出エジプト記40章

2021年2月10日(水)祈祷会

聖書箇所;出エジプト記40章

 

 いよいよ出エジプト記の最後の章になりました。今日は40章からご一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.モーセへの命令(1-15)

 

 まず、1~15節までをご覧ください。8節までをお読みします。「【主】はモーセに告げられた。 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない。あなたはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎる。机を運び入れて備品を並べ、燭台を運び入れて、そのともしび皿を載せる。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛ける。会見の天幕である幕屋の入り口の前には、 全焼のささげ物の祭壇を据え、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。」

 

前回まで、主の知恵に満たされた人たちが、幕屋とその用具を作り、モーセがそれを点検したことを学びました。そして、イスラエルの子らが、すべて主が命じられたとおりに行ったことを見たモーセは、彼らを祝福しました。

いよいよ実際に幕屋を建設する時がやって来ました。主はモーセに、第一の月の一日に、会見の天幕である幕屋を建設するように告げられました。それはイスラエルがエジプトを出てから1年、シナイ山の麓に到着してから9カ月後のことでした(19:1)。その間、モーセは二度にわたってシナイ山で40日間を過ごしました。すなわち、イスラエルの民は約半年の間に幕屋のすべての部品を完成させたことになります。驚くほどのスピードです。

 

モーセはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎらなければなりませんでした。そして、机を運び入れ備品を並べ、燭台を運び入れて、ともしび皿を載せます。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛けます。中庭には全焼のささげ物の祭壇を据え、その祭壇と会見の幕屋との間に洗盤を据え、これに水を入れます。また、庭の門に垂幕を掛けました。

 

この位置関係が非常に重要です。門は東側にありました。そこから入って行きますが、門から入ると正面に青銅の祭壇があります。次に洗盤があり、その先に幕屋がありました。そして幕屋の幕をくぐると、聖所に入ります。そこは燭台の光で輝き、板は金でおおわれ金色に輝いていました。正面に向かって右側に供えのパンの机が置かれ、左には燭台が置かれました。正面には、聖所と至聖所の仕切りになっている垂れ幕に接して、香壇が置かれました。その仕切りの垂れ幕の先が至聖所で、そこには契約の箱とその上に贖いの蓋が置かれました。

  これを礼拝の順番として考えると、次のようになります。私たちが礼拝するときは、まず東の門から入らなければなりません。その門とはキリストのことです。ある人は仏教、ある人は神道、ある人はイスラム教、ある人はお金、名声、結婚などなど、いろいろな方法で救われようとしますが、救いは唯一イエス・キリストによってのみです。主イエスが、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)と言われました。イエスだけが救いに至る唯一の門であって、それ以外に救われる門はありません。

 

その門をくぐると青銅の祭壇があります。これは神のさばきを象徴していました。キリストは神のさばきを受けて十字架で死んでくださったということです。

 

そして聖所に向かいますが、その前に洗盤によって手足を洗わなければなりません。それはバプテスマを表していました。キリストの十字架の贖いを信じること、バプテスマはそのことを表しています。これは鏡で出来ていました。つまり、神のみことばによる洗いを受けなければならなかったのです。

 

そして聖所に入ると、供えのパンがありました。これはキリストご自身を指しています。キリストは、「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)と言われました。このパンを食べること、すなわち、聖餐にあずかり、キリストとの親密な交わりにあずかることができました。そしてともしびの油が表わしていた聖霊の働きを受け入れます。また、香壇が示しているように祈りをささげなればなりませんでした。そして、聖所と至聖所の仕切りの垂れ幕はキリストの肉体を表わしていました。この方の十字架のみわざによって、天におられる父なる神に大胆に近づくことができるのです。これを上空から見れば、十字架の形をしています。神の栄光はキリストご自身であり、その十字架のみわざによって現されたのです。

 

次に、9~15節までをご覧ください。「あなたは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものの油注ぎを行い、それと、そのすべての用具を聖別する。それは聖なるものとなる。全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具の油注ぎを行い、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。洗盤とその台の油注ぎを行い、これを聖別する。また、あなたはアロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で洗い、アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。また彼の子らを近づかせ、これに長服を着せる。彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」」

 

次に注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに注がなければなりませんでした。つまり、聖別しなければならなかったということです。祭司であるアロンとその子らにも油を注いで聖別しなければなりませんでした。この聖別によって、アロンの家系は「代々にわたる祭司職」とされました。これは聖霊の働きを意味しています。この地上において、主のために聖別されるためには、聖霊の油注ぎが必要なのです。どんな働きにも聖霊の油注ぎ、聖霊の満たしがなければ、神の働きを行なうことはできません。ですから、私たちはどんな時でも祈り、聖霊の油注ぎを受ける必要があります。

 

また、大祭司が油注がれたのは、キリストが神の聖霊を無限に受けた大祭司であることを表していました。それゆえ、私たちはキリストを通して、大胆に神に栄光の御座に近づくことができるのです。

 

Ⅱ.幕屋の完成(16-33)

 

次に、16~33節までをご覧ください。「モーセは、すべて【主】が彼に命じられたとおりに行い、そのようにした。 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。モーセは幕屋を設営した。まず、その台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕の覆いを掛けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、さとしの板を取って箱に納め、棒を箱に付け、「宥めの蓋」を箱の上に置き、箱を幕屋の中に入れ、仕切りの垂れ幕を掛け、あかしの箱の前をさえぎった。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の内部の北側、垂れ幕の外側に机を置いた。その上にパンを一列にして、【主】の前に並べた。【主】がモーセに命じられたとおりである。会見の天幕の中、机の反対側、幕屋の内部の南側に燭台を置き、【主】の前にともしび皿を掲げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。それから、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の祭壇を置き、その上で香り高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋の入り口に垂れ幕を掛け、会見の天幕である幕屋の入り口に全焼のささげ物の祭壇を置き、その上に全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。」

 

モーセは、すべて主が命じられたとおりに行いました。前回までのところには、イスラエルの子らは、すべて主が命じられたとおりに行い、それを見たモーセが彼らを祝福しましたが、ここでは、モーセ自身が主から命じられたとおりに行い、その仕事を終えました。モーセは、主が命じられたとおりに行ったという記述が、ここに7回繰り返されていることに注目してください(19,21,23,25,27,29,32節)。7は完全数です。この表現は、幕屋が神の計画どおりに建設されたことを示しています。神が命じられたとおりに生きる人は幸いです。そのような人は、主に祝福された人生を歩むことができます。私のもとには毎日のように相談の依頼が舞い込んできますが、すべての問題の解決の鍵は、主が命じられたとおりに行うことです。自分の思いや考えではなく、主が何と語っておられるのかを正しく受け止め、その通りに行うことです。そうすれば、すべての問題が解決します。なぜなら、主のみことばは私たちが正しく生きるための完全な道しるべだからです。

イスラエル民は、金の子牛の事件から立ち直り、モーセに導かれて幕屋の建設を終了させました。だれも完璧な人などいません。だれでも失敗を犯します。しかし、大切なことは、それでも悔い改め、そこから立ち直ることです。私たちには、モーセ以上の解放者であられる主イエスがおられます。この主の恵みに信頼して、希望の明日に向かって歩み始めようではありませんか。

 

ところで、モーセは幕屋を建設しました。彼は、主が命じられたとおりに幕屋を建設したのです。そして、第二のモーセであられるイエスは、ご自身の教会を建設されました。マタイ16:18には「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」とあります。「この岩の上に」とは、ペテロが告白した信仰告白、すなわち、イエスこそ、神の御子キリストです、という信仰の告白の上にということです。教会はこの告白の上に建っています。したがって、これと違うものがその土台にあるとしたら、それは教会として成り立たないことになります。つまり、キリストの教会の土台は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目によみがえられたことという、この福音を信じ、主イエスを救い主として受け入れることです。それを信じた者だけがこの神の幕屋、神の教会に加えられ、神との交わりを持つことができるのです。

 

イエスは地上でのすべての仕事を終えられました。イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになられました。最後まで、実に十字架の死に至るまで忠実に父なる神に従い、そのとおりに救いのみわざを成し遂げてくださいました。私たちもキリストにならい、主が命じられたとおりに歩む者でありたいと思います。

Ⅲ.栄光の雲(34-38)


 最後に、34~38節を見て終わります。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」


  そのとき、すなわち、モーセがすべての仕事を終えたとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。それでモーセは会見の天幕に入ることができませんでした。この栄光は、人間が直視することができないほどの輝きだったからです。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とありますが、この「私たちの間に住まわれた」とは、「幕屋を張られた」という意味です。神が人間の肉体の姿を取られて現れてくださいました。イエス・キリストは、まさにイスラエル人が幕屋において栄光の雲を見るように、神の栄光の輝きとなって現われてくださったのです。ですから、私たちはキリストから目を離さないようにしなければなりません。キリストこそ神の栄光の現われであり、私たちをその栄光で照らしてくださるからです。

 

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立ちました。雲が上らないと、上る日まで、旅立ちませんでした。彼らが旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからです。雲がイスラエル民を導きました。昼は主の雲が幕屋の上にありました。それは雲が、彼らが行くべき道を示し日陰となって太陽の陽から守ってくださったということです。また、夜は火の柱が彼らとともにありました。それは、同じように彼らの行くべき方向性を示し、外敵から宿営を守られたということです。ですから、彼らがすべきことは何であったかというと、この雲を見上げることだけでした。主イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。いつもともにいてくださる主を見ること、それが私たちにゆだねられていることです。主がいつもともにおられると信じて、この主を見上げて、主の導きに従って、私たちの信仰の旅を歩んでまいりましょう。

神に会う備えをせよ 伝道者の書9章1~10節

2021年2月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章1~10節(旧約P1149)

タイトル:「神に会う備えをせよ」

 

 伝道者の書9章に入ります。今日は、9章前半の箇所から「神に会う備えをせよ」というタイトルでお話しします。伝道者ソロモンは、日の下で行われる一切のわざを見て、こう結論しました。8章17節です。「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めて、見出すことはない。知恵のある者が死っていると思っても、見極めることはできない。」

 ただ確かなことは、すべてのことが、すべての人に同じように起こるということです。正しい人も正しくない人も、みな死人のところに行きます。では、私たちの人生には、いったいどんな意味があるというのでしょうか。今日のところで伝道者はこう言います。4節、「しかし、人には拠り所がある。」生きている犬は死んだ獅子にまさっています。生きている限り、拠り所、希望があります。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得るという希望があるのです。だから、生きているってすばらしいことなのです。その主イエスを信じて、神によって与えられた一つ一つの恵みに感謝して生きることができます。あなたは、その救いを得ているでしょうか。神に会う備えができているでしょうか。

 

Ⅰ.死は終わりではない(1-3)

 

 まず、1~3節をご覧ください。「まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。」

 

1節の「この一切」とか、「このことすべて」とは、8章9節にある「日の下で行われる一切のわざ」のことです。すなわち、この地上で行われるすべてのことであります。伝道者は、そのすべてを見て、心を注いだわけですが、その結果分かったことは何かというと、8章17節にあることでした。つまり、すべては神のみわざであるということ、そして、人は日の下で行われる神のみわざを見極めることはできないということです。どんなに労苦して探し求めても、どんなに知恵のある者が知っていると思っても、それを見極めることはできません。正しい人も、知恵のある人も、彼らの働きのすべてが神の御手の中にあるからです。それが愛から出ているのか、憎しみから出ているのかも、人には分かりません。

 

2節をご覧ください。すべてのことは、すべての人に同じように起こります。私たちの人生で最も不可解なことは、正しい人にも、正しくない人にも、善人にも、きよい人にも、信仰者も、不信仰者も、神に誓う人にも、誓うのを恐れる人にも、すべての人が同じ結末を迎えるということです。同じ結末とは何でしょうか。人はみな死ぬということです。死はすべての人にやって来ます、100パーセントの確立で。すべての人が死んで墓に葬られることになるのです。悪者が死んで墓に入るというのならわかりますが、正しい者も同じように死んで墓に入るというのは納得できません。このようにすべての人が同じ結末を迎えるならどういうことになるでしょうか。3節を見てくたさい。3節には、「人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり」とあります。どうせ死ぬのだから、自分の好きなように生きればいい、ということになります。良いことをしようが、悪いことをしようが関係ありません。悪いことをしても別に何も変わらないのなら、自分の心の赴くままにすればいいと、人の心がますます悪に傾くようになるのです。これは空しいことです。なぜなら、私たちの人生は、死は終わりではないからです。日の上でのいのち、死後のいのちが神によって用意されているからです。

 

皆さんは、「ヒアアフター」という映画をご存知でしょうか。この映画は、死を身近で体験した3人の登場人物が、それぞれアメリカ、フランス、イギリスに住んでいるのですが、死後と向き合いながら生きていく中で、やがて一つにつながっていくという物語です。周りの人々は、「死後の世界があるなら誰かが証明しているはずだ!」と本気にしないのですが、死を身近に体験した人たちにとってはそうではありません。それが生と向き合うきっかけとなり、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるのです。

 

米国の伝道者にスタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という人がいましたが、彼はよく次の伝道地に向かう汽車の中で説教の準備をしていたと言われています。しかし、長いトンネルの中に入るとトンネルと周りの人々の騒々しい声が耳にささって、説教づくりを妨害するのです。以前から他の乗客の騒音でイライラしていた彼は、ついに我慢しきりなくなり怒鳴ろうとした時、期待にふくらんだ一人の少年の声を聞くのです。

「見て、見て、お母さん。ほら、明日だよ。」

少年がそう叫んだのは、暗くて長いトンネルを出て、太陽がまぶしく輝く世界を目にしたからでした。

 

死の向こう側にあるものを見ることができる人は幸いです。私たちの人生はこの地上だけで終わるものではありません。すべての人生の終着駅は死ですが、死には二種類あるのです。一つは「信じる者の死」で、もう一つは「信じない者の死」です。信じる者の死は、主イエスを信じて罪の赦しと永遠のいのちを受け、永遠の御国に入る門であり、「信じない者」の死は、永遠の滅びに入る門、地獄の門です。私たちはどちらの死を迎えるのかを選択しなければなりません。

