堅固な青銅の城壁とする エレミヤ書15章15~21節堅固な青銅の城壁とする 


聖書箇所:エレミヤ書15章15~21節(エレミヤ書講解説教33回目)
タイトル:「堅固な青銅の城壁とする」
きょうは、エレミヤ書15章後半から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節に「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」とあります。
前回のところでエレミヤは自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔したほどでした。それはエルサレムの滅亡という極めて残酷で悲惨な預言を、ユダの民に語らなければならなかったからです。そして、それを語ったとき国中が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。
それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
アーメン!すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。主は必ず彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。
しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。ここで彼は再び神に不平をもらしています。それが15~18節の内容ですが、それに対する神の答えが、この「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」ということでした。
 私たちはクリスチャンになって予期せぬ出来事、試練に直面すると、「主よ、どうしてですか」と問いかけたくなることがあります。きょうの個所で、エレミヤはまさにそのような気分になっていました。そして神を疑い、神に不平をもたらしたのです。しかし神はそんなエレミヤを受け入れ、ご自身のもとに帰らせ、この約束のことばを与えてくださったのです。きょうは、この主の約束のことばから、共に主の励ましと慰めを受けたいと思います。
Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

 まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」
これは、エレミヤの祈りです。この祈りも実に正直で、ストレートな祈りです。自分の感情を露わにして、言葉で飾るようなことはしていません。自分の思いの丈をぶつけるような祈りです。
15節には、あなたのために私はそしりを受けていますと言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えています。
16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したのです。そしたら、それは彼にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。皆さんも体験しているでしょう。神のみことばが、楽しみとなり、喜びとなります。リビングバイブルでは「有頂天となった」と意訳していますが、そういう意味です。原語では、「心の喜びとなり」は、飛んで、跳ねて、踊って喜ぶというエキサイティングな喜びの様を表していますから。みことばを食べたそのあまりの美味しさに、そしてそれが自分の身になって、それによって生きることがあまりにも楽しくて、もう小躍りするくらいエキサイティングな人生だというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。
でもそれは患難や苦難や試練が無くなるということではありません。神のみことばを食べて、それを楽しみ、小躍りして喜んでも、患難や苦難、試練があなたを襲うことがあります。人々から疎(うと)まれたり、バカにされたり、憎まれたり、蔑まれたりすることが。でも違うのは、そのような中に置かれても、みことばがあなたを支えてくれるということです。エレミヤは神のみことばによって支えられていました。彼が神のみことばを食べて、喜んで、心の楽しみを味わっていなければ、簡単に潰れていたでしょう。
それは私たちにも言えることです。みことばを食べて、みことばを味わい、みことばを楽しみ、みことばを心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!教会に行くのを止めます!クリスチャン止めます!人生止めます!となってしまいます。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいものでした。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは、イエス様のみことば、神のみことばです。イエス様のことばを聞いて、それを食べ、それを楽しみ、それを喜ぶ人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることはありません。
それでも、エレミヤは傷ついていました。主のみことばを食べ、それを楽しみ喜んでも、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言います。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
これはどういうことかというと、「あなたは噓つきだ!」ということです。エレミヤは神様に対して、あなたは嘘つきじゃないですか。なぜ私はこんな目に遭わなければならないのですか。あなたは約束されたじゃないですか。あなたはいのちの水の泉だと。でもあなたに頼っても、欺く小川の流れじゃないですか。この「小川」とは、ワディと言われる水なし川のことです。この川は、雨季は氾濫することがありますが、乾季は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういうことです。あるようでない。あるように見せかけて実際にはありません。エレミヤは、神をこの当てにならない小川にたとえたのです。当てになるいのちの水の泉だと思ったのに、何の役にも立たないじゃないですか。祈っても答えてくれない。何にも変わらない。全くの期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきだ」なんて。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼にもなっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いの丈を正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信頼し続けていていいんですかと。私たちもこのようなことがあります。祈っても、祈っても答えられないとき、落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることが。でもエレミヤのようにそれを正直に、ストレートに神に訴えることがなかなかできません。隠してしまいます。もう相手を赦せない、憤りや怒りでいっぱいなのに、それを押し殺して、敬虔に祈らなければならないと思っているのです。
「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛めています。このような目に遭って非常に苦しんでいます。でも、私は何としてもあなたのみことばに従ってあの人を赦し、あの人を愛し、あの人のために祈りたいと願っています。主よ、どうか、あなたの力を与えてください。あなたの聖霊を注いでください。アーメン」
すばらしい祈りだと思います。でも本音はどうかというと、憎らしいのです。赦せないのです。ムカついてムカついてしょうがないのです。それなのに、時に私たちは心にないことを言ってしまうことがあります。それを何というかというと「偽善」と言います。偽善的にはなりたくないと思っていますが、でも自分を騙して、自分を欺いて美辞麗句を並べ、いかにも敬虔なふりをしていることがあるのです。でも内心はもう腹が立って、赦す気などみじんもありません。でも一応クリスチャンだから、そう祈っておかないといけないから、表面的に祈るわけです。でもそれは口先だけの祈りにすぎません。ただきれいな言葉を並べているだけです。でも神様はあなたの心の中を全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はないのです。あなたの正直な気持ちを神様にぶつけていいんです。なかなか祈れないという人は、正直になっていないからです。何かいいことを言わなければならないと思っているのです。なんか高尚なこと、霊的なこと、敬虔なことを祈らなければならないと思っています。聖書的な言葉使いをしなければならないと思っている。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。他の人の前でも、そんな感情を露わになんてできないので自分の本音で祈れないのです。だから、祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。なかなか正直になれなくて、偽りのもう一人の自分が祈っているかのような、そんな二重人格の感覚さえ抱いてしまうのです。でも、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりなんてする必要がありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に神様にぶつけていいのです。
1993年と2000年に、私は韓国に行く機会がありました。韓国の教会では、こういう祈りが多かったと思います。当時ホーリネス系の教会では世界で一番大きいと言われていたソウルにある光林教会では大きな祈祷院を持っていて、そこに宿泊していたのですが、人々が徹夜祈祷のために毎晩のようにやって来るのです。何を祈っているのかわかりませんが、犬の遠吠えのように「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っているのです。私も隣の部屋で祈っていましたが、うるさくて祈れないのです。担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈ることですと。韓国人はそういう国民性なんですかね。韓国の方はとてもよくおもてなしをしてくれますが、祈る時は他の人は関係ありません。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会で行われていた徹夜祈祷会に行った時は驚きました。礼拝形式で集会が持たれると、その後で自由な祈りの時が持たれるのですが、多くの兄姉が「チュよ、チュよ」と講壇にひざまずいて祈るのです。飢えた魚がえさを求めるように。あれは祈りを越えていました。叫びです。周りの人がどう思うかなんて関係ないのです。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。
それでいいんです。というのは、このエレミヤの不平不満、疑い、つぶやきに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんな私を疑うなんてとんでもないヤツダ!とか、もうお前のような者はわたしのことばを語る資格などない!とか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを喜んで受け入れてくれました。正直によく言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。嘘、偽りがありません。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それがエレミヤと神とのコミュニケーションでした。祈りとは、まさにコミュニケーション(対話)ですね。それがこの中に見られるということです。
私たちはこのようなコミュニケーションを神様と取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈りますという通り一辺倒の祈りではなかったか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わっていなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に生身の人間に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあります。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいますから。
ローマ8章26節にそのように記されてあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
 感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。そして、たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエス様が、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
ですから、決して神に対して不正直にならないでください。仮面を被ってごまかさなくてもいいのです。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢できません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」
でも、これで終わってはいけません。これを神に訴えるとはどういうことかというと、だから助けてください!ということです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにするということではなく、神に助けを求めるのです。神はあなたの本音を知っておられます。正直な気持ちを知っておられます。それをまず神にぶつけない限り何も始まりません。それを隠したままでことば巧みに自分自身を何か霊的な者であるかのように見せかけるというのは、神が忌み嫌うべきことなのです。
Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)
次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。エレミヤは、「どうしてですか、主よ、私の痛みはいつまでも続き、私の傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは嘘つきです。あの欺く小川の流れ、当てにならない流れのようになられるのですか。」と赤裸々に訴えると、主はエレミヤにこう言いました。19節です。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
エレミヤのつぶやき、不平に対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神を疑ったからではありません。神に本音で訴えたからではありません。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであることに対して失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていたからです。いっそのこと、民といっしょになったほうがよっぽど楽ではないかと思っていました。
そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは、それが疑いとなって現れていました。神は欺く小川のようなのか、だったらもう何も信じられない。そういう思いです。それは預言者として失格です。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていました。これは、エレミヤの生涯で最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないで、まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。
毎週日曜日の礼拝で私たちは主の祈りをします。大切な信仰告白です。でも問題は、この告白の内容を信じることができずに、立ち止まってしまうとき、人生の重さに押さえつけられてこれ以上信じられないとき、エレミヤが経験したように信仰が崩れ落ちるのを経験するとき、一体これが何を意味するのかということです。深い疑いに陥ることがあります。そのようなとき、イエス様は「わたしはあなたがたのために祈ります」と語り掛けてくださいます。信仰が保たれるように、私たちの信仰が無くならないように、イエス様が私たちのために祈ってくださるのです。最後まで私たちは信じることができます。なぜなら、私たちのためにイエス様が祈ってくださるからです。私たちのためにイエス様が信じておられるからです。これは「驚くべき恵み」です。自分の信仰が実につまらなく、取るに足らないと感じるときがあります。まさにそのとき、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈ってくださるキリストのリアリティーを体全体で知ることになります。このような経験こそ、あなたのたましいと体に、鳥肌の立つほどの最も大きな慰めとなるのです。
それから、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、「彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」という言葉です。どういうことでしょうか。彼は神の代弁者として、民に影響を与えるはずであり、民に影響されるべきではないということです。
Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)
最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えておられます。20~21節をご覧ください。それは、主はあなたを堅固な青銅の城壁とするということです。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」
エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。
使徒パウロは、Ⅱコリント4章7~9節でこのように言っています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
この「宝」とはイエス・キリストご自身のこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「の」を取ってしまうと、ただの「土器」です。私たちは皆「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。
私たちの人生にはポッカリ穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇します。「突然病気になった」あるいは、「事故に遭ってしまった」「会社が倒産した」「会社は大丈夫だけれども、自分が失業した」「愛する人を突然亡くした」というようなことがあります。
そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明け、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

