あなたは私の心を奪った 雅歌4章8~16節

2021年8月8日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑨)

聖書箇所:雅歌4章8~16節

タイトル:「あなたは私の心を奪った」

 

 ソロモンの雅歌4章からお話しています。今日は「あなたは私の心を奪った」というタイトルでお話します。9節に「あなたは私の心を奪った」と、2回繰り返して使われています。「あなた」とは花嫁のこと、「私」とは花婿のことです。花婿が花嫁に対して、「あなたは私の心を奪った」と言っているのです。花婿の心を奪った花嫁です。やっとの思いで花嫁と結ばれた花婿は、うれしくて、うれしくて、何度も花嫁をほめ称えます。それが4章1節からの内容でした。1節には「ああ、あなたは美しい。」とあります。そして7節にも「あなたのすべてが美しい」(7)とあります。花嫁の目、髪、歯、唇、口、頬、首、乳房、そのすべてです。すべてが美しい。

 

きょうはその続きです。その花嫁の美しさは花婿の心を奪いました。この花嫁は、私たちのこと、私たち教会のことです。教会は、キリストの心を奪いました。どのように奪ったのでしょうか。

 

Ⅰ.レバノンから来ておくれ(8)

 

まず、8節をご覧ください。「花嫁よ。私と一緒にレバノンから、私と一緒にレバノンから来ておくれ。アマナの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ。」

 

これまで花婿は花嫁を「わが愛する者」と呼んできましが、ここから「花嫁よ」と呼びかけています。それは、二人が結婚して結ばれたことでそのような関係となったからです。その花嫁に対して花婿は、「私と一緒にレバノンから、来ておくれ」と言っています。ここから、花嫁はレバノンに住んでいたことがわかります。その住み慣れたレバノンから出てきて、自分の宮殿に住みなさい、と言っているのです。

 

皆さんは、レバノンがどこにあるかわかりますか。「レバノン」とは、イスラエルの北部に隣接している小さな国です。面積は日本の岐阜県とほぼ同じです。アジア大陸でもっとも小さな主権国家として認められています。その割には頻繁にニュースで取り上げられています。昨年は首都のベイルートで爆発事故があったことが報じられました。カルロス・ゴーン氏が逃亡したのもこのレバノンです。

 

聖書では、「レバノン」は豊かさの象徴として用いられています。たとえば、詩篇72篇16節には、「地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで」とあります。ここには「レバノンのように豊かで」と、実りが豊かである所として用いられています。また、今日の聖書の箇所にも、11節に「レバノンの香りのようだ」(11)とありますが、そこは絶えず香りで満ちていました。そのレバノンから来るようにというのです。なぜでしょうか。

 

その次にこうあります。「マナニの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ」「マナニの頂」とか、「セニヌの頂」、「ヘルモンの頂」とは、このレバノンのことです。レバノンには南北に山脈が走っていて、そこにはこうした山々が連なっていました。北からアマニ山、セニル山と続き、一番南がヘルモン山です。これらは全長150キロにも及ぶ連山で、北はシリアから南はイスラエルまで続いていました。ですから、新約聖書にはヘルモン山がよく出てくるのです。ヘルモン山はイスラエルの北部にある山です。そこで主イエスはまばゆい姿に変貌されました。そこはイスラエルの北の果てにある山です。すなわち、この「レバノンから来ておくれ」の「レバノン」とは、花婿がいたエルサレムから離れているところ、遠いところを指していたのです。そのイスラエルの北の果て、エルサレムから一番離れたところから「来なさい」と言うのです。

 

私たちも時として神から離れてしまうことがあります。イスラエルの北の果てレバノンにいるようなことがありますが、でもどんなに神から離れてしまっても、北の果てに落ち込んでいたとしても、そこから来なければならないのです。

 

詩篇42篇6節には、「私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。」とあります。この「ヨルダンとヘルモンの地」とは、このことです。神から遠く離れたところです。この詩篇の作者は、神から遠く離れてうなだれていました。でもそこから神を思い起こしています。神から遠く離れていても、今さら神のもとには戻れないのではないかと思っても、あなたは戻ることができます。なぜなら、主が「来なさい」と呼び掛けておられるからです。

 

ここにはまた「獅子の洞穴、豹の山」から下りて来ておくれ。」あります。どういうことでしょうか。獅子の穴で有名なのは、ダニエルが投げ込まれた獅子の穴です。彼はペルシャの王ダリウス(ダレイオス)の時代に、ペルシャの王以外のものに祈願する者があれば獅子の穴に投げ込まれるという禁令を破り、いつものように日に三度ひざまずき、自分の神に祈って感謝をささげました。それで彼は捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれてしまいました。

しかし、神が獅子の口をふさいでくださったので、獅子は彼に何の害も加えることができませんでした。ダニエルが穴から引き上げられると、何と彼にはなんの傷もなかったのです。聖書はその理由をこう言っています。「彼が神に信頼していたからである。」(ダニエル6:23)もし彼が神に信頼していなかったら、彼はライオンに食われていたでしょう。ですから、この「獅子の穴」とは、不信仰の穴であると言えます。神に信頼しない、できないのです。いつも自分の力で生きようとしています。その結果、八方塞がりに陥っているのです。そんな不信仰の穴から出てくるようにと呼び掛けられているのです。

 

さらに、ここには「豹の山」とあります。「豹の山」から下りて来るようにと。黙示録13章2節に、「ひょう」が出てきます。「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」とあります。これはやがて来る反キリストのことです。その獣は「ひょう」に似ていました。すなわち、この「豹の山」とはサタンの力、敵に取り囲まれて二進も三進もいかないような状態のことを指しています。そうした豹の山から下りて来なければなりません。そうすれば、あなたもキリストの救いのすばらしさを体験することができます。

 

あなたは今どこにいますか。アマニの頂、セニルの頂、ヘルモンの頂ですか。それとも、獅子の穴でしょうか。あるいは、豹の山ですか。花婿なるキリストは、そこから「来なさい」と呼び掛けておられます。もう来るな!うっとうしい!顔も見たくない!あっちへ行け!と言うのではなく、「来なさい」と言ってくださるのです。たとえレバノンのように神から遠く離れたところにいても、何度でもやり直すことができます。何度もつまずき、主から離れたとしても、あなたはやり直すことができるのです。主はあなたを決して見放したり、見捨てたりすることはなさらず、「来なさい」と呼び掛けてくださるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたが神から遠く離れ、人生に疲れ果て、重荷で押しつぶされそうであるなら、花婿であられるキリストのもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてあげます。

 

どうやって来たら良いのでしょうか。ここには「私と一緒に来ておくれ」とあります。しかもこれも2回繰り返されています。この花婿であられるイエス・キリストと一緒に来ておくれと言うのです。自分一人ではとても行けないと思っている方がおられますか。大丈夫です。イエス様が一緒にいてくださいますから。あなたは一人ではありません。いつでもイエス様が一緒にいてくれます。だから恐れることはありません。安心して来ることができます。

 

ですから、あなたは安心して主のもとに来ることができます。たとえ主から遠く離れたところにいても、たとえ不信仰の穴に落ちていても、たとえ罪に支配され、自分で自分のことがわからないような状態にあっても、花婿なる主が共にいてくださるので、あなたは来ることができるのです。花嫁よ。私と一緒にレバノンから来ておくれと言われる花婿の声に応答して、花婿のもとに下りて来たいと思います。

 

Ⅱ.あなたは私の心を奪った(9-12)

 

次に、9~12節をご覧ください。まず9節をお読みします。「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で。」

 

ここには「あなたは私の心を奪った」とあります。花嫁は花婿の心を奪いました。その目、鼻、口、歯、頬、すべてが美しい。8節では「花嫁よ」と呼ぶようになりましたが、ここではさらに「私の妹、花嫁よ。」と呼び掛けられています。10節にも、12節にも使われています。このような言い方は、4章だけで実に3回も使われているのです。どういうことでしょうか。花嫁と花婿はそれだけ近い関係であるということです。それは、妹のように血のつながりのある関係であるということです。

「妹」と訳されたことばはヘブル語で「アホーティ」と言いますが、「実際の血のつながった妹」を意味します。花婿にとって花嫁は血のつながりがあるほど親密な関係なのです。古語で「妹背(いもせ)」ということばがあります。新聖歌の504番には「妹背を契る」という讃美歌がありますね。現代で使われていません。これは親しい関係の男女を指すことばで、親しい男女が結婚することを意味しています。まさに血を分け合った兄と妹という関係です。

このことは、キリストと教会の関係を表しています。つまり、キリストの花嫁なる教会は、花婿なるイエスさまの血によって生まれたものであるということです。イエスさまにとって教会は、ご自身と同じほど尊い存在なのです。

 

その妹であり、花嫁である相手に、花婿は「あなたは私の心を奪った。」と言っています。「あなた」とは花嫁のことであり、私たち教会のことです。そして「私」とは花婿のこと、すなわちイエス様のことです。花嫁である教会は、花婿であられるイエス様の心を奪ってしまったというのです。イエス様は私たちを見てもうメロメロであるということです。

 

この「奪う」ということばはヘブル語で「ラバーブ」ですが、心をかき立てるとか、かき混ぜるという意味があります。家内は毎日のようにケーキを作っていますが、どのようにして作るのかを見ていると、ボールに小麦粉とかバター、卵、砂糖とかをバーって入れてミキサーにかけます。そのかき混ぜた状態のことです。イエス様が私たちを見るとき、そのように心がかき混ぜられたようになるのです。皆さんも好きな人を見るときなど胸がキュンとすることがありますがそれです。すっかり魅了されてしまいます。虜にされてしまいます。これが、イエス様が私たちを見る目です。いったい私たちのどこにそんな魅力があるのでしょうか。自分では何の取り柄もないと思っているのに。

 

その後のところを見てください。ここには「ただ一度のまなざしと、首飾りの宝石で。」とあります。花嫁のたった一度のまなざしで花婿の心が奪われてしまいました。いわば一目ぼれです。あなたが何者であるかは関係ありません。あなたが過去においてどうであったかとか、今何をしているのか、これから先どうなるかといったことは全く関係ないのです。たとえ金メダルを取れなくても、あなたの存在そのものが美しい。あなたをたった一度見ただけで、イエス様の心はもうヨレヨレなのです。へブル12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」とありますが、もしあなたがイエスを見るなら、イエスは喜んでくださいます。それが私たちの信仰です。信仰とは、イエスを見ることです。他のことは要求はされません。ただイエスを見るだけで、イエスは喜んでくださるのです。

 

また、ここには「首飾りの宝石で」とあります。「首飾りの宝石」とはネックレスのことです。花嫁のネックレスを見ただけで花婿の心が奪われてしまいました。なぜなら、花婿はそのネックレスに込められた花嫁の思いを知ってくださるからです。私たちの花婿イエスは、私たちの一挙手一投足を注意深く見られ、そこに込められた思いのすべてを察知してくださるのです。それほどあなたに夢中であるということです。義務的にではなく、義理でもなく、心からあなたを愛しておられるからです。

 

10節をご覧ください。「私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、あなたの香油の香りは、すべての香料にまさっている。」

これは花嫁が1章2~3節で語ったことばと全く同じことばです。そのことばを今度は花婿が花嫁に語っています。どういうことかというと、まず花婿が愛してくださったので、その愛を受けて、今度は花嫁が花婿を愛するようになったということです。

 

Ⅰヨハネ4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。神がまず私たちを愛してくださいました。その愛を受けて、その愛を知って、今度は私たちが神を愛することができるのです。神の愛がわからなければ、神を愛することはできません。ですから、神がまず私たちを愛してくださったのです。その愛は、ぶどう酒にまさって美しいとあります。その香りは香料にまさっています。但し、私たちのキリストへの愛よりも、キリストの私たちに対する愛の方がはるかにすばらしいということを忘れないでください。キリストの愛は真実な愛です。それはどんなことがあっても破棄されることはありません。あなたがどんなに神に背いても、どんなに神から離れても、神はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。それは無限の愛であり、無条件の愛、無償の愛です。それはキリストが十字架の上で死なれたことによって現わされた愛です。人間にはこのような愛はありません。でも私たちのちっぽけな愛でも、キリストは喜んでくださるのです。

 

11節をご覧ください。ここには「花嫁よ。あなたの唇は蜂蜜を滴らせ、舌の裏には蜜と乳がある。衣の香りは、レバノンの香りのようだ。」とあります。

この「唇」とか「舌の裏」とは、花嫁との口づけを表しています。それは蜂蜜のように甘く、果実の蜜や乳のように豊かであるということです。この「蜜と乳がある」という表現は、「乳と蜜が流れる地」、約束の地カナンをイメージさせます。聖書には、約束の地カナンは乳と蜜が流れる地であると言われています。それは乳と蜜それ自体が流れているということではありません。これは牧草の豊かな、しかも蜂が蜜を吸うことのできる多くの花や樹木が生えている自然が豊かな地であるという意味です。そのように心が満たされるところがカナンなのです。花嫁との口づけはそのように甘く、心が満たされる行為であるというのです。

 

これは何を表しているのかというと、私たちの神への礼拝です。礼拝とはギリシャ語で「プロスクネオー」と言いますが、意味は「~に向かって口づけする」という意味があります。ですから、礼拝とは、主に向かって口づけする行為なのです。それはまさに蜂蜜のように甘く、乳と蜜のように私たちの心を満たしてくれるものなのです。これが毎週日曜日の礼拝でもあります。ですから、今皆さんは主イエスに向かって口づけしているのです。主を愛するがゆえに行う行為、それが礼拝なのです。それは私たちの花婿イエス・キリストの心を満たすものです。私たちのささげる礼拝は、イエス・キリストの心を満たすものなのです。これを取り違えないようにしなければなりません。私たちのささげる礼拝は私たちの心を満たすものではなく、私たちの主イエスの心を満たすものです。もちろん、私たちが礼拝することで結果的には私たちの心が満たされることになりますが、それが礼拝の第一の目的ではありません。礼拝は私たちの心を満たす前に、イエス・キリストの心を満たすことなのです。私たちはよくきょうの礼拝は良かった、恵まれた、満足した、と言うことがありますが、それもすばらしいことですが、その前に考えなければならないことがあります。それはあなたの花婿イエス・キリストはどうだったかということです。あなたのささげる口づけ(礼拝)が、イエス様の唇を甘くし、その舌の裏には蜜と乳があるかのような喜びと満足を与えるものであったかということです。主は私の礼拝を喜んでくださっただろうか。私の奉仕、私の献金を喜んでくださったかどうかということです。自分が満足したかどうかの前に、主はどのように受け止められたかということです。もちろん、そのような期待をしてはいけないということではありません。しかし、イエス・キリストに喜ばれる礼拝をささげたい。どうすれば主に喜ばれる礼拝をささげることができるかを、もっと真剣に考えなければなりません。

 

ルカの福音書の最後は、このことばで締めくくられています。「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24:53)この「ほめたたえていた」ということばは、祝福していたという意味です。イエス様が天に昇って行かれた後、弟子たちはエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていました。主を祝福していました。逆じゃないですか。主が私たちを祝福してくれるんじゃないですか。もちろん、そういう面もあります。しかし、礼拝とは神が私たちを祝福してくれるというだけでなく、私たちが神を祝福することでもあるのです。自分が祝福されることは感謝なことですが、何よりもイエス・キリストを祝福すること、イエス・キリストの心が満たされること、イエス・キリストの栄光が崇められることが、礼拝の最大の関心とならなければなりません。

 

11節に戻ってください。ここにはもう一つのことが言われています。それは「衣の香りは、レバノンの香りのようだ。」とあります。

「レバノン」については、8節にも出てきましたが、そこでは神から遠く離れた地の象徴として用いられていましたが、ここでは、香りが満ちている場所として用いられています。レバノンはレバノン杉で有名ですが、他にも芳香性が強い植物が生息していたことでも有名です。そこには絶えず香りが満ちていました。花嫁の衣は、このレバノンの香りのようだというのです。

この「衣」とは全身を覆うもので、花嫁が寝る時に着たものです。今でいうパジャマとかネグリジェのようなものです。その衣がレバノンの香りのようだというのです。それはイエス・キリストの香りでもあります。

 

コロサイ3章12節には、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」とあります。ですから、花嫁はキリストを着たのです。それはキリストとの親密な交わりによって、キリストのようになることを意味します。それはどんな香りでしょうか。コロサイ3章には続いてこのように勧められています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」(コロサイ3:12-17)

あなたはどうでしょうか。キリストを着ていますか。キリストの香りを放っていますか。花婿であられるキリストは、あなたのそのような香りをとても喜んでくださいます。

 

12節をご覧ください。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」

これらの表現はすべて花嫁の処女性を表しています。「閉じられた」「封じられた」という表現は、花婿以外にだれも入ることのできないように鍵がかかっているような状態であるという意味です。そこは花婿だけが開くことができる庭であり、源であり、泉です。たった一人の花嫁であるということです。それは純潔と貞潔を意味しています。花婿だけであるということです。花嫁にどうしてもなければならないもの、それが花婿に対する純潔なのです。

 

パウロもそのことを語っています。Ⅱコリント11章1~3節で次のように言われています。「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。」

蛇が偽りによってエバを欺いたように、教会にもサタンが悪巧みによって欺こうとしてきます。パウロはそのことを心配していました。教会にとってどうしても必要なことは、イエスさまに対する「純潔と貞潔」です。サタンは偽りの教えによって私たちの思考に入り込み惑わしてきます。だから私たちは、いつも主のみことばをしっかり握って聖さを保つ必要があるのです。

 

私たちクリスチャンはみなキリストの花嫁です。キリストは、やがて再びこの世界に戻って来られます。その時のために傷のない、本当に純潔な教会を、キリストの花嫁として整えなければなりません。教会には聖書以外の様々な教えが入り込んできます。蛇がエバを欺いたように、間違った教えによって私たちを信仰から遠ざけようとしますが、そうした教えに警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。花婿への純潔と貞潔を守らなければならないのです。

 

Ⅲ.あなたの産み出すもの(13-16)

 

最後に、13節から16節までをご覧ください。「あなたの産み出すものは、最上の実を実らせるざくろの園、ナルドとともにヘンナ樹、ナルドとサフラン、菖蒲とシナモンに、乳香の採れるすべての木、没薬とアロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」

 

ここで花婿は花嫁を、園に植えられた木や咲き乱れる花にたとえています。これらすべて花嫁について描写されているものです。あなたの産み出すもの、つまり花嫁が産み出すものが、ここに列挙されています。

 

まず、最上の実を実らせるざくろの園です。「ざくろ」については3節にも出てきましたが、それは豊かさといのちを象徴するものです。乾燥したイスラエルでは水分を補給するのに欠かせないものでした。まさに渇いた喉を潤す清涼飲料水のような最高のジュースとして重宝されました。ざくろを見ると、一つの実の中にたくさんの種が入っているのがわかります。それはまさに御霊の実を表しています。有名なガラテヤ5章22~23節にはこうあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」花婿は花嫁が産み出す御霊の実を見て絶賛しているということです。

 

そればかりではありません。13節の後半には「ナルドとともにヘンナ樹、ナルドとサフラン、」とあります。ナルドについては1章12節にもありましたが、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それに油を混ぜ合わせたものがナルドの香油です。それは非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

 

また、「ヘンナ樹」についても1章14節に出てきました。これは「へんな木」ではありません。立派な木です。エジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。熱い地方では日陰になる大切な木でした。まさにオアシス的な存在です。

 

そして14節には、「ナルドとサフラン、菖蒲とシナモンに、乳香の採れるすべての木、没薬とアロエに、香料の最上のものすべて、」とあります。

ナルド、サフラン、菖蒲、シナモン、乳香、没薬、アロエは、すべて香りを放つ草花です。まさに芳(かぐわ)しいということです。問題は、何のために芳しいのか、だれのために芳しい香りなのかということです。それはもちろん花婿のためです。自分を喜ばせるためのものではありません。花婿であられるイエス・キリストの喜びと、イエス・キリストの栄光のための香りなのです。私たちはそのために存在し、生かされているのです。

 

15節をご覧ください。ここには「庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」とあります。ここに「レバノンからの流れ」とあるように、レバノンの山々、特にヘルモン山の雪解けの水が湧き出ます。それはすべてを潤す水、いのちを与える水のことです。イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

