての幸いは、このように主と共に歩むことです。マタイの福音書8章20節のところでイエス様は、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言いました。これがイエス様の生き方でした。イエス様は物質に振り回されるような生き方ではなく、神と親密な関係を求めてシンプルに生きられたのです。時として車や牛がどれだけあるかということが、神との関係を阻害することがあります。この世の情報に振り回されることで、神が見えなくなってしまうことがあるのです。

 

最近、前中国大使だった韓国のクリスチャンでキム・ハジュン氏が書かれた「神の大使」と本を読みました。この本は、著者がどのように神に頼り、どのように祈りに答えられたかというご自分の体験をまとめられたものですが、最後のエピローグに「聖霊に従って歩む人生」というタイトルで、どうしたら聖霊に従って歩むことができるかについて述べておられます。その一つに「神お一人に集中してください」という項目があります。霊的な祈りをささげるためには、もう少し生活を単純化させる必要があるということです。あれもこれもではなく、この一事に励むということです。生活が少し単純になると、余計な考えが減り、もっと祈りやすくなります。この著者は中国大使という仕事でかなり忙しい日々でしたが、そのような中にあって祈ることができたのは、仕事と祈りだけに酋長していたからではないかと言っています。ドラマや映画、スポーツ中継を見ていたら、神に集中することは難しかったと思うと。しかし、彼は自分の本来の仕事と勉強、そして祈ることに集中していたので、そのほかのことはよくわからないが、祈りに集中できたと証しています。

 

これを読んで教えられたことは、私たちが神との関係を親密なものとしたいのであれば、シンプルに生きなければならないということです。この世のものに振り回されるのではなく、どうしても必要なものに心を留めて、そこに集中することです。神の国とその義とを第一にするなら、それに加えて必要なものは与えられるのです。ですから、神に集中できるように、シンプルに生きることです。

車や牛が与えられていてもいなくも、神の臨在が与えられていることを感謝して受け止める信仰が求められるのです。

 

 2.祭壇奉献(10-11)

 

次に10節と11節をご覧ください。「祭壇に油注ぎが行われた日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を献げた。族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前に近づけたとき、主はモーセに言われた。「族長たちは一日に一人ずつの割合で、祭壇奉献のために彼らのささげ物を献げなければならない。」」

 

幕屋が完成し祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を献げました。それは12節から終わりのところまでに記されていることですが、それは運搬用具の車や牛だけではなく、祭壇における奉仕に必要なものでした。

 11節を見ると、族長たちは一日にひとりずつの割合で、部族ごとにささげるようにと命じられました。なぜ一度に持ってくるようにしなかったのでしょうか?それは主が私たちのささげ物をしっかりと受け止めておられるからです。丁寧に、一日一日という間隔を空けて持って来ることによって、それを噛み締めるかのようにして受け取られたのです。私たちは効率主義の社会の中で動いていますが、そこでは一つの成果をあげるために、私たちの仕事がまるで機械のねじのように扱われることがあります。しかし、神の方法は違います。「わたしの弟子だということで、この小さい者たちのひとりに、水いっぱいでも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)。とあるように、私たちの一つ一つの小さな奉仕が、一滴のしずくのように感じるものでも、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになられるのです。その一つ一つの奉仕を覚えるためです。

 

3.主へのささげ物(12-89)

 

では、それぞれの部族はどのようにささげたでしょうか。12節から終わりまでを見てください。ここには、各部族の長たちが何をささげたのかが記されてあります。第一にささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションでした。そのささげ物は、銀の皿一つ、銀の鉢一つ、これらには穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした金のひしゃく、全焼のいけにえとして雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭、罪のためのいけにえとして雄山羊一頭、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭です。これがアビナダブの子ナフションのささげ物でした。

 

そして、それを各部族が毎日順番でもってくるのです。二日目は18節にありますが、イッサカルの部族、ツアルの子ネタンエルです。三日目は24節にあります。ゼブルン族の族長、ヘロンの子エリアブです。四日目は30節にありますが、ルベン族の族長、シェデウルの子エリツルです。五日目は36節、シメオン族の族長、ツリシャダイの子シェルミエルです。六日目は42節、ガドの族長、デウエルの子エルヤサフ、七日目は48節、エフライム族の族長、アミフデの子エリシャマ、八日目は、マナセ族の族長、ペダツルの子ガムリエルです。九日目は、ベニヤミン族の族長、ギデオニの子アビタン、十日目は、ダン族の族長アミシャダイの子アヒエゼル、十一日目は、アシェル族の族長、オクランの子パグイエル、そして十二日目は、ナフタリ族の族長、エナンの子アヒラです。

 

この箇所を読み進めながら非常に驚くことは、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、繰り返してささげ物の内容が記されていることです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節もあります。一番長いのは詩篇119篇ですが、詩篇119篇にはみことばに関するさまざまな事について書かれてあり、私たちの魂を潤わせる内容となっていますが、この章は、ただささげ物の内容が12回繰り返されているだけです。いったいなぜ同じことが何回も繰り返してあるのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。

 

第一のことは、主はささげることを大切にしておられるということです。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されているのは、神の目ではどんなに小さなささげものであっても、しっかりと記録されていることを教えるためです。

 

第二のことは、各部族はそれぞれ人数が異なるのに、同じささげ物がささげられていることに注目してください。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでも全く同じささげものがささげられました。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集め、他の部族がそれほど注目に値しないということではなく、主の前では、どの部族も覚えられ、主に栄光が帰せられているのです。こうして平等となり、調和が保たれているのです。これは旧約のイスラエルの時代だけでなく、新約の時代も、あるいは今の時代にも適用できる原則です。それが十分の一の原則です。十分の一とは何でしょうか。それは私たちに与えられている財産のすべては神のものであるという信仰の表明として、それを十分の一ささげることによって表しました。新約の時代に生きる者としてこうした律法に縛られる必要はありませんが、これは律法が制定される前にすでに存在していた神の原則なのです。創世記14章20節を見ると、アブラハムはサレムの王メルキデゼクに戦利品の十分の一をささげたとあります。それは律法が制定される以前の話です。神は私たちがどれだけささげたかということではなく、どのような割合でささげたのかをご覧になられます。レプタ銅貨2枚をささげたやもめには、彼女は他のだれよりも多くささげたと称賛しました。多く集めた人も少なく集めた人も余ることがなく、また足りないことがないように、神は十分の一という原則を定めてささげることを願っておられるのです。