 

Ⅱ.神に会う備えをせよ(4-6)

 

次に、4~6節までをご覧ください。すべての人が同じ結末を迎えるのであれば、生きていることにどんな意味があるというのでしょうか。「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」

 

「しかし、人には拠り所がある」何ですか、「拠り所」とは?新改訳第三版では「希望」と訳しています。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」つまり、人は死んだら終わりですが、生きている限り、何かしらの希望があるということです。そのことをわかりやすく伝えるために用いているたとえが、その後に出てくる、生きている犬と死んだ獅子の話です。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ」どういうことでしょうか。ここでは犬と獅子が対比されています。犬は最も劣った動物で、獅子は最も優れた動物であるという意味で対比されているのです。そんな犬でも、生きている限り、死んだライオンよりもまさっています。また、5節にあるように、生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。生きているだけでましだということです。さらに、5節の後半には「彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる」とあります。死んでしまえば、もはや何の報いを受けることもなければ、その名前すら忘れられてしまいます。この地上での憎悪やみたみも消えうせ、この地上で起こることには全く関係が無くなってしまうのです。

 

しかし、これは、人は死ぬと眠りにつき意識がなくなるということを教えているのではありません。これまで何度も見てきたように、伝道者は「日の下」で行われているすべてのことを観察して、そのように語っているのです。すなわち、神様なしの、神様抜きの、人間の知恵と論理によって人生を観るならこうなるということです。つまり、聖書を持たない知者が、世界について、人生について、哲学的に思索を重ねると、このような結論に到達するということです。

 

しかし、このような人間的な思索の中でも、生きている限り希望があります。人は死ねば、神のさばきの前に立つ日が例外なくやって来ますが、生きている限り、そのことに備えてイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る機会があるからです。しかし、死んだ者には何の望みもありません。

 

ある人たちは、Ⅰペテロ3章18~20節から、死んでからでも救われるチャンスがあると主張しています。いわゆるセカンドチャンス論です。そこにはこうあります。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。」

 

この「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」という言葉ですが、キリストは、よみに下り、囚われている人たちの霊のところに行って福音を宣べ伝えられた、と考えるのです。それはノアの時代に、箱舟を作られていた間に、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのところです。しかし、これはそういう意味ではありません。確かにキリストは十字架で死なれ、よみに下って行かれ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行って神のことばを語られましたが、それは救いのことばではなく、さばきのことばでした。さばきの宣言だったのです。聖書は一貫して、死んでからも救われるチャンスがあるなどとは語っていません。聖書が言っていることは、人は死んだら神のさばきがあるということです。へブル9章27節にこうあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

つまり、人は100%の確率で誰もが死んで行きますが、同じように死後神の前に立ち、神の裁きを受けるようになることも100%であるということです。死後に救われるチャンスがあるのではなく、死後にさばきを受けるのです。であれば、生きているうちに、この神のさばきに備えなければなりません。死んでからでは遅いのです。生きているから希望があるのです。拠り所があります。死んだ者は何も知りません。

 

クリスチャン音楽家の森繁昇さんが、「君は死んでゆく。用意はできてるか? Ready To Die」という歌を歌っておられます。もうかなり前になりますが、初めて聞いたときドキッとしました。人は死ぬということをストレートに歌っているからです。どうぞ心を準備してお聞きください。いいだすか、心の準備は出来ましたか?

おじいちゃんが死ぬ。おばあちゃんが死ぬ。 父さんが死に、母さんが死に、兄さん、姉さんも。

弟が死ぬ。 妹が死ぬ。 妻に夫、奥さん、主人に、ポチもタマも死ぬ。

息子が死ぬ。 娘が死ぬ。 嫁が死に、婿が死に、孫に曽孫も。

おじさんが死ぬ。おばさんが死ぬ。いとこにはとこ、甥も姪も、義理の父も母も死ぬ。

 「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

街で死ぬ。 村で死ぬ。山で、川で、海で、畑で、そこらじゅうで死ぬ。

病院で死ぬ。 自分の家で死ぬ。 台所か、居間か、風呂か、トイレか、玄関先で死ぬ。

金持ちが死ぬ。貧乏人が死ぬ。知ってる人が、知らない人が、友達が死ぬ。

有名人が死ぬ。 ホームレスが死ぬ。 朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、真夜中でも死ぬ。

あの人だけが死ぬんじゃないよ。 この人だけが死ぬんじゃないよ。

他の人だけが死ぬんじゃないよ。君の番もくるからさ。

そんなに泣かなくてもいいさ、 涙や悲しみを無駄にしなくても。

君は死んでゆく。用意はできてるか?

交通事故で死ぬ。 飛行機事故で死ぬ。病気の人も、元気な人も、思いがけなく、死ぬ。

戦争で死ぬ。 自殺して死ぬ。撃たれて、刺されて、締めれて、叩かれ、殺人犯も死ぬ。

歩いてて死ぬ。走ってて死ぬ。働いていて、遊んでいて、ブラブラしていて、死ぬ。

がんばる人も、がんばらない人も年寄り、若者、子供に 赤ちゃん 生まれる前に死ぬ
ちょうど車にはねられて死んだ犬が 何度もひかれているうちに だんだん乾いてきてついには埃となって 完全に吹き飛ばされて無くなるように人も死に至るのさ 

君は死んでいく用意はできてるか

笑ってる人が死ぬ 泣いてる人も死ぬ 親切な人 いじわるな人 ガッツのある人も
怒りっぽい人も 優しい人も 威張っている人 だましている人 だまされている人も

会長が死ぬ 社長が死ぬ 専務に常務、部長に次長に課長に係長。

新入社員が死ぬ。サラリーマン全部死ぬ。政治家、先生、警察、お医者、葬儀屋も、死ぬ。

たとえ人が世界を全部、自分のものとしても、何になろう? もし、永遠のいのちを損じたら。

しかし、創造主の愛をもらう者が、死んでもまた、生きるのなら、

誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

創造主に罪を赦される者が、死んでもまた、生きるのなら、誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

君は死んでゆく。用意は、 君は死んでゆく。用意は、君は創造主に会う用意は、できてるか?

 

初めて聞いた方はドキッとしたのではないかと思いますが、福音のメッセージがストレートに語られているすばらしい歌ではないかと思います。だれも、自分が死ぬなんて考えられません。いや、考えたくありません。死んだら終わりだと思っているからです。でも、その先に希望があることがわかっていれば、それに備えて生きるのではないでしょうか。その希望こそイエス・キリストです。キリストは神の御子であられ、罪を犯したことがない方でしたが、私たち罪人を愛して、私たちの罪の刑罰を受けて十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることがなく、永遠のいのちを持つためです。この方を救い主と信じるなら、どんな人であっても罪に定められることがなく、天国に入ることができます。永遠のいのちを得ることができるのです。この曲の最後の方に、「君は創造主に会う用意は出来ているか」とありますが、これこそ、創造主に会うための用意です。あなたは、その用意ができているでしょうか。

 

旧約聖書の預言者アモスは、こう言いました。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)

あなたは、神に会う備えが出来ていますか。それは生きている時でなければできません。生きているなら希望があります。4節にあるように、生ける者すべてのうちに数えられている者には、拠り所がるのです。死んでからでは遅いです。生きているうちに、その備えをしてください。それこそ、あなたが生かされている最大の目的です。この世での一番の祝福は何ですか。それは、多くの富や権力を持つことではありません。救い主イエスを信じて永遠のいのちを持つことです。救い主イエスを見出し、人生の正しい目的を見つけること、それが一番の祝福なのです。

 

2月4日の世界宣教祈祷課題は、ナイジェリアのために祈る日でしたが、2018年2月19日、ナイジェリア北部ヨベ州ダプチの科学技術教育学校から110名の女生徒と共に誘拐され、ボコ・ハラムの囚われの身となってしまったキリスト者の少女レア・シャリブ姉妹の事件に言及されていました。

ボコ・ハラムによる学生誘拐事件は、国際世論の非難の的となっていて、ナイジェリア政府や国際世論の強い圧力もあって、1ヶ月後の3月24日には、104名の少女らが解放されました。ところが当時14歳で、キリスト教徒のレアは、自身の信仰を棄ててムスリムに改宗することを拒んだため、彼女ひとりが残されてしまったのです。

解放された学友によると、全員が解放されたあの日、レアもすべての少女と一緒に解放されるはずでした。ところがボコ・ハラムは、レアがトラックに乗る直前、キリスト教徒からムスリムに改宗するためのいくつかの儀式的宣言をするように彼女に要求しましたが、彼女は「私はイスラム教徒ではないので、決してそれは言えません」と拒んだのです。

すると、彼らは怒って「お前がキリストを冒涜しないなら、我々とともに残ってもらおう!」と脅したのですが、なおも彼女はその要求を拒否しました。他の学友らも――おそらくは一時的なポーズだけでも――レアに改宗するよう促したのですが、このわずか14歳の少女は、決して主を否んで裏切ることはしなかったのです。

彼女は、自分だけが解放されないことを悟ると急いで母親への手紙を書き、それを解放される友人の手に託しました。その時の手紙には次のように記されてありました。

「お母さん、どうか私のことで心配しないでください。お母さんは、私がいなくなって、とても辛い思いをしていると思うけど、何処にいても私はきっと大丈夫だと伝えたくて、急いでこの手紙を書きました。私の神様は、このような試みの中でもずっと御自身を現わしてくださっています。お母さんが朝のデボーションで『神様は苦しんでいる人々により近く寄り添って下さる』と教えてくれた言葉の通りです。私は今、それが真実だと証明することができます。いつの日か、きっとお母さんに再会できると信じています。私は今お母さんのそばにいなくても、主なるイエス・キリストの内にいます。」 

レアの学友らは走り出すトラックから、ひとり残された彼女が見えなくなるまで見つめ、泣きながらいつまでも手を振っていたと言います。

 

私は、レアのことを思うと、信仰とは何なのかを考えさせられます。たった14歳の少女がいのちがけで守ろうとしたもの、それはまことの命ではないかと思うのです。人命尊重、人命尊重、と連呼される昨今、この14歳の少女は「人の人生には命よりも大切なものがある」ことを強烈に投げかけてやめないのです。

 

 Ⅲ.神が与えてくださった恵みを楽しむ(7-10)

 

 では、生きている間、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。7~10節までをご覧ください。「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 

 7節には、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」とあります。伝道者はここで、神が与えてくださるものを楽しむことが最善の生き方であると言っています。神がそれを許しておられるのだから、日々の生活を楽しめばよいというのです。これは、いわゆる快楽に溺れろということではありません。日ごとの糧に感謝して、それを喜び楽しみなさい、ということです。

 

 8節には、「いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。」とあります。「白い衣」とは祭りの装いのことだと言われています。頭に油を絶やしてはならないとは、油は聖書では人の心を喜ばせるものとありますから(箴言27:9)、神が与えてくださる恵みの中で、祭りのように楽しみ、喜ぶ人生を生きるようにということでしょう。

 

 そして、9節には「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。」とあります。すなわち、結婚関係も最大限楽しむべきであるということです。尾山令仁先生は、これを「この地上でのむなしい人生においては、妻と生活を楽しむに越したことはない。それが、あなたがこの地上で生きている間、神があなたの労苦に対して創造主が与えてくださる恵みである。」と訳しています。その恵みを楽しむのがよいのです。結婚して何年も経つと、それが恵みであることも忘れて、自分のペースで勝手気ままに振る舞うことが多いですが、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよいのです。アーメン。一緒に聖書を読んだり、祈ったり、チョコレートをかけてカードゲームするのもいいでしょう。たまには一緒に出かけるのもいいですね。いつも出かけていると有り難さに欠けるので、たまに出かけるのがいいのです。いずれにせよ、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい。これが神のことばです。

 

 また10節には、「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」とあります。今、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、ということです。「あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」死んでからでは、働くことも、計画することも、知恵も知識もないからです。つまり、仕事であっても、知恵であっても、知識であっても、生きている今の時に、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、というのです。

 

私の友人の牧師に、路傍伝道ネットワークの代表をしておられる菅野直基という牧師先生がいらっしゃいますが、フェイスブックで「今日を最後の日として生きよう」というショートメッセージをされました。

「私たちの人生はたった一度だけです。時間には限りがあり、あっという間に過ぎていくもの、だから人生はおもしろい。明日があると思えば、今日出来る事を明日に先延ばししてしまうことがあります。この世が永遠に続くと思うなら、後でしようと、急いだってしょうがないんじゃないの、ってなりますけれども、これは「もし」のことであって、聖書では、私たちの人生は70年、健やかであっても80年、どんなに生きても120年だとあります。そういう意味では、今日という日がどれほど大切でしょうか。もしかすると、今日が最後の日になるかもしれないのです。もし今日が最後の日だとしたらどう過ごしますか。誰と会うか、何をするか、どのように過ごしたいかを考えるのではないでしょうか。そして、そのように思い巡らす中で一番重要なことからやっていくのではないでしょうか。今日を最後の日として考えて生きるなら最高の一日になるはずです。それを毎日続けていったらものすごいことです。何気ない出会いも大切にしたいと思うでしょうし、険悪な関係だった人との関係も修復しておきたいと思うでしょう。今日を最高に生きるために、今日という日を、そして今を最後の日として生きていけたらいいですね。」

 

今日という日を、今を、最後の日として生きる。そうすれば、一番大切なことからやっていくはずです。一番大切なこと、それは、神に会う備えをするということです。そして、神が与えてくださった一つ一つの恵みに感謝し、これを喜び、楽しみ、自分の手でできることに、全力を尽くすということです。

 

あなたはどうですか。神に会う備えが出来ていますか。それはただイエス様を信じるというだけでなく、あなたの人生において神を認めて生きるということです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5)

心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼るのではなく、あなたの行くすべてにおいて主を認めましょう。主が与えてくくださる恵みに感謝しましょう。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

すべては神のみわざ 伝道者の書8章9~17節

2021年1月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章9~17節(旧約P1149)

タイトル:「すべては神のみわざ」

 

 きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

 まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。

しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる
 雨が降っていたのだ
 あの音のようにそっと 

世のためにはたらいていよう

雨があがるように

しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。

その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。

この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。

「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。

家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。

出エジプト記39章

2021年1月27日(水)バイブルカフェ

出エジプト記39章

 

出エジプト記も残すところ39章と40章だけとなりました。ここには、かつて主がモーセに命じられた祭司の装束を、彼らがどのように行ったかについて記されてあります。まず1~3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.祭司の装束(1-31)

 

まず1~31節までをご覧ください。3節までをお読みします。「彼らは、青、紫、緋色の撚り糸で、聖所で務めを行うための式服を作った。また、【主】がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、エポデを作った。彼らは金の板を打ち延ばして金箔を作り、これを切って糸とし、青、紫、緋色の撚り糸に撚り込み、それぞれ亜麻布の中に意匠を凝らして織り込んだ。」

 

「彼ら」とは、知恵の御霊に満たされた職人たちのことです。彼らは、幕屋の中にあるさまざまな用具を作りました。ここで彼らはアロンの聖なる装束を作りました。金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いてエポデを作ったのです。彼らは、金を延ばして、それを撚り糸の中に織り込みました。金は神のご性質と神の栄光を表していました。

 

次に、4~7節をご覧ください。「エポデに付ける肩当てが作られ、それぞれがエポデの両端に結ばれた。エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。彼らは縞めのうを金縁の細工の中にはめ込んだ。それには、イスラエルの息子たちの名が、印章を彫るように刻まれていた。彼らはそれらをエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

大祭司が着るエポデには、左右両方に肩当てが作られ、それぞれエポデの両端に結ばれました。その肩当てには、金の枠にイスラエルの息子たちの名が刻まれていた縞めのうが付けられていました。それは、イスラエルの息子たちが覚えられるための石です。これは、大祭司がイスラエルの民を代表していることを象徴していました。また、イザヤ46:3-4に、「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とありますが、主が彼らを背負って救い出すことを表していました。また、エポデの上に来るあや織りの帯をエポデと同じように作りました。これは主がモーセに命じられたとおりです(28:6-14)。

 

次に、祭司の胸当てです。8~14節をご覧ください。「また、意匠を凝らして、エポデの細工と同じように、金色、青、 紫、 緋色の撚り糸、 それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、胸当てを作った。正方形で二重にしてその胸当てを作った。 長さは一ゼレト、 幅一ゼレトで、 二重であった。その中に四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれた。これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表した。」

 

彼らはまたエポデを作る時と同じように、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で胸当てを作りました。これは正方形で二重になっていました。これは「さばきの胸当て」と呼ばれていたもので、その中にウリムとトンミムと呼ばれる石が入れられていました(28:30)。

この胸当てには肩当てと同じように宝石が3個ずつ4列に埋め込まれました。この宝石もイスラエル12部族の民を表していました。大祭司の心にこの12の部族が刻まれていたのです。それは同時に、私たちクリスチャンが大祭司であられるキリストの心に刻まれていることを表しています。クリスチャンはみなそれぞれ違う石で、輝きも違いますが、どれもみな宝石のように価値あるものです。キリストによって贖われたので、代価を払って買い取られたので、価値ある者にされたました(イザヤ43:3-4)。クリスチャンはみなキリストの胸にしっかりと刻まれているのです。

 

ここに出てくる宝石は、黙示録に出てくる新しいエルサレムの都を構成している宝石にとても似ています(黙示録21:11-21)。それらの土台石は12使徒を表わしていましたが、そのうち9つがここの宝石と同じものです。門はイスラエル12部族を表していましたが、それらはみな真珠で出来ていました。それは神の栄光の中にイスラエルがおり、そして教会も存在していることを象徴しています。

次に、純金の鎖です。15~21節をご覧ください。「また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作った。彼らは金縁の細工二個と金の環二個を作り、二個の環を胸当ての両端に付けた。胸当ての両端の二個の環には、二本の金のひもを付けた。その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付けた。さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付けた。また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付けた。胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」


この鎖は胸当てをエポデに固定するためのものです。胸当ての四隅に金の環が付けられ、それを青いひもで

結んだのです。なぜこんなことをしたのかというと、胸当てがエポデからずり落ちないためです。この胸当てには

12の宝石が埋め込まれてありましたが、これはイスラエルの12部族、また、私たちクリスチャンのことを表して

いました。これが主の胸からずり落ちないためです。私たちはこの青いひもでしっかりと結ばれているので、決し

てずり落ちることはありません。ちなみに金の環は神の愛、青いひもは天の恵みを表しています。ですから、私

たちが神の愛からずり落ちないのは、一方的な神の愛によるのです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに行

いました(28:22-30)。

 

次に、22~26節をご覧ください。「また、エポデの下に着る青服を、織物の技法を凝らして青色の撚り糸だけ

で作った。青服の首の穴はその真ん中にあり、よろいの襟のようで、ほころびないようにその周りに縁を付けた。青服の裾の上に、青、紫、緋色の撚り糸で撚ったざくろを作った。また彼らは純金の鈴を作り、その鈴を青服の裾周りの、ざくろとざくろとの間に付けた。すなわち、務めを行うための青服の裾周りには、鈴、ざくろ、鈴、ざくろとなるようにした。 【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

これは、エポデの下に着る長服のことです。これは1枚の布でできた筒状の長福で、頭を入れる穴だけ開いていました。その裾にはざくろと純金の鈴がつけられました。それは、風が吹いても長服の裾がめくれないようにするためです。ざくろは、肥沃と豊かさ、そしていのちを象徴していました。それはキリストのいのちの豊かさを象徴していたのです。鈴は、大祭司が至聖所で聖なる務めを果たしていることを音によって外部の人に知らせるためのものです。それは金で出来ていました。それはキリストのとりなしを象徴していました。同じ鈴が香炉にも付けられていたからです。キリストは私たちの大祭司となって、私たちのために神にとりなしてくださいます。彼らはこれも主がモーセに命じられたとおりに作りました(28:31-35)。

 

次に、27~29節です。「彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服を、亜麻布のかぶり物、亜麻布の麗しいターバン、そして撚り糸で織った亜麻布のももひきを作った。また、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋色の撚り糸を用い、刺繍を施して飾り帯を作った。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

また、彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服と、亜麻布のかぶり物、亜麻布のターバン、そして、撚り糸で織った亜麻布のももひきを作りました。この「ももひき」は、彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないためです(20:26)。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:39-40)。

 

さらに、30~31節をご覧ください。「また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「【主】の聖なるもの」という文字を記した。これに青ひもを付け、それを、かぶり物に上の方から結び付けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

さらに、彼らは聖別の記章の礼を純金で作り、その上に印象を掘るように「主の聖なるもの」という文字を記し、それを青ひもで、かぶり物の上の方に結び付けました。これはアロンがイスラエルの代わりに咎を負い、彼らが主への聖なるものとしてささげられることを表していました。これは私たちの罪咎を負って十字架で死んでくださったイエス・キリストを表しています。エペソ1:17には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」とありますが、そのことです。私たちは、大祭司であられるイエス・キリストの贖いによって罪が赦され、聖い者とされているのです。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:36-38)。

 

Ⅱ.主が命じられたとおりに行ったイスラエルの子ら(32-42)

 

次に32~42節をご覧ください。「こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、机と、そのすべての備品、臨在のパン、きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。」

 

こうして、彼らは会見の天幕のすべての奉仕を終えました。ここに何度も繰り返されている言い回しがあります。それは、「主が命じられたとおりに、行なった」という言葉です。5節、7節、21節、26節、29節、31節、そして、今読んだ32節と42節です。彼らは自分たちで考え自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が命じられたとおりに行いました。自分の方法ではなく、神の命令に従ったのです。

 実は、出エジプト記はこの言葉によって事が進展しています。モーセが燃える柴を見たときいろいろな言い訳をしました。「私は、口べたで、預言をすることはできません。」とか、「イスラエル人たちが、私があなたから遣わされたのを信じないでしょう」とか、私が、彼らが、・・という人間のレベルの話をしていました。しかし、モーセとアロンがファラオのところに行ってからは、主が命じられたとおりに行なった、という言い回しが続くのです。その中で十の災いがエジプトに下り、ファラオはイスラエルをエジプトから出て行かせることになります。自分の世界ではなく、神の世界の中に生きるようになったのです。

 

このことは、私たちクリスチャンのあるべき姿でもあります。私が何々をした、というのではなく、主がこう言われたということが中心になるべきなのです。そうすることで、その人の生活を見るときに、確かに主がこの人のうちに働かれていることを認めることができるようになるのです。

 

Ⅲ.モーセによる祝福(39:43)

 

それを見たモーセはどうしたでしょうか。43節をご覧ください。「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、【主】が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。」

 

モーセがそのすべての仕事を見ると、彼らは、主が命じられたとおりに行っていたので、モーセは彼らを祝福しました。一度は金の子牛を造り、それを礼拝した民でしたが、ここではモーセから祝福を受けているのです。民が主の命じられたとおりに行ったのを見たとき、モーセは感動したのでしょう。このように、イスラエルの民が祝福を受けたのは、モーセから聞いた主の命令に彼らが忠実だったからです。

 

それは、私たちにも言えることです。主イエスはこのように言われました。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:14-15)

イエスを愛することは、その戒めを守ることです。私たちも主の戒めを守るなら、主は私たちを祝福してくださいます。この新しい年も、主のみことばをしっかりと握り締め、主のみことばに歩みましょう。主のみことばに歩むお一人お一人に、主の祝福が豊かにありますようにお祈りします。

希望の神 ローマ人への手紙15章7~13節

2021年1月17日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章7~13節

タイトル:「希望の神」

 

 きょうは、「望みの神」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンが一致することについてかなりのスペースを割いて語ってきたパウロは、いよいよここでその結論を語ります。それはどういうことかというと、目の付け所を間違えないようにということです。すなわち、神に目を向け、神に信頼しなさいというのです。なぜなら、神は望みの神だからです。13節をご覧ください。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」

 教会における一致は、人間の努力や方策によってもたらされるものではなく神が与えてくださるものですから、互いの違いに目を留めるのではなく神に目を向け、神に信頼しなければならないということです。

 

 きょうは、この望みの神について三つのことをお話したいと思います。第一に、キリストが受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れ合わなければならないということです。第二のことは、キリストが私たちを受け入れてくださったのは神の栄光があがめられるためでした。ですから、第三のことは、この希望の神に目を留めましょう、ということです。

 

 Ⅰ.キリストが受け入れてくださったように(7)

 

 まず、7節をご覧ください。「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」

 

 「ですから」とは、これまでパウロが語って来たことを受けてのことです。これまでパウロは長いスペースを割いてクリスチャンの一致について語ってきました。その前のところでは、力のある者たちは、力のない者たちの弱さを担うべきである、と語りました。私たちは一人一人自分を喜ばせるために生きているのではなく互いの霊的成長のために、互いの益のために生きています。であれば、私たちは互いの喜びのために生きるべきです。その良い模範がキリストでした。キリストは自分を喜ばせることはなさいませんでした。3節にあるように、むしろ、「あなたがたを嘲る者たちのあざけりが、わたしに降りかかった」とあるように、私たちが受けるべき苦難を受けられました。この言葉は詩篇69:9からの引用ですが、主が私たちが負うべき苦しみを代わりに負ってくださったことを表しています。イエス様は、イエス様は私たちの弱さを担ってくだったのです。これが力のある者にゆだねられている使命です。であれば私たち力ある者も、力のない者の弱さを担うべきです。キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、互いに受け入れ合いなさい、と聖書は教えているのです。

 

キリストは、どのように私たちを受け入れてくださったのでしょうか?私たちは既に14章でそのことを学んできましたが、14:15には「キリストが代わり死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」とあります。キリストは、信仰が弱い人たちのためにも死んでくださったのです。キリストはそのように信仰の弱い人たちのために、いや、信仰の強い人たちのためにも、すべての人のために死んでくださいました。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださったほどの人をさばくようなことがあるとしたら、それはほんとうに神に申し訳ないことです。

 

 私は、イエスさまを信じるまで、いや信じてからも、しばらくの間このキリストの十字架の愛を実感することができませんでした。頭ではわかっていましたが、それがどれほど大きな愛なのかは、本当の意味でわかっていませんでした。しかし、信じてしばらくするうちに、自分の罪、自分の弱さに直面して、初めてわかるようになりました。新聖歌106番に、「虫にも等しき者のために、主はかくもむごき目に遭いしか」という賛美がありますが、まさにこんな虫けら同然の者を、限りない愛をもって一方的に愛してくださった主の愛を知ることができたのです。この愛こそ私たちの交わりの土台なのです。キリストがこれほどまでに愛してくださったのに、その人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ大きな問題ではないでしょうか。教会においてはとかく自分と違う人をさばきがちになりますが、それは私たちのうちに今もなお残っている罪の残骸のせいであって、この事実を忘れているからなのです。

 

イエス様は、マタイの福音書の中でこのことを次のように言っています。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」(マタイ7:1-5)

自分の目の中に梁があるのにそのことに気付かないで、兄弟の目の中にあるちりが気になるのです。そして、「それを取り除かせてください」と言うのです。でも、自分の目の中には大きな梁があります。その梁を取り除くことの方が先決です。もちろん、それを自分で取り除くことなどできませんから、兄弟の目の中にあるちりを取り除かせてくださいというのは、おこがましい話です。それなのに、そのように言うとしたら、自分の姿が見えていないということになります。

 

 皆さん、私たちはお互いに罪人であって、欠点も短所も弱さも持ち合わせている生身の人間です。イエス様を信じて罪赦されても、聖人君子になったわけではありません。完全な人など一人もいないのです。ですから、兄弟に嫌なことや、受け入れられないこと、なかなか好きになれないことがあっても当然なのです。にもかかわらず、キリストはそんな私たちを受け入れてくださいました。それは私たちも互いに愛し合い、受け入れ合うためです。問題は、私たちがなかなかこの十字架の愛に立つことができないことです。

 