転がしてあった石 マルコの福音書16章1~8節転がしてあった石 

聖書個所:マルコの福音書16章1~8節(P104)
タイトル:「転がしてあった石」

 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。
これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。
彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。
しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちは、どこで何を話し合っていたのでしょうか。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と、墓に向かっている最中で話し合っていました。
ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に会議を開くんじゃないです。「行っても無駄だ。墓の入り口にある石をどやって動かすのか。そこにはローマ兵たちがいるじゃないか。どう考えても無理に決まっている。その前に香料を買ってもただのお金の無駄遣いだ」と。
これが一般の男性が考えることです。でも女性は違います。女性は一般的に心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずにすぐにそれを行動に移します。こんなことを言ったら女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、別に女性を差別しているのではありません。それが女性のすばらしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。1秒でも早く会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も、彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えます。その極めつけが十字架です。十字架で死なれることでした。主はご自身に敵対する人を救うために十字架にかかって死んでくださいました。そして、その上でご自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをささげたのです。このような愛は、この世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあるのです。そのことに気付かないと、大切なものを失ってしまうことがあるのです。
注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。彼女たちは「なぜ」とか「どうやって」ではなく「だれが」と言いました。なぜ男の弟子たちは一緒に来ないのかとか、どうやって墓の入り口から石を転がしたらいいかではなく、だれが転がしてくれるかと言ったのです。
皆さん、「だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。」そうです、イエス・キリストです。イエスが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。「なぜ」こういうふうになっているのか、「いつ」「どこへ」行ったらいいのかと、その状況とか、方法とかを考えてしまうあまり、何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に、神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」とか「いつ」とか「なぜ」と問わないで、「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知ってください。この女性たちのように。彼女たちはイエスの亡骸に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエスです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられます。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。
榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。
そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。
招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。
席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。
T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。
T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。
榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。
それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。
帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。
榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。
それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。
「先生、息子を、よろしくお願いします」。
頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。
「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」
ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」
ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。
それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。
でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