ここに「聖書が言っているとおり」とありますが、この聖書が言っているとおりとは、旧約聖書が言っているとおりにということで、実はこの箇所で言われているとおりにということです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになりますが、それはここで言っているヘルモンの雪解けの湧き水のように流れるということだったのです。イエス様はそれを念頭に言われたのです。この「生ける水」とは何でしょうか。イエス様はその後のところで、このことについても説明しておられます。「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」(ヨハネ7:39)

この花嫁の美しさは、生ける水が流れ出ていたことでした。神の聖霊に満たされていたことです。あなたもイエスのもとに来て飲むなら、心の奥底から生ける水が流れ出て、美しい花嫁として整えられます。

 

あなたが産み出しているものは何でしょうか。あなたの特産物は何でしょうか。あなたの園はどんな園でしょうか。花が咲き乱れているでしょうか。豊かな実が実った果樹園でしょうか。良い香りが漂うハーブ園でしょうか。それはこの湧き水の井戸、レバノンの流れがあるかどうかで決まります。もしあなたが花婿のもとに来て生ける水を飲むなら、あなたの園は最上の実を実らせ、芳しい香りを放つ園となるのです。あなたの花婿キリストは、そんな花嫁を喜び称えているのです。

 

最後に16節を見て終わります。「北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。」

これは花婿のことばを受けた花嫁のことばです。彼女はここで、「北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。」と言っています。どうしてこのように言っているのでしょうか。それは、「私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。」するためです。

 

聖書では、「風」は聖霊のシンボルとして使われています。15節の「泉」や「湧き水」もそうです。聖霊のシンボルとして用いられています。エデンの園にも風が吹いていました。エデンの園では、神が土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きるものとなりました。いのちの息が吹き込まれなければ、生きるものにはなりません。生きてはいても死んでいる、生ける屍でしかないわけです。それだけでは死んだ者です。肉体は生きていても、霊は死んでいます。ですから、そういう人は死んだら終わりです。でも、聖霊があなたの内に吹き込まれるなら、あなたは生きるものとなるのです。死んでもなくならない永遠のいのちをいただくのです。それはいのちの水となってあなたを潤します。あなただけでなく、あなたの周囲にいる人たちをも潤していきます。同時にあなたは庭ですから、花を咲かせ、実を結び、キリストの香りを漂わせるようになります。そのためには風が吹かなければなりません。聖霊があなたの庭に吹くとき、その香りを漂うのです。

 

あなたの愛する方が、あなたの主イエスがあなたの園に入って、その最上の実を食べることができるように、あなたの庭を整えてください。最善の実を結ばせていただきましょう。

あなたのすべてが美しい 雅歌4章1~7節

2021年8月1日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑧)

聖書箇所:雅歌4章1~7節

タイトル:「あなたのすべてが美しい」

 

 きょうは、雅歌4章1~7節から学びたいと思います。タイトルは、「あなたのすべてが美しい」です。7節に「わが愛する者よ。あなたのすべてが美しく、あなたは何の汚れもない。」とあります。これは、花婿が花嫁に語っていることばです。結婚してエルサレムにある自分の宮殿に招き入れた花婿、ソロモンは、花嫁を見て「あなたのすべては美しい」と言うのです。

この花嫁は教会のこと、すなわち、私たちクリスチャンの姿でもあります。ですから、花婿であられるキリストが、花嫁である私たちクリスチャンを見て「あなたのすべてが美しい」と言ってくださるということです。しかも、ここには、目とか、髪とか、歯とか、唇とか、頬とか、首とか、乳房とか、花嫁のからだの一つ一つの部分を取り上げて具体的にほめています。これは、教会はキリストのからだとも言われていますが、そのからだを構成している一つ一つの器官を見て「美しい」と言っておられるということです。私たち一人一人が美しいのです。感謝ですね。いったいどのように美しいのかを、早速、見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.美しい花嫁パートⅠ(1-3)

 

まず1~3節をご覧ください。ここには花嫁の美しさの具体的な七つの描写のうち、五つの部分が取り上げられています。すなわち、目と、髪と、歯と、唇と、口と、頬です。まず1節には、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ。」とあります。

 

まずその目です。「あなたの目は、ベールの向こうの鳩」とあります。ベールとは、花嫁が結婚式で身に着けるベールのことです。これは処女のしるし、また従順さを象徴しています。そのベールの向こうの鳩だと言われています。鳩は前にも出ていましたね。1章15節には「あなたの目は鳩」とありました。それは美しいもの、清らかであることの象徴でした。また、平和のシンボルでもあります。ですから、あなたの目は鳩のようだというとき、それは最高の誉め言葉なのです。

 

また鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、あなたの目は鳩というとき、それは単に美しいとか平和であるというだけでなく、聖霊のように聖く、何が正しく、何が間違っているのかを判別することができる目でもあるということです。

 

ちなみにイエス様はマタイ10章16節で、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われました。ここでは鳩が素直な鳥であると言われています。よく公園などで鳩にえさをやっている人を見かけることがありますが、何も疑うことなくすぐに集まってきます。そのように神の招きのことばに素直に集まって来る人、心に蒔かれたみことばを素直に受け入れる人でもあります。

 

次は髪です。ここには「髪は、ギルアデの山を下りて来るやぎの群れのようだ。」とあります。ここでは黒髪の美しさがたたえられています。えっ、やぎって白いんじゃないですかと思われるかもしれませんが、ここでは黒やぎのことを言っています。黒やぎの群れがギルアデの山を流れ下るようななめらかでつやつやとしている美しい黒髪だというのです。まさにラックススーパーリッチです。あれはブロンドですが・・。それはまるでやぎの群れがギルアデの山を下って来るようです。ギルアデの山とは、ガリラヤとサマリヤの東側にある高原のことですが、そこはヨルダン川の渓谷から1000㍍も高いところにありました。その高くて険しい崖がそびえ立つギルアデの山から群れをなしてやぎが下ってくるのです。上空からの光景を想像してみてください。なんとも美しく、勇ましい姿です。抜け毛の心配などいりません。

 

ところで、この髪の毛ですが、これはどんなに年老いても伸び続けることから、聖書ではいのちと力の源と言われています。聖書には、髪は二つのシンボルとして用いられています。一つは聖別と献身です。そしてもう一つは服従です。

 

聖別と献身ということで有名なのはサムソンです。彼は一生涯髪の毛を切りませんでした。なぜなら、彼は神にささげられた者、聖別された者であったからです。それをナジル人と言います。彼はナジル人として生まれてきました。その特徴の一つは髪を切らないということです。それはいのちと力を象徴していたからです。いったいサムソンはどうしてそんなに強いのかと、その強さの秘密を探ろうと、敵のペリシテ人はひそかにデリラという女性を送り込み、その出生の秘密を知ります。それで彼の髪の毛が切られてしまいました。すると神(髪)が彼から離れて行きました。このように私たちクリスチャンの美しさとは、神に自分をささげている姿です。美しい髪は、その姿を表しています。

 

それから、髪のもう一つのシンボルである「服従」ですが、Ⅰコリント11章15節にあります。「女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」

ここでは、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとって栄誉だと言われています。別に髪が長ければいいと言っているのではなく、その髪が意味しているところの権威に従うことがすばらしいということです。なぜなら、髪はかぶり物として女性に与えられているからです。かぶり物とは、自分が夫の権威の下にあることを表すものでした。それが創造の秩序です。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。それは男女に優劣があるということではありません。どちらが上でどちらが下かということではなく、男が神のかたちに造られ、女はその男から造られたという創造の秩序から、妻は夫に従うことが求められているのです。そのしるしがかぶり物だったのです。女性の長い髪はその服従のしるしでした。したがって、もし女性が髪を切るなら、頭にかぶり物を付けるべきです。もちろんこれは実際に頭にかぶり物をつけなければならないということではなく、キリストの権威に従うこと、夫の権威に従わなければならないということです。そのような女性は美しいということです。それはギルアデの山を下っ来るやぎの群れのようなのです。

 

ところで、髪は自分では数えられません。しかし、イエス様はマタイ10章30節でこのように言われました。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」主はあなたのすべてを知っておられるということです。自分でも自分のことがわからないことがあります。でも主はあなた以上にあなたのことを知っておられます。それゆえ、安心してこの方に従うことができるのです。このように従う人は、ギルアデの山から下ってくるやぎの群れのように美しいのです。

 

次に2節をご覧ください。「歯は、洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。」

次は歯です。それは洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのようです。どういうことでしょうか。「洗い場から上って来た羊」とは、毛を刈られる前に、毛の汚れを洗い場で洗い落としてもらった羊のことです。その羊の毛は真っ白です。1節にはやぎの毛のような黒髪について語られましたが、ここでは羊の毛のような白さが強調されています。

 

「それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない」というのは、これは歯の話です。上の歯と下の歯で一対になるわけですが、それをかみ合わせたとき欠けた歯がないということです。想像しみてください。ニヤッと笑ったとき前歯が1本欠けていると折角のきれいな歯が台無しです。しかし、花嫁の歯は完璧です。それはみな双子で、一方を失ったものはありません。きれいな歯並びをしています。よく「あの人の歯だけはきれいだ!」と言うのを聞くことがありますが、そういう歯です。他のところは大したことありませんが、歯だけはきれいなのです。「私はあの人の歯にほれて結婚した」という人さえいます。そんな歯並びです。現代人の歯は上下合わせて28本あると言われていますが、それが全部揃っているのです。花婿は、花嫁のそんなに歯の美しさかに圧倒されているのです。

 

聖書では、歯は食物を嚙み砕いて消化する働きがあるものとして用いられています。へブル5章12~14節には「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」とあります。乳歯(にゅうし)だと柔らかいので、固い物を噛み砕くことができません。それで乳ばかり飲まなければならないのです。乳ばかり飲んでいる人は、義の教えに通じていません。幼子なのです。しかし、大人の歯は固い物を噛み砕くことができます。それは霊的に成熟した者の歯です。そのような歯は真理をより深くかみしめ、理解し、自分のものとすることができます。

 

あなたの歯はどうですか。年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたみことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要がある状態でしょうか。花婿なるキリストは、花嫁の白くてきれいな歯、固くて食べ物を噛み砕くことができるような強い歯を見て、美しいと言ってくださいます。私たちもそのような歯を持ちましょう。神のみことばによって養っていただこうではありませんか。

 

3節をご覧ください。ここには「唇は紅の糸のようで、口は愛らしい。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」とあります。

次は唇です。ここには「唇は紅の糸のよう」とあります。イザヤ1章18節には、「紅のように赤くても」とありますが、これは真っ赤であるということです。それは同時に高貴な色を表していました。女性の美しさを飾るものの一つに口紅がありますが、紅のように赤い唇は魅力的ですよね。ここで花婿は、そんな花嫁の唇を称賛しています。

 

ところで、この「唇」はヘブル語では「サーファー」と言います。意味は「終結」、「末端」、「行き着く先」です。つまり、唇は内面の思いとか考え、感情が溢れて出てくる所のことを指しています。イエス様はマタイ15章18~19節でこのように言われました。「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」口から出るもの、唇から出るもの、それが人を汚します。すなわち、悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、ののしりといったものは、心から出てくるのです。その行き着くところ、その末端が唇であるということです。ですから、その唇が美しいというのは、そうした悪い考えとか、淫らな思い、偽りの心といったことのない純真な心を持つ人のことなのです。

 

詩篇45篇2節には、「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。」とあります。いいですね、あなたの唇からはやさしさが流れ出るのは。あなたの唇からは毒が飛び散るとなったら大変です。実はこれはメシヤ詩篇と言ってイエス様のことを預言して歌われた歌です。イエス様の唇はどのようなものだったでしょうか。ここには、「あなたの唇からはやさしさが流れ出る。」とあります。イエス様の唇からはやさしさが流れ出ていました。そういう唇です。そのような唇は美しいのです。それは紅の糸のように、高貴で美しい。かつては紅のように汚れていたものでも、雪のように白くきよめられて美しくされるのです。

 

そして、次は口です。「口は愛らしい」とあります。口が愛らしいとはどういうことでしょうか。口が小さくてかわいいということですか、それとも、口の形がかっこいいということでしょうか。そういうことではありません。「口」はヘブル語で「ミルバーブ」と言いますが、それは「語ること」を意味しています。ですから、口が愛らしいというのはその口の大きさとか、形よりも、むしろその口から出てくることばのことです。それが美しいのです。

 

ヤコブ3章2節には、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」とあります。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、からだ全体を制御できる完全な人です。私たちは口でよく失敗するものです。言わなくてもいいようなことを言って相手を傷つけてみたり、言わなければならないことを言えない弱さがあります。そんな舌をヤコブは火にたとえて、「あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。」と言っています。

 

へブル3章15節には、「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず髪にささげようではありませんか。」とあります。「それなら」とは、イエスの血によって、聖なるものとされたのですからという意味です。ですから、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を絶えず神にささげようではありませんかというのです。そのような唇は、そのような口は美しいのです。

 

詩篇63篇3節には、「あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ私の唇はあなたを賛美します。」とあります。このような口こそ、美しい口です。そのような口は愛らしいと、そのような花嫁の口を花婿は称賛しているのです。

 

次は「頬」です。「頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」どういうことでしょうか。「頬」はヘブル語では「ラー」という言葉ですが、「こめかみ」とも訳せます。ですから、新共同訳聖書ではこれを「こめかみ」と訳しています。その頬がざくろの片割れのようだというのです。ざくろはイスラエルの七つの果実の一つとして、聖書には豊かさとか繁栄、生命の象徴して用いられています。祭司がエポデの下に着る長服の裾周りにも付けられました(出エジプト記28:33)。それはざくろがキリストの生命の豊かさを表していたからです。ここで花嫁の頬がそのざくろの片割れのようだというのです。つまり、ざくろのように豊かな実を持っているということです。ですから、この「頬」とか「こめかみ」というのは、心の思いの源を表しているのです。心にどんな思いを抱くかによって結果が決まります。心に肉の思いを持つなら死という実を結びますが、御霊の思いを持つなら、いのちと平安の実を結びます。ざくろのように。それゆえ、聖書はこのように勧めているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

あなたの心にはどんな思いを宿していますか。いのちの泉はここからわきます。ざくろの片割れのような豊かな実を結ぶために、あなたの心を見守りましょう。

 

Ⅱ.美しい花嫁パートⅡ(4-6)

 

花嫁の美しさの称賛が続きます。4~6節をご覧ください。4節には「首は、兵器倉として建てられたダビデのやぐらのよう。その上には千の盾が掛けられ、すべて勇士の丸い小盾だ。」とあります。

今度は首です。ここには、その首が、兵器倉として建てられたダビデのやぐらのようとあります。どういうことでしょうか。当時、ダビデのやぐらには盾が立て掛けてありました。盾が立て掛けられていないということは戦っていることを表していました。ですから、盾が立て掛けられているということは戦っていないということ、平和な状態であることを意味していました。ここには、花嫁の首は、その兵器倉として建てられたダビデのやぐらのようだとあります。そこには千の盾が掛けられていました。全く戦いがない平和な状態であったということです。

 

「首」は女性の美しさの象徴でもあります。京都の舞子さんとか着物姿の女性のうなじはきれいですね。あまりもきれいなのでお顔を見るとそうでもなくてがっかりすることがありますが、うなじがきれいだとうっとりして見入ってしまいます。ここでは花嫁の首が、うなじがきれいなのです。それは単に見た目がきれいであるというよりも、花嫁のその心の態度がきれいであったということです。

 

聖書には、「うなじがこわい」という表現が使われています。「こわい」とは強情であるとか頑固であるということです。本来は、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗する様を表現したものですが、それがイスラエルの民に対して使われています。イザヤ書48章4節です。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので」彼らは、神のことばに耳を傾けず、聞くこともせず、訓戒を受け入れることもしようとしませんでした。まさに反抗的な民であったのです。そのような者のうなじは美しくありません。

 

でもイエス様はどうでしょう。イエス様はこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28)

イエス様は心優しく、へりくだっています。ですから、私たちもイエス様のくびきを負うことができます。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。イエス様を見るならうなだれることはありません。イエス様に従うなら、あなたの首はまっすぐになります。美しい首になるのです。

 

次に、5節と6節をご覧ください。「二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の子鹿のようだ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」

ここに「二つの乳房」とあります。「二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の子鹿のようだ。」と。乳房の話なんて、ちょっとエロティックじゃないかと思われるかもしれませんが、ここで花婿と花嫁は既に結婚しているのです。結婚している夫婦にとってはむしろ自然なことです。箴言5章19節には、「彼女の乳房がいつもあなたを潤すように」とあります。

 

「乳房」はヘブル語で「シャドー」と言いますが、それは祝福と恵みを象徴しています。イザヤ書66章12節には、「主はこう言われる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の栄光を与える。あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる。」とあります。川のような繁栄とあふれる流れのような国々の栄光が乳を飲むようだと言われているのです。その二つの乳房が、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の小鹿にたとえられているのです。

 

双子とはバランスのとれた美しい乳房を表現しています。しかも小鹿です。小鹿とは若々しさ、みずみずしさ、張りのある若い乳房のことをたとえています。垂れていません。跳びはねるような張りのある乳房であるということです。別に乳房の美しさを言っているのではなく、霊的にそうであるということです。つまり、花嫁の心が若々しく、みずみずしく、張りがあって、跳びはねるように魅力的であるということです。ですから、私はもう張りがないという人も落ち込まないでください。あなたの心がどうであるかということですからあなたの心はみずみずしく張りがあるでしょうか。それとも、カサカサと萎れてはいないでしょうか。双子のかもしかとはバランスがとれているという意味だと申し上げましたが、あなたの心はバランスがとれているでしょうか。それとも、アンバランスでしょうか。不安定な状態ではないでしょうか。アップダウンの激しい状態でしょうか。でも、イエス・キリストにあるなら、あなたの乳房は双子のかもしかのようにバランスがとれたものとなります。

 

6節をご覧ください。ここには「そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」とあります。「そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに」とは、日暮れになり、風が吹いて涼しくなるまでにということです。それまでに花婿は没薬の山、乳香の丘に行こう、というのです。これは、没薬の山、乳香の丘で花嫁に会いに行こうということです。花婿は、日が暮れる前に、花嫁を迎えに来られるのです。何のことかというと、これは再臨のことです。新聖歌148番に「夕べ雲焼くる 空を見れば、主の来たり給う 日のしのばる」(新聖歌148)とありますが、日が暮れる前に、花婿なる主は花嫁であるあなたを迎えに来られるのです。それはもうすぐです。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたを迎えに来てくださるのです。

 

ここには「没薬の山、乳香の丘」とありますが、花婿が来られるのは没薬の山、乳香の丘です。これは以前も見たように、イエス様ことを象徴しています。つまり、私たちの身代わりとして死んでくださったイエス様を信じる者のところに迎えに来られるということです。ここではそれが妻の乳房によって表現されています。乳房は心を表していると言いましたが、そういう心の状態の人のところに来られるということです。あなたはどうでしょうか。双子のかもしか、二匹の小鹿のような心でしょうか。キリストの花嫁として、キリストの心を心として、キリストが迎えに来られるのを待ち望みたいと思います。

 

Ⅲ.あなたのすべてが美しい(7)

 

最後に、7節をご覧ください。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」とあります。

 

これが花嫁の姿です。花婿の愛の告白には、花嫁の美しさが称えられているだけで、花嫁の欠点とか、足りないところは一つもありません。花婿にとって花嫁は何の汚れもないのです。花婿であられるキリストが十字架であなたの一切の罪、汚れを贖ってくださったからです。そのことをパウロはエペソ5章26~27節でこのように言っています。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

「キリストがそうされたのは」とは、キリストが十字架でご自分をささげられたのは、ということです。それは、教会をきよめて聖なるものとするためです。しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためだったのです。

 

これが私たちの姿です。私たちはかつては神から遠く離れ、罪と欲に汚れた者でしたが、今はキリストのうちにあるものとされたことによって、きよめられ聖なるものとされました。確かに、罪を犯すことがあります。汚れることがある。けれども美しいのです。キリストがあなたの罪のためにご自身のいのちをささげてくださったからです。その血によってあなたのすべての罪は贖われたからです。教会はそうかもしれないけれども、私は本当に罪深い人間で聖くないと言う方がおられますが、あなたのその教会に加えられています。あなたが目なのか、鼻なのか、髪なのか、歯なのか、頬なのか、口なのか、唇なのか、首なのか、乳房なのかわかりませんが、あなたもこのキリストのからだである教会の一部なのです。そんなあなたを見てイエス様は「美しい」と言ってくださるのです。あなたの目は鳩です。髪はやぎの群れです。歯は洗い場から上って来た羊のようです。唇は紅の糸、口は愛らしい、頬はざくの片割れ、首はダビデのやぐらのよう、二つの乳房は双子のかもしか、二匹の小鹿と。感謝ですね。

