民数記32章

民数記32章

 

きょうは民数記32章から学びます。

 

Ⅰ.ルベン族とガド族の願い(1-15)

 

まず1~5節をご覧ください。「1 ルベン族とガド族は、多くの家畜を持っていた。それは、おびただしい数であった。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所は家畜に適した場所であった。2 そこでガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザル、および会衆の上に立つ族長たちのところに来て、次のように言った。3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン、4 主がイスラエルの会衆の前で打ち滅ぼされたこれらの地は、家畜に適した地です。そして、しもべどもには家畜がいます。」5 また言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうか、しもべどもがこの地を所有地として賜りますように。私たちにヨルダン川を渡らせないでください。」

 

26章から、イスラエルが約束の地に入るための備えが語られていますが、その時、ルベン族とガド族からモーセと祭司エリアザルに一つの願いが出されました。それは、ヨルダン川の東側にあったヤゼルの地とギルアデの地を自分たちに与えてほしいということでした。なぜなら、そこは家畜に適した地だったからです。彼らは非常に多くの家畜を持っていたので、ヨルダン川を渡らないでその地に住むことができればと思ったのです。前回学んだように、彼らはミデヤン人たちからの戦利品として多くの家畜が与えられました。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

 

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。6~15節までをご覧ください。「6 モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたはここにとどまるというのか。7 どうして、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか。8 あなたがたの父たちも、私がカデシュ・バルネアからその地を調べるために遣わしたとき、そのようにふるまった。9 彼らはエシュコルの谷まで上って行って、その地を見たとき、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地に入って行かないようにした。10 あの日、主は怒りに燃え、誓って言われた。11 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはない。わたしに従い通さなかったからである。12 ただ、ケナズ人エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らが主に従い通したからである。』13 事実、主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを四十年の間、荒野をさまよわせ、主の目に悪であることを行ったその世代の者たちは、ついに、みな死に絶えた。14 そして今、あなたがたが、罪人の子らとしてあなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りを増し加えようとしている。15 あなたがたが背いて主に従わないなら、主は再びこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたは、この民全体に滅びをもたらすことになるのだ。」」

 

モーセは怒って言いました。彼らの兄弟たちは戦いに出て行くというのに、彼らはそこにとどまろうとすることで、イスラエル人の意気をくじくことになると思ったからです。それはかつてカデシュ・バルネアからその地をさぐらせるために12人の偵察隊を遣わしたときの振る舞い同じです。神が、上って行ってそこを占領せよと仰せられたのに、彼らは従いませんでした。10人の偵察隊は、そこには大きくて、強い敵がいるから難しいと言って、彼らの戦意をくじきました。その結果彼らは、四十年の間荒野をさまようことになってしまいました。それと同じだというのです。もし主のみことばに背いて従わなければ、主はまたこの民を見捨てられることになります。それは、全く自己中心的な願いでした。

 

主がヨルダン川東岸の民を追い出されたのは、彼らがそこに定住するためではありませんでした。それは彼らがイスラエルに敵対し、戦いを挑んできたためです。また、主が彼らの家畜を増やされたのもそこに住むためではなく、彼らが約束の地で生活するためでした。彼らが住むところはあくまでもヨルダン川を渡った先にあるカナン人の地でした。それなのに彼らは、たまたまその地が住むのに良さそうだからという理由で、それを自分のものにしようとしたのです。

  このようなことは、私たちにもよくあるのではないでしょうか。神様のみこころよりも、自分の思いや都合を優先してしまうことがあります。でも、もし自分の願いを優先して主のみこころに蔦川無ければ、それはこのルベン族やガド族と同じです。今の状態のままでいたい、前進する必要はない。このままここに留まっていたいというのは、ここでルベン族とガド族が言っていることと同じことなのです。私たちはもう一度考えなければなりません。自分が救われたのは何のためかを。それは自分の願いをかなえるためではなく、神のみこころを行うためなのです。

 

Ⅱ.ルベン族とガド族の誓い(16-32)

 

それに対して、彼らは何と言ったでしょうか。16~19節をご覧ください。「16 彼らはモーセに近寄って言った。「私たちはここに、家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。17 しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みます。子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。18 私たちは、イスラエルの子らがそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。19 ヨルダン川の向こう側では、彼らとともに相続地を持ちません。私たちの相続地は、このヨルダンの川向こう、東の方になります。」」

 

それを聞いた彼らは、自分たちはイスラエルが約束の地に入るまで、武装して、先頭に立って戦うと明言しました。イスラエル人がおのおのその相続地を受けるまで、自分たちの家には帰らないと言ったのです。皆さん、どう思いますか。これは一見、主のみこころに従っているようですが、根本的なところでは全然変化がありません。結局、ヨルダン川東岸を自分の土地にしたいという思いに変わらないのですから。自分たちを完全に明け渡していないのです。もし完全に明け渡していたならば、自分の思いは脇に置いておいて、まず主のみこころに従って前進して行ったことでしょう。その後で、主は何を願っておられるのかを祈り求めて行動したはずです。それなのに彼らは、あくまでも自分たちの土地を確保した上で、ヨルダン川を渡って行こうとしました。それは条件付きの従順です。それは主が求めておられることではありません。主が求めておられるのは、無条件で従うことです。その後のことは主が最善に導いてくださると信じて、主にすべてをゆだねることなのです。

 

このようなことは、私たちにも見られます。なかなか自分を主に明け渡すことができません。そしてこのように条件を付けて、少し距離を取りながら、自分の願いをかなえようとすることがあります。そして付け足すかのように少しお手伝いをして、あたかも主に仕えているかのように振る舞うのです。表面的には主に従っているようでも、実際には自分の思いを捨てることができないのです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。大切なのは、私たちがどのような動機で主に仕えているかということです。聖霊によって心の深いところにある動機を探っていただく必要があります。そして、純粋に主に従う者でありたいですね。

 

それでモーセはどうしたでしょうか。20~32節をご覧ください。「20 モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのことを実行するなら、すなわち、もし主の前で戦いのために武装し、21 あなたがたのうちの武装した者がみな主の前でヨルダン川を渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、22 その地が主の前に征服され、その後であなたがたが帰って来るなら、あなたがたは主に対してもイスラエルに対しても責任を解かれる。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。23 しかし、もしそのように行わないなら、そのとき、あなたがたは主の前に罪ある者となり、自分たちの身に降りかかる罪の罰を思い知ることになる。24 あなたがたは、自分の子どもたちのために町々を建て、自分の羊のために囲い場を作るがよい。自分の口から出たことを実行しなさい。」25 ガド族とルベン族はモーセに答えた。「しもべどもは、あなたが命じられるとおりにします。26 私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての動物は、あそこ、ギルアデの町々にとどまります。27 しかし、しもべども、戦のために武装した者はみな、あなたがおっしゃるとおり、渡って行って、主の前で戦います。」28 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエルの諸部族の一族のかしらたちに命令を下した。29 モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の、戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダン川を渡り、主の前で戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。30 しかし、もし彼らが武装してあなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」31 ガド族とルベン族は答えた。「主があなたのしもべたちに語られたことを、私たちは実行いたします。32 私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行き、私たちの相続の所有地を、このヨルダンの川向こうとします。」」

 

それでモーセは、もし彼らが主の前に戦いの武装をし、ヨルダン川を渡って、その敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服された後に帰るのであればいいと、彼らの申し出を受け入れました。これはどういうことでしょうか。なぜモーセは彼らの申し出を受け入れたのでしょうか。はっきりした理由はわかりません。しかし、20~23節に何回も繰り返して使われていることばがあります。それは「主の前に」ということばです。

「もしあなたがたがそのことを実行するなら、すなわち、もし主の前で戦いのために武装し、あなたがたのうちに武装した者がみな主の前でヨルダン川を渡り、・・・その地が主の前に征服され、・・・そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようなことを行わないなら、そのとき、あなたがたは主の前に罪ある者となり、・・・」

つまり、彼らが「主の前に」どうであるかが問われていたのです。その主にすべてをゆだねたのです。

私たちもイスラエルのように、自分に都合がいいように考え、自分に都合がいいように行動するような者ですが、最終的に「主の前に」どうなのかが問われているのです。

 

Ⅲ.新しい名を付けたガド族とルベン族 (33-42)

 

その結果どうなったでしょうか。33~42節をご覧ください。「33 そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族に、アモリ人の王シホンの王国とバシャンの王オグの王国、すなわち町々がある地と、周辺の地の町々がある領土を与えた。34 そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、35 アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、36 ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。37 また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、38 および、後に名を改められたネボとバアル・メオン、またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。39 マナセの子マキルの子らはギルアデに行って、そこを攻め取り、そこにいたアモリ人を追い出した。40 モーセがギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住んだ。41 マナセの子ヤイルは行って、彼らの町々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。42 ノバフは行って、ケナテとそれに属する村々を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。」

 ここに、ヨセフの子マナセの半部族も加わっていることがわかります。モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土を与えました。彼らは自分たちのために町を建て、その建て直した町々に新しい名をつけましたが、それはすべて自分たちの名前にちなんでつけました。神ではなく自分の名前です。ここに彼らの本心が表れています。主のみこころを求めるのではなく、自分のことで満足しているとしたら、結局それは自分自身を求めていることになります。

 

そうした自分中心の信仰には、やがて必ず主のさばきがあることを覚えておかなければなりません。彼らはモーセに約束したように、確かにヨルダン川を渡って、他の部族とともに戦いました。そして、ヨルダン川の東側を自分たちの所有としました。しかし、その後どうなったでしょうか。イスラエルがカナンを占領して後、ダビデ王による統一王国となりますが、その後、国は二分され(B.C.931)、ついにアッシリヤ帝国によって滅ぼされることになります(B.C.722)。その時最初に滅ぼされたのがガド族とルベン族でした。彼らはイスラエル12部族の中で最初に捕囚の民となったのです。そして主イエスの時代には、そこはデカポリスという異邦人の地になっていました。マルコの福音書5章には、イエスがゲラサ人の地に行ったときそこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、それを豚に乗り移させたという記事がありますが、それがこのデカポリス地方、ゲラサ人の地、ガダラ人の地だったのです。この「ガダラ人の地」とはガド族の人々の土地という意味で、そこには悪霊がたくさんいました。そこはユダヤ人が豚を飼うほど異教化していたのです。

 

ですから、私たちの信仰生活においても、自分の満足を求めるだけで神のみこころに歩もうとしなければ、このガド族やルベン族が歩んだのと同じ道をたどることになります。そのことを覚えて、ますます主のみこころに歩んでいきたいと思います。

エレミヤの涙 エレミヤ書8章18~22節

聖書箇所:エレミヤ書8章18~22節(エレミヤ書講解説教18回目)
タイトル:「エレミヤの涙」

きょうは、エレミヤ書8章後半から「エレミヤの涙」というタイトルでお話します。前回のところで主は、エレミヤを通して「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」と、自然の法則を用いて語られました。しかし、彼らは主のもとに帰ろうとしませんでした。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言って、主のことば、主の招きを拒んだのです。その結果、主は彼らにさばきを宣告されました。12節にあるように、「彼らは倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」ことになったのです。具体的には、バビロン軍がやって来て、エルサレムとその住民を食らうことになります。17節にある「まじないの効かないコブラや、まむし」とはそのことです。神様はバビロン軍を送って、彼らを食い尽くすと宣言されたのです。

それを聞いたエレミヤはどうなったでしょうか。18節をご覧ください。ここには「私の悲しみは癒されず、私の心は弱り果てている。」と言っています。エレミヤは、同胞イスラエルの民が滅びることを思って死ぬほどの悲しみに押しつぶされました。彼はとても複雑な心境だったと思います。こんなに神様のことばを語っているのに受け入れず、耳を傾けようとしなかったのですから。普通なら「だったら、もう勝手にしなさい!」とさじを投げてもおかしくないのに、その悲惨な民の姿を見てエレミヤ自身が涙しているのです。それは、エレミヤがユダの民と一体となって民の苦しみを、自分の苦しみとして受け止めていたからです。それは神に背き続ける民に心を痛め、嘆きながらも、それでも彼らをあきらめずに愛される神様の思いそのものを表していました。きょうはこのエレミヤの涙から、神に背き続ける民に対する神の思い、神の愛を学びたいと思います。

 

Ⅰ.民の思い違い(18-19)

 

まず、18~19節をご覧ください。「18 私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。

8:19 見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」」

 

19節の「遠い地から」とは、バビロンのことを指しています。ユダの民はバビロンに連行されて行くことになります。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。実際にはこの後に起こることですが、エレミヤは預言者として、その時のユダの民の姿を幻で見ているのです。彼らはそこで悲しみ、嘆いています。そして、このように叫ぶのです。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」どういうことでしょうか。

「シオン」とはエルサレムのことです。これは7章に出てきた民のことばに対応しています。7:4で彼らは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫びました。エルサレムには主の宮があるではないか、だったら滅びることがないという間違った思い込みです。これは彼らの勝手な思いに基づくものでした。そこにどんなに主の名が置かれている神殿があったとしても、主のことばに従い、行いと生き方を改めなければ何の意味もありません。それなのに彼らは、ここには主の宮があるから大丈夫だ、絶対に滅びることはないと思い込んでいたのです。それなのにそのシオンは滅ぼされ、神の民はバビロンに連行されて行きました。いったいどうしてそのようになったのか、主はシオンにおられないのかと嘆いているのです。

 

それに対して主は何と言われたでしょうか。19節の次の「」のことばを見てください。ここには、「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」とあります。これは主なる神様の御声です。民の叫び、嘆きに対して、主が答えておられるのです。つまり、主がシオンにおられるかどうかということが問題なのではなく、問題は、彼らが犯していた偶像礼拝にあるというのです。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、主の怒りを引き起こしていました。それなのに、「主はいないのか」というのはおかしいじゃないかというのです。思い違いをしてはいけません。主の宮があれば何をしてもいいということではありません。たとえそこに主の宮があっても、偶像礼拝をしていたら、むしろ神の怒りを引き起こすことになります。それは神様の問題ではなく、神の民であるイスラエルの問題であり、彼らの勝手な思い違いによるものだったのです。

 

このことは、私たちにも言えることです。時として私たちも何らかの問題が起こると、自分の問題を棚に上げ神様のせいにすることがあります。「もし神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるんですか」「神様が愛のお方なら、このようなことを許されないでしょう。」と叫ぶことがあります。でも私たちはそのような問いが正しいかどうかを、自分自身に問うてみなければなりません。自分が神様に従っていないのに、あたかも問題は自分にではなくだれか他の人であったり、神様のせいにしていることがあるのではないでしょうか。

 

たとえば、ここには偶像礼拝について言及されていますが、イスラエルの民は、それぞれ自分の思いつくものを拝んでいました。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、神の怒りを引き起こしていました。2:27には「彼らは木に向かって、『あなたはわたしの父』、石に向かって『あなたはわたしを生んだ』と言っている。」とありますが、木や石に向かってそのように言っていました。当時のイスラエルは農業に依存していたので、私たち以上に天気には敏感だったでしょう。ですから、神の民が約束の地に入った時も、土着の宗教であったバアルやアシュタロテといった偶像に惹かれて行ったのも理解できます。自分たちの生活とかいのちに直接影響を与えるようなものに、しかも目に見えるものに、だれでも頼りたくなりますから。これは昔だけでなく今でもそうです。たとえば、健康のことや経済のこと、あるいはこれから先のことで多くの人は不安を抱えています。だからこそこの天地を造られた神様を頼ればいいものを、そうは問屋は降ろさないわけです。目に見える何かに頼ってしまいます。昔ならバアルやアシュタロテといった偶像でしょうが、現代ではそれが姿を変え、たとえば自分の力や努力であったり、お金であったり、健康であったりするわけです。母が生きていた時の口癖があります。それは「健康が一番だ!」という言葉です。クリスチャンになってからもしょっちゅう言っていました。「健康一番!」確かに健康は大切なものですが、その健康でさえ神様からの贈り物だということをすっかり忘れています。健康も経済も、すべて神からの賜物なのです。詩篇127:1~2にこうあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きは空しい。あなたが朝早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(詩篇127:1-2)

新改訳改訂第3版では、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と訳されています。主は愛する者には、眠っている間に、このように添えてくださるのです。

 

今週は修養会が持たれますが、テーマは「教会を建て上げる喜び」です。教会が神の家族としてしっかりと建て上げられるように、そして、神様のご計画の中心であるより多くの教会を建て上げていくための心構えを学びます。そのためには働き人が必要ですね。イエス様も言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 と。ですから、私は毎日そのために祈っていますが、これってそう簡単なことではありません。

しかし、先月娘の結婚式でシカゴに行ったとき、日曜日に近くの教会に行った時のことです。Faith Bible Churchという教会でした。すると礼拝後に、1人の若い青年が私たちのところに来て挨拶してくれました。彼はHenryという名前の人で、高校を卒業したばかりでこれからムーディー聖書カレッジで学ぶために備えているということでした。彼は小さい時から宣教師になるように召されていて、その少し前にも南米エクアドルに短期宣教に出かけて帰って来たばかりだと話していました。でも自分の母親がラオスの出身ということで、いつかアジアの国々、特に中国か、韓国か、日本に、宣教師として行きたいと教えてくれました。礼拝後に昼食会があったので参加したら彼のお母さんがやって来て、彼にどんなにタラントが与えられているかを教えてくれました。語学は英語とスペイン語のほかにラオス語、中国語ができます。スポーツも得意で特にバレーボールでは全米の大会に出場したほどです。そればかりか音楽も得意でヴァイオリンも弾くことができ、大学に行ってからは交響楽団に所属することになっていると教えてくれました。何でもできる優秀に人材を、神様は宣教師のために備えておられることを知ったとき、私は、あの聖書のことばを思い出したのです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」私たちは何でも自分の力で何とかしようとしますが、そこには神様がいません。主が家を建てるのでなく、自分で建てようとしている。それは偶像礼拝と同じです。そうした偶像を抱えながら、「主はシオンにおられないのか」と言うのはおかしいのです。

 

私たちはそうした思い違いをしないように気を付けなければなりません。神様を自分の手の中に収められるかのように思いそれを言い訳にして嘆くのではなく、神様を神様として、その神様を恐れ、神様に従っているかどうかということを吟味しなければならないのです。

