ヨシュア記15章

ヨシュア記15章

きょうはヨシュア記15章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ユダ族の相続地の境界線(1-12)

 まず1~12節までをご覧ください。「1 ユダ部族の諸氏族がくじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南の方のツィンの荒野であった。2 南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から3 アクラビムの坂の南に出てツィンを過ぎ、カデシュ・バルネアの南を上ってヘツロンを過ぎ、アダルへ上ってカルカへ回り、4 アツモンを過ぎてエジプト川に出る。境界線の終わりは海である。これがあなたがたの南の境界線となる。5 東の境界線は塩の海で、ヨルダン川の河口までとなる。北側の境界線は、ヨルダン川の河口、海の入江から始まる。6 その境界線はベテ・ホグラを上り、ベテ・ハ・アラバの北を過ぎる。それから境界線はルベンの子ボハンの石を上る。7 さらに境界線はアコルの谷間からデビルに上り、谷の南のアドミムの坂の反対側にあるギルガルに向かって北上する。それから境界線はエン・シェメシュの水を過ぎ、その終わりはエン・ロゲルであった。8 さらに境界線はベン・ヒノムの谷を上ってエブス、すなわちエルサレムの南の傾斜地に至る。それから境界線は、ヒノムの谷を見下ろす西の方の山の頂、レファイムの谷間の北の端を上る。9 さらに境界線は、この山の頂からメ・ネフトアハの泉の方に折れ、エフロン山の町々に出る。それから境界線はバアラ、すなわちキルヤテ・エアリムの方に折れる。10 さらに境界線はバアラから西へ回ってセイル山に至り、エアリム山の傾斜地、すなわちケサロンの北側を過ぎ、ベテ・シェメシュに下り、ティムナを過ぎる。11 そして境界線はエクロンの北の傾斜地に出る。それから境界線はシカロンの方に折れ、バアラ山を過ぎ、ヤブネエルに出る。境界線の終わりは海である。12 西の境界線は大海とその沿岸である。これがユダ族の諸氏族の周囲の境界線である。」

いよいよイスラエルの民は、占領したカナンの地の相続地の分割を始めます。その最初の分割に与ったのはユダ族でした。なぜユダ族だったのでしょうか。それは14章でもお話ししたように、信仰の勇者カレブに代表されるように、ユダ族が一番信仰による勇気と大胆さを持っていたからです。元来、ユダ族の先祖ユダは、ヤコブの4番目の子どもでした。長男はルベン、次男はシメオン、三男はレビ、そして四男がユダです。ですから、長子の特権という面からすれば、ルベン族が最初に分割に与っていいはずなのに、四番目のユダ族が最初にこの特権に与かりました。いったいどうしてでしょうか。

まず長男のルベンは、父ヤコブのそばめ、ビルハと寝るという罪を犯したため、その特権を失ってしまいました。創世記49章3節には、「ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。彼は私の寝床に上った。」とあります。

二男のシメオンと三男のレビも、父に大きなショックを与える罪を犯しました。妹のディナがヒビ人のシェケムという男に辱められたことに怒り、その町の住民に復讐したことです。彼らはその町の男たちに割礼を要求し、彼らの傷が痛んでいる頃を見計らって、全滅させました。ヤコブはこの二人について、同じく創世記49章5~7節で、「シメオンとレビとは兄弟。彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」と言いました。

ですから、4番目のユダが最初に相続地の分割に与ったのです。それは兄たちに問題があったからというだけでなく、ユダ族はそれにふさわしい部族でした。それは、信仰の勇者カレブに代表されるような信仰の勇気と大胆さを持っていた点です。創世記49:9~12節のヤコブの遺言の中に、彼について語られていることは勝利、リーダーシップ、繁栄と良いことばかりです。ルベンから取り上げられた長子の権利はヨセフに行きましたが、後にユダの部族からは支配者、王が出ると宣言されました。創世記49章10節には、「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。」とあります。そして事実、このユダ族から後にダビデ王が誕生し、さらにその子孫から、やがてまことの王イエス・キリストが誕生するのです。イエス様はこのユダ族から出た獅子なのです。このようなユダ族の優位性が暗示される中で、彼らが土地の割り当ての最初に来ているのでしょう。

また、創世記44章33~34節には、ユダが自分のいのちをかけてとりなしたことが記されてあります。彼は若い頃、ヨセフに対しても父ヤコブに対しても何の配慮もせず、むしろ、ヨセフを奴隷として売ろうと兄弟たちを説得し、ヤコブには兄弟たちと共に嘘をつきました。そのユダがここでヨセフに、ベニヤミンの身代わりとしてヨセフの奴隷になることを申し出、あの子を父のもとに返してほしいと、そして父の苦しむ姿を見たくないと訴えたのです。このユダの訴えには心が打たれます。自分のいのちをかけてとりなしているのだから。ここに真実の愛を見出すことができます。それはイエスによって現わされた十字架の愛を表していました。そのように考えると、ユダ族こそ約束の土地を最初に相続する者としてふさわしい者であったと言えるでしょう。

さて、ユダ族はどの地を相続したのでしょうか。1~12節までにその境界線が記されてあります。巻末の聖書の地図をご覧いただくとわかりますが、ユダ族が、他の部族の中で、もっとも広い土地を相続したことがわかります。まず南の境界線については1~4節に記されてあります。それは、塩の海、すなわち死海の南端からエジプト川に出て、海、すなわち地中海までです。東の境界線については5節の前半にあります。それは塩の海、すなわち死海の沿岸そのもので、ヨルダン川の河口までです。北の境界線については5節後半~11節までにありますが、ヨルダン川が死海に注ぐ入江から始まり、少々複雑に入り組んでいて、最後は海、すなわち地中海に至ります。西の境界線は12節にありますが、地中海の沿岸そのものです。

いったいこの地はどのようにしてユダ族に分割されたのでしょうか。1節を見ると、「ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は・・」とあるように、これはくじで割り当てられました。確かに14章には、カレブがヨシュアのもとにやって来てこの山地を与えてくださいと要求したので、ヨシュアがカレブに与えたかのような印象がありますが、実際にはくじで決められました。ユダ族はくじによってカナンの地の南側が与えられたのです。

ところが、この南部の山岳地帯は不毛の地です。イスラエルの地は北側によく肥えた緑の地が多く、南に行けば行くほど岩や砂が多い荒地となっています。ユダ族は最初にくじを引くという特権が与えられたにもかかわらず、彼らが得た地は南の最も環境が悪く、住むのに適さない土地でした。そこは農耕にも適さない、荒地だったのです。いったいなぜこのような地を、主はユダ族に与えたのでしょうか。

そこには、神様のすばらしいご計画がありました。この土地をくじで引いた時、おそらくユダ族の人々は心の中で不平を言ったに違いありません。「せっかく最初にくじを引くことができたのに、こんなひどい土地が当たってしまった。何と運の悪いことだ」と。しかし、そのような地理的に環境が悪いがゆえに、彼らは偶像崇拝の悪しき影響から免れ、宗教的な純粋さを保つことができたのです。北部の肥えた地は、確かに環境的には申し分がありませんでしたが、それに伴って農耕神、豊穣神と呼ばれるバアル宗教がはびこっており、こうした偶像との戦いを強いられることになりました。
しかしユダ族は、こうした環境的困難さのゆえに、唯一の神、ヤハウェから離れることなく、常に純粋な信仰を保ち続けることができたのです。それだけではありません。この環境的困難さのゆえに、ユダ族はさらに強くたくましい民族へと育て上げられて行きました。やがてイスラエルが二つに分裂した時、南王国は何と呼ばれたでしょうか。「南王国ユダ」と呼ばれました。すなわち、このユダ部族が南に住んでいた全部族を代表して呼ばれるほどに、強力な部族になっていったのです。

時として私たちは自分が願わない望まない困難な状況に置かれることがありますが、そこにも神のご計画と導きがあることを覚えなければなりません。それゆえに自らの不遇な状況を嘆いたりしてはならないのです。「ああ、私は貧乏くじを引かせられた」と言って、自己憐憫になってはいけません。むしろ、その所こそ、主があなたに与えてくださった場所なのだと信じて、主を賛美しなければなりません。他の人と比較して、ひどい状況であるならば、それはむしろ幸いなのです。そこに神が生きて働いてくださるからです。また逆に、私たちが他の人よりも優って良い場所が与えられたという時には、自分自身に気を付けなければなりません。高ぶって、自分が神のようにならないように、注意しなければなりません。

私たちは、祈りつつ、信仰によって決断しつつも、なお困難な状況に置かれることがあるとしたら、それは主の御計画であり、主が私たちを通して御旨を成し遂げようとしておられると信じて、主をほめたたえ、喜んでその困難な状況の中で果たすべき役割というものを、しっかりと果たしていきたいと思うのです。

Ⅱ.水の泉を求めて(13-19)

次に13~19節までをご覧ください。ここにはユダ族の代表であるカレブについてのエピソードが記されています。「13 ヨシュアは自分への主の命により、エフンネの子カレブに、ユダ族の中でキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父である。14 カレブはそこからアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子である。15 そして彼は、そこからデビルの住民のところに攻め上った。デビルの名は、かつてはキルヤテ・セフェルであった。16 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」17 カレブの同族ケナズの子オテニエルがそれを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。18 嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるようにしきりに促した。彼女がろばから降りると、カレブは「あなたは何が欲しいのか」と彼女に言った。19 アクサは言った。「私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。」

カレブについてはすでに14章で見ましたが、彼は85歳になっていましたが、アナク人の町ヘブロンを攻め取ると願い出ました。そしてそれを成し遂げた記録がこれです。カレブは14節にある通り、ヘブロンからアナクの3人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払います。一人でも恐ろしいはずの敵を3人もまとめてやっつけたのです。14章12節でカレブは、「主が私とともにいてくだされば、私は彼らを追い払うことができましょう。」と言いましたが、カレブの素晴らしい点は目の前の状況を見たのではなく、主の視点で状況を見ていたことです。人間的にはとても不可能に思えても、そこに主の約束があり、主がともにいてくださるなら、主が御業を成し遂げてくださると信じて前進したのです。その結果彼は85歳にもなっていましたが、本当にアナクの子孫を追い払うことができました。これぞイスラエルの模範であり、信仰に歩む私たちの模範でもあります。

しかし、彼がヘブロンからデビル、すなわちキルヤテ・セフィルに攻め上って行ったとき、ある限界に達していました。16節には、その際彼は、「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言っています。軍隊の将軍が、このように報償をぶら下げて、ある町を攻略する戦士を募るというのは古代オリエントでは良く見られた習慣でした。「デビル」という町は「至聖所」という意味です。すなわち、人間が入ることができない聖なる場所という意味です。従って、かなり堅固な要塞の町であったことがわかります。いわば「難攻不落」の町だったのです。それはこれまでの歴戦を信仰によって勝利してきたカレブでさえも攻めあぐねるほどの町だったのです。それで窮地に陥っていたカレブは、このように言って勇士を募ったのです。

これに対してカレブの同族ケナズの子オテニエルが名乗りを上げました。彼は次の士師記においてイスラエルの最初のさばきつかさとなる人です。その彼が見事にデビルを攻め取ったので、カレブは約束通りに娘のアクサを、彼に妻として与えました。これはカレブの信仰が良い意味で彼に伝染したということです。その模範にならったオテニエルは祝福を手にすることができました。

ところで、カレブの娘アクサがとつぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるようにしきりに促しました。新改訳第三版、口語訳、新共同訳では、夫のオテニエルが彼女をそそのかして、自分の父に畑を求めるように勧めたとあります。創造主訳聖書もそのように訳しています。英語の聖書では、NIVやKJVでは彼女が夫をそそのかしてとなっていますが、Today’s English Versionでは、オテニエルが彼女をそそのかしてと訳しています。この箇所の解釈は非常に難しいところです、同じことが士師記1章14節にもありますが、ここも意見が分かれています。そんなのどうでもいいじゃないかと思うかもしれませんが、それによって適用が異なるため、どう解釈するかはとても重要です。私は、第三版の訳を採用して適用したいと思います。するとこうなります。

すると、父のカレブが彼女に「あなたは何かほしいのか」と尋ねたので、彼女は「私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」と言ったので、カレブは、娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは、農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう人工的に造成された池のことです。恐らく、このため池を与えたのでしょう。泉を与えると言っても泉は自然のものですから、それをどこかに持っていくことはできません。娘の要求に対して過分とも思えるこの措置は、父カレブの言い知れない感動と喜びを表しています。いったいなぜカレブはこんなにも喜んだのでしょうか。それは娘の要求が実に理にかなったものであり、深い真理が隠されていたからです。このネゲブの地は乾燥した地域であり、畑の収穫のためより一層の水を必要とした地でした。つまりオテニエルが要求した「畑」とは収穫をするその場所そのもののことですが、それに対してアクサが求めたのは、その収穫をもたらすために必要な、より根源的なものでした。

これは私たちの信仰にとっても大切なことが教えられています。私たちはとかく表面的なもの、たとえば、クリスマスの時期になるとどんな飾りつけにして、何をするかといった表面的なことに関心が向きがちですが、もっと重要なのはより本質的なものです。それは祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしであるということです。私たちはまずそれを求め、そこに生きるものでなければなりません。それを優先していかなければならないのです。そうしていくなら、実際的な事柄や、現実的な事柄は必ず変えられていき、私たちのうちに神の御業が現われるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらいものになってしまいます。そして、人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになります。そのようにならないようにいつも信仰の本質的なもの、根源的なものを求めていかなければなりません。それが祈りとみことばです。また、そこから溢れ出る神のいのち、聖霊の臨在なのです。アクサはそれを求めたのです。それでカレブは非常に喜んだのです。私たちもこの神のいのちを求めるなら、神は喜んでそれを与えてくださいます。

Ⅲ.相続した町々(20-63)

最後に、ユダ族が相続した町々を見て終わりたいと思います。20~63節までをご覧ください。これはユダ族の相続地で、神がユダ族に与えられた町々がリストです。カナンの地で最も広い領域であったこの地に、ユダ族はどんどんと勢力を伸ばし、これらの町々を占領していきました。しかし、その中でただ一つだけ占領できない町がありました。どこですか?そうです。それは後のイスラエルの都、エルサレムです。そこにはエブス人がおり、ユダの人々は、このエブス人をエルサレムから追い払うことができませんでした。なぜでしょうか。10章では、イスラエル軍はこのエブス人の王アドニツェデク率いる連合軍を打ち破り、11章では、エブス人を含むパレスチナの連合軍を打ち破っています。また15章13~19節においては、カレブ率いるユダ族は、カナンの中で最も強力な力を誇っていたアナク人でさえも打ち破っています。あの巨人ゴリヤテは、このアナク人の子孫です。それにもかかわらず、それほど強くもないエブス人をなぜエルサレムから追い払うことができなかったのでしょうか。

それは、神があえてそうされなかったからです。つまり、神がエブス人に力を与えて、ユダの人々の敵対者として、わざわざそこに置かれたからなのです。私たちには理解を超えた、時として神は、このように私たちの身近にあえて敵対者を置かれることがあるのです。それは未熟な私たちを整え、成熟させるためです。私たちはこうした敵対者によってさらに訓練されて、その信仰をますます強められていくようになるのです。