 

であれば私たちは自分をどう見るかではなく、花婿であられるキリストがどう見ておられるのか、キリストの目、神の目で自分を見なければなりません。神さまはあなたを愛しておられます。それはご自分の御子をお与えになったほどにです。その御子の血によってあなたの罪、汚れはきよめられ、聖なるものとされたのです。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」これが花婿の花嫁であるあなたを見る目なのです。

 

アメリカの伝道者で、数年前に天に召されたビリー・グラハムはこう言いました。「過去を考えてむだな時間を過ごさずに、未来を見つめてキリストとの交わりに生きてください。キリストが赦すことのできないほどの大きな罪はないのですから、恵みとあわれみを感謝し、キリストを毎日賛美しましょう。」

これが、罪赦された花嫁にふさわしい姿ではないでしょうか。「あなたには何の汚れもない」と言ってくださる花婿に、心からの感謝と賛美をささげましょう。

民数記12章

民数記12章

 

 きょうは民数記12章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.モーセに対する非難(1-3)

 

 まず1節から3節までをご覧ください。「そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」主はこれを聞かれた。モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。」

 

「そのとき」とは、11章にある出来事があったときのことです。イスラエルの民は神の山シナイ山から旅立ちバランの荒野にとどまりましたが、そこで民はひどく不平を鳴らしました。そこで主は彼らに対して怒りを燃やされたので、宿営をなめ尽くされました。その場所の名は「タブエラ」でしたね(11:3)。モーセはひどく困り果てたので主に祈ると、主は二つの解決を示されました。一つは、モーセのそばに70人の長老を置いてくださるということです。彼らがモーセとともに民の重荷を負うので、モーセの重荷は軽くなれます。そしてもう一つのことは、彼らが肉を食べられるようらにするということでした。男だけで60万人もいるのにどうやってそんなことができるのでしょうか。主はモーセにこう言われました。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」(23)そして、そのことば通りに、主は彼らに肉を与えました。どうやって?主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来てくださったのです。それを宿営の近くに落とされたので、民はそれを集めて食べました。しかし、彼らはまだ肉を噛み終わらないうちに、主の怒りが彼らに降ったので、多くの民が激しい疫病ら打たれて死にました。その場所の名は「キブロテ・ハ・タアワ」ですイスラエルはそこからハツェロテに進み、そこにとどまりました。「そのとき」です。モーセの姉ミリアムがアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難したのです。

 

このクシュ人の女が誰のことを指しているのかはっきりわかりません。モーセにはチッポラという妻がいました。彼女はミデアン人イテロの娘です。「クシュ人」とは、エチオピア人のことなので、ミデアン人であるチッポラのことではないように思えますが、もしかするとチッポラが死んだ後の二番目の妻のことなのかもしれません。いずれにせよ、イスラエル人ではない異邦人の女を妻としていたのです。そのモーセの妻のことでミリアムとアロンがモーセを非難しました。なぜでしょうか。妬みがあったからです。自分はモーセの姉なのにモーセばかり用いられて自分が全く認められていないことに不満があったのです。モーセが異邦人の女を妻としていたことで、それを利用してモーセを非難したのです。しかし、その根底にあったものはモーセに対する妬みでした。、このような妬みは地に属するものであり、肉に属し、悪霊に属するものです。ヤコブ3章14-15節には、「 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。私たちの中にもすぐにこうした妬みが入り込んできます。他の人が祝福されるのを見たり聞いたりすると、落ち込んでしまうのもその一つです。私たちは、自分の中にこうした妬みがないかどうかを点検しなければなりません。確かにモーセにも欠陥がありました。しかし、モーセは神によって立てられた神のしもべです。主が彼をお立てになったのです。そのモーセを非難して彼の評判を傷つけるということは、神ご自身を傷つけることと同じです。ミリアムはそのことを理解していませんでした。

 

ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。」とあります。私たちは平気で上に立てられた権威を非難したり、悪口を言ったりすることがありますが、それは神ご自身を非難することになるのです。なぜなら、上に立つ権威は、すべて神によって立てられたものだからです。勿論、私たちはキリストにあって一つであり、そこにはだれが偉いかといった上下関係はありません。みな平等です。けれども秩序があります。神によって立てられた権威を非難することは神の秩序を乱すことであり、神のみこころではないのです。むしろ上に建てられた権威を理解し、祈り、支えていくことが求められているのです。

 

ところで、モーセはミリアムとアロンから非難されても、怒ったり、反発したりしませんでした。なぜでしょうか。もしかしたら、確かに自分は足りない人間だと思ったのかもしれません。それでも彼は神によって立てられたリーダーです。「だったら自分でやってみたらいい。できないから」と言ってもおかしくなかったのに、何も言いませんでした。ここには、「モーセは、地上のだれにもまさって非常に柔和であった」とあります。第三版では「謙遜であった」となっています。彼は、地上のすべてにまさって謙遜だったのです。謙遜であるとはこういうことですね。悪口や非難されてもすぐに腹を立てたりしません。それをすべて神にゆだねるのです。モーセはそういう人でした。

Ⅱ.神のしもべモーセ(4-8)

 

次に4節から8節までをご覧ください。「主は突然、モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出て行った。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出て行くと、主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」」

 

すると主は突然、モーセとアロンとミリアムの三人に、天幕の所に出るようにと言われました。モーセも傷ついていましたが、それ以上に傷つかれたのは主ご自身でした。ですから、主は黙っておられなかったのです。彼らが出て行くと、主は雲の柱の中にあって降りて来られ、このように仰せになられました。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」

 どういうことでしょうか。「幻の中で知らせる」とか「夢の中で語る」というのは、誰かの解き証しが必要であるようなあやふやな語り方で語るということです。しかし、モーセに対してはそうではありません。モーセに対しては口と口で語り、明らかに語ります。謎で話すようなことはしません。なぜなら、彼は全家を通して忠実な者だからです。どういう意味でしょうか。神の家全体のために忠実であるということです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言し不思議を行なっているのを見て「なんてすばらしいんだろう」と興奮し、自分もそのような奉仕に携わりたいと思ったかもしれませんが、モーセはそういうつもりで奉仕していたのではなく、ただ神に忠実であることに徹していただけでした。神から与えられた使命を全うするために与えられていた賜物を用いて仕えていたのです。彼は自分の分をよくわきまえて、与えられた奉仕に集中していたのです。

 

時に私たちも、そうした目ざましいわざや興奮するような事に携わりたいと思う傾向がありますが、そうではなく、自分に与えられた使命を認識し、そのために与えられた賜物を用いて、忠実に与えられた役割を果たすことが求められます。そのことが、ローマ12章3節で教えてられています。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」

思うべき限度を超えて思い上がってはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。他の人を見て羨み自分もそれを持ちたいなあと思うことがあっても、主が一人一人に分け与えてくださった信仰の量りがあります。その量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。

 

パウロはこの御霊の賜物について、Ⅰコリント12章でこのように述べています。少し長いですが、読みたいと思います。

「12:1さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。

12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。

12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。

12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。

12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、

12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。

12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。

12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。

12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。

12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。

12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、

12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。

12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

12:28 神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。

12:29 皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。

12:30 皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。

12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。}

 

ここでパウロは、皆が使徒ではなく、皆が預言者ではない。皆が教師ではなく、すべてが力あるわざではない。」と言っています。皆違います。しかし、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部゛んを備えてくださいました。そして、ここで注目したいことは、22節のことばです。それは、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない部分であるということです。それは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄え欲するものでおおうことで、見苦しいと思う部分がもっと恰好の良いものとなるためです。そのようにして、からだの中に分裂がなく、各部分が互いに配慮し合うためです。この奥義は偉大ですね。この世の中では弱い部分を排除しようとしますが、神の国においてはかえって無くてはならないものとして尊ばれるのです。そのようにして、調和が保たれているのです。

 

あなたにはどのような賜物が与えられているでしょう。それは地味で、きらびやかしたものではないかもしれませんが、それがどのようなものであれ、主のしもべに求められていることは忠実であることなのです。

 

Ⅲ.主の懲らしめ(9-16)

 最後に、ミリアムの高慢に対する主のさばきを見て終わりたいと思います。9節から16節までをご覧ください。「主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」モーセは主に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください。」しかし主はモーセに言われた。「もし彼女の父が彼女の顔に唾したら、彼女は七日間、恥をかかされることにならないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリアムが戻るまで旅立たなかった。それから民はハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営した。」

 

主の怒りがミリアムとアロンに向かって燃え上がると、主は天幕の上から離れ去って行きました。すると、ミリアムはツァラートに冒されたようになり、雪のように白くなりました。ツァラ―トとは重い皮膚病のことです。すると、アロンがモーセに「わが主よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」と言いましたが、主は彼女を七日間宿営の外に締め出さなければならないと言われたので、そのようにしました。
 モーセは、自分を非難したミリアムのために祈りました。彼には赦す心があったのです。愛は寛容であり、愛は親切です。自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人がした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてをしのびます。まさにモーセは愛の人でした。愛をもって行動したのです。しかし、主は彼女を七日間、宿営外の外に締め出しておかなければならないと言われました。どういうことでしょうか。

 

「彼女の顔に唾をする」とは、彼女を辱めるということです。死刑ではないけれども、このように唾をかけられて、辱めを受けるという刑が律法にありました。それと同じように、ミリアムは神の懲らしめを受け、自分の罪を悲しみ、もう二度と同じことをしないという悔い改める期間が求められたのです。それが七日間、宿営の外に締め出されるということです。

 

それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出されましたが、民はミリアムが連れ戻されるまで、そこにとどまり、旅立ちませんでした。それはミリアムだけでなくイスラエル全体がこのことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するためではなく、愛をもっておられるからです。へブル12章5~13節に次のようにあるとおりです。「そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。」

 

こうしてモーセたちは、ハツェロテを旅立ち、パランの荒野に宿営しました。イスラエルの民は、約束の地に向かう荒野の道中ですぐにつぶやき、激しい欲望にかられてその多くの民が滅びました。また、モーセの姉ミリアムは、主のしもべモーセを非難して主の懲らしめを受けました。これらのことはみな何に起因していたのでしょうか。それは、主のあわれみと真実から離れてしまったことです。主は私たちに良くしてくださいます。一見、いつもと同じことの繰り返しのように感じるかもしれません。物足りないと感じるかもしれませんが、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てくるのです。そして非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序を乱すことや平和を壊すことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むことが、天に向かって進む私たちのこの荒野での歩みにおいて求められていることなのです。

荒野から上ってくるのは何か 雅歌3:6-11

2021年7月18日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑦)

聖書箇所:雅歌3章6~11節

タイトル:「荒野から上って来るのは何か」

 

 雅歌からお話しております。きょうはその7回目となりますが、「荒野から上ってくるのは何か」というタイトルでお話したいと思います。6節に「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とあります。きょうは、このタイトルで3つのことをお話します。

 

Ⅰ.あらゆる香料をくゆらして(6)

 

まず6節をご覧ください。「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう。没薬や乳香、隊商のあらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのは。」

 

ここから場面が変わります。1章1節から2章7節までは、結婚式当日の思い出が語られました。そして前回の2章8節から3章5節までは、婚約時代の思い出が語られていました。ここからは結婚式に至るまでの出来事が描かれていきます。

 

「煙のように荒野から上って来るのは何だろう。」これは、王である花婿が花嫁をエルサレムに迎えるために使者たちを遣わし、その花嫁が行列をなしてエルサレムに上って来る様子です。それを見た群衆のひとりが語っていることばです。ここには「何だろう」とありますが、この「何」という原語のへブル語は「ゾー」ということばで、女性の単数形が使われています。ですから、これは明らかに1人の女性を指していることがわかります。それはこれまで登場してきた花嫁のことです。ですから、新共同訳ではこれを「おとめ」と訳しているのです。また、他の多くの聖書でも「何か」ではなく、「誰か」と訳しています。3章前半では、花婿を見失った花嫁が花婿を必死に探し出すシーンが描かれていましたが、花婿を見つけた花嫁は、彼をしっかりと捕まえると放すことなく、母の家に、すなわち、実家へと連れて行きました。その後花嫁は荒野へと導かれていたのです。花婿はその荒野から花嫁を連れ出し、自分のもとへと引き寄せているわけです。

 

「荒野」というと、皆さんは何を想像されるでしょうか。さくらチャーチでは今、祈祷会で民数記から学んでおりますが、エジプトを出て約束の地へ向かったイスラエルの民はバランの荒野に導かれると、彼らはひどく不平を言って主につぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていたことを思い出す。きうりも、すいかも、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

失礼ですね。主がせっかくエジプトの奴隷の中から救い出してくださったというのに、それに感謝するのではなく、不平や不満を言うとは。いったいなぜ彼らはつぶやいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではありませんでした。不便なことがあれば、困難もありました。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間の旅で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活は・・」と言ってつぶやいたのです。

それが荒野です。飢えと渇きに満ちたところ、不平不満、不信仰が渦巻いているところ、それが荒野なんです。花婿は花嫁をそんな不信仰の荒野から連れ出して、自分のもとで安らぐようにしてくれます。この花婿とはだれのことでしょうか。そうです、これは私たちの主イエス・キリストです。そして花嫁とは私たち教会のことです。すなわち、これはやがて主が私たちをこの地上の荒野から引き上げてくださり、ご自身のもとへと連れ出してくださる携挙のことを予表しているのです。感謝ですね。この地上では旅人、私たちもイスラエルの民が荒野で「ああ、肉が食べたい」と不平を言ったように、さまざまな試練や困難の中でもがき苦しむ者ですが、やがて主がこの人生の荒野から完全に引き上げてくださるときがやって来るのです。そのときを待ち望みながら、そこに希望を置いて、この荒野での歩みを信仰と忍耐をもって送れることは何と幸いなことでしょうか。

 

ところで、花嫁はどのように荒野から上ってくるのでしょうか。ここには「煙の柱のように、没薬や乳香、隊商のあらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのは」とあります。どういうことでしょうか。花嫁は、あらゆる香料の煙をくゆらせて、垂直に上る柱のような煙を携えて上ってくるということです。

この香の煙とは、私たちの祈りのことです。聖書では、香の煙は神さまにささげられる香りであると言われています。たとえば、詩篇141篇2節には「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように。」とあります。また、ヨハネの黙示録5章8節にも、「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」とあります。ここには「香は聖徒たちの祈りであった」とあります。香は聖徒たちの祈りを表しているのです。私たちの祈り、私たち自身が神さまへの香のささげ物なのです。それが煙の柱のように、没薬や乳香など、あらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのです。

 

「くゆらせて」ということばは、あまり聞かないことばですね。「くゆらせて」ということばを辞書で調べてみると、「燻(くす)ぶらせて」とか、「香(かお)らせて」とありました。よい匂いがほのかに立つことです。花嫁は、没薬や乳香、その他あらゆる良い香りを立ち上らせながらやって来るというのです。これが花嫁の香りです。これはもともと花婿なるキリストの香りですが、キリストと結ばれ、キリストに似た者とされるクリスチャンは、同じ香りを放つようになるのです。

 

あるとき、先生と弟子が道を歩いていました。すると一人の男が、道端で紐を見付けると拾って匂いを嗅いでいるのを見ました。ある紐は大事そうに袋に入れるのですが、別の紐は匂いを嗅ぐとポーンと捨てるのです。「先生、あの男は何をしているんですか」と尋ねました。

すると先生は答えました。「あなたたちは気が付きませんでしたか。彼が最初に拾った紐は、香木(こうぼく)と言って匂いの非常にいい木を縛ってあった木だ。だからその匂いがあの紐に染み付いて、とってもいい臭いがしたのだ。それで彼は大事そうにちゃんと袋に入れて持って帰ったんだ。でも二回目に拾った紐、あれは捨てただろう。あれはな、実は腐った魚を捨てるために縛っておいた木なんだ。だから、臭い匂いがしみ付いていたので捨てたんだよ。同じように、あなたたちも一緒にいる人のにおいが身に着くものだ。だから一緒に過ごす人をよく選びなさいよ。」と。

含蓄のあることばではないでしょうか。私たちが一緒に過ごすのは、私たちの花婿イエス・キリストです。この方は乳香、没薬など、あらゆる香料の良い香りがします。ですから、この方と結び合わされた私たちも同じ香りを放つことができるのです。それが花嫁である私たちクリスチャンに求められている務めでもあります。

 

エペソ5章1~2節を開いてください。ここには「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」とあります。「ですから」というのは、私たちは、以前は闇でしたが、ということです。でも今は、主にあって光となりました。「ですから」です。もっと言うならば、私たちは、以前はキリストから遠く離れ、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者たちでしたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされたのですから、ということです。ですから、私たちは、愛されている者らしく、神に倣う者でなければなりません。また、愛のうちに歩まなければなりません。なぜなら、キリストが私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださったからです。ほら、ここに、キリストご自身が、神への芳ばしい香りであり、その香りを献げてくださったとありますね。ですから、私たちも芳ばしい香りとして、自分を神にささげなければならないのです。

 

同じことが、Ⅱコリント2章15~16節にも書かれてあります。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。」
 私たちは、神に献げられた芳ばしいキリストの香りです。それは滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りですが、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。キリストの花嫁である私たちには、このような務めがゆだねられているのです。すごいですね。それは一人の人の運命を、永遠に変えてしまう香りです。人の一生を変えてしまうのです。そのような務めが与えられているのです。私たちはとてもこのような務めにふさわしい者ではありませんが、でも、神はこんな私でも、あなたでも用いてくださるのです。

 

あの星野富弘さんがこういう詩を作っていらっしゃいます。

風はみえない

だけど 木に吹けば緑の風になり

花に吹けば花の風になる

今 私を すぎていった風は

どんな風になるのだろう

(星野富弘「詩画集 風の詩―かけがえのない毎日」から)

 

風はみえませんが、いろいろな色があります。緑の木々に吹くと、何だか緑の色に見えるし、花に吹けば、ピンクの色に見えます。では、あなたに吹いた風はどんな色でしょうか。美しい色ですか、そしていい香りですか。もしそれがイエス様の香りがするなら、なんと幸いでしょうか。荒野から上って来る花嫁は、没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように上ってきます。それが私たちクリスチャンの香りです。私たちにはそのような生き方が求めてられているのです。それがキリストの香なのです。

 

Ⅱ.夜襲に備える勇士(7-8)

 

次に、7~8節をご覧ください。「見よ、あれはソロモンの乗る輿。周りには、イスラエルの勇士の六十人衆がいる。彼らはみな剣を帯びた練達の戦士。それぞれ腰に剣を帯びて夜襲に備える。」

 

これは、群衆の中にいた別の人が語っていることばです。花婿は花嫁が婚礼のパレードをしているときに、その人が「見よ、あれはソロモンの乗る輿」と言いました。「輿」とは、日本のお祭りのときに見るお神輿(みこし)を想像する人もいるかもしれませんが、これは移動式ベッドのことです。当時は長椅子としても使われていました。その移動式ベッドに乗っていたのです。まさにシンデレラですね。かぼちゃの馬車ではありませんが、王が乗る最高の乗り物に乗っていたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも王である花婿の輿に乗るようになります。なぜなら、私たちはキリストの花嫁とされたからです。花嫁であれば、花婿のものを受けるのは当然です。ローマ8章17節には、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」(ローマ8:17)とあります。私たちは、神の子とされたわけですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。キリストが持っているすべてのものを共に持つ者とされました。だってキリストの花嫁なんですから。お嫁さんの立場ってすごいですね。花婿との共同相続人となるのです。玉の輿に乗るとはこのことです。特に私たちの花婿は天地万物を造られた方です。私たちはそのような方と夫婦になり、その方の持っているものを全部所有するようになるのですから。これが私たちに与えられている立場です。

 

7節の後半見てください。このソロモンの乗る輿の周りには、イスラエルの勇士60人衆がいます。これはこの輿を護衛する人たちです。強力なエス・ピー、ボディー・ガードです。彼らがガードしてくれるのです。なぜですか?8節には「夜襲に備える」とあります。「夜襲」とは、下の欄外注にあるように「夜の恐怖」のことです。夜になると様々な恐怖が襲ってきます。突然、脇からナイフを持った強盗が襲ってくるかもしれません。あるいき野獣が襲ってくるかもしれません。でも何が襲ってきても大丈夫です。なぜなら60人の勇士がいて守ってくれるからです。彼らはみな剣を帯びた練達の戦士たちです。最強のボディー・ガードなのです。