苦難の時に生きる道 エレミヤ書15章1~14節苦難の時に生きる道 

聖書箇所:エレミヤ書15章1~14節(エレミヤ書講解説教32回目)
タイトル:「苦難の時に生きる道」
きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。皆さんは、自分の運命を嘆いたことがありますか。また、自分なんて生まれてこないほうがよかったと感じたことがあるでしょうか。そのようなとき、あなたはそれをどのように乗り越えてきましたか。
今日の個所で、エレミヤは自分の運命を嘆き、生まれてきたことを後悔しています。10節で彼はこう言っています。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている」
  ここで彼は自分が生まれてきたことを嘆き、悲しんでいます。なぜ彼はこのように自分の運命を嘆いたのでしょうか。また、それをどのようにして乗り越えることができたのでしょうか。今日はそのことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。
わき水の泉である主を捨て、壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章前半では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りましたが、主はそれをことごとく退けられてこう言うのです。1節です。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」
モーセとサムエルはまさにとりなし手の代表です。モーセは律法の代表者であり、サムエルは預言者の代表者です。彼らに共通しているのは、彼らがとりなしの名手であるということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして、彼らを救ってきました。
たとえば、イスラエルが金の子牛を造って拝んだとき、主は「わたしは彼らを絶ち滅ぼし、あなたを大いなる国民にする」と言われましたが、その時モーセが彼らのためにとりなすと、主はさばきを思い直されました(出エジプト32:11-14)。サムエルはどうでしょうか。サムエルも主が周囲の敵からイスラエルを救い出してくださったのに彼らが自分たちを治める王が必要だと言って主のみこころを損った時、彼らのためにとりなしてこう言いました。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪を犯すことなど、とてもできない。」(Ⅰサムエル12:23)すると主は、その祈りを聞いてくださいました。
しかしここでは、たとえそのモーセとサムエルがとりなしても、主の心はこの民に向かわない。この民を主の前から追い出し、立ち去らせるというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な英雄、信仰の巨人と言われる人が祈っても、今回ばかりは、主がさばきを思い直されることはないというのです。まあ、モーセとサムエルの時代も神の民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。モーセやサムエルが主のみこころを伝えると、協力的にそれを受け止めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。まだへりくだっていたのです。しかし、このエレミヤの時代の民は、手がつけられないほど反抗的でした。エレミヤが神のことばを語るとあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのに、そんなエレミヤを目の上のたんこぶのように、邪魔者扱いしました。ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。
2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」
それに対して彼らは主の言葉を軽く考えて、「追い出されるならどこへ行こうか」と応答していましたが、そんな彼らに主は事の重大さを明確に伝えます。それは14章にもありましたが、疫病によって死ぬか、剣で殺されるか、飢饉で死ぬかということです。そして生き残った者は捕囚として連れて行かれることになるということです。この四つしかありません。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになります。
しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望を持ちえないと思うかもしれませんが、覚えていただきたいことは、神様は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということです。私たちの神は一人として滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、神様はあえてこのような試練や困難を与えて、彼らがご自身のもとに立ち返るようにと矯正しておられるのです。徹底的な厳しい対処をしながらも、決して見捨てることはなさらないのです。だって、もし本当に滅ぼすつもりなら、こんな回りくどいことはしないでしょう。あのソドムとゴモラを滅ぼしたように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら、痛みを与えて、お尻をペンペンして、彼らが間違いを犯したことを思い知るようにさせたのです。それは彼らを滅ぼしたいからではなく救いたいからです。同じように主は私たちをも受け入れ、赦したいのです。またその関係を回復したいと願っておられるのです。子どもが間違いを犯して親に「ごめんなさい。許してください」という時、親が両手で抱きしめてくれるように、私たちを赦し抱きしめて受け入れてくださるのです。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも教育を目的とした試練なのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みと憐れみに満ち溢れていたすばらしい時だったかを知るようになります。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。
それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
これがエレミヤの使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜かなければならないのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げるためだったのです。建設的な目的でなされたのです。もしあなたが彼らほど頑なでなければ、神様はあなたにこういう扱いはされません。彼らは頑なで、どんなに口で言っても聞かなかったので、主は痛みを与えてまでも彼らを立ち返らせようとしたのです。そんな思いをしなくても「わかりました。ごめんなさい」と素直に受け入れたなら、それで済むことだったのです。
4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。
主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは、地のすべての民が、ユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるということです。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。どういうことでしょうか。マナセはユダの王ヒゼキヤの子ですが、南ユダ王国史上最低の王でした。極悪王です。彼については歴代誌第二33章1~9節に書いてあるので参照していただきたいと思いますが、彼は12歳で王になると、エルサレムで55年間南ユダを治めました。彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行いました。そして、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像も造りました。また、彼は天の万象を拝んでこれに仕えたのです。こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように」と言われた主の宮に、いくつもの偶像の祭壇を築いたのです。そして、ベン・ヒノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせたり、卜占(ぼくせん)とかまじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていたのです。彼はそのようにしてユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせたのです。そのために主は、それから約100年後のこのエレミヤの時代に、南ユダを滅ぼすと決めたのです。マナセがエルサレムで行ったことのために、南ユダは悲惨な状態に置かれることになってしまいました。一人の国家のリーダーの罪によって大きな弊害がもたらされることになるということです。それは今だけでなく後の時代にも影響を及ぼすことになります。そういう意味では、エレミヤの時代だけでなく、今の時代においても私たちはどうなのかが問われているのです。
Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)
次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」
エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告です。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれからも相手にされないということです。完全に見捨てられることになります。6節の「わたしはあわれむのに疲れた」とは、もう二度と憐れまないということです。その都度「ごめんなさい。もうしません」と言うものの、それは口先ばかりで、心が伴っていなからです。その場しのぎの謝罪にすぎません。同じことを繰り返しても謝れば赦してもらえると思っています。泣きつけば赦される、涙を見せれば赦されると思っているのです。主はそういうことに疲れたと言っておられるのです。主は心からの悔い改めを望んでおられます。表面的に悔い改めて罪の赦しを求めるというのではなく、主の御前に砕かれた悔いた心をもって出ることを求めておられるのです。「主よ、私はあなたの御前に罪を犯しました。私は滅ぼされてしかるべき者です。それでも、なお、あなたにすがります。どうかあわれんでください。」と、目を天に向けることもできず、胸を叩いて泣きながら、自分の心を注ぎ出して祈ったあの取税人のように祈るなら、主は必ず聞いてくださいます。ご自身の恵みによってすべての罪、咎を拭い去り、きよめてくださるのです。
でも、彼らはそうしませんでした。ただ適当に教会に来てればそれで神様に受け入れられると思っていました。日曜日の礼拝さえ守っていれば、それで十分だと思っていたのです。そういう人たちに対して主は、もうそれは飽きたと。もう疲れたと言っておられるのです。主が求めておられるのは砕かれた悔いた心です。主はそれをさげすまれません。
 7~9節は、エルサレム滅亡の預言です。「熊手」とは脱穀の時に用いられるもので、もみ殻と実をふるい分ける時、この熊手ですくい上げて空中に飛ばすと、軽いもみ殻だけが飛んで重い実が落ちますが、その時に使う道具です。神様はもみ殻を熊手でふるって殻を飛ばすように、ユダの民を追い散らすのです。その時に用いられるのがバビロンです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵攻して来て、妻子たちを奪って行くのです。8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうということです。9節には、息子を戦争に送り出した母親の嘆きが描かれています。「七人の子を産んだ女」とは、「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまいます。それほどの悲劇だということです。
彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡した理由は、バビロンが強かったからではなく、イスラエルの罪のためでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神との関係はどうなのかを考えなければならないのです。私たちと神との関係が壊されるのと同時に、これまで努力して積み上げてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになります。苦難の時に生きる唯一の道は、神との関係を回復することです。神に立ち返ることだけが生きる道なのです。神はそのような者にご自身の恵みとあわれみを注いでくださるのです。
Ⅲ.神の慰め(10-14)
第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。まず10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」
この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことの悲しみ、悲惨さを嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこなければよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。
続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語るので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。
「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されました。あまりにも理不尽です。
それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しんだのです。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬中毒のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬中毒のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。
11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」
アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われたのです。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これ以上の慰めがあるでしょうか。
アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方、私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。
そして、神はエレミヤに、励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。
皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださったのです。
エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。
あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

