世があなたがたを憎むなら ヨハネ15章18~27節

2020年6月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ15章18~27節(P216)

タイトル:「世があなたがたを憎むなら」

 

 ヨハネの福音書15章からお話ししています。きょうは、その4回目となりますが、「世があなたがたを憎むなら」というタイトルでお話しします。18節に、「世があなたがたを憎むなら」とあります。イエス様は、前回のところですばらしい約束を与えてくださいました。それは、あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したということです。それは何のためですか。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです。その実とは救われる魂のこと、救いの実のことでした。それは彼らの力によるのではありません。神の力、聖霊の力によるのです。ですから、そのために祈るようにと勧められていたのです。あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはすべて、父が与えてくださいます。すばらしいですね。私たちには、このような約束が与えられているのです。

 

 しかし、それは簡単なことではありません。なぜなら、そこには迫害があるからです。苦難があります。きょうの箇所には、迫害とか、憎むという言葉が何回も出てきます。まず18節には、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」とあります。19節にも、「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」とあります。20節にも、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」とあります。また23節にも、「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」とありますし、24節にも、「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」とあります。25節の言葉も合わせると、この箇所だけで9回も遣われています。ピリピ1:29には、「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」とあるように、私たちの信仰生活というのは、キリストを信じることで受ける恵みと同時に、キリストのために受ける苦しみもあるのだということを覚えておかなければなりません。そうでないと、そのような苦難に遭った時、どうしてこのようなことが起こるのかと失望落胆し、信仰から離れてしまうことにもなりかねません。ですから、クリスチャン生活にはこの世から憎まれることがあるということを、イエス様は予め教えられたのです。

 

 いったいなぜクリスチャンはこの世から憎まれるのでしょうか。イエス様は、ここでその三つの理由をお話しなさいました。それは第一に、イエス様ご自身が憎まれたからです。イエス様が憎まれたのであれば、イエス様に従うクリスチャンが憎まれるのは当然のことです。第二のことは、クリスチャンはこの世のものではないからです。もしこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、クリスチャンはこの世のものではなくキリストのもの、神のものです。だから、世はクリスチャンを憎むのです。そして、三つ目の理由は、この世がクリスチャンを憎むのは、まことの神を知らないからです。まことの神を知っていたなら、キリストを憎むことはしなかったでしょう。なぜなら、キリストは神から遣われた方なのですから。

 ですから、結論は何かというと、世がどんなにあなたを憎んでも、キリストにしっかりととどまり、キリストを証ししましょう、ということです。

 

Ⅰ.イエスご自身が憎まれたから(18)

 

まず、第一の理由から見ていきましょう。いったいなぜクリスチャンは憎まれるのでしょうか。なぜなら、主イエスご自身も憎まれたからです。18節をご覧ください。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」

 

この「世」とは、神に敵対する世界のことです。聖書は、この世は悪魔の支配の下にあり、神に敵対するものであると言っています。たとえば、14:30で主は、「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。」と言われました。「この世を支配する者」とは悪魔のことです。悪魔がこの世を支配しているのです。元々、この世界は神によって造られました。神がこの世界を造られた時、その造られたすべてのものをご覧になり、「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1:31)と言われました。ですから、この世界は元々すばらしいものだったのです。しかし、最初の人アダムとエバが悪魔の誘惑に負けて罪を犯したことで、全人類が悪魔の支配の下に置かれることになってしまいました。それゆえ、この世は神を認めません。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」とあるように、彼らは自分に都合の良いものを神とするようになりました。また、人間の力を誇り、人間には無限の力がある。コロナだって大丈夫。みんなで力を合わせれば必ず乗り越えられると、人間の力を誇るようになりました。その一方で、道徳的にはどうかというと、良くなるどころかますます悪くなり、平気で人を誹謗中傷したり、自分の欲望を満たすために人を騙したり、人の財産やいのちまでも奪うようになってしまいました。オレオレ詐欺は後を絶ちません。次から次に新しい業を繰り出してきます。これが神から離れた世界であり、この世の現実です。

 

しかし、神はこの世を愛し、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。主イエスがこの世に来られると、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われ、神の国の福音を宣べ伝えられました。様々な病気で苦しんでいる人を癒し、悪霊を追い出し、すべての町々、村々に行って神の国の福音を伝えられたのです。するとどうでしょう。そこには、主イエスを信じる人と信じない人の二つに分かれました。イエス様を信じない人たちのトップはユダヤ教の指導者たちでしたが、彼らはどうしたかというと、イエス様を歓迎するどころかイエス様を憎み、迫害しました。それはイエス様がご自分を神としたからです。イエスは言われました。

「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです。」(ヨハネ8:58)

それを聞いたユダヤ人たちはどうしましたか。彼らは怒り、神を冒涜したといってイエスを石打ちにしようとしました。しかし、群衆の手前それができないと思った彼らは、偽りの証言によってイエスを罪に定め、十字架につけて殺してしまったのです。彼らとしては「してやったり」でしたが、しかし、それこそが、永遠の昔から世を救うために定めておられた神の救いのご計画でした。。神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。それが十字架です。誰がそのようなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはできます。神にはどんなことでもできるのです。

 

このように、主イエスがこの世に来られた時、イエス様を信じない人たちはイエス様を憎みました。これはイエス様だけのことではありません。イエスを信じるすべての人に言えることです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためです。しかし、それはまさに狼の中に羊を送り出すようなものでした。いつ襲われるかわかりません。なぜなら、世は彼らを憎むからです。でも心配しないでください。イエス様ご自身もそうだったのですから。彼らよりも先に憎まれました。イエス様が憎まれたのであれば、イエス様に従うクリスチャンが憎まれるのは当然のことではないでしょうか。

 

イエス様は彼らを伝道に遣わすにあたり、そのことを前もってお話しされました。そうでないと、そういうことが起こった時、「こんなはずじゃなかった」とがっかりして、信仰から離れてしまうことにもなりかねないからです。

 

先日、ある方からお電話をいただきました。お会いしたことはありませんが、以前、結婚の相談で何度かお話したことがある方でした。長年、ある県の養護教諭として働いておられましたが、職場の方から辞めてほしいと言われたのか、そうせざるを得なかったのかわかりませんが、辞めることになりました。次の仕事をどうしようと祈っていたところ、牧師になるのはどうだろうという思いが与えられ、いくつかの神学校で学びました。しかし、どこからも招聘がないというのです。仕方なく千葉県のある教会にオファーしたところ、これこれの条件でしたらお願いするかもしれないと言われ、今その結果を待っているとのことでした。もしだめだったら、ある教団にと言わせたところ、その教団の神学校で学べば卒業後はその教団関係の教会に赴任できるというのでそのようにしようと考えているんですがどう思いますか、ということでした。

どう思いますかって、牧師になるというのはすばらしいことですが、誰でもなれるわけではありません。というのは、牧師は職業ではなく主から与えられた賜物と召命によるからです。もし、一つの職業と考えたらどうなりますか。続けていくことはできないでしょう。思うように伝道が進みません。教会の方からもいろいろなことを言われます。自分の限界も感じるでしょう。そのような中でどうやって続けて行くことができるでしょうか。初めは牧師謝儀なんてどうでもいいと思っていても、だんだん割に合わないと思うようになります。それでも、その働きを続けていくことができるとしたら、それは主のあわれみと主がそのように召してくださったからという召命があるからです。そうでなかったら続けていくことなんてできません。こんなはずじゃなかったとなるでしょう。

 

ですから、教会の牧師になりたいと思うなら、まず、今置かれている現場でしっかりと主に仕えることです。そうすれば、周りの方々から認められるようになるでしょう。その先に牧師とか伝道者の働きがあるのです。牧師の謝儀とか牧師の休日いったことはどうでもいいということではありませんが、そういうものは後からついてくるものであって、それありきということになると、こんなはずじゃなかったということになるのではないでしょう。

 

それは、私たちの信仰生活も同じです。私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選び、私たちを任命してくださいました。それは私たちが行って実を結ぶためであり、私たちがイエスの名によって祈るなら、何でも父が与えてくださるためです。

しかし、それは祝福だけではありません。祝福と同時に苦しみも賜りました。聖書が教えていることは、あなたがたは世にあって苦難があるということです。16:33をご覧ください。ここには、「あなたがたは、世にあって苦難があります。」とあります。苦難があるんです。すべてが祝福というわけではありません。「しかし」なんです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主イエスは、世に勝利されたからです。この方がともにおられるのだから、勇気を出すことができます。私たちは、このように言われたイエス様の言葉をしっかりと心に留めておかなければなりません。そして、たとえ世に憎まれることがあっても、そのことで驚いたりするのではなく、私たちよりも先にイエス様が憎まれたことを思い、心を備えておきたいと思うのです。

 

Ⅱ.この世のものではないから(19-20)

 

クリスチャンはなぜ迫害されるのでしょうか。二つ目の理由は、クリスチャンはこの世のものではないからです。19節と20節をご覧ください。「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」

 

もしクリスチャンがこの世のものであったなら、世はクリスチャンを愛したでしょう。しかし、クリスチャンは世のものではありません。それで、世はクリスチャンを憎むのです。私たちは以前、この世に属していました。ですから、神がどう思うかなんて全く関係ありませんでした。自分の思いのままに、自由奔放に生きていました。みんなやっていることだもの、ちょっとくらいならいいだろう。バレなければいい、そういう感覚で生きていました。人様に迷惑をかけなければいいじゃないですか。自分の人生なんだから、自分で好きに決めて何が悪いんですかと、すべて自分の思いのままに生きていたのです。それが生きる基準でした。

 

しかし、キリストを信じたことで生きる基準なり、価値観が変わりました。もうこの世のものではなく、神のものとなったからです。キリストがこの世から選び出してくださいました。ですから、この世の常識とか自分がどう思うかといったことよりも、神が願っていることは何か、何が良いことで神に受け入れるのかということが生きる基準となりました。

ジェームズ・ローガン氏は、アメリカ連邦議会議員として国に仕え、司法委員も務めたクリスチャンです。彼のワシントンへの道は平坦ではありませんでした。母親は十代の頃、バーテンの男に妊娠させられ、生まれたのがジェームズです。バーテンは妊娠の事実を知ると、すぐさま彼女を捨てました。母親には彼を育てる経済力は無く、彼は祖父母に育てられました。

母親の所に戻った頃、母親はアルコール依存症の男と結婚していました。しかし、間もなく離婚。そんな環境に育った彼は高校を中退します。そして、麻薬の売買、拳銃強盗などの問題を起こす連中と、いつも付き合っていました。

しかしジェームズは、かつて祖父から物事の善悪と、目標をもってそれに向かうことの大切さを教わっていたので、意を決して学校に戻り大学へ進みます。そして法律学校で学び検察官となり、州議会議員、判事、連邦政府議会議員として国に仕えます。ある日、彼はエレベーターの中で出会ったクリスチャンのジョイに導かれてクリスチャンになります。その後、その女性と結婚します。ジェームズ・ローガン氏は、自分の人生を大きく変えた、前向きに生きることのすばらしさや、信仰の力について伝えるために、自分の半生を本にしました。彼は、キリストと出会った時に与えられる、五つの変化について語っています。

金銭に対する価値観が変わる

今、多くの人はお金の奴隷になって、お金のためなら何でもするというような風潮があります。しかし、キリストを信じる時、与える喜びを知ります。「受けるよりも与える方が幸いです。」というイエス・キリストのことばを実感するようになります。

追求すべき目標が変わる

自分の利益だけを追及する生き方から、人々を助け、神の栄光を現すような生き方へと目標が変えられます。

物事の見方が変わる

物事の見方が否定的なものから、肯定的なものへと変えられます。「すべてのことについて感謝できる」ようになります。「すべてのことが益に変えられる」と信じられるようになります。従って、人生のあらゆる出来事に対して前向き、肯定的、創造的な態度を取ることができるようになります。

性格が変わる

物事の見方が変わると、当然生活が変えられていきます。救われた魂は、キリストの人格を徐々に映し出すようになって行くのです。

人格が変わる

キリストに従うとき人格が築き上げられます。人格は性格とは違います。人格とは、分化や周囲の価値観に影響されない確信です。確信がある人は、人の言いなりになって利用されることはありません。自分の足で立ち、自分で判断するようになります。その確信は、神のことばである聖書の教えに基づくものです。

 

すばらしいですね、これは、ジェームズ・ローガン氏の場合ですが、イエス・キリストとの出会いによって、彼の人生は180度変えられました。人を恐れる生活から神を恐れる生活へ、自分の利益を追及する生き方から、人々を助け、神の栄光を現すような生き方へと変えられたのです。それは彼だけでなく、キリストのものとされたすべての人に言えることです。だったらみんなクリスチャンになったらいいのにと思いますが、なかなかそういうわけにはいきません。世はキリストに敵対しているからです。つまり、私たちがこの世から憎まれたるのは、私たちがもはやこの世に属しているのではなく、神に属する者となったからです。ですから、世と違う生き方をしているために憎しみや迫害を受けるとき、むしろ、私たちはイエスに属している者であることが証明されることになるのです。

 

主は、山上の説教の中でこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)

義のために迫害されている者は幸いです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。言い換えるなら、それによってその人が神に属していることが明らかになるからです。キリストのためにののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられるとき、あなたがたは幸いなのです。それは、私たちがもはやこの世のものではなく、神の国に属する者となったという証拠でもあるからです。もちろん、クリスチャンが苦しい目に遭ったからと言っても、それが自分の落ち度や自分に責任がある場合は別です。あくまでも義のために迫害されたり、主イエスのために苦しみを受ける時のことですが、もしキリストのためにののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口を浴びせられることがあるとしたら、むしろそれは喜ぶべきことなのです。

 

20節をご覧ください。ここには、「しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」とあります。どういうことでしょうか。

私たちはキリストのしもべです。キリストのいのちという代価をもって神に買い取られました。ここには、しもべは主人にまさるものではない、とあります。主人とは誰ですか。イエス様です。私たちはキリストのしもべです。ですから、人々がキリストを迫害したのであれば、しもべである私たちを迫害するのは当然のことですが、その迫害は主人以上のものではありません。このことを覚えておかなければなりません。それは、私たちが疲れ果ててしまうことがないためです。へブル12:2-4にはこうあります。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」

私たちはどんな迫害に遭ったとしても、イエス様ほどの苦しみに遭うことはありません。イエス様は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをもろともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。私たちは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなければなりません。それは、私たちが元気を失い、疲れ果ててしまうことがないためです。私たちの主は、私たちよりもはるかに大きな苦難に遭われたということを思うとき、不思議と勇気と力が与えられるのではないでしょうか。だから、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。

 

Ⅲ.まことの神を知らないから (21-27)

 

この世がクリスチャンを迫害するのはどうしてでしょうか。その第三の理由は、まことの神を知らないからです。21節から27節までに注目してください。21節には、「しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」とあります。

 

どうして世はクリスチャンを迫害するのでしょうか。それは、わたしを遣わした方を知らないからです。イエスを遣わした方とは誰ですか。そうです、それは父なる神、まことの神のことです。その方を知らないのです。たとえば、ユダヤ人たちはどうでしたか。彼らはイエスを迫害しました。彼らは神の民であり、聖書をよく知っていました。熱心に祈りをささげ、断食もしていました。それなのに、主がこの世に来られた時、主を受け入れたかというとそうではなく、何と十字架につけて殺してしまいました。なぜでしょうか?神を知らなかったからです。彼らは神の民であり、神の律法が与えられていましたが、本当の意味で神を知っていなかったのです。本当に神を知っていたのであれば、その神によって遣わされたキリストを拒んだりはしなかったでしょう。ましてや、十字架に付けて殺すようなことはしなかったはずです。確かに彼らは宗教的に熱心でした。でも、それは形だけで中身がありませんでした。大切なのは中身がどうであるかということです。彼らは宗教的でしたが、まことの神について全く知らなかったのです。

 

22節と23節をご覧ください。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」

 

もしイエス様が来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし、彼らはイエス様が語られたことを聞きました。イエス様は、ご自身が父なる神から遣わされた者であり、父なる神と一つであるということ、また、自分を見た者は父を見たのと同じであるということを話されました。また、ご自分が十字架にかかって身代わりの死を遂げられることについても話されました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15) 

それなのに、その方を信じなかったとしたら、そこにはもはやそこには弁解の余地はありません。

 

そればかりではありません。24節をご覧ください。「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」

イエス様が話されたことを信じられないという人のために、イエス様は、彼らの間でわざを行われました。それは、ほかのだれも行ったことのないわざです。たとえば、このヨハネの福音書の中には7つのしるしが記されてあります。イエスがメシヤであることの証拠としての奇跡です。たとえば、①カナの婚礼では水をぶどう酒に変えました(2:1~12)。②王室の役人の息子の病気を癒されました(4:43~54)。③また、ベテスダと呼ばれる池では38年間も病気で伏せていた人を癒されました(5:1~18)。④さらに、5つのパンと2匹の魚で、男だけで5,000人の空腹を満たされました(6:1~15)。⑤そして、舟を漕ぎあぐねていた弟子たちを助けるために、ガリラヤ湖の上を歩いて近づかれました(6:16~21)。⑥生まれつきの盲人の目も癒されました(9:1~41)。⑦最後は、死んで四日も経っていたラザロを生き返らせました(11-1~45)。

どれ一つとっても人間には不可能なわざです。しかし、主はこれをご自分が神から遣わされた者、メシヤであることの証拠として行われたのです。そして、ユダヤ人たちはそれを見ました。もし、イエス様が彼らの間でそれを行わなかったなら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし、彼らはそのわざを見て、そのうえで主イエスと父なる神を憎みました。どうしてですか。25節にはこうあります。「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」

「ゆえもなく」とは「理由もなしに」という意味です。彼らは理由もなしにキリストを拒んだのです。それはこの旧約聖書の預言が成就するためでした。旧約聖書の中に、そのことがちゃんと預言されていたのです。

 