 

このようなボディー・ガードが私たちにも与えられています。それは天使たちです。へブル1章14節にはこうあります。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」「救いを受け継ぐことになる人々」とは誰のことでしょうか。そうです、私たちクリスチャンのことです。神はこの御使いを遣わし、救いを受け次ぐことになる私たちクリスチャンに仕え、すべてのわざわいから守っておられるのです。

 

詩篇34篇7節には、「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。」とあります。「主を恐れる者」とは、クリスチャンのことです。主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出されるのです。すばらしいですね。

 

かつてイスラエルがアラムと戦っていたとき、アラムの戦略がすべてイスラエルの王にツーツーだったことがありました。それでアラムの王がその原因を突き止めると、それはイスラエルの預言者エリシャが、王室の中で語られていることばまでもイスラエルの王に告げているからだということがわかりました。それでエリシャを捕まえるために人をドタンというところに遣わしました。エリシャの召使いが外に出てみると、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。若者は焦ってエリシャに「ご主人様。どうしたらよいでしょう」と言うと、エリシャはこのように言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(Ⅱ列王記6:16)

そして、エリシャは主に祈って言いました。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」(Ⅱ列王記6:17)

するとどうでしょう。主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。結局、主が敵の目をくらませたので、敵は何もすることができませんでした。そして、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入することはなかったのです。

 

皆さん、私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。私たちには神の御霊、聖霊がともにおられるのでそれだけでも十分安心ですが、さらに幾千、幾万という天使たちが私たちの周りに陣を張り、助けてくださるのです。それは本当に心強いことです。あなたは今、何に脅えていますか。何を心配していますか。あなたの周りには、イスラエルの勇士の60人衆がいて、あなたをしっかりと守ってくださるということを信じていただきたいと思います。

 

ところで、クリスチャンにはこのような強力な護衛がいるのだから、一切危険な目に遭うことはないのかというと、そうではありません。クリスチャンでも交通事故に遭ったり、危険な目に遭ったりすることがあります。勿論、そのようなときでも主の使いが守ってくださいますが、それは一切の危険から守られるということではないのです。ここには「夜襲に備える」とあります。「夜の恐怖」から守ってくれるのです。夜の恐怖とは何でしょうか。それは、暗闇の世界の支配者たちのことです。天にいるもろもろの悪霊のことです。そのような敵から守ってくれるのです。

 

エペソ6章12節をご覧ください。ここには、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。皆さん、私たちの格闘は、目に見える血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。このような悪霊に襲われることはありません。たとえ襲われたとしても、御使いが守ってくれるので大丈夫です。もちろん、私たちも神の武具を身につけて戦いますが、私たちの戦いは一人で戦うものではありません。イスラエルの勇士60人衆が共に戦ってくれるのです。何よりも神ご自身がともにいて、戦ってくださいます。私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです(Ⅰヨハネ4:4)。だから、恐れることはありません。

 

サタンは日夜、クリスチャンであるあなたを訴えるでしょう。「また罪を犯した」「それでもクリスチャンか」「あなたがクリスチャンだとは思えない」そういってクリスチャンであるあなたを非難して攻撃してきます。でも恐れてはなりません。あなたには主の勇士60人衆がいて、守ってくれるのだから。あなたは決して一人ではありません。一人で戦うのではないのです。主の使いがあなたとともにいて、戦ってくださいます。そのことを忘れないでください。

 

Ⅲ.ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に(9-11)

 

最後に、9~11節をご覧ください。9節と10節には「ソロモン王は、レバノンの木で自分のために駕籠を作った。その支柱は銀、背は金、座席は紫布で作り、内側には、エルサレムの娘たちの愛の切りばめ細工が施されている。」とあります。

 

ソロモン王は、レバノンの木で、自分のために駕籠を作りました。これは7節の輿、移動式ベッドのことではありません。新共同訳では「天蓋」と訳していますが、これは奥の間(寝室)に用意されている新郎新婦のためのベッドです。1章17節に「私たちの寝床も青々としています」とありますが、その寝床のことです。ソロモンは、花嫁のために豪華なベッドを用意したのです。それはレバノンの木でできた豪華なものでした。レバノンの木といったら、当時は最高の建材でした。支柱は銀、背は金です。座席は紫布でできていました。その内側には、エルサレムの娘たちが施した愛の切りばめ細工が施されていました。花婿であるソロモンが愛情を込めて作ったのです。どうしてでしょうか。それは、花婿にとって最高の喜びの日だからです。

 

11節をご覧ください。「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。王は、ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に、母がかぶらせた冠をかぶっている。」

「シオンの娘たち」とは「エルサレムの娘たち」のことです。ここではエルサレムの娘たちに呼びかけられています。ソロモン王を見に出かけなさいと。なぜ?王は、ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に、母がかぶらせた冠をかぶっているからです。この「冠」とは王冠のことではありません。結婚式のときに花婿にかぶせられた冠のことで、植物の枝で編んだ花の冠でした。もうすぐオリンピックですが、マラソンの勝者には月桂樹の冠がかぶせられますが、それに似ています。それは喜びを表していました。喜びのしるしとしての冠です。それは花婿にとって最高の喜びの日なのです。

 

イタリヤのシチリヤでの結婚式の様子がテレビで紹介されていましたが、今でも中世のやり方が受け継がれています。新郎新婦が音楽隊の音楽に合わせて、村中を歩き回ります。花婿が花嫁を家まで迎えに行き、それから村中を歩き回り、結婚式場に入って行きます。村中に、喜びが溢れます。愛する新郎新婦が一緒にいる時、そこには喜びがあります。それは最高の喜びの日です。この花婿との婚礼にあなたも招かれているのです。

 

黙示録19章6~7節には、「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。」とあります。結婚式の準備には時間がかかります。しかし、王であるキリストとの結婚式は普通の結婚式ではなく、極めて特別な結婚式です。準備に約2,000年の歳月が費やされましたが、花婿が花嫁と結び合わされる時は急速に近づいています。Ⅰテサロニケ4章16~17節にあるように、主ご自身が天から下って来られ、私たちを一挙に引き上げてくださいます。そして天の御国で主と結ばれ、一つになる時がやって来るのです。そのためにしっかりと備えなければなりません。

 

キリストは幾世紀にもわたり、この天での結婚式のために花嫁なる教会を整えてこられました。使徒パウロによると、キリストが教会のためにご自身を献げられたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためである、とあります。そして、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためでした(エペソ5:25-27)。

 

パウロはコリントのクリスチャンに、こう述べています。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」(Ⅱコリント11:2)

当時のユダヤ人の結婚式では、花嫁の友人という人がいました。普通は二人選ばれました。彼らの役割は何かというと、結婚式の日まで、花嫁の純潔を守ることでした。つまり、きれいな体のままで、花嫁を花婿のところに連れて行くことだったのです。パウロはここで、自分はそういう働きを任せられた者であると言っているのです。

 

キリストの教会、私たちクリスチャンはイエス・キリストの花嫁です。その花嫁に求められていることは、キリストがもう一度、この世界に戻って来られるとき、すなわち、再臨される時に、本当に傷のない、純粋な教会をキリストの花嫁として整えることです。私たちもイエス・キリストの花嫁として、愛する花婿に、自分が持っている最も良いものを捧げたいと思います。

 

あなたはどうでしょうか。そのために備えておられますか。この喜びの日に、あなたも招かれています。いや、驚くべきことに、この婚宴の席で、花嫁として立つようにと招かれているのです。感謝すべきことに、招待状は、すでにあなたの手に渡されています。ですから、どうか神の招きにふさわしく歩むことが出来ますように。私たちはきっとこれからも、何度も何度も罪を犯すことでしょう。何度も何度も神に背を向けてしまうかもしれません。でも、イエスさまはあなたのために祈っておられます。そのことを忘れないでください。そのことに気づくたびに、花婿なるイエスさまを見つめることが出来ますように。そしてその度に、神の招きに相応しく歩もうと思い直し、悔い改めて、将来招かれる子羊の婚宴を、喜びをもって見つめながら、歩んでいくことが出来ますように。

民数記11章

2021年7月14日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:民数記11章

 

きょうは、民数記11章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

Ⅰ.イスラエルの民の不平、つぶやき(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。「さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。その場所の名はタブエラと呼ばれた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降りて来た。」

 

イスラエルは神の山シナイ山のふもとから旅立ち、約束の地に向かって荒野の旅を始めました。彼らが宿営を出て進むとき、主の雲が彼らの上にあって彼らを導きました。主の雲が最初にとどまったのはパランの荒野でした(10:12)。それはシナイ山の北にある荒野ですが、彼らが主の山を出て、三日の道のりを進んだところにありました。しかし、彼らがパランの荒野に着くまでの間に大きな問題が起こりました。1節から3節までを見てください。彼らはひどく不平を言って主につぶやいたのです。それで主はこれを聞いて怒りを燃やし、宿営の端をなめ尽くしたのです。荒野の旅を始めてまだ三日だというのに、早くも不平やつぶやきが出たのです。いったいなぜつぶやいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではありませんでした。不便なことがあれば、困難もありました。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間の旅で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活は・・」と言ってつぶやいたのです。

何ということでしょうか。この荒野の旅のために神さまからいろいろな準備をしていただいたにもかかわらず、わずか三日でつぶやいてしまったのです。それに対して主は怒りを燃やし、火をもって彼らを懲らしめられました。この火は神の裁きを表しています。イスラエルの宿営の中にきよさがなくなったので、神は火をもってその汚れを取り除こうされたのです。

すると民はモーセに向かってわめき叫びました。「助けてください。何とかしてください。主に祈ってください。」と。それでモーセが主に祈ると、その火は消えました。それで、その所を「タブエラ」と名付けました。「燃える」という意味です。

 

つぶやきとか不平は、クリスチャンである私たちがいつも抱えている問題でもあります。イスラエルの荒野の旅は、クリスチャンにとってはこの世での歩みと言えるでしょう。この世は、クリスチャンにとって実に住みにくいところです。すべてが自分の思いとは反対の方向へ進んでいるかのように見えます。もちろん、この世の人たちと同じような問題にも出くわします。たとえば病気であったり、交通事故であったり、仕事をしている人はその会社の経営状況が悪かったりと、さまざまな苦しみがあります。そこで私たちは、イスラエルの民のように不平を漏らしてしまうのです。神さまから、旅のためのいろいろな準備をしていただいたにもかかわらずです。いざ不快なことが起こると、すぐに不平をいってしまうのです。それは神がお怒りになられることなのです。

 

4節から7節までをご覧ください。「また彼らのうちに混じっていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、玉ねぎ、にんにくも。だから今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」

ここで彼らは激しい欲望にかられ、「ああ、肉が食べたい。魚も。きゅうりも、すいかも・・・」と、かつてエジプトにいた時のことを思い出して嘆いています。でもエジプトにいた時は本当にそんなに良かったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。ここで彼らはエジプトでの生活があたかも楽であったように言っていますが、実際は、激しい苦役であえぎ、叫んでいました。あの激しい労働を忘れていたのです。これが、私たちが陥ってしまう過ちの一つです。この世は楽しそうに見え、過去のほうが良かったように見えるときがあります。けれども、その時はきまって、自分が通ってきたむなしさや苦しみ、悩みを忘れてしまっているときです。そこから救い出された今こそが、最もすばらしい時であるということを見ることができないのです。

 

ところで、4節には、「また彼らのうちに混じってきていた者が・・」とあります。ここで気づかされることは、このつぶやきを初めに言ったのは、「イスラエルの中に混じってきた者」でした。これはいったいどういう人たちのことでしょうか?彼らはイスラエル人ではありません。イスラエルがエジプトを出るときに、「さらに、多くの入り混じって来た外国人も、彼らとともに上った。」(出エジプト12:38)とあります。イスラエルとの契約の中に入っていない者たちが、イスラエル人たちとともに旅をしていたのです。彼らはイスラエル人と行動はともにしていましたが、異なる動機と、異なる価値観で生きていました。彼らがいたこと自体は問題ではありません。問題は、イスラエル人自身が彼らにつられてつぶやいてしまったことです。宿営の中に、神の思いではなく、人の思い、肉の思いが入ってしまったのです。それが問題でした。

 

このことは神の民の集まりである教会にも言えることです。教会は、主から与えられた約束を信じて前進する共同体です。そこに必要なのは信仰であり、主のみことばによって、主を仰ぎ見ながら前進しています。しかし、信仰の共同体であるはずの教会が、人のことばやこの世の考えに振り回されてしまうことがあります。そしてそのようなことに影響されて、いっしょになってつぶやいてしまうことがあるのです。教会は、あらゆる人々を受け入れるところでありますが、この世に影響される共同体ではありません。教会は、神の方法によって人々に影響を与えていく共同体であるということをしっかりと覚えておきたいものです。

 

さて、この「マナ」は、イスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、食べ物に飢えたイスラエルがモーセとアロンにつぶやいたので、彼らが食べることができるように、天から与えられたパンです(出エジプト6:14-15)。それは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようでした。「ベドラハ」とは、「ゴム」や「ポプラ」のことではないかと考えられています。当時の人はこの名前を聞いただけで色を思い出せるほど特徴的か、あるいはよく知られた樹木だったと思われます。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていたのですが、その味は、おいしいクリームの味のようでした。しかし、イスラエルはこのマナに食べ飽きたのです。肉が食べたい、魚が食べたい、美味しい野菜も・・・。そう言ってつぶやいたのです。これは注意しなければなりません。そんな荒野にいてもちゃんと食べることができるように神が日々与えてくださったのだから、本来であればそのことを感謝しなければならなかったのに、彼らはこの一見お決まりの食事が嫌になってしまったのです。皆さんも、毎日納豆ばかりだと、「ああ、たましにステーキたべたい!」と言うでしょ。ステーキばかりじゃなく、寿司もハンバーガーも、刺身も・・と。人間はどこまでも欲足らずです。

 

このことは、私たちも注意しなければなりません。というのは、この世における歩みは、荒野の旅のように単調でお決まりの日々の連続だからです。必ずしも、自分たちの魂を満足させるような目新しいことや刺激的なことが起こるわけではありません。でも、そうした平凡な日々の生活の中に神の恵みであることを覚え、その神を喜び、神に感謝しながら生きるのです。

Ⅰテサロニケ5章16~18節には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。どんな時でも喜び、祈り、感謝できるのは本当に幸いなことではないでしょうか。

 

Ⅱ.モーセの嘆きと祈り(10-15)

 

次に10節から15節までをご覧ください。「モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。それで、モーセは主に言った。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。私が彼らを産んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『乳母が乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの父祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのですか。どこから私は肉を得て、この民全体に与えられるでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」」

 

これまでイスラエルの民と行動を共にしてきた外国人が発したつぶやきは、ついにイスラエルの民全体に波及しました。モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞きました。すると主の怒りは激しく燃え上がりました。このことは、モーセにとって大変つらいことでした。このこととは、イスラエルの民が天幕の入り口で泣いているのを見ることと、主の怒りが激しく燃え上がるのを見てということでしょう。このことは、モーセにとってとても辛いことでした。第三版では「腹立たしく思った」と訳しています。モーセもどうしたらいいのかわからなかったのでしょう。また、何もできない自分が情けないと思ったのでしょう。

 

そんなイスラエルの民の不平とつぶやきに対するモーセの反応はどんなことかというと、神に訴えることでした(11~14)。神に祈ることは、指導者であるモーセが問題を前にしてできる最も重要なことでした。しかし、モーセは民の絶え間ない不平とつぶやきに忍耐の限界を感じていました。モーセはイスラエルの民に対して、「この民全体」(11)と呼んでいます。このような言い方は、自分とイスラエルの民との間に距離を置いた言い方です。神に自分の命を取り去ってほしいと叫ぶモーセの祈り(15)は、えにしだの木の下で嘆いていたエリヤの祈り(Ⅰ列王記19章)を連想させます。モーセは指導者として直面する痛みと苦しみを、神の前に正直に吐き出したのです。時に私たちも率直に神の前に祈る必要があります。神は人間の限界を十分に理解されます。ゆだねられたたましいが重荷に感じられるとき、指導者として直面する心の痛みを主に告白して祈りたいものです。

 

Ⅲ.70人の長老(16-30)

 

そんなモーセの祈りに主は答えてくださいました。16節と17節をご覧ください。「主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、民の長老で、あなたが民のつかさと認める者七十人をわたしのために集めよ。そして、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、そこであなたと語り、あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたがたった一人で負うことはなくなる。」

 

神は重荷をひとりで背負い、苦しむモーセに解決策を与えてくださいました。それは、イスラエルの長老たちのうちから70人を取り、モーセのそばに立たせるということです。つまり、モーセの重荷を分けられたのです。これによってイスラエルに新しい形の組織ができました。イスラエルは一つの国として備えるべき行政的組織を整備していったのです。神はモーセの祈りと嘆願を通して、危機をチャンスに変えてくださったのです。神はモーセに臨んだ同じ霊を70人の長老に注がれ、神の働きを力強くするようにされました。神が指導者を立てられるとき、同時に力と権威も備えてくださるのです。神の働きは聖霊の油注ぎが伴う聖霊の働きであり、信仰の人々と共に成されていくものです。他の人の助けによってさらにスムーズらできることは何かを、真剣に祈り求めていかなければなりません。

 

さて、イスラエルの民の不満に対しては、主は何と言われたでしょうか。18節から23節までをご覧ください。「あなたは民に言わなければならない。明日に備えて身を聖別しなさい。あなたがたは肉を食べられる。あなたがたが泣いて、主に対して『ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった』と言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉を食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、ほんの一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月もであって、ついには、あなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ。」しかしモーセは言った。「私と一緒にいる民は、徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れが屠られても、それは彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか。」主はモーセに答えられた。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」」

 

主はイスラエルの民に、肉を食べさせると言われました。ただ食べさせるのではありません。彼らが食べるのは、ほんの一日や二日や五日、十日、二十日のことではなく、一か月もであって、ついには彼らの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになるというのです。ヤッター!そんなに食べられてうれしいと言ってはなりません。なぜなら、それは神が喜ばれることではなかったからです。食べたい肉を嫌というほど食べさせるというのは、一見神の答えであるかのように見えますが、実際には神の懲らしめでした。欲望のままに祈りが答えられたからと言っても、それは神がしかたなく許されたことだったのです。私たちの祈りは私たちの願いではなく、神のみこころを求めなければなりません。神のみこころを自分の考えに合わせて祈るのではなく、神のみこころに合わせて祈ること、それが本当の祈りです。個人的な欲望によって祈っていないかを点検しなければなりません。

 

それにしても、主はどうやってそれほどの肉を与えてくれるのでしょうか。この時モーセといっしょにいた民は、徒歩の男子だけで六十万もいました。しかも、主は彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分ではありません。彼らのために海の魚を全部集めても、間に合わないでしょう。どうやって与えるのでしょうか。

 

すると主はこう言われました。23節です。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」

 

主がこのことを成し遂げてくださいます。それはモーセやこの70人の長老たちによるのではありません。これを聞いて、モーセは気づいたかもしれません。「ああ、70人の長老が与えられても、それは、この肉の食べ物の問題には関係のなかったことなのだ。私は、的外れなお願いをしていたのだ。」と。

主は、私たちがあまりにも切羽詰っていて、しきりにお願いするので、それを惜しまず与えられることがありますが、けれども、実は神はもっと違ったことを考えておられるのです。

 

そこで、モーセは出て行って、主のことばを民に告げました(24)。すると一つの事件が起こります。モーセは民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせました。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その長老たちも与えました。その霊が彼らの上にとどまったしるしとして、彼らは預言をしました。

しかし、この時エルダデとメダテという二人の者が宿営に残っていたので、天幕のモーセのところには行きませんでした。しかし彼らは、天幕預言したのです。そこで、若者やヨシュアもびっくりして、彼らの預言をやめさせなければいけない、と思ってそのことをモーセに告げました。おそらくヨシュアは、自分の主人のモーセの命ヨと特権を思ったのでしょう。それでモーセのところに行き、やめさせようとしましたが、モーセの答えはこうでした。29節です。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」どういうことでしょうか。