神のジレンマ エレミヤ書14章10~22節神のジレンマ 

2023年3月5日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書14章10~22節(エレミヤ書講解説教31回目)
タイトル:「神のジレンマ」
きょうは、エレミヤ書14章10~22節から「神のジレンマ」というタイトルでお話します。主はイスラエルの民を救いたい、けど救えない、そのジレンマです。
Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」
14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。
何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑うような言葉です。神様が本当にこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかしここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いがします。本当にそんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。
そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どんなに祈っても、どんなに献げても、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすというのです。それは彼らがいのちの水である主を捨て、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。
皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に拒絶されるなら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。
ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食料不足で飢えることです。14章の前半では日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたがまだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったことです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされたのです。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうからです。
  ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。
毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかがわかります。
その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われるのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。
私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があります。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦しと回復へと導いてくださるのです。
Ⅱ.偽りの預言者(13-18)
次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」
ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいこと、否定的なことではなく肯定的なことを語るということです。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全て否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない、かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることを否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を伝えたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないのです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たち、偽預言者たちがいたのです。彼はここでそのことを訴えているのです。
それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」
どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように私的解釈を施すことがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)
15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないですよ。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを区別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのは人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。本物のクリスチャンは内面が変えられていきます。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。
また、この良い実とは、御霊の実でもあります。御霊の実にはどんなものがあるでしょうか。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)聖霊によって神の子としての性質を頂いた人は、これらの良い実を結ぶようになるのです。
そのためには、使徒の働き17章に出てくるベレアの教会の人たちのように、人が言ったことを鵜吞みにしないで「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べる」(使徒17:11)ことが大切です。羊は羊飼いの声を聞き分けるとありますが、いつも本物に触れていれば、それが真実か偽りかを判別することができるようになるからです。以前、銀行で働いている人に聞いたことがあります。本物か偽札を区別する方法は、常に本物に触れていることだと。常に御言葉に触れていることが偽物を判別する秘訣なのです。
エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。
この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、同時に神の目のことでもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」と言われていることからもわかります。この「私」とは明らかに神様のことを指して言われているのです。ですから、エレミヤの目は、夜も昼も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったということです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。
イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。
エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしない。だからさばきを宣言しなければならなかった。それが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。
それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応は、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれないのです。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。それこそ心を閉ざしてしまうのではないか。聞く耳を持ってもらえなくなってしまうのではないか。今までの良好な関係だったのに崩れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえないかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ったり、うやむやにしようとするわけです。今はちょっと頑なだからもうちょっとしてから伝えようとか、時間が経てば聞いてくれるだろう、年をとって動けなくなれば聞いてくれるかもしれない。それこそ寝たきりになったらどこにも逃げられないからその時がチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っているように、神のさばきも宣告しなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。
最近、私とFacebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮するかたは多いのではないかと思います。
まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答えるかたもいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。
皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかが明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きましたが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっているのです。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えるのは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。
エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので皆から嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。
Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)
ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」
エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく、彼は神の祭司として神の心も取り次いでいたのです。祭司とは、神と人の仲介者のことです。これこそ神の本心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。
ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っていることがわかります。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは14章7節で説明した通りです。名は体を表します。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。
八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方、それはイスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