 

Ⅱ.エレミヤの涙(20-21)

 

次に、20~21節をご覧ください。イスラエルの民の嘆きが続きます。次に彼らはこのように嘆いています。20節、「20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

エレミヤは、さらに預言者の目で将来を見ています。ユダの民は、捕囚の民となった自らの運命をこう嘆いています。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

何とも悲しい詩です。これほど悲しい詩はありません。「刈り入れ時」とは、春の刈り入れ時のことを指しています。春の刈り入れの時が過ぎ、夏が過ぎても私たちは救われていないと嘆いているのです。収穫の時が来ているのに収穫の喜びがありません。つまり、捕囚の状態から解放されていないということです。

 

その民の嘆きを見たエレミヤは何と言っていますか。21節です。彼はこう言っています。「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。」

エレミヤは、民が傷ついているのを見て、深い悲しみに襲われました。決して他人事とは思えないのです。民が傷ついているのを見て、自分も傷つき、悲しみに打ちひしがれました。もう感情を抑えることなどできません。そのこみ上げてくる感情を、ここでさらけ出しているのです。涙とともに・・。

 

9:1を見ると、そのことがよくわかると思います。9:1でエレミヤはこう言っています。「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」

エレミヤは民の救いのために生きていました。それなのに、その民が目の前で死んでいくのです。それを見た彼は、ただ泣くしかありませんでした。彼が泣き虫だったからということではありません。同胞が死んでいくのを見てあまりにも悲しくて涙が止まらなかったのです。私はあまり泣きません。あまり泣かないので涙腺が乾いてドライアイになったほどです。時々テレビを見ていて感動して涙を流すことがありますが、そういう時でも妻にわからないようにそっと鼻をすすります。まして、人前で泣くことはほとんどありません。どこか恥ずかしいという思いがあるんでしょうね。でもエレミヤはそういうレベルではありませんでした。泣くとか、泣かないとかということではなく、泣かずにはいられなかったのです。同胞イスラエルの民のことを思うとあまりも悲しくて、あまりにも辛くて、涙が溢れてきたのです。信仰ってこういうことだと思うのです。信仰とはただことばだけではなく、それを全身で受け止めるというか、心で感じることなのです。

 

エレミヤは、4:19で何と言いましたか。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と言いました。それはこういうことだと思うんです。彼はユダの民に対する神のさばきが下るということを聞いたとき、はらわたが悶えると表現しました。はらわたが引き裂かれるような思いであったということです。それはエレミヤにとって耐えがたいほどの苦しみであり、耐えがたいほどの悲しみだったからです。エレミヤはそれを、自分の苦しみとして受け止めたのです。

 

それは私たちの主イエスもそうでした。ルカ19:41には、「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」とあります。都とはエルサレムのことです。イエス様はラザロが死んだときも涙を流されましたが、ここでも、神の都エルサレムのために泣かれました。やがてエルサレムが滅ぼされてしまうことを知っておられたからです。この「泣く」とことばは、テレビを見て感動して涙を流すというようなレベルではなく、大声を出して泣くという意味です。一人の男が皆の前で、大声で泣いているのです。それは、エルサレムが滅ぼされることになるからです。実際エルサレムは、イエス様がこの預言を語られてから30年後に、ローマによって滅ぼされることになります。そのことを知っておられたイエス様は大声で泣かれたのです。エレミヤもそうでした。エレミヤも、この時から約20年後にエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、神の民が捕囚の民としてバビロンで苦しむ姿を見た時、大声で泣いたのです。ただイエス様の場合は、それを見て深く悲しみ、涙を流されただけではありませんでした。イエス様は人々の痛みや悲しみをその身に負われました。ツァラアトという重い皮膚病の人がご自分の前に来た時には、感染するかもしれないという恐れの中でも、深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、こう言って癒されました。「わたしの心だ、きよくなれ。」(マルコ1:41)いわゆる濃厚接触ですね。コロナの感染が収まらずソーシャルディスタンスが叫ばれている今では考えられないことです。またイエス様は、当時差別されていた罪人や取税人たちと一緒に食事をされました。これも濃厚接触です。イエス様は罪に病んでいる人を見てただあわれまれたというだけでなく、その傷を癒すために、自ら肉体を取ってこの地上に来てくださり、その痛みを一身に受けられたのです。イエス様は天国からテレワークをされたわけではありません。イエス様は神様ですからテレワークも出来たでしょう。でも神の子は罪人と同じ姿を取られ、罪人に触れて罪人を癒してくださいました。そして最後はその罪をご自身の両肩に十字架を負ってくださり、神の怒りを私たちに代わって死んでくださいました。それが私たちの主イエスです。ただ遠くから見つめているだけではありませんでした。痛み、悲しみ、悩み、苦しんでいる人と同じ姿となりそれを共に担うこと、それが愛です。それが信仰なのではないでしょうか。エレミヤがここでこんなにも痛み、苦しみ、うなだれ、絶望したのは、民の痛みを負い、それを自分のこととして担ったからでした。あなたはどうでしょうか。そのような魂への情熱があるでしょうか。そのような愛を実践しているでしょうか。

 

1800年代半ば、南アフリカで宣教したアンドリュー・マーレ―は、宣教を「教会の究極のもの」と考え、南アフリカのリバイバルに貢献しました。そのアンドリュー・マーレ―が、次のようなことばを残しています。

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に満足して生活していることだろうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちは何と少ししか感じることができなかったのだろうか。私たちの心に休むことができなかったほどに、魂への情熱が満ち溢れていたならば、私たちは今の私たちと非常に違った存在になったであろうに。」

アンドリュー・マーレ―のことばです。魂が滅びつつあるというのに、私たちは自分さえよければいいと思っています。自分さえ天国に行けるならそれでいいと思っているのです。あとは気楽に何不自由のない生活ができればそれでいいと。でも実際にイエス様を信じなければ、彼らの魂は滅んでしまいます。それなのに、何と安楽に満足した生活をしていることでしょうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちはあまり感じてはいないのではないでしょうか。魂への情熱が満ち溢れていたら、今の自分とは非常に違った存在になるのではないかと、アンドリュー・マーレ―は言ったのです。あなたはどう思いますか。

 

第二次世界大戦時に、ナチスによって処刑されたドイツの神学者にボンヘッファーという人がいました。彼はヒトラーの暗殺計画に関わって、ドイツ敗戦の直前に39才の若さで処刑されました。ヒトラー暗殺計画ですから殺人計画に加わったということになります。そのことについて彼は後にこう言っています。「目の前に暴走しているトラックがあり、そのトラックが次々と人を跳ねていたら、その運転席から運転手を引きずり降ろさないだろうか。あなたはどう思うか。」そういう言い方をしています。私たちも彼の生き方をどう捉えるかが問われるわけです。

実は、彼はアメリカに亡命するチャンスがありました。1936年6月に、アメリカの著名な神学者にラインホルド・二―バーという人がいて、彼に招かれてアメリカに渡りました。そこで仕事を紹介され、働く道も用意されていました。それは、若くて将来が期待されていたボンヘッファーが殺されてしまうことを心配したニーバーが、配慮してくれたことによるものでした。その時の日記が残っています。1939年6月13日の日記にボンヘッファーはこう記しています。

「今まで蛍など見たことがなかった。全くファンタジーに溢れた光景だ。非常に心のこもった、肩ひじ張らないもてなしを受けた。にもかかわらず、ここで自分に欠けているのは、ドイツと兄弟たちだった。初めて一人で過ごした時間が、重苦しくのしかかってくる。どうしてここに自分がいるのか理解に苦しむ。たとえそれに深い意味があったとしても、また、償って余りあろうとも、毎晩最後に行き着くところは、聖書日課と故郷に残してきた仕事への思いである。祖国(ドイツ)のことについて何の知らせも受けずに過ごすようになってから、かれこれもう2週間になる。これはほとんど耐え難いことだ。」

ボンヘッファーには、ドイツの人たちを祖国に残してアメリカに来たことに対する疑問と、自責の念があったのです。それで彼はドイツに戻る決断をします。そして、ニーバーに宛てて手紙を書き送るのです。そこにはこう書きました。

「もし私がこの時代の試練を同胞と共に分かち合うことをしなかったら、私は戦後のドイツにおけるキリスト教の再建に与る権利を有しないでしょう。」
 彼は、旧約聖書と新約聖書の聖書日課を読んでいましたが、ある日読んだ聖書箇所にこう書かれてありました。「何とかして冬になる前に来てください。」(Ⅱテモテ4:21)これはパウロがテモテに宛てて書いた手紙のことばです。「冬になる前に来てほしい」。ボンヘッファーは、これを自分に語られたことばとして受け止めたのです。

彼はドイツ人の苦しみを背負って生きようとしました。私たちも小さなキリスト者ですが、キリスト者という名前を持っている者です。エレミヤは預言者として民の苦しみを負って生きましたが、私たちも小さなキリスト者として、この社会であったり、自分の家であったり、教会であったり、それぞれ置かれたところで、その破れ口に立ち、その痛みや苦しみを共に負い、祈り、キリスト者としての務めを全うさせていただきたいと思うのです。

 

エレミヤはこの苦しみを背負うことで、お腹が痛くなったり、もだえ苦しんだり、泣けてきたりしましたが、苦しみや悲しみを負うということはそういうことだと思うんです。私たちはそこから逃れることはできないし、逃れてはいけないと思います。なぜなら、イエス様は私たちのために十字架を負ってくださったからです。そのイエス様に従って行く者に求められているのは、十字架を負うということだからです。イエス様はご自分についてくる者に、その心構えとしてこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

私たちにも、それぞれ自分の十字架があります。エレミヤもそうでした。その十字架を負ってイエス様について行くことが求められています。イエス様は十字架を通って復活されました。十字架を通らなければ復活の栄光に至ることはできません。私たちも十字架を通って復活の栄光に至る者になりたいと思うのです。

 

Ⅲ.ここに真の医者がいる(22)

 

最後に、22節をご覧ください。「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。」

これもエレミヤのことばです。「乳香」とは、傷を癒す薬として用いられていました。「ギルアデ」は、ヨルダン川の東側の地域のことです。そこには傷を癒す乳香がありましたが、その乳香がないのか、どうして癒すことができないのかと、そのもどかしさを表現しているのです。また、傷口を癒すことができる医者はいないのかと嘆いています。皆さん、どうですか。民の傷を癒す薬はないのでしようか。その傷を癒すことができる医者はいないのでしょうか。います!それは私たちの主イエス・キリストです。私たちの主イエスは、私たちの罪のための苦しみ、すべての傷をいやすことができます。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。私たちは、ギルアデの乳香によってではなく、主イエスの打たれた傷、流された血潮によって癒されるのです。その結果、私たちは罪と悪魔の支配から完全に解放されます。

 

それなのに私たちはなかなか主の許に行こうとしません。目の前に治療の手段があるのに、それを用いようとしないのです。残念ですね。救いは目の前にあるのに、癒しは目の前にあるのに、罪の赦しはすぐそこくにあるのに、解決は目の前にあるのに、それを受け取ろうとしないのです。

神様はどんな病気でも癒すことができます。どんな罪でも赦すことができます。どんな問題やトラブルでも解決することかできます。でも神様がどんなに薬を提供しても、どんなにすばらしい治療を約束しても、それを受けなければ癒されることはできません。

 

イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

これは、健康な人には医者はいらないということではありません。というのは、すべての人が罪という病にかかっているからです。すべての人に魂の医者が必要です。しかし、その癒しを求めて医者のもとに行こうとする人はごく僅かです。自分が病気だと認めなければその必要性を感じないからです。病気なのに病気じゃないと思っている。そういう人は気が付いたときにはもう手遅れになってしまいます。もっと早く診てもらっていたらこんなことにはならなかったのに、ちゃんと検査していたらもっと早く発見して治療することができたのに、後悔してもしきれません。自分が病気だと認めさえすれば、もっと素直になっていれば、治るものもあったのです。病気を認めようとしない人たち、罪を認めようとしない人たちは、自分の罪の中に死んでいくことになります。イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来られました。そのイエス様があなたの目の前におられるのです。ですから、いつでもすがることができるし、いつでも助けを求めることができます。もしあなたが頑なにならないで、心を開いて、素直になるなら、主はあなたの傷も癒してくださるのです。

 

あるセミナーでの話です。講師が、講演の冒頭で20ドル紙幣を見せて、「欲しい人は手を上げてください。」と言いました。すると何人もの人が手を上げました。

「これをだれかに差し上げようと思いますが、まずこれをさせてください。」と、講師が言うと、講師はその紙幣をくしゃくしゃにしました。そして、「これでも欲しい人はいますか?」と聞きました。たくさんの人が手を上げました。

そこで講師は、その紙幣を床に落として、靴で踏みつけ、それから汚くなった紙幣を拾って言いました。

「さあ、これでも欲しい人がいますか?」」

すると、それでもたくさんの人が手を上げました。

それを見て、講師はこう言いました。

「今みなさんは、非常に大切な教訓を学ばれました。私がこの紙幣に何をしても、みなさんはそれを欲しいと言われました。紙幣の価値が減ったわけではないからです。私たちの人生も、くしゃくしゃになったり、踏みつけられたり、汚れたりすることがあります。時には、自分は無価値だと思うこともあるでしょう。しかし、何が起ころうとも、神様から見たあなたの価値は変わりません。私たちのいのちは、神にとってかけがいのないものなのです。

 

そうです、私たちのいのちは、神にとってかけがえのないものです。神様は、あなたがどんなに落ちても、決してあきらめたりしません。あなたを助け、あなたを癒し、あなたを救いたいのです。必要なのは、あなたがへりくだって主の御前にへりくだり、主にすがることです。そうすれば、主はあなたの傷を癒し、あなたを罪から救ってくださいます。そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。主は今もあなたのために悲しみ、痛みを負ってくださいます。その主に感謝して、主に信頼して、あなたの傷も癒していただきましょう。

倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る エレミヤ書8章4~17節

聖書箇所:エレミヤ書8章4~17節(エレミヤ書講解説教17回目)
タイトル:「倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る」

きょうは、エレミヤ書8:4~17のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る」です。7章からエレミヤの第二のメッセージが語られています。語っているのは、主の宮の門のところです。エレミヤは、主の宮の門に立ち、主を礼拝するために神殿に入るすべてのユダの人々に語っています。その内容は、生き方と行いを改めよということでした。また、主の御声に聞き従えということでした。なぜなら、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言いながら、主のことばに耳を傾ないで、頑なな悪い心で歩んでいたからです。その結果彼らは、前進どころか後退していました。

今回はその続きです。信仰が後退していた彼らに、主は次のように呼び掛けられました。4節と5節です。「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。」

神の民イスラエルは、神から離れてしまいました。神に背いてしまったのです。ではどうすれば良いのでしょうか。ここには、「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」とあります。それが自然の道理です。人は倒れたら起き上がり、離れたら、帰って来ます。倒れたままずっとそこにいるようなことはしません。勿論、起き上がりたくても起き上がれない場合は別ですが。しかし、そのような時でも立ち上がろうとします。けれども、神の民、ユダの民はそうではありませんでした。彼らは倒れたら倒れっぱなし、離れたら離れっぱなしでした。それはおかしいじゃないかというのです。倒れたら起き上がり、離れたら帰ってくる。それが自然の定めなのです。

「帰って来る」という言葉は、ヘブル語で「シューブ」と言いますが、実はこの4節と5節に5回も使われています。日本語で読むとわかりませんが、4節の「離れたら」という言葉がそうです。また、その後の「帰って来るものではないか」もそうです。それから、5節の「背信者」、その後の「いつまでも背信を続けているのか」、「帰って来ることを拒む」、これらはすべて「シューブ」という言葉が使われています。つまり、このことが強調されているのです。この言葉には元々「最初の出発点に戻るために反対の方向を見る」という意味があります。すなわち、本来あるべき方向から反対の方に向かって行ったら、向きを変えてかえって来るべきではないかということです。それなのに、ユダの民はかえって来ませんでした。

皆さん、私たちの人生には、つまずき倒れたり、神から離れてしまうことがあります。でも重要なのは、つまずき倒れたか、離れたかということではなく、その時にどうしたかということです。倒れたら起き上がり、離れたら立ち返ればいいのです。いったいどうしたら起き上がることができるのでしょう。どうしたら立ち返ることができるのでしょうか。きょうは、そのために必要な三つのことをお話します。

 

Ⅰ.主の定めを知る(6-7)

 

第一のことは、主の定めを知るということです。6~7節をご覧ください。「6 わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。7 空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」

「わたしは気をつけて聞いていたが」とは、神様のことです。神様は耳を傾けて注意深く聞いておられました。神様はいつでも耳を傾けてくださるお方です。私たちが背信者になっても、私たちが何を言うのか、何を語るのかを、注意深く聞いておられるのです。私たちは、罪を犯したり、神様から離れたりすると、なかなかこのようなイメージを持つことができません。むしろ主は遠くにおられ、自分から距離を置き、何か忌み嫌うようなものを見るような冷たい目で見ているのではないかといったイメージを持っています。しかしそうではありません。主は怒るのに遅く、あわれみ深い方です。私たちが主から離れても、主は気を付けて、私たちの叫びを聞いておられるのです。

 

それなのに、彼らはどうだったでしょうか。彼らは正しくないことを語り、「私は何をしたというのか」と言って、自分の悪を悔いようとしませんでした。むしろ、戦いに突き進む軍馬のように、滅びの道に向かって突っ走って行きました。本当に自分は情けない者だ。ふがいない。なぜこんなバカなことをしてしまったのだろう。とり返しのつかないことをしてしまった。本当に神様に申し訳ないと、悪を悔いるのではなく、自分の道に向かって走って行ったのです。

 

7節をご覧ください。ここにも、主の定めに背くユダの民の姿が描かれています。「空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」