それはこの時のユダヤ人だけではありません。私たちも同じです。確かに私たちはキリストから直接話を聞いたわけではありません。また、直接キリストのわざを見たわけでもない。しかし、私たちには聖書が与えられています。聖書を見れば、キリストのことば、キリストのわざを知ることができます。それなのに、キリストを信じないとすれば、それはこのユダヤ人同様、「ゆえなく憎んだ」ことになるのです。そういう意味では、現代の私たちにとっても、弁解の余地は全くありません。

 

このように、私たちはキリストによって選ばれ、世に遣わされた者ですが、世はあなたがたを憎みます。そのような時、私たちが覚えておかなければならないことは、私たちよりも先にイエス様が憎まれたということ、そして、そのように憎まれるということは、私たちがキリストに属するものになったという証明でもあるということ、そして、そのように世が私たちを憎むのは、彼らが神を知らないからであって、弁解の余地はありません。

 

こうした前提に立って、世があなたがたを憎むとき、どのような態度を取ったら良いのでしょうか。その結論が、26節、27節にあります。ご一緒に読みましょう。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」

 

このことは、逆に言えば、こうした偏見と悪意の渦巻く中にあって、クリスチャンは主を証ししなければならないということです。クリスチャンにはそのような使命が与えられているのです。でも、憎しみと迫害の中でどうやって証しすることができるのでしょうか。その鍵は26節にあるように、イエス様が父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊です。その方が来るとき、その方がキリストについて証ししてくださいます。ですから、私たちはキリストを証しすることを止めてはいけないのです。それが、私たちに与えられている使命です。私たちはそのために選ばれたのです。それを自分一人でやらなければならないとしたら、自分の力でやらなければならないとしたらどぅでしょう。できません。しかし、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」あなたが伝えるのではありません。あなたは、聖霊とともに行って証しするだけです。そのとき、聖霊が知恵と力を与えてくださり、語るべきことを教えてくださいます。迫害に耐える力も与えてくださいます。

 

ディビッド・リヴィングストンは、暗黒大陸アフリカへの宣教師として有名ですが、彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来ました。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28:20のことばを引用しました。イエス・キリストは、そこで、次のように約束しています。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

 

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。私たちも、世の終わりまで、いつもともにおられる聖霊が助けてくださると信じ、世が私たちを憎んでも、行って実を結ぶ者とさせていただきましょう。

イエスはまことのぶどうの木 ヨハネ15章1~6節

2020年5月17日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ15章1~6節(P215)

タイトル:「イエスはまことのぶどうの木」

 

 ヨハネの福音書15章に入ります。この章も4回に分けて学びたいと思います。今回はその最初の箇所ですが、「イエスはまことのぶどうの木」というタイトルでお話しします。

 

最後の晩餐の席でイエスは、心を騒がせてはなりませんと言われました。なぜなら、イエスが去って行かれるのは彼らのために場所を備えに行かれるからです。その場所を用意したら、また来て、彼らを迎えてくださいます。また、イエスが父のもとに行かれることで、父はもう一人の助け主を遣わしてくださいます。その方は真理の御霊です。その方が来ると、彼らにすべてのことを教え、イエスが彼らに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。そのことによってイエスは、彼らに平安を残してくださるのです。イエスが与える平安は、世が与えるものとは違います。だから、心を騒がせてはなりません。恐れてはならないのです。

 

そう言われたイエスは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言われました。14章の最後です。どこに行くんですか。ゲッセマネの園です。十字架に向かう前にイエスは、弟子たちと祈りの時を持とうとされたのです。そのゲッセマネの園に向かう途中で、イエスが弟子たちに語られた内容が今日の箇所です。

 

イエスはここで有名なぶどうの木のたとえ話をされました。5節、「わたしはぶどうの木です、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5)

このたとえ話を通して、イエスが弟子たちに伝えたかったことはどういうことだったのでしょうか。きょうはこのたとえ話から、三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエスはまことのぶどうの木であるということ。第二に、神は、私たちが多くの実を結ぶために刈り込みをされるということ。そして第三のことは、だからイエスにとどまりなさい、ということです。

 

Ⅰ.わたしはまことのぶどうの木です(1)

 

まず、1節をご覧ください。ここには、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」とあります。

「わたしは~です」という言い方は、ヨハネの福音書の中に7回使われています。それは、イエスご自身があの出エジプト記3:14で神が語られた「わたしは、『わたしはある』という者である」方であることを示しています。

①「わたしはいのちのパンです。」(6:35/51)

②「わたしは世の光です。(8:12/9:5)

③「わたしは羊たちの門です。」(10:7/9)

④「わたしは良い牧者です。」(10:11/14)

⑤「わたしはよみがえりです。いのちです。(11:25)

⑥「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(14:6)

⑦「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1/5)

 ですからイエスはヨハネ8:58でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

 イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられた方、イスラエルの主なる神ご自身なのです。

 

そのイエスがここでは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」と言われました。どういう意味でしょうか。旧約聖書には、このぶどうの木は、イスラエルの民の象徴として使われています。たとえば、詩篇80篇にはこうあります。「あなたは、エジプトからぶどうの木を引き抜き、異邦の民を追い出してそれを植えられました。その木のために、あなたが地を整えられたので、それは深く根を張り、地の全面に広がりました。」(詩篇80:8-9)

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束の地に置いてくださったということです。彼らはもともとエジプトの奴隷でしたが、神の恵みとあわれみによってその中から救い出され、約束の地に導かれ、そこにぶどうの木のように植えられたのです。それで彼らは深く根を張り、全地に増え広がることができました。しかしそのようにして豊かになると神の恵みを忘れこの世と妥協し、神から離れてしまいました。甘いはずのぶどうが、酸いぶどうになってしまったのです。

 

そのことを嘆いた神は、預言者イザヤを通して、このように歌いました。「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」(イザヤ5:1-5)

そのぶどう畑に対する哀歌、嘆きの歌です。ぶどう畑の主人であられた神は、愛する者のために良いぶどうを植え、やぐらを建て、ぶどうの踏み場を掘り、酒ぶねですね、そこまでしたのに、できたのは酸いぶどうでした。いったいどうして悪いぶどうが出来てしまったのか。

 

このように、旧約聖書では、神が良いぶどうの木として植えたはずのイスラエルが、その期待とは裏腹に悪いぶどうの木になってしまったということを前提に、ここではそれとは対照的に、良いぶどうの木としてのイエスご自身の姿が描かれているのです。

イエスは、「わたしはまことのぶどうの木です。」と言われました。「まことの」とは、「真実な」とか「偽りが無い」、「本物の」という意味です。イスラエルは神に従わない不真実で、偽物の、悪いぶどうの木でしたが、イエスはそうではありません。イエスはまことのぶどうの木です。イエスは父なる神に従い、実に十字架の死にまでも従われました。この方こそまことのぶどうの木なのです。

 

Ⅱ.刈り込みをなさる神(2-3)

 

次に、2~3節をご覧ください。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」

イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と言われると、それに続いて「わたしの父は農夫です」と言われました。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」「わたしの枝」とは、キリストを信じた人たちのこと、クリスチャンのことです。ぶどうの枝において大切なことは何ですか。それは、実を結ぶかどうかということです。すべての枝が実を結ぶわけではありません。実を結ぶ枝があれば、結ばない枝もあります。

 

主イエスは、そのことを種まきのたとえで話されました。ある人が種を蒔いたらそれが四種類の土地に落ちましたが、そのすべてが実を結んだわけではありません。実を結んだのは良い地に落ちた種だけでした。他の土地に落ちた種は実を結びませんでした。

道ばたに落ちた種は、人々に踏み固められてカチカチになっていたので張ることができず、すぐに烏がやって来て食べてしまいました。

次は土の薄い岩地です。岩地に落ちた種はすぐに芽を出しましたが、深く根を張っていなかったので、太陽が昇るとすぐに枯れてしまいました。こういうのを「ノリの信仰」と言います。最初のうちはノリが良かったのですが、試練が来るとシュンと萎んでしまったのです。

次は「いばらの中に落ちた種」です。この場合はこの世の心づかいや、富の惑わしや、色々な欲望が入り込んで種が塞がれてしまうので実を結びません。

最後は「良い地」です。良い地に落ちた種は育って実を結び、30倍、60倍、100倍になりました。

 

実を結んだのは「良い地」に落ちた種でした。違いは何でしょうか。どういう地に落ちたかということです。種は同じです。しかし、それがどのような地に落ちたかによって結果は全く違ったものとなりました。種とは神のことばです。四種類の土地とは、人の心の態度を表しています。つまり、人が同じように神のことばを聞いても、その人の心の態度によって全く違った結果を人生にもたらすようになるということです。

 

たとえば、このヨハネの福音書2章に、イエスが過越の祭りでエルサレムにいる間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じたということがかかれてありますが、イエスご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした(2:23-24)。なぜでしょうか。それは、イエスがすべての人の心を知っておられたからです。つまり、奇跡やしるしを見て信じたという人を、イエスは信用されなかったのです。彼らはただ自分たちのご利益しか求めていませんでした。彼らが求めていたのはイエスご自身ではなく、自分たちの欲望が満たされることだったのです。どんなにイエスを求めているようでも、イエスご自身ではなく自分を求めているのであれば、それはイエスを信じているのではなく、自分のためにイエスを利用しているにすぎません。それは本物の信仰ではありません。いわばノリの信仰というか、優先順位が確立されていない信仰です。そのような信仰は、もし自分の思惑と違うと、結局のところ離れてしまうことになります。

 

そのことがよく表われているのが、6章にある5000人の給食の奇跡です。イエスは5つのパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。人々は食べて満足すると、イエスがいないことに気付きました。それで舟に乗り込んでイエスを捜しにカペナウムに向かうと、湖の反対側でイエスを見つけました。「先生、いつおいでになられたんですか。だめでしょ、勝手に行ったりしては。どこに行かれるのかちゃんと教えてください。」

すると、イエスは何と言われましたか。イエスはあの有名なことばを語られました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」(6:26-27)

彼らがイエスについて来たのはしるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからです。パンを食べて満足しているうちはついて来ますが、その教えに冷めるとついて来なくなります。岩地に落ちた種のようですね。実際、その後でイエスが、ご自身がまことのパンであると言われると、「そんなの関係ね」と言って、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」(6:66)のです。あんなにたくさんの人がついて来たのに、彼らが求めていたのは違うものだったのです。彼らは実を結びませんでした。

 

このように、枝には実を結ぶ枝と、結ばない枝があります。イエスの枝で実を結ばないものはどうなるんですか。ここには、「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」とあります。

実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除きます。農夫は、枝が実を結ぶことを願っているのです。それで、実を結ばない枝があればそれをすべて取り除き、また実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶようにと、刈り込みをなさるのです。剪定ですね。皆さん、剪定ってご存知ですか。私は、福島で生まれ育ったので、家の周りにはリンゴ畑とか、桃畑がたくさんありました。そして見ていると、冬になると農家の方が刈り込みをしているんですね。枝を切っているわけです。それは剪定作業というのですが、どうして枝を切るのかを尋ねたことがあります。すると、これをしないと余分な枝に栄養が行ってしまい、貧弱な実しかできないということを教えてくれました。それをすることによって必要な枝に栄養分が行き渡り、良い実を結ばせるのです。

それは、私たちも同じです。キリストの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさるのです。どのように刈り込みをなさるのかというと、たとえば、試練や苦しみといったことを通してです。信仰を持ったらすべてがバラ色になるわけではありません。むしろ、いろいろな試練や苦しみが起こってきます。しかし、その試練の中で、あるいはその試練を通して神は、私たちが多くの実を結ぶようにしてくださるのです。これこそ、神が私たちの成長のために神が用いられる方法なのです。ですから、私たちは、自分の生活の上に試練や苦難が襲ってきたら、だれかを憎んだり、自暴自棄になったりしないで、むしろ主が自分に多くの実を結ぶためにこれを与えられたのだと知って、感謝しなければなりません。

 

昔、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外の精神病院の地下室に、アニーと呼ばれる少女が入れられていました。当時、精神障害者は決して直らない、人目にさらしてはならない、と考えられていました。少女はこの小さな部屋で一生を過ごす運命にあったのです。しかし、その病院で働く一人の掃除婦がその少女を可哀想に想い、食事を運ぶ度に゛I Love you″と声をかけ続けたのです。すると、その結果その少女は心を開き、病も徐々に回復し、やがて学校を卒業し教師の資格を取りました。そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には見えない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいました。そうです、これがヘレン・ケラーとアン・サリバン先生との出会いです。一人の名もない掃除婦の励ましがなかったらアニーは教師になれなかったでしょう。そして、ヘレン・ケラーのその後の大きな働きもなかったはずです。私たちも、神の励ましを聞くべきです。「わたしの目に、あなたは高価で尊い。あなたを愛している。」と。今の試練は、神が私たちを愛し私たちが多くの実を結ぶために、神が私たちに与えてくださった恵みなのです。

 

3節をご覧ください。ここには、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。

わたしの枝で実を結ばないものは、父がすべて取り除き、実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをされると聞いて、弟子たちは不安になったのでしょう。自分たちも取り除かれるのではないか、と。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言われました。どういうことですか。

「すでにきよい」とは、すでに救われているということです。11人の弟子たちはすでに救われていました。主イエスが弟子たちの足を洗おうとした時、ペテロが「決して洗わないでください」と言うと、イエスは彼に「もし洗わなければあなたはわたしと何の関係もありません」と言われました。「じゃ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言うと、イエスは彼に何と言われましたか。「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。」と言われました。彼らは全身がきよめられていました。でも皆がそうではありません。皆がそうではないというのはイスカリオテのユダのことを念頭に言われたことですが、他の弟子たちはきよめられていました。確かに救われていたのです。

 

彼らは何によってきよめられたのですか。ここには「わたしがあなたがたに話したことばによってきよいのです」とあります。イエスが彼らに話したことばによって、すでにきよめられていました。そうです、私たちをきよめることができるのは主イエスのことばです。私たちの努力とか、良い行いによってではなく、ただイエス・キリストが話されたことばによってきよくしていただくことができるのです。

 

Ⅰペテロ1:23には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」とあります。私たちが新しく生まれるのは、神のことばによります。神のことばは私たちを救い、私たちをきよめることができます。神は、ご自身のみことばによって、私たちの刈り込みをされるのです。

 

へブル4:12に、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。神のことばは、私たちの思いやはかりごとを見分けることができます。ですから、聖書のことばを読んだり、礼拝に来て聖書のみことばを聞く時に心が刺されることがあるのです。「どうして牧師は自分のことを知っているのか。」と言う人がいますが、別にだれかから聞いたわけではありません。その人のことを話しているわけもないのです。神のことばが生きていて、力があります。それがあなたの心を照らすので心が刺されるのです。ですから、心に罪が示されたならそれを悔い改め、きよめていただかなければなりません。神はそのようにして刈り込みをなされ、私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。多くの実を結ぶようにしてくださるのです。

 

Ⅲ.わたしにとどまりなさい(4-6)

 

ですから第三のことは、わたしにとどまりなさい、ということです。4~6節までをご覧ください。

「4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」

 

イエスはここで、「わたしにとどまりなさい」と言っておられます。「とどまる」とは、つながっていることです。この「とどまる」という言葉が、この後10節までのところに10回も使われています。それは、このことがとても大切なことであるということです。どうしてこれが大切なのでしょうか。なぜなら、枝がぶどうの木にとどまっていなければ、枝だけで実を結ぶことはできないからです。枝は、木から流れてくる栄養分によってどんどん育ち、実を結びます。その栄養分こそキリストのいのちなのです。ですから、キリストから離れては何もすることができないのです。つまり、私たちが実を結ぶためにしなければならないことは、一生懸命に地中から栄養分を吸い上げようとしたり、幹に働きかけてもっと栄養分を供給してくれるようにすることではなく、木であるキリストにしっかりと結びついていることなのです。そうすれば、豊かな実を結ぶことができます。私たちが実を結ぼうと努力する必要さえありません。ある人は実を結ぼうと一生懸命努力しますがそうした必要は全くないわけで、木であるキリストに堅くつながり、キリストのいのちに生かされているだけでいいのです。そういう人は多くの実を結ぶのです。5節をご一緒にもう一度読みましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

昔アメリカのケンタッキー州に、小さなレストランを経営する老夫婦がいました。ところが、彼らの店から少し離れた所にフリーウエイが出来たことでお客が激減してしまいました。普通なら絶望的になるところですが、キリストを信じ、キリストに堅くつながっていた彼らは自慢の料理のノウハウを他のレストランに売り込むことで、新しいビジネスチャンスを見出しました。それがケンタッキーフライドチキンの誕生です。カーネルサンダースは、キリストにつながって、ピンチをチャンスに変えたのです。これは、このコロナウイルスで苦しんでいる私たちにも言えることかもしれません。大切なのは何をするかではなく、何につながっているかです。キリストにつながっているなら、その人は多くの実を結ぶのです。

 

ところで、この実とは何ですか。具体的にどんな実を意味しているのでしょうか。すぐにピンとくるのが御霊の実ではないかと思います。ガラテヤ5:22-23には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。御霊の実は、御霊の賜物と違い、すべてのクリスチャンに与えられているものです。クリスチャンでも、愛のない人、喜びのない人、平安がない人、寛容でない人、親切でない人、善意でない人、誠実でない人、柔和でない人、自制心のない人がいるとしたら、そういう人は、キリストに結びついていないということになります。なぜなら、キリストにとどまっている人は、こうした実を結ぶようになるからです。それまでは神に敵対していた人でも、キリストを信じ、キリストにとどまることによって神を愛し、隣人を愛し、信仰の仲間を愛するようになります。もしそうでないとしたら、キリストにとどまっているかどうかをもう一度点検することから始めなければなりません。

 

しかし、ここで言われている実とは御霊の実だけでありません。聖書を見ると「聖潔に至る実」ということばが出てきます。ローマ6:22です。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。」「聖潔に至る実」とは何ですか。神に喜ばれる、神のみこころにかなった生活のことです。以前は罪の奴隷として、自分の欲の赴くままに生きていました。しかし今は、その罪から解放されて神の奴隷となりました。ですから、神に喜ばれる生き方を求めるようになったのです。それが「聖潔に至る実」です。

 