モーセは、この二人に起こっていることは主の直接の働きによるものであり、この二人に起こったことは七十人の長老たちと全く同じことであるということです。そして、こうそして、こうした神の御霊の働きが、イスラエルの民の中に現れることを望んでいたのです。彼は自分の命ヨではなく、神の栄光と御霊の働きを真に求めていたのです。このような心掛けは、御国の働きらにおいて大切なことであり、必要なことです。私たちは自分たちの名誉を気にするあまり、こうした神のみこころが見えなくなってしまい、「やめさせなければならない」と思うことがありますが、それは間違っていることがわかります。

 

ここで興味深いのは、29節のモーセのことばです。モーセは、「主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と言いました。この当時、神は特定の選ばれた者にのみご自身の霊、聖霊を与えておられましたが、そうではなく「すべての民」に与えられるといいと言ったのです。それが、使徒の時代に実現します。ペンテコステの日に、聖霊がキリストを信じる弟子たちすべての上に降りました。いや、それはユダヤ人だけでなく、サマリヤ人やギリシャ人といった異邦人にも下りました。それは、預言者ヨエルが予言していたことです。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)これが成就したのです。

そして、それは私たちも同じです。この神の御霊が、キリストを信じる私たちにも注がれているのです。

 

Ⅳ.欲望にかられた民(31-35)

 

最後に31節から35節までを見て終わりたいと思います。「さて、主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来て、宿営の近くに落とした。それは宿営の周り、どちらの側にも約一日の道のりの範囲で、地面から約二キュビトの高さになった。民は、その日は終日終夜、次の日も終日出て行ってうずらを集めた。集めたのが最も少なかった者でも、十ホメルほど集めた。彼らはそれらを自分たちのために、宿営の周囲に広げておいた。肉が彼らの歯の間にあって、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打たれた。その場所の名はキブロテ・ハ・タアワと呼ばれた。欲望にかられた民が、そこに埋められたからである。キブロテ・ハ・タアワから、民はハツェロテに進んで行った。そしてハツェロテにとどまった。」

 

するとどんなことが起こったでしょうか。主のもとから風が吹き、海からうずらを運んで来て、宿営の近くに落とされました。いったいどうやってこれだけの数のイスラエルの民に肉を充て得てくれるというのか、モーセは疑問を持っていましたが、これが主の方法でした。海からうずらを運び、それを落としてくれたのです。それは人間の思いをはるかに超えた方法でした。主の手が短いということはないのです。海から風に乗って運ばれてきたうずら群れは、2キュビト、約90cmの高さにまで積もりました。それでイスラエルはそれぞれ10ホメル、約2.2リットルもの大量のうずらを集めることができました。しかし、肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが彼らに燃え上がりました。主は非常に激しい疫病で彼らを打ったのです。これはどういうことでしょうか。科学的には、うずらに何らかのばい菌が入っていたのかもしれません。それを少しずつ除菌しながら食べればよかったのかもしれませんが、むさぼって食べたのでばい菌が体に蔓延したのかもしれません。あるいは、そうしたむさぼりに対する神のさばきだったのかもしれません。

 

いずれにせよ、イスラエルは不信仰のゆえに滅んでしまいました。それは私たちにも言えます。肉の欲望は人を滅びに至らせます。コロサイ3章5~6節には「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいまなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順らの子らの上に下ります。」とあります。貪欲、欲望が偶像礼拝なのです。そのむさぼりのために滅びを自分自身の身に招いてしまいます。私たちはむさぼり殺し、神が与えてくださったものに満足し、感謝をもって日々歩んでいきたいと思います。

強くあれ、雄々しくあれ ヨシュア記1章1~9節

2021年7月11日(日)礼拝メッセージ

2021年7月25日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨシュア記1章1~9節

タイトル:「強くあれ、雄々しくあれ」

 

 本日は、ヨシュア記からお話したいと思います。ヨシュア記は、イスラエルの民がエジプトから解放され約束の地に向かっていく中で、その指導者であった偉大な神の人モーセが死に、その後継者ヨシュアによって約束の地カナンに導かれ、そこを占領していく過程が記録されています。

教会も神によって与えられている使命があります。それは、神のきわめて豊かな知恵、イエス・キリストの福音を、まだ知らない人々に伝えていくことです。どうしたらその使命を全うすることができるのでしょうか。このヨシュア記からご一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.わたしが与えようとしている地に行け(1-2)

 

  まず1節と2節をご覧ください。「主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」」

 

 ここには「主のしもべモーセは死んだ」とあります。モーセといったらイスラエルの民をエジプトから救い出した偉大な神の器です。神はモーセにご自身を現わされ、直接ご自身のことばを語られました。それが聖書の最初の五つの書である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。これら五つの書は、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。いや、イスラエル人ばかりでなく、クリスチャンにとっても大切な書です。これらはみなモーセによって書かれました。そのモーセが死に、そのしもべヌンの子ヨシュアに対して主が語られたのが、この書です。

 

 ヨシュアは、モーセの従者でした。いわばモーセのかばん持ちです。モーセが行くところにはどこにでも行き、モーセが必要なものをすぐに用意するような人でした。このヨシュアが最初に登場するのは、出エジプト記17章にあるイスラエルがアマレクと戦った時のことです。モーセは丘の上で祈り、ヨシュアが戦いの最前線で戦いました。モーセが手を上げて祈っている時はイスラエルが優勢で、手を下すとアマレクが優勢になりました。それでモーセはずっと手をあげて祈るために、片方の手をアロンが、もう片方の手をフルが支え、イスラエルはアマレクに勝利しました。このように、ヨシュアはいつもモーセの従者として、モーセとともにイスラエルのために主に仕えました。そのモーセが死んだのです。

 

 このことは、私たちに大切なことを示しています。それは、私たちが約束の地に入るためにはモーセではなくヨシュアによらなければならないということです。どういうことでしょうか。モーセによって与えられた律法を行うことによってではなく、ヨシュアによってもたらされる福音を信じなければならないということです。正確にはヨシュアが福音をもたらしたのでなく、ヨシュアが指し示していた方、イエス・キリストを信じることによってであるということです。

 

「ヨシュア」のもともとの名前は「ホセア」でした。しかし、モーセがカナンの地を偵察するために各部族から一人ずつ12人のスパイを送り込みましたが、その時にモーセは彼の名前を「ヨシュア」と名付けたのです(民数記13:8,16)ですから、彼の名前はもともと「ホセア」だったのです。しかし、この時から「ヨシュア」となりました。「ホセア」という名前は「救い」という意味ですが、それが「ヨシュア」になりました。意味は「主は救い」です。ほとんど同じじゃないかと思うかもしれませんが、ただの救いではなく、主は救いです。このギリシャ語名が、「イエス」です。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったのです。

 

マタイの福音書1章20~21節を見ると、イエスが生まれる時、御使いがマリアの夫ヨセフに現れてこう言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

この「イエス」という名前が、「ヨシュア」というヘブル語の名前のギリシャ語読みとなります。ですから、ヨシュア記は「イエス記」でもあるのです。ここに、ヨシュア記を学ぶ意義を見出します。それは、私たちを罪から救うことができるのは、モーセによって与えられた律法を行うことによってではなく、イエス・キリストの福音を信じることによってであるということです。キリストを信じるなら救われるのです。

 

多くの人は、キリストをただ信じるだけで救われるというのはあまりにも虫がよすぎるのではないかと言います。たとえばもっと難行苦行するとか、少なくとも自分の良心が満足するような償いをしなければならないのではないかと考えますが、聖書はそのようには言っていません。聖書は、イエス・キリストを信じるなら救われると言っています。「信じる者は救われる」です。聖書は、私たち人間は罪過と罪との中に死んでいると言っています。そんな霊的破産者が、どうやって自分を罪から救うことができるでしょうか。泥沼に落ちてしまった人が、自分で自分を救うことができないように、罪の泥沼にはまった人は、どうやっても自分の力で自分を救い出すことはできないのです。だれかが助けてくれない限り、そこから救われることはできないのです。その罪の泥沼から救い出すことができるのが、「イエス」です。この方はメシヤ、救い主であられ、私たちが罪から救われるために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。私たちがしなければならないことを、すべてこの方がしてくださったのです。ですから、私たちはキリストの救いを受け入れること、つまり信じるだけで救われるのです。

 

使徒16章31節には、こうあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」主イエスを信じれば、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われるのです。あなたが何かをすればではなく、主イエスを信じるなら、救われるのです。

 

また、エペソ2章8~9節にも、こうあります。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。「やった!俺は、自分で自分を救ったぞ!」と誇ることがないためです。もし私たちが救われるために何かをしようとするならば、それはすでに完成したテーブルに、かんなをかけるようなものです。そんなことをすれば、せっかく完成したテーブルがダメになってしまいます。ですから、私たちはキリストを信じるだけでいいのです。私たちを約束の地に導き入れてくれるのは、モーセではなくヨシュアであるということを覚えておかなければなりません。

 

Ⅱ.主の約束を信じて(3-5) 

 

次に、3~5節をご覧ください。そのヨシュアに対して、主はこのように言われました。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

 

 どういうことでしょうか。2節で主はモーセに、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」と言われましたが、どうやってそんなことができるのでしょうか。それは、主がそのようにしてくださることによってです。主はモーセに約束したとおり、彼らが足の裏で踏む場所はことごとく、すでに彼らに与えている、と言われました。それは荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイトの全土、日の入る方の大海までとなります。ここで重要なのは、主はすでにモーセに約束したとおりに、与えているということです。実際にはまだ与えられていないかもしれませんが、主にとってはもう既に与えておられることなのです。それは単なる約束ではなく、すでに完了している約束であるということです。それは2節の「与えようとしている地」が、完了形であることからもわかります。完了形というのは、もう完了しているということです。「与えている」ということです。それは未来のことですが、既に完了しているのです。つまり、確実に与えられているということです。

 

皆さん、私たちはどうして不安を感じるのでしょうか。それは先が見えないからです。この先、どうなるかがわからないので不安になるのです。これから先のことがわかっていれば何も慌てなくても良いのですが、わからないから、見えないから不安になるのです。

 

最近、カナダのバンクーバーに住んでいる吉成スウォープ久美子さんからメールが届きました。実家がさくら市で、数年前に一時帰国した際に教会に来られて以来、こちらの教会のライブ配信を見て礼拝をささげておられます。

この姉妹にアパートの管理会社から手紙が来て、10月31日までに出てくださいと通告がありました。出てくださいと言われても、あまりにも突然なのでどうしたら良いかパニックになりました。州の法律では、建物を壊す場合には入居者に4ヶ月前に知らせなければならないのですが、それまでに次に住むところを見つけるのは大変です。お金を出せばある程度新しくてきれいなところを探すことも可能ですが、自分の予算では無理なのです。政府が補助金を出している公営住宅はありますがみんなそこに入りたいので入れるかどうか判りません。もうすでにこのアパートの何人かの人たちが出ていきました。誰かが外にゴミ出しに出るのを見るたびに、見つからなかったどうしようと、心臓がバクバクするというのです。

それで、今住んでいる家主のところに行って、もう少し待ってくれないかとお願いしたのですが、それもかなわず、さてどうしたものかと思っていたところ、United Churchという教会が建設しているアパートに入る可能性が出てきたと喜んでいました。歌舞伎役者の舞台の袖からさっさっさ~と出てくる神様が出て来て、それではこれを与えようではないか~ とおっしゃってくださるイメージだと言っておられました。先が見えると安心するのですが、見えないと不安になるのが私たちです。

 

私は相撲が好きで、ある時にはいつも見ているのですが、先場所も良かったですね。大関照ノ富士が横綱昇進をかけた場所で、14章全勝同士で横綱白鵬と戦い、残念ながら敗れたはしたものの、大関で2場所連続優勝するか、それに準ずる成績を修めれば横綱に昇進できるという場所でした。怪我や病気で序二段まで番付が下がった力士が横綱になったらすごいじゃないですか。それで私は幕ノ内に返り咲いた時からずっと応援していたのですが、幕ノ内に返り咲いた場所で幕尻の優勝を飾ると、その後1年間に3度の優勝を飾り、大関に返り咲くことができました。そして、横綱に昇進するというところまで来たのです。もう一番一番が手に汗握る戦いです。その時間はウォーキングマシーンで汗を流しながら観戦しているんですが、あまりに興奮してローラーから足を踏み外すこともあります。まさにハラハラどきどきです。しかし、勝負が決まると安心ですね。後でどんなにVTRを見ても、冷静に見れます。もう結果がわかっていますから。結果がわからないからドキドキするのです。

 

しかし、私たちの戦いは結果がわからないような戦いではありません。勝つか負けるかわからないような戦いではないのです。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」それは既に勝利が確定している戦いなのです。その戦いを戦っていくわけです。一時的には敗北に見えるようなことがあったとしても、やがて必ず勝利することができるのです。それが私たちの戦いです。

 

へブル11章1節をご覧ください。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」信仰とは、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」(11:7)

「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」(11:8)

「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」(11:11)

このように旧約聖書に出てくる信仰者たちは、信仰によって出て行きました。私たちも同じです。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。まだ見ていないかもしれませんが、主が約束されたことは必ずそのようになるのであって、その約束を信じなければなりません。

 

イエス様はよく「あなたが信じ通りになるように」とか、「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われましたが、要するに、あなたの信じたとおりになるということです。それはあなたが信じればどんな病気で治るということではありません。私たちがどう信じるかという信仰の問題ではないのです。神にはそのような力があるということを信じ、その神が約束してくださったことであるならば、必ずそのようになるということです。それを信じなければなりません。

 

しかしそれは、タナボタ式に与えられるということではありません。その前に私たちがしなければならないことがあります。2節をご覧ください。ここには、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということです。地図を見ていただくとよくわかるのですが、イスラエルの民は40年にわたる荒野の旅を終えて約束の地カナンへと入って行きますが、そのルートはシナイ半島からぐるっと東に回り、ヨルダン川を渡って入るというものでした。そこにはヨルダン川が横たわっていたのです。そのヨルダン川を渡らなければならなかったのです。つまり、神の約束が与えられているからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にかそれが実現するものではないということです。むしろその約束の実現の前には困難や試練が横たわっていて、それを乗り越えて行かなければならないのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。

ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前に塞がるヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

しかし、幸いなことに、そのことさえ、私たちだけが自分の力で成し遂げなければならないものではありません。5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。すばらしいですね。主は私たちにヨルダン川を渡り、主が与えようとしている地に行けと命じているだけでなく、主がともにいて、助けてくださると約束してくださいました。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

私たちは1983年に福島で開拓伝道を始めました。それから10年くらい経ったとき、主は私たちの教会を祝福してくださって、会堂に入りきれないほどになりました。私たちはどうしたら良いかわからなかったので、とりあえず、日曜日だけ近くにあったつむぎ工場の2階を借りて礼拝をしていましたが、4年後にはそこも立ち退かなければならなくなり、結局、その後2年間は町の福祉センターを中心に、点々としなければなりませんでした。まさに荒野の旅です。

それで、ただ主が必要を満たしてくださるようにと祈っていたら、主は創世記26章22節を与えてくださいました。それは、「イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

というものです。これはイサクがゲラルのペリシテ人の地にいた時のことですが、何度も井戸を掘るのですが、その度にゲラルの羊飼いたちと争いになり、なかなか手に入れることができなかったのですが、三度目に井戸を掘ると、そこでは争いがなかったので、その名を「レホボテ」と呼んだのです。意味は「広々とした所」です。

それはちょうど私たちの教会のようでした。最初に家を購入して礼拝場所としてからつむぎ工場に、そして、そこも立ち退きを迫られて町の福祉センター等を転々としなければなりませんでした。今度が三度目です。神様はイサクにレホボテを与えてくださったように、私たちにも広々とした所を与えてくださると信じました。

すると、家が約1キロ離れたところに600坪もある広い土地があるという情報がありました。行ってみると、それはまさに乳と蜜が流れている地だと思いました。しかし、そこにはヨルダン川が横たわっていました。そこは市街化調整区域であって建物が建てられない場所だったのです。福島県ではこれまで宗教法人で開発許可を受けたという例は一つもありませんでした。でも、神様が約束してくださったんだからと、県の担当者のところに赴くと、門前払いでした。もう悔しくて、悔しくて、家内と相談した結果、大きいケーキを作って行けば態度が変わるんじゃないかということで、大きいケーキを作って担当者のところに行きましたが、やはりだめでした。3年間もですよ。でも、これまで担当者のところで止まっていた話が、悪いと思ったんでしょうね、係長、課長まで行くようになり、優しく応対してくれるようになりました。でも、やはりだめでした。

そんな時です。実は教会で英会話クラスをやっていたのですが、そこに石川さんという衣料品の卸業を営んでいる社長さんがいましたが、そんな話をしていたら、「だったら瀬戸さんという県会議員に相談するといいと思いますよ」と言われました。というのは、この方は宅建の資格があるのですが、その瀬戸さんという方も宅建の資格があって、その免許の更新でたびたび会うのだということなのです。

瀬戸さんは同じ町内ということもあって、何度か面識があったので電話したところ、「大橋さん、だめなものはだめだがんない」なんて言われました。「わかってます。でもこれはだめなものではないですから、お願いします」と言うと、後日、県の担当者から連絡が来ました。申請に必要な書類を用意してくださいということでした。だめじゃなかったのです。そして、それから1年後くらいの1997年11月に県からの開発許可が下りて、その土地を購入することができ、翌年には大きな会堂を建築することができました。ただ神様のあわれみです。そこには本当に大きな犠牲と苦労が伴いました。そのことを知らない人は、その会堂を見ると、「あなたは大変運が良い人だ。あなたのように恵まれた牧師は滅多にいない」と言いますが、私はそのような言葉を聞くたびに、心の中でこう思うのです。「それはあなたがそこにどれだけの苦労があったか知らないだけです。」

 

 ヨルダン川を渡るということは、私たちが主の約束の実現を得るために不可欠なことなのです。ヨルダン川を渡らずしてヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、その信仰の決断を経て、ヨシュアは約束の地に入ることができたのです。

 

それは会堂建設だけに言えることではありません。私たちの人生のすべてにおいて言えることです。私たちは素晴らしい主の約束の実現を見るために、ヨルダン川を渡ることを臆してはなりません。私たちの前にふさがるヨルダン川を、臆さずに、信仰と勇気をもって渡って行かなければならないのです。そうすれば、主の大きな祝福と恵みに与ることができるのです。

 

Ⅲ.強くあれ、雄々しくあれ(6-9)

 

それゆえ、主はこう言われるのです。6~9節をご覧ください。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

ここで主はヨシュアにこう仰せられました。「強くあれ。雄々しくあれ。」このことは、この6節から9節までの中に3回も繰り返して言われています。なぜ主は3回も繰り返して言われたのでしょうか。ある聖書学者はこう考えています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。

 

そうでしょうか、もちろん、それもあったと思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知だったのです。それで、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。

 

確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今となっては、自分一人で戦わなければなりません。頼るべきものは何もありません。頼るものはただ神のみです。神に聞き従い、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束はどれほど力強かったことでしょう。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

ヨシュアと同じように、私たちの人生も戦いの連続です。激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、そのような時でも主が共にいてともにいてくださり、主が戦ってくださるのです。その主は十字架で私たちの罪を赦すために死なれ、三日目によみがえられました。この十字架と復活によって悪魔に完全に勝利してくださいました。この十字架と復活の勝利のゆえに、私たちはどんな戦いにも勝利することができるのです。これが私たちの信仰です。一時的に敗北したかのように感じることもあるかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私たちはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、勝利の主がともにいてくださるからです。そして、私たちはその勝利の陣営にいるからです。

 

私たちは、イエス様を信じてクリスチャンとなったからといって、戦いが全くなくなったわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことに、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」

 

そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に勝利が与えられているのです。その与えられている勝利の約束を信じて、信仰の戦いを戦い続けていかなければならないのです。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(9)

 

主があなたに与えようとしている地はどこですか。そのために、主が約束しておられこととはどんなことでしょうか。主は私たちにもそのビジョンを与えておられます。これからそのビジョンをみんなで求めながら、主が与えておられる約束を信じて、前進していきましょう。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。

捜し求める花嫁 雅歌3章1~5節

 きょうは、雅歌3章1節から5節までの箇所から、「捜し求める花嫁」というタイトルでお話したいと思います。ここは先週に続いて婚約時代を思い起こして歌っています。羊飼いである花婿は花嫁の家を訪ね、壁の向こうでじっと立ち、格子越しに窓から中を見ました。そして、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」と優しく語りかけましたが、花嫁は出てくることができませんでした。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白しつつも、立って、出て行くことができなかったのです。すると彼女は、花婿が取り去られる夢を見ます。それが今日の箇所です。