苦難の時の救い主 エレミヤ書14章1~9節 苦難の時の救い主 

2022年2月19日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書14章1~9節(エレミヤ書講解説教30回目)
              タイトル:「苦難の時の救い主」

Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

■エレミヤ書2章13節
「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

■ヨハネ4:13-14
「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

■申命記28章24節
「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」

■ヨハネ15:5
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

■エレミヤ13章22節
「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」

■ホセア書6章3節
「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

Ⅱ.主の御名のために(7)

■エレミヤ7章16節
「あなたは、この民のために祈ってはならない。」

■エレミヤ11章14節
「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」

■Ⅰヨハネ1章9節
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

■出エジプト記34章6~7節
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」

Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)

■エペソ2章11~13節
「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 

■詩篇50篇15節
「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」

■詩篇91篇15節
「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」

■詩篇37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

酒壺に満たされた酒 

聖書箇所:エレミヤ書13章12~27節(エレミヤ書講解説教29回目)
タイトル:「酒壺に満たされた酒」
きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回の箇所でエレミヤは、主が命じられたとおり、亜麻布の帯を買い、それをユーフラテス川まで行って隠しました。するとかなりの日が経ってから、再び主からことばがありました。それは、もう一度ユーフラテス川へ行き、今度はそれを取り出すようにということでした。エレミヤは主の言われたとおりにすると、その帯はぼろぼろになって何の役にも立たなくなっていました。いったいこれはどういうことかと思っていたら再び主のことばがあり、それはユダとエルサレムの大きな誇りであると示されました。その帯がぼろぼろになったように、主は彼らの誇りをぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、このように行動を通しての預言はもっと強烈です。
きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて語られました。このたとえを通して主は何を語ろうとしたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民イスラエルはいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないのです。それで主は彼らの酒壺に、ご自身の怒りの酒で満たされるのです。
Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」
主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が、神の怒りで満たされるのです。
それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。
これは、彼らは神様の徹底的なさばきを受けるようになるということです。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。だから、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちは、これっぽっちもなかったのです。たとえば、その前のところに、主は「酒壺には酒が満たされる」と言われましたが、それに対して彼らは何と言いましたか。「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。
ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思って奉仕しながら、結果的に自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。
ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶と一緒にご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますとのメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じました。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたも、この天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来ます。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。
16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。ヨハネの福音書11章9~10節にこうあります。「9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
 主イエスは世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かれました。いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられています。それに応答しなければ、闇があるだけなのです。
もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロンに捕えられて行くことになるということです。バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通です。それなのに彼はそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。
そして、これが私たちの主の涙でもあります。主の心です。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を迫害する者たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。
ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。
Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)
次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」
高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきが宣言されています。18節の「王」とは、先週「王と預言者」たちの一覧表を配布しましたが、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。
そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らは王の位から引きずり落されるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。
20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるということです。彼らは羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありませんでした。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても。「あなたがともにおられますから。」主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも、彼らは真の羊飼いではなく、他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも同じです。神との関係が正しければあらゆる人間関係は正されすべての問題は解決しますが、その関係を無視し、この世に解決を求め、神をないがしろにするなら、このような結果を招いてしまうことになります。
それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国の脅威に対して神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。
その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それはあなたの咎のためです。あなたの多くの咎のために、あなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うのです。あらゆる不幸の原因はここにあります。すなわち、神を神としないことです。イザヤ書に書いてある通りです。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)
交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」というのを聞いたことがあります。それと同じように、罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で神に立ち返らなければならないのです。
Ⅲ.神に心を明け渡して(23-27)
では、どうしたら良いのでしょうか。ですから、第三のことは、あなたの心を神に明け渡してということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」
「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪に慣れた人を、善を行う人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることは不可能だということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。
使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造のことです。全く新しい人として造り変えられることです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければならないからです。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人間として生まれ変わるのです。
それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。自分はどうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去るのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だ!持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。
使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)
それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。
27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。
この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることがないということを知ってほしいと思います。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

ぼろぼろになった帯 エレミヤ書13章1~11節ぼろぼろになった帯 

2023年1月29日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書13章1~11節(エレミヤ書講解説教28回目)
タイトル:「ぼろぼろになった帯」
きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られるのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。
Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)
まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」
主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならない、つまり、洗濯してはならないということだからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も身に着けた帯を洗わないというのは不衛生です。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことを言われるのだろう」とか、「そんなことをしていったいどうなるというのか」という思いもあったかもしれませんが、彼は主が言われるとおりにしたのです。
ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範とすべき点です。私たちも聖書を読んでいると、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、エレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。
創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、アメリカンフットボールのコートの1つ半の長さで、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。
時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に解釈して従おうとしないことがありますが、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりに受け止める必要はないと考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれを文字通り受け止めそれに従うことが求められます。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。
すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか、「主のことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次の指示が来ないのです。
エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。それは4節にあるように、「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」ということでした。どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはアナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方が、この後の説き明かしの際に神が意図していたことが明確になるからです。
その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。
ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。
するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですかと言いたくなります。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。彼は主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・・。皆さん、知っていますか?キャビア。世界三大珍味の一つで、高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは他に、フォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。
するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐っていて、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。
Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)
いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」
すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。
いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇り、高慢とはどういうことでしょうか。高慢とは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し、自分の考えで進もうとすること、これが高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆に謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しい、謙遜であるということを、「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の心を全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になった心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それが謙遜であると言うのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それは謙遜であるかのようですが高慢であるということです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。
第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持つことができないのです。「そういう道もあるでしょうね。参考までお聞きしておきますが」とか、「でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。
第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。
あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。
Ⅲ.主に結び付いて(11)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」
ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であり、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司の帯であるとしたら祭司の務めは礼拝ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。主はそこまで私たちと一つになりたいのです。それが神の願いなのです。
これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。
それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これが、イスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。
パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