そればかりではありません。へブル13:15には「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」とあります。「それなら」とは、イエスが民をきよめてくださるために十字架で血を流して死んでくださったのなら、ということです。イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったのだから、私たちはその救ってくださった方を通して、賛美のいけにえ、つまり、御名をたたえる唇の果実を、絶えずささげようではないかと勧められているのです。この「唇の果実」とは賛美と感謝、礼拝のことです。キリストによって救われた者は、キリストに感謝と賛美をささげるようというのです。つまりこれは礼拝の生活を大切にするということです。

 

それから、ピリピ1:11には「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」とあります。ここに「義の実に満たされて」とあります。義の実とは何ですか。義の実とは正しい行いのことです。私たちが救われたのは正しい行いをするためです。正しい行いをしたら救われるのではなく、救われたので正しい行いをするということです。それが救われた目的でもあるのです。エペソ2: 10には、「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」とあります。信仰によって救われた私たちが良い行いに歩むようにと、その良い行いさえも神はあらかじめ用意してくださいました。それは、私たちがイエス・キリストによって与えられるこの義の実に満たされることによって、神の栄光と誉れが現されるためです。

 

それからもう一つあります。それは「救霊」の実です。ローマ1:13にはこうあります。「兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。」ここに「いくらかの実を得ようと」とあります。これは前後の文脈を見るとかりますが、福音宣教を通して与えられる救霊の実のことです。

 

つまり、キリストを信じ、キリストにとどまり、キリストのいのちに生かされている人は、神を愛し、神に喜ばれる生き方をしたいと望むようになり、正しい行いを心掛け、キリストへの感謝と賛美すること、つまり神を礼拝することを大切にし、救霊の実を得たいと願い、そのことを通して神の栄光が現されることを求めるようになるということです。そうでないとどこかおかしいのです。人がキリストにとどまり、キリストもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結ぶのですから。「わかりました、今日から頑張ります。」というのではありません。私たちは自分の力では何もすることができません。枝にはその力がないのです。枝にとって大切なことは「とどまる」ことです。キリストにとどまること。そして、キリストから力を受けることです。その人は多くの実を結びます。そして、私たちが多くの実を結ぶことによって、神が栄光をお受けになられるのです。

 

あなたはどうですか。実を結んでいますか。もし結んでいないとしたらその原因はどこにありますか。キリストにとどまっていないことです。キリストにとどまっていなければ実を結ぶことはできません。そのような枝は投げ捨てられてしまいます。しかし、キリストにとどまるなら、多くの実を結びます。見せかけや一時的なものではなく、あの良い地に落ちた種のように、キリストにとどまり続けてください。そうすれば、あなたも多くの実を結びますから。

 

イギリスの政治家で、4度にわたり首相を務めたウイリアム・グッドストンは、イギリス国教会の信徒で、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した名首相ですが、彼は首相に乞われる時、一つの条件が満たされれば引き受けても良いと言いました。その条件とは何か。それは「どんなに忙しくても、日曜日に教会の礼拝を守ること」でした。彼のイギリス史上、稀に見る政治的実績の数々は、神から来る知恵や力を根源としていたのです。

 

私たちもキリストにとどまるなら、多くの実を結びます。キリストにとどまって、神から来る知恵と力、いのちを源泉として、この人生の荒波をともに乗り越えてまいりましょう。

互いに愛し合いなさい ヨハネ13:31-38

2020年3月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章31~38節

タイトル:「互いに愛し合いなさい」

 

 ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

 

まず、31節と32節をご覧ください。

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

 

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

 

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。

「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」

イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

 

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。

Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

 

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

 

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

 

次に、33~35節をご覧ください。

「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

 

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

 

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

 

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

 

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

 

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

 

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

 

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

 

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

 

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。

私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。

私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

 

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

 

最後に、36節から38節までをご覧ください。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」

するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

 

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

 

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。

「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

 

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

 

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

 

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

暗闇から光へ

2020年3月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章21~30節(P212)

タイトル:「暗闇から光へ」

 きょうは、きょうはヨハネ13章21~30節から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。

「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。イエスは「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」という聖書のことばを引用して、ユダが自分を裏切ることについて、前もって語りました。イエス様は、これらのことを話されたとき心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、イスカリオテのユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で、霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、主が3度も語っておられたことを記しています。たとえば、6章ではいのちのパンの説教の後、「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。

また、このちょっと前にありますが、主が弟子たちの足を洗われた時も、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。

さらに、この18節、19節でも、主は旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。

このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語られ悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余り主のそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果、永遠に滅びてしまうことを思うと、霊の憤りを覚え、心を騒がせずにはいられなかったのです。それでこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

これで4度目です。ここでは「まことに、まことに」と言っておられます。これは本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていることがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるということを忘れてはなりません。そして、罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたが罪を持っているならユダのように頑(かたくな)にならないで、悔い改める者となりましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とあります。彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて、横になって食べました。テーブルを囲んで、主人は左から2番目に座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのがヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席に座っていました。ですから、ヨハネから見ると向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、だれのことを言われたのか尋ねるようにと合図をしました。おそらく声を出さないで、目くばせか何かで合図したのでしょう。あるいは、口パクだったかもしれません。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)

イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に深く愛されていることがわかっていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるのかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。私があれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころにではなく自分勝手に生きていた時に、聖書ではそれを罪と言いますが、そんな罪人であったにもかかわらず、神は愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたらいいものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

すると父親はどうしたと思いますか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感があったのです。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないとか、みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたが、ユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。どういうことですか?サタンが入るということがあるんですか。あります。どんな人でも、主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、実はそこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうことになるのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたから、彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。このようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたが、その愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても、必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない外の暗闇です。そこで泣いて歯ぎしりするのですと、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければならないのです。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香さんとあかねさんのバプテスマ式が行われますが、それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

それは私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。

与えられた恵みに従って

聖書箇所:ローマ人への手紙12章3~8節

タイトル:「与えられた恵みに従って」

 きょうは「与えられた恵みに従って」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は1~11章までの部分と、12章から終わりまでの部分の二つに分けられます。パウロは1~11章までの部分で、人はいったいどうしたら救われるのかということについて明確に語ってきました。それは、信仰によってということです。人はただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。イエス様を信じる以外に救われる道はありません。ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきでしょうか。パウロは続くこの12章から、クリスチャンの具体的な生き方について語るのです。前回は、その大前提となるべき献身について学びました。すなわち、キリストの救いの恵みにあずかった人は、当然のこととして自分を神様にささげるべきだということです。その献身を土台としてパウロは、その上に築き上げられていくべき具体的な生き方について語るのですが、その一つのことがきょうの箇所で教えられていることです。3節をご覧ください。ここには、

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとり言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

とあります。すなわち、クリスチャンは自分に与えられた恵みによって、キリストのからだである教会の中で、思うべき限度を越えて思い上がるのではなく、神がそれぞれに与えてくださった信仰の量り、その賜物に応じて慎み深く歩まなければならないのです。

 きょうは、このキリストのからだである教会で仕えることについて三つのことをお話したいと思います。第一に、慎み深い考え方とはどういうことなのでしょうか。第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。第三に、では私たちにはどんな恵みが与えられているのでしょうか。その与えられた恵みの賜物について見ていきたいと思います。

 Ⅰ.慎み深い考え方をしなさい(3)

 まず、慎み深い考え方をするとはどういうことなのかについて見ていきたいと思います。3節をご覧ください。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

 パウロはここで、キリストを信じて救われたクリスチャンは、だれでも、思うべき限度を越えて思い上がるべきではなく、むしろ、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさいと勧めています。いったいこれはどういう意味なのでしょうか?この「考え方をしなさい」という言葉は本来、心を意味する言葉と関係のある語で、人の持っている傾向性を表す言葉です。ですから、「慎み深い考え方をしなさい」というのは、健全な思いを持ちなさいということであって、消極的で、引っ込み思案な態度を持つようにということではありません。これはちょうど「思い上がる」という言葉と対照的な言葉です。どういう態度が思い上がった態度なのかというと、思うべき限度を越えた態度です。神様がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りを越えてしまうことが思うべき限度を越えた態度であり、傲慢な態度であり、不健全な姿なのです。クリスチャンとしての健康な姿というのは、ただ謙遜であるというだけでなく、信仰的な考え方を持つことです。これがいわゆる一般の社会で言われている謙遜とは少し違っている点でしょう。一般の社会でも謙遜であるようにと教えられていますが、聖書で言う謙遜というのはただ自分を低く考えるだけでなく、それに「信仰」という要素を加えなければならないのです。「信仰の量に応じて」、慎み深く考えなければなりません。

 では、「信仰の量りに応じて」とは何でしょうか?「信仰の量り」とは、クリスチャンそれぞれに与えられた信仰の程度のことです。私たちはみな神様から与えられている賜物や程度が違うので、その程度に応じて奉仕しなければなりません。それは多く与えられている者が、少ししか与えられていない者よりも偉いということではありません。多く与えられた者も少しだけ与えられた者も、それが神様から与えられた恵みであると感謝して、キリストのからだである教会を建て上げていくためにその与えられたものを忠実に用いていかなければならないということです。

 マタイの福音書25章14~30節のところには、タラントのたとえが書かれてあります。

「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」

 この1タラントを預けられたしもべの問題点はどこにあったのでしょうか。忠実でなかったことです。彼は、預けられた1タラントを土の中に隠しておいて、それを用いようとしませんでした。神様の関心はどれだけのタラントを預けられているかではなく、その預けられたタラントをどのように用いたかです。ですから見てください。5タラントあずけられたしもべも、2タラント預けられたしもべも、その与えられたタラントに対して忠実であったとき、神様は彼らに同じ祝福の言葉を言っています。どれだけ与えられたかではなく、それをどのように用いるのかが問われている。信仰の量りに応じて、慎み深く考えるというのは、こういうことなのです。これが健全なクリスチャンの心、考え方なのです。

 羽鳥明先生はこの箇所の注解において、次のように言っています。

「霊的奉仕のための第一の条件は、真実の謙遜である。これは自己卑下ではなく、各自に与えられた力、生涯についての神のみこころというものを、間違いなく評価することにかかわっている。与えられた力を過小評価することは、過大評価することとほとんど全く同じで、奉仕の実質的生涯にとって、致命的である。」

つまり、本当の謙遜とは、与えられた霊的賜物を用いて神と人に仕えることであるというのです。ですから、「慎み深い考え方」をするというのは、決して「自分はだめだ、できない」と考えることではなく、それら与えられた霊的賜物がみな神から与えられたものであることを感謝して用いることなのです。

 考えてみますと、私たちは神様の恵み、キリストの十字架と復活の力をほかにして、なんと小さな、なんと弱い、なんとみじめな者でしょうか。しかしそんな者を神様は愛して、選んで、きよめて、聖なる者としてくださいました。そして、信仰の程度に応じて、賜物を与えてくださったのです。私たちは人を支配し、人から偉そうに思われたり、人の上にあぐらをかくような思い上がった態度からではなく、与えられた賜物に応じて、信仰の程度にしたがって、互いに仕え合っていかなければならないのです。

 パウロはここで、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と言っていますが、これはそういう意味です。パウロは、自分がクリスチャンとして今こうして生かされているという現実を思う時、それはただ神の救いの恵み以外の何ものでもないという意識に立ちながら、そのような自分が指導者として、あるいは教師として立てられているのは、ただ神の恵みによって与えられた権威によるものであると自覚していたのです。教会においては、だれひとりとしてほかの人に要求できる資格のある人などいません。みんな赦された罪人にすぎないからです。しかし、そんな者であるにもかかわらず、そうした勧めができるとしたら、それは神様から一方的に与えられた恵みでしかないのです。そのことをわきまえながら、与えられた賜物を用いて互いに仕え合うこと、それが慎み深い態度であり、真に謙遜なクリスチャンの姿なのです。

  私たちはこのことを忘れてはなりません。このことを忘れてしまうと、思い上がってしまうことになります。慎み深い、健全な考え方を持つことができず、傲慢になったり、逆に不信仰になったりし、ほかの人をさばいてしまうことになり、いわゆるトラブルメーカーになってしまうのです。「私たちに与えられている賜物はすべて神からの恵みである」と思うこと、それが慎み深い考え方であり、信仰生活のすべてなのです。

 Ⅱ.キリストにあって一つのからだ(4-5)

 第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。4,5節をご覧ください。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

 パウロはここで、教会を「一つのからだ」という言葉で表現しています。教会はキリストのからだなのです。教会がキリストのからだであるというのは、どういう意味でしょうか?それは第一に、キリストと教会は一体であるということです。つまり、教会はキリストのいのちによって成り立っているということです。ですから、キリストなしに教会は生きることはできないのです。

 第二のことは、そこには多くの器官がありますが、一つに結びついているということです。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大勢いる私たちもそれと同じなのです。からだのすべてが目だったらどうなるでしょうか?想像しただけでも気持ち悪いですね。見ることはできたとしても、ほかのことは全くできません。体の中には目もあれば耳もあり、口もあれば鼻もあり、手もあれば足もあります。そうした一つ一つの器官が一つとなってはじめてからだとしての健全な営みができるというか、健全に機能していくわけです。それはちょうど目が見るという働きを、目だけのためにしているのではなく、耳や口や鼻や手、足など、からだのほかの部分のためにしているのだということです。それと同じように、私たちクリスチャンも、教会のほかの人々のために仕えるために存在しているのです。

 右の手がかゆくなると、右の手ではかけません。そこでどうするかというと、左の手でかくわけです。知らず知らずのうちに動いてちゃんとかいているんですね。不思議です。左の手が、「私はかきません。私は私です」と言ったことがあるでしょうか。手がある時ストライキを起こして、「おれは口さんのためだけに存在している。おいしい食べ物を口に運ぶ時にだけ動くのであって、それ以外は動きたくない」なんて言うでしょうか?言いません。私たちはお互いを必要としているのであって、お互いのために働いているのです。靴のひもを結ぶ時には、身をかがめて結びます。私たちはキリストの体につながった一つのからだとして、ある人は手のようです。ある人は足のようです。ある人は口ばっかりのようです。ある人はあってもなくてもいいような爪のようです。しかし、そんな爪でもないと大変なんです。シールを剥がそうとしても剥がれません。また、爪を剥がそうとしたら痛いですよ。爪がなかったら大変なんです。盲腸はなくてもいいと昔からよく言われていますが、あれもないと困るらしいのです。私は昨年胆石が見つかって胆嚢摘出手術を受けようとしましたが、怖くなって入院した翌日に病院から逃げ出しました。医師は、胆嚢はなくてもいいと簡単に言うのですが、なくてもいい臓器などあるのかと不安になり、まだしばらくそのままにしておくことにしたのです。結局、あれから何年か後に別の病院で摘出しましたが・・・。

 皆さん、なくてもいい器官などありません。どんなに小さな器官でも必要とされています。それは教会におけるほかの人々のために、与えられた賜物をもって仕えるためです。このことが本当にわかったら、奉仕の喜びも増してくるはずですし、教会は一致して大きく前進していくのではないでしょうか。

 Ⅲ.異なった賜物(6-8)

 では、私たちにはどのような賜物が与えられているのでしょうか。最後に、私たちに与えられている賜物のリストを見ていきたいと思います。6~8節をご覧ください。

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物が与えられています。それはどういうことかと言いますと、人が生来持っている才能とは区別されるものであるということです。もちろん、生来の才能も聖霊によって用いられることもありますが、これはあくまでも恵みによって与えられている賜物であるということです。聖霊によって全く造り変えられた人が、超自然的なわざを行うために与えられる恵みの賜物なのです。神様は私たちひとりひとりに、それぞれ異なった賜物を与えておられるのです。ここにはその中のおもなものとして七つの賜物が挙げられています。

 まず「預言」です。「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」とあります。預言というのは、読んで字のごとく、神のことばを預かるということです。これは将来のことを予言することではありません。もちろん、そのことも含みますが、もっと広い意味での預言です。それは、神のことばによって預言することです。ですから、それは将来のことだけでなく、現在のことも、すべてのことを含みます。簡単に言うと、神の言葉に仕える賜物です。神様から預かった御言葉を、わかりやすく伝える賜物のことです。これは賜物によるのです。

 二つ目は「奉仕」です。別の訳には「仕える賜物」とあります。貧困者や病人を助けて、その人々に仕える働きとも考えられますが、むしろ、この賜物は他の人が主導する宣教の働きを助ける賜物のことでしょう。この賜物を受けた人は、一人でしなさいというと、うまくできませんが、指導者の下で働くと自分の持っている以上の力を発揮することができます。これは私たちが通常、スタッフとか、助け手、同労者、などと呼ばれる人たちが受けている賜物で、極めて重要なものです。

 出エジプト記17章に出てくるアロンとフルもそうでした。その時イスラエルはアマレクと戦争をしていましたが、モーセが手をあげて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下げると劣勢になります。ですからモーセはずっと両手を挙げていなければならないのですが、経験のある方はご存知のように、ずっと手を挙げているのは苦しいのです。モーセもそうでした。そして手が下りて来ると劣勢になるのでどうしようかと思っていたとき、その両手を支えたのがこのアロンとフルでした。彼らは一人がモーセの右の手を、もう一人がモーセの左の手を持って支えたので、イスラエルは勝利することができたのです。これが奉仕の賜物です。

 三つ目は「教える人」です。教える賜物とは、聖書の言わんとしていることを説き明かす賜物です。ある面で預言の賜物と似ていますが、預言の賜物との違いを強いて言うならば、預言の賜物が霊的力をもってみことばを語るのに対して、この教える賜物はみことばを理解させる力です。難解なみことばをわかりやすく語り理解させることができます。

 四つ目は、勧めをする人です。「勧めをする人であれば勧め」とあります。この「勧める」ということばは、「慰め、励ます」という意味です。試練や苦しみに会って落ち込んでいる人がこの勧めの賜物を持った人に会うと勇気が与えられます。「死にそうだ」「苦しくて生きられない」という人が、この賜物を持った人と話して祈ってもらうと元気づけられるのです。逆に、この勧めの賜物とは全く逆のタイプの人もいます。元気づけるどころかかえって落ち込ませてしまう人もいます。そんなに重病でもない人を訪問して、「この病気は大変ですね。うちの親戚にも同じ病気にかかっていた人がいて、二ヶ月後には死んでしまいました」と言えば、その人がどんな気持ちになるかわかるものです。にもかかわらず、相手の気持ちを考えないで自分の思いで語ってしまう・・・。それは「勧め」とは全く反対のことです。私たちの語る一つ一つの言葉で相手が勇気づけられもし、落胆する場合があります。ですから、私たちはいつも人の徳を高めるような話に努めていきたいものです。伝道においては特にこのことに配慮していきましょう。

