博士たちのクリスマス マタイの福音書2章1~12節

2021年12月19日(日)クリスマス礼拝

聖書箇所:マタイの福音書2章1~12節

タイトル:「博士たちのクリスマス」

 

メリークリスマス!イエス・キリストのお誕生を、心よりお祝い申し上げます。本日、皆様と共に、クリスマスの礼拝を献げられる恵みを感謝いたします。

 

クリスマスは、人類の救いのためにイエス・キリストがこの世に来られたことを記念する日です。新約聖書、ヨハネの福音書1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、イエス・キリストのことです。父なる神のひとり子であられる神が、今から二千年前に、人となられたのです。おとぎ話のようですが、本当の話です。神さまは人類にいのちのメッセージを送ってくださいましたが、それは紙に書いた文字による手紙ではなく、神のひとり子自らがこの世界に人間として誕生してくださることによって示してくださいました。

 

この歴史的事実を記念するのがクリスマスです。いったいなぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、私たち人間を罪から救うためです。聖書の中にキリストの誕生を告げ知らせた御使いが話すことばが出てきます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20)

 

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。健康の問題、貧しさ、人間関係のトラブル、仕事上の問題、家庭が抱える問題、本当に次から次に起こってきます。しかし、こうした問題の最も根本的な原因は、私たち一人一人の内側に居座っている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末が死です。その根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあるのです。キリストは私たちをこの罪から救ってくださるために人となってこの世に来てくださいました。罪を取り除く薬は口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の上に引き受けて、十字架の上で永久に処分することによって取り除いて下さいました。


「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神

の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)もし、あなたがこの方を、あなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの罪も赦されます。せっかくのクリスマスです。どうぞこの機会にあなたのために人となられた救い主、イエス・キリストを信じ受け入れてください。

 

今日は、キリストが生まれた時、キリストを求めてはるばる東方の国からやって来た博士たちの物語から、クリスマスの意味についてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.東方の博士たち(1)

 

それでは、新約聖書、マタイの福音書2章をお開きください。まず1節をご覧ください。ここには、「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。

 

クリスマスのストーリーにおいて独特の存在感を示しているのが、この東の方からやって来た博士たちです。「東の方」とはペルシャ、あるいはバビロニヤの地方を指していると考えられています。

 

また「博士」と訳された言葉はギリシャ語で「マゴス」と言いますが、「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉で、直訳すれば魔術師です。当時の社会においては天文学、薬学、占星術、魔術などを通して、人の運命や世界情勢について占う人々のことを指していました。新共同訳ではこれを「占星術の学者たち」と訳しています。それは星の運行を通して世界の行く末を見極める人たちだったからです。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知ったとき、はるばる東の国からエルサレムにやって来たのです。

 

彼らは自分たちの国ではそれなりの地位や立場を持っていた人たちでしたが、クリスマスの舞台から見ると、はるばる東の国からやって来た異邦人、その周辺の人たちにすぎませんでした。本来ならユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の誕生を知るべきなのに、神の民ではない異邦人たちによってその大切な知らせを受け取ることになるのです。

 

新約聖書、ルカの福音書には、救い主キリストの誕生の知らせが真っ先に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちのところであったと記されていますが、この羊飼いたちもまた、ユダヤの社会では底辺にいるような人たちでした。そしてここでも、神の民から遠く離れていた異邦人、東方の博士たちが、真っ先に救い主キリスト誕生の知らせを知り、礼拝するためにやって来たのです。クリスマスの出来事の中心にやって来たのです。

 

どれほど遠くに離れていても、イエス・キリストは私たちをご自分のもとへ招いてくださいます。救い主イエス・キリストを礼拝する道は開かれているのです。これこそが御子イエス・キリストの訪れのもつ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主到来の星を見付けたわけではありません。その星の出現をずっと待ち続けていた人たちでした。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することでした。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめていたのです。

 

それは、他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて羨(うらや)ましがられるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨さや悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くことをも意味していたのです。

 

だからこそ、彼らは礼拝することを求めたのです。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇が増し、人々から希望を奪い去るような出来事が続く世界の只中にあって、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主到来を告げる星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、その頭上に照り輝いたのです。あなたももし救い主を待ち望むなら、あなたの頭上にも輝く星が照り輝くのです。問題は、あなたがこの救いを求めているかどうか、救い主を待ち望んでいるかどうかです。

 

Ⅱ.礼拝するためにやって来た博士たち(2-11)

 

次に、2~11節までをご覧ください。2節には、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とあります。

彼らはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。彼らは、その星が昇るのを見たので旅立ったのです。ことばにすれば数行のことですが、見ることと旅立つことの間には、相当の距離があったのではないかと思います。しかし、彼らは星を見るだけでは満足しませんでした。その星の出現を知っただけでよしとはしなかったのです。彼らにとって決定的に大切だったのは、その星に導かれて旅立つことでした。そして何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、救い主イエス・キリストに出会い、この方を礼拝することだったのです。

 

これを聞いたヘロデ王は動揺しました。エルサレム中の人々も同様でした。動揺したということです。彼らは、ユダヤ人の王として新しい王が生まれたのであれば、自分たちはどうなってしまうのだろう、それによって世の中が変わってしまうのではないかと思って不安になったのです。

 

しかし、果たして、それだけでしょうか。実は、彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らの感じた不安というのは、もっと奥深いところにありました。それは、神の御前にある自分の存在です。人間が最も恐ろしいと感じるのは、不信仰が、神の現実に触れる時に起こるものです。言い換えると、死んだら自分はんどうなるのかということです。

 

人は死んだらどうなるのでしょうか。本当に神がおられるのであればこの神の御前に立つことになります。そうしたら自分はどうなってしまうのでしょう。彼らは、その不安を抱いたのです。この人たちはこんなにまでして、真剣に救いを探し求めているのに、自分はこのままでいいのだろうか。そういう不安です。事実、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(へブル9:27)とあります。人は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。

しかし、どこまでやれば義と認められるのかわかりません。だから自分なりに一生懸命にやるのですが、それで本当に救われているのかというと、そういう保証はどこにもありません。それに比べて彼らは、その星を礼拝するために来たのです。その方を信じることが、その方を礼拝することによって救わるんだとはっきり告げたのです。不安になるのも当然のことでしょう。

 

それでヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると、ユダヤのベツレヘムであることがわかりました。預言者によってそのように預言されていたからです。

 

それでヘロデ王は博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時間について詳しく聞くと、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出しました。

 

9~11節をご覧ください。「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11)

 

博士たちは、王が言ったことを聞いて出て行きました。すると、かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまったのです。彼らはその星を見て、この上もなく喜びました。それから家に入って、母マリアとともにいる幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。

 

ここに礼拝する人間の姿が表されています。彼らは星を見てこの上もなく喜びました。そしてひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この「喜び」、「ひれ伏し」、「献げる」という一連の姿に、礼拝する人間の姿が表れています。礼拝とは何でしょうか。それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びは、これ以上もない大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見て喜んでいました。そしてついに、その星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝したのです。彼らは「なんだ貧しい幼子ではないか」と言って落胆しませんでした。期待はずれだと言いませんでした。彼らは主イエスの到来を旧約の預言を通して確信し、星の輝きの導きを信頼して、そうしてついに救い主、神の御子との出会いを果たしていったのです。

 

 彼らは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げました。黄金は、王なるキリストへの冠です。乳香とは、神なるキリストへの芳ばしい香りです。そして没薬とは、贖い主なるキリストへの葬りを象徴するものでした。いずれの献げものも、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに献げられるもっともふさわしい贈り物でした。

 

 この博士たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。ご存知の方もおられると思いますが、O.ヘンリーという人が書いた「賢者の贈り物」です。

これは、ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとしますが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。デラは、ジムの懐中時計に付けるプラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋に売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかしこの小説の著者である、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。なぜなら、彼らはクリスマスを迎える者として、最も相応しい贈り物をしたからです。

これと同じようにこの博士たちも、この方こそまことの王、まことの神、まことの救い主であることを示す贈り物を献げました。ここに、私たちは異邦人の礼拝者たちの姿を通して、真実な礼拝者の姿を見ることができるのです。

 

あなたはどうですか。あなたはキリストの到来を喜んでいますか。なんだ、こんなものか、期待はずれだったと言ってはいませんか。あなたの救い主との出会いを喜び、この方の前にひれ伏し、この方にふさわしいささげものを献げているでしょうか。クリスマスが本当の意味でクリスマスになるということ、それは、キリスト誕生の事実が、私たちの生活を動かすということです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、それをこの上もなく喜び、ひれ伏し、自分を献げるという、自分の生き方に変化が生じることです。それは、生きた礼拝を生み出すのです。

 

Ⅲ.別の道から帰って行った博士たち(12)

 

最後に12節をご覧ください。ここには「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

 

これが、マタイの福音書が示す博士たちの最後の姿です。彼らは自分たちの国へ帰って行きました。それは自分たちの住む異邦人の地です。あのいつもの日常の中へ帰って行ったのです。それは「悔い改め」を示す象徴的な姿でもあります。というのは、聖書が語る悔い改めとは、新しい歩みへの方向転換だからです。つまり、神から遠く離れた地から神の臨在のもとへ立ち返ることです。それが悔い改めだというのです。東方の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることではなく、むしろ主の臨在のもとへ立ち返る新しい旅路であったのです。

 

それは、ここに「別の道から帰って行った」とあることからもわかります。夢の中で、ヘロデのとこへは戻らないようにと警告されていたからです。それは、もはや同じ道をたどることはしないということを象徴していました。救い主イエスに出会い、ひれ伏して礼拝した彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生の旅路が始まるのです。

 

礼拝とは、私たちが新しくされることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と罪の赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて、今日、ここから遣わされていくのです。いつも通い慣れた道も、明日からの仕事場も、学校も、家庭も、いつものあの人々との交わりも、私たちにとっては主イエス・キリストにあって新しく遣われていく場所であって、そこもまた私たちにとっての礼拝の場なのです。その道を今日、ここから歩み出していくのです。そのようにして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至ります。それまでは星を見ての歩みです。けれどもその時には、私たちはこの目でイエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子イエス・キリストを礼拝するのです。その日に向けての旅路を今日、ここから始めていくのです。

 

救いの星を探し求める人は多くいます。そしてその星について知ろうとする人、学ぼうとする人、観察し、評価する人も多いかもしれません。しかし、肝心なことはそこから先の事柄です。あそこに救いがある、あそこに希望がある、あそこに人生の意味がある。それで終わってはならないのです。それを自らのものとしなければなりません。それを自らのものとしてこそ、それが私にとっての救いとなり、私にとっての希望となり、そして、私の人生の意味となるのです。

 

天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人でした。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行の基礎となっています。その彼がこう言いました。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい。」

彼は、星の運動についての法則だけでなく、その先にある事柄、すなわち、父である神の御名があがめられることを求めたのです。それは彼がその星を造られたイエス・キリストの救いを、自分のものとしていたからです。

 

主イエス・キリストはこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストと出会うこと、イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを礼拝すること。これが私たちの人生の旅路の一番の目的であり、ゴールです。その人生を自らのものとするために、私たちは「見る」から「旅立つ」へまで進まなければなりません。

 

今はまだ無理、今はまだ時ではない。あれがすんでから、これに目処がついてから、あの問題を解決してから、この支度が出来てから、自分自身がもう少し落ち着いたらと、あれこれと私たちの旅路を遅らせたり、思いとどまらせたりする事柄があるでしょう。しかし、あの星を見たならば、私たちは今置かれているところから、今抱えているさまざまな重荷を置き、心によぎる思いを置いて、旅立たなければなりません。クリスマスの星、その星の輝きに導かれて、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって進んで行こうではありませんか。あなたもイエス・キリストをあなたの罪の救い主として受け入れてください。あなたの心にもクリスマスの星が燦燦と照り輝きますように、そして、その星に導かれて人生を歩んで行かれますようにお祈りします。

いのちの水の泉 エレミヤ書2章1~13節

聖書箇所:エレミヤ書2章1~13節(エレミヤ書講解説教3回目)

タイトル:「いのちの水の泉」

 

 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

 

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

 

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

 

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

 

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

 

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

 

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

 

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

 

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

 

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

 

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

 

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

 

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

 

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

 

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

 

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。

民数記18章

民数記18章

 

民数記18章から学びます。

 

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所に関わる咎を負わなければならない。また、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、あなたがたの祭司職に関わる咎を負わなければならない。2 また、あなたの父祖の部族であるレビ部族の、あなたの身内の者たちも、あなたの近くに来させよ。彼らがあなたに連なり、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務に当たる。しかし彼らは、聖なる用具と祭壇に近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないようにするためである。4 彼らはあなたに連なり、天幕の奉仕のすべてに関わる、会見の天幕の任務に当たる。資格のない者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたは、聖所の任務と祭壇の任務を果たしなさい。そうすれば、イスラエルの子らに再びわたしの激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの子らの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために主に献げられた者として、あなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについて自分の祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の奉仕を賜物として与える。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」」

 

 「そこで」とは、16章と17章の出来事を受けて、ということです。17章には、コラの反抗とその結果について記されてありました。コラはレビ人であり、かつケハテ族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラに対してして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人たちは、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700人ものたちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエル人たちはアロンのとりなしによって救われたのです。

 そして18章には、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせ、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた大祭司であることをお示しになられました。しかし、イスラエルの民は、ここに現わされた神のあわれみを理解せず、「私たちも滅びる。私たちも滅びる」と言って、パニック状態になってしまいました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによってそうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方ですが、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主は、その祭司の務めについて語られたのです。

 

1節をご覧ください。主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。「聖所にかかわる咎」とは、聖所が汚された場合の責任のことです。同じように、祭司職にかかわる咎とは、祭司職にかかわる違反がなされた場合の責任のことです。それを負わなければなりませんでした。つまり、アロンとその家族こそ、祭司職を担う者たちであることを確認されたのです。ちょっと前にコラの家族とそれにくみする者たちが反抗したことによってイスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを明確に示されたのです。

 

2節には、アロンの家族以外のレビ人たちの立ち位置についても言及されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした(1:47-53,3:5-10)。それがレビ人に与えられた役割だったのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪はこの役割を忘れ、アロンの祭司職まで要求したことでした。

 

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないようにするためです。コラたちが受けたような激しい神の御怒りを二度と受けることがないようにするためです。

 

6節と7節には、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられた彼らへの贈り物として、神から与えられたものなのです。

 

私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これらすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。エペソ2章8節に「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。これは神の賜物なのです。そして、神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

 

 Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

 

 次に8節から24節までをご覧ください。「主はまたアロンに言われた。「今わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエルの子らのすべての聖なるささげ物について、これをあなたが受け取る分とし、またあなたの子たちへの永遠の割り当てとする。9 火による最も聖なるもののうちで、あなたのものとなるのは次のとおりである。わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物、これらすべては、あなたとあなたの子たちにとって最も聖なるものである。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。すべての男子は、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。11 また次の物もあなたのものとなる。イスラエルの子らの贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与え、永遠の割り当てとする。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。12 最良の新しい油、新しいぶどう酒の最良のものと穀物、人々が主に供えるこれらの初物すべてをあなたに与える。13 彼らの地のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで聖絶の物はみな、あなたのものになる。15 人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月たってから、一シェケル二十ゲラの聖所のシェケルで、銀五シェケルを払わなければならない。17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものだからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、脂肪を食物のささげ物、主への芳ばしい香りとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸肉や右のもも肉と同様にあなたのものとなる。19 イスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与えて、永遠の割り当てとする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。21 さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。22 これからはもう、イスラエルの子らは、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪責を負って死ぬことのないようにするためである。23 会見の天幕の奉仕をするのはレビ人であり、レビ人が彼らの咎を負う。これは代々にわたる永遠の掟である。彼らはイスラエルの子らの中にあって相続地を受け継いではならない。24 それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。」」

 

 8節には、「主はまたアロンに言われた。「今わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエルの子らのすべての聖なるささげ物について、これをあなたが受け取る分とし、またあなたの子たちへの永遠の割り当てとする。」とあります。どういうことでしょうか?

これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができるということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができるということです。それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わることができたのです。それは、私たちが行う聖餐式と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主との+交わりを持ちますが、それはキリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

 

9~10節をご覧ください。ここには、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を食べなければならないとあります。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との関係を妨げている罪が取り除かれ、神との和解がもたらされるからです。その肉を食べるということは、神との和解を受け入れ、神と親しい交わりを持つことになるからです。

 

しかし、ヘブル書を見ると「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。」(ヘブル10:4)とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできません。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。その後のところには、それは、神の御子イエス・キリストです。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。私たちが神と和解し、神と一つとなるためには、神のひとり子であられるキリスト以外にはないのです。イエス様が罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:54)と言われました。ですから、祭司が最も聖なるものとしてそれを食べるということは、キリストを信じて神の祭司とされた私たちクリスチャンが、神と親密な交わりを持つことを表しているのです。

 

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のきよめのささげ物は聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかし、ここにはそれも「永遠の分け前」であると言われています。これは時間が経てば効力を失ってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものであるということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないものであるということです。それはまた繰り返す必要のない、ただ一度の出来事であるという意味です。それは神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架で血を流され、死なれたことによって、贖いの御業は完成しました。救われるために必要な御業は、他に何もありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないのです。

 このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

これが、私たちの救いです。私たちはキリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けたのです。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれたのです。ですから、自分の罪が赦されるために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をし足りする必要はありません。また、自分をもっと聖めたいと思って、こうした宗教的な行いをする必要もないのです。イエス・キリストを信じるなら、あなたは完全に聖められているからです。キリストの贖いの御業は完成しました。イエス様が十字架で死なれる直前に言われたことばは、そのことを表しています。イエス様は死の直前何と言われたでしょうか。「完成した」。それは、救いの御業が完成したということです。ですから、祭司たちが神からいただく分け前は「永遠の分け前」なのです。

 

12節と13節には、「最良の新しい油、新しいぶどう酒の最良のものと穀物、人々が主に供えるこれらの初物すべてをあなたに与える。彼らの地のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。
 イスラエル人は、罪のきよめのささげ物や代償のささげ物だけではなく、収穫物の初物を幕屋に携えてきました。それは最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物と、人々が主に供えるこれらの初物のすべてです。それらを自分たちの分け前とすることができました。これらも罪のきよめのささげ物と同じように、キリストご自身を表していました。キリストが彼を信じるすべての人たちの初物となってくださったということです。それゆえキリストを信じるすべての人は、キリストと同じようになるのです。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生き、キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しているように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。神の祭司とされた私たちは、初物であるキリストを心に受け入れているからです。

 

14節には、「イスラエルのうちで聖絶の物はみな、あなたのものになる。」とあります。聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければなりませんが、その聖絶のものが彼らのものとなったのです。神と一つにされたからです。

 15節には、「人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。」とあります。
 植物の初物が祭司のものになったように、人の長子や動物の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、人の場合はお金を払って買い取らなければなりませんでした。16~17節には、その贖いの代価が示されています。生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげなければならなかったからです。しかし、その肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

 

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど述べたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

 

20節から24節までには、相続地に関する規定が記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは彼らにとって主が割り当て地であり、彼らへのゆずりであるからです。どういうことですか。主ご自身が彼らが相続するものであるということです。いや、ちゃんと相続地が欲しいなぁと思われるでしょうか。でも、主はすべてを所有しておられる方です。ですから、この方を相続するというのは、すべてのものを相続するということなのです。これほどすばらしい相続はありません。すべての霊的富を与えられるのです。

 

私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちにとってイエス様がゆずりの地です。イエス様だけで十分ですと告白し、イエス様に拠り頼んでいるでしょうか。パウロはこう告白しました。「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12-13)

すばらしいですね。私たちも主が私たちのゆずり、相続地であることを感謝し、このように告白したいものです。

 

それはレビ人も同じでした。主はレビ人にも相続地を与えられませんでした。その代わりに、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いためです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

 Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

 

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。「主はモーセに告げられた。26 「あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子らから受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として献げなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、踏み場からの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物と見なされる。28 こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主】の奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれの最上の部分で聖別される分から主へのすべての奉納物を献げなさい。30 また、あなたは彼らに言え。あなたがたが、その中からその最上の部分を献げるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、踏み場からの収穫と見なされる。31 あなたがたとその家族は、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を献げるとき、そのことで罪責を負うことはない。ただし、イスラエルの子らの聖なるささげ物を汚して、死ぬようなことがあってはならない。」」

 

レビ人は、受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげなければなりませんでした。それを、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうしてアロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

 

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださったのです。それは今日も同じです。神は教会に牧師、長老、監督といった働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられます。Ⅰテモテ5章18節に、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」とあるとおりです。教会は、主の働き人がその働きに専念できるように、彼らの物質的な必要が満たされるように配慮することが求めてられけているのです。

あなたは何を見ているのか エレミヤ書1章11~19節

聖書箇所:エレミヤ書1章11~19節(エレミヤ書講解説教2回目)

タイトル:「あなたは何を見ているのか」

 

 今日は、エレミヤ書1章11~19節の御言葉から、「あなたは何を見ているのか」というタイトルでお話します。エレミヤが預言者として召命を受けた後、最初の預言を発するまでの間に、主はエレミヤに対する召しを確かなものとするために、二つの幻を見せられました。それがアーモンドの枝と煮え立った釜の幻です。

 

 Ⅰ.アーモンドの枝(11-12)

 

 まず、11節と12節をご覧ください。「主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」」

 

 エレミヤの預言者としての働きは、アーモンドの枝を見ることから始まります。「アーモンド」は、ヘブル語で「シャケデ」と言います。意味は「目覚める」とか「見張る」です。イスラエルでは、アーモンドの木は春になると一番先に花をつけました。日本で言えば梅の木でしょうか。とてもよく似ています。梅の花のように白い花をつけるのです。

春が来るとカラカラに乾いた冬の終わりを告げます。そのときアーモンドの木に一斉に花が咲き始めるのです。エレミヤはそれを見ていました。先ほども申し上げたように「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」、意味は「目覚める者」とか「見張る者」です。彼は預言者として神が語ることばが実現するかどうか見張る者として、神から召されました。この「見張る」というヘブル語は「ショケデ」と言いますが、ここに語呂合わせが見られます。「シャケデ」と「ショケデ」です。「アーモンド」と「見張る」です。私はよくおやじギャグを言って顰蹙(ひんしゅく)をかうことがありますが、神の語呂合わせは見事ですね。ショケデがシャケデを見ているのです。エレミヤは、自分が預言者として召されたことを感慨深く思っていたに違いありません。それはまさに自分のことではないか。私はアーモンドだ!と思っていたかもしれません。

 

その時彼に、主のことばがありました。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」。口語訳では「何を見るか」です。つまり、あなたは何を見ようとしているのかということです。何を見ているのかって、アーモンドの枝です。しかし、本当に彼が見なければならなかったものは何だったのでしょうか。私たちの目にはいろんなものが映りますが、その中で何を見ているのか、何を見ようとしているのかは重要なことです。目で見ているからといっても、必ずしも見ているわけではないからです。耳で聞いているからといっても、必ずしも聞いているわけではないのです。

 

マルコの福音書8章14~19節には、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れて舟に乗り込んだ時の出来事が記されてあります。そのとき、イエス様が彼らに「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(マルコ8:15)と言われたのです。それを聞いた弟子たちは焦りました。自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことについて、イエス様から非難されたと思ったからです。それで彼らは互いに議論し始めました。

するとイエス様はそのことに気がついてこう言われました。「なぜ、パンをもっていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心をかたくなにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは覚えていないのですか。」(マルコ8:17-18)

「あなたがたは覚えていないのですか」とは、その前にイエス様が行った七つのパンの奇跡のことです。イエス様は、七つのパンで四千人の男の人たちの腹を満腹にさせました。パンの問題はもうその奇跡で解決済みでした。そのパンの奇跡によってイエス様が示そうとしたことは、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きるのだということです。つまり、人は神の恵みによって生きるのだということです。それなのに、パンを持って来るのを忘れたからといって、パンパカパーンと叱責されるはずがありません。でも弟子たちにはそれがわかりませんでした。彼らは本気でパンのことで叱られていると思ったのです。問題は何でしょうか。よく見ていなかったということです。よく聞いていなかった。目があっても見ない、耳があっても聞かない、悟らない。心をかたくなにしていたのです。

 

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。いろんな経験をしても、ただぼんやりとしていたら、その経験、つまり見たもの、聞いたものは、何も見たことにはなりません。聞いたことにはならないのです。どんなにイエスの奇跡を体験しても、それを体験すればするほど、私たちの心は鈍くなり、御利益的信仰しか養われないで、心が鈍くなっていくということがあるのです。神様を信じていれば、必ずいいことばかりくるのだという程度のことしか期待できなくなっているのです。

 

ですから、私たちが何を見るか、何を見ようとしているかは大事なことなのです。私たちが日常生活において、いつも心を研ぎ澄まして、本質的なものは何か、一番大事なものは何なのか、今、しなければならないことは何か、なくてならないものは何かと、注意深く見ようとしていないと、見えるものも見えてこなくなります。

 

エレミヤは今、預言者とし召されたばかりでした。その時にアーモンドという花を見ていたのか、見せられたのかわかりませんが、じっと見ていました。それはただ見ていたというよりも、そこから悟りを得るかのように見ていたのです。アーモンドの枝は他の花に先駆けて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ目覚めの花ともいわれています。エレミヤは思ったかもしれません。自分は他のだれにも先駆けてこの時代の先駆者にならなければならない。この時代を見張らなくてはならないと。特に彼は神に召された時に、神から「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」と言われました。厳しいさばきを民に伝えなければならないという意気込みがあったでしょう。普通ならばなんでもないアーモンドの枝でも、いつもとは違ったものとして見ていたのかもしれません。

 

すると主が彼に言われました。「あなたの見たとおりだ。」新共同訳では「よくぞ見たものだ」と訳しています。つまり、主はエレミヤが見ているものをほめているのです。喜んでいるんです。「よくぞ見たものだ」と。預言者として召されたエレミヤが見るべきもの、それはアーモンドの枝を通して見る神の御思いだったのですが、彼はそれをしっかりと見ることができたのです。それは目覚め、見張るという彼に与えられていた使命でした。

 

しかしそのあとで主は、思いがけないことを言われました。それは「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」ということです。つまり、見張っているのは、エレミヤではなく、神ご自身であるということです。確かにエレミヤは預言者として召されたからには、この世に先駆けて目を覚まし、この世を見張らなくてはならないと思っていたでしょうが、しかし、それ以前に、神ご自身が見張っているというのです。何を見張っているかと言うと、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」というのです。ここで言われている「わたしのことば」というのは、神がエレミヤを通して語られる神のことばです。エレミヤに託された主のことばが、どのように実現するのかをご自身が見張っているというのです。これを聞いた時エレミヤはどんなに肩の力がぬけたことかと思います。ヨッシャー!と思って立ち上がったら、「いや、それはあなたがするんじゃなくてこのわたしだ」と言うのですから。ガクッと来ますよね。ではそのことばとはいったいどのようなことばなのでしょうか。

 

 Ⅱ.煮え立った釜(13-16)

 

 それが次に出てくる煮え立った釜の幻です。13~16節をご覧ください。「再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている-主のことば-彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。」

 

 これがエレミヤを通して語られた主のことばです。先のアーモンドの枝の幻を見てから幾日か経ってからのことでしょう。再びエレミヤに主のことばがありました。「あなたは何を見ているのか。」エレミヤは答えました。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています」と。

 

 「煮え立つ釜」とは、神の煮え立つような怒りのことです。それが「北から傾いている」とは、バビロン軍が北の方からやって来るということです。彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダの城壁のすべての町に向かってそれぞれ王座を設けるのです。いったいなぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは16節にあるように、彼らがイスラエルの神、主を捨てて、ほかの神々にいけにえをささげたり、自分たちの手で作った物を拝んだからです。その悪に対して主がさばかれるからです。これが主のことばです。主は、このことばを実現しようと見張っているのです。

 

 でもどうやってこれが起こるのでしょうか。というのは、エレミヤが預言者として召されたのはB.C.627年のことでした。当時、周辺諸国を支配していたのはアッシリヤ帝国です。アッシリヤ帝国によってオリエント世界は完全に支配されていたのです。バビロンなんていう国は聞いたこともありませんでした。事実、バビロンはアッシリヤの支配下にありました。ですから、世界最強のアッシリヤ帝国が消滅して、名もないバビロン帝国が世界の覇者になると聞いても、ピンときませんでした。だれも信じることができなかったのです。今で言えば超大国のアメリカが消えて無くなり、どこの名もないような国が急に世界の覇者になるようなものです。考えられません。そのバビロンがやって来てどうやってエルサレムを滅ぼすというのでしょうか。そんな時に、エレミヤはこの預言のことばを語れと言われたのです。語れと言われても、それは突然天から聞こえてきたというよりもエレミヤの思いの中に、そのような思いが与えられたということでしょう。

