いのちの道か死の道か エレミヤ書21章1~10節 


聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節(エレミヤ書講解説教40回目)
タイトル:「いのちの道か死の道か」
きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。
Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。
しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」
14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。
エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。
神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。
これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。
だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。
では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。
どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。
ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。
確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。
皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。
私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。
Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)
それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」
イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。
エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。
これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。
このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。
ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。
だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。
Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)
ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。
旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。
バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

生きておられる主 1列王記17章1~24節

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「生きておられる主」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。

主は生きておられる 1列王記17章1~24節主は生きておられる 

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「主は生きておられる」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。

いのちの道か死の道か エレミヤ書21章1~10節いのちの道か死の道か 


聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節(エレミヤ書講解説教40回目)
タイトル:「いのちの道か死の道か」
きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。
Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。
しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」
14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。
エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。
神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。
これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。
だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。
では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。
どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。
ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。
確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。
皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。
私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。
Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)
それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」
イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。
エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。
これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。
このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。
ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。
だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。
Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)
ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。
旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。
バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

落胆する者から賛美する者へ エレミヤ書20章1~13節

聖書箇所:エレミヤ書20章1~13節(エレミヤ書講解説教39回目)
タイトル:「落胆する者から賛美する者へ」
きょうは、エレミヤ書20章から「落胆する者から賛美する者へ」というタイトルでお話します。これまでエレミヤ書をずっと見てきましたが、あなたはエレミヤのような人物をどのような目で見ていますか。スーパーマンのような何の弱さもないスーパーヒーローのような人物のように考えていませんか。エレミヤは若くして預言者として召されましたが、私たちと同じ弱さをもった人間でした。このエレミヤのように私たちの人生にも、山があれば谷もあります。落胆する時があれば歓喜する時もあります。エレミヤは落胆した時、それをどのように克服していったのでしょうか。
Ⅰ.パシュフルによる迫害(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。「1 さて、主の宮のつかさ、また監督者である、イメルの子、祭司パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある、上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。3 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなく、『恐怖が取り囲んでいる』と呼ばれる。4 まことに主はこう言われる。見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者にとって恐怖とする。彼らは、あなたが見ている前で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人すべてをバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。5 また、わたしはこの都のすべての富と、すべての労苦の実と、すべての宝を渡し、ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪してバビロンへ運ぶ。6 パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、捕らわれの身となってバビロンに行き、そこで死んで、そこに葬られる。あなたも、あなたが偽って預言を語り聞かせた、あなたの愛するすべての者たちも。」」
ここに、祭司パシュフルが登場します。彼は主の宮の司、エルサレム神殿を司る、また監督する立場にある人でした。彼はエレミヤがこれらのことばを預言するのを聞きました。「これらのことば」とは、前の章の19章15節にあるエレミヤが語った主のことばのことです。エレミヤは、主が遣わしたトフェトから帰り、エルサレムにある主の宮の庭に立ち、イスラエルの民全体にこう言いました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(19:15)
これを聞いた祭司パシュフルは、気分を慨し、不快感を露(あら)わにして、エレミヤの預言を押しとどめようとしました。というのは、エレミヤが罪だとか、さばきだとか、悔い改めだとか、いつもネガティブなことばかり言っていたからです。これらのことばを聞いたパシュフルはエレミヤを打ち、彼をエルサレム神殿のベニヤミンの門という門にある足かせにつなぎました。これまでもエレミヤは主のことばをストレートに語った結果、人々から嫌われ、除け者にされ、時には殺されそうになりましたが、今回は肉体に危害が及ぶまでの迫害を受けたのです。
この祭司パシュフルについては、ここに「主の宮のつかさ、また監督者」とありますが、恐らく、エルサレムの神殿を管理する最高責任者だったのではないかと思われます。彼は主の宮のつかさとして神殿に出入りする人たちを見張り、そこにいかがわしい人物がいたら、その人を捕らえて尋問したりしていました。そこにエレミヤが彼らを責めるようなことを言ったので彼は嫌になり、エレミヤを打ち足かせにつないだのです。この「打ち」というのは、むち打ちのことです。旧約聖書にはむちは40回までと定められていました。もしこれを1回でもオーバーすると打った者が罪に定められたので、40回に1つ少ない39回のむち打ちが一般的でした。それはただ単にエレミヤを黙らせるためでした。これ以上エルサレムの住民に対して否定的なメッセージを語らないように、自分たち宗教家をバカにしないようにと脅したのです。
それだけではありません。パシュフルはエレミヤをベニヤミンの門にある足かせにつなぎました。この足かせは、からだがねじれた状態で手足を締め付ける道具です。一晩経つとからだ中の筋肉が痛みで悲鳴を上げるようになります。
エレミヤは何も悪いことをしていませんでした。彼はただ神のことばをストレートに語っただけです。それなのにこんなひどい目に遭わなければなりませんでした。こんなに不当な仕打ちを受けなければならなかったのです。神の罰を語ったがゆえに、人の罰を受けることになってしまいました。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、彼の中には相当複雑な思いがあったのではないかと思います。
翌朝、パシュフルはエレミヤを解放しました。これでエレミヤを黙らせることができると思ったのでしょう。でもエレミヤはそんな軟弱な人間ではありませんでした。彼はパシュフルが彼の足かせを解いたとき、彼にこう言いました。3節です。
「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる。」(20:3)
どういうことでしょうか。恐怖によって四方八方から取り囲まれているという意味です。恐怖が彼の周りを取り囲むようになるということです。「パシュフル」という名前は、そもそも周りは安全であるという意味ですが、その名前が改名され、安全ではなく恐怖が周りを取り囲むようになると言ったのです。自由ではなく不自由になると。具体的には4~6節までにある内容です。彼と彼の家に住むすべての人が捕らわれの身になってバビロンに連れて行かれ、そこで死んで葬られることになります。バビロン捕囚という出来事です。彼と彼の家族だけではありません。ユダのすべての人もそうです。バビロンに引いて行かれ、剣で打ち殺されることになります。どうしてこのようなことになったのでしょうか。それは彼らが自分の安全を考えて神のことばをねじ曲げたからです。その結果、バビロンに連れて行かれることになってしまいました。安全ではなく恐怖が彼らを取り囲むようになったのです。神のことばよりも自分の安全を優先させるようなことがあると、恐怖があなたを取り囲むようになるのです。
Ⅱ.エレミヤの落胆(7-10)
次に、7~10節までをご覧ください。「7 「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。8 私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。10 私が、多くの人のささやきを聞いたからです。『「恐怖が取り囲んでいる」と告げよ。われわれも彼に告げたいのだ』と。私の親しい者もみな、私がつまずくのを待ちかまえています。『たぶん彼は惑わされるから、われわれは彼に勝って、復讐できるだろう』と。」
これは、エレミヤの祈りです。彼がどれだけ落ち込んでいたかは、この祈りを見るとわかります。エレミヤは再び捕らえられるかもしれない恐怖の中にあっても、パシュフルに向かって「主はあなたの名をパシュフルではなく「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」と、大胆に主のことばを語りました。でも、彼の心は晴れませんでした。ここで彼は率直な自分の思いを神様に訴えています。
7節には、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。」と言っています。エレミヤのような信仰の勇者でも落ち込むことがあります。あの偉大な預言者エリヤもそうでした。エリヤもアハブの妻イゼベルから「おまえのいのちを取る」と言われたとき、脅えて自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。」鬱ですね。もう嫌です。もうたくさんです。もう殺してください。あのエリヤが、ですよ。エレミヤも同じです。彼は落ち込んで自分の死さえ願うほどになりました。彼は私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。どんなにスーパーマンのような人であっても、山もあれば谷もあります。落胆する時もあれば、歓喜する時もあるのです。エレミヤもまた、私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。
