Ⅰヨハネ1章5~10節 「光の中を歩む」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 ヨハネの手紙第一から学んでおりますが、今回はその二回目のメッセージです。前回のところでヨハネは、どうしても伝えたいことがあると言いました。それは永遠のいのちであるイエス・キリストが現れたということです。なぜなら、このキリストにこそいのちがあるからです。ヨハネはこれを自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手でさわりました。人は何を見るかによってその結果が決まります。この方をじっと見続けるならそこにいのちがあふれてきます。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時はまさに闇でした。なぜなら、多くの反キリストが現れていたからです。そのような時代にあっても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様をじっと見て、イエス様との交わりに入れられるなら、そうした闇の中にあっても希望と力が与えられ、喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 きょうの箇所でヨハネはもう一つの真理を伝えています。それは、神は光であられるということです。神は光であって全く闇がありません。ですから、この光の中を歩むなら、決して闇の中を歩むことはありません。きょうはこの「光の中を歩む」ことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.もし光の中を歩んでいるなら(5-6)

 まず、5節と6節をご覧ください。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

 ヨハネがキリストから聞いて彼らに伝えたかったことは、神は光であって、神には全く闇がないということでした。光と闇が交わることはありません。どんな闇でも光が差し込めば消え去ります。ですから、神には全く闇がないのです。ヨハネの福音書には、このことについて次のように記されてあります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
キリストが光であるとはどういうことでしょうか。それは、キリストはいのちであり、道を照らすともしびであり、生きる希望であるということです。しかしここでキリストは光であったというのは闇に対する光のことであり、それは汚れに対するきよさを表しています。ですから神は光であって、私たち人間のような「闇」、すなわち罪や汚れなどは一つもないということです。それなのにもし私たちが神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるとしたらどうでしょうか。私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいないということになります。

ここでヨハネは、「もし・・・と言いながら」と言っていますが、このような言い方は続く8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。どういうことでしょうか。ここでヨハネはこの手紙の読者たちに、この真理を自分の生活に適用して点検するようにと勧めているのです。私たちが言っていることと、行なっていることが異なるということがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています」と言いながら、交わりを持っているとは思えない行動をしていることがあるということです。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずですが、そうでなはなく悪を行なっていることがあります。もしそうであるなら、もし神と交わりがあると言っても、それは真実ではない、偽りであると言うのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこのような過ちに陥ります。自分は神との交わりがあると言いながら、神との交わりから外れているようなことをしていることがあるのです。確かに、毎週日曜日には教会に行き、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれませんが、家庭や職場ではそれとかけ離れたことをしていることが意外とあります。
私はこうして毎週講壇から神のみことばを語りますが、講壇で語っていることと実際の生活にギャップを感じることがあります。講壇では「さばいてはなりません。さばかれないためです」と言いながら平気で人をさばいてみたり、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言いながら、自分ほどいい人間はいないと思ってしまいます。「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに生活しなさい」と言っておきながら、妻のことをいたわることはほとんどありません。「うちの夫は講壇にいる時が一番すばらしい。そこから降りてきてほしくない」と言った牧師の奥様がおられたそうですが、わかるような気がします。言っていることとやっていることが一致しないことがあるからです。言っていることはすばらしいですが、やっていることはどうもいまいちだということがよくあるのです。もちろん、神のみこころに歩みたいと願いそのようにしたいと努めていますが、闇の中を歩んでいることがあります。もしそういうことがあるなら、神と交わりがあるとは言っても、それは偽りであって、真理を行っていないというのです。

とても心に刺さることばですが、ここで間違えないでいただきたいことは、だからだめだと言っているのではないということです。ヨハネはこの手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちであられる神との交わりを持ってほしいのです。もしあなたが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるとしたら神との交わりは断絶し、神の臨在を感じることができなくなるばかりか、自分のたましいはカラカラに乾ききり、礼拝は儀式的なものとなってしまうでしょう。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちをいただいていますが、その主と交わりそこに喜びが全うされるためには、この罪の問題が処理されなければならないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.御子イエスの血がきよめてくださる(7)

7節をご覧ください。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

ここには、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、光であられる神と交わりを持っているということになります。すなわち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださっているということです。この「きよめる」ということばですが、これは現在進行形で書かれています。すなわち、今もきよめられ続けているということを表しています。御子イエスの血は私たちがイエスを信じた時にすべての罪からきよめてくださったというだけでなく、今も日々の生活においてきよめられているということです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができるのです。

