ヨハネは、キリストが初めから神とともにおられた神であり、すべてのものを造られた創造主であると述べました。そして、この方は人となって私たちの間に住まわれました。それは神がどれほど恵みとまことに満ちておられるのかを示すためでした。ですから、この方を受け入れた人々には、神の子としての特権が与えられます。私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けるのです。彼はこのことをバプテスマのヨハネの証言をもって証ししました。
きょうは、この方と出会った人たちの証言、つまり、バプテスマのヨハネの二人の弟子たちとヨハネの子シモン、そしてピリポとナタナエルの証言を通してキリストを信じる者の幸いについて見ていきたいと思います。
Ⅰ.バプテスマのヨハネの二人の弟子(35-41)
まず、バプテスマのヨハネの二人の弟子たちの証言から見ていきましょう。35節から37節までをご覧ください。
「その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」
「その翌日」とは、バプテスマのヨハネが証をした翌日のことです。前日、主イエスが自分の方に近づいて来られるのを見たヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と叫びました。その翌日、彼が二人の弟子とともに立っていたとき、イエスが歩いて行かれるのを見たヨハネは、「見よ、神の子羊」と言ました。それを聞いたヨハネの二人の弟子は、イエス様について行ったのです。これが最初のクリスチャンです。
この「ついて行った」という言葉(原語のギリシャ語ではエーコルーセーサン)は、ただついて行ったということではなく、弟子としてついて行ったという意味です。つまり、イエス様の弟子になったということです。バプテスマのヨハネの二人の弟子は、キリストの弟子になることを決意したのです。このようにして彼らは、最初のクリスチャンとなりました。このように、最初のクリスチャンのほとんどはバプテスマのヨハネの弟子たちでした。彼らはヨハネの強力な証しによって、キリストの弟子となったのです。
38節と39節をご覧ください。
「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。」
イエス様は、ご自分につい来た二人の人を見て言われました。「あなたがたは何を求めているのですか。」これはヨハネの福音書に記されているイエス様の語られた最初のことばです。イエスが「わたしに何を求めているのか」と言われた時、それはただ「私に何の用事があるのか」ということ以上の意味を持っていました。それは、あなたの人生においてあなたは何を求めているのか、ということです。だれでも何かを求めています。それが何であるかは自分でもよく分からないのですが、確かに何かを求めています。それはもしかすると自分の夢をかなえてくれるものかもしれませんし、自分が今必要としているものを満たしてくれるものであるかもしれません。それが何であるかは分かりませんが、確かに何かを求めています。この二人の弟子たちも何かを求めていました。それが何なのか、またどのようにして与えられるのかはわかりませんでしたが、ただ分かっていたことは、この方に従ってついて行けばきっと与えられるということでした。
それに対して、彼らは何と答えたでしょうか。38節には、「彼らは言った。『ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。』とあります。「ラビ」とは「先生」という意味です。敬称を込めた呼び方でした。彼らはまだこの時点ではイエスがどのような方であるかははっはりと分かりませんでした。それが分かるのはもうちょっと後になってからのことです。41節のところで、アンデレは「メシア」と呼んでいますが、これは「キリスト」、「救い主」という意味です。このように後で分かるようになるわけですが、この時点では分かりませんでした。分からなかったけれども、分かりたいと必死で求めていました。それが次の彼らの言葉に込められています。「どこにお泊りですか」どこに泊まろうとそんなのどうでも良いことではありませんか。なぜ彼らはこんなことを尋ねたのでしょうか?