 五番目に出てくるのは、「分け与える人」です。分け与える賜物というのは、自分の持っている財を喜んで主や主の教会のためにささげる賜物のことです。これはお金があるからできることではありません。それは賜物です。お金の多い少ないに関係なく、神様が恵みを下さるときにだけ与えることができるのです。

 ヴァン・ダイクという作家の「大邸宅」という作品があります。その中にこのような意味深長な話が出てきます。ある金持ちが死んで天国に行きました。天国で自分の家に入ろうとしたら、そこは天井もろくにないぼろ家でした。それを見た金持ちが激怒して言いました。「なぜ私に、こんなぼろ家を下さるのか」そして横を見ると、とんでもない大邸宅がありました。その家の主人は、何と自分の家の隣に住んでいた貧しい医者ではありませんか。「神様、どうして私はぼろ家で、あの貧しい医者は大邸宅なんですか?」すると神様がこう言いました。「このすべての建築資材は、あなたが生きていた時に送ってきたものなのです。あなたが生きていた時には何の建築資材も送って来なかったけれど、あの医者は生きていた時、施しをし、献金をし、多くの人を助けて、あれほどの建築資材を送って来たのです。」これはもちろん作り話ですが、重要なメッセージがあると思います。

 イエス様は、「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」と言われました。(ルカ6:38)井戸は使えば使うほどどんどんきれいな水が出てくるように、私たちも神様のために、また多くの人を生かすためにお金や時間を投資するなら、神様はますます満ち溢れる祝福で満たしてくださるでしょう。そして、喜んで分け与えられる人がいます。これは賜物です。財産をどれだけ持っているかではなく、この賜物が与えられている人はどれだけ与えられていても、それを喜んで分け与えることができるのです。

 六番目は「指導する人」です。「指導する人は熱心に指導し」とあります。指導する賜物というのは、教会の群れを霊的に見守る人のことです。この指導する賜物を持った人が指導すると、平凡な器も有能な働き人に変えられます。特別な才能があるというわけでもないのに、あるいは特別な力があるわけでもないのに、このような指導者に指導されると、驚くべき力を発揮することができるのです。

 ダビデは、このような賜物を持っていました。Ⅰサムエル22章を見ると、ダビデがアドラムの洞窟に逃げ込んでいると、そこに四百人ものならず者が集まって来ました。借金を踏み倒して来た人、詐欺を働いて逃げて来た人、奥さんを捨てて来た人、憎しみにかられた人などです。世に言うクズのような人たちです。けれどもダビデはそういう人たちを訓練して、全イスラエルを統一するために用いたのです。ダビデは、この指導する賜物がありました。

 ここに出てくる最後の賜物は「慈善を行う人」です。この賜物は「あわれみの賜物」です。すなわちほかの人が苦しみにあるとき、この苦しみを自分のものと考える賜物です。ほかの人々の重荷を代わりに背負う心、苦しんでいる人をよく面倒みる姿勢のことです。しかし、これらがすべてではありません。聖書にはこれらを含めて27以上の賜物が挙げられています。

 ここに挙げられた賜物は、決して生まれながら持っている能力のことではありません。これは、教会が建て上げられ、成長していくために必要なものとして、主が教会に与えてくださったものです。それは主が恵みとして与えてくださったものですから、私たちはどのような賜物が与えられているのを見極め、あるいは、これらの賜物を切に求めながら、へりくだって、教会の兄弟姉妹に仕えるために用いていかなければなりません。神がおのおのに与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。自分に与えられた恵みの賜物をキリストのからだてある教会の兄弟姉妹のために用いること、それこそ慎み深い考え方、健全なクリスチャンの心なのです。そのような人を神様はさらに祝福し、さらに大きく用いてくださるのです。

ヨハネの福音書3章22~30節「主役はキリスト」

きょうは、ヨハネの福音書3章22節から30節までの箇所から、「主役はキリスト」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ヨハネの弟子たちのいらだち(22-26)

 

まず22節から26節までをご覧ください。

「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。

ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」」

 

「その後」とは、ニコデモとの会話の後で、のことです。イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました。それがどこであったかのかははっきりわかりませんが、おそらくヨルダン川でのことでしょう。というのは、26節に、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」とあるからです。おそらく、ヨハネがいた所からそう遠くない場所でイエスはバプテスマを授けておられたのだと思います。

 

一方ヨハネはというと、サリムに近いアイノンという所でバプテスマを授けていました。そこには水が豊かにあったからです。その頃はまだ、ヨハネは投獄されていませんでした。ヨハネはこの後でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられ投獄されますが、まだ捕らえられていなかったので、バプテスマを授けていたのです。

ですから、その頃はイエスとバプテスマのヨハネの双方がバプテスマを授けていました。これは、どういうことでしょうか?それはちょうどリレーのバトンの受け渡しのようです。ヨハネは旧約聖書の最後の預言者でした。彼において旧約の時代は終わります。旧約聖書の主な役割は、キリストが来られることを予め前もって告げることでした。そのキリストが来られたのです。ですから、ヨハネの働きが終わって、ヨハネが指し示していたキリストの働きが今まさに始まろうとしていました。そのバトンがキリストへと渡されようとしていたのです。

 

ところが、ヨハネの弟子たちはそのことが理解できませんでした。それで彼らはヨハネのところに来て、こう言いました。26節、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」

 

バプテスマのヨハネが、以前ヨルダン川でバプテスマを授けていた時は、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川の全地域から人々がやって来ました。その中には、パリサイ人やサドカイ人も大勢いれば、ローマの兵士たちもいました。ところが、バプテスマのヨハネが主イエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と言ってあかしし始めると、人々はどんどん彼から離れて行き、イエスの方について行くようになりました。彼らは、それがおもしろくなかったのです。

 

ある註解者は、この時のヨハネの弟子たちの心境をこのように推察しています。

「ヨハネの弟子たちは、多くの者がイエスのもとに行くのを見て、いらだちを覚えたのであろう。ヨハネの使命が、イエスを指し示すことであることは百も承知していたはずなのに、『皆があの方のほうに行きます』という言葉から想像できるように、人の波が大きくイエスの方に移っていくのを見た時、弟子たちは切ない気持ちになったのであろう。そして、その切ない気持ちはいらだちへとふくれあがっていったに違いない。ヨハネの弟子たちの心の中にはイエスに対するねたみの思いが湧き上がってきたのではないだろうか。人が離れていくのを寂しいと思う気持ちが雪だるま式にふくれあがり、やがてねたみへと変わっていったのである。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのである。イエスを十字架につけたのも、ユダヤの指導者たちのねたみのせいであったと他の福音書には記されている。」

 

この時のヨハネの弟子たちの心境がよく表されているのではないでしょうか。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのです。すなわち、人をねたむ心こそが、人間の争いの原因なのです。

 

先日祈祷会で士師記12章から学びましたが、エフタに詰め寄ったエフライム人の問題もここにありました。彼らはアンモン人に勝利したエフタに詰め寄ってこう言い増した。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。」(士師記12:1)

なぜって、以前エフタがアンモン人と戦ったとき、彼らに助けを求めたのに、彼らは助けてくれなかったからです。それなのに、今ごろになって不平を漏らし、戦いを挑んでくるなんて、筋が違います。それは彼らの中に高ぶりとエフタに対するねたみがあったことが問題でした。

 

パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、彼らは御霊の人ではなく、まだ肉の人だと言っています。なぜなら、彼らの間にはねたみや争いがあったからです。それである人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っていたのです。アポロとは何ですか。またパウロとは何ですか。彼らは、あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(Ⅰコリント3:6-7)

 

あなたにはこのような思いはないでしょうか。私たちは、すぐに人と自分を比較してはねたみを抱いてしまいます。自分よりもほかの人の方が優れているのを見ると、あるいは、ほかの人がうまく行っているのを見ると、その人が妬ましくなるのです。しかし、それはただの人、つまり、イエスを知らない人と同じです。そうした思いはただ争いを引き起こすだけで、そこからは何も良いものが生まれてきません。ですから、もしあなたの中にこうした思いがあるならば、イエス様に赦していただきながら、神の御霊によって聖めていただかなければなりません。

 

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(27-28)

 

次にそうした弟子たちの訴えに対して、バプテスマのヨハネがどのように答えているかを見てみましょう。27節と28節をご覧ください。

「ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」とは、どういう意味でしょうか?人々がキリストの方に行くのは、神がそうさせておられるからであるということです。それなのに、ねたみを抱くことがあるとしたら、その神の主権を侵害すことになります。私たちは、どんな場合でもそこに神の御手があることを認めなければなりません。

 

それは私たちの生死に関しても言えることでしょう。たとえば、私たちの家族の中に障害のある子どもが生まれてくると、なかなかそれを受け入れることができないかもしれません。そのことで親は自分を責め続けるでしょう。しかし、そこに神の御手があると信じ、神が与えてくださったものであると受け止めるなら、その苦しみから解放されるでしょう。

 

それは自分のいのちについても同じことが言えます。人は自分の死が近づいて来るとなかなかそれを受け入れることができません。そのためにもがき苦しむのです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンは、自分の人生すら自分のものではなく、自分がこの世に生かされているのは、神が自分にいのちを与えてくださったからであると受け止めているので、そして、この世での使命を果たし終える時、神はこの世のすべての苦しみから解放して、もっとすばらしい天の御国に入れてくださるということを信じているので、安らかに死を迎えることができるのです。

 

今、さくら市ミュージアムで「青木義雄と内村鑑三」展をやっておりますが、昨日はその記念講演として内村鑑三の人と信仰についての講演会がありました。講師が、黒川知文先生と言って、私の神学校の時の講師だったので、講演を聞きに行きました。内村鑑三の信仰に改めて感動しました。

何に感動したのかというと、その講演の中で内村鑑三が愛娘のルツ子さんを天に送るのですが、その告別式で内村鑑三がこのように言ったことです。「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」そして、墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだのです。後に東大の総長となった矢内原忠雄は、当時19歳でしたが、この叫びを聞いて雷に撃たれたような衝撃を受けたと言っています。

なぜ内村鑑三がこのように言うことができたのか。それは彼の中にキリストの再臨信仰があったからです。かなわち、キリストが再臨されるとき、キリストにあって死んだ者の復活があり、生ける者の携挙があると堅く信じて動かなかったからです。その時から、彼の再臨運動が一層熱を帯びていくわけです。そして、各地での聖書講義には平均で800人もの人々が集まったと言われています

17歳で札幌農学校に入学した彼は、キリストとの出会うわけですが、26歳の時にアメリカのアマースト大学でシーリー学長との出会いによって真の救いの体験をすると、このルツ子さんの死という試練を乗り越えて、死んでも復活する再臨信仰に至り、このように言うことができたのです。

 

それは生死に関することだけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることです。人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。今、私たちに起こっているすべてのことが神によって与えられているものであると受け止められるなら、すべての心のいらだちから解放されるでしょう。たとえ人が自分のところから他の人のところへ移って行くようなことがあったとしても、それが天から与えられたことであると受け止めるなら、すべてを神にゆだねることができるのです。

 

バプテスマのヨハネの場合はどうだったでしょうか。彼は28節でこのように言っています。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

彼は、自分に与えられている立場がどのようなものであるかを、よく自覚していました。自分がどのような者であるかが分からない人は、とかく傲慢になります。パウロはコリントの教会の人たちに対してこう言っています。「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Ⅰコリント4:7)

これはどういうことかというと、彼らが持っているものはすべて神からもらったものなのに、どうしてもらったものでないかのように誇るのかということです。彼らは、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、神の一方的な恵みによって、キリストの十字架の贖いによって救われたのに、そして、その神の恵みとして御霊の賜物が与えられたのに、あたかも自分の力で得たかのように錯覚していたのです。ですから、「あの人は、なぜ、自分たちのように神に仕えていないのか」と批判していたのです。それは彼らが、自分たちがどのような者であるのかを忘れていたからです。

 

自分を誇る人の多くは、この点がよくわかっていません。頭がよいということにしても、努力できるということにしても、ある種の才能を持っているということにしても、どれもすばらしいことですが、しかし、どれ一つとして自分の力で得たものではないのです。それらはみな与えられたものなのです。そういうことが分かってくると、自分の分もまたおのずと分かってくるのではないでしょうか。

 

バプテスマのヨハネは、自分に与えられていたものをよく自覚していました。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです。」私はそういう者でしかないのです。だから、人々があの方の方へ行ったとしても、何の問題もありません。むしろ、それが本望です、と言うことができたのです。

 

謙遜ということは、口で言うのはやさしいことですが、実際にそれを行うということは、決してやさしいことではありません。特に、いかに人を蹴り落として自分が上に立つかを求めているこの競争社会の中に生きている私たちにとっては、本当に難しいことです。しかし、そのような中にあっても真に謙遜に生きるコツは、このバプテスマのヨハネのように自分に与えられた立場をわきまえ、そこに生きることなのです。

 

Ⅲ.主役はキリスト(29-30)

 

では、主役は誰でしょうか。主役はキリストです。バプテスマのヨハネはそのことを29節と30節でこのように言っています。

「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 

バプテスマのヨハネは、続けて弟子たちに語っています。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」

ヨハネはここで自分のことを、結婚式における花婿の友人にたとえています。花婿の友人とは、ベストマンとかブライズメイトのことです。日本ではベストマンとかブライズメイトのいる結婚式はあまり見られませんが、アメリカの結婚式ではよく見られます。というか、ほとんどの結婚式におります。彼らの役割は何かというと花嫁や花婿を引き立て、彼らを助け、彼らが結婚して、喜びの生活に入れるようにすることです。あくまでも結婚式の主役は花嫁であり、花婿です。その主役である花嫁を引き立て、そばに立って耳を傾け、大いに喜んでいるのが花婿の友人なのです。間違っても、自分が出すぎてはいけません。バプテスマのヨハネはここで、自分はその花婿の友人であり、花婿であられるキリストの声を聞いて喜びに満ち溢れていると告白しているのです。

 

これこそヨハネが彼の弟子たちに求めたことでした。そして、これはすべてのクリスチャンにも求められていることです。クリスチャンはみなこの花婿であられるキリストの友人であり、あくまでも主役はキリストなのです。このことを忘れてはいけません。というのは、謙遜はこのことをわきまえることから得られるものだからです。つまり謙遜は、謙遜になろうと努力することによって獲得できるようなものではなく、キリストとの正しい関係にあることによってもたらされるものであるということです。キリストはこのように言われました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

どうすれば、たましいに安らぎが来るのでしょうか。キリストのくびきを負って、キリストから学ぶことによってです。なぜなら、キリストは柔和でへりくだっているからです。ですから、このキリストのくびきを負って、キリストから学ぶなら、たましいに安らぎを得ることができるのです。くびきとは、牛や馬など二頭の家畜をつなぐ棒のことですが、普通は牛や馬の頸部に取り付けられます。つまり、このくびきを負って、キリストとつながれているなら、私たちも柔和で、へりくだった者になることができるということです。

 

私たちは、花婿に仕える友人のように、花婿であるキリストを喜び、キリストに仕える者です。そして、花婿が花嫁と結ばれることによってその役目を果たし終えるように、キリストによって成し遂げられた救いの御業が全世界に宣べ伝えられ、多くの人々が救われて、世の終わりに天において子羊の婚宴が開かれることを待ち望みつつ、主に仕えて行く者なのです。

 

来週はM兄とT姉のバプテスマ式が行われますが、それはまさに花婿であられるキリストとの結婚式でもあります。やがて世の終わりにキリストとの婚宴が開かれる時、そこに招かれることでしょう。それはキリストの喜びであり、私たちの喜びでもあります。なぜなら、私たちは花婿のそばに立って、花婿が語ることに耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜んでいる者だからです。それが私たちの喜びでもあるのです。

 

最後のところでヨハネは、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と言っています。これこそクリスチャンとしての最大のあかしです。「私が盛んになり、あの方は衰えなければなりません。」ではなく、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」それでいいのです。それが私たちの人生であり、私たちの喜びだからです。

 

パウロは、コリント人への手紙の中で、「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)と書きましたが、それはまさにこのことでした。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。あくまで主役はキリストなのです。そのことを忘れないでください。

 

今日からアドベントが始まりました。クリスマスの12月25日と言えば、冬至のころです。一年で一番夜が長い時期です。それから少しずつ昼が長くなっていきます。キリストがいよいよ光り輝き、栄光をお受けになられるのです。それに対して、バプテスマのヨハネは半年早く誕生しました。これはあくまでもそのように定められたということであって、実際のキリストの誕生日はいつなのかははっきりわかりません。ただわかっていることは、その半年前にバプテスマのヨハネが誕生したということです。ということは、クリスマスが12月25日とすれば、彼の誕生は6月24日となります。6月24日は夏至のころで、それから次第に昼が短くなっていきます。これは極めて象徴的であると言えるのではないでしょうか。バプテスマのヨハネは、この方をあかしさえすれば、それでこの世における使命は終わり、消えていくのです。まさに彼の人生は、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」でした。

 

それは、私たちの人生も同じです。私たちの人生は、この方をあかしさえすれば、それでいいのです。それが本望です。それでこの世における使命は終わり、消えていくべき者にすぎないのです。私たちは、この神の定めを本当に理解しているでしょうか。それが本当に分かると、私たちの心は真の自由を得ることができます。私たちもこのバプテスマのヨハネから学び、彼のような生涯を送らせていただきましょう。あくまでも主役はキリストです。この方が盛んになり、私は衰えていかなければなりません。この方の声を聞いて大いに喜びましょう。キリストの心を心とする者、それが花婿であるキリストの友なのです。

