士師記4章

士師記4章を学びます。まず1節から9節までをご覧ください。まず1節から5節までをお読みします。

 

Ⅰ.女預言者デボラ(1-5)

 

1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。

2 【主】は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの軍の長はシセラで、ハロシェテ・ハ・ゴイムに住んでいた。

3 すると、イスラエルの子らは【主】に叫び求めた。ヤビンには鉄の戦車が九百台あり、そのうえ二十年の間、イスラエルの子らをひどく圧迫したからである。

4 ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。

5 彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た。

 

前回3章で、三人の士師たちについて学びました。オテニエル、エフタ、シャムガルです。この三人にはそれぞれ特徴がありました。オテニエルは勇士で、主の霊が彼の上に臨み、力強い戦いをしたので、彼はアラムの王クシャン・リシュアタイムを抑え、40年間イスラエルを穏やかに治めました。

そしてエフタは左利きであることが強調されていました。彼はそうした人と異なる点を有効に用いてモアブの王エグロンを打ち破り、イスラエルに平穏をもたらしました。

それからもう一人はシャムガルです。彼は牛を追う棒でペリシテ人六百人を撃ち殺しました。牛を追う棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒でしたね。そうです、シャムガルは普段農作業をしていた普通の人でしたが、主はそのような人をも用いられたのです。

今回の箇所にはデボラという人が登場します。この人の特徴は何かというと、女性であったということです。主はイスラエルの解放のために女性も用いられました。

 

1節を見ると、イスラエルの子らは、主の目の前に悪であることを重ねて行ったとあります。エフデは死んでいました。エフデは自分に与えられた利点を用いてモアブの王エグロンを打ち破り、八十年もの間イスラエルに平和をもたらしましたが、そのエフタが死ぬとイスラエルはおのおの自分勝手なことをして、主の目の前に悪を行うようになったのです。

 

すると主は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手にイスラエルを売り渡されました。ヤビンの軍の長はシセラという人でしたが、彼はイスラエルの子らをひどく圧迫しました。ヤビンには鉄の戦車が九百台もあったので、イスラエルは彼らの前に何の成す術もなかったのです。それでイスラエルはどうしたかというと、主に叫び求めました。人は苦しくなると主に叫び求めるようになります。そうでないと主を振り向くこともしないのに、しかし苦しくなると主に助けを求めて叫ぶようになるのです。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)と言われましたが、まさに心が貧しくされるような時、人は神に救いを求めやすくなるのです。そういう意味では、イスラエルが敵に圧迫されるという経験は、彼らが主に向くチャンスの時でもあったと言えます。

 

すると主はひとりの士師を彼らのもとに送りました。誰ですか?デボラです。4節を見ると、「ラピトデの妻で女預言者デボラが、そのころイスラエルをさばいていた。」とあります。彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるなつめ椰子の木の下に座しており、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来ていたのです。デボラの特徴は何かというと、女性であったということです。女預言者です。このように聖書にはしばしば女預言者が登場します。たとえば、モーセの姉ミリヤムは預言者でした。また、Ⅱ列王記22章14節には、女預言者でフルダという人が登場しています。彼女は、ヨシヤが南ユダの王であったとき、預言を行なっていました。そしてイエス様がお生まれになったとき、エルサレムにはアンナという女預言者がいました(ルカ2:36)。それから使徒の働き21章10節には、伝道者ピリポには四人の娘がいたことが記されてありますが、彼女たちは預言をしていました。そしてコリント第一11章6節には、女が預言をしたり祈るとき、と書かれてあります。

このように女性も神のみことばを語るために用いられていたことがわかります。ですから、女性はいっさい神のみことばを教えてはならないというのは誤った教えです。女性も主の働きに用いられるのです。しかしながら、聖書にはそこには神の秩序があることが教えられています。1コリント11章3節から11節までを開いてください。

3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。

5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。

6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。

8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。

9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。

11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

ここには、すべての女のかしらは男であり、男のかしらはキリストであり、キリストのかしらは神です、とあります。これが神の秩序です。男性が女性よりも偉いとか、能力があるということではありません。多くの場合男性よりも女性の方が能力が高い場合があります。特に霊的な面においてはそうです。しかしだからといって女性が勝手に預言してもよいのかというとそうではなく、そこには男性の権威があるということをわきまえなければなりません。このことが女預言者デボラにも見られます。彼女はバラクが戦いに出るように彼を励ましていることがわかります。そのために用いられているのです。自分がかしらとなるのではなく、そのかしらを手助けする働きに徹しているのです。彼女はどのようにバラクを励ましたでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

6 あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。

7 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」

8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」

9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。【主】は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。

 

デボラは人を遣わしてバラクを呼び寄せると、彼に、「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」と言いました。ここでデボラは、「主はこう仰せられる」と言わず、「命じられたではありませんか」とバラクに念を押しています。なぜなら、おそらくバラクにも同じような主のことばがあったからです。しかし、バラクはなかなかその重い腰をあげませんでした。そこでデボラは「主はこう命じられたではありませんか」と言って彼を励まし、それを行なうようにと勧めているのです。これは女性ならではのいい方ではないでしょうか。男性だったら、「ダメじゃないか。主はこう言っておられるのにどうしてやらないんだ」と言うでしょう。そうするとそれを受けた人はもうやる気を失せてしまいます。しかし、デボラのように「こう言われたではありませんか」と優しく念を押した上で、だからこうするようにと主はお語りになっておられますよ、と言われると、「そうか、じゃ行くとしようか」となります。

8節を見ると案の定バラクは彼女にこう言っています。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」デボラが一緒に行ってくれるのなら大丈夫だという確信を得ているのです。それほどデボラに励まされているのです。言い換えるなら、バラクはデボラの手のひらの上で転がされていたのです。デボラは男性の扱いをよく心得ていたのですね。

 

そのようにせがむバラクに対してデボラは、「私は必ずあなたと一緒に行きます。」と約束しました。「ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。」どういうことでしょうか。

確かにバラクはデボラに励まされて戦いに出て行きますが、彼が信頼していたのは主ではなくデボラであったということです。ですからここで一つの条件を付けているのです。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。」主が彼に求めていたことはこうした条件を付けることではなく、絶対的に従うことでした。神の国とその義とをまず第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、すべてのものは備えられるからです。それなのに彼は神ではなくデボラを求めました。それゆえに、彼は誉れを受けることはできなかったのです。

 

私たちも神さまに呼ばれるとき、必要な物や必要な人がいます。けれども、その必要が満たされなければ神の命令に従わないというのは神のみこころではありません。主が私たちを呼ばれるとき、無条件で従うことが求められます。必要な物がなくても、必要な人がいなくても、主が「こうしたなさい」と言われるのなら、無条件でそれに従っていかなければならないのです。そうすれば、それに加えてすべてのものが備えられるのです。

 

Ⅱ.主の御業(10-16)

 

その結果どうなったでしょうか。次に、10節から16節までをご覧ください。

10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

11 ケニ人ヘベルは、モーセのしゅうとホバブの子孫のケニ人たちから離れて、ケデシュに近いツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。

12 一方シセラに、アビノアムの子バラクがタボル山に登ったと知らされた。

13 シセラは自分の戦車すべて、すなわち鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をみな、ハロシェテ・ハ・ゴイムからキション川に呼び集めた。

14 デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、【主】があなたの手にシセラを渡される。【主】があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」そこで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼の後に従った。

15 【主】は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた。

16 それでバラクは、戦車と陣営をハロシェテ・ハ・ゴイムまで追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいなかった。

 

バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上って行きました。もちろん、デボラも一緒です。するとシセラは自分の戦車のすべて、すなわちあの鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をキション川に呼び集めました。

するとデボラはバラクに言いました。「立ち上がりなさい。今日、【主】があなたの手にシセラを渡される。【主】があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」ここでも彼女は、「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか」と言って主のみことばを語って励ましています。本当に励ましの人です。

それで、バラクはタボル山から下り、一万人の兵とともに出て行くと、何と主がシセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を混乱させたので、敵はみな剣の刃に倒れ、残された兵は一人もいませんでした。シセラも戦車から飛び降り、自らの足で逃げ去りました。

 

強大な戦力であったはずの戦車がかえって戦いの邪魔になってしまいました。主が混乱させたからです。主はその強さを逆に弱さにされました。逆に、主は弱さを強さに変えてくださいます。私たちは時々不利な状況を見て戦うことができないと思うことがありますが、主はそれを強さに変えてくださいます。こんな田舎で伝道してどれだけのことができるかわかりません。しかし、主はそれを利点に変えてくださいます。主がともにいてくださるなら、どのような状況も最善なのです。主は宣教のことばの愚かさを通して、そこから救われる人を起こしてくださるからです。

 

Ⅲ.ヤエルの鉄の杭(17-24)

 

最後にその結末を見たいと思います。17節から24節までをご覧ください。

17 しかし、シセラは自らの足でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げた。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからである。

18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人様。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼を布でおおった。

19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてくれ。喉が渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋を開けて彼に飲ませ、また彼をおおった。

20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入り口に立っていてくれ。もしだれかが来て、ここにだれかいないかと尋ねたら、いないと言うように。」

21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の杭を取ると、槌を手にしてそっと彼に近づき、そのこめかみに杭を打ち込んで地に突き刺した。彼は疲れて熟睡していたのである。こうして彼は死んだ。

22 ちょうどそのとき、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て言った。「おいでください。あなたが捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに行くと、なんと、シセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには杭が刺さっていた。

23 こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させた。

24 イスラエル人の勢力は、カナンの王ヤビンに対してますます強くなり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

 

シセラの兵はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいませんでしたが、シセラだけは戦車から飛び降りて、自らの足で逃げました。彼が逃げたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕でした。

ケニ人というのは11節にあるようにモーセの義兄弟の子孫です。モーセはエジプトを逃れてミデアンの荒野へ行き、そこでチッポラ(ツィポラ)という女性と結婚しました。その兄弟がホパブです。そしてその子孫がケニ人です。ヘベルは、ケニ人から離れて、ケデシュに誓ツァフアニムの樫の木のそばで天幕を張っていたのですが、シセラはそこへ逃げ込んだのです。それはハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからです。シセラがヤエルの家に逃れると、彼を布でおおい、水を飲ませました。そして彼がヤエルに「天幕に立ってくれ・・」と言うと、彼女は天幕の杭を取って、彼のこみかめに打ち込み、地に突き刺しました。彼は疲れて熟睡していたのです。こうしてシセラは死にました。こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させました。

 

こうしてデボラの言ったあの預言が成就しました。つまり、「あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」とバラクに言ったあの預言です。カナンの王ヤビンの将軍シセラと戦ったのはバラクでしたが、誉れを受けたのはヘベルの妻ヤエルでした。彼女は天幕の杭でシセラを地に突き刺しました。当時天幕を張るのは女性の仕事でした。ですから鉄の杭も槌(つち)もいつも使っているものだったのです。シャムガルと同じですね、普段使っているもので戦っています。台所で調理しているような普通の主婦が、あの強靭なシセラを倒すために用いられたのです。このように神はご自身の働きのために女預言者デボラばかりでなく普通の主婦も用いられました。か細い女性であっても主の御手の中にあることによって、主はご自身のために用いてくださるとのです。そのことを覚えて、私たちもいつもへりくだって主に主に仕えて行きたいと思います。

 

 

ヨハネの手紙第一4章7~21節「ここに愛がある」

きょうは「ここに愛がある」というタイトルでお話しします。ヨハネは偽りの教師たちが間違った教えを教会の中に持ち込み教会が混乱する中、そうした教えに惑わされることがないようにこの手紙を書きました。そのために必要なことは何でしょうか。それは、神がどのような方であるのかを知ることです。そこで彼は1章と2章で神は光であると述べました。ですから、神のうちにとどまっている人は、神が光であられるように光の中を歩まなければなりません。3章と4章のテーマは愛です。神は愛です。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょうか。その愛を考えなければなりません。

 

きょうの箇所は、その続きです。16節にははっきりと「神は愛です」(16)とあります。神は愛を持っている方であるとか、愛なる方であるというのではなく、愛そのものだというのです。その神を信じた人はどうあるべきでしょうか。当然その愛に生きるべきです。11節には、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」とあります。きょうはこの「神の愛」について三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.ここに愛がある(7-10)

 

まず7節から10節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。なぜなら、神は愛だからです。」

 

ヨハネはここで再び互いに愛し合うことを勧めています。なぜ私たちは互いに愛し合うのでしょうか?3章11節には、それは私たちが初めから聞いている教えであり、それによって私たちが神から生まれた者であることがわかるからだとありましたが、ここには別の理由が上げられています。それは、愛は神から出ているからです。愛はどこから出ているのでしょうか。それは人の心の中からでも、この世の何かからでもなく、神からです。したがって愛がある者はみな神から生まれ、神を知っていますが、愛のない者には神がわかりません。なぜなら、「神は愛だからです。」神は愛です。愛そのものなのです。ですから、この神を知っているならば当然互いに愛し合うはずですし、知らなければ愛し合うことはできません。私たちが兄弟を愛するのはこの神の愛の性質のゆえであり、その結果なのです。

 

では神はこの愛をどのように示されたのでしょうか。9節と10節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

皆さん、愛はどこにあるのでしょうか?聖書は「ここある」と言っています。神がそのひとり子を遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。そのことの中にあるというのです。この「神はそのひとり子を世に遣わし」というのは、神の御子が人となって来てくださったことを意味しています。神の御子が人となって来られ、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださいました。その事実のことです。それは、私たちがこの方を信じていのちを得るためでした。同じヨハネが書いた福音書には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とあります。

 

私たちが神を愛したのではありません。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」この「宥めの供え物」についてはすでに2章2節で説明しましたが、罪に対する神の怒りを宥めるものという意味で、つまり、キリストの十字架のことを表しています。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、全世界の罪のための宥めのささげ物です。」(2:2)

キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくれました。イエス・キリストが十字架にかかってくれたことで、私たちの罪に対する神のすさまじい怒りが完全になだめられたのです。それはイエス・キリストが神の怒りを宥めるために、神が要求するすべてのものを満たすものであったということです。それゆえ、このキリストの十字架の死によって、私たちの罪はすべて赦されました。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいました。」(Ⅰヨハネ1:7)もう愛を求めて探し求めて走り回る必要はありません。ここに愛があるからです。

 

私の知っている方に薬学を極めた方がおられまして、その方はWHOでも働いたという経歴をお持ちの方ですが、長年難病の治療薬の研究に携わり、世界中を巡回して薬草と言われるものを求めて、薬の原料になりそうなものを捜し回ったそうです。しかしそれはなかなか大変で当たり外れが大きい仕事であったようです。薬は人間にとって必要なものですが、それを見出すのは簡単なことではありません。しかし、「愛」を求めて捜し回る必要はありません。愛はここにあるからです。ここにしかありません。それは既に神がしてくださり、私たちがいつでも受け取ることができる十字架の事実の中にあるのです。