これは彼らが単にイエス様が泊まっている場所を知りたかったということではありません。ヨハネ先生が証ししていた偉大な先生が泊まるところだからさぞかし立派な所だろうと、興味があったわけではないのです。彼らがこのように言ったのは、彼らがイエス様のそばにいて、イエス様のことばをじっくりと聞きたかったからです。イエス様がおられる場所を知り、イエス様の元にとどまり、イエス様と深い交わりを持ちたかったのです。
パウロは、ピリピ人への手紙3章7,8節で「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。」と告白していますが、この「イエス・キリストを知ることのすばらしさ」のゆえに、すべてを損と思うほどであったわけです。同様にこの二人の弟子も、キリストを深く知りたかったのです。そのためには時間がかかります。ちょっとした立ち話で分かるようなものではありません。どこまでもイエス様について行くことによって、得ることができると考えたのです。
果たして、私たちはこの二人の弟子のように、キリストとの交わりを真剣に求めているでしょうか。少年サムエルが、「主よ、お語り下さい。しもべは聞いています。」と言ったように、主が語られる言葉を一つももらさないで聞きたいという思いで聞いているでしょうか。
家内が育ったアメリカの教会では礼拝の時間が大体1時間と決まっていて、少しでも説教が長くなると会衆はいらいらし始めるのだそうです。なぜなら、礼拝に来る前に家のオーブンをセットして出てくるので、ちょっとでも遅くなるとチキンが焦げてしまうからです。そのような態度でじっくりと神の御言葉を聞くことができるでしょうか。そういう習慣があるからか、家内はよく「あなたの説教は長い。日本人はよくみんな黙って聞いているなぁ。すごい!」と言います。でもそれは日本人がすごいのではなく、礼拝前にチキンをオーブンでセットして礼拝に出てくるのがおかしいのです。
イエス様がもてなしのために気をもんでいたマルタに、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)言われたことばはとても有名です。マリアが選んだ良い方とは何だったのか。どうしても必要な一つだけのこととは何だったのでしょうか。それは、主の足もとに座って、主のみことばに聞き入るということでした。
これが、私たちにも求められていることです。私たちがキリストの救いにあずかるために、また、救われてキリストを深く知るために、キリストがおられる場所に行き、そこでじっくりと御言葉を聞くこと、それがどうしても欠かすことができないことなのです。この二人の弟子たちが「どこにお泊りですか。」と尋ねたのはそのためでした。
さあ、それに対してイエスは何と言われたでしょうか。39節です。「イエスは彼らに言われた。『来なさい。そうすれば分かります。』」これは、とても大切な言葉です。「分かったら、来なさい」ではなく、「来なさい。そうすれば分かります」。この順序が大切です。しかし、多くの人々は、これを逆にとらえています。分かったら、行こうとするのです。つまり、分かるまでは行かないのです。その方が科学的だと思っています。でもどうでしょうか。私たちは自分では何でも知っていると思っていますが、実のところ、本当に知らなければならないことさえも分かっていないということがあるのではないでしょうか。たとえば、自分自身のことです。自分自身と関係ないことについては意外とよく見えるのですが、いざ自分自身のことになると、客観的に観察しているつもりでも、全然見えていないということがあるのです。なぜなら、自分のことになると冷静になれないからです。そんな者が「分かったら、行こう」としたら、いつまでたっても行くことなんてできません。私たちの小さな頭で、この天地を創造された大きな方を理解しようとしても限界があるのです。
ですから、イエス様は「来なさい。そうすればわかります。」と言われたのです。この方にすべてをゆだね、この方のもとに行くなら、分かるようになります。これが信仰なのです。