 彼は夕飯を待ちながら、グツグツと煮え立つ釜を見ていると、その釜が突然北の方から傾いてきてこぼれそうになりました。そのとき、「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。」という主の御声を聞いて、神のことばを悟ったのです。つまりエレミヤは夕飯の用意をしながら、グツグツと煮え立つ釜を身ながら、偶像礼拝をしているイスラエルのあり方を身ながら、こんなことをしていたら、きっと神のさばきがくると考えたのです。それが北からやって来るバビロン帝国でした。

 まだ人々はバビロンという国さえ知らない時代です。まだ北からの驚異を少しも感じていないとき、そんな時に人々にこんな罪の生活をしていたから、必ず北から攻められる、それは神のさばきだと人々に語らなければならないのです。だれが信じるでしょうか。だれも信じられなかったでしょう。バカじゃないか、そんなことあるはずがないじゃないか、もっとマシな話をしろと、鼻で笑われたに違いありません。これが神のことばだと告げれば告げるほど人々から笑われ、そんなことを言って脅かすなと非難されていたのです。17章の15節からのところをみると、エレミヤの嘆きの言葉が記されています。「ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。」(17:15-18)

エレミヤが「北から攻められて、自分たちの国は滅びる」、これは主のことばだと語れば語るほど、お前の言った言葉はちっとも実現しないではないかとからかわれていたのです。

 

 そのエレミヤに対して主は、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」と言われました。お前がこれは主のことばだといって語ったことは、わたしが責任をもって実現させる、そのために見張っているのだと、神はエレミヤに語られたのです。だからお前は安心して主のことばを語れというのです。わたしがお前が語ったことばを実現させるからと。これはエレミヤにとってどんなに心強い言葉であったかと思います。

 

 そして、事実、このことばが実現します。主がこれをエレミヤに語られた翌年のB.C.626年に、バビロンの王ナボポラッサルがアッシリヤに反乱を企て独立を果たすのです。これが新バビロニア帝国です。そしてそのまま破竹の勢いで勢力を伸ばすと、B.C.612年には、ついにアッシリヤ帝国の首都ニネベを陥落させるのです。つまり、バビロンがアッシリヤに代わって世界の覇者となるのです。それは、主がエレミヤに語られたてら15年後のことでした。

そして、それからさらに7年後の605年に、このバビロン軍が南ユダに侵攻します。エレミヤがこれを預言したのがB.C.627年ですから、それから実に22年後のことです。その年にバビロンが南ユダに侵略し、ダニエルを始めとした優秀な人材をバビロンに連行するのです。これが第一次バビロン捕囚です。それはユダの王エホヤキムの治世の第三年のことでした(ダニエル1:1)。

それから19年後のB.C.586年には、これが最も有名なものですが、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、陥落させるのです。その中心にあったエルサレム神殿は破壊され、エルサレムは瓦礫の山となり、エルサレムの住民はバビロンへと連行されます。これが究極のバビロン捕囚です。ここで主がエレミヤに語られたとおりになるのです。ユダの人々がそんなこと考えられないと鼻で笑ったことを、主は実現されるのです。これが主のなさることです。主はご自分が語られたことを実現しようと見張っておられるのです。

 

聖書にはたくさんのことが書かれていますが、実にその3分の1は預言です。ですから聖書は預言の書と言われているわけですが、その預言は、これまでの歴史においてことごとく実現してきました。その中には1,900年もの間失われていたイスラエルが、世の終わりに再建されるというのもあります。考えられません。しかし、1948年5月にこれが実現します。イスラエルという国が建国されたのです。これは20世紀最大の奇跡と言われていますが、現実に起こったのです。

 

ですから、未来のことについて信じ難いことでも、私たちはこの神のことばを信じなければなりません。世間が何と言おうとも、変わることがない神のことばを信じなければならないのです。勿論、それは預言ばかりでなく聖書に書かれてあるありとあらゆることです。たとえそれが常識では考えられないことでも、理性的に受け入れられないことでも、この世の価値観からあまりにもかけ離れていることであっても、聖書は神によって語られた神のことばであり、神は必ずそれを実現してくださるのです。

 

エレミヤの時代の人々は信じることができませんでした。まさか22年後にバビロンがやって来て人々を連れて行くなんて考えられませんでした。しかし、主はご自身が語られたことばを実現しようと見張っておられます。大切なのは、見ないで信じることです。イエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)見ないで信じる者は幸いです。見ないで信じましょう。主が語られたことばは、必ず実現するからです。

 

 Ⅲ.腰に帯を締めて立ち上がれ(17-19)

 

ですから、第三のことは、腰に帯を締めて立ち上がれということです。17~19節をご覧ください。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、-主のことば-あなたを救い出すからだ。」」

 

主はエレミヤに二つの幻の意味を説明すると、腰に帯を締めて立ち上がり、主が命じるすべてのことを語れ、と言われました。帯を締めて立ち上がるとは、働きやすいように着物の裾をまくり上げて腰の帯で締めることです。主が語るように命じられたことをすべて語ることができるように用意しておきなさいということです。あなたはその用意が出来ているでしょうか。監督から声が掛かったらいつでもベンチから飛び出していく野球の選手のようにウォーミングアップが出来ているでしょうか。監督の考えや戦略を熟知していて、すぐにそれに対応できるように準備しているでしょうか。

 

Ⅰペテロ1章13節に、「腰に帯を締める」と同じことばが使われています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

この「心を引き締め」ということばです。あなたの心は緩んでいないでしょうか。考えがあっちに行ったりこっちに行ったりしていないですか。あのことを考えたりこのことを考えたりして集中できないということはないでしょうか。聖書のことばに集中して生きるのか、この世の価値観に流されて生きるのかということです。人の言うことに振り回されていないでしょうか。そうではなく、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられている恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

 

彼らの顔を恐れてはなりません。さもないと、主があなたを彼らの顔の前でおびえさせることになります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)とあるとおりです。エレミヤが語ることばは、彼らにとって歓迎されるようなことばではありませんでした。むしろ訝(いぶか)られたり、拒絶されたりするようなことばでした。しかしそれでも彼は、人々の顔を恐れず主が語れと命じられたことを語らなければなりませんでした。人の顔色を見て神のことばを薄めたり、ゆがめたり、へつらったり、オブラートに包んだりしないで、ストレートに語らなければならなかったのです。

 

そうすれば、主は彼を「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする」と約束されました。「要塞の町」とか「鉄の柱」、「青銅の城壁」とは、揺るぐことがない堅固な町という意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。恐れてはならない、おののいてはならない。主が語られたすべてを大胆に語るように。なぜなら、主があなたとともにいて、あなたを救い出されますから。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。自分で弁護するのでもないのです。人に取り入られようとへつらう必要もありません。全部主が成し遂げてくださいます。あなたは絶対に潰されることはありません。倒れることはないのです。主があなたを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁としてくださるからです。

 

エレミヤの預言者としての活動は実に40年間にわたるものでしたが、たとえ40年間だれ一人あなたの語ることばに見向きもしなくても、だれ一人あなたのことばに耳を傾けなくても、それでもあなたは語り続けなさい。わたしがともにいるから。そう語られたのです。これを信じたエレミヤは、40年以上も神の働きを続けることができました。それはこの世の人々の目には不毛のように見えたかもしれません。しかし、神の目ではそうではありませんでした。アーモンドの枝のように、死んでいるように見えても花を咲かせていたのです。ですからエレミヤは、どんなに反対されても、忍耐して、忠実に語り続けることができたのです。

 

あなたはどうでしょうか。人にどう思われるが気になりますか。そんなこと言ったら変に思われるんじゃないかとか、バカにされるんじゃないか、仲間外れにされるんじゃないかと心配になってはいないでしょうか。ストレートに言ったら反って相手の気分を損なわせてしまうことになるのではないか。それでは逆効果だと思うかもしれない。でも恐れないでください。主はきょうあなたにこう言われます。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」と。

 

なかなかわかってもらえないかもしれません。拒まれるかもしれない。逆ギレされるかもしれません。それによって人間関係を失うかもしれません。でも彼らの顔を見ておびえないでください。主があなたともにいて、あなたを救い出してくださいますから。これが主の約束です。主のことばはとこしえに堅く立ちます。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに立つ。主のことばに信頼して、あなたも腰に帯を締めて立ち上がり、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。

 

エレミヤはアーモンドの枝をみながら、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」という主のことばを聞いて力づけられ、また肩の力を抜くことができましたが、それはエレミヤばかりでなく、あなたに対しても語られている主のことばなのです。

エレミヤの召命 エレミヤ書1章1~10節

聖書箇所:エレミヤ書1章1~10節

タイトル:「エレミヤの召命」

 

 今日からエレミヤ書に入ります。エレミヤは、1節にあるように、「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子」でした。アナトテは、エルサレムの北東約4キロに位置する寒村です。昔から祭司たちが住み、祭司の村として知られていました。エレミヤは、その祭司の一人ヒルキヤの子として生まれました。すなわち、彼は子供のときから神に対する敬虔な態度を培われ、神の律法をよく学んでいたということです。

 

 このエレミヤに主のことばがありました。それはユダの王、アモンの子ヨシヤの時代のことで、その治世の第十三年のことでした。ヨシヤは8歳で王として即位したので、その治世の13年というのは、ヨシヤが21歳の時であったことがわかります。それはB.C.627年のことでした。その年にエレミヤに主のことばがあったわけです。

 

それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの民が捕囚としてバビロンに連行される時まで続いたとあります。いわゆるバビロン捕囚です。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたという出来事です。それはB.C.586年のことですから、エレミヤの預言者としての活動は、B.C.627年からB.C.586年までの、実に41年間であったということになります。長いですね。

 

 彼が預言者として活動していた時期はどのような時であったかというと、イスラエルの歴史において最も暗黒な時代であった言えるでしょう。霊的にも、道徳的にも、社会的にも堕落しており、その結果、バビロンという国に捕囚の民として連れて行かれることになったのですから。エレミヤが預言者として活動を始めた時はヨシヤ王の時代でした。彼は非常に善い王様で、父アモンによってもたらされた偶像を神殿から廃棄し、祭司ヒルキヤによって発見されたモーセの書を民の前で朗読するなどして宗教改革に取り組み、イスラエルの民を神に立ち返らようとしました。

 

しかしそれは長くは続かず、イスラエルは再び主に背き、元の状態に戻ってしまったのです。3節にヨシヤの子エホヤキムとありますが、彼は神のことばをストレートに語るエレミヤを鬱陶(うっとう)しく思い、激しく弾圧しました。その結果、エルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって陥落し、ついにはエルサレムの民がバビロンに連行されて行かれることになってしまったのです。これがバビロン捕囚という出来事です。

 

聖書には年代として覚えておきたいいくつかの出来事がありますが、その一つがこのB.C.586年のことです。ちなみに、他に覚えておきたい出来事、年代としては、たとえばアブラハムが神に示された地に出て行けということばを受けて、告げられたとおりに出て行ったという出来事があります。創世記12章にありますが、それはB.C.2,000年頃のことです。それから、モーセがイスラエルの民をエジプトから解放した出来事、出エジプトですね、これはB.C.1,400年頃のことです。さらに今祈祷会でちょうどやっているところですが、ダビデがイスラエルとユダを統一して王国を築いた出来事、これはB.C.1,000年頃のことです。また、その子ソロモンによってイスラエルが分裂した出来事、これはB.C.931年のことです。そしてイスラエルの分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた出来事、B.C.722年です。そしてこの南ユダ王国がバビロンによって捕囚の民となった出来事です。これを以ってエルサレムの民はバビロンに連れて行かれ、そこで70年の時を過ごすことになるのです。

 

その時の最後の王がゼデキヤでした。彼は両目をえぐられて、バビロンに連行されました。この出来事は、イスラエルの歴史において一大転機となります。かつてイスラエルがエジプトの奴隷として430年間囚われていたように、70年間他国に支配され、奴隷の民として過ごすことになったからです。最終的にそれは、罪の奴隷として罪の支配の中にあった私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いにつながっていくのです。エレミヤはまさにこのバビロン捕囚を預言し目撃する人物として神から遣わされたのです。

 

それは本当に嘆かわしい出来事でした。その中でエレミヤは涙をもって、神のことばを語り続けました。エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる所以はここにあります。それは、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の姿でもあります。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37-38)

そしてそれは、神に背を向けて自分勝手に生きている現代の私たちに対する神の叫び、神の心でもあります。私たちは、このエレミヤを通して語られる神のことばを私たちに対する神からの涙のメッセージとして受け止め、神のみこころは何かを学び、神のみこころに歩む者でありたいと願わされます。

 

 Ⅰ.エレミヤの召命(4-5)

 

 では、エレミヤが預言者として召された出来事を見ていきましょう。4節と5節をご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」」

 

 すごいことばですね。エレミヤは、生まれる前から預言者として定められていました。彼は祭司の子どもとして生まれたので祭司として召されていたというのならわかりますが、祭司としてではなく預言者として定められていました。預言者とは、言葉を預かると書きますが、文字通り神の言葉を預かり、それを語る人のことです。

 

 それは彼が母の胎内に形造られる前からのことでした。神は彼を、胎内に形造られる前から知っておられました。この「知る」ということばは、へブル語で「ヤーダー」と言います。皆さんは「ヤーダー」と言わないでください。神に知られているということはすばらしいことなのですから。あなたも生まれる前から神に知られていました。この「知る」ということばは、夫が妻を知るという時に使われることばで、夫婦の性的関係を持つ時に用いられることばです。それほど親密なレベルで知っているということです。ただ情報として知っているというだけでなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っているのです。そのように神はあなたのすべて知っておられるのです。あなたが胎内に形造られる前から。

 

そして母の胎を出る前から、国々への預言者として定めておられました。この時点で彼はそのことを知りませんでした。しかし、時至って彼はそのことを知ることになります。10章23節で彼はこう告白しています。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

人間の道とは人の一生のことですが、人の一生はその人によって決まるのではなく、神の御手の中にあり、神によって定められているのです。皆さんもまさか自分がクリスチャンになってここにいるようになるなんて考えたこともなかったでしょう。だれも知りません。でも神はすべてのことを知っておられます。そして、その歩みを確かなものにしてくださるのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちがクリスチャンになることは、私たちが生まれる前から、神によって定められていたことなのです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)とあります。私たちは、生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、クリスチャンになるように選ばれていたのです。このようになるようにと定められていたのです。

 

このようなことを申し上げると、中には私はロボットではない。一人の人格を持った人間であり、何をするかといった選択の自由が与えられているのであって、定められていたというのはおかしいと言う方がおられます。しかし、そうした選択さえも予め定められているのであって、私たちがどこにあってもキリストを信じるように導かれていたのです。ですから今皆さんがここにいるのも決して偶然ではないのです。

 

