互いに愛し合いなさい ヨハネ13:31-38

2020年3月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章31~38節

タイトル:「互いに愛し合いなさい」

 

 ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

 

まず、31節と32節をご覧ください。

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

 

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

 

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。

「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」

イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

 

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。

Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

 

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

 

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

 

次に、33~35節をご覧ください。

「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

 

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

 

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

 

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

 

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

 

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

 

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

 

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

 

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

 

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。

私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。

私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

 

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

 

最後に、36節から38節までをご覧ください。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」

するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

 

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

 

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。

「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

 

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

 

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

 

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

暗闇から光へ

2020年3月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章21~30節(P212)

タイトル:「暗闇から光へ」

 きょうは、きょうはヨハネ13章21~30節から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。

「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。イエスは「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」という聖書のことばを引用して、ユダが自分を裏切ることについて、前もって語りました。イエス様は、これらのことを話されたとき心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、イスカリオテのユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で、霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、主が3度も語っておられたことを記しています。たとえば、6章ではいのちのパンの説教の後、「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。

また、このちょっと前にありますが、主が弟子たちの足を洗われた時も、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。

さらに、この18節、19節でも、主は旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。

このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語られ悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余り主のそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果、永遠に滅びてしまうことを思うと、霊の憤りを覚え、心を騒がせずにはいられなかったのです。それでこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

これで4度目です。ここでは「まことに、まことに」と言っておられます。これは本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていることがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるということを忘れてはなりません。そして、罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたが罪を持っているならユダのように頑(かたくな)にならないで、悔い改める者となりましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とあります。彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて、横になって食べました。テーブルを囲んで、主人は左から2番目に座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのがヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席に座っていました。ですから、ヨハネから見ると向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、だれのことを言われたのか尋ねるようにと合図をしました。おそらく声を出さないで、目くばせか何かで合図したのでしょう。あるいは、口パクだったかもしれません。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)

イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に深く愛されていることがわかっていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるのかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。私があれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころにではなく自分勝手に生きていた時に、聖書ではそれを罪と言いますが、そんな罪人であったにもかかわらず、神は愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたらいいものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

すると父親はどうしたと思いますか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感があったのです。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないとか、みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたが、ユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。どういうことですか?サタンが入るということがあるんですか。あります。どんな人でも、主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、実はそこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうことになるのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたから、彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。このようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたが、その愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても、必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない外の暗闇です。そこで泣いて歯ぎしりするのですと、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければならないのです。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香さんとあかねさんのバプテスマ式が行われますが、それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

それは私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。

与えられた恵みに従って

聖書箇所:ローマ人への手紙12章3~8節

タイトル:「与えられた恵みに従って」

 きょうは「与えられた恵みに従って」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は1~11章までの部分と、12章から終わりまでの部分の二つに分けられます。パウロは1~11章までの部分で、人はいったいどうしたら救われるのかということについて明確に語ってきました。それは、信仰によってということです。人はただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。イエス様を信じる以外に救われる道はありません。ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきでしょうか。パウロは続くこの12章から、クリスチャンの具体的な生き方について語るのです。前回は、その大前提となるべき献身について学びました。すなわち、キリストの救いの恵みにあずかった人は、当然のこととして自分を神様にささげるべきだということです。その献身を土台としてパウロは、その上に築き上げられていくべき具体的な生き方について語るのですが、その一つのことがきょうの箇所で教えられていることです。3節をご覧ください。ここには、

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとり言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

とあります。すなわち、クリスチャンは自分に与えられた恵みによって、キリストのからだである教会の中で、思うべき限度を越えて思い上がるのではなく、神がそれぞれに与えてくださった信仰の量り、その賜物に応じて慎み深く歩まなければならないのです。

 きょうは、このキリストのからだである教会で仕えることについて三つのことをお話したいと思います。第一に、慎み深い考え方とはどういうことなのでしょうか。第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。第三に、では私たちにはどんな恵みが与えられているのでしょうか。その与えられた恵みの賜物について見ていきたいと思います。

 Ⅰ.慎み深い考え方をしなさい(3)

 まず、慎み深い考え方をするとはどういうことなのかについて見ていきたいと思います。3節をご覧ください。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

 パウロはここで、キリストを信じて救われたクリスチャンは、だれでも、思うべき限度を越えて思い上がるべきではなく、むしろ、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさいと勧めています。いったいこれはどういう意味なのでしょうか?この「考え方をしなさい」という言葉は本来、心を意味する言葉と関係のある語で、人の持っている傾向性を表す言葉です。ですから、「慎み深い考え方をしなさい」というのは、健全な思いを持ちなさいということであって、消極的で、引っ込み思案な態度を持つようにということではありません。これはちょうど「思い上がる」という言葉と対照的な言葉です。どういう態度が思い上がった態度なのかというと、思うべき限度を越えた態度です。神様がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りを越えてしまうことが思うべき限度を越えた態度であり、傲慢な態度であり、不健全な姿なのです。クリスチャンとしての健康な姿というのは、ただ謙遜であるというだけでなく、信仰的な考え方を持つことです。これがいわゆる一般の社会で言われている謙遜とは少し違っている点でしょう。一般の社会でも謙遜であるようにと教えられていますが、聖書で言う謙遜というのはただ自分を低く考えるだけでなく、それに「信仰」という要素を加えなければならないのです。「信仰の量に応じて」、慎み深く考えなければなりません。

 では、「信仰の量りに応じて」とは何でしょうか?「信仰の量り」とは、クリスチャンそれぞれに与えられた信仰の程度のことです。私たちはみな神様から与えられている賜物や程度が違うので、その程度に応じて奉仕しなければなりません。それは多く与えられている者が、少ししか与えられていない者よりも偉いということではありません。多く与えられた者も少しだけ与えられた者も、それが神様から与えられた恵みであると感謝して、キリストのからだである教会を建て上げていくためにその与えられたものを忠実に用いていかなければならないということです。

 マタイの福音書25章14~30節のところには、タラントのたとえが書かれてあります。

「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」

 この1タラントを預けられたしもべの問題点はどこにあったのでしょうか。忠実でなかったことです。彼は、預けられた1タラントを土の中に隠しておいて、それを用いようとしませんでした。神様の関心はどれだけのタラントを預けられているかではなく、その預けられたタラントをどのように用いたかです。ですから見てください。5タラントあずけられたしもべも、2タラント預けられたしもべも、その与えられたタラントに対して忠実であったとき、神様は彼らに同じ祝福の言葉を言っています。どれだけ与えられたかではなく、それをどのように用いるのかが問われている。信仰の量りに応じて、慎み深く考えるというのは、こういうことなのです。これが健全なクリスチャンの心、考え方なのです。

 羽鳥明先生はこの箇所の注解において、次のように言っています。

「霊的奉仕のための第一の条件は、真実の謙遜である。これは自己卑下ではなく、各自に与えられた力、生涯についての神のみこころというものを、間違いなく評価することにかかわっている。与えられた力を過小評価することは、過大評価することとほとんど全く同じで、奉仕の実質的生涯にとって、致命的である。」

つまり、本当の謙遜とは、与えられた霊的賜物を用いて神と人に仕えることであるというのです。ですから、「慎み深い考え方」をするというのは、決して「自分はだめだ、できない」と考えることではなく、それら与えられた霊的賜物がみな神から与えられたものであることを感謝して用いることなのです。

 考えてみますと、私たちは神様の恵み、キリストの十字架と復活の力をほかにして、なんと小さな、なんと弱い、なんとみじめな者でしょうか。しかしそんな者を神様は愛して、選んで、きよめて、聖なる者としてくださいました。そして、信仰の程度に応じて、賜物を与えてくださったのです。私たちは人を支配し、人から偉そうに思われたり、人の上にあぐらをかくような思い上がった態度からではなく、与えられた賜物に応じて、信仰の程度にしたがって、互いに仕え合っていかなければならないのです。

 パウロはここで、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と言っていますが、これはそういう意味です。パウロは、自分がクリスチャンとして今こうして生かされているという現実を思う時、それはただ神の救いの恵み以外の何ものでもないという意識に立ちながら、そのような自分が指導者として、あるいは教師として立てられているのは、ただ神の恵みによって与えられた権威によるものであると自覚していたのです。教会においては、だれひとりとしてほかの人に要求できる資格のある人などいません。みんな赦された罪人にすぎないからです。しかし、そんな者であるにもかかわらず、そうした勧めができるとしたら、それは神様から一方的に与えられた恵みでしかないのです。そのことをわきまえながら、与えられた賜物を用いて互いに仕え合うこと、それが慎み深い態度であり、真に謙遜なクリスチャンの姿なのです。

  私たちはこのことを忘れてはなりません。このことを忘れてしまうと、思い上がってしまうことになります。慎み深い、健全な考え方を持つことができず、傲慢になったり、逆に不信仰になったりし、ほかの人をさばいてしまうことになり、いわゆるトラブルメーカーになってしまうのです。「私たちに与えられている賜物はすべて神からの恵みである」と思うこと、それが慎み深い考え方であり、信仰生活のすべてなのです。

 Ⅱ.キリストにあって一つのからだ(4-5)

 第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。4,5節をご覧ください。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

 パウロはここで、教会を「一つのからだ」という言葉で表現しています。教会はキリストのからだなのです。教会がキリストのからだであるというのは、どういう意味でしょうか?それは第一に、キリストと教会は一体であるということです。つまり、教会はキリストのいのちによって成り立っているということです。ですから、キリストなしに教会は生きることはできないのです。

 第二のことは、そこには多くの器官がありますが、一つに結びついているということです。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大勢いる私たちもそれと同じなのです。からだのすべてが目だったらどうなるでしょうか?想像しただけでも気持ち悪いですね。見ることはできたとしても、ほかのことは全くできません。体の中には目もあれば耳もあり、口もあれば鼻もあり、手もあれば足もあります。そうした一つ一つの器官が一つとなってはじめてからだとしての健全な営みができるというか、健全に機能していくわけです。それはちょうど目が見るという働きを、目だけのためにしているのではなく、耳や口や鼻や手、足など、からだのほかの部分のためにしているのだということです。それと同じように、私たちクリスチャンも、教会のほかの人々のために仕えるために存在しているのです。

 右の手がかゆくなると、右の手ではかけません。そこでどうするかというと、左の手でかくわけです。知らず知らずのうちに動いてちゃんとかいているんですね。不思議です。左の手が、「私はかきません。私は私です」と言ったことがあるでしょうか。手がある時ストライキを起こして、「おれは口さんのためだけに存在している。おいしい食べ物を口に運ぶ時にだけ動くのであって、それ以外は動きたくない」なんて言うでしょうか?言いません。私たちはお互いを必要としているのであって、お互いのために働いているのです。靴のひもを結ぶ時には、身をかがめて結びます。私たちはキリストの体につながった一つのからだとして、ある人は手のようです。ある人は足のようです。ある人は口ばっかりのようです。ある人はあってもなくてもいいような爪のようです。しかし、そんな爪でもないと大変なんです。シールを剥がそうとしても剥がれません。また、爪を剥がそうとしたら痛いですよ。爪がなかったら大変なんです。盲腸はなくてもいいと昔からよく言われていますが、あれもないと困るらしいのです。私は昨年胆石が見つかって胆嚢摘出手術を受けようとしましたが、怖くなって入院した翌日に病院から逃げ出しました。医師は、胆嚢はなくてもいいと簡単に言うのですが、なくてもいい臓器などあるのかと不安になり、まだしばらくそのままにしておくことにしたのです。結局、あれから何年か後に別の病院で摘出しましたが・・・。

 皆さん、なくてもいい器官などありません。どんなに小さな器官でも必要とされています。それは教会におけるほかの人々のために、与えられた賜物をもって仕えるためです。このことが本当にわかったら、奉仕の喜びも増してくるはずですし、教会は一致して大きく前進していくのではないでしょうか。

 Ⅲ.異なった賜物(6-8)

 では、私たちにはどのような賜物が与えられているのでしょうか。最後に、私たちに与えられている賜物のリストを見ていきたいと思います。6~8節をご覧ください。

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物が与えられています。それはどういうことかと言いますと、人が生来持っている才能とは区別されるものであるということです。もちろん、生来の才能も聖霊によって用いられることもありますが、これはあくまでも恵みによって与えられている賜物であるということです。聖霊によって全く造り変えられた人が、超自然的なわざを行うために与えられる恵みの賜物なのです。神様は私たちひとりひとりに、それぞれ異なった賜物を与えておられるのです。ここにはその中のおもなものとして七つの賜物が挙げられています。

 まず「預言」です。「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」とあります。預言というのは、読んで字のごとく、神のことばを預かるということです。これは将来のことを予言することではありません。もちろん、そのことも含みますが、もっと広い意味での預言です。それは、神のことばによって預言することです。ですから、それは将来のことだけでなく、現在のことも、すべてのことを含みます。簡単に言うと、神の言葉に仕える賜物です。神様から預かった御言葉を、わかりやすく伝える賜物のことです。これは賜物によるのです。

 二つ目は「奉仕」です。別の訳には「仕える賜物」とあります。貧困者や病人を助けて、その人々に仕える働きとも考えられますが、むしろ、この賜物は他の人が主導する宣教の働きを助ける賜物のことでしょう。この賜物を受けた人は、一人でしなさいというと、うまくできませんが、指導者の下で働くと自分の持っている以上の力を発揮することができます。これは私たちが通常、スタッフとか、助け手、同労者、などと呼ばれる人たちが受けている賜物で、極めて重要なものです。

 出エジプト記17章に出てくるアロンとフルもそうでした。その時イスラエルはアマレクと戦争をしていましたが、モーセが手をあげて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下げると劣勢になります。ですからモーセはずっと両手を挙げていなければならないのですが、経験のある方はご存知のように、ずっと手を挙げているのは苦しいのです。モーセもそうでした。そして手が下りて来ると劣勢になるのでどうしようかと思っていたとき、その両手を支えたのがこのアロンとフルでした。彼らは一人がモーセの右の手を、もう一人がモーセの左の手を持って支えたので、イスラエルは勝利することができたのです。これが奉仕の賜物です。

 三つ目は「教える人」です。教える賜物とは、聖書の言わんとしていることを説き明かす賜物です。ある面で預言の賜物と似ていますが、預言の賜物との違いを強いて言うならば、預言の賜物が霊的力をもってみことばを語るのに対して、この教える賜物はみことばを理解させる力です。難解なみことばをわかりやすく語り理解させることができます。

 四つ目は、勧めをする人です。「勧めをする人であれば勧め」とあります。この「勧める」ということばは、「慰め、励ます」という意味です。試練や苦しみに会って落ち込んでいる人がこの勧めの賜物を持った人に会うと勇気が与えられます。「死にそうだ」「苦しくて生きられない」という人が、この賜物を持った人と話して祈ってもらうと元気づけられるのです。逆に、この勧めの賜物とは全く逆のタイプの人もいます。元気づけるどころかかえって落ち込ませてしまう人もいます。そんなに重病でもない人を訪問して、「この病気は大変ですね。うちの親戚にも同じ病気にかかっていた人がいて、二ヶ月後には死んでしまいました」と言えば、その人がどんな気持ちになるかわかるものです。にもかかわらず、相手の気持ちを考えないで自分の思いで語ってしまう・・・。それは「勧め」とは全く反対のことです。私たちの語る一つ一つの言葉で相手が勇気づけられもし、落胆する場合があります。ですから、私たちはいつも人の徳を高めるような話に努めていきたいものです。伝道においては特にこのことに配慮していきましょう。