 

パウロはこう言っています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。多く集めた物も余るところがなく、少し集めた物も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。」(Ⅱコリント8:14)

 

私たちも自分に与えられたものは神のものであって、それを神に喜んでお返しするために、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに、喜んで主にささげるものでありたいと思います。主は喜んでささげ人を愛してくださるのです。

 

84節以降は、12部族のささげ物の合計が記されてあります。ここには12という数字と7という数字になっていることに注目してください。完全なお方にふさわしく、それぞれの合計が完全数になっています。

 

89節には、「モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」とあります。これらのささげ物がささげられた後で、主の御声がモーセにあったのは、民がささげた物を、主が受け入れられたということを表しています。モーセやアロン、そしてイスラエルの民にとって、それは大きな喜びであったに違いありません。さらに、このことによって、民がシナイの荒野を出発する日が近づいていることを知らされたのではないかと思います。

 

私たちも主イエスの贖いによって神と親しく交わる道が開かれました。約束の聖霊が与えられ、霊とまことによって礼拝することができるようになりました。それによって私たちは主の御声を聞き、賛美と感謝をささげ、神の知恵と力によって前進していくことができるようになりました。何という恵みでしょうか。

時には主の御声が聞こえないとい時があるかもしれません。しかし主は、その沈黙を通しても私たちに語りかけてくださいます。私たちの罪が贖われ、神と親しく交わることが許され、主を礼拝することによって主の御声を聞くことができるようになったのですから。今、あなたも出発するときです。主の御声を聞きながら、この人生の荒野を前進していこうではありませんか。

民数記1章

2021年2月24日(水)バイブル・カフェ

民数記1章

 

 きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのは、イスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

 

Ⅰコリント10章は、この民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためでふり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったでしょうか。結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと共に約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離でしたが、、彼らは40年も荒野を彷徨うことになってしまいました。なぜてしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができず、不従順であったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には、モーセが12人の偵察隊を送ったとき、彼らは「敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできない」と言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやきました。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければならなかったのです。

それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの人生にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その結果が決まるのです。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

 

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族が誕生したのです。

 

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

 

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求めてられていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していました。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

 

その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどです。その戦いにどのように勝利することができるのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

 

  1. 人口調査(1-16)

 

まず1~16節までをご覧ください1節には、「1 人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間は、イスラエルの民をシナイ山へと導き、そこで神の戒め、十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセは今、そのシナイ山のふもとにある会見の天幕にいます。

 

出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があるのがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ記1:1)。その内容がレビ記です。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発するのです。その旅の準備が12章まで語られます。

 

その準備の最初にしたことはどんなことだったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。 「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

 

ここで、神はモーセにイスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためでした。戦うためには軍隊を整えなければならなかったのです。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければなりませんでした。それで部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

 

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯も悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり、そして教会から出て、この世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために、神のすべての武具を身に着けなければなりません。

 

 そのために選ばれたのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者たちが選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われています。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにというに召された者たちだったのです。

 

  1. 神に数えられている民(17-46)

 

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

 

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えないのです。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンなのかどうかどうかがわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンであるということがわからないと戦うことができないのです。戦うためにはまず、自分が神の民とされたということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければなりません。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか真剣に祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。神の働きをしていくためには、あなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせる必要があるのです。そうでないと良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

 

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にする必要があるということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神なのです。一定の組織に加わっていることは、自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時、もしどこに加わっているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示にだけ従うというのは、聞こえがいいみたいですが、勝手気ままで、無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあります。報告責任と言いますが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼で戦うことはできないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北するためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

 

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

 

その大きな理由の一つは、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときには、たった70人しかいませんでした。それから約430年の歳月が経った今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上、その他を含めると300万人以上に増えました。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されましたが、はたしてそのようになっているのです。 このことを見るとき、私たちは励ましを受けるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

 

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士として数えられなければいけませんでした。だれが兵士であるのかを、主が数えておられたのです。主は、だれが戦うのかをご自分で知っておられ、その者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられるのです。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会なのか、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するためではなく祈るためです。だれが出席しているのか、だれが休んだのかを数えることによって、そのために祈っていくのです。教会が神の家族であれば、当然いるべき人がいなければ心配になるでしょう。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに覚え、互いに祈り合っていかなければなりません。そのために数えるのです。だれが来たかなんて関係ない。自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰になってしまいます。互いにいたわり合い、互いに助け合い、互いに支え合っていくことが求められます。そのために数えるのです。

 

 Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分がいかに優れているのか見せ、自分の力に頼らせようとしました。それは主のみこころを損なわせました。それで主のさばきが下ったのです。疫病によって7万人のいのちが奪われました。

 

ですから、このような動機で数えるのは罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではありません。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切です。だから、数を数える時にはその動機に注意し、バランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織して荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

 

  1. レビ族について(47-53)

 

 最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここには、レビ人について説明されています。「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。 「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。 イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

 しかし、レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。彼らには他の部族とは異なる務めが与えられていたのです。神の幕屋に関する務めです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。

 

 これは、今日の牧師の務めとも言えます。信じるすべての者が、主イエスによって生ける神に近づくことができるようになった今、奉仕に関してここまでの明確な境界線はないかもしれません。それどころか、たとえば牧師と信徒、男女の違いなどによる務めの境界線は、なくなってきているとさえ言えるかもしれません。

 けれども、建てられた牧師は、社会で戦っている愛する方々のために心を込めて祈り、社会で戦っている信徒も、牧師や役員のために祈り、仕えるという構図は同じです。そうして、それぞれに与えられた異なる務めを理解しながら、共に主に仕え、前進していくのです。