「こうのとり」とか、「山鳩」、「燕」、「鶴」とは、渡り鳥ことです。こうした渡り鳥は、移動する季節や自分の巣に帰る時を知っています。これは渡り鳥だけではなく、多くの動物にも言えることですが、それらはみな帰巣本能を持っているわけです。「巣」に「帰る」と書いて「帰巣本能」と言います。伝書鳩などは、1000㎞も離れたところからでも戻ってきます。カーナビもなければグルーグルナビもありません。どうやってできるのか科学的にはまだ解明されていませんが、神様がそのように造られたからです。そして人間にも帰巣本能があります。人間もこれを造られた方のもとに帰るように造られているのです。それによって、生きる意味や目的を持つことができます。皆さん、人は何のために生まれ、何のために生きているのでしようか。それは私たちを造られた神を喜び、神の栄光を現わすためです。創世記1:27に「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とあります。人は神のかたちに創造されました。ですから、これを造られた神に帰るのです。神を喜び、神の栄光を現わすために生きるのです。ですから、聖書によって生きる意味と目的を見出した人は、その目的に従って生きることができますが、そうでないと、空しい人生を生きることになります。

 

先日、二番目の娘が結婚しました。結婚した相手はデザインエンジニアとって、物を作る際のデザインをする仕事をしています。たとえば、皆さんが腰かけている椅子も、こういうものを造ろうと考えてデザインした人がいるからできたわけです。それが製品となるわけです。今はゴルフ場をデザインしていると言っていました。へぇ、ゴルフ場って自然に出来るのではないのかと思っていたらそうじゃなく、そういう人たちによってちゃんとデザインされているのです。このコースは、ここにバンカーを作り、ここに池を作ろうとか、グリーンの傾斜は何度にしようとか、ギャラリーはこのエリアに作ろうとか、全部デザインされているのです。

 

それは私たち人間も同じです。私たちは創造主であられる神の作品であって、良いことをするように、あらかじめ神によってデザインされているのです。どのように?永遠を慕い求めるように、です。伝道者の書3:11にこうあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

神様はまた、人に永遠を与えられました。私たちはこの地上がすべてではありません。人は死んで終わりではないのです。何かこれ以上のものがあるに違いないという思いを持っているのです。それが永遠の思いです。それが帰巣本能です。ですから、心の中にポッカリ穴が開いているような感覚があるのです。哲学者のパスカルはこう言いました。「人の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある。」これは科学では証明できませんが、事実です。人の心の中には、本当の神様しか満たすことができない真空があるのです。

 

であれば、私たちはそのように造られた創造主なる神様の定めを知り、それに従って生きることが求められているのです。思い出してください。5:22には何とありましたか。「わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることができない。波が逆巻いても、鳴りとどろいても越えられない。」神は砂浜を海の境としました。どんなに波が渦巻いても勝てないし、鳴りとどろいてもても越えることはできません。神がそのように定められたからです。神によって造られた者はみな、この神の定めを知らなければなりません。そして、この神に立ち返らなければならないのです。

 

しかし、神の民イスラエルはそうではありませんでした。彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って、自分の悪を悔いることをしませんでした。彼らに求められていたのは、自分は神に立ち返るように造られているという神の定めを知り、その定めに従うことだったのです。あなたの心には、どんな神の声が聞こえていますか。もしあなたが倒れているなら起き上がりましょう。離れているなら立ち返りましょう。それが、神が定めておられる自然の道なのです。

 

Ⅱ.主のことばに聞き従う(8-12)

 

主に立ち返るにはどうしたら良いのでしょうか。第二のことは、主のことばに聞き従うということです。8~9節をご覧ください。「8 どうして、あなたがたは、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言えるのか。だが、見よ、書記たちの偽りの筆が、それを偽りにしてしまった。9 知恵ある者たちは恥を見、うろたえて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろうか。」

 

どうしてイスラエルの民は、神に背いてしまったのでしょうか。自分たちは知恵のある者、主の律法があると思っていたからです。ここに「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」とあります。これは、当時神の民が言っていたことばです。これは7:4に出てきた「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばと同じです。単にそのように思い込んでいただけです。

当時、南ユダ王国は、ヨシヤ王の時代に宗教改革が行われましたが、その時に神殿の内部から律法の書が発見されました。長らく失われていたトーラー(律法)が発見され、読み上げられたことで、国全体にリバイバルがもたらされました。彼らはその律法を誇らしげに思っていたのです。それがこの「私たちは知恵がある者、私たちには主の律法がある」という言葉に表れています。でもこれは迷信というか、単なる思い込みです。どんなに主の律法があっても、それに従わなければ何の意味もありません。でも彼らは、自分たちが律法を持っているというだけで、あたかも立派な信仰者であるかのように思い込んでいたのです。

 

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。聖書を持っているというだけで、何だか自分がクリスチャンであるかのように思ってしまうことがあります。私は高校生の時、国際ギデオン協会の方々が校門で配布していた聖書を手にしました。クラスメートの多くはそれを教室のごみ箱に捨てていましたが、私はできませんでした。家に持ち帰って読もうと思った。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み・・・。」(マタイ1:1-2)何だ、これ?と思って、それで読むのを止めてしまいました。でもその聖書を捨てることができませんでした。それは赤いカバーのポケットサイズの新約聖書でした。なんだかそれを持っているだけで天国に行けるような気がしたのです。それで何回か引っ越しをしましたが、それでもその聖書を大切にし、いつも本棚に飾っておきました。まさか、やがて妻と出会い、教会に導かれるなんて思ってもいませんでしたが、ずっと聖書を手放すことができなかったのです。

 

皆さんも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書を持っているというだけで、何だか自分の罪がきよめられるような気がして、それをずっと持っているということが。でも、聖書を持っているだけでは意味がありません。勿論、全然読んでいないというわけではないでしょう。事実、こうやって礼拝に来て聖書の言葉を聞いているのですから。家にいてもできる限り聖書を読んでおられるのではないかと思います。でもどんなに聖書を読んでも聖書に従うのでなければ意味がありません。あるいは、自分に都合がいいように聖書を勝手に解釈しているとすれば、聖書読みの聖書知らずということになってしまいます。大切なのは、その聖書に従うことです。

 

イエス様は何と言われましたか。イエス様はこのように言われました。「わたしに向かって「主よ、主よ」という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:20)

どんなに「主よ、主よ」と叫んでも、天の神様のみこころを行うのではなければ、天の御国に入ることはできません。あなたを救うのは、あなたのために十字架で死んで、三日目によみがえってくださった主イエスを信じることによってのみです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)そして、その人が本当にイエス様を信じたかどうかは、その実によって見分けると、主は言われました。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶからです。

 

皆さん、天国と地獄の距離がどのくらいあるかご存知でしょうか。天国と地獄の距離、それはたったの30cmです。つまり頭、脳のところと、心、心臓の距離です。それが約30cmです。つまり、どんなに頭でわかっていてもそれが心に落ちなければ、神のことばに従って生きるのでなければ天国に行くことができないということです。その距離はたった30cmです。たった30cmと思うかもしれませんが、それが永遠を分けてしまうのです。

 

8月末に、那須の小島楓君と凜さんがバプテスマを受けることになりました。3年前に受洗された小島兄夫妻の息子さんと娘さんです。今年20歳と16歳になります。先日バプテスマ準備クラスをしているとき、お二人に尋ねました。どうして二人はイエス様を信じようと思ったんですか?すると二人とも同じことを言いました。それは親が変わったからですち。イエス様を信じたら、両親とも優しくなった・・・。特に父親は怒るとすぐに物を投げつけていて怖かったんですが、イエス様を信じてからそういうことがなくなりました。前はひどかったですよ。テレビのリモコンがあるじゃないですか、そのリモコンを投げたらテレビに当たって壊してしまったんです。でもイエス様を信じたら、本当に穏やかになったんですよと、教えてくれました。それは、両親が神のみことばをただ頭で学んでいるだけでなく、それを自分の生活に適用しているというか、みことばに生きているからです。

その楓君と凜ちゃんに、将来どのように生きていきたいですかと尋ねると、こう言いました。「主に自分をささげたいです」。すばらしいですね。本当に素直です。これが信じるということではないでしょうか。ただ「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」というのではなく、自分を主にささげ、主のみこころのままに生きること、それこそ信仰の本質なんだと思うのです。

 

10~12節をご覧ください。「10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」彼らはわたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。12 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。」

 

ここには神の民に対する神のさばきが宣言されています。「他人」とか「侵略者」とは、バビロンのことを指しています。バビロンは、妻や畑、財産を奪い去って行きます。それは、神の民が神のことばに従わないで、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っていました。

 

その具体的な一つの例が11節に書かれてあります。彼らは神の民の傷を適当に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていたのです。これは嘘です。なぜなら、イザヤ48:22に「悪しき者には平安がない」とあるからです。皆さん、悪しき者には平安がありません。

 

先週、タイヤが盗まれました。家の駐車場の軒先に置いておいたスタッドレスタイヤですが、2台分8本です。安いタイヤなので別に被害届を出さなくてもいいかなと思いましたが、もしかすると後でタイヤが出てきたとき、被害届を出しておけば自分たちのところに戻るかもしれないと思い、警察に連絡しました。すると、地域課のおまわりさんが3人と刑事課の刑事さん2人計5人も来て、現場を検証してくれました。道の向かい側にはコンビニがあるのでもしかすると防犯カメラに写っているかもしれないと調べてくれましたが、残念ながら防犯カメラには映っていませんでした。すると、被害届を書いてくれた刑事さんが言いました。「きっと犯人は気が気じゃないと思いますよ。いつ捕まるかと不安なはずです」と。そうです。悪者には平安はありません。

 

Ⅲ.機会を逃さない(13-17)

 

どうしたら神に立ち返ることができるでしょうか。第三のことは、機会を逃さないということです。13~17節をご覧ください。13節には「わたしは彼らを刈り入れたい。──主のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」とあります。

ここでイスラエルの民が、再びぶどうの木にたとえられています。主は彼らから実を刈り取りたいのです。しかし、ぶどうの木には、ぶどうがありません。いちじくの木には、いちじくがありません。その葉しおれているのです。しかも、主はそれらをそのままにしておくと言と言われます。どういうことでしょうか。敵の攻撃のなすがままにされるということです。本当に悲しいことです。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

14節と15節にこうあります。「14 「何のために私たちは座っているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで滅んでしまおう。私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」」

ここに至って、ユダの民は自らの罪にやっと気付きます。これは彼らのことばです。彼らは、偽預言者たちのことばが偽りであったことに気付きました。しかし、時すでに遅し、でした。悔い改めのタイミングを失ってしまったのです。それで絶望した彼らは、城壁のある町々に逃げ込み、そこで滅んでしまおうと言っているのです。だからと言って、そこに希望があるわけではありません。彼らがどんなに平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、恐怖しかないのです。

 

これは私たちにも言えることです。後になってどんなに平安を待ち望んでも、得られず、癒しの時を待ち望んでも、恐怖しかありません。ですから、その前に自分の罪を悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。機会を逃してはならないのです。今がその時です。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)とあります。この恵みを無駄にしてはなりません。今ならまだ間に合います。しかし、やがて後ろの戸が閉ざされる時がやって来ます。その時になってから、「私がばかだった。なぜ神様の言うことを聞かなかったんだろう。なぜ聖書に書かれてある通りにしなかったんだろう」と嘆いても遅いのです。救いの門が開かれているうちに悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。機会を逃さないようにしなければなりません。

 

ルカの福音書15章には、有名な放蕩息子の話があります。彼は父親の元から離れ遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、湯水のように財産を使い果たしました。すると、食べるのに困り果てた彼は、そこである人のところに身を寄せますが、その人は彼を畑に送って、豚の世話をすることになりました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時です。彼はこう思いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が、大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)

そして、彼はお父さんのもとに帰ります。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、何回も口づけしました。そして、しもべたちに、急いで一番良い着物をもって来させて彼に着せ、また、手には指輪をはめ、足には履き物をはかせ、そして、肥えた子牛を引いて来て屠り、こう言ってお祝いしました。「」この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

 

彼は、自分が堕ちるのを見てはっと我に返りました。この体験が重要です。はっと我に返ったら、あなたも自分に問うてみなければなりません。「私はいったいここで何をしているのか。父のところにはあり余っている恵みが溢れているではないか。それなのに私はここで飢え死にしようとしている。そうだ、父のもとに帰ろう。そしてこう言おう、「私はあなたの前に罪を犯しました。私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。しかし、どうか私をあわれんでください。」と」そうすれば、主は喜んであなたを受け入れ、あなたに恵みの冠をかぶらせてくださいます。

 

もし今日、御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。神様から離れていると感じているなら、信仰が後退していると感じているなら、どうか神に立ち返ってください。神様はあなたが帰って来るのを、首を長くして待っておられます。そのために神の定めを知り、神のみことばに聞き従い、神の機会を逃さないでください。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。

民数記31章

きょうは民数記31章から学びます。

Ⅰ.主の復讐(1-24)

まず、1~24節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」3 そこでモーセは民に告げた。「あなたがたのうち、男たちは戦のために武装せよ。ミディアン人を襲って、ミディアン人に主の復讐をするためである。4 イスラエルのすべての部族から、部族ごとに千人を戦に送らなければならない。」5 それで、イスラエルの分団から、部族ごとに千人、すなわち、合計一万二千人の、戦のために武装した者たちが選ばれた。6 モーセは部族ごとに千人を戦に送った。また彼らとともに、祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる用具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、戦に送り出した。7 彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミディアン人に戦いを挑み、その男子をすべて殺した。8 その殺された者のほかに、彼らはミディアンの王たち、すなわち、エウィ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミディアンの王たちを殺した。また、ベオルの子バラムを剣で殺した。9 イスラエル人は、ミディアン人の女たちと子どもたちを捕らえ、またその動物、家畜、財産をことごとく奪い取り、10 彼らの居住していた町々や陣営をすべて火で焼いた。11 そして人でも動物でも、略奪したものや分捕ったものすべてを取り、12 エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原の宿営にいる、モーセと祭司エルアザルとイスラエルの会衆のところに、その捕虜や分捕り物、略奪品を携えてやって来た。13 モーセと祭司エルアザル、およびすべての会衆の上に立つ族長たちは出て行って、宿営の外で彼らを迎えた。14 モーセは、軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から戻って来た千人の長や百人の長たちに対して激怒した。15 モーセは彼らに言った。「女たちをみな生かしておいたのか。16 よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒?させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。17 今、子どもたちのうちの男子をみな殺せ。男と寝て男を知っている女もみな殺せ。18 男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。19 あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に身の汚れを除かなければならない。20 衣服、皮製品、やぎの毛で作ったもの、木製品はすべて汚れを除かなければならない。」21 祭司エルアザルは、戦いに行った兵士たちに言った。「主がモーセに命じられたおしえの掟は次のとおりである。22 ただ、金、銀、青銅、鉄、すず、鉛など、23 すべて火に耐えるものは、火の中を通せば、きよくなる。ただし、それは汚れを除く水で汚れを除かなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。24 また、あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後で、宿営に入ることができる。」」

 

この31章は、26章から続く約束の地に入る備えが語られています。1節から3節には、主がモーにミディアン人に復讐するようにと命じておられます。その後彼は彼らの民に加えられます。つまり、その後でモーセは死んで、先祖たちの墓に加えられるということです。いわば、これがモーセの最後の務めであったわけです。これから約束の地に入ろうとしていたイスラエルに、いったいなぜこのようなことが命じられたのでしょうか。

 

その背景には、25章の出来事がかかわっています。25:1には、イスラエルがシティムにとどまっていた時、モアブの女たちと淫らなことをしたことが記録されています。これは偽りの預言者バラムの助言によってモアブの王バラクがモアブの女たちをイスラエルの宿営に送り、彼らと不品行を行わせることで、偶像礼拝の罪を犯させました。そのためイスラエルに神罰が下り、イスラエル人2万4千人が死にました。この時のモアブの女たちこそ、モアブにいたミディアンの女たちです。このことは主を大いに怒らせたので、主ご自身がミディアン人を襲って復讐すると言われたのです。ですからこれは個人的な恨みではなく、神ご自身の復讐でした。

 

4節をご覧ください。このために主はイスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつを戦いに送るようにと命じました。そして祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともに戦いに送りました。それはこの戦いが単なる軍事的な戦いではなく、主の聖なる戦い、聖戦であったからです。彼らは、主がモーセに命じられたとおりミディアン人と戦って、ミディアン人の男子をすべて殺しました。また、その他にミディアン人の5人の王たち、エウィ、レケム、ツル、フル、レバを殺しました。そして、この事件の張本人であったベオルの子バラムを剣で殺しました。また、ミディアン人の女と子どもたちを捕らえ、その獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼き払いました。そして、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに帰って来ました。

 

するとどうでしょう。宿営の外で彼らを出迎えたモーセは、戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して激怒しました(14)。なぜでしょうか?女たちを生かしておいたからです。通常の戦いであれば、捕虜として捕えた女や子どもたちは生かしておきますが、今回の事件はそういうわけにはいきません。なぜなら、イスラエルに偶像礼拝がもたらされたのは、その女たちが原因であったからです。その原因となったものを徹底的に取り除くことを求められたのです。

 

主イエスは山上の説教の中でこのように言われました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:29-30)

信仰のつまずきとなるものがあれば、それを取り除かなければならないということです。それなのに彼らは、その女たちを生かしておきました。それでモーセは激怒したのです。それで、男子はもちろんのこと、男と寝て男を知っている女もみな殺さなければなりませんでした。ただ男と寝ることを知らない若い娘たちだけを生かしておきました。罪のきよめの期間は七日間です。ミディアン人を殺した者たち、あるいは捕虜でも、だれでも、人を殺した者、あるいはその死体に触れた者はみな、三日目と七日目に身をきよめなければなりませんでした。火に耐えるものは火できよめ、耐えられないものは水によってきよめました。

 

Ⅱ.分捕り物の分配(25-47)

 