イエス様は、このように言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)「わたしがあなたを愛したように」これが互いに受け入れ合う鍵です。こんな者でもイエス様に受け入れられたことを思うとき、私たちも互いに愛し合う力が与えられるのです。

 

 先日、「祈りのちから」という映画を観ました。これもすばらしい映画です。この映画の原題は、War Room(ウォー・ルーム)。「戦いの部屋」です。これは、これは祈りによって肉の性質と戦って勝利した2人の女性の物語です。

エリザベスは、不動産業界で成功している女性でした。夫のトニーもやり手の製薬会社セールスマンで、2人の間には小学生のダニエルという娘さんもいて、理想的な生活を営んでいました。

しかし、エリザベスの妹婿が失業し、金銭的援助を惜しまないエリザベスをトニーは批判します。いつの間にか喧嘩が絶えなくなり、いがみあう2人を目にする娘のダニエルは悲しんでいました。二人ともクリスチャンで、日曜日には教会に通っていましたが、なかなか互いを受け入れることができず、出てくる言葉は相手に対する不平と不満ばかりでした。

そんなある日、エリザベスは売家の交渉で1人の老婦人と出会い、彼女を通して「祈りの力」を学ぶのです。それは「相手を変えるのではなく、自分が変わる」ということでした。それが祈りです。自分で何とかしようとするのではなく、神に働いてもらうのです。

結局、エリザベスの祈りに神は答えてくださり、まず妻が砕かれました。そして妻の祈りを通して夫も悔い改めに導かれ、二人とも神に立ち返ることができました。その結果、互いに受け入れることができ、幸せに家庭を取り戻すことができたのです。

 

私たちも互いに受け入れることは簡単なことではありません。けれども、主がこんな者でも受け入れてくださったことを考えると、互いに受け入れることができるようになります。まさにそれは祈りの力なのです。

 

 Ⅱ.大切なのは神の栄光があがめられること(8-12)

 

 次に、8~12節までをご覧ください。ここには、パウロが別の視点からクリスチャンが一致する必要性を語っています。それは何かというと、神の栄光が現されるためにということです。「私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。」

 

 ここには、キリストがどのように受け入れてくださったのかが記されてあります。まず8節を見ると、キリストは、神の真理を現すために割礼のある者たちのしもべとなられました、とあります。どういうことかというと、キリストはユダヤ人の子孫として、ユダヤ人の中に生まれてくださったということです。なぜなら、旧約聖書の中にそのように約束されていたからです。ユダヤ民族こそ神様が選ばれた民でした。そのユダヤ民族を通してキリストが誕生されたのは、彼らに与えられた約束が実現するためだったのです。

 

 しかし、キリストが受け入れられたのはユダヤ人たちに対してだけではありません。異邦人に対してもそうでした。9節には、「また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」とあります。キリストが十字架にかかって死なれたのはユダヤ人だけでなく、すべての人が救われて真理を知るようになるためです。ユダヤ人も異邦人も一つになって、心を一つにし、声を合わせて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためだったのです。そのことを証明するためにパウロは、9~12節までの中で旧約聖書の四つの箇所を引用してこれを説明しています。

 

まず9節後半のことばですが、これは詩篇18篇49節からの引用です。かつてダビデは異邦人の中で主の御名があがめられるようになると預言していました。主の御名は、異邦人の中でもほめたたえられるのです。それが主のみこころでした。また10節には、「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」とあります。これは申命記32章43節からの引用ですが、そこには、異邦人も神の民とともに喜ぶようになるとあります。また11節と12節のみことばもそうです。11節のみことばは詩篇117篇1節からの引用であり、12節はイザヤ書11章10節からの引用ですが、これも異邦人も神を賛美するようになるという預言でした。特に12節にある「エッサイの根」とは、やがて来られるメシヤのことですが、このメシヤは異邦人のために、異邦人の希望のために、異邦人の救いのために来られるということが、ずっと昔から預言されていたのです。今まで生けるまことの神を知らなかった異邦人までもが神を知り、神をほめたたえるようになるということです。つまり、キリストはユダヤ人も異邦人も受け入れてくださり、心を一つにして、声を合わせて、神の栄光がほめたたえるようにしてくださったということです。

 

 ここでお気づきになられた方もおられるかと思いますが、これまでパウロは信仰の強い人と弱い人が互いに受け入れ合うようにというテーマで語ってきましたが、ここでは強い人とか弱い人というレベルを越えてユダヤ人と異邦人が一つになるというテーマに移っています。ユダヤ人と異邦人が一つになるということは考えられないことでした。それはまさに水と油のように相容れない関係でした。しかし、キリストが十字架にかかってくださることによって隔ての壁が取り除かれました。敵意は廃棄され、平和が実現したのです。エペソ書でこのように言われているとおりです。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」(エペソ2:14~18)

 

どこかで聞いたみことばですね。そうです、先週のC-BTEの学びのテーマがこれでした。キリストこそ私たちの平和です。二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。ですから、このキリストによらなければ一つにはなることはできません。つまり、重要なのは神があがめられることを求めることであるということです。それがすべてなのです。

 

 皆さん、小さな考え方の違いはあってもいいのです。しかし、大切なことは、もっと偉大なものに目を向けることです。本当に偉大なことに目が向けられると、小さなことなどどうでもよくなるからです。その重要なこととは、神があがめられることです。このことを求めて生きるなら、人間の間の些細な違いなどは全く気にならず、互いに受け入れ合うことができるようになるのです。

 

 Ⅲ.望みの神に目を向ける(13)

 

 ですから第三のことは、この神に目を向けましょうということです。お互いの違いや、自分の感情に振り回されるのではなく、この神に目を向けなければならない、ということです。なぜなら、神は望みの神だからです。13節をご覧ください。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」

 

 パウロは、ここで神を「希望の神」と呼んでいます。5節では、「忍耐と慰めとの神」と言いました。忍耐と励ましの神が、希望を持たせることができる・・・と。皆さん、私たちの信じる神は、「望みの神」なのです。「望みの神」というのは、私たちに望みを与えることができる神であるということです。人はみな何らかの希望によって生きています。希望がなかったら、生きていくことなどできません。生きていたとしても、それは生ける屍のようなものになってしまうでしょう。

 

 第二次世界大戦中に、ドイツのナチスによって大勢のユダヤ人が強制収容所に送り込まれ、そこで殺され、死んでいきました。その中で数少ない生き残った人々は、ほとんど例外なく、将来に対するしっかりした希望を持っていたと言われています。「神が必ず救い出してくださる」、「なんとかしてこのようなことが二度と起こらないような社会を建設するのだ」、「どうしても家族や恋人にもう一度会いたい」等々、希望を持ち続けた人々が、最後まで生き残ったのです。希望こそ私たちに生きる力を与えてくれるのです。

 

 しかし、希望といってもいろいろな希望があります。たとえば、「お金持ちになりたい」とか、「もっと有名になりたい」、「もっと楽な生活がしたい」というものもあるでしょう。そのような願望や野望といったものは一時的な満足は与えてくれるかもしれませんが、いつまでも続くものではありません。したがって、そうした希望は失望に終わってしまうのです。しかし、神が与えてくださる希望はそのような一時的なものではなく、神との関係によってもたらされる永続的なものです。主イエスはこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

それは、決して渇くことがありません。途切れることがありません。ですから、決して失望に終わることがないのです。ローマ5:5~10を見ると、このように約束されてあります。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。」(ローマ5:5~10)

 

 この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。これは神の愛によってもたらされた希望なのです。キリストは、正しい人のためではなく、罪人を招いて救うために来られました。「敵で」さえも愛してくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を明らかにしてくださったのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのではないでしょうか。この神の愛が、聖霊によって、あなたの心に注がれているのです。

 

 さらに、私たちの希望が「失望に終ることがない」という決定的な根拠は、キリストの復活の事実にあります。キリストが死からよみがえられたのは、キリストにある希望が何ものにも閉じこめられることがないことを示すためでした。ですから、キリストに望みをおく者は、決して失望に終ることはないのです。

 

 神は、この希望を与えてくださいます。そしてパウロは、この望みの神がローマの教会の人たちの信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れされてくださるとようにと祈っています。彼らの努力によって、そうした希望、喜び、平安を持つようにではなく、信仰によって、聖霊によって持つようにと言っているのです。あくまでも与えてくださるのは神であって、私たちの力や努力によるのではありません。私たちは、その神に信頼しなければならないのです。私たちの希望を失ってしまうほど問題が起こり、失望落胆してしまいそうな時でも、この希望の神に信頼することによって、そこから喜びと平安が与えられ、聖霊の力によって望みに溢れることができるようになるのです。

 

 それは教会だけではありません。私たちの人生には、たびたび失望するような事が起こりますが、そのような時にも、希望の神は、聖霊の力によって、私たちに希望を与え続けてくださるのです。問題は、私たちがどこを見ているかです。そうした問題に目が向けば失望するでしょうが、神に目を向けると、希望が与えられるのです。

 

  たとえば、ダビデがそうでした。ダビデはサウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を10年間も彷徨っていた時、人生の試練の中で、どこに希望と救いがあるのかを思い、次のように告白しました。詩篇62篇1~8節です。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

 

 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。ダビデは神に目を留め、黙って、ただ黙って神を待ち望んだのです。それがダビデの勝利の秘訣だったのです。目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを忘れると、人の顔色ばかりを気にするようになります。そして平安を失ってしまうことになるわけです。ですから、私たちは目に見える背後におられる神に目を向けなければなりません。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐらら。神は、われらの避け所なのです。この方に目を向け、この方に信頼することによって、完全な解決が与えられるのです。

 

 皆さんの目はどこを見ているでしょうか?何に信頼しているでしょうか。ダビデがただ黙って神を待ち望んだように、私たちも神に信頼し、黙って神を待ち望もうではありませんか。それは私たちの神は希望の神であり、聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださるからです。

出エジプト記38章

2021年1月13日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記38章

 

 出エジプト記38章から学びます。

 

Ⅰ.祭壇(1-8)

 

まず、1~8節をご覧ください。「また彼は、アカシヤ材で全焼のささげ物の祭壇を造った。 長さ五キュビト、 幅五キュビトの正方形で、 高さは三キュビトであった。その四隅の上に角を作った。その角は祭壇から出ているようになっていた。彼は祭壇に青銅をかぶせた。彼は、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作った。そのすべての用具を青銅で作った。祭壇のために、その下の方、すなわち、祭壇の張り出した部分の下に、祭壇の高さの半ばに達する青銅の網細工の格子を作った。四個の環を鋳造して、青銅の格子の四隅で棒を通すところとした。 彼はアカシヤ材で棒を作り、それらに青銅をかぶせた。その棒を祭壇の両側にある環に通して、それを担ぐようにした。祭壇は、板で、中が空洞になるように作った。また、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡で、それを作った。」

 

また彼は、アカシヤ材で全焼のささげものの祭壇を造りました。「彼」とは「ベツァルエル」のことです。「祭壇」とは、全焼のささげ物を焼くための器具です。これは、27:1~8で命じられていたことですが、彼はそれを実行しました。その大きさは長さ、幅が5キュビト(2.2m)で、高さは3キュビト(1.33m)でした。他の器具よりも大きく、器具の中では一番大きいものでした。

 

その四隅の上に角を作り、その角は祭壇から出ているようになっていました。それは、全焼のささげ物が落下しないように結び付けておくためのものでした。と同時に、そのいけにえの犠牲の効能を表すためのものでもありました。出エジプト29:12には、「その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。」とありますが、それはイスラエルの民の罪を贖ういけにえの犠牲の効能を示すためのものだったのです。キリストの血による贖いが、神との和解、罪の赦しの効能があることを象徴していたのです。

 

祭壇に青銅をかぶせました。祭壇だけでなく、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿にもかぶせました。それはアカシヤ材で作られていたので、火で燃えないようにするためです。そればかりでなく、青銅は神のさばきを象徴していましたが、いけにえの動物が神のさばきを受けることを示していました。それは私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたイエス・キリストを指し示していました。キリストは罪の身代わりとなって十字架にかかり神のさばきを受けてくださることで、私たちの罪を贖ってくださったのです。ですから、この祭壇は、イスラエルの民に与えられていた恵みだったのです。いけにえの動物の血によって、イスラエルの民の罪が覆われたのです。しかし、これは一時的な解決であって最終的な解決ではありませんでした。最終的な解決は、完全ないけにえとなられたイエス・キリストにあったからです。

 

8節には「洗盤」について記されてあります。それは、聖所と祭壇の間に置かれました。それは、祭壇におけるいけにえの血による贖いによって与えられる「立場」を得ることによって、はじめて洗盤に近づくことができるということを意味していました。アロンとその子どもたち、すなわち、祭司たちは、その水で手と足を洗いました。それは、会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡で作られました。それは今日のような鏡ではなく、青銅を磨いたもので、はっきりとではなく、ぼんやりと映るものであったようです。ですから、それは青銅で出来ていました。しかし、たとえそれが青銅で出来ていても、良く磨かれた青銅は「鏡」の役割を果たしました。その役割は「写し出されたものを見る」ことにあります。「見る」とは、祭司たちが青銅の洗盤できよめられる(聖別される)ことと関係があります。

 

「洗盤」とその中に入れる「水」は、いずれも「神のことば」を象徴しています。祭司は、常に洗盤の水、すなわち「神のことば」によって日々聖別される必要がありました。なぜなら、祭司たちは、この世の思想、概念、常識、価値観によって汚されてはならないからです。彼らの働きや歩みだけでなく、彼らの思いが汚されないためには、神に仕える者たちが日々神のことばによってきよめられ続ける必要があるのです。神のみことばには、そのような力がありました。へブル4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。

また、ヨハネ15:3には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。みことばは、私たちを聖める力があるのです。

それはエペソ5:26~27を見てもわかります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたのは、ということです。キリストがご自身をささげられたのは、私たちをきよめて聖なるものとするためだったのです。どのようにして?ここには「みことばにより、水の洗をもって」とあります。まさにみことばは水の洗いなのです。かつて祭司たちが洗盤の水で手と足をあらったように、みことばは私たちをきよめてくれます。