 

イスラエルの民は、このようにして、すべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために、軍隊を組織して出て行ったのです。それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。

知恵は人を成功させる 伝道者の書10章1~11節

2021年2月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書10章1~11節(旧約P1151)

タイトル:「知恵は人を成功させる」

 

 伝道者の書10章に入ります。8章1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者ソロモンは、どのような人が知恵のある人なのかを、そうでない者、すなわち愚かな者との対比によって語ってきました。日の下で行われる一切のわざを見る限り、そこに見られる様々な不条理に、食べて飲んで楽しむよりほかに人にとって何の幸いもないのではないかと思える中で、彼は、すべてが神のみわざであることに気付かされます(8:17)。それがどういうことなのか、人がどんなに労苦して探し求めても、見極めることはできません。けれども、すべてが神のみわざなのです。そのことに気付くのです。

 

 しかし、すべての人に同じ結末が起こるのを見ると、同じ結末というのは死ぬということですが、やはり生きていることにどんな意味があるのだろうかと疑問を抱きます(9:2)。けれども、生きていること自体に意味があります。生きている犬は死んだ獅子にまさる(9:4)。生きているからこそ悔い改めて、神に立ち返ることができます。イエス・キリストを救い主として信じることができます。そして、神の恵みの中で、神が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝して生きることができるわけです。死んでしまったらそれも叶いません。

 

ですから、確かにこの地上の営みを見ると、そこにある様々な不条理に空しさを感じることもありますが、神の知恵は力にまさるのです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれます。一方、知恵がないとすべてをぶち壊してしまうことになります。今日は、その続きです。知恵は人を成功させるということです。

 

Ⅰ.少しの愚かさはすべてを台無しにする(1-4)

 

 まず、1~4節をご覧ください。「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」

 

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。」伝道者は9章18節で語った「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す」ということを、たとえで説明しています。良き物全体が、少しの愚かさによって台無しにしてしまうということです。たとえばここに調香師が調合した高価な香油があるとして、そこに一匹のハエが飛び込んで、死んでしまったとしたらどうでしょう。香油は悪臭を放ち、発酵し始めます。そんな香油をだれが使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。そのように、人間の評判も少しの愚かさで取り返しがつかないほど失墜してしまいます。それまでの業績や名声は、少しの失言や過ちによって台無しになってしまうのです。今巷を騒がせている女性蔑視発言もその一つでしょう。女性の話は長いと言っただけで、東京オリンピック・パラリンピックの組織の長が辞任することになりました。それに輪をかけるように、新たに就任した組織委員長を擁護しようとして発した「男勝り」ということばが破門を起こしました。一匹の死んだハエが、高価な香油全体をくさせてしまうのです。

 

2節には、「知恵のある者の心は右を向く。愚か者は左を向く」とあります。「右」とは正しい方向を指し、「左」とは悪の方向を指しています。創造訳聖書は「知恵のある人の心は、正しい道に行き、愚かな者の心は、悪の道に行く」と訳しています。知恵のある者の心は、自然に正しい方向に向かいますが、愚かな者の心は、悪い方に向かうのです。

 

3節には、「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とあります。これは恐ろしいですね。愚か者はただ道を行く時でさえ、自分が愚かであることを皆に言いふらすというのです。「この人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ったり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するのです。

 

4節をご覧ください。ここには「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とあります。これは、あなたの上に立つ人があなたに対して腹を立てるようなことがあっても、あなたはそこから離れてはならないということです。ではどうすれば良いのでしょうか?

 

そのためにはまず冷静になることです。冷静であれば、大きな罪は離れて行くことになります。つまり冷静になり、支配者の前で低くなり、ひたすら謝るなら、支配者からそれ以上の怒りを買うことはなくなるということです。これは結婚関係にも言えることですし、どのような関係にも言えることです。私たちはだれか支配者のような立場にある人から怒られるとすぐにカッとなってその場を離れようとする傾向がありますが、それはよくないことです。そのような時にはまず冷静になることが求められます。まあ、冷静になれるようであれば最初から問題も大きくならないと思いますが、問題はなかなか冷静になれないことです。すぐにカッとなってその場を離れようとします。些細なことでイライラし、怒りをぶちまけようとします。たとえば、車を運転している時に、前の車が遅かったりすると我慢できなくなって、カッとなってしまいます。「何だろう、40キロかよ。ここは50キロでしょ。何とかしてほしい・・」近年、あおり運転が問題になっていますが、そうしたニュースをみるとドキッとすることがあります。いつ自分がそうなってもおかしくないんじゃないか・・・と。だから自分はできるだけ車のハンドルを握らないようにしているというか、用がない限り運転しないようにしています。でも一番いいのは冷静でいることです。

 

箴言29章11節には「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)とあります。この御言葉は、怒りやすい人は愚かな人であると教えています。箴言というのは、「安全に生きるためのマニュアル」です。聖書の時代の人たちは、隣人と争えば、命がけの戦争に巻き込まれてしまう可能性がありました。ですから、「どのようにすれば平和に生きることができるか」を、箴言から学んでいたわけです。箴言は、人間関係のマニュアルです。その箴言で言っていることは、「愚か者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれをおさめる」ということです。知恵のある者になりたいてだすね。

 

その箴言の別の個所には、こうあります。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言25:28)