それは人間ばかりでなく、植物などにも同じです。植物学者の宮脇明氏はその著書「植物と人間」において、このように言っています。「対立者あるいは障害物というものがなくなると、それは生物にとって最も危険な状態だ。敵対者がいなくなることは、その植物を休息に衰退に追いやることだ。」これは霊的にも言えることであって、自分に敵対してくる人の存在があってこそ、人は鍛えられ、強められ、さらに引き上げられていくのです。であれば、私たちもたとえ自分の思うように事が進まなくても、そこに依然として自分に敵対する人がいたとしても、それは自分の成長にとって欠かす事ができないことであると受け取る、感謝しなければなりません。

その後、このエブス人はどうなったでしょうか。これほどイスラエルを手こずらせ、その手の内に落とし得なかったエブス人でしたが、しかし実はダビデが天下を治めた時に、このエルサレムからあっけなく追い出されていきました。もう必要なくなったからです。ダビデの時代はイスラエルにとっての黄金時代であり、絶頂を極めた時でした。それはイスラエルがこのヨシュアの時代からこうした敵によって鍛えられ、成熟させられた結果であったとも言えます。しかし、イスラエルが天下を治めた時はもうその必要がなくなりました。彼らは強められ、神の御心にかなった成長を遂げることができたので、もはや敵対者を置く必要はなくなったからです。あれほど打ち破ることができない困難な敵であったにもかかわらず、イスラエルの黄金時代の幕開けと共に、彼らは滅んでいったのです。これらはすべて神がイスラエルのために計画されたことだったのです。

私たちの人生にも困難や苦難が置かれることがあります。また、私たちを悩ませる人々が置かれることがありますが、それらは私たち自身が練り鍛えられ、強くされ、神のみこころにかなったものに造り変えていただくための神の御業であることを覚え、そのことを信仰をもって謙虚に受け入れ、それらの苦難や困難から、また敵対してくる人々から学び、よく多くのものを習得していく者でありたいと思います。そうするなら、神は私たちをさらに引き上げてくださり、やがて時至ったならば、主ご自身がそうした困難や苦難を取り去ってくださり、私たちをさらに一段と飛躍した信仰者に成熟させてくださるのです。

ヨシュア記14章

きょうはヨシュア記14章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨセフの子孫マナセとエフライム(1-5)

 まず1~5節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らがカナンの地でゆずりとして受け継いだのは、次のとおりである。祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエルの子らの部族の一族のかしらたちは、その地を彼らに2 相続地としてくじで割り当てた。 主がモーセを通して、九部族と半部族について命じられたとおりである。3 二部族と半部族には、ヨルダンの川向こうにモーセがすでに相続地を与え、レビ人には彼らの間に相続地を与えていなかった。4 ヨセフの子孫はマナセとエフライムの二部族になっていたからである。また、レビ族には、住む町と所有する家畜の放牧地以外には、何の割り当て地も与えなかった。5 イスラエルの子らは主がモーセに命じられたとおりに行い、その地を相続地として割り当てた。」

前回は、ヨルダン川の東側の相続地の分割について見ました。今回は、ヨルダン川のこちら側、すなわち、西側における土地の分割のことが記録されてあります。まず1節から5節まではその前置きです。この作業に携わったのは祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア、それとイスラエル人の部族の一族のかしらたちでした。祭司エルアザルはアロンの第三子です。彼がこの作業に関わることはモーセの時代に主によって命じられていました(民数記34:17)。この祭司エルアザルと、ヨシュアと、イスラエルの部族のそれぞれの代表が集まってくじを引いて相続地を割り当てたのです。くじを引くというのは意外な感じのする方もいるかもしれませんが、これは主のみこころを伺う方法であり、この土地の分割を決定する方法として主が前もって指定しておられたものでした(民数記26:55)。箴言16章33節に、「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」とあるように、まさにこれこそ主が決められる方法だったのです。

それで、ヨルダン川のこちら側の土地、すなわち西側の土地は、主がモーセに命じたとおりに、9つの部族と半部族とにくじによって割り当てられたのです。ところで、イスラエルは12部族であるはずなのに、なぜ9つの部族と半部族とに割り当てられたのでしょうか。その理由が3節にあります。
「二部族と半部族には、ヨルダンの川向こうにモーセがすでに相続地を与え、レビ人には彼らの間に相続地を与えていなかった。」
ここまで読むと納得したかのように感じますが、よく考えると、イスラエルの部族は全部で12部族であり、そのうちの2部族と半部族には既に相続地を与え、それにレビ族はイスラエルの各地に散って礼拝生活を助けるため、自分たちの相続地は持たないということであれば、残りは9部族と半部族ではなく、8部族と半部族になります。それなのにここに9部族と半部族とあるのはどういうことなのでしょうか?その理由が4節にあります。「ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」
すなわち、ヨルダン川の向こう側が2部族と半部族に与えられ、レビ族は特別な待遇となって相続地を受けなかった分を、ヨセフ族がマナセとエフライムの二つの部族が相続地を受けたのです。なぜヨセフ族がこのような祝福を受けたのでしょうか。その経緯については創世記48章5節にあります。
「今、私がエジプトに来る前に、エジプトで生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子となる。」
この「あなたのふたりの子」の「あなた」とはヨセフのことです。ヤコブはその死を前にして、このヨセフの二人の息子マナセとエフライムに対して特別の祈りをささげ、二人の孫は単なる孫ではなく、自分の12人の子どもと同じように自分の子どもとなる、と宣言したのです。子どもであれば、親の相続を受けることになります。ですから、このヨセフの二人の息子は、他のヤコブの子どもと同じようにそれぞれ相続地を受けることになったのです。このことは、モーセがその死に際してこのヨセフ族に与えた特別の祝福を見てもわかります(申命記33:13~17)。いったいなぜ神は、これほどまでにヨセフを祝福したのでしょうか。

それは、あのヨセフが極めて高尚な生涯を送ったからです。ヨセフについては創世記37章から50章までのところに詳しく書かれてありますが、兄たちにねたまれてエジプトに売られ、そこで長い間奴隷として生活し、無実の罪で獄屋に入れられることがあっても兄たちを憎むことをせず、ついにはエジプトの第二の地位にまで上りつめました。それは、主が彼とともにいてくださったからです。ヨセフの生涯を見ると、彼には三つの優れた点がありました。第一に、彼はどんな苦難や悲運の中にあっても、決して神に呟かず、神に信頼し続け、そして神に従ったということです。第二に、彼はどんな誘惑にも屈せず、しかも自らを陥れた人々を訴えたりしなかったということ、そして第三に、彼は自分を奴隷として売り飛ばし、ひどい目に遭わせた兄たちに対して彼らを赦し、彼らを救ったということです。そのような信仰のゆえにヨセフは彼ばかりではなく、彼の子孫までもがその祝福を受けることになったのです。彼の子孫は、イスラエル12部族のうち2部族を占めたばかりでなく、その内の一つであるエフライムは非常に強力な部族となり、やがて旧約聖書においては、「北王国イスラエル」のことを、「エフライム」と呼ぶほどに、北王国10部族の中でも、最も優れた部族となっていきました。

このヨセフの生涯は、キリストの予表、型でした。キリストもご自分の民をその罪から救うためにこの世に来てくださったのに十字架に付けられて死なれました。キリストは、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください」と、自分を十字架につけた人たちのために祈られました。全く罪のない方が、私たちの罪の身代わりとなって自分のいのちをお捨てになられたのです。それゆえ、神はこの方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。

ということは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムが神から多くの祝福を受けたように、キリストを信じ神の子とされた私たちクリスチャンも、キリストのゆえに多くの祝福を受ける者となったということです。私たちは、キリストのゆえに、すばらしい身分と特権が与えられているのです。であれば、私たちはさらにこの主をあがめ、主に従い、主を賛美しつつ、キリストから与えられる祝福を受け継ぐ者となり、その祝福を、私たちの子孫にまで及ぼしていく者でなければなりません。

Ⅱ.主に従い通したカレブ(6-12)

次に6~12節をご覧ください。その地の割り当てにおいて、最初にヨシュアのところに近づいて来たのはユダ族です。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアにこのように言いました。6~12節までの内容です。「6 ユダ族の人々がギルガルのヨシュアのところにやって来た。その一人ケナズ人エフンネの子カレブがヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて神の人モーセに話されたことを、あなたはよくご存じのはずです。7 主のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。8 私とともに上って行った私の兄弟たちは民の心をくじきました。しかし私は、私の神、主に従い通しました。9 その日、モーセは誓いました。『あなたの足が踏む地は必ず、永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが私の神、主に従い通したからである。』10 ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。11 モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。12 今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」」

カレブとは、イスラエルがエジプトを出てシナイ山から約束の地に向かって旅をし、その入り口に当たるカデシュ・バルネアで、カナンの地を偵察するためにモーセが遣わした12人のスパイの一人です。モーセは、イスラエルの12部族のかしらにその地に入って偵察してくるように命じましたが、エフライム族のかしらがヨシュアで、ユダ族のかしらがこのカレブでした。カレブは今、その時のことを思い起こさせています。

当時、カレブは40歳でした。そしてそれから45年間という長い歳月をかけて、ヨシュアとともに民を指導してきました。このカレブの特徴は何かというと、8節にあるように、「主に従い通した」ということです。9節にもあります。彼はその生涯ずっと主に従い通しました。エジプトを出た時は40歳でした。あれから45年が経ち、今では85歳になっていましたが、彼はその間ずっと主に従い通したのです。そのように言える人はそう多くはありません。ずっと長い信仰生活を送ったという人はいるでしょうが、カレブのように、ずっと主に従い通したと言える人はそれほど多くはありません。私たちも彼のような信仰者になりたいですね。

そんなカレブの要求は何でしたか。12節を見ると、彼はヨシュアに、「どうか今、主があの日に約束されたこの山脈を私たちに与えてください。」ということでした。ずっと長い間主に従い通してきたカレブの実績からいっても、この要求はむしろ当然のことであり、決して無理なものではありませんでした。しかし、このカレブの要求には一つだけ問題がありました。何でしょうか。そうです、そこにはまだアナク人がおり、城壁のある大きな町々がたくさんあったということです。まだイスラエルの領地になっていなかったのです。ですから、彼がその地の割り当てを願うということは、生易しいことではありませんでした。彼はその地を占領するために強力なアナク人を打ち破り、その土地を奪い取らなければならなかったからです。それは自らに対する厳しい要求でもあったのです。

この問題に対して、カレブは何と言っているでしょうか。彼はこう言いました。12節の後半です。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」すごいですね、この時カレブは何歳でしたか?85歳です。でも、主が共にいてくだされば年齢なんて関係ない、必ず勝利することができると宣言したのです。11節を見ると、「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」と言っています。この時彼は何ですか?85歳です。普通なら、もう85です、そんな力はありません。若い時は良かったですよ、でも今はそんな力はありません・・、と言うでしょう。でもカレブは違います。今も壮健です。私の今の力は、あの時と同じです。ちっとも変っていません。まだまだ戦えます。問題ありません、そう言っているのです。強がりでしょうか?いいえ、違います。事実です。主がともにいてくだされば、主が約束されたように、彼らを追い払うことができます。私は弱くても、主は強いからです。これは事実です。こういうのを何というかというと、「信仰の目を持って見る」と言います。確かに人間的に見れば若くはないかもしれません。力もないでしょう。体力、気力、記憶力も衰えます。何もいいところがないかのように見えますが、しかし、信仰の目をもって見るなら、今でも壮健なのです。主がそのようにしてくださいますから、主が戦ってくださいますから、まだまだ戦うことができるのです。私たちもこのカレブのような信仰の目をもって歩みたいですね。

カレブはこの時だけでなく、若い時からそうでした。あのカデシュ・バネアからスパイとして遣わされた時も、他の10人のスパイは、「カナンの地は乳と密の流れる大変すばらしい地です。しかしあそこには強力な軍隊がいて、とても上っていくことなんてできません。そんなことをしようものなら、たちまちのうちにやられてしまうでしょう。」とヨシュアに報告したのに対して、彼はそうではありませんでした。彼はヨシュアとともに立ち、こう言いました。「いやそうではない。我々には主なる神がついている。だから私たちが信仰と勇気を持って戦うなら、かならずそれを占領することができる。」(民数記13:30)
12人のスパイの内、10人の者たちは目の前の現実に対して、人間的な計算と考えの中でしか物事を捉えることができず、肉の思いで状況を判断しましたが、ヨシュアとカレブは信仰の目を持って神の可能性を信じ、主によって道は開かれると確信し、その状況を判断したのです。その結果、主はこの信仰によって判断した2人を大いに祝福し、この2人が約束の地カナンに入ることを許し、信仰の目を持たなかった他の10人の者たちは、カナンの地に入ることができませんでした(民数記14:30)。

私たちは、現実的な消極主義者にならないで、信仰的な積極主義者にならなければなりません。神のみこころが何かを求め、それがみこころならば、人間的に見てたとえ不可能なことのように見えても、神の可能性に賭け、神のみこころを果たしていかなければなりません。現実を見るなら、確かにそれは困難であり不可能に思えるかもしれませんが、しかし、私たちの信じる神は全能の神、この天地宇宙を統べ治めておられる偉大な方なのです。私たちはこの主により頼み、さらに信仰の目をもって、積極的にありとあらゆる事柄に雄々しく立ち向かっていかなければなりません。

かつて、私が福島で牧会していた時、会堂建設に取り組んだことがあります。それは人間的に見たら全く不可能なことでした。その土地は市街化調整区域といって、建物が立てられない場所であり、福島県ではそれまで宗教法人が市街化調整区域に開発許可を得た例は一度もありませんでした。さらに、建築資金もありませんでした。銀行からの融資も制限されていました。どうみても人間的には全く不可能でした。しかし、主が私たちとともにいてくださったので、その一つ一つの壁を乗り越えることができ、立派な会堂を建ててくださいました。この会堂建設を通して私が学んだことは、会堂は資金があれば建つのではなく、信仰によって建つということです。それが神のみこころならば、神がともにいてくださるなら、たとえ人間的には不可能に見えても、神が建ててくださるのです。神がともにいてくださるなら不可能なことはありません。

今、私たちの前には同じような問題が横たわっています。私たちは2025年までに7つの教会を生み出すというビジョンが与えられそれに向かって前進していますが、霊的不毛の地であるかのようなこの地でそれを実現していくことは困難であるかのように見えます。しかし、カレブのように主がともにいてくだされば、主が約束されたように、私たちは彼らを追い払うことができましょうと言ったように、私たちもそのように言うことができるのです。

聞いたことがあるかと思いますが、一つの有名な逸話があります。アフリカの新興国に、アメリカから二人の靴製造会社の社員が調査のため派遣されました。この二人の社員は、そのアフリカの新興国を訪れた時に、国民がまだ靴を履いていないという現実に見て、本国に電報を送り、それぞれ違う報告をしました。一人の社員は、「この国の住民は靴を履かない。だから市場開拓は不可能だ」。しかしもう一人の社員はこう打電しました。「この国の住民は靴を履かない。だから大いに可能性あり。」と。