だから、「女たちの鏡」が用いられたのです。鏡は人の姿を映し出しますが、みことばも鏡のように私たちの心の奥底に潜んでいる罪を照らし、その罪を洗い清め、赦しを与えるからです。私たちも神のことばに従うとき、私たちはきよめられ、神の力を受けることができます。ですから、日々のデボーションを大切にしましょう。心に蓄えたみことばによって、私たちの救いは完成へと導かれるからです。

 

Ⅱ.幕屋の庭(9-20)

 

 次に、9~20節をご覧ください。「彼はまた、庭を造った。南側では、庭の掛け幕は撚り糸で織った百キュビトの亜麻布でできていた。柱は二十本、その台座は二十個で青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀であった。北側も百キュビトで、柱は二十本、台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。西側には五十キュビトの掛け幕があり、柱は十本、その台座は十個、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。正面の東側も五十キュビト。門の片側には、十五キュビトの掛け幕と、柱が三本、台座が三個あった。庭の門の両側をなすもう一方の側にも十五キュビトの掛け幕があり、柱は三本、台座は三個であった。庭の周囲の掛け幕はみな、撚り糸で織った亜麻布でできていた。柱のための台座は青銅で、柱の鉤と頭つなぎは銀、柱頭のかぶせ物も銀であった。それで庭の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わされていた。庭の門の垂れ幕は、刺?を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でできていた。長さは二十キュビト、高さ、あるいは幅は五キュビトで、庭の掛け幕に対応していた。その柱は四本、その台座は四個で青銅であった。その鉤は銀であり、柱頭のかぶせ物と頭つなぎは銀であった。ただし、幕屋とその周りの庭の杭は、みな青銅であった。」

 

 彼はまた、庭を作りました。これも27:9~19で命令されていたことです。庭の大きさは、南側、すなわち東西に100キュビト(約44.5m)で、北側も同じです。柱は20本ありました。それを支える台座も20個で、青銅で出来ていました。また、柱の鉤となる頭つなぎは銀でできていました。庭の柱はこの頭つなぎでつなぎ合わされていました。聖書で「青銅」という場合は、それは「銅」のことを指しています。最も耐火性のある金属です。幕屋の庭にある金属は「青銅」「銀」です。聖所では「銀」と「金」、至聖所では「純金」が使われ、奥に行けば行くほど価値の高い金属が使われています。

 「銀」は罪人のために払われた贖い(身代り)の代価としてのイエスのいのちを、また「青銅」は火のような試練である十字架を忍ばれたイエスを象徴しています。

 

 西側、すなわち南北に50キュビト(約22.25m)の掛け幕、柱は10本、それを支える台座が10個、その柱の鉤と頭つなぎは銀でできていました。庭の周囲の掛け幕はみな、より糸で織った亜麻布でできていました。これは、イスラエル民を異邦人から区別するためのものでした。幕屋全体が、神が聖であることを教えていました。神は聖なので、聖と俗が混同してはならなかったのです。それを区別したのがこの掛け幕です。

 

  正面の東側も50キュビトありました。門の片側には、15キュビトの掛け幕と、柱が3本、台座が4個ありました。門の両側をなすもう一方の側も同じサイズでした。その真中が門の垂幕になっていました。大きさは20キュビトです。その垂れ幕は刺繍を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それにより糸で織った亜麻布で出来ていました。これは前にも述べたように、キリストのご性質を表していました。キリストこそ神に至る門です。だれでも、キリストを通らなければ神のもとに行くことはできません。神に近づくためには、神が用意された方法によらなければなりませんでした。

 

 Ⅲ.あかしの幕屋の記録(21-31)

 

最後に、21~31節をご覧ください。「幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は次のとおりである。これはモーセの命によって記録されたもので、祭司アロンの子イタマルのもとでレビ人が奉仕したことであった。ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルは、【主】がモーセに命じられたことをことごとく行った。彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブがいた。オホリアブは、彫刻をする者、意匠を凝らす者、また青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?をする者であった。聖所の設営のすべてにおいて、その仕事のために用いられた金、すなわち奉献物の金の総計は、 聖所のシェケルで二十九タラント七百三十シェケルであった。登録された会衆による銀は、聖所のシェケルで百タラント千七百七十五シェケルであった。二十歳以上で登録された者が全部で六十万三千五百五十人だったので、これは一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルである。聖所の台座と垂れ幕の台座を鋳造するのに用いた銀は百タラントで、百個の台座に百タラント用いた。一タラントで一個の台座である。また、千七百七十五シェケルで柱の鉤を作り、柱の頭にかぶせ、頭つなぎで柱をつないだ。奉献物の青銅は七十タラント二千四百シェケルであった。これを用いて、彼は会見の天幕の入り口の台座、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、および祭壇のすべての用具、また、 庭の周りの台座、 庭の門の台座、幕屋のすべての杭、庭の周りのすべての杭を作った。」

 

これは、あかしの幕屋の記録です。モーセの命令によって記録されたもので、この調査の責任者は、アロンの子イタマルでした。彼が指揮を取ってレビたちが調査をし、その結果をまとめたのです。

この作業を行ったのは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルです。彼は、主がモーセに命じられたことをことごとく行いました。また彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブが、彫刻や、亜麻布の刺繍をしました。

 

そのために用いられた金の総計は、29タラント730シェケルです。1タラントはやく34㎏ですから、986㎏になります。1シェケルは11.4gですから、730シェケルは8,332gになります。現在の金の価値は、1gあたり

4,869円です。ですから、これは現在の価値で48億4千万円くらいになります。幕屋がみすぼらしいと思っている人がいたらとんでもないことです。見た目は豪華ではないかもしれませんが、それは神の栄光に満ち溢れていました。まさに、イエス・キリストはそのようなお方です。見た目は普通の人のようですが、その中身は神の栄光、神の恵みまことに満ちておられたのです。

 銀の総計は、100タラント1,775シェケルでした。これは約3,500㎏となります。現在の価値で1g約80円ですから、2億7千万円となります。

 青銅は、70タラント2,400シェケルでした。これは約2,500㎏です。現在の価値で1㎏560円ですから、  140万円となります。

 

幕屋の建設のために、これだけの奉納物がささげられました。これらの他にも宝石などもささげられました。ですから、その数字は天文学的な数字になります。これらのものはすべて、イスラエルの民による自発的なささげものでした。彼らはこれを喜んで行いました。心から進んで行ない、また知恵が与えられた者たちが、主が命じられたようにことごとく行なっていったのです。それはすべてエジプト人から受けたものでした。しかし、これだけのものをささげることは、そこにそれだけの犠牲があったということです。恐らく、それぞれには何グラムばかりの貴金属しか持ってなかったでしょう。しかし彼らは、それを喜んでささげたのです。それは彼らがささげたというよりも、主が彼らの心を動かして、このようなわざをさせてくださいました。それは私たちにも言えることです。自分が持っているものは本当にわずかなものかもしれませんが、それを主の働きのために喜んでささげるとき、主はこのような偉大なみわざを成してくださるのです。

 

福島で牧会していた時、会堂建設の恵みに与りました。600坪もある広い土地に、100名収容できる礼拝堂と、100名収容できるホールが仕切りで区切られ、それを開けると200名収容できる建物でした。まず、土地購入のためにささげました。その土地は市街化調整区域にあったため、2,000万円とかなり安い価格が提示されていました。しかし、教会が開発許可の認可を得ると、地主は3,500円に価格をつり上げました。7,000万円もかけて造成したので、せめて半額の3,500万円で売却したかったのです。地主との価格の交渉の中で、地主が「では2,700万円でどうですか」と提示してきたので、「ここだ!」と、「では2,700万円と2,000万円の間をとって2,500万円にしましょう!」と言うと、地主は、「やられました!」としぶしぶ合意しました。私は「ヤッター」と思いましたが、若い信徒が多く集う私たちの教会で2,500万円をささげることは容易なことではありませんでした。私たちは、土地代を献げ、会堂の建築費を銀行から借り入れする計画をしていたので、何としても2,500万円を集めなければならなかったのです。今でも忘れることができません。半分の1,250万円が献げられたとき、礼拝後家内がカップケーキを半分にしてみんなに配り、「半分達成しました。神様に感謝しましょう。」と言いました。半額突破パーティーです。みんな土地代の半分がささげられたことを神様に感謝しました。

すると、残りの半分が与えられるまでには、そんなに時間がかかりませんでした。みんな喜んで献げました。特に、当時は結婚式が多く、2カ月に1回くらいありしたが、この会堂建設のために感謝献金をしました。もちろん、私たちも断食をして献げました。断食と言っても、毎週水曜日の夜は余った食材で料理したものを食べるというもので、その日の食材費500円を毎週献げ、その年のクリスマスに教会に持って行きました。

そのようにして、必要の2,500万円が与えられ、土地を献金で取得することができたのです。そして、さらに神様の恵みと奇跡によって必要のすべてが満たされ、翌年に献堂することができました。

 

当時のイスラエルも同じだったのではないかと思うことがあります。自分が持っているものは本当にわずかであっても、それを喜んで主に献げるとき、主はご自身の偉大なみわざを成し遂げてくださるのです。

 

ピリピ2:12~16にはこのようにあります。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

救いを達成するための良い行ないは、みな神が私たちのうちで行なってくださいます。志を立てさせ、事を行なわせてくださいます。私たちに求められているのは、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行うことです。働きは主ご自身が成されますが、主は私たちに志や感動を与えてくださって、喜んでそれを行なう者たちによってその働きが完成させてくださるのです。そして、ご自分の働きを始められた主が、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるのです。

知恵のある者はだれか 伝道者の書8章1~8節

2021年1月10日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章1~8節(旧約P1148)

タイトル:「知恵のある者はだれか」

 

 きょうは、伝道者の書8章前半から「知恵のある者はだれか」というタイトルでお話しします。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とあります。だれが知恵のあるような人となり、物事の道理を悟ることができるのでしょうか。きょうは、このことについて御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.人の知恵はその人を輝かせる(1)

 

 まず1節をご覧ください。「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。」

 伝道者は、これまで人の知恵によっては人生の諸問題を解決することはできないと語ってきました。しかし、知恵のある者のすばらしさを称賛しています。たとえば、7:19では「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける」と述べました。知恵は、それほど力があるのです。ここには、その知恵のすばらしさを別の言葉で表現しています。それは、「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」ということです。「和らげる」という言葉は、欄外を見ると、直訳「変える」とあります。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔を変えるのです。整形手術をするということではありません。その顔の固さが和らかくなるということです。輝くのです。内面が変わると外面も変わります。そういう意味では、私たちの顔は内面を映す鏡のようなものなのです。

 

 皆さんは、自分の顔がお好きでしょうか。1912年にノーベル賞を受賞したフランスの物理学者アレキシス・カレルは、著書「人間 ─ この未知なるもの」の中で次のように述べています。

 「私たちの知らない間に、私たちの顔つきは、心の状態によって少しずつ造られていく。そして年齢を経るにつれて、それは増々はっきりとし、人間としての私たちの感情・欲望・希望など、すべてのものを表す看板のようになる」

ですから、私たちの顔は、私たちの心を映す鏡であるというのは本当なのです。

 

 アブラハム・リンカーンもこのように言いました。「男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない」それで、リンカーンが人を雇う時は、その人が四十歳以上の人であれば、その人の顔を見て選んだそうです。その人がどれほど有能であるかとか、どんな経験をしてきたかとかといったことではなく、その人がどんな顔かによって選びました。それは、その人がどんなにハンサムであるかとか器量がいいかといったことではなく、どのような表情をしているかということです。その表情が柔らかくて、輝いている人を選びました。なぜなら、その人の顔にその人の心の状態が映し出されることを知っていたからです。四十歳と言えばある意味で人格的にも成熟している年齢です。その心の持ちようが表情に表れるということを経験として学んでいるはずですから、その心を制御することができないとしたら良い仕事をすることもできないでしょう。それで彼は、男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない、と言ったのです。

 では、その人の顔を輝かせ、その顔を和らげるものは何でしょうか。ここには、人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる、とあります。ですから、その人の知恵がどれほど重要であるかがわかります。

 

 このことは詩篇でも言われています。詩篇10:4には、「悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです」とあります。ここでは悪しき者の顔がどのような顔なのかが表現されています。悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。彼らは「神はいない」と言うのです。天地万物を造られた創造主なる神を信じないし、信じようともしません。これが不信者の顔です。その特徴は何かというと「高慢」であるということです。ですから、どんなに自分が器量のいい人間であるかを装っても、本質的に高慢なので顔が固いのです。そんな顔でどうやって輝かせることができるでしょうか。どんなに顔にフェイスクリームを塗ってもだめです。高慢が顔に表れるからです。

 

 箴言15:13も開いてください。ここにも「喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある」とあります。新改訳改訂第3版では、「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」となっています。心に喜びがあれば顔色を良くしますが、心に憂いがあれば気はふさぎます。その人の心が表情に一番よく表われるというわけです。ですから、あの人何だか元気がなさそうだなぁという時には、やはり心に悩みがあるわけです。隠そうとしてもだめです。すぐに顔に表れますから。表情によってその人の心の状態をある程度判別することができるのです。

 

 箴言27:19も開いてください。ここには、「顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る」とあります。顔が鏡にたとえられているのです。顔が、水に映る時と同じように、その人の心は、その人の顔に映ります。ですから、顔を見ればその人の心がどういう状態であるかを知ることができるのです。

 

 ですから、自分がどれだけ立派な者であるかとか、どれだけ器量のいい人間であるかをアッピールする必要はありません。それよりも、自分の品性を磨くことの方が重要です。ですから、聖書はこう言っているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)その根源である心を見守ることが重要なのです。まさに知恵は、その心を磨くものなのです。

 

 イソップ物語に、「金の卵を産むガチョウ」の話があります。このガチョウは、毎日1個ずつ金の卵を産んでくれるのですが、若者は早く金持ちになりたいと思い、このガチョウを殺し、お腹の中を探しました。しかし何も出て来ませんでした。この物語は「欲張りの人は結局損をする」「今を感謝しない人は大切なものを失ってしまう」ということを教えてくれます。知恵がどれほど重要であるかがわかるのではないでしょうか。