エレミヤはどのように祈ったでしょうか。彼はまず、「あなたはわたしを惑わしたので、私はあなたに惑われました。」と言っています。これは聞き捨てならないことばです。というのは、神様は人を惑わすようなことはなさらないからです。ではこれはどういうことなのでしょうか。これは、神様の約束が違う!という意味です。自分は自ら進んで預言者になりたかったわけではなかったのに、主がそうせよというからそうしただけであって、そうすれば主が救ってくれると言ったのに、実際は違うじゃないですか。こんなひどい目に遭っています。それで、彼は主が私を惑わしたと言っているのです。でも、本当に主はエレミヤを惑わされたのでしょうか。
1章4~8節を開いてください。エレミヤが笑みから召命を受けた時の言葉です。「4 次のような主のことばが私にあった。5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」6 私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」
主はエレミヤに対して、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」(1:5)と言って預言者として召し出されました。
そに対してエレミヤは何と答えましたか。彼はこう言いました。「私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」
それに対して主が言われたことばがこれです。7節と8節です。
  「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
主は、わたしが遣わすすべての所へ行って主が命じられたことを語るようにと言われました。恐れないで。なぜなら、主が彼とともにいて、彼を救い出すからです。
でも、現実はどうでしたか。ここでは祭司パシュフルによって捕えられ、不当にもむち打ちを受け、足かせに繋がれるという恥辱を受けました。約束が違うじゃないですか。主よ、私はあなたに惑わされたんです。騙されたんです。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。それがこの様(ざま)です。そう訴えているのです。
皆さん、どう思いますか。約束が違いますか。主が言われたことをよく見てください。主はエレミヤに何と言われましたか?「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(1:8)と言われました。主はエレミヤに、あなたは何の迫害も受けないとか、あなたの人生には何の問題もない、何の苦難もないなどとは一言も言っていません。むしろ、そういうことがあるということを前提に、「わたしはあなたともにいて、あなたを救い出す」と言われたのです。あなたの人生には間違いなくあなた一人ではとても耐えられないような患難があると。だから救い出される必要があるわけです。自分で自分を救い出せないような状況が起こるということを主は予めご存知であられ、でもそういう時でも心配しなくてもいい、恐れなくてもいい、なぜなら、わたしがあなたとともにいて救い出すからだと言われたのです。それがこの約束です。投獄されるようなことがあれば、そこにわたしもあなたと一緒にいるから、あなたはひとりぼっちじゃないから、ひとりで苦しむわけではない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すから、恐れなくていい。それが主の約束だったのです。
しかし、エレミヤはのことばを取り違えて、こんなことになるなんて話が違うじゃないかと、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」と訴えたのです。このようなことは私たちにもあります。私たちも人生の中で嫌なこと、苦しいことがあると、こんなはずじゃなかった。どうして私の人生にこんなことが起こるのかと言って嘆くことがあります。そして、この時のエレミヤのように主に対して「あなたは私を騙しました」とか「私を惑わしました」みたいなことを言うのです。皆さん、クリスチャンになるとは、バラ色の人生が約束されるということではありません。クリスチャンになっても患難はあります。失望落胆することがある。でも違うのは、そうした患難の中にあっても主がともにいて、あなたを救い出してくださるということです。これが神の約束なのです。
主はあなたの行く先々であなたと共にいてくだいます。あなたが直面している患難、試練の中にも共にいてくださるのです。今、あなたが悩み、悲しみ、ひとりぼっちで、だれにもわかってもらえないと孤独に感じる時も、主はあなたとともにおられるのです。これが主の約束です。主イエスはこう言われました。 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
イエス様は、世にあって患難が無くなるとは言いませんでした。確かに世にあっては患難はある。でも勇敢でありなさい、と言われたのです。なぜ?「わたしはすでに世に勝ったからです。」主イエスはすでに世に打ち勝たれました。死に勝利なさいました。その主が私たちと共にいてくださるのです。であれば、鬼に金棒です。鬼に金棒どころじゃない。私たちには万軍の主が共にいてくださるのだから、何も恐れる必要はありません。イエス・キリストはあなたと共におられます。たとえあなたが末期のがんであったとしても、たとえあなたが絶望の淵に陥っていても、主イエスがあなたと共におられるので、あなたは何も思い煩う必要はありません。これが主の約束です。
8節をご覧ください。エレミヤはここで、「私は、語るたびに大声を出して、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません」と言っています。これがエレミヤのメッセージでした。この「暴虐と暴行」という言葉は6章7節にも出てきましたが、エルサレムに対する神のさばきの宣言です。エレミヤのメッセージを一言でいうなら、この「暴虐だ。暴行だ」と叫ぶことでした。エルサレムの住民の罪は主に対する暴虐と暴行でしたが、それが神のさばきとして自分たちの頭上に帰ってくるということです。それが「暴虐と暴行」です。これはバビロンによってエルサレムが汚されて、完全に陥落するということです。
そういうことを語れば語るほどエレミヤはみんなから嫌われ、嘲りのもととなり、笑いぐさになりました。だれが好き好んでそんなメッセージを語りたいでしょうか。だれも語りたくありません。できればそんなこと口にもしたくありません。そんなことを言えば嫌われることくらい目に見えていました。不快なメッセージなのでだれも好き好んで語ろうとしないことですが、それでもエレミヤはずっと語ってきました。どんなに嫌われても、どんなに除け者にされても、どんなにいのちを狙われようと、ずっと語り続けてきたのです。
でもここでいよいよ耐え切れなくなりました。特にパシュフルによって拷問と辱めを受けることによって、彼の忍耐が一気に爆発してしまいました。もうやっていられない!もう嫌だ!もう止めた!英語でいうとThat’s all.です。これで終わり!です。
それで彼はどうなりましたか。9節をご覧ください。「私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」
エレミヤは、「もう主のことばを宣べ伝えない。主の御名によって語らない。」と思いました。もうたくさんです、もうごめんです、や~めた!と思ったとき、何があったのでしょうか。主のことばが彼のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになりました。それで彼は自分の内にしまっておくのに耐えられなくなってしまったのです。どういうことかというと、主のことばが彼の心のうちで燃えさかる火のようになったので、黙ってなどいられなくなったということです。「骨」とはからだ全体のことです。神のことばが骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになるので、もう爆発しそうになったのです。もう内側にしまっておくことができなくなりました。もう抑えることができません。もうどうにも止まらない、です。
ルカの福音書24章には、イエスの復活後、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていた時の様子が記録されていますが、そこにイエスが近づいてきて、道々お話してくださいました。その時二人の目はさえぎられていて、それがイエス様だとわかりませんでした。しかし、「道々お話してくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(ルカ24:32)とあります。彼らの心は内で燃えていました。イエス様が聖書を説き明かしてくださる間、彼らの心の内はずっと燃えていたのです。それと同じです。主のことばが内に燃えたのです。エレミヤは非常に失望落胆していました。でも、主のことばが彼の心に入ると、そのことばが燃えさかる火のようになって燃えました。もう主の名によって語らないと思っても、語らずにはいられなくなりました。意気消沈していた心が燃えさかる火のようになりました。皆さんもそういう経験がおありでしょう。もう嫌だ、もう無理です、もうやっていられないと落ち込んだ時に主のことばが心に入ると、燃えて来たということが。それは消すことができないほどの、抑えきれないほど強いものです。これは何も牧師や伝道者に限ったことではありません。もしあなたが救われて神の聖霊を受けているなら、主のことばがあなたの心に入ると、あなたの心は燃えさかる火のようになります。それはあなたが消そうと思っても消すことが出来ないほどのものすごく強い衝動となって迫ってくるのです。もう黙ってなどいられなくなるのです。
だから、落ち込んでいられないのです。反対され、迫害され、もう二度とイエスの名を口にするなと言われても、それでも私たちは主のことばが心に入ると、それが点火して火のようになり、黙ってなどいられなくなるからです。ですから、大切なのは、主のことばがあなたの心のうちで、骨の中に閉じ込められるということです。そうすれば、あなたは燃えさかる火のようになります。まさにヘブル4章12節には、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、抵抗できない力をもって、私たちの心を占領するのです。
ですから、私たちが落胆した時に求めなければならないことは、自分の力で奮起しようとすることではなく、主のことばによって燃やされることです。主のことばに捉えられ、主のことばにすっかり魅了される。そうすれば、いつの間にか主の御思いに動かされるようになります。Ⅰペテロ2章2節にはこうあります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」純粋な霊の乳、みことばの乳を慕い求めましょう。それによって成長し、救いを得ることができるからです。主のことばがあなたの心に燃えるとき、あなたはあなたの思惑ではなく、あなたの願いでもなく、あなたの意志でもなく、ただ神によって動かされていくようになるからです。そういう信仰生活を送らせていただきたいですね。
10節をご覧ください。エレミヤの友人までもが、エレミヤがつまずくのを待つようになりました。彼らがエレミヤに与えたあだ名は、「恐怖が取り囲んでいる」でした。これは、主がパシュフルに与えたものと同じです。彼らはエレミヤが語ったそのことばを逆手にとって馬鹿にして言ったのです。自分が語った主のことばがこのようにもて遊ばれることは、どれほど辛いことだったかと思います。彼は親しい友人からも裏切られ、失望と落胆の底に突き落とされるような思いでした。
Ⅲ.エレミヤの勝利(11-13)
エレミヤがそのように深く落胆したとき、彼はどのようにしてそれを克服したのでしょうか。最後に11~13節を見て終わりたいと思います。「11 しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、忘れられることのない永久の恥となります。12 正しい者を試し、思いと心を見る万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私に見させてください。私の訴えをあなたに打ち明けたのですから。」13 主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」
絶望的な祈りが、突然勝利の祈りに変わります。そのきっかけとなったのが、11節の「しかし、主は私とともにいて」という短い言葉です。これは、エレミヤの信仰告白です。主がともにおられるということが勝利です。主がともにいて、荒々しい勇士のようなので、自分を迫害する者たちはつまずき、勝つことかできません。神に敵対する者たちは、必ず恥を見ることになります。これが、主が約束されたことです。エレミヤはここでその約束に立ち返っているのです。それがこの「しかし」ということばに表されています。これは、みことばに基づいた信仰と言えるでしょう。このようなみことばに基づいた信仰こそ逆境の中でモノを言うことになります。ただ信じているというのではありません。みことばの約束のゆえに必ず勝利することができると確信しているのです。なぜなら、私には思いと心を見られる万軍の主がともにいて助けてくださるからです。何を言われても、何をされても、高らかに、大胆にこのように告白できるのは、みことばの約束を信じているからなのです。そうでなければ、信仰は簡単に揺らいでしまうことになります。みことばをベースに置いていなければ、信仰は簡単に倒れてしまいます。でもみことばがベースにあるなら、どんな逆境にあっても立ち向かうことができます。主がともにいてくださると確信することができるねからです。ローマ8章31節を開いてください。ここには、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも敵対することができません。この方があなたとともにいてくださるからです。
私たちは、しばしば孤独や絶望や挫折を経験します。しかし、そんな時に共にいて慰めや希望や勇気を与えてくださる神がおられることを知っている人は何と幸いなことでしょう。
神は天から私たちを見下ろして、ただ「ガンバレ」と声援を送るだけの方ではありません。この神は今から二千年前に人として私たちの世界に来られたイエス・キリストです。キリストは、33年間、この地上を歩まれました。そして私たち人間が経験する孤独や痛み、悲しみのすべてを経験されたのです。このキリストがこう約束してくださいました。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 この方があなたとともにおられるのです。であれば、だれがあなたに敵対することができるでしょうか。だれも敵対することはできません。主があなたとともにいてくださるなら、あなたは落胆から勝利へ、勝利から勝利への人生を歩むことができるのです。
以前に紹介したことがありますが、一つの美しい詩を紹介したいと思います。それは、マーガレット・F・パワーズという人が書いた「あしあと」という詩です。
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつも私の心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、わたしのすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生でいちばんつらい時には、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負ってあるいていた」
主はあなたとともにおられます。主はあなたとともにいて、あなたを守られるのです。この約束をあなたがどれだけ信じて受け止めるかで、あなたの状況はまるっきり変わります。つまり、あなたは神が見えない時は落胆し、神が見える時は勝利することができるということです。
13節をご覧ください。エレミヤは、ひどい落胆の中でこの約束を信じました。その結果、どうなりましたか。その結果、彼はこのように告白することができました。ご一緒に読みましょう。「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」
落胆の中にいたエレミヤは、主を賛美する者に変えられました。なぜなら、彼は自分の状況を見て嘆くことを止め、主がみことばによって与えてくださった約束に目を留めたからです。「しかし、主は私とともにいて、私を助け出される」と。それは私たちも同じです。私たちもすぐに自分のことで失望落胆することが多い者ですが、その中で主を見上げ、主がともにおられるというみことばの約束に目を留め、落胆から賛美する者へと変えられていきたいと思います。