またかつて日本の伝道が非常に困難だと嘆いていた一人の牧師がいました。彼は韓国を訪れた時、韓国の牧師たちの前で、そのことを嘆いてこう言いました。「日本はこのような状況です。日本の伝道はとても難しいです。しかし韓国はいいですね。」
しかしそれに対して韓国の一人の牧師はこう言いました。「いいえ韓国では教会がもうどこへ行ってもあります。飽和状態です。私たちが見るならば、むしろ日本が羨ましい。日本では、いくらでもその可能性が広がっているのですから。」

私たちはどちらの人でしょうか。現実の困難を見て嘆き、「もうだめだ」と悲観的になるでしょうか。それとも、むしろ現実がそのような状況だからこそ神の助けを求めてこの現状を打ち破り、神の御業がなされることを求めて祈る人でしょうか。カレブのように正しい信仰を確立し、神の偉大な御力に信頼して、みこころを行っていく者となりたいと思います。

Ⅲ.主に従い通したカレブ(13-15)

最後に、その結果を見て終わりたいと思います。その結果どうなったでしょうか。13~15節までをご覧ください。「13 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。14 このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。
14:15 ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。これは、アルバがアナク人の中の最も偉大な人物であったことによる。こうして、その地に戦争はやんだ。」

ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。ヘブロンはかつてアブラハムが住んでいた場所であり、アブラハムが死んだサラを葬るために購入した土地があるところです。主がアブラハムに現われてくださったところです。そこは、以前はキルヤテ・アルバと呼ばれていました。「アルバ」というのは、アナク人の中の最も偉大な人物でしたが、敵がどんなに偉大な人物であったとしても、主の前にも風が吹けば飛んでいくもみがらにすぎません。主はどんな敵をも追い払ってくださいます。カレブはその地を求めたのです。

こうして、ヘブロンはカレブの相続地となりました。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからです。私たちも、主がともにいてくださることを信じ、主が約束したことを、信仰によって勝ち取っていく者でありたいと思います。

 

主は生きておられる エレミヤ書16章1~21節主は生きておられる 

聖書箇所:エレミヤ書16章1~21節(エレミヤ書講解説教34回目)
タイトル:「主は生きておられる」
きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。
Ⅰ.主を捨てたイスラエル(1-13)
 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」
何のことを言っているのか訳の分からないような内容です。私たちは、13章で、主がエレミヤに亜麻布の帯を買ってそれを腰に締めるように、そして、その帯をユーフラテス川の岩の割れ目に隠しておくようにと命じたことを学びました。覚えていらっしゃいますか。エレミヤがその通りにすると、その帯はどうなりましたか。腐ってボロボロになりました。ボロボロの帯です。それはイスラエルの姿を現わしていました。エレミヤはそれを自分の行動をもって現わしたのです。これを行動預言と言います。きょうの箇所でもエレミヤは行動を通して語るように命じられています。ここでエレミヤは三つのことを命じられました。
第一のことは、妻をめとるな、ということです。2節にあります。「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」どういうことでしょうか。結婚するなということです。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、星の数のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主はエレミヤに「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われました。どうしてでしょうか。
その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。具体的には、バビロンがやって来て略奪するとき、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになります。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。
第二に、主がエレミヤに言われたのは、弔いの家に入ってはならない、悼みに行ってはならない、ということでした。つまり、葬式に参列してはならないと言われたのです。5節にこうあります。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」
葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。そのそばきによる死がありにも多すぎて、彼らの死を悲しむ者がだれもいなくなるのです。
第三に、神はエレミヤに結婚式などの祝宴に出るなと言われました。9節です。「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。
いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。
日本語のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味です。これは、日本は八百万の神、神道の国だからこそ存在することわざと言えるでしょう。あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。でも実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の方が八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなく何のメリットもなければ捨ててしまうのです。
エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様のご都合によってあしらわれるわけですから。
でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚によって、またバビロン捕囚によって実現することになります。
主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。これ以上の害はありません。南王国ユダの人たちは、これを、身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。
それは具体的には律法を守られないこと、主のみことばを守らないことです。主のみことばに従わないことです。主を捨てるとは、すなわち、主のみことばに従わないことなのです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代のユダの民だけの問題ではありません。これは私たちにも問われていることです。というのは、私たちは主のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。
12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章1~9節にあるので後で確認していただけたらと思いますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりも悪事を働いていたのです。もう手のつけようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主に聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになり、主を捨てることになりました。主のみことばに聞き従いたくないのも、問題はこの心が頑なだったからです。だから、パウロはローマのクリスチャンたちに何と勧めたかというと、この思いを一新しなさいと言いました。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」「思いを一新すること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。
あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。
Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)
次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
エレミヤはこれまで行動預言を通して南ユダの真っ暗な闇を預言してきましたが、ここで希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、希望的未来預言を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。バビロンから帰還させられる時です。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜ?なぜなら、そのときは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事でした。イスラエルの民は400年もの間エジプトの奴隷して捉えられていましたが、主はそこから彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトの出来事です。すばらしい主の救い、解放の御業を成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
しかし、これから主が成そうとしていることは、その過去の偉大な出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業なのです。15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」          「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそのバビロンから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるというのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。彼らは「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
ですから、これはバビロンからの帰還の約束が希望として語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえ色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトと言えるでしょう。でも新約時代に生きる私たちにとっては。それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放を知っているからです。これこそ真の第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、第二の出エジプトと言ってもいいこのバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎないからです。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。
しかし、エレミヤの時代においては、出エジプトの出来事はすごいことでした。偉大な出来事だったのです。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れ、民は「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられることで、あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられるのです。今あなたを生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。
皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることかできます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。あの出エジプトの出来事よりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちの希望です。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのは希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。確かに希望はあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いということです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。
しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」
神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。その様が、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復の希望があります。神のあわれみは尽きることはないのです。
Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)
最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」
これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民の回復が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人を指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦の民が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。
日本人であれば、父祖から受け継いだものに仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家には檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになりました。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係なく、先祖たちから受け継いだものにすぎません。形だけです。しかも「仏様」はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことです。ですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。
エレミヤの時代、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき事実を知り、真の神を求めるようになります。
イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロン捕囚の民となりました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。
そして今度は、それを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神は生きておられる。自分たちの偶像はこの神と比べたら何の役にも立たないただの造形物にすぎない。しかしイスラエルの神はそうではない。祖国を失ったイスラエルをバビロンから解放し、彼らの土地に帰らせてくださった。これは神にしかできないこと。まさに神業です。イスラエルの主は生きておられる、と認めたのです。皆さん、これが生きた証です。
主はあなたを通してこのような生きた証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、と思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださいます。その苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。
有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあったように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださる。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イスラエルの主はまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。
主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

ヨシュア記13

2023年4月26日(水)バイブルカフェ

きょうはヨシュア記13章から学びたいと思います。

 Ⅰ.まだ占領すべき地がたくさん残っている(1-7)

 まず1節から7節までをご覧ください。「1 ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。2 残っている地は次のとおりである。ペリシテ人の全地域、ゲシュル人の全土。3 エジプトの東のシホルから、北は、カナン人のものと見なされているエクロンの国境まで、すなわち、ペリシテ人の五人の領主が支配する、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地と、南のアビム人の地。4 カナン人の全土とシドン人のメアラ、アモリ人の国境のアフェクまでの地。5 ゲバル人の地と、ヘルモン山のふもとのバアル・ガドからレボ・ハマテまでの、レバノンの日の昇る方の全域。6 レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地の全住民、すなわちすべてのシドン人。わたしは彼らをイスラエルの子らの前から追い払う。わたしがあなたに命じたとおり、あなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。7 今、この地を九部族とマナセの半部族に相続地として割り当てよ。」」

ヨシュアは、モーセの後継者としてカナン征服という神の使命のために走り抜いてきましたが、そのヨシュアも年を重ねて老人になりました。モーセの従者として40年、そしてモーセの後継者としてイスラエルの民を導いて20年、エジプトを出た時は30歳くらいの若者だったヨシュアも、すでに90歳を越える老人になっていました。それほど主に仕えてきたのですからもう十分でしょう。ゆっくり休ませてあげるのかと思いきや、主はヨシュアにこう仰せられました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」
まだまだ占領すべき地がたくさん残っているので、その地を占領するようにと。神が与えた使命に向かって前進するようにと言われたのです。

その残っている地は2~7節までにあるように、南は海岸地域のペリシテ人が住んでいるガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地等、北はヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部です。こうやってみると、まだかなりの地が残っていることがわかります。その地を占領し、主が彼らに命じたとおりに、その地を九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てるようにと言われたのです。

人間的に考えるならば、何とも酷なように感じるかもしれませんが、実は、年を重ねても、神の使命のために働き続けるようにという神の言葉の中にこそ、神の深い愛が溢れているのです。というのは、人間にとって幸福とは、至れり尽くせりの世話をし、何もしないで休息のみを与えられることではないからです。それは老人になっても同じで、自分で好きなことをしていることが必ずしも幸せなことではありません。むしろ老年期こそ素晴らしい可能性に満ちた時代であり、その時こそ主のために仕える最高の時でもあるのです。

上智大学のアルフォンス・デーケンという教授が「第三の人生」という本を書いておられますが、デーケン教授はその本の中でこのように言っています。それは「人間が一生涯で発揮する力は、その持っている力のたかだか10%程度にすぎず、残りの90%は眠ったままで使われずにほとんどの人がその一生を終えていきますが、この老年期こそその90%の部分に手がつけられ、大いなる可能性が開花する時です。というのは、若い時にはどうしても自分の意識的な働き、自我が全面的に出てしまうためこの力を発揮することができにくいが、老人になると、体力が失われ、自分の限界に気づくようになるので、そうした無意識の部分が開発されやすくなるのです。しかも若い時には、どうしても自分の願望や欲望に振り回されて、ほんとうに大切な事柄に集中できない傾向がありますが、老年期においては、大切な事柄に集中して取り組むことができるゆとりが生まれるのです。更に、若い時にはどうしても自分の力により頼みがちになるために、ほんとうの意味で神に信頼することができにくいが、しかし、自分の力の限界をわきまえるようになる老年期には、真実な神への信頼や、ゆだねることが可能になるのです。かくして老年期に近づくほど、残された90%へのチャレンジの道が開かれてくるのです。」皆さんはどう思いますか?

聖書を見ると、確かに神はご自身の御心を遂行するにあたり、度々老人を召し出されていることがわかります。たとえば、モーセがイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地へ彼らを導くように召されたのは80歳の時でした。また、アブラハムも75歳の時に、約束の地へ出で行くようにとの召しを受けました。神は老人に大きな使命を与え、そのために用いておられるのです。そして、その召しを受けた老人たちは驚くべき力を発揮して、その使命を遂行しました。

このように、老年期は大きな可能性を秘めた時期でもあるのです。ですから、年を重ねて老人になったと悲観的に捉えるのではなく、年を重ねて老人になった今こそ、今までできなかったことができる大きな可能性に満ちた時と信じて、その使命の実現に向かって前進していかなければなりません。

私たちが神から与えられている約束はたくさんあります。その与えられた約束を自分のものにするに、信仰によってその一歩を踏み出さなければならないのです。ヨシュアは年を重ねて老人になりましたが、彼には占領すべき地がたくさん残されていました。私たちも占領すべき地がまだまだ残されています。何歳になっても、その神が約束された残された地を、信仰によって相続していきましょう。

 Ⅱ.モーセが与えた相続地(8-14)

次に8~14節までをご覧ください。「8 ルベン人とガド人はマナセの残りの半部族と並んで、ヨルダンの川向こうである東側で、モーセが自分たちに与えた相続地を受け取っていた。主のしもべモーセが彼らに与えたとおりである。9 アルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷にある町、またディボンまでのメデバの全台地、10 ヘシュボンで王であったアモリ人の王シホンの、アンモン人との国境までのすべての町、11 ギルアデ、ゲシュル人とマアカ人の領土、ヘルモン山全域、サルカまでのバシャン全域、12 アシュタロテとエデレイで王であった、バシャンのオグの王国全域。オグはレファイムの生き残りであった。モーセは彼らを討ち、追い払った。13 しかし、イスラエルの子らは、ゲシュル人とマアカ人を追い払わなかったので、ゲシュルとマアカはイスラエルのただ中に住んだ。今日もそうである。14 モーセは相続地をレビ部族だけには与えなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への食物のささげ物こそが彼らへのゆずりの分である。」

8節に「ルベン人とガド人はマナセの残りの半部族と並んで、ヨルダンの川向こうである東側で、モーセが自分たちに与えた相続地を受け取っていた。主のしもべモーセが彼らに与えたとおりである。」とあるように、ここには、ヨルダン川の向こう側、すなわち東側のほうで、モーセがマナセの半部族とともにルベン人とガド人に与えた相続地について記されてあります。モーセは、ヨルダン川の向こう側にいたエモリ人の王シホンと、またゴラン高原であるバシャンのオグの王国を打ち、彼らを追い払い、そこを彼らに相続地として与えました。しかし、13節をご覧いただくとわかりますが、ゲシュル人とマアカ人とを追い払いませんでした。それでどうなったかというと、彼らはイスラエルの中に住むようになったのです。

Ⅱサムエル13章37~38節をお開きください。そこには、ダビデの息子アブシャロムが王の怒りを買った時、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げたことが記されてあります。なぜゲシュルに逃げたのか?ダビデの妻の一人がゲシュル人だったからです。また、Ⅱサムエル20章14~15節には、ダビデに謀反を起こしたシェバも、マアカ人の住むところに逃げていたことがわかります。
このように、イスラエルにとって、この時彼らを追い払わなかったことが、後で悩みの種になっていることがわかります。イスラエルは相続地が与えられたのに、主の命令に従ってすべての敵を追い払うことをせず、一部の住民をそこに住むことを許したことで、自らに悩みを招くことをしたのです。

それは、自分の肉を追い払わないでそのままにしておくと、信仰に死を招くことになるということを示しています。ガラテヤ5章24~25節には、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。また、コロサイ3章8節には、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。」とあります。自分の肉は改善してよくなるものではないので、殺してしまいなさい、と命令されているのです。ぼろ雑巾はいくら洗濯しても、真っ白にはならないので捨てるほかないように、神は私たちの肉という「ぼろ雑巾」を洗って下さるのではなく、キリストの十字架によってきっぱりと捨て去り、全く新しい心、新しい霊を与えて下さるのです。この肉が対処されていないと、ある時は喜んで「ハレルヤ」と叫び、舞い上がっていても、翌日になると、些細なことで苛立ったり、気がくじかれたりして、喜べなくなってしまうことになります。エルサレムに入城したイエス様を迎えた群衆も、初めは「ホサナ。ホサナ。」と叫んでイエス様を歓迎しましたが、数日後には、一変して「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫んでしまいました。これがみじめな人間の肉の姿なのです。キリストはこのような「肉」を殺し、「新しいいのち」に生かすために十字架にかかって死んで下さいました。ですから、私たちは信仰によって肉を捨て去り、キリストのいのち、聖霊の恵みに生かされていかなければなりません。信仰に、妥協は禁物なのです。多少残しておいても、さほど問題ではないという思いが、後で大きな問題へと発展していくのです。