次に、25~47節をご覧ください。「25 主はモーセに言われた。26 「あなたと祭司エルアザル、および会衆の氏族のかしらたちは、人でも家畜でも捕らえて分捕ったものの総数を調べ、27 その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。28 戦に出た戦士たちからは、人、牛、ろば、羊の中からそれぞれ五百のうち一を、主への貢ぎとして徴収せよ。29 彼らが受けるその半分の中から取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。30 イスラエルの子らが受けるもう半分の中から、人、また牛、ろば、羊、それぞれの家畜から、それぞれ五十のうち一を取り出して、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えなければならない。」31 そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行った。32 従軍した人たちが奪った戦利品を除く分捕り物は、羊六十七万五千匹、33 牛七万二千頭、34 ろば六万一千頭、35 人は、男と寝ることを知らない女が全部で三万二千人であった。36 この半分が戦に出た者たちの分け前で、羊の数は三十三万七千五百匹。37 その羊のうちから主への貢ぎは六百七十五匹。38 牛は三万六千頭で、そのうちから主への貢ぎは七十二頭。39 ろばは三万五百頭で、そのうちから主への貢ぎは六十一頭。40 人は一万六千人で、そのうちから主への貢ぎは三十二人であった。41 モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、その貢ぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。42 モーセが戦に出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエルの子らのものであるもう半分、43 すなわち会衆のものであるもう半分は、羊三十三万七千五百匹、44 牛三万六千頭、45 ろば三万五百頭、46 人は一万六千人であった。47 モーセは、イスラエルの子らのものであるもう半分から、人も家畜も、それぞれ五十のうち一を取り出して、主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えた。」

 

 すべてのきよめをした後で、捕虜として分捕ったものは、戦に出た兵士たちと、イスラエルの全会衆との間で二分されました。そのように二分されたもののうち、戦に出た戦士たちから、五百のうちの一つを主のための貢ぎとして徴収し、それを祭司エルアザルに渡さなければなりませんでした。また、イスラエルの民からは五十のうちの一つを貢ぎとし、主への奉納物としてレビ人に与えなければなりませんでした。それは農耕による収穫物だけでなく、戦いで略奪した物もすべてでした。祭司とレビ人が受けるためです。レビ人の取り分が祭司の取り分よりも多いのは、それだけ人数が多かったからでしょう。主はこのようにして、神に仕える者たちもちゃんと受けられるように配慮されたのです。一般には忘れられがちな彼らのことも、主はちゃんと覚えておられたのです。

 

 さて、彼らが略奪した戦利品を見てみましょう。ものすごい量です。羊が70万頭近く、他の家畜も万単位です。そして男と寝ることを知らない女も全部で3万2千人いました。主の怒りと復讐が、いかに大きかったかを物語っています。そして、これらのものが、軍人と会衆との間で二分されました。

 

 Ⅲ.指揮官たちのささげ物(48-54)

 

最後に、48節から終わりまでを見たいと思います。「48 すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、49 モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。私たちのうち一人も欠けていません。50 それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」51 モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。52 千人の長や百人の長たちが主に献げた奉納物の金は、全部で一万六千七百五十シェケルであった。53 従軍した人たちは、それぞれ、戦利品を自分のものとした。54 モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前における、イスラエルの子らのための記念とした。」

 すると、軍団の指揮官たちはモーセのもとに進み出て、自分たちが手に入れた金の飾り物などを持って来て、それを主の前で、自分たち自身の贖いとしたいと申し出ました。どういうことでしょうか?彼らはミディアンという大敵に対して、わずか1万2千人の兵で戦い、しかもイスラエルの側にはただの一人の犠牲者も出なかったことを、主に心から感謝しているのです。それは主の特別な助けと守りがなければあり得ないことでした。それはまさに主の戦いだったのです。そのことを実際に体験して、自分たちが得た戦利品は自分たちのものではなく主のものであると、自分たちの贖いの代価として、その一部を主にささげたのです。

 

モーセと祭司エルアザルは、彼らからのささげ物を喜んで受け取りました。それらの金は装飾品だったので、あらゆる種類の細工が施されていました。その重さは全部で1万6千7百50シェケルでした。1シェケルが11.4gですから、その総数は180キログラムとなります。莫大な量でした。それほど彼らは圧倒的な主の力を体験したのです。モーセと祭司エリアザルはそれを天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念としました。この驚くべきすばらしい主の助けと救いを記念するものとして、これらの金を会見の天幕の主の前に納めたのです。

 

あなたは、彼らのように、主の圧倒的な救いと助けを経験しているでしょうか。自分たちの側には全く犠牲者が出ず、これだけの戦利品を手に入れることができたのは、ただ神の驚くべき御業によります。私たちの信じている神はこのようなお方なのです。そして、私たちはいつか主がこの地上に再臨されるそのとき、このことを目の当たりにするでしょう。そのことがコロサイ人への手紙2:13~15までのところに記されてあります。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

その時、神は初めに人を造られた時に与えられたものを、そして罪によって失われたものを奪還してくださいます。そして、それらを捕虜として凱旋の行列に加えてくださるのです。これが私たちの信じている神であり、やがて世の終わりに行われることです。その勝利の凱旋の中に、私たちも含まれているのです。このすばらしい神の救いと力ある御業を覚え、私たちも神に感謝して、喜びと真心をもって主に自分自身をささげていく者でありたいと思います。

 

後退ではなく前進を エレミヤ書7章16~34節

聖書箇所:エレミヤ書7章16~34節(エレミヤ書講解説教16回目)
タイトル:「後退ではなく前進を」

エレミヤ書7章後半からお話します。タイトルは「後退ではなく前進を」です。24節には、「しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退した。」とあります。彼らとは、イスラエル、ユダの民のことです。彼らは預言者エレミヤが神のことばを語っても聞かず、耳を傾けようともしないで、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退していました。これは当時のユダの民だけでなく、私たちにも言えることです。私たちも信仰が後退することがあります。しかし、それでも前進していくにはどうしたら良いのでしょうか。きょうは、信仰が後退するのではなく前進していくために必要な三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.心を尽くして神を愛する(16-20)

 

第一のことは、心を尽くして神を愛することです。16~20節までをご覧ください。「16 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。17 彼らがユダの町々や、エルサレムの通りで何をしているのか、あなたは見ていないのか。18 子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こそうとしている。19 わたしの怒りを彼らが引き起こしているというのか──主のことば──。むしろ、自分たちを怒らせ、自分たちの恥をさらすことになっているのではないか。」20 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所に、人と家畜、畑の木と地の産物に注がれ、それは燃えて、消えることがない。」」

 

ここに驚くべきことが語られています。それは「この民のために祈ってはならない」ということです。「この民」とは、もちろん、ユダの民、イスラエルの民のことです。主は預言者エレミヤに、この民のために祈ってはならないと言われました。預言者の大切な働きの一つにとりなしの祈りがあります。アブラハムは甥のロトのために必死にとりなしをしました。モーセも何度も神につぶやいて滅ぼされそうになったイスラエルの民のために命がけでとりなしました。サムエルに至っては、「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。」(Ⅰサムエル12:23)と言いました。つまり、預言者がその民のために祈らないことは罪なのです。

 

それなのに、ここでは「祈るな」と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、神様はイスラエルの民をさばくと決められたからです。いくら祈っても神のさばきが変更されることはありません。もう聞かれないのです。なぜなら、神様はこれまで何度も涙しながら「わたしのもとに帰れ」と命じられたのに、彼らは一向に振り向こうともせず、ずっと神の心を踏みにじってきたからです。ずっと突っぱねて来ました。心をかたくなにして悔い改めようとしなかったのです。それなのに、どうして赦すことができるでしょうか。悔い改めるなら神様は赦してくださいます。けれども、悔い改めなければ赦すことができません。それなのに彼らは悪に悪を重ね、神様の怒りを引き起こしてきたのです。

 

その具体的な例が17節と18節にあります。彼らはユダの町々や、エルサレムの通りで何をしていましたか。子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作っていました。また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいました。「天の女王」とは、バビロンの女神イシュタルのことです。彼らは家族ぐるみで天の女王を拝んでいたのです。主はかつて、モーセを通して大切な戒めを語られました。それは申命記6:4~5のみことばです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」有名なみことばです。ここれは大切なみことばです。聖書全体の中心です。あまりにも大切なみことばなのでユダヤ人はこれを忘れることがないように、それを自分の手に結び付け、記章として額の上に置きました。また、家の戸口の柱に刻み込みました。それを自分たちの子どもたちにもよく教え込まなければなりませんでした。それなのに彼らは家族ぐるみで天の女王を拝んでいたのです。家族ぐるみで主を礼拝していたのではなく、天の女王を礼拝していました。そのようにして神の怒りを引き起こしていたのです。彼らは、自分たちの信仰が子どもたちの将来にどんな影響を与えるのかを全く考えていませんでした。皆さんはいかがですか。自分たちの信仰が子どもたちに与える影響がどれほど大きいものであるかを考えたことがあるでしょうか。子どもは親の背中を見て育つと言われますが、まさに親の信仰の在り方が子どもに大きな影響を及ぼすのです。家族ぐるみで主を礼拝する、そんな家族を目指したいですね。

 

それは家族だけのことではありません。20節には、その影響が家族を越え、家畜とか畑の木、地の産物にまで及ぶとあります。人々が神から離れ、神に反逆するなら、地の産物にまで影響をもたらすことになります。見てください。今、世界中で食糧不足が深刻な問題となっています。その一つの要因はロシアのウクライナ侵攻です。それによって穀物や天然資源の供給が滞り、世界中にインフレが起こっているのです。まさに神から離れた人間の悪行によって弊害が引き起こされているのです。私たちは神の怒りを引き起こすのではなく、神の恵みとみことばで心を美しく育てなければなりません。心が罪によってかたくなにならないように注意しなければならないのです。そして、神が私たち自身と私たちの家族、そして、教会と社会において主人となるように祈り、その使命をしっかりと果たさなければなりません。

 

Ⅱ.主の御声に聞き従う(21-26)

 

次に21~26節をご覧ください。どうすれば信仰が前進するのでしょうか。第二のことは、主の声に聞き従うということです。「21 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの全焼のささげ物を、いけにえに加え、その肉を食べよ。22 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった。23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退した。25 あなたがたの先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わしたが、26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けもせず、うなじを固くする者となり、先祖たちよりも悪くなった。」

 

21節では、全焼のささげ物を、いけにえに加えて、その肉を食べるようにと言われています。「全焼のいけにえ」とは、文字通り動物のいけにえを灰にするまで全部焼くことです。ですから、肉は一つも残らないわけですが、ここではその肉を食べるようにと言われているのです。どういうことでしょうか。これは皮肉です。灰にしても無駄だということです。だから、もったいないから食べなさいと言われているのです。創造主訳ではこれを簡潔にこう訳しています。「あなたがたのいけにえを受け入れない。」わかりやすいですね。そういう意味です。彼らがどんなに全焼のいけにえをささげても、神様はそれを受け入れません。なぜなら、神様が喜ばれるいけにえとは全焼のささげものではないからです。確かに「全焼のささげもの」は主が命じられたことですが、もっと重要なことは23節にあるように、主の御声に聞き従うことなのです。それこそ主が彼らの先祖をエジプトの地から導きだされたとき、主が彼らに命じられたことでした。たとえば、出エジプト記19:4~5をご覧ください。ここには「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

これはイスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来た時、主がモーセをご自身のみもとに呼び寄せて言われたことばです。ここには、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」とあります。これが、彼らが神の民として幸せに生きる秘訣だったのです。ですから、神の命令に聞き従うことがすべてであって、その神との交わりの中でいけにえをささげることが求められていたのに、いつしかその本質を見失い、全焼のいけにえをささげることが中心になってしまいました。。

 

しかし、信仰の中心は全焼のいけにえをささげることではなく、神の御声に聞き従うことです。これこそ、神が最も望んでおられることなのです。これが信仰です。皆さん、信仰とは何でしょうか。信仰とは神のみことばに聞き従うことです。ローマ10:17にこうあります。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」信仰とは聞くことから始まり、それは、キリストのついての福音を聞くことにほかなりません。このみことばを聞くことなしに信仰生活はあり得ません。聖書が私たちに教えていることは、これが私たちの信仰生活において最も重要なことだということです。

 

私たちは毎週のようにエレミヤ書から学んでいますが、中にはもう聞き飽きたという人もおられるかもしれません。毎回、毎回、悔い改めて神に立ち返れとか、神のことばに聞き従えとか、聞いていると心が沈みそうになることばばかりだと。できればもっと優しいことばはないのか、心にジ~ンとくるみことばならいいのに、そういうことばがあまり出てきません。心にズキズキ突き刺さるようなことばばかりです。でも、これも神のことばです。主のみ言葉は 私を生かし 私を導き 私を照らします。主のみ言葉は 力があります。私を励まし 私を満たします。英語では「説教」のことを「Sermon」と言います。魚のサーモンのことではありません。「突き刺す」という意味があります。ブツブツと突き刺すのです。みことばによって心が突き刺されること、それが説教の本質と言えるでしょう。人のことばにはそのような力はありません。しかし主のことばには力があります。それは両刃の剣のごとく、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。ですから聖書にはエレミヤ書のように厳しく感じるみことばもありますが、これも神のみことばなのであって、この神の御声を聞いて神を全面的に信頼しそれに従って行くというのが求められるのです。

 

へブル書の著者はこう言っています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。その信仰とは何でしょうか。それは神の御声に聞き従うことです。これこそ神が最も喜んでくださることなのです。

 

それなのにイスラエルの民はそのみことばを聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩みました。その結果、信仰が前進どころか後退したのです。信仰とは何かを理解していなかったからです。信仰とは神のみことばを聞くことから始まるのに、その神のことばを聞こうとしませんでした。それで前進ではなく後退したのです。まあ、私たちは不完全なものですから後退することもあるでしょう。しかし、一歩後退しても二歩前進すればいいのです。二歩後退しても三歩前進すればいいのです。そうすれば結果的に前進することになります。私の好きな著書に、アメリカのチャールズ・スウインドルという牧師が書いた「三歩前進二歩後退」という本があります。『三歩前進二歩後退』。二歩後退しても三歩前進すれば、少しずつ前進していくことになります。逆に二歩前進しても三歩後退したら「後退」していくことになります。後退ではなく前進していきたいですね。どうしたら前進して行くことができるのでしょうか。

 

23節に「そうすれば」とあります。「わたしの声に聞き従え。」そうすれば、、、です。それなのに彼らは頑なな心で拒みました。それで前進どころか後退したのです。「頑なな心」とは、心が硬直している状態のことを指します。エレミヤと同時代の預言者であったエゼキエルは、この頑なな心を「石の心」と呼びました。石の頭ではありません。石の心です。エゼキエル36:26~27にこうあります。「26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」

主は彼らがご自身の御声に聞き従うために、新しい心を与えると言われました。それは石のような頑なな心ではありません。主ご自身の霊というやわらかい肉の心を与えると約束されたのです。それは神が与えてくださる新しい霊のことです。私たちは自分の力では神に従うことができません。しかし、聖霊があなたがたに臨むとき力を受けます。そして喜んで神に従いたいという願いが起こされるのです。それは一方的な神の恵みである主イエスを信じることによって与えられるものです。イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の4億底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)だれでも救い主イエスを信じるなら、この新しい霊、新しい心が与えられ、神の命令に喜んで従うことができるようになります。

イエス様は弟子たちに、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)と言われました。愛が自分を突き動かす動機になります。主を愛するがゆえに、その戒めを守りたいという願いが起こされ、自発的に従うことができるのです。

 

ですから、私たちは自分の心に問うてみなければなりません。私は本当にイエス様を愛しているのかどうかを。本当にイエス様を愛しているなら、それは重荷とはなりません。しかし、愛していなければそれは重荷であり、苦痛以外の何ものでもありません。使徒ヨハネはこう言いました。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(1ヨハネ5:3)そうです、神を愛しているのなら、神の命令は重荷とはなりません。むしろそれは喜びとなります。神を愛するとは、神の御声に聞き従うことであって、決して感情的なことではありません。そういう人は本当に幸せな人です。信仰から信仰へと前進していくことができるからです。パウロがピリピ書で言っているように、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と、告白しながら生きることができるのです。

 

Ⅲ.主の懲らしめを受け入れる(27-34)

 

第三のことは、神の懲らしめを受け入れるということです。27~34節をご覧ください。特に29節までをお読みします。「27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えない。28 そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受け入れなかった民だ。真実は消え失せ、彼らの口から断たれた。29 『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を歌え。主が、御怒りを引き起こした世代を退け、捨てられたからだ。』」

 

イスラエルの民は、主の懲らしめを受け入れませんでした。主は愛する者に懲らしめを与えられます。それは主が彼らを愛しているからであって、訓練するためです。箴言3:11~12にはこうあります。「11 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。12 父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」主は愛する者を叱られます。それは彼らを子として扱っておられるからです。自分の子供でなかったらどうでしょうか。放っておくでしょ。デパートやスーパーで「あれ買って、これ買って」と床にふんずり返ったり、転げ回ったりしているのを見ても何とも思いません。しかしそれが我が子であったらどうでしょう。どうしたらいいかわからなくてパニックになります。いくら泣いてもさわいでも心を鬼にして買ってやりません。そうでないと子どもがわがままになってしまうからです。だから、だめなものはだめと言って譲らないわけです。そこには大きな葛藤が生じますが断固とした態度を貫きます。それは子どもを愛しているからです。へブル12:11にこうあります。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」すべての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義と言う平安の実を結ばせます。なのにイスラエルの民はその懲らしめを受け入れませんでした。

 

その結果、どうなったでしょうか。29節には「『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を歌え。主が、御怒りを引き起こした世代を退け、捨てられたからだ。』」とあります。これは悲しみの歌、哀歌です。彼らが主の懲らしめを受け入れなかったので、彼らは神のさばきを受けることになるというのです。「あなたの長い髪を切り捨て」とは、女性の長い髪の毛は女性の美しさであり誉です。その長い髪を切るということは単に悲しみの表現にとどまらず、恥のしるしでした。また「裸の丘の上で哀歌を歌え」とは、バアル礼拝が行われていた裸の丘、恥の場所で、イスラエルがその恥をあらわにされたことを嘆くことを表しています。神殿に群衆があふれ、犠牲のいけにえが絶えずささげられ、祭司が規定どおりに奉仕しているのを見れば、人々はこれこそイスラエルの栄光だと思ったことでしょう。しかし預言者はここで、そのようなきらびやかなものがはぎ取られた後の醜い姿を見ているのです。

 