私は18歳の時に今の妻と出会い、クリスチャンになりました。どうして妻に出会ったのかを考えても本当に不思議だなぁと思います。全く考えられないことでした。しかし、今になって思うことは、エレミヤが、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」と告白したように、すべてが主の導きによるものであったということです。綾小路きみまろの「あれから40年!」というフレーズが有名ですが、私のあれから40年も、まさに主の導きによるものであったと実感するのです。決して「偶然」ではなかった。そうです、人の一生は生まれる前からすでに神のみ手にあり、その使命は定められているのです。

 

ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。

教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。

「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」

雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。

「私の探求は終わった。」

彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。

シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神の摂理によるのです。(Dan Betzer 「Preaching Today.com」)

 

エレミヤは、自分は神から召されたのだという強い確信がありました。これが、いかなる困難に遭遇しても、それを乗り越えることができた理由です。神は、エレミヤが誕生する前から彼を預言者として選んでおられました。これは私たちにも言えることです。あなたは、自分が神から選ばれた者であることを知っていましたか。神が選んでくださったのであれば、最後まで必ず責任をもってくださいます。あなたは何も心配いりません。何も思い悩む必要はないのです。あなたに必要なのは、永遠の昔から神によって知られ、生まれる前から聖別され、神の栄光のために定められていると信じることなのです。

 

 Ⅱ.エレミヤの応答(6-8)

 

 次に、この神の召しに対するエレミヤの応答を見たいと思います。6~8節をご覧ください。「私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば。」私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」」

 

 神の召命に対するエレミヤの応答は、「私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません」というものでした。この時エレミヤが何歳だったのかははっきりわかりませんが、預言者として立つにはまだ若いと言っていることから、恐らく20代前半位だったのではないかと思われます。そんな若者がどうやって語れというんですか。そんなの無理です、できるわけがありませんと、答えたのです。もしかすると彼は、祭司の子として生まれたこともあって、預言者として召されることにためらいがあったのかもしれません。あるいは、彼の時代からさかのぼること100年前に現れて神のことばを大胆に語った預言者イザヤと比較して、自分にはとてもそんな力はないと思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分にはできませんと答えました。

 

それに対して、主は何と言われたでしょうか。7節をご覧ください。「主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」

「まだ若い、と言うな」、これは言い訳するな!ということです。できない理由をあげたらきりがありません。自分は若くて未熟な者です。まだ訓練が十分ではありません。自分は預言者としては不適格です。しかし、そのような言い訳は一切必要ありません。というのは、神がエレミヤを預言者として召されたのは、彼に能力があったからではなく、また、知識や経験があったからでもなく、神がそのように選ばれたのだからです。従って、彼に求められていたことは何かというと、能力や知識や経験があるということではなく、ただ神に従うことでした。神が遣わされるところであればどんなところでも行き、神が命じられたことであればそれをその通りに語ることです。すなわち、神のことばに忠実であることです。この預言者の資格について元東大総長の矢内原忠雄は、聖書講義の中で次のように言っています。

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純粋な信仰にあります。・・預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします。」(矢内原忠雄、「聖書講義」8:580)

まさにその通りです。たとえ若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いとか軽いとかということとは全く関係なく、神の預言者に求められているのは、神の言葉を聞き、それをそのまま伝えることです。ですから、預言者に求められることは素直で真実であることなのです。また、人の顔を恐れない勇気です。ですから、8節に次のように勧められているのです。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」」

 

 エレミヤの問題は、人の顔を恐れていたことでした。しかし神はいつもエレミヤとともにあって救い出してくれるから、人の顔を恐れるなと言われたのです。箴言29章25節には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。どんなに強い確信をもっていても、失望する時は必ずやって来ます。そんな時エレミヤは、神との絶えざる交わりを通して、新しい力を得ていかなければならなかったのです。

 

あなたはどうですか。人の顔を恐れていませんか。恐れは、私たちの行動を束縛します。しかし、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、神の完璧な愛の前に、恐れは一瞬にして締め出されます。大切なのは、神様とともに歩むことです。

 

「リビングライフ」というディボーションガイドの古いものを見ていたら、数年前に天に召された韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンシュ先生の「愛する人を慕うように」というタイトルの詩を見付けました。

「苦しみ自体は問題ではありません。

神様がともにおられないことが問題です。

苦痛がのろいではありません。

神様がともにおられないことがのろいです。

神様は神の人と毎日、毎時間、ともにおられる方です。

神様がともにおられると、恐れはありません。

失敗しても、病気になっても問題ではありません。

死さえも恐れなくなります。

主とともにいると、すべてがうまくいきます。

すべてがうまくいくとは、すべてのことがともに働いて益となるということです。

苦しみが去っていくのではなく、苦しみを打ち破って、勝ち抜く力を持つことです。

「神様が私たちとともにおられる」と思うだけで、

すべての責任を神様が取ってくださるような気がします。

それをまた別の視点で見て、「私たちが神様とともにいる」と考えると、

私たちは神様を忘れてはならないということになります。

たとえ苦痛や悩みがあっても、私たちの中には神様がおられます。

一日を神様ともに始めてください。

そして、一日中ともに行動してください。

いつも神様のことを考えてください。

神様のことを考えることが、神様とともに行動することです。

それは私たちの特権です。(ハ・ヨンジュ、「愛する人を慕うように」リビングライフ2010年4月号)

 

すばらしいですね。神とともにいるなら、恐れは全くありません。死さえも恐れなくなるというのはすごいことです。私たちにとって最も重要なのは、この神とともにいることです。神とのつながりを通して、日々新しい力を受けようではありませんか。人の顔を恐れないで、神に信頼しましょう。

 

Ⅲ.エレミヤの使命(9-10)

 

第三に、エレミヤに与えられた使命です。9~10節をご覧ください。「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」」

 

そのとき主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れられました。これは、イザヤが召命を受けたときの状況に似ています(イザヤ6:7)。それは彼の口がきよめられたことを表しています。それは、神のことばを語るのにふさわしい者となったということです。そんなエレミヤに対して主が言われたことは、「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」ということでした。それは、何を話そうかと自分で考えたり、自分で編み出す必要はないということです。神が与えてくださったことばを語るだけでいいのです。預言者とは「言葉」を「預かる」と書きますが、文字通り神の言葉を預かって語る人のことです。自分がどう思うか、どう考えるかということではなく、神が語れと言われることを語ればいいのです。それは聖書に書いてありますから、聖書のことばを語るだけでいいのです。神は、その語るべきことばさえも与えてくだいます。

 

忘れもしません。私は1983年5月29日の日曜日の礼拝から、ほとんど毎週休みなしで語り続けてきました。それは私たちが結婚した翌日のことでよく覚えています。その前日の土曜日に結婚式を挙げて新婚旅行に行きましたが、翌日は家に戻って来て礼拝をスタートしました。あれから38年。まあよく喋ること、お父さんは口から生まれて来たんじゃないかとよく娘に言われますが、そんなことはありません。私は生まれた時から口が重く、口べたなんです。できれば、貝のように口を閉ざし、ずっと黙っていたいと思っているくらいなんで。誰も信じないかもしれませんが本当です。ただⅡテモテ4章2節の「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」のみことばを読んだとき、「ああ、時が良くても悪くても」語らなければならないと思いました。その使命感だけでずっと語り続けています。できれば、もっと流暢に、もっとおもしろく、もっと感動的な話ができたらなぁと思うこともありますが、そんなの関係ありません。預言者である牧師にとって必要なことはいかに上手に話をするかではなく、主が語れと言われたことを忠実に語ることだからです。何を話すのか、どのように話すのかは全く関係ないのです。語るべきことばは、主が与えてくださいますから、そのことばをストレートに語るだけでいいのです。それが私たちにゆだねられている使命なのです。

 

では、主がエレミヤに語られたのはどんなことだったでしょうか。10節をご覧ください。ここには、「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」とあります。

これはどういうことかというと「破壊」と「建設」です。「さばき」と「回復」です。エレミヤが神のことばとしてイスラエルの民に語ったことは、イスラエルの滅亡の預言と、悔い改めのメッセージでした。罪の悔い改めがなければ、神の赦しと回復はありません。まず引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊します。しかし、それで終わりではありません。主はそこからまた建て、植えられるのです。引き抜かれることがありますが、また植えられます。壊すことがありますが、また建て直してくださいます。言い換えるなら、もしあなたが今、引き抜かれ、引き倒されているような状況に置かれているなら、それはやがて植えられるために必要な過程を通されているということです。その中でこそあなたは悔い改め、やがて植えられることになるからです。ここに真の回復と希望があります。真の回復と希望は、こうした罪の悔い改めの結果もたらされるものであって、それを避けてはならないのです。

 

ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮していました。それでも自分が母親だということは自覚していた母親は、その娘の誕生日に、旅先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子供は、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは自分を創ってくださった神から離れては、どんなに財産があっても、地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。(羽鳥順二著、「初めて聖書を開く人のための12のステップ」P48)

 

私たちもこの映画女優のような仕方で、幸福を得ようしてはいないでしょうか。神から離れたままでは真の幸福を得ることはできません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず・・・」(ローマ3:23)とあります。神から離れているという事実がわからないで、どうやって神のもとに帰ることができるでしょうか。言い換えるなら、自分が罪人であるという自覚がなければ、きよい神を知ることができないということです。先ほどの矢内原忠雄氏はこう言っています。「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとする者はおろかなことである。」

また、宗教改革者のカルヴァンも「人間の罪深さを知らないで、どうしてきよい神を知ることができようか」と言っています。そうです、私たちが自分は罪人だと気づいた時、次の聖書のことばの意味がよくわかるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

 

真の回復は、破壊から始まります。真に植えられることは引き抜くことから始まるのです。罪の自覚と悔い改めなしには、真の赦しはありません。救いと希望はないのです。ですから主はエレミヤに、破壊と建設、さばきと回復のメッセージを語るようにと言われたのです。これが、私たちが語るべき福音のメッセージです。破壊的な働きは人からは好まれません。だれも聞きたくないからです。それで涙することもあるでしょう。でも、真の救いは罪の悔い改めから始まるということを覚えて、この福音のメッセージを語り続けましょう。「まだ若い」と言わないでください。主があなたを遣わすどんなところへでも行き、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。彼らの顔色を恐れるな。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

福音をゆだねられた者 Ⅰテサロニケ2章1~12節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ2章1~12節(テサロニケ講解2回目)

タイトル:「福音をゆだねられた者」

 

きょうはⅠテサロニケ2章から、「福音をゆだねられた者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、このテサロニケの教会の人たちがいかに信仰に歩んでいたかが語られていました。彼らは絶えず、神の御前に、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐をもっていました(1:3)。そのような彼らの姿は、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となりました。いや、それはマケドニヤとアカヤにとどまらず、あらゆる所に響き渡ったほどです(1:6-7)。

 

しかし、そんなにすばらしい教会にもいくつかの問題がありました。それは彼ら自身の問題というよりも、彼らを取り巻く環境の中で、テサロニケの教会を破壊しようとする外からの攻撃でした。それはパウロの働きに対する非難です。たとえば、彼が純粋な動機から神の福音を語っても、中には自分たちを支配しようとしているのではないかとか、献金をだまし取ろうとしているのではないかと言う人たちがいたのです。当時各地を回って偽りの教えを説いていた偽教師たちがいましたが、そうした者たちへの警戒からパウロたちの働きを彼らと同一視し、あしざまに非難するような人たちがいたのです。

 

神によって立てられた者がこのような非難を受けることはイエス様の時代にもあったことで驚くべきことではありませんが、そうしたことが蔓延することは神さまの御名がそしられることになり、出来たばかりのテサロニケの教会が動揺してしまう危険性があったので、どうしても解決しなければなりませんでした。

 

そこでパウロは、神さまの恵みによって成長しているテサロニケの教会がそうした愚かな非難に動揺することなく、立派に成長してほしいという思いから、自分たちは神に認められて福音をゆだねられた者であり、その働きが純粋な動機からなされていることを弁明しているのです。

 

Ⅰ.神によって勇気づけられて(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。「兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。」

 

ここでパウロは、テサロニケの人たちのところに行ったことは無駄にはならなかったと言っています。「無駄」という言葉は、「空っぽ」とか「何もない」という意味です。パウロは、自分たちがテサロニケを訪れたことは無駄ではなかった、つまり実りがあった、価値があった、と言っているのです。なぜでしょうか。彼らのところに行って福音を伝えた結果、教会が誕生したからです。それがテサロニケの教会です。

 

2節には、「私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが」とあります。彼らはまずピリピで苦しみにあい、辱めを受けました。占いの霊に憑かれていた女奴隷からその霊を追い出したことで、もうける望みがなくなった女奴隷の主人から訴えられると、彼らは捉えられ、鞭で打たれ、牢に入れられたのです(使徒16:12~)。「苦しめられ」という言葉は、身体的な苦しみを受けたことを意味しています。また「辱めを受け」という言葉は、人間としての品位や名誉を傷つけられたことを意味しています。そのような苦しみと辱めを受けたことは、パウロが一人でそう思っていたことではなく、ここに「ご存知のとおり」とあるように、それはテサロニケの人たちも認めていたことでした。にもかかわらずパウロたちは、次の伝道地テサロニケに向かい、そこで神の福音を語ったのです。どうしてでしょうか。

 

ここには、「私たちの神によって勇気づけられて」とあります。彼らはそうした激しい苦闘にあっても、神によって勇気づけられていたからです。この「神によって勇気づけられて」とは、「神において勇気づけられて」と訳すこともできます。神さまが私たち一人ひとりに働きかけてくださり、その働きかけに私たちがお応えするという人格的な交わりにおいて、ということです。私たちが神様から勇気を与えられるのは、そのような神との交わりの中で起こってくることなのです。困難の中にあっても、私たちは神様との交わりの中で、神様から勇気を与えられるのです。皆さんも、そのような経験があるのではないでしょうか。それがなかったら福音宣教を続けることはできません。それを可能にしたのは、神様まとの人格的な交わりの中から与えられる勇気と力、助けと励ましがあったからなのです。

 

私たちは厳しい状況に直面すると、なんとか自分の勇気を振り絞り、その状況を打開しようとします。それは必ずしも悪いことではなく、その状況に責任感を持って真剣に向き合おうとしていることでもありますからそれ自体はいいのですが、しかし私たちは、そのようなときに、しばしば神様なしに状況を打開しようとするのです。神様との交わりの中で厳しい状況に向き合っていくのではなく、神様との交わりを放り出して、自分の力でなんとかしようとするわけです。しかし私たちが自分の力で勇気をいくら振り絞っても、その勇気はあっという間に枯渇してしまいます。それどころか、神様との交わりを持たない頑張りというのは、御心に従うためのものではなく、自分の思いを実現するためのものとなってしまうのです。ですから私たちは厳しい状況であればあるほど、神様との交わりの中に留まらなければなりません。そして、神様の語りかけを聞き、私たちも祈りにおいて神様に語りかけていかなければならないのです。その交わりにおいてこそ、私たちは勇気を与えられるからです。