砕かれた器 エレミヤ書19章1~15節砕かれた器 


聖書箇所:エレミヤ書19章1~15節(エレミヤ書講解説教38回目)
タイトル:「砕かれた器」
きょうは、エレミヤ書19章から「砕かれた器」というタイトルでお話します。前回は、18章から、陶器師と粘土の話でしたね。覚えていらっしゃいますか?神様は、神様とご自身の民との関係を陶器師と粘土のたとえで語ってくださいました。そして神様というのは陶芸家の陶器師のようであられて、その神様に対して私たちはろくろに乗せられた粘土のようなものであるというたとえですね。そして陶器師であられる神様は、土くれにすぎない私たちをろくろで美しい人に作り変えてくださるということでした。私たちはみな、陶芸師であられる神様の手の中にあって、神様はご自身の目的に従って、私たちを美しい人に作り上げてくださいます。
今日の箇所には、その逆のことが言われています。主はエレミヤに、行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老や年長の祭司たちとベン・ヒノムの谷に出かけ、同行している人たちの前で、その瓶を砕くようにと言われます。そして彼らにこう告げなければなりませんでした。11節、「万軍の主はこう言われる。「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。」
これは、イスラエルの民が修復不可能なまでに砕かれるということを象徴しています。砕かれた器は二度と直すことはできません。ですから、その前に悔い改めなければなりません。今日は、このことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.ベン・ヒノムの谷で(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。6節までをお読みします。「1 主はこう言われる。「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、2 陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。3 『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。4 彼らがわたしを捨てて、この場所を見知らぬ所としたからである。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎なき者の血で満たし、5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のささげ物として火で焼くため、バアルの高き所を築いた。このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかった。6 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば──。そのとき、もはやこの場所はトフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。」
主はエレミヤに、「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。」と言われました。ベン・ヒノムの谷は、エルサレムの南にある谷で、それは「陶片の門」と呼ばれる門の入り口にありました。この「陶片の門」は、新改訳聖書第三版では「瀬戸のかけらの門」と訳されています。陶器師が瀬戸物のかけらを捨てていた場所です。これはおそらくネヘミヤ記に出てくる「糞の門」のことではないかと思われます(2:13)が、今でも、エルサレムの城壁の南の入口が「糞の門」と呼ばれています。そこは最も低い位置にあって、瀬戸物のかけらとか排泄物、その他のごみが焼却される場所になっています。そこに出かけて行って、彼らに主のことばを語るようにと言われたのです。
それはどのような内容でしょうか。3節にこうあります。「『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。」
神がユダの地にわざわいをもたらすというのです。その理由は4~6節にあるように、彼らが神を捨てて偶像に仕え、罪のない者の血を流し、バアルに子どもたちを全焼のいけにえとしてささげたからです。人をいけにえとしてささげること、人身御供(ひとみごくう)とも言いますが、これは、神が最も忌み嫌われる罪です。このような不従順の結果、ベン・ヒノムの谷は「虐殺の谷」と呼ばれるようになります。主はそんなことを命じたこともなく、語ったこともなく、思い付きもしなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたからです。新約聖書では、これが「ゲヘナ」を意味する言葉として用いられるようになりました。地獄ですね。それは永遠に苦しむ場所を象徴しています。神様が命じたこともなく、語ったことでもなく、思いつきもしなかったことを行った結果、このような結果を招くことになってしまったのです。
それは具体的には、7~9節にあるように、バビロン捕囚のことを指しています。「7 また、わたしはこの場所で、ユダとエルサレムのはかりごとを打ち砕く。わたしは敵の前で彼らを剣で倒し、また、いのちを狙う者の手によって倒し、その屍を空の鳥や地の獣に餌食として与える。8 また、わたしはこの都を恐怖のもと、また嘲りの的とする。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑う。9 またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちを狙う者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いに、その友の肉を食べ合う。』」
「ユダとエルサレムのはかりごと」とは、ユダの民の考えや計画のことです。神様は、不従順な人々の考えや計画を打ち砕かれます。彼らの知恵までもむなしくされます。民は剣で殺され、その死体は動物の餌食となり、町はあざけりの的となります。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑うようになります。そればかりではありません。そうしたことによってもたらされる窮乏のために、何と自分の息子の肉、娘の肉を食べるようになるというのです。まさに、生き地獄です。そこはまさにゲヘナ、地獄のようです。果たしてこれが実際に起こることになります。彼らはバビロンによって虐殺され、殺された民の死体がそこを覆うようになるのです。また、彼らのいのちを狙う者がもたらす窮乏のために、自分の息子、娘の肉を、その友の肉を食べるようになります。エレミヤが書いた哀歌4章10節には、こうあります。「あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった。」このようなおぞましいことが実際に行われるようになりました。
アダムとエバが神のみことばに従わず、神との分離、つまり霊的な死を味わったように、ユダの民も死とわざわいを味わうようになるのです。イスラエルは、元々、国々の中から神の栄光を現わす特別な民として召されましたが、不従順によって恥とあざけりの対象へと転落してしまいました。世のすべての主権と権威は神の御手の中にあります。神は高くもされるし低くもされます。私たちはその神の御前に恐れおののき、すべてのことにおいてみことばに従って生きる者でなければなりません。祝福とのろいは、みことばに従うかどうかにかかっているのです。
それは子どもが生まれる時も同じです。子どもが生まれるとき、親は子どもに何も要求しません。親が責任をもって愛情をたっぷり注いで育てます。しかし、子どもが成長していくにつれ、少しずつ話を理解し、分別がつくようになると、親は子どもに従うことを求めます。「お父さんとお母さんの言うことをよく聞くように。」と。もし親がこのようなことを一切求めないなら、子どもは何が正しいかを判断することができなくなるからです。子どもが従わない時には、時にむちで打つこともあります。そのように従うことを学ぶことによって、子どもは立派な人に成長していくことができるからです。
神様も同じです。神は私たちをご自身の子として扱っておられます。神は私たちをご自分の子としてくださったとき、つまりイエス様を信じたとき、何も要求なさいませんでした。エペソ1章にあるように、神様は、世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ救われるように定めておられました。私たちがイエスによる救いを受けることができるように道を開いていてくださったのです。アーメン!また、聖霊を送り、信じる心を起こさせ、「イエスは私の救い主です」と告白できるようにしてくださいました。アーメン!そして、自分でもわからないうちに全く新しく生まれ変わり、神の前に新しく造られた者にしてくださいました。アーメン!すべては神の恵みです。私たちの力や努力によるのではありません。ただ神が私たちを憐れんで、私たちがイエス様を信じることができるようにしてくださったのです。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。エペソ2章8節には「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物、一方的な恵みなのです。
しかし、一端イエス様を信じて新しく生まれ変わった神の子どもには、従うことが求められます。神の子どもなのですから、父なる神の御心と一致した生き方が求められるのです。勿論、それさえも神の助けがなければできません。聖霊の助けと力がなければ、神に従うことができないのです。それさえも聖霊の働きによるのです。
ですから、使徒パウロはこう言っているのです。「3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:16-18)
  これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。御霊なる主が私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たちに求められていることは何かというと、主に向くということです。主に向くなら、心に掛かっているおおいが取り除かれるからです。心のおおいが取り除かれる秘訣は、「主に向く」ことなのです。主に向かないでどんなに聖書を読んでも、おおいが取り除かれることはありません。神のことばに従うことができないのです。
みなさんは、太宰治という作家をよくご存知だと思います。彼は、日本の作家の中でも一番聖書を愛読した人ではないかと思いますけれども、彼の作品には、しばしば聖書の言葉が引用されています。彼はイエス・キリストの言葉に感動して、その教えに必死に従おうとしました。ある意味で、太宰治はほとんどクリスチャンでした。でも、ほとんどクリスチャンというのとクリスチャンであるというのでは、とても近いようでも全然違います。
彼はほとんどクリスチャンでした。でも、本当の意味でクリスチャンにはなれませんでした。彼は、最後までイエス・キリストの十字架の意味が分かりませんでした。あのキリストの十字架が自分の罪のためであったことに気付かなかったのです。だから、彼はキリストの復活も、キリストの昇天も、キリストの再臨も信じることができなかったのです。
彼がいかに聖書を愛し、いかに聖書に精通していても、いかにキリストの教えに感動して従おうとしても、聖書が教える唯一の救いの道であるイエス・キリストとの個人的な関係を持たなければ、クリススチャンになることはできません。イエス・キリストを救い主として心の中に受け入れること、つまり、「主に向く」ことをしなかったために、太宰治は、聖書の周りをただぐるぐる、ぐるぐる回るだけで終わってしまったのです。
それは、私たちも同じです。どんなに聖書の話を聞いても、どんなに聖書を研究しても、たとえ聖書を全部丸暗記したとしても、聖書が私たちに与えてくれる新しい命を私たちの内側に受け取るまでは何も起こりません。神に従うこともそうです。それさえも、御霊なる主の働きによるのです。そのために必要なことは何か。「主に向く」ことです。どんなに自分の力で神に従がおうとしてもできないからです。でもあなたが主に向くなら、あなたがイエス・キリストに心を向けるなら、その時、あなたの心のおおいは取り除かれて、あなたは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。キリストにある新しい命の歩みが始まっていくのです。それが霊的に成熟している人です。
Ⅱ.砕かれた瓶(10-13)
次に、10~13節をご覧ください。「10 そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、11 彼らに言え。『万軍の【主】はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。12 わたしはこの場所と─主のことば─その住民にこのようにする。わたしはこの都をトフェトのようにする。13 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚される。』」
神のことばが目に見える形で伝えられます。こういうのを何というかというと、オブジェクトレッスンと言います。実物教育ですね。言葉で行ってもわからないので、それを目に見える形で見せるのです。百聞は一見にしかずということばがありますが、まさにそうです。聞かせるだけでなく実際に見させるのです。前回は陶器師が粘土をこねて新しい器に作り上げるということを示すオブジェクトレッスン、今回は逆です。造り上げる陶器師が作り上げた物を砕くのです。それが、焼き物の瓶を砕くという行為です。この焼き物は、イスラエルの民を象徴していました。彼らは柔らかい粘土ではなく堅い器になっていました。主はエレミヤに、その瓶を同行した人たちの前で砕くようにと言われました。砕かれた器は、二度と元に戻すことがきません。そのようにイスラエルの民ももう二度と元に戻ることはできません。その頑なさのゆえに修復不可能なほどに砕かれるのです。たとえ陶器師が水をかけても無理です。こういうのを何というかというと「不憫」(不瓶)と言うんです。瓶は瓶でも不憫です。これがエルサレムとその住民に降りかかる運命です。神様は、この神の都エルサレムをトフェトのようにすると言われました。まさに火で焼かれ、廃墟と化します。
エルサレムの家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚されることになります。勿論、罪を認めて神に立ち返り、悔い改めるなら、このような神のさばきを免れることができます。私たちはいつ滅ぼされてもおかしくない者です。それなのに、そんな私たちがまだ生かされているとしたら、それは想像もできないほどの神のあわれみと、人知をはるかに超えた神の恵みによるのです。
「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
これを逃したら、もしかしたら明日は来ないかもしれません。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。
 実は、この言葉は、旧約聖書イザヤ書49章8節からの引用です。イザヤはやがてイスラエルがバビロンに捕えられ捕虜として連れて行かれかれることを預言しました。その時彼らは奴隷として、何の希望も見いだせない日々を過ごしていました。
そんな時に失望のどん底にいたイスラエルの民に向かってイザヤは、「そうではない。神の解放の日がやって来るのだ。必ず神の解放の日がやって来る。」そう言って彼らを励ましたのです。
パウロはそのことばを受け取って、「今はイエス・キリストにあって、すべての人が解放される日なのだ。すでに神の祝福が、あなたの目の前にある。だから今、それをつかみなさい。今を生きるべきだ。」と勧めたのです。
私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っています。過去がない人も、未来がやって来ない人もいません。しかし、確かなことは、過去はもう過ぎ去ったということ、そして、未来はまだ来ていないということです。あるのは今だけです。今だけが、私たちの目の前にあるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。
でも、ある人は過去に生きようとします。「昔は良かった。あの時、あんなことをしていなかったら」と。でも、私たちは二度と過去には戻ることはできないのです。
ある人は未来に生きようとします。「こういうふうになったら、もっと頑張るんだけど」とか、「今に頑張るぞ。今はできないけど、そのうち頑張るさ。」だったら今頑張ればいいのに、そのうち、未来にはと、未来のことしか見ようとしないのです。そこには何の根拠もありません。未来に向かってただ望みを置いているだけです。過去も未来も神の御手の中にあり、神が私たちに委ねていらっしゃるのは「今」だけなのです。私たちは今しか生きることかできません。今は恵みの時、今は救いの日なのです。この「今」が与えられていることは感謝なことなのです。神があわれみと忍耐をもって、私たちの帰りを待っておられるということですから。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。
ところで、新約聖書の中にも、器に関する言及がいくつかあります。たとえば、パウロが弟子のテモテに書き送った手紙の中にこのようなことばがあります。「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21)
神はあなたという器を用いることを望んでおられます。あなたという器が有益なものとして用いられるために必要なことは何でしょうか。ここには、「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、」とあります。これらのものとは、この文脈では俗悪な無駄話とか、真理から外れてしまった教え、また不義な行いを指して言われています。これらのことから離れて自分自身をきよめるなら、あなたは尊いことに用いられる器となるのです。
神はエレミヤにユダの民の目の前でその瓶を砕き、陶器師の器が砕かれると、二度と戻すことはできない、と言われました。私たちは不義だらけな器ですが、イエス・キリストによって義の器に変えられました。ですから、そうした不義から離れ、聖霊の恵みとあわれみと助を受けて、自分自身をきよめ、尊いことに用いられる器とさせていただきましょう。
Ⅲ.だから、あきらめないで(14-15)
ですから、第三のことは、だから、あきらめないで、ということです。14~15節をご覧ください。「14 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトから帰って、主の宮の庭に立ち、民全体に言った。15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」」
エレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトからエルサレムに帰ってきて、主の宮に立ち、神の民全体にこう言いました。15節です。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(15)
たとえ神の民であっても、主のことばに聞き従わなかったら退けられてしまうことになります。
でも覚えておいていただきたいことは、神はご自身の民である南ユダがここまで落ちぶれても、最後の最後までチャンスを与え続けたということです。ここまで頑なになっても、最後まであきらめませんでした。エレミヤもこんなメッセージをしたら憎まれて、嫌われて、殺されるかもしれないという恐怖の中で、最後まで語り続けました。しかし、それ以上に、神は、この民がどんなに神を見捨ててほかの神々に走って行っても、最後まで悔い改めるチャンスを与えてくださいました。 
神は同じことを私たちにしてくださいます。神は最後まであなたのことをあきらめません。もしかするとこの中には泳げたい焼きくんのようにろくろから飛び降りた人もいるかもしれません。ろくろから落ちて地面にへばりついているという人が。地面と一体化して、この世にどっぷりと浸かっているという人がいるかもしれません。でもそういう人でも陶器師に「助けてください!」「あわれんでください!」と叫ぶなら、陶器師なる主は土くれにすぎないあなたを、地面から拾い上げて、再び水の洗いと聖霊の豊かな泉によって潤してくださいます。そして再びたたき、再び回し、再び指で押さえつけ、ご自身の意のままに、私たちを練り上げてくださり、美しい人に作り上げてくださいます。だから、あきらめないでください。あきらめたらすべてが台無しになってしまいます。あなたはやり直すことができます。もう一度やり直せばいいのです。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさらないからです。
これはアフリカへ派遣されたジェームズ・キングという宣教師が報告している実話です。
キング師が仕えていた教会に、すべての集会に欠かさず出席していた婦人がいました。彼女には愛犬がいて、この愛犬もいつも教会について来ました。この婦人はいつも通路側の席にすわり、犬は説教の間、静かにその傍にすわっていました。集会の終わりに、牧師が祈ってほしいと希望する人を講壇の前に招くと、この婦人はいつも前に行き、犬もそれについて行きました。
この婦人は、夫の暴力に悩まされていました。ある日、妻がクリスチャンとして生活していることに腹を立てた夫は、この婦人を殴り殺してしまいました。彼は、牧師がキリスト教式の葬儀を挙げることを赦しませんでした。妻は埋葬され、家には、夫と犬だけが残りました。
水曜日の夜7時になると、この犬はどこかへいなくなりますが、2時間くらいすると帰って来ます。日曜日にも同じことが起こりました。
不思議に思った夫は、犬のあとをつけてみることにしました。すると犬は、小さな教会に入り、集会の間、静かに通路にすわっていました。集会が終わりに近づいたとき、彼は犬が講壇の前に出て行くのを会場の後ろのほうから見ていました。すると犬は、妻がいつも祈りをささげていた場所にすわったのです。その光景を見た夫は、たましいが揺さぶられるような感動を覚え、自分も前に進み出て、その場でイエス様に人生を明け渡しました。そして、次の日からは、犬は新しい主人について教会に来るようになったのです。
だから、あきらめてはなりません。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさいません。あなたがどんなに落ちぶれても、どんなに頑なになっても、最後の最後までチャンスを与えてくださいます。たとえ焼き物の瓶が砕かれても、神はあなたに回復の希望を約束しておられます。でも、できれば神はあなたにそんなさばきを下したくはないのです。焼き物の瓶を砕きたくはありませ。二度と直すことができないような器にはしたくないのです。その前に立ち返ってほしい。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めことを願っておられるからです。
「さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。」(18:11)今がその時です。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのです。それぞれ悪の道から立ち返り、生き方と行いを改めましょう。