絶望の中にある神の希望 エレミヤ書12章7〜17節

聖書箇所:エレミヤ書12章7~17節(エレミヤ書講解説教27回目)
タイトル:「絶望の中にある神の希望」

クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

 

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

 

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

 

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

 

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「斑(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

 

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

 

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

 

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

 

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

 

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

 

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

 

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

 

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を蔑(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

 

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。

10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。

「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」

その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

 

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

 

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

 

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

 

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

 

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

 

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」

ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。

これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

 

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

 

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。

主を知ることを切に追い求めよう ホセア書6章1~3節

聖書箇所:ホセア書6章1~3節
タイトル:「主を知ることを切に追い求めよう」

新年おめでとうございます。皆さんは、どのような思いをもって新年を迎えられたでしょうか。今年は1月1日が日曜日となり、こうして1年の最初の日に共に主を礼拝できることを感謝します。

毎年、新年に示されたみことばから新年の教会の目標を掲げておりますが、今年は、昨年礼拝で示されたみことばから特に私の心に響いてきた聖句を目標に掲げました。それは、エレミヤ9章3節にこうあります。「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。」
 イスラエルの民が、悪から悪へと進み、主に対して真実でなかったのは、主を知らなかったからです。その結果、悪から悪へと進み、人間関係がギクシャクし、社会全体が混乱するようになりました。これは私たちにも言えることです。すべはこの「主を知る」ということで決まるのです。

それできょうはその「主を知る」ことについて、ホセア書6章1~3節のみことばからお話したいと思います。特に6章3節が、今年の教会の目標聖句となります。ご一緒に読んでみましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 これはB.C.790年頃に、神が預言者ホセアを通して北王国イスラエルの民に対して語ったことばです。当時の王様はヤロブアム2世という王様でしたが、国全体に偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。その最大の原因は、彼らが主を知らなかったからです。そんなイスラエルの民に対してホセアは、「主を知ることを切に追い求めよう」と語るのです。
 これはいつの時代でも、どの民族にも言えることです。私たちの人生における問題は、このことに関わっています。ですから、私たちは今年このみことばを心に留め、主を知ることを切に追い求める年でありたいと思うのです。

Ⅰ.さあ、主に立ち返ろう(1)

 

それでは、本文を見ていきましょう。1節をご覧ください。ここには、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあります。

ホセア書は神に背き神から離れて行ったイスラエルの民との関係を、ホセアとその妻ゴメルとの関係を通して語ります。すなわち、ホセアとゴメルという夫婦関係を通して、神に背いたイスラエルが神に立ち返るようにと勧告するのです。夫ホセアの愛は人知をはるかに超えた愛でした。夫を裏切り、不貞を働いた妻ゴメルを、その結果、奴隷として身を売る羽目になっていた妻ゴメルを見離さず、見捨てず、お金を払って買い取のです。そして、こう呼びかけてくださいます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

 

このことばは、その前にある5章14~15節のことばを受けてのことばです。そこには、「14 わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」とあります。

ここで主は姦淫の妻ゴメルのように神から離れて偶像に走って行ったイスラエルの民に対して、彼らを引き裂くと言われました。これは、具体的にはアッシリアという国によって滅ぼすということです。だれも彼らを助けることはできません。そうすることで、もしかすると彼らは自分の罪を悔い改めて神に立ち返り、神を慕い求めるようになるかもしれません。それまで当たり前だった神の存在が感じられなくなることで、神を慕い求め、神を捜し求めるようになるかもしれない。それまでは自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと、主は言われたのです。

 

それを受けてホセアは、北王国イスラエルの民に「さあ、主に立ち返ろう」と呼び掛けるのです。それはいつですか?今でしょ。今が主に立ち返る時だと。主が御顔を隠しておられるのは、私たちが主を慕い求めるようになるまでなのだから、今、立ち返ろうではないかと呼び掛けているのです。これはすばらしい招きです。なぜなら、ここに「主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあるからです。もし主に立ち返るなら主が癒し、包んでくださいます。主は引き裂かれるだけでなく癒やしてくださる方です。打つことはあっても包んでくださいます。事実、主は彼らを引き裂かれました。主が預言者を通して何度も何度も主に立ち返るように語ったのにそうしなかったので、アッシリアという国を用いて彼らを引き裂かれるのです。でもそれは彼らを滅ぼすことが目的ではありません。そうではなく、建て上げることが目的なのです。癒すために引き裂くのです。包むために打たれるのです。誤解しないでください。神様があなたを引き裂かれるようなことがあるとしたら、それはあなたを滅ぼすためではなく癒すためです。ちょうど外科医がメスを入れてあなたを蝕(むしば)んでいる悪いものを取り除き、その痛んだ傷を包帯で巻くように、主はあなたを蝕んでいる罪を取り除くためにメスを入れ悪いところを取り除いてくださいます。そして、取り除いた後はちゃんと巻いて包んでくださいます。彼らはアッシリアに引き裂かれることになりますが、その後で癒され、包んでいただくことになります。だから主に立ち返らなければならないのです。

 

Ⅱ.生き返らせてくださる主(2)

 

次に2節をご覧ください。ここには、「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」とあります。どういうことでしょうか。

聖書に「三日目」とある時、それはイエス・キリスト復活との関係で書かれてある場合がありますが、ここもその一つと言えるでしょう。たとえば、Ⅰコリント15章3~4節でパウロはこう言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」
 ここに「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中のどこにイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえるということが預言されているのでしょうか。たとえば、ヨナ書はそうですね。ヨナは主の命令に背いてニネベではなくタルシシュに逃れようとしましたが、大嵐に遭い船が転覆しそうになりました。それで、いったいだれのせいでこんなことになったのかとくじを引いたところ、それはヨナのせいであることが判明しました。それで水夫たちは彼を海に投げ込むと、神様は大きな魚を備えておられたので、その魚に呑み込まれてしまいました。三日三晩です。彼は魚のお腹の中に三日三晩いました。そこで彼は悔い改めるわけですが、この三日三晩というのはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえることの予表でした。

 