 

 私たちは毎日何気なく仕事をしていますが、この仕事をすることについても、その態度には三つの段階があると言われています。

 一番下の段は「仕事をさせられている」と思いながら働いている人です。こういう人は一日の終わりには疲労感がどっと押し寄せてきます。

 次の段は「仕事をしてやっている」と思いながら働いている人です。これらの人々は、自分の収入や労働環境について、いつも不平不満でいっぱいです。仕事を喜びとすることができないのです。

 一番上の段は「仕事をさせていただいている」という感謝の心に満ちている人です。これらの人々は、仕事を喜びとし、置かれている環境を感謝して受け取ります。

 どの段階の人が、輝きを放っているかは一目瞭然です。一番上の段にいる人です。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげるからです。

 

 ですから、聖書はこう教えているのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18) 

 あなたの心に喜びがあるなら、また、あなたの心に祈りがあるなら、そして、あなたの心に感謝があるなら、あなたの顔は輝き、力がみなぎるようになります。いのちの泉はそこからわくからです。あなたは、この知恵によって生きていらっしゃるでしょうか。

 

いったいこのような知恵は、どこから来るのでしょうか。Ⅱコリント3:18を開いてください。ここには、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。どうしたら鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのでしょうか。これは、まさに御霊なる主の働きによるのです。自分の力でできることではありません。御霊なる主の働きによるのです。もし自分の力で輝こうとすれば、偽善者のようになってしまいます。そうではなく、主の向かい、主と交わりを持つことによって、主と同じ姿に変えられていくのです。これはまさに、御霊なる主の働きによるからです。

 

実は、このみことばは、出エジプト記34章の出来事が背景となっています。そこには、モーセが神と交わるためにシナイ山に登って行ったことが記されてありますが、モーセが山から下ると彼の顔が輝いていました。つまり、それはモーセが神と親密な交わりを持った結果与えられたものだったのです。

それは、今の私たちも同じです。私たちが主に向かい、主と親密な交わりを持つことによって、私たちの顔は輝きを放つようになるのです。そんなにフェイスクリームを塗らなくても大丈夫です。それよりも、主イエスと交わることによってピカピカと輝き、すべすべとした柔らかなお肌となります。なぜなら、主イエスこそ、神の知恵であられるからです。人の知恵でもその人の顔を輝かせるなら、神の知恵は、どれほどその人を輝かせることでしょうか。

 

ですから、もしあなたが輝いていないとしたら、それは、あなたの心がキリストに向いていないからであって、自分に向いているからです。また、御霊なる主にゆだねないで自分の力で輝こうとしているからです。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげます。あなたの心がどこを向いているかを点検し、今、主のもとに立ち返らせていただきましょう。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく」からです。

 

Ⅱ.知恵のある者は神の命令を守る(2-5a)

 

第二に、知恵のある者は神の命令を守ります。2~5節の前半までをご覧ください。「私は言う。王の命令を守れ。神への誓約があるから。王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。命令を守る者はわざわいを知らない」

伝道者は、知恵のある者は、王の命令を守れ、と命じています。ここでの「王」とは、地上の王と解釈することもできますし、神と解釈することもできますが、どちらも同じ意味になります。というのは、ここでは権威に対する従順が命じられているからです。「神への誓約があるから」とは、神の御前で忠誠を誓ったのだからという意味です。神の御前で忠誠を誓った以上、その誓いを果たすのは当然のことです。つまり、王の命令を守るとは、その王を立てたのは神ご自身の命令を守ることであり、そのような人こそ知恵のある者とされるふさわしい人であるということなのです。

 

このことはローマ13章で教えられていることです。ローマ13:1-2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」とあります。

上に立つ権威とは、職場であれば上司のことであり、家庭であれば夫であり、父親のことです。また、もっと広い意味で言うなら、それは市長のことであり、県知事のことでもあります。また、この国の政府のことでもあります。伝道者の書ではこれを「王」に置き換えられているのです。人はみな、上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。たとえあなたの上に立つ者が尊敬できないような人であっても、たとえあなたの上司がノンクリスチャンであったとしても、へりくだってその権威に従うべきです。なぜなら、その権威は神によって立てられたものだからです。そうでないと、神の御前に過ちを犯してしまうことになります。これは知恵のないことです。

 

ちょうど今、祈祷会でⅡサムエル記を学んでいますが、ダビデはその模範者であると言えるでしょう。ダビデは、サウル王に妬まれそのいのちを狙われて逃げ回っていましたが、その中で何度も彼を殺すチャンスがありました。けれども彼は一切サウルに手を出そうとはしませんでした。なぜなら、サウルは主に油注がれた者であり、主によって立てられた王であったからです。主に油注がれた者に手を出すことは主に背くことになると考えていたのです。ダビデは、上に立つ権威が神によるものだということを認識していました。ですから、自分の力でサウルに取って代わろうともしませんでしたし、サウルを非難したり、攻撃したりもしませんでした。神が立てられたのであれば、神が取り去ることもあると信じ、そのすべてを神にゆだねたのです。ですから、サウルが死んだということを聞いた時もほっとしたとか、安心したというのではなく、むしろその死を悼み悲しみました。それは、サウルが神に立てられた王であると受け止めていたからです。私たちも、自分の上に立つ者に不平不満があっても、たとえその人が問題だらけで間違いを犯すような人物であっても、あるいは、理不尽な人であっても、それは神によって立てられた権威であると認め、あとはすべて神にゆだねるべきなのです。神が立てたのであれば、神は取り去ることもあるからです。自分で手を出すべきではありません。

 

いったいダビデはどうしてサウルに従うことができたのでしょうか。ここには「神への誓約があるから」とあります。つまり、ダビデは、その背後には神がおられるということを見ていたのです。詩篇16:8にはこうあります。「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」これはダビデのミクタムです。「ミクタム」とは、「最高に美しい詩」という意味です。その詩の中でダビデは、「私はいつも主を前にしています」と告白していたのです。新改訳改訂第3版では「私はいつも、私の前に主を置いた」となっています。ダビデはいつも自分の目の前に主を置いたのです。サウルにいのちを狙われている時でも、敵の領地に逃げ込まなければならない苦境の時でも、いつも目の前に主イエスを置いていました。つまり、主イエスをフィルターとして見ていたのです。主イエスを通して向こうにいるサウルを見ていたのです。

 

皆さんの上司との関係、夫や妻との関係、上に立つすべての権威との関係も同じです。いつも主イエスを置いて見なければなりません。そうすれば、主に従うように夫に従うことができるはずです。主に仕えるように上に立つ権威にも仕えることができます。「嫌だなぁ、あの上司、最悪!」と思えても、主に従うように喜んで従うことができるようになるのです。

 

3節には、「王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。」とあります。これは、王の前から慌てて退出するなということです。つまり、王の言葉や態度に怒ったり、驚いたり、失望して、王の前を去ってはならないということです。また、悪事に荷担して、王への反逆を企ててもなりません。どうしてでしょうか?それは先ほども申し上げたように、神によって立てられた権威だからです。しかしそれだけではなく、ここにもう一つの理由が記されてあります。それは、王は自分の望むままを行うからです。つまり、王は絶対的な権威を持っており、それを自分の思うままに用いることができるからです。王に対して「何をするのですか」とか、「どうしてそのようなことをするのですか」とか、「このようにした方がいいんじゃないですか」などと言うことはできません。王には絶対的な権威があるからです。

 

これは、私たちと神との関係にも言えることです。究極的な王であられる神は、絶対的な権威をもっておられます。神は主権者であって、その権威を自由に用いることかできるのです。その神に向かって「どうしてこんなことを許されるのですか」とか、「どうしてこんなことが私の人生にふりかかるのですか」ということはできません。なぜなら、神は主権者であられるからです。その方が何を成さろうと、どのように成さろうと、それは神がお決めになられることであって、私たちが口をはさむことではないのです。私たちにできることは、その方の権威を認めて、その方にすべてをおゆだねすることです。

 

パウロは、このことをローマ9:20-21で、陶器師と陶器のたとえを用いてこのように言っています。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」

まさに、私たちは土のかたまりにすぎません。そのような者が陶器師に対して「どうして私をこんなふうに造ったんですか」と言うことはできません。私たちにはそのような権利はないからです。陶器師がどのように造るかは陶器師の自由であって、私たちが口をはさむことではないからです。それなのに私たちはすぐに「どうしてですか」と理由を問いたくなるわけです。知らないと気が済みません。知っても気が済みませんが、知らないともっと気が済みません。それで「どうしてですか」と問うわけです。「主よ、どうしてですか・・・」しかし、私たちはそのような立場にはないのです。私たちは陶器にすぎないものです。であれば、陶器師であられる主がなさることに信頼し、それがどうしてなのかがわからなくても、なぜこんな理不尽なことが起こるのかという時でも、すべてを主にお任せすればいいのです。あなたのために愛する御子を惜しまずに与えてくださった方が、あなたのために酷いことをするはずはありません。あなたのために最善のことをしてくださるでしょう。ですから、私たちはこの神の愛に信頼して「主よ、どうしてですか」と問うことを止め、「主よ、あなたにゆだねます」と祈るべきなのです。

 

5節の前半をご覧ください。「命令を守る者はわざわいを知らない。」どういう人がわざわいを知らないのでしょうか。命令を守る者です。王の命令を守る者、すなわち、神の命令を守る者です。そういう人はわざわいを知りません。わざわいがないと言っているのではありません。クリスチャンにもわざわいはあります。でもそれはわざわいとはならないのです。なぜなら、そのようなわざわいさえも神は益としてくださるからです。この世の人から見たら何と不幸だと思うようなことでも、クリスチャンはそのような中にも幸いを見つけることができるのです。ローマ8:28に、このような約束があります。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

ここに「すべてのことを働かせて」とあります。この「すべてのこと」の中には、良いことも悪いこともすべてです。ですから私たちは、わざわいの中でも益を見出すことができます。それゆえ、神の命令を守る者はわざわいを知らないのです。

 

Ⅲ.知恵のある者は神の時と方法を見分ける(5b-8)

 

第三に、知恵のある者は神の時と方法を見極めます。5b~8節をご覧ください。「知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない。」

 

すべての営みには時があることについては、3章で語られました。すべてのことには定まった時期があります。天の下のすべての営みには時があるのです。知恵のある者の心は、その時とさばきを知っています。この「さばき」とは「方法」のことです。創造主訳聖書では「知恵がある人の心は、時と方法を知っている」と訳しています。つまり、知恵のある人の心は、どのようなタイミングで、またどのような方法で王に従えばよいのかを知っている、ということです。

 

それは、王に従うことだけではありません。すべての営みにおいて言えることです。6節には「すべての営みには時とさばきがある」とあります。知恵のある人は、その時と方法を見分けることができるのです。知恵に欠ける者は、それを見分けることができません。なぜなら、すべてのことの適切な時期や方法を知るためには、神からの分別力をいただかなければならないからです。しかし、どんなに知恵がある者でもわからないことがあります。たとえば何でしょうか、7節には「何が起こるかを知っている者はいない」とあります。将来何が起こるのか、いつそのようなことが起こるのか、について知っている人はいません。だれも告げることができないのです。

 

また、8節には「風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない」とあります。

「風」と訳されていることばには※印が付いていますが、欄外の説明を見ると、あるいは「霊」「息」とあります。「風」も「霊」も同じ原語が使われているのです。ですからこれを、霊を支配し、霊をとどめておくことのできる人はいない、と訳すこともできます。そのように訳すと、次のみことばとのつながりが見えてきます。つまり、人は、自分のいのちをとどめておくこともできなければ、死の日を支配することができません。つまり、将来何が起こるのか、いつ起こるのかがわからないだけでなく、自分のいのちのことさえも自分で決めることができないということです。しかも、この戦いから逃れることができる人はひとりもいません。そして、悪は悪の所有者を救い得ないのです。どんなに悪に傾こうが、悪は悪を行う者を救うことができない、という意味です。つまり、善人でも悪人でも、死に対する戦いに勝利することができる人は一人もいないのです。

 

しかし、この死に勝利できる方がおられます。だれですか?そうです、死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。主は、実際に十字架に掛かって死なれましたが、三日目によみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。イエス様は死に勝利されました。ですからこのように宣言されたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

何と力強い約束でしょうか。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」この死との戦いから逃れることができます。主を信じる者は主と同じようによみがえり、天の御国に入れられるからです。これこそ真の希望です。人は希望がなければ前に進むことができません。しかし、ここに希望があります。死からよみがえられ、死に勝利された方、主イエス・キリストを信じる者は死んでも生きることができるのです。この方に信頼して歩めることは何と幸いなことでしょうか。

 

知恵のある者とされるにふさわしいのはだれでしょうか。その人は力の限り、見張って、心を見守ります。知恵の源であられる主との交わりを欠かしません。また、その人は神の命令を守ります。それが自分に理解できないことであっても、主は最善に導いてくださると信じているからです。そして、すべての営みには神の時とさばき(方法)があると信じて、神にすべてをゆだねるのです。なぜなら、神は人の死さえも支配しておられる方だからです。すなわち、神を恐れ、神の視点で人生を見ることのできる人、それこそ知恵のある人なのです。

 

作家のサン・デグジュペリは「星の王子さま」の中で、地球について王子さまに次のように言わせています。

「みんな特急列車に乗り込むけれど、今はもう何を探しているのかわからなくなっている。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているんだ。」

「大切なものは目に見えない。肝心なことは心で見ないと見えないんだよ。」

 

これはまさに、現代の社会に向けて語られているメッセージではないでしょうか。みんな特急列車に乗り込んでいるように忙しくしているけれども、何を探しているのかわからなくなっています。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているわけです。でも、大切なものは目には見えません。肝心なことは心で見ないと見えないのです。それは、神の視点で見るということです。

 

知恵のある者とさせていただきましょう。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)主を恐れることから始めましょう。聖なる方を知ることから始めましょう。この方の視点で人生を見つめ、その命令を守り、そのみわざにすべてをゆだねることを大切にしていきたいと思います。いのちの泉はここからわくからです。この主を恐れ、へりくだって主のみこころに歩もうとする人に、主はご自身の知恵で満たしてくださり、その顔を輝かせてくださるようにお祈りします。