これはすばらしい約束ではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。心の中に染み付いている頑固な汚れも、自分ではどうしようもないという悪しき習慣からも、すべての罪から私たちをきよめてくださるのです。イエスの血がきよめることができない罪などありません。ですから私たちはこのイエスの血によって神と一つになることができるのです。

「きよめる」というと私たち日本人には、禊(みそぎ)とかお祓いをしてもらうというイメージがありますが、ここで言われている「きよめる」というのは、単に汚れを取り除くというだけでなく、神様の前に出ることができるように変えらることを意味しています。神様の目から見て聖なる者としていただくことです。たとえば、この手紙を書いたヨハネは以前「雷の子」とあだ名が付けられるほど短気な者でしたが、のちに「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも光の中を歩み、神様と交わりを持つことによって、そのような者に変えられていくのです。つまり、キリスト信じて救われた時だけでなく、救われた後も、年を老いてからも、いつでも、私たち十字架のもとに行くなら、御子イエスの血が、あなたをすべての罪からきよめ、キリストのように変えてくださるということです。

私たちは神様の光に照らされる時、自分の罪や汚れ、自分の弱さや愚かさに気付かされて落ち込むことがあります。このように礼拝に出て神様の語りかけを聞く時、「そういう生き方はよくないなぁ」とか「あの考えは間違っていた」ということが示されて打ちのめされそうになることがあります。私たちは罪赦されて神様との交わりの中に入れられましたが、実際には罪を犯さずには生きていけないからです。いや、クリスチャンになってからの方が罪について敏感になりました。それまでは何でもないように思っていたことが、それが大きな罪であったことに気づかされるからです。そのような時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私はやっぱり駄目な人間なんだ」と自分を責め続ければよいのでしょうか。あるいは、「私は罪人で駄目な者なんです」とうなだれながら生きていったらいいのでしょうか。そうではありません。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。この御子の血にお頼りすればいいのです。そして罪をきよめていただき、この神との交わりに入れていただけばいいのです。

Ⅲ.罪を認め、悔い改める(8-10)

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。8節から10節までをご覧ください。「もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

神が備えてくださったキリストの十字架の血は私たちの罪に対して無限の力を持っていることがわかりました。では私たちはこのキリストの無限の血に対してどのような態度をとるべきでしょうか。ここには絶対にとってはならない態度と、逆に取るべき態度が教えられています。まず、絶対にとってはならない態度は何かというと、8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」とあるように、「自分には罪はない」という態度です。いったいだれがこんなことを言っていたのでしょうか。ここには「私たち」とありますから、当時のクリスチャンの中にそういう考え方をもっている人たちがいたようです。当時のクリスチャンの中に、グノーシス主義と呼ばれる誤った教えによってこのような考え方を持っている人たちがいました。このグノーシス主義の特徴は物質と霊の二元論にあり、肉体はたましいを宿す単なる器にすぎず、その肉体がどんなことをしてもたましいは何の影響も受けることはないと考えていたので、何をしても自分には罪がないと、自分の肉欲のままに生きていたのです。

しかし、こうした考えはグノーシス主義に限らず、私たちクリスチャンも持ってしまいがちなものです。私たちはイエス様を信じて罪が取り除かれたのだから、私には罪はないと思っていますが、これは、間違っています。確かに、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままなのです。それなのに自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないかと考えるとしたら、それは大間違いなのです。
ここでヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いていると言っています。本当の自分の姿から目をそらしているからです。聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:23)と言っています。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ6:23)と言っています。すべての人は生まれながらに罪を持っているのに罪がないと言うのなら、その人は自分自身を欺いているのであって、その人のうちに真理はありません。

しかし、私たちにはこのように自分を美化する心があるため、悪いのは他人だと決め込み、自分を被害者の立場に置こうとする思いが働くのです。
最初の人アダムとエバがそうでした。彼らは取ってはならないと命じられた園の中央にある木の実をとって食べ、そのことを神から咎められた時、何と言いましたか。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
悪いのは私ではない、悪いのはあの女で。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って食べたので、私は食べたのです。悪いのは自分ではない、あの女であり、突き詰めれば、あの女を私のそばにおいたあなたが悪いんです、と言ったのです。
それに対してエバはどうだったでしょうか。神がエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバもこう言いました。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3:13)
同じです。彼女も自分には罪がないと言いました。蛇が私を惑わしたので、それで私は食べたんですと、蛇のせいにしました。
これが人間の姿です。私たちの中には罪があっても、それを認めようとしない性質があるのです。自分には罪はないと言ってうそぶくのです。