陶器師の手の中で エレミヤ書18章1~12節陶器師の手の中で 


聖書箇所:エレミヤ書18章1~12節(エレミヤ書講解説教37回目)
タイトル:「陶器師の手の中で」

エレミヤ書18章に入ります。きょうは、18章前半から「陶器師の手の中で」でというタイトルでお話したいと思います。聖書には、神様とイスラエル、あるいは神様と私たちの関係がいろいろなたとえで表現されています。たとえば、「羊飼いと羊」とか、「ぶどうの木とその枝」、「夫と妻」、「花婿と花嫁」などです。きょうの箇所では、陶器師と粘土のたとえで表現されています。陶器師の手の中にある粘土は、陶器師の思いと願い、また意思と判断によって、どのような器になるかが決まります。そして陶器師の手によってその器は完成へと導かれていくわけです。
  17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている」とありました。それは癒しがたい、変えられないと。しかし、陶器師であられる神様はそんな心さえも変えることがおできになります。ただの土くれ、粘土にすぎない私たちは、陶器師であられる主の御手の中でへりくだり、砕かれ、練られ、火の中を通るというプロセスを通って、主の似姿に変えられていくのです。

Ⅰ.ろくろで仕事をする陶器師(1-3)

 まず、1~3節をご覧ください。「1 主からエレミヤに、このようなことばがあった。2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。」

主からエレミヤに主のことばがありました。それは、立って、陶器師の家に下れ、というものでした。そこで主はエレミヤにご自身のことばを聞かせる、と。皆さんは、陶器師がろくろの上に粘土を置いて、その粘土のかたまりから器を作るのを見たことがありますか。よくテレビで見ることがありますが、実に興味深いですね。まるでマジックを見ているかのようです。エレミヤの時代、陶器作りは日常生活の一部になっていました。ですから、エレミヤが陶器師の家で見たことや彼が語るメッセージは、当時のイスラエルの人たちもよく理解することができました。

彼が陶器師の家に下って行ったとき、そこで見たものは何でしょうか。それは、陶器師がろくろで仕事をしている姿でした。陶器師は遊んでいたわけではありません。ろくろの上で泥遊びをしていたわけではないんです。ちゃんと仕事をしていました。陶器を作っていたのです。何の器かはわかりませんが、陶器師が気に入るものを作っていました。この陶器師は父なる神のことを表しています。そしてこの器とは、私たち人間のことを表しています。つまり、私たちは陶器師であられる神の御手によって作られる神の作品であるということです。
  エペソ2章10節を開いてください。ここにはこうあります。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
  私たちは神の作品です。神は愛をもって、また目的をもって私たち一人一人を作ってくださいました。この「作品」という言葉はギリシャ語で「ポイーマ」という言葉ですが、これは「ポエム」の語源になった言葉です。皆さんもポエムをご存知でしょう。「詩」ですね。でも、元々この「ポイーマ」は、芸術作品全般を指していました。詩のポエムもそうですし、美しい陶器もそうです。絵とか音楽といったものも含めて、そうした芸術作品全般がこのポイーマという言葉で表されていたのです。私たちは神のポイーマです。神によって造られた神の作品なのです。しかも、それは世界にたった一つしかない芸術作品、最高傑作品です。誰が何と言おうと、人がどのように見ようと、また、自分自身が自分のことをどう思っていようと、私たちは神によって造られた最高の芸術作品なのです。

旧約聖書のイザヤ書の中にはこうあります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(64:7)ここには、私たちは父なる神様の御手のわざだと言われています。その神様の御手による作品であるゆえに、私たちは皆、神様にとってはかけがえのない価値ある芸術作品であると言えるのです。

 ですから、イザヤ書43章4節ではこう言われているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様の目には、私たちは価値のある、尊い存在です。なぜ?なぜなら、私たちはその神の御手をもって、愛を込めて造られたものだからです。人間の物差しで見たらどのように思われるかわかりませんが、神様の物差しで見たならば、私たちは皆、一人ひとり、神様のお気に入りの愛する自慢の作品なのです。なぜなら、私たちは神によって創られた神の作品だからです。あなたは神の自慢の作品なんです。

では、神様はどのようにして作品を造られたのでしょうか。ここには、「私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところであった」とあります。彼は「ろくろ」で仕事をしていました。皆さんはろくろを見たことがありますか。ろくろとは、回転可能な円形の台のことです。2枚の石を木の軸で支え、下の石をコロコロ回すと上の石が連動して回る仕組みになっています。その上の石の部分にこねた粘土を置いて、それを水に濡らした手で陶器師が思いのままに形にしていくのです。粘土はその上でぐるぐる 回ります。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しです。そのようにして粘土はバランスのとれた形に仕上がって行くのです。これは私たちの日々の生活にたとえることができます。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で神の御手によって神のみこころにあったものとして形作られていきます。毎日毎日同じことの繰り返しのようです。でもそこで私たちは神様の取り扱いを受けるのです。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で時には指で押されたり、手のひらでグッと押し付けられることがあります。水をかけられて散々こねくり回されるようなことがあるわけです。そういう状況が続くと、キツイな、苦しいな、もう嫌だなあと、そこから逃げ出したくなったりしますが、ろくろがずっと回っているので逃げることができません。それでもあまりにも苦しくなるともう嫌だ、もうたくさんです、もうこりごりですと、ろくろから飛び降りたくなります。あの「泳げたい焼きくん」のように。皆さん、「泳げたい焼きくん」をご存知ですか。

  彼は、毎日毎日鉄板の上で焼かれるのが嫌になって、ある朝店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込みました。初めて泳いだ海の底はとっても気持ちがいいものです。お腹のアンコは重いけど、海は広いぜ、心が弾む!でも一日泳ぐと腹ペコになり、目玉もくるくる回っちゃう!たまにはエビでも食わなけりゃ、塩水ばかりじゃ老けてしまう。岩場の陰から食いつけば、それは小さな釣り針だった。どんなにどんなにもがいても、針がのどから取れないよ。浜辺で見張らぬおじさんが、ぼくを釣り上げてびっくりした。やっぱりぼくはたい焼きさ。少し焦げあるたい焼きさ。おじさんつばを吞み込んで、ぼくをうまそうに食べたのさ。

泳げたい焼きくんです。粘土も同じです。もう嫌だ、もうたくさんだとそこから飛び降りると、地面に落ちてペチャンコになってしまいます。もうそこから動けなくなってしまうのです。全く惨めです。すると嘆くわけですね。「助けてください」と。すると陶器師はその粘土をかき集め、再び丸めてろくろの上に乗せてこねくり回わします。すると粘土はまた嫌になって、もうこりごりです、もう耐えられません、そう言ってまたジャンプするわけです。すると地面に落ちてペチャンコになって動けなくなってしまいます。それで「助けてください」と叫ぶと、また陶器師がやってきて黙ってそれを拾い上げ、再びろくろの上に乗せてこねくり回します。その繰り返しです。これが私たちクリスチャンの人生です。そのようにして神様はご自身の作品を作ってくださるのです。神様は私たちをシェイプアップしようとろくろでこねくり回すと、私たちはそれに耐えきれなくなってギブアップし、地面に落ちてペチャンコになります。すると主がそれをピックアップして再びろくろの上に置いてシェイプアップしてくださる。その連続です。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。その繰り返しです。これが、神様が私たちをご自身の作品に作り上げてくださる方法なのです。そうやって神様は私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。だから、ろくろから逃げてはいけないのです。逃げたらたい焼きくんになってしまいます。逃げたらペチャンコになってしまいます。ろくろの上でこねくり回さることは時には辛いこともありますが、陶器師の手にゆだねることで、あなたは美しい器に造り上げていただくことができるのです。

Ⅱ.陶器師の手にゆだねて(4-6)