 五番目に出てくるのは、「分け与える人」です。分け与える賜物というのは、自分の持っている財を喜んで主や主の教会のためにささげる賜物のことです。これはお金があるからできることではありません。それは賜物です。お金の多い少ないに関係なく、神様が恵みを下さるときにだけ与えることができるのです。

 ヴァン・ダイクという作家の「大邸宅」という作品があります。その中にこのような意味深長な話が出てきます。ある金持ちが死んで天国に行きました。天国で自分の家に入ろうとしたら、そこは天井もろくにないぼろ家でした。それを見た金持ちが激怒して言いました。「なぜ私に、こんなぼろ家を下さるのか」そして横を見ると、とんでもない大邸宅がありました。その家の主人は、何と自分の家の隣に住んでいた貧しい医者ではありませんか。「神様、どうして私はぼろ家で、あの貧しい医者は大邸宅なんですか?」すると神様がこう言いました。「このすべての建築資材は、あなたが生きていた時に送ってきたものなのです。あなたが生きていた時には何の建築資材も送って来なかったけれど、あの医者は生きていた時、施しをし、献金をし、多くの人を助けて、あれほどの建築資材を送って来たのです。」これはもちろん作り話ですが、重要なメッセージがあると思います。

 イエス様は、「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」と言われました。(ルカ6:38)井戸は使えば使うほどどんどんきれいな水が出てくるように、私たちも神様のために、また多くの人を生かすためにお金や時間を投資するなら、神様はますます満ち溢れる祝福で満たしてくださるでしょう。そして、喜んで分け与えられる人がいます。これは賜物です。財産をどれだけ持っているかではなく、この賜物が与えられている人はどれだけ与えられていても、それを喜んで分け与えることができるのです。

 六番目は「指導する人」です。「指導する人は熱心に指導し」とあります。指導する賜物というのは、教会の群れを霊的に見守る人のことです。この指導する賜物を持った人が指導すると、平凡な器も有能な働き人に変えられます。特別な才能があるというわけでもないのに、あるいは特別な力があるわけでもないのに、このような指導者に指導されると、驚くべき力を発揮することができるのです。

 ダビデは、このような賜物を持っていました。Ⅰサムエル22章を見ると、ダビデがアドラムの洞窟に逃げ込んでいると、そこに四百人ものならず者が集まって来ました。借金を踏み倒して来た人、詐欺を働いて逃げて来た人、奥さんを捨てて来た人、憎しみにかられた人などです。世に言うクズのような人たちです。けれどもダビデはそういう人たちを訓練して、全イスラエルを統一するために用いたのです。ダビデは、この指導する賜物がありました。

 ここに出てくる最後の賜物は「慈善を行う人」です。この賜物は「あわれみの賜物」です。すなわちほかの人が苦しみにあるとき、この苦しみを自分のものと考える賜物です。ほかの人々の重荷を代わりに背負う心、苦しんでいる人をよく面倒みる姿勢のことです。しかし、これらがすべてではありません。聖書にはこれらを含めて27以上の賜物が挙げられています。

 ここに挙げられた賜物は、決して生まれながら持っている能力のことではありません。これは、教会が建て上げられ、成長していくために必要なものとして、主が教会に与えてくださったものです。それは主が恵みとして与えてくださったものですから、私たちはどのような賜物が与えられているのを見極め、あるいは、これらの賜物を切に求めながら、へりくだって、教会の兄弟姉妹に仕えるために用いていかなければなりません。神がおのおのに与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。自分に与えられた恵みの賜物をキリストのからだてある教会の兄弟姉妹のために用いること、それこそ慎み深い考え方、健全なクリスチャンの心なのです。そのような人を神様はさらに祝福し、さらに大きく用いてくださるのです。

士師記13章

士師記13章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.マノアとその妻(1-7)

 

「イスラエルの子らは、主目に悪であることを重ねて行った。そこで主は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。

さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。

主の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いのようで、たいへん恐ろしいものでした。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。今後、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神に献げられたナジル人だから』と。」

 

イスラエル人は、再び主の目の前に罪を行いました。それで主は40年間、彼らをペリシテ人の

手に渡されました。ペリシテ人は地中海に面している地域に住んでいた民族で、イスラエルの地においてもガザやアシュケロンなど、沿岸地域に住んでいました。そのペリシテ人の手に渡されたのです。しかも、40年の長きに渡ってです。これは、預言者サムエルがペリシテ人に勝利する時まで続きます(Ⅰサムエル7章)。サムソンが士師として活躍するのは20年間ですが、それはペリシテ人による圧政の期間の間に入る出来事です。

 

ところで、ダン族に属するマノアという人がいました。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがありませんでした。当時は、子どもがいないということを神の呪いと受け止められていたので、そのことは彼らにとってとても悲しい出来事でした。

 

そんな彼女に、ある日主の使いが現れて、男の子を産む、と告げました。それゆえ、ぶどう酒や強い酒を飲んだり、汚れた物をいっさい食べないように気を付けよ、と告げたのです。また、その子の頭にかみそりを当ててはならない、とも言いました。なぜなら、その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人であるからです。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。

 

ナジル人とは、「聖別されたもの」という意味です。民数記6章1~8節には、このナジル人について、次のように記されてあります。

「主はモーセに告げられた。 「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。

主のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。ナジル人としての聖別の全期間、彼は主に対して聖なるものである。」

 

ここにはナジル人に対して、三つの命令が与えられています。一つは、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないということ、二つ目に、ナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりをあててはならないということ、そして三つ目のことは、死人のところに入って行き、身を汚してはならないということです。ぶどう酒や強い酒を飲んではならないというのは、生活の楽しみを自発的に断ち、神への献身を表明することを表していました。また、頭にかみそりをあてないというのは、そのことで軽蔑されるようなことがあっても、神への献身のゆえにどのような軽蔑をも甘んじて受けることを表していました。当時の人は前髪を短く刈っていたので、ナジル人の誓願をすることで前髪が伸び、人々から軽蔑されるということもありました。しかし、どんなに軽蔑されても、神に献身した者はそれさえも甘んじて受けなければならなかったのです。そして、死体に近づくことは、汚れを避けることを意味していました。たとえそれが肉親であっても、死体に近づいて身を汚すことは許されませんでした。その厳格さは、大祭司と同等のものでした。一般の祭司でさえ、肉親の死体に近づくことは許されていたのです。(レビ記21:1-4,10-11)

このナジル人の誓願には、一定期間で終わるものと、終生の誓願とがありましたが、サムソンは終生のナジル人でした。しかし、彼の父母も一定期間ナジル人として生きることが求められたのです。

 

聖書の中には、生まれながらのナジル人が3人います。このサムソンと預言者サムエル(Ⅰサムエル1:11)、そして、バプテスマのヨハネ(ルカ1:15)です。彼らは、主のために聖別された僕としての人生を歩みました。そして、主イエスもこのナジル人としての生涯を歩まれました。主イエスは、この世から分離し、父なる神に完全に従うことによって、聖別された生涯を歩まれたのです。そして、そのイエスを信じ、イエスにつながり、イエスに従う私たちにも、霊的には、このナジル人とされたのです。ですから、クリスチャンはみな、ナジル人として生きることが求められているのです。

 

パウロはⅡコリント6章14~18節で、次のように言っています。

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」」

ここで勧められていることは、まさにこのナジル人として生きなさいということです。それはこの世から隔離された修道院のような生活をしなさいということではありません。この世にいながらも、この世のものではなく、神のものとして、この世と分離して生きなさいということです。それは主イエスがこの世から分離し、父なる神に完全に従ったように生きるということです。なぜなら、私たちはこの世から救い出され、神のものとされたものだからからです。神のものとされた者は、この世にあっても神のものとして聖別し、世の光、地の塩として生きていかなければならないのです。

 

Ⅱ.マノアに現れた主の使い(8-14)

 

次に8節から14節までをご覧ください。

「そこで、マノアは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」

神はマノアの声を聞き入れられた。それで神の使いが再びこの女のところに来た。彼女は畑に座っていて、夫マノアは彼女と一緒にはいなかった。

この女は急いで走って行き、夫に告げた。「早く来てください。あの日、私のところに来られたあの方が、また私に現れました。」

マノアは立ち上がって妻の後について行き、その人のところに行って尋ねた。「この女にお話しになった方はあなたなのですか。」その人は言った。「わたしだ。」

マノアは言った。「今にも、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めと慣わしはどのようなものでしょうか。」

主の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったすべてのことに気をつけなければならない。ぶどうからできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」

 

それで、女は夫のところに行き、そのことを告げると、マノアは、主に願って言いました。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」

マノアは妻の報告を聞き、主に願って言いました。神が遣わされた神の人を再び遣わして、生まれてくる子に何をすれば良いか教えてくれるように・・・と。

 

すると、神はマノアの祈りを聞かれたので、神の使いが再び彼の妻のところに来ました。その時マノアは彼女と一緒にいなかったので、彼女はすぐに夫を呼びに行き、その人のもとに連れて来ました。おもしろいですね。マノアが懇願したのに、神の使いはまたマノアのところではなく妻のところにやって来ました。また、マノアが妻に連れられてその神の人のところへ行ったとき、その神の使いが言ったことは、以前彼の妻に告げたことを繰り返しただけでした。つまり、「わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」(13)ということだけだったのです。なぜでしょうか?それはその必要がなかったからです。神のみこころはすでにマノアの妻に告げられました。彼にとって必要だったことは、そのことに聞き従うことだったのです。

 

時として、私たちも、既に与えられている御言葉で満足できず、もっと先のことや新しいことを知りたいと願うことがありますが、大切なのは、先のことが見えなくても、新しい情報が示されなくても、今与えられていることに感謝し、目の前に示されたことを忠実に行っていくことなのです。そうすれば、次にすべきことが示されるようになるでしょう。

 

Ⅲ.わたしの名は不思議(15-25)

 

次に、15節から23節までをご覧ください。

「マノアは主の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできるでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」

主の使いはマノアに言った。「たとえ、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のささげ物を献げたいなら、それは主に献げなさい。」マノアはその方が主の使いであることを知らなかったのである。

そこで、マノアは主の使いに言った。「お名前は何とおっしゃいますか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちはあなたをほめたたえたいのです。」

主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」

そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げた。主のなさる不思議なことを、マノアとその妻は見ていた。

炎が祭壇から天に向かって上ったとき、主】使いは祭壇の炎の中を上って行った。マノアとその妻はそれを見て、地にひれ伏した。

主の使いは再びマノアとその妻に現れることはなかった。そのときマノアは、その人が主の使いであったことを知った。

マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」

妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」

 

マノアとその妻は、その時点でも主の使いが誰なのかを理解していませんでした。彼らはその人を預言者のひとりだと思っていたのです。そこで、その人をもてなしたいと思い、彼らの家に留まってもらうようにお願いしました。しかし、その人は、たとえ留まっても、食事のもてなしは受けないと断りました。そして、もし全焼のささげ物を献げたいなら、主に献げなさい、と命じたのです。

 

するとマノアは、その人に名前を尋ねました。「お名前は何とおっしゃいますか。」彼としては、このことが成就したら、預言者としてその人をほめたたえようと思ったのでしょう。

すると、主の使いは、「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」と言いました。「不思議」という名前は不思議な名前です。しかし、それはその人物が神であることを指していました。というのは、不思議を行うことができるのは神だからです。神は不思議な方です。そして、その不思議を千年以上も後にご自身の御子イエス・キリストを通して表してくださいました。まさに、神のなさった最高・最大の「不思議」は神の御子が人となってこの世に来られ、その十字架の御業によって救いの道が開いてくださったことです。

預言者イザヤはそのことを前もって預言し、やがて来られるメシヤがどのような方であのかをこう告げました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」。(イザヤ9:6)

 

そして、主はマノアとその妻に不思議な御業を見せてくださいました。マノアが主の使いに言われるとおり子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げると、炎が祭壇(岩)から出てきて捧げ物を焼き尽くしたかと思ったら、主の使いが天に向かって上って行ったのです。それで、マノアとその妻は地にひれ伏しました。自分たちは死ぬのではないかと思ったのです(出エジプト記33:20)

 

しかし、マノアの妻は、こう言いました。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」

それはそうです。彼らを殺すつもりであれば、彼らがささげた全焼のいけにえをお受けになられるはずはありません。主が全焼のいけにえをお受けになられたというのは、主が彼らの祈りが聞かれたことを示していました。ですから、マノアの妻の言っているこは正しいのです。妻の方が霊的な目が開かれていました。

 

私たちもクリスチャンになってからでも、このように神のさばきを恐れてしまうことがあります。けれども、神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。(ヨハネ3:17)もし神が私たちを滅ぼすつもりなら、私たちに御子を与えられるはががありません。神は私たちを救い、私たちに永遠のいのちを与えるために、御子を与えてくださいました。私たちは、御子にあって、神の御救いに入れていただいたのです。この神の愛を受け取り、安心して主の道を歩ませていただきましょう。

 

最後に24節と25節をご覧ください。

「この女は男の子を産み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。主の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」

 

主の使いの言ったとおり、マノアの妻は男の子を産み、その子を「サムソン」と名づけました。「サムソン」という名前は、「太陽」という意味の言葉から来ています。いわば、「太陽の子」という意味です。それはまた、彼の使命を象徴している名前でもありました。彼はイスラエルの民をペリシテ人の圧政から救い出す太陽となるからです。主が彼を祝福してくださったので、彼は大きく成長して行きました。それは肉体的にというだけでなく、知的にも、霊的にも、です。そして、彼が大きく成長して行ったとき、主の霊が彼を揺り動かしました。「マハネ・ダン」とは、「ダンの陣営」という意味です。主はダンの陣営で、彼を揺り動かし始めたのです。

 

このサムソンの姿には、いくつかの点でイエス・キリストとの類似点があります。たとえば、その出産が通常とは違っていたという点です。サムソンの母は不妊の女でしたが、主の助けによって男の子を身ごもりました(ルカ1:34-35)。そして、主イエスの母マリヤも処女でしたが、いと高き方の力、聖霊の力によって男の子を宿しました。また、サムソンは「太陽の子」という意味の名前でしたが、イエス・キリストは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)と呼ばれました。さらに、サムソンが主の祝福を受けて成長したように、主イエスも、神の恵みがその上にあったので、成長し、強くなり、知恵に満ちて行きました(ルカ2:40)。そして何よりも、サムソンも主イエスも、主の霊に揺り動かされて活動されました。つまり、サムソンは来るべきメシヤのひな型であったのです。私たちも、主の霊に揺り動かされ、主の霊に満たされて、神から与えられた使命を全うさせていただけるように祈りましょう。

ヨハネの福音書3章22~30節「主役はキリスト」

きょうは、ヨハネの福音書3章22節から30節までの箇所から、「主役はキリスト」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ヨハネの弟子たちのいらだち(22-26)