ヨハネの福音書3章16~21節「永遠のいのちを持つために」

きょうは、ヨハネの福音書3章16節からのところから、「永遠のいのちを持つために」というタイトルでお話しします。

今お読みした聖書の箇所、特に3章16節は、聖書の中でも特に有名な箇所です。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という言葉です。なぜこの言葉が有名なのかというと、聖書には多くのことが書かれてありますが、その最も大切なことがここにあるからです。聖書のエッセンスがこの言葉の中にすべて含まれていると言えるでしょう。それゆえに、この箇所は「聖書の中の聖書」、「聖書の中の小聖書」と言われているほどです。

きょうは、この有名な箇所から、永遠のいのちを持つためにはどうしたらよいかについて、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

Ⅰ.ひとり子を与えるほどの神の愛(16a)

 

まず16節に注目してください。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

 

今日ほど愛という言葉が使われている時代はないでしょう。至る所で愛という言葉がささやかれていますが、その愛は、愛の形をしてはいても、実際には、そうではありません。むしろ愛とは正反対である場合がほとんどです。というのは、愛は自己犠牲が伴うものだからです。しかし、大抵の場合は、ほかの人に与えるものではなく、自分のためにすべてを奪うものになっています。

 

しかし、ここに本当の愛があります。それは、神が、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたことの中に現されました。ある註解者は、「ここに神の無限の愛がある。この愛は人間の知らない愛である」と言っています。何ゆえに、この愛は人間の知らない愛なのでしょうか。たとえば、この愛に最も近いものに母親の愛があるでしょう。母親にとってわが子は特別の存在で、まさに目の中に入れても痛くない存在です。母親であればわが子のために自分を犠牲にすることもいとわないでしょう。しかし、そのような愛でさえ「わが子」に限定されたもので、それを超えて愛するということはほとんどありません。

しかし、神の愛はそうではありません。神の愛は、全く愛される価値のない者でさえも愛する愛です。人間は神によって造られたにもかかわらずその神を愛することはおろか、神に背を向け、罪の奴隷となっていました。聖書では、これを罪と言っていますが、この罪深い人間のために、神はそのひとり子をお遣わしになり、十字架で死んでくださったのです。

 

旧約聖書のホセア書に出てくる物語は、この神の愛がどのようなものかをよく表しています。

ホセアという預言者は、神の愛をあかしするために、彼自身得意な生活を余儀なくされました。ホセアは、ディブライムの娘ゴメルと結婚し、三人の子どもが生まれました。しかし、妻のゴメルはホセアと結婚しながらも不貞を続け、彼よりも別の男性を求めたのです。夫のホセアは彼女を愛するあまり、その心は引き裂かれるばかりに痛み、苦しみます。けれども、ゴメルは夫から離れ、愛人たちのところに身を潜め、売春までするようになるのです。そのことを知ったホセアは恥を忍んでその場に出向き、お金を払って彼女を連れ戻します。ホセアは彼女が悔い改めることを願い、彼女のすべての罪を赦そうとするのです。

 

このたぐいまれな経験は、神が神の民イスラエルに対して抱いていた思いを表していました。背かれる者の苦しみと、その背く者への愛の深さを、彼は自分の経験を通して知り、神に反逆しているイスラエルの民を神がどんなに深く愛しておられるのかを語ったのです。いったいどこに夫を捨てて別の男に身も心も寄せた女を愛する人がいるでしょうか。しかし、ホセアは神の命令に従い、別の男に身を売っている妻を愛し、彼女を多くの代価を払って買い戻したのです。これが神の愛です。

 

この妻ゴメルの姿やイスラエルの姿は、私たちの姿でもあります。私たちは神を愛し、神の喜びと栄光のために造られたにもかかわらず、その神を愛することはおろか、神に背を向け、自分勝手に生きていました。それなのに、神はそんな背信と不遜のかたまりのような私たちを愛し、多くの代価を払って罪の奴隷から買い戻してくださいました。神は、全く愛される価値のない者さえをも愛してくださったのです。

 

いったい神はどのように愛してくださったのでしょうか。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。「ひとり子」とは、イエス・キリストのことです。この「ひとり子」という言い方は、神そのものであられるお方を意味しています。神ご自身が犠牲となってこの世に来られ、十字架にかかって死なれるほどに、愛してくださいました。その愛の広さはいかばかりかというと、「世を」という言葉の中に表されています。神の愛はその選ばれた民イスラエル人だけでなく、この世を愛されました。神の愛は、全世界のあらゆる民族に及ぶのです。しかも、その愛の大きさは、ひとり子をお与えになったほどでした。これは十字架での犠牲を指しています。尊い神の御子イエス・キリストの死こそ、神が私たちを買い戻すために支払われた代価だったのです。

 

皆さん、物の価値というのは、差し出された代価よって決まります。たとえば、ここにマイクがありますが、これは3万円くらいで買いました。3万円を払って買ったわけですが、それはそれだけの価値があったからです。では、神様は、私たちのためにどれだけの代価を払ってくれたでしょうか。何とそのためにご自身のひとり子をお与えになりました。本来であれば全く価値がない者なのに、神はそれほど価値ある者と見てくださったのです。それほどまでに愛してくださいました。

 

ローマ人への手紙5章7節~8節には、こうあります。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

神は、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を明らかにしてくださいました。罪人である私たちのためにいのちを捨ててくださる方がおられる。これが神の愛です。これが聖書の中心なんです。このような愛は私たち人間の中にはありません。それは、私たち人間の知らない愛です。神はこの愛を、ひとり子であられるイエス・キリストをこの世に与えることによって表してくださったのです。

 

Ⅱ.永遠のいのちを持つために(16b-18)

 

いったいなぜ神はそれほどまでに愛してくださったのでしょうか。16節後半から18節にこのように記されてあります。

「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何でしょうか?永遠のいのちとは、単に長生きすることではありません。ヨハネの福音書17章3章には「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」とあります。

 

私たちは「永遠のいのち」という言葉を聞くと、死んだあとも続くいのちであるかのように考えがちですが、確かに、死んでからも続くいのちのことでもありますが、その本質は神の臨在のことです。唯一まことの神とキリストを知ることに他なりません。私たちが、日々の祈りの中で、あるいは神のみことばを読む中で、主がどのように自分と関わっておられるのかを知り、その神を仰ぎ見て、神の御前にひれ伏す中で生ける神と交わることこそ、永遠のいのちなのです。そこに神がおられるということです。神とキリストの臨在の中で生きること、それが永遠のいのちです。

 

それは、人がそのように造られたからです。創世記1章27節には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。「神のかたち」とは何でしょうか?それは霊のことです。神は、私たちを肉体を持つ者として造られただけでなく霊を持つ者として造ってくださいました。これは神を慕い求め、神に祈る存在として造られたということです。ですから、人は神につながり、神に祈り、神と交わり、神のいのちを持つことで、本当に人間らしく、真の喜びと満足を得て生きることができるのです。

 

それなのに、最初の人であったアダムが神の命令に背いて罪を犯したことによって、この神との関係が切れてしまいました。つまり、霊的に死んでしまったのです。神との交わり、永遠のいのちを失ってしまいました。それゆえに神は、そのように霊的に死んだ人が新しく生まれ変わって神との関係を回復するために、すなわち、永遠のいのちを持つために、御子をこの世に送ってくださったのです。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、このいのち、永遠のいのちを持つためです。

 

それはまた、この地上での肉体のいのちがのちが尽きても、決して終わることがない神との交わりのことでもありのす。

母が脳梗塞で召されて10年が経ちました。召された日の朝方まだ薄暗い時間にカタッと音がしたので「大丈夫?」と起きてみると、母は意識がはっきりしていて、「いや、何だか目が覚めたんだ」というので、「そう、まあ、安心して、イエス様が一緒にいるから」というと、「そうだね」と言ってまた静かに眠りに就きました。そして、だいぶ明るくなったころ少し経って息づかいが荒くなったかと思うと、静かに息を引き取りました。母は私が手を握り締めている中で、天に帰って行きました。静かな死でした。それは、天国を確信し、まるで、ふすまをあけて隣の部屋にいくように、召されて行きました。83歳の生涯でした。私は、母との別れの悲しみや寂しさで涙を流しましたが、それは決して絶望の涙ではありません。しばしの別れの涙です。なぜなら、死は、決してイエス・キリストが与えてくださった永遠のいのちを奪うことはできないからです。永遠のいのち、それは、決して変わることのない希望なのです。

神様は、私たちにこの永遠のいのちを与えるために、そのひとり子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではありません。御子によって世が救われるためです。御子を信じる者はさばかれません。

 

ここから、私たちが救われるためには二つの側面があることがわかります。それは神がしてくださったことと、私たちがしなければならないことです。神がしてくださったこととは、もちろん、神がこの世を愛してくださったということです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに愛してくださいました。しかし、私たちが救われるためにはもう一つの側面があります。それは、私たちがその神の愛に応答して、御子を信じるということです。御子を信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つのです。

 

それは前回のメッセージで語った通りです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって、永遠のいのちを持つためです。」(3:14-15)十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見るなら、救われるのです。仰ぎ見るとは、信じるなら、ということですが、イエスを、自分の罪の救い主として信じるなら、救われるということです。

 

実は、前回のメッセージをホームページにアップしたところ、本当に多くの方々からメールをいただきました。その中には、十字架に付けられたイエスを信じるだけでは救われないというものもありました。自分の罪は、自分で背負って、イエス様に着いていくのが、正しいです、というのです。また、イエスが命じられたとおり、神を愛し、隣人を愛さなければ救われない、というのもありました。でも、自分の罪を、自分で背負うことができますか?神を愛し、隣人を愛することができますか?できません。だから、神様は信仰によって救われる道を用意してくださったのです。私たちが救われる道は、神がしてくださった十字架と復活の御業を信じて受け取る以外にないのです。確かに、イエスは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに着いて来なさい、と言われましたが、それは私たちが救われるためではなく、救われた私たちがその救いの恵みに感謝してささげる応答なのであって、私たちが救われる唯一の道は、神の一方的な恵みの賜物、プレゼントであるイエスの救いの御業を信じて受け入れることしかないのです。

 

これはリーダースダイジェストという雑誌に載っていた実話ですが、カナダのある町の町はずれに刑務所がありました。

冬の寒い日、その刑務所の高い塀の外の寂しい道を12、3歳の少女が一人、粗末な外套の襟を立てて、行ったり来たりしていました。

ちょうど、刑務所の所長さんが、そこを通りかかりました。そして、「どうしたの?」と、声を掛けました。

少女は、怯えたように、小さな声で言いました。「わたし、この中にいるお父さんにクリスマスプレゼントを届けに来たのです」。

「じゃあ、私が届けてあげよう。ちゃんとあなたが届けに来たことを話して、渡してあげるから、早く家にお帰り。風邪をひかないようにね」。

その少女のお父さんは、強盗犯人で、その刑務所でも有名な、嫌われ者でした。乱暴で、直ぐに喧嘩をし、規則を守らず、看守たちの言うことを聞かず、手のつけられない囚人でした。

所長さんは、自分で、その少女のプレゼントを渡しに行って、こう言いました。「さあ、君の娘さんが、この吹雪の中を届けに来たクリスマスプレゼントだよ。開けてごらん」。

でも、そのお父さんは一言も口をきかず、包みを開こうともしませんでした。そして、恐い顔をして、所長さんをにらみつけています。

所長さんは、優しく言い続けました。「君の娘さんの心のこもったプレゼントなんだよ。さあ開けてごらん」。やっと、お父さんは、ノロノロとリボンをほどき、小さな紙の箱を開けました。

箱を開けたお父さんは、「あぁー、これは!」と大きな声をあげました。なんと、その箱の中には、目も覚めるようなきれいな金髪の巻き毛が入っていました。少女は、自分の髪の毛を、惜しげもなく、ばっさりと切って、箱に入れたのです。

そして、娘さんからのカードが添えてありました。そこにはこう書かれていました。

「愛するお父さん。クリスマスおめでとうございます。私はお父さんに何か良いプレゼントをと考えたのですが、お金がありません。だから、お父さんも大好きだった、私の大切な髪の毛を、クリスマスのプレゼントとして贈ります。

私の愛するお父さん、早くうちに帰って来てちょうだい。私はいつまでも待っています。お母さんもいなくなったので、わたしは今、伯父さん叔母さんの所にいます。二人とも、お父さんのことを良く言いません。でも、お父さん、私にとって世界でたった一人のお父さん、私はお父さんが大好きよ。どんなに辛くても、寂しくても、私はお父さんを待っています。

お父さん、お体を大切にね。私は毎晩毎朝、神様にお父さんのことを祈っています」。

手紙を読んでいるうちに、この男の目から、涙がどっと溢れ出て、子供のように泣き出しました。涙が後から後から流れ、本当に長い間、このお父さんは泣き続けました。

自分の一番大切な金髪の巻き毛をささげた娘さんの愛が、荒れてすさんだお父さんの心に平和をもたらしたのです。

その時から、このお父さんは、生まれ変わったように良い人になって、刑務所でも模範的な囚人になったそうです。

 

最も大切なものさえ与える愛は私たちを変えます。私たちを新しく造り変えるのです。そして、私たちの心に平和をもたらします。でも、そのためには、その愛を受け取らなければなりません。神があなたに贈られた大切な贈り物を、信仰によって受け取らなければならないのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ユダヤ人であっても異邦人であっても、救われる唯一の道は、神の御子イエス・キリストを信じること以外にはないからです。

 

Ⅲ.そのさばきとは(19-21)

 

では、信じないとどうなるでしょうか。信じない者はさばかれます。いや、すでにさばかれています。神のひとり子の名を信じなかったからです。19節から21節をご覧ください。

「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」

 

さばきというものは、普通世の終わりにあるものだと考えられていますが、事実、世の終わりにもありますが、しかし世の終わりにだけあるのではなく、もうすでに今現在始まっていると、聖書は言っています。これはどういうことかというと、悪いことをする者は、自分の行っていることや、その動機が神の光に照らし出されることを恐れるため、光であるイエス・キリストのもとに来ようとしないということです。そうすることによって、神のさばきを自分自身に招いているのです。つまり、イエスを信じないこと自体、神から離れていること自体が、神のさばきであるというのです。最初の人間アダムが罪を犯した時のことを考えてください。「あなたはどこにいるのか」と神に呼びかけられたとき、はどうしたでしょうか。彼は、神を恐れて、隠れました。それが神のさばきです。神によって造られ、神を愛し、神に従って生きるように造られた人間が、神を恐れて隠れたということ自体が、さばきなのです。

 

私は、以前、刑務所で教誨師をしていたことがあります。教誨師というのは、刑務所に収容されている人たちにそれぞれの宗教の立場から教え諭すことを目的に、個人と集団に行われるものですが、ある時、それに出席していた収容者たちに尋ねたことがあります。「皆さんは、実際に罪を犯して捕まるまでどんなお気持ちでしたか?」

するとそこにいるほとんどの人が同じように答えました。「あれは、生きた心地がしなかった!」

いつ捕まるかという恐れで不安でたまらなかったというのです。警察官に職務質問されようものなら、その緊張は極度に達しました。捕まって安心したというか、捕まるまでが地獄だったというのです。

これと同じです。捕まるまでが地獄です。捕まっても地獄ですが、捕まるまでも地獄です。すでにさばかれているからです。神のもとに来ようとしないこと自体、神のさばきにほかなりません。

 

それではなぜ人は神のもとに来ようとしないのでしょうか。それは光がこの世に来ているのに、自分の行いが悪いため、それが明るみに出されることを恐れるからです。つまり、悪い行ないを愛しているからです。神が望むようにではなく、自分の望むように生きていきたいのです。イエス様を信じると新しく生まれ、罪から離れなければならないと知っているので、イエスのところに来ようとしないのです。人はイエス様を信じない理由をいくつも並べ立てますが、本当の理由はただ一つ、今の生活を変えたくないだけです。

 

力ルヴァンはそのことについて、このように言っています。「彼らがキリストに近づくことの妨げとなっているのは、明らかに彼ら自身の邪悪さなのである。彼らが光よりも闇を選び、彼らに差し出されている光を避けるのは、悪意からそのようにしているばかりでなく、更に自分の罪深さを感じている心に由来しているのである」
確かにその通りではないでしょうか。そして、そのようなことは、私たちにも思い当たる節があります。キリストはそのような私たちの心の深いメカニズムを明らかにしておられるのです。

 

しかし、これは単に悪者はキリストを避け、善人はキリストに近づくということではありません。キリストが十字架につけられたあのゴルゴタの丘を思い出してください。ほかにも二人の犯罪人が、キリストと一緒に十字架につけられました。一人はキリストの右に、もう一人は左につけられました。民衆が「おまえが神のキリストなら、自分を救ってみろ」とあざけったとき、十字架にかけられた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。

しかし、もう一人の犯罪人は彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているのではないか。私たちは、自分がしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」(ルカ23:40-41)

そして、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスは彼に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

悪人がキリストを否定して、善人がキリストを受け入れたのではありません。この二人はどちらも犯罪人でした。その犯罪のゆえに処刑されなければならなかった罪深い人間だったのです。
では、なぜ一人の犯罪人はキリストをあざけり、一人は受け入れたのでしょうか。分かりません。ただ分かることは、もしイエス様が私にどちらになりたいのかと問われたら、私もキリストを受け入れる者になりたいということです。福音は、神様の一方的な恵みですから、私たちは何をしなくてもよいのかというと、そうではありません。御子を信じなければなりません。それが私たちに求められている応答なのです。福音は神様の一方的恵みですが、私たちはそれを受け取らなければならないのです。

 

「ちいろば」という本を書いた榎本保郎先生は、そのことを次のように言っています。「朝が来るのは私の努力ではない。しかし、早朝の素晴らしさを味わうためには、早起きが必要なのである」

私たちも、神がイエス・キリストを通して与えてくださった愛に対して、その愛に心から応える者でありたいと思います。そして、イエス様があの一人の犯罪人に、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたように、私たちも永遠のいのちを持つ者でありたいと思うのです。

ヨハネの福音書3章1~15節「新しく生まれる」

きょうは、聖書の中でも有名なニコデモの話から、「新しく生まれる」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ニコデモの悩み(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