しかしこのように考えるなら、きよめられる必要がなくなってしまいます。あの祈るために宮に上って行ったパリサイ人がそうでした。彼は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ。私がほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」(ルカ18:11)
このように祈れる人はそれほど多くはいません。でもこのパリサイ人は大胆にもこのように祈りました。なぜ彼はこのように祈れたのでしょうか。聖書にはこのように書かれてあります。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちには、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)
そうです、彼は、自分は正しい人であり、間違ったことはしていない。自分には罪がないと思っていたからです。そういう人にはきよめが必要ないというか、きよめられる必要さえ感じません。
一方、取税人はどうだったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
この二人のうち、いったいどちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
同じように、自分に罪がないと言うなら、きよめられることはありません。その人は自分を欺いているのであって、真理はその人のうちにはないからです。私たちはそのようにならないために、まず自分の罪を認めなければなりません。

次に、キリストの血に対して私たちが取るべき態度とはどのようなものでしょうか。9節と10節をご覧ください。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

新改訳聖書第三版には、「もし私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。個人的にはこちらの方が好きです。「言い表すなら」も「告白するなら」も、どちらも同じです。この言葉は原語のギリシャ語は「ホモロゲオー」という言葉で、「同じことを言う」という意味です。それは、心にある事実をそっくりそのまま神に申し上げることを意味しています。それは自分の罪を認め、悔い改めて祈ることです。そのようにするなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。つまり、罪の悔い改めを通して、神の光が注がれるのです。罪を悔い改めることは、神の愛と赦しの光が差し込んでくる窓なのです。窓を閉じて心の部屋を閉ざすなら、愛の光は差し込んできません。しかし自分の罪を認め、神様に向かって心を開くとき、罪を赦しくださる神の光が差し込んで来るのです。

私たちが罪を犯すとき、その罪にどのように向かい、どのように対処するかはとても重要です。もし自分には罪かせないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき黙って自分の心の奥に隠しました。するとそれがバレないようにと今度は彼女の夫を戦いの最前線に立たせて戦死させました。これでバレないだろうと思っていましたが逆に彼の骨は疲れきり、一日中うめきました。昼も夜も 御手が彼の上にのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききりました。
しかし、彼が自分の罪を神に告白したとき、神は彼の罪のとがめを赦してくださいました。そのときダビデはこう言って賛美しました。
「幸いなことよ その背きを赦され 罪を赦され 罪を覆われた人は、幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1-2)

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じて罪赦された者ですが、それは罪がないということではありません。日々罪を犯すような者ですが、もし私たちがその罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。神様は決して「またやったのか。愚か者めが」とは言われません。むしろその罪を認めて神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。悔い改めていない罪はありませんか。きょう主の御前に自分の罪を認めて、悔い改めましょう。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるという神のみことば約束に信頼しましょう。そのような人こそ光であられる神と交わりを持ち、光の中を歩んでいる人です。この光の中を歩むことで、神のいのちと喜びに満ちあふれた日々を送らせていただきましょう。



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Ⅰヨハネ1章1~4節「永遠のいのちを伝えます」

投稿日: 2018/04/25 投稿者: Tomio Ohashi


これからしばらくの間、ヨハネの手紙を通して、私たちがイエス・キリストの恵みと豊かな愛によって支えられ、生かされていることを深く覚えさせていただきたいと思います。今回はその第一回目となりますが、「永遠のいのちを伝えます」というタイトルでお話しします。

最近の統計によると、日本人の平均寿命は男子が80.98歳、女子が87.14歳で、共に香港に次いで世界第二位だそうです。ところが、アフリカのシオラネオレでは、ちょっとデータが古くて2012年のものですが、男女の平均が45.33歳です。ほかにもアフリカには平均寿命が45歳から55歳までの国がいくつもあります。アフリカでは私の歳でもう亡くなっている人たちがたくさんおられるのです。世界中の人々の命がみな神から与えられたかけがえのないものであることを思うと、人々はその命を本当に正しく使っているのかと疑問が生じてきます。