 

まず22節から26節までをご覧ください。

「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。

ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」」

 

「その後」とは、ニコデモとの会話の後で、のことです。イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました。それがどこであったかのかははっきりわかりませんが、おそらくヨルダン川でのことでしょう。というのは、26節に、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」とあるからです。おそらく、ヨハネがいた所からそう遠くない場所でイエスはバプテスマを授けておられたのだと思います。

 

一方ヨハネはというと、サリムに近いアイノンという所でバプテスマを授けていました。そこには水が豊かにあったからです。その頃はまだ、ヨハネは投獄されていませんでした。ヨハネはこの後でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられ投獄されますが、まだ捕らえられていなかったので、バプテスマを授けていたのです。

ですから、その頃はイエスとバプテスマのヨハネの双方がバプテスマを授けていました。これは、どういうことでしょうか?それはちょうどリレーのバトンの受け渡しのようです。ヨハネは旧約聖書の最後の預言者でした。彼において旧約の時代は終わります。旧約聖書の主な役割は、キリストが来られることを予め前もって告げることでした。そのキリストが来られたのです。ですから、ヨハネの働きが終わって、ヨハネが指し示していたキリストの働きが今まさに始まろうとしていました。そのバトンがキリストへと渡されようとしていたのです。

 

ところが、ヨハネの弟子たちはそのことが理解できませんでした。それで彼らはヨハネのところに来て、こう言いました。26節、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」

 

バプテスマのヨハネが、以前ヨルダン川でバプテスマを授けていた時は、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川の全地域から人々がやって来ました。その中には、パリサイ人やサドカイ人も大勢いれば、ローマの兵士たちもいました。ところが、バプテスマのヨハネが主イエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と言ってあかしし始めると、人々はどんどん彼から離れて行き、イエスの方について行くようになりました。彼らは、それがおもしろくなかったのです。

 

ある註解者は、この時のヨハネの弟子たちの心境をこのように推察しています。

「ヨハネの弟子たちは、多くの者がイエスのもとに行くのを見て、いらだちを覚えたのであろう。ヨハネの使命が、イエスを指し示すことであることは百も承知していたはずなのに、『皆があの方のほうに行きます』という言葉から想像できるように、人の波が大きくイエスの方に移っていくのを見た時、弟子たちは切ない気持ちになったのであろう。そして、その切ない気持ちはいらだちへとふくれあがっていったに違いない。ヨハネの弟子たちの心の中にはイエスに対するねたみの思いが湧き上がってきたのではないだろうか。人が離れていくのを寂しいと思う気持ちが雪だるま式にふくれあがり、やがてねたみへと変わっていったのである。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのである。イエスを十字架につけたのも、ユダヤの指導者たちのねたみのせいであったと他の福音書には記されている。」

 

この時のヨハネの弟子たちの心境がよく表されているのではないでしょうか。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのです。すなわち、人をねたむ心こそが、人間の争いの原因なのです。

 

先日祈祷会で士師記12章から学びましたが、エフタに詰め寄ったエフライム人の問題もここにありました。彼らはアンモン人に勝利したエフタに詰め寄ってこう言い増した。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。」(士師記12:1)

なぜって、以前エフタがアンモン人と戦ったとき、彼らに助けを求めたのに、彼らは助けてくれなかったからです。それなのに、今ごろになって不平を漏らし、戦いを挑んでくるなんて、筋が違います。それは彼らの中に高ぶりとエフタに対するねたみがあったことが問題でした。

 

パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、彼らは御霊の人ではなく、まだ肉の人だと言っています。なぜなら、彼らの間にはねたみや争いがあったからです。それである人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っていたのです。アポロとは何ですか。またパウロとは何ですか。彼らは、あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(Ⅰコリント3:6-7)

 

あなたにはこのような思いはないでしょうか。私たちは、すぐに人と自分を比較してはねたみを抱いてしまいます。自分よりもほかの人の方が優れているのを見ると、あるいは、ほかの人がうまく行っているのを見ると、その人が妬ましくなるのです。しかし、それはただの人、つまり、イエスを知らない人と同じです。そうした思いはただ争いを引き起こすだけで、そこからは何も良いものが生まれてきません。ですから、もしあなたの中にこうした思いがあるならば、イエス様に赦していただきながら、神の御霊によって聖めていただかなければなりません。

 

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(27-28)

 

次にそうした弟子たちの訴えに対して、バプテスマのヨハネがどのように答えているかを見てみましょう。27節と28節をご覧ください。

「ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」とは、どういう意味でしょうか?人々がキリストの方に行くのは、神がそうさせておられるからであるということです。それなのに、ねたみを抱くことがあるとしたら、その神の主権を侵害すことになります。私たちは、どんな場合でもそこに神の御手があることを認めなければなりません。

 

それは私たちの生死に関しても言えることでしょう。たとえば、私たちの家族の中に障害のある子どもが生まれてくると、なかなかそれを受け入れることができないかもしれません。そのことで親は自分を責め続けるでしょう。しかし、そこに神の御手があると信じ、神が与えてくださったものであると受け止めるなら、その苦しみから解放されるでしょう。

 

それは自分のいのちについても同じことが言えます。人は自分の死が近づいて来るとなかなかそれを受け入れることができません。そのためにもがき苦しむのです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンは、自分の人生すら自分のものではなく、自分がこの世に生かされているのは、神が自分にいのちを与えてくださったからであると受け止めているので、そして、この世での使命を果たし終える時、神はこの世のすべての苦しみから解放して、もっとすばらしい天の御国に入れてくださるということを信じているので、安らかに死を迎えることができるのです。

 

今、さくら市ミュージアムで「青木義雄と内村鑑三」展をやっておりますが、昨日はその記念講演として内村鑑三の人と信仰についての講演会がありました。講師が、黒川知文先生と言って、私の神学校の時の講師だったので、講演を聞きに行きました。内村鑑三の信仰に改めて感動しました。

何に感動したのかというと、その講演の中で内村鑑三が愛娘のルツ子さんを天に送るのですが、その告別式で内村鑑三がこのように言ったことです。「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」そして、墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだのです。後に東大の総長となった矢内原忠雄は、当時19歳でしたが、この叫びを聞いて雷に撃たれたような衝撃を受けたと言っています。

なぜ内村鑑三がこのように言うことができたのか。それは彼の中にキリストの再臨信仰があったからです。かなわち、キリストが再臨されるとき、キリストにあって死んだ者の復活があり、生ける者の携挙があると堅く信じて動かなかったからです。その時から、彼の再臨運動が一層熱を帯びていくわけです。そして、各地での聖書講義には平均で800人もの人々が集まったと言われています

17歳で札幌農学校に入学した彼は、キリストとの出会うわけですが、26歳の時にアメリカのアマースト大学でシーリー学長との出会いによって真の救いの体験をすると、このルツ子さんの死という試練を乗り越えて、死んでも復活する再臨信仰に至り、このように言うことができたのです。

 

それは生死に関することだけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることです。人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。今、私たちに起こっているすべてのことが神によって与えられているものであると受け止められるなら、すべての心のいらだちから解放されるでしょう。たとえ人が自分のところから他の人のところへ移って行くようなことがあったとしても、それが天から与えられたことであると受け止めるなら、すべてを神にゆだねることができるのです。

 

バプテスマのヨハネの場合はどうだったでしょうか。彼は28節でこのように言っています。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

彼は、自分に与えられている立場がどのようなものであるかを、よく自覚していました。自分がどのような者であるかが分からない人は、とかく傲慢になります。パウロはコリントの教会の人たちに対してこう言っています。「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Ⅰコリント4:7)

これはどういうことかというと、彼らが持っているものはすべて神からもらったものなのに、どうしてもらったものでないかのように誇るのかということです。彼らは、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、神の一方的な恵みによって、キリストの十字架の贖いによって救われたのに、そして、その神の恵みとして御霊の賜物が与えられたのに、あたかも自分の力で得たかのように錯覚していたのです。ですから、「あの人は、なぜ、自分たちのように神に仕えていないのか」と批判していたのです。それは彼らが、自分たちがどのような者であるのかを忘れていたからです。

 

自分を誇る人の多くは、この点がよくわかっていません。頭がよいということにしても、努力できるということにしても、ある種の才能を持っているということにしても、どれもすばらしいことですが、しかし、どれ一つとして自分の力で得たものではないのです。それらはみな与えられたものなのです。そういうことが分かってくると、自分の分もまたおのずと分かってくるのではないでしょうか。

 

バプテスマのヨハネは、自分に与えられていたものをよく自覚していました。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです。」私はそういう者でしかないのです。だから、人々があの方の方へ行ったとしても、何の問題もありません。むしろ、それが本望です、と言うことができたのです。

 

謙遜ということは、口で言うのはやさしいことですが、実際にそれを行うということは、決してやさしいことではありません。特に、いかに人を蹴り落として自分が上に立つかを求めているこの競争社会の中に生きている私たちにとっては、本当に難しいことです。しかし、そのような中にあっても真に謙遜に生きるコツは、このバプテスマのヨハネのように自分に与えられた立場をわきまえ、そこに生きることなのです。

 

Ⅲ.主役はキリスト(29-30)

 

では、主役は誰でしょうか。主役はキリストです。バプテスマのヨハネはそのことを29節と30節でこのように言っています。

「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 

バプテスマのヨハネは、続けて弟子たちに語っています。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」

ヨハネはここで自分のことを、結婚式における花婿の友人にたとえています。花婿の友人とは、ベストマンとかブライズメイトのことです。日本ではベストマンとかブライズメイトのいる結婚式はあまり見られませんが、アメリカの結婚式ではよく見られます。というか、ほとんどの結婚式におります。彼らの役割は何かというと花嫁や花婿を引き立て、彼らを助け、彼らが結婚して、喜びの生活に入れるようにすることです。あくまでも結婚式の主役は花嫁であり、花婿です。その主役である花嫁を引き立て、そばに立って耳を傾け、大いに喜んでいるのが花婿の友人なのです。間違っても、自分が出すぎてはいけません。バプテスマのヨハネはここで、自分はその花婿の友人であり、花婿であられるキリストの声を聞いて喜びに満ち溢れていると告白しているのです。

 

これこそヨハネが彼の弟子たちに求めたことでした。そして、これはすべてのクリスチャンにも求められていることです。クリスチャンはみなこの花婿であられるキリストの友人であり、あくまでも主役はキリストなのです。このことを忘れてはいけません。というのは、謙遜はこのことをわきまえることから得られるものだからです。つまり謙遜は、謙遜になろうと努力することによって獲得できるようなものではなく、キリストとの正しい関係にあることによってもたらされるものであるということです。キリストはこのように言われました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

どうすれば、たましいに安らぎが来るのでしょうか。キリストのくびきを負って、キリストから学ぶことによってです。なぜなら、キリストは柔和でへりくだっているからです。ですから、このキリストのくびきを負って、キリストから学ぶなら、たましいに安らぎを得ることができるのです。くびきとは、牛や馬など二頭の家畜をつなぐ棒のことですが、普通は牛や馬の頸部に取り付けられます。つまり、このくびきを負って、キリストとつながれているなら、私たちも柔和で、へりくだった者になることができるということです。

 

私たちは、花婿に仕える友人のように、花婿であるキリストを喜び、キリストに仕える者です。そして、花婿が花嫁と結ばれることによってその役目を果たし終えるように、キリストによって成し遂げられた救いの御業が全世界に宣べ伝えられ、多くの人々が救われて、世の終わりに天において子羊の婚宴が開かれることを待ち望みつつ、主に仕えて行く者なのです。

 

来週はM兄とT姉のバプテスマ式が行われますが、それはまさに花婿であられるキリストとの結婚式でもあります。やがて世の終わりにキリストとの婚宴が開かれる時、そこに招かれることでしょう。それはキリストの喜びであり、私たちの喜びでもあります。なぜなら、私たちは花婿のそばに立って、花婿が語ることに耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜んでいる者だからです。それが私たちの喜びでもあるのです。

 

最後のところでヨハネは、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と言っています。これこそクリスチャンとしての最大のあかしです。「私が盛んになり、あの方は衰えなければなりません。」ではなく、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」それでいいのです。それが私たちの人生であり、私たちの喜びだからです。

 

パウロは、コリント人への手紙の中で、「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)と書きましたが、それはまさにこのことでした。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。あくまで主役はキリストなのです。そのことを忘れないでください。

 

今日からアドベントが始まりました。クリスマスの12月25日と言えば、冬至のころです。一年で一番夜が長い時期です。それから少しずつ昼が長くなっていきます。キリストがいよいよ光り輝き、栄光をお受けになられるのです。それに対して、バプテスマのヨハネは半年早く誕生しました。これはあくまでもそのように定められたということであって、実際のキリストの誕生日はいつなのかははっきりわかりません。ただわかっていることは、その半年前にバプテスマのヨハネが誕生したということです。ということは、クリスマスが12月25日とすれば、彼の誕生は6月24日となります。6月24日は夏至のころで、それから次第に昼が短くなっていきます。これは極めて象徴的であると言えるのではないでしょうか。バプテスマのヨハネは、この方をあかしさえすれば、それでこの世における使命は終わり、消えていくのです。まさに彼の人生は、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」でした。

 

それは、私たちの人生も同じです。私たちの人生は、この方をあかしさえすれば、それでいいのです。それが本望です。それでこの世における使命は終わり、消えていくべき者にすぎないのです。私たちは、この神の定めを本当に理解しているでしょうか。それが本当に分かると、私たちの心は真の自由を得ることができます。私たちもこのバプテスマのヨハネから学び、彼のような生涯を送らせていただきましょう。あくまでも主役はキリストです。この方が盛んになり、私は衰えていかなければなりません。この方の声を聞いて大いに喜びましょう。キリストの心を心とする者、それが花婿であるキリストの友なのです。

ヨハネの福音書3章16~21節「永遠のいのちを持つために」

きょうは、ヨハネの福音書3章16節からのところから、「永遠のいのちを持つために」というタイトルでお話しします。

今お読みした聖書の箇所、特に3章16節は、聖書の中でも特に有名な箇所です。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という言葉です。なぜこの言葉が有名なのかというと、聖書には多くのことが書かれてありますが、その最も大切なことがここにあるからです。聖書のエッセンスがこの言葉の中にすべて含まれていると言えるでしょう。それゆえに、この箇所は「聖書の中の聖書」、「聖書の中の小聖書」と言われているほどです。

きょうは、この有名な箇所から、永遠のいのちを持つためにはどうしたらよいかについて、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

Ⅰ.ひとり子を与えるほどの神の愛(16a)

 

まず16節に注目してください。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

 

今日ほど愛という言葉が使われている時代はないでしょう。至る所で愛という言葉がささやかれていますが、その愛は、愛の形をしてはいても、実際には、そうではありません。むしろ愛とは正反対である場合がほとんどです。というのは、愛は自己犠牲が伴うものだからです。しかし、大抵の場合は、ほかの人に与えるものではなく、自分のためにすべてを奪うものになっています。

 