ここに、ニコデモという人が登場します。1節には、彼がとのような人であったかが紹介されています。つまり、彼はパリサイ人の一人で、ユダヤ人の議員であったということです。パリサイ人とは、ユダヤ教の一派で、聖書を重んじ、その教えを真剣に守ろうとしていた人々のことです。当時は六千人ぐいいたと言われています。彼らは、人々から尊敬の目をもって見られていました。ニコデモはそのパリサイ派に属していました。

 

それだけではありません。彼はユダヤ人の議員でもありました。ユダヤ人の議会は、サンヘドリンと呼ばれていたユダヤの最高議会のことです。祭司や長老、学者たち等71人で構成されていました。そこでは政治的なことだけでなく、宗教的なことも含め、すべてのことがここで議決されていました。彼はその議員だったのです。

 

つまり、彼は当時のユダヤ人としては最高の社会的地位と名誉、そして、財産の持ち主であったということです。それは今日でいうと、東大の教授であり、衆議院議員であり、最高裁の判事でもある、といった立場の人です。

 

そんな彼が、ある夜、イエスのもとに来てこう言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 

ニコデモはなぜ、イエスのもとにやって来たのでしょうか。3節のところで主イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えていますが、このことばから考えると、彼はどうしたら神の国を見ることができるのかがわからなかったのです。神の国を見るということは、永遠のいのちを得るということです。すなわち、それは救われるということです。いったいどうしたら救われるのか、ニコデモはわからなかったのです。彼はパリサイ派の人で聖書を重んじ、聖書に従って生きてきましたが、聖書の中で最も重要なこの救いに関することがわからなかったのです。そして、何としても知りたくて、イエスのもとにやって来たのです。

 

彼はここでイエスを「先生」と呼んでいます。大工の子であったイエスを「先生」と呼ぶのは異例です。「先生」という言葉は、当時最大級の敬意を払った言葉だったからです。それは彼が、イエスが行ったしるしは、神が共におられるのでなければできないと考えていたからでしょう。もしかすると彼は、ガリラヤのカナの婚礼で、イエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡のことを聞いていたのかもしれません。あるいは、エルサレムの神殿でイエスが行われたしるしについて聞いたのかもしれません。それとも、直接それらを目撃していたのかもしれません。いずれにせよ、彼はそのような不思議なしるしは神によらなければできないと考えたので、恥も外聞も捨てて、イエスのもとにやって来たのです。夜に・・。

 

ここでは、彼が「夜」やって来たとあります。どうしてわざわざ夜「夜」やって来たのでしょうか。ある人は、それはイエスは日中とても忙しかったので、じっくりと話すために夜やって来たのではないかと考えています。また、ユダヤ教のラビは、夜、律法を勉強する習慣があったので、その夜にやって来たのではないかと考える人もいます。けれども、彼が夜、イエスのもとにやって来たのは、やはり人に知られないようにしたかったからではないかと思います。というのは、このヨハネの福音書19章39節にもニコデモのことが言及されているのですが、そこにも「以前、夜イエスのところに来たニコデモも」と、彼が夜イエスのもとにやって来たことが強調されているからです。それが彼の特徴でした。彼はそこまでしてイエスのもとに行こうとしたのです。

 

この時彼はすでに確固たる地位を築いていました。名誉もありました。そんな彼が若干33歳のイエスのもとに教えを受けに行くということには相当抵抗もあったことでしょう。そのような彼の姿が、「夜イエスのもとにやって来た」ということで表されているのです。しかし、彼はそれでもイエスのもとにやって来ました。それは、彼がそれほど真剣に救いを求めていたからです。皆さん、それが求道の第一歩です。このような求道心こそ、私たちが救われるために、また、救われてキリストをさらに深く知っていくために必要なことなのです。

 

Ⅱ.新しく生まれる(3-8)

 

それに対して、イエスは何と答えたでしょうか。3節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 

「まことに、まことに」という言葉は、原語では「アーメン、アーメン」です。ヨハネの福音書では、イエス様が大切なことを語られる時、このように「アーメン、アーメン」という言葉で語っておられます。それは、これからとても大切なことを告げますよ、というニュアンスです。その大切なこととはどんなことでしょうか?それは、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない、ということです。これはニコデモがどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら永遠のいのちを得ることができるかと尋ねたことに対するイエスの答えです。これはどういう意味でしょうか。

 

これは、聖書で言う救いとはどのようなものであるかを教えています。ここに「新しく」と訳された言葉は、「上から」という意味があります。「上」とは神様ご自身のことを指しています。つまり、「人は、神様によって生まれなければ、神の国を見ることが出来ない」というのです。というのは、聖書で言う救いとは、単に良い人間になろうとすることとは違うからです。一般に良い人間になろうとすることは、人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、新しく生まれるというのは、神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊が自分の内に住んでくださることを意味しているからです。たとえば、猫や猿をどんなに教育し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間になることはできません。人間の子供になるには、人間のいのちを持たなければなりません。そのように、人が新しく生まれるためには、神のいのちである聖霊を持たなければならないのです。つまり、人は母の胎内で肉体のいのちを得ますが、神の聖霊を受け入れ、その聖霊が私たちの魂の中に入っていただくことによって、神の子どもとして新しく生まれることができるのです。

 

ウィリアム・ジェームズという心理学者は、「宗教体験の種々相(しゅじゅそう)」という本の中で、こんなことを言っています。「一度しか生まれたことのない人は二度死ぬ。しかし、二度生まれた人は一度しか死なない。」

少しわかりずい言葉ですが、この二度生まれるということは、普通の肉体の誕生と今ここで取り上げられている霊の誕生という二つの誕生のことを意味しています。つまり、普通の肉体の誕生しか経験していない人は、肉体の死とともに、永遠の死を経験しなければならないということです。それに対して、普通の肉体の誕生とともに、霊的誕生を経験している人、すなわち新生を体験した人は、肉体の死を経験するだけで、最後の永遠の死は経験しないということです。つまり、最後の神の裁きに会うかどうかは、新しく生まれているかどうか、霊的に誕生したかどうかで決まるというのです。

 

ところが、ニコデモは、そのことがよく理解できませんでした。それで4節でこのように言いました。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

彼はユダヤ教の教師でありながら、イエス様が言われたことを全然理解できませんでした。この言葉の中に彼のとまどいがよく表れているのではないでしょうか。そんなことを言ったって、もう一度母の胎に入って、生まれ直すなんてできないでしょう、と言っているのです。彼は「新しく生まれる」ということを耳にしたとき、赤ちゃんとして生まれてくるあの肉体の誕生のことしか考えられなかったのです。

 

しかし、イエスはあくまでも霊的誕生のことを語っておられました。それで5節と6節でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

人はどのようにしたら新しく生まれることができるのでしょうか?イエスはここで、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と言われました。「水と御霊によって生まれる」とはどういう意味でしょうか?

 

これについては、大きく分けて三つの解釈がありますが、多くの註解者は、この水は水のバプテスマを指し、御霊は御霊のバプテスマを指していると考えています。すなわち、救い主イエスを信じ、水のバプテスマを受けることによって救われるというのです。しかし、聖書はそのように言っておりません。人はイエスを認め、信じることによって救われるのであって、バプテスマを受けなければ救われないとはどこにも書かれていないからです。

 

そこで、ある註解者は、この「水と御霊によって生まれなければ」というのは、「水すなわち御霊によって生まれなければ」という意味だと解釈しています。なぜなら、マタイの福音書3章11節に、「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」とありますが、この「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられる」というのは、「聖霊すなわち火のバプテスマ」という意味であるからです。ですからこの「水と御霊によって生まれなければ」という表現も、「水すなわち御霊によって生まれなければ」と理解すべきだというのです。すなわち、御霊は水のように洗い、私たちを救ってくださるということです。このように解釈する人たちは、それを裏付けるみことばとしてテトス3章5節を取り上げています。そこには、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」とあります。

 

しかし、もっと適切な解釈は、この「水」を「みことば」と解釈することです。なぜなら、エペソ5章26節を見ると、ここには「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」とあるからです。「キリストがそうされたのは」の「そうされた」とは、キリストが十字架で死なれたことを指していますが、キリストが十字架で死んでくださったのはいったい何のためだったのでしょうか。それは、みことばにより、水の洗いをもって、私たちをきよめて聖なるものとするためでした。ここでは「みことば」が水の洗いのことを示しているのは明らかです。ですから、この「水と御霊によって生まれなければ」というのは、人は神のみことばを受け入れ、主イエスを罪からの救い主として信じるなら、神の御霊によって新しく生まれると解釈するのが一番適切ではないかと思います。

 

それにしても、いったいなぜ人は新しく生まれなければならないのでしょうか。なぜなら、生まれながらの人は、罪を持っているからです。これを原罪と言います。ですから、その罪を赦していただかなければ神の国に入れていただくことができないのです。そのためには新しく生まれなければなりません。イエス・キリストを信じて新しく生まれた人、つまり神のみことばを受け入れ、御霊によって新しく生まれた人だけが神に国に入ることができるのです。

 

このことをなかなか理解できず不思議に思っていたニコデモに対して、イエス様は一つの譬えで語られました。何ですか?「風」です。7節と8節をご覧ください。

「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

 

風は吹いていても、それがどこから来て、どこへ行くのかわかりません。ただ「ピュー」と風が吹いている音を聞いたり、「バタン、バタン」というトタン屋根が風に煽られている音を聞くことによって「あ、風が吹いているな」とわかるのです。また、部屋から外の街路樹を眺めたとき、枝が大きくなびいているのを見たり、雲や煙がたなびくのを見て、風が吹いているのがわかります。御霊によって新しく生まれるのも同じです。それは人の目で見ることはできませんが、御霊によって新しく生まれると、その人の人生がすっかり変わるので、だれの目にも明らかとなるのです。そして風は右から吹いてきたかと思ったら今度は左から吹いて来るというようにその動きが一定でないように、神の御霊も思いのままに吹くのです。そうです、それは決して私たち人間がコントロールできるものではなく、全く自由な神のご意志によってなされることなのです。私たちは、その御霊の働きを妨げではなりません。

 

するとニコデモはどのように答えたでしょうか。9節、ニコデモはこう言いました。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

彼にはそのことがなかなか理解できませんでした。どうして理解できなかったのでしょうか?それは、彼は自分の理性と経験を頼りにしていたからです。つまり、自分の頭で理解できることと、自分が体験したことしか受け入れられなかったのです。

イスラエルの宗教指導者であった彼がこのように考えていたというのは不思議なことです。というのは、彼には神からの啓示である旧約聖書が与えられていたからです。旧約聖書をみれば、そこには超自然的なことがたくさん出てきます。たとえば、イスラエルがエジプトから出てくるとき神がエジプト中の初子という初子を皆滅ぼされたこととか、後ろからエジプト軍が追って来て逃げ場を失い絶対絶命のピンチに陥ったとき紅海が二つに分かれたとか、ユダヤ人が絶滅の危機に陥ったとき、神はエステルを用いてその絶滅の危機から救ってくださったとか、バビロンに70年間も捕らえられていたユダヤ人がペルシャの王によって解放されユダヤの地に帰還することができたとか、どれも神のご介入がなければ決して起こり得なかったことばかりです。それなのにニコデモが理解できなかったのは、彼が御霊に属していたのではなく、この世にぞしていたからです。コリント第一2章14節に次のようにあります。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」

 

つまりニコデモはユダヤ教の宗教指導者ではありましたが、御霊に属することを受け入れなかったので、御霊のことがさっぱり理解できなかったのです。これは今日でもよく見られます。社会的にどんなに学力に優れていても、聖書が言っていることがどういうことなのかがさっぱりわからないというのと同じです。それは、自分の理性と経験だけを判断のよりどころとしているからです。でも、自分の理性がどれほど正しいでしょうか。自分の経験がどれほど確かだと言うのでしょうか。自分では何でも知っていると思っていても、実は本当に知らなければならないことさえ理解していないことが多いのです。そんな私たちの理性や経験によって霊のことを理解しようとしても理解できないのは当然のことです。御霊のことは御霊によって判断するものだからです。大切なのは、私たちが霊的には本当に無知であるということを認め、神の真理を知りたいという思いで、神に求めることです。そうすれば、知ることができます。求めなさい。そうすれば与えられるのです。

 

Ⅲ.永遠のいのちを持つために(11-15)

 

そんなニコデモに対して、イエスはどうしたら新しく生まれることができるのか、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのかを説明されました。11節から15節までをご覧ください。

「まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

イエスは、ニコデモが霊的なことに鈍感であることに対してあきれながらも、忍耐をもって真理を説いてくださいました。それがこの11節以降にあることです。そして、ニコデモがよく知っている旧約聖書の出来事を引用して説明なさいました。14節です。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」

 

これは民数記21章にある内容で、イスラエルの民が昔、経験したことです。イスラエルの民が、神の力強い御手によってエジプトから救い出され、約束の地カナンに向かって荒野を旅していた時、主は彼らが生きていくために必要なパンや水を何回もお与えになりました。それなのに彼らは神とモーセに対してつぶやきました。

「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(民数記21:5)

すると神は怒られて彼らに毒蛇を送り、それにかませたので、つぶやいた者たちはその毒蛇にかまれ、イスラエルのうちの多くの者が死んだのです。これは、神に反逆する者たちへの神の裁きでした。この苦しみの中からイスラエルの民は自分たちの罪を悔い改め、モーセにとりなしの祈りをするように願いました。それでモーセが祈ると、神は不思議なことを言われたのです。燃える蛇を作り、それを旗さおの上に付けよ、と言うのです。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる・・と。モーセは主が仰せられたとおりに青銅の蛇を作り、それを旗さおの上につけました。そして、蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。

これは、どう考えても理屈に合わない出来事です。青銅の蛇を仰ぎ見ただけで、いのちが助かるというのは、普通だったら考えられません。しかし、理解できなくても、神様の言葉を信じてその通りにした人たちは救われました。

 

いったいこれはどういうことを意味していたのでしょうか。イエスは、この出来事を引用し、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」と言われました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」つまり、旗さおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見た者が救われたように、私たちの罪のために十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを仰ぎ見る者は救われるということです。私たちは、最初の人アダムが罪に陥って以来、何千年という間、その罪のために死ななければならない運命にありました。それは、ちょうどイスラエルの民が荒野で神につぶやいて、毒蛇にかまれた時のようです。しかし、神はあの時モーセに命じて青銅の蛇を旗さおに上げたように、天から下りて来られた神の御子イエス・キリストを十字架につけてくださったので、このイエスを仰ぎ見る者は救われるようにしてくださったのです。あの青銅の蛇は、十字架につけられたイエス・キリストの姿であったのです。それは、人の子を信じる者がみな、永遠のいのちを持つためです。十字架のキリストを仰ぎ見る者、すなわち、イエス・キリストを自分の罪の救い主と信じる者は、だれであっても、罪から救われ、永遠のいのちが与えられ、神の国に入れていただくことができるのです。

 

このようなことを聞くと、そんな非科学的で迷信じみたことに惑わされるものかと言う人もいるでしょう。そんなことは、自分の理性が許さない、という人もおられるでしょう。事実、旗さおの上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見る者は死ななくても済むんだと聞いた人々の中にも、その反応は必ずしも同じではなかったでしょう。中には、そんなことは自分の今までの長い経験の中で一度もなかったし、そんなばかげたことで人が救われるはずがないじゃないか、という人もいたでしょう。あるいは、そんな迷信じみたことをだれが信じるものかと拒絶した人もいたでしょう。そういう人はみな、どうなりましたか?そういう人はみな死んで行きました。

しかし、苦しみのあまり、わらをもすがるような思いで、天幕からはい出し、旗さおの見えるところまで来て、その上に付けられていた青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われました。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、人の子を信じる者がみな永遠のいのちを持つためです。

 

皆さんはどうですか。旗さおにつけられた青銅の蛇を仰ぎ見ていますか。十字架のイエスを仰ぎ見ているでしょうか。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見るなら、どんな人でも救われるのです。これが信仰です。この信仰によって、私たちは新しく生まれることができるのです。別に高価な薬を飲まなければ救われないとか、お百度参りをしなければならないと言っているのではありません。ただ旗さおに付けられた青銅の蛇を仰ぎ見るだけでいいのです。私たちが救われるのは、ただイエス・キリストを信じること、それ以外に道はありません。

 

ヨハネ19章39~41節をご覧ください。先ほど言及した箇所です。ニコデモはイエス様を信じて、新しく生まれ変わったでしょうか。

「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

これはイエスが十字架で息を引き取られた直後のことです。以前、夜イエスのところに来たニコデモとは、この時のことを指しています。彼はイエスが十字架で息を引き取られた直後、十字架のもとに進み出て、イエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻きました。これは午後3時頃の出来事です。彼は以前、夜イエスのところに行きましたが、この時は違いました。白昼公然とイエスのもとに進み出たのです。それは彼が十字架に付けられたイエスを仰ぎ見て救われたからです。彼は水と御霊によって新しく生まれたのです。

 

あなたはどうでしょうか。ニコデモのように罪から救われて、永遠のいのちを持っていますか。ここにニコデモのように神を見出し、永遠に生きる道を見つけた大学者たちの証しがあります。

天文学者ヨハネス・ケプラーは、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人です。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行のための研究の基礎となったと言われています。その彼がこう言っています。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい」

なぜなら、彼は偉大な神の救い、永遠のいのちを得ることができたからです。またアイザック・ニュートンは、誰もが知っている偉大な科学者ですが、彼は、「私のすべての発見は、祈りの答えでした。」と言っています。

また世界的に有名な、ドイツの医師で、宣教師でもあったアルバート・シュバイッツァーは、ある日、ニコデモのように主イエスに出会い、永遠のいのちをいただき、限りない喜びに与りました。そして彼は思いました。あのアフリカには、どれほど多くの人が神の愛を知らずに死んで行くのだろう。それで彼はドイツでも有名な大学の教授職を退き、アフリカに生き、生涯を黒い大陸の星のように生きました。そのおかげで、今日アフリカでは、最も多くの人々が新しいいのちを得ています。

 