しかし、聖書はこの肉体的いのちと同時に、もっと大切ないのちがあることを私たちに伝えています。それは「永遠のいのち」です。この手紙を書いたヨハネは、2節でこう言っています。

「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネが読者に伝えたかったのは、この「永遠のいのち」でした。この「永遠のいのち」とは、もちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストこそ永遠のいのちそのものであり、私たちに与えられる「永遠のいのち」の源であります。きょうは、この「永遠のいのち」について三つのことをお話ししたいと思います。

Ⅰ.いのちのことば(1-2)

まず、この永遠のいのちは実際に存在していたものであるということです。1節と2節をご覧ください。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネはなぜこの手紙を書いたのか、ここにその目的が明らかにされています。それは1節の終わりにありますが、「いのちのことば」を伝えたかったからです。「いのちのことば」とは何でしょうか?この「ことば」と訳された語は、原語のギリシャ語では「ロゴス」といいます。これは単に口から出す言葉と言う意味ではなく、宇宙全体に秩序を与えて動かしている真理そのものを意味しています。ちょっとわかりづらい表現ですが、ユダヤ人にとって「ことば」とは、天地を創造する神の知恵と力を表すものでした。ですからこれは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味です。

ドイツの宣教師でギュツラフという人がいましたが、彼が日本人に訳させた最初の日本語訳聖書では、この「ロゴス」という言葉を「賢いもの」と訳しました。ですから、ヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」という文章をこのように訳したのです。「初めに、賢いもの、ござる」

また、宮城県気仙沼付近の方言であるケセン語で聖書を翻訳した山浦玄嗣(はるつぐ)先生は、ここを「初めにあったのは、神さまの思いだった」と訳しています。これが一番分かりやすいかもしれませんね。初めにあったのは神さまの思いでした。その神の思い、神のいのちが現れた。それがイエス・キリストです。

では、その神の思い、神のいのちであるキリストとはどのようなお方なのでしょうか。1節には「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」とあります。どういうことでしょうか。初めからあったものとは、神が天地を創造される前からすでに存在していたもの、永遠なる方であるという意味です。ヨハネは、このいのちのことばを聞きました。また、実際に自分の目で見ました。そして、自分の手でじかにふれたのです。つまり、ヨハネはこれを机上の空論のような抽象的なものではなく、実際的で、現実的な出来事だった言っているのです。

そんなの嘘だと言われる方もおられるかもしれませんが、ヨハネは確かにいのちのことばを実際に見て、聞いて、触れたのです。というのは、このいのちが実際に現れたからです。そうです、このいのちこそ、初めから御父とともにあり、人となって現れた方、私たちの主イエス・キリストです。

ヨハネは、このキリストの弟子として歩みました。12弟子の中で、いつもイエス様のそばに3人の弟子がいましたが、その一人がこのヨハネでした。ですから、いつも間近でイエス様の教えを聞きました。間近でイエス様の姿を見ていました。それはまさに、手で触れられる距離感だったでしょう。別にこうやって触ったわけではなかったでしょうが、実際に触れることもあったかもしれません。そのように、きわめて親しい交わりを持っていたのです。そして、この世界でいちばん大切なものを教えていただいたのです。

もちろん、ヨハネは最初から、自分の目の前にいるイエス様を、「いのちのことば」だとは思っていなかったでしょう。最初は預言者の一人ぐらいにしか思っていなかったかもしれません。自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる英雄の一人ぐらいにしか思っていなかったのではないかと思います。けれども、主イエスの生きざまは、一般の預言者や英雄のそれではありませんでした。イエス様は社会で疎外されている人々をこよなく愛し、一方、ユダヤ教の指導者たちに対してはその偽善を激しく責めました。そしてその信念を貫いて、最後は十字架に架けられて処刑されました。そこにはこの世の成功も栄誉もありませんでした。しかしこの世でいちばん大切なものを貫き通されました。その生きざま、死にざまを、ヨハネは最も間近で見たのです。触れたのです。そして、その十字架の死から復活したイエスと出会ったのです。復活された主イエスを見て、聞いて、触れて、実際に確かめることで、この方こそいのちのことば、永遠のいのちであると確信したのです。ヨハネにとってそれは単にあこがれや空想の産物といったものではなく、本当に神が人となって現われてくださり、人間の手でじかにさわることができる存在だったのです。