この聖句は、頭に血が上った時に思い出すべきものです。「ああ、今の私は城壁の壊れた、防御不能の町のようだ」と思えば、ちょっとは冷静になれるでしょう。現代人にも、平安な生活のためのマニュアルが必要です。怒りやすい人は、例外なしに人間関係の問題を抱えています。「怒りやすい人は愚かな人だ」ということを、思い出す必要があります。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。アンガーマネージメントという怒りの感情をコントロールするノウハウが日本でも紹介されていますが、その中に「6秒ルール」と呼ばれるものがあります。この「6秒ルール」というのは、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されています。そのことによってより興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうらしいのです。しかしこのアドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われていて、つまりその最初の6秒間を我慢してやり過ごすことができれば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。だれかがあなたに腹を立てても、それにすぐに反応するのではなく6秒間待つのです。一番簡単な方法は、心の中で6秒数えるというものです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けることができます。他にも「朝からの行動を順番に思い出してみる」とか、目に見えているものの名前、例えば、時計とか、本棚とか、パソコンとかを一つずつ心の中で読み上げる、などといったことも有効です。自分なりに「カッとなったらまずはこうする」というルールを作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防ぐことができるというのです。これは冷静であるためにはどうしたら良いのかを教える一つの助けになるでしょう。でも、怒りをおさめることは簡単なことではありません。どうすれば良いのでしょうか。自分はすぐに怒ってしまう愚かな者であると認め、それを悔い改めて、神に立ち返ることです。

 

そこが聖書のすばらしいところだと思います。私たち人間は本当に愚かな者で、すぐに左の方に行ってしまいます。冷静でいなければならないと分かっていても瞬間湯沸し器のようにすぐにカッとなってしまい、つまずいてしまいます。少しの愚かさどころか多くの愚かさによって、人生を台無しにしてしまうような者なのです。このような者に救いはあるのでしょうか。あります。それがイエス・キリストが来られた目的です。もしあなたがそのことを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、あなたは何度でもやり直すことができます。それが、聖書が語っている主要なモチーフです。

 

ヨシュア記20章2節には、次のような御言葉があります。「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。」

ここに「逃れの町」が出てきます。これはイスラエルがカナンを制圧した直後に、主がヨシュアに語られたことです。この「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者がそこに逃げ込むためなら、その人は仇討ちから免れ、罰を受けずに済むようになるためのものでした。イスラエル全体に6箇所定められていましたが、それは、だれでも、どこにいても逃げ込むことができるためでした。

 

なぜ神はこの逃れの町を制定されたのでしょうか。それはこの町の存在そのものが、神の本質を表していたからです。つまり神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁きに向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であられるということです。そういう愛のお方なのです。よく「神は愛なり」と言いますが、その「愛」とはどういうものなのでしょうか。神はこの逃れの町の制定によって具体的に愛するとはどういうことなのかを教えようとされたのです。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかということを神は知り尽くし、深く理解しておられるということです。逃れの町を作られた第一の理由は、ここにありました。

 

アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーは、南北戦争の最中、自分の家族や側近者たちがこぞって南部の人たちを非難し、悪しざまに言うのを聞いて、「あまり悪く言うのはよしなさい。われわれだって立場を変えれば、きっと南部の人たちのようになるのだから。」と言いました。

リンカーンは、常に、盗人にも五部の理があるのを認め、断罪しない人物でした。相手の立場を見ることができました。その人にはその人なりの理由があるということを常に理解しようと努めたのです。彼の深い人間理解の故に、リンカーンは多くの人々に慕われ、今もなお尊敬され続けているのです。

 

へブル4章15~16節に、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは私たち人間の弱さをすべて思いやることがおできになります。なぜなら、キリストご自身が罪は犯されませんでしたが、あらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解しておられるのです。だから、私たちは安心して、折にかなった助けを受けるために、恵みの御座に近づくことができるのです。

 

ですから、この逃れの町が制定された目的は、愛の神が、誤った人々をもう一度立ち直らせるためであったということです。それが、聖書全体が語っている主要なモチーフなのです。すなわち、あなたはやり直すことができるということです。そのような実例を聖書から上げようと思えばきりがありません。モーセにしても、ダビデにしても、ペテロにしても、パウロにしても、皆神の赦しを体験し、信仰によって立ちあがった人たちです。それは神の愛に由来しています。パウロのように、ペテロのように、キリストは人々が立ち直り、やり直すことを願っておられるのです。神が用いられる人とは、何の過ちや欠点のない完璧な人ではなく、とりもなおさず失敗や過ちを悔い改めてやり直った人々であり、その人の失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いられるのです。

 

イエス様の宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これを現在の私たちの言葉で言い直すならば、「あなたはもう一度やり直すことができる。もう一度やりなおしなさい。」というメッセージなのです。そのためにキリストは十字架に掛かって死んでくださいました。私たちを失敗させ間違いを犯させる罪を打ち砕き、その罪から解放してくださるためです。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直すことができる道筋です。ところが、多くの人はそれを知りません。環境を変え、場所を変えればやり直すことができるのではないかと考えるのです。しかし、それは錯覚であり無駄なことです。なぜなら、あなたの人生をやり直すことができる唯一の道は、十字架の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵みを受け入れることだからです。キリストにあってすべての罪が洗い清められ、悪魔の力が粉砕されることによってのみ、私たちはもう一度新しくやり直すことかできるのです。

 

ですから、私たちは本当に愚かな者で、すぐにカッとなってその場を離れとしまう者ですが、そんな者でも神に深く愛されていることを覚え、悔い改めて、神に立ち返っていただきたいのです。そして、キリストとともに聖霊の力によって再スタートをきっていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.権力者から出る過失(5-7)

 

次に、5~7節までをご覧ください。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。」

 

伝道者が日の下で見たもう一つの悪は、権力者から出る過失のようなものでした。権力者に部下を見る目がないということです。その結果、資格も能力のない者が高い地位につけられたり、逆に、能力のある者が、雑務をこなすだけに時間を費やすということが起こるのです。また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くということが起こります。馬に乗るとは高い地位に着くということです。また、地を歩くとは、低い地位に下ろされるということです。権力者たちが見方を誤ると、このような結果となります。少しの愚かさが、大きな結果をもたらすことになります。人をどのように見るのか、その小さな知恵が、全く逆の結果をもたらすことになるのです。

 

ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は、こう言いました。「彼らが当然そうあるべきように、人々を扱いなさい。そうすればあなたは、彼らがそうあるべきものになるのを助けることになるだろう」これは、人を育てる時の大原則です。彼らが当然そうあるべきものになるように助けるのです。