 

先ほど、チルドレンズタイムのお話しの中で紹介されたショーンは、ほんとうの愛を探し求めました。愛し合うはずの両親がどうしていつも言い争ったり、けんかばかりするのか、そして離婚することを決意した両親に仲良くなってもらいたいと、ほんとの愛探しが始まりました。もしほんとうの愛を見つけることができたら、両親を助けてあげる事ができると思ったのです。

どこを探したら良いのか、と思いました。彼のクラスの先生は、答えは辞書の中にあると言っていたから、きっとその中に答えがあるはずだと、翌日教室の大きな辞書を開きましたが、そこにはこう書かれてありました。「愛とは、あるものに引き付けられ、それを慕い、あるいは慈しみ、可愛がる気持ち」全く意味不明です。ショーンはため息をつきました。どうしたらその愛を手に入れることができるのか、辞書はその答えを教えてくれませんでした。余計に分からないことが増えただけでした。

それで彼は別のところを探さなければなりませんでした。どこを探したら良いだろう。そうだ、以前パパがママに愛してるって伝える時には、カードのお店に行って「愛してます」というカードを買っていたから、そこに行けば答えが見つかるかもしれないと思いました。

それで彼は赤い自転車を走らせて、近くのカードのお店に行きました。「すみません」とショーンはお店の人に言いました。「本当の愛を教えてくれる特別なカードが欲しいんです。」するとお店の人はにっこりと笑って「こちらが一番素晴らしいカードになっています。お探しのものが見つかればいいのですけれど。」と案内してくれました。ショーンはその中から何枚かのカードを読んでみました。その中の一枚にはこんな風に書いてありました。「愛は一日を一緒に過ごすこと。」なるほど、パパとママはずっと一緒に過ごしてはきたけれど、していた事はけんかばかりだな。今では、家族として一緒に住んでさえいない。別のカードにはこうありました。「愛はごめんなさい、ということ。」ショーンはこれがパパたちに必要な事だと思いました。「ごめんなさい」と言って仲直りしないと。

しかし、彼は自分に必要な答えのカードを見つけることができませんでした。でもあきらめないぞと彼は思いました。両親のためにほんとうの愛をみつけなければならないと思いました。

次の日、学校に行く途中で友達のタイソンが近寄って来て言いました。「なんだか元気がないようだけれど、どうしんだい?君を元気づけるためにぼくにできることないかい?」

「ないと思うよ、元気になれる方法は一つしかないんだ。本当の愛は何か、どうやったらそれを手に入れることができるかってことだから。」

するとタイソンは大きな笑みを浮かべて言いました。「それなら僕、助けられると思うよ。」

「助けられる?どうやって?」

「僕と一緒にグッドニュースクラブに行こうよ。先週ネルソン先生が、今日のバレンタイン・パーティーで今まで聞いたこともないようなすばらしい愛のお話しをしてくれるって言ってた。本当の話なんだって。」

それで、ショーンは急いでパーティーに行くと、先生が言うことを一言も逃さないように、一番前の席に座りました。

するとネルソン先生は、本当の愛のお話しは神様の本、聖書の中に書いてありますと言って、イエス様のお話しをしました。イエス様は神の御子で、神様はこのイエス様を特別な目的のために天国からこの世に送ってくださったということ、そして、その目的とは私たちが罪の罰を受けることがないように身代わりとなって十字架で死んでくださるということでした。ショーンは、みんなが幸せになる愛のお話しだというので来たのに、死ぬだなんて悲しくなっちゃうと思いましたが、それは私たちが死ぬことがないためであったと言うことを知り、イエス様がどんなに自分の事を愛してくださったかが、分かってきました。そして、自分のためにイエス様が死んで、よみがえってくださったことを感謝し、イエス様に救い主となってくださるようにお願いしました。ショーンは、本当の愛とそれがどこから来るのかが分かってとてもうれしくなりました。

そして、急いで家に帰ってそのことをママにお話しすると、その午後ママもイエス様を信じて受け入れたのです。そしてその週の週末に自分を迎えに来たお父さんにそのことを話すと、お父さんは、残念ながら、「ショーン、悪いけどお父さんは神様やお前が話している愛について興味がないんだよ。」と言って拒絶しました。お父さんが受け入れてくれなかったことは残念でしたが、彼は、いつかお父さんも神様からの特別な贈り物を受け取ることができるようにと祈り、本当の愛がどこから来るのかを見つけることができたことを感謝しました。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自分の御子を遣わされたのです。ここに愛があるのです。もう愛を求めて探し回る必要はありません。それは神がすでに神の側でしてくださった十字架の御業にあります。私たちはいつでもその愛を見出し、受け取ることができるのです。

 

Ⅱ.互いに愛し合うなら(11-16)

 

第二に、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。11節から16節までをご覧ください。11節と12節をお読みします。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 

ここでヨハネは神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです、と言っています。ヨハネは、私たちがこれほどまでに神に愛されたのだから、私たちも神を愛すべきですとは言っていません。神を愛するというのは確かにそうですが、しかし、神を愛することは兄弟を愛する事であり、そのことによって表されるというのです。

 

20節と21節にはそのことが明確に語られています。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けているのです。」

ですから、神を愛するという者は兄弟をも愛すべきなのです。それによって、私たちが神を愛しているかどうかがわかるからです。ここに愛の流れがあることがわかります。愛は神から私たちへと流れ、そしてその愛は、今度は私たちから兄弟へと流れていくのです。その時神が私たちのうちにおられることがわかります。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、もし私たちが兄弟を愛するなら神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちにうちに全うされるのを見ることができるのです。

 

ソ連のある博物館にガガーリンの写真が飾られていて、その下に次のようなことばが書いてあるそうです。それは、「彼は宇宙へ行った最初の人間である。彼はそこで周囲を見渡したが神は見えなかった。故に、われわれは神が存在しないと確信する。」(ハンス・クリスチャン「鉄のカーテンと十字架」、いのちのことば社)

どうでしょう、確かに肉眼で神を見た者はだれもいません。しかし、それで神がいないということの証明にはなりません。なぜなら、私たちが愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちの内に全うされるからです。それを見ることができます。

 

以前、私が福島で牧師をしていた時、町内会の会長さんが教会にやって来て、よくこう言われました。「いや、お宅のところに来ている若い人たちは大したもんだ。会うたびにニコニコして挨拶してくれんだもの。」「なかなかいねぞい!」「まあ大したもんだ」

またある日全く知らないおばあさんが教会にやって来て、お茶菓子の包みを差し出すと、「これ、キリストの神様に供えてくれ」と言いました。「何ですか、これは?」と聞くと、「いやない、ここに来てる○○さんっていっぺした。あの人ない、ここに来るようになってから愚痴一つ言わなくなったんだぞい。キリストの神様は大したもんだ!」

いまだかつてだれも神を見た者はいません。しかし、私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

そればかりではありません。13節をご覧ください。ここには、「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」とあります。どういうことですか?今、私たちは互いに愛し合うことによって、神の愛が私たちのうちにとどまっているのを見ることができると言いましたが、そればかりではなく、神が私たちに与えてくださった御霊によって、そのことが分かるというのです。他の人に、「神がいるなら見せてみろ」と言われても、神は目で見ることができない方ですから見せることができません。しかし、私たちは確かに神はおられることを知っています。それは神が私たちに与えてくださった御霊によってです。御霊によって神が私たちのうちにおり、私たちも神のうちにいることが分かるのです。

 

ヨハネは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証をしました。そしてその証を受け入れる人、すなわち、イエスが神の御子であることを心に受け入れ、また告白する人に、ご自身の御霊を与えてくださいました。この御霊によって確かに神が私たちのうちにおられ、私たちも神のうちにいることを見ることができるのです。

 

16節はヨハネの確信です。ご一緒に読んでみましょう。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」

神が私たちのうちにおられ、私たちが神のうちにいることを確信することができるのは、私たちがこの愛にとどまっているかどうかによってです。神は愛ですから、この愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられるのです。

 

あなたはこの愛を信じていますか?この愛にとどまっているでしょうか?神は愛です。もしあなたがこの愛にとどまるなら、あなたは神のうちにおり、神もあなたのうちにいてくださいます。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、私たちが互いに愛し合うなら、その神をはっきりと見ることができるのです。

 

Ⅲ.全き愛は恐れを締め出す(17-21)

 

第三のことは、その結果です。それは、愛は恐れを締め出すということです。17節と18節をご覧ください。

「こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

 

こうして神の愛が私たちに全うされます。「こうして」とは、神の愛が神から出て私たちの内にあふれ、その愛が兄弟に向かって流れて行くことによって、神は生きておられるということがすべての人に証されることによってということです。その結果どうなるのでしょうか。その結果、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。何ですか、さばきの日とは?聖書にはさばきについて二つのことが言われています。一つは、永遠の行き先を決めるさばきです。主イエスを信じて罪赦され、いのちの書に名前が書き記された人は永遠のいのちに、しかしこのいのちの書に書き記されていない人は、火の池に投げ込まれます(黙示録21:15)。

 

もう一つは、神の国に入れられた人たちの中で行われる、報いを決めるためのさばきです。Ⅱコリント5章10節には、「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」ここで言う「私たち」とは、クリスチャンのことを指しています。また「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしい人なのか地獄にふさわしい人なのかを決めるさばきのことではありません。そこに集められた人はみんなクリスチャンですから、天国に行くことは決まっているのです。ただ、その人が、与えられた命や人生を、神のためにどのように使ったのかが試さる時があるのです。そのさばきのことです。もっと言うなら、目に見える兄弟を愛することによって、目に見えない神を愛したかどうかが試されるのです。

 

みなさんは、テレビで美人コンテストを見たことがあると思います。美人コンテストに参加している人はみな美人です。あれは、美人かどうかを決めるコンテストではありません。もうすでにみんな美人なのです。あとは、その人の持っている特技とか内面性をアピールして、どの人が一番美人かを決めるためのコンテストです。このさばきの座に似ています。クリスチャンはみな義人です。ただ、クリスチャンがその与えられた永遠のいのちを、この地上でどのように神と人々のために使ったのかを評価されるのです。神の栄光のためにしたのか、自分の栄誉のためにしたのか、神の喜びのために生きたのか、自分の喜びのために生きたのかが問われるのです。だからパウロはⅠコリント15章58節でこのように勧めているのです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

イエス様も、「自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(マタイ6:19)と言われましたが、神の恵みによって救われた私たちは、この地上にあって、天に宝を蓄える者でありたいと思います。

 

ヨハネがここで言っているさばきとは、この二つの神のさばきの両方のことを言っています。もしあなたが神の愛を知り、神の御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うなら、確信を持つことができます。大胆でいられるのです。このことについてはすでに3章19節と20節でも語られました。「そうすることによって、私たちは自分自身が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。」「ああ、また失敗しちゃった、何であんなことをしてしちゃったんだろう。なぜあんたなことを言っちゃったんだろう。こんな者でも天国に行けるだろうか。」と、私たちは自分を責めることがあります。しかし、私たちがイエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合うなら、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。そういう確信を持つことができます。なぜなら、その次のところに理由が記されてありますが、「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。」つまり、神の愛が全うされることによって、私たちはこの世にあってキリストに似た者としての歩みをしていることになるからです。

 

このように、愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。全き愛にはさばきを恐れる心がないのです。したがって、今恐れがあるという人の愛は全き者となっていないということになります。やがて神の御前に立たされる時どのような宣告を受けるのか、どのような報いを受けるのかがわからないので不安なのです。それは10節と14節にある神の愛を受けていないのか、それともそれを受けていてもその人の中にその流れを妨げるものがあって、互いに愛し合うという神の命令を行っていないかのどちらかです。そのような人は、主が再び来られるときその御前に立つ日が恐ろしくて不安でしょう。けれども兄弟を愛するなら、こうした恐れは消え去ります。全き愛は恐れを締め出すからです。この神の愛に生きるなら、さばきの日に確信を持つことができるばかりか、この地上にあって日々喜びと平安をいただき、大胆に生きることかできるのです。

 

日本で最初にバプテスマを受けたプロテスタントの信者は矢野元隆という人です。彼は医者で、幕府の紹介によりブラウン、バラといった宣教師の日本語教師となりました。1864年11月4日、彼はバラからバプテスマを受けましたが、翌月12月5日に結核のためこの世を去りました。バプテスマを受けた翌日、彼はバラ夫妻に言いました。「私は間もなくイエス様にお会いします。その時あなたがたが私にしてくださったことをイエス様にお話ししましょう。」するとバラ夫妻は、「イエス様に私たちの名が告げられること以上に貴いものがこの世にあるだろうか」と言って喜んだそうです。矢野はバラ宣教師を通して神の愛を受けました。バラ宣教師は神から受けた愛を矢野に伝えたのです。そして共々イエスの御名をあがめました。両者は共々にさばきの日の確信を持つことができました。それは共々に神の全き愛の中にとどまっていたからです。

 

ですから、結論は何かというと、私たちは互いに愛し合いましょう、ということです。なぜなら、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちはその愛を神から受けたのです。であれば、その神への愛は、兄弟への愛となって現われるはずです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者となります。目に見える兄弟を愛さない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。それは一致していません。神への愛と人への愛は一つでなければならないからです。祈りのことばと人へのことば、教会での態度と家庭での態度がバラバラであるなら、その人の行動はなかなか理解できません。神を愛しているとは言っても、実際には愛していません。この「目に見える兄弟」とは「ずっと見ている兄弟」という意味で、一番身近なクリスチャンのことです。一番身近なクリスチャンを愛していない、すなわちすぐできることをしていないのに、神を愛しているなどとはとても言えないのです。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。私たちはこの愛にとどまり、この愛に生きる者となりましょう。それこそ、神が私たちに求めておられることなのです。

ヨハネの手紙第一4章1~6節「神から出た者」

きょうから4章に入ります。ヨハネはクリスチャンに神を知ってほしいとこの手紙を書きました。1章と2章では神は光であるということ、そして3章からは、神は愛であるというテーマで語っていますが、この4章はその続きです。3章1節には、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあります。それがどんなにすばらしい愛であるのかを知ってほしい。それは単に頭で知るだけではなく心で深く体験することです。深く交わることです。

 

Ⅰ.吟味しなさい(1)

 

まず、1節をご覧ください。

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」

 

神の愛について語るというのですからもっと温かい内容かと思ったら、ヨハネは突然、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」と語ります。神の愛といったいどんな関係があるというのでしょうか、全く関係ないじゃないですかと思われる方もおられるのではないかと思います。でもそれは愛とは何であるかを知らないからです。愛の賛歌として有名なⅠコリント13章6節には、愛は、「不正を喜ばずに真理を喜びます。」とあります。皆さん「愛」とは何でしょうか。愛とは何でも受け入れるということではありません。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(Ⅰコリント13:4-7)これが愛です。愛は不正を喜ばずに真理を喜びます。ですから、真理は何かを吟味しなければならないのです。

 