いったいヨハネはなぜこんなことを言っているのでしょうか。それはヨハネがこの手紙を書いた当時、そうではない教えがはびこっていたからです。つまり、あなたがたが見たと言っているイエスは肉体を持っていたかのように見えたかもしれないけれどもそれは幻覚であって、実際には霊にすぎなかったという教えです。こういう教えを何というかというと「二元論」と言います。「二元論」は、肉体は悪であり霊こそが善であると教えます。だから、悪である肉体を痛めつけることによって霊を高めることができると考えて禁欲主義に陥ったり、逆に、大切なのは霊なのだから肉体はどうでもいいと快楽主義に走ったりしていたのです。人は何をどう考えるかによってその結果である行動が決まります。もしもこのような考え方に立つなら、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださったということはまったく無意味なものとなってしまい、そこには何の希望も、喜びも見出されないことになります。ただ目先の、現実だけを追い求める生活となってしまうからです。しかし、キリストは実在された方であり、実際に目で見て、耳で聞いて、手でふれることができました。この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことで私たちの罪は完全に贖われました。それゆえ、この方を信じる者に聖書が約束しているように永遠のいのちが与えられました。神との交わりが与えられたのです。このイエス・キリストをじっと見るとき、そこにいのちがあふれてきます。そして、この方が語られる一つ一つのことばが私たちを生かしてくれるのです。

ヨハネは、このいのちを「じっと見つめ」と言っていますが、この「じっと見つめ」と訳されている言葉と同じ言葉がヨハネの福音書1章14節にも使われています。そこには、こう書かれてあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネはここで、イエス様をじっと見つめていると、神のひとり子としての栄光が見えてくる、と言っています。そして、この方は恵みとまことに満ちておられるお方なのだということが見えてくる、と言いました。皆さんはこの方をじっと見つめていらっしゃるでしょうか。別のものを見ているということはありませんか?

先週シモン先生の牧師就任式があり、その中でもお話しをされていただいたのですが、いったいなぜシモン先生は牧師になられたのでしょうか。それは「あなたはわたしを愛しますか」と言われる主に、「はい、愛します」と答えたからです。その先にあるのが「わたしの羊を飼いなさい」とイエス様が言われたことでした。つまり、牧師になるというのはイエス様を愛することを、そのような形で応答することなのです。イエス様を愛するということの延長に牧するということがあるのであって、そうでなかったら、牧師を続けるということは難しいのです。

私は牧師になって35年になりますが、そういうことの連続だったと思います。開拓して10年くらい経った時50~60人くらいの群れに成長しましたが、その時初めて壁に直面しました。一人の姉妹が何人かの兄姉を引き連れて教会を出て行かれたんですね。初めての経験でした。寝ても覚めてもそのことが頭をよぎり、離れませんでした。「いったいどうしたらいいんだろう」と悩みました。それまでは牧師は転職だろうと思っていたのに、どうして牧師になんてなってしまったんだろうと思うようらなり、だんだん落ち込むようになりました。「もう牧師を辞めよう」と思いました。辞めるなら早い方がいいと、毎日求人広告を眺めたりしていました。

そんなとき、ある牧師に相談したら、その牧師がこう言われたのです。「日本の教会はどこも小さくて、人が減りはしないかといつも心配しているんです。でも、先生の所はいいじゃないですか。最初からゼロなんですから。失うものは何もないでしょ。これから増えるだけですよ。」何とも慰められているのか励まされているのかわからないような言葉でしたが、考えてみたら「確かに・・」と思いました。ゼロから始まったんだから、失うものは何もない。そう思うと不安とか恐れがなくなりました。

そのような時に聖書を読んでいたら、旧約聖書のエレミヤ書の御言葉が私の心を捉えました。エレミヤ30章18~19節に、こう書かれてあります。

「主はこう言われる。見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。彼らから、感謝の歌と、喜びの笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。」

これは昔、イスラエルがバビロンに捕囚となって連れて行かれた時に、神様が苦難の中にいる民に対して預言者エレミヤを通して約束してくださった言葉です。私にはこのことばが、「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として響いてきました。神様が建て上げてくださる。これは主の教会であり、主が建て上げてくださるということがわかったとき、少しずつイエス様にゆだねることができるようになりました。

ですから、教会創立20周年の年、私たちがこの大田原市で開拓伝道をすることになったとき、私の牧会スタイルというか、牧会理念が全く変わりました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