ところで、14節には、「ただレビの部族だけには、相続地が与えられなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった。」とあります。このことは、33節にも言及があります。
このレビ人の相続地については21章に詳しく記されてありますが、彼らには相続地はなく、住むべき町々と、家畜のために放牧地とが与えられました。なぜでしょうか。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地だったからです。つまり、彼らは他のイスラエル人が携えてくるいけにえの分け前を受け取ることによって、生活が支えられていたということです。33節には、「主が彼らの相続地」であったとあります。つまり、神そのものが彼らの受け継ぐべき相続地であったというのです。どういうことでしょうか。レビ人は他のイスラエル人のように見える形での相続地よりも、神ご自身によってもたらされる圧倒的な主の臨在、主の栄光を受けるということです。それは、主への礼拝の奉仕に専念できるということです。この世の仕事ではなく主の仕事に直接携わり、主に集中して生きることができる。しかも、この世の生活もちゃんと保証されているのです。これほどすばらしい相続はありません。レビ族はそのすばらしい相続を受けるのです。

一体、レビ族とはどういう部族なのでしょうか。出エジプト記32章を開いてください。あの40年の荒野の時代に、イスラエルの民はしばしば不信仰に陥りました。真実な神をないがしろにし、偶像崇拝に陥る時もありました。このエジプト記32章には、その時の出来事が記されてあります。モーセが神に祈るためにシナイ山に上って行ったとき、イスラエルの民はモーセがなかなか戻って来ないのに嫌気がさし、先だって行く神を造ってくれと、金の子牛を造って拝みました。それを見たモーセは怒りを燃やし、宿営の入口に立って、こう言いました。「だれでも、主につく者は、私のところに」、するとこのレビ族がみな、彼のところに集まったのです。そして、宿営の中を行き巡り、偶像崇拝をしている者を殺したのです。レビ族は、モーセのことばどおりに行いました。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れました(出エジプト記32:26~28)。つまり、この時レビ族だけは主に対する忠実さを失わず、モーセの教えを守り、その指導に従って、堕落していった人々を粛正していったのです。これがレビ族です。そしてこの時、モーセはこれを非常に喜び、彼らは以後神の祝福を得、祭司を始めとする主の聖なる務めにあずかる群れとして、引き上げていったのです。イスラエル12部族の中で、このレビ族はその信仰のゆえに、神に直接仕えるという仕事を専門にするようになったのです。

ゆえにこのレビ族は「聖なる部族」なのです。彼らは神に直接仕える仕事に与ったため、他の部族のように生産活動というものをしませんでした。それに対して、残りの十一の部族は生産活動を行い、それによって得た農産物、あるいは家畜の十分の一を神に献げました。そしてその十一部族の献げ物によってレビ族は養われていったのです。とすれば、単純に計算すると、レビ族は他の部族よりも豊かであったということになります。他の部族は1割を神に献げ、残りの九割で生活しましたが、レビ族は十一部族分、すなわち十一分が与えられていたことになります。しかし、その領地の分配ということにおいては、彼らは何の割り当て地も受けませんでした。

いったいなぜレビ族には相続地が与えられなかったのでしょうか。それは主が彼らの相続地であったからです。つまり、神がすべてを与え、満たしてくださるからです。この世の物によって養われるのではなく、主なる神の御手によってのみ養われなければならないという意味です。ですから、神の業に直接携わる者は、神からのみ養われるという姿勢が求められるのであって、この世の仕事に心を動かされたり、手を染めるようなことがあってはならないのです。ただ神様を仰ぎ求め、神様からその糧を得ていくべきなのです。確かに、パウロは生活の糧が得られなかった時にテントメーカーとして働きましたが、それは必ずしも正しいことであったというよりも、そのような必要があったからです。パウロがそのようにしたのは、あくまでも献金について理解していなかった人をつまずかせることがないようにという配慮からだったのです。働き人がその報酬を得るのは当然のことなのです(Ⅰコリント9:10)。神の業に携わる人に求められるのは、レビ人がその務めに専念したように、もっぱら神の働きに集中することなのです。

であれば、イスラエルの残りの十一の部族の心構えも大切です。レビ族以外の部族は収穫の十分の一を捧げて、レビ族の生活を豊かに支えました。従って同じように信徒は喜んで十分の一を捧げ、主の働きに携わっている人々を支えていかなければなりません。このルベン、マナセなどの十一部族が十分の一を献げてレビ族を養ったように、真剣に主に献げて主の働き人を支えていかなければならないのです。なぜなら、その献げるということは単にお金や物を献げるというだけでなく、自分自身を主に献げるという行為だからです。つまり、自分自身を主に差し出す「献身」ということなのです。だとしたら、私たちは喜んで精一杯の献げ物、できれば十分の一の献げ物を持って主に御前に出て行くべきではないでしょうか。そして喜んで主の前に献身しようではありませんか。

Ⅲ.ルベンの半部族、ガド族、マナセの半部族に与えられた相続地(15-33)

次に、15~23節までをご覧ください。「15 モーセは、ルベン部族の諸氏族に相続地を与えた。16 彼らの地域は、アルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷にある町、またメデバの全台地、17 ヘシュボンと、台地にあるすべての町、ディボン、バモテ・バアル、ベテ・バアル・メオン、18 ヤハツ、ケデモテ、メファアテ、19 キルヤタイム、シブマ、谷間の丘にあるツェレテ・ハ・シャハル、20 ベテ・ペオル、ピスガの傾斜地、ベテ・ハ・エシモテ、21 台地のすべての町、ヘシュボンで王であったアモリ人の王シホンの全王国。モーセはシホンと、その地に住む、シホンの首長であったミディアンの君主たち、すなわち、エウィ、レケム、ツル、フル、レバを討った。22 これらの刺し殺された者に加えて、ベオルの子、占い師バラムをイスラエルの子らは剣で殺した。23 ルベン族の地域は、ヨルダン川とその地域である。これがルベン族の諸氏族の相続地で、その町々とそれらの村々である。」

ここには、モーセがルベンの半部族に与えた相続地について言及されています。彼らは、ちょうど死海の東側、モーセが最後に上ったネボ山があるところに割り当てられました。
ところで、22節には、「イスラエル人は、これらを殺したほか、ベオルの子、占い師のバラムをも剣で殺した。」とあります。ここでわざわざ、ベオルの子、占い師のバラムのことが言及されています。この占い師バラムについては、民数記22章に登場しますが、イスラエルを呪うためにモアブの王であったバラクから雇われた人物です。しかし、彼はイスラエルを呪うどころかイスラエルを祝福してしまいました。そこまではよかったのですが、ついつい金に目がくらみ、モアブの王バラクに助言して、イスラエルの宿営にモアブの娘を起こり込ませてしまいました。その結果、イスラエルの民はモアブの娘たちとみだらなことをし、娘たちの神々バアル・ペオルを慕い、それを拝んでしまいました(民数記25:1-2)。それで主の燃える怒りが彼らに臨み、そのバアル・ペオルを拝んだイスラエルの民の2万4千人が神罰で死んだのです。ほんとうに恐ろしい事件でした。その事件を招いたのがこのバラムだったのです。彼は、金によって盲目になってしまいました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とパウロは言いましたが、こうした貪りは、神の厳しいさばきを招くことになるのです。

23節には、「ルベン人の地域は、ヨルダン川とその地域であった。これはルベン族の諸氏族の相続地であり、その町々と村々であった。」とあります。ご存知のように、ルベンはヤコブの最初の子どもです。長子は二倍の分け前を受け取ることになっていますが、彼はヤコブのそばめビルハと寝たために、その祝福を失ってしまいました。創世記49章4節には、父ヤコブが死ぬ前に子どもたちを祝福した際、ヤコブはルベンに対して、「あなたは他をしのぐことはない。」(創世49:4)と預言しましたが、そのとおりに、ルベン族ではなく、ヨセフ族がマナセとエフライムの二部族によって、二倍の分け前を受けました。

次に、24~28節までをご覧ください。「24 モーセは、ガド部族、すなわちガド族の諸氏族に相続地を与えた。25 彼らの地域はヤゼル、ギルアデのすべての町、アンモン人の地の半分で、ラバに面するアロエルまで、26 ヘシュボンからラマテ・ハ・ミツパとベトニムまで、マハナイムからデビルの国境まで。27 谷間ではベテ・ハ・ラム、ベテ・ニムラ、スコテ、ツァフォン。ヘシュボンの王シホンの王国の残りの地、すなわち、ヨルダン川とその地域では、ヨルダンの川向こう、東の方、キネレテ湖の端まで。28 これがガド族の諸氏族の相続地で、その町々と村々である。」

ここには、ガド族に与えられた相続地について記されてあります。彼らに与えられた地域は、ヤゼルとギルアデのすべての町々、アモン人の地の半分で、ラバに面するアロエルまでの地、ヘシュボンからラマテ・ハツミバドとベトニムデまで、マナハイムからデビルの国境まで。谷の中ではベテ・ハ・ラムと、ベテ・ニムラと、スコテと、ツァフォン。ヘシュボンの王の王国の残りの地、ヨルダン川とその地域でヨルダン川の向こう側、東のほうで、キネレテ湖の端まででした。巻末の地図「12部族に分割されたカナン」を見ていただくと一目瞭然です。

最後に、29~33節までをご覧ください。「29 モーセは、マナセの半部族に相続地を与えた。それはマナセの半部族の諸氏族に属する。30 彼らの地域はマハナイムからバシャン全域、バシャンの王オグの全王国、バシャンのハボテ・ヤイル全域にある六十の町、31 ギルアデの半分、バシャンのオグの王国の町アシュタロテとエデレイ。これらは、マナセの子マキルの子孫、すなわち、マキル族の半分の諸氏族に属する。32 これらは、ヨルダンの川向こう、エリコの東側にあるモアブの草原で、モーセが割り当てた相続地である。33 レビ部族にはモーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおり、イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。」

ここには、マナセの半部族に与えられた相続地について記されてあります。マナセの半部族は、ガド族のさらに北の地域、バシャンの土地を得ました。そして、32節と33節には、モーセがヨルダンの向こう側、東のほうのモアブの草原で、彼らに与えた相続地の総括が述べられています。

このように、ヨシュアが割り当てをする前に、すでにモーセによってルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族に、割り当て地が与えられていました。なぜ彼らにだけ与えられていたのでしょうか。思い出してください。そこは肥沃な地で、家畜を放牧するのに適していたので、彼らはぜひともそこが欲しいとモーセに要求したからです。すなわち、それは主によって命じられたからではなく、彼らの欲望から出た一方的な要求だったのです。

そのような人間の思いから出たことは、結局、その身に滅びを招くことになります。これらの地域はモアブ人やアモン人、アラム人などの外敵に常にさらされることになり、ついにはアッシリヤによって最も早く滅ぼされてしまうことになります。そして完全に異邦人化されてしまうのです。どんなに人間の目で見た目には良くても、神の判断を待たないと、破滅にもっとも近いところになってしまうということでしょう。アブラハムの甥のロトもそうでした。彼が選択した地は人の目にとても潤っていたかのように見えたソドムとゴモラの近くでしたが、そこはやがて神によって滅ぼされてしまいました。

ここから学ぶ教訓は何でしょうか?それは、たとえそれが人の目でどんなに肥沃で潤っているような地でも、神が導いてくださるところでなければ、それは空しいということです。
「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:6)
この信仰によって、ますます主に拠り頼み、主が与えてくださる地を、心から待ち望むものでありたいと思います。

 

堅固な青銅の城壁とする エレミヤ書15章15~21節堅固な青銅の城壁とする 


聖書箇所:エレミヤ書15章15~21節(エレミヤ書講解説教33回目)
タイトル:「堅固な青銅の城壁とする」
きょうは、エレミヤ書15章後半から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節に「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」とあります。
前回のところでエレミヤは自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔したほどでした。それはエルサレムの滅亡という極めて残酷で悲惨な預言を、ユダの民に語らなければならなかったからです。そして、それを語ったとき国中が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。
それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
アーメン!すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。主は必ず彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。
しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。ここで彼は再び神に不平をもらしています。それが15~18節の内容ですが、それに対する神の答えが、この「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」ということでした。
 私たちはクリスチャンになって予期せぬ出来事、試練に直面すると、「主よ、どうしてですか」と問いかけたくなることがあります。きょうの個所で、エレミヤはまさにそのような気分になっていました。そして神を疑い、神に不平をもたらしたのです。しかし神はそんなエレミヤを受け入れ、ご自身のもとに帰らせ、この約束のことばを与えてくださったのです。きょうは、この主の約束のことばから、共に主の励ましと慰めを受けたいと思います。
Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

 まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」
これは、エレミヤの祈りです。この祈りも実に正直で、ストレートな祈りです。自分の感情を露わにして、言葉で飾るようなことはしていません。自分の思いの丈をぶつけるような祈りです。
15節には、あなたのために私はそしりを受けていますと言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えています。
16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したのです。そしたら、それは彼にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。皆さんも体験しているでしょう。神のみことばが、楽しみとなり、喜びとなります。リビングバイブルでは「有頂天となった」と意訳していますが、そういう意味です。原語では、「心の喜びとなり」は、飛んで、跳ねて、踊って喜ぶというエキサイティングな喜びの様を表していますから。みことばを食べたそのあまりの美味しさに、そしてそれが自分の身になって、それによって生きることがあまりにも楽しくて、もう小躍りするくらいエキサイティングな人生だというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。
でもそれは患難や苦難や試練が無くなるということではありません。神のみことばを食べて、それを楽しみ、小躍りして喜んでも、患難や苦難、試練があなたを襲うことがあります。人々から疎(うと)まれたり、バカにされたり、憎まれたり、蔑まれたりすることが。でも違うのは、そのような中に置かれても、みことばがあなたを支えてくれるということです。エレミヤは神のみことばによって支えられていました。彼が神のみことばを食べて、喜んで、心の楽しみを味わっていなければ、簡単に潰れていたでしょう。
それは私たちにも言えることです。みことばを食べて、みことばを味わい、みことばを楽しみ、みことばを心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!教会に行くのを止めます!クリスチャン止めます!人生止めます!となってしまいます。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいものでした。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは、イエス様のみことば、神のみことばです。イエス様のことばを聞いて、それを食べ、それを楽しみ、それを喜ぶ人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることはありません。
それでも、エレミヤは傷ついていました。主のみことばを食べ、それを楽しみ喜んでも、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言います。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
これはどういうことかというと、「あなたは噓つきだ!」ということです。エレミヤは神様に対して、あなたは嘘つきじゃないですか。なぜ私はこんな目に遭わなければならないのですか。あなたは約束されたじゃないですか。あなたはいのちの水の泉だと。でもあなたに頼っても、欺く小川の流れじゃないですか。この「小川」とは、ワディと言われる水なし川のことです。この川は、雨季は氾濫することがありますが、乾季は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういうことです。あるようでない。あるように見せかけて実際にはありません。エレミヤは、神をこの当てにならない小川にたとえたのです。当てになるいのちの水の泉だと思ったのに、何の役にも立たないじゃないですか。祈っても答えてくれない。何にも変わらない。全くの期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきだ」なんて。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼にもなっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いの丈を正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信頼し続けていていいんですかと。私たちもこのようなことがあります。祈っても、祈っても答えられないとき、落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることが。でもエレミヤのようにそれを正直に、ストレートに神に訴えることがなかなかできません。隠してしまいます。もう相手を赦せない、憤りや怒りでいっぱいなのに、それを押し殺して、敬虔に祈らなければならないと思っているのです。
「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛めています。このような目に遭って非常に苦しんでいます。でも、私は何としてもあなたのみことばに従ってあの人を赦し、あの人を愛し、あの人のために祈りたいと願っています。主よ、どうか、あなたの力を与えてください。あなたの聖霊を注いでください。アーメン」
すばらしい祈りだと思います。でも本音はどうかというと、憎らしいのです。赦せないのです。ムカついてムカついてしょうがないのです。それなのに、時に私たちは心にないことを言ってしまうことがあります。それを何というかというと「偽善」と言います。偽善的にはなりたくないと思っていますが、でも自分を騙して、自分を欺いて美辞麗句を並べ、いかにも敬虔なふりをしていることがあるのです。でも内心はもう腹が立って、赦す気などみじんもありません。でも一応クリスチャンだから、そう祈っておかないといけないから、表面的に祈るわけです。でもそれは口先だけの祈りにすぎません。ただきれいな言葉を並べているだけです。でも神様はあなたの心の中を全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はないのです。あなたの正直な気持ちを神様にぶつけていいんです。なかなか祈れないという人は、正直になっていないからです。何かいいことを言わなければならないと思っているのです。なんか高尚なこと、霊的なこと、敬虔なことを祈らなければならないと思っています。聖書的な言葉使いをしなければならないと思っている。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。他の人の前でも、そんな感情を露わになんてできないので自分の本音で祈れないのです。だから、祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。なかなか正直になれなくて、偽りのもう一人の自分が祈っているかのような、そんな二重人格の感覚さえ抱いてしまうのです。でも、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりなんてする必要がありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に神様にぶつけていいのです。
1993年と2000年に、私は韓国に行く機会がありました。韓国の教会では、こういう祈りが多かったと思います。当時ホーリネス系の教会では世界で一番大きいと言われていたソウルにある光林教会では大きな祈祷院を持っていて、そこに宿泊していたのですが、人々が徹夜祈祷のために毎晩のようにやって来るのです。何を祈っているのかわかりませんが、犬の遠吠えのように「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っているのです。私も隣の部屋で祈っていましたが、うるさくて祈れないのです。担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈ることですと。韓国人はそういう国民性なんですかね。韓国の方はとてもよくおもてなしをしてくれますが、祈る時は他の人は関係ありません。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会で行われていた徹夜祈祷会に行った時は驚きました。礼拝形式で集会が持たれると、その後で自由な祈りの時が持たれるのですが、多くの兄姉が「チュよ、チュよ」と講壇にひざまずいて祈るのです。飢えた魚がえさを求めるように。あれは祈りを越えていました。叫びです。周りの人がどう思うかなんて関係ないのです。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。
それでいいんです。というのは、このエレミヤの不平不満、疑い、つぶやきに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんな私を疑うなんてとんでもないヤツダ!とか、もうお前のような者はわたしのことばを語る資格などない!とか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを喜んで受け入れてくれました。正直によく言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。嘘、偽りがありません。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それがエレミヤと神とのコミュニケーションでした。祈りとは、まさにコミュニケーション(対話)ですね。それがこの中に見られるということです。
私たちはこのようなコミュニケーションを神様と取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈りますという通り一辺倒の祈りではなかったか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わっていなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に生身の人間に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあります。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいますから。
ローマ8章26節にそのように記されてあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
 感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。そして、たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエス様が、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
ですから、決して神に対して不正直にならないでください。仮面を被ってごまかさなくてもいいのです。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢できません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」
でも、これで終わってはいけません。これを神に訴えるとはどういうことかというと、だから助けてください!ということです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにするということではなく、神に助けを求めるのです。神はあなたの本音を知っておられます。正直な気持ちを知っておられます。それをまず神にぶつけない限り何も始まりません。それを隠したままでことば巧みに自分自身を何か霊的な者であるかのように見せかけるというのは、神が忌み嫌うべきことなのです。
Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)
次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。エレミヤは、「どうしてですか、主よ、私の痛みはいつまでも続き、私の傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは嘘つきです。あの欺く小川の流れ、当てにならない流れのようになられるのですか。」と赤裸々に訴えると、主はエレミヤにこう言いました。19節です。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
エレミヤのつぶやき、不平に対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神を疑ったからではありません。神に本音で訴えたからではありません。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであることに対して失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていたからです。いっそのこと、民といっしょになったほうがよっぽど楽ではないかと思っていました。
そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは、それが疑いとなって現れていました。神は欺く小川のようなのか、だったらもう何も信じられない。そういう思いです。それは預言者として失格です。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていました。これは、エレミヤの生涯で最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないで、まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。
毎週日曜日の礼拝で私たちは主の祈りをします。大切な信仰告白です。でも問題は、この告白の内容を信じることができずに、立ち止まってしまうとき、人生の重さに押さえつけられてこれ以上信じられないとき、エレミヤが経験したように信仰が崩れ落ちるのを経験するとき、一体これが何を意味するのかということです。深い疑いに陥ることがあります。そのようなとき、イエス様は「わたしはあなたがたのために祈ります」と語り掛けてくださいます。信仰が保たれるように、私たちの信仰が無くならないように、イエス様が私たちのために祈ってくださるのです。最後まで私たちは信じることができます。なぜなら、私たちのためにイエス様が祈ってくださるからです。私たちのためにイエス様が信じておられるからです。これは「驚くべき恵み」です。自分の信仰が実につまらなく、取るに足らないと感じるときがあります。まさにそのとき、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈ってくださるキリストのリアリティーを体全体で知ることになります。このような経験こそ、あなたのたましいと体に、鳥肌の立つほどの最も大きな慰めとなるのです。
それから、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、「彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」という言葉です。どういうことでしょうか。彼は神の代弁者として、民に影響を与えるはずであり、民に影響されるべきではないということです。
Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)
最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えておられます。20~21節をご覧ください。それは、主はあなたを堅固な青銅の城壁とするということです。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」
エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。
使徒パウロは、Ⅱコリント4章7~9節でこのように言っています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
この「宝」とはイエス・キリストご自身のこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「の」を取ってしまうと、ただの「土器」です。私たちは皆「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。
私たちの人生にはポッカリ穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇します。「突然病気になった」あるいは、「事故に遭ってしまった」「会社が倒産した」「会社は大丈夫だけれども、自分が失業した」「愛する人を突然亡くした」というようなことがあります。
そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明け、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

ヨシュア記12章


聖書箇所:ヨシュア記12章

きょうはヨシュア記12章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨルダン川の向こう側の占領(1-6)

 まず1~6節までをご覧ください。「1 ヨルダンの川向こう、日の昇る方で、アルノン川からヘルモン山までの全東アラバにおいて、イスラエルの子らが討ち、占領した地の王たちは次のとおりである。2 ヘシュボンに住んでいた、アモリ人の王シホン。彼はアルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷の中、およびギルアデの半分、そしてアンモン人の国境ヤボク川まで、3 またアラバ、すなわち、キネレテ湖の東まで、またアラバの海すなわち塩の海の東まで、ベテ・ハ・エシモテへの道まで、そして南はピスガの傾斜地のふもとまでを支配していた。4 アシュタロテとエデレイに住む、レファイムの生き残りの一人である、バシャンの王オグの領土。5 彼はヘルモン山、サルカ、ゲシュル人とマアカ人との国境に至るバシャンの全土、ギルアデの半分、ヘシュボンの王シホンの国境までを支配していた。6 主のしもべモーセとイスラエルの子らは、彼らを討った。主のしもべモーセはルベン人とガド人と、マナセの半部族に、その地を所有地として与えた。」

ここにはイスラエルの民がカナンを征服し、神の約束のごとく、その地がイスラエルのものとなるに至った征服の記録が要約されています。1~6節まではヨルダン川の向こう側、すなわち東側において、モーセの指導の下に占領された地でのことが記されています。そこではエモリ人の王シホンと、バシャンの王オグの二人の王を打ち破り、それをルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、相続地として与えました。

Ⅱ.ヨルダン川のこちら側の占領(7-24)

次に7~24節までをご覧ください。「7 ヨルダン川のその反対側、西の方で、レバノンの谷のバアル・ガドから、セイルへ上るハラク山までで、ヨシュアとイスラエルの人々が討ったその地の王たちは、次のとおりである。ヨシュアはイスラエルの部族に、彼らへの割り当てにしたがって、この地を所有地として与えた。8 この王たちは山地、シェフェラ、アラバ、傾斜地、荒野、ネゲブに住んでいて、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。9 エリコの王、一人。ベテルの隣のアイの王、一人。10 エルサレムの王、一人。ヘブロンの王、一人。11 ヤルムテの王、一人。ラキシュの王、一人。12 エグロンの王、一人。ゲゼルの王、一人。13 デビルの王、一人。ゲデルの王、一人。14 ホルマの王、一人。アラドの王、一人。15 リブナの王、一人。アドラムの王、一人。16 マケダの王、一人。ベテルの王、一人。17 タプアハの王、一人。ヘフェルの王、一人。18 アフェクの王、一人。シャロンの王、一人。19 マドンの王、一人。ハツォルの王、一人。20 シムロン・メロンの王、一人。アクシャフの王、一人。21 タアナクの王、一人。メギドの王、一人。22 ケデシュの王、一人。カルメルのヨクネアムの王、一人。23 ドルの高地の、ドルの王、一人。ギルガルのゴイムの王、一人。24 ティルツァの王、一人。全部で三十一人の王である。」

これは、ヨシュアとイスラエル人とがヨルダン川のこちら側、すなわち西側において打ち破った王たちの名前です。何と彼らは31人の王を打ち破り、その地を占領しました。こうやって見ると、彼らは、今のイスラエルの南方の国々、そして北方の国々を重点として、その中部のいくつかの国々をも占領し、これらを所有地としてイスラエルの部族に割り当て地として与えたことがわかります。これが主のしもべモーセとヨシュアが、主にあって成し遂げたことでした。このことは、私たちにどのような教訓を与えてくれるでしょうか。

ヨシュア記は13章を境にして前半と後半に分かれます。前半を総括する12章の終わりに記されていることは、ヨシュアたちがヨルダン川の西側の31人の王たちを打ち破ったということでした。これらの征服した王たちの記録は、ヨシュアたちの霊的な歩みの継続的な戦いの結果と言えます。一回一回の真剣な戦いの積み重ねの記録であって、決して一朝一夕にしてなされたものではありません。そのことを心に刻む必要があります。そして13章1節には、「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。」とあります。
主はヨシュアに、あなたは年を重ねて老人になったが、まだ占領すべき地がたくさんの残っていると言われました。ヨシュアは110歳(24:29)まで生きましたが、おそらくこの時100歳くらいになっていたのではないかと思われます。そのヨシュアに対して、「あなたには、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と言われたのです。神が備えられたカナンの地はまだまだ占領されていない地があり、それを自分の所有地とするようにヨシュアにチャレンジされたのです。これは「あなたは年を取ったが、その人生において私が与えようとしている祝福は無限にある」という意味です。ですから、その地の占領に向けて継続的に戦っていかなければならないのです。

これをパウロのことばで言うなら、内なる人が日々新たにされるという継続的な積み重ねが求められるということです。Ⅱコリント4章16節をご覧ください。ここには、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあります。内なる人が日々新たにされ続けるなら、その延長線上に円熟した輝き、熟年の輝きがもたらされます。それは、一回一回の真剣な霊的戦いの継続的な積み重ねの結果なのです。

それはまた、私たちにゆだねられている福音宣教の使命においても言えることです。主は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われました。まだ占領すべき地がたくさん残っているのです。イエス様のからだである教会を建て上げ、その教会を通してすべての造られた者に福音を宣べ伝えていくために、私たちはこのすばらしい働きを止めてはいけないのです。前進し続けなければなりません。私もあと何年できるかわかりませんが、110歳までにはまだまだあります。救い主イエス様のみこころに従い、生涯、主イエス様の弟子として、福音の宣教のために、神の国の到来のために「主よ、私を用いて」と祈りつつ、その働きを全うしたいと思います。

Ⅲ.ヨルダン川を渡る(1-24)

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ここで、1~6節でと、7~24節を比較してみましょう。これまで見てきたように、1~6節にはヨルダン川の東側においてモーセの指導のもとに二つの王国を征服したことが記されてありました。一方、7~24節には、ヨルダン川のこちら側、すなわち西側においてヨシュアの指導のもとに31の王国が打ち破られてきたことが記録されてあります。モーセの下ではアモン人の王シホンとバシャンの王オグの二人の王を打ち破られたのに対して、ヨシュアの下では31人の王が打ち破られました。いったいこの差は何なのでしょうか。これは指導者の優秀さの差ではありません。というのは、指導性という点ではモーセの方がヨシュアよりもずっと優れていたからです。申命記34章10節には、「モーセのような指導者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」とあります。モーセはイスラエルにおいて最高の指導者でした。彼は主と顔と顔とを合わせて選び出されました。彼は旧約聖書において最高の指導者だったのです。ですから、この結果は指導者の優劣によるものではないことは明らかです。では、この差はどこから生まれたのでしょうか。それは、ヨルダン川を渡ったか渡らなかったかの違いです。それは物理的な意味ではなく霊的な意味においてです。

ご存知のように、イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷とされていました。しかし、神はモーセを選び出し、その奴隷の中から贖い出してくださいました。彼らはエジプトの捕らわれの身から解放されて紅海を渡り、栄光の脱出を成し遂げたのです。これが出エジプトです。このイスラエルの民がエジプトから解放されたという出来事は、私たちが罪に捕らわれていた状態からイエス・キリストによって救い出されたことを表わしています。イエス・キリストの十字架と復活によって、罪と死の支配から解放されたのです。バプテスマはそのことを表しています。私たちはイエス・キリストを信じバプテスマを受けることで罪から救われ、永遠のいのちを受けることができました。

しかし、罪から救われた私たちはそこに留まっているだけでなく、神が与えてくださった約束の地に入るために前進していかなければなりません。乳と密の流れる地に入るためには、さらにもう一つの川を渡らなければならないのです。それがヨルダン川です。いったいこのヨルダン川を渡るというのはどういうことでしょうか。それは、聖霊を受けるということです。もちろん、イエス様を信じた人はみな聖霊を受けています。聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはできません(Ⅰコリント12:3)。また、コリント人への手紙第一12章13節には、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの聖霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの聖霊を飲むものとされたからです。」とあります。だれでもイエスを主と告白するなら、聖霊を受けているのです。しかし、この聖霊のことがわからない人がいます。聖霊を受けているのに、受けていない人であるかのように歩んでいることがあるのです。

使徒19章1~3節をご覧ください。ここには、パウロが第三回伝道旅行でエペソにやって来たとき、幾人かの弟子たちに出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたことが記されてあります。どうしてパウロはこんなことを質問したのでしょうか。明らかに彼らの言動がキリストを信じる信仰とは相いれないものを感じたからでしょう。どうもおかしかったのです。それでパウロはこのように質問したのです。

これに対する彼らの答えは「いいえ」でした。「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」彼らは、聖霊が与えられることについて曖昧な理解しか持っていなかったのです。クリスチャンなら、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。つまり、神の聖霊が与えられたことを知っているはずなのに、彼らはそのことを知らなかったし、聞きもしなかったのです。つまり、彼らはイエス様を信じていましたが、その信仰は福音の正しい理解を欠いたものだったということです。