それはユダの子らが主の前に悪を行ったからです。彼らは主の宮に偶像を置き、これを汚しました。また、ムベン・ヒノムの谷にあるトフェトに高い所を築き、自分の息子や娘を焼くようなことをしました。それは主が忌み嫌われることでした。主はそんなことを命じたこともなく、考えたこともなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたのです。それゆえ、そこはベン・ヒノムの谷とは呼ばれません。そこは「虐殺の谷」と呼ばれます。新約聖書では、そこが「ゲヘナ」と呼ばれるようになりました。それは永遠に苦しむ場所の象徴です。神様に従わない結果、このような恐ろしいさばきを受けることになるのです。

34節には、「わたしは、ユダの町々とエルサレムの通りから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。この地が廃墟となるからである。」とあります。私たちが日常生活において楽しんでいるその場面は一切なくなるというのです。永遠のいのちを持っていなければ、持っているものまで取り上げられることになるからです。

 

しかし、神に従い、神が命じるすべての道に歩む人は幸いです。そのような人には神のさばきではなく、神の救い、永遠のいのちがもたらされます。イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24) イエスのことばを聞いて、そのことばに聞き従う者、すなわち、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことがなく、永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

 

「幸せの黄色いリボン」という映画があります。刑期を終えた男が、刑務所を出て、バスで家に向かっていました。しかし彼には、かつて自分を愛してくれた妻が、果たして喜んで自分を迎えてくれるかどうか、確信がありませんでした。悪いのは、自分のほうだとわかっていたからです。そこで彼は、手紙を出しておきました。

「もし、自分を許してくれるなら、あの樫の木に黄色いリボンを結んでおいてくれ。」と。もし黄色いリボンがなかったら、彼はそのまま遠くに行くつもりでした。

家が近づいてきました。彼の頭には、あの樫の木しかありませんでした。家に着いたとき、樫の木に黄色いリボンがついているだろうか。彼は自分で見る勇気がなくて、車中で知り合った男に見てもらいます。するとどうでしょう。樫の木には一つだけでなく、100個の黄色いリボンがついていたのです。彼の妻は、彼を赦しただけでなく、歓喜をもって彼を迎えたのです。

 

バスに乗ったあの男のように、私たちも死とその先にあるものを恐れます。自分の醜さを知っている私たちは、神は赦してくださるだろうかと不安になります。ましてや、神が私たちの到着を歓迎されるとは考えられないかもしれません。しかし聖書は、神が私たちを歓迎してくださると教えています。いくつもの黄色いリボンが、あなたを待っています。だから主はこう言われるのです。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。」

私たちもさばきではなくいのちを、不幸ではなく幸福を、後退ではなく前進する者となりましょう。それは主が命じるすべての道に歩むことによってもたらされることを覚えて、いつもへりくだって、神の御声に聞き従う者でありたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

民数記30章

きょうは民数記30章から学びます。

 

Ⅰ.自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない(1-2)

 

まず、1~2節をご覧ください。「1 モーセはイスラエルの諸部族のかしらたちに告げた。「これは主が命じられたことである。2 男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」

 

これは、モーセがイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げたことばです。モーセは28章と29章において、イスラエルが約束の地に入ってからささげるいけにえの規定について語りましたが、ここでも同様に、イスラエルが約束の地に入ってからどのように生きるべきなのかについて語っています。それがこの誓願に関する教えです。

 

この「誓願」について、新聖書注解は、次のように解説しています。「「主に対する誓願」とは、文字通り宗教的なものであって、この際は、人間同士の誓約のことではなく、あくまでも神に対するものである。主に対する誓願には二種類あって、その第一は、何かを、自ら進んで主にささげるという誓願で、その有名な例はエフタの誓願(士師記11:30.31)である。その第二は、長短の差こそあれ、ある一定期間、ある事をしないとか、あるものを口に入れないことを誓う誓いで、「物断ち」という形のものである。例えば、その期間ぶどうの実も、それから造った酒類も口にしないとか、頭にかみそりを当てない(ナジル人の誓願、→民数記6章)とか、食物を食べない(1サムエル14:24)とかに見られる例である。誓願をしないことは罪ではないが、一度誓願を立てたからには、それを主に対して、遅滞なく果たさなければならないのが原則である(申命記23:21-23)。」(抜粋)とあります。

つまり、「誓願」とは主のために「この期間、これこれのことをします」と誓願をして行うことと、逆に、主のために「この期間、これこれのことをしません」と誓う「物断ち」の二種類の誓願があったのです。すなわち、「誓願」とは積極的に何かをすることであるのに対して、「物断ち」とは積極的に何かをしないことです。

 

こうした誓願や物断ちは、主がとても尊ばれることでした。主のためにこれをするとか、これをしないといった意志や決意を、主が喜ばれるからです。しかし、そのように誓ったならば、それを果たさなければなりません。すべて自分の口から出たことは、そのとおりに実行しなければならなかったのです。誓ったのにそれを果たさないということがあれば、それは主に喜ばれることではありません。それゆえ、主に誓ったことは取り消すことができませんでした。新約聖書には、「誓ってはならない」と戒められていますが、それは、無責任に誓ってはならないということです。誓願、決意、志はとても尊いものですが、そのように誓ったならば、必ずそれを果たさなければなりません。果たさせない誓いはするなというのが、主が戒めておられたことだったのです。

 

Ⅱ.誓願の責任(3-16)

 

それでは、この誓願について主はどのように教えておられるでしょうか。3節から16節までをご覧ください。「3 女が若くてまだ父の家にいるときに、主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、4 その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。5 しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。6 もし彼女が、自分の誓願、あるいは物断ちをしようと軽率に言ったことが、まだその身にかかっているうちに嫁ぐ場合には、7 夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効となる。8 もし夫がそれを聞いた日に彼女に反対すれば、夫は、彼女がかけている誓願や、物断ちをしようと軽率に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。9 しかし、やもめや離縁された女の誓願については、すべての物断ちが当人に対して有効となる。10 もし女が夫の家で誓願をするか、あるいは、誓って物断ちをする場合には、11 夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、反対しないなら、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。12 もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効となる。彼女の夫がそれを破棄したのだから、主は彼女を赦される。13 すべての誓願も、自らを戒めるための物断ちの誓いもみな、夫がそれを有効にすることができるし、それを破棄することもできる。14 もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。夫がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったのだから、彼はそれを有効にしたのである。15 もし夫がそれを聞いた後、それを破棄するなら、夫が彼女の咎を負う。」16 これらは、夫とその妻との間、父とまだ父の家にいる若い娘の間とに関して、主がモーセに命じられた掟である。」

 

ここで教えられている規定によると、女性の父親が女性の立てた誓願の責任を負うということです。たとえば、若い女が主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、その父親が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となりましたが、もし彼女に反対するなら、それはすべて無効になりました。もし彼女が誓願、あるいは物断ちをしようと軽率に言ったことが、まだその身にかかっているうちに嫁ぐ場合は、彼女の夫がそれを聞いて、彼女に何も言わなければ彼女の誓願、あるいは物断ちは有効でしたが、夫がそれを聞いて反対すれば、彼女の誓願と物断ちは破棄されました。ただし父親や夫が娘または妻の誓願を無効にすることができたのは、それを聞いた最初の日、すなわち、誓願を立てた最初の日に限られていました。

9節にはやもめや離縁された女の誓願について言及されていますが、それはすべて有効となりました。神へのどんな誓いも果たさなければならなかったのです。

 

これらのことから、どんなことが言えるでしょうか。ここで、この誓願を立てている人に注目してください。すなわち、ここで誓願を立てている人は全て女性です。この30章では、誓願の中でも女性が立てる誓願について語られているのです。つまり、イスラエル全体は最小単位である夫婦なり家族から始まり、それが氏族、部族、そしてイスラエルの家全体へと広がっているということです。イスラエルは、それぞれの部族が共同体を形成しており、それぞれが一つになって物事を管理していかなければなりませんでした。その最小単位が夫婦であり家族だったのです。その夫婦や家族がどうあるべきなのかが教えられているのです。それが民全体へと波及していきました。

 

このことは、イスラエルの民族に限らず神の家族である教会にも言えることです。たとえば、Ⅰテモテ3:4~5には教会の監督の資格について語られていますが、その一つとしてあげられていることは自分の家庭をよく治めている人であるということです。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもたちも従わせている人です。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」

教会のことについて教えられているのに、なぜ自分の家庭のことに言及されているのか。それは家庭が教会の最小単位だからです。それが地域教会、さらには神の国全体へと広がっていくからなのです。ですから家庭が、とりわけ夫婦がどのようにあるべきなのかはとても重要なことなのです。それは教会だけでなくこの社会全体にも言えることです。それぞれの夫婦、家庭がどうあるべきなのかが、その鍵を握っているのです。

 

では家族はどうあるべきなのでしょうか。ここにはその秩序が教えられています。すなわち、家族のリーダーは父親であり、夫婦のリーダーは夫であり、その権威に従わなければならないということです。それは父親が必ずしも正しいという意味ではありません。また夫が必ずしも正しいということではありません。それは神が立てた秩序であって、その秩序に従って歩むことが、家族が神の祝福の中で平和に過ごすことができる原則であると聖書は教えています。家の中で、もしある人が一つのことを決意して、他の人が別のことを決意して、その両方を同時に行なうことができないのであれば、どちらかを破棄しなければいけません。そこで、今読んだような定めがあるのです。娘が誓願を立てても父親がそれは良くないと判断したならば、その誓願を破棄しなければなりません。けれども、娘が誓願を立てた日に、それを禁じなければ、その誓願は有効としなければなりません。それは神の家族である教会にも言えることです。神は家族としての教会に指導者を立ててくださいました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:10-13)。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないためです。ですから、教会にこうした指導者が与えられていることは本当に感謝なことなのです。もし指導者がいなかったらどうなってしまうでしょうか。教会がまとまることはありません。各自、自分が思うことを主張するようになり、やりたいことをするので決してまとまらないのです。ですから、牧師がいない教会は大変なのです。日本の無牧といって、牧師のいない教会がありますが、かなり大変だと思います。牧師のための謝儀が必要ないし、牧師からも指示されることがないので自由でいいという面はありますが、どこに向かって行ったらいいのかわからないので、迷える子羊のように、食べ物に与ることができずやがて死んでしまうことになります。それは不幸なことなのです。ですから、神の家族である教会には年齢や性別、育った環境、置かれている状況など多種多様な人たちが集まっていますが、そうした中にあっても聖書の教えに従い、秩序を重んじて、行動することが求められているのです。

 

それは、女だから口を出すなということはありません。黙っていればいいのね、黙っていれば・・ということでもないのです。女性であっても志を立てることはすばらしいことです。しかし、それが家族全体にとってどうなのかをよく吟味しなければなりません。それがどんなに良いことでも指導者の意見を聞き、その指導に従わなければならないのです。

 

また、男は、怒ったり言い争ったりせず、聖い手を上げて祈らなければなりません。そうすれば、妻や子どもに対してどうあるべきかが見えてくるでしょう。つまり、自分が家の主だかと言って傲慢にふるまうのではなく、自分の妻や娘の意見をよく聞いて判断しなければならないということです。自分の妻が今何を考え、何を行なっているのかを見て、聞いて、彼女の意志を尊重しなければならないのです。ペテロは、「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3:7)と勧めていますが、このことをわきまえて、妻とともに生活することが求められているのです。つまりキリストが夫婦の関係に求めた愛と服従の関係が、神の家族である教会の中でも、さらにありとあらゆる関係の中に求められているのです。

生き方と行いを改めよ エレミヤ書7章1~15節

聖書箇所:エレミヤ書7章1~15節(エレミヤ書講解説教15回目)
タイトル:「生き方と行いを改めよ」

エレミヤ書7章に入ります。7章から、エレミヤの第二のメッセージになります。第一のメッセージは1~6章までの内容でした。それはエレミヤが預言者として召命を受けてすぐあとの若い頃に語られたものでした。この7章からの第二のメッセージは、それから約15~20年くらい後に語られたものです。なぜなら、7:2に「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。」とありますが、これが26:2と同じ内容だからです。26:2には「主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。」あります。ですから、この二つの内容は同じ背景で語られたものであることがわかるのです。そして、これはいつ語られたものかというと、26:1に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。」とあります。このエホヤキムの治世の初めはB.C.609年ですから、エレミヤが預言者として召命を受けたB.C.627年から18年後であることがわかります。それがこの7章の内容なのです。この時エレミヤは40歳を少し過ぎたくらいだったのではないかと思われますが、これまで南ユダ王国を治めてきたヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死に、代わってパロ・ネコによって立てられたエホヤキムが王として立てるという不安定な社会の中で、このことばを語ったのです。それはこれを聞いたユダの宗教指導者たちから反発を招き、捕らえられ、殺されそうになるほどの厳しいメッセージでした。それは、「生き方と行いを改めよ」という内容でした。。

 

Ⅰ.「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」(1-7)

 

まず1~7節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」

 

これは、主の宮の門でエレミヤが語った主のことばです。だれに対して語ったのでしょうか。2節には「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、」とあります。エレミヤは、主の宮、エルサレムの神殿で礼拝をするためにやって来たすべてのユダの人々に対して語ったのです。

 

それはどのような内容だったかというと、3節にあるように、あなたがたの生き方と行いを改めよということでした。なぜなら、4節にあるように、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼していたからです。どういうことでしょうか。

ここには「主の宮、主の宮、主の宮だ」と、「主の宮」という言葉が3回も繰り返して発せられています。この「主の宮」とはエルサレムの神殿のことです。その神殿に向かって、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と連呼していたわけです。ここに、当時のユダの民と宗教指導者たちの思いが表れています。つまり、この「主の宮」さえあれば大丈夫という信仰です。これまでエレミヤが語って来たことを思い起こしてください。エレミヤは神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、悔い改めて神に立ち返るようにとずっと語ってきました。そうでないとあなたがたは滅びると。具体的には北から一つの国、バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすようにすべてを食い尽くすということでした。これは、その警告に対する反論です。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。つまり、たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、たとえ飢饉があっても問題ない、この主の宮が立っているエルサレムが滅ぼされるはずがないという主張です。それほど彼らはエルサレムにあった神殿、「主の宮」を過信していたのです。ここにはこんなに立派な神殿があるではないか、この神殿が滅ぼされるはずはない。神が共にいて必ず守ってくださると。

 

彼らがこのように叫んだのには、根拠がなかったわけではありません。第一に、このエルサレムは自然の要塞に囲まれていた堅固な町でした。ですから、どんな敵が攻めて来ても簡単には落とせなかったのです。第二に、このエルサレム神殿は約350年前にソロモン王によって建てられたものですが、その奉献式でソロモンは、この神殿には主なる神様の名が置かれている、と言いました。つまり、神様が共にいて守ってくださると信じられていました。第三に、何といってもこの時から約100年前に、アッシリヤの王セナケリブが攻め上って来た時も、主は守ってくださいました。当時の王様はヒゼキヤという王様でしたが、彼が主の前に悔い改め、主に助けを祈り求めると、主はさばきを思いとどまり、奇跡的に彼らを助け出されました(イザヤ36~37章)。日本でも「神風が吹く」ということばがありますが、まさに神風が吹いたわけです。ですから、他の町が滅びることがあってもこのエルサレムだけは大丈夫!絶対に滅びないという確信があったのです。それがこの「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばに表れていたわけです。

 

しかしキリスト教信仰とは、勢いでもなければ迷信的なものでもありません。鰯の頭も信心からと、どんなにつまらないと思えるようなものでも信じればご利益があるというものではありません。その中身が問われるわけです。彼らは表向きには礼拝をささげ敬虔に振る舞っているようでしたが、その中身は神から遠く離れていました。こうした外面的なこと、すなわちハードな面を重視して、もっとも重要なこと、つまり、主の御声に聞き従うという本質的なことをなおざりにしていたのです。皆さん、信仰の中身、信仰の本質とは何でしょうか。それは何度もお話しているように、主の御声に聞くということです。それはただ礼拝で説教を聞くということ以上のことです。主の御声に聞き従うということです。彼らにはそれがありませんでした。

 

それは、5~7節を見るとわかります。彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っていながら、生き方と行いが伴っていませんでした。たとえば、5~7節には「あなたがたが生き方を改め、あなたがたの間で公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」とあります。「公正」とは神のことばに基づく正義のことです。彼らには神のことばに基づく行いが伴っていませんでした。ただ「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいただけだったのです。ですから、寄留者、孤児、やもめを虐げ、咎なき者の血を流し、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしていました。彼らは、自分では神を信じていると言いながら、その行いは神のみこころにかなったものではなかったのです。彼らが拠り所としていたのは神様ご自身ではなく神の宮、神殿にすぎませんでした。そこにいれば大丈夫、そこに属していれば問題ないと思い込んでいたのです。

 

これは私たちにも言えることです。たとえば、自分が伝統のある立派な教会に通っているというだけで安心したり、聞けば誰でもすぐにわかるような有名な牧師であるというだけで、自分たちの信仰は正しいものだと思い込んでいることがあります。それはここでユダの民が「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいるようなものです。そのような人たちは神ご自身に信頼しているよりも、教会の伝統とか、教会の建物、牧師といった表面的なもので自分の信仰を正当化しているにすぎません。幸い、キリスト教には迷信とかお守りといったものはありません。しかし、もし私たちが表面的な儀式を行うことで自分を安心させていることがあるとしたら、それは迷信と何ら変わりがありません。

 

新約聖書ヤコブ2:14にはこうあります。「私の兄弟たちは。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

このようなことばを聞くと、ああ、私は救われていないのではないかと心配される人もおられるかもしれませんが、そういう方はどうぞ心配しないでください。それだけご自分が本気で信仰のこと、救いのことを考えているということなのですから。ここでヤコブが言っていることは、まさにこうした形式的な信仰に対するチャレンジです。自分には信仰があると思っても、その人に行いがないとしたら、そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。信仰には行いが伴うからです。その行いとは、神の御声に聞き従うということです。それは自分の力でできることではなく神の恵みによるわけですから、その神の恵みに応答して生きているかどうかということです。それが、生き方と行いを改めるということです。そうすれば、主はあなたを主が約束してくださった場所に住まわせてくださいます。