しかし、ここに本当の愛があります。それは、神が、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたことの中に現されました。ある註解者は、「ここに神の無限の愛がある。この愛は人間の知らない愛である」と言っています。何ゆえに、この愛は人間の知らない愛なのでしょうか。たとえば、この愛に最も近いものに母親の愛があるでしょう。母親にとってわが子は特別の存在で、まさに目の中に入れても痛くない存在です。母親であればわが子のために自分を犠牲にすることもいとわないでしょう。しかし、そのような愛でさえ「わが子」に限定されたもので、それを超えて愛するということはほとんどありません。

しかし、神の愛はそうではありません。神の愛は、全く愛される価値のない者でさえも愛する愛です。人間は神によって造られたにもかかわらずその神を愛することはおろか、神に背を向け、罪の奴隷となっていました。聖書では、これを罪と言っていますが、この罪深い人間のために、神はそのひとり子をお遣わしになり、十字架で死んでくださったのです。

 

旧約聖書のホセア書に出てくる物語は、この神の愛がどのようなものかをよく表しています。

ホセアという預言者は、神の愛をあかしするために、彼自身得意な生活を余儀なくされました。ホセアは、ディブライムの娘ゴメルと結婚し、三人の子どもが生まれました。しかし、妻のゴメルはホセアと結婚しながらも不貞を続け、彼よりも別の男性を求めたのです。夫のホセアは彼女を愛するあまり、その心は引き裂かれるばかりに痛み、苦しみます。けれども、ゴメルは夫から離れ、愛人たちのところに身を潜め、売春までするようになるのです。そのことを知ったホセアは恥を忍んでその場に出向き、お金を払って彼女を連れ戻します。ホセアは彼女が悔い改めることを願い、彼女のすべての罪を赦そうとするのです。

 

このたぐいまれな経験は、神が神の民イスラエルに対して抱いていた思いを表していました。背かれる者の苦しみと、その背く者への愛の深さを、彼は自分の経験を通して知り、神に反逆しているイスラエルの民を神がどんなに深く愛しておられるのかを語ったのです。いったいどこに夫を捨てて別の男に身も心も寄せた女を愛する人がいるでしょうか。しかし、ホセアは神の命令に従い、別の男に身を売っている妻を愛し、彼女を多くの代価を払って買い戻したのです。これが神の愛です。

 

この妻ゴメルの姿やイスラエルの姿は、私たちの姿でもあります。私たちは神を愛し、神の喜びと栄光のために造られたにもかかわらず、その神を愛することはおろか、神に背を向け、自分勝手に生きていました。それなのに、神はそんな背信と不遜のかたまりのような私たちを愛し、多くの代価を払って罪の奴隷から買い戻してくださいました。神は、全く愛される価値のない者さえをも愛してくださったのです。

 

いったい神はどのように愛してくださったのでしょうか。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。「ひとり子」とは、イエス・キリストのことです。この「ひとり子」という言い方は、神そのものであられるお方を意味しています。神ご自身が犠牲となってこの世に来られ、十字架にかかって死なれるほどに、愛してくださいました。その愛の広さはいかばかりかというと、「世を」という言葉の中に表されています。神の愛はその選ばれた民イスラエル人だけでなく、この世を愛されました。神の愛は、全世界のあらゆる民族に及ぶのです。しかも、その愛の大きさは、ひとり子をお与えになったほどでした。これは十字架での犠牲を指しています。尊い神の御子イエス・キリストの死こそ、神が私たちを買い戻すために支払われた代価だったのです。

 

皆さん、物の価値というのは、差し出された代価よって決まります。たとえば、ここにマイクがありますが、これは3万円くらいで買いました。3万円を払って買ったわけですが、それはそれだけの価値があったからです。では、神様は、私たちのためにどれだけの代価を払ってくれたでしょうか。何とそのためにご自身のひとり子をお与えになりました。本来であれば全く価値がない者なのに、神はそれほど価値ある者と見てくださったのです。それほどまでに愛してくださいました。

 

ローマ人への手紙5章7節~8節には、こうあります。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

神は、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を明らかにしてくださいました。罪人である私たちのためにいのちを捨ててくださる方がおられる。これが神の愛です。これが聖書の中心なんです。このような愛は私たち人間の中にはありません。それは、私たち人間の知らない愛です。神はこの愛を、ひとり子であられるイエス・キリストをこの世に与えることによって表してくださったのです。

 

Ⅱ.永遠のいのちを持つために(16b-18)

 

いったいなぜ神はそれほどまでに愛してくださったのでしょうか。16節後半から18節にこのように記されてあります。

「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何でしょうか?永遠のいのちとは、単に長生きすることではありません。ヨハネの福音書17章3章には「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」とあります。

 

私たちは「永遠のいのち」という言葉を聞くと、死んだあとも続くいのちであるかのように考えがちですが、確かに、死んでからも続くいのちのことでもありますが、その本質は神の臨在のことです。唯一まことの神とキリストを知ることに他なりません。私たちが、日々の祈りの中で、あるいは神のみことばを読む中で、主がどのように自分と関わっておられるのかを知り、その神を仰ぎ見て、神の御前にひれ伏す中で生ける神と交わることこそ、永遠のいのちなのです。そこに神がおられるということです。神とキリストの臨在の中で生きること、それが永遠のいのちです。

 

それは、人がそのように造られたからです。創世記1章27節には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。「神のかたち」とは何でしょうか?それは霊のことです。神は、私たちを肉体を持つ者として造られただけでなく霊を持つ者として造ってくださいました。これは神を慕い求め、神に祈る存在として造られたということです。ですから、人は神につながり、神に祈り、神と交わり、神のいのちを持つことで、本当に人間らしく、真の喜びと満足を得て生きることができるのです。

 

それなのに、最初の人であったアダムが神の命令に背いて罪を犯したことによって、この神との関係が切れてしまいました。つまり、霊的に死んでしまったのです。神との交わり、永遠のいのちを失ってしまいました。それゆえに神は、そのように霊的に死んだ人が新しく生まれ変わって神との関係を回復するために、すなわち、永遠のいのちを持つために、御子をこの世に送ってくださったのです。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、このいのち、永遠のいのちを持つためです。

 

それはまた、この地上での肉体のいのちがのちが尽きても、決して終わることがない神との交わりのことでもありのす。

母が脳梗塞で召されて10年が経ちました。召された日の朝方まだ薄暗い時間にカタッと音がしたので「大丈夫?」と起きてみると、母は意識がはっきりしていて、「いや、何だか目が覚めたんだ」というので、「そう、まあ、安心して、イエス様が一緒にいるから」というと、「そうだね」と言ってまた静かに眠りに就きました。そして、だいぶ明るくなったころ少し経って息づかいが荒くなったかと思うと、静かに息を引き取りました。母は私が手を握り締めている中で、天に帰って行きました。静かな死でした。それは、天国を確信し、まるで、ふすまをあけて隣の部屋にいくように、召されて行きました。83歳の生涯でした。私は、母との別れの悲しみや寂しさで涙を流しましたが、それは決して絶望の涙ではありません。しばしの別れの涙です。なぜなら、死は、決してイエス・キリストが与えてくださった永遠のいのちを奪うことはできないからです。永遠のいのち、それは、決して変わることのない希望なのです。

神様は、私たちにこの永遠のいのちを与えるために、そのひとり子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではありません。御子によって世が救われるためです。御子を信じる者はさばかれません。

 

ここから、私たちが救われるためには二つの側面があることがわかります。それは神がしてくださったことと、私たちがしなければならないことです。神がしてくださったこととは、もちろん、神がこの世を愛してくださったということです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに愛してくださいました。しかし、私たちが救われるためにはもう一つの側面があります。それは、私たちがその神の愛に応答して、御子を信じるということです。御子を信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つのです。

 

それは前回のメッセージで語った通りです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって、永遠のいのちを持つためです。」(3:14-15)十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見るなら、救われるのです。仰ぎ見るとは、信じるなら、ということですが、イエスを、自分の罪の救い主として信じるなら、救われるということです。

 

実は、前回のメッセージをホームページにアップしたところ、本当に多くの方々からメールをいただきました。その中には、十字架に付けられたイエスを信じるだけでは救われないというものもありました。自分の罪は、自分で背負って、イエス様に着いていくのが、正しいです、というのです。また、イエスが命じられたとおり、神を愛し、隣人を愛さなければ救われない、というのもありました。でも、自分の罪を、自分で背負うことができますか?神を愛し、隣人を愛することができますか?できません。だから、神様は信仰によって救われる道を用意してくださったのです。私たちが救われる道は、神がしてくださった十字架と復活の御業を信じて受け取る以外にないのです。確かに、イエスは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに着いて来なさい、と言われましたが、それは私たちが救われるためではなく、救われた私たちがその救いの恵みに感謝してささげる応答なのであって、私たちが救われる唯一の道は、神の一方的な恵みの賜物、プレゼントであるイエスの救いの御業を信じて受け入れることしかないのです。

 

これはリーダースダイジェストという雑誌に載っていた実話ですが、カナダのある町の町はずれに刑務所がありました。

冬の寒い日、その刑務所の高い塀の外の寂しい道を12、3歳の少女が一人、粗末な外套の襟を立てて、行ったり来たりしていました。

ちょうど、刑務所の所長さんが、そこを通りかかりました。そして、「どうしたの?」と、声を掛けました。

少女は、怯えたように、小さな声で言いました。「わたし、この中にいるお父さんにクリスマスプレゼントを届けに来たのです」。

「じゃあ、私が届けてあげよう。ちゃんとあなたが届けに来たことを話して、渡してあげるから、早く家にお帰り。風邪をひかないようにね」。

その少女のお父さんは、強盗犯人で、その刑務所でも有名な、嫌われ者でした。乱暴で、直ぐに喧嘩をし、規則を守らず、看守たちの言うことを聞かず、手のつけられない囚人でした。

所長さんは、自分で、その少女のプレゼントを渡しに行って、こう言いました。「さあ、君の娘さんが、この吹雪の中を届けに来たクリスマスプレゼントだよ。開けてごらん」。

でも、そのお父さんは一言も口をきかず、包みを開こうともしませんでした。そして、恐い顔をして、所長さんをにらみつけています。

所長さんは、優しく言い続けました。「君の娘さんの心のこもったプレゼントなんだよ。さあ開けてごらん」。やっと、お父さんは、ノロノロとリボンをほどき、小さな紙の箱を開けました。

箱を開けたお父さんは、「あぁー、これは!」と大きな声をあげました。なんと、その箱の中には、目も覚めるようなきれいな金髪の巻き毛が入っていました。少女は、自分の髪の毛を、惜しげもなく、ばっさりと切って、箱に入れたのです。

そして、娘さんからのカードが添えてありました。そこにはこう書かれていました。

「愛するお父さん。クリスマスおめでとうございます。私はお父さんに何か良いプレゼントをと考えたのですが、お金がありません。だから、お父さんも大好きだった、私の大切な髪の毛を、クリスマスのプレゼントとして贈ります。

私の愛するお父さん、早くうちに帰って来てちょうだい。私はいつまでも待っています。お母さんもいなくなったので、わたしは今、伯父さん叔母さんの所にいます。二人とも、お父さんのことを良く言いません。でも、お父さん、私にとって世界でたった一人のお父さん、私はお父さんが大好きよ。どんなに辛くても、寂しくても、私はお父さんを待っています。

お父さん、お体を大切にね。私は毎晩毎朝、神様にお父さんのことを祈っています」。

手紙を読んでいるうちに、この男の目から、涙がどっと溢れ出て、子供のように泣き出しました。涙が後から後から流れ、本当に長い間、このお父さんは泣き続けました。

自分の一番大切な金髪の巻き毛をささげた娘さんの愛が、荒れてすさんだお父さんの心に平和をもたらしたのです。

その時から、このお父さんは、生まれ変わったように良い人になって、刑務所でも模範的な囚人になったそうです。

 

最も大切なものさえ与える愛は私たちを変えます。私たちを新しく造り変えるのです。そして、私たちの心に平和をもたらします。でも、そのためには、その愛を受け取らなければなりません。神があなたに贈られた大切な贈り物を、信仰によって受け取らなければならないのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ユダヤ人であっても異邦人であっても、救われる唯一の道は、神の御子イエス・キリストを信じること以外にはないからです。

 

Ⅲ.そのさばきとは(19-21)

 

では、信じないとどうなるでしょうか。信じない者はさばかれます。いや、すでにさばかれています。神のひとり子の名を信じなかったからです。19節から21節をご覧ください。

「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」

 

さばきというものは、普通世の終わりにあるものだと考えられていますが、事実、世の終わりにもありますが、しかし世の終わりにだけあるのではなく、もうすでに今現在始まっていると、聖書は言っています。これはどういうことかというと、悪いことをする者は、自分の行っていることや、その動機が神の光に照らし出されることを恐れるため、光であるイエス・キリストのもとに来ようとしないということです。そうすることによって、神のさばきを自分自身に招いているのです。つまり、イエスを信じないこと自体、神から離れていること自体が、神のさばきであるというのです。最初の人間アダムが罪を犯した時のことを考えてください。「あなたはどこにいるのか」と神に呼びかけられたとき、はどうしたでしょうか。彼は、神を恐れて、隠れました。それが神のさばきです。神によって造られ、神を愛し、神に従って生きるように造られた人間が、神を恐れて隠れたということ自体が、さばきなのです。

 

私は、以前、刑務所で教誨師をしていたことがあります。教誨師というのは、刑務所に収容されている人たちにそれぞれの宗教の立場から教え諭すことを目的に、個人と集団に行われるものですが、ある時、それに出席していた収容者たちに尋ねたことがあります。「皆さんは、実際に罪を犯して捕まるまでどんなお気持ちでしたか?」

するとそこにいるほとんどの人が同じように答えました。「あれは、生きた心地がしなかった!」

いつ捕まるかという恐れで不安でたまらなかったというのです。警察官に職務質問されようものなら、その緊張は極度に達しました。捕まって安心したというか、捕まるまでが地獄だったというのです。

これと同じです。捕まるまでが地獄です。捕まっても地獄ですが、捕まるまでも地獄です。すでにさばかれているからです。神のもとに来ようとしないこと自体、神のさばきにほかなりません。

 

それではなぜ人は神のもとに来ようとしないのでしょうか。それは光がこの世に来ているのに、自分の行いが悪いため、それが明るみに出されることを恐れるからです。つまり、悪い行ないを愛しているからです。神が望むようにではなく、自分の望むように生きていきたいのです。イエス様を信じると新しく生まれ、罪から離れなければならないと知っているので、イエスのところに来ようとしないのです。人はイエス様を信じない理由をいくつも並べ立てますが、本当の理由はただ一つ、今の生活を変えたくないだけです。

 

力ルヴァンはそのことについて、このように言っています。「彼らがキリストに近づくことの妨げとなっているのは、明らかに彼ら自身の邪悪さなのである。彼らが光よりも闇を選び、彼らに差し出されている光を避けるのは、悪意からそのようにしているばかりでなく、更に自分の罪深さを感じている心に由来しているのである」
確かにその通りではないでしょうか。そして、そのようなことは、私たちにも思い当たる節があります。キリストはそのような私たちの心の深いメカニズムを明らかにしておられるのです。

 