 

厳しい状況の中にあって、神様との交わりにおいて勇気を与えられたパウロたちは、テサロニケの人たちに「神の福音」を語りました。1章の終わりで語られていたように、その「神の福音」によって、テサロニケの人たちは、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、御子キリストが再び来られるのを待ち望みつつ生きるようになったのです。

 

私たちもパウロたちのように、福音を宣教するにあたり厳しい状況に直面することがあります。昨年から続いているコロナ禍の状況もそうかもしれません。多くの教会では礼拝に集まることさえ制限される中で、どのようにして宣教活動を継続していったらいいのか葛藤しています。しかし、本当の問題はコロナではなく、教会とは何なのか、その本質的なことではないでしょうか。すなわち、教会とは神の家族であって、礼拝に集まったかどうか以上のことです。勿論、教会の礼拝はとても重要なことですが、それ以上に、教会は神の家族なのです。そうであれば、たとえ礼拝に集まることができなくても、何らかの形で家族としての絆を大切にし、それを求めるのではないでしょうか。もし教会が神の家族としてしっかりと結びついているなら、たとえ厳しい状況の中でも神の福音を宣べ伝えることができるはずなのです。

 

では、それを阻害するものがあるとしたら、いったいそれは何なのでしょうか。福音宣教における真の問題とは何なのか。罪です。神から離れたこの世です。特に、インターネットの影響は大きいものがあります。インターネットの進歩によって神から離れた価値観がもの凄い勢いでこの世を覆っているからです。インターネットで検索すれば、何でも調べることができます。わざわざ教会に行く必要がありません。家にいても礼拝することができるし、聖書についてわからないことがあれば調べることができます。教会がなくても自分で礼拝できると思うようになりました。個人主義と呼ばれるものです。この個人主義がもたらす影響がどのようなものかは教会のみならが、この社会全体に大きな混乱をもたらしています。そうした中で伝道することはどんなに大変ことでしょうか。

 

しかし、先週の礼拝でもお話したように、私たちがクリスチャンとして真に成長していくためには神のみことばの乳を慕い求め、神が備えてくださった霊の武具を身に着けなければなりません。そして、聖なるものとされたすべての人々とともにいることが求められるのです。それは教会のことです。そこに身を置くことが必要なのです。私たちは、自分の力でこの厳しい状況を打開しようとするのではなく、なによりもまず神様を見上げなければなりません。そして状況を打開する具体的な対策や計画を考えるよりも先に、礼拝において神様と交わり、神様の語りかけを聞く中で神によって勇気づけられて、聖なるものとされた人々とともに、神の福音を語り続けていく必要があるのです。そこに神が働いてくださり、ご自身の救いの御業を成してくださるのです。

 

先週は大田原教会で二つの葬儀が行われました。1週間に二つの葬儀を行ったのは、私の38年の牧会生活の中で初めての経験でしたが、どちらの葬儀も参列したご親族が慰められ、福音が証される良い機会となりました。

2つ目の葬儀が終わった日の午後に、主がこの葬儀を通して証してくださったことを感謝し、1人で会堂の片付けをしていると、1本の電話がありました。

「・・と言いますが、どうしたら教会に入れますか」という電話でした。いきなり「どうしたら教会に入れますか」ということばに面喰ってしまいました。でも冷静になってお話を伺うと、教会のすぐ近くに住んでおられるというので、できればお会いしてお話を聞いた方がいいかなと思い、「教会に来られますか」と聞くと、「はい、大丈夫です。今からでもいいですか」と言うので、「はい、どうぞ」と言うと、3分後にはいらっしゃいました。教会のすぐ近くのアパートに住んでおられる方だったのです。

それでお話を伺うと、数年前から鬱になり近くの病院にかかっているということでした。でも全然よくならなくて悩んでいたとき、ちょうど教会の前を通りかかったら外国人の方々が教会から出てくるところで、みんな楽しそうに会話しているのを見て、自分も教会に行ってみたいと思うようになったとのことでした。

私はびっくりしました。私は英語礼拝部の方々には外ではあまりはしゃがないでくださいとお願いしていたのに、そのはしゃぐ姿を見て感動したというのですから。そしてそのタイミングもすごいですね。彼女が教会の前を通りかかったとき、ちょうどそのとき英語礼拝部の方々が教会から出てきたのです。それは神さまのお導き以外の何ものでもないと思いました。もし、私などが教会から出てきたらそうは思わなかったかもしれません。

それで、いろいろお話をお聞きし、イエス様を信じ、いつまでも変わらない神のことばに信頼するなら絶対大丈夫、必ず神様があなたを救ってくださいますお話すると、急に希望が与えられたのか目が輝き出し、今週から聖書の学びを始めることになったのです。

確かにこのコロナ禍においては伝道や礼拝など教会の活動には制限もありますが、私たちはそうした中にあっても、私たちの神によって勇気づけられて、神の福音を語り続けることができるのです。

 

Ⅱ.人を喜ばせるのではなく、神に喜んでいただこうとして(3-6)

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここにはパウロがどのような動機で福音を語っていたのか。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。」

 

ここでパウロは、自分たちの宣教について三つのことを否定しています。まず第一に、彼らの勧めは誤りから出ているものではない、ということです。「誤り」とは、聖書の真理からさまよって、自分の意見を語ることです。しかし彼らの勧めは聖書の真理から出たものでした。その真理とは、キリストの十字架に示された神の愛の真理です。パウロたちは、彼らの宣教において、神の愛の真理について誤りがなかったのです。どのような状況にあっても、どのような相手に対しても、神様がこの世へと御子を遣わし、その御子を私たちのために十字架に架け、復活させたことに示される神の愛の真理を宣べ伝えたのです。

 

第二に、彼らの勧めは「不純な心」から出たものではありませんでした。不純な心とは純粋な心でないことです。つまり彼らの勧めは、純粋な動機から出たものだったのです。

 

第三に、彼らの宣教、彼らの勧めは「だましごと」でもありませんでした。だましごととは、人をだますような話のことです。実際はそうではないのに、あたかもそうであるかのように装うことです。この「だましごと」と訳された言葉は「策略」とも訳すこともできる言葉で、他の聖書の訳では「策略によるものでもありません」と訳されています。ここで「だましごと」が、具体的に何を意味しているかははっきりしませんが、相手に気に入られようとする思い、あるいは相手から見返りを得ようとする思いなのかもしれません。また、策略によらないと言われているのは、当時、巧みな言葉を使って、価値のないことを価値があることのように宣伝する策略を用いる詭弁家、偽説教者がいたことを示唆しています。しかしパウロたちの伝道はそのような策略によるものではありませんでした。いえ、そのような策略など必要なかったのです。なぜなら、神の福音は価値のないものではなく、価値があるように見せかける必要も全くなかったからです。神の福音こそが、私たちを救い生かすのです。「だましごと」にしても、「策略」にしても、それは人間の思いです。しかしパウロたちの宣教は、人間の思いによるものではなかったのです。

 

4節をご覧ください。ここには、「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」とあります。パウロたちは、「人に喜ばれるためではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただこうとして」神の福音を語っていました。それこそ、神に認められて福音を委ねられた者のあるべき姿です。その動機がどこにあるかが問われているのです。彼らは決して人を喜ばせようとして語ることはしませんでした。むしろ神に喜んでいただこうとして語ったのです。なぜなら神は、私たちの心をお調べなさる方だからです。

詩篇139編23~24節にはこうあります。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

神様は私たちの心を探り、知っておられます。どんなに顔に出したり、口に出したりしなくても、どんなに上手に繕ったとしても、神は私たちの心のすべてを知っておられるのです。人は欺けても神を欺くことはできません。

 

私たちはしばしば神様に喜んでいただくよりも、人に喜ばれることを願います。人に喜ばれることは悪いことではありませんが、しかし神を忘れ人に喜ばれることばかりに心を奪われると、そのことに囚われて、どうしたら相手が喜んでくれるかということばかり考えるようになります。すると相手が喜びそうなことを言ったり、相手に合わせて、相手が喜んでくれるように振る舞ったりしてしまうのです。意識してもしなくても、そこには相手を喜ばすための「策略」が潜んでいることがあるのです。たとえそれで相手が喜んでくれたとしても、「よこしまな思い」や「策略」によって相手を喜ばそうとすることによって、キリストによる救いを証しすることはできません。なぜなら、神様を無視して人を喜ばせようとしても、そこに神の愛の真理はないからです。

 

それは人に喜んでもらうことや自分自身の満足などはどうでもいいということではありません。そのように極端に考える必要はないのです。神を喜ばせることを第一にするなら、その結果として、必ず人にも、自分にも正当で十分な喜びと満足が与えられるからです。ただ、ここで言いたいのは、喜ばせるという動機がどこから出ているのかということです。もしそれが人を喜ばせようとするだけのものであれば、どうしてもそこには人におもねる心やへつらいの態度が現れてくることになります。ですから、そこには何一つ良いものは生まれてこないのです。神様との正しい関係があってこそ、人との正しいあり方が生まれてくるからです。

 

パウロは、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。こんなこと言ったら相手が不快に思うのではないか、もしかすると嫌われるのではないかという心配もあったでしょうが、神の福音をゆだねられた者として、それにふさわしくはっきりと語ったのです。

 

伝道者にとって最大の誘惑の一つは、聞く人に気に入られるように語ることです。厳しいさばきのことばや罪について語るのを避け、奇跡をそのまま述べることをためらい、当たり障りのない、相手に合わせた福音を、まぁ、こういうのは福音とは言いませんけれども、そうした教えを語ろうとするのです。しかしパウロはそうした誘惑に負けませんでした。5節にあるように、彼は、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。もしパウロが町の人たちに取り入ろうとして伝道していたら、迫害や反発は起こらなかったでしょうが、けれども、その代わりに困難な中でも明確に救われて、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになる人も起こされなかったでしょう。しかし彼は、そうしたへつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。彼は神に認められた者にふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神に喜んでいただこうとして、神の福音を語ったのです。

 

これは私たちの模範とすべき姿です。伝道するのが厳しい状況かもしれません。私たちの証しが拒まれることもあるかもしれません。けれども私たちは、神様との交わりに生きる中で、神様から勇気を与えられ、厳しい状況の中にあっても、キリストの十字架と復活による救いを証ししてい者でありたいと思います。その救いの恵みによって、本当の喜びが与えられていくからです。

 

Ⅲ.母のように、父のように(7-12)

 

第三に、7~12節をご覧ください。ここには、パウロがテサロニケの人たちにどのようにふるまったのかが記されてあります。「キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」

 

人は子供が生まれて親になると、喜びとともに子供を育てる責任を感じます。テサロニケで多くの霊の子供たちが生まれると、パウロはその親として彼らの養育に全力を注ぎました。彼はどのように彼らを養育したでしょうか。7節には、彼はキリストの使徒として権威を主張することもできましたが、彼らの間では幼子のようになったとあります。彼は、キリストの使徒としての権威を主張して重んじられることもできましたが、その権威に固執せずく、彼らの間ではただ神様の憐れみと恵みによってのみ救いに与ることができる弱く小さな者として、福音を証しし宣べ伝えたのです。それは母が我が子を養い育てるようにです。母が自分の子を養い育てるように優しくふるまいました。ここには、無条件に子供を包み込む母親の姿があります。そればかりか、自分のいのちまでも、喜んで与えたいと思っていました。それほど彼らを愛していたのです。

 

旧約聖書に描かれているイスラエルの神にも、このような側面が描かれています。たとえば、イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。また、詩篇131篇2節にも、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」とあります。

まことに神は、母親のように慰め、無条件の愛で包み込んでくださる方です。その神の愛でパウロは優しくふるまったのです。それは8節にあるように、彼らのことを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで彼らに与えたいと思ったほどです。ここで彼は自分と子供を同一化しています。自分のいのちまでも与えたいと思うほど愛していたのです。

 

そうかと思えば、11節、12節にあるように、父親がその子供に対して接するように接しました。すなわち、「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩よう、勧め、励まし、厳かに命じ」たのです。これは威厳を持って子供たちを正しい道に導き、訓戒する父親の姿です。このような父親の愛は「あなたがた一人ひとりに」とあるように、一人ひとりを重んじ、ねんごろに教え諭すという愛でした。決して十把一からげに訓戒するというものではありませんでした。一人ひとりに、丁寧に、時間をかけて、細かな点にまで配慮して成されたのです。このようなことのためには相当の時間と労力が必要だったのではないかと思います。私も牧師としてこのように御言葉の奉仕に仕えさせていただいておりますが、実はこうした説教の奉仕は全体の働きの一部であって、全体の運営や一人一人の牧会のことなど、やるべきことがたくさんあります。勿論、礼拝の説教やみことばの奉仕はとても大切なので、このためにも相当の時間を割いて準備にあたっていますが、こうしたみことばの奉仕に加え、一ひとりの必要に応え、一人ひとりがみこころにかなった歩みができるように助け、励まし、導きを与えていけるように祈り、配慮したいと思っています。それはいくら時間があっても足りないくらいです。

 

ましてパウロは9節を見ると、誰にも負担をかけないように、昼も夜も働きながら、神の福音を彼らに宣べ伝えたとあります。まさに神業です。どうやってそんなことができたのか。考えられません。私たちの何倍もの働きをしていた彼が、経済的な負担をかけまいと、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えたのです。まさに親心です。親は子どもにはできるだけ負担をかけないようにと、自らが負担して、それでも喜んで子どものために自分をささげます。そんな親心をもってみことばを宣べ伝えたのです。

 

彼は後にエペソの長老たちに説教したとき、このように言いました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:31)それはまさに涙とともになされた祈りの訓戒だったのです

 

このようにテサロニケでのパウロ働きには母親のような優しさと、父親のような厳かさがありました。この両面があってこそ、テサロニケの教会は大きく成長することができたのです。それは今日の教会にも言えることです。今日の教会もこの両面がないと、健全な成長は望めません。ともすれば優しすぎたり、厳しすぎたりのどちらか一方に走ってしまい、そのバランスを欠いてしまいがちになりますが、厳しさの中にも優しさがあり、優しさの中にも厳しさもあるといったバランスが求められているのです。

 

人間が成長するということは決まった材料を与えれば同じ結果が出てくるというようなものではありません。確かに子供が正しく成長していくためには、できるだけ良い環境に置くことが求められますが、最も大切なことは、母親のやさしさと父親の厳しさのバランスが必要であるということです。それはキリストの教会にも言えることです。教会もやさしさと厳しさのバランスがあってこそ健全に成長していくのです。パウロは母親のように優しくふるまい、父親のように御国に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