ここには、「霊をすべて信じてはいけません」とあります。この「霊」とは原語で「プニューマ」という言葉です。これはその前の3章24節の「御霊」と訳されている言葉と同じ言葉です。3章24節の「御霊」も4章1節の「霊」も同じ「プニューマ」という語ですが、それが神の霊であるということが文脈上でわかる場合は「御霊」と訳されているのです。英語では大文字の「Spirit」と大文字で表記することで、それが神の霊であることがわかります。しかし、「御霊」も「霊」も原文では同じ「プニューマ」が使われているので、どの霊のことを言っているのかは文脈をよく見なければわかりません。神の霊もあれば、悪魔の霊、悪霊もあります。また天使も霊的存在ですし、私たち人間も神のかたちに造られたとあるように霊をもっています。いろいろな霊があります。ですからヨハネは、霊だからと言ってすべてを信じてはいけないと言っているのです。何でもかんでも聖霊の働きだとは限りません。私たちは時々、これは聖霊の力だとか、聖霊の導きだと聞くことがありますが、それを鵜呑みにしてはいけないということです。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。偽預言者がたくさん世に出て来ているからです。

 

パウロはコリントの教会に宛てて書き送った手紙の中でこのように言っています。

「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受けたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。」(Ⅱコリント11:3-4)

パウロの時代、コリントの教会の中にも別のイエスを宣べ伝えたり、異なった霊、異なった福音をもたらす者たちがいました。パウロはそのような者たちの悪巧みによって彼らの純粋な信仰が汚されてしまうのではないかと心配していたようですが、コリントの教会はそうした教えに惑わされることなく、純粋な信仰を保っていたのです。

 

それは二千年前のコリントの教会ばかりでなく、二千年後の今日の教会にも言えることです。同様の問題が起こっています。新しい教えの風が吹いてくると、何でもかんでも信じたくなります。信仰が未熟であればあるほど、聞いたらそのまま受け入れてしまいたくなるのです。勿論、神のみことばに対しては幼子のように素直に聞き従うという姿勢が大切です。でもほんとうにそうなのかどうかは、よく吟味しなければなりません。

 

イエス様は12人の弟子達を伝道に送り出すとき、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16)と言われました。それは狼の中に羊を送り出すようなものだからです。それは安全が保証されているような気楽な務めではありません。そのような彼らに求められていたことは、蛇のように賢く、鳩のように素直であることでした。どちらか一方だけではいけません。蛇のようにいつもしかめっ面ばかりしていてはいけません。疑い深いトマスのように、「俺は絶対に信じない」といった態度では良いものも入ってこなくなります。しかし、鳩のようにただ素直であればいいというのでもいけません。そうした教えに惑わされて信仰の純粋さを失ってしまうことになるからです。ですから、霊だからといって何でもかんでも信じるというのではなく、その霊が神からのものであるかどうかを、よく吟味しなければならないのです。時には蛇のような賢さを持ち合わせていなければならないということです。

 

使徒の働き17章10,11節には、ベレヤの人たちの信仰について紹介されています。迫害によってテサロニケを追われたパウロとシラスはこのベレヤの町に逃れますが、そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入りました。会堂に入るとびっくり!彼らはテサロニケにいた人たちよりも素直にみことばを受け入れただけでなく、果たしてそのとおりかどうか、毎日熱心に聖書を調べていたからです。その結果、彼らのうちの多くの者が信仰に入りました。

 

みことばを熱心に聞き、それを素直に信じることは大切なことです。しかしそれが本当かどうかを調べることは、私たちが祝福された信仰生活を送っていくためにとても重要なことなのです。ローマ・カトリック教会では、聖書は私的解釈を施してはならないとあることから教会の正式な解説がなければ読めないと主張しますが、そうではありません。このベレヤの人たちのように「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」ることができます。霊だからといって何でもかんでも信じてはいけません。その霊が神からのものかどうかを、吟味しなければならないのです。

 

Ⅱ.神からの霊(2-3)

 

では、それが神からのものであるかどうかをどうやって見分けることができるのでしょうか。2節と3節をご覧ください。

「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」

 

いったいどのようにしてそれが神からの霊であると知ることができるのでしょうか。それは、人となって来られたイエス・キリストを告白する霊であるかどうかによって分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。しかし、イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。告白するとは信じるということです。人となって来られたイエス・キリストを信じているかどうか、それを信じている霊はみな、神からのものですが、それを信じていない霊はみな、神からのものではないのです。

 

ところで、ここではただイエス・キリストを告白しない霊というのではなく、人となって来られたイエス・キリストを告白する霊ということが強調されています。どういうことでしょうか?これは以前にもお話ししたように、当時教会の中に吹き荒れていたグノーシス主義という考えの影響があります。グノーシス主義の特徴は霊肉二元論です。つまり、この世界は物質と霊によって成り立っており物質は悪であるが、霊は善であるという考えです。ですから、このグノーシスの考えによると、神の子であるキリストが人となって来られるはずがないというのです。神は霊であって善であるのに対して、肉体は物質であって悪だからです。だからキリストが人となるわけがないのです。それは人の目でそのように見えただけであって、まるで人の姿をとって生まれ、人として生き、人として死に、人として復活したかのように見えにすぎないというのです。こういうのを何というかというと「仮現論」と言います。仮に現れたかのように見えるという意味です。それは本当ではなくただの幻影にすぎないが、そのように見えたというものです。これがキリスト教会の中に蔓延していました。

 

こうしたグノーシス主義の教えは、当時のクリスチャンたちにとんでもない結果をもたらしました。一つは禁欲主義です。すべての肉は悪なので、その肉を打ちたたいて悟りを開こうとしました。それが断食であったり、難行苦行という形で現われました。しかし、残念ながらそのようなことによって霊の世界を開くことはできません。私たちの霊が救われるのはただ神が人となって来られたイエス・キリストを信じ、私たちの罪の贖いとして十字架で死んでくださったと信じることによってでしかありません。それ以外に救われる道はないのです。

 

グノーシス主義がもたらしたもう一つの結果は放縦主義です。放縦主義とはほしいままにふるまうとか、やりたい放題に生きるということです。これは禁欲主義とは正反対です。つまりこの肉の世界と霊の世界は何の関わりもないし、肉の世界ですることは霊の世界には何の影響も与えないのだから、何をしてもいいという考えです。

 

ですから、ヨハネはここで神からの霊がどのようなものであり、何が真理で正しい教えなのかをはっきり示してくれたので、私たちはその真理に堅く立つことができるようになりました。グノーシス主義は自分たちの勝手なイメージで神を作り上げ、教会の中に混乱と破滅をもたらしましたが、それは今日も同じです。特に聖書を読まない人に限って神はこういうものだと決め込んで、特別な知識がなければ本当の神を知ることもできないと主張し、その結果とんでもない生き方をするようになっていますが、本物の救いは聖書に記されたイエス・キリストにあります。人となって来られた神の御子イエス・キリストにあります。このイエスを告白する霊はみな神からのものであり、そうでないものはみな、神からのものではありません。それは悪魔からのもの、反キリストの霊なのです。

 

Ⅲ.神から出た者(4-6)

 

第三のことは、その結果です。神から出た者は、彼らに勝利することができるということです。4節から6節までをご覧ください。4節には、「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」とあります。「彼ら」とは、反キリストの霊によって動かされている人たちのことです。またその背後で働いている悪の力、悪霊のことです。神からの霊を受け、人となって来られたイエス・キリストを告白する者たちは神から出た者であり、そうした者たちに勝つことができるのです。それは私たちに力があるからではありません。私たちのうちに偉大な方が住んでおられるからです。それは聖霊なる神です。キリストの霊とも言われます。私たちの内には聖霊が宿っておられます。キリストの御霊が住んでおられます。それによって私たちはこの世にいる者、これはこの世の支配者である悪魔、サタンのことですが、それに勝利することができます。この世での信仰生活にはさまざまなプレッシャーがありますが、そのようなプレッシャーの中でも勝利することができるのです。

 

それはちょうど深海魚のようです。深海魚は不思議なもので水深何千メートルという海の底で生きています。どうしてあんな深い海の底で生きられるのでしょうか。海の底は深ければ深いほど相当の水圧がかかるため、普通の魚は生きていくことはできません。それなのに深海魚はその水圧をもろともせずに平気でスイスイ泳いでいます。それは深海魚の皮が潜水艦のように分厚い鉄板に覆われているからではありません。実は深海魚は中が脂身でいっぱいだからです。アンコウを思い出してください。脂がのっていておいしいですよね。その脂が浮袋のようになって水圧を押し戻すので、どんなに水圧がかかっても大丈夫なのです。

 

クリスチャンは深海魚のようです。アンコウに似ています。別に見た目が似ているということではなく、そうした世の中の圧力、プレッシャーを受けながらも、内側にイエス・キリストの聖なる御霊に満たされているので、どんなプレシャーにも勝利することができます。神を信じない罪の世界にいても、それに屈することなく、勝利の人生を歩むことができるのです。確かに、私たちは弱い者です。深海魚をみればわかります。皮は薄くブヨブヨしています。潜水艦のような分厚い鉄板で覆われているわけではありません。でも私たちの内には強い方、聖霊様が住んでおられるので、この方の力によってこの世にあっても圧倒的に勝利することができるのです。

 

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 

私たちがもしこの世に勝利しようと自分の外側を強めようとするならば、打ち負かされてしまうでしょう。どんなに鉄の鎧で自分を固めようとしても、すぐにつぶされてしまいます。私たちが作り上げるものでは、どうやってもこの世の敵に立ち向かっていくことはできません。でもどんなに私たちが弱くても、私たちの内にキリストの御霊、神の聖霊が住んでくださるなら、どんなプレッシャーにも耐えることができ、必ず打ち勝つことができます。なぜなら、私たちのうちにおられる方は、この世にいるあの者よりも力があるからです。

 

しかし、彼らはこの世の者です。ですから、この世のことを話し、この世も彼らの言うことを聞きます。その方がとても魅力的にも見えます。彼らは深海魚のような人たちではなく潜水艦のような人たちです。彼らは肉を誇ります。自分たちの力で何とかプレッシャーに打ち勝とうと躍起になっています。でもどうでしょうか。昨今のこの社会の動向をみると、それが間違っているということに少しずつ気付いてきているのではないでしょうか。学生のスポーツの在り方も勝利至上主義から人格形成のための一つの手段にすぎないということが見えて来て、今までの在り方がどこか間違っていたということに気付いてきているのです。私たちはアンコウのようなものです。この世の方がよっぽど強そうに見えます。でも見た目に騙されてはいけません。それが必ずしも強いわけではないのです。どんなに弱そうな者でも、その内側に神の霊を宿している人こそ本当に強い人です。あの人はまるで深海魚のように弱々しい。見た目もちょっと似ているかもしれないが、でもあの人の内にはものすごい力が働いている。それは神の力であるということを、イエス・キリストを信じて、その方が内に住んでくださることによって証明されるのです。

 

6節をご覧ください。「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者たちは私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。」

 

神から出た者は、私たちの言うことを聞くとあります。私たちの言うこととは、ヨハネたちの言うこと、すなわち、聖書の言うことです。神から出た者は聖書の言うことを聞きます。聖書の言うことを聞くか聞かないかによってそれが真理の霊なのか、偽りの霊なのかを見分けることができます。なぜなら、聖霊が聖書を書きました。聖霊は真理の御霊とも言われています。ですから、聖霊は聖書が言っていることと矛盾しません。しかし、聖書のことばに耳を傾けない、聖書の教えから外れていくなら、それは偽りの霊です。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けることができます。

 

あなたは神から出た者ですか。もしそうであれば、必ず神の御声、聖書の声に聞き従います。羊が羊飼いの声を聴き分けるように聞き分けます(ヨハネ10:27)。私たちの周りには実に多くの声がありますが、私たちの内におられる真理の御霊によって、また真理のみことばによって、真理の霊と偽りの霊をしっかり見分ける者でありたいと思います。愛はそこから始まります。愛は不正を喜ばずに、真理を喜ぶからです。

 

士師記3章

士師記3章を学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.主が残しておかれた異邦の民(1-6)

 

「カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。――これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。――すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。」

 

2章の終わりのところで言われていたように、確かにイスラエルの民は神の命令に背き、その地の住民を追い払うことをせず、かえって自分たちの首を絞めることになりましたが、それはまた、その地の住民によってイスラエルを試みるためもありました。1節、2節には、「主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、イスラエルの次の世代の者で、まだ戦いを知らない者たちに、戦い方を教え、知らせるためであった」とあります。

 

私たちの信仰生活にも、確かに、神の御心に従って、神の御心を成し遂げるための戦いがあります。それはこの世との戦いであり、罪との戦い、肉の欲望との戦い、悪魔との戦い、信仰をきよく保つところの戦いです。もちろん、戦いはできれば避けて通りたいことですし、平穏に暮らせるのであればそれに越したことはありません。しかし、私たちはそうした戦いの中で自分自身ではなく主に拠り頼むようになるのです。特に戦いを知らない次の世代の者にとっては、どうしても避けられないことでした。神は、それを教えるために、試練と苦しみを残しておかれたのです。

 

その信仰の試練を、イスラエルの民はどのように乗り越えたでしょうか。5節6節には、「彼らはカナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただなかに住み、彼らの嫁を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」とあります。つまり彼らはその地の住民と同化してしまったのです。神のみこころは、その地の住民と縁を結んではならないということでしたが(申命記7:3)、彼らは神の命令に背いてしまったのです。なぜでしょうか。

 

イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりはその地の住民と結婚し、平和的に同化してしまうことの方がずっと得策のようにすら思われからです。しかし、その結果どうなったでしょうか。イスラエルの民は、相手の神々を受け入れ、拝むことになりました。そしていつしか自分たちの神を忘れ、信仰の遺産を捨て去ることになってしまったのです。

 

ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。神の民であるクリスチャンはこの世にあっても、この世と調子を合わせてはいけません。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなければならないのです。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまいました。イスラエルの民の課題は、私たちの課題でもあります。聖書の真理を世に伝え、神の恵みの福音を語り伝える信仰的な戦いを意識できなければ、結局はこの世に流されてしまいます。神は戦いを教え、知らせようとされていることを忘れてはいけません。主がともにおられることを覚え、信仰の戦いに勝利させていただきましょう。

 

Ⅱ.オテニエル(7-11)

 

次に、7節から11節までをご覧ください。

「こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。主の霊が彼の上にあった。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。」

 

「こうして」とは、イスラエルの子らがその地の住民と婚姻関係を結ぶことで彼らと同化するようになり、彼らの神々に仕えるようになってということです。イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えました。すると主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡されたので、彼らは8年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えることを余儀なくされました。アラム・ナハライムはメソポタミアのことであり、現在のシリヤの北部に位置します。つまり、ずっと北に位置していた王がイスラエルまでやって来て、彼らを支配したのです。それでイスラエルが主に叫び求めると、主はイスラエルのために一人の救助者を起こして、彼らを救われました。それがオテニエルです。