あなたもニコデモのように神を見出し、永遠のいのちをいただいてください。もう既にイエスを信じて、この永遠のいのちを受けておられる方もいると思いますが、まだ信じていない方のために、その方が心から信じて受け入れることができるために、今、祈りの時を持ちます。この祈りの終わりのところで、「アーメン」と言いますが、それは、「今、祈ったことはほんとうです」という意味です。あなたが、「アーメン」と心から言えたなら、あなたのすべての罪が赦され、あなたも永遠のいのちを持つことができます。ですから、私の後に続いて祈ってください。そして、「アーメン」と心から告白してください。

「主イエスさま。私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死なれたことを感謝します。私は、あなたを、私の罪からの救い主、人生の主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださったことを感謝します。どうか私の心の王座に座して、私の人生を導いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。」

どうでしょうか。あなたも心からイエス様をあなたの人生の主として受け入れることができたでしょうか。イザヤ書45章22節にはこうあります。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」

私たちが救われる道はただ一つ、キリストを仰ぎ見ることです。キリストを仰ぎ見る者は、みな救われ、神の国に入れていただくことができるのです。あなたもキリストを信じ、その生涯、キリストを仰ぎ見続けてください。

ヨハネの福音書2章12~25節「主に信頼される者に」

きょうは、ヨハネの福音書2章12節から25節までにある「宮きよめ」の出来事から「主に信頼されるに」というタイトルでお話しします。

 

皆さんは、イエス様に対してどのようなイメージを持っておられるでしょうか。子どもたちを抱いて優しくお話しされる姿ですか。それとも病人の手を取っていやされるあわれみ深いイエス様のお姿でしょうか。あるいは、弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡られたときに嵐を静めたような、力強いお姿ですか。

聖書を見るとイエス様のいろいろなお姿が出てきますが、きょうの箇所には普通とはちょっと違うイエス様の姿が描かれています。それは憤られるイエス様です。勿論、その怒りや憤りは私たちのように利己的な動機によるものとは違い、天地万物を造られた創造主としての、何が正しくて、何が間違っているのかを示す、正しい憤り、怒りです。

 

きょうは、この箇所からイエス様に喜ばれる者とはどのような者かについて学びたいと思います。

 

 

Ⅰ.神の家を商売の家にしてはならない(12-17)

 

まず12節から17節までをご覧ください。

「その後イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、

細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」

 

「その後」とは、イエス様がガリラヤのカナでご自分の栄光を現された後で、ということです。イエス様は母マリヤ、そしてイエス様の弟子たちはともに婚礼に招かれましたが、婚礼の宴会でぶどう酒がなくなったときユダヤ人のきよめのしきたりによってそこに置いてあった水がめに水を満たし、それをぶどう酒に変えられました。それがイエス様の最初のしるしでした。「その後」のことす。

その後イエス様は、母と弟たち、そして弟子たちとともにカペナウムに下って行き、長い日数ではありませんでしたが、そこに滞在されました。

 

そして、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づいたので、イエス様はエルサレムに上られました。イエス様の公の生涯、公生涯においては、過越の祭りが4回ありましたが、13節の過越しの祭りはその最初のものです。イエス様の公生涯を3年半と計算する理由は、その間に4回の過越しの祭りがあったからです。 イエス様は、最初の過越の祭り約半年前にバプテスマを受けておられます。

 

「過越の祭り」とは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷として捕らえられていたとき、神はモーセを通してそこから解放してくださいましたが、そのことをお祝いする祭りです。そのとき、神はモーセを通して「わたしの民を行かせなさい」とエジプトの王パロに言いましたが、パロは頑なでなかなか行かせなかったので、エジプトに十の災いを送られました。その最後の災いは、エジプト中の初子という初子を皆滅ぼすというものでした。ただ、神が命じるとおりに羊の血を取りそれを家の門柱とかもいに塗った家だけは、災いを通り越すというのです。

それでイスラエル人はみな神が命じられたとおりに羊をほふって血を取り、その血を自分たちの家の門柱とかもいに塗ったので神のさばきが通り過ぎていきました。しかし、エジプトの王とその民はそれを拒んだので神のさばきが彼らに臨み、エジプト中の初子という初子は人から家畜に至るまですべて死んでしまいました。それでイスラエルの民は長い間、実に430年間もエジプトの奴隷として捕らえられていましたが、そこから奇跡的に解放されたのです。それはまさに一方的な神の御業によるものでした。それで神はこのことを忘れないようにと、これを過越しの祭りとして行うように命じられたのです。

これはユダヤ人にとって最大の祭りでした。モーセの律法によると、巡礼祭と呼ばれる祭り、つまりエルサレムに上って祝う祭りが三つありましたが、過越の祭りは、その最初のものでした。そこには離散したユダヤ人たちが、何万人、何十万人と集まっていたのです。

 

その過越の祭りが近づいたとき、イエスがエルサレムの宮の中へ入って行くと、そこに牛や羊や鳩を売っている者たちと、両替人が座っているのを見て、激怒されました。そして、細縄でむちを作り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒したのです。いったいなぜこんなことをしたのでしょうか。

 

そこにいた牛や羊や鳩は、犠牲として神にささげられる動物です。モーセの律法の規定によると、それらの動物は、傷もしみもないものでなければなれませんでした。自分で犠牲の動物を持って来ても良かったのですが、それは祭司によって吟味されなければならず、外部から持ち込まれた動物が検査に合格することはありませんでした。結局、巡礼者たちは、検査で「適格」の印のついた動物を、高い値段で買うしかなかったのです。

 

また、すべての男子が半シェケルの神殿税を治めることになっていましたが、ローマの貨幣はカイザルの肖像が刻まれていたため使用することができませんでした。そのため、人々は高い手数料を払って、ユダヤの貨幣に両替していたのです。

 

そうした腐敗した神殿の様子を目の当たりにして、主イエスは激怒されました。そして、商売人や両替商たちを神殿から追い出されたのです。しかも、細なわでむちを作り、商売用の台を倒して、それを実行されました。

 

それはイエスが神殿の所有者であること、つまり、ご自身がメシヤであることを主張するためでした。16節を見てください。イエスは、羊や牛を宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒すと、鳩を売っている者たちにこう言われました。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

 

どういうことでしょうか。神の家であるはずのエルサレムの神殿が商売の家となっている。そういうことがあってはならない、というのです。神のささげる動物を売る人たちや両替人たちが、そこで大儲けしていました。そしてその利益の一部がその神殿の業務を司っていた大祭司や宗教指導者たちのところに流れていました。そういうことがあってはならない、というのです。なぜなら、ここは「わたしの父の家」だからです。父の家であるということは、子であるイエスの家でもあります。そうです、この神の家であなたがたは何をしているのか、というのです。イエス様はそれをご自分の家であると言われたのです。つまり、イエス様はご自分がメシヤであることを示されたのです。

 

皆さん、神の家は本来何をするところなのでしょうか。そうです、神の家は本来神を礼拝するところです。心から神に礼拝がささげられるところであるはずなのです。それなのに、その大切なことをおろそかにされているとしたら、それは本末転倒です。神の家の主人公は神であり、また、キリストであるはずなのに、いつしかその神とキリストがどこかに追いやられてしまい、形式的な活動が繰り返されているだけだとしたら、それはもはや神の家とは言えないのです。彼らは形式的なささげものをすることで、神を礼拝しているつもりでした。決められた儀式さえ行っていれば、神様に喜ばれるはずだと思っていました。その結果、こうしたことが平気で行われていたのです。また、それを見ても誰も何とも思わなくなっていました。霊的に鈍感になっていたのです。

 

こうしたことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ただ礼拝に出席していれば宗教的な務めを果たしていると思ったり、与えられた奉仕を行っていれば神に喜ばれるものと思っていることがあります。勿論、このようなことがどうでもいいというのではありませんが、そこに肝心の神が、キリストがどこかへ追いやられているとしたら、何の意味もないのです。

 

Ⅰサムエル記15章22節にはこうあります。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

また、同じⅠサムエル記16章7節には、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあります。

 

パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように勧めています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたにお勧めします。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

あなたがたのからだを、あなたがた自身を、神に喜ばれる、聖い生きた供え物としてささげること、これこそ神が喜ばれる礼拝であって、それ以外のことが、そのこと以上に大きくならないように絶えず吟味しなければなりません。

 

17節をご覧ください。ここには、「弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」とあります。弟子たちは、イエス様のあまりの激しい憤りに、旧約聖書の言葉を思い出しました。それは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という言葉です。これは詩篇69篇9節の言葉ですが、リビングバイブルでは、「神の家を思う熱心が、わたしを焼き尽くす」と訳されています。イエス様はご自分を食い尽くすほどに、焼き尽くすほどに、神の家を思うことに命をかけておられたのです。

あなたはどうですか。イエス様のように神の家を思う熱心で焼き尽くされるほど、神の家を、神ご自身を求めておられるでしょうか。

 

ダビデは、敵にいのちを狙われる困難な状況の中で、このように告白しました。

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたが一つのことを主に願うとしたらいったい何を願うでしょうか?ダビデは、主の家に住むことを願いました。そこで主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすためです。それこそがすべての問題の根本的な解決だと知っていたからです。

 

私たちにはたくさんの願いがあります。しかしその中で、何を第一に願うかによって、私たちの生き方が決まってきます。確かに日ごとにたくさんの必要があります。しかし、その中にあっても主の家を熱心に思い、主の家に住むことを第一に求め、主に喜ばれる礼拝をささげる者でありたいと願います。

 

Ⅱ.本当の礼拝のために(18-22)

 

では、本当の礼拝をささげるためにはどうしたらいいのでしょうか?18節をご覧ください。

「すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」

神殿をビジネスの場としていた大祭司にとって、イエスの行為は到底容認できるものではありませんでした。そこで彼らは、「あなたがそのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」とイエスに問いました。このしるしとは、メシヤとしてのしるしです。前にお話ししたように、イエスが宮きよめをされたのは、ご自身がメシヤであることを宣言するためでした。そのメシヤのしるしを求めたのです。パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(Ⅰコリント1:22-23)と言っていますが、しるしを求めるのがユダヤ人の特徴なのです。

 

これに対してイエスはこう言われました。19節です。

「イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

どういうことでしょうか?これは復活の預言です。このあたりから、イエス様とユダヤ人の間に食い違いが生じてきます。彼らは、イエス様がご自分のからだについて言われたことを理解することができず、そこに建っていた神殿のことだと思い込み、こう言いました。20節です。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

この神殿の改修工事はヘロデ大王によって始められ、その工事が46年目に入っていました。1882年にスペインのバルセロナに建築中のサグラダ・ファミリアは、着工から144年後の2026年に完成するということで話題になっていますが、このヘロデの神殿も着工から46年経ってもまだ完成していないという建物でした。エルサレムが滅びたのは紀元70年ですが、改修工事はその6年前の紀元64年まで続きました。その神殿を三日で建てるというのか、と言ったのです。

 

けれどもイエスが言われた神殿とはヘロデが建てた神殿のことではなく、ご自分のからだのことを指して言われたのでした。つまり、イエスは十字架にかけられて死なれますが、三日目によみがえられるということだったのです。

 

弟子たちも、この時点ではイエスが何を言っておられるのかさっぱりわかりませんでした。ですから、ヨハネは21、22節で開設の文章を入れて、説明を加えています。「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」

イエスはすでにこの時点で、十字架と復活の預言をしておられたのですが、彼らには理解することができませんでした。

 

イエスの思いと、宗教指導者たちの思いは遠くかけ離れていました。また弟子たちも、イエスの心を理解することができませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちの信仰は、イエスの思いから遠く離れているということはないでしょうか。イエス様は確かに壊れた神殿を三日でお建てになりました。そして、イエス様は今も生きておられます。私たちもその生きておられるイエスに呼びかけ、宮きよめをしていただこうではありませんか。

 

しかし、このことと宮きよめとは、どのような関係があるのでしょうか。それは、イエス様が宮きよめをなさった本当の目的がここにあったということです。つまり、イエス様が宮きよめをなさったのは、ただ単に神の家を商売の家としてはならないということではなく、神殿の礼拝に関わる律法の規定を廃棄してそれに代わる新しい礼拝の秩序を確立するためだったということです。つまり、あのサマリヤの女に対して、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時がきます。」(ヨハネ4:23)と言われたように、どのようにすれば霊とまことによる礼拝をささげることができるのかということを教えるためだったのです。そしてそれは神殿で動物のいけにえや献金をささげるといった形式的なことによってではなく、それはイエス・キリストが十字架上で死なれ、三日目によみがえられることによってもたらされるものなのです。

ですから、私たちは旧約時代のような動物の犠牲をささげることによってではなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる礼拝、本当の礼拝をささげることができるのです。

 

22節をご覧ください。ここには、弟子たちが「聖書とイエスが言われたことばを信じた。」とあります。ガリラヤのカナでイエス様が水をぶどう酒に変えた時は、「それで、弟子たちはイエスを信じた」ありました。弟子たちは既に信じていたんじゃないのですか?それなのに、「聖書とイエスのことばを信じた」というのはおかしいではないでしょうか。

この「聖書」とは、旧約聖書のことです。つまり、旧約聖書に書かれてある預言が成就したことを知ったということです。詩篇16篇10節には、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」とありますが、その預言が成就したことに気付いたのです。また、イエスが言われたことばとは、新約聖書のことと理解して良いでしょう。この時点ではまだ新約聖書は完成していませんでしたが、弟子たちは旧約聖書に書いてある預言が、イエス・キリストの十字架と復活によって成就したことを知って、イエスこそ救い主であると信じたということなのです。

 

皆さんは今、どのように礼拝をささげておられるでしょうか。あなたを霊とまことによる真の礼拝に導いてくださる方は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを通してなのです。このイエスを通して、私たちは心からの礼拝をささげていきましょう。あなたの思いとイエス様の思いが離れることがありませんように。いつもイエス様と共に歩み、イエス様に喜ばれる者となりましょう。それがイエスの心と一つにさせていただく鍵なのです。

 

Ⅲ.主に信頼される者に(23-25)

 

ところで、この宮きよめの話はこれで終わりではありません。その結果について聖書は興味深いことを記しています。23節から25節までをご覧ください。

「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」

 

イエス様が過越しの祭りの間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じましたが、イエス様ご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした。この「お任せになる」と訳された言葉は、その前の節の「信じた」と訳されている言葉と同じ言葉です。つまり、「信じなかった」ということです。ですから、ここでは、確かに多くの人々がイエス様の行われたしるしを見て、イエス様を信じましたが、その一方で、イエス様はどうだったかというと、そうした彼らを信頼されなかったというのです。どうしてでしょうか。

 

その後のところに理由が記されてあります。それは、イエスがすべての人を知っておられたからです。それどころか、人の内にあるものを知っておられました。人が心の中でどんなことを考えているかを知っておられました。それゆえ、イエスは、その人が善人であるか悪人であるかを他人から教えてもらう必要はなかったのです。へブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。この「神のことば」をイエスに置か消えてみると、イエスがどのような方であるかがわかります。イエスは、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の思いやはかりごとを見分けることがおできになるのです。

 

この方の御前に、隠しおおせるものはありません。人はうわべを見ますが、主は心を見られるのです。つまりイエスは人間ではなく、全地全能の神であられるのです。確かに彼らはイエス様の奇跡を見て信じましたが、その信仰はまだ本物ではありませんでした。それはちょうど種まきのたとえの中で、種を蒔いた人の種が四種類の違ったところに落ちたようにです。それは道ばたであり、岩地であり、いばらであり、良い地です。

道ばたに落ちた種は、すぐに悪魔が来てその人の心に蒔かれた種を奪って行きました。岩地に落ちた種は、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れましたが、みことばのための困難や迫害に会うと、すぐに躓いてしまいました。いばらの中に蒔かれた種は、みことば聞いて信じ、順調に成長しましたが、この世の心遣いや富の惑わしがみことばをふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。

 

これは、みことばの種が蒔かれるとき、四種類の人がいるということではありません。同じ人でも、ある時には、道ばたであったり、岩地であったり、いはらの中であったり、また良い地であったりすることがあるということです。しかし、そうした中にあっても、キリストのことばにとどまり、キリストとの交わりを持ち続けていくこ人は、多くの実を結ぶことができるようになります。それが主の弟子となるということです。

 

確かに、彼らはイエスを信じました。しかしその信仰というのは、まだ困難や迫害があると後戻りするような信仰だったのです。そのような人を信頼することができるでしょうか。私たちも、いざというとき、退いてしまうような友人がいるとしたら、そのような人に身を任せることはできないでしょう。それと同じです。しるしを見て信じることが悪いのではありません。病気が癒されたり、困難な問題が解決したという体験はすばらしいことです。しかし状況が悪くなると手のひらを返したかのように信仰から離れてしまうというのでは、ジェットコースターに乗っているかのように安定感がありません。そのような人に身を任せることはできません。

 

キリストとの出会いは大切です。けれども、その後ずっと、そのキリストに継続して従い続けることは、それと同じくらいに、否、ある面でそれにも増して大切なのです。私たちの信仰は信じて終わりというのではなく、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ者になるということ、つまり主の弟子になることが求められているのです。

 

いったいどうしたらそのような者になることができるのでしょうか。イエス様はご自分を信じたユダヤ人たちに、次のように言われました。

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

この言葉からわかることは、私たちがキリストの弟子になるためには、キリストを信じることから始まるのですが、それだけで終わらず、主のみことばにとどまり、主に堅く結びつき、主との交わりの中に生きることが大切です。

 

私たちもキリストのことばにとどまり、キリストとの交わりの中に生きることによってキリストの弟子とさせていただきましょう。そのような者こそ主がご自分をお任せになる人なのです。少なくても自分に関しては、全身全霊をもって主イエスに従う決心をしようではありませんか。

ヨハネの福音書2章1~11節「最初のしるし」

きょうは、ヨハネの福音書2章1節から11節にあるカナの婚礼の出来事から、キリストの最初のしるしを学びたいと思います。11節に、「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちも信じた。」とあります。これは最初のしるしでした。しるしとは何でしょうか。下の欄外の説明に、「証拠としての奇跡」とあります。ですから、これはキリストがこんなすごいことができるんだぞということを誇示するためではなく、キリストが神の子であるという証拠としての奇跡だったのです。ヨハネの福音書にはこの「しるし」が七つ記されています。そしてこのカナの婚礼の奇跡は、その最初のしるしでした。どのような点でこれがしるしだったのでしょうか。