 

ですから、パウロの伝道はまやかしやだましごとでも、何でもありませんでした。彼は純粋な心で、ただ神を喜ばせようとして語りました。たとえそこにどんな労苦と苦闘があっても、敬虔に、正しく、まただれからも責められるところがないようにふるまったのです。

 

それは、私たちの模範でもあります。福音宣教の働きには必ずこのような非難や中傷、誤解も伴うことがありますが、そのような中にあっても私たちは常に純粋な心で、人を喜ばせようとしてではなく、ただ神に喜んでいただくために語るという姿勢を忘れないようにしたいものです。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

 

主イエスよ、来てください 雅歌8章8~14節

聖書箇所:雅歌8章8~14節

タイトル:「主イエスよ、来てください」

 

 雅歌からの最後のメッセージです。雅歌の最後の最後は、「私の愛する方よ、急いで来てください。」という花嫁のことばで終わっています。聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後も同じです。花婿であるキリストに対する花嫁のことば、キリストの花嫁であるである教会のこのことばで終わっています。「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)

 

ここに、私たちの見るべき目標があります。私たちはどこに向かって走るのか、何のために走るのかを知ることはとても重要なことです。聖書はそれを、主イエス・キリストを待ち望むことであると言っているのです。使徒パウロもこのように言っています。

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)

彼の生きる目標は何だったのでしょうか。それは天の御国でした。そこから主イエスが救い主として再び来られるのを待ち望んでいたのです。なぜなら、そのとき主イエスは私たちの卑しいからだを、栄光に輝くキリストのからだと同じ姿に変えてくださるからです。これが花嫁である教会、私たちクリスチャンの究極の目標です。

この地上にあっては艱難があります。様々な災害があれば病気もあります。私たちはその度に悩み、苦しみ、最後にはその生涯を終えるのです。であれば、いったいどこに生きる意味があるというのでしょうか。私たちは何のために生きるのでしょうか。それはこの地上を越えた天の御国、キリストの再臨を待ち望むことにあるのです。私たちも「主イエスよ、来てください。」という再臨の信仰をもって主を待ち望まなければなりません。

 

 Ⅰ.私は城壁、その乳房はやぐらのよう(8-10)

 

今日の御言葉を見ていきましょう。まず8~10節をご覧ください。「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

ちょっと読んだだけでは何のことを言っているのかわかりにくい文章です。ここに「私たちの妹」とありますが、これまで妹のことについては全く触れられていませんでした。この妹とはだれのことなのか。花嫁の妹のことです。花嫁が妹のことを心配して、自分の兄たちと一緒に、妹が結婚するまでどうやって妹の純潔を守って上げることができるかと心配しているのです。これは霊的には未熟なクリスチャンのことを指しています。外からの攻撃に何の防備もできていないのです。

 

そんな花嫁の問いに対して、兄たちはこう答えます。9節です。「もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」どういうことでしょうか。

「城壁」とは、自分たちの城を守る防壁のことです。また「胸壁」とは、その城壁に付いている砦のことです。その砦が付くことによって、より一層防備を固めることができます。すなわち、妹がどんな男も寄せ付けない強い意志を持っているなら、城壁の上にさらに胸壁を建てて、守りをしっかりと固めようと言っているのです。

一方、「彼女が戸だったら」どうでしょうか。「戸」というのは、家の中に何でも取り入れてしまう弱い心を表しています。すなわち、自分で心と体のドアを簡単に開けてしまう脆(もろ)さを持っている状態のことです。もし彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう、つまり彼女を囲んで守ってあげよう、というのです。

 

あなたは城壁ですか、それとも戸ですか。私たちは城壁なのか戸なのかによって、その結果が決まります。主イエスとの関係を城壁のようにしっかりと守るなら、私たちは安心して過ごすことができます。それは10節に「私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」とあるように、主の目に平安をもたらすような存在となるからです。

 

しかし、逆にあなたが戸であるならば、すなわち、霊的貞潔を守らずに、来るものは拒まずで、何でも簡単に取り入れてしまうようであるなら、主イエスとの関係が損なわれ、主から離れてしまうことになります。ですから、私たちは城壁になるように心がけたいと思います。そうすれば主は必ずあなたを盤石にし、ますます強固にしてくださいます。

 

10節をご覧ください。「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

これは花嫁のことばです。彼女はここで、「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。」と言っています。つまり、私は強い意志で貞潔を守ってきたと言っているのです。キリストの花嫁である教会もそうでありたいですね。

 

イエス様はそのような教会は、「ハデスの門もそれには勝つことができません。」(マタイ16:17)と言われました。「それには」とは、岩の上にしっかりと建てられた教会のことです。「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して止まない教会は、岩の上に建てられた家のように、どんな強敵が襲ってきてもビクともすることがありません。もしかするとあなたはそのように感じていないかもしれません。私はすぐに誘惑に負けてしまうような者で情けないなぁとか、ふがいないなぁと思っているかもしれませんが、しかし城壁があるなら大丈夫です。イエス・キリストという岩の上にしっかりと建てられているなら、主が必ず守ってくださるからです。

 

また、ここには「私の乳房はやぐらのよう。」とあります。この「乳房」とは、成熟を表しています。9節には妹の乳房についての言及がありましたが、妹の乳房はどうだったかというと、「乳房はない」とありました。すなわち、成熟していなかった、未熟だったというのです。それに対して、姉である花嫁の乳房はどうであるかというと、あるというだけでなく「やぐらのよう」と言われています。やぐらのように堅固であるということです。そのために花婿に、平安をもたらす者のようになったのです。

 

私たちもクリスチャンとして成長すればするほど、やぐらのように強い信仰を持つことができるようになります。そうなれば、花婿キリストに平安をもたらす者になることができるのです。どうしたらそのような者になることができるのでしょうか。

 

第一に、みことばを慕い求めることです。Ⅰペテロ2章1~2節にこうあります。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

「霊の乳」とはみことばのことです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めることです。そうすれば成長し、救いを得ることができます。

 

第二に、キリストのからだである教会に身を置くことです。使徒20章32節にはこうあります。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」

これはパウロのことばです。パウロはミレトの港にエペソの長老たちを集めて言いました。何が彼らを成長させ、御国を継がせることができるのか。「みことば」です。みことばが、あなたがたを成長させてくださいます。しかしその後にとても重要なことを語っています。それは、「聖なるものとされたすべての人々ともに」ということです。「聖なるものとされた人々」とは、クリスチャンのこと、すなわち、クリスチャンたちの群れである教会のことを指しています。そのようなすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。「いや、私は家で一人で聖書を読んでいるので大丈夫です」とか、「私は聖書のメッセージをインターネットで聞いています」という方もおられますが、それでは御国を継がせていただくことはできません。勿論、一人で聖書を読んだり祈ったりすることは大切なことです。でもそれで十分かというとそうではなく、私たちは常に「聖なるものとされたすべての人々」とともにあることが必要なのです。そうすれば、御国を継がせていただくことができます。やぐらのような乳房になることができるのです。これが、聖書が教えていることです。

 

第三に、神の与えてくださるすべての武具を身につけることです。エペソ6章10~11節にはこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」

使徒パウロはここで、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさいと勧めています。それはどんな武具なのかというと、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべての上に信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢を消すことができるからです。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。そしてどんなときにも御霊によって祈らなければなりません。そうすれば、悪い者が放つ火矢を消すことができるのです。

 

あなたはどうですか。神のすべての武具を身につけていますか。それは高いお金を払って勝ち取らなければならないというようなものではありません。イエス様を信じる者にはだれにでも備えられているものです。ただで受け取ることができます。問題は、あなたがそれに関心をもっているかどうかです。キリストの花嫁は城壁、乳房はやぐらのようです。私たちも神が備えてくださるすべての武具を身に着け、どんなに敵が攻撃して来てもビクともしない堅固なやぐらのように、成熟したクリスチャンになることを求めていきたいと思います。

 

Ⅱ.花婿の愛に応えて(11-13)

 

次に、11~13節をご覧ください。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」

 

これは花嫁のことばです。花婿ソロモンは、バアル・ハモンという所にぶどう畑を持っていました。それを農夫に貸して、ぶどうの収穫に代えて、それぞれに銀千枚を納めさせていたのです。いわゆる小作料ですね。

 

そして、花嫁自身もぶどう畑をもっていました。12節の「私」とは花嫁のことです。彼女はかつてぶどう畑で働く労働者でしたが、ソロモン王と結婚したことで、ソロモンの妻、妃となりました。しかし、なぜかここで彼女はソロモンに銀千枚を納め、そこで働く労働者たちには銀二百枚を支払うと言っています。でも彼女は小作人ではありません。彼女はソロモン王の妻です。王妃です。であれば、ソロモン王のものはすべて自分のもとでもあります。夫に支払う義務などないのです。私は妻の財布からは取りませんが、妻が支払ったものを支払うようなことはしません。妻のものは私のもの、私のものは私のもの・・・。しかも夫のソロモンは広大なぶどう畑をもっていましたから、妻からお金をもらうなんて必要もなかったのです。にもかかわらず、彼女は夫に銀千枚を支払うと言っているのです。また、その実を守る者には銀二百枚与えるというのです。どういうことでしょうか。

 

これは彼女がそうしなければならないという義務があったからではなく、彼女が自分からそうしたいと願っているのです。またその実を守る者とは、そのぶどう園で働く労働者のことですが、それは彼女の兄たちのことです。兄たちは自分をちゃんと育ててくれたのでその報奨金として、銀二百枚を与えたいと言っているのです。それは義務ではなく、彼女の心からの願いから出たことだったのです。

 

このことは、私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちもイエス様を信じてイエス様の花嫁となりました。それで今はこうしなければならないという律法から解放されて自由となりました。イエス様が律法から解放してくださったからです。私たちは今律法の下にではなく、恵みの下にいるのです。すべての律法や義務から解放されたのです。しかしそれは私たちが何をしてもいいということではなく、そこには責任が利根なうことを意味しています。その責任とは何でしょうか。それは、そのように解放してくださった主に感謝して生きるということです。そこには当然感謝と喜びが溢れ、それに応答したいという思いが生まれてくるからです。つまり律法はささげることを要求しますが、一方で、愛は自発的にささげることで応答するということです。この違いがわかるでしょうか。要求と応答は全く違うのです。

 

こうして私たちが主を礼拝しているのは、要求ではなく応答です。主が私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して主を礼拝したいのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさいという主の戒めを、愛の応答として実践したいのです。出エジプト記20章に、有名なモーセの十戒があります。その十戒の前提がこれなのです。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。」(出エジプト記20:2)

だから、それはもう律法ではないのです。主は「わたしの他に、ほかの神々があってはならない」とか「自分のために偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と仰せられましたが、それは主が彼らをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったから、罪の奴隷の中から救い出し解放してくださったからです。つまり、この主の愛に対する応答としてなされる行為であるということです。だから、喜んで礼拝をささげたい、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するのです。

 

聖書にはマグダラのマリヤという一人の女性のことについて記されてあります。彼女は最後まで主に従った女性たちの中の一人です。彼女はイエス様が十字架につけられた時もそこにいました。また埋葬の様子も見届け、そして、週の初めの日の明け方早く主イエスの亡骸がおさめられてあった墓に向かいました。そんなことをしたら捕まるかもしれないのに、そんなことをしたら処刑されるかもしれないのに、だれよりも先にイエスに会いたいという一心で墓に向かったのです。なぜでしょうか。

それは、主に愛されたからです。ルカの福音書を見ると、彼女は七つの悪霊に憑かれていたとあります(ルカ8:2)。七つの悪霊ですよ、一つの悪霊でも大変なのに、彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは完全にという意味です。聖書で「7」という数字は完全を表していますから。彼女は完全に悪霊に取り憑かれていたのです。その結果、ありとあらゆる罪に陥ってしまいました。自分でも何をしているのかわかりませんでした。誰も彼女を救うことができませんでした。しかし彼女はそこから解放されました。主が彼女から悪霊を追い出してくださったからです。主が彼女を救ってくださいました。それで彼女はそのイエスの愛に応えたかったのです。その結果彼女は、最後まで主に従って行ったのです。喜んで・・。

私たちも同じです。私たちもかつては神に背き、自分勝手に生きていた者でした。かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として不従順の子らの中に今も働いている悪霊に従って歩んでいました。その結果、何が何だかわからず、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、神の御怒りを受けるような者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。アメージング・グレースです。それゆえに私たちは、このアメージング・グレースに応答して、心から主を愛する者でありたいと思うのです。

 

Ⅲ.私の愛する方よ、急いでください(14)

 

最後に14節をご覧ください。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」

 

これも花嫁のことばです。ここで花嫁は花婿に言っています。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと」。「かもしかのように」とか「若い鹿のように」とは、軽快に山を跳び越え、丘の上を跳ねて来る様を表しています。そのように来てくださいと言うのです。

 

これは、キリストの花嫁である私たち教会の祈りでもあります。Ⅰコリント16章22~24節をご覧ください。ここには、「主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。「主よ、来てください。」は、アラム語で「マラナ・タ」と言います。これは初代教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言えます。

 

「主よ、来てください」という意味のこの「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りであったということは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、初代教会の信仰の中心であったということです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコ13章24~27節に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。

「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」

「人の子」とは主イエスご自身のことですが、世の終わりに、人の子であられるイエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度この世に来られ、選ばれた人たち、救いにあずかった者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。

また使徒1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主イエスがもう一度来て下さること、即ち主イエスの再臨を待ち望んでいたのです。

 

したがって「マラナ・タ」ということばは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りなのです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられがちですが、そういうことではありません。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエスが聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さると信じています。しかしこの「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りだったのです。

 

そして、この祈りは新約聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章20節にも出てきます。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(黙示録22:20-21)

ここには「マラナ・タ」という言葉ではありませんが、同じ意味の祈りです。「主イエスよ、来てください」これが聖書の一番最後に書かれてあるのです。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいでしょう。つまりこれが聖書の締めくくりとして、神様が一番強調したかったことなのです。「私の愛する方よ、急いでください。」「主イエスよ、来てください。」「マラナ・タ」

 

なぜこれが最も重要な祈りなのでしょうか。それは主イエスが再び来られるとき、罪によって壊滅状態になってしまったこの世を刷新してくださるからです。今の世の中を見てください。昨年からのコロナ感染によって全世界が悲鳴を上げています。いつまで続くのか、どこまで続くのか、みんな不安になっています。アメリカと中国の緊張関係はどうでしょう。いつ戦争に発展するかわかりません。今度世界戦争が起こったら核戦争となり、取り返しがつかないことになってしまいます。世界の環境はどうでしょうか。今イギリスでCOP26が行われていますが、世界がひとつとなって取り組むべき課題として、この気候変動対策があげられています。このような問題は永遠に続きます。私たちの生活はどうでしょうか。悩みや苦しみは絶えることはありません。一難去ってまた一難です。いったいどこに希望があるのでしょうか。罪によって汚されたこの世には、どこにも希望はありません。