しかし、これは単に悪者はキリストを避け、善人はキリストに近づくということではありません。キリストが十字架につけられたあのゴルゴタの丘を思い出してください。ほかにも二人の犯罪人が、キリストと一緒に十字架につけられました。一人はキリストの右に、もう一人は左につけられました。民衆が「おまえが神のキリストなら、自分を救ってみろ」とあざけったとき、十字架にかけられた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。

しかし、もう一人の犯罪人は彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているのではないか。私たちは、自分がしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」(ルカ23:40-41)

そして、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスは彼に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

悪人がキリストを否定して、善人がキリストを受け入れたのではありません。この二人はどちらも犯罪人でした。その犯罪のゆえに処刑されなければならなかった罪深い人間だったのです。
では、なぜ一人の犯罪人はキリストをあざけり、一人は受け入れたのでしょうか。分かりません。ただ分かることは、もしイエス様が私にどちらになりたいのかと問われたら、私もキリストを受け入れる者になりたいということです。福音は、神様の一方的な恵みですから、私たちは何をしなくてもよいのかというと、そうではありません。御子を信じなければなりません。それが私たちに求められている応答なのです。福音は神様の一方的恵みですが、私たちはそれを受け取らなければならないのです。

 

「ちいろば」という本を書いた榎本保郎先生は、そのことを次のように言っています。「朝が来るのは私の努力ではない。しかし、早朝の素晴らしさを味わうためには、早起きが必要なのである」

私たちも、神がイエス・キリストを通して与えてくださった愛に対して、その愛に心から応える者でありたいと思います。そして、イエス様があの一人の犯罪人に、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたように、私たちも永遠のいのちを持つ者でありたいと思うのです。

士師記12章

士師記12章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.エフライム人との内紛(1-7)

 

「エフライム人が集まってツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」

エフタは彼らに言った。「かつて、私と私の民がアンモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたに助けを求めたが、あなたがたは彼らの手から私を救ってくれなかった。あなたがたが救ってくれないことが分かったので、私はいのちをかけてアンモン人のところへ進んで行った。そのとき、主は彼らを私の手に渡されたのだ。なぜ、あなたがたは今日になって、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。」

エフタはギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これは、エフライムが「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからである。

ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、ギルアデの人々はその人に、「あなたはエフライム人か」と尋ね、その人が「そうではない」と答えると、その人に、「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺した。こうしてそのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。

エフタはイスラエルを六年間さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。

 

エフタがアンモン人との戦いを終えると、エフライム人がツァフォンに進み、エフタに詰め寄って来てこう言いました。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」

彼らの不満は、エフタがアンモン人と戦う際になぜ自分たちに声をかけなかったのかということでした。エフライム族は、マナセ族とともにヨセフ族から枝分かれした部族です。そのエフライム族が、どうしてここでエフタに不満を述べたのでしょうか。それは彼らには、自分たちこそ卓越した部族であるという自負心があったからです。その自負心が高ぶりとなって表面化することがたびたびありました。

 

たとえば、ヨシュア記17章14節のところには、土地の分割の際にヨシュアに詰め寄り、「あなたはなぜ、私たちにただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほどの数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」と言っています。自分たちは主に祝福された特別な部族だと主張したわけです。それに対してヨシュアは、「あなたが数の多い民であるなら、森に上って行って行きなさい。そこでペリジ人やれふぁいむ人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」(ヨシュア17:15)と答えました。ヨシュアが言ったことはもっともなことでした。そんなに主に祝福された者であるなら、そんなに数の多い民であるなら、自分たちで切り開けばいいではないか。それなのに、そのことでつべこべ言っているのは、彼ら自身の中に問題があるからではないかと諫めたわけです。

 

また、士師記8章1節でも、ギデオンがミディアン人との戦いを終えた後に彼のところに詰め寄り、「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」(8:1)と激しく責めました。この時はギデオンが彼らをなだめ、平和的な解決を図りましたが、今回は違います。エフタは強硬な姿勢で対応しました。

 

2節と3節をご覧ください。そうしたエフライム人のことばに対して、かつてエフタがアンモン人と戦った際に、エフライム族に呼びかけたものの、彼らが出て来なかったからだと語り、自分を脅迫するのは筋違いだと反論します。そして、ギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦い、彼らを打ち破ったのです。それは、エフライムが、「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからです。エフライムは、ギルアデ人のことを侮辱して、逃亡者呼ばわりしました。それは、異母兄弟たちから追い出され、逃亡者となった経験があったエフタにとっては断じて受け入れられることではなく、逆に彼の神経を逆なですることになりました。

 

ついに、あってはならない部族間の内紛が勃発しました。ギルアデの人々は、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取り、エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、その人がエフライム人かどうかを方言によって見分け、もしエフライム人ならその場で殺しました。すなわち、その人に「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺したのです。こうして四万二千人のエフライム人が倒れました。

 

元はと言えば、エフライム人の高ぶりがこの悲劇の原因でした。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。心の高慢は、隣人との間に争いを生み、やがてその人を滅ぼしていくようになります。あなたはどうでしょうか。隣人との間に平和がありますか。もし争いがあるとしたら、あなたの中にエフライムのような自負心や高ぶりがあるからかもしれません。へりくだって.自分の心を点検してみましょう。

 

Ⅱ.9番目の士師イブツァン(8-10)

 

次に8節から10節までをご覧ください。ここには、9番目の士師でイブツァンのことが記されてあります。

「彼の後に、ベツレヘム出身のイブツァンがイスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいた。また、彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者に嫁がせ、息子たちのために、よそから三十人の娘たちを妻に迎えた。彼は七年間イスラエルをさばいた。イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。」

 

「イブツァン」という名前の意味は「速い」です。その名に相応しく、彼についての言及はわずか3節だけです。彼はベツレヘムの出身で、三十人の息子と、三十人の娘がいました。それだけ彼は裕福であり、権力を持っていたということでしょう。しかし、何と言っても彼の特徴は、その三十人の娘たちを自分の氏族以外の者に嫁がせ、自分の息子たちのためには、よそから三十人の娘たちを迎えたという点です。なぜこんなことをしたのでしょうか。彼は、息子と娘たちを他の氏族と結婚させることによって争いを回避し、平和を確保しようとしたのです。いわば、それは政略結婚だったのです。このようなことは日本の戦国時代ではよく行われていたことでしたが、当時の士師たちの間では珍しいことでした。彼はこのようなことによって氏族の結束を強めようと思ったのかもしれません。

 

Ⅲ.10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンの時代(11-15)

 

最後に、10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンを見て終わります。11節から15節までをご覧ください。

「彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間イスラエルをさばいた。ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地アヤロンに葬られた。

彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間イスラエルをさばいた。ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地ピルアトンに葬られた。」

 

エロンについての言及はもっと短いです。彼については、彼がゼブルン人で、十年間イスラエルをさばいたということ、そして、ゼブルンの地アヤロンに葬られたということだけです。つまり、彼の出身地と士師としてさばいた期間、そして葬られた場所だけです。

 

そして、彼の後に登場するのはピルアトン人ヒレルの子アブドンについての言及も同じで、彼についてもその出身地と生活、そしてさばいた年数、葬られた場所しか記されてありません。

「ピルアトン」とは「丘の頂」という意味で、エフライムにあった町です。ですから、彼はエフライムの出身でした。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていたとあります。当時ろばは高貴な人が乗る動物でしたので、ここから彼は非常に裕福で、社会的地位が高かった人物であったことがわかります。彼が士師としてさばいたのは8年間という短い期間でした。しかし、それは平和と繁栄の時代だったのです。

 

このエロン、アブトンがイスラエルをさばいたのはわずか18年間という短い期間でしたが、それは10章1~5節で見てきたトラやヤイルの時代のように、平和と繁栄の時代でした。それはトラとヤイルの時のように特記すべきことが少ない平凡な日々の積み重ねであったかもしれませんが、それこそが神の恵みだったのです。それは何よりも神が与えてくださった秩序の中で、互いに神を見上げ、神とともに歩んだということの表れでもあります。何気ない当たり前の平凡な日々中に隠されている主の恵みに目を留める者でありたいと思います。そして、そのような中で一生を終えこの世を去っていく人こそ、本当に幸いな人生を歩んだ人と言えるのです。あなたにとっての幸いな人生とは、どのような人生でしょうか。

ヨハネの福音書3章1~15節「新しく生まれる」

きょうは、聖書の中でも有名なニコデモの話から、「新しく生まれる」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ニコデモの悩み(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

ここに、ニコデモという人が登場します。1節には、彼がとのような人であったかが紹介されています。つまり、彼はパリサイ人の一人で、ユダヤ人の議員であったということです。パリサイ人とは、ユダヤ教の一派で、聖書を重んじ、その教えを真剣に守ろうとしていた人々のことです。当時は六千人ぐいいたと言われています。彼らは、人々から尊敬の目をもって見られていました。ニコデモはそのパリサイ派に属していました。

 

それだけではありません。彼はユダヤ人の議員でもありました。ユダヤ人の議会は、サンヘドリンと呼ばれていたユダヤの最高議会のことです。祭司や長老、学者たち等71人で構成されていました。そこでは政治的なことだけでなく、宗教的なことも含め、すべてのことがここで議決されていました。彼はその議員だったのです。

 

つまり、彼は当時のユダヤ人としては最高の社会的地位と名誉、そして、財産の持ち主であったということです。それは今日でいうと、東大の教授であり、衆議院議員であり、最高裁の判事でもある、といった立場の人です。

 

そんな彼が、ある夜、イエスのもとに来てこう言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

ニコデモはなぜ、イエスのもとにやって来たのでしょうか。3節のところで主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えていますが、このことばから考えると、彼はどうしたら神の国を見ることができるのかがわからなかったのです。神の国を見るということは、永遠のいのちを得るということです。すなわち、それは救われるということです。いったいどうしたら救われるのか、ニコデモはわからなかったのです。彼はパリサイ派の人で聖書を重んじ、聖書に従って生きてきましたが、聖書の中で最も重要なこの救いに関することがわからなかったのです。そして、何としても知りたくて、イエスのもとにやって来たのです。

 

彼はここでイエスを「先生」と呼んでいます。大工の子であったイエスを「先生」と呼ぶのは異例です。「先生」という言葉は、当時最大級の敬意を払った言葉だったからです。それは彼が、イエスが行ったしるしは、神が共におられるのでなければできないと考えていたからでしょう。もしかすると彼は、ガリラヤのカナの婚礼で、イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡のことを聞いていたのかもしれません。あるいは、エルサレムの神殿でイエスが行われたしるしについて聞いたのかもしれません。それとも、直接それらを目撃していたのかもしれません。いずれにせよ、彼はそのような不思議なしるしは神によらなければできないと考えたので、恥も外聞も捨てて、イエスのもとにやって来たのです。夜に・・。

 

ここでは、彼が「夜」やって来たとあります。どうしてわざわざ夜「夜」やって来たのでしょうか。ある人は、それはイエスは日中とても忙しかったので、じっくりと話すために夜やって来たのではないかと考えています。また、ユダヤ教のラビは、夜、律法を勉強する習慣があったので、その夜にやって来たのではないかと考える人もいます。けれども、彼が夜、イエスのもとにやって来たのは、やはり人に知られないようにしたかったからではないかと思います。というのは、このヨハネの福音書19章39節にもニコデモのことが言及されているのですが、そこにも「以前、夜イエスのところに来たニコデモも」と、彼が夜イエスのもとにやって来たことが強調されているからです。それが彼の特徴でした。彼はそこまでしてイエスのもとに行こうとしたのです。

 

この時彼はすでに確固たる地位を築いていました。名誉もありました。そんな彼が若干33歳のイエスのもとに教えを受けに行くということには相当抵抗もあったことでしょう。そのような彼の姿が、「夜イエスのもとにやって来た」ということで表されているのです。しかし、彼はそれでもイエスのもとにやって来ました。それは、彼がそれほど真剣に救いを求めていたからです。皆さん、それが求道の第一歩です。このような求道心こそ、私たちが救われるために、また、救われてキリストをさらに深く知っていくために必要なことなのです。

 

Ⅱ.新しく生まれる(3-8)

 

それに対して、イエスは何と答えたでしょうか。3節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 

「まことに、まことに」という言葉は、原語では「アーメン、アーメン」です。ヨハネの福音書では、イエス様が大切なことを語られる時、このように「アーメン、アーメン」という言葉で語っておられます。それは、これからとても大切なことを告げますよ、というニュアンスです。その大切なこととはどんなことでしょうか?それは、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない、ということです。これはニコデモがどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら永遠のいのちを得ることができるかと尋ねたことに対するイエスの答えです。これはどういう意味でしょうか。

 

これは、聖書で言う救いとはどのようなものであるかを教えています。ここに「新しく」と訳された言葉は、「上から」という意味があります。「上」とは神様ご自身のことを指しています。つまり、「人は、神様によって生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」というのです。というのは、聖書で言う救いとは、単に良い人間になろうとすることとは違うからです。一般に良い人間になろうとすることは、人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、新しく生まれるというのは、神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊が自分の内に住んでくださることを意味しているからです。たとえば、猫や猿をどんなに教育し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間になることはできません。人間の子供になるには、人間のいのちを持たなければなりません。そのように、人が新しく生まれるためには、神のいのちである聖霊を持たなければならないのです。つまり、人は母の胎内で肉体のいのちを得ますが、神の聖霊を受け入れ、その聖霊が私たちの魂の中に入っていただくことによって、神の子どもとして新しく生まれることができるのです。

 

ウィリアム・ジェームズという心理学者は、「宗教体験の種々相(しゅじゅそう)」という本の中で、こんなことを言っています。「一度しか生まれたことのない人は二度死ぬ。しかし、二度生まれた人は一度しか死なない。」

少しわかりずい言葉ですが、この二度生まれるということは、普通の肉体の誕生と今ここで取り上げられている霊の誕生という二つの誕生のことを意味しています。つまり、普通の肉体の誕生しか経験していない人は、肉体の死とともに、永遠の死を経験しなければならないということです。それに対して、普通の肉体の誕生とともに、霊的誕生を経験している人、すなわち新生を体験した人は、肉体の死を経験するだけで、最後の永遠の死は経験しないということです。つまり、最後の神の裁きに会うかどうかは、新しく生まれているかどうか、霊的に誕生したかどうかで決まるというのです。

 

ところが、ニコデモは、そのことがよく理解できませんでした。それで4節でこのように言いました。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

彼はユダヤ教の教師でありながら、イエス様が言われたことを全然理解できませんでした。この言葉の中に彼のとまどいがよく表れているのではないでしょうか。そんなことを言ったって、もう一度母の胎に入って、生まれ直すなんてできないでしょう、と言っているのです。彼は「新しく生まれる」ということを耳にしたとき、赤ちゃんとして生まれてくるあの肉体の誕生のことしか考えられなかったのです。

 

しかし、イエスはあくまでも霊的誕生のことを語っておられました。それで5節と6節でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

人はどのようにしたら新しく生まれることができるのでしょうか?イエスはここで、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。「水と御霊によって生まれる」とはどういう意味でしょうか?