次に、4~6節をご覧ください。「4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。5 それから、私に次のような主のことばがあった。6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主のことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

エレミヤは、陶器師の家に行き陶器師がろくろで仕事をしているのを見ました。すると、陶器師が粘土で製作していた器は陶器師の気に入らなかったようで、すぐにそれを壊し、自分の気に入るほかの器に作り替えました。どういうことでしょうか。陶器師は粘土に対して絶対的な権威を持っているということです。陶器師は、自分が好きなようにその粘土を取り扱うことができるということです。形も、大きさも、デザインも、陶器師が好きなように自由に作り、気に入らなければそれを壊して別のものに作り替えることができるのです。陶器師は自分の意のままに何でもすることができるのです。これを何というかというと、「主権」と言います。神の主権は、神が絶対的な主権をもってご自身が好きなようにできるということです。神にはそのような権利と自由があるのです。それが6節で言われていることです。

「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主ことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家は主の御手の中にあります。陶器師は自分で好きなように壊したり、作り替えたりすることができます。でもそうされたからと言って粘土には何も文句を言う権利はありません。粘土はあくまでも陶器師の手の中にあり、陶器師の意のままに形作られるものだからです。それなのに、土くれにすぎない粘土が造り主である陶器師に文句を言うことがあります。たとえば、イザヤ45章9節にはこうあります。「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。」。
  陶器は土の器の一つにすぎないのに、不遜にも形造る方、陶器師に抗議することがあるのです。「何を作るのか」とか、「あなたは自分のやっていることが全然わかっていない」と。粘土がそれを形造る陶器師に向かってですよ。全然わかっていないのは粘土の方なのに、その粘土が自分を形造る方に向かって「どうしてこんなところに手をつけるのか」とか、「センスが悪い」と言うのです。どうしてこんなところに手を付けるのかって、それは陶器師がそうしたいからしているのであって、それは陶器師の自由であるはずです。陶器師にはその権利があるのです。それにイチイチ文句をつける方がおかしいのです。

パウロはこれをローマ9章18~21節で引用してこう言っています。「18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」
  神は人をみこころのままにあわれみ、またみここころのままに頑なにされます。ここではエジプトの王ファラオのことを言っていますが、神には人をみこころのままにあわれんだり、頑なにされるのです。そのような権利を持っていらっしゃるのです。神は主権者であって、だれもこの神の意図に逆らうことはできません。できるのは、その神の主権を認めるということだけです。
  それは陶器師と粘土にも言えることであって、陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いものに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利をもっておられるのです。花瓶であろうと尿瓶(しびん)であろうと、食器であろうと便器であろうと、陶器師は自分の好きなものを造る権利を持っているのです。それに対して「私は尿瓶は嫌だ、花瓶がいい」とか、「便器は毎日使うので役に立つけど、どうせ毎日使うものだったら食器の方がいい」とかと言う権利はないのです。その権利を持っているのは造られる方、陶器師だけです。

それなのに、そのように文句を言ったり不満を垂らしたりすることがあるとしたら、それは自分の立場を忘れているということです。いつの間にか自分が陶器師であるかのように錯覚しているのです。自分が神様であるかのように思い込んでいることがあるのです。自分の人生は自分のものだと、だから花瓶になってなんで悪いんだと。食器になったっていいじゃないかと主張するのです。そういうのを何と言うかというと、「主客(しゅかく)転倒(てんとう)」と言います。皆さん、ご存知ですね。「主客転倒」。主客転倒とは、主人と客のあるべき立場が入れ替わり、あべこべになることです。 そこから転じて、人や物事の立場、順序が逆転することを言います。私たちが主ではありません。私たちはただの土くれ、粘土にすぎません。陶器師ではないのです。その身分相応の立場をわきまえなければなりません。私たちはただの粘土で踏みにじられて当然の者、捨てられて当然の者、無価値だと言われて当然の者なのです。でも驚くべきことに、そんな無価値な私たちを、この陶器師が名器に作り替えてくれます。測り知れない価値ある者に作り替えてくれるのです。だから、その神の主権を認め、神がなさりたいように自由になさっていただく。これがベスト、最善なのです。

言い換えると、これは「みこころのままに」ということです。みこころがなりますようにという祈りです。私たちはそう祈っていますよね。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。主の祈りの一節です。実は、これが究極の祈りです。すべての祈りがこれに至ります。御みこころがなりますように。これがすべてと言っても過言ではありません。神の主権を認めるとは、まさにみこころがなりますようにと祈ることなのです。神の主権を認め、神がなさりたいようになさっていただく。「主よ、私はまな板の鯉です。主よ、あなたが望まれるように如何様にもしてください。あなたにすべてをお任せします。」これが、私たちに求められていることなのです。

それは6節を見てもわかります。ここには「イスラエルの家よ」ということばが2回繰り返して使われています。繰り返しているということは、これが強調されているということです。皆さん、「イスラエル」って何ですか。イスラエルとは、神に支配された者、神に治められた者という意味です。神を支配する者ではありません。神に支配される者です。神が主権者だから、当然神が治められるわけです。このような者のことを「イスラエル」というのです。神が主権者であることを認める人たち。神が王であることを認める人たち。神が陶器師であることを認める人たち。それがイスラエルです。それがクリスチャンです。このイスラエルが粘土であるように、霊的イスラエルである私たちクリスチャンも粘土にすぎません。それをどのように作るのかは、主権者であられる神だけが知っていることであって、私たちがとやかく言うことではないのです。確かに先が見えないと不安になります。でも、この陶器師がどのような方であるかを知れば、あなたは安心してこの方にすべてをゆだねることができるでしょう。この方はあなたのためにいのちを捨ててくださった救い主であられます。それほどまでにあなたを愛してくださいました。この方があなたのためにひどいことをされるでしょうか。されません。この方はあなたのために最善を成してくださいます。そう信じて、みこころのままにと、すべてを陶器師なる神さまの御手にゆだねようではありませんか。

Ⅲ.思い直される神(7-12)

ですから第三のことは、陶器師であられる主の御手の中で、あなたも新しく作り替えていただくことができるということです。7~12節をご覧ください。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。11 さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』12 しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」

これが陶器師と粘土のたとえを通して主が伝えたかった結論です。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
  主は一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったことを思い直すこともおできになります。これは1章10節で既にエレミヤに告げられたことです。主権者であられる主は、イスラエルを如何様にも取り扱うことができるということです。主はイスラエルに下そうと思っていたわざわいを思い直すと言われました。主は頑なで悔い改めない南ユダの人々に、神のさばきを宣告されました。それはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。バビロン捕囚ですね。それでも彼らが悔い改めるなら、主はそのわざわいを思い直されるのです。ここにはそのための条件が示されています。何でしょうか?「その民が立ち返るなら」です。もし、主がわざわいを予告したその民が立ち返るなら、主は下そうと思っていたわざわいを思い直されるのです。

この「思い直す」ということばは、ヘブル語で「ナハム」ということばですが、これは「悔い改める」という意味のことばです。でも神が悔い改めるというのは意味が通らないので「思い直す」としたのです。新共同訳では「思いとどまる」と訳しています。神は下そうと思っていたわざわいを思い直してくださいます。どういうことでしょうか。粘土は陶器師を変えることはできませんが、陶器師は粘土を作り替えることができるということです。下そうと思っていたわざわいを思い直すことができるのです。ここで問題になっていたのは何かというと、17章9節で言われていたことです。そこには、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」とありました。人の心は何よりも陰険なのです。だれもそれを作り替えることはできません。でも、陶器師であられる神は替えることかできます。イスラエルが神に立ち返るなら、陶器師であられる神はイスラエルを全く別のものに作り替えることができるのです。

しかし、残念ながら彼らは神に立ち返りませんでした。彼らは自分の計画に従って歩み、それぞれ頑なで心のままに行いました。まさに主客転倒だったのです。自らが神であるかのように思い込んでいました。自分が望むことは何でもできると思っていた。それゆえ、彼らに神のわざわいが下ることになります。具体的にはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。でも、彼らが主に立ち返るなら、主は彼らの心を変え、下そうと思っていたわざわいを思い直すことができました。全く新しいものに作り変えていただくことができたのです。

それは、人にはできないことです。人の心は何よりも陰険だからです。何よりもねじ曲がっています。それは癒しがたいものです。しかし、神にはどんなことでもできます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造り変えられます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

以前、フレミング先生がメッセージの中で金継(きんつ)ぎの話をされました。何の話だったかよく覚えていませんが、PPTで見せてくれた金継ぎの写真を忘れることができません。

 

 

 

 

 

写真は違いますが、このような写真でした。「金継ぎ」というのは、割れたりヒビが入ってしまったりした陶磁器を、漆(うるし)を使って丁寧にくっつけて、金の粉で装飾して仕上げる、日本古来の修復技法です。この「金継ぎ」をすることで、壊れてしまった器はより美しく甦り、金継ぎを施された器は、より芸術性の高いものとして文化財に指定されることもあるそうです。陶磁器が割れたり、ヒビが入ってしまうと、もう修復不可能だと思えますが、そんな器でも、神は修復してくださるだけでなく、もっとすばらしい器へ作り変えることができるのです。

ですから、神に立ち返りましょう。あなたが神に立ち返るなら、神は下そうと思っていたわざわいを思い直されるばかりか、金継ぎされた器のように、さらに美しい価値ある器に替えていただくことができるのです。

Ⅱコリント4章7節には、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。土の器に過ぎない私たちの内に、宝なるキリストが住まわれるとき、この測り知れない神の力があなたの心に働かれ、あなたは全く新しい者に変えられます。キリストの御霊、神の聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り取ったり、また逆に霊的に必要なものを与えたりして、私たちをキリストの似姿へと変えてくださるのです。

ですから、陶器師であられる主のもとに立ち返りましょう。粘土であるあなたは、自分では何もすることができません。でもあなたが陶器師であられる神に立ち返り、神の主権を認め、神の御手に完全にゆだねるなら、あなたの中におられる宝が、あなたを全く新しい者へと変えてくださるのです。

最後に、もう一度イザヤ書64章8節を読んで終わります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
  私たちは粘土で、私たちの主は陶器師です。私たちはこの陶器師の手の中にあります。陶器師であられる主が、私たちをキリストの似姿に変えてくださるように、陶器師なる主にすべてをおゆだねしたいと思います。

主を見上げて エレミヤ書17章11~27節主を見上げて 

聖書箇所:エレミヤ書17章11~27節(エレミヤ書講解説教36回目)
タイトル:「主を見上げて」

きょうは、エレミヤ書17章後半からお話します。タイトルは、「主を見上げて」です。エレミヤは、13節で「イスラエルの望みである主よ」と告白しています。また、14節では「あなたこそ、私の賛美だからです」と言っています。さらに17節でも「あなたは、わざわいの日の、私の避け所です」と告白しています。エレミヤは神の預言者として神のことばを語ったことでユダの民から蔑まれ、激しい痛みと孤独に苛まれていました。そのような中で彼は主を見上げ、信仰の目をもって、真の希望がどこから来るのかをしっかり見ていたのです。
  それは私たちも同じです。私たちもクリスチャンとして生きることは、必ずしも楽なことではありません。時にエレミヤのように孤独とか不安に苛(さいな)まれることがあります。でも、そのような中にあっても信仰をもって主を見上げるなら真の希望が与えられ、それを克服することができます。肺に酸素が必要なように、私たちのたましいにも希望が必要なのです。希望の灯が消えると、私たちのたましいも死んでしまいます。
  きょうは、この希望の灯をともし続けるために、目を天に向けて、希望の源であられる主を、しっかり見るようにというお話をしたいと思います。