 

今日は、4名の兄姉がバプテスマを受けられました。うれしいですね。しかも、その内3名は小学3年生です。聖書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、本当に若い日にイエス様を信じて、信仰のスタートを切ることができて、そのように導いてくださった主に感謝します。しかもこの中には私の孫もいて、感無量ですね。ところで、その孫が先ほど証をしてくれましたが、事前にチェックしたところ、こうなっていました。「だから、バプテスマを受けて、私は天国行きのきっぷをもらいたいと思います。」 それを読んだ時「ん?」と思いました。バプテスマを受ければ天国に行くんですか?勿論、バプテスマを受けることは大切なことです。けれども、ただバプテスマを受ければいいということではなく、イエス様を信じてバプテスマを受けるのでなければ意味がありません。多くの人はバプテスマが天国行きの切符であるかのように思っていますが、そうではありません。天国に行くことができるのは、イエス様を信じることによってです。イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、だれでも救われます。天国に行くことができます。だから、「イエス様を信じて」ということばを加えてもらいました。イエス様を信じているのでバプテスマを受けるのです。なぜなら、それが神様の御声、イエス様の命令だからです。イエス様はこう言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

バプテスマはすばらしい恵みです。しかし、バプテスマを受けたから大丈夫という信仰は、ここでユダの民が、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫んでいるのと変わりありません。バプテスマはイエス様の御声に聞き従うことの応答の一つであって、そのスタートの時なのです。今日バプテスマを受けた4名の兄姉も、既にバプテスマを受けて神の恵みに歩んでいる人も、どうかこのことを覚えて、ますます主の御声に聞き従う歩みをしていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.強盗の巣にしてはならない(8-11)

 

次に、8~11節をご覧ください。「8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。」

 

また出てきましたよ、ユダの民の首長が。10節にこうあります。「私たちは救われている」これも先ほどの「主の宮、主の宮、主の宮だ。」と言っているのと同じです。

エレミヤはここで、悔い改めないイスラエル、ユダの民に対して、その罪を責め立てています。9節には、「あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。」とあります。これは律法の中心である十戒を破っているということです。たとえば、「あなたは盗み」とありますが、これは第8戒の「盗んではならない」(出エジプト記20:15)を破る罪です。また「人を殺し」は、第6戒の「殺してはならない」(出エジプト記20:13)です。同様に「姦淫し」は、第7戒の「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)を破る罪であり、「偽って誓い」は、第9戒の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト記20:16)を破る罪です。そして「ほかの神々に従っている」とは、第1戒の「あなたには、わたしの以外に、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)を破る罪です。このように彼らは、ことごとく律法の中心である十戒を破っていました。にもかかわらず彼らは、主の宮の神様の前にやって来て、「私たちは救われている」と言っていたのです。どういうことでしょうか。彼らの礼拝の姿勢がズレていたということです。彼らは「私たちは救われている」と言いながら、あらゆる忌むべきことを行っていたのです。すなわち、そこには真の悔い改めが伴っていなかったということです。それは主に受け入れられるものではありません。「私たちは救われている」というのはただの思い込みであって、実際はそうではなかったということです。

 

それに対して主はこう言われます。11節です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた。」

「あなたの名がつけられているこの家」とは、主の宮のことです。神を礼拝するはずの神殿が、強盗の巣になっているというのです。「強盗の巣」とは「強盗のアジト」のことです。強盗が自分のアジトに逃げ帰るように、神殿に逃げ帰っている、神殿が律法を違反する者の隠れ家になっているというのです。

 

実は、新約聖書の中にこのことばが引用されています。聖書を読んでいる方はすぐにピンときたかと思いますが、引用されたのはイエス様ご自身です。イエス様は宮きよめの時にこのことばを引用されました。マタイ21:12~13です。「12それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」」

このようなイエス様の姿を見て、中には「ちょっと理解できないなあ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。神殿で売り買いしている人たちを見て、気が狂ったかのようにその人を追い出したり、両替人の台とか、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのですから。ちゃぶ台をひっくり返すということばがありますが、まさにそんな光景です。エレミヤの場合はただことばで指摘しただけですが、イエス様の場合はことばだけでなく実際に行動に移されました。文字通りちゃぶ台をひっくり返されたわけです。神殿で商売をしていた人たちを追い出して、宮をきよめられました。心の中では商売人たちの姿を見て「それはどうかなぁ」と思うことはあっても、実際にそこまでする人はほとんどいないのではないかと思います。事実、これが決定的な出来事となってイエス様は十字架に付けられることになります。それほど激しい行為だったのです。いったいなぜイエス様はそこまでされたのでしょうか。それは「祈りの家」であるはずの神殿が「強盗の巣」になっていたからです。神の家は祈りの家でなければならないのに、そうではなかったのです。いけにえさえささげればよいと、不当な利益をむさぼり、神殿を強盗の巣としていた彼らに対して激しく憤ったのです。

 

それは私たちにも言えることであって、私たちも口では「私たちは救われている」と言いますが、彼らと同じようなことをしていることがあるのではないでしょうか。

聖書の解説と適用が付いている「バイブルナビ」というのがありますが、その中に次のように解説されてありました。的を得た解釈と適用だと思いましたので引用したいと思います。「ユダの民がどのように神殿を扱ったかということと、現代人が教会をどのように扱うかということの間には、いくつかの類似がある。①彼らは神殿を毎日の生活の一部にしなかった。私たちは崇拝にふさわしく準備された美しい教会堂に行くかもしれないが、週日は神の存在を離れて忘れてしまっていることが多い。(いわゆるサンデークリスチャンということですね)②神殿の概念の方が信仰の中身よりも大切になっていた。教会に通い、団体の一員であるということの方が、神のために自分の生活を変えることよりも大切になっている。③民は神殿を避難所にした。多くの宗教団体を隠れ家として、それが悪い問題から守っていれると考えている。」。

どうでしょうか。よくまとまった解釈と適用ではないでしょうか。

 

信仰生活は、神との人格的な関係であるということを覚えておきたいと思います。そして、神との人格的な交わる中で神のみこころに従い、神の愛に応答することこそがその本質なのです。神殿に入るだけの形式的なものではありません。イエス様とつながり、イエス様の中で実を結ぶ者でありたいと思います。

 

Ⅲ.シロの教訓から学べ(12-15)

 

最後に、12~15節をご覧ください。「12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。13 今、あなたがたは、これらのことをみな行い──主のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、14 わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』」

 

では、どうすればいいのでしょうか。第三のことは、シロの教訓から学べということです。12節には、シロにあったわたしの住まいを見て来なさいと呼び掛けられています。「シロ」とは犬の名前ではありません。そこはかつてイスラエルの礼拝が行われていた中心地でした。そこはエルサレムから北に30㎞ほど行ったところにありますが、ヨシュアがカナンを占領したとき、そこに会見の天幕を立てました(ヨシュア18:1)。それ以来この「シロ」が、イスラエルの礼拝の中心地となったのです。ところが預言者サムエルの時代にペリシテ人との戦いに敗れ、その神の箱が奪われてしまったのです。彼らは神の箱があれば大丈夫、絶対に勝利できると戦いの最前線に持って来たのですが、結果は散々たるものでした。このエレミヤの時代から500年も前のことです。そのサムエルの時代とこのエレミヤの時代には一つの共通点がありました。それは主の箱を持って行きさえすれば戦いに勝利できる、この宮さえあれはば大丈夫だと思思い込んでいたことです。それを絶対的な拠り所としていたのです。しかし、それは単なる思い込みにすぎませんでした。そのことを知るためにシロに行って、そこで主がなさったことを見て来なさいと言われたのです。シロが廃墟となったように、今エルサレムに対しても同様のことをすると。それは彼らが表面的なものを拠り所にして、本質的なものを見ていなかったからです。

 

そればかりではありません。15節には「わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。」とあります。「エフライム」とは北イスラエル王国のことです。北イスラエル王国、エフライムはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。B.C.722年のことです。かつて彼らの兄弟北イスラエル王国がアッシリヤによってその地から追い払われたように、彼らも主の前から追い払われることになると言われたのです。つまりエレミヤはここで、冷静に歴史的事実として現わされた神のさばきに目を留めるようにと言っているのです。そこから学ぶように・・・と。皆さん、歴史は繰り返します。歴史を学ぶ大切さはそこにあります。過去にどんなことがあったのかを学び、それを教訓にして、将来に向かっていくのです。

 

このようにユダの民は10年以上もエレミヤから神のことばを聞いてきたのにもかかわらず全く聞こうししなかったので、シロのように、またエフライム、北イスラエルのように神のさばきが彼らを襲うようになると告げられたのです。

 

このことからどのようなことが言えるでしょうか。真の安全を得る方法は、形式的な信仰や儀式的な張りぼてのような中身が伴わない信仰では得られないということです。そうした生き方と行いを改めて、神のことばに従って生きなければならないということです。

 

では、どうしたらそのような生き方ができるのでしょうか。もう一度12節をご覧ください。ここには、シロにあった神様の住まいのことが言及されていました。それは「わたしの名を住まわせた場所」と言われています。それは神が住まわれる所という意味です。しかしよく考えてみると、この天地万物を創られた神が、人間が作った幕屋に住まわれるはずがありません。事実、この神殿を建てたソロモン自身も、奉献式の祈りの中でこのように言っています。「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)

そうです、実に、天も、天の天も、神様をお入れすることなどできません。しかし、それを可能にした方がおられます。それは私たちの主イエス・キリストです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、勿論イエス様のことです。イエス様は世の初めから神とともにおられた神です。すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方こそまことの神であり、救い主であられます。この方が人となって、私たちの間に住まわれたので、私たちは神と出会うことができるのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)つまり、キリストを通して私たちは神と出会い、神が私たちの間に住まわれたということです。「住まわれた」ということばは「幕屋を張られた」という意味ですが、まさに神がキリストを通して私たちの間に幕屋を張られた、私たちの間に住まわれたのです。

 

しかしよく考えてみると、罪に汚れた人間の間に神が住むことはできません。神は聖なる方であり、ほんの小さなしみやしわでも交わることができないからです。しかしその神の方からその道を開いてくださいました。一方的な恵みによって幕屋を張ってくださったのです。ことばが人となって、私たちの間に住まわれたのです。それが十字架でした。イエス様が十字架に付けられ、無実の人の血が流されたことによって、その尊い犠牲によって、本当は誰も近づくことができない神様と交わる道が開かれ、神が住まわれる、「神ともにいまし」という神の約束が実現したのです。神の宮である教会は、一方的な恵みによって神が私たちと出会うところなのです。それをあたかも人間が作った神殿に神様を閉じ込めておけるかのような錯覚を持つのは間違っています。ここに儀礼的というか、形式的な礼拝が生じてくる原因があったのではないでしょうか。

 

そうならないために必要なことは何でしょうか。私たちが神と出会うように導いてくださったまことの神であられるイエス様を信じ、イエス様から目を離さないことです。イエス様から目を離すと、神への恐れと感謝を忘れてしまい、こうした形式的な礼拝に陥ってしまうことになります。自分は毎週礼拝に来ているから大丈夫だ、バプテスマ(洗礼)を受けたからもう安心だ、奉仕もしているし、献金もささげているから問題ないというのは、神様が望んでおられるまことの礼拝ではありません。勿論、こうしたことも大切なことですが、それが信仰の中心ではないのです。神が願っておられる信仰とは、私たちの罪のために十字架で死なれ、その血によって罪を贖い、ご自身のみもとへと引き寄せてくださった神の御子イエス・キリストに感謝し、その神の恵みに応答して、神のことばに従って生きることなのです。それが生き方と行いを改めるということなのです。イエス様によって与えられたこの恵みを無駄にしないようにしましょう。神への感謝と恐れが私たちの中に本当にあるならば、それに応答して生きようとする思いが必ず生まれてくるのではないでしょうか。

民数記29章

民数記29章

 

きょうは民数記29章から学びます。

 

Ⅰ.ラッパが吹き鳴らされる日(1-11)

 

まず、1~11節をご覧ください。「1 第七の月には、その月の一日に聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。これを、あなたがたにとって角笛が吹き鳴らされる日としなければならない。2 あなたがたは、次のものを献げよ。主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹。3 それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパ、4 七匹の子羊については、一匹につき十分の一エパ。5 また、あなたがたのために宥めを行うには、罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。6 これとは別に、新月祭の全焼のささげ物とその穀物のささげ物、常供の全焼のささげ物とその穀物のささげ物、および、それらに添える注ぎのささげ物、すなわち、規定による、主への食物のささげ物、芳ばしい香り。7 この第七の月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、自らを戒めなければならない。いかなる仕事もしてはならない。8 あなたがたは、主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げよ。それらはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。9 それに添える穀物のささげ物については、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパとする。10 七匹の子羊については、一匹につき十分の一エパ。11 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、宥めのための罪のきよめのささげ物、常供の全焼のささげ物とそれに添える穀物のささげ物、および、それらに添える注ぎのささげ物とは別である。」

 

28章から、イスラエルの民が約束の地に入ってささげなければならないささげものの規定が記されてあります。これはすでに以前にも語られたことですが、ここでもう一度取り上げられているのは、新しい世代となったイスラエルの民が、約束の地に入ってからも忘れることがないためです。28章では常供のいけにえの他に、新月ごとにささげられるいけにえ、そして春の祭り、すなわち過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りにおいてささげられるべきものについて語られました。この29章では、その例祭の続きですが、ここでは秋の祭りにおいてささげられるいけにえについて教えられています。それはラッパの祭り、贖いの日、仮庵の祭りの三つです。そしてこれらの祭りは何を指し示していたのかというと、キリストの再臨とそれに伴う解放、そしてそれに続く千年王国です。そのときにささげられるいけにえを表しています。

 

1節を見ると、第七の月の一日には聖なる会合を開かなければならないとあります。イスラエルには祭りが全部で七つありますが、それは過ぎ越しの祭りからスタートしました。なぜ過ぎ越しの祭りなのでしょうか。それは前回も触れたように、過ぎ越しの祭りが贖いを表していたからです。私たちの信仰のスタートは過ぎ越しの祭り、すなわち、キリストの十字架の贖いからスタートしなければなりません。そしてその年の七月の月の一日には、角笛(ラッパ)ガ吹き鳴らされると日としなければなりませんでした。これは何を表しているのかというと、キリストの再臨です。Ⅰテサロニケ4章16節には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。」とあります。神のラッパが吹き鳴らされるとき、キリストが天から下って来られます。その時にも、同じように全焼のいけにえがささげられます。

 

7節には、「この第七の月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、自らを戒めなければならない。いかなる仕事もしてはならない。」とあります。この日は贖罪日(ヨム・キプール、レビ記23:26~32)と言って、年に一度大祭司が至聖所に入って行き、イスラエルの民のために贖いをすることになっていました。この日は戒め、すなわち、断食をしなければなりません。そして、全焼のいけにえと穀物のささげもの、注ぎのささげものをささげなければなりませんでした。

 

ラッパを吹き鳴らされる日、キリストは教会のために再臨されます。そして、キリストにある者が一瞬のうちに空中に引き上げられ、空中で主と会うのです。まずキリストにある死者がよみがえり、次に、キリストを信じて生き残っている人々です。彼らはいっしょに引き上げられ、雲に包まれ、空中で主と会うのです。こうして彼らは、いつまでも主とともにいるようになるのです(Ⅰテサロニケ4:16)。

その一方でイスラエル人はどうなるのかというと、キリストにある者たちが空中に引き上げられると、主はオリーブ山に下りて来られます。その時この地上は患難時代を迎え、イスラエルはこれまでにないほどの苦難を受けますが、イスラエルのために戦ってくださるので、イスラエルの多くがイエスこそ待ち望んでいたメシヤ、キリストであることを知り、悔い改めのです。それが贖罪日です。このときイスラエルの贖いが完成します。これがローマ人への手紙9~11章で言われていることです。

ですから、これはキリストの再臨と、それに続くイスラエルの悔い改めのことを預言していたのです。

 

Ⅱ.仮庵の祭り(12)

 

次に12節をご覧ください。ここには、仮庵の祭りにおいてささげられるいけにえについて記されてあります。「12 第七の月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝え。」

 

仮庵の祭りはもともと、イスラエルが約束の地に入るまで、神が彼らを守ってくださったことを祝う祭りです。この期間中、彼らは仮庵の中に住み、イスラエルを守られた神のことを思い起こしました。けれども、ここにも預言的な意味があります。主が再び来られ、そして神の国を立てられ、この地上に至福の千年王国を樹立されるのです。仮庵の祭りは、この千年王国を指し示していたのです。この祭りでは、一日ごとにたくさんのいけにえがささげられます。

 

Ⅲ.仮庵の祭りでささげるいけにえ(13-40)

 

それが13節から終わりまで記されてあることです。 「13 あなたがたは、主への芳ばしい香り、食物のささげ物として、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛十三頭、雄羊二匹、一歳の雄の子羊十四匹を献げよ。これらは傷のないものでなければならない。14 それに添える穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛十三頭については雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊二匹については雄羊一匹につき十分の二エパ、15 子羊十四匹については子羊一匹につき十分の一エパとする。16 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。17 二日目には、若い雄牛十二頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、18 および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。19 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。20 三日目には、雄牛十一頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、21 および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。22 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。23 四日目には、雄牛十頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、24 および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。25 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。26 五日目には、雄牛九頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、27 および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。28 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。29 六日目には、雄牛八頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、30 および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。31 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。32 七日目には、雄牛七頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、33 および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。34 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。35 八日目に、あなたがたはきよめの集会を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。36 あなたがたは、主への芳ばしい香り、食物のささげ物として、全焼のささげ物、すなわち、雄牛一頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹を献げよ。37 それらの雄牛、雄羊、子羊のための、穀物のささげ物と注ぎのささげ物の数量は規定どおりである。38 さらに罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これらは、常供の全焼のささげ物と、それに添える穀物のささげ物、および注ぎのささげ物とは別である。39 あなたがたは、あなたがたの例祭に、それらのものを主に献げなければならない。それらは、あなたがたの誓願のささげ物、または進んで献げるものとしての全焼のささげ物、穀物のささげ物、注ぎのささげ物および交わりのいけにえとは別である。」40 モーセは、主がモーセに命じられたとおりを、イスラエルの子らに告げた。」