 

しかし、ここに希望があります。それはイエス・キリストです。主イエスが来られるとき、主はすべてを新しくしてくださいます。私たちをご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちの究極的な希望なのです。私たちに必要なのは、コロナ感染や自然災害、戦争の不安に脅えることではなく、またそれを人間の力によって解決しようとすることではなく、そうした努力をしつつも、この世界を創造された方、万物の支配者であられる神に立ち返ることです。神の救いを待ち望むことなのです。それが「マラナ・タ」「主よ、来てください。」という祈りなのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)

その上で、主の再臨を待ち望むのです。そうすれば、主がこの世界を刷新し、完全な御国をもたらしてくださいます。真の平和を与えてくださるのです。

 

明日、教会でインド人のルイバ・ラムチャンという方の葬儀が行われます。かつてアジア学院で働いておられた奥様とテモテ先生がお知り合いであったことから、そして、ルイバさんご自身がインドで熱心なバプテスト教会の信者さんであったことから、ここでやってほしいとの依頼があったのです。私は生前のルイバさんとお会いしたことがありませんが、インドで農業をしながら人々に貢献したいと、アジア学院で農業を学び、また南那須にある養豚場で研修を受けて帰国後、インドで十数年間村の開発に尽力しました。しかし、数年前に咽頭がんを発病しインドのニューデリーの病院で治療していましたが、日本で治療した方がいいのではないかと4年前に再入国して治療を続けていました。

召天される数時間前に奥様とのビデオ通話でルイバさんのことをお聴きしました。それによると、ルイバさんは神がともにいてくださるので大丈夫と言っているとのことでした。毎日聖書を読み、神に祈り、すべてを神にゆだねているとのことでした。ご主人は熱心なクリスチャンでインドのバプテスト教会に通っていたので、神がともにおられることを感謝しているとおっしゃっておられました。もう大きくなられた3人のお子様を残して天国に行かれるのは残念なことだったでしょう。結婚されるまで生きていたかったに違いありません。しかしルイバさんにとっての何よりの希望、それは主がともにいてくださるということだったのです。

 

皆さんの希望は何ですか。どこに希望があるのでしょうか。私たちにはいろいろな希望がありますが、これこそ究極的な希望です。主イエスよ、来てください。マラナ・タ。キリストの花嫁である私たちクリスチャン、教会にふさわしい祈り、それは「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りなのです。これが、雅歌を通して神が私たちに伝えたかったことなのです。

愛は死のように強く 雅歌8章5~7節

聖書箇所:雅歌8章5~7節

タイトル:「愛は死のように強く」

 

 いよいよ雅歌からのメッセージも、今回を含めてあと2回となりました。きょうのところからまた場面が変わります。最後の場面です。きょうは、「愛は死のように強く」というタイトルでお話します。

 

 Ⅰ.そこは産みの苦しみをした所(5)

 

まず、5節の前半の部分をご覧ください。「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう。」

 

これは、エルサレムの娘たちのことばです。3章6節にも「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とありましたが、それは花嫁ことを指していました。花嫁は荒野から上って来る者です。それはキリストの花嫁であるクリスチャンのことを指しています。クリスチャンは罪の荒野から上って来た者なのです。キリストが私たちを罪の荒野から救い出してくださいました。その特徴は何かというと、「自分の愛する方に寄りかかって」いることです。キリストの花嫁であるクリスチャンは、愛する主に寄りかかって荒野から上って来るのです。感謝ですね。

 

そして、5節の後半をご覧ください。ここには「私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた。そこは、あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」とあります。これは花婿のことばです。花婿が花嫁に、私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた、と言っているのです。どういうことでしょうか。

 

このりんごの木の下とは、花婿と花嫁が出会った場所です。そのりんごの木の下で花婿は彼女の目を覚まさせました。そこはどういう所ですか。「そこは、あなたの母があなたのために、産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」です。つまり、そこは彼女が生まれた所です。それは、クリスチャンにとっては十字架のことであると言えます。私たちはそこで新しく生まれ、目を覚まさせていただきました。それまでは、自分は何一つ悪いことなどしたことがないまともな人間だと思っていたのに、十字架の下でキリストに出会ったとき、「ああ、私は本当に罪深い人間だ。そのためにイエスが身代わりとなって死んでくださったんだ」ということがわかったのです。それまではわかりませんでした。自分ほど良い人間はいないと思っていたのです。私たちはみなイエス様に出会うまではそのように思っています。しかしイエス様に出会い、イエス様が産みの苦しみをしてくださった所で、私たちの目が覚ましていただき、はっきりわかるようになりました。そして私たちは、新しく生まれ変わることができたのです。そこがあなたの生まれた所。そこがあなたの信仰の原点なのです。

 

私たちはイエス様と出会った木の下で自分の罪に向き合うとき、そして私たちを産んでくださった十字架の下に近づくとき、そこで信仰の原点を見出すことができるのです。もうこの方から離れません。本当の意味での花婿イエス様との人生のスタートを切ることができるのです。あなたはどうでしょうか。

 

Ⅱ.愛は死のように強く(6)

 

次に、6節をご覧ください。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」

 

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。」と言っています。「封印」とは、手紙などの封じ目に印を押すことです。実際には、封じ目に「〆(しめ)」とか「封(ふう)」、「緘(かん)」などと書いたり印を押したりしますが、あれです。その封印には二つの意味がありました。

 

一つは決して解かれることがないということです。ですからここで花嫁が「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」と言っているのは、互いの愛が決して解かれることがないようにしてくださいということです。私はあなたのものです。そしてあなたは私のものです。私たちは互いのものなのです。それはもう解かれることはありません。たとえ死んでも、です。花嫁はここで「愛は死のように強く」と言っているのはそのことです。彼女の愛は死んでも解かれることがありません。それほど強いのです。すごいですね、夫婦は生きている間だけでもフーフーしているのに、死んでも解かれたくないと強く願うほどの愛を持っているのですから。決して離れることがないように、決して解かれることがないように、あなたの胸にしっかり刻み付けてください。あなたの腕にしっかり押印してくださいと切望しているのです。

 

「封印」のもう一つの意味は、契約の確かな保証です。封印とは「証印」と訳すこともできます。はんこですね。それは、契約の確かな保証を表しています。私たちも何らかの契約をするとき互いに押印しますが、それはその契約の確かさを保証しているわけです。ですから「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」とは、自分をはんこのように花婿の胸に、花婿の腕に押してくださいということです。どんなことがあっても決して離れることがないと保証してくださいと願っているのです。

 

私たちにもそのようなはんこが押されているのを知っていますか。エペソ1章13~14節にこうあります。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

ここには、「約束の聖霊によって証印が押されました」とあります。私たちは真理のことば、救いの福音のことばを聞いて信じたとき、約束の聖霊が与えられました。その聖霊によって証印を押されたのです。それは、私たちがどんなことがあっても天の御国を受け継ぐことができるという保証です。人間の約束ならば、状況が変われば契約も破棄されるということもあるかもしれませんが、神であられる聖霊様が保証しておられるのであれば、どんなことがあっても大丈夫です。救いを失うことは絶対にありません。イエス様を信じる者はだれでも救われ、天国に行くことができるのです。聖霊によってその証印が押されています。私たちはいい加減なもので、イエス様を信じてからも罪を犯すような弱い者ですが、それでも救いを失うということは決してありません。罪を悔い改めて神に立ち返るなら、神はどんな罪でも赦してくださるのです。

 

アメリカ人女性が作った詩で「あしあと」という詩があります。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

 

何度か紹介したことがある詩です。何度読んでも励まされます。なぜなら、ここには変わらない神の真実が描かれているからです。私たちは感情的なもので、状況によって主が共にいてくださると喜んでみたり、どこかへ行ってしまったと悲しんだりすることがありますが、主は決して約束を反故にすることはされません。すべての道においてともに歩まれると約束された方は、どんなことがあっても離れることはないのです。なぜなら、聖霊によって証印を押してくださったからです。聖霊による愛の関係は、決して絶えることがないのです。愛は死のように強いからです。

 

ところで、ここには「ねたみはよみのように激しいからです」ともあります。愛は死のように強いというのはわかりますが、ねたみはよみのように激しいとはどういうことでしょうか。愛とねたみは相いれないものように感じます。それは愛の裏側には常にねたみがあるということです。愛とねたみは表裏一体なのです。愛が強ければ強いほど、ねたみも激しくなります。神は愛ですが、同時にねたむ方でもあります。出エジプト記20章5節には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」とあります。ここで主ははっきりと「主であるわたしはねたむ神」と言っています。また、出エジプト記34章14節でも、「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。」とあります。神はねたみの神なのです。

 

しかしそれは私たちが抱くようなねたみとは違います。一般に「ねたむ」とは、他人が自分よりも優れた状態である時、それを羨ましく思ったり、憎らしく思うことで、罪の中の一つに数えられているものです。事実、愛の賛歌として有名なⅠコリント13章4節には、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」とあります。愛はねたまないのです。それなのにここには、ねたみはよみのように激しいとあります。それは神のねたみは私たち人間が抱くねたみと違って、ご自分にのみ帰せられる愛とか栄光を、だれかほかのものに与えられる時に抱く思いのことです。ですから新共同訳ではここを「熱情は陰府のように酷い。」と訳しているのです。

 

私の二番目の娘が3歳の頃、屋内プールに連れて行ったことがありました。私は紺の水泳パンツと黒いキャップ、それに黒いゴーグルを着けていました。しかし、ちょっと疲れたのでプールサイドに腰かけて休憩していたら、何を血迷ったのか、娘が急に「お父さん!」と叫んでプールに向かって走り出し、そのまま勢いよくジャンプしたのです。もちろん、そのまま沈んでいきました。遠くから見ていた私は「なんだ!」と思いながら娘を救出しようと近寄ると、そこに私と全く同じ格好をしていた男性がいたのです。娘はそれを私と勘違いして思いっきり飛び込んだのです。焦ったのはその男性の方でした。いったい何が起こったのかを理解できず、しかしこのままでは小さな女の子が溺れるのではないかと思って、必死で救出してくれました。

「すいません。なんだか私と間違えたみたいです」と言ってその場を後にしましたが、私の中には少し複雑な気持ちがありました。「おいおい、お父さんはボクだよ。知らない人に行っちゃだめだよ!」と。

そのときですが、神様の気持ちをちょっと理解できたような気がしました。私たちは神によって造られた者です。それなのに、神ではない他の神々に走っていくことがあるとしたら、神はねたまれるのではないかと。そうなんです、愛とねたみは表裏一体であって、本当の愛にはねたみが伴うのです。

 

そのねたみはよみのように激しいのです。「よみ」とはヘブル語で「シェオル」と言います。死んだ人が行くところです。ですから、これも死のように激しいと同じことなのです。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。それほど花嫁の花婿に対する愛が燃えているということです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。それはひとえに花婿の愛がそれほどまでに強く、激しいからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これが愛です。神は、それほどに、あなたを愛されたのです。

 

それは私たちに対する神の熱情の表れです。その炎は火の炎であり、すさまじい炎です。あなたはそれほどまでに愛されているのです。神はあなたのことを片時も忘れたことはありません。私たちは平気で神様を裏切り、神様そっちのけで自分のことばかり気になって、とにかく我力で、自分勝手に生きているような者ですが、神は違います。神の愛は死のように強く、よみのように激しいのです。私たちは、そんな愛で愛されているのです。ですから私たちは、この花嫁のように、たとえ死んでも解かれることのないような強い愛であなたの胸に刻んでくださいと応答したいです。封印のように、あなたの腕に押印してください、と強く願う者でありたいと思うのです。

 

Ⅲ.大水もその愛を消すことができません(7)

 

最後に、7節をご覧ください。「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」

 

その愛は炎のように燃える、すさまじい愛でした。そのような愛は大水でも消すことができません。この「大水」という言葉は、創世記6章17節では「大洪水」と訳されています。それはノアの箱舟の大洪水のことです。地球がすべて覆われるような大水でも消すことはできないということです。あの東日本大震災では、測り知れないほどのパワーがある津波が東北の太平洋沿岸部を襲いました。それは町々村々をまるごと吞み込むほどのパワーでした。しかしそれほどの大水をもってしても、神の愛を消すことはできないのです。

 

「奔流もそれを押し流すことはできません。」「奔流」とは、第三版では「洪水」と訳していますが、これは支流に対する奔流のことです。ちょろちょろと流れるような川ではありません。ゴーゴーと音を立てて勢いよく流れる川、それが奔流です。その奔流さえも押し流すことができません。つまり神の愛は最強であるということです。

 

Ⅰコリント13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛はいつまでも残ります。何があっても愛だけは残るのです。私たちはこのことを覚えておきましょう。愛は何をもってしても押し流すことはできません。すべてを失ったとしても残るのです。愛する家族を失い、自分の家を失い、仕事を失い、何もかも失ったとしても、神の愛を失うことは決してありません。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているのは愛なのです。

 

あなたが人生に行き詰ったとき、どうしたらいいかわからなくなったとき、この聖書の箇所を読んでください。この箇所を読むだけで神から愛の力が与えられ、すべての迷いが吹っ飛んでいきますから。それはローマ8章28~39節のみことばです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。大水もその愛を消すことはできません。奔流もそれを押し流すことはできないのです。神の愛はそれほどパワフルなものです。あなたはこの愛を受けているのです。

 

ただ一つだけ注意が必要です。それはこの愛をどのようにして得るのかということです。7節の後半をご覧ください。ここには、「もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」とあります。どういうことでしょうか。

神の愛はお金で買えるようなものではないということです。また、私たちの行いによって得られるものでもありません。私はこれだけ献金したのだから神は愛してくれるに違いないと思ったら大間違いです。私はこれだけ奉仕したんだから愛されて当然だと思っているとしたら蔑みを受けることになります。もし人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えるなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。必ず期待はずれに終わってしまいます。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。神の一方的な恵み受け入れるということです。私たちが何かをしたからではありません。何もしなくても、神はあなたを愛しておられます。その愛をただ感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、神の愛があなたを覆ってくださいます。

 