この方をじっと見つめていれば、恵みとまことに満たされます。私が、何を、どうするかということではなく、いのちそのものであられるイエス様が恵みを与えてくださいます。私に求められているのはこのいのちのことばを語ることでしかないのです。それを聞く人がイエス様をじっと見て、そこからいのちを受け取ることができるようにみことばを語るだけでいいんだと示されたのです。

だから、私のメッセージは以前とは全く違うメッセージになりました。いのちのことばである聖書そのものを、恵みとまことに満ちておられるイエス様をそのまま語るというスタイルになったのです。

皆さん、イエス様をじっと見つめるなら、そこに神のいのちがあふれます。そして、恵みとまことに満ちておられるイエス様のいのちを味わうことができるのです。イエス様が語られることばによって人は生かされるのです。イエス様のもとに重荷を下ろし、憩い、赦しをいただくことで、安心して生きることができます。そして、イエス様に信頼することで、すべてをゆだねて歩むことができるのです。

あなたが見ているものは何ですか。このいのちのことば、永遠のいのちから目を離さないでください。この方をじっと見つめてください。そうすれば、あなたの人生も恵みとまことにあふれるようになります。ヨハネが伝えたかったのはこの永遠のいのちだったのです。

Ⅱ.イエス・キリストとの交わり(3)

次に3節をご覧ください。ヨハネがこの「永遠のいのち」であるイエス・キリストを伝えるのはなぜでしょうか。その目的がここに記されてあります。

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

ヨハネがキリストを伝えるのは、「あなたがた」、すなわちキリストを直接見たことのない読者もまた、「私たちの交わり」に入ってもらいたいからです。「私たちの交わり」とは何でしょうか?それは御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

「交わり」とは何でしょうか。教会に来ると、よく「交わり」という言葉を耳にします。みなさんもこの言葉をよく使うのではないでしょうか。「礼拝後、皆さんとお交わりしてお帰りください」とか、「クリスチャンは交わりの中で成長するので互いに交わることは大切です」とかとよく言います。しかし、この場合の交わりとは一緒に食事をしたり、お話しをしたり、時間を共にすることを念頭に言われており、人との交流を指して言われている場合がほとんどです。

しかし、聖書が教えている交わりとは、私たちが普段使っている意味と少し違います。ここに出てくる「交わり」という言葉は、原語のギリシャ語で「コイノニア」と言いますが、これは、「何か共通のものを所有すること、分かち合うこと」です。つまり、ヨハネが「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言っているのは、御父および御子と共通のものを所有すること、分かち合うことを意味しているのです。では、何を共有するのでしょうか。それはイエス・キリストのいのちです。このいのちを共有する神との交わりに入れていただくことで、この交わりが広がって、今度は横のクリスチャン同士の共有関係へと発展していくわけです。そのクリスチャン同士の交わりはキリストのいのち、神の恵みの分かち合いにとどまらず、実際に持ち物を分かち合ったり、喜びや悲しみを分かち合っていくという具体的な行為になって現われていきます。ヨハネは、あなたがたもこの交わりに入ってもらいたいと言っているのです。

皆さん、この世は「交わりの世界」だと言っても過言ではありません。私たちは生まれるとすぐ両親との交わりが始まります。自分を育ててくれる存在との出会いが、人生の最初の出会いとなるわけですね。それから幼稚園とか、小学校とか、中学校、高校へと進んでいく中で、先生や友人たちとの出会いがあり、仕事や家庭を持つことで、それがだんだんと社会との交流へと広がっていくわけです。そして、交流が広がれば広がるほど自分とは考え方の違う人がいるんだなぁということに気づかされ、そのような違いが見えてくることで、人間関係って煩わしいなあと思わされることもあったり、逆に、「あの人に出会って良かった」と思う出会いもあったりするわけです。

マルチン・ブーマーという人は、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、私たちの人生は、こうした様々な人たちとの出会いや交流によって方向付けられていくのです。ですから、だれと出会い、どんな交わりを持つかによって、私たちの人生は大きく左右されることになるわけです。そしてその究極の出会いと交わりがイエス・キリストなのです。

ヨハネは晩年エペソで過ごしていた時にこの手紙を書いたと言われています。彼は人生の終わりを間近にして自分の人生を振り返りながら、「私の人生にもいろいろな人との出会いがあったなぁ。交流もあった。しかし、その中で、私の人生を大きく変えた出会いがあった。それがイエス・キリストとの出会いだった。」と言っているのです。