最初の日に全焼のいけにえとして雄牛13頭ささげられますが、二日目になると12頭になります(17)。そして七日目には7頭になります(32)。これは、最後の7に合わせて調整していたのかもしれません。35節を見ると、8日目には「きよめの集会」を開かなければならないとあります。仮庵の祭りの初めの七日間は、祭司が水を流して、ハレル詩篇を歌います。けれども8日目には水を流しません。荒野の生活を終えてすでに約束の地に入ったからです。約束の地に入り、そこで神が与えてくださるすべての恵みを享受することができたからです。

 

ヨハネの福音書7章37節には「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とありますが、この「祭りの終わりの大いなる日」が、この仮庵の祭りの8日目のことです。この大いなる日に、イエスは立って、このように言われたのです。この「生ける水の川」とは、聖霊のことを指しています。キリストを信じる者には、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスを信じた瞬間に神の聖霊が注がれ、神の恵みが注がれます。そしてやがてキリストが樹立する千年王国において、この約束が完全に成就するのです。

 

こうして仮庵の祭りには、いけにえがいつもよりも数多くささげられます。なぜでしょうか。それは仮庵の祭りが神の国を表しているからです。神の国では多くのいけにえがささげられます。つまり、神の国では絶え間なく礼拝がささげられるのです。この地上においても私たちは共に集まり主を礼拝していますが、やがてもたらされる栄光の神の国では毎日神に礼拝がささげられるのです。黙示録7章には神に贖われた神の民の姿が描かれていますが、そこにはこうあります。「9 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。10 彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。12 「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」13 すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。14 そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。15 それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。17 御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」」彼らは、神と小羊との前に立って、大声で叫んでこういうのです。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にあり。」「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

 

天国は、絶え間なく神への礼拝がささげられるところなのです。ですから、礼拝したくないという人は天国に入ることはできません。入っても苦痛に感じるからです。けれども、神に贖われたクリスチャンにとってはそうではありません。神に与えられた聖霊によって、喜びと感謝をもって私たちの救い主なる神に感謝し、賛美をささげるようになります。私たちの持っているすべてをもって神をほめたたえるのです。それがやがて来る神の国で私たちが行うことなのです。仮庵の祭りでそれほど多くのささげものがささげられるのは、そのことを表していたからです。

 

このように、イスラエルは約束の地に入り相続地を得ても、いや得たからこそ、主を礼拝しなければならなかったのです。これは私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはすでに約束のものを手にしているのですから、積極的に自分を主におゆだねすることによって、それを自分のものとして本当に楽しむことができます。ささげることなしに、この霊的な交わりは起こりません。イスラエルのように、私たちも大胆に、主におささげする者となりましょう。

幸いな道はどれか エレミヤ書6章16~30節

聖書箇所:エレミヤ書6章16~30節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「幸いな道はどれか」

きょうは、エレミヤ書6章の後半の箇所から「幸いな人はどれか」というタイトルでお話します。この6章は、預言者として神のことばを語ったエレミヤの最初の預言のまとめとなる箇所です。神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、神に立ち返るようにと語りますが、民は全く聞こうとしませんでした。それに対して神は滅びを宣告されました。北からのわざわい、バビロン軍がやって来て彼らをことごとく破壊すると。それでも彼らは聞こうとしなかったのです。彼らは頑なで、どんなに悪を取り除こうとしても取り除くことができませんでした。それで神は彼らを捨て去ることになります。きょうの聖書箇所の30節には「彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」とあります。彼らに必要だったことは、へりくだって、悔い改めることでした。幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいの安らぎを見出すことだったのです。

 

Ⅰ.「私たちは歩まない」(16-20)

 

まず16~20節までをご覧ください。「16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。19 この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。20 いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」

 

「道の分かれ目に立って」とは、新改訳聖書第三版では「四つ辻(つじ)に立って」と訳しています。「四つ辻」とは、十字路のことです。東西南北に視界が開けた場所のことを指しています。四方とも開けているので、どの方角にも進むことができるわけですが、そこに立って見渡すようにというのです。幸いな道はどれであるかを。しかし往々にして私たちは、自分がどちらの道を進んで行ったらよいのか迷います。それで主はこう言われます。「いにしえからの通り道、幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

「いにしえからの道」とは、昔からの道という意味で、これは神の律法のことを指しています。この道はすでにイスラエルの歴史を通して、そこに歩めば幸いな人生を送ることができると実証されていた道でした。にもかかわらず、彼らは何と言いましたか。彼らは「私たちは歩まない」と言いました。こういうのを何というんですかね。こういうのを反抗的と言いますね。彼らは実に反抗的だったのです。

 

「律法」と聞くと、私たちの中にも否定的なイメージを抱く人がおられるのではないでしょうか。でも「律法」そのものは良いものです。それは、人間が正しく歩ために神が与えてくださった道しるべです。それは、私たちを幸いな道へと導いてくれるものなのです。しかし残念なことに、この律法の要求を完全に満たすことができる人はだれもいません。ですから、律報によって義と認められることはできません。もしそのように求めるなら、律法が本来目指しているものからずれてしまうことになります。いわゆる律法主義となってしまうのです。律法主義は、律法を行うことによって救いを得ようとすることであって福音ではありません。でも律法そのものは救い主イエス・キリストへと導いてくれる養育係です。イエス・キリストこそ、律法本来が指し示していた方であり、私たちが救われる唯一の道なのです。そのイエスに導くもの、それが律法です。律法によって私たちは自分の罪深さを知ることで、そこからの救いを求めるようになるのです。ですから、律法は良いものであり、幸いな道なのに、彼らは、「私たちは歩まない。」と頑なに拒んだのです。

 

17節に「見張り人」とありますが、これは預言者のことです。神は預言者を立て、迫り来る神のさばきからのがれるようにと警告したのに、彼らは何と言いましたか。彼らは「注意しない」と言いました。また出ましたよ。「こうしなさい」というと、必ずそれと反対のことを言う。こういうのを何というかというと、「あまのじゃく」と言います。人の言うことやすることにわざと逆らう人のことです。ひねくれ者です。「角笛に注意しなさい」というと「「注意しない」と言いました。反抗期のこともが親に逆らうように逆らったのです。

 

18節と19節をご覧ください。それゆえ、諸国の民は聞かなければなりませんでした。何を?彼らに対する神のさばきの宣告を、です。それは彼らの企みの実、たくらみの結果でした。身から出た錆であったということです。彼らが主のことばに注意を払わず、それを退けたからです。

 

20節のことばは、少し唐突な感じがしますね。18節と19節で言われていることと、どんな関係があるのかわかりません。「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」どういうことでしょうか。

「シェバ」とは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りにある国です。聖書には「シェバの女王」として有名です。そこから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がささげられます。そうです、「乳香」とか「菖蒲」とは、礼拝のために用いられた香りだったのです。いったい何のためにこれらをささげるのかと、神は問うておられるのです。こうした香りのささげものや彼らの全焼のささげものは受け入れられず、彼らのいけにえは、主にとっては心地よくないものだからです。それは主に喜ばれるものではありませんでした。つまり彼らが当たり前にしていることが的を外していたのです。彼らが当たり前にしていた礼拝が、神に受け入れられるものではなかったということです。それはただ形だけの、形式的なものにすぎませんでした。彼らは形では神を礼拝していましたが、その心は遠く離れていたのです。なぜでしょうか?神のみことばから離れていたからです。神のことばを聞こうとしていなかったからです。ですから、神が何を求めておられるのかがわからなかったのです。

 

皆さん、これは大切なことです。信仰生活においてこの一番大切なことを忘れると、その中心からズレると、このように周りのことというか、それに不随するものに心が向いてしまうことになります。皆さん、教会にとって最も大切なことは何でしょうか。それは祈りとみことばです。つまり神のみことばを聞いてそれに従うことです。それが祈りです。教会の中心は美しく立派な会堂でもなければ、どれだけの人が集まっているかということではありません。どれだけ地域社会に奉仕しているかとか、どれだけすばらしい賛美がささげられているかということでもないのです。教会の中心は、信仰生活の中心は、神のみことばを聞いてそれに従うことです。そのみことばに生きるということなのです。

 

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でしたが、彼はこの中心からズレてしまいました。彼は神様からアマレク人を聖絶するようにと命じられたのに、しませんでした。聖絶というのは、完全に破壊するという意味です。どんなに価値があるように見える目ものでも、神が聖絶せよと言われるなら聖絶しなければならないのにしませんでした。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。それゆえ、サウルは王としての立場から退けられることになってしまったのです。その時、主が言われたことはこうでした。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

いったいサウルは何を間違えたのでしょうか。何を履き違えたのでしょうか。礼拝とは何であるかということです。その本質が何であるかということをはき違えたのです。サウルは、立派なものをささげることで神が喜んでくださると思い込んでいましたが、神が喜ばれることはそういうものではありませんでした。神が喜ばれることは、ご自身の御声に聞き従うことだったのです。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさるのです。

 

この時のイスラエルの民もそうでした。彼らは、外国からの高価な香りや多くの立派なささげ物を神が喜んでくださると思っていましたが、それは全くの彼らの勘違いでした。神が喜んでくださるのは、神のみことばに聞き従うことなのに、それがないのに、どんなに高価なささげものをしても全く意味がないのです。神のことばを拒むことによって彼らの礼拝がダメになってしまった、崩れてしまいました。つまり、人生の中心部分が壊れてしまったわけです。その結果、いにしえからの通り道、幸いな道を見失うことになってしまいました。

 

皆さん、私たちも注意しなければなりません。人生の中心部分を見間違うと大変なことになってしまいます。私たちの人生の中心とは何ですか。それは何度もお話しているように、神を喜び、神の栄光を現わすことです。ウエストミンスター小教理問答書にはこうあります。

「人の主な目的は、何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

皆さん、これが私たちの人生の中心です。神は人をそのように造られました。ですから、この人生の中心部分が壊れると、幸いな道を失ってしまうことになります。

 

英国の有名な神学者C・S・ルイスは、50年前に幸福を次のように定義しました。「車はガソリンで走るようにできているのであって、それ以外のものでは走れない。神は人間という機械が神によって走るように設計された。私たちは、神ご自身が燃料となり、食する糧となるように設計された。私たちには、他に頼るものはない。だから、宗教を度外視し、私たちのやり方で幸せにしてくださいと神に願うのは正しくない。神が、ご自分と無関係に幸せや平和を私たちに下さるなどということはあり得ない。そのようなものは、存在しないのだから。」

まあ、現代はガソリンに代わる新しい燃料が研究されていますが、今から50年前はガソリンしか考えられなかったわけで、その燃料こそ神ご自身だと言ったのです。それ以外のものを燃料としようものなら、走ることはできません。神との関係こそ、私たちが走ることができる燃料なのであって、その中心を外してはならないのです。その中心は、神のことばに聞くことなのです。

 

Ⅱ.恐怖が取り囲んでいる(21-26)

 

第二のことは、その結果です。21~26節をご覧ください。「21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」22 主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。23 彼らは弓と投げ槍を固く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。娘シオンよ。彼らは馬にまたがり、あなたに向かい、一団となって陣を敷いている。」24 私たちは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが私たちをとらえた。産婦のような激痛が。25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐怖が取り囲んでいるからだ。26 娘である私の民よ。粗布を身にまとい、灰の中を転げ回れ。ひとり子を失ったように喪に服し、苦しみ嘆け。荒らす者が突然、私たちに襲いかかるからだ。」

 

その結果、彼らはどうなったでしょうか。21節には「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」」とあります。その結果、主は彼らにつまずきを与えます。「つまずき」とは、22節にある北から攻めて来る大きな国がやって来るということです。これはバビロンのことです。彼らは残忍で、あわれみがありません。情け容赦なく攻め寄せてきます。彼らは馬にまたがり、一致団結して攻め寄せてくるのです。

 

そのようなうわさを聞いたユダの民はどうなったでしょうか。24節、彼らは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみ悶えました。産婦のような激痛が走ったのです。それは、恐怖が彼らを取り囲んだからです。これがエレミヤ書のキーワードの一つです。このことばは他に、20章3節、10節、46章5節、49章29節にも出てきます。繰り返して語られています。たとえば、20章3節には、「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」。と」(エレミヤ20:3)とあります。これはエレミヤが偽預言者のパシュフルに語ったことばです。「パシュフル」という名前には「自由」という意味がありますが、偽りのことばを語るパシュフルは自由ではなく不自由だ、「恐怖が取り囲んでいる」と言ったのです。それはパシュフルだけではありません。神に背を向けたすべての人に言えることです。神に背を向けたすべての人にあるのは「恐怖」です。恐怖が彼らを取り囲むようになるのです。

 

まさに預言者イザヤが言ったとおりです。イザヤ書57章20~21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

皆さん、悪者どもには平安がありません。「悪者ども」とは悪いことをしている人たちというよりも、神を信じない人たちのことです。神の救いであるイエスを信じない人たちです。そのような人たちは自分を信じ、自分の思う道を進もうとしています。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、心に不安を抱えているのです。水が海草と泥を吐き出すように、彼らの口から出るのは泥なのです。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけています。それが悪者の特徴です。心に平安がないからです。平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。仕事で成功しても、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされていても平安がありません。心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。常に恐怖が取り囲んでいるのです。それは荒れ狂う海のようで、静まることがありません。泥を吐き出すしかありません。

 

26節には、それはひとり子を失ったようだと言われています。これは最悪の悲しみを表しています。なぜなら、自分の名を残せなくなるのですからです。自分たちの将来が無くなってしまいます。このように神から離れ、神のみことばを聞かなくなった結果、彼らは恐ろしい神のさばきを受けるようになったのです。

 

Ⅲ.心を頑なにしてはいけない(27-30)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、心をかたくなにしてはいけないということです。27~30節をご覧ください。「27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ。」28 彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。29 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。30 彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」

 

これが、エレミヤが1~6章まで語ってきた内容の結論です。27節の「試す者」とはエレミヤのことを指しています。主はエレミヤを試す者として立てられました。それで彼は神のことばを語っていろいろと試してみたわけです。たとえば、5章ではエルサレムの通りを行き巡り、そこに正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。でも結果はどうでしたか?そういう人は一人もいませんでした。「義人はいない、一人もいない」です。

 

次にエレミヤは、別の方法で彼らを試しました。それは彼らを懲らしめて悔い改めるかどうかということです。しかし、彼らはみな頑なな反逆者でした。そうした彼らが、ここでは青銅や鉄、また銀にたとえられているわけです。銀を精錬するように、神の民を懲らしめてみたらどうなるでしょうか。当時、鉱石から銀を取り除くためには炉の中に鉱石を入れ、吹子で吹いて、鉛を溶かしたそうです。そのように彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。鉛は溶けましたが、悪いものは取り除けなかったのです。いくら精錬しても、不純物、銀かすが残ったのです。それゆえに彼らは、「捨てられた銀」と呼ばれ、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。

 

皆さん、神は愛する者を精錬されます。へブル人への手紙にはこうあります。「6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:6-7)

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられます。ですから、訓練と思って耐え忍ばなければなりません。そして、イスラエルの民のように、心を頑なにしないで、神のことばに聞き従わなければなりません。聖書にこうあるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7-8)

 

あなたはどうでしょうか。あなたはどのような御声を聞いておられますか。もし、今日御声を聞くなら、心を頑なにしてはいけません。その御声に聞き従ってください。なぜなら、主ご自身があなたのために先ず十字架で死んでくださったからです。主が懲らしめを受けてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを受けるためです。この方があなたの救い主です。その方がこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)これが真理の道、いのちの道、幸いの道なのです。

 

イザヤ書30章21節にはこうあります。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」

あなたが人生を歩むとき、右に行ったらいいのか、それとも左に行ったらいいのか悩む時があるでしょう。しかし、これが道です。これがいのちの道、幸いな道なのです。主は聖霊を通して、「これが道だ。こけに歩め」と言っておられます。どうか道を間違えないでください。永遠に変わることがない神のみことばこそ、真理の道なのです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。どうかこの道を歩み、たましいにやすらぎを見出してください。特に若い方々には自分がやりたいと思うことがたくさんあるでしょう。でもそのすべてが正しいとは限りません。どうか道を踏み外さないでください。もし踏み外したと思ったら、すぐに主に立ち返り、主が示される道を歩んでください。あなたがへりくだって主のみことばに従い、幸いな人生を送ることができるように祈ってやみません。

偽りの平安 エレミヤ書6章1~15節

聖書箇所:エレミヤ書6章1~15節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「偽りの平安」

エレミヤ書6章に入ります。今日のタイトルは「偽りの平安」です。14節に「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」とあります。「彼ら」とはエレミヤの時代の預言者たちのことです。彼らはみな偽りを言っていて、本当は平安じゃないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。いわゆる「偽りの平安」です。世の終わりが近づくとこうした偽りの預言者が現れ、平安がないのに「平安だ、平安だ」と言いますが、そうしたことばに騙されないで、聖書が言っていることはどういうことかをよく聞いて、主が与えてくださる本物の平安をいただきながら歩みたいと思います。

三つのことをお話します。第一に、平安ではなかった神の民、エルサレムの姿です。彼らは悪に満ちていたので、神は彼らに大いなる破壊を宣言されました。その悪は何と井戸水が湧き出るようにコンコンと湧き出ていました。

第二のことは、その原因です。それは、彼らの耳が閉じたままになっていたからです。ですから、主のことばを聞くことができませんでした。聞き従うためには耳が開かれていなければなりません。耳に割礼を受けなければならないということです。

第三のことは、そのためにどうしたらよいかということです。そのためにはイエス・キリストに聞かなければなりません。真の平安は、平和の君であられるイエス・キリストによってもたらされるからです。

 

Ⅰ.湧き出る悪(1-8)

 

まず、1~8節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。2 娘シオンよ、おまえは麗しい牧場にたとえられるではないか。3 そこに羊飼いたちは自分の群れを連れて行き、その周りに天幕を張り、群れの羊は、それぞれ自分の草を食べる。4 「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」5 「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」