Ⅰ.主はイスラエルの望み(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得る者がいる。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる。12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」」

「しゃこ」とは鳥のことです。キジ科の鳥で、日本のキジと鶉(うずら)の中間くらいの大きさの鳥です。あまり飛ぶことはしません。地面を走り回るといった感じです。エビなどの甲殻類の「しゃこ」ではありません。寿司ネタのしゃこではありません。あるいは、世界最大の二枚貝の「シャコ」でもありません。もちろん、車の車庫でもありません。鳥のしゃこです。かわいいですね、しゃこちゃん。これはなかなか身近にいない鳥なのでピンとこないかもしれませんが、ここでは、公正によらないで富を得る者、すなわち、不正に富を集めた人が、自分の産まなかった卵を抱く「しゃこ」にたとえられているのです。この「しゃこ」の特性が、不正に富を集める人に似ているのです。その末路はどうなるでしょうか。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、離れ去ることになります。つまり、孵化した雛が偽の親鳥から離れて行くように、不正な方法で蓄えた財も、突然その人の手からすり落ちてしまうことになります。それはまことに愚かなことです。

いったいどうしてここにいきなり富の話、お金の話が出てくるのでしょうか。前回のところには、人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は、とありましたが、それとこのしゃこの話がどのような関係があるのか。それはお金に対する価値観や考え方が、その人の祝福を決めるということです。財政が霊性を表しているということです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とある通り、金銭を愛する者は愚かです。それは前回の言葉で言うなら、まさに人間に信頼する者です。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者です。そのような者は荒れ地の灌木、幸せが訪れても出会うことがなく、焼けついた荒地、住む者のいない塩地に住むようになります。

私が何歳の頃だったかよく覚えていませんが、たぶん3歳か4歳か5歳かまだ小さい頃、可愛い子どもだった頃のことです。母と道を渡ろうと信号に止まっていたとき、そこに千円札が落ちているのを見つけました。どうするのかなぁと思って見ていたら、母の行動は素早かったですね。その千円札をさっと拾うと自分のエプロンのポケットに入れたのです。そして、私にこう言いました。「いいがい、トミちゃん、お金がすべてだがらない」今でもよく覚えています。あの光景を。忘れることができません。それ以来、私はずっとお金がすべてだと思って生きてきました。
  それは母に限ったことではありません。それは、この世の一般的な価値観です。すべての物事を、お金を基準に考えています。その結果、しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得ようとするということが起こってくるのです。問題は富に執着することです。それは愚か者に終わると聖書は言うのです。

では、どうすればいいのでしょうか。12~13節をご覧ください。「12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」

私たちは、初めから高く上げられた栄光の王座を見なければなりません。そこには、イスラエルの望みである方がおられます。その方を見上げなければなりません。そこに希望があるからです。
  エレミヤはここで、信仰の目を上げて、真の希望がどこから来るのかを確認しています。そして、神殿があるエルサレムこそ、神の栄光が宿る王座だ、と言いました。そして、主こそイスラエルの望みであると告白したのです。この主を捨てる者は、みな恥を見ます。この主から離れるなら、希望は残されていません。でも、主に信頼する者は恥を見ることはありません。失望することはないのです。こうやって見ると、ここも前回の箇所とつながっていることがわかります。

パウロはコロサイ3章2節でこう言っています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」上にあるものを求めなさい。地にあるものを求めてはならないと。なぜですか。そこにはよみがえられたキリストが神の右の座に着いておられるからです。このキリストこそ真の希望であられるお方だからです。キリストが再び来られるとき、私たちは朽ちることのない栄光のからだに復活することになります。これこそが究極の望みのです。この望みがあるなら、この地上のどんな問題も乗り越えることができます。

あなたが見ている所はどこですか。この地上にあるものでしょうか。それとも上にあるものですか。上にあるもの、イスラエルの望みである主を見上げましょう。真の希望はそこから来るからです。

Ⅱ.主はイスラエルの賛美(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。「14 「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15 ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』16 しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17 私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。18 私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえることのないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。」」

これはエレミヤの祈りです。エレミヤはここで三つのことを祈っています。第一に彼は、心が癒されることを願いました。14節には、「私を癒してください。主よ。そうすれば、私は癒されます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。」とあります。ということは、彼はこの時ピンチの状態に置かれていたということです。エレミヤは「偽預言者」のレッテルを貼られていました。それは彼がエルサレムの滅亡を預言していたからです。しかしそれがいつまでたっても実現しなかったので、人々は彼のことばをあざ笑うようになっていました。15節には、そんなエレミヤに対する彼らの嘲りのことばが記されてあります。 「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」これは、彼らの嘲りのことばです。結果的に、エレミヤの預言が実現するのは、この時から約40年後のことです。その間、彼はどんなに苦しかったかと思いますね。16節には、「しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。」とあります。彼は言いたくで言ったわけではありません。主に従う牧者として、主が語れとおっしゃられたから語っただけなのに、結果的に民に憎まれてしまいました。それで彼はとても傷ついていたのです。だから彼は主に、「癒してください」、「救ってくださいと」と祈ったのです。

でもここで重要なのは、なぜエレミヤはそのように祈ったのかということです。その理由なり、目的が14節の最後のところにあります。ここには、「あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤがそのように祈ったのはどうしてですか。それは彼が癒されて楽になるためではありませんでした。彼がピンチから救われるためではありませんでした。勿論、それもあったでしょう。でもそれ以上に、あるいは最終的には、ここに「あなたこそ、私の賛美だからです」とあるように、それによって主がほめたたえられるためだったのです。

私たちも同じように祈らなければなりません。「主よ、私を癒してください。」何のためですか?それによって主がほめたたえられるためです。主こそ、私の賛美だからです。
  「私を救ってください。そうすれば、私は救われます。」何のためですか。もうこんな生活は嫌だから、こんな状態には耐えられないからではなく、そのことによって、主の御名があがめられるためです。主が私の賛美となるためです。
  すばらしですね。皆さん、考えたことがありますか。私の癒し、私の救い、私の願い、それを通して主が崇められるようになるということを。そのことを通して主が賛美されるようになることを。私たちの祈りのすべては、主の御名があがめられるようになるためなのです。まさに主の祈りの中にある「御名があがめられるように」です。それがすべての動機とならなければなりません。それこそ、みこころにかなった祈りだと言えるでしょう。これをすべての祈りの中心にしたいですね。

第二に、エレミヤは「私を恐れさせないでください。」と祈りました。17節です。ここには、「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」とあります。ということは、この時エレミヤには恐れに苛まれていたということです。エレミヤとて、私たちと同じ人間でした。神の預言者として大胆にいのちをかけでみことばを語っていましたが、そういう人には何の恐れもないのかというとそうではなく、そのような人であってもいろいろな不安や恐れを抱えているのです。ですから、預言者としての使命を全うするためには、主の助けとあわれみが必要だったのです。祈りによってそれを克服していく必要がありました。だからエレミヤは「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」と祈ったのです。

それは、使徒パウロも同じでした。彼は、エペソ6章19節で、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っています。あのパウロが「祈ってください」と祈りを要請しています。パウロほどの人物ならば何も怖いものなどなかったんじゃないかと思うかもしれませんが、彼にも恐れがあったのです。だから、大胆に語れるように祈ってくださいと言ったのです。自分の力ではとても無理です。とても敵の前で大胆に語ることなどできません。私には祈りが必要です。私には神の力が必要なのです。どうか私のために祈ってください、そうお願いしたのです。彼は自分の弱さを認めていました。だから、祈ってくださいと素直に言うことができたのです。パウロは本当に謙遜な人だなあと思います。謙遜じゃないとこのように言うことはできません。どちらかというと、私はなかなかこのように言えない弱さがあるなぁと思います。高慢なんですね。自分で何とかしようとする。自分の力で頑張るという意識が強いのです。でも、パウロのように、自分の弱さを率直に認めて祈ることが大切です。私にはできないので、主よ、あなたが助けてください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所ですと。

第三に、エレミヤは敵が恥を見て、私が恥を見ることがないようにしてください、と祈りました。18節です。ここには「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」とあります。まさに倍返しです。しかし、これはエレミヤの個人的な復讐心から出たものではありません。神の義が全うされるようにという願いです。「あなたこそ、私の賛美だからです。」主こそ彼の賛美でした。神の義が全うされることによって、神の御名があがめられるようにという祈りが、このような表現となったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちもエレミヤのようにピンチに陥ることがあります。恐れに苛まれることがある。苦しくて逃げ出したくなるような時があります。先のことが見えなくて不安になることもあるでしょう。そのような時、そうした恐れや不安に勝利するために必要なことは何でしょうか。祈ることです。詩篇121篇
 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
 6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

先が見えない不安の中で、この詩篇の作者は山に向かって目を上げると言いました。なぜなら、彼は真の助けはそこから来ると信じていたからです。天地を創られた主から来ると。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰です。昼も、日があなたを討つことがなく、夜も、月があなたを討つことはありません。主は、すべての災いから、あなたを守り、あなたの命を守られます。この方を見上げるのです。主を見上げるのです。先が見えない不安の中でも、それをだれか人のせいにしたり、何かのせいにするのではなく、山に向かって目を上げ、そこから助けを求める。それが、私たちに求められていることです。それが不安や恐れを克服していくために必要なことなのです。

Ⅲ.主は契約を守られる方(19-27)

第三に、主は契約を守られる神であるということです。19~27節をご覧ください。「19 主は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、20 彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、主のことばを聞け。21 主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。22 また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。23 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
  24 もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い─主のことば─安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、25 ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」

ここで主はエレミヤを通して安息日の問題について語っておられます。その内容は、安息日に荷物を運ぶな、労働するな、安息日を聖く保てというものでした。彼らの先祖たちはその命令を無視し、かたくなな心で歩んできました。そして今、新しい世代の者たちに、再度この安息日を守れるようにと命じているのです。

なぜ安息日なのでしょうか。なぜなら、これが神との契約の中心だったからです。十戒にもありますね。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト記20:8)ただ休めというのではなく、これを聖なるものとしなければなりませんでした。これが神との契約のしるしだったのです。神との契約のしるしがもう一つあります。それは何かというと割礼です。ですから、この安息日を守るというのは、割礼を受けることと合わせて、ユダヤ人をユダヤ人たらしめる、ユダヤ人ならではのしるしだったのです。ですから、このエレミヤのメッセージは、神との契約関係に帰れということだったのです。もしユダの民がその声に聞き従い、安息日を守るなら、彼らの心に悔い改めの心が生じたということがわかります。しかし、そうでなければ、その他の律法も守ることはできません。
  しかし彼らはそれを守るどころか、むしろ、安息日に休むのはもったいないと荷物を運び入れ、ビジネスを展開していました。その結果、どのようなことがもたらされるのでしょうか。27節です。主はエルサレムの門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くすことになります。エルサレムは崩壊するということです。これはバビロン捕囚のことを意味しています。バビロンによってエルサレムは完全に崩壊することになります。
  神はイスラエルの民に何度も悔い改めの機会を提供されましたが、彼らはことごとくそれを拒否しました。その結果、この民を懲らしめる方法としては、バビロン捕囚しか残されていなかったのです。神の恵みを拒み続けると、自らの上にのろいを招くようになります。しかし、神との契約を守る者には、神の祝福がもたらされるのです。