Ⅰ.見つからない花婿(1)

1節をご覧ください。「私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。」

羊飼いである花婿が仕事に出かけると、花嫁は夢を見ました。それは花嫁が花婿を捜す夢です。彼女は夜、とこについても、たましいの恋い慕う方、これは花婿のことですが、彼を探していました。でも、捜しても探しても、花婿を見付けることができませんでした。この「夜」ということばですが、これは複数形になっています。ですから、「夜毎に」とか、「毎晩」ということです。一晩だけのことではありません。夜毎に必死になって花婿を捜しましたが、見つからなかったということです。ここには「捜す」という言葉が繰り返して使われています。2節も含めると、実に4回も使われています。このように繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。ここに、必死になって捜している花嫁の姿がよく表れているのではないかと思います。それでも見つかりませんでした。なぜでしょうか。

前回のところを思い出してください。花婿は彼女のところにやって来て、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」(2:10)と呼び掛けました。冬が過ぎ去り、春(夏)がやって来ました。新しい季節がやって来たのですから、さあ立って、出ておいで、と呼び掛けられたのに、出て行くことができませんでした。そのタイミングを逃してしまったのです。それで、花婿を見失ってしまいました。もしその招きに応じていたら、彼女は花婿との親密な交わりを待つことができたのに、そうしなかったのです。2章15節の言葉を借りるなら、狐を捕らえませんでした。「狐」とは、花婿との親密な交わりを妨害するものです。それは何と彼女の内側にありました。彼女は花婿を自分の思いのままに支配しようとしました。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに何とか戻って来てください、すなわち、夕暮れになるまで戻って来てよと、自分の意のままにしたいと思ったのです。花婿にすべてをゆだねることができませんでした。その結果、花婿を見失ってしまったのです。そして今、その花婿がどこにいるのかわからないのです。どこを捜してもいません。

私たちも同様の体験をしたことがあるのではないでしょうか。花婿なる主の招きに応えることができず、主を見失ってしまったということが。どこへ行ってしまったのかわかりません。主の臨在が全く感じられなくなってしまったということがあります。もしかすると、今そういう体験をしている方がおられるかもしれません。それはあなたがこの花嫁と同じように、主の招きに応答しないからです。「また後で」とか、「今度時間がある時に」と言って、その招きを蹴ってしまうのです。そして、再びベッドにゴロンとなるのです。その結果、どこかへ行ってしまったと思い、捜しても、捜しても見つからないのです。

ちなみに、「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言いますが、意味は「召しだされた者たちの群れ」です。主は私たちを召し出してくださいました。そして今も主との会見に召し出しておられます。そういう機会がたくさんあります。こうして毎週日曜日に集まって礼拝をささげる時もそうですし、今週の水曜日には祈祷会もあります。その他、小グループでのバイブルスタディーやC-BTEなど、様々な聖書の学びの機会が提供されています。このような絶好の機会をいとも簡単に逃していることがあります。たとえ教会に来ることができなくても、家で聖書を開き祈ることもできます。

それなのに、この花嫁のように、いろいろな理由をつけてはそれを拒んでしまうのです。今は忙しいからまた後でとか、きょうは疲れているので明日にしてください。今月はいろいろなスケジュールが入っているので無理ですと、ついつい後回しにしては、その機会を逃してしまうのです。その結果、この花嫁のように、主がどこかへ行ってしまったかのような距離感を感じ、その溝をなかなか埋められないでいるのです。あなたはどうでしょうか。そのような機会逃してはいないでしょうか。主と親しい交わりを持つために、いつも主の招きに応答したいものです。

Ⅱ.捜し求める花嫁 (2-3)

次に、2~3節をご覧ください。「「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私のたましいの恋い慕う方を、お見かけになりませんでしたか。」」

花嫁は目を覚まし花婿を捜しに出かけます。私たちの主は、時にご自身を隠されるようなことをなさいます。あえてかくれんぼをするようなことをされるのです。それは主が意地悪だからではありません。あなたにご自身を現わしたくないからでもないのです。それは、私たちを子として扱っておられるからです。

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがありますが、神様は子供が成長するために、あえて訓練されることがあります。へブル12章5~6節にはこうあります。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

父親が訓練しない子はいません。もしそのような子がいるとしたら、それは私生児であって、本当の子ではないのです。だから、訓練と思って耐え忍ぶように。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

私たちは主との関係を当たり前のものだと思い、もはやそれを有難いこととして、あるいは感謝なことであると受け止めることができなくなっています。それで、ついついあぐらをかいてしまうことがあるのです。別に主を求めなくてもどうせ主はそばにいてくれるから大丈夫だと、求めることをしないのです。イエス様を信じて天国に行けるようになったんだから、あとは別にどうでもいいと思っているのです。それで主は、そういう人からご自身を隠されることがあるのです。主との関係がどれほど大切なものであり、どれほど恵み深いものであるのかを教えるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。決して私たちを困惑させたり、失望させるためではありません。

確かに私たちはイエス様を信じて救われました。死んだら天国に行くことができます。いや、今この世にありながら、さながら天国を味わうことができます。私の罪のすべてが赦されて、神が共にいてくださると約束してくださいました。それが天国です。天国とは、神がともにおられるところです。それは最高の祝福です。しかし、そのように救いに導いてくださった主を求め、主との交わりを持たなかったら、私たちの信仰はどんどん弱くなってしまいます。肉体の筋肉も使わないでいるとだんだん弱くなっていくように、霊の筋肉も使わないとだんだん弱くなっていくのです。主はそのことを知っておられるので、私たちを強くするためにあえてこのようなことをなさるのです。

詩篇13篇1~2節をお開きください。これはダビデの賛美ですが、この歌の中でダビデはこのように歌っています。「主よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。」

ダビデは絶望的な心と苦しみの中で、いつまで神様は自分から御顔を隠されるのですかと言っています。それは苦しいことです。彼は自分のたましいのうちで思い悩み、心には、一日中悲しみがあると言っています。しかし、そのような苦しみの中で彼は、「主よ」と呼び求めるのです。

すべてのクリスチャンは主と関係を持っています。しかし、すべてのクリスチャンが主と交わりをもっているかというと、そうではありません。イエス様を信じて主との関係を持っていても、主と交わりをもっているわけではないのです。主と関係を持つということと、主と交わりを持つということは別のことです。ここで主が私たちに求めておられることは、イエス様を信じて救われた私たちがイエス様との関係においてただそれにあぐらをかいているのではなく、神様との関係を与えてくださった主に感謝し、主との交わりを切に追い求めることです。

たとえば、結婚している男女は夫婦の関係を持っていますが、それは必ずしも夫婦としての交わりをもっているということではありません。夫婦の関係であっても全く会話がないとか、コミュニケーションがないということもあります。確かに戸籍上は夫婦かもしれませんが、そこに夫婦としての関係というか実態がなければ、それは夫婦とは言えないのです。。それは仮面をかぶった夫婦、仮面夫婦です。

神様との関係も同じです。神様を信じたことで神様と関係を持つことができました。聖書ではそれを永遠のいのちと言っています。イエス・キリストにある永遠のいのちです。それは消えて無くなるものではありません。救いが失われることは決してありません。しかし、神様と関係を持っていても、神様と親しい交わりをもっているかというとそうでもありません。折角イエス様を信じて、神様との平和を持つことができたのに、その神様と交わりをもっていないことがあるのです。主との交わりを疎かにしないでほしいと思います。そして、私たちが主を求め主と深い交わりを持つために、主はあえてご自身を隠されることがあることを覚えてほしいと思います。

花嫁は2節で、「私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」と言っています。この「私のたましいの恋い慕う方」という表現が、ここに何回も繰り返して出てきます。4節までに、実に4回も使われています。これは1章7節に出てきた時に説明しましたが、たましいから恋い慕う方という意味です。たましいとは、私たちの一番深いところにあるものです。そ単に心から愛するというのではなく、たましいの極みから愛するということです。最高の愛の表現です。皆さんもどなたかにご自分の愛を表現をなさる時にいうといいですよ。「私のたましいの恋慕う方よ」と。相手はびっくりして逃げていくかもしれませんが。

彼女は今わかったのです。花婿がどんなに麗しい方であるのかを。それは、彼女のたましいの恋い慕う方であるということです。花嫁は、羊飼いなる花婿がそのような存在なのだということに気付いたのです。失って初めて気づく世界があります。今までは何とも思わなかったのに、失ってみてそれがどんなに有難いものだったのか、どんなに感謝なことだったのかがわかることがあるのです。彼女は花婿から離れてみてはじめて、そのすばらしさ、麗しさに気付かされたのです。

3節をご覧ください。ここには、「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」とあります。「夜回り」とは「町の見張り人」のこと、「警護する人」のことです。花嫁はこの夜回りを見つけたとき、「私のたましいの恋い慕う方を、お見掛けになりませんでしたか。」と尋ねています。しかし、夜回りも花婿を見つけることができませんでした。時に私たちは主を見失うと、教会の牧師やリーダーたちに相談すれば見つけることができるのではないかと思いますが、そうではありません。夜回りも彼女のために花婿を見つけることはできませんでした。ではどうすればいいのでしょうか。自分自身で見つけるしかないのです。だれかに見つけてもらうのではなく、自分自身で見つけなければなりません。あなた自身が見つけなければならないということです。

エレミヤ書29章13節を開いてください。ここには「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」とあります。

もしあなたが心を尽くして主を捜し求めるなら、見つけることができます。ここには「心を尽くしてわたしを求めるなら」とあります。英語では「with all your heart」となっています。「あなたのすべての心で」という意味です。半分の心ではありません。すべての心です。すべての心で主を求めるなら、あなたは主を見つけるのです。

ヨハネの福音書20章には、復活の朝、主のお身体に香油を塗ろうと墓に出かけて行ったマグダラのマリアのことが書かれています。彼女は墓に着いてみると、そこに置かれてあった大きな石が取り除かれているのを見て、困惑します。だれかが墓から主を取って行ったと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとはヨハネに告げました。そして彼女は墓の外でたたずんで泣いていたのです。すると「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」という声がしました。彼女はそれが園の管理人だと思って、「もしあなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」と言いました。すごいですね。「私が引き取ります」というのですから。この時彼女はもう50~60歳くらいになっていたかと思いますが、その彼女が50~60キロはあったでしょうイエス様のお身体を引き取るというのです。彼女はそれほど主を求めていました。心を尽くして主を求めていたのです。

すると、イエスは彼女に言われました。「マリア」。彼女はすぐにそれがイエスだとわかり、振り向いて、「ラボニ」、すなわち「先生」と言いました。するとイエスは彼女に言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(ヨハネ20:17)

ここから彼女がイエス様にすがりつこうとしていたことがわかります。それほど主を愛していました。それほど主を求めていたのです。彼女は心を尽くして主を求めました。だから、主を見つけることができたのです。

あなたはどうでしょうか。マグダラのマリアのように主を愛していますか。心を尽くして主を求めているでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

なたがたが主を求めるなら、与えられます。捜すなら、見出します。たたくなら、開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見出し、たたく者は開かれます。心を尽くして主を求めましょう。そうすれば、あなたも主を見つけることができるのです。

Ⅲ.しっかり捕まえて放さず(4-5)

その結果、どうなったでしょうか。最後に4~5節を見たいと思います。4節には「私は彼らのところを通り過ぎると間もなく、私のたましいの恋い慕う方を見つけました。私はこの方をしっかり捕まえて放さず、ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。

花嫁は、ついに花婿を見つけました。すると彼女はどうしたでしょうか。彼女はこの方をしっかり捕まえて放さず、とあります。捕まえて放しませんでした。これまではどうでもいいと思っていたのに、失ってみてはじめてそのすばらしさ、有難さに気付いた彼女は、この方をしっかりと捕まえて放しませんでした。今まで失われていた主との関係を取り戻していくかのようです。

そればかりではありません。ここには「ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。母の家とは彼女の実家のことです。そこにお連れしたのです。何のためでしょうか。ここに「私を身ごもった人の奥の間に」とありますが、これは親しい交わりを持つことを意味しています。これまではそんなに意識していませんでした。この方との交わりがそんなにすばらしいものであるのかということを。しかし、花婿がいなくなってみて、その存在の大きさに気付かされ、彼女が安心できる実家の奥の間にお連れし、そこで二人きりの親しい交わり、深い交わりの時を持ったのです。

神様を求めるのに特別な場所はいりません。そのためにわざわざ時間をかける必要もないのです。主を見つけたらしっかりと捕まえて、放さないようにしなければなりません。そして、だれにも邪魔されないように二人きりの場所で、二人きりの時間を持つことが大切です。

この「母の家」の「母」ということばは、へブル語で「エーム」と言いますが、これは「分岐点」「出発点」をも意味する言葉です。つまり、「母」は花婿と花嫁が出会った出発点、「初めの愛」を意味しています。初めの愛に立ち返らなければなりません。

黙示録2章には、主が書き送ったアジアにある七つの教会のうち、エペソの教会にこのように言われました。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」(黙示録2:3-5)

あなたが初めの愛に立ち返り、その愛にとどまるなら、あなたは主のすばらしさを見出し、主との関係がさらなる次元に引き上げられていくことになるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは主を見つけましたか。もし主を見つけたのなら放さないでください。しっかりと捕まえてください。そして、二人だけの場所で、二人だけの時間を過ごしていただきたいと思います。

最後に5節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

同じフレーズが2章7節にもありましたね、そこでは愛を擬人化して、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。ここまでが恋愛の時代の思い出です。次の節から新しい場面に入ります。その区切りのフレーズがこれです。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」愛は外側からの刺激によってではなく、内側から自然に目覚めるものだからです。

ここでも同じです。神との関係は、外側からの働きかけによって改善できるものではありません。その人の内側から、そうしたいと思う気持ちが起こらない限り無理なのです。すなわち、愛がそうしたいと思うときまで待たなければなりません。それまでは揺り動かしたり、かき立てたりしてはならないのです。主から離れている人を見ると、確かに心が痛みます。残念だなぁ、悲しいなぁ、同じ主にある兄弟姉妹なのにどうして離れて行ってしまったんだろう。そしてその人のために祈り、自分に出来ることがあれば少しでも役に立ちたいと思います。必要であればその人の悩みを聞いてあげたり、励ましたりすることも大切です。しかし、そこから踏み込む必要はありません。そっとしてあげればいいのです。愛がそうしたいと思う時までは。なぜ離れてしまったんですか、なぜ主の招きに応答しないんですかと、かき立てる必要はないのです。愛がそうしたいと思う時まで待たなければなりません。そして、このことについては祈り、すべてを主にゆだねなければならないのです。それは主がなさることだからです。私たちがすることではありません。私たちがあれこれと思い煩い、分析し、解決できることではないのです。主はご自身のタイミングで、ご自身のやり方で解決してくださいます。まさに「神がなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)です。あなたはそのことで騒ぎ立てたり、揺り起こしたりしなくてもいいのです。

これは主から離れて行った人たちのことだけでなく、私たちの生活に起こるすべてにおいて言えることではないでしょうか。私たちは日々いろいろなことで思い悩みますが、そのことで心を騒がせたり、思い煩ったりする必要はないのです。それをすべて主にゆだねなければなりません。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)

神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。愛がそうしたいと思うときまでは待たなければなりません。神がその人の心に働いてくださり、その人を動かしてくださいますから。私たちは揺り起こしたり、かき立てたりしないで、主がなさる最善を祈りながら、待ち望みたいと思います。

さあ立って、出て行こう 雅歌2章8~17節

2021年6月27日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑤)

聖書箇所:雅歌2章8~17節

タイトル:「さあ立って、出て行こう」

 

 雅歌からの五回目のメッセージとなります。きょうは2章8節のところから、「さあ立って、出て行こう」というタイトルでお話したいと思います。

2章8節から新しい場面に入ります。ソロモンはこれまで結婚式当日のことを思い出して歌いましたが、ここから婚約の時代を思い起こして歌っています。これが3章5節まで続きます。ここで羊飼いである花婿は、花嫁に「さあ立って、出ておいで」と優しく語りかけています。私たちは花婿なる主の御声に応答して立ち上がり、出て行く者でありたいと思います。

 

Ⅰ.新しい季節がやって来た(8-13)

 

まず、8節から13節までをご覧ください。8~9節をお読みします。「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」

 

ここは故郷にある花嫁の家です。そこに後に花婿となる王が、迎えに来ているのです。結婚を前提に交際するために。

「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。」

春が来るのを待ちわびていた彼女は、彼が来るのを心待ちにしていました。今か、今かと待ちわびている彼女の思いが伝わってきます。そして彼の声が聞こえたとき、「ほら、あの方が来られる。」と胸をときめかしているのです。

 

彼はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「山を跳び越え、丘の上を跳ねて。」とあります。まるでかもしかや若い鹿のようにです。「かもしか」とは「ガセル」のことで、聖書では美しさの象徴として用いられています。また「若い鹿」とは、軽快に跳びはねる様を表しています。花婿なるフィアンセは、かもしかや若い鹿のように山を飛び跳ね、丘の上を跳ねてやって来るのです。

 

「ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」牢屋の外から格子越しに囚人を見ているというのではありません。久々の再会にフィアンセはすぐにドアをノックするのをためらい、彼女が何をしているのかを外から窓越しに眺めているのです。

そして、このように呼びかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」(10)この「私の愛する方」とは、花婿なるキリストのことです。もちろん花嫁とは教会のことです。花婿なるキリストは、私たちを「わが愛する者、私の美しいひとよ。」と呼んでくださいます。私たちはそのような者ではありません。自分勝手な者で、罪に罪を重ねるような者ですが、主そんな私たちをそのように言ってくださるのです。感謝ですね。そしてこう言われます。「さあ立って、出ておいで」

 

その理由の一つが、11節から13節までに述べられます。「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」

 

それは冬が去り、雨も過ぎて行ったからです。つまり、新しい季節が訪れたからです。イスラエルでは、私たち日本人が言う四季のうち「春」とか「秋」という季節を表す言葉がありません。夏と冬だけです。先日フィリピンの姉妹とお話していたら、フィリピンでは夏だけだそうです。一年中夏。日本は春、夏、秋、冬があってとてもきれいだとおっしゃっていました。イスラエルも春と秋がなく、夏と冬だけです。夏は4月から10月頃まで続く長い「乾季」の期間で、冬は11月頃から3月頃までの「雨季」の期間です。11節に「雨も過ぎて行ったから」の「雨」とは、12~2月頃にかけて降る激しい雨のことで、「後の雨」と呼ばれているものです。

 

イスラエルでは雨のシーズンでも、日本で言うところの秋のはじめに降る「先の雨」と冬の終わりに降る「後の雨」があります。申命記11章14節には「わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。」とあります。この「初めの雨」とは「先の雨」のことで、この雨は乾季で岩のように硬くなった地を柔らかくしてくれる働きがあります。そのように柔らかくなった地を耕して種を蒔くのです。

一方、「後の雨」とは12~2月にかけて間欠的に激しく降る雨のことです。やがて春(夏)の収穫時期が近づくと、穀物を十分に実らせるために激しく降るのです。この「先の雨」と「後の雨」が降らなければ、種まきも刈り入れもできません。それは冬の季節の終わりと夏の季節の始まりを意味していました。

 

その激しい雨の季節が過ぎて行き、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来たのだから、山鳩の声が国中に聞こえるようになったのだから、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放つようになったのだから、さあ立って、出ておいで、というのです。

 

この「花」は複数形になっています。「花々」ですね。冬が過ぎ春がやって来ると、地には花が咲き乱れます。アネモネ、アドリス、ヒナゲシ、チューリップといった真っ赤な花や、蘭やシクラメン、野生のアイリス、クロッカス、キルナスといった青やピンクの花など、色とりどりです。先日、那須フラワーワールドに行きましたが、そこにも花が咲き乱れていました。ハナビシソウ、ルピナス、ネモフィラ、ヒナゲシ、ハルジオンなどです。那須の山々をバックにした景色は最高でしたね。イスラエルでは三千種類もの植物が生息していますから、それ以上です。それらの花が一気に咲き乱れるわけです。

 