ここでもそうです。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。それは、主がひとり子イエス・キリストを死からよみがえらせたように、ご自身のもとに立ち返り、ご自身の御名を信じる者を生き返らせ、立ち上がらせてくださるということです。そのように言っても間違いではないでしょう。古代教父のテルトリアヌスもそのように理解しています。

 

あれからどのくらいが経ったでしょうか。あれからというのはイエス様が死からよみがえられてから、復活してからです。あれから二千年が経ちました。聖書には、一日は千年のようであり、千年は一日のようだとありますが、そういう意味ではこの「二日の後」とは二千年の後とも受け止めることができると思います。イエス様が復活してから二千年が経ちました。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。その日は限りなく近いのです。

 

Ⅲ.主を知ることを切に追い求めよう(3)

 

では、どうしたら主に立ち返ることができるのでしょうか。第三に、それは主を知ることによってです。3節をご覧ください。ご一緒に声に出して読みましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

 

イスラエルの民が主に背いたのは、本当の意味で主を知らなかったからです。それはホセアの妻ゴメルにも言えることです。ゴメルが他の人を慕い求めたのはどうしてでしょうか。それは夫のホセアの愛を知らなかったからです。それがどんなに大きなものであるか、どんなに真実の愛であるのかを知りませんでした。そして、その愛をもって愛されているということがわかりませんでした。

 

それで神はゴメルがその愛を知るために、ホセアにこのように言われました。3章1節です。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
 ホセアとゴメルの婚姻関係は完全に破綻していました。夫に愛されていながらゴメルが他の男と姦通したからです。しかし、主はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。」と言われました。ある人がこの箇所から「再婚」という題で説教しました。皆さんがホセアだったらどうですか。嫌ですよ。そのような妻と再婚することを誰が望むでしょうか。カール・ヒルティは、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消すことではありません。痛みを忘れるということです。許すとは、痛みを忘れることなのです。相手から受けた痛みが残っている以上、本当の意味で許していることにはなりません。本当に許すとは忘れることなのです。でもそう簡単に忘れることなどできません。でも神様は忘れてくだいました。私たちの罪を、十字架と復活の御業を通して完全に忘れてくださったのです。イザヤ43章25節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしいですね。主はあなたの背きの罪をぬぐい去り、あなたの罪を思い出すことはなさいません。これが私たちの主の約束です。

 

ホセアはこの神の愛を知っていました。ですから、彼はゴメルを受け入れることができたのです。いや、彼はこのような痛みが与えられたのは、その痛みによってそれまで以上により深く神を知り、神と交わるためであるという意味を悟ることができました。そうです、『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』のです。皆さん、知ってますか? 『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』ということを。これは、「This is us」という映画の中で、産婦人科の医師が語ることばです。ある夫婦が三つ子の赤ちゃんを身ごもるのですが、1人目と2人目は無事に生まれてきたものの3人目は死産します。涙する夫を慰めようと医師は彼の隣に座り、こう告げるのです。『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』。

 

それでホセアは主が命じられた通りにしました。3章23節です。「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
 ホセアは、自分を裏切って他の男と姦通していた妻ゴメルのためにお金を払って彼女を買い取りました。再婚したのです。当時、成人男子の値段は30シェケル(銀30枚)でした。未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。ですから、相当の金額を支払って買い戻したわけです。「買い取った」という言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表しています。この世的に言えば、他の男の所有になっていたということです。そんなゴメルを買い取ったのです。

神を信じないという罪、いわゆる原罪ですね、そういう罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9章22節)。とあるとおりです。

 

同じように神様も私たちに実際のわざによって、その愛を示してくださいました。それが十字架の愛です。この十字架を通して主を知ることが本当の救いです。ヨハネ17章3節にこうあるとおりです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

つまり、神を知るというのは、神に対しての知識を持つというだけではなく、この十字架と復活の御業を通して体験的に知るということなのです。このことについては既にエレミヤ書の中でもお話しましたが、「ヤダー」というヘブル語でしたね。これは創世記4章1節にある「人は、その妻を知った。」の「知った」ということばと同じです。それはアダムがエバと対面してその存在を知ったということ以上のことで、もっと親密なレベルで、体験的に知ったということです。それが夫婦であれば性的関係を持つことを意味しています。これ以上に親密なレベルはありません。そのように知ろうと言っているのです。

 

そのように主を知るとどうなりますか。ここには「主は暁ように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。

「暁」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださいます。5章15節では、主は自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと言われましたが、時として主がどこにおられるのかわからないことがあります。暗闇の中にいるように感じることがあります。しかし、主を知ることを切に追い求めなら、暗闇の中で主を捜し求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。主はいつまでも身を隠しておられる方ではありません。いつまでもあなたから遠ざかっておられる方ではないのです。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。

 

そればかりではありません。ここには「大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。「大雨」とは、12~2月頃に降る雨のことで、「先の雨」とも呼ばれているものです。イスラエルには雨季と乾季という2つの季節しかありません。雨が降らない乾季は、土地がカラカラに乾いています。その乾いた土地がこの大雨によって潤されるのです。

そして3~4月に大雨が降ります。これが「後の雨」です。これは春に降る雨なので「春の雨」とも言われますが、夏の収穫のためには絶対に欠かすことができない雨です。それは穀物を実らせる祝福の雨なのです。この雨が降らなければ作物は実りません。真っ先に冬に雨が降って地が潤され、その後に春の雨、「後の雨」降って豊かな収穫がもたらされるのです。

実り豊かな人生を送るためには、この雨が必要です。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、先の雨、大雨によってカラカラに乾いたあなたの心が潤され、後の雨によって多くの収穫がもたらされるのです。ですから、この雨は恵みの雨なのです。主を知ることによって、このような恵みの雨があなたの心に注がれるようになるのです。感謝ですね。

 