問題は、あなたがどこを見ているかということです。あなたの心はどこにあるかということです。あなたの心が主から離れていれば、あなたは荒れ地の灌木、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むようになります。しかし、あなたの心が主につながっているなら、そういう人は水のほとりの植えられた木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さ知らず、葉は茂って、日照りの年も心配なく、実を結ぶことをやめません。だから、あなたがどこを見ているのかは重要なことなのです。泥だらけの地面を見るのではなく、あなたの目を天に向け、イスラエル神がどのようなお方なのかをしっかりと見て、そこから助けをいただきましょう。この神と心のベルトをしっかりかけて、希望の灯をともしていただこうではありませんか。そういう人は、何が起こってもあわてることがありません。

最後に、暗黒大陸アフリカへの宣教師として召されたデイビッド・リヴィングストンのお話をして終わりたいと思います。彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来たのです。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず約束を守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28章20節のことばを引用しました。そこで、イエス・キリストは、次のように約束しています。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
  そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を通り過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

確かな方に繋がっている、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはありません。主はあなたを守る方、イスラエルの望みです。この方を見上げましょう。そうすれば、主があなたを守ってくださいます。主はあなたの賛美、わざわいの日の、身の避け所なのです。

神に信頼する人の幸い エレミヤ書17章1~10節神に信頼する人の幸い 

聖書箇所:エレミヤ書17章1~10節(エレミヤ書講解説教35回目)
タイトル:「神に信頼する人の幸い」
エレミヤ書17章に入ります。きょうは、1節から10節までの箇所から、「神に信頼する人の幸い」というテーマでお話します。神に信頼するのか、人に信頼するのか、ということです。神に信頼する者は祝福されますが、人に信頼する者にはのろいがあります。どうしてでしょうか。9節にあるように、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。新改訳改訂第3版ではこの「ねじ曲がっている」という言葉を「陰険」と訳しています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」それは直りません。誰にも直すことができません。そんな人間に信頼したらどうなるでしょうか。裏切られ、失望することになります。しかし、神はその心を変えることができます。ですから、この方に信頼するなら、この方が祝福してくださいます。祝福は、あなたの心にかかっているのです。
Ⅰ.消し去ることのできないユダの罪(1-4)
 まず、1~4節をご覧ください。「1 「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。2 彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」」
ここには、ユダの罪が彼らの心の奥深くにまで刻み込まれていると言われています。1節に「鉄の筆」とか「金剛石の先端」とありますが、これは堅いものに何かを刻む時に使われるものです。新共同訳では「金剛石」を「ダイヤモンド」と訳しています。他の多くの英語の訳も「ダイヤモンド」と訳しています。よっぽど堅いものに文字を刻むんだなあと思ったら、刻むものは「彼らの心の板」と「彼らの祭壇の角」です。彼らの心があまりにも頑ななので、堅すぎて普通の筆では書くことができないというのです。その心には二度と消えることのない文字が刻まれています。それは彼らの根深い罪です。彼らの心には罪の性質が深く刻みこまれているということです。遺伝子の中に組み込まれているDNAのように、彼らの心には、決して消し去ることができない彼らの罪が深く刻まれているのです。
ここには、「彼らの心」だけでなく「彼らの祭壇の角」にとあります。祭壇の角とは、罪のためのいけにえの血を塗って罪の赦しを祈る青銅の祭壇のことです。それは神の幕屋の門から入ると外庭の中心に置かれてありました。その祭壇の四隅には角が作られていますが、そこに彼らの罪が刻まれているというのは、神の御前でその罪が決して赦されることがないという意味です。彼らの罪はそれほど深く刻まれていたのです。もはや消しゴムなどでは消すことができません。修正液でごまかすこともできません。堅すぎて削り落とすこともできません。入れ墨ならレーザーで消すこともできるでしょう。でも心の刻印、罪の入れ墨は何をもってしても消すことができないのです。
創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代の人たちの姿です。その時代の人たちの心に図ることはみな、いつも悪に傾いていました。これがまさに鉄の筆と金剛石の先端で記されている罪です。ノアの時代の人たちはよっぽど悪(わる)だったんだなぁと思うかもしれませんが、これはノアの時代の人だけではなく今の人も同じです。イエス様は再臨の前兆として、人の子が来るのもノアの日と同じようだと言われました。現代もノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪が増大し、その心に図ることがみな悪いことだけに傾いています。まさにその心に鉄の筆と金剛石によって罪が刻み込まれているのです。そのやること成すこと全部的外れ、神の御心を損なっています。それが今の時代です。それは何をもってしても消すことができません。
2節をご覧ください。ここには、その罪の影響が彼らの子どもたちまでに及んでいると言われています。子どもたちまでも偶像礼拝に関わっていました。彼らはイスラエルの神、主を礼拝していましたが、それにプラスして他の神々も拝んでいました。その一つがここにあるアシェラ像です。アシェラ像は豊穣の女神、繁栄の神です。彼らは、イスラエルの神を拝みながら豊穣の神を求めて拝んでいたのです。現代の人に似ています。私たちも確かに聖書の神を信じていますが、それで満たされないと他の神々も拝みます。ビジネスの成功と繁栄を求めて、自分の心を満たすものを求めて、真実の神以外に別の神も求めてしまうのです。それによって自分の子どもたちにも影響を受けてしまうのです。親がしていることを子どもが真似するからです。それほど子どもは親の影響を受けやすいのです。
その結果、どうなったでしょうか。3~4節をご覧ください。「3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」
「野にあるわたしの山」とは、シオンの山のこと、つまりエルサレムのことです。主はエルサレムの意たるところで犯した彼らの罪のゆえに、彼らのすべての財宝、すべての宝物を、戦利品として引き渡します。
そればかりではありません。4節には、主が彼らに与えたゆずりの地も手渡すことになります。ゆずりの地とは相続地のことです。主から賜った約束の地、乳と蜜の流れるすばらしい地を手放すことになってしまいます。どこに?バビロンです。4節に「あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる」とあふりますが、これはバビロンのことを指しています。エルサレムは、バビロンによって炎上することになります。それは神が怒りの火をつけられるからです。それは彼らの罪のゆえでした。ユダの罪は、鉄の筆と金剛石(ダイヤモンド)の先端で彼らの心に深く刻まれていました。それを消すことは不可能です。それは消し去ることができないほどの罪でした。
私たちは、自分の心に鉄の筆と金剛石の先端で自分の罪が刻まれていると思うと、その罪の深さにショックを受けるかもしれません。自分はこんなにひどい人間なのかと。こんなに汚れたものなのかと。自分自身にあきれるでしょう。あまりにも絶望して死を選ぶ人もいるかもしれません。
でもここに希望があります。ここに良い知らせがあります。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪がどんなに深く刻みこまれていても、その罪を洗いきよめることができます。完全に消し去ることができるのです。
主はこう言われます。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
主は、ご自身の血をもって、私たちの罪、咎のすべてを洗いきよめてくださいます。私たちのどうしようもない罪に汚れた心を、全く新しく造り変えてくださることができるのです。
Ⅱ.神に信頼する者の幸い(5-8)
次に、5~8節をご覧ください。「5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。7主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。」
ユダの罪は偶像礼拝ということでしたが、それは人に信頼し、肉の力に頼っていたことが原因でした。そういう人たちの特徴は、心が神から離れているということです。心がピッタリと神に寄り添っていないのです。神に寄り添っている時というのは人を信頼しません。肉の力を頼みとしないのです。いろいろな人があなたを助けてくれることがあっても、その人に依存することをしません。助けてもらったら感謝はしますが、その人たちがいなければ自分は何もできないとは考えないのです。そのように考えているとしたら、それは神から離れている証拠です。
当時のユダの人たちは、まさにここにある通り、人に信頼していました。肉なる力を自分の腕としていました。自分たちは、自分たちの力で何とかできると思っていたのです。具体的には、当時バビロン軍が攻めて来ていましたが、エジプトを後ろ盾にしました。たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、自分たちにはエジプトという同盟国がバックにいるから問題ないと思っていたのです。この時、彼らはエジプトと軍事同盟を結んでいました。だからいざとなったエジプトが助けてくれると思っていたのです。
でも心が主から離れ、人に信頼し、肉なる力を自分の腕とするなら、のろわれてしまうことになります。具体的には6節にあるように、そのような者は荒れ地の灌木となります。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むことになります。
「荒れ地の灌木」とは裸の木のことです。完全に枯れた木ですね。完全に渇ききってしまいます。そこにはいのちがありません。完全に不毛地帯となるのです。これがのろいです。そういう人の人生には、実が成りません。たとえあなたがクリスチャンであっても、神に信頼しないで人に信頼し、肉の力を頼みとするなら、あなたものろわれてしまうことになります。たとえあなたが物理的には神に寄り添っているようでも、その心が神から離れているなら、のろわれてしまうことになるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの心は神から離れていないでしょうか。物理的にはここにいても、心は神から遠く離れていることがあります。こうして礼拝していながらも、あなたの心があなたの宝のところに行っていることがあるのです。イエス様はこう言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)と。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。そのようにして、いつしか心が神から離れてしまうのです。心が神から離れ、人を信頼し、自分の肉に頼る人は、のろわれることになります。必ず失望することになるのです。
一方、主に信頼し、主を頼みとする人はどうでしょうか。7節には、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあります。そこには、祝福があります。その人は、水のほとりに植えられた木のようです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。どこかで聞いたことがあるよフレーズですね。そうです、これは詩篇1篇3節からの引用です。詩篇1篇1節からお読みします。「1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:1-3)
すばらしい約束ですね。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木のようになります。時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。その人は何をしても栄えます。なぜでしょうか。なぜなら、その人は主に信頼したからです。主を頼みとし、他のものを頼みとしませんでした。そういう人は日照りの年も心配なく、いつまでも実を結ぶことをやめません。