では、彼らはどんなバプテスマを受けたのでしょうか。3節を見ると、彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えています。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。マタイの福音書3章11節には、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」とあります。つまり、ヨハネのバプテスマとは救い主イエス・キリストを受け入れるための備えとしての、悔い改めのバプテスマのことです。彼らはこのバプテスマは受けていましたが、イエス・キリストによって与えられる聖霊のバプテスマを受けてはいませんでした。聖霊のバプテスマについてはそのことさえわかりませんでした。彼らは、聖霊によってもたらされる救いの恵みと喜びを知らなかったのです。
そこで、パウロはこの聖霊のバプテスマについて話し、主イエスの御名によってバプテスマを授けると、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。

ですから、ここでは、よくペンテコステ派の人たち強調しているような、救われた後に受ける第二の恵みとしての聖霊のバプテスマや、そのしるしとしての異言について教えているのではありません。彼らは、主イエスを信じていても、聖霊について知らなかったし、聖霊に満たされてもいませんでした。聖霊の喜びや力、平安を知らなかったのです。

このようなことは、私たちにもあります。イエス・キリストを救い主と信じるならだれでも天国に行けると聞き、信仰によってイエス様を主と信じて受け入れても、その結果もたらされる聖霊の恵みと力がどれほどすばらしいものであるのかを知らないで歩んでいるということがあるのです。イエス様を信じて罪というエジプトから脱出できても、乳と密の流れる豊かな地に入るためにヨルダン川を渡っていないことがあるのです。

イエス様はこのように言われました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)
この「生ける水の川」とは聖霊のことです。だれでもイエス様のもとに来て、飲むなら、すなわち、イエス様を信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。この「心の奥底から」というのは、「腹の底から」という意味です。イエス様を信じるなら、表面的な喜び、表面的な平安ではない、腹の底からの、ほんとうの喜び、ほんとうの平安が与えられるのです。

この異言と預言についてパウロは、Ⅰコリント14章2~3節でこのように言っています。「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」(Iコリント14:2,3)
つまり、エペソの人たちは(使徒19:6-7)が異言を語ったり、預言したりしたというのは、この時から彼らが、これまでの堅い殻に閉じこもった禁欲的な生活から、神に向かって喜びをもって祈り、賛美し、人に向かっては熱心にみことばの勧めとあかしをするクリスチャンへ変えられたということです。孤立的分派主義的な信仰から積極的な礼拝と交わり、伝道の生活へと変えられたということです。陰気な禁欲主義が、喜びに満ちた賛美の生活へと変えられました。そうして、それこそが、パウロの福音の結果だったのです。人は聖霊によって新しく生まれ変わるとき、ここで彼らが経験したような、生活へと変えられるのです。

私が言うところのヨルダン川を渡るというのはこういうことです。あなたは聖霊を受けていますか。受けているなら、あなたの人生はすばらしく豊かなものとなります。31人の王を打ち破り、その王国を占領するようになるのです。しかし、受けていながらもその信仰生活に大きな変化がないとしたら、もしかすると、聖霊に満たされていないということになります。聖霊に対してどのような態度を持っているかをもう一度点検する必要があります。聖霊に心を開き、常に御言葉に聞き従い、聖霊に導かれ、満たされて歩むなら、それまでとは比較にならないほどの大きな恵みと祝福に満たされていくのです。

あなたはヨルダン川のどちら側にいますか。こちら側ですか、それとも向こう側ですか。ヨルダン川を渡ってください。そして、聖霊に満たされ、御霊に導かれて歩もうではありませんか。そうすれば、聖霊の豊かな実を結ぶようになります。また、すでにヨルダン川を渡った人はそのことで高慢にならず、むしろ謙遜に日々聖霊に満たされ、主が求めておられることは何かを御言葉から聞き、さらに豊かな実を結ぶ者とさせていただきたいと願います。

転がしてあった石 マルコの福音書16章1~8節転がしてあった石 

聖書個所:マルコの福音書16章1~8節(P104)
タイトル:「転がしてあった石」

 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。
これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。
彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。
しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちは、どこで何を話し合っていたのでしょうか。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と、墓に向かっている最中で話し合っていました。
ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に会議を開くんじゃないです。「行っても無駄だ。墓の入り口にある石をどやって動かすのか。そこにはローマ兵たちがいるじゃないか。どう考えても無理に決まっている。その前に香料を買ってもただのお金の無駄遣いだ」と。
これが一般の男性が考えることです。でも女性は違います。女性は一般的に心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずにすぐにそれを行動に移します。こんなことを言ったら女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、別に女性を差別しているのではありません。それが女性のすばらしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。1秒でも早く会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も、彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えます。その極めつけが十字架です。十字架で死なれることでした。主はご自身に敵対する人を救うために十字架にかかって死んでくださいました。そして、その上でご自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをささげたのです。このような愛は、この世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあるのです。そのことに気付かないと、大切なものを失ってしまうことがあるのです。
注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。彼女たちは「なぜ」とか「どうやって」ではなく「だれが」と言いました。なぜ男の弟子たちは一緒に来ないのかとか、どうやって墓の入り口から石を転がしたらいいかではなく、だれが転がしてくれるかと言ったのです。
皆さん、「だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。」そうです、イエス・キリストです。イエスが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。「なぜ」こういうふうになっているのか、「いつ」「どこへ」行ったらいいのかと、その状況とか、方法とかを考えてしまうあまり、何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に、神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」とか「いつ」とか「なぜ」と問わないで、「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知ってください。この女性たちのように。彼女たちはイエスの亡骸に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエスです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられます。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。
榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。
そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。
招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。
席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。
T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。
T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。
榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。
それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。
帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。
榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。
それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。
「先生、息子を、よろしくお願いします」。
頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。
「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」
ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」
ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。
それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。
でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

ヨシュア記11章

聖書箇所:ヨシュア記11章

きょうはヨシュア記11章から学びたいと思います。

 Ⅰ.馬の足の筋を切り、戦車を焼かなければならない(1-9)

 まず1~9節までをご覧ください。「1 ハツォルの王ヤビンはこのことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、2 また、北方の山地、キネレテの南のアラバ、シェフェラ、西方のドルの高地の王たち、3 すなわち、東西のカナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモンのふもと、ミツパの地のヒビ人に人を遣わした。4 彼らはその全陣営とともに出て来た。海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった。5 これらの王たちはみな集まり、進んで行き、イスラエルと戦うためにメロムの水のほとりでともに陣を敷いた。6 主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼け。」7 ヨシュアはすべての戦う民とともに、メロムの水のほとりにいる彼らを急襲した。8 主は彼らをイスラエルの手に渡された。イスラエルは彼らを討ち、大シドンおよびミスレフォト・マイムまで、東の方ではミツパの谷まで彼らを追い、一人も残さず討った。9 ヨシュアは主が告げられたとおりに彼らにした。彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。」

これまで、イスラエルに対峙してきた王たちはカナンの南部の地域の王たちでしたが、ここに登場する王たちはカナンの北部の王たちです。聖書の巻末の地図「12部族に分割されたカナン」を見ていただくとわかりますが、ハツォルはガリラヤ湖の北に約15㎞に位置しています。マドンはガリラヤ湖の西5㎞、シムロンはガリラヤ湖の南西40㎞のところに位置しています。また、アクシャフはシムロンの北に30㎞のところにあります。こうした北パレスチナの連合軍がヨシュア率いるイスラエルに戦いを挑んできたのです。その数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多くありました。おそらく何十万という軍勢だったのでしょう。これらの王たちがみな集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のほとりに陣を敷いたのです。こうした状況の中でヨシュアにはどれほどの不安と恐れがあったことかと思います。この大軍にいかに対応していったらよいものか。彼は必死に神に祈ったに違いありません。その時です。主はヨシュアに仰せられました。6節です。「彼らを恐れてはならない。明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとく、イスラエルの前で刺し殺された者とするからだ。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼け。」

主はヨシュアに仰せられました。「彼らを恐れてはならない」と。なぜなら、「明日の今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするから」です。主が戦ってくださいます。だから、イスラエルは勝利することができるからです。しかし、そのためにイスラエルは一つのことをしなければなりませんでした。それは「彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない」ということでした。どういうことでしょうか。馬の足の筋を切り、戦車を火で焼くとは、戦うために必要な武器を廃棄するということです。これは人間的に考えれば非常に理解に苦しみます。というのは、その後の戦いで敗北を招くことになるかもしれないからです。むしろ、そうした武器を少しでも多く奪い取りそれを有効に用いた方が次の戦いには有利なはずです。それなのに、主はそれらをすべて廃棄せよと言われたのです。なぜでしょうか?それは、彼らが人間的な力によって戦うのではなく、主の力、霊の力によって戦うためです。詩篇20:7にはこうあります。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇ります。しかし私たちは、私たちの神、主を誇ります。人間の力ではなく神の力を誇るのです。本気で神に賭けているかどうかは、自分の力を捨て、捨て身で生きているかどうかでわかります。私たちは全能の神を信じていると言いながら、一方で自分の思いで成し遂げようとしていることがあります。全面的に神に信頼しているわけではなく、自分で計算して動こうとしていることがあるのです。それは言うならば「二足のわらじ」的な信仰です。しかし、聖書が言っている信仰はそのようなものではなく、この神に全面的に信頼する信仰です。背水の陣ということばがありますが、まさに背水の陣で臨む信仰、そこに考えられないほどの大いなる主の御業が起こされていくのです。

歴史学者のトインビーは、次のように言っています。「イスラエルのパレスチナ制覇は、歴史学的常識では到底考えられない出来事である。しかし、イスラエルには、他の国になかったものが一つだけあった。それはヤハウェなる神への信仰であった。」(「歴史の研究」第一巻)
それはそうです。当時パレスチナにはペリシテ人といった強力な敵がおり、またフェニキアのような経済的に豊かな国もありました。そんな大国に何もなかったイスラエルが勝てるはずがありません。それなのにどうして勝利を収めることができたのか?それはイスラエルには全能の神への信仰があったからです。主が彼らとともにおられたので、彼らは勝利することができたのです。そのためには馬や戦車を破棄しなければなりません。そんなものがあると容易にそれに頼ってしまうからです。だから主はそれらを破棄して、ただ神に信頼するようにと仰せられたのです。

7~9節までをご覧ください。「7 ヨシュアはすべての戦う民とともに、メロムの水のほとりにいる彼らを急襲した。8 主は彼らをイスラエルの手に渡された。イスラエルは彼らを討ち、大シドンおよびミスレフォト・マイムまで、東の方ではミツパの谷まで彼らを追い、一人も残さず討った。9 ヨシュアは主が告げられたとおりに彼らにした。彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。」

そこで、ヨシュアは民を率いて、メロムの水のほとりで彼らに襲いかかると、一人も残さず討ちました。主が彼らをイスラエルの手に渡されたからです。そしてヨシュアは、主が命じられたとおりに彼らの馬の筋を切り、彼らの戦車を火で焼きました。そうです、もし全能の神が共におられるならペリシテやフェニキアに勝利することができるからです。私たちは弱くとも、主は強いのです。私たちは、他の何ものよりも大きな力を持っているのです。このことを信じて感謝しようではありませんか。私たちの人生に立ちはだかる様々な問題や試練をも乗り越えて、勝利ある人生を歩みたいと思います。

Ⅱ.主が命じられたとおりに(10-15)

次に、10~15節をご覧ください。「10 ヨシュアはそのとき引き返して、ハツォルを攻め取った。その王は剣で討った。ハツォルは当時、これらすべての王国の盟主だったからである。11 ヨシュアたちはそこにいたすべてのものを剣の刃で討ち、聖絶した。息のある者は一人も残らなかった。彼はハツォルを火で焼いた。12 ヨシュアは、これらの王たちのすべての町を攻め取り、そのすべての王たちを剣の刃で討ち、聖絶した。主のしもべモーセが命じたとおりであった。13 イスラエルは、丘の上に立っている町々はどれも焼かなかった。ただし、ヨシュアは例外としてハツォルだけは焼いた。14 これらの町々のすべての分捕り物と家畜を、イスラエルの子らは戦利品として自分たちのものとした。人間だけはみな剣の刃で討ち、根絶やしにした。息のある者は一人も残さなかった。15 主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。」

ヨシュアは北パレスチナの連合軍を打ち滅ぼすと引き返して来て、ハツォルを攻め取り、その王を剣で討ちました。それは、ハツォルが以前これらすべての王国の首都だったからです。カナンの住民は、中央主権ではなく、各町を治めていた王たちがいただけであったようです。そのような中にあってハツォルだけは別格で、それらすべての王国の首都として存在していたので、ヨシュアはこの町を聖絶し、火で焼いたのです。ハツォルだけではありません。ヨシュアはそれらの王たちのすべての町々、および、そのすべての王たちを捕らえ、彼らを剣の刃で打ち殺し、聖絶しました。何とも惨いことです。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。それは前回も学んだように、イスラエルが聖となるためです。その地の住人の異教的な習慣と分離して、神の民としての聖さを保ち、神に喜ばれる歩みをするためです。そしてそれは主のしもべモーセによって命じられていたことでもありました。15節にあるように、ヨシュアは主のしもべモーセが命じたすべてのことばを行ったのです。ヨシュアはそのことばを一言も取り除きませんでした。一部だけを守って、他は無視するというのではなく、すべてを守ったのです。これが大切です。時として私たちは主のことばに従っていると言っていいながら、その一部しか従っていない場合があります。一部だけを守って他は無視するというのは、すべてを守っていないのと同じです。あのサウル王がそうでした。主はサウル王に、「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。』」(Ⅰサムエル15:3)と命じられたのに、彼は上等な羊と牛を殺さずに残しておきました。それは主にささげるためだと言い訳をしたのです。そんなサウルに対して主は、サムエルを通してこのように言われました。
「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサムエル15:22)
私たちはサウルのようにではなく、ヨシュアのようにすべての点で主に聞き従う者でありたいと思います。

Ⅲ.彼らの心をかたくなにしたのは・・(16-23)

最後に、16~23節までを見て終わりたいと思います。「16 ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。17 彼は、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとの、レバノンの谷にあるバアル・ガドまでを攻め取った。その王たちをことごとく捕らえ、彼らを討って殺した。18 長い間にわたってヨシュアはこれらすべての王たちと戦った。19 ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。20 彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。21 そのときヨシュアは行って、アナク人を山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断った。その町々とともにヨシュアは彼らを聖絶した。22 こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。23 ヨシュアはすべて主がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。」

ヨシュアはパレスチナの北部連合軍に勝利したものの、それで戦いが終わったわけではありませんでした。カナンのすべてを征服するために、その後も引き続いて戦いを継続しなければなりませんでした。ヨシュアは、そのすべての王たちと長い間戦いました。彼らはギブオンの住民ヒビ人を除いては、その地のすべての住民と戦い、すべてのものを取ることができました。いったいなぜそれほどまでに戦わなければならなかったのでしょうか?その理由が20節にあります。
「彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。」

「彼らの心を頑なにし」という言葉は、モーセがエジプトの王ファラオと対峙したときにも出てきた言葉です。出エジプト記14章8節には、「主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。」とあります。その結果、ファラオは破滅の一途を辿っていき、ついには力強い主の御業に屈服することになります。ここでも同じように、主が彼らの心を頑なにし、イスラエルを迎えて戦わせたことで、カナンの住民は滅びていくことになりました。これはどういうことでしょうか。