この原則を、教育の現場で実践した人がいます。物理学者の大学教授フロイド・ベーカー博士です。彼は、学期初めにいつも学生たちに言いました。私は勉強しない学生は好きではない。だからキミたちは全力を尽くして頑張らなければならない。念のために言っておくが、キミたちのうち50%はパスしないだろう。それが、自分にならないように気をつけたまえ!」

不思議なことに、彼の予想は常に実現しました。つまり50%の学生が、いつも落第したのです。そして仲間の大学教授とは、最も落第生を多く出した者が最も優秀な教授なのだ、と言い合っていました。

そんな時彼は、妻と一緒に教会に通い始めました。聖書を読むうちに自分の学生たちをみる目が、いかに間違ったものであったかを知るようになります。そして、コリント人への手紙第一13章を読んでいる時、自分は愛のない教授であることを悟ります。

それから、彼の学生たちに対する態度が変わりました。彼は、学生たちに向かってこう言いました。「私は、キミたち全ての者がパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見ることが私の職務なのだ。課題は難しい。しかし、キミたちなら必ずパスできるはずだ。」

するどうでしょう。この後、クラスの雰囲気が以前のものとは違ったものになりました。そして学生たちは、全員がパスしたのです。Cを取った学生もいましたが、多くの者はBかAの成績を取ったのです。

どのように人を見るかです。その見方を誤ると、とんでもないような結果となってしまいます。教育の目的は、生徒を傷つけることではなく、生徒を信じて期待し、その可能性を掘り起こしてやることなのです。「愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)

少しの愚かさが残念な結果をもたらすことがないように、知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストに信頼し、神から知恵をいただいて、神のみこころに歩みたいと思います

 

Ⅲ.知恵は人を成功させる(8-11)

 

第三のことは、知恵は人を成功させるということです。8~11節までをご覧ください。「穴を掘る者

は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」

 

ここにも、少しの愚かさが、どんなに大きな危険をもたらすかが語られています。8節と9節には、「穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。」とあります。穴を掘る者がそこに落ち込み、石垣を崩す者が、そこにいる蛇にかまれ、石を切り出す者が、その石に押しつぶされ、材木を切り出す者が、その木で危険にさらされるということがあるということです。しかし、知恵はこのような危険から守ってくれます。

 

10節には「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」とあります。斧がよく切れなければ、刃を研がないと、もっと多くの力を要することになります。余分な労力が必要になるということです。しかし、刃を研ぐなら、その時間が無駄であるかのように思われますが、必ず報われることになります。道具を整えないのは愚かなことです。知恵は人を成功させるのに益になるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。斧を研いでいますか。よりよく神に仕えるために、自分の能力のどの部分を高めたらよいかを考え、それを高めるための努力をしているでしょうか。それとも、鈍くなった斧で切ってはいないでしょうか。「Oh, No!」なんて。鈍い斧のままでは、時間とエネルギーが無駄になるだけです。まずは自分という道具を磨かなければなりません。それが知恵です。どうやったら自分を磨くことができるのでしょうか。

 

ローマ人への手紙5章3~5節に、次のようにあります。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

何が希望を生み出すのでしょうか。練られた品性です。では練られた品性は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。忍耐です。その忍耐は苦難によって生み出されます。そうです、自分という斧が磨かれるためには、神が与えてくださる苦難とか試練を忍耐することが求められます。試練こそその人が成長するための最も大きな糧なのです。

 

あるご婦人が、スイスを旅行した時のことです。散歩の途中に山腹にある羊の囲いの所に来たとき、中を覗いて見ると羊飼いがいて、彼の周りに沢山の羊がいました。ところが一匹の羊が、群れから離れて横に倒れて苦しんでいました。彼女は、羊飼いに声をかけました。

「あの羊はどうして倒れているのですか」

「あの羊は、足が折れているんです」

「どうして足が折れたのですか」と聞くと、

「私がわざと折ったのです」と、答えました。

彼女はびっくりして、「どうしてそんな可哀想なことをしたのですか」と尋ねると、羊飼いはその理由を説明してくれました。

「ミセス、私の羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんです。私の声に、絶対に従いません。そして危ない崖の上や、深い藪の中に勝手にどんどん入って行くのです。そして自分が行くだけでなく、他の羊も惑わして道連れにしてしまうんです。だから私は、この羊の性質を直すために、この羊の命を救うためにこの羊の足を折ったのです。今では、すっかり従順な羊になりました。私の手から餌を食べ、私の手を舐め、私に寄り添ってくるんです。まもなく足も回復するでしょう。そうしたらこの羊は、今度は他の羊の模範となるでしょう。仲間を惑わす代わりに、迷った仲間を連れ戻すでしょう。その時、私がこの羊の足を折った目的が達成されるのです」

私たちは迷える子羊です。そんな者が研がれるために、神は試練を与えられるのです。その試練を通し

て私たちは、謙遜や忍耐や従順といった練られた品性を身に着けるのです。

 

詩篇の記者は、こう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちは、試練を通して神のおきてを学びます。それによって成長いくのです。ですから、試練に出会って、そこから出てくるたびに、私たちの心の中に人生の真実を求める心が大きくなっていきます。そして、以前の自分よりも今の自分の方が、よりイエス様を愛するようになります。よりイエス様を愛しているなら、私たちは確実に成長しているのです。これが神の知恵です。あなたはこの知恵を働かせていますか。知恵を働かせることが、成功に至る鍵です。

 

しかし、もう一つのことがあります。それが11節の御言葉です。「もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」どういうことでしょうか。口語訳には「蛇がもし呪文をかけられる前に、かみつけば、蛇使いは益がない。」と訳されています。ここでは物事を行うタイミングの重要性を教えています。蛇に呪文をかける前に蛇がかみつけば、蛇使いの存在価値はなくなってしまいます。そのように、成すべきこととその方法を知っていても、タイミングを逃すなら、その人は何の役にも立ちません。これが知恵です。