イエス様は、そのことを一つのたとえを用いて語られました。ぶどうの木と枝のたとえです。ヨハネ15章5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が木につながっているなら、その人は多くの実を結びます。枝自身が必死になって努力しなくても、自然に実を結ぶのです。枝にとって必要なことは何かというと、自分で実を結ぼうとすることではなく、木につながっていることです。枝が木につながっているなら、木の根が養分を吸い上げて枝に届けるので、自然に枝が成長して実を結ぶようになります。そのためには「時」が必要です。時が来れば実がなります。自分のタイミングでは実を結ばないかもしれませんが、時が来れば必ず実を結ぶようになるのです。でも、そのために力む必要はありません。ただイエスにとどまっていればいいのです。つながっていればいい。そうすれば、自然に実を結ぶようになります。これが主に信頼するということです。これが主を頼みとするということです。これが祝福です。
でも、イエスにつながっていなければ何もすることができません。何の実も結ぶことができない。不毛な人生となります。どんなに頑張っても、どんなに汗水流しても、すべてが徒労に終わってしまいます。これがのろいです。神から心が離れ、人に信頼する者、肉の力を頼みとする者は、不毛な人生となるのです。こんなに時間をかけたのに、こんなにお金をかけたのに、こんなに信頼したのに、全部裏切られた、全部水の泡となったと、がっかりするようになります。失望させられることになるのです。
人間に信頼しない、肉なる者を自分の腕としないで、主に信頼する人は幸いです。言い換えると、自分を頼みとする人は高慢な人です。枝だけで何でもできると思い込んでいるわけですから。でも枝だけでは実を結ぶことはできません。実を結ぶために必要なことはたった一つ。それはつながるということ。ただそれだけです。木につながること。イエス様にとどまること。そういう人は多くの実を結びます。それが主に信頼するということ、主を頼みとするということなのです。
Ⅲ.人の心は何よりもねじ曲がっている(9-10)
どうして人に信頼する者、肉なる者を自分の腕とする者はのろわれるのでしょうか。ここが今日の中心となるところです。第三に、それは、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。何よりも陰険だからです。9~10節をご覧ください。「9 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。人の深層をよく表していると思います。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳したんですね。「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏ではこっそり悪いことをする、という意味です。「あの人は陰険だ」という時はそのような意味で使っていますけど、悪くないと思います。原意からそれほど離れていません。新共同訳では、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と訳しています。「とらえ難く病んでいる」これもいいですね。人の心はとらえがたく病んでいます。そういう意味です。でも一番原意に近いのは「偽るもの」です。口語訳ではこれを「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と訳しています。心はよろずのもの、万物ですね、それよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。つまり、何よりも偽るものであるという意味です。創造主訳でもそのように訳しています。「人の心はどんなものよりも偽るもので、直すことが難しい」。すばらしいですね。口語訳とほぼ同じですが、こういう意味です。一番ストンときます。
ちなみに、この「ねじ曲がっている」の原語は、ヘブル語の「アーコーブ」という語です。皆さん、聞いたことがありませんか。「アーコーブ」。これは「ヤーコーブ」、つまり、あの「ヤコブ」の語源となった語です。意味は何でしたか。意味は「かかとをつかむ者」です。つまり、騙す者、偽る者、嘘つき、悪賢いということです。人の心というのは、騙すもの、偽るもの、嘘をつくもの、悪賢いもの、人を出し抜くものであるということです。表面ではよく見せていても、裏では悪事を働きます。陰険ですね。外側では良い人を装っても、内側では人を見下しています。それは人の心が「アーコーブ」だからです。陰険だから、ねじ曲がっているから、偽るものだから、何にもましてとらえがたく病んでいるからです。それが人の心です。あなたの心です。そんな人間を信頼したらどうなりますか。あなたをがっかりさせ、あなたを傷つけ、あなたを苦しめ、あなたを怒らせることになるでしょう。だからこそ、そんな人間を信頼してはいけない、肉なる者を自分の腕としてはいけない、と神は言われるのです。
イザヤは、こう言いました。イザヤ書28章20節です。「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」当時、北からアッシヤ帝国が北王国イスラエルに迫って来ていましたが、彼らはエジプトと同盟を結べば大丈夫だと思っていました。しかし、そのエジプトも身を伸ばすには短いベッドにすぎず、身をくるむには狭すぎるブランケットだと言ったのです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものをエジプトに求めました。自分たちを覆ってくれるもの、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神ではなく、エジプトに求めたのです。エジプトはこの世の象徴です。肉なるものの象徴ですが、そのようなものがあなたを救うことはできません。イザヤ書2章22節にある通りです。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
鼻で息をする人間には、何の値打ちもありません。いつも心がコロコロ変わっているから「心」と言うんだと聞いたことがありますが、人の心はいつもコロコロ変わります。何よりも陰険です。とらえ難く病んでいます。それは癒しがたいものです。そんな人間に頼っていったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。いつも自分の心に騙され続けることになります。
大体、自分がまともな人間だと思っているのは人と比較しているからです。他の人と比べて自分の方がマシだと思っています。自分の夫と比べて、隣の人と比べて、あの人と比べて、「私はそんなひどい人間じゃない」「あの人ほど悪じゃない」と思っています。でも、聖書の基準に照らし合わせたらどうでしょうか。もう顔を覆いたくなるのではないですか。あまりにもいい加減な自分の姿を見せられて。
では、どうしたら良いのでしょうか。それが9節の後半で問いかけていることです。ここには「だれが、それを知り尽くすことかできるだろうか」とあります。どうしたらいいのかということです。人類は自分の努力によって、さまざまなものを考え、文明の利器を作り出してきましたが、どんなに努力しても変えられないものがあります。それが、自分の心です。それは何よりも陰険でねじ曲がっています。それは癒しがたい。だれが、それを変えることができるのでしょうか。それがおできになるのは主なる神様だけです。10節をご覧ください。ここに、こうあります。「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
人の心は何よりもねじ曲がっているので、それを変えることは誰にもできません。精神分析とか、自己分析とか、自己評価とか、他己評価とか、そういったことで見極めることはできませんが、神様はおできになります。神は私たちの心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方によって、行いの実にしたがって報いてくださいます。
へブル4章12節にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」
神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。人の心の思いやはかりごとを判別することができます。正しい分析をすることができるのです。神のことばという判断基準をもって。これはいつまでも変わることがありません。人間の心はコロコロと変わりますが、神のことばは変わることがありません。神のことばは、書かれてから三千数年以上経っていますが、時代によって書き変えたり、付け加えたり、削除されたりしていません。ずっと同じです。いつまでも変わることがありません。ですから、神のことばは確かなものであると言えるのです。それは信頼に足るものです。書き換えられていないというのは完全なものだからです。ですから、私たちがすべきことはこれです。詩篇139篇23~24節です。「23 神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
これが私たちのすべきことです。まず自分の心がどれほど陰険で、罪に汚れているかを知り、それは人には直せない、どうすることもできないもの、自分の力でも、人に頼っても、どうすることもできない、と認めなければなりません。しかし、ここに私たちの心を探り、私たちの心を知っておられる方がおられる。この方にすべてをゆだね、私の心を調べ、その思い煩いを知ってもらわなければなりません。そして、とこしえの道に導いていただくことです。そのお方とはだれでしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。
黙示録2章23節には、復活の主がフィラデルフィアの教会に書き送った手紙がありますが、その中にこうあります。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
ここに、「こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る」とあります。イエス・キリストは人の思いと心を探られる方です。人の心を造り変えることがおできになる方です。宇宙一の名医、文字通り、神の手を持つ医者なのです。この方の手にかかれば、何よりもねじ曲がった、何よりも陰険で、何よりもとらえ難くやんでいる、どんなものよりも偽るあなたの心も癒していただけるのです。だからこの方に信頼しなければならないのです。
最後に、まとめとして、ニューヨークの風船売りの話をして終わります。彼は、まず白い風船を空中に浮かばせ、赤や黄色の風船も次々と浮かばせました。しばらくすると、子どもたちが集まって来ました。ところが、風船を見つめていた黒人の少年が聞きました。「おじさん、黒い色の風船も空中に浮かぶ?」すると風船売りは少年を見つめて言いました。「もちろんだよ。風船が空中に浮くのは色ではなく、中に入っているガスのおかげだから。」
同じように、人は心が美しいなら、外見に関わりなくすばらしい人生を生きることができます。人生の祝福は、あなたの心にかかっているのです。あなたの心が肉なる者を自分の腕とし、主から離れている人はのろわれますが、主に信頼するなら祝福されます。その人は、水のほとりに植えられた木のようになるのです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。そのような祝福に満ち溢れた人生を歩ませていただきましょう。

主は生きておられる エレミヤ書16章1~21節主は生きておられる 

聖書箇所:エレミヤ書16章1~21節(エレミヤ書講解説教34回目)
タイトル:「主は生きておられる」
きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。
Ⅰ.主を捨てたイスラエル(1-13)
 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」
何のことを言っているのか訳の分からないような内容です。私たちは、13章で、主がエレミヤに亜麻布の帯を買ってそれを腰に締めるように、そして、その帯をユーフラテス川の岩の割れ目に隠しておくようにと命じたことを学びました。覚えていらっしゃいますか。エレミヤがその通りにすると、その帯はどうなりましたか。腐ってボロボロになりました。ボロボロの帯です。それはイスラエルの姿を現わしていました。エレミヤはそれを自分の行動をもって現わしたのです。これを行動預言と言います。きょうの箇所でもエレミヤは行動を通して語るように命じられています。ここでエレミヤは三つのことを命じられました。
第一のことは、妻をめとるな、ということです。2節にあります。「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」どういうことでしょうか。結婚するなということです。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、星の数のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主はエレミヤに「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われました。どうしてでしょうか。
その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。具体的には、バビロンがやって来て略奪するとき、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになります。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。
第二に、主がエレミヤに言われたのは、弔いの家に入ってはならない、悼みに行ってはならない、ということでした。つまり、葬式に参列してはならないと言われたのです。5節にこうあります。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」
葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。そのそばきによる死がありにも多すぎて、彼らの死を悲しむ者がだれもいなくなるのです。
第三に、神はエレミヤに結婚式などの祝宴に出るなと言われました。9節です。「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。
いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。
日本語のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味です。これは、日本は八百万の神、神道の国だからこそ存在することわざと言えるでしょう。あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。でも実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の方が八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなく何のメリットもなければ捨ててしまうのです。
エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様のご都合によってあしらわれるわけですから。
でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚によって、またバビロン捕囚によって実現することになります。
主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。これ以上の害はありません。南王国ユダの人たちは、これを、身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。
それは具体的には律法を守られないこと、主のみことばを守らないことです。主のみことばに従わないことです。主を捨てるとは、すなわち、主のみことばに従わないことなのです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代のユダの民だけの問題ではありません。これは私たちにも問われていることです。というのは、私たちは主のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。
12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章1~9節にあるので後で確認していただけたらと思いますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりも悪事を働いていたのです。もう手のつけようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主に聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになり、主を捨てることになりました。主のみことばに聞き従いたくないのも、問題はこの心が頑なだったからです。だから、パウロはローマのクリスチャンたちに何と勧めたかというと、この思いを一新しなさいと言いました。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」「思いを一新すること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。
あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。
Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)
次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
エレミヤはこれまで行動預言を通して南ユダの真っ暗な闇を預言してきましたが、ここで希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、希望的未来預言を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。バビロンから帰還させられる時です。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜ?なぜなら、そのときは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事でした。イスラエルの民は400年もの間エジプトの奴隷して捉えられていましたが、主はそこから彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトの出来事です。すばらしい主の救い、解放の御業を成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
しかし、これから主が成そうとしていることは、その過去の偉大な出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業なのです。15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」          「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそのバビロンから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるというのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。彼らは「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
ですから、これはバビロンからの帰還の約束が希望として語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえ色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトと言えるでしょう。でも新約時代に生きる私たちにとっては。それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放を知っているからです。これこそ真の第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、第二の出エジプトと言ってもいいこのバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎないからです。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。
しかし、エレミヤの時代においては、出エジプトの出来事はすごいことでした。偉大な出来事だったのです。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れ、民は「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられることで、あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられるのです。今あなたを生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。
皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることかできます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。あの出エジプトの出来事よりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちの希望です。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのは希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。確かに希望はあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いということです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。
しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」
神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。その様が、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復の希望があります。神のあわれみは尽きることはないのです。
Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)
最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」
これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民の回復が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人を指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦の民が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。
日本人であれば、父祖から受け継いだものに仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家には檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになりました。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係なく、先祖たちから受け継いだものにすぎません。形だけです。しかも「仏様」はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことです。ですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。
エレミヤの時代、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき事実を知り、真の神を求めるようになります。
イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロン捕囚の民となりました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。
そして今度は、それを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神は生きておられる。自分たちの偶像はこの神と比べたら何の役にも立たないただの造形物にすぎない。しかしイスラエルの神はそうではない。祖国を失ったイスラエルをバビロンから解放し、彼らの土地に帰らせてくださった。これは神にしかできないこと。まさに神業です。イスラエルの主は生きておられる、と認めたのです。皆さん、これが生きた証です。
主はあなたを通してこのような生きた証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、と思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださいます。その苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。
有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあったように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださる。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イスラエルの主はまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。
主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。