この出会いは、決してあなたを失望させることはありません。私たちはこの方との出会いと交わりを通して父なる神を知り、神との交わりの中へと入れていただきました。そして、この方との交わりを通して愛とは何であるかを知り、その愛によって神様に愛されているということがわかったのです。その結果、こんな者でもこの愛をもって人を愛することができるようになったのです。これはすごいことじゃないですか。それまでは自分のことしか考えられなかったのに、自分だけ良ければいいと、自分を中心に世界が動いていたのに、キリストと出会い、キリストとの交わりを通して、神の愛に生きることができるようになったのですから。

私は自他共に認める自己中心的な人間で、よく家内から、「あなたほど自己中心な人はいない」と言われるのですが、イエス様と出会って、その交わりの中に生かされることによって、少しずつですが変えられてきたと思うのです。「友よ歌おう」という賛美歌がありますが、その中に、「歌い続けよう、主の愛を」という歌があります。

主イエスの深い愛にふれて 私にも愛が生まれ、

主イエスを信じた時に 私にも歌が生まれた。

いつまでも歌い続けよう 主の愛の広さ深さを

十字架でいのちを捨てた その愛の大きさを

イエス様との交わりによって私たちの人生は大きく変えられます。イエス様と交われば交わるほどイエス様のように変えられて行くのです。その交わりの中にあなたも入ってもらいたいと、ヨハネはこのいのちを私たちに伝えているのです。

Ⅲ.喜びが満ちあふれるため(4)

いったいなぜヨハネはこれらのことを書き送るのでしょうか。第三に、それは私たちの喜びが満ちあふれるためです。4節に、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」とあります。

ヨハネにとっての最高の喜びは、私たち一人ひとりが御父および御子イエス・キリストとの交わりに生きる姿を見ることでした。この「喜びが満ちあふれるためです」と訳された言葉は、第三版では「喜びが全きものとなるためです」と訳されてあります。これは、当時のユダヤ教のラビたちにとっては、この世の終わりに全てのものが新しくされる時の完成の喜びを表すものでした。それはこの地上では成し得ない喜び、至極の喜びでした。ヨハネは、あなたがたが私たちと同じように御父および御子イエス・キリストとの交わりを持って生きる姿を見ることが、私たちにとってこの上もない喜びであると言っているのです。

皆さんにとって喜びは何でしょうか。大学入試や就職試験に合格することですか。それも喜びですね。いい人と結婚することが決まったら最高の喜びでしょう。念願の夢がかなってマイホームを新築することになったらどんなにうれしいことでしょうか。これまで自分を悩ませていた病気から解放されたら、家族の願いが叶い、それぞれが自分の願っていた道に進むことができたとしたら、それも大きな喜びです。教会も広い土地が与えられて立派な会堂が建ったらどれほどうれしいことでしょうか。しかし、それよりももっと大きな喜びがあります。それはこの地上にいながらも、さながら天国を味わう喜びです。それが御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

イエス様は、伝道に遣わされた72人の弟子たちが喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもさえも私たちに服従します。」と報告すると、このように言われました。

「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしはみました。確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。しかし、霊でもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に下記記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:18-20)

イエス様は、弟子たちが喜ばなければならないのは彼らが悪霊を追い出す力が与えられていることではなく、彼らの名前が天に書き記されていることだと言ったのです。言い換えるならこれは、彼らが救われて神との交わりの中に生きていることです。それを喜びなさいと言われたのです。

皆さんは何を喜んでいらっしゃいますか。私たちが喜ばなければならないのはこのことです。あなたがたがこの救いの中に入れられ、御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に生かされることです。それを見ることはどんなに喜ばしいことでしょう。それは究極の喜び、全き喜びなのです。先日のイースターには3人の方がバプテスマを受けましたが、ヨハネがここにいたらどんなに喜んだことでしょう。もう飛び上がって喜んだに違いありません。また、そのように救われた人がキリストとの交わりの中に入れられ健全に成長しているのを見たら、どれほどの喜びでしょう。本当に喜びに満ちあふれ、神様をほめたたえたことでしょう。私たちもこのことを喜ぶ者でありたいと思います。そして、このために生きる者でありたいと願わされます。これはヨハネだけでなく、私たちにとっても大きな喜びなのです。ヨハネがこの永遠のいのちを伝えたように、私たちもこの永遠のいのち、イエス・キリストを伝える者でありたいと思います。



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