じゃ、何もしなくてもいいんですか。聖書を読まなくても、祈らなくても、教会に行かなくても、献金しなくても・・。いいのです。あなたが神の愛を受けるのは、神の一方的な恵みによるのですから、あなたが何をしたかなんて関係ないのです。ただ誤解しないでいただきたいのは、本当の意味であなたが神の愛を受けたのであれば、当然、教会に行くたくなりますし、神からのラブレターである聖書を読んだり、祈ったりしたくなるはずです。喜んで神様のために自分をささげたいと思うはずなのです。もしそうでないとしたら、本当にあなたが神の愛を受けているのかどうかを点検しなければなりません。私たちが良い行いをするのは神の愛を受けるためではなく、神に愛されたから、神の愛を受けたからであるということを覚えておかなければならないのです。

 

但し、あなたがもっと積極的に神の愛を受けたいと思うなら、どうぞ御言葉を読んでみてください。祈ってみてください。礼拝や祈祷会に足しげく通ってみてください。礼拝を絶やさないでください。そうすれば、神の愛はもっとあなたに迫ってくるでしょう。神の愛がどのようなものであるかがわかるようになります。花婿イエスは、あなたのためにすべてを投げ捨ててあなたを獲得してくださったのですから。

 

大水もその愛を消すことができません。奔流も押し流すことができません。その愛を与えてくださった主に感謝しましょう。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに臨んでおられることです。

 

最後に、エペソ3章16~19節のみことばを読んで祈りたいと思います。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。アーメン。」

あなたがその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるお祈りします。

民数記17章

民数記17章

 

今日は、民数記17章から学びます。前回のところでは、コラとその仲間たちがモーセに反抗した結果、生きたままよみに下るという神のさばきを受けたことを学びました。神が祭司として選ばれたのはアロンの家系であって、彼らはそれを認め受け入れなければならなかったのです。今日の箇所には、そのことをさらに別の方法で示されます。それが有名なアロンの杖です。

 

 Ⅰ.族長たちの杖(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」6 モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。」(1-7)

 

主はモーセに、イスラエルの子らに、彼らから杖を部族ごとに一本ずつ、全部で12本を取り、その杖に自分の名前を書き記すように言われました。それを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置くようにと言われたのです。何のためですか。神が祭司として選びお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

 

「杖」は、イスラエル人が日常的に使っていたものです。たとえば、創世記38章18節には、ユダが息子のエルと結婚したタマルに「しるしとして何をやろうか」と言うと、彼女は「あなたの印章とひもと、あなたが手にしている杖」と答えています。

また、出エジプト記4章2節では、ミデヤンの荒野で羊を追っていたモーセが神に召されたとき、主が彼に、「あなたが手にしている杖を地に投げよ。」と言われました。それは羊飼いの杖であると同時に、神の御業を行う杖であったのです。その杖を取るようにと言われました。勿論、それらは枯れ木でした。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置くと、神が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。まさに「枯れ木に花を咲かせましょう」というわけです。枯れ杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司として選んでおられる者であるということをはっきり示そうとされたのです。

 

それで族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖12本を渡したので、モーセはそれらを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置きました。

 

Ⅱ.アロンの杖(8-13)

 

するとどうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」11 モーセはそのようにした。主が命じられたとおりにしたのである。」(8-11)

 

その翌日のことです。モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいました。イスラエルではアーモンドは春を告げる花として、1月から2月に咲きます。それが一晩で花を咲かせ、実を結ばせたのです。これは明らかに創造主なる神の御業でした。枯れた木からいのちを芽生えさせることは神にしかできないことだからです。ある人は、切り取ったばかりの生木を置いたのではないかと言う人もいますが、決してそうではありません。たとえそうであっても、水のない所で一夜のうちに実を結ぶことなどあり得ないことです。これは5節にあるとおり、主が大祭司として選んでおられるのはアロンであることをイスラエルの子らに示し、彼らがモーセとアロンに向かって言い立てている不平を遠ざけるために成された神の御業だったのです。主はそれを彼らが目で見える形で証明してくださいました。いくら言葉で説明しても納得しない彼らに、目に見える形で示してくださったのです。「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」と言いますが、意味は、「目覚める」とか「見張る」です。すなわち、主がこれを見張っている、はっきりと見つめているということです。

 

神は、死んだような枯れた木からも花を咲かせ、実を結ばせることのできる方です。それは死者の中からキリストを復活させてくださった神の御業を現わしていました。神は十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせてくださったのです。すなわち、このアーモンドの杖はキリストご自身を予表していたのです。それは、このあかしの箱の中に入れられたものをみてもわかります。10節には、このアロンの杖があかしの箱の中に収められたとあります。あかしの箱、すなわち、契約の箱には他に、契約の板とマナが治められていました。契約の板は、モーセがシナイ山で神から授けられた、十戒を記した二枚の石の板のことです。またマナは、神の民が荒野で飢えていたとき、神が40年間の荒野での旅の間中、毎朝、降らせてくださったもので、神の慈しみを示すものです。それと一緒にこのアロンの杖が収められたのは、アロンが類い稀な大祭司としての使命を持っていることを示すと同時に、それがイエス。キリストご自身を指示していたからなのです。考えてみると、この契約の箱自体がイエス・キリストを指し示すものでした。その中に二枚の石の板とアロンの杖、マナの入った金の壺が収められていたのは、これらすべてがイエス様を指示していたからなのです。その枯れたような杖から芽が出て、花が咲き、実を実らせました。

 

皆さんはアーモンドというと何を思い出すでしょうか。私はアーモンドチョコレートを思い出します。美味しいですよね。別にチョコレートでなくてもアーモンドの実自体が美味しいです。キリストによってつける実も同じです。ガラテヤ5章22~23節には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。これらはキリストを信じることによってもたらされる御霊の実です。それらは実に麗しいものです。私たちにはキリストを信じ、キリストの結び合わされることによって、復活のいのちが与えられ、麗しい実をつけることができるのです。

 

主はアロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。それは逆らう者たちへの戒めのためでした。しるしとして保管しておくためです。これもまた実物教育でした。主がアロンの家系を選んで祭司職に召しておられるという証拠として、逆らう者たちへの戒めとしたのです。また彼らが主に対して不平を漏らすことをなくし、彼らが死ぬことがないようにするためです。このように主の前に証拠物件を置くということは、事件が決着したことを意味していました。そして、この配慮は、イスラエルの民が二度とこのような過ちを犯して死の罰を受けることがないように、というものだったのです。

 

Ⅲ.神の恵みにお頼りして(12-13)

 

それに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。12節と13節をご覧ください。「12 しかし、イスラエルの子らはモーセに言った。「ああ、われわれは死んでしまう。われわれは滅びる。全員が滅びるのだ。13 すべて近づく者、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは。ああ、われわれはみな、死に絶えなければならないのか。」」(12-13)

 

ここでイスラエルの子らは、自分たちは滅んでしまうと叫んでいます。どうしてでしょうか。すべて主に近づく者、主の幕屋に近づく者は死ななければならないと、律法にあるからです。それなのに彼らは、自分たちも祭司として神に近づくことができると言い張ってしまいました。しかし、神に選ばれた者でない者が主の幕屋に近づこうとするならば、主の恐るべき裁きを受けることになります。主に反抗して神に近づこうとすることがいかに恐ろしいものであるかを痛感したのです。それで彼らは叫んだのです。それは言い換えると、彼らは主の恵みを理解していなかったからであると言えます。祭司を通して与えられる恵みがどれほど大きなものなのを理解せせず、あくまでも自分の力で神に近づこうとしていたのです。彼らにとって必要だったことは、神がどれほど深く、あわれみ深い方であるかを知ることでした。そして、その主の恵みにお頼りし、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れることだったのです。つまり、信仰を持つことです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人はいつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白する者です。そういう者は恐れがありません。なぜなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れが締め出されるからです。

 

そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司イエス・キリストです。へブル4章14~16節をご覧ください。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは神の子イエスという偉大な大祭司によって、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、私たちのために神にとりなしてくださるからです。それは私たちの力や行いによるのではなく、大祭司イエスのとりなしによるのです。

 

そのことに彼らは気づきませんでした。神がアロンを大祭司としてお立てになったのは、彼らが死ななくても良いようにとりなしの働きをするためでした。ですから、彼らはその神の権威を受け入れ、神が立ててくださったアロンの祭司職を認めなければならなかったのです。しかし、そうでなかったので、彼らは自分たちが滅びてしまうのではないかと怯えていたのです。

 

それはイスラエルの子らだけではありません。ややもすると、私たちも彼らと同じような過ちを犯してしまうことがあります。自分の力で神に近づこうと考えてしまうことがあります。しかし、神は行いによってではなく、恵みによって私たちを救ってくださいました。神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活の御業を信じる信仰によって救われ、大胆に恵みの御座に近づくことができるようにしてくださったのです。そのために立てられたのが、大祭司イエスです。キリストのとりなしによって私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられたがゆえに、私たちはキリストに信頼し、そのとりなしをいただいて、神に近づく者でありたいと思うのです。

民数記16章

民数記16章

 

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回のところで、主の命令に背いて約束の地に上って行かなかったイスラエルの民に対して、主が、彼らが約束の地に入ったときにささげるべきささげものの規定について語られたことを学びました。イスラエルの民は確かに主の命令に背いたため二十歳以上の者はみな約束に地に入ることができませんでしたが、それでも、主は彼らに希望を語ったのです。

今回の箇所には、そのイスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたときに起こったもう一つの大きな事件について語っています。それはコラの子たちの反抗です。

 

Ⅰ.コラの子たちの反抗(1-35)

 

  • 子らの子たちの反抗(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。「1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ル

ベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」」

 

ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち250人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向ったことが記されてあります。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。彼らはなぜそのように言ったのでしょうか。

 

ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ゲルション族は、幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は、板とか、土台、柱などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇など、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主の栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取り替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。コラは、そのケハテ族に属する者でした。それゆえ、彼らは祭司たちをねたんでいたのです。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのかと。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があると主張したのです。

 

しかも、その理由がもっともらしいのです。3節を見ると彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちだけが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。

皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの群れに属していますが、その一つの特徴は会衆制にあります。会衆制とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく、会衆みんなの総意によって決められるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって特別な権力があるわけではないのです。ですから、私たちの教会では毎月定期的にミーティングを行い、教会の運営をみんなで話し合って決めているのです。また、年に一度は総会を持ち、教会の方向性をみんなで確認しています。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にして、あたかもそれが正当であるかのように言いました。

 

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには250人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったのかもしれません。また250人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

 

またそこにはイスラエルが荒野を40年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと考えられます。人は物事が順調に進んでいる時はこうした不平や不満は抑えられがちですが、いざ困難に直面するとそうした不平や不満が一気に噴出し、このような反抗という形で表れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5章6節には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

 

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

 

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、7 明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」」

 

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の御許しの中で起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主がだれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るように、と言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた者であるということです(レビ10:1-2)。

 

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。「8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。11 事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」」

 

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりもさらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足せず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。

 

神はご自身のみからだである教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召して賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対して反抗することでもあるのです。

ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

 

 3.神のさばき(12-35)

 

次に、12~35節までをご覧ください。「12 モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「われわれは行かない。13 あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地にわれわれを導き入れず、畑とぶどう畑を、受け継ぐべき財産としてわれわれに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。われわれは行かない。」

15 モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」16 それからモーセはコラに言った。「明日、あなたとあなたの仲間はみな、主の前に出なさい。あなたも彼らも、そしてアロンも。17 あなたがたは、それぞれ自分の火皿を取り、その上に香を盛り、それぞれ主の前に持って行きなさい。二百五十の火皿を、あなたもアロンも、それぞれ自分の火皿を持って行きなさい。」18 彼らはそれぞれ自分の火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンと一緒に会見の天幕の入り口に立った。19 コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。

20 主はモーセとアロンに告げられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」22 二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」23 主はモーセに告げられた。24 「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」25 モーセは立ち上がり、ダタンとアビラムのところへ行った。イスラエルの長老たちもついて行った。26 そして会衆に告げた。「さあ、この悪い者どもの天幕から離れなさい。彼らのものには何もさわってはならない。彼らのすべての罪のゆえに、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から離れ去った。ダタンとアビラムは、妻子、幼子たちと一緒に出て来て、自分たちの天幕の入り口に立った。

28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。30 しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく?み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

31 モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。32 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を?み込んだ。33 彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。34 彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも?み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。35 また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。」

 

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの来ようとしませんでした。なぜでしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセがコラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

 

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集め、モーセとアロンに逆らわせようとしたのです。

 

すると主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主が怒っておられました。そして、主はそのように反逆する民を滅ぼそうとされたのです。

 

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何とモーセとアロンは、自分たちに逆らい主に反逆した者たちのためにとりなして祈りました。ここまで反抗した相手のためにとりなすことは人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。すごいですね。

 

すると主は、この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言うようにと言われました。彼らを滅ぼそうとされたからです。それに巻き込まれないように彼らから離れるようにと言われたのです。しかし、モーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節にある内容です。

 モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせる、と言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れると、彼らとその家族、またコラに属するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだりました。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。そのよみに、生きながら下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださいました。

また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった250人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、恐ろしい神のさばきを受けたのです。

 

Ⅱ.祭壇のための被金(36-40)

 

次に、36節から40節までをご覧ください。「36主はモーセに告げられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出し、火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 いのちを失うことになったこれらの罪人たちの火皿は、打ちたたいて延べ板とし、祭壇のためのかぶせ物とせよ。それらは、主の前に献げられたので、聖なるものとなっているからである。これらはイスラエルの子らに対するしるしとなる。」

39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちが献げた青銅の火皿を取り、それを打ち延ばして祭壇のためのかぶせ物とし、40 そのことがイスラエルの子らに覚えられるようにした。これは、アロンの子孫以外の資格のない者が、主の前に進み出て香をたくことのないようにするため、その人が、コラやその仲間のような目にあわないようにするためである。主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

 

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇のかぶせ物について記されてあるここから17章にしたのではないかと考えられます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、250人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

 

ここで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のためのかぶせ物を作るようにと言われました(出エジプト27:1-3,38:1-2)。「かぶせ物」とは、アカシヤ材で作った祭壇の上にかぶせた青銅のことです。「青銅」はすべての金属の中で最も火に強いと言われますが、それは罪に対する神の怒りの激しさを示していました。それをかぶせたのです。火皿も青銅で出来ていました。何のためでしょうか。それは「しるし」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。それは自分たちへの戒めとするためでした。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示していました。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されました。これはしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

 

 Ⅲ.さらなる神罰(41-50)

 

最後に41節から50節までをご覧ください。「41 その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」42 会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。43 モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。44 主はモーセに告げられた。45 「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。

46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」

47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。50 アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。」

 

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、モーセとアロンに向かって不平を言ったのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさばきがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

 

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そしてモーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われました。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。

するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの14,700人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを指し示しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

 

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うことよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとっても陥りやすい過ちです。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果、このような滅びを招いてしまうのです。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。