「刈り入れの季節」とは、欄外の説明にもあるように「歌」と訳される言葉で、第三版では「歌の季節がやって来た」と訳しています。前後の文脈を見ると、そのように訳した方が適当かと思います。山鳩の声が国中に響き渡るのです。皆さんは「山鳩」の声を聴いたことがありますか。ネットで検索して聴いてみたら、「トルットゥルール、トルットゥルール」と同じリズムで鳴いていました。それはまさに歌を歌っているようです。真冬の寒く冷たい雨が降っているような時には聞くことができませんが、冬が過ぎて春が来ると、こうした山鳩やキジ鳩が一斉に歌い始めるのです。

 

冬の大雨の季節が過ぎ去り、春の収穫の季節がやってきたのだから、「さあ立って、出ておいで」というのです。おそらく、花嫁は家の中に座っていたか、ベッドに横たわっていたのでしょう。なかなかやって来ないフィアンセにやきもきしていたのかもしれません。しかし冬が過ぎて春(夏)がやってきたのだから、これまでの自分の殻を脱ぎ捨て、新しいステージに出て行かなければなりません。そうです、これは実を結ばない季節の終わりと、花婿との新しい季節の始まりに対する招きなのです。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来たのだから、さあ立って、出ておいでと。

 

私たちの人生にも新たな始まりの季節があります。心機一転、過去を振り払い、新しい恵みのステージに一歩踏み出す時があるのです。でもそのためにはだれでも冬を通らなければなりません。それは激しい雨が降る厳しいシーズンかもしれません。しかし、私たちの人生にもそうした雨季が必要なのです。神様は私たちが実を結ぶために、そうしたシーズンを通されるのです。アブラハムやモーセ、ダビデもそうでした。荒野を通るシーズンがありました。その中で養われ整えられていったのです。私たちも同じです。実を結ばないシーズンがあります。それはそれでいいのです。そのシーズンを通って実を結ぶ季節へと変えられていくのですから。無理に結ぼうとしないでください。見せかけは必要ありません。荒野のカチカチと乾いた地面の中で、ふさわしい時が来るまでじっと待てばいいのです。その中で神様が後の雨を与え、地を潤してくださいます。それが過ぎ去ったら、一気に花が咲き乱れます。どんなにずさんな状態でも構いません。ほんの小さな信頼でもいいですから神様を信じて立ち上がればいいのです。そこからすべてが始まります。うめくときもあります。しかし、その中で自我が砕かれていきます。痛みも経験することがあるでしょう。でもそこから、私たちは希望を見い出すことができます。あなたが神の愛に目覚めるとき季節が変わるのです。この時から新しい季節が始まるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

冬は過ぎ去り、雨も過ぎて行きました。あなたにも新しい季節が到来しています。地には花が咲き乱れ、山鳩の歌が国中に聞こえ、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放っているのですから、私たちは愛する主の御声に応答して、立ち上がって、出て行こうではありませんか。

 

Ⅱ.岩の裂け目にいる鳩(14)

 

花嫁が立って、出てく理由が、もう一つあります。14節をご覧ください。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」」

 

また出ました!「私の鳩よ」。ここで花婿は花嫁を「私の鳩よ」と呼んでいます。鳩は、美しさと清らかさの象徴でした。1章15節にも出てきましたね。「あなたの目は鳩。」このような表現は5章2節、12節、6章9節にも出てきます。「嫌だ!鳩だなんて」という方もいらっしゃるかもしれませんが、これは最高の誉め言葉です。それほどあなたは美しく、清らかであるということですから。それは聖霊のシンボルとしても使われていることからもわかります。

 

なぜそんなに美しいのでしょうか。なぜなら、彼女は岩の裂け目、崖の隠れ場にいるからです。ですから、岩なる主がかくまってくださるのです。ですからここに、「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる鳩よ。」と呼び掛けられているのです。出エジプト記33章20~23節をお開きください。「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

これはモーセが主の栄光を私に見せてくださいと祈ったときに、主が仰せられたことです。信仰者であればだれも願うことではないでしょうか。主の御顔を拝したいと。しかし主は「できない」と言われました。人は主の顔を見て、なお生きていることはできないからです。

しかしそんな彼に主は、うしろ姿を見せてくださると言われました。どのようにしてかというと、主が通り過ぎるとき、彼を岩の裂け目に入れてくださることによってです。主が通り過ぎるまで、主の手でおおってくださるので見ることはできませんが、主が手をのけると、うしろ姿を見ることができるというのです。私たちはこの目で主を見ることはできません。神と交わることも、神とともに歩むこともできません。神はあまりにも聖いお方だからです。でもその神を見ることができ、神と交わり、神とともに歩む方法があります。それは、モーセのように岩の裂け目に入れていただくことです。その岩とはだれのことでしょうか。

 

その岩とはイエス・キリストのことです。Ⅰコリント10章4節には「その岩とはキリストです。」とあります。そうです、この岩とはイエス・キリストのことなのです。あなたが岩なるキリストの裂け目に入れていただくなら、あなたは神を見ることができるのです。神と交わり、神とともに生きることができます。

 

ここで「私の鳩よ」とありますね。「鳩」は美しさの象徴、清らかさの象徴だと申し上げました。ここでは花嫁がその鳩にたとえられています。どうして花嫁が鳩のように美しいのでしょうか。それは岩の裂け目にいるからです。岩なるイエス・キリストにかくまってもらっているからなのです。花嫁だけを見れば、そんなに美しくないかもしれません。なかなか花婿が迎えに来てくれない、いつになったら来てくれるのかと、モジモジして引きこもっていました。ベッドに横になってみたり、縦になってみたりして落ち着かなかったと思います。お世辞にも美しいとは言えなかったでしょう。でも彼女は岩なるお方の裂け目、崖の隠れ場にいたので、「私の鳩よ」と呼んでもらえたのです。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしいと、言っていただけたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちが美しいのは、私たちが美しいからではありません。私たちがすばらしいのは、私たちがすばらしいからではないのです。私たちが美しいのは、私たちがどこにいるかで決まります。私たちが岩の裂け目にいるなら、崖の隠れ場にいるから美しいのです。すなわち、岩なるイエス・キリストの内にいるなら、あなたは美しく、麗しいのです。そして自信をもってこう言うことができます。「私は黒いけれども美しい」(1:5)と。なぜ?なぜなら、岩なるキリストがかくまってくださるからです。私たちの罪、咎、汚れの一切をきよめてくださるからです。自分自身を見たら、とてもそのようには言えません。穴があったら入りたいくらいです。

 

使徒パウロも自分の姿に打ちのめされてこう言いました。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。」(ローマ7:18-21)

彼はここで、自分の内には善なるものは一つもないと言っています。善は住んでいないと告白せざるを得ませんでした。しかし、彼はそんな罪深い自分の姿を見たのではなく、その罪を覆ってくださるイエス・キリストのうちに、いのちの御霊の原理を見出しました。それがいのちの御霊の原理です。

 

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)

 

重要なのは、あなたがどこにいるかということです。もしあなたが岩なるキリストのもとに身を避け、神の御霊があなたのうちに住んでおられるなら、この御霊によってあなたの死ぬべきからだも生かされるのです。「私は黒いけれども美しい」と告白することができます。クリスチャンになることのすばらしさがここにあります。クリスチャンになることのすばらしさは、イエス・キリストがあなたの内に住み、あなたがイエス・キリストの内にいるということです。それゆえ、あなたがどんなに汚れていても、どんなにパッとしなくても、「さあ立って、出ておいで」と言われる花婿のことばに応答して、出て行くことができるのです。

 

Ⅲ.狐を捕らえてください(15-17)

 

そのためにはどうしたら良いのでしょうか。15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

これは10節から続く花婿のことばなのか、それとも、花婿のことばを受けての花嫁のことばなのかはっきりしていません。新改訳聖書2017では14節までが花婿のことばになっていますが、第三版では15節までが花婿のことばになっています。前後の文脈と意味を考えると、おそらくこれは10節からの花婿のことばではないかと思います。なぜなら、ここに「狐を捕らえてください」とあるからです。これはどういうことでしょうか。

 

「狐」はヘブル語で「シュアール」と言います。意味は「手のひら、一握り、少量の」です。つまり、「狐」は小さいものの象徴なのです。「かもしか」は美しさの象徴、「鳩」は美しさと清らかさの象徴でしたが、「狐」は小さいものの象徴です。その性格は、陰険でずる賢いことから、ずる賢いものの代名詞としても使われるようになりました。イエス様もヘロデのことを「あの狐」(ルカ13:32)と呼んでいます。狐のように小さくてずる賢いものが侵入して来て、ぶどう畑を荒らすのです。その狐を捕らえてくださいというのです。

 

当時、ぶどう畑は石垣に囲まれていました。それは外敵からぶどうの実を守るためです。しかし、狐は小さいのでその隙間から入り込み、中のぶどうをかじることがあったのです。その狐を捕らえてくださいというのです。なぜ?「私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

ぶどう畑は、二人だけの語り合いの場であり、触れ合いの場です。これまで離れ離れになっていましたが、今やっとその恋が実る時がやってきました。まさに今が花盛りです。ですから、二人だけの時を妨げるものは取り除いてください、というのです。では、二人の関係を妨げる狐とは何でしょうか。

 

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」どういうことでしょうか。

 

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と言っています。すばらしいですね。私たちが主に「あなたは私のもの、私はあなたのものです」と告白できるのは、それほど親密な関係であるということです。これが夫婦の関係です。使徒パウロは、夫婦になった男女の互いの体はもはや自分だけのものではないと言っています。コリント第一7章4節には、「妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」とあります。

このように互いが互いの中にいる状態は、小羊の妻である天のエルサレムで実現します。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」(黙示21:3)私たちは神と小羊と、霊において一体になるのです。

 

しかし、注意しなければならないことがあります。それは、自分の思いが強くなることです。花婿の働きを、自分の思いでコントロールし、制限してしまうことがあります。その後のところを見てください。16節の最後から17節にかけてのことばです。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」

 

「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」ということから、花婿が羊飼いであることがわかります。この方は羊飼いである王なのです。ですから、ゆりの花の間で羊の群れを飼っているわけですが、その花婿に対して花嫁は、そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでには戻って来てくださいと言っています。日本的に言うなら、日が暮れるまでには帰って来てね、ということでしょうか。その頃までには帰って来て、愛を確かめたいというのです。ある注解者はこれを、「夫がしている仕事について、夫と離れている時でも、それを疑うことがない」と解説していますが、そうでしょうか。私はその逆だと思います。夫の仕事に入りすぎています。ちょっとでも離れると、落ち着かなくなっているのです。日が暮れるまでには帰って来てください。険しい山々の上のかもしかや若い鹿のように跳んで帰ってくるのよ、とせかしているように感じます。これでは仕事になりません。

 

15節のところで、花婿は花嫁に「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえてください」と言いましたが、その「狐」とは、このことではないかと思うのです。つまり、花婿を自分の思うままにしたいという利己的な思い、独占欲です。花婿と花嫁の麗しい関係を破壊する狐は外側にいるのではなく、自分内側にいるということです。そうした「狐」を捕らえなければなりません。花婿を信頼し自分のすべてをゆだねることこそ花嫁の務めであり、そうすることによって二人の関係はより親密で麗しいものとなるのです。それが本当の意味での、私はあの方のもの、あの方は私のものということなのではないでしょうか。

 

ヤコブ4章2~3節にこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」  

私たちは願っても自分のものにならないと、人殺しをするのです。でも本当の問題はどこにあるのでしょうか。それは願いに答えてくれない主にではなく、私たちの側です。私たちの主は、この天地を造られた方、創造主です。主はあなたを造られました。この方は完全な方であり、完全な計画を持っておられます。それなのに私たちは、自分の思い通りにならないと、人殺しをするのです。争ったり、戦ったりします。私たちが良かれと思ってしていることが必ずしも正しいとは限りません。意外と自分の思い込みにすぎないことがあります。大切なのは、私たちがどう思うかではなく、花婿なる主が何と言われるかです。

 

「あなたがたは狐を捕らえてください。」そうすることで、私たちの花盛りのぶどう畑が守られることになります。主イエスの麗しい関係が保たれます。私たちの狐を捕らえましょう。そして、花婿の招きに心から応答しようではありませんか。花婿はあなたを招いておられます。「さあ立って、出ておいで」と言って。新しい季節がやってきました。どんなことがあっても岩なるキリストが、あなたを守ってくださいます。主の御声に応答して、立ち上がり、出て行きたいと思います。

民数記10章

民数記10章

 

 きょうは、民数記10章を学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

 

 Ⅰ.銀のラッパ(1-11)

 

 まず1節から11節までをご覧ください。「主はモーセにこう告げられた。「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。これらが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入り口の、あなたのところに集まる。もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。また、短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するためには、短く吹き鳴らさなければならない。集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く大きく吹き鳴らしてはならない。祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の掟である。また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」」

 

1節と2節には、「主はモーセにこう告げられた。「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。」とあります。

主はモーセに、銀のラッパを二本作るようにと命じました。それによって、会衆を召集したり、また宿営を出発させたりするためです。すなわち、イスラエルが荒野を進軍する時の合図のためにです。彼らが荒野を進軍する時のしるしは、雲の柱と火の柱でした。神は彼らを導くために、昼は雲の柱、夜は火の柱の中にいて、彼らの前を進まれ、夜も昼もこの柱は彼らの前から離れませんでした。すなわち、神は彼らと共にあって、彼らを導かれ、その行く道を守られたのです。そればかりではなく、神は荒野を進軍するためにこの二つの銀のラッパを与えられました。

 

この二本のラッパが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました(3)。この二本のラッパはそれぞれ異なった音色を出していたと思われます。そうでなければ、二本のラッパを吹きならす時と、一本のラッパを吹きならす時の聞き分けが困難になるからです。もし一本のラッパだけが長く吹き鳴らされたら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました(4)。  

それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発しなければなりませんでした(5)。二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します(6)。このように分団を召集するときには長く、出発するときには短く吹き鳴らしたのです。ある学者は、出発する時には短く、召集する時には長く吹き鳴らしたのは、進軍する時には人々の心をかき立てたり、励ましたりするためであり、召集する時には、連続したむらのない響きが適していたからではないか考えています。

 

これは神の祭司であるアロンの子が吹かなければなりませんでした。これは代々ににわたる定めです。アロンの子らは、広い荒野において、ラッパの合図を正しく聞き分けられるように、イスラエルの民を指導したのです。そして民はこのラッパの音を聞くたびに、自分たちが神の導きの下にあって、「神われらと共にいます」ことを意識したに違いありません。

 

9節をご覧ください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時にも、このラッパを短く吹き鳴らしました。その時には短く、大きく鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えられるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。

 

また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らしたとあります。過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りなどにも吹き鳴らされたのです。

 

このように、イスラエルが荒野を進軍する時に、ラッパを吹き鳴らさなければなりませんでした。それは、ラッパを吹かなければ、主がその民を忘れておられるということではありません。私たちがラッパを吹き鳴らす前から、主は私たちのことを覚えておられ、その必要に応えてくださいます。しかし同時に、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきない。」(ピリピ4:6)とあるように、戦いの時にラッパを吹き鳴らすのは、主に拠り頼んでいることの表れであり、いけにえの場合は、主を覚えて、喜びと感謝をもってささげる信仰告白となったのです。戦いの時に祭司たちがラッパを吹き鳴らしたという例は、Ⅱ歴代誌13章13~16節に見られます。また、民数記31章6節にも、ミディアン人との戦いに、モーセがピネハスにラッパを持たせて送り出したとあります。このように、ラッパを吹き鳴らしたのは、神への信頼の証だったのです。あなたは、このラッパを吹き鳴らしているでしょうか。人生の荒野を進軍するにあたり、私たちもラッパを吹きならし、神の助けを祈り求めましょう。

 

Ⅱ.出発の順序(11-28)

 

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちます。ここにはその順序が記されてあります。「二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。彼らは、モーセを通して示された主の命により初めて旅立った。まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタンエル。ゼブルン部族の軍団長はヘロンの子エリアブ。幕屋が取り外され、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。聖なるものを運ぶケハテ人が出発。なお、幕屋は、彼らが着くまでに建て終えられることになっていた。また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。ダン部族の宿営の旗が、全宿営のしんがりとして軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。-以上がイスラエルの子らの軍団ごとの出発順序であり、彼らはそのように出発した。」

 

イスラエルがシナイの荒野を出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。モーセを通して語られた主の命令のとおりです。

 

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたが、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発しました。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。
 その次に出発しはたのは、レビ族の内、ゲルション族とメラリ族でした。幕屋が取り外されると、幕屋を運ぶゲルション族とメラリ族が出発したのです。レビ族にはもう一つケハテ族がいますが、なぜ彼らはゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのでしょうか。ケハテ族は幕屋の中にあった聖なる物を運ぶ役割が与えられていましたが、そのためには彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたんですね。すごいです。実に整然としています。

その幕屋の後に進んだのがその次に進んだのがルベン族の宿営です。すなわち、南側に宿営していた部族です。まずルベン族が出発し、シメオン部族とガド部族が続きました。

次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。

最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族でした。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の護衛に回りました。

 

以上がイスラエル人の軍団ごとに出発した順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、イスラエルの民は神の箱(神の臨在)を中心にキリストの恵みによって、聖霊が導かれるままに前進して行ったということです。神の民の共同体にはこのような秩序があったのです。どのような順序でも良かったわけではありません。そこには三位一体の神の導きによる順序があったのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

 

Ⅲ.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

 

最後に29節から36節までを見て終わります。まず32節までをお読みします。「さて、モーセは、彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主が与えると言われた場所へ旅立つところです。私たちと一緒に行きましょう。私たちはあなたを幸せにします。主がイスラエルに良いことを約束しておられるからです。」彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の国に、私の親族のもとに帰ります。」するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとっては目なのですから。私たちと一緒に行ってくだされば、主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」」

 

彼のしゅうとミディアン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子ホバブのことです。ここでモーセは彼に一緒に行きましょう、と言っています。なぜでしょうか。それは、彼が一緒ならば荒野を旅することも安心だと思ったからです。31節を見ると、モーセは「どうか私たちを見捨てないでください。」と言っています。彼ならどこで宿営したらよいかをよく知っていたので、自分たちの道案内人になってほしかったのです。荒野を旅することは死を意味することでした。何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、そのような中を進むことは一般的には不可能なことでした。しかし、ずっとミディアンの荒野に住んでいた彼なら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていたので、一緒に行ってもらえたら安心できると思ったのです。

 

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、荒野を旅するイスラエルを導かれるのは誰であるのかを見てきました。それは主なる神ご自身です。主は、荒野を旅するイスラエルを整え、備えてきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し、上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその荒野を熟知しているからといっても、レウエルの息子ホバブに道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜ彼に一緒に行くようにと言ったのでしょうか。

 

それはモーセが彼に道案内をしてほしかったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのレウエル(イテロ)とその家族に恩返しをしたかったからです。彼らを幸せにしたいと思ったからでしょう。29節には「私たちはあなたを幸せにします」と言っていますし、32節にも「主が私たちに下さるはずのどんな良きものも、あなたにお分かちできます。」と言っています。彼は、主がイスラエルに良いことをしてくださると信じていました。それを彼らにも分かち合いたかったのです。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住むようになりました(士師1:16,4:11)。

 

それは33節以降を見てもわかります。実際にイスラエルの荒野の旅を導いたのはホバブではなく、主ご自身でした。「こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。契約の箱が出発するときには、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」またそれがとどまるときには、彼は言った。「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人はホバブではなく、主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

 

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と。つまり真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは主ご自身だったのです。モーセは出発するときにはその主が立ち上がり敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

 

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切なものです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。

善にはさとく、悪にはうとく ローマ人への手紙16章17~27節

2021年6月20日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙16章17~27節

タイトル:「善にはさとく、悪にはうとく」

 

ローマ人への手紙最後のメッセージです。パウロはこの最後の章の16節までのところで、偉大な同労者たちの名前を挙げて挨拶を送りました。ですから、そこで終わっても良かったのですが、その挨拶を書き送る中で、まだ彼らに伝えていない大切なことがあると思ったのでしょう。それをここに述べています。それは、異端者に注意するようにということです。このローマ教会の中には使徒たちの教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者が入り込んでいました。そういう者たちを警戒し、そこから遠ざかるようにと勧めたのです。

 