 

知恵は、人を成功させるのに益になります。少しの愚かさがすべてを台無しにします。どのように人を見るかによって、その結果も違ってきます。私たちの日常生活でも常に危険が潜んでいます。そのような人生の中で成功に導くのは神の知恵です。斧が鈍くなったら、刃を研がなければなりません。もし蛇がまじないをかけられる前に、かみつけば、蛇使いに何の益にもならないのです。自分に与えられた賜物を磨き、開発する知恵も求められます。またそのタイミングを見極める知恵も必要です。知恵は人を成功させるのに益になります。私たちは矛盾したこの世に生きていますが、この神の知恵によって、最後まで信仰を貫き、忠実に主にお従いしたいと思います。

伝道者の書9章11~18節 知恵は力にまさる

2021年2月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章11~18節(旧約P1150)

タイトル:「知恵は力にまさる」

 

 今日は、9章後半の箇所から「知恵は力にまさる」というタイトルでお話しします。前回の9章前半のところで伝道者は、すべての人に臨む死の問題を取り上げ、すべての人が死人のところに行くのであれば、生きていることに何の意味もないのではないかと問いかける中で、しかし、人には拠り所があることに気付かされます。生きている犬は死んだ獅子にまさるのです。どんなに偉大なライオンであっても死んでしまったら何の力もないように、生きていること自体に意味があります。生きている限りまだ望みがあるのです。救い主を信じて永遠のいのちを持つことができます。そして、その神のいのち、神の与えてくださる一つ一つの恵みを楽しむことができるのです。どんな恵みですか。それはパンやぶどう酒といった日ごとの糧もそうですし、ここには「あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい」とありますが、それぞれの伴侶もまた、神が与えてくださった恵みなのです。だからあなたはいつも白い衣を着よ、頭には油を絶やしてはならない、とあるのです(9:8)。「白い衣」とは祭りの装いのことでしたね。油は喜びの象徴です。ですから、私たちに与えられたこの地上でのいのちの日の間に救い主イエス・キリストを信じ、神が与えてくださった一つ一つの恵みを楽しめばいいのです。

 

今日はその続きです。伝道者が再び、日の下で行われていることを見て、その不条理に空しさを感じるわけですが、その中で知恵について三つのことを見出します。第一に、すべてのことに神の時があるということです。しかも、人は自分の時を知らないのです。であれば、その時を支配しておられる神にすべてをゆだね、たとえ問題にぶつかったとしても、神に信頼して祈るべきです。第二に、知恵は力にまさりますが、その知恵さえ蔑まれることがあるということです。その知恵とはだれのことでしょうか。イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れるために十字架に掛かって死んでくださったにもかかわらず、人々はこのキリストの愛を受け入れず、信じることもせず、自分勝手な道に進みました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、十字架のことばは、滅びる人たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)ですから、第三のことは、この十字架のことばに信頼し、このことばに従いましょう、ということです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の支配者の叫びよりもよく聞かれるのです。

 

Ⅰ.人は自分の時を知らない(11-12)

 

 まず、11~12節をご覧ください。「私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。」

 

伝道者が再び日の下を見ると、そこにもう一つの不条理があるのを見ました。それは、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇士の者でもない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない、ということです。

 

「競争は足の速い人のものではなく」そうですね、足が速い人が、必ずしも競争に勝つかというとそうでもありません。今年の7月に延期になった東京オリンピック、開催されるかどうか微妙な状況ですが、たとえば、世界記録を持っているアスリートがオリンピックで必ずしも金メダルをとれるかというとそうとは限りません。思わぬハプニングが生じることがあるからです。

 

「戦いは勇士のものではない。」それでは、勇敢な兵士がいれば戦いに勝てるのかというと、そうでもありません。私は大河ドラマが好きでよく観ていますが、前回は「麒麟が来る」の最終回でした。戦国時代の武将たちを見ると、必ずしも力のある武将が天下を取ったかというとそうではありません。たとえば、武田信玄はその一人でしょう。「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で、徳川軍を撃破すると、いよいよ織田信長の本拠地・尾張に攻め入ろうとした時、持病が悪化し、やむなく撤退を決めます。1572(元亀3年)年4月、武田信玄は病気が回復することなく、甲斐へ戻る途上で53歳の生涯を閉じました。戦国最強と謳われ、天下の織田信長を恐れさせながらも、天下を取ることは叶いませんでした。あの時、武田信玄が病気にならなかったら、歴史は代わっていたかもしれません。

 

「パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知恵のある人のものではない。」そうですよね、知恵があるからといって、裕福になるわけではないし、悟りがあるからといって、事業に成功するわけでもありません。「愛顧」とは、口語訳では「恵み」と訳しています。新共同訳では「好意」と訳していますね。「知識があるといって好意をもたれるのでもない。」と。そうですね、知恵があれば好意を持たれるかというとそうでもなく、逆に煙たがれることもあります。

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。「すべての人が時と機会に出会うからだ」。どういうことでしょうか。すべての人が時と機会に出会うからだとは。これはすでに3章で言われてきたことです。3章1節に「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とあります。たとえば、生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時があります。この時と機会に恵まれなければ、成功することはできません。どんなに力があっても、どんなに知恵や悟りがあっても、必ずしも成功するとは限らないのです。問題は、人は自分の時を知らないということです。12節には、「しかも、人は自分の時を知らない」とあります。残念ながら、人はその時を知りません。魚が網にかかるように、また、鳥が罠にかかるように、人の子らにも、突如として試練や不幸が襲いかかることがあるのです。そのようにして人はわざわいの時に捕らえられ、最後は死を迎えることになります。それはあんまりではありませんか。しかし、それが私たちの人生なのです。であれば、私たちはそのような不確かな世界にあってどのように生きれば良いのでしょうか。この時と機会を支配しておられる神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈るべきです。

 