彼らは、イエスが言われたとおり、イエスについて行きました。そして、イエスが泊まっているところを見ました。そしてその日、イエスのもとに留まりました。時はおよそ第十時とあります。この「第十時」ですが、ヨハネの福音書における「時」はユダヤの時間なのか、それともローマの時間なのかはっきりわかりません。しかし、4章6節にも「第六時」とあり、これがユダヤの時間で正午のことを指しているとすれば、この「第十時」もユダヤ時間と考えるのが普通だと思います。そうするとこの「第十時」というのは「午後四時」ということになります。つまり、彼らは一日中イエス様と一緒にいたということです。たった一日でしたがイエス様と一緒にいたことによって、二人は変わりました。どのように変わったのでしょうか。
40節と41節をご覧ください。
「ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。」
ここに二人がだれであったかが記録されてあります。一人はシモン・ペテロの兄弟で「アンデレ」であり、もう一人はだれであるかははっきりわかりませんが、多くの学者たちは、これを書いているヨハネではないかと考えています。しかし、わかることは、彼らはイエス様と一日中一緒にいて変えられたということです。それまで彼らはイエスのことを、敬称を込めて「ラビ」と呼んでいたのが、ここでは「メシア」と呼ぶようになりました。
「メシア」とは何でしょうか。メシアとは元々「油注がれた者」という意味ですが、旧約聖書では、預言者や祭司、王が任職する時に油が注がれたので、彼らのことを指して「油注がれた者」と呼ばれていました。しかし「メシア」という言葉が独特の意味を持ってくるのは、これが救い主を意味するようになったからです。つまり彼らはイエス様と一日中一緒にいたことによって、この方こそ来るべきメシア、救い主であると信じたということです。それは必ずしも完全な意味での霊的救い主としてのメシア観ではなかったかもしれません。キリストについての知識はまだ不十分だったでしょう。でも、私たちのあらゆる悩み、苦しみの根源である罪から救ってくださる救い主としてのメシアだと信じたのは確かです。
私たちもすぐにキリストについてのすべてを知ることはできないかもしれません。でもこの二人の弟子のようにイエスについて行き、そこでじっくりとイエスの御言葉を聞き、イエスにとどまるなら、必ず変えられていきます。「私たちはメシアに会った」という信仰の告白に導かれていくようになるのです。
Ⅱ.シモン・ペテロ(42)
次に、42節をご覧ください。
「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」
次にキリストに出会ったのは誰でしょうか?そうです、シモン・ペテロです。その
兄弟アンデレはイエスのところについて行き、イエスのもとにとどまって、イエスの御言葉を聞き、この方こそメシアであると確信しました。
そのアンデレが最初にしたことは何でしょうか。自分の兄弟をキリストのもとに連れて来ることでした。彼は兄弟シモンを見つけると、「私たちは、メシアに会った」と言って、シモンをイエスのもとに連れてきました。私たちがクリスチャンになってまずすべきことは、自分の家族や友人をキリストに連れて来ることです。聖書について説明しなければならないと言われたらできないかもしれませんが、自分の家族を教会に連れて来るということならできるはずです。アンデレはまず自分の兄弟シモンを見つけ、「私たちはメシアに会った」と言ってキリストに導きました。彼はイエスに会いたいと願う人を、イエスのもとに連れて来る奉仕をしたのです。すばらしい奉仕です。彼は決して表舞台で活躍する人ではありませんでしたが、キリストに会いたいと願う人がいればだれでもキリストのもとに連れて行ったのです。
イエスのもとに連れて来られたシモンはどうなったでしょうか。イエスはシモンを見ると、彼を見つめてこう言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」これはどういうことですか?