 

彼はユダ族の出で、カレブの弟ケナズの子でした。すなわち、カレブの甥です。彼については1章11節のところに紹介されてあります。カレブがキルヤテ・セフェルに攻め入った際その地をなかなか攻略することができなかったとき、カレブは、「キルヤテ・セフェルを打って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言うと、このオテニエルが手を挙げ、それを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました(1:13)。ですから彼はとても勇敢な者であったことがわかります。主はこのオテニエルを最初の士師としてイスラエルを救うために遣わされたのです。

 

しかし、それは彼が勇敢だったというよりも、彼の上に主の御手があったからです。10節には、「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。」とあります。彼に特別な能力があったからではなく、また彼に軍事力や政治力があったからではなく、彼に主の霊が臨んだので、彼は勝利することができたのです。オテニエルがイスラエルをさばいていた40年間、イスラエルは穏やかでした。しかし、オテニエルが死ぬと状況は一変します。

 

Ⅲ.エフデとシャムガル(12-31)

 

12節から30節までをご覧ください。まず12節です。

「そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らが主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。」

このように新改訳聖書第三版では「そうすると」とありますが、原文では「ワウ」というへブル語の接続詞で、これは単純に「また」を意味するものなので、必ずしも、時間的な順序で、オテニエルが死んでからエフデの活躍があった、と理解する必要はありません。おそらくそういう理由から新改訳2017ではこの接続詞が省略されているのだと思われます。実際オテニエルが戦ったクシャン・リシュアタイムは、北方のアラムの王であり、エフデが暗殺したエグロンは、南方のモアブの王です。時間的にも、場所的にも、何の繋がりもありません。実際には、個別的で、部族的な事柄だったのです。

 

ですから、オテニエルの死とは直接的な関係はありませんが、イスラエル人は主の目の前に悪であることを重ねて行いました。それで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせました。

 

「エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。」

「なつめやしの町」とはエリコのことです。モアブはヨルダン川の東に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西にまでやって来て、エリコを占拠していたのです。こうして、イスラエルの子らは18年の間、モアブの王エグロンに仕えました。

 

そこで、イスラエルの子らが主に叫び求めると、主は彼らのために一人の救助者を起こされました。誰でしょう。エフデです。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きであったとあります。なぜここに左利きであったと強調されているのでしようか。左利きでも右利きでもどうでもいいじゃないかと思いますが、ここには左利きであったことが強調されているのです。その理由は後で明らかにされます。ここにはイスラエル人はそのエフデの手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送ったとあります。

 

その時です。エフデは長さ約1キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上の帯にはさみました。そして貢ぎ物を携えてエグロンのもとに行きました。ここにはわざわざエグロンがたいへん太った男であった紹介されています。なぜこんなことまでわざわざ記録されているのかわかりませんが、おそらく22節のところに、彼が剣で刺されたとき柄も刃も一緒に腹の中に入ってしまい、脂肪が刃をふさいでしまったということを言いたかったのでしょう。もしかすると、もっとダイエットしなさいと言っているのかもしれません。いずれにせよ、エグロンがたいへん太っていたということで、この時の様子がリアルに伝わってきます。

 

19節を見てください。エフデがエグロンに、「王様、私はあなたに秘密のお願いがあります」と告げると、エグロンは彼に、「今は、言うな」と言いました。どうしてエグロンはこのように言ったのでしょうか。エフデが秘密のお知らせがあると言ったことで、そばにいた者たちを出て行かせようと思ったのでしょう。それにしてもなぜエグロンが付き人たちを外に出させたのでしょうか。そこにはエフデの巧妙な手口があったことがわかります。それは21節の「あなたに神のお告げがあります」という言葉です。この「神」は、当時のイスラエル人が使う神の名「ヤハウェ」ではなく、その地域で広く使われていた一般的な神の名「エロヒーム」です。その「神」から王に秘密の知らせがあると言ったことでエグロンが興味を持ち、「今は言うな」とお付きの者を外に出させたのでしょう。つまり、エフデは実に巧妙な手口で彼を騙したのです。どうしたらエグロンを打ち破ることができるかを考えて、考え抜いて、見出した方法が、この方法だったのです。

 

そんなやり方を使うなんて汚いと思うかもしれません。しかし、私たちの戦いには綺麗な戦い方だけではなく、ある意味で泥まみれの戦いもあります。だからこそ、私たちは戦うことを避けたいと思ってしまうのです。もちろん、聖書はそのような戦い方を肯定しているわけではありません。パウロはⅡテモテ2章5節で、「規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」と語っているように、規定に従って競技をすること、労苦する農夫であることを勧めています。そのようなイメージで戦い抜くことを勧めています。しかし、この時のエフデにとってはそれが最善の策として神が彼に与えてくださったのです。

 

21節をご覧ください。「このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を指した。」

ここに、なぜエフデが左利きであることが記録されているのかがわかります。彼が左手を伸ばして右もものところに手を入れても、瞬時にそれが剣であるとは相手も気づきにくいでしょう。人間的には一般から離れているような特徴、他の多くの人と異なるので恥ずかしいと思うことがありますが、主はそれをご自分の栄光のために用いられるのです。

 

23節をご覧ください。彼は用意周到な人物でした。エグロンを指した後窓から出て廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めました。それは時間かせぎをするためです。案の定、彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来ますが、王のいる屋上の部屋にかんぬきがかけられているのを見ると、王は涼み部屋で用をたしていると思い、戸をあけませんでした。しかし、いつまで待っても出て来ないので、しもべたちが鍵を取って戸を開けると、王は床に倒れて死んでいました。

 

26節をご覧ください。エフデは、しもべたちが手間取っている間にセイラに逃れました。そして到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らし、イスラエルを招集しました。何のためでしょうか。28節にあるように、モアブに通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、彼らを打つためです。ヨルダン川の西にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをエフデは阻止しようとしたのです。そのようにしてイスラエル人は約1万人のモアブ人を討ったのです。モアブ人はみな、頑強で、力のある者たちでしたが、一人として逃れた者はいませんでした。

 

このようにして、モアブはその日イスラエルの手に下り、イスラエルはエフデのもとで80年間、穏やかに過ごすことができました。これは士師の中で最も長く続いた平和の期間です。

 

最後に31節をご覧ください。

「エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」

 

エフデと同時期に、違う地域でペリシテ人と戦った士師がいます。それはシャムガルです。彼は、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打ってイスラエルを救いました。牛の突き棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒です。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっていました。シャムガルは、おそらくは農作業をしていた普通の人だったのでしょう。このように、普通の人でも主に用いられます。普段の生活の場で大きな働きをするように主が用いられるのです。神学校に行かなければ伝道や牧会の働きができないというのではなく、主はその置かれているところで、その人が持っているもので仕えることができるように用いてくださるのです。

ローマ人への手紙3章1~8節「神は真実な方です」

きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらその神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であることを誇りから形式的に律法に仕えていました。そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であると言いました。御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てました。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、なぜ神は彼らをご自分の民として選ばれたのか、その理由を語ります。それは神が真実な方だからです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実です。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に応えましょう。

 

Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)

 

まず、第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったいと何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。

 

「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」

 

パウロは2章で異邦人同様、ユダヤ人も罪を犯しているのなら、しかも彼らは律法を知りながらそれを破っているのであれば、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっとひどいのではないかと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、と自問自答します。ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何なのか。

 

これに対してパウロは、「大いにあります」と答え、ユダヤ人のすぐれている点を語ります。それは彼らには神のことばがゆだねられていることです。これはシナイ山で与えられた十戒を中心とした神からのことばのことです。申命記4章12節には、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られました。このような民族は他にはありません。これはユダヤ人にとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地が与えられました。またソロモンの時代には世界で最も栄え、世界中のあこがれの的になったほどです。しかし、彼らにとって最もすばらしい特権は、この神のことばがゆだねられていたことでした。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい祝福です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これがすべてです。これで十分です。これは他の民族にはありませんでした。これはユダヤ人だけに与えられた特権であり、他の民族はユダヤ人を通して聞かなければならなかったのです。そういう意味でユダヤ人は、神と他の民族の橋渡しをする務め、使命が与えてられていたと言えるでしょう。彼らにはこのような特権が与えられていたのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持ってはいませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力ある神のことばが与えられていたのです。

 

イスラエルの長い歴史の中で彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であったということに尽きると思います。永遠のまことの神を知ること以上に大きな祝福はないのですからです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりもすぐれたものであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法律、中国の政治の知恵よりもはるかに優る宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。

 

そして、実は私たちにもこの特権がゆだねられています。第二テモテ3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)とありますが、この神のことばである聖書が与えられています。今から150年前、200年前はまだ日本語に訳されたばかりだったので、英語とか、ラテン語で読まなければなりませんでした。しかし、最近は日本語にも翻訳され、昨年も新改訳2017が出版されたように、少しずつわかりやすくなっています。訳としてまだぎこちないところもありますが、ラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすくなっています。いづても、だれでも、自由に、聖書のみことばを読めるようになりました。それは本当に祝福ではないでしょうか。

 

1,450年頃まではヨーロッパにも印刷機がなかったので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことができませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられるかと思いますが当時の聖書は非常に大きなもので、すべて手書きで書かれてあり、それに盗まれないように鎖までかけられていました。教会に来て聖書を盗むのです。今では国際ギデオン協会の方々が、「どうぞ聖書を読んでください」と学校の校門で配っても、「い~らない」と言ってゴミ箱に捨てる人も多くいます。昔では考えられないことです。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管されていたのです。それでクリスチャンはいつ聖書のことばを聞くことができたのかというと、日曜日に礼拝に集まった時だけでした。ですから、礼拝では牧師がみことばを長く朗読しました。できるだけ神のみことばを聞きたかったのです。今でも伝統的な教会に行くと、毎週の礼拝で旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師によって朗読されることがあります。教会員は聖書を持っていなかったので、日曜日の礼拝で、みことばをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができました。それほど貴重なものなのです。ですから、みことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。長い時には2~3時間続きました。立っていますから居眠りなどはできません。彼らは礼拝のために礼拝堂入った時から終わって出て行く時までずっと立ちっぱなしで礼拝することも少なくなかったのです。それでもみことばが聞きたかった。みことばに飢え渇いていたのです。聖書が少なかった時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったのです。

 

私たちは今、聖書を読もうと思えばいつでも読むことができます。しかも一冊だけでなく何冊も持っているという人もいるでしょう。いや私はスマホで見てるという人もいます。日本語だけでなく英語や他の国の聖書も持っているという人もいます。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは神のことばが与えられていることに感謝して、みことばから教えられ、これをまだ知らない人たちに伝えていくという使命を果たしていく者でありたいと思います。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことだったのです。

Ⅱ.神は真実な方です(3-4)

 

次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。

 

どういうことでしょうか。ユダヤ人にのことばが与えられていたとしても、もし彼らがそれに従わなかったとしたらどうなるのでしょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。パウロは力を込めて言います。「絶対にそんなことはありません。」なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方だからです。神は彼らにみことばを与え、もしこのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)。それで彼らはこのみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。むしろこれを背き続けてきました。ではこの約束は全く意味がなかったということなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、彼らが不真実であったとしても、神は常に真実な方だからです。人間は平気で約束を破ります。どんなに神の前で誓ってもいとも簡単に破ってしまいます。しかし、神は違います。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。どこまでも守られるのです。なぜなら、神は真実な方だからです。ここに神との契約の確実性があるのです。ですからこれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になるものではないのです。イエス様は次のように言われました。

 

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

 

キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではありません。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)

 

何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、あしあとが一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですか。」いてくださらなかったのではありません。一緒におられました。ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、主があなたを背負っていたからだ・・と。

 

本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさいません。あなたが不真実でも、常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。

 

Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)

 

ではこの真実な神の前に、私たちはどうあるべきでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えましょうということです。5~8節です。

 

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

 

このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんどん悪いことをしようではないか」と言う人がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと言っています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じレベルにまで引き下げてしまうのであって、神は絶対者であってさばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を創造されただけでなく、この世界を動かしておられます。そして最後にこの世界をさばかれます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張しても通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすです。ローマ人への手紙5章15節に、「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」とあります。

 

皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ち溢れているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに越えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と言いました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)カナの結婚式では一瓶や二瓶ではない、庭にあった大きな石がめ六つの水をぶどう酒に変えてくださいました。男だけで五千人の人たちが腹ペコだった時には、五つのパンと二匹の魚で彼らの空腹を満たされたばかりか余ったパン屑を集めると大きなかごで十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じる者に、神は溢れほどの恵みを注いでくださいます。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の恵みに答える者でありたいと思うのです。

 

中国の家の教会の指導者でアクラ張という牧師がおられましたが、私が福島の教会を牧会していたとき先生は二度も教会に来て説教してくださいました。一見、よれよれのおじいちゃんのようですが、一度説教が始まったら、それは火が出るような説教でした。

「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に国が管理する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きに従って教会を辞めました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごすことになりました。

1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され1982年にアメリカへ移住、その後まもなくして人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。

アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2つの教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業しフルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6)とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。

あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)

私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。

「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)

選ばれた民に主はこう語っておられます。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)

愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。

「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18)

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)

「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実とご慈愛を仰ぎます。

残り少なくなった私たちの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」

 

これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。

士師記2章

士師記2章を学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.声を上げて泣いたイスラエル(1-5)

 

「さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。」

 

前回の箇所には、イスラエルの民が神の命令に反してその地の住民を完全に追い払わなかったので、多くの未占領地を残す結果となったことが記されてありました。その結果どうなったのかが今回の箇所に記されてあります。 1節から3節までのところに、主の使いがギルガルからボキムに上って来て、神のみことばを伝えます。ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。そこからボキムに上って来てこう言ったのです。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから上らせ、彼らの先祖に誓ったカナンの地に導き入れる時、イスラエルの民に命じた約束を彼らが守らなかったので、神が彼らの前から彼らを追い払わないだけでなく、彼らはイスラエルの敵となり、彼らの神々はイスラエルにとって罠となるということです。神がイスラエルに命じた命令とは申命記7章1~4節にあるように、主がその地の住民をイスラエルに渡すとき、イスラエルは彼らを必ず聖絶しなければならないということでした。彼らと何の契約も結んではなりませんでした。彼らにあわれみさえも示してはなりませんでした。それなのに彼らは神の声に聞き従わず、その地の住民を聖絶しませんでした。それゆえ神は彼らを追い払わず、彼らはイスラエルの敵となって彼らを苦しめることになるというのです。

 

4節と5節を見てください。主の使いがこれらのことばを語ったとき、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。それでその場所の名は「ボキム」と呼ばれるようになりました。意味は「泣く者たち」です。そこでイスラエルの民は、神にいけにえを献げました。このようなことになったのは、イスラエルの民が神のみことばを完全に守らなかったからです。イスラエルの民が妥協して神の命令に従わず、偶像崇拝をするカナン人を完全に追い払わなかったからなのです。