私たちクリスチャンは、神の許しなしには何も起こらないと信じています。また、神の愛に応答して全力で生きることが、神に喜ばれることであることも知っています。ですから、この神の主権を認め、神を恐れて生きればいいのです。そうすれば、何も恐れることはありません。すべての出来事は神の御手、神の摂理の中で起こりますが、神はすべての出来事の中に働いて益としてくださるからです。すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るならば、すべてのことが自分にとって最善となるのです。

 

主イエスは弟子たちを伝道に遣わされる際に、そこで遭遇するであろう様々な迫害に対して、どのように対処したらよいかを次のように教えられました。マタイ10章28~33節です。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ10:28-33)

 

有名なみことばですね、「そんな雀の一羽でさえ」。そんな雀の一羽でさえ、神の許しなしに地に落ちることはありません。そんな雀とはどんな雀なのかというと、ここに、二羽の雀が一アサリオンで売られているではありませんか、とありますね。一アサリオンというのはお金の単位ですが、当時の労働者の一日の賃金相当の額でした。そうですね、仮に時給1,000円とすると一日8,000円ですが、この十六分の一ですから、500円ということになります。そうすると一羽の雀の値段はその半分となりますから250円なのですが、そもそも雀は一羽では売りものにならないのです。二羽セットにしないと商品価値がありませんでした。「一羽の雀」とはそのように値がつかないくらい安いもの、価値の低いものを表しています。そんな一羽の雀でも、「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃったのです。つまり天の父である神様は、一羽では売り物にならないような全く無価値な雀でさえ、見守っておられ、心に留めておられるのです。であれば、勧めよりも価値があるあなたのために、神が何もしてくださらないということがあるでしょうか。私たちは自分のことを、全く価値がないとか、無力な者だと思っているかもしれません。自分の周囲には、立派な人がたくさんいて、あれも出来る、これも出来ると、いろいろな意味で恵まれている人が沢山いるのに、自分はその人たちに比べて何も出来ない、何もとりえがないと思っているかもしれない。あるいは、以前は自分もあれも出来たのにこれも出来たのに、社会の中である地位や役割を持っていたのに、年を取ってきて、あるいは病気になってしまったために、その地位や役割を失ってしまった、社会の人々の役に立たない者、むしろ迷惑をかける者になってしまったと思っている人もいるかもしれません。自分なんていなくなった方が世の中のためなのではないかと思っているかもしれません。私たちはそのように自分に自信が持てなくなり、無力感に苛まれ、生きている価値がないように思ってしまうことがあります。そういう私たちにイエス様はここで、神は一羽の雀さえも心に留め、見守っておられると言われたのです。

 

それは雀だけではありません。あなたの髪の毛のことも考えてみなさい、というわけです。30節には「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」とあります。一本残らず数えられているのです。私たちは自分の髪の毛の数などありません。数えきれないのです。「ああ、また抜けたなぁ」とか、「大分少なくなってきたなあ」ということくらいはわかりますが、何本あるかなんて数えられません。しかし、神様はその数まで数えておられるというのです。つまり、私たちが自分のことを分かっていると思っている以上に神様は私たちのすべてのことを知っておられるということです。それだけしっかりと私たちのことを見ておられ、関心を持っておられ、私たちに関わろうとしておられるのです。だから、恐れることはないのです。問題は、あなたがこのすべてを支配しておられる神を認め、神を恐れて生きているかということです。あなたがこの神を認めるなら、神によってあなたも認められます。しかし、もし認めないなら、神に認められることもありません。人生の不条理の人生の中で神を恨み、人生を呪い、不平不満を言いながら生きるのではなく、神を認め、すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るべきです。そうすれば、すべてのことがあなたにとって最善となるのです。信じますか。

 

2014年10月号のリビングライフの中に、こんな証が載っています。白血病で闘病中の子どもがいました。その子の親はイエス様を信じていませんでした。ある日、教会学校の教師が子どもたちに「神様に送る手紙」を書かせました。そして子どもたちに「神様が住んでいるところは住所がなくて配達できないから、私が預かっておいて後から渡しますね」と伝えました。2,3年後、結婚して家の整理をしていたその教師は、子どもたちの手紙を見つけました。その中に、白血病を患って亡くなってしまったその子の手紙もありました。そこにはこのように書かれてありました。

「神様、ぼくは今、本当に痛くて死にそうです。でも、ぼくは自分よりもお父さんの方がかわいそうです。ぼくのせいで毎日やけ酒ばかり飲んでいるからです。ぼくは死んだら天国に行くけれど、お父さんはイエス様を信じていないので天国に行けません。神様!お父さんがイエス様に出会って救われて天国に行けますように。」

教師は子どもの家を探してその手紙を父親に渡しました。死んだ息子の手紙を、涙を流しながら読んでいた父親は、その場にひざまずいて叫びました。「神様、私を赦してください。あの子は今頃天国で私のために祈っているはずです。父である私が信じて救われてこそ、あの子の祈りが答えられるのではないでしょうか。私は、イエス様を信じます。」驚くべき救いのみわざが成し遂げられたのです。(リビングライフ、2014年10月号、P95「ついに答えられた祈り」)

 

私たちも様々な問題にぶつかることがあります。どうしてこのようなことが起こるのかわからないというような出来事に遭遇します。しかし、それがどういうことなのかがわからなくても、神はすべてをご存知であられます。すべてのことには定まった神の時があり、天の下のすべての営みには神の時があります。この神の主権を認め、すべてを神にゆだねて祈るとき、神があなたの人生にご介入くださり、ご自身のみわざをなさってくださいます。そう信じて、神に祈り続けましょう。

 

Ⅱ.知恵は力にまさる(13-16)

 

次に、13~16節までをご覧ください。「私はまた、知恵について、日の下でこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」

 

伝道者はまた、知恵について、日の下でもう一つの不条理を見ました。それは彼にとって大きなことでした。それはどんなことかというと、わずかな人々が住む小さな町がありましたが、そこに強大な王、大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いたのです。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれる防壁のことです。砦ですね。普通は攻めてくる敵の侵入を防ぐために築かれるものですが、ここでは逆に、その町を攻めるために築かれました。ですから、城壁を破って町に侵入するのも時間の問題です。