これは、シモンもイエスを信じたということです。どのようにしてそれが分かりますか?彼の名前が変わったことで分かります。ユダヤ人にとって、名は体人を表していました。ですから、名前が変わったということは、その人が変わったということなのです。たとえば、アブラハムの名前がアブラムからアブラハムに変えられた時、またヤコブの名前がイスラエルに変えられた時、それは神との関係が新しく生まれたことを意味していました。同じようにシモンという名前がケファに変えられたということは、彼が主イエス・キリストとの関係において新しい関係が生まれたことを意味していたのです。
「ケファ」というのは「岩」を意味するアラム語です。イエス様の時代、ユダヤ人は日常会話としてアラム語を使っていたので「ケファ」と呼びましたが、当時は国際語としてギリシャ語を使っており、新約聖書もギリシャ語で書かれたので、これをギリシャ語で書く必要がありました。そこでこれを言い換えて「ペテロ」となっているのです。しかし「ケファ」も「ペテロ」も同じ意味で、「岩」を表しています。ペテロのもともとの名前は「ヨハネの子シモン」ですが、イエス様は彼を「ケファ」「ペテロ」と呼びました。
生来のシモンは、おっちょこちょいで、感情的というか、すぐに気が変わってしまいやすい性格の持ち主でしたが、イエス様は彼に、不動の岩を意味する「ケファ」「ペテロ」という名前を与えられました。これは、イエス様がペテロの中にある潜在能力とか可能性というものを見抜いておられたということではなく、また、そうした隠されていたものを引き出すというのでもなく、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストとの新しい関係が、彼をこのような不動の者に変えてくださるというのです。
私たちは、このことから本当に慰めを受けます。私たちが生来シモンのようにどんなに変わりやすい性格の者であっても、キリストとの出会いによって、キリストとの関係が生まれ、私たちもペテロのように変えていただくことができるからです。ですから、生まれながらの自分のうちに何もないのを見ても失望してはなりません。キリストと出会い、キリストとの新しい関係に入るなら、私たちも全く新しい器に変えていただくことができるからです。
私は、聖書からペテロの記事を見るたびに、何だか自分のことを見ているような感じがして嫌になることがあります。「あなたが行かれる所ならどこにでも」と言ったかと思えば、次の瞬間には「知~らない」と手のひらを返したような態度を取ってしまいます。いつもコロコロと変わりやすい感情的な人間だなぅぁと、がっかりすることがあるのです。しかし、そんなペテロも変えられて、あのペテロの手紙の中で、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)と言うくらいに変えられたことを思うと、本当に希望が湧いてきます。
私たちはキリストとの出会いによって、また、キリストの中にしっかりととどまることによって、全く新しい者に造り変えていただくことができるのです。
Ⅲ.ピリポとナタナエル(43-51)
最後にピリポとナタナエルを見て終わりたいと思います。43節と44節をご覧ください。
「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。」
「その翌日」とは、ペテロがキリストを信じた翌日のことです。イエスはユダヤに近いヨルダン川のほとりからガリラヤ湖の方へ行こうとしておられました。そして、そこでピリポを見つけると、「わたしに従って来なさい」と言われました。この「従って来なさい」という言葉は、37節の「ついて行く」という言葉と同じ言葉です。つまり弟子してついて行くということです。しかも現在形で書かれていますが、現在形で書かれているということは継続を表しています。つまり、弟子としてずっと従って来なさい、という意味です。するとピリポはすぐに従いました。おそらく、彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身だったので、彼らからイエス様のことを聞いていたのでしょう。ですから、イエス様からそのように言われた時に、すぐに従うことができたのでしょう。
問題はもう一人のナタナエルという人です。45節と46節をご覧ください。「ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」」
ナタナエルという人はヨハネの福音書にしか出て来ないので、彼が誰なのかははっきり分かりません。ただ他の福音書を見ると、使徒たちについて記す時に、「ピリポとバルテマイ」というふうに、いつも二人ペアにして記していることから、バルトロマイではないかと考えられています。
そのナタナエルにピリポは、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言いました。これはどういうことかというと、旧約聖書に記されているメシアと会ったということです。今のように、聖書が一人ひとりの手にまだ渡っていない時代において、救い主を人々に証しするとき、聖書に記されている点を強調することは重要なことです。私たちもキリストを証しするとき、聖書から離れて、ただ自分の体験を語るだけではなく、聖書に記されているキリストを示していく必要があります。