 

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。どこか割り引いて神のことばを聞いてしまうため、自分の首を絞めるようなことがあるのです。それは神が悪いのではありません。私たちが悪いのです。神がこのようにしなさいという命令してもそこまでしなくてもとか、そんなに熱心になる必要はない、信仰はほどほどがいいとか言って、徹底して従うことを嫌うのです。むしろ、そこまで従おうとする人たちはバランスを崩しているとか言って非難することもあります。しかしそれはこの時のイスラエルのようにカナン人が敵となり、彼らの神々が自分たちにとって罠となる結果となり、声をあげて泣くことになるのです。幸いな人とは詩篇1篇にあるように、「主のおしえを喜びと死、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。その人は水路のそばに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄えるのです。

 

Ⅱ.主を知らない別の世代(6-15)

 

次に6節から15節までをご覧ください。まず10節までをお読みします。

「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあそれで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。とに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」

 

この箇所は、ヨシュア記24章28~31節までの繰り返しとなっています。それでこの箇所はヨシュア記と士師記を直接結び付ける役割をしているのではないかと考えられています。その中心的なことは、ヨシュアが生きていた時と死んでからとでは、イスラエルの民はどのように変わったかということです。6,7節には、ヨシュアが生きていた時のイスラエルの様子が描かれています。ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ自分の相続する土地を占領しようと出て行きました。彼らはヨシュアが生きていた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、主に仕えました。ところが、主のしもべヨシュアが死ぬと、10節にあるように、「彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない」別の世代が起こりました。つまりヨシュアが生きていたときは、みな主に仕えましたが、ヨシュアが死ぬと、そこには「主を知らず、主のわざも知らない」世代が起こったのです。この「知る」ということは抽象的な概念ではなく、出エジプトや、荒野での奇跡、ヨルダン渡河、さらにはエリコやアイといった町々を攻略した神の奇跡を体験したということ、つまり、彼らをエジプトから救ってくださった神が今も生きて働いているということを信じる信仰を持っているということです。なぜ彼らは主を知らず、主のわざも知らなかったのでしょうか。それはイスラエルの民がその子孫に信仰教育と歴史教育をきちんと行わなかったからです。

 

このことは信仰の継承について大切なことを私たちに教えています。先日、国際ギデオン協会の田村兄弟が来られ、西那須野教会の初期の頃のことを証してくださいました。初めは5人しかいなかったそうです。そうした中で福本先生が牧師として赴任して来られた時、これからは農業の時代だから農業を研修する施設を作らなければならないと、全県に農業研修の施設を作ろうをされました。その一つがアジア学院でした。ただ農業研修の施設を作ったのではありません。それを通して地域に福音を宣べ伝えていくというビジョンがありました。そのビジョンが教会の力となりました。ですからみんなでよく祈りました。ところが、あれから何十年と経って行く中でそうしたビジョンが無くなり、信仰が形骸化してきたと言います。それはこの時のイスラエルのように主を知らない、主のわざを知らない世代が起こったからです。そういう世代になっても心から主を愛する人となるように教会は次世代のこどもたちにしっかりと信仰を継承していかなければなりません。

 

その結果、彼らはどのようになっていったでしょうか。11節から15節までをご覧ください。

「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。」

 

読んで字のごとくです。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えました。彼らは、自分たちをエジプトの地から導き出された父祖の神、主を捨てて、ほかの神々を拝み、それらに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡されました。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらしたのです。

バアルとは、カナン人が当時拝んでいた主体となる神でした。農耕を行なっていたので、その天候などすべてを左右する神であったと考えられています。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じ起源であるとされています。カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていただけでなく、自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。主を忘れたイスラエルの子らは、こうしたバアルやアシュタロテに仕え、主の目の前に悪であることを行い、主の怒りをかい、彼らがどこへ行っても、わざわいを受けることになってしまいました。

 

イスラエルは初め、周囲の住民を追い払うことをせず、いわば、殺さないで共存しました。その結果、他の神々に仕え、それらを拝み、神の怒りを招くことになってしまいました。私たちも肉をそのままにしておくと、結果的にその肉に仕えることになり、神の怒りを受けることになってしまいます。ですからパウロは、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言ったのです。それらを殺さなければなりません。妥協してはならないのです。学校や職場で未信者と一緒にいるうちに、神を忘れて自堕落な生活に陥ってしまったということはないでしょうか。そうした未信者と一緒にいることも大切ですが、しかし、主を忘れてもろもろのバアルやアシュタロテに仕えるようなことがあるとしたら、この時のイスラエルのようにわざわいを招くことを肝に銘じておかなければなりません。

 

Ⅲ.信仰の試練(16-23)

 

次に16節から23節までをご覧ください。

「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかそれで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」の神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

 

「そのとき」とは、イスラエルが主の命令に背いて、主の目に悪であることを行ったために、主の怒りが燃え上がり、彼らを略奪する者の手に渡されたので、彼らは大いに苦しんだとき、です。そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われました。ここでわかることは、神がイスラエルをさばかれるのは神が契約に不忠実な方であるとか、愛がないからではなく、どこまでも罪を憎まれるからです。にもかかわらず神は、罪と背信のイスラエルを滅ぼすことをせず、さばきつかさを起こして、彼らを救われました。具体的には3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されます。ところが、19節を見てください。そのさばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻ってしまいます。そして、先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝むということが繰り返されます。イスラエルはそうした頑なな生き方から離れませんでした。それゆえ、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らの前から異邦の民を追い払わないと言われたのです。その結果、彼らはまた苦しみ、叫び、助けを求めます。実に、背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されるのです。それはなぜでしょうか。22節には、「試みるためである」とあります。これは「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」どういうことでしょうか。

 

これは、3章1節にもあるように、イスラエルを試みるためでした。つまり、そのように異邦の民を残しておくことによって、カナンでの戦いを全く知らないイスラエルの民がどのようにそれを乗り越えるのかをテストするためだったのです。神はしばしばこのように私たちの信仰を試すことがあります。創世記22章1節には、神はアブラハムを試練にあわせられました。自分のひとり子イサクを主にささげなさいと命じました。考えられないことです。いったいなぜ神はそんなことを言われたのでしょうか。それは彼を試みるためでした。信仰の試練です。その命令に対して彼がどのように従うのかを試したのです。アブラハムはそのテストに合格しました。荒野の民もマナによって信仰を試されました(出16:4,申8:16)。このように私たちの信仰もしばしば試される時があるのです。神が起こされたさばきつかさは「家庭教師」のようなもので、イスラエルはその家庭教師に助けられている間だけ成績があがる不良学生のようなものでした。

 

私たちにもこうした異邦の民が残しておかれることがあります。しかし、それは私たちを倒すためではなく、反対に私たちの信仰を強くするためです。そのような試練の中で主はどのような方なのか、どのように偉大な方なのかを知り、この方にますますより頼む者となるためなのです。ヤコブ1章2~4節にはこうあります。

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところがない、成熟した、完全な者となります。」

また、へブル12章7~11節にもこうあります。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。・・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 

いったいどうやって私たちは主を知ることができるのでしょうか。残された異邦の民を通してです。その試練の中で主がどのような方なのかを知り、この方に心からより頼むことができるようになるのです。主を知らない別の世代が起こります。どんな世代が起こっても、彼らが主を知るようになるのはこの試練を通してであるということを覚え、試練が来るときには、それをこの上もない喜びと思って受け止めましょう。

ヨハネの手紙第一3章11~25節「互いに愛し合うこと」

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪

、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪にとどまらないということでした。クリスチャンでも罪を犯すことがあります。でも罪を楽しみ、そこにとどまっていることはありません。罪を犯す者は神から生まれた者ではなく、悪魔から生まれた者です。このことによって神の子どもと悪魔の子どもを区別することができます。もちろん、ここで言われている「義」とは人の目に正しいということではなく、神の目で正しいということです。ですからイエス・キリストを救い主として信じなければ、だれも義と認められることはありません。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23-24)とあるとおりです。救い主を信じ受け入れることによって義と認められます。そしてそのように認められた者は、義を行う者へと変えられていくのです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。もしそうでないとしたら、神の子どもではありません。

 

しかし、神の子どもか悪魔の子どもかの区別は、それだけによるのではありません。10節の終わりにはそれを区別するもう一つのポイントが記されてあります。それは兄弟を愛しているかどうかということです。ここには、「兄弟を愛さない者もそうです。」とあります。「そうです」とは、神の子どもではなく悪魔の子どもであるということです。兄弟を愛さない者は神の子どもでなく悪魔の子どもです。つまり、クリスチャンではないということです。なぜヨハネはそこまで言い切るのでしょうか。きょうは、この「互いに愛し合うこと」について三つのポイントお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.互いに愛し合うべきであること(11-15)

 

まず、第一のことは、互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている命令であるということです。11節から15節までをご覧ください。

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」

 

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」「使信」とは「教え」とか「命令」のことです。それが、私たちが初めから聞いている神の教えであり、神の命令です。イエス様はこのように言われました。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35)

 

ですから、これは何も新しい教えではないのです。これはイエス様ご自身が教えられたことであり、私たちが初めから聞いていることです。イエス様はここで、私たちが互いに愛し合うなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになると言われました。クリスチャンが互いに愛し合うことが最高の証だというのです。逆に、クリスチャン同士がいがみ合ったり、言い争ったり、憎み合ったり、嫉みあったりするなら、それは最悪の証であると言えます。だれもイエスが救い主であることを認めないでしょう。それはキリストの栄光を傷つけることになります。ノンクリスチャンを愛するよりもクリスチャン同士が互いに愛し合うことの方がもっと効果的な証になるのです。クリスチャン同士が互いに愛し合うことが一番の証です。だからといってノンクリスチャンを蔑ろにしてもいいとか、あしざまにしてもいいということではありません。ノンクリスチャンに対しても愛をもって仕えていくことは当然のことですが、それよりももっと効果的な証があると言っているのです。それはクリスチャンが互いに愛し合うことです。クリスチャンが互いに愛し合うなら、ノンクリスチャンはそれを見てあこがれさえ抱くようになります。「そんな愛など見たことがない、世の中はみんな自分勝手で自分のことしか考えられないのに、血のつながりもない、全く生まれも育ちも、背景も異なる者同士が、しかも年齢や性別も違う者同士が、お互いにお互いのことを喜び、お互いに献身的に仕え合って、こんなにも熱く愛し合うことができるのはどうしてなのだろう」と思うようになるのです。そんな愛など見たことも、聞いたことも、感じたこともありません。このような愛の共同体にぜひとも自分も加えてほしいものだと願うようになるのです。それなのに、兄弟を憎むということがあるとしたら、それは何を物語っているかというと、その人は永遠のいのちにとどまっていないということ、すなわち、神の愛を知らないし、神の救いを経験してもいないということです。つまり、神の子どもではないということなのです。

 

ヨハネはここでその一つの事例を取り上げてそのことを説明しています。それはカインです。12節をご覧ください。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

カインについては皆さんもよくご存知だと思います。ここでヨハネは、「カインのようになってはいけません」と言っています。なぜでしょうか。なぜなら彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺したからです。彼は弟アベルを殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。彼のどのような行いが悪かったのでしょうか。

 

創世記4章を見ると、カインは地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。そして、しばらく時が過ぎて、主へのささげ物を持って来たとき、カインは大地の実りを主へのささげ物として持ってきましたが、アベルは、自分の羊の初子の中から、しかも肥えたものを持ってきました。すると神はアベルとそのささげ物に目を留めましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったい何が問題だったのでしょうか。この箇所だけを見ると、カインはいかにも適当にささげ物をもって来たかのような印象がありますが、そういうことではありません。問題は、それが神の定めた方法によるものであったかどうかということです。すなわち、弟アベルは神が定めた方法で、神が求めた物をささげたのに対して、カインはそうではなかったのです。カインは神が求めた方法ではなく、自分の考えで、自分の方法によってささげたので、神に受け入れられなかったのです。神が定めた方法とは動物の犠牲をささげることでした。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。いのちとして宥めを行うのは血であるからです。(レビ17:11)カインはそのことを両親のアダムとエバから聞いていたのに守りませんでした。そして自分の考えによってささげ物をささげたのです。一方、アベルはどうだったかというと、彼は神が定めた方法でささげました。なぜ彼はそのようにしたのでしょうか。

 

へブル人への手紙の著者はこう言っています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証されました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証してくださったからです。」(へブル11:4)つまり、アベルは信仰によってささげたのです。ささげ物をささげるということは礼拝するということです。どのように礼拝すればいいのでしょうか。神が定めた方法があります。神が定めた方法でなければ神に受け入れられません。このことは後に私たちの罪の身代わりとして神にささげられた神の小羊イエス・キリストを指し示すものでした。イエス・キリストを通してでなければだれも神のみもとに行くことはできません。どんなに自分の方法で神に受け入れられようと思っても、それは受け入れられないのです。それはこのカインのようです。

 

カインは自分のささげ物が受け入れられなかったことで、弟のアベルをねたみました。自分のささげ物が受け入れられないのに、なぜあいつがささげた物が受け入れられたのか、自分はこんなに不幸なのに、なぜあいつがあんなに祝福されているのか、自分にはこんなに力があってこんなこともできるのに、なぜあいつが注目されなければならないのか、そう言ってねたんだのです。これが悪い者から出た者のモデルです。カインは悪い者から出た者の典型でした。そして、私たちもカインのように兄弟を殺すなら、カインと同じように悪い者から出た者、つまり、神の子どもと呼ばれる資格はないということを覚えておかなければなりません。

 

兄弟を殺すとはどういうことでしょうか。私たちはカインのように人を殺す者ではありません。しかし、人を殺すとは文字通り人を殺すことだけではないのです。イエス様はマタイの福音書5章で、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)と言われました。兄弟に対して怒ったり、「ばか者」と言ったり、「愚か者」というようなことがあるとしたら、それは人を殺していることと同じです。もしあなたがだれか他の兄弟姉妹のことを悪く言うなら、それは人を殺していることと同じことなのです。実際にそれを聞いた人はそのような目でその人を見るようになるでしょう。あなたが悪く言ったとおりに、その人は悪く見るようになります。「あっ、知らなかった。あの人がそんなに悪い人だったなんて・・・」「この人がこんなにひどい人だったなんて・・」そう思い込んでしまいます。事実を確認すればただのうわさ話にすぎないことも、それを真に受けてしまうことで、そのようなフィルターでその人を見てしまうようになります。それは人を殺すことと等しい行為です。恐ろしいですね。注意したいです。

 