エレミヤは預言者としての召命を受けると、2章から神のことばを語ります。それは神に立ち返れという内容でした。彼らは妻が夫を裏切るように、主に背いて自分勝手な道に走って行きました。そんなエルサレム、ユダに対して主は、北からわざわいを起こすと宣告されました。バビロンによる破壊です。きょうの箇所にはそのわざわいがどれほど破壊的なものなのかが、具体的な描写をもって語られています。この6章は、2章から語られてきたエレミヤの最初の預言のまとめとなる部分です。

 

1節には「ベミヤミンの子らよ」とあります。「ベミヤミン」とは、エルサレムに住んでいた人々のことを指しています。というのは、エルサレムはもともとベニヤミン部族の領土にあったからです。それがユダ部族のダビデによってイスラエル統一王国の首都となったので、いつしかユダ部族の領土であるかのように思われていますが、もともとベニヤミンの領土にありました。ですから、これはエルサレムの住民のことを指しているわけです。そのベニヤミンの子らに、エルサレムの中から逃れ出よ、と言われています。

 

また「テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。」とあります。「テコア」とは、エルサレムの南約20㎞に位置している町です。また「ベテ・ハ・ケレム」は、はっきりとした位置はわかりませんが、エルサレムとそのテコアの間にあった町ではないかと考えられています。そのテコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしをあげよというのです。なぜでしょうか。北からわざわいが見下ろしているからです。大いなる破壊が迫っていることを知らせなければならなかったのです。「のろし」は10~20Km先からも見えたと言われています。この「のろし」を上げて、北からわざわいが迫って来ているよと知らせ、それに備えるようにと言われたのです。いわば緊急地震速報のようなものです。地震が起きると、その数秒前に「地震です。地震です。」とスマホが知らせます。それが夜中だったりするとびっくりして起き上が、何があったのかとすぐにテレビをつけて確かめますが、それと同じように、北からわざわいが、大いなる破滅が迫って来ていることを、角笛を吹いて、のろしを上げて警告するようにというのです。

 

2節をご覧ください。「娘シオンよ」とあります。「シオン」とは、「エルサレム」の別の呼び方です。ですからこれは、1節の「ベニヤミン」とも同義語でもあるわけですが、そのシオンが、ここでは「麗しい牧場」にたとえられています。そこに暮らす民は美しい羊たちでした。本来であれば、羊飼いたちは自分の群れの羊たちを連れて行き、その周りに天幕を張り、そこで草を食べるよことができるようにするわけですが、今回はそうではありません。そのシオンに向かって聖戦を布告せよ、と言われているのです。4節と5節です。「「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」どういうことでしょうか。

聖書では、「羊飼い」というとイスラエルの王や預言者といった霊的リーダーたちのことを指していますが、ここでは別の人のことを指して言われています。それはバビロンの王ネブカデネザルのことです。彼は羊たちを緑の牧場にふさせ、いこいのみぎわに伴うどころか、その麗しい牧場、神の民に対して聖戦を布告するのです。そのように命じているのは誰かというと、イスラエルの神、主です。主がバビロンの王ネブカデネザルに対して、イスラエルに向かって聖戦を布告するように、と言われたのです。ですからここに「聖戦」とあるのです。「聖戦」とは神の戦いのことです。一般的には神の民が外国の民に対して行うものですが、ここでは逆です。バビロンが神の民に対して戦う戦いを聖戦と呼んでいます。なぜなら、それは聖なる神によって命じられたものだからです。そうです、これは神が主導された神の戦いなのです。神の民であるイスラエルを懲らしめるために、神が外国のバビロンを用いられるのです。それはどのような戦いでしょうか。

 

4節には「われわれは真昼に上ろう」とあります。そして5節には「われわれは夜の間に上って」とあります。通常、戦闘は夜明けとともに始まり夕暮れには終わりましたが、日中はかなり暑くなるので少し休んだりするわけですが、この敵はそうではありません。ここに「真昼に上ろう」とあるように、真昼の暑い中でも休まずに攻撃してくるのです。それは通常ではあり得ないことです。そんなあり得ない力を持っているということを表しているのです。また「夜の間に上って」とは、昔は懐中電灯のようなものがなかったので夜の間に戦うことはできませんでしたが、この敵は違います。夜の間も上って来ます。ものすごいパワーです。そんな敵が攻め寄せて来たら、たまったものではありません。

 

6節をご覧ください。ここで万軍の主がこう言われます。「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。これは罰せられる都。その中には虐げだけがある。」

これは誰に対して語られているのでしょうか。そのバビロンに対してです。バビロンに対して「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。」というのです。「塁」とは、英語で「mounds」(マウンド)です。盛土とか、土手、土塁のことですね。野球のピッチャーが投げるところをマウンドと言いますが、それは盛土された所だからです。ここでは土ではなく木でそれを築くようにと命じられています。木を切って、エルサレムに向かって塁を築くようにと。エルサレムは城塞都市でしたから、たやすく攻めることができませんでした。それで木を切って、それで城壁よりも高い物見やぐらのようなものを作り、そこから侵入を試みるのです。いわゆる「塁」を築くわけです。これを命じておられるのは万軍の主です。万軍の主である神様が、ご自分の民であるエルサレムを攻撃するために、その戦術をバビロンに命じているのです。4節に「聖戦を布告せよ」とありましたが、これは皮肉でも何でもなく、エルサレム、ユダの民に対する神の戦い、聖なる戦争だったのです。主はそのためにバビロンを用いました。主は外国の敵を用いて神の民を罰しようとされたのです。なぜなら、彼らは罪と悪によって腐敗していたからです。

 

その悪がどのようなものであったかが7節に記されてあります。「井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた。暴虐と暴行がその中に聞こえる。病と打ち傷がいつもわたしの前にある。」

井戸の水が湧き出るように、エルサレムは自分の悪を湧き出させていました。神が彼らをさばかれるのは、彼らの中に井戸水のように悪がコンコンと湧き出ていたからです。表面的にではなく、根っこの部分が腐っていたわけです。彼らの内側は暴虐と暴行で満ちていました。それが病と打ち傷となって、こんこんと外側に溢れ出ていたのです。悪は外側からではなく内側から出るものです。イエス様は、マルコ7章14~23節でこのように言われました。「14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」」

皆さん、人を汚すのは外から入ってくるものではありません。人の内側から出るものです。人の内側から出るものが人を汚すのです。悪いことをするから罪人なのではなく、罪人なので悪いことをするのです。それは心から、内側から溢れ出てきます。見た目にはいくらでもよく見せることができますが、神は心を見られます。心は人の努力ではきよめることはできません。心をきよめることができるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストによってその心をきよめていただかなければならないのです。

 

私たちの心は、悪が井戸水のようにこんこんと湧き出てくるようなものですが、神はこんな私たちをあきらめることはなさいません。そんな者でも癒してくださると約束しておられるのです。イザヤ書1章5~6節にこうあります。「あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」しかし、主はこう仰せられます。「さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。足の裏から頭のてっぺんまで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷が絶えず、絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえないような者でも、主はそんなあなたを招いておられるのです。そして、その罪を雪のように白くしてくださいます。羊の毛のようにしてくださるのです。その声を聞いて、神に立ち返る人は何と幸いでしょうか。

 

8節をご覧ください。「エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」

これは神の懲らしめ、Disciplineです。ここには親が子どもをしつけるというニュアンスがあります。愛する子がダメにならないように叱る親のように、神様はご自分の子に懲らしめを与えられるのです。子どもに向かって親が「きちんとしなさい」と言うように、神はご自分の民に言われるのです。「そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も少ない荒れ果てた地とする。」からです。原文では「そうでないと」ということばが2回使われています。「そうでないと、わたしの心はお前から離れ、そうでないと、おまえを、人もすまない荒れ果てた地とする。」ここまで来てもなお、あきらめない神の御思いが表れています。神様はギリギリまで待っていてくださるのです。

 

ここで注目していただきたいことばは「離れ」ということばです。これは脱臼するという意味の語で、聖書には、ここともう1箇所にしか出てこない珍しい言葉です。神と民がどれほど深く結びついているかが表されているのです。それほどまでに、神が民をさばくということは辛いことなのです。不本意ながらも離さなければならないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。なぜなら、彼らが汚れたままであることを選ぶからです。自分の悪を悔い改めことを拒むからです。

 

神様はきよい方であられます。罪や汚れと交わることはできません。ですから、私たちの罪がきよめられなければならないのです。そうすれば、神から離れることはありません。脱臼することはないのです。強く結びついたままでいることができます。あなたはどうですか。脱臼していませんか。この神の思いを受け止めて、神に立ち返り、罪を赦していただいて、神と深く交わる者でありたいと思います。

 

Ⅱ.閉じたままの耳(9-10)

 

第二のことは、彼らがこのように悪に満ちるようになった原因です。いったいどうして彼らは神から離れてしまったのでしょうか。それは、彼らの耳が閉じられていたからです。9~10節をご覧ください。「9 万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」10 私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

 

「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。」とは、ぶどうを収穫する際に隅々まで摘むように、イスラエルの民をすっかり摘み取れということです。ユダの民はバビロンの攻撃によって完全に滅ぼされ、その住民はバビロンへと連れて行かれることになります。この「イスラエルの残りの者」とは、4章7節や5章18節に出てきた「残りの者」、「レムナント」のことではありません。ここで言われていることは、バビロンの破壊は徹底的であるということです。エルサレムはもう完全にバビロンの手に落ちるのです。

 

10節をご覧ください。それを聞いたエレミヤはこう言っています。「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

エレミヤは彼らに主のことばを語りましたが、だれも聞こうとしませんでした。聞く耳を持たなかったのです。完全に耳を塞いでいました。そんな人たちにエレミヤは40年以上も語り続けるのです。どれほど大変だったことかと思います。39年前の今日、私は福島で最初の礼拝をスタートしました。1年半ほど前から開いていたフライデーナイトという聖書を学ぶ小さなグループのメンバーと教会をスタートすることを決め、その最初の礼拝が39年前の今日だったわけです。若干22歳の若造が何を語ったのかさっぱり覚えていませんが、それから半年後の11月23日に最初の受洗者が与えられて教会を設立しました。あれから40年は経ちませんが、39年間いろいろなことがありましたが、神様のあわれみと助によってとにかく語り続けてきたわけですが、エレミヤは40年以上です。どんなに大変だったことかと思います。10節にあるように、主のことばは彼らにとってそしりの的となっていたわけですから。彼らはそれを喜ぶどころか、馬鹿にして、嘲笑っていたのです。

 

ここで注目していただきたいのは、「耳は閉じたままで」ということばです。これは下の欄外の説明にあるように、直訳では「耳に割礼がなく」という意味です。無割礼なのです。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。ユダヤ人の男子はみな、自分たちが神の民であるというしるしに、生まれて8日目にこの儀式を行いました。その耳に割礼がないというのです。実は4章4節にも、この割礼のことが語られていました。「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」大切なのは肉体の割礼ではなく心に割礼を受けるということです。いくら肉体に割礼を受けていても心が肉で覆われていたら、神のことばが心に響かないからです。何を言っているのかさっぱりわかりません。理解できない。ここでも同じことが言われています。耳が肉で覆われていると何を言っているのかわかりません。聞こえないのです。音声としては聞こえますが、それがどういうことかがわからないということです。聞く耳を持っていなかったからです。聞こうとしていませんでした。それが「耳に割礼がない」ということです。「耳が閉じられたまま」の状態のことです。まさに耳は、従順さとか服従さが表れる場所なのです。聞いたら従うのです。聞いても従っていないというのは、それは聞いていないということです。聞こえていないのです。

 

あなたの耳はどうでしょうか。だんだん耳が遠くなってきたと感じることがありますか。でもそれは年のせいではありません。心が神から遠く離れているということです。「前はもっとはっきり聞こえたけど、今は耳が遠くなって何を言っているのかわかりません」「以前は聖書を読むとピンときたのに、今はどこを読んでも無味乾燥です。全然響かないんです」というのは、実は耳が肉で覆われているからなのです。耳かすがたまっているからではありません。耳が肉で覆われているからなのです。ですから、耳に割礼を受けなければなりません。そうすれば、よく聞こえるようになります。

 

イエス様は種まきのたとえの中でこう言われました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)ここに「みことばを聞くが、みことばをふさぐため、実を結ばない」とあります。ふさぐものは何ですか。ここでは、この世の思い煩いとか、富の惑わしとあります。そうしたものがみことばをふさぐため、聞いても実を結ばないのです。

 

私たちにはいろいろな思い煩いがあります。仕事のことや家庭のこと、自分の健康のことや人間関係の問題、あるいは最近は特にコロナや戦争のことで不安を抱えているという人もおられると思います。でもそうしたものに捉われていると、みことばが聞こえなくなってしまいます。それらのものがみことばをふさいでしまうからです。だから聖書はこう言っているのです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

神があなたがたのことを心配してくださいます。ですから、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねてください。そうすれば、神のことばが聞こえてきます。私たち人間には、どうすることもできないことがたくさんあります。それらのことを心配するのではなく、神に信頼しなければなりません。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、神の御声が聞こえてくるのです。

 

Ⅲ.平和の君イエス・キリスト(11-18)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、イエス・キリストに聞きなさいということです。11~18節をご覧ください。「11 主の憤りで私は満たされ、これを収めておくのに耐えられない。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。夫はその妻とともに、年寄りも齢の満ちた者も、ともに捕らえられる。12 彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。わたしがこの地の住民に手を伸ばすからだ。─主のことば─13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。14 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。─主は言われる。」16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。」

 

みことばを聞こうとしないユダの民に対して、エレミヤの心は主の憤りで満たされました。もうそれを自分の心に収めておくことができなくなりました。だれも聞いてくれないのです。完全にバーン・アウトしたわけです。疲れ果ててしまいました。皆さんもよくあるでしょう。疲れ果てた・・・・ということが。

するとエレミヤに主のことばがありました。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。」と。「それ」とは主の憤りのことです。それを道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎだすようにというのです。幼子や若い男たちだけではありません。夫も妻も、年寄りも、非常に齢の満ちた者、これはかなりのご老人にもということですね。彼らも捕えられることになります。さらに彼らの家と畑は、妻もろとも奪われ、他人の手に渡ることになります。

 

どうしてでしょうか。13節にその理由が述べられています。「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」

身分の高い人とか低い人までみんな自己中心になっていたからです。そしてその腐敗が宗教的なリーダーたちにまで及んでいました。彼らはみな偽りを行っていました。たとえば、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。これはある種のマインドコントロールです。主はそのように言っていないのに、そのように言っているかのように装うからです。私たちも注意しなければなりません。彼らは神の民の傷をいいかげんに癒していました。民は元気じゃなかったのに表面的に治療して「大丈夫、元気、元気!」と言い聞かせ、思い込ませていました。いわゆるやぶ医者と一緒です。ちゃんと治療しないのです。ここでは医者というよりも祭司とか預言者のことですから、やぶ牧師です。神様が言っていないのに「大丈夫だよ。神様はあなたのありのままを愛しているから」とか、いいかげんに語るのです。その方が相手も心地よいからです。それはやぶ医者と同じです。神の民の傷をいいかげんに癒しているにすぎません。しかし、真の牧者は民の傷をいいかげんに扱うことはしません。神のことばが言わんとしていることはどういうことなのかをしっかりと受け止め、みことばと祈りによって癒すのです。たとえそれがどんなに聞こえが良くないことでも、神のことばにしっかりと立つことが真の解決につながると信じているからです。

 

ところで、この「平安」ということばですが、これはヘブル語では「シャローム」と言います。「シャローム」とは、単に戦争がないとか、心が平安であるというだけでなく、その本質は「何の欠けもない理想的な状態」のことを意味しています。ですから、争いがなければ平和となるし、病気がなければ健康となるわけです。問題が解決すれば勝利となり、祝福に満たされていれば繁栄となります。欠けがあれば完全ではありません。でもこの「シャローム」は何の欠けもない完全な状態を意味しています。

 

あなたはどうでしょうか。あなたには何か欠けがありますか。その欠けが「シャローム」によって満たされるのです。他のもので満たされることはありません。お酒やギャンブル、仕事、お金、趣味などであなたの心が満たされることはありません。あなたの心を満たすのは、シャロームなる方、平和の君イエス・キリストだけです。イザヤ書9章6節にこうあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ひとりのみどりごとはイエス・キリストのことです。キリストは生まれる700年も前から、私たちを救う救い主として来られることが預言されていました。その名は何でしょうか。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。イエス・キリストはその名の通り、私たちの罪を赦すために十字架にかかられ、三日目によみがえられたことで、この平和をもたらしてくださいました。

また、エペソ2章14~19節にもこうあります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」

ですから、イエス・キリストだけがシャローム、真の平和をもたらすことができます。イエス・キリストだけが救いをもたらすことができます。勝利を、繁栄を、満たしをもたらすことができるのです。それ以外に平和を得る方法はありません。だから、キリストはこう言われたのです。「28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんの中に、疲れている人がいますか。重荷を負っている人がいますか。そういう人はイエス様のもとに来てください。イエス様があなたを休ませてあげます。なぜなら、イエス様は柔和でへりくだっておられる方だからです。イエス様はあなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。それはあなたがいのちを得るためです。ここに「そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。「安らぎ」「平安」それはイエス・キリストにあるからです。

 

偽預言者は平安がないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。彼らは表面的で安易な平安を約束しましたが、そこには本当の平安はありませんでした。悪者には平安がないからです(イザヤ48:22)。真の平安を得るためには、その罪、汚れをきよめていただかなければなりません。そのために神は救い主を送ってくださいました。その救い主の贖いの業によって罪の赦しが実現したのです。平和がもたらされました。ですから、あなたが真の平安を得たいと思うなら、キリストのもとに来て罪をきよめていただかなければなりません。これが真のシャロームです。この方に聞くべきです。

世の終わりが近くなると、こうした偽預言者たちが安易な平安を約束しますが、そのようなことばに騙されてはいけません。平安がないのに、「平安だ、平安だ」ということばに聞いてはならないのです。真の平和はイエス・キリストにあります。この平和の君なるイエス・キリストに聞き従いましょう。それが神のさばきから免れ、神の平安をいただき、幸いな人生を送るキーなのです。