ピリポの証しを聞いたナタナエルは、どのように応答したでてしょうか。46節を見てください。彼はこう言いました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」これはピリポが「ナザレの人」と言ったことに敏感に反応したのでしょう。「良いもの」とは救い主のことを指しています。旧約聖書のどこにナザレから救い主が出てくると書いてあるのか、というのです。なるほど、旧約聖書には救い主はナザレから生まれるとは書いてありません。ベツレヘムです。ナザレは救い主の両親が住んでおられたところでしたが、救い主はナザレから出るのではなくベツレヘムから出るのです。ですから、神は救い主の両親がナザレに住んでおられたにもかかわらず、旧約聖書に預言されていたように、彼らをわざわざベツレヘムまで旅をさせ、そこで生まれるようにはからわれたわけです。確かに、イエスはナザレの人で、ヨセフの子ですが、実際にはベツレヘムで、聖霊によって生まれました。
でもナタナエルにはそのことが理解できませんでした。自分では聖書をよく知っていると思っていたからです。だからそうでないことは全く受け付けられなかったのです。救い主がどのような方であるのかをきちんと調べないで、「ナザレ」という言葉を聞いただけで拒絶反応を示しました。このような人が意外と多くいます。聖書の話を聞く前からキリスト教は西洋の宗教だと決めつけているのです。それはここでナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っているのと同じです。
しかし、ピリポはナタナエルの反論にくじけませんでした。彼はナタナエルに、「来て、見なさい。」と言いました。とてもシンプルですね。「来て、見なさい。」来て、見てみたらどうですか。多くの人々は、ただ食べず嫌いで反対しているだけです。キリスト教が西洋の宗教だという理由だけで反対したり、自分の家には別の宗教があるから信じられないと言ったりします。まだ何も知らないうちに、ですよ。あり得ません。もし信じられないというのであれば、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の手で触れて、実際に体験して決めるべきです。それなのに、まだ何も見ないうちに「キリストは信じられない」というのは変です。そういう人に必要なことは、来て、見ることです。
47節をご覧ください。ナタナエルがイエスの方に近づいて行くと、イエスは彼についてこう言われました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
どういうことでしょうか。彼は今、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったんですよ。「そんなの信じられない」と軽くあしらったのです。そんな彼を、「まさにイスラエル人です」とか、「この人には偽りがありません。」というのはおかしいでしょう。
これはイエス様が彼にお世辞を言っているのでも、へつらっているのでもありません。主がそのように判断して言われたのです。どうして主はそのように言われたのでしょうか。
48節をご覧ください。ナタナエルも不思議に思ってイエスに尋ねました。「どうして私をご存知なのですか。」するとイエスはこう答えました。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
主はナタナエルとお会いする前から、ナタナエルのことを知っておられました。ピリポが彼を呼ぶ前から、彼がいちじくの木の下にいたのをご存知であられたのです。それにしても、「この人こそイスラエル人です」とか、「この人には偽りがありません」というのは言い過ぎではないでしょうか?いちじくの木の下にいたということで、彼をそのように呼ぶのは不思議です。たとえば、「私はあなたが来る前に、あなたがマクドナルドにいるのを知っていました。」と言われても、感激してイエス様を信じるという人はいないでしょう。
実は、いちじくの木は、ユダヤ人にとって特別の意味がありました。それは、平和と静けさです。ですから、ナタナエルがいちじくの木の下にいたというのは、いちじくの木の下で昼寝をしたり、休んでいるのを見たということではなく、祈っていたのを見たということなのです。いちじくの木の下で祈りながら、人生の意味や真理を捜し求めていたということです。それこそほんとうのイスラエル人です。つまり、イエス様はナタナエルとお会いする前から彼の外的生活だけでなく、内的生活も含めた彼のすべてを見通しておられたということです。
その言葉を聞いた彼は、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と答えました。私の心の思いをすべて読み取り、理解しておられる方、私の心の奥底にあることを見抜くことができる方、言葉では言い表せない私の魂のうめきを聞き取ることのできる方こそ神の子であられ、神の民であるイスラエルを統治されるお方であると告白したのです。
皆さん、キリストはこのようなお方です。キリストは私たちの心の思いのすべてをご存知であられます。私たちの心の奥底まで見通すことができる方なのです。この方の前に出る時、私たちはキリストの御前にひれ伏さざるを得ませんが、それなのに多くの人はキリストの御前に出てようとしません。ですから、ピリポが言ったことはとても重要なことです。「来て、見なさい。」
あなたがキリストのところに来て、キリストがどのような方であるのかを見るなら、キリストこそ神の子であり、神の民を治められる王であると告白するようになるでしょう。いや告白しないわけにはいきません。
最後に50節と51節のイエス様のことばを見ましょう。
「イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」どういうことでしょうか?