いったいなぜカインはそのようなことをしたのでしょうか。悪い者から出たからです。悪い者とは悪魔のことです。悪魔から出たので兄弟を愛することができなかったのです。しかし、神から出た者は兄弟を愛します。14節をご覧ください。ここには、「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。」とあります。いったいどのようにして私たちは死からいのちに移されたことを知ることができるのでしょうか。それは兄弟を愛することによってです。兄弟を愛する者は神から生まれた者ですが、兄弟を憎む者はみな、人殺しです。それによって、私たちは神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかを判別することができます。皆さん、クリスチャンであることのしるしとは何でしょうか。クリスチャンであるしるしは十字架のネックレスを首にぶら下げていることではありません。あるいは、車に魚のマークを貼ることでもないのです。皆さん、なぜ多くのクリスチャンが車に魚のシールを貼っているかご存知ですか。それはクリスチャンの信仰を表しているからです。魚はギリシャ語で「イクスース」と言いますが、その魚のそれぞれの文字が、「イエス・キリストは私たちの救い主です」という意味を表わすことばの頭文字になっているからです。それはすばらしい信仰の告白ですが、しかし、それをただ車に貼っているからクリスチャンだというわけではありません。あいるは、いつも教会に通うことがクリスチャンだと言うことを保証するのでもありません。クリスチャンのしるしは、その人が神によって生まれた神の子どもであるというしるしは、兄弟姉妹を愛し合しているかどうかです。その愛こそクリスチャンであることのしるしなのです。そこに永遠のいのちがあります。そこで永遠のいのちを満喫することができるのです。

 

詩篇133篇1~3節を開いてください。そこにはこうあります。

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさであろう。兄弟たちが一つになって ともに住むことは。それは、頭に注がれた貴い油のようだ。それは、ひげに、アロンのひげに流れて 衣の端にまで滴る。それはまた ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

主はどこにとこしえのいのちの祝福を命じられたのでしょうか。それは兄弟が一つとなって住むことの中に、です。兄弟姉妹が互いに愛し合うという交わりの中に、です。そこで永遠のいのちの祝福を味わうことができます。クリスチャン同士が互いに愛し合わなければ、永遠のいのちを味わうことかできません。だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることがないからです。それは生ける屍であり、生きているようでも死んでいる冷たい存在でしかありません。

 

互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている使信です。それが、神が私たちに命じていることです。だから私たちは互いに愛し合うのです。自分の感情では受け入れることができない相手であっても、神がそのように命じておられるのでそれに従うのです。それによって私たちが神によって生まれた者であることがわかります。死からいのちに移ったことを知るのです。神から生まれた者として神の命令に従う、それが神の子どもとされたクリスチャンの基本的な姿なのです。

 

Ⅱ.それによって愛がわかった(16-18)

 

第二のことは、なぜ互いに愛し合うのか、その理由です。それは私たちが神から生まれた者であり、死からいのちに移った者として当然のことですが、ここにはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、自ら進んで愛し合う根拠が記されてあります。それはキリストの愛です。16節から18節までをご覧ください。16節をご一緒に読みましょう。

「キリストは私たちのために、ご自身のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

 

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それは私たちが罪のうちに滅びることがないためです。私たちのすべての罪を赦すために、キリストはご自分のいのちを捨ててくださった。それほどまでに私たちは愛されているのです。ですから、私たちも互いに愛し合うべきです。兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。兄弟姉妹を愛せないというのは、どんなに私たちが愛されているのかを知らないか、それとも忘れているからです。「どうしてもあの人を赦すことができない」というのは、自分がイエス様によって赦されたということを知らないからです。私のような者が赦されたということを知るなら、もう言葉にならないくらいうれしくて、人を赦せないという思いはどこかへ吹っ飛んでしまうでしょう。私たちが主にどれほど愛されているかを知るなら、もはや兄弟姉妹を愛せないとか、赦せないということはありません。主があなたに対してどれほどあわれんでくださったのか、どれほど忍耐してくださったのかを思うとき、あなたも兄弟姉妹に対してあわれみを示さずにはいられなくなります。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。

 

17節を見てください。それなのに、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。いません。神の愛はとどまっていません。そんなに神のあわれみを受けていながら、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすことがあるとしたら、それは神の愛からかけ離れたことなのです。

 

皆さんは、「シティ・オブ・ジョイ」という映画を観たことがありますか。この映画はインドのカルカッタにあった「シティ・オブ・ジョイ」という無料診断所を舞台に繰り広がれる話です。あるときこの街にイギリス人の医師でマックスという人が、一人の少女の命を救えなかったことから自分の無力さに打ちのめされ、空虚な心を埋めるかのようにやって来ます。ある日彼は暴漢に襲われた時、ハザリという貧しいインド人に助けられ、この「シティ・オぶ・ジョイ」に運ばれてきます。マックスはパスポートを無くしたことからこの診療所「喜びの街」を手伝うことになりますが、その町のボスが診療所の家賃を値上げしたことで暴動が起こります。そうした街の腐敗に耐えられず、そこから逃げようとするマックスに対して、もう一人の診療所の医師ジョアンナはこう告げるのです。

「人が生きてくくというのは大変なことよ、みんな生まれた瞬間から希望と絶望の間であがいているの。人生には三つの選択肢しかないわ。傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むか。最悪の選択肢は逃げる傍観者だわ。」
人生には三つの選択肢しかありません。それは、傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むかです。最悪の選択肢は逃げる傍観者です。あなたには三つの選択肢しかないのです。傍観するか、逃げるか、それとも飛び込むかです。困った人を見て「ああ、かわいそうだすね」「何と不幸なことでしょう」とただ眺めているか、そのようなことに関わるのはごめんですと、そこから逃げ去るか、どんなに傷つけられても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込むかです。関わることは時間的に、労力的に、経済的に犠牲が伴うことですが、それが愛するということなのです。

 

あの良きサマリア人はそうした。強盗に襲われ傷ついた人を見たとき、かわいそうに思い、彼に近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き解放しました。翌日、彼は宿屋の主人に二枚のデナリ硬貨を差し出し、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(ルカ10:35)と言いました。

一方、神に仕える祭司がそこを通りかかったとき、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じく、レビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

この三人のうちでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみ深い行いをした人です。イエスは言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 

愛について語ることは簡単です。でも実際に愛することは簡単なことではありません。そこには自己犠牲が伴うからです。でも私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。ことばや口先で愛することも大切です。ここには、「ことばや口先だけで愛することをせず」とありますから、ことばや口先で愛することも大切であることがわかります。

「あなたはちっとも愛していると言ってくれないんだから・・」

「何、言ってんだ。結婚してどのくらい経つと思っているの。言わなくたってわか

るだろう。」

これはだめです。言わないとわからない時があります。愛をもって真理を語ることも必要なんです。でも、それだけではいけません。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければなりません。ただの傍観者であったり、それを見てあわれみの心を閉ざしたり、そこから逃げるのでもなく、どんなに傷ついても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込んで行かなければならない時があるのです。私たちにはそれができます。なぜなら、愛を知ったから。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。こんなどうしようもない者が愛されたということが分かったので、兄弟姉妹を愛せずにはいられないのです。

 

Ⅲ.互いに愛し合うことによって(19-24)

 

第三に、その結果です。互いに愛することによってどうなるのでしょうか。19節から24節までをご覧ください。まず19節と21節に注目してください。

「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で心安らかでいられます。たとえ自分の心が責められたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

「そうすることによって」とは、互いに愛し合うことによってということです。互いに愛し合うことによって、私たちは自分が真理に属していることを知ります。真理とは何でしょうか。真理とはイエス・キリストです。イエス様は、「わたしは道です。真理です。いのちです。」と言われました。ですから、互いに愛し合うことによって、私たちが真理に属していることを知るというのは、イエス様に属しているということ、つまり、クリスチャンであるということを知るということです。自分はクリスチャンであるという確証を得るのです。イエス様を信じていても、本当に救われているかどうか、本当に天国に行けるのかどうか、クリスチャンなのかどうかわかりませんという方がおられますか。そういう方は兄弟姉妹を愛してください。それによって、自分が真理に属しているということを知り、神の御前で安らかでいられることができます。救いの確信を得られるのです。

 

たとえ自分の心が責めたとしても、です。私たちは自分の心が責められる時があります。神のみこころに従わなかった時や、自分の思いや感情で行動した時、言わなくてもいいようなことを言って人を傷つけてしまった時、「ああ、本当に自分はだめな人間だな、なぜこんなことをしてしまったんだろう、」と自分を責めることがあります。これでもクリスチャンなのかとがっかりすることがあります。しかし、たとえ自分の心が責めても、安らかでいられます。なぜなら、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知であられるからです。どういうことですか?私たちは時として大きな罪を犯し、そのことを自分でも信じられないことがありますが、神にとっては全然不思議なことではありません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。

 

詩篇139篇1~3節には、「主よ、あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ、 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。」とあります。神は、私たちのすべてを知っておられます。私たちは、自分で自分を知っていると思っていますが、実際のところは知らなければならないことも虫っていません。ですから罪を犯したりするとびっくりするのです。「なんで私がこんなことをしちゃったのか・・。」「考えられない・・・」でもそう思うのはあなただけであって、神はそう思っていません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。だから、たとえあなたの心があなたを責めても、全然心配いりません。神が弁護してくださいます。私たちが互いに愛し合うことによって真理に属しているということを神が証明してくれるので、全く心配いらないのです。21節、そのように、自分の心が責めないから、私たちは神の御前に確信を持つことができます。「私は全然責められません。何をしても平気です。自分の心が自分を責めるなどという経験をしたことがありません」それはここで言っていることではありません。それはただ鈍感であるだけです。ここで言っていることは、そうした良心が痛むようなことがあっても真理に属しているという確信のゆえに、平安でいられるということです。なぜ?「そうすることによって」です。互いに愛し合うことによって、そのような者でも真理に属しているということを知ることができるからです。

 

それだけではありません。22節をご覧ください。「そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」どういうことでしょうか?神の子どもとされたということです。子どもであれば、求めるものは何でも受けます。子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような親はいません。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。いません。自分の子どもには良いものを与えます。同じように、天の父はご自分に求める者たちに良いものを与えてくださいます。聖霊を与えてくださいます。それは私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。では、神の命令とは何でしょうか。神が喜ばれることとは何でしょう。

 

23節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」

皆さん、神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。これが神の命令です。ただ互いに愛し合うのではありません。まず御子イエス・キリストの御名を信じることです。誤解しないでください。私たちの罪が赦されるのはただイエス様の十字架の血によってです。その神の御子イエス・キリストの名を信じること、すなわち、キリストを救い主として心に受け入れ、その口で告白することによってのみ救われます。私たちの行いによるのではありません。しかし、そのようにイエス・キリストの御名を信じた者は互いに愛し合いなさいという具体的な行いを通して、自分が神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまるということ、すなわち、救われているという確信を持つことができるのです。なぜなら、それは神が私たちに与えてくださった御霊が証してくださるからです。まさに、Ⅰペテロ4章7節に「愛は多くの罪を負おうからです。」とあるとおりです。

 

ですから皆さん、私たちも互いに愛し合いましょう。それによって私たちは真理に属していることを知ることができます。たとえ自分の心が自分を責めるようなことがあっても、神の御前に心安らかでいられます。まず私たちを愛し、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったキリストの愛を受け入れましょう。こんな私のために神がどれほどの愛を注いでくださったのかを知り、その御子イエス・キリストの名を信じましょう。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合いましょう。それによって私たちは神に属していることを知り、救いの確信を得ることができるのです。まさに愛は多くの罪を負おうからです。

 

ヨハネの手紙第一3章1~10節「何とすばらしい愛」

ヨハネの手紙第一3章に入ります。ヨハネはこれまで「神は光である」というテーマで語ってきました。3章から新しいテーマに入ります。それは「愛」です。「神は愛である」というテーマです。これが4章まで続き、最後の5章で「神はいのちである」と伝えて、この手紙を閉じます。ヨハネはこの手紙を通してこの手紙の受取人であるクリスチャンたちに、神がどのような方かを知ってほしかったのです。この「知る」というのは単に知識として知るということではなく体験的に深く知ることです。言い換えるならば、神と深く交わるということです。神について頭で知ることはできますが、頭で知ることと体験することは違います。ヨハネが願っていたのはこの体験することでした。神と向き合い、神と語り合い、神と交わり、神を体験することで、この神がどんなにすばらしい方であるかを知ってほしかったのです。

 

それでヨハネはまず「神は光です」と言い、神が光であるというのはどういうことなのかを語りました。そしてこの3章からは神は愛ですと、神がどのように私たちを愛してくださったのかを語り、その愛に生きるとはどういうことなのかを語るのです。

 

Ⅰ.私たちは神の子どもです(1)

 

まず1節をご覧ください。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 

ここのポイントは「考えなさい」ということです。人は何を見るか、何を考えるかによってその行動が決まります。だから「考える」というのはとても重要なことです。ここで私たちが考えなければならないのはどんなことでしょうか。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか、注いでくださったかということです。

ヨハネの福音書1章12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。この方とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる人たちに、神の子どもとされる特権が与えられました。これは特権なのです。考えてみてください。神の子どもとされるというのは神の家族に加えられるということです。父なる神の家族に加えていただける。神の家族に養子として迎えていただけるのです。それまではどこの馬の骨ともわからないような者が、神の子どもとされたのです。何とも不遇な人生を送ってきた者が、王の王、主の主であられる方の子どもとされたのです。これはすごいことではないでしょうか。よく孤児院に捨てられた子どもが大金持ちの家に養子として引き取られたという話を聞くことがありますが、神は大金持ちどころかこの天地万物を創られた方です。この方を自分の父と呼ぶことができるのです。すごいことです。

 

ですからここには、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあるのです。この愛を考えてほしい、見てほしい、知ってほしい。そうすればあなたの生活は変わりますから。イエス様を信じたのにちっとも変わらないとしたらどこかおかしいのです。それは本当の意味でこの愛を知っていないか、あるいは知っているつもりでもただ知識として知っているだけで、本当の意味では知っていないかのどちらかです。神の愛を知るなら必ず変えられるはずです。では御父の愛とはどのような愛なのでしょうか。どんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょうか。

 

まずエペソ1章3~5節を開いてください。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基の置かれる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。

神は世界の置かれる前から、私たちを救いに選んでいてくださいました。私たちは生まれる前から、いや世界が置かれる前から、神の子どもとなるように神によって見出され、神によって選ばれ、神によって愛されていたのです。ただそれを知らなかっただけです。でもイエス様がこの世に来てくださりそのことを示してくださったので、知ることができました。私の好きなみことばの一つに申命記33章27節のみことばがあります。それは、「永遠の腕が下に」というみことばです。私たちの下にはいつも永遠の腕があります。私たちが赤ちゃんであった時にはいつもお母さんの腕がありました。少し大きくなって体重が重くなるとお母さんには持てないので、お父さんの腕に抱っこされました。両親の腕に抱き抱えられるとき私たちは平安があります。少しずつ大人になるにつれそうした母の腕や父の腕に抱えられるが少なくなりました。今度は自分の力で生きていきなさいと、いつまでも甘えていないで自分の足で立って歩きなさいと、突っぱねられるようになりました。それはそれで大切なことですが時に不安を覚えることもあります。しかしそのようなとき、永遠の腕が下にあるということはなんと心強いことでしょうか。人生の嵐の中にも、いつも神様の腕があります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)あなたはこの永遠の愛をもって愛されているのです。