私たちの信仰生活を自動車の管理にたとえると、そこには二つのタイプがあるのではないかと思います。一つは整備型で、もう一つは修理型です。整備型の人は、車が故障したり、何か問題が起こる前に常に整備をしておく人で、ほとんど故障することがないので、安全に、かつ快適に運転することができます。一方、修理型というのは、何か問題が起こるまで対策しようとしない人です。たとえば、雪が降るまでタイヤを交換しないとか、どんなにタイヤの溝がすり減っていても、パンクするまで交換しません。車が故障するまでほとんど整備しないのです。壊れてから考えればいいと思っているからです。ですから、重大な時に車が動かなくなったり、故障して、大変な思いをすることがあります。

 

私たちの信仰生活も同じで、常に祈りとみことばによってしっかりと備えている人と、そうでない人がいます。何かトラブルが起こるまで何もせず、トラブルが起こってから対処すればいいと考えるのです。皆さんはどちらのタイプでしょうか。主が望んでおられるのは前者のタイプです。何かが起こってしまってからだと取り返しがつかないことがあります。勿論、どんなに備えていても避けられない問題もあります。しかし、何があっても大丈夫なようにみことばと祈りによってしっかりと備えておくことが肝心です。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.善にはさとく、悪にはうとく(17-19)

 

まず17~19節をご覧ください。「兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」

前回の最後の節、16節でパウロは、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。」と言いましたが、そうした主にある親密な交わりを破壊するものが、間違った教え、異端の考えです。そうした教えは教会に分裂とつまずきを与え、その親密な交わりを破壊してしまうことになります。ですからパウロは、死とたちの教えに背き、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒するように、彼らから遠ざかるようにと、強く勧めています。

 

パウロは、信仰の教えについて他の面では比較的に寛容であるのに対し、このように間違った教え、異端者の教えに対してはかなり厳しく、断固した態度を取るようにと言っています。たとえば、同じローマ人への手紙14章には食べ物に関する教えが語られていますが、その中で彼は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(14:1)と言っています。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。でも、食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をたばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのだからです。大事なことは、信仰の本質的なことです。神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきで、他の部分に関しては、いわゆるグレーゾーンについては、それぞれが持っている信仰の確信に従って行動すべきだと言っています。しかし、この異端の教えについてはそうではなく、警戒するように、また、彼らから遠ざかるようにと厳しく命じています。

 

パウロは、ガラテヤ人への手紙1章6~8節ではこのように言っています。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」と言っています。

 

パウロはここで、そのような教えを「ほかの福音」と呼んでいます。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。福音のような装いはしていても本当の福音とは違う教えことです。そういう教えが結構あります。よく話を聞いていると、聖書の話をしているようだけれどもどこか違っていたり、あからさまに福音を否定するようなことを言う人たちもいます。

 

先週、教会に次のようなメールが届きました。

「突然のメール、失礼いたします。ぜひ、読んで下さって、返信していただければ幸いです。よろしくお願い致します。

今は、イエス様の再臨の時であり、収穫の時です。収穫の知らせを伝えます。神様の種(御言葉)で生まれた人たち(受けた人たち)を収穫します。神様の種で生まれた人は、収穫の働き手に出会って、収穫されて来る事を願っています。今は、各枝派が、黙示録(啓示録)の預言と、その成し遂げられた実体をあかししています。知りたいと思われる方は、参加できます。

イエス様の再臨は、新約の四福音書の預言と黙示録の預言で約束した、約束の牧者に来られます。新約の黙示録の預言の成就の時は、イエス様が成し遂げられて、約束の牧者は、それを、すなわち、成し遂げられる事を、黙示録1章~22章まで全て見て聞いた者です。イエス様が黙示録を成し遂げられる事を、1章から22章まで、一章、一章全て見た者が、黙示録全章をあかしします。収穫されなかった人が、収穫の知らせを聞いても関心のない人たち、啓示録の預言が成し遂げられているとしても、感動しない人たち、信じない人たち。啓示録を加減すれば、天国に入れず、災害を受けます(啓22:18-19)。これを知りながらも、黙示録を知ろうとしないという事は、まことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、このような人は、狼が羊のなりをした人です。

教会と牧者と教徒たちに教理、すなわち、御言葉がないのは、御言葉であられる神様とイエス様がない証拠です。天地の間に、聖書に精通する所は、ただ、新天地イエス教会と、その聖徒たちだけです。来て見て下さい。そして、聞いて見て下さい。」

 

何を言っているのかわかりませんね。意味不明です。確かに、今は再臨の時であり、収穫の時であるのは間違いないです。また、その時どのような人たちが収穫されるのかは、神の御言葉によって新しく生まれた人たちです。しかし、だからといって、黙示録を知ろうとしない人はまことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、狼が羊のなりをした人たちであるということはありません。なぜなら、収穫される人たちは黙示録を知ろうとしているかどうかではなく、御言葉を通して神の御子イエス・キリストを信じた人たちだからです。また、それを知っているのは天地の間に、聖書に精通している新天地イエス教会と、その聖徒たちだけであるというのも極端です。自分たちだけが正しく、そうでない者たちは間違っていると主張すること自体、間違っていると言えるからです。

 

この新天地イエス教とは何者か調べてみると、この団体は1984年にイ・マンヒという人によって創設された新興宗教です。正式名は”新天地イエス教証しの幕屋聖殿”(新天地イエス教証幕屋聖殿)と言います。昨年韓国で新興宗教の施設でコロナのクラスターが発生したというニュースがありましたが、それがこの新天地イエス教会の一つの施設です。その教えの特徴は、聖書の中でもヨハネの黙示録を重要視し、聖書の内容を新天地独自の例えや比喩、例示を使って解き明かします(間違った解釈)。また、教祖のイ・マンニという人物を再臨のイエス・キリストだと教えています。主イエスは、世の終わりには自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。(マタイ24:5)と預言されましたが、まさに聖書が教えている偽キリストであることがわかります。

現在、信者数は25万人くらいいます。驚くことは、近年1年間で10万人もの人たちが入信したと言われています。どうしてそんなに多くの人たちがこ信じるのでしょうか。その手口がかなり巧妙です。新天地は、キリスト教会に潜り込んで、自分の正体を隠して教会員になります。そして熱心に奉仕をして役員クラスになり、教会をのっとることを計画し実行するのです。そうやってキリスト教会を破壊させ、新天地に導くのが彼らのやり方であり、成長の秘訣です。韓国では新天地が潜り込んでいない教会はないといわれるほど、手を伸ばしており、現在、統一教会以上に被害を及ぼし、警戒されています。
 日本でも活発に活動していて、多くの若者が大都市を中心に集まっています。一昨年、私たちの教会で洗礼を受けた1人の姉妹は、この新天地に通っていましたが、教祖が再臨のイエスだと聞き、何だかおかしいなぁと別のクリスチャンに相談して教会に来られました。もし来なかったら今頃新天地の幹部になっていたかもしれません。恐ろしいことです。

 

また、最近教会によくセミナーの案内を送ってきたり、電話で勧誘する人グループがあります。キリスト教福音浸礼会と言います。このグループは「グッドニュース宣教会」という名前で活動しているので、プロテスタント、しかも福音派の仲間ではないかと思ってしまいますが、実はそうではなく、その正体は「救援派(クオンパ」というキリスト教の異端です。グッドニュース宣教会、キリスト教福音浸礼会は、朴玉洙(パク・オクス)という人が代表ですが、その教えの特徴は、本当の救いは「救いを悟る」ことによってのみ得られるもので、救いを悟っていない多くのクリスチャンは救われていないとするものです。悔い改めを繰り返すのは救われていない証拠であり、悔い改める必要もない、と言います。救われた者は罪を犯すことはないので悔い改める必要がありません。悔い改める人は地獄の子で、自分を罪人と思っている多くのクリスチャンは死後地獄に行くわけで、救いを悟っている人はそういうことがないのだから、「私は義人だ」と告白するべきである、というのです。律法は完全に撤廃されたので、盗み・殺人・姦淫などを犯しても罪にあたらないとい言います。

どう思いますか。聖書の教えを知らない人は「あ、そうなんだ」と思うかもしれませんが、聖書ではそのように教えられていません。私たちはイエス・キリストを信じることで救われ天国への切符を受けることができますが、でも地上にいる間は不完全な者なので罪を犯すわけです。しかし、そのような者も赦されていると約束されているので、悔い改めて神の御心に歩むのです。

 

このように、ちょっと聞いただけではどこが間違っているのかわからないかもしれませんが、聖書が教えている福音の教えと違うことを教える人たちがいます。そういう人たちを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。そうでないと、やがて教会全体が根底から揺さぶられてしまうことになります。教会にとって本当に恐ろしいことは外側からの攻撃よりも、内側にはびこる異端的な教えです。外からの攻撃があると、不思議なことに教会は燃え上がりますが、内側からの異端的な教えが内部に広がると、教会は分裂して倒れてしまうことになります。それは収穫の時に現れるいなごの群れのようです。一年間しっかりと農作業をやってきたのに、突然いなごの群れがやってきて、すべての穀物を食い尽くしてしまうのです。これまで汗と涙を流して伝えた神のみことばを全部揺さぶって、神の民を悪魔のしもべに変えてしまうことになるのです。これが、みことばをねじ曲げて伝える異端のやっていることです。そのような人たちを警戒しなければなりません。だからパウロは、そのように誤った教えを宣べ伝える人たちがいるとしたら、そういう人はのろわれるべきだと言っているのです。

 

18節をご覧ください。ここには、そのような人たちの特徴が記されてあります。「そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。」

そういう人たちは主イエスに仕えているのではなく、自分の欲望に仕えています。この「欲望」と訳されていることばですが、これは原語では「腹」と訳されることばです。キリストの十字架に従うのではなく、自分の欲望と自分の考えに従って歩んでいるのです。これが福音だと言いながら、福音をねじ曲げてしまうのです。しかも彼らは滑らかなことば、へつらいのことばで迫ってくるので、それが異端かどうかを判別するのが難しいのです。まさに羊のなりをした狼ですね。このような教えを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。

 

「警戒しなさい」とか「遠ざかりなさい」というは、いかにも消極的な対処法であるかのように見えます。なぜ「戦いなさい」とか「対処しなさい」ではないのでしょうか。それは、こうしたこれこそ異端に対して最も有効な対処法だからです。たとえば、ヨハネ第二の手紙1章10~11節には、「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。ですから、私たちは異端を教える人たちから遠ざかることが賢明なのです。そうでないと間違った教えを持っている人たちは、極めて巧妙に私たちを自分の側に引き入れようとするからです。

 

以前、私の家にエホバの証人の方がよく来られました。玄関のインターホンを鳴らすと、「私たちは聖書の教えをお知らせしているものですが、ご主人は聖書に興味はございませんか?」と言われるのです。少なくとも、私の家は教会ですよ。看板もあれば、十字架も掲げてあります。そういうところにやって来て「聖書に興味はありませんか」と言われるのですから、相当の自信と度胸があるのだと思います。むしろ、相手がクリスチャンであれば、ある程度聖書を知っているので都合がいいのです。またクリスチャンは人がいいので、このような人たちを無碍に断らないということを知っていので、そういう弱みに付け込んでやって来るのです。

もちろん、「ございます」ので、「わかりました。ちょっとお待ちください」とできるだけ爽やかな服装で、満面の笑みをうかべながら、「お待たせしました。」と玄関のドアを開けると、そこには実に優しそうなご婦人が二人おられるではありませんか。上品な笑顔と、上品な服装をして。一人の人が話すのを、もう一人の人が静かに聞いておられます。「ご主人、この世の現状を見てどのように思われますか。」

「この地上の楽園に入るためには神を信じなければなりません。イエスは神に近い人間ですが神ではありません。唯一まことの神を信じなければなりません。」

それで私が「聖書には何と書いてあるでしょうか。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。イエス様こそ人となられたまことの神であって、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたことで救いの御業を成し遂げてくださいました。なぜなら、この方は神が約束されたメシヤ、救い主、神ご自身であられるからです。だれでもこの方を信じる人は救われるのです。」とお話すると、初めは穏やかに接してくれていた方が、だんだん険しい顔になってきて、ついには口から泡をふいて、「こんなに聖書を勉強している牧師さんに会ったことがない」と言って去って行かれました。こんなに聖書を勉強している牧師がいないのではなく、こんなに真面目に相手をする牧師はいないということでしょう。残念ながら、それ以来、私のところには来なくなりました。要注意人物のリストに上げられているのでしょう。教会を避けて行くようになりました。

私はずっと前からエホバの証人の方が熱心に伝道している姿を見ていて、もしかすると、あっちの方が正しいのではないかと思ったことがありまして、そして、自分の信じていることが間違っていたら大変だと思い、エホバの証人方と10回にわたり論じたことがあります。残念ながら、その時も5回くらいやった後で体調が良くないということで最後まで続けることができませんでした。その時も「こんなに聖書を勉強していると思わなかった」と言っておられました。彼らの教えがどのようなものなのかを学ぶことで、自分が信じていることが正しいということを確信を持つことができて本当に良かったと思っています。しかし、聖書では、一番良い対策は、彼らと論じるのではなく、彼らを警戒し、彼らから遠ざかることです。

 

19節でパウロは、「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」と言っています。従順であるだけでは危険です。私たちはこの世の中で信仰者としてしっかり立っていくためには、「善にはさとく、悪にはうとく」なければなりません。「善にはさとく、悪にはうとく」とはどういうことでしょうか。「さとく」とは、「賢く」とか「鋭く」ということです。一方「うとく」とは、疎遠であることです。ですから、「善には賢く、悪には疎遠であれ」という意味になります。一般的な傾向として、私達は悪いことには賢く、善をなすことには知恵が回らないものです。コロナの給付金を巡っても、いろいろな手口でだまし取ろうとする犯罪があとを絶ちません。つくづく,この世の人は悪事に賢いなあと感心させられますが、ここでは逆です。善に対して賢く、悪に対してはうとくなければなりません。

 

Ⅱ.平和の神(20)

 

第二のことは、神にゆだねることです。20節をご覧ください。ここには、「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」とあります。

 

17~19節において、私たちが注意すべきことについて教えられてきましたが、ここでは、それと同時に神の助けが必要であることが述べられています。神の助けがなければ、私たちは悪魔に勝利することはできません。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」という表現は、創世記3章15節で預言されたことですが、異端の元祖とも言うべきサタンに対する神の究極的な勝利が実現するという意味です。その創世記3章15節をご覧ください。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、女の子孫から出るキリストが、敵である悪魔を踏み砕くという預言です。聖書に一番最初に出てくる福音の預言なので、「原始福音」と呼ばれています。主イエスは十字架と復活によってそれを成就してくださいました。しかし、最終的には主が再臨する時まで待たなければなりません。ですからここに「すみやかに」とあるのです。パウロは、終末的な神の勝利が「すみやか」に来ると信じていました。

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」(Ⅱテサロニケ1:8-10)

 

パウロは、ここに希望を持っていました。皆さん、私たちの真の希望はどこにあるのでしょうか。ここにあります。主は確かに来られます。その時が近づいています。これこそ私たちの真の希望です。この希望を握りしめている時、私たちは主を喜び、賛美をささげることができます。そうでいなと、目の前のことに心と思いが奪われ、落胆したり、絶望したりすることになります。この世にある矛盾とか葛藤というのは、私たちの力や方法によって解決できるものではありません。けれども、主が再び来られるとき、それらのすべてを正しくさばいてくださいます。ですから、この方にすべてをゆだねることができます。

 

クリスチャンにとっての最高の使命は、日々、目を覚まして、この再臨の主を待ち望むところにあります。日々の生活において不義なことや傷つくことがあっても、落胆したり絶望したりしないで、主がすべてのことを正しくさばいてくださると信じて、待ち望まなければなりません。それこそ確かな希望であり、真の解決なのです。私たちに必要なのはこの世の不条理に対してあくせくすることではなく、サタンを踏み砕く主にゆだねることです。

 

Ⅲ.福音に生きる(25-27)

 

第三のことは、福音に生きることです。25~27節をご覧ください。パウロはこの手紙の最後のところで、「〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。〕」と言って、この手紙を結んでいます。

 

これは頌栄です。頌栄というのは、神の栄光をほめたたえることですが、このローマ人への手紙のしめくくりとしての頌栄は、内容が盛りだくさんというか、文章が長いので、その意味があまりハッキリしません。いったいパウロはここで何を言いたいのでしょうか。27節にあるように、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえにありますように。」ということです。ではこの知恵に富む唯一の神とはどのようなお方なのかというと、その前の26節に書かれてあるように、「あなたがたを堅く立たせることができる方」です。ではどのように堅く立たせることができるのかというと、またまたその前に書かれてあるように、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、です。すなわち、25節にあるように、私の福音とイエス・キリストの宣教によってであります。

 

パウロは、自分に示され、自分が宣べ伝えた福音こそまことの福音であるということを知ってほしいのです。この福音によってです。ですからここでパウロが言いたかったことはどういうことかというと、パウロが宣べ伝えていた福音によってあなたがたを堅く立たせることのできる知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえにありますように、ということなのです。

 

皆さん、福音こそ私たちを信仰に堅く立たせてくださることができるのです。パウロは、この手紙の最初のところで次のように宣言しました。1章16節です。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

 

皆さん、福音は力です。単なる概念ではありません。それは、救いを得させる神の力なのです。たとえ私たちの周りが偶像で溢れ、神の教えをねじ曲げるような人たちがいても、あるいはそのことによって教会が、社会がどんなに枯れた骨のような状況であっても、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。それは二千年前に伝えられた昔話ではなく、今も生きて働き、私たちのたましいを変え、人生を変える力なのです。

 

皆さんは「バウンティ号」という船をご存知じでしょうか。この船は1787年にイギリス政府が南洋諸島の一つであるタヒチという島にパンの木の栽培のために100人ほどの人たちを送り込んだのですが、その際に乗り込んだ船の名前です。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはみな魅力的でした。

しかし、彼らは次第に堕落してしまい、本国からの命令を無視するようになり、口やかましい船長に反抗して、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのです。

その後彼らは本国から逮捕させるのを恐れ、ピトケアン(Pitcairn)という島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶ生活を始めました。そうなると彼らの間でけんかが絶えなくなりました。特に熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのけんかがひどくなり、殺し合いまでするようになりました。そして最後にたった一人ジョン・アダムズという人だけが残されたのです。

すべての西洋人がいなくなり、多くの混血の子どもだけが生まれ育つようになりました。しかし、それから30年後、そこを通りかかったアメリカの船がその島に上陸してみると、驚くべき光景を目にしたのです。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。いったい何があったのでしょうか。

仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに多くの人を殺して生き残ったジョンは、難破した「バウンティ号」に戻ってみると、そこに一冊の聖書を見つけました。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引きつけられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改め、彼は神の人に変えられました。

その後聖霊の導きによって、その島の子どもたちに字を教え、神のみことばである聖書を教えました。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島はパラダイスのようになったのです。これは福音の力、一冊の聖書の力によるものでした。

 

神のことばは生きていて力があります。この神のことば(福音)によって私たちは救われ、変えられ、信仰に堅く立つことができるのです。そして、あらゆるサタンの攻撃に打ち勝つことができるのです。今、私たちに求められていることは、この福音に生きることです。パウロはローマ人への手紙8章35節で、次のように問いかけています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

この問いに対する答えはこうです。続く37節でパウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

もし私たちが自分の人生を主の御手にゆだね、復活の主に信頼するなら、何が起こっても途方に暮れることはありません。どんなことがあっても、私たちがそれに飲み込まれたり、滅ぼされてしまうことはないのです。圧倒的な勝利者になるのです。これが復活の力であり、福音のメッセージです。

 

皆さんはどうでしょう。何に頼って生きていますか。自分の考えとか自分の力でしょうか。でもそれだけでは私たちは折れてしまうことがあります。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストに信頼して生きることによってのみ、私たちはあらゆる困難を乗り越えることができるのです。

 

1968年に、ある科学者がインディアンの墓で、600年前に作られたと思われる、種でできた首飾りを発見しました。その科学者がその種の一つを取って植えたところ、何と芽を出し成長を始めたのです。600年間も休眠状態であったはずのその種には生命力が宿っていたのです。大切なのはその種を植えることです。あなたの心に福音の種を植えるなら、どんなに休眠状態にあろうとも、あなたも芽を出し、成長し、豊かな人生の実を結ぶことができるのです。この種には驚くべき偉大な神の力が宿っているからです。さあ、この福音の種をあなたの心に、また私たちの住んでいる社会に植えましょう。そうすればあなたの人生に全能の神が働いて、偉大な御業を成してくださるのです。