キリストにあって歩みなさい 伝道者の書7章15~29節

2020年1月3日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書7章15~29節(旧約P1147)

タイトル:「キリストにあって歩みなさい」

 

 主の2021年、明けましておめでとうございます。この新しい年、皆さんはどのような御言葉が与えられたでしょうか。私は詩篇92:13の御言葉が与えられました。「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神のおお庭で花を咲かせます。」悪者は青草のように萌え出でますが、主を愛する者は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせます。この新しい年も、主の大庭、主の幕屋の庭で花を咲かせる年になりたいと思います。

 

さて、この朝私たちに与えられている御言葉は、伝道者の書7章15節からの御言葉です。伝道者は7章前半のところには、何が人のために良いことなのかを、知恵のある者と愚かな者の対比を通して学びました。その中心は何かというと、13節にあるように「神のみわざに目を留めよ」ということでした。神が曲げたものをだれもまっすぐにすることはできません。すなわち、神の成されたことをだれも変更することはできないのですから、それをありのままに受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのがベストです。どのように受け入れれば良いのでしょうか?14節にあるように、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」ということでしたね。なぜなら、「順境日も」も「逆境の日」も共に神がお与えになられたものだからです。これもあれも、神のなさることなのです。ですから、そのすべてが神の主権によって成されていることを覚え、その神にすべてをゆだねることが求められているのです。今回はその続きとなります。

 

Ⅰ.正しすぎてはならない、悪すぎてはいけない(15-20)

 

 まず、15~20節までをご覧ください。「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」

 

 非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。この新年礼拝にふさわしい御言葉だと思います。15節の「すべてのことを見てきた」とは、人生におけるすべてのことです。その中には考えられないようなこと、信じられないようなこともあります。何とも理不尽だなぁ思えるようなことも含まれています。たとえば、その後にあるように「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」というようなことです。私たちもこのような現実に直面することがあるのではないでしょうか。そして、その度に、イエス様を信じ、神様に信頼して歩むことにいったいどんな意味があるのだろうかと考えさせられるわけです。中には、そのような不条理を経験する中で、「聖書はもういらない」と信仰から離れてしまう人もいます。しかし、そのような現実の中にあっても、神を恐れて生きることを学ばなければなりません。

 

伝道者ソロモンは、その理由を次のように語るのです。16~18節です。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」

 

どういうことでしょうか。正しい人が正しいのに滅び、逆に、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがありますが、これもあれも、神がなさることなのです。私たちにはわからないことがあります。そうかといって正しい人であることが問題なのではありません。たとえ、正しい人が滅びていくかのように見えても、正しい人であること、イエス様を信じて義と認めていただくことは、神に受け入れていただく唯一の道であることに変わりはありません。問題は、自分で義と認めてもらおうとあくせくすることです。ですからここには「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。」とあるのです。そうかと言って、悪すぎればいいのかというとそうでもありません。正しすぎるのはよくありませんが、悪すぎてもいけないのです。なぜなら、自分を滅ぼしてしまうことになるからです。

 

それが18節で言っていることです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」この「一つをつかみ」とは、正しすぎることであり、知恵ありすぎることです。そして「もう一つを手放さないのがよい」の「もう一つ」とは、悪すぎることであり、愚かであることです。どちらも手放さないで、両方持っているのが良いのです。つまり、神に信頼し、すべてを神にゆだね、神がなさることを受け入れて、神に感謝して生きることです。それが神を恐れて生きる人なのです。

 

20節にその理由が述べられています。「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」この地上には正しい人など一人もいないからです。それなのに、自分を正しい者とするなら、あの律法学者やパリサイ人たちのように、人をさばいてしまうことになります。彼らは自分たちには神の律法が与えられているので、優れた者、正しい者だと思い込んでいました。その結果、そうでない人たちをさばいていたのです。そのようなことが私たちにもあります。私たちももし自分を正しい者とするなら、同じ誤りに陥ってしまいます。それは最初の人アダムの罪そのものです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは自分を善悪の基準としたことです。神ではなく自分を基準にしました。その結果、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と問われたとき、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えたのです。あろうことか、神と妻のエバとを非難したのです(創世記3:11,12)。

 

残念ながら、今も「あなたのせいで・・・」と罵り(ののしり)合う夫婦喧嘩がどれほどあるでしょう。問題は、正しすぎることです。「私は正しい。悪いのはあなただ」と徹底的に主張するなら、結婚関係は破綻してしまいます。それはすべての人間関係、また国と国との関係にも当てはまることです。そのようにして自分を滅ぼすことになってしまうのです。

 

また、「知恵がありすぎる」のも問題です。そこには大きな落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、多くの妻を持つことで妻たちの偶像崇拝に陥り、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人を滅ぼしてしまうことになります。

 

そうかといって、悪すぎるのもよくありません。ここには、「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。」とあります。これは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かさであることを開き直ることは危険であるという意味です。「どうせ、私は・・なんだから」と開き直るなら、自分を滅ぼしてしまうことになります。また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをし過ぎると、それさえも感じなくなってしまいます。その結果、生ける屍のような状態になってしまうわけです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。Ⅰヨハネ2:1をご覧ください。ここに解決があります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

私たちはキリストによって罪が贖われ、神の前に義人とされました。しかし、私たちが罪を犯さずに生きることは不可能です。作家の三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことなどできないのです。…正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、内側の醜さに心を痛めずにはいられません。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方がおられます。その方は義なるイエス・キリストです。ですから、あなたが罪を犯したなら、その罪を悔い改めて、神に立ち返り、キリストにとどまることです。そうすれば、あなたの罪は赦されるのです。

18節に「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」とあるのは、このことです。つまり、正し過ぎるのではなく、かといって悪すぎるのでもなく、謙虚になって自分の罪を認め、神の恵みとイエス様のとりなしに生きることこと、これが神の知恵であるということです。神を恐れる者は、この両方を持って出て行くのです。

 

あるとき、一人の若いクリスチャンの女性が、自分の弱さを率直に認めながら、真心から「私はイエス様なしには生きてゆけない・・」と言っているのを聞いたことがありますが、その謙遜な姿にとても感動したのを覚えています。自分を義とするのではなく、神の義、イエス・キリストの義に生きること、それが神の知恵なのです。

 

19節をご覧ください。「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。」この知恵は、十人の権力者よりも、知恵ある者を力づけます。もっと力があるという意味です。なぜでしょうか?この地上に罪を犯さない人などひとりもいないからです。義人はいない。一人もいない。みんな罪を犯さずには生きていくことができません。そのような日々の歩みの中で私たちを真に力づけるのはこの神の知恵なのです。

 

Ⅱ.人の語ることばをいちいち心を留めてはならない(21-22)

 

次に、21~22節をご覧ください。ここにもう一つの知恵が語られています。「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。」

人の語ることばをいちいち心に留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気が奪われてしまうことになります。それを気にしてどれだけ多くの人々が心を痛めていることでしょうか。ネットの書き込みで自殺する人も跡を断ちません。しかし、悪意ある者のことばは気まぐれです。そんなことばにいちいち躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しいことです。イギリスの有名な牧師チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」と。

22節には、どうして人の語ることばをいちいち心に留めてはならないのか、その理由が書かれてあります。それは「あなた自身が他人を何度もののったことを、あなたの心は知っているのだから。」です。なるほど、考えてみると、自分自身もよく人の悪口を言ってしまいます。自分も他人をののしるのだから、他人もあなたをののしるのは当然じゃないかというのです。自分は人から批判されたり、非難されたりするのが嫌なのに、自分は平気で人の悪口を言ってしまう。これが人間の性です。

 

大川従道先生が、ご自身の説教集「風は己が好む所に吹く」という本の中で、聖霊がご自身の教会を好んでいない、ということを感じた時があったと言っておられます。それは、先生がよく信徒を裁いていたことが原因でした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。

「私は鈴木健二さんの気くばりの本が出る前から、「気くばり牧師」と言われていました。日曜日、朝から晩まで私は気を配っていたのです。絶対に人から後ろ指さされないように気をつかっていたのです。老人には優しくし、青年にも仕え、人間的な努力で、電話の取り方、言葉づかい、カウンセリング、あらゆることに配慮していました。

日曜日の夜は疲れきり、コカコーラとスルメを買ってきて、妻を相手に信徒の悪口を言うのが楽しみでした。若い牧師が一生懸命頑張っているのだから、日曜日の夜くらい信徒の悪口を言わせてもらわなければ、と思っていたのです。

「あの役員は言うことは言うけれど金は出さないね。いつになったら給料上がるかね」

「婦人会の彼女はしゃべること喋ること。ありゃ、口から生まれてきたのかね」

「今の若者はしつけがなってないねえ。親の顔が見たい」信徒を裁くと溜飲(りゅういん)が下がり、「スカッとさわやかコカコーラ」でした。そして、また月曜日からさわやかに伝道する、というのを繰り返していました。

その点を、私は主から厳しく指摘されました。

・・・

しかし、私は神様から言われました。

「何を言うか。お前に必要だから、この人をここに置くのだ」

・・・

私は主の御前に涙を流しながら、「イエス様、ごめんなさい。あなたの愛する信徒を裁いていました。あなたが置いてくださったのに、「あいつの根性が悪い」などと思っておりました。赦してください!」

気持ちが変わらないうちに、次の日曜日にこんな説教をしました。

「愛する皆さん、私に御言葉が与えられました。この御言葉通りに生きれば絶対に祝福されると思います。それは、「風は己が好む所に吹く」という御言葉です。聖霊様は人格を持っておられて、人を裁くことがお嫌いです。それを示されました。皆さんの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、私はけっこう皆さんを裁いておりました」

うなずいている人がいました。

「私はそれがいけないことだと分かりましたから、もう、どんなことがあっても皆さんを裁かない牧師になります。どうか私を赦してください。ところで、皆さんも、事によると、私を裁いていたでしょう」

またうなずいている人がいました。

・・・

それから教会に人が増え始め、試練もありましたが、ものすごく祝福され、教会堂も建てられました。大川先生いわく、祝福の原点は何でしょう。「裁き合わない」ことです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。そうすれば、聖霊様は喜んでくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。

 

私たちも他人を何度ののしったことでしょう。だから、他人があなたをののしるのは当然なことなのです。でもそのようなことにいちいち心を留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気を遣わなければならなくなるからです。むしろ、私たちは人をののしるのではなく神の愛で人を評価し、その人の良さを見つけ、その人のためにとりなしの祈りをささげていくべきです。そのように人を否定的な眼ではなく、肯定的な眼で見るなら、あなたもそのように観られるようになるでしょう。人の悪口、陰口は、自分に返ってくるものです。

 

米国の伝道者スタンレー・ジョーンズが、ある国の有力な将軍と話をしていたときのことです。この将軍は密かに女を囲っていました。

彼はしきりに、他のクリスチャンの悪口を言い出しました。ジョーンズは、このような状態の人のことをよく知っていました。

「悪意の背後には、自分自身の堕落を隠そうとする動機があるということ」を。

そこでジョーンズは、将軍の語る批判の言葉をさえぎって言いました。

「将軍、ペテロがヨハネについて『主よ、この人はどうですか』とイエスに尋ねたとき、主はこう言われました。『それがあなたと、何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい。』(ヨハネ21:22)」

すると将軍は素直に、「どうも負けました」と自分の非を認めました。

 

大切なのは、他の人があなたのことを何と言っているかということではなく、主があなたに何と言っておられるかということであり、主に従っていくことです。

 

Ⅲ.キリストにあって歩みなさい(23-29)

 

最後に、23~29節をご覧ください。まず、23~25節までをお読みします。「私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。」

伝道者は、人生におけるすべてのことを見極めるために知恵を得ようと決心しましたが、それは無理なことでした。知恵は遠いかなたにあって、だれもそれを見出すことはできないからです。そこで、彼は知恵と物事の道理を追及し、捜し求めました。すると、そこにあったのは人間の悪行と狂気の愚かさばかりでした。

 

その一つが26節にあることです。「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」

ここをちょっと見ると、女性の皆さんは憤慨してしまうかもしれませんね。でもこれは女性を蔑視したり、差別しているのではなく、私たちが陥りやすい罠について警告しているのです。それが「女」であり、「男」であるということです。つまり「異性」です。この「女」という言葉ですが、これは「娼婦」のことを指しています。伝道者は、こうした娼婦が死より苦々しいということを実感したのです。ソロモンには千人もそばめがいましたから、それがどれほど男を捕らえる罠であり、網であり、手かせであるのかを実感していたのでしょう。

 

しばらく前に、NHKBSプレミアムで「洞窟おじさん」というスペシャルドラマを放映しました。これは、親の虐待から逃れ13歳で家出をした少年が、43年間も洞窟で生活したという実話です。山奥の洞窟で一体どうやって43年間も1人で生活することができたのでしょうか。この少年はヘビや木の実で食いつなぎながら、やがて山の幸を売って大金を稼ぐ知恵を身につけていくのです。その中に自力でイノシシを狩るシーンが出て来るのですが、どうやって狩るのかというと罠を使ってです。土を深く掘りそこに竹を槍の形に鋭く切ったものを並べ、その上にうっすらと土をかぶせて元のように見せかけるのです。そして、イノシシの前に自分の姿を現して襲わせるのです。逃げるふりをした少年はその罠のそばを駆け抜け、イノシシがその罠に落ちるようにするのです。自分が落ちたら大変ですが、そうやってイノシシを捕まえて食いつないだのです。まさに女は罠であり、その心は網、その手は、かせです。神に喜ばれる者は女の罠から逃れますが、罪に陥る者は女に捕らえられるのです。

 

27~28節をご覧ください。「伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」

「道理」とは、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道のことです。伝道者はこの道理を見いだそうと一つ一つ当たりましたが、何も見出すことができませんでした。彼が見出したのは、千人のうちで心の真実な人は、男はせいぜい一人ぐらいしかいないということ、女の人に至っては一人もいませんでした。なんだ、やっぱり女性蔑視ではないかと思われるかもしれませんが、それは今の私たちの感覚とはかけ離れています。というのは、聖書は男女が等しい価値感を持っていると教えているからです。いずれにせよ、人として行うべき正しい道を知っている人はほとんどいませんでした。