これは一見悲劇的なように見えますが、そうではありません。主がそのように頑なにされたことで、彼らを容赦なく聖絶することができ、イスラエルの民を偶像の悪影響から守ることができたからです。確かに彼らが滅びていったことは悲劇でしたが、神はそれを悲劇のまま終わらせることをせず、それを祝福へと変えられました。その中で彼らを一掃するというご自身のみこころを実現されたのです。

神は、このようにしてもご自身の御旨を実現されることがあります。その最たるものは、イエス・キリストの十字架です。主なる神がある人々の心を頑なにし、イエスを憎ませ、彼を十字架につけて殺しました。しかし、神はそれを悲劇のまま終わらせることをせず、そのことを通して全人類を救うという神の救いの御業を実現させたのです。永遠の神の救いのご計画がこの悲劇を通してこの地上に実現し、彼を信じるすべての者がこの大きな喜びの中に入れられることになったのです。このことを思うとき、確かに神はある人の心を頑なにし、神に敵対させ、滅ぼすようなことをされますが、それは神の民のためであり、神のご計画が実現するためなのです。

ヨシュアの時代も、そのことでイスラエルは多くの敵と戦わなければなりませんでしたが、そのことによって彼らは容赦なく彼らを聖絶し、一掃することができました。23節にあるように、こうしてヨシュアはその地をことごとく取ることができました。このことを思うと、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)というみことばは真実であることがわかります。主はその全知全能の御手をもって今に至るまで働いておられると信じ、この方にすべてをゆだねして、主がお命じになられることをことごとく行っていく者でありたいと思います。

 

苦難の時に生きる道 エレミヤ書15章1~14節苦難の時に生きる道 

聖書箇所:エレミヤ書15章1~14節(エレミヤ書講解説教32回目)
タイトル:「苦難の時に生きる道」
きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。皆さんは、自分の運命を嘆いたことがありますか。また、自分なんて生まれてこないほうがよかったと感じたことがあるでしょうか。そのようなとき、あなたはそれをどのように乗り越えてきましたか。
今日の個所で、エレミヤは自分の運命を嘆き、生まれてきたことを後悔しています。10節で彼はこう言っています。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている」
  ここで彼は自分が生まれてきたことを嘆き、悲しんでいます。なぜ彼はこのように自分の運命を嘆いたのでしょうか。また、それをどのようにして乗り越えることができたのでしょうか。今日はそのことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。
わき水の泉である主を捨て、壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章前半では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りましたが、主はそれをことごとく退けられてこう言うのです。1節です。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」
モーセとサムエルはまさにとりなし手の代表です。モーセは律法の代表者であり、サムエルは預言者の代表者です。彼らに共通しているのは、彼らがとりなしの名手であるということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして、彼らを救ってきました。
たとえば、イスラエルが金の子牛を造って拝んだとき、主は「わたしは彼らを絶ち滅ぼし、あなたを大いなる国民にする」と言われましたが、その時モーセが彼らのためにとりなすと、主はさばきを思い直されました(出エジプト32:11-14)。サムエルはどうでしょうか。サムエルも主が周囲の敵からイスラエルを救い出してくださったのに彼らが自分たちを治める王が必要だと言って主のみこころを損った時、彼らのためにとりなしてこう言いました。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪を犯すことなど、とてもできない。」(Ⅰサムエル12:23)すると主は、その祈りを聞いてくださいました。
しかしここでは、たとえそのモーセとサムエルがとりなしても、主の心はこの民に向かわない。この民を主の前から追い出し、立ち去らせるというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な英雄、信仰の巨人と言われる人が祈っても、今回ばかりは、主がさばきを思い直されることはないというのです。まあ、モーセとサムエルの時代も神の民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。モーセやサムエルが主のみこころを伝えると、協力的にそれを受け止めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。まだへりくだっていたのです。しかし、このエレミヤの時代の民は、手がつけられないほど反抗的でした。エレミヤが神のことばを語るとあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのに、そんなエレミヤを目の上のたんこぶのように、邪魔者扱いしました。ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。
2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」
それに対して彼らは主の言葉を軽く考えて、「追い出されるならどこへ行こうか」と応答していましたが、そんな彼らに主は事の重大さを明確に伝えます。それは14章にもありましたが、疫病によって死ぬか、剣で殺されるか、飢饉で死ぬかということです。そして生き残った者は捕囚として連れて行かれることになるということです。この四つしかありません。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになります。
しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望を持ちえないと思うかもしれませんが、覚えていただきたいことは、神様は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということです。私たちの神は一人として滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、神様はあえてこのような試練や困難を与えて、彼らがご自身のもとに立ち返るようにと矯正しておられるのです。徹底的な厳しい対処をしながらも、決して見捨てることはなさらないのです。だって、もし本当に滅ぼすつもりなら、こんな回りくどいことはしないでしょう。あのソドムとゴモラを滅ぼしたように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら、痛みを与えて、お尻をペンペンして、彼らが間違いを犯したことを思い知るようにさせたのです。それは彼らを滅ぼしたいからではなく救いたいからです。同じように主は私たちをも受け入れ、赦したいのです。またその関係を回復したいと願っておられるのです。子どもが間違いを犯して親に「ごめんなさい。許してください」という時、親が両手で抱きしめてくれるように、私たちを赦し抱きしめて受け入れてくださるのです。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも教育を目的とした試練なのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みと憐れみに満ち溢れていたすばらしい時だったかを知るようになります。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。
それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
これがエレミヤの使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜かなければならないのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げるためだったのです。建設的な目的でなされたのです。もしあなたが彼らほど頑なでなければ、神様はあなたにこういう扱いはされません。彼らは頑なで、どんなに口で言っても聞かなかったので、主は痛みを与えてまでも彼らを立ち返らせようとしたのです。そんな思いをしなくても「わかりました。ごめんなさい」と素直に受け入れたなら、それで済むことだったのです。
4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。
主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは、地のすべての民が、ユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるということです。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。どういうことでしょうか。マナセはユダの王ヒゼキヤの子ですが、南ユダ王国史上最低の王でした。極悪王です。彼については歴代誌第二33章1~9節に書いてあるので参照していただきたいと思いますが、彼は12歳で王になると、エルサレムで55年間南ユダを治めました。彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行いました。そして、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像も造りました。また、彼は天の万象を拝んでこれに仕えたのです。こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように」と言われた主の宮に、いくつもの偶像の祭壇を築いたのです。そして、ベン・ヒノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせたり、卜占(ぼくせん)とかまじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていたのです。彼はそのようにしてユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせたのです。そのために主は、それから約100年後のこのエレミヤの時代に、南ユダを滅ぼすと決めたのです。マナセがエルサレムで行ったことのために、南ユダは悲惨な状態に置かれることになってしまいました。一人の国家のリーダーの罪によって大きな弊害がもたらされることになるということです。それは今だけでなく後の時代にも影響を及ぼすことになります。そういう意味では、エレミヤの時代だけでなく、今の時代においても私たちはどうなのかが問われているのです。
Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)
次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」
エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告です。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれからも相手にされないということです。完全に見捨てられることになります。6節の「わたしはあわれむのに疲れた」とは、もう二度と憐れまないということです。その都度「ごめんなさい。もうしません」と言うものの、それは口先ばかりで、心が伴っていなからです。その場しのぎの謝罪にすぎません。同じことを繰り返しても謝れば赦してもらえると思っています。泣きつけば赦される、涙を見せれば赦されると思っているのです。主はそういうことに疲れたと言っておられるのです。主は心からの悔い改めを望んでおられます。表面的に悔い改めて罪の赦しを求めるというのではなく、主の御前に砕かれた悔いた心をもって出ることを求めておられるのです。「主よ、私はあなたの御前に罪を犯しました。私は滅ぼされてしかるべき者です。それでも、なお、あなたにすがります。どうかあわれんでください。」と、目を天に向けることもできず、胸を叩いて泣きながら、自分の心を注ぎ出して祈ったあの取税人のように祈るなら、主は必ず聞いてくださいます。ご自身の恵みによってすべての罪、咎を拭い去り、きよめてくださるのです。
でも、彼らはそうしませんでした。ただ適当に教会に来てればそれで神様に受け入れられると思っていました。日曜日の礼拝さえ守っていれば、それで十分だと思っていたのです。そういう人たちに対して主は、もうそれは飽きたと。もう疲れたと言っておられるのです。主が求めておられるのは砕かれた悔いた心です。主はそれをさげすまれません。
 7~9節は、エルサレム滅亡の預言です。「熊手」とは脱穀の時に用いられるもので、もみ殻と実をふるい分ける時、この熊手ですくい上げて空中に飛ばすと、軽いもみ殻だけが飛んで重い実が落ちますが、その時に使う道具です。神様はもみ殻を熊手でふるって殻を飛ばすように、ユダの民を追い散らすのです。その時に用いられるのがバビロンです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵攻して来て、妻子たちを奪って行くのです。8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうということです。9節には、息子を戦争に送り出した母親の嘆きが描かれています。「七人の子を産んだ女」とは、「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまいます。それほどの悲劇だということです。
彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡した理由は、バビロンが強かったからではなく、イスラエルの罪のためでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神との関係はどうなのかを考えなければならないのです。私たちと神との関係が壊されるのと同時に、これまで努力して積み上げてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになります。苦難の時に生きる唯一の道は、神との関係を回復することです。神に立ち返ることだけが生きる道なのです。神はそのような者にご自身の恵みとあわれみを注いでくださるのです。
Ⅲ.神の慰め(10-14)
第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。まず10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」
この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことの悲しみ、悲惨さを嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこなければよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。
続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語るので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。
「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されました。あまりにも理不尽です。
それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しんだのです。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬中毒のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬中毒のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。
11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」
アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われたのです。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これ以上の慰めがあるでしょうか。
アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方、私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。
そして、神はエレミヤに、励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。
皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださったのです。
エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。
あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

ヨシュア記10章

バイブルカフェ

きょうはヨシュア記10章から学びたいと思います。

 Ⅰ.日よ、ギブオンの上で動くな(1-15)

 少し長いですが、まず1~15節をご覧ください。「1 エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、エリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らのただ中にいることを聞いた。2 彼とその民は非常に恐れた。ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである。3 エルサレムの王アドニ・ツェデクはヘブロンの王ホハム、ヤルムテの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビルに人を遣わして言った。4 「私のところに上って来て、私を助けてください。ギブオンを討ちましょう。ギブオンがヨシュア、およびイスラエルの子らと和を講じたからです。」5 それでアモリ人の五人の王、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王、彼らとその全陣営は集結し、上って行ってギブオンに向かって陣を敷き、戦いを挑んだ。
6 ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」7 ヨシュアはすべての戦う民たちとすべての勇士たちとともに、ギルガルから上って行った。
8主はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」9 ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。10 主は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。11 彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。12 主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」13 民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。これは『ヤシャルの書』に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。14 主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。15 ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。」

前回は、ヨルダン川のこちら側の王たち、すなわち、カナンの王たちが連合してイスラエルと戦おうとした時、ギブオンの住民たちは賢くも策略を巡らしてイスラエルと平和条約を締結し、イスラエルに滅ぼされることを免れたことを見ました。きょうの箇所には、その一方で、これを面白くないと思ったカナンの王たちが、そのギブオンを攻撃することが記されてあります。1~2節には、「エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、エリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らのただ中にいることを聞いた。彼とその民は非常に恐れた。ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである。」とあります。

エルサレムは、ギブオンから南東に15㎞ほどのところにあります。このエルサレムの王は「アドニ・ツェデク」という名で、意味は「義なる主」です。このアドニ・ツェデクは、創世記14章に登場したメルキゼデクの子孫であると言われています。そこには「シャレムの王メルキゼデク」(創世記14:18)とありますが、「シャレム」とは「エルサレム」のことです。メルキゼデクはそのエルサレムの王であり祭司でもありましたが、カナンの連合軍と戦って勝利したアブラハムを祝福しました。アブラハムはそのことに大いに感激して、大祭司であったこのメルキゼデクにすべてのものの十分の一をささげました(創世記14:19-20)。このメルキゼデクは、ヘブル人への手紙においては真の大祭司であるイエス・キリストのひな型であったと記されてあります(7章)。おそらく、彼はアブラハムの信じる神を真の神として認め、彼自身も同じ神を信じていたので、カナンの連合軍には加わらず、むしろアブラハムの勝利を祝ったのであろうと思われます。それなのに、ここではその子孫であるアドニ・ツェデクが、他の王たちとともにイスラエルに対して戦いを挑んできたのです。いったいなぜでしょうか。ある人は、「昨日の友は今日の敵だ」ということを言いたかったのではないかと考えます。人間ほど信じられない存在はないのだということをたちに示そうとしているのだというのです。またある人は、信仰は極めて個人的なものであって、たとえ先祖にどんなに立派な信仰者がいても、その子孫が必ずしもその信仰を受け継ぐものではないということを教えているのではないかと言います。

1節と2節を見ると、その鍵となる言葉があることがわかります。それは「聞き」という言葉と、「非常に恐れた」という言葉です。彼は、ヨシュアがアイの町を攻め取ってそれを聖絶し、先にエリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らの中にいることを聞いて非常に恐れたのです。それは、ギブオンが大きな町であって王国の都の一つのようであり、またアイよりも大きくて、そこの人々はみな勇士たちであったからです。そのギブオンがイスラエルと和を講じたことを聞いて恐れたのです。

私たちにもこのようなことがあるのではないでしょうか。そうした噂を聞いて恐れてしまい、正しい判断が出来なくなってしまうということが・・。いったいなぜイスラエルがエリコとアイを攻略することができたのか、なぜキブオンがイスラエルと和を講じたのかということを考えるなら、自ずと自分たちの成すべきことが見えてくるのではないかと思います。すなわち、イスラエルの陰には全能の神がともにおられるのであって、ギブオンの住民がイスラエルと和を講じたのは戦っても勝つ見込みがないと判断したからであって、彼らにできる唯一のことはこのイスラエルの神を神とすることであるということです。それ以外に救われる道はありません。この神に敵対すること自体間違っているのです。彼らはその判断を誤ってしまってしまったのです。

時として私たちも噂を聞いて恐れてしまい、判断を誤ってしまうことがあります。神が求めておられることよりも、目の前の状況に振り回されてしまい、目先の解決を求めてしまうことがあるのです。そういうことがないように、私たちは常に祈らなければなりません。判断を焦ってはなりません。噂を信じてはいけないのです。むしろ、神のみこころは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。これが解決の道です。それなのに、アドニ・ツェデクはその判断を誤ってしまいました。そして、カナンの他の王たちと、ギブオンを攻撃しようとしたのです。

それに対して、ギブオンの人々はどうしたでしょうか。当然、イスラエルに援軍を要請します。6節には、「ギブオンの人々はヨシュアのところ、ギルガルの陣営に人を遣わして言った。「しもべどもから手を引かないで、急いで私たちのところに上って来て、私たちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人の王たちがみな、私たちに向かって集まっているのです。」とあります。そこでヨシュアはすべての戦う民とすべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行きました。