 

この愛についてヨハネは4章10節でこのように言っています。ちょっと先取りして読んでみたいと思います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあります。神はそのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。神は、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために、実に、そのひとり子を与えてくださいました。それほどまでに愛してくださいました。ひとり子と言えば自分の命よりも大切な存在です。その大切なひとり子を与えるほどに愛してくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

 

しかも、ローマ5章8節にこうあります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神はどのようにしてご自身の愛を明らかにしてくださったのでしょうか。私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださったことによってです。罪人のために死ぬ人がいるでしょうか。いません。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいないでしょう。善良な人、情け深い人のためにならあるいはいるかもしれません。であれば、罪人のために死ぬ人などどこにもいません。しかし、キリストは私たちが罪人であったときに私たちのために死んでくださいました。罪人であったときにとは、私たちが最低の状態、最悪の状態であったときにということです。あなたは、こんな汚れた者が愛される資格はないと思うかもしれません。しかし、神は私たちが聖いから愛してくださったのではありません。正しいから愛してくださったのではないのです。罪に汚れ、愛される資格などないにもかかわらず愛してくださいました。これが神の愛なのです。

 

皆さん、神の愛は途切れることがありません。永遠の愛をもって愛してくださいました。私たちは生まれるずっと前からこの永遠の愛で愛されていました。私たちがどんなに神に背き、どんなに罪に堕ちても、神はなおも愛し続けてくださいました。私たちが自分勝手に生きていた時でも、神はずっと寄り添ってくださいました。ヨハネはこの愛を考えなさい、と言うのです。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさいと。原文ではここは「見よ、何という神の愛。」となっています。私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを見なさい、考えなさいというのです。なぜなら、もしあなたがこの愛を見たら、あなたの生き方や考え方というものが根本的に変えられるからです。私たちの生き方や考え方というのは、この事実から出てくるものなのです。

 

この世はこの愛を知りません。しかし、私たちは知りました。イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架で死んでくださることによってその愛を示してくださいました。それは永遠の愛でした。あなたが何者であれ、過去にどんなことをしたかとか、今、何をしているか、またこれから先どんなことをするかということと関係なく、この愛はいつもあなたに注がれているのです。なぜなら、神の愛は永遠だからです。だからこれは人知を超えた愛なのです。これ以上の愛はありません。どうかこの愛を知ってください。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えてください。そうすれば、あなたの生き方は必ず変わるのです。

 

Ⅱ.キリストに似た者となります(2)

 

第二のことは、神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者となるということです。2節をご覧ください。

「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」

 

私たちは今すでに神の子どもです。そのように見えないかもしれませんが、イエス様を信じる人はみな例外なく神の子どもなのです。隣の人を見てください。とても神の子どものように見えないかもしれませが、イエス様を信じたのであれば間違いなく神の子どもとされています。そして神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者になっていきます。ここには神の子どもとされた者は、やがてどのようになるかが示されています。「やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。」

 

今はそのように見えなくても、やがて必ずキリストに似た者となります。なぜなら、あなたは神によって生まれたからです。神によって生まれたのであれば、やがて必ず神のようになるのです。それはちょうど生まれたばかりの赤ちゃんのようです。生まれたばかりの赤ちゃんは確かにかわいいですが、顔はしわくちゃで、お世辞にもイケメンだとか、美人だとは言えません。でもそんな赤ちゃんが大人になると、驚くほどのイケメンになったり、美人になったりします。その時はわかりませんが、後で明らかになります。それは霊的にも同じで、クリスチャンになっても今はしみだらけ、傷だらけで、全然神の子のようには見えないかもしれませんが、いつか必ずにキリストに似た者となるのです。ヨハネはここでそのことを「知っている」と言っています。わかっています。必ずそうなるのです。

 

なぜそのように言えるのでしょうか。なぜならそのとき、私たちはキリストをありのままに見るからです。その時とはキリストが現れる時、すなわち、キリストの再臨の時です。その時イエス様を信じている人は空中に一挙に引き上げられ空中で主と会うようになります。そして、そこで顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。すごいでしょう。でももっとすごいのは、その時イエス様の姿をみた時です。その時私たちの姿がイエス様の姿と同じ姿であるのを見るのです。まさに「おったまげ~」です。その時私たちは一瞬のうちに朽ちないからだ、栄光のからだに変えられるのです。

Ⅰコリント15章52~53節には次のように書かれてあります。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」(Ⅰコリント15:52-53)

終わりのラッパが鳴り響くとき、キリストが天から下ってこられます。そのときクリスチャンはたちまちのうちに空中に引き挙げられ、空中で主と会うのです。まずキリストにあって死んだ人たちが、次にキリストにあって生き残っている者たちです。一挙に引き上げられ空中で主と会うのです。そのようにして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがクリスチャンの希望です。だから私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているからです。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストが現れるときに、この栄光のからだによみがえります。この肉体は塵に帰りますが、霊のからだ、栄光のからだによみがえるのです。そういう希望があるのです。

 

Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見るようになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになります。」とあります。「そのとき」というのが、キリストが現れるときのことです。そのときに私たちは一挙に空中に引き上げられ、顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。その時には完全に主を知るようになります。今は一部分しか見ていません。それはちょうど鏡に映るのをぼんやりと見ているようなものです。おぼろげながらにしか見ることができません。それでも十分感動していますが、でもその日には顔と顔とを合わせて見るようになるので、イエス様がどんなにすばらしい方であるかをはっきりと見ます。そのとき私たちは主と同じ姿に変えられているのを見るのです。ピリピ3章21節にはこうあります。

「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)

 

でもそれは私たちが携挙される時だけでなく、この地上に生かされている間もそうです。私たちがこの地上にいる間も、少しずつ、徐々にではありますが、着実にキリストの似姿に変えられていくのです。これを聖化と言います。聖なる姿に変えられるので「聖化」と言うのです。それは御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を写しつつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

主の御霊が私たちを、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えてくださいます。きのうよりも今日、今日よりも明日へと、キリストの姿に変えられていくのです。そしてキリストが現れるとき、完全に変えられます。すばらしいではありませんか。ですから日々神のみことばを読み、主の御霊に身をゆだねて歩んでいこうではありませんか。

 

パウロはローマ8章28~29節で次のように言っています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。その益とは何でしょうか。29節には、それは御子と同じ姿に変えてくださることであると言われています。私たちの人生に起こるすべての出来事には辛いことがあれば苦しいこともありますが、神はそうしたすべてのことを働かせて益としてくださるのです。そうしたすべての出来事を働かせて、私たちをご自身の姿に変えてくださるのです。益としてくださるとはそういうことです。

 

ですから、もし皆さんが今、試練に直面しているとしたら期待してください。皆さんはそのことを通してイエス様の姿に変えられているのでから。もし皆さんの人生に問題があるなら感謝しましょう。なぜなら、主はその問題を用いて私たちをご自身の栄光の姿に変えてくださるのですから。皆さんの中で病気の方がおられますか。そのような方は祈りましょう。その病気が癒されるようにというだけでなく、そうした苦しみに耐えることができるように、そしてその苦しみを通して、主と同じ姿に変えられていくことができるようにと。

 

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、祈りの詩が刻まれています。これは「病者の祈り」として有名な詩です。

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった

 

より偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱を与えられた

 

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと、貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった

 

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

 

神の意にそぐわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

 

私はあらゆる人の中でも、最も豊かに祝福されたのだ

「病者の祈り」作者不明

 

皆さん、私たちも祈ろうではありませんか。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられたのです。神はすべてのことを働かせて益としてくださいました。人間的にすべてが不幸であるかのような出来事を通して、神は私たちをご自身の姿に、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださるのです。

 

Ⅲ.キリストに望みを置いている者(3-10)

 

第三のことは、キリストにこの望みをおいている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。3節から10節をご覧ください。3節をお読みします。

「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」

 

「この望み」とは何でしょうか。それはこれまで語ってきたように、キリストに似た者となるという望みです。すなわち、再臨の希望です。今はどうであれ、イエス・キリストが戻って来られるときには、すべてが希望に変わります。この希望を抱く者はみなキリストが清い方であるように、自分を清くするのです。具体的には4節以降に書かれてあるように、罪を犯すことがないということです。4節には、「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」とあります。6節には、「キリストにとどまる者はだれでも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。どういうことでしょうか。

 

それは、クリスチャンは罪を犯すことがないというではありません。私たちは確かに罪を赦されましたがまだ罪の性質が残っていて、罪を犯さないで生きることはできないのです。ですから1章8節のところでヨハネは、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。」と言ったのです。大切なのは罪を犯さないということではなく、罪を犯さずには生きてはいけない存在であることを認め、神の前にその罪を悔い改めることです。それこそ神と交わりを持つ土台であり、光の中を歩むクリスチャンの根本的な生き方なのです。では、ここでヨハネが言っている罪を犯さないとはどういうことなのでしょうか。

 

この「罪を犯さなない」ということばですが、これは現在完了形で書かれてあります。現在完了形というのは継続を表しています。つまり、この「罪を犯している者」とは継続的に罪を犯している者のことを意味しているのです。それが習慣となっていて、罪を犯しても何とも思わないことです。痛くも痒くもありません。どうしてかというと救われていないからです。それは神から生まれた者ではないという証拠なのです。9節には、「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。神から生まれた者は罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているので、罪を犯すことができないのです。「神の種」とは、神のいのちのこと、聖霊のことです。クリスチャンはイエス・キリストを信じて神のいのちをいただきました。クリスチャンのうちには神の聖霊が住んでおられるのです。だから罪を犯すことができないのです。これは全く罪を犯さないということではなく、意識的に、常習的に罪を犯すことができないという意味です。罪を犯したり、少しでも神のみこころに反したりすると、良心が痛むからです。うちに住んでおられる聖霊が悲しまれるのです。クリスチャンも罪を犯すことはありますが、罪を犯すと「どうして自分はこんなことをしちゃったんだろう」と後悔したり、「ああ、私はほんとうに駄目な人間だなぁ」と落ち込んだりします。それは神から生まれた者だからです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことがない、できないのです。

 

日本ケズィック・コンベンションの産みの親である、故ポーロ・リース師が箱根のケズィック・コンベンションでこんな話をされました。18世紀にフランス革命が起こり、王と王妃が処刑されました。ところが人々は、王子に対して別の取り扱いをしました。彼らは幼い王子を有名な悪党に預け、あらゆる手段を用いて王子の品性を破壊しようとしました。しかし歴史はこの王子について興味深いことを伝えています。悪党が王子に悪事をさせようとするたびに、彼はこう答えたと言います。「ぼくにはできない。ぼくは王となるために生まれたのだから。」

 

神から生まれた者は神の子どもです。神の王子です。神の王子たる者がどうして罪の内を歩むことができるでしょうか。10節前半はこれまで述べてきたことの要約です。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。」「このこと」とは何ですか。自分を清くするか、それとも反対に罪を犯すか、罪のうちに歩むかということです。そのことによって、神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかがはっきりわかります。つまりその人が神によって新しく生まれた者なのかどうかがはっきりわかるのです。その具体的な表れが兄弟を愛するということですが、そのことについては次回お話ししたいと思います。

 

私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょう。私たちはこの愛によって新しく生まれました。私たちのうちにはこの神の種、神のいのちである聖霊がとどまっています。だから私たちは罪を犯すのではなく、この望みに希望を置き、キリストが清い方であるように、自分を清く保つのです。すべては、この事実から出ています。この事実が私たちの歩みを変えるのです。どうかこのこと考えてください。ここに目を留めてください。あなたが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったのかを。「見よ、何という愛」。この愛を見るとき、あなたも確実に変えられていくのです。

Ⅰヨハネ1章1~4節「永遠のいのちを伝えます」

投稿日: 2018/04/25 投稿者: Tomio Ohashi


これからしばらくの間、ヨハネの手紙を通して、私たちがイエス・キリストの恵みと豊かな愛によって支えられ、生かされていることを深く覚えさせていただきたいと思います。今回はその第一回目となりますが、「永遠のいのちを伝えます」というタイトルでお話しします。

最近の統計によると、日本人の平均寿命は男子が80.98歳、女子が87.14歳で、共に香港に次いで世界第二位だそうです。ところが、アフリカのシオラネオレでは、ちょっとデータが古くて2012年のものですが、男女の平均が45.33歳です。ほかにもアフリカには平均寿命が45歳から55歳までの国がいくつもあります。アフリカでは私の歳でもう亡くなっている人たちがたくさんおられるのです。世界中の人々の命がみな神から与えられたかけがえのないものであることを思うと、人々はその命を本当に正しく使っているのかと疑問が生じてきます。

しかし、聖書はこの肉体的いのちと同時に、もっと大切ないのちがあることを私たちに伝えています。それは「永遠のいのち」です。この手紙を書いたヨハネは、2節でこう言っています。

「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネが読者に伝えたかったのは、この「永遠のいのち」でした。この「永遠のいのち」とは、もちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストこそ永遠のいのちそのものであり、私たちに与えられる「永遠のいのち」の源であります。きょうは、この「永遠のいのち」について三つのことをお話ししたいと思います。

Ⅰ.いのちのことば(1-2)

まず、この永遠のいのちは実際に存在していたものであるということです。1節と2節をご覧ください。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネはなぜこの手紙を書いたのか、ここにその目的が明らかにされています。それは1節の終わりにありますが、「いのちのことば」を伝えたかったからです。「いのちのことば」とは何でしょうか?この「ことば」と訳された語は、原語のギリシャ語では「ロゴス」といいます。これは単に口から出す言葉と言う意味ではなく、宇宙全体に秩序を与えて動かしている真理そのものを意味しています。ちょっとわかりづらい表現ですが、ユダヤ人にとって「ことば」とは、天地を創造する神の知恵と力を表すものでした。ですからこれは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味です。

ドイツの宣教師でギュツラフという人がいましたが、彼が日本人に訳させた最初の日本語訳聖書では、この「ロゴス」という言葉を「賢いもの」と訳しました。ですから、ヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」という文章をこのように訳したのです。「初めに、賢いもの、ござる」

また、宮城県気仙沼付近の方言であるケセン語で聖書を翻訳した山浦玄嗣(はるつぐ)先生は、ここを「初めにあったのは、神さまの思いだった」と訳しています。これが一番分かりやすいかもしれませんね。初めにあったのは神さまの思いでした。その神の思い、神のいのちが現れた。それがイエス・キリストです。

では、その神の思い、神のいのちであるキリストとはどのようなお方なのでしょうか。1節には「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」とあります。どういうことでしょうか。初めからあったものとは、神が天地を創造される前からすでに存在していたもの、永遠なる方であるという意味です。ヨハネは、このいのちのことばを聞きました。また、実際に自分の目で見ました。そして、自分の手でじかにふれたのです。つまり、ヨハネはこれを机上の空論のような抽象的なものではなく、実際的で、現実的な出来事だった言っているのです。