 

これについては、大きく分けて三つの解釈がありますが、多くの註解者は、この水は水のバプテスマを指し、御霊は御霊のバプテスマを指していると考えています。すなわち、救い主イエスを信じ、水のバプテスマを受けることによって救われるというのです。しかし、聖書はそのように言っておりません。人はイエスを認め、信じることによって救われるのであって、バプテスマを受けなければ救われないとはどこにも書かれていないからです。

 

そこで、ある註解者は、この「水と御霊によって生まれなければ」というのは、「水すなわち御霊によって生まれなければ」という意味だと解釈しています。なぜなら、マタイの福音書3章11節に、「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」とありますが、この「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられる」というのは、「聖霊すなわち火のバプテスマ」という意味であるからです。ですからこの「水と御霊によって生まれなければ」という表現も、「水すなわち御霊によって生まれなければ」と理解すべきだというのです。すなわち、御霊は水のように洗い、私たちを救ってくださるということです。このように解釈する人たちは、それを裏付けるみことばとしてテトス3章5節を取り上げています。そこには、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」とあります。

 

しかし、もっと適切な解釈は、この「水」を「みことば」と解釈することです。なぜなら、エペソ5章26節を見ると、ここには「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」とあるからです。「キリストがそうされたのは」の「そうされた」とは、キリストが十字架で死なれたことを指していますが、キリストが十字架で死んでくださったのはいったい何のためだったのでしょうか。それは、みことばにより、水の洗いをもって、私たちをきよめて聖なるものとするためでした。ここでは「みことば」が水の洗いのことを示しているのは明らかです。ですから、この「水と御霊によって生まれなければ」というのは、人は神のみことばを受け入れ、主イエスを罪からの救い主として信じるなら、神の御霊によって新しく生まれると解釈するのが一番適切ではないかと思います。

 

それにしても、いったいなぜ人は新しく生まれなければならないのでしょうか。なぜなら、生まれながらの人は、罪を持っているからです。これを原罪と言います。ですから、その罪を赦していただかなければ神の国に入れていただくことができないのです。そのためには新しく生まれなければなりません。イエス・キリストを信じて新しく生まれた人、つまり神のみことばを受け入れ、御霊によって新しく生まれた人だけが神に国に入ることができるのです。

 

このことをなかなか理解できず不思議に思っていたニコデモに対して、イエス様は一つの譬えで語られました。何ですか?「風」です。7節と8節をご覧ください。

「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 

風は吹いていても、それがどこから来て、どこへ行くのかわかりません。ただ「ピュー」と風が吹いている音を聞いたり、「バタン、バタン」というトタン屋根が風に煽られている音を聞くことによって「あ、風が吹いているな」とわかるのです。また、部屋から外の街路樹を眺めたとき、枝が大きくなびいているのを見たり、雲や煙がたなびくのを見て、風が吹いているのがわかります。御霊によって新しく生まれるのも同じです。それは人の目で見ることはできませんが、御霊によって新しく生まれると、その人の人生がすっかり変わるので、だれの目にも明らかとなるのです。そして風は右から吹いてきたかと思ったら今度は左から吹いて来るというようにその動きが一定でないように、神の御霊も思いのままに吹くのです。そうです、それは決して私たち人間がコントロールできるものではなく、全く自由な神のご意志によってなされることなのです。私たちは、その御霊の働きを妨げではなりません。

 

するとニコデモはどのように答えたでしょうか。9節、ニコデモはこう言いました。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

彼にはそのことがなかなか理解できませんでした。どうして理解できなかったのでしょうか?それは、彼は自分の理性と経験を頼りにしていたからです。つまり、自分の頭で理解できることと、自分が体験したことしか受け入れられなかったのです。

イスラエルの宗教指導者であった彼がこのように考えていたというのは不思議なことです。というのは、彼には神からの啓示である旧約聖書が与えられていたからです。旧約聖書をみれば、そこには超自然的なことがたくさん出てきます。たとえば、イスラエルがエジプトから出てくるとき神がエジプト中の初子という初子を皆滅ぼされたこととか、後ろからエジプト軍が追って来て逃げ場を失い絶対絶命のピンチに陥ったとき紅海が二つに分かれたとか、ユダヤ人が絶滅の危機に陥ったとき、神はエステルを用いてその絶滅の危機から救ってくださったとか、バビロンに70年間も捕らえられていたユダヤ人がペルシャの王によって解放されユダヤの地に帰還することができたとか、どれも神のご介入がなければ決して起こり得なかったことばかりです。それなのにニコデモが理解できなかったのは、彼が御霊に属していたのではなく、この世にぞしていたからです。コリント第一2章14節に次のようにあります。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」

 

つまりニコデモはユダヤ教の宗教指導者ではありましたが、御霊に属することを受け入れなかったので、御霊のことがさっぱり理解できなかったのです。これは今日でもよく見られます。社会的にどんなに学力に優れていても、聖書が言っていることがどういうことなのかがさっぱりわからないというのと同じです。それは、自分の理性と経験だけを判断のよりどころとしているからです。でも、自分の理性がどれほど正しいでしょうか。自分の経験がどれほど確かだと言うのでしょうか。自分では何でも知っていると思っていても、実は本当に知らなければならないことさえ理解していないことが多いのです。そんな私たちの理性や経験によって霊のことを理解しようとしても理解できないのは当然のことです。御霊のことは御霊によって判断するものだからです。大切なのは、私たちが霊的には本当に無知であるということを認め、神の真理を知りたいという思いで、神に求めることです。そうすれば、知ることができます。求めなさい。そうすれば与えられるのです。

 

Ⅲ.永遠のいのちを持つために(11-15)

 

そんなニコデモに対して、イエスはどうしたら新しく生まれることができるのか、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのかを説明されました。11節から15節までをご覧ください。

「まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

イエスは、ニコデモが霊的なことに鈍感であることに対してあきれながらも、忍耐をもって真理を説いてくださいました。それがこの11節以降にあることです。そして、ニコデモがよく知っている旧約聖書の出来事を引用して説明なさいました。14節です。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

 

これは民数記21章にある内容で、イスラエルの民が昔、経験したことです。イスラエルの民が、神の力強い御手によってエジプトから救い出され、約束の地カナンに向かって荒野を旅していた時、主は彼らが生きていくために必要なパンや水を何回もお与えになりました。それなのに彼らは神とモーセに対してつぶやきました。

「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(民数記21:5)

すると神は怒られて彼らに毒蛇を送り、それにかませたので、つぶやいた者たちはその毒蛇にかまれ、イスラエルのうちの多くの者が死んだのです。これは、神に反逆する者たちへの神の裁きでした。この苦しみの中からイスラエルの民は自分たちの罪を悔い改め、モーセにとりなしの祈りをするように願いました。それでモーセが祈ると、神は不思議なことを言われたのです。燃える蛇を作り、それを旗さおの上に付けよ、と言うのです。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる・・と。モーセは主が仰せられたとおりに青銅の蛇を作り、それを旗さおの上につけました。そして、蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。

これは、どう考えても理屈に合わない出来事です。青銅の蛇を仰ぎ見ただけで、いのちが助かるというのは、普通だったら考えられません。しかし、理解できなくても、神様の言葉を信じてその通りにした人たちは救われました。

 

いったいこれはどういうことを意味していたのでしょうか。イエスは、この出来事を引用し、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」と言われました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」つまり、旗さおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見た者が救われたように、私たちの罪のために十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを仰ぎ見る者は救われるということです。私たちは、最初の人アダムが罪に陥って以来、何千年という間、その罪のために死ななければならない運命にありました。それは、ちょうどイスラエルの民が荒野で神につぶやいて、毒蛇にかまれた時のようです。しかし、神はあの時モーセに命じて青銅の蛇を旗さおに上げたように、天から下りて来られた神の御子イエス・キリストを十字架につけてくださったので、このイエスを仰ぎ見る者は救われるようにしてくださったのです。あの青銅の蛇は、十字架につけられたイエス・キリストの姿であったのです。それは、人の子を信じる者がみな、永遠のいのちを持つためです。十字架のキリストを仰ぎ見る者、すなわち、イエス・キリストを自分の罪の救い主と信じる者は、だれであっても、罪から救われ、永遠のいのちが与えられ、神の国に入れていただくことができるのです。

 

このようなことを聞くと、そんな非科学的で迷信じみたことに惑わされるものかと言う人もいるでしょう。そんなことは、自分の理性が許さない、という人もおられるでしょう。事実、旗さおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見る者は死ななくても済むんだと聞いた人々の中にも、その反応は必ずしも同じではなかったでしょう。中には、そんなことは自分の今までの長い経験の中で一度もなかったし、そんなばかげたことで人が救われるはずがないじゃないか、という人もいたでしょう。あるいは、そんな迷信じみたことをだれが信じるものかと拒絶した人もいたでしょう。そういう人はみな、どうなりましたか?そういう人はみな死んで行きました。

しかし、苦しみのあまり、わらをもすがるような思いで、天幕からはい出し、旗さおの見えるところまで来て、その上に付けられていた青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われました。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、人の子を信じる者がみな永遠のいのちを持つためです。

 

皆さんはどうですか。旗さおにつけられた青銅の蛇を仰ぎ見ていますか。十字架のイエスを仰ぎ見ているでしょうか。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見るなら、どんな人でも救われるのです。これが信仰です。この信仰によって、私たちは新しく生まれることができるのです。別に高価な薬を飲まなければ救われないとか、お百度参りをしなければならないと言っているのではありません。ただ旗さおに付けられた青銅の蛇を仰ぎ見るだけでいいのです。私たちが救われるのは、ただイエス・キリストを信じること、それ以外に道はありません。

 

ヨハネ19章39~41節をご覧ください。先ほど言及した箇所です。ニコデモはイエス様を信じて、新しく生まれ変わったでしょうか。

「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

これはイエスが十字架で息を引き取られた直後のことです。以前、夜イエスのところに来たニコデモとは、この時のことを指しています。彼はイエスが十字架で息を引き取られた直後、十字架のもとに進み出て、イエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻きました。これは午後3時頃の出来事です。彼は以前、夜イエスのところに行きましたが、この時は違いました。白昼公然とイエスのもとに進み出たのです。それは彼が十字架に付けられたイエスを仰ぎ見て救われたからです。彼は水と御霊によって新しく生まれたのです。

 

あなたはどうでしょうか。ニコデモのように罪から救われて、永遠のいのちを持っていますか。ここにニコデモのように神を見出し、永遠に生きる道を見つけた大学者たちの証しがあります。

天文学者ヨハネス・ケプラーは、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人です。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行のための研究の基礎となったと言われています。その彼がこう言っています。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい」

なぜなら、彼は偉大な神の救い、永遠のいのちを得ることができたからです。またアイザック・ニュートンは、誰もが知っている偉大な科学者ですが、彼は、「私のすべての発見は、祈りの答えでした。」と言っています。

また世界的に有名な、ドイツの医師で、宣教師でもあったアルバート・シュバイッツァーは、ある日、ニコデモのように主イエスに出会い、永遠のいのちをいただき、限りない喜びに与りました。そして彼は思いました。あのアフリカには、どれほど多くの人が神の愛を知らずに死んで行くのだろう。それで彼はドイツでも有名な大学の教授職を退き、アフリカに生き、生涯を黒い大陸の星のように生きました。そのおかげで、今日アフリカでは、最も多くの人々が新しいいのちを得ています。

 

あなたもニコデモのように神を見出し、永遠のいのちをいただいてください。もう既にイエスを信じて、この永遠のいのちを受けておられる方もいると思いますが、まだ信じていない方のために、その方が心から信じて受け入れることができるために、今、祈りの時を持ちます。この祈りの終わりのところで、「アーメン」と言いますが、それは、「今、祈ったことはほんとうです」という意味です。あなたが、「アーメン」と心から言えたなら、あなたのすべての罪が赦され、あなたも永遠のいのちを持つことができます。ですから、私の後に続いて祈ってください。そして、「アーメン」と心から告白してください。

「主イエスさま。私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死なれたことを感謝します。私は、あなたを、私の罪からの救い主、人生の主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださったことを感謝します。どうか私の心の王座に座して、私の人生を導いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。」

どうでしょうか。あなたも心からイエス様をあなたの人生の主として受け入れることができたでしょうか。イザヤ書45章22節にはこうあります。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」

私たちが救われる道はただ一つ、キリストを仰ぎ見ることです。キリストを仰ぎ見る者は、みな救われ、神の国に入れていただくことができるのです。あなたもキリストを信じ、その生涯、キリストを仰ぎ見続けてください。

士師記11章

士師記11章からを学びます。まず1節から11節までをご覧ください。

 

Ⅰ.第8番目の士師エフタ(1-11)

 

「さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子どもたちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の息子だから、私たちの父の家を継いではならない。」そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。エフタのもとには、ならず者が集まっていて、彼と一緒に出入りしていた。

それからしばらくして、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきた。アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきたとき、ギルアデの長老たちはトブの地からエフタを連れ戻そうと出かけて行き、エフタに言った。「来て、私たちの首領になってください。そしてアンモン人と戦いましょう。」

エフタはギルアデの長老たちに言った。「あなたがたは私を憎んで、父の家から追い出したではないか。苦しみにあったからといって、今なぜ私のところにやって来るのか。」すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。「だからこそ、今、私たちはあなたのところに戻って来たのです。あなたは私たちと一緒に行き、アンモン人と戦って、私たちギルアデの住民すべてのかしらになってください。」

エフタはギルアデの長老たちに言った。「もしあなたがたが私を連れ戻してアンモン人と戦わせ、主が彼らを私に渡してくださったなら、私はあなたがたのかしらとなろう。」ギルアデの長老たちはエフタに言った。「主が私たちの間の証人となられます。私たちは必ずあなたの言われるとおりにします。」エフタがギルアデの長老たちと一緒に行き、民が彼を自分たちのかしらとし、首領としたとき、エフタは自分が言ったことをみな、ミツパで主の前に告げた。

 

ギデオンの子アビメレクの死後、イスラエルを救うために立ちあがったのは、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラでした。彼について聖書は多くを語っていませんが、彼は23年間イスラエルをさばきました。それは平凡な日々の積み重ねであったかもしれませんが、そうした平凡な中にも主の恵みがあったのです。

 

そして次に立ちあがったのがギルアデ人ヤイルでした。彼は非常に裕福で、権力がありましたが、何といっても彼がギルガルから出たということが、彼の特質すべきことでした。ギルアデはヨルダン川の東側の地にあり、早くに異教化していった地です。そんなギルアデから士師が出たということは、主はそのような人たちをも忘れていなかったことを示しています。イスラエルは彼によって22年間、平和な時代を過ごしました。

しかし、彼が死ぬと、イスラエルはめいめい主に背き、主の目の前に悪を行いました。それはこれまでのバアルやアシュタロテといった神々に加え、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテの神々と、カナンの住民が拝んでいたほとんどすべての神々に仕えるという異常なほどの背きでした。

 

そんなイスラエルに主はあきれかえり、彼らが悔い改めて主に立ち返り、主に叫んでも、「わたしはこれ以上あなたがたを救わない」(10:13)と言われたほどでした。しかし、彼らが真に悔い改めたとき、すなわち、彼らの中から異国の神々を取り除いて主に仕えたとき、主は彼らの苦しみを見るのが忍びなくなり、彼らを救われました。そのために用いられたのがギルアデ人「エフタ」です。彼は八番目の士師となります。