その時、主はヨシュアにこう仰せられました。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」たとえ神がともにおられると信じていても、それほど多くの敵と戦わなければならないとしたら、だれでも恐れを抱くでしょう。それはヨシュアも同じでした。そんなヨシュアに対して主は、「恐れてはならない」と言われました。なぜなら、主が彼らをヨシュアの手に渡されたからです。この「渡したからだ」というのは完了形になっています。これから先のことでも、主の側ではすでに完了していることです。主はすでに彼の手に、彼らを渡しておられるのです。私たちに必要なことは、その主のことばを信じて前進することです。

それに対してヨシュアはどのように応えたでしょうか。9節をご覧ください。「それで、ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。」
それでヨシュアは急襲をしかけます。夜通しギルガルから上って行き、突然彼らに襲いかかりました。それが神のみこころだと確信した彼は、すぐに行動に移したのです。もたもたしませんでした。「ちょっと待ってください。もう少し祈ってみますから」と言わず、夜のうちに出発し、攻撃したのです。これは私たちにも必要なことです。私たちは待ち過ぎるときがあります。もちろん、祈ることは大切なことですが、私たちが祈るのは主のみこころを知るためであって、主が「これをしなさい」と言われたのに「いや、もうちょっと待ちます」というのは信仰でありません。信仰とは、主が語られたことにすぐに応答することです。
アブラハムは、ひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、そこで全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい、と主から命じられたとき、「翌朝早く」イサクといっしょに神が示された場所へ出かけて行きました。それが信仰です。私たちは、神が与えられたチャンスを逃すことがないように、ヨシュアのように主のことばに従う者でありたいと思います。

さて、主のことばにしたがってヨシュアが出て行った結果、どうなったでしょうか。10節と11節をご覧ください。「主は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。」
主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので、イスラエルはギブオンで彼らを激しく打ち殺しました。そして、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダまで行って彼らを打ちました。彼らがイスラエルの前から逃げてベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らせアゼカに至るまでそうしたので、彼らは死にました。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かったのです。最近、よく雹が降ったとニュースで聞きますが、雹は大きいと野球のボールぐらいのもあるので容易に彼らを殺すほどの威力を持っていたのでしょう。その雹で死んだ人のほうが、剣で殺した人たちよりも多かったのです。どういうことですか?主が戦ってくださったということです。主が彼らをヨシュアの手に渡されたのです。それで主は激しく敵を打つことができました。

12~15節をご覧ください。ここにはヨシュアの祈りが記されてあります。「主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」13 民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。これは『ヤシャルの書』に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。14 主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。15 ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。」どういうことでしょうか?
日が沈んでしまうと、彼らを追跡することができなくなるので、ヨシュアは日が沈まないようにと主に祈ったのです。太陽がギブオンの上にあり、月がアヤロンの谷にありました。このままでは、あと数時間後には日が沈んでしまいます。ですから、少しでも日がとどまり、明るいうちに敵を全滅させるためにもう少し時間をください。太陽よ、止まれ!と命じたのです。するとどうでしょう、民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまりました。主がこのような祈りを聞かれたことは、先にもあとにもありません。それはそうです、太陽がまる一日沈むことなく、天にとどまっていたという話など聞いたことがありません。ある人たちはこのような箇所を見ると、そんなことあり得ない、ヨシュアはただそのように感じただけにすぎない、と言います。同じ時間でも長く感じたり短く感じたりすることがあるように、この日もそれだけ長く感じられただけのことだというのです。そうではありません。人間の頭では考えられないことを、主はなさるのです。これは聖書の全歴史においても特に際立つ不思議な主の御業として記録されています。それは主がイスラエルのために戦われたからです。私たちもヨシュアのように主のことばに従い、前進するなら、私たちの頭では想像もできないようなことを主がしてくださるのです。

Ⅱ.勝利の主(16-27)

次に16~27節までをご覧ください。「16 これらの五人の王たちは逃げ、マケダの洞穴に隠れた。17 すると、マケダの洞穴に隠れている五人の王たちが見つかったという知らせがヨシュアに入った。18 ヨシュアは言った。「洞穴の口に大きな石を転がし、そのそばに人を置いて彼らを見張りなさい。19 しかし、あなたがたは、そこにとどまってはならない。敵の後を追い、彼らのしんがりを攻撃しなさい。彼らを自分の町に逃げ込ませてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ。」20 ヨシュアとイスラエルの子らが非常に激しく彼らを討ち、ついに彼らが一掃されるまで攻撃し終わったとき、彼らのうちの生き残った者たちは城壁のある町々に逃げ込んだ。21 兵はみな無事にマケダの陣営のヨシュアのもとに戻った。イスラエルの子らをののしる者は一人もいなかった。22 ヨシュアは言った。「洞穴の口を開き、あの五人の王たちを、その洞穴から私のもとに引き出して来なさい。」23 彼らはそのとおりにした。その五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を洞穴から彼のもとに引き出して来た。24 彼らがその王たちをヨシュアのもとに引き出したとき、ヨシュアはイスラエルのすべての人を呼び寄せ、自分と一緒に行った戦士の指揮官たちに言った。「近寄って、この王たちの首を踏みつけなさい。」彼らは近寄り、王たちの首を踏みつけた。25 ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵に主がこのようにされる。」26 その後、ヨシュアは王たちを討って殺し、五本の木にかけ、夕方まで木にかけておいた。27 日の入るころになって、ヨシュアは命じて彼らを木から降ろし、彼らが隠れていた洞穴の中に投げ込んだ。その洞穴の口には大きな石が置かれ、今日に至っている。」

5人の王たちの軍隊を完全に打ち負かした後、ヨシュアはギルガルの陣営に引き上げましたが、そのちょっと前に、イスラエルの前から逃れた5人の王たちがマケダのほら穴に隠れたという話が記録されています。この5人の王たちはほら穴に隠れたとき、ヨシュアは彼らをそのままにしておいて、敵のあとを追うように命令します。そして、敵を絶滅させた後でこの5人の王たちを引き出し、彼らの首に足をかけさせました。そればかりではありません。ヨシュアは彼らを打って死なせ、彼らを5本の木にかけ、夕方まで木にかけておきました。このように首に足をかけるとか、死体を木にかけるというのは、イスラエルがこの5人の王たちに勝利したことの見せしめです。
「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵は、主がこのようにされる。」
これが一目瞭然です。主がどれほど力ある方であるかは、それをみればわかります。だから私たちも恐れてはなりません。おののいてはなりません。私たちの主は全能の神であって、私たちが真に恐れなければならないのは、この神だけなのです。

Ⅲ.聖絶しなさい(28-43)

最後に28~43節までを見て終わりたいと思います。「28 その日、ヨシュアはマケダを攻め取り、この町とその王を剣の刃で討った。彼らとそこにいたすべての者を聖絶し、一人も残さなかった。彼はエリコの王にしたようにマケダの王にした。29 ヨシュアは全イスラエルとともにマケダからリブナに進み、リブナと戦った。30 主は、この町もその王もイスラエルの手に渡された。それで彼は、その町とそこにいたすべての者を剣の刃で討ち、そこに一人も残さなかった。彼はエリコの王にしたようにその王にした。31 ヨシュアは、全イスラエルとともにリブナからラキシュに進み、これに向かって陣を敷き、ラキシュと戦った。32 主はラキシュをイスラエルの手に渡された。ヨシュアは二日目にそれを攻め取り、その町と、そこにいたすべての者を剣の刃で討った。すべて彼がリブナにしたとおりであった。33 そのとき、ゲゼルの王ホラムがラキシュを助けようとして上って来た。ヨシュアは、ホラムとその民を一人も残さず討った。34 ヨシュアは、全イスラエルとともにラキシュからエグロンに進んだ。彼らは、それに向かって陣を敷き、それと戦い、35 その日に、エグロンを攻め取り、剣の刃で討った。そしてその日、そこにいたすべての者を聖絶した。すべて彼がラキシュにしたとおりであった。36 ヨシュアは、全イスラエルとともにエグロンからヘブロンに上った。彼らはそれと戦い、37 それを攻め取り、ヘブロンとその王、およびそのすべての町、そこにいたすべての者を剣の刃で討ち、一人も残さなかった。すべて彼がエグロンにしたとおりであった。彼はその町と、そこにいたすべての者を聖絶した。38 ヨシュアは全イスラエルとともにデビルに引き返し、これと戦い、39 それとその王、およびそのすべての町を攻め取り、剣の刃で彼らを討った。そして、そこにいたすべての者を聖絶し、一人も残さなかった。彼がデビルとその王にしたことはヘブロンにしたとおりであり、またリブナとその王にしたとおりであった。40 ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。41 ヨシュアはカデシュ・バルネアからガザまで、および、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討った。42 これらすべての王たちと彼らの地を、ヨシュアは一度に攻め取った。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。43 ヨシュアは全イスラエルとともにギルガルの陣営に戻った。」

マケダでヨシュアに歯向かった5人の王たちを殺した後、ヨシュアはそれを皮切りに、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、ヘブロン、デビルの町々を攻め、これらの町々を陥落させます。しかし、それだけではありません。ヨシュアは容赦なくこれらの町々のすべての住民を聖絶しました。40節には、「こうして、ヨシュアはその全土、すなわち山地、ネゲブ、低地、傾斜地、そのすべての王たちを打ち、ひとりも生き残る者がないようにし、息のあるものはみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。」とあります。いったいこれはどういうことでしょうか。あまりにも残酷な行為です。戦いで敵を破るというのはわかりますが、一人も残らずにことごとく滅ぼすというのは、あまりにも非道に感じます。ヨシュアはそれほど冷酷無比な人間だったのでしょうか。

そうではありません。今読んだ40節にあるように、あるいは25節にもあったように、それはヨシュアから出たことではなく神の命令であり、神がそのようにせよと命じられたので、ヨシュアはそのようにしたのです。すなわち、彼は主の命令どおりに行ったということです。それではいったいなぜ神はそのような命令を出されたのでしょうか。それは単に大量虐殺を行ったということではありません。ここに「聖絶」とあるように、イスラエルが聖さを守り神の祝福の基として置かれるためにそのようにしたのです。これは「聖絶」あるいは「分離」のためだったのです。彼らがカナンの異教的な習慣から守られ、神の民としての聖さを保つためだったのです。

私たちはこの世で、神の民として祝福の基としての使命を果たしていくためには、どうしてもこの世と分離しなければなりません。この世の力はとても強いものがあります。その背後には悪魔の力が働いており、罪に陥れる罠がたえずあります。だからこそ私たちは意識的にこの世から分離して、信仰の主体性というものを確立しなければなりません。そうでないと、私たちは容易にこの世の力にのみ込まれてしまうことになるからです。


パウロはⅡコリント6章17~18節でこう言っています。「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
これは、この世と交わってはならないということではありません。私たちはこの世に遣わされている者として、絶えずこの世との関わりの中で生かされているからです。パウロがここで言っている「彼らと分離せよ」とは、彼らと霊的に交わることがないようにという意味です。私たちは確かにこの世に生きていますがこの世のものではなく神のものとして、神に従って生きていかなければなりません。この世と妥協してはならないのです。分離しなければなりません。そして、時には実際に分離する必要があります。

私は1993年に韓国の光琳教会というメソジスト派では世界で一番大きな教会に行ったことがあります。韓国の教会の成長の要因はどこにあるのかを学びに行きましたが、その要因の一つはこの分離にあることがわかりました。この教会だけでなく韓国の多くの教会では祈祷院を持っています。この光琳教会の祈祷院はとても立派なもので、毎月信徒が集まって断食の祈りをするのです。断食聖会です。それはこの世と分離の時です。家を離れ、仕事を離れ、食事からも離れて、ただ神との交わり、祈りとみことばの時を過ごすのです。その中で彼らは聖霊に満たされ、信仰に満たされ、そしてまたこの世に出て行くのです。韓国にはこのような祈祷院がたくさんあるのです。そこで一月に一度とか、二月に一度、三月に一度、あるいは一年に一度、聖別して祈るのです。必ずしも祈祷院に行かなければならないということではありません。祈祷院に行く目的は、聖別することですから、この聖別することを私たちが求め、この世と分離して主体的な信仰を持つことができるのであればいいわけですが、なかなかそれを実現していくことは容易なことではありません。その点でこうした祈祷院で祈ることは大きな助けになるのは間違いありません。

では、私たちの教会のように祈祷院のない教会はどのようにして聖別することができるのでしょうか。聖書には何と書いてあるでしょうか。出エジプト記20章8節には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあります。これは十戒の第四の戒めです。「聖なる日とせよ」ということばは「カーデシュ」というヘブル語で、「分離する」という意味があります。つまり、日曜日は他の曜日とは違って分離された特別な日であることを覚えて、これを聖なる日とせよということです。他の曜日の延長に日曜日があるのではなく、日曜日は「聖なる日」なのです。もちろん、主にあっては日曜日だけが主の日でなく、毎日が主の日です。しかし、それはこの日が他の日と同じであるということではありません。これは「聖なる日」なのです。他の日とは区別された日なのです。毎週日曜日ごとに造り主なる主の前に出て、この世とのいっさいの関わりを断ち、ただ主との交わりを通して信仰を強められ、月曜日からもう一度この世に遣わされていくのです。ですから、日曜日が週の初めにあるのです。六日間働いて休む日なのではなく、一週の初めに神を礼拝し、自分が神のものであることを確信し、神から力をいただいて強められ、月曜日からまた新たにこの世での生活を営んでいくのです。それゆえに私たちは日曜日を「聖なる日」としなければなりません。これを軽んじてはならないのです。ここから聖別が始まっていくからです。

今から百年以上前に、アメリカにジョン・ワナメイカーという人物がいました。彼は「百貨店王」と呼ばれるほど優れた実業家として有名な人です。しかし彼は貧しい家で育ち、14歳で働きに出なければなりませんでした。彼は幼い頃教会学校において、日曜日は神様を礼拝する日であり、神様を礼拝することなくて他のことをすることは空しいと教えられていました。しかしその後彼が14歳で書店に勤めると、そこでは日曜日に休むことができませんでした。彼は教会学校での教えを思い出し、若かった彼は「教会に行かせてください」と正直にその書店に主人に申し出ましたが、主人はそれを許しませんでした。そこで仕方なく彼はその書店を辞めました。そして日曜日に休むことができる仕事はないかと必死に探し始め、間もなくある一つの仕事を見つけました。それは衣料品のセールスマンの仕事でした。セールスマンなら自由に働くことができると、日曜日に仕事を休むために、月曜日から土曜日まで一生懸命に働いたのです。すると、だんだんと彼の才能が認められるようになりました。やがて彼は一つの衣料店を任せられるようになり、そしてそれがどんどん大きな業績につながってくと、ついに百貨店の経営者に上り詰めたのです。そして1889年から1893年の期間、当時のアメリカ大統領ハリソンの下で郵政大臣をも務めるほどの人物になったのです。しかし、大臣という多忙な執務の中にあっても一日たりとも聖日礼拝を休むことはありませんでした。

私たちはこのジョン・ワナメイカーに学びたいものです。このワナメイカーのように日曜の礼拝を厳守し、この世と分離することによって、自分が主のものであることを確信し、そこから恵みと力をいただいて強められていく信仰を持ちたいと思います。それが聖別するということであって、そのような信仰者を主は必ず祝福してくださるのです。