すると、その町に、一人の貧しい知恵のある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救いました。それで彼は町の英雄になりましたが、だれもその人のことを記憶にとどめておくことはありませんでした。彼の存在は完全に忘れられてしまったのです。

 

それを見た伝道者は、こう言って嘆きます。16節、「私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」どういうことでしょうか。

確かに、知恵は力にまさります。敵の攻撃から救い出す力があります。聖書は知恵の宝庫ですから、聖書からの知恵によって危機を脱出したという例がたくさん聞きます。しかし、その知恵がやがて蔑まれるようになり、だれにも顧みられなくなることがあるのです。そして、やがて忘れられてしまいます。つまり、知恵が無力に感じられことがあるというのです。

 

これは、私たちの信仰にも言えることではないでしょうか。この貧しい一人の知恵ある者ですが、これをイエス様に置き換えることがいます。だれですか?悪魔です。悪魔は、小さな町である私たちを攻め立てる大王です。そこに砦を築いて攻撃してくるので、私たちの力ではどうすることもできません。

しかし、その町にいる貧しい一人の知恵者が、その知恵を用いてその町を救ってくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れる道を用意してくださいました。それが十字架のみわざです。神はキリストの十字架のみわざを通して、私たちを罪から救う道を用意してくださいました。にもかかわらず、多くの人はこの十字架のことばを受け入れず、キリストを信じることもせず、自分勝手な道に進んで行ってしまいました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

神はこの十字架のことばを通して、信じる人を救おうとされました。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであっても、召された者たちにとってキリストは、神の力、神の知恵なのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。それゆえ、キリストのことば、十字架のことばを受け入れ、キリストを通して父なる神に感謝をささげる人こそ幸いな人なのです。

 

あなたは、この貧しい人の知恵のことばを聞いていますか。そのことばを受け入れているでしょうか。その知恵のことば、十字架のことばに生きていますか。私たちは忘れっぽい者です。すぐに忘れてしまいます。しかし、私たちの人生で多くのことを忘れても、このことだけは忘れないでください。十字架のことばは、滅びる人たちにとっては愚かであっても、救われる私たちには神の力なのです。

 

 Ⅲ.知恵は武器にまさる(17-18)

 

 第三に、17~18節までをご覧ください。「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。」

 

 貧しい者の知恵は無視されたり、軽視されたり、忘れられたりしますが、それでも価値があります。ここには、「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれる」とあります。愚かな権力者たちが大声で叫ぶよりも、知恵ある者が静かに語ることばの方が良く聞かれるのです。より力があるというのです。

 

例えば、Ⅰサムエル記を見ると、アビガイルという一人の女性が登場します。彼女はナバルという人の妻でした。ナバルはカルメルという所で事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていましたが、彼はその名のごとく「愚か者」でした。それで、そのすべての財を失いかけますが、その危機から救ったのが妻のアビガイルでした。

 ある日のこと、ダビデは彼のもとに10人の若者を遣わして、何か手もとにある物を与えてほしいと頼みました。長きにわたる放浪生活で食べ物がなく困窮していたのです。しかし、ナバルの答えはダビデの期待を裏切るというか、その気持ちを逆なでするようなものでした。彼はその若者たちに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(Ⅰサムエル25:10-11)と大口をたたいてダビデの要請をきっぱりと断ったのです。

それを聞いたダビデは激怒し、部下たちに「各自、自分の剣を帯よ。」と命じ、ただちにナバル討伐に向かいました。すると、その出来事を聞いた妻のアビガイルは、多くの食べ物をもってダビデのもとに出で生き、ダビデの足もとに触れ伏してこう言いました。

「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(Ⅰサムエル25:24-31)

 

彼女は自分の罪を認めて告白した上で、その罪を赦してほしいと懇願しました。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐することを主が止められたのだと告げ、その主が復讐してくださるようにと祈ったのです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになるので、そういうことをせず、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

 

それでダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、ナバル討伐をやめました。そして、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けたのです。ダビデはこのアビガイルと出会わせてくださった神をほめたたえ、神に感謝しました。そして、その後、主がナバルを打たれたので彼は死に、アビガイルはダビデの妻になりましたが、本当に聡明な女性です。彼女の知恵によって、ナバルの家だけでなく、ダビデ自身も罪を犯すことがないように守られたのですから。その忠告に耳を傾けたダビデもさすがですが、その忠告をダビデにしたアビガイルは実に知恵のある賢明な人でした。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりも力があるのです。

 

 一方、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊します。知恵は武器にまさりますが、一人の愚か者によってすべてのものがぶち壊されることがあるのです。例えば、今のアビガイルの例で言うなら、ナバルはそうでしょう。「ダビデとは何者だ」と大口をたたいて、すべてをぶち壊そうとしました。

それは、10章1節に出てくる死んだハエと同じです。10章1節に「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とあります。10章からは、その知恵ある者と愚かな者が対比されて語られていきますが、この愚かな者の言動がどのような影響を及ぼすのかを、死んだハエにたとえているのです。調香師が調合した香油には、高価な価値があります。しかし、そこに一匹のハエが飛び込んで来て、死んだとしたらどうでしょうか。すべてが台無しになってしまいます。香油は異臭を放ち、腐らせます。そんな香油を使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。ナバルの言動とは、まさにこの死んだハエのようでした。

 

 しかし、知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれます。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。私たちは愚かな人の叫びではなく、静かに聞こえる知恵ある者のことば、キリストのことばを心に刻まなければなりません。ひとりの知恵ある者が町を救ったのとは反対に、ひとりの罪人が共同体を壊すことがあります。私たちはこのような愚かな者にならないように、いつも悪魔の声、この世の声に警戒しなければなりません。そして、キリストのことばを心に蓄え、神の知恵、真理のことばによって共同体を建て上げる者でありたいと思います。この知恵によって歩む一人一人に、神の力、神の祝福が豊かにありますように。