 

1節を見ると、彼の生い立ちについて記されてありますが、彼は遊女の子でした。父親のギルアデ゙には妻がおり、彼女は男の子たちを産んだので、その子どもたちが成長したとき、エフタを追い出したので、彼は兄弟たちのところから逃げてトブの地に住みました。彼の周りにはならず者が集まっていましたが、これが彼らに戦闘の経験を与えました。彼らは生活のために敵の領土に侵入し、食物や生活の必需品などを略奪していたからです。

 

人は、その人自身の生き方や生活によって評価されるべきであって、両親の地位や家系によって判断されるべきではありません。そういう意味で、エフタは不幸な取り扱いを受けましたが、主はそんなエフタをイスラエルの士師としてお立てくださいました。それは、その人の生き方はその人の家柄や両親の地位とは全く関係ないことを示すためでもあったのです。

 

さて、アンモン人がイスラエルに戦争をしかけてきたとき、ギルアデの長老たちはトブの地からエフタを連れ戻そうと出かけて行きました。彼らは、この戦いに勝利するためには、強力なリーダーが必要であると感じていたからです。

エフタは当初、その申し出に反発しました。「あなたがたは私を憎んで、父の家から追い出したではないか。それなのに、苦しみにあったからと言って、今なぜ私のところにやってくるのか。」と。しかし、彼はギルアデの長老たちのお詫びの言葉を聞いて怒りを鎮めました。そして、もし主が彼らを自分に渡してくれたのなら、自分がギルアデ人のかしらになることを条件に、アンモン人との戦いに出て行くことを了承しました。

 

もしエフタが命がけでアンモン人と戦い、ギルアデ゙人を救うことができたなら、彼がギルアデ人のかしらになることは当然のことです。なぜなら、彼は命をかけてたたかったのだからです。それは主イエスにおいても言えることです。主イエスは私たちのために命を捨ててくださいました。罪人の救い主となられたのです。であれば、このイエスによって救われた者が、この方を主(かしら)として受け入れるのは当然のことです。あなたは、あなたの救い主を主(かしら)として仰いでおられるでしょうか。

 

Ⅱ.アンモン人との戦い(12-28)

 

次に12節から28節までをご覧ください。

「エフタはアンモン人の王に使者たちを遣わして言った。「あなたは私とどういう関わりがあるのですか。私のところに攻めて来て、この国と戦おうとするとは。」

すると、アンモン人の王はエフタの使者たちに答えた。「イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの私の土地を取ったからだ。今、これらの地を穏やかに返しなさい。」

エフタは再びアンモン人の王に使者たちを遣わして、こう言った。「エフタはこう言う。イスラエルはモアブの地も、アンモン人の地も取ってはいない。イスラエルはエジプトから上って来たとき、荒野を通って葦の海まで歩き、それからカデシュまで来た。そこでイスラエルはエドムの王に使者たちを遣わして言った。『どうか、あなたの国を通らせてください』と。ところが、エドムの王は聞き入れなかった。同様にモアブの王にも使者たちを遣わしたが、彼も受け入れなかったので、イスラエルはカデシュにとどまった。それから荒野を行き、エドムの地とモアブの地を迂回し、モアブの地の東まで来て、アルノン川の対岸に宿営した。しかし、モアブの領土には入らなかった。アルノンはモアブの国境だったからだ。そこでイスラエルは、ヘシュボンの王で、アモリ人の王シホンに使者たちを遣わして言った。『どうか、あなたの国を通らせて、目的地に行かせてください』と。しかし、シホンはイスラエルを信用せず、その領土を通らせなかったばかりか、兵をみな集めてヤハツに陣を敷き、イスラエルと戦った。イスラエルの神、主が、シホンとその兵全員をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを打ち破った。そしてイスラエルは、その地方に住んでいたアモリ人の全地を占領した。こうしてイスラエルは、アルノン川からヤボク川まで、および荒野からヨルダン川までのアモリ人の全領土を占領したのだ。今すでに、イスラエルの神、主が、ご自分の民イスラエルの前からアモリ人を追い払われたというのに、あなたはその地を取ろうとしている。あなたは、あなたの神ケモシュがあなたに占領させようとする地を占領しないのか。私たちは、私たちの神、主が、私たちの前から追い払ってくださる者の土地をみな占領するのだ。今、あなたはモアブの王ツィポルの子バラクよりもまさっているだろうか。彼はイスラエルと争ったり、戦ったりしたことがあったか。

イスラエルが、ヘシュボンとそれに属する村々、アロエルとそれに属する村々、アルノン川の川岸のすべての町に三百年間住んでいたのに、なぜあなたがたは、その間にそれを取り戻さなかったのか。私はあなたに罪を犯していないのに、あなたは私に戦いを挑んで、私に害を加えようとしている。審判者であられる主が、今日、イスラエル人とアンモン人の間をさばいてくださるように。」

しかし、アンモン人の王はエフタが送ったことばを聞き入れなかった。」

 

エフタはアンモン人の王に使者を遣わして、「あなたは私とどういうかかわりがあるのですか。私のところに攻めて来て、この国と戦おうとするとは。」と問いかけました。

するとアンモン人の王はエフタの使者たちに答えます。イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの土地を取ったからだと。その地を今すぐ、穏やかに返しなさい・・と。巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、アルノン川とは死海に向かって流れている川で、ヤボク川とはその北にありヨルダン川に流れている川です。その間に、ルベン族とガド族の相続地がありますが、イスラエルはその土地を取ったからだ、と訴えているのです。

 

そこでエフタは再びアンモン人の王に使者たちを遣わし、歴史を回顧して、モーセに率いられてイスラエルが戦ったのは、アモリ人の二人の王シホンとオグであって、アンモン人やモアブ人、エドム人ではなかったと告げています。彼らがイスラエルを信用せず、その領土を通らせなかったので、仕方なく戦わざるを得ませんでしたが、イスラエルの神、主が、シホンとその兵全員をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを打ち破ることができたため、その地方に住んでいたアモリ人の全域、すなわち、アルノン川からヤボク川まで、および荒野からヨルダン川までのアモリ人の全領土を占領するようになったのです。だから、それはアンモン人とは全く関係のない話なのです。

 

このようにしてみると、エフタはイスラエルの民の歴史に精通していたことがわかります。つまり、モーセの律法をよく学んでいたということです。神は、幼子のような素直な信仰を喜ばれますが、決して、無知であることを望んではおられません。ペテロ第一3章15節には、「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。私たちも、信仰に関する質問を受けた時、自らの信じる内容を順序立てて説明できるようにしておきたいものです。

 

エフタの説明はこれだけで終わりません。彼は、イスラエルの神、主がアモリ人の王シホンとその勢力を追い払われたのであって、アンモン人がその地を奪い返そうとするのは間違いであること、それに25節を見ると、モアブの王ツィポルの子バラクでさえ、イスラエルと戦うことを断念したというのに、それよりも劣るアンモン人が戦いを挑んでくるなんて考えられない。そんな無茶なことはすべきではない、と言いました。

 

さらに、26節と27節には、イスラエルがカナンに定住して以来、ヨルダンの東側の地に三百年も住んでいたのだから、もしアンモン人に不満があったのなら、なぜもっと早く申し立てて、土地を取り戻さなかったのか、今になって無理難題を投げかけてくるのはおかしいではないか、と言うのです。

 

こうしたエフタの順序立てた説明を聞いても、アンモン人の王は聞き入れませんでした。どうしてでしょうか。それは、主なる神への挑戦であったからです。心を頑なにし、神の警告や説得に耳を傾けようとしない人は、愚か者です。このような人は、必ず自らが下す愚かな判断の刈り取りをするようになります。あなたは、どうでしょうか。心を柔らかくして、神のことばを聞いているでしょうか。

 

Ⅲ.エフタの誓願(29-40)

 

次に、29節から40節までをご覧ください。

「主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ギルアデのミツパを経て、そしてギルアデのミツパからアンモン人のところへ進んで行った。

エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」こうして、エフタはアンモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。彼はアロエルからミニテに至るまでの二十の町、またアベル・ケラミムに至るまでを非常に激しく討ったので、アンモン人はイスラエル人に屈服した。

エフタがミツパの自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子で、エフタには彼女のほかに、息子も娘もなかった。エフタは彼女を見るや、自分の衣を引き裂いて言った。「ああ、私の娘よ、おまえは本当に私を打ちのめしてしまった。おまえは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」

すると、娘は父に言った。「お父様、あなたは主に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。」娘は父に言った。「このように私にさせてください。私に二か月の猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、自分が処女であることを友だちと泣き悲しみたいのです。」

エフタは、「行きなさい」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちと一緒に行き、山々の上で自分が処女であることを泣き悲しんだ。

二か月が終わって、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。イスラエルではしきたりができて、年ごとに四日間、イスラエルの娘たちは出て行って、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うのであった。」

 

 

主の霊がエフタに下った時、彼はギルアデとマナセを通り、ギルアデのミツパを経て、そしてギルアデのミツパからアンモン人のところへ進んで行きました。その時彼は誓願立てて言いました。誓願とは何でしょうか。誓願とは、神に誓いをたて、事の成就を願うことです。30節、31節をご覧ください。

「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」

すると主はエフタの願いどおり彼らをエフタの手に渡されました。問題は、エフタがミツパの自分の家に帰った時です。なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来たのです。彼女はひとり子で、エフタには彼女のほかに、息子も娘もいませんでした。その彼女が家から最初に出てきたのです。

エフタは唖然としました。なぜなら、彼は、自分がアンモン人のところから無事に帰ることができたのなら、自分の家の戸口から自分を迎えに出てくるものを、全焼のいけにえとして主にささげると誓ったからです。娘をささげるということは、娘が子を産まなくなるということであり、それは自分の名が絶えることを意味していました。これは私たちが想像する以上の呪いでした。エフタは彼女を見るや、自分の衣を引き裂いて、嘆きました。

 

いったいなぜ彼はそのような誓願をしてしまったのでしょうか。おそらく、自分が家に帰ったとき、自分の家の戸口から迎えに出てくるのは自分のしもべたちの内のだれかだと思ったのでしょう。まさか娘が出てくるとは思わなかったのです。それに、アンモン人との戦いは激しさを増し、何としても勝利を得たいという気持ちが、性急な誓いという形となって出てきたのでしょう。

 

こうした性急な誓いは後悔をもたらします。また、神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきです。ですから、エフタの請願は、信仰の表れというよりは、むしろ彼が抱いていた不安の表れにすぎなかったのです。

 

このように軽々しく誓うことが私たちにもあります。それが自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私の・・・をささげます」というようなことを言ってしまう傾向があるのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになってしまいます。エフタは自分の直面している困難な状況を、誓願を通して乗り越えようとしましたが、軽々しく誓うべきではなかったのです。

 

ところで、旧約聖書の律法によれば、この時エフタは娘をささげなくても良かったはずです。というのは、申命記12章31節には、「あなたの神、主に対して彼らのように礼拝してはならない。彼らは主が憎むあらゆる忌み嫌うべきことをその神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために火で焼くことさえしたのである。」とあるからです。

 

ではどうすれば良かったのでしょうか。そこで律法では、もし人間そのものをささげたいのであれば、その評価額として金銭を神殿にささげるようにと定められていたのです。それはレビ記27章1~8節にはこのようにあります。

「主はモーセにこう告げられた。 「イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって主に特別な誓願を立てるときには、その評価額を次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男子なら、その評価額は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女子なら、その評価額は三十シェケル。 五歳から二十歳までなら、その男子の評価額は二十シェケル、女子は十シェケル。一か月から五歳までなら、男子の評価額は銀五シェケル、女子の評価額は銀三シェケル。六十歳以上なら、男子の評価額は十五シェケル、女子は十シェケル。その人が落ちぶれていて評価額を払えないなら、その人を祭司の前に立たせ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じて彼を評価する。」

 

それなのに、エフタが娘をささげたのはどうしてなのでしょうか。それは、彼が無知であったか、頑なであったかのどちらかです。彼は戦いについて、イスラエルの神が戦ってくださることをよく知っていました。またイスラエルの歴史もよく知っていました。彼は神への信仰と、神のことばである律法をきちんと持っていました。それなのに彼が娘を神にささげたのは、聖書の知識が足りなかったからか、彼の心が頑なだったからかのどちらかであった考えられます。

 

結局彼女はどうなったでしょうか。彼女は二か月の猶予をもらい、自分の友達と一緒に山へ行き、自分が処女であることを嘆き悲しみました。そして、二か月が終わって、父のところに帰ったとき、エフタは誓った請願のとおりに彼女に行いました。

 

ここにエフタは誓願のとおりに娘に行ったとありますが、誓願のとおりとはどういうことでしょう?二つの解釈があります。一つは、彼女は文字通り全焼のいけにえとして殺されたということ、そしてもう一つは、彼女は終生幕屋で仕えるために主に捧げられたということです。どちらが正しいかはわかりません。しかし、37節以降の娘の言動を見ると、処女であることを悲しんだということが強調されてあるので、終生神の幕屋で仕えるために主にささげられたと考えられます。それにこれが「主の霊がエフタの上に降ったとき」(29)に立てられた誓願であることや、モーセの律法自体が、人間のいけにえを禁じているということから考えても、主がそのようないけにえを喜ばれるはずがないからです。

しかし、この士師時代の混迷していた時代のことを考えると、やはり文字通り全焼のいけにえとしてささげられたと考えるのが自然だと思います。それは神が喜ばれることではありませんでしたが、エフタは神に誓ったとおりに彼女を全焼のいけにえとしてささげたのです。

 

しかし、いずれにせよ、エフタは勢いに任せて安易に神に誓ったことは確かです。その結果、彼は後悔することになりました。私たちは、自ら発する言葉に注意し、いつも主の言葉に従って生きる者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書2章12~25節「主に信頼される者に」

きょうは、ヨハネの福音書2章12節から25節までにある「宮きよめ」の出来事から「主に信頼されるに」というタイトルでお話しします。

 

皆さんは、イエス様に対してどのようなイメージを持っておられるでしょうか。子どもたちを抱いて優しくお話しされる姿ですか。それとも病人の手を取っていやされるあわれみ深いイエス様のお姿でしょうか。あるいは、弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡られたときに嵐を静めたような、力強いお姿ですか。

聖書を見るとイエス様のいろいろなお姿が出てきますが、きょうの箇所には普通とはちょっと違うイエス様の姿が描かれています。それは憤られるイエス様です。勿論、その怒りや憤りは私たちのように利己的な動機によるものとは違い、天地万物を造られた創造主としての、何が正しくて、何が間違っているのかを示す、正しい憤り、怒りです。

 

きょうは、この箇所からイエス様に喜ばれる者とはどのような者かについて学びたいと思います。

 

 

Ⅰ.神の家を商売の家にしてはならない(12-17)

 

まず12節から17節までをご覧ください。

「その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、

細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」

 

「その後」とは、イエス様がガリラヤのカナでご自分の栄光を現された後で、ということです。イエス様は母マリヤ、そしてイエス様の弟子たちはともに婚礼に招かれましたが、婚礼の宴会でぶどう酒がなくなったときユダヤ人のきよめのしきたりによってそこに置いてあった水がめに水を満たし、それをぶどう酒に変えられました。それがイエス様の最初のしるしでした。「その後」のことす。