そんなの嘘だと言われる方もおられるかもしれませんが、ヨハネは確かにいのちのことばを実際に見て、聞いて、触れたのです。というのは、このいのちが実際に現れたからです。そうです、このいのちこそ、初めから御父とともにあり、人となって現れた方、私たちの主イエス・キリストです。

ヨハネは、このキリストの弟子として歩みました。12弟子の中で、いつもイエス様のそばに3人の弟子がいましたが、その一人がこのヨハネでした。ですから、いつも間近でイエス様の教えを聞きました。間近でイエス様の姿を見ていました。それはまさに、手で触れられる距離感だったでしょう。別にこうやって触ったわけではなかったでしょうが、実際に触れることもあったかもしれません。そのように、きわめて親しい交わりを持っていたのです。そして、この世界でいちばん大切なものを教えていただいたのです。

もちろん、ヨハネは最初から、自分の目の前にいるイエス様を、「いのちのことば」だとは思っていなかったでしょう。最初は預言者の一人ぐらいにしか思っていなかったかもしれません。自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる英雄の一人ぐらいにしか思っていなかったのではないかと思います。けれども、主イエスの生きざまは、一般の預言者や英雄のそれではありませんでした。イエス様は社会で疎外されている人々をこよなく愛し、一方、ユダヤ教の指導者たちに対してはその偽善を激しく責めました。そしてその信念を貫いて、最後は十字架に架けられて処刑されました。そこにはこの世の成功も栄誉もありませんでした。しかしこの世でいちばん大切なものを貫き通されました。その生きざま、死にざまを、ヨハネは最も間近で見たのです。触れたのです。そして、その十字架の死から復活したイエスと出会ったのです。復活された主イエスを見て、聞いて、触れて、実際に確かめることで、この方こそいのちのことば、永遠のいのちであると確信したのです。ヨハネにとってそれは単にあこがれや空想の産物といったものではなく、本当に神が人となって現われてくださり、人間の手でじかにさわることができる存在だったのです。

いったいヨハネはなぜこんなことを言っているのでしょうか。それはヨハネがこの手紙を書いた当時、そうではない教えがはびこっていたからです。つまり、あなたがたが見たと言っているイエスは肉体を持っていたかのように見えたかもしれないけれどもそれは幻覚であって、実際には霊にすぎなかったという教えです。こういう教えを何というかというと「二元論」と言います。「二元論」は、肉体は悪であり霊こそが善であると教えます。だから、悪である肉体を痛めつけることによって霊を高めることができると考えて禁欲主義に陥ったり、逆に、大切なのは霊なのだから肉体はどうでもいいと快楽主義に走ったりしていたのです。人は何をどう考えるかによってその結果である行動が決まります。もしもこのような考え方に立つなら、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださったということはまったく無意味なものとなってしまい、そこには何の希望も、喜びも見出されないことになります。ただ目先の、現実だけを追い求める生活となってしまうからです。しかし、キリストは実在された方であり、実際に目で見て、耳で聞いて、手でふれることができました。この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことで私たちの罪は完全に贖われました。それゆえ、この方を信じる者に聖書が約束しているように永遠のいのちが与えられました。神との交わりが与えられたのです。このイエス・キリストをじっと見るとき、そこにいのちがあふれてきます。そして、この方が語られる一つ一つのことばが私たちを生かしてくれるのです。

ヨハネは、このいのちを「じっと見つめ」と言っていますが、この「じっと見つめ」と訳されている言葉と同じ言葉がヨハネの福音書1章14節にも使われています。そこには、こう書かれてあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネはここで、イエス様をじっと見つめていると、神のひとり子としての栄光が見えてくる、と言っています。そして、この方は恵みとまことに満ちておられるお方なのだということが見えてくる、と言いました。皆さんはこの方をじっと見つめていらっしゃるでしょうか。別のものを見ているということはありませんか?

先週シモン先生の牧師就任式があり、その中でもお話しをされていただいたのですが、いったいなぜシモン先生は牧師になられたのでしょうか。それは「あなたはわたしを愛しますか」と言われる主に、「はい、愛します」と答えたからです。その先にあるのが「わたしの羊を飼いなさい」とイエス様が言われたことでした。つまり、牧師になるというのはイエス様を愛することを、そのような形で応答することなのです。イエス様を愛するということの延長に牧するということがあるのであって、そうでなかったら、牧師を続けるということは難しいのです。

私は牧師になって35年になりますが、そういうことの連続だったと思います。開拓して10年くらい経った時50~60人くらいの群れに成長しましたが、その時初めて壁に直面しました。一人の姉妹が何人かの兄姉を引き連れて教会を出て行かれたんですね。初めての経験でした。寝ても覚めてもそのことが頭をよぎり、離れませんでした。「いったいどうしたらいいんだろう」と悩みました。それまでは牧師は転職だろうと思っていたのに、どうして牧師になんてなってしまったんだろうと思うようらなり、だんだん落ち込むようになりました。「もう牧師を辞めよう」と思いました。辞めるなら早い方がいいと、毎日求人広告を眺めたりしていました。

そんなとき、ある牧師に相談したら、その牧師がこう言われたのです。「日本の教会はどこも小さくて、人が減りはしないかといつも心配しているんです。でも、先生の所はいいじゃないですか。最初からゼロなんですから。失うものは何もないでしょ。これから増えるだけですよ。」何とも慰められているのか励まされているのかわからないような言葉でしたが、考えてみたら「確かに・・」と思いました。ゼロから始まったんだから、失うものは何もない。そう思うと不安とか恐れがなくなりました。

そのような時に聖書を読んでいたら、旧約聖書のエレミヤ書の御言葉が私の心を捉えました。エレミヤ30章18~19節に、こう書かれてあります。

「主はこう言われる。見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。彼らから、感謝の歌と、喜びの笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。」

これは昔、イスラエルがバビロンに捕囚となって連れて行かれた時に、神様が苦難の中にいる民に対して預言者エレミヤを通して約束してくださった言葉です。私にはこのことばが、「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として響いてきました。神様が建て上げてくださる。これは主の教会であり、主が建て上げてくださるということがわかったとき、少しずつイエス様にゆだねることができるようになりました。

ですから、教会創立20周年の年、私たちがこの大田原市で開拓伝道をすることになったとき、私の牧会スタイルというか、牧会理念が全く変わりました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

この方をじっと見つめていれば、恵みとまことに満たされます。私が、何を、どうするかということではなく、いのちそのものであられるイエス様が恵みを与えてくださいます。私に求められているのはこのいのちのことばを語ることでしかないのです。それを聞く人がイエス様をじっと見て、そこからいのちを受け取ることができるようにみことばを語るだけでいいんだと示されたのです。

だから、私のメッセージは以前とは全く違うメッセージになりました。いのちのことばである聖書そのものを、恵みとまことに満ちておられるイエス様をそのまま語るというスタイルになったのです。

皆さん、イエス様をじっと見つめるなら、そこに神のいのちがあふれます。そして、恵みとまことに満ちておられるイエス様のいのちを味わうことができるのです。イエス様が語られることばによって人は生かされるのです。イエス様のもとに重荷を下ろし、憩い、赦しをいただくことで、安心して生きることができます。そして、イエス様に信頼することで、すべてをゆだねて歩むことができるのです。

あなたが見ているものは何ですか。このいのちのことば、永遠のいのちから目を離さないでください。この方をじっと見つめてください。そうすれば、あなたの人生も恵みとまことにあふれるようになります。ヨハネが伝えたかったのはこの永遠のいのちだったのです。

Ⅱ.イエス・キリストとの交わり(3)

次に3節をご覧ください。ヨハネがこの「永遠のいのち」であるイエス・キリストを伝えるのはなぜでしょうか。その目的がここに記されてあります。

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

ヨハネがキリストを伝えるのは、「あなたがた」、すなわちキリストを直接見たことのない読者もまた、「私たちの交わり」に入ってもらいたいからです。「私たちの交わり」とは何でしょうか?それは御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

「交わり」とは何でしょうか。教会に来ると、よく「交わり」という言葉を耳にします。みなさんもこの言葉をよく使うのではないでしょうか。「礼拝後、皆さんとお交わりしてお帰りください」とか、「クリスチャンは交わりの中で成長するので互いに交わることは大切です」とかとよく言います。しかし、この場合の交わりとは一緒に食事をしたり、お話しをしたり、時間を共にすることを念頭に言われており、人との交流を指して言われている場合がほとんどです。

しかし、聖書が教えている交わりとは、私たちが普段使っている意味と少し違います。ここに出てくる「交わり」という言葉は、原語のギリシャ語で「コイノニア」と言いますが、これは、「何か共通のものを所有すること、分かち合うこと」です。つまり、ヨハネが「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言っているのは、御父および御子と共通のものを所有すること、分かち合うことを意味しているのです。では、何を共有するのでしょうか。それはイエス・キリストのいのちです。このいのちを共有する神との交わりに入れていただくことで、この交わりが広がって、今度は横のクリスチャン同士の共有関係へと発展していくわけです。そのクリスチャン同士の交わりはキリストのいのち、神の恵みの分かち合いにとどまらず、実際に持ち物を分かち合ったり、喜びや悲しみを分かち合っていくという具体的な行為になって現われていきます。ヨハネは、あなたがたもこの交わりに入ってもらいたいと言っているのです。

皆さん、この世は「交わりの世界」だと言っても過言ではありません。私たちは生まれるとすぐ両親との交わりが始まります。自分を育ててくれる存在との出会いが、人生の最初の出会いとなるわけですね。それから幼稚園とか、小学校とか、中学校、高校へと進んでいく中で、先生や友人たちとの出会いがあり、仕事や家庭を持つことで、それがだんだんと社会との交流へと広がっていくわけです。そして、交流が広がれば広がるほど自分とは考え方の違う人がいるんだなぁということに気づかされ、そのような違いが見えてくることで、人間関係って煩わしいなあと思わされることもあったり、逆に、「あの人に出会って良かった」と思う出会いもあったりするわけです。

マルチン・ブーマーという人は、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、私たちの人生は、こうした様々な人たちとの出会いや交流によって方向付けられていくのです。ですから、だれと出会い、どんな交わりを持つかによって、私たちの人生は大きく左右されることになるわけです。そしてその究極の出会いと交わりがイエス・キリストなのです。

ヨハネは晩年エペソで過ごしていた時にこの手紙を書いたと言われています。彼は人生の終わりを間近にして自分の人生を振り返りながら、「私の人生にもいろいろな人との出会いがあったなぁ。交流もあった。しかし、その中で、私の人生を大きく変えた出会いがあった。それがイエス・キリストとの出会いだった。」と言っているのです。

この出会いは、決してあなたを失望させることはありません。私たちはこの方との出会いと交わりを通して父なる神を知り、神との交わりの中へと入れていただきました。そして、この方との交わりを通して愛とは何であるかを知り、その愛によって神様に愛されているということがわかったのです。その結果、こんな者でもこの愛をもって人を愛することができるようになったのです。これはすごいことじゃないですか。それまでは自分のことしか考えられなかったのに、自分だけ良ければいいと、自分を中心に世界が動いていたのに、キリストと出会い、キリストとの交わりを通して、神の愛に生きることができるようになったのですから。

私は自他共に認める自己中心的な人間で、よく家内から、「あなたほど自己中心な人はいない」と言われるのですが、イエス様と出会って、その交わりの中に生かされることによって、少しずつですが変えられてきたと思うのです。「友よ歌おう」という賛美歌がありますが、その中に、「歌い続けよう、主の愛を」という歌があります。

主イエスの深い愛にふれて 私にも愛が生まれ、

主イエスを信じた時に 私にも歌が生まれた。

いつまでも歌い続けよう 主の愛の広さ深さを

十字架でいのちを捨てた その愛の大きさを

イエス様との交わりによって私たちの人生は大きく変えられます。イエス様と交われば交わるほどイエス様のように変えられて行くのです。その交わりの中にあなたも入ってもらいたいと、ヨハネはこのいのちを私たちに伝えているのです。

Ⅲ.喜びが満ちあふれるため(4)

いったいなぜヨハネはこれらのことを書き送るのでしょうか。第三に、それは私たちの喜びが満ちあふれるためです。4節に、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」とあります。

ヨハネにとっての最高の喜びは、私たち一人ひとりが御父および御子イエス・キリストとの交わりに生きる姿を見ることでした。この「喜びが満ちあふれるためです」と訳された言葉は、第三版では「喜びが全きものとなるためです」と訳されてあります。これは、当時のユダヤ教のラビたちにとっては、この世の終わりに全てのものが新しくされる時の完成の喜びを表すものでした。それはこの地上では成し得ない喜び、至極の喜びでした。ヨハネは、あなたがたが私たちと同じように御父および御子イエス・キリストとの交わりを持って生きる姿を見ることが、私たちにとってこの上もない喜びであると言っているのです。

皆さんにとって喜びは何でしょうか。大学入試や就職試験に合格することですか。それも喜びですね。いい人と結婚することが決まったら最高の喜びでしょう。念願の夢がかなってマイホームを新築することになったらどんなにうれしいことでしょうか。これまで自分を悩ませていた病気から解放されたら、家族の願いが叶い、それぞれが自分の願っていた道に進むことができたとしたら、それも大きな喜びです。教会も広い土地が与えられて立派な会堂が建ったらどれほどうれしいことでしょうか。しかし、それよりももっと大きな喜びがあります。それはこの地上にいながらも、さながら天国を味わう喜びです。それが御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

イエス様は、伝道に遣わされた72人の弟子たちが喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもさえも私たちに服従します。」と報告すると、このように言われました。

「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしはみました。確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。しかし、霊でもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に下記記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:18-20)

イエス様は、弟子たちが喜ばなければならないのは彼らが悪霊を追い出す力が与えられていることではなく、彼らの名前が天に書き記されていることだと言ったのです。言い換えるならこれは、彼らが救われて神との交わりの中に生きていることです。それを喜びなさいと言われたのです。

皆さんは何を喜んでいらっしゃいますか。私たちが喜ばなければならないのはこのことです。あなたがたがこの救いの中に入れられ、御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に生かされることです。それを見ることはどんなに喜ばしいことでしょう。それは究極の喜び、全き喜びなのです。先日のイースターには3人の方がバプテスマを受けましたが、ヨハネがここにいたらどんなに喜んだことでしょう。もう飛び上がって喜んだに違いありません。また、そのように救われた人がキリストとの交わりの中に入れられ健全に成長しているのを見たら、どれほどの喜びでしょう。本当に喜びに満ちあふれ、神様をほめたたえたことでしょう。私たちもこのことを喜ぶ者でありたいと思います。そして、このために生きる者でありたいと願わされます。これはヨハネだけでなく、私たちにとっても大きな喜びなのです。ヨハネがこの永遠のいのちを伝えたように、私たちもこの永遠のいのち、イエス・キリストを伝える者でありたいと思います。



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