日本のキリスト教の大衆伝道者に笹尾鉄三郎という牧師がおられますが、彼は「これは再臨の前に来るべき聖霊の大傾注を意味している。」と言っています。つまり、先の雨がペンテコステの時の聖霊降臨であるとすれば、後の雨とは、世の終わりにおけるリバイバルのことでもあるというのです。そのようにも言えるでしょう。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。それは、主との関係のことなのです。決して何かをすることによってではありません。何らかのイベントや活動によるのではないということです。それはただ主を知ることによってもたらされる聖霊の御業なのです。

 

ゼカリヤ10章1節に、「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」とあります。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。ですから、私たちは今年、主を知ることを切に追い求めたいと思うのです。そして、主が後の雨、実りの雨、収穫の雨、聖霊が豊かに注がれることを祈り求めようではありませんか。

 

最後に、一つだけ注意すべきことを見て終わりたいと思います。それは4~6節にあることですが、一時的なもので終わらないようにということです。「4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

彼らの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようでした。一時的なものだというのです。「さあ、主に立ち返ろう」という招きのことばを聞いて、「主を知ることを切に追い求めよう」と言われ、「わかった!そうしよう」と思うのですが、それが一時的であって夕方になる頃には消えて無くなってしまってはダメだと言うことです。そうだ!明日は箱根駅伝だ。今年は駒沢か、青学か、それとも順天堂か、あるいは東京国際かということで心が一杯になり、すっかり主のことを忘れてしまうのです。これは私のことです。私はスポーツが大好きですから、そういうことにすぐに熱中するのですが、あまりにも熱中するあまりいつしか主がどこかに行ってしまうことがあります。皆さんもそうでしょう。それがスポーツでないにしても、皆さんの関心が心を奪い、全く主を忘れてしまうということが。朝もやのように、朝早く消え去る露のように、その思いがすぐに消え去ってしまうことがあるのではないでしょうか。あるいは、明日のこと、この先のこと、老後のこと、いろいろなことを考えて不安になり右往左往してしまうことがあるのではないでしょうか。それではダメです。朝もやのように、露のように消えてしまうことがないように、このみことばを心に刻まなければなりません。6節です。ご一緒に読みましょう。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

 

皆さん、主が喜びとするのは真実の愛です。いけにえではありません。全焼のささげものでもありません。全焼のささげものよりも、神を知ることなのです。どうか朝もやのようにならないようにしましょう。朝早く消え去る露のようにならないようにしましょう。主を知ることは今日だけでなく、この1年を通して、いや、私たちの信仰生活のすべてにおいて追い求めていかなければならないことなのです。そのような中でも、特に今年、この新しい年、このことを切に求めたいと思うのです。神を知ることです。その時主が暁の光のように現れ、大雨のように私たちのところに来られて、地を潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。この一年がそのような年となりますように。主を知ることを切に追い求めましょう。

ヨセフのクリスマス マタイ1章18~25節ヨセフのクリスマス 

聖書箇所:マタイ1章18~25節
タイトル:「ヨセフのクリスマス」

メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図からキリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びましたが、きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際にはイエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼は聖書の中で一言も発していないのです。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と、気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と、宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書の中にはそういうことばはありません。黙ったままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

 

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

 

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には18節と19節の冒頭に、それぞれ「デ」(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たことを受けて「しかし」ということです。1節から17節にはキリストの系図が記されてありました。そこには、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという系図が記されてありましたが、それに対してイエス・キリストの誕生はどうであったのかということです。つまり、1節から17節までの系図にある誕生というのはごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったということです。イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったのです。それはどのような方法だったのでしょうか。

 

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」ですね。できちゃったから結婚するというのはよくあることですが、ここではそのようにできちゃったから結婚したというのではなく、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもったと言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

 

当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。

第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

 

そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと考えられていますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時に「実は、聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と、頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことです。とても信じられないことでした。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。ですから、彼女は相当悩んだはずです。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えたのです。

 

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

普通だった怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

 

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語では「ディカイオス」(δικαιος)という言葉です。これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

 

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

 

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべく人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

 

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかるのではないかと思います。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、それは彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていたという何よりの証拠だと思います。正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

 

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

 

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

 

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

 

ヨセフがこのことで思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。順序が逆のような気がします。マリアの時のように、先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフもそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。どうして神様は先にこのことを教えてくれなかったのでしょうか。それは、ヨセフにとって思い巡らす時が必要だったからです。そうした思い巡らす時、地下黙の時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われその理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

 

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく私たちの弱さなり、危険性を、このように鋭く突いたのです。

 

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできないのです。ですから、神の前に静まることなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはできません。ボンヘッファーはそれを言いたかったのはそういうことだったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、キリストの召しを否定することになるし、そうすれば、召された者たちの交わりとは何の関わりを持つことはできません。まあ、バランスが必要だということですが、そのバランスの中でも、ひとり神の前に立つこと、神様と1対1となって思い巡らす時が必要であり、そのとき、神のみこころが明らかにしてくださるのです。そういう意味でみことばと祈りの時、ディボーション、静思の時を持つことがいかに重要であるかがわかります。

 

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。その方は罪なき方でなければなりませんでした。その罪なき方として、人間の姿をとらなければならなかったからです。

 

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

 

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

 

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

 

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたというか、心が奮えるような体験をしたのです。

 

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。主の前に静まり、黙って主を待ち望むのです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれない。今すぐ何かをしなければならないといろいろな対応策が頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書は「私たましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というのです。あれやこれやと自分で考え、慌ただしく動き回るのではなく、主の前に静まり、神を待ち望むのです。そして、主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいというのです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

 

ですから、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。

 

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

 

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

 

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従いました。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な関係を持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

 

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもやめ、身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや噂の前に立ちはだかり、神の約束、インマヌエルの神に信頼しました。彼は、神の救いにすべてをかけて生きたのです。

 

私たちの人生においても、ひとり静かに黙しなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある兄弟姉妹との交わりの中に身を置きながら持つのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。ですから、沈黙とはただことばを発しないということではなく、神のことばを聞くこと、神が語られることばに傾聴することなのです。

 

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前で静まり、主のみことばを聞く所へと導かれていきたいものです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、「わたしはあなたとともにいる」ということばと出会い、そのことばによって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。