その後イエス様は、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではありませんでしたが、そこに滞在されました。

 

そして、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づいたので、イエス様はエルサレムに上られました。イエス様の公の生涯、公生涯においては、過越の祭りが4回ありましたが、13節の過越しの祭りはその最初のものです。イエス様の公生涯を3年半と計算する理由は、その間に4回の過越しの祭りがあったからです。 イエス様は、最初の過越の祭り約半年前にバプテスマを受けておられます。

 

「過越の祭り」とは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷として捕らえられていたとき、神はモーセを通してそこから解放してくださいましたが、そのことをお祝いする祭りです。そのとき、神はモーセを通して「わたしの民を行かせなさい」とエジプトの王パロに言いましたが、パロは頑なでなかなか行かせなかったので、エジプトに十の災いを送られました。その最後の災いは、エジプト中の初子という初子を皆滅ぼすというものでした。ただ、神が命じるとおりに羊の血を取りそれを家の門柱とかもいに塗った家だけは、災いを通り越すというのです。

それでイスラエル人はみな神が命じられたとおりに羊をほふって血を取り、その血を自分たちの家の門柱とかもいに塗ったので神のさばきが通り過ぎていきました。しかし、エジプトの王とその民はそれを拒んだので神のさばきが彼らに臨み、エジプト中の初子という初子は人から家畜に至るまですべて死んでしまいました。それでイスラエルの民は長い間、実に430年間もエジプトの奴隷として捕らえられていましたが、そこから奇跡的に解放されたのです。それはまさに一方的な神の御業によるものでした。それで神はこのことを忘れないようにと、これを過越しの祭りとして行うように命じられたのです。

これはユダヤ人にとって最大の祭りでした。モーセの律法によると、巡礼祭と呼ばれる祭り、つまりエルサレムに上って祝う祭りが三つありましたが、過越の祭りは、その最初のものでした。そこには離散したユダヤ人たちが、何万人、何十万人と集まっていたのです。

 

その過越の祭りが近づいたとき、イエスがエルサレムの宮の中へ入って行くと、そこに牛や羊や鳩を売っている者たちと、両替人が座っているのを見て、激怒されました。そして、細縄でむちを作り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒したのです。いったいなぜこんなことをしたのでしょうか。

 

そこにいた牛や羊や鳩は、犠牲として神にささげられる動物です。モーセの律法の規定によると、それらの動物は、傷もしみもないものでなければなれませんでした。自分で犠牲の動物を持って来ても良かったのですが、それは祭司によって吟味されなければならず、外部から持ち込まれた動物が検査に合格することはありませんでした。結局、巡礼者たちは、検査で「適格」の印のついた動物を、高い値段で買うしかなかったのです。

 

また、すべての男子が半シェケルの神殿税を治めることになっていましたが、ローマの貨幣はカイザルの肖像が刻まれていたため使用することができませんでした。そのため、人々は高い手数料を払って、ユダヤの貨幣に両替していたのです。

 

そうした腐敗した神殿の様子を目の当たりにして、主イエスは激怒されました。そして、商売人や両替商たちを神殿から追い出されたのです。しかも、細なわでむちを作り、商売用の台を倒して、それを実行されました。

 

それはイエスが神殿の所有者であること、つまり、ご自身がメシヤであることを主張するためでした。16節を見てください。イエスは、羊や牛を宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒すと、鳩を売っている者たちにこう言われました。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

 

どういうことでしょうか。神の家であるはずのエルサレムの神殿が商売の家となっている。そういうことがあってはならない、というのです。神のささげる動物を売る人たちや両替人たちが、そこで大儲けしていました。そしてその利益の一部がその神殿の業務を司っていた大祭司や宗教指導者たちのところに流れていました。そういうことがあってはならない、というのです。なぜなら、ここは「わたしの父の家」だからです。父の家であるということは、子であるイエスの家でもあります。そうです、この神の家であなたがたは何をしているのか、というのです。イエス様はそれをご自分の家であると言われたのです。つまり、イエス様はご自分がメシヤであることを示されたのです。

 

皆さん、神の家は本来何をするところなのでしょうか。そうです、神の家は本来神を礼拝するところです。心から神に礼拝がささげられるところであるはずなのです。それなのに、その大切なことをおろそかにされているとしたら、それは本末転倒です。神の家の主人公は神であり、また、キリストであるはずなのに、いつしかその神とキリストがどこかに追いやられてしまい、形式的な活動が繰り返されているだけだとしたら、それはもはや神の家とは言えないのです。彼らは形式的なささげものをすることで、神を礼拝しているつもりでした。決められた儀式さえ行っていれば、神様に喜ばれるはずだと思っていました。その結果、こうしたことが平気で行われていたのです。また、それを見ても誰も何とも思わなくなっていました。霊的に鈍感になっていたのです。

 

こうしたことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ただ礼拝に出席していれば宗教的な務めを果たしていると思ったり、与えられた奉仕を行っていれば神に喜ばれるものと思っていることがあります。勿論、このようなことがどうでもいいというのではありませんが、そこに肝心の神が、キリストがどこかへ追いやられているとしたら、何の意味もないのです。

 

Ⅰサムエル記15章22節にはこうあります。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

また、同じⅠサムエル記16章7節には、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。

 

パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように勧めています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたにお勧めします。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

あなたがたのからだを、あなたがた自身を、神に喜ばれる、聖い生きた供え物としてささげること、これこそ神が喜ばれる礼拝であって、それ以外のことが、そのこと以上に大きくならないように絶えず吟味しなければなりません。

 

17節をご覧ください。ここには、「弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」とあります。弟子たちは、イエス様のあまりの激しい憤りに、旧約聖書の言葉を思い出しました。それは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という言葉です。これは詩篇69篇9節の言葉ですが、リビングバイブルでは、「神の家を思う熱心が、わたしを焼き尽くす」と訳されています。イエス様はご自分を食い尽くすほどに、焼き尽くすほどに、神の家を思うことに命をかけておられたのです。

あなたはどうですか。イエス様のように神の家を思う熱心で焼き尽くされるほど、神の家を、神ご自身を求めておられるでしょうか。

 

ダビデは、敵にいのちを狙われる困難な状況の中で、このように告白しました。

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたが一つのことを主に願うとしたらいったい何を願うでしょうか?ダビデは、主の家に住むことを願いました。そこで主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすためです。それこそがすべての問題の根本的な解決だと知っていたからです。

 

私たちにはたくさんの願いがあります。しかしその中で、何を第一に願うかによって、私たちの生き方が決まってきます。確かに日ごとにたくさんの必要があります。しかし、その中にあっても主の家を熱心に思い、主の家に住むことを第一に求め、主に喜ばれる礼拝をささげる者でありたいと願います。

 

Ⅱ.本当の礼拝のために(18-22)

 

では、本当の礼拝をささげるためにはどうしたらいいのでしょうか?18節をご覧ください。

「すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」

神殿をビジネスの場としていた大祭司にとって、イエスの行為は到底容認できるものではありませんでした。そこで彼らは、「あなたがそのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」とイエスに問いました。このしるしとは、メシヤとしてのしるしです。前にお話ししたように、イエスが宮きよめをされたのは、ご自身がメシヤであることを宣言するためでした。そのメシヤのしるしを求めたのです。パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:22-23)と言っていますが、しるしを求めるのがユダヤ人の特徴なのです。

 

これに対してイエスはこう言われました。19節です。

「イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

どういうことでしょうか?これは復活の預言です。このあたりから、イエス様とユダヤ人の間に食い違いが生じてきます。彼らは、イエス様がご自分のからだについて言われたことを理解することができず、そこに建っていた神殿のことだと思い込み、こう言いました。20節です。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

この神殿の改修工事はヘロデ大王によって始められ、その工事が46年目に入っていました。1882年にスペインのバルセロナに建築中のサグラダ・ファミリアは、着工から144年後の2026年に完成するということで話題になっていますが、このヘロデの神殿も着工から46年経ってもまだ完成していないという建物でした。エルサレムが滅びたのは紀元70年ですが、改修工事はその6年前の紀元64年まで続きました。その神殿を三日で建てるというのか、と言ったのです。

 

けれどもイエスが言われた神殿とはヘロデが建てた神殿のことではなく、ご自分のからだのことを指して言われたのでした。つまり、イエスは十字架にかけられて死なれますが、三日目によみがえられるということだったのです。

 

弟子たちも、この時点ではイエスが何を言っておられるのかさっぱりわかりませんでした。ですから、ヨハネは21、22節で開設の文章を入れて、説明を加えています。「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」

イエスはすでにこの時点で、十字架と復活の預言をしておられたのですが、彼らには理解することができませんでした。

 

イエスの思いと、宗教指導者たちの思いは遠くかけ離れていました。また弟子たちも、イエスの心を理解することができませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちの信仰は、イエスの思いから遠く離れているということはないでしょうか。イエス様は確かに壊れた神殿を三日でお建てになりました。そして、イエス様は今も生きておられます。私たちもその生きておられるイエスに呼びかけ、宮きよめをしていただこうではありませんか。

 

しかし、このことと宮きよめとは、どのような関係があるのでしょうか。それは、イエス様が宮きよめをなさった本当の目的がここにあったということです。つまり、イエス様が宮きよめをなさったのは、ただ単に神の家を商売の家としてはならないということではなく、神殿の礼拝に関わる律法の規定を廃棄してそれに代わる新しい礼拝の秩序を確立するためだったということです。つまり、あのサマリヤの女に対して、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。」(ヨハネ4:23)と言われたように、どのようにすれば霊とまことによる礼拝をささげることができるのかということを教えるためだったのです。そしてそれは神殿で動物のいけにえや献金をささげるといった形式的なことによってではなく、それはイエス・キリストが十字架上で死なれ、三日目によみがえられることによってもたらされるものなのです。

ですから、私たちは旧約時代のような動物の犠牲をささげることによってではなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる礼拝、本当の礼拝をささげることができるのです。

 

22節をご覧ください。ここには、弟子たちが「聖書とイエスが言われたことばを信じた。」とあります。ガリラヤのカナでイエス様が水をぶどう酒に変えた時は、「それで、弟子たちはイエスを信じた」ありました。弟子たちは既に信じていたんじゃないのですか?それなのに、「聖書とイエスのことばを信じた」というのはおかしいではないでしょうか。

この「聖書」とは、旧約聖書のことです。つまり、旧約聖書に書かれてある預言が成就したことを知ったということです。詩篇16篇10節には、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」とありますが、その預言が成就したことに気付いたのです。また、イエスが言われたことばとは、新約聖書のことと理解して良いでしょう。この時点ではまだ新約聖書は完成していませんでしたが、弟子たちは旧約聖書に書いてある預言が、イエス・キリストの十字架と復活によって成就したことを知って、イエスこそ救い主であると信じたということなのです。

 

皆さんは今、どのように礼拝をささげておられるでしょうか。あなたを霊とまことによる真の礼拝に導いてくださる方は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを通してなのです。このイエスを通して、私たちは心からの礼拝をささげていきましょう。あなたの思いとイエス様の思いが離れることがありませんように。いつもイエス様と共に歩み、イエス様に喜ばれる者となりましょう。それがイエスの心と一つにさせていただく鍵なのです。

 

Ⅲ.主に信頼される者に(23-25)

 

ところで、この宮きよめの話はこれで終わりではありません。その結果について聖書は興味深いことを記しています。23節から25節までをご覧ください。

「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」

 

イエス様が過越しの祭りの間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じましたが、イエス様ご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした。この「お任せになる」と訳された言葉は、その前の節の「信じた」と訳されている言葉と同じ言葉です。つまり、「信じなかった」ということです。ですから、ここでは、確かに多くの人々がイエス様の行われたしるしを見て、イエス様を信じましたが、その一方で、イエス様はどうだったかというと、そうした彼らを信頼されなかったというのです。どうしてでしょうか。

 

その後のところに理由が記されてあります。それは、イエスがすべての人を知っておられたからです。それどころか、人の内にあるものを知っておられました。人が心の中でどんなことを考えているかを知っておられました。それゆえ、イエスは、その人が善人であるか悪人であるかを他人から教えてもらう必要はなかったのです。へブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。この「神のことば」をイエスに置か消えてみると、イエスがどのような方であるかがわかります。イエスは、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の思いやはかりごとを見分けることがおできになるのです。

 

この方の御前に、隠しおおせるものはありません。人はうわべを見ますが、主は心を見られるのです。つまりイエスは人間ではなく、全地全能の神であられるのです。確かに彼らはイエス様の奇跡を見て信じましたが、その信仰はまだ本物ではありませんでした。それはちょうど種まきのたとえの中で、種を蒔いた人の種が四種類の違ったところに落ちたようにです。それは道ばたであり、岩地であり、いばらであり、良い地です。

道ばたに落ちた種は、すぐに悪魔が来てその人の心に蒔かれた種を奪って行きました。岩地に落ちた種は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れましたが、みことばのための困難や迫害に会うと、すぐに躓いてしまいました。いばらの中に蒔かれた種は、みことば聞いて信じ、順調に成長しましたが、この世の心遣いや富の惑わしがみことばをふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。

 

これは、みことばの種が蒔かれるとき、四種類の人がいるということではありません。同じ人でも、ある時には、道ばたであったり、岩地であったり、いはらの中であったり、また良い地であったりすることがあるということです。しかし、そうした中にあっても、キリストのことばにとどまり、キリストとの交わりを持ち続けていくこ人は、多くの実を結ぶことができるようになります。それが主の弟子となるということです。

 

確かに、彼らはイエスを信じました。しかしその信仰というのは、まだ困難や迫害があると後戻りするような信仰だったのです。そのような人を信頼することができるでしょうか。私たちも、いざというとき、退いてしまうような友人がいるとしたら、そのような人に身を任せることはできないでしょう。それと同じです。しるしを見て信じることが悪いのではありません。病気が癒されたり、困難な問題が解決したという体験はすばらしいことです。しかし状況が悪くなると手のひらを返したかのように信仰から離れてしまうというのでは、ジェットコースターに乗っているかのように安定感がありません。そのような人に身を任せることはできません。

 

キリストとの出会いは大切です。けれども、その後ずっと、そのキリストに継続して従い続けることは、それと同じくらいに、否、ある面でそれにも増して大切なのです。私たちの信仰は信じて終わりというのではなく、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ者になるということ、つまり主の弟子になることが求められているのです。

 

いったいどうしたらそのような者になることができるのでしょうか。イエス様はご自分を信じたユダヤ人たちに、次のように言われました。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

この言葉からわかることは、私たちがキリストの弟子になるためには、キリストを信じることから始まるのですが、それだけで終わらず、主のみことばにとどまり、主に堅く結びつき、主との交わりの中に生きることが大切です。

 

私たちもキリストのことばにとどまり、キリストとの交わりの中に生きることによってキリストの弟子とさせていただきましょう。そのような者こそ主がご自分をお任せになる人なのです。少なくても自分に関しては、全身全霊をもって主イエスに従う決心をしようではありませんか。