イエス様は、「それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」と言われました。「それよりも大きなこと」とは何でしょうか。それは51節で、イエス様が言われたことです。イエス様はこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」
これは創世記28章にあるヤコブがベテルで体験した出来事が背景にあります。彼は霊的なことに長けていただけでなく、ずる賢い人間でしたから、兄エサウがおなかをすかせて猟から帰って来た時、一杯のスープと交換に、兄エサウの長子の権利を奪い取ってしまいました。そればかりでなく、彼は父イサクが自分の死が近いことを知り、愛するエサウを祝福しようとして、鹿を取って来て、それでおいしい料理を作って、持って来るようにと言うと、エサウを出し抜いて母リベカが造った料理を持って行って、エサウが受けようとしていた祝福を奪い取ってしまいました。
二度も弟にだまされたことを知ったエサウは、弟を殺そうとしますが、そのことを知った母リベカは、彼を助けようと、自分の実家へ逃がしてやります。こうしてヤコブはひとり旅をするようになりますが、彼がルズという所に来たとき、そこで野宿することになりました。最初の野宿ということでかなり心細かったことでしょう。石を枕にして寝たのですが、平安がありませんでした。
その時です。彼は一つの夢を見ました。それは天から地に向かってはしごがかけられている夢でした。そして、そのはじごの上を神の使いたちが上り下りしているというものでした。しかもその時、主がそばに立って、こう言われました。
「 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」」(創世記28:15)
それで彼は元気百倍、眠りから覚めると、「まことに主はこにおられるのに、私はそれを知らなかった。」と言って、そこを「神の家」という意味のベテルと呼んだのです。
イエス様が語られたのは、この出来事にちなんでのことでした。つまり、ヤコブがたったひとりぼっちだと思っていたその時に、主は天からはしごを送られ、彼のかたわらにいて、助けてくださいました。そればかりではなく、そのような時でも神との交わりが与えられているという事実です。つまり、主がここにおられる、主は生きておられるという体験です。ただ頭だけの知識ではなく、ほんとうに主はここにおられるという実体験です。そして、今やその天からのはしごとして、イエス・キリストご自身を備えてくださいました。それがここで言われている「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」ということです。
イエス・キリストを信じる者は、イエス様によって神の子としての特権が与えられるというだけでなく、どんな時でもイエス様が仲立ちになってくださって、父なる神様とのすばらしい交わりを持つことができるのです。これこそ、イエス様が言われた「それよりも大きなこと」です。この体験は、クリスチャンに与えられている特権です。私たちがキリストによるこのすばらしい神との交わりを体験するなら、たとい孤独であろうとも、たとえ健康が損なわれることがあっても、たとい患難や迫害の中にあっても、またいばらの道や石を枕としなければならないような時でも、そこに驚くべき力が与えられるのです。神の臨在を体験できるからです。
これはクリスチャンのすべてに約束されていることです。51節を注意深く見ると、これは単にナタナエルだけでなく、すべての弟子たちに語られたことであるのがわかります。それはここに「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と複数形で言われているからです。それは私たちクリスチャンのすべてに言われていることです。イエス様を信じて救いの入口にとどまっているだけでなく、もっと救いの奥深さを知り、日ごとにそのすばらしさを味わい知る者でありたいと思います。もっと大きなことを見させていただきましょう。イエス・キリストこそ、私たちと父なる神を結びつけてくださるその架け橋にほかなりません。