 

そこで伝道者はこういうのです。29節をご覧ください。これが伝道者の結論です。ご一緒に読みましょう。「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。」

伝道者は、知恵の探求の結果、正しい結論に至りました。それは、神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということです。どういうことでしょうか。神は人を真っ直ぐな者として創造されたが、人は勝手に向きを変え、罪の生活へと向かって行った、ということです。「真っ直ぐな者に造られた」とは、正しい者に造られたという意味です。それは神のかたちに造られたということです。神を愛し、神と交わり、神の栄光を現す者として私たち人間を造られたのに、人は、本来造られた目的から離れて自分勝手な道に向かってしまいました。

 

これこそが、人間の本当の問題です。私たちの根本的な問題は神から離れてしまったことです。聖書ではこれを罪と言っています。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的外れ」を意味します。本来なら神という的に向かって矢が放たれなければならないものを、その的を外してしまいました。それが「罪」です。その本質は「自分中心」です。神中心ではなく自分中心であること、それが罪です。罪を英語で書くと「SIN」と書きますが、真中にあるのは何でしょうか?「I」、「私」です。これが罪の本質なのです。

 

ですから、もし私たちが本当に満たされたいと願うなら、この罪を解決し、再び元々の状態、真っ直ぐな者に造り変えていただかなければなりません。神のかたちに再創造していただく必要があるのです。どうしたら新しく造り変えていただくことができるのでしょうか。Ⅱコリント5:17にこう約束されてあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。罪という古い性質が過ぎ去って、すべてが新しくされます。もしあなたが人生に答えを見出したいなら、満ち足りた人生を送りたいと願っているなら、キリストにあって神が造られた元の状態に造り変えられなければならないのです。

 

それは自力ではできません。ソロモンもそうでした。彼も自分の力で何とかしようとしましたができませんでした。日の下でどんなに労苦しても、「空の空。すべては空。」なのです。しかし、ここにソロモンよりも偉大な方がおられます。私たちを「真っ直ぐな者」、「正しい者」に造り変えてくださる方がおられるのです。それはイエス・キリストです。だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造り変えられます。それは完全無欠な人間に変えられるということではありません。神の目には、イエス・キリストのうちにいる者とされるということです。私たちはイエス・キリストのうちにいなければただの罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストのうちにいるなら、私たちの罪が覆われるのです。キリストという義の衣を着せられるからです。イエス・キリストの義の衣を着て、神に再び受け入れられた者となり、本来の姿に造り変えられるのです。それ以外にいかなる理屈を探しても答えは見つかりません。唯一の答えは、イエス・キリストにあります。コロサイ2:3に「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とありますが、このキリストに知恵と知識の宝がすべて隠されているからです。

 

あなたはどこに知恵を求めていますか。神の知恵はこの方、イエス・キリストにあります。ですから、このキリストを求め、キリストによって新しく造り変えられ、キリストの知恵に生きる者とさせていただきたいと思います。これが私たちの教会の今年の目標です。「キリストにあって歩む」。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

このキリストにあって歩むお一人お一人の上に、神の知恵と知識が豊かに満ち溢れますようにお祈りします。

知恵ある者と愚かな者 伝道者の書7章1~14節

伝道者の書7章に入ります。伝道者ソロモンは、6章の終わりで、何が人のために良いことなのかを、誰も告げることはできない、と言いました。しかし、この7章では、何が人にとって良いことなのかについて、よいものと、よりよいもの、知恵ある者と愚かな者の対比を用いて語っています。

Ⅰ.死ぬ日は生まれる日にまさる(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。1節には、「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」とあります。名声とは、その人の性質であり、評判のことです。また、良い香油とは、高価な香油のことです。つまり、よい評判を得ることは、高価な香油を持つよりもまさっているということです。リビングバイブルでは、「良い評判は、最高級の香水より値打があります。」と訳しています。では良い評判とはどのような評判なのでしょうか。

1節の後半を見てください。ここには、「死ぬ日は生まれた日にまさる。」とあります。ギョッとするような言葉です。私たちは普通命が誕生した時ほど喜ばしい日はないと思っています。ですから、その人の誕生日を記念してHappy Birthday!と祝福するわけですが、ここでは、その生まれた日よりも死ぬ日のほうがまさっているというのです。どういうことでしょうか。「死ぬ日は生まれる日にまさる」とは、生きるよりも死ぬ方が良いという意味ではありません。むしろ、私たちの人生は死によって終わるということをきちんと受け止めることが重要であるということです。ですから、良い評判を得る人とは、人生には終わりがあるということをきちんと認識し、死について真剣に考える人のことなのです。私たちはどちらかというと名声よりも良い香油を求めてしまいます。すなわち、裕福で何不自由のない生活、社会的な地位を得ること、あるいは、教会の奉仕に勤しむことなどです。それらのことが悪いと言っているのではありません。それよりももっと良いものがあると言っているのです。それは何か、それは名声です。良い評判です。あなたの中身の方が大切なのです。あなたが死について真剣に考え、それに備えた生き方をすることの方がずっとまさっているのです。

それは、2節を見てもわかります。2節には、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とあります。祝宴に行くよりも、葬式に行くほうがよい、というのです。なぜでしょうか?「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です。これは、決して結婚披露宴などどうでも良いということではありません。結婚披露宴も良いものです。イエス様もカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。しかし、それよりもよいのは、喪中の家に行くことです。なぜなら、死について深く考えさせられるからです。人生の終わりが死であることを意識する人は、日々の生活を律し、有意義な地上生涯を送るようになるからです。

私は、いろいろな式に関わることがありますが、正直、お葬式の時が一番考えさせられます。実際、多くの人が聖書の話に真剣に耳を傾け、人生観とか、死生観について考えるのではないでしょうか。その一方で祝宴となると、どんなに聖書の話をしても、ほとんどの人が耳を貸そうとしません。もう冗談を言ったり、茶化したり、受け流したりするわけです。しかし、お葬式になると他人事のように話を聞くということがほとんどありません。死という現実が目の前に突きつけられて、真剣に考えざるを得ないのです。だから、祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよいのです。

3節をご覧ください。「悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。」どういうことでしょうか。尾山令仁先生が訳された創造主訳聖書では、「悲しみは笑いに勝る。悲しみによって、心は良くなる。」と訳されています。つまり、人は悲しみを体験することによって人生の意味について深く考えるようになるということです。そして、生きていることのありがたさを思うようになるということです。

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:3-4)

これは、イエス様が教えられた「至福の教え」です。「至福の教え」といっても、自分の腹を肥やす「私服の教え」ではありません。どのような人が幸いな人なのかという意味の至福の教えです。イエス様はこの中で8つの事を教えておられますが、その一部がこれです。それは、心の貧しい者であり、悲しむ者です。この貧しさとか、悲しみというのは単に物質的な貧しさとか、感情的な悲しみのことではなく霊的な貧しさ、霊的な悲しみのことです。一般に人はこうし貧しさや悲しみを避けようとする傾向がありますが、こうした貧しさや悲しみを体験することによって、人生の意味を考えるようになり、たましいの救いを求めるようになります。また、神を信じる者にとっては、そうした悲しみや苦難の中に神の目的と意味を見出すきっかけとなります。ですから、詩篇の作者は、このように言っています。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのみおしえを喜んでいます。」(詩篇119:71)

アメリカの主婦の方で、メアリー・ネメック・ドーレマスという方がおられますが、彼女はウイルスに冒されてからだが麻痺し、全身が機能不全に陥りました。

彼女は、車いすの生活をしながら、日中は30分おきに薬を飲み、夜間も数回飲むことによって、かろうじて全身麻痺から守られています。しかし、私はいったいどうしてこんな目にあうのかを、神さまに尋ねることはしませんでした。むしろ私は、いつもこういうふうに祈りました。

「神様、私に何をお望みなのでしょうか。私はどこへ行くことになっているのでしょうか。」と。

人生には目的があり、しかるべき時にそれが示されることを知りました。私は理由を知りたいという気持ちを放棄しましたが、この態度は自分にとってとても健康的なことでした。

彼女は、こうした苦しみの中で、その神との関係が深められ、信仰が強められていったのです。まさに、苦しみにあったことはわたしにとって幸せでした。それにより、神のみおしえを学ぶからです。

それに対して、笑いは一時的なものであり、単に時間を浪費するだけの結果で終わってしまいます。 6節には「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。」とあります。

皆さん、茨を燃やしたことがありますか。茨を燃やすとすぐによく燃えますが、残念なことにすぐに燃え尽きてしまいます。ですから、たとえ鍋の下に置いてもパチパチとはじけるだけで、大した火力とはならないのです。愚か者の笑いも同じです。その時だけです。その時は一時的に元気になったかのように感じてもすぐに元に戻ってしまいます。それは空しいことです。すべての笑いがそうだと言うわけではありませんが、愚か者の笑いはそうなのです。そんな笑いを求めてあくせくするよりも、人生で経験する様々な悲しみ、苦しみから学ぶことのほうがどれほどよいでしょう。

4節をご覧ください。「知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」

これは2節でも言われてきたことと同じことです。知恵ある者の心は喪中に向きます。なぜなら、彼の人生観は、死を前提として築き上げられているからです。しかし、愚か者の心はそうではありません。死の現実を直視することができないので、楽しい家にしか心が向きません。人生の空しさや虚無感に浸っているよりも、おもしろおかしく生きたほうがましだと思っているからです。そんなことを考えても暗くなるばかりだし、どうせ考えても答えなんか出ないのだから、だったらおもしろおかしくい生きればいいんじゃないかというのです。でも聖書は、こういう人は愚かな人だと言っています。

あなたの心はどこに向いていますか。神の人モーセはこう祈りました。「どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

喪中の家に行くとは、人生には限りがあるということを悟り、その限られている時間の中で、神様から知恵をいただき、また導いていただいて、与えられている一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きていくことにほかなりません。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。このことを心に留めて、自分の日を正しく数え、知恵の心を得させていただきたいものです。

Ⅱ.忍耐は、うぬぼれにまさる(5-12)

次に、5~12節までをご覧ください。5節をお読みします。「知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」

知恵のある者の叱責とは、建設的な批判や助言のことです。そのような声に耳を傾けるなら、その人はより成長し栄誉を得ることになります。しかし、それとは逆に、愚かな者の歌をいくら聞いても何も残るものありません。この愚か者の歌とは何を指しているのかわかりません。ある人は、これは酔っ払いの歌ではないかという人がいますが、それが酔っ払いの歌とようよりも、「知恵の初め」である神様抜きの、人間中心の歌と理解するのが良いと思います。そのような歌は何の益ももたらしません。

7節をご覧ください。「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。」どういうことでしょうか。虐げとは、虐待とか辛い出来事のことです。こういうものがあると知恵のある者を狂わせてしまいます。つまり、判断力を失い、愚かにふるまうようになってしまうということです。知恵のある者を狂わせてしまうもう一つのものは、賄賂です。賄賂は人の心を狂わせます。リビングバイブルでは、「わいろは人の判断力を麻痺させる」と訳しています。正しい判断ができなくなってしまうのです。ではどうしたらいいのでしょうか。最初から賄賂を受け取らないことです。政治の世界では贈賄事件があとを断ちません。それは必ず明るみに出ます。ですから、一番良いのは最初からそれを拒否することです。それがまことの知恵なのです。

8節をご覧ください。「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」「事の終わりは、その始まりにまさり」とは、1節から4節で語られてきたことに通じるところがあります。つまり、事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないということです。人生の終わりとは何ですか。それは死です。その死の結果を見るまでは、その人の人生がどうであったのかを判断することはできません。たとえ生きている間にどれほど裕福であったとしても、真のいのちを損じたら何の意味もありません。イエス様はこのことを、畑が豊作であったあの金持ちのたとえで教えられました。彼は作物が豊作だったとき、自分のたましいにこう言いました。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。そうだ!倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をすべてしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:17-19)

しかし、神は彼にこう言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)

彼の問題はどこにあったのでしょうか。人のいのちが財産にあると思ったことです。けれども、そのいのちが取り去られるとしたら、いったいそこにどんな意味があるというのでしょうか。そのいのちの良し悪しは、事が終わってみないとわからないのです。この地上での生涯は苦労が絶えないものであっても、その生涯の中で救い主イエス・キリストと出会い、天の御国に引き上げられる終わりであるなら、その人の終わりは、その始まりにまさるのです。私は、そのような人を何人も見てきました。たとえその人の生涯がどんなに悲惨なものであったとしても、それが天につながる生き方であるなら、それこそ幸いな一生であったと言えるのではないでしょうか。

ですから、事の結果を見るまでは忍耐すべきで、軽々しく心を苛立たせてはなりません。あなたは心をイラってしていませんか。私たちはちょっとしたことですぐにイライラしてしまいます。それは愚か者の心に宿るものです。でも知恵のある者は違います。知恵のある者の心に宿るのは、忍耐です。「忍耐はうぬぼれにまさる。」とあります。忍耐して後悔することはありませんが、うぬぼれると、高ぶると破滅の一途をたどることになります。箴言16:18には、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあります。それは、罪の性質の一つなのです。私たちはうぬぼれではなく、忍耐を身につけましょう。軽々しく心を苛立たせるのではなく、イエス・キリストによって神との平和が与えられていることを感謝し、この平和が心を支配するように祈ろうではありませんか。

心が平和であるために必要なもう一つのことは何かというと、今に感謝し、今を大切に生きることです。10節をご覧ください。ここには、「「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」とあります。

「昔のほうがよかった」というのは、過去に生きている人の口癖です。昭和の古き良い時代を知っている人は、ついつい言ってしまいます。「昔のほうがよかった」と。しかし、それは過去に生き続けていることです。確かに、昭和の時代の方が良かったなあと思います。私は別に昭和の初期から生きているわけではありませんが、そのように感じることがよくあります。でも、それは知恵によるのではありません。愚問にすぎません。なぜなら、どんなに過去が良くても