きょうは、この最初のしるしからキリストがどのような方であるのかを、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.ぶどう酒がありません(1-3)

 

まず1節か3節までをご覧ください。

「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。」

 

「それから三日目に」とは、イエスがナタナエルとお会いした時から三日目にということです。ガリラヤのカナで婚礼がありました。ガリラヤのカナは、イエス様が育ったナザレという町から約15キロメートル離れた所にありました。そこで婚礼が行われたのです。その婚礼にイエスの母マリヤとイエス、そして弟子たちが招かれていました。誰の結婚式だったのかはわかりません。もしかすると新郎新婦のどちらかが、イエスの母マリヤと親戚だったのかもしれません。というのは、結婚の宴会の席でぶどう酒がなくなったとき、イエスの母マリヤが気を遣っているからです。一般の招待客なら接待に気を遣うということはないでしょう。そのように接待に気を遣っていたということは、彼女がもてなしをする側にいたということ、つまり、新郎新婦ととても近い関係であったと考えられます。ですからイエス様も招かれていたのでしょう。そして、弟子たちも招かれていました。

 

さて、このすばらしい結婚式で一つのトラブルが起こりました。ぶどう酒がなくなってしまったのです。ユダヤの結婚式では、ぶどう酒がなくなるということは絶対にあってはならないことでした。なぜなら、それは祝いの象徴、喜びの象徴であったからです。

ユダヤでは、結婚のお祝いが一週間続きました。親戚、友人、そのまた友人と、とにかく大勢の人を招いてみんなでお祝いしたのです。最近は、婚姻届けを提出して終わりケースも少なくありませんが、当時のユダヤではそういうことはありませんでした。みんなを招いてお祝いしたのです。ですから、ぶどう酒も相当量用意しなければなりませんでした。結婚式においてぶどう酒がないということは考えられないことだったのです。「ぶどう酒がなければ喜びもない」ということわざがあったほどです。ぶどう酒はそれほど大切なものでした。そのぶどう酒がなくなってしまったのです。

 

すると、母マリヤはどうしたでしょうか。彼女はイエスのところに行き、こう言いました。「ぶどう酒がありません。」どういうことでしょうか?どうして彼女はイエス様の所へ行き、このように伝えたのでしょうか?他に方法がなかったのでしょうか。たとえば、他の人のところに行ってぶどう酒を借りてくるとか、急いで町へ行って買ってくるとか考えられたはずです。それなのに彼女はまずイエスのところへ行き、「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。ただその状態をそのまま報告したのです。

 

ここにはマリヤの夫ヨセフは全く出てきておりません。おそらくヨセフは若くして死んでいたのでしょう。ですから、マリヤにとって頼りになったのは長男であったイエス様だったのです。彼女は、困った時はいつでもイエス様に相談し、頼っていました。

しかし、それはイエス様が長男であったからというだけでなく、イエス様がどのような方であるかを、彼女はよく知っていたからです。すなわち、この方はいと高き神の子であるということです(ルカ1:32)。マリヤはそのことを心に留めていました。そして、イエス様と共に過ごす中で、確かにそうだという確信を持っていました。ですからこれをイエス様のところに持って行けば、イエス様が何とかしてくださると信じていたのです。それがこの「ぶどう酒がありません」という彼女の言葉だったのです。

 

このことはとても大切なことです。私たちの生活の中にも、時としてぶどう酒がなくなるということが起こります。そのような時、自分でどうしよう、こうしようと考えるのではなく、それをまずイエス様のところへ持って行き、そのまま申し上げればいいのです。しかし、それをイエス様のところに持っていくよりも、自分であれやこれやと考えてしまうことが多いのではないでしょうか。

 

先月末に起こった台風24号は、ものすごい強風で甚大な被害をもたらしましたが、我が家の物置も風にあおられて倒れてしまいました。ただ倒れただけならよかったのですが隣の家の方に倒れてしまったので、駐車場においてあった隣の車に傷ついてしまいました。

翌朝早く隣の奥さんが来られたので、「えっ」と思って駐車場に行ってみると、無情にも物置が隣の家の方に仰向けに倒れていました。

それを見たとき一瞬「どうしよう」という思いがよぎり、「保険がきくかなぁ」と思いました。本来であれば、「本当にごめんなさい。」と言うべきところなのに、保険がきくかどうかしか考えられなかったのです。気が動転していたのです。自分で何とかとなければならないと、あれやこれやと一瞬のうちに考えました。

でもこういう時こそマリヤのように言うべきです。「ぶどう酒がありません。」自分であれやこれやと考える前に、その状況をそのまま申し上げるべきだったのです。

後で自分の姿を思い起こして、本当に情けないなぁと思いました。イエス様を信じていると言いながらも、保険のことしか考えられませんでした。信仰は持っていても、いざとなったらその信仰を働かせることができないのです。霊的なことは神様に、でも実際のことは自分でと、自分で解決しようとする思いがあったのです。

 

Ⅰペテロ5章7節にはこうあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

私たちが心配するのではなく、その思い煩いをそのまま神様にゆだねなければなりません。「神様、私は今こんな問題を抱えているんです」と正直に申し上げなければなりません。

「我が家の家計が火の車です」

「うちの息子は言うことを聞きません」

「妻が私を敬ってくれないのです。」

「夫があまりにも身勝手です」

と、正直に申し上げればいいのです。とにかく、自分の中にある思い煩いをそのまま神にゆだねなればいいのです。

 

私たちはどうしてもこのことは人には話せないという思いがあります。特に日本では昔から武士道の精神がありますから、家の恥をさらけ出してはならないという思いがどこかにあります。「そんなことを人に言うもんじゃない」「恥さらし!」それで、自然に口をつぐんでしまうのです。

しかし、聖書は全く逆のことを教えています。あなたにもし思い煩いがあるなら、心配事があるなら、それをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 

マリヤは自分の心配事をそのままイエスに伝えました。そのように私たちもまずイエス様のところへ行き、自分の心配事を伝えなければなりません。神が私たちのことを心配してくださるからです。

 

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(4)

 

次に4節をご覧ください。マリヤの訴えに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。「すると、イエスは母に言われた。『女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。』」

 

どういうことでしょうか?自分のお母さんに向かって、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。」というのは・・。あまにも失礼じゃありませんか。日本語に訳された言葉を読むと、何ともぶっきらぼうで冷たく聞こえるかもしれませんが、実はそうではありません。

この「女の方」という呼び方は、当時、敬意をもって女性に呼びかけるときに用いられた言葉でした。また、「あなたはわたしと何の関係もありません」という言葉は、あなたとわたしは何の関係もないということではなく、あなたとわたしの関心は違いますという意味です。この言葉を直訳すると「あなたにとって何か、そして、わたしにとって」となります。

ぶどう酒の問題は、マリヤにとって最大の関心でした。ぶどう酒がなくなってしまったら結婚の宴会が台無しになってしまいます。ですから、マリヤはこの問題を何とかしなければなりませんでした。

しかし、イエス様の関心は違ったところにありました。イエス様の関心は、罪の赦しと永遠のいのちにありました。それがその次のイエス様のことばです。「わたしの時はまだ来ていません。」わたしの時はまだ来ていませんとは、どういうことでしょうか?

 

イエス様が「わたしの時」と言われるとき、それはご自分が十字架にかかる時のことを指していました。たとえば、ヨハネの福音書7章6節にはこの「わたしの時」が出てきます。仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていたとき、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしておられたので、イエス様はユダヤを巡ろうとはされなかったのですが、そのときイエス様の弟子たちが、「そんな隠れたことをしていないで、公に自分をこの世に示したらいいんじゃないか」と言ったとき、イエス様はこのように言われました。「わたしの時は来ていません。」

ところが、イエス様が十字架におかかりになられる直前になると、イエス様は、はっきりと、言われました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12:23)つまり、イエス様が言われた「わたしの時」というのは、十字架にかかられる時のことだったのです。これは単に奇跡を行うかどうかの時ではありません。十字架へとつながっていく時なのです。

 

ですから、ここでイエス様が最も関心を持っておられたのは、ご自分がすべての人の罪のために十字架で死なれることでした。イエス様は、人々を罪から解放し、罪の赦しと永遠のいのちを与えるためにこの世に来てくださいました。それがイエス様の最大の関心事でした。そして、ぶどう酒は、その十字架の血を象徴するものだったのです。

 

でもイエス様はマリヤの訴えに無関心ではありませんでした。イエス様の返事は、マリヤにとって不思議に思えたかもしれません。でもこれは、「愛し尊敬するお母さん、わたしの関心とあなたの関心は少し違います。わたしの関心を成就する時はまだ来ていませんが、でも心配しないでください。この問題をわたしに任せてください。そうすれば、わたしのやり方で解決しましょう。」ということだったのです。

 

ですから、イエス様は決してマリヤを冷たくあしらわれたのではなかったのです。それはマリヤがこのことばを聞くと、手伝いをする人たちに「あの方が言われることは、何でもしてください。」と言っていることからもわかります。それはマリヤがイエス様の言葉を聞いて、とにかくイエス様にこのことを任せておけば大丈夫だと思ったからなのです。

 

そうです、イエス様はそれがご自身の関心とは違ったことでも、それが片田舎の小さな村の、小さな結婚式の、しかもぶどう酒がなくなるという小さな問題であっても、ちゃんと配慮してくださる方なのです。

イエス様はあなたの人生の小さな問題にも関わってくださいます。そして、ご自分の栄光を現してくださるのです。だから、こんな小さなことを祈っても無駄だなんて言わないで、どんな小さなことでも、イエス様に祈るべきです。「イエス様、私は今、こういう状況なんです。こういう問題を抱えています。この問題を何とかしてください。私をあわれんでください。」そう祈ればいいのです。

 

Ⅲ.水がぶどう酒に(6-11)

 

さあ、イエス様の言葉を聞いたマリヤはどうしたでしょうか。5節をご覧ください。「母は給仕する者たちに言った。『あの方が言われることは、何でもしてください。』」

 

すると、イエス様は給仕する者たちに言われました。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」

そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つおいてありました。それは二あるいは三メトレテス入りのものでした。一メトレテスは約40リットルですから、80リットルから120リットルの大きさの水がめだったということです。

 

この水は手足を洗うために使われました。ここに「ユダヤ人のきよめのしきたりによって」とありますが、当時のユダヤ人たちは、外から帰って家に入るときや食事の時に、また、汚れた身をきよめるために、水で手足を洗う習慣がありました。それで各家庭には、きよめの水を入れる水がめが置かれていたのです。

それはどちらかと言うと、衛生的な理由からというよりも、宗教的な理由からでした。旧約聖書の律法には、汚れたものに触れて身を汚した者は、水で身をきよめなければならないという規定があったからです。それで彼らは、外出したときに知らないうちに汚れたものに触れて身を汚したのではないかと心配して、家に入る前に水で身をきよめていたのです。それは、神様に受け入れていただくために大切な宗教的な儀式だったのです。

 

イエス様はその水を用いられました。この水がめを水で満たしなさいと言われたのです。普通なら、こんなことをしてどうするのと思うところでしょう。なんでこんなことをしなければならないのかと思うかもしれません。「何で・・」これが私たちの反応です。

でも彼らはマリヤの言葉を聞いていました。そのことばを心に留めていました。「あの方が言われることは、何でもしてください。」だから、彼らはそのとおりしたのです。

 

80リットルから120リットルと言ったら相当の量ですよ。私の家では天然水を注文していますが、一つ12リットルです。それを2階まで運ばなければならないのですが、かなり重くて大変です。水って結構重いんですよ。それを汲みに行かなければなりませんでした。村から井戸までは2キロメートルくらい離れていたと言われています。その距離を何回も往復しなければならないのです。でも彼らはイエス様が言われた通りにしました。

 

そればかりではありません。8節、今度は、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行かなければなりませんでした。イエス様は次から次にすべきことを指示されましたが、彼らはイエス様が言われることを、すべてその通りに行いました。

 

するとどうなったでしょうか。9節と10節までをご覧ください。

「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、 こう言った。『みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。』」

 

普通は、まず良いぶどう酒を出し、みんなの酔いが回ってくるとあまり質の良くない酒を出すものです。酔っぱらってお酒の味がわからなくなるので、もうどんな酒でもいいのです。ただ消費するだけですから。ですから、それを味見した世話役はびっくりして、「よくもまあ、こんな良いぶどう酒を取っておきました。」と言ったのです。イエス様に従った結果、花婿がほめられることになりました。

 

びっくりしたのは花婿の方だったでしょう。「えっ、俺は何にもしてないんだけれどなぁ・・・」彼は何も知りませんでした。舞台裏ではどんなことが起こっていたのかを全くしりませんでしたが、「よくもまあ、こんなに美味しいぶどう酒を取っておきましたね。」とほめられたのです。その鍵は何でしょうか。彼らがイエス様の言われたとおり行ったということです。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たかを知っていました。彼らがイエス様の言われた通りにした結果、そのようになったということを・・・。

 

私たちは時に「何でこんなことをしなければならないんだろう」「何であんなことを」と思うことがあるかもしれません。しかし、イエス様がおっしゃったとおりにするなら、神の栄光が現されるのです。ですから、たとえそれが自分にとって納得できないようなことであっても、期待をもって、「わかりました。イエス様、あなたがそのように言われるのならその通りにやってみます。」となると、次々と神の御業が展開していくようになります。

 

あるとき、イエス様はペテロにこう言われました。「深みにこぎ出し、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)

ペテロはびっくりしました。というのは、彼らは夜通し働きましたが、何一つ取れなかったからです。彼らは漁のプロでした。ずっとガリラヤ湖で魚を取っていました。だから魚のことは何でも知っていると思っていました。そんな彼らが夜通し働いてもだめだったのです。取れるはずがありません。時間的にも良くないし・・。

「でも、おことばですので、網を下してみましょう。」(ルカ5:5)

と従ったとき、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになりました。イエス様のおことばに従うとき、すばらしい神の御業が現されるのです。

 

ところで、この水がぶどう酒になったという奇跡は、ただ水がぶどう酒に変わってめでたし、めでたしということだけではありませんでした。ここにはもっと深い意味があります。それは何かというと、律法との対比の中で、イエス様は私たちに本当の喜びを与えてくださるということです。

先ほど、この水が何を意味していたのかを説明しました。それは旧約聖書の律法によると、汚れたものに触れて身を汚した者は、この水できよめなければならないということでした。しかし、どんなに外側を水で洗っても、自分の内側の汚れや罪を洗いきよめることはできません。だからといって、その儀式を怠れば、罪責感が生じてきます。自分がちゃんとやらなければ、神様に受け入れられないという恐れや不安が出てきます。ですから、こうしたきよめの水は決して人々を罪から解放することはできないのです。

 

しかし、イエス様はこの水をぶどう酒に変えてくださいました。そして、そのぶどう酒は、人々に喜びを与えるものとなりました。つまり、この奇跡は、人は、一生懸命に努力して律法の行いをしても、本当の意味で自分をきよめることはできないし、喜びを与えることもできませんが、イエス様がもたらしてくださった十字架の血によって、私たちの罪は赦され、きよめられ、新しいいのち、永遠のいのちという、最上の喜びを与えてくださるということを示していたのです。

 

これが最初のしるしでした。それで弟子たちはイエスを信じたのです。この弟子たちは既にイエスを信じていました。ではこの「信じた」とはどういうことでしょうか。彼らは、この奇跡を通して、この方が神の子であるというだけでなく、今までの律法や儀式によっては決して与えられなかった自由と喜びを与えてくださる方であるということを知った、ということです。ですから、彼らは「イエスを信じた」のです。

 

皆さんはどうでしょうか。まだ「こうしなければならない」「ああしなければならない」といったことに縛られて、本当の自由と喜びを失ってはいないでしょうか。一生懸命に努力することは大切なことです。でも、そうした努力が自分を本当にきよめることができるのかというとそうではありません。あなたの罪を赦し、あなたを罪から解放し、あなたに真の自由と喜びを与えてくださるのは、あなたのために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じる以外にはありません。それ以外にあなたが救われる道はないのです。これがこの奇跡の意味していることでした。イエス様はこれを最初の奇跡として、ガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現されたのです。

 

そういう意味で、私たちの人生にイエス様をお迎えするということが最も重要です。水がぶどう酒に変わることによって人々に喜びがもたらされ神の栄光が現されたのは、そこにイエス様がおられたからでした。この婚礼にイエス様が招かれていました。それで、こんなにすばらしいことが起こったのです。

 

大切なのは、あなたの人生の中にもイエス様をお迎えすることです。あなたのどうしようもないその状況の中に、イエス様をお迎えしていただきたいのです。

「イエス様、私はあなたを必要としています。私には無理です。私がどんなに頑張っても自分をきよめることなどできません。イエス様どうぞ私の心の内側にお入りください」と願うことです。

「私は今子育てで苦しんでいます。どうしていいかわかりません。あなたが助けてください。」

「私たちの夫婦関係は壊れています。もう修復困難です。どうしようもありません。これまで一生懸命努力しました。でも夫は私を愛してくれません。妻は私を尊敬してくれません。もううちは終わりです。助けてください。」と祈ることです。

「うちの職場ではもう自分の居場所がないんです。一生懸命働いてきましたが、私はもうボロボロです。雑巾のようです。これ以上ここでは働けません。もう死ぬしかないのです。どうかあわれんでください。」

 

多くの方が悩み苦しんでいます。表面的には何の問題もないようでも、しかし、心の内側を探ってみると、心を開いてみて見ると、みんな苦しみを背負って生きています。それをだれにも話すことができなくて一人で苦しんでいるのです。

 

だから、みんなイエス様が必要なんです。イエス様にその心の内側に入っていただく必要があります。あなたの心の内側にもイエス様を迎えてください。そして、イエス様のおことばにしたがうなら、あなたも本当の自由と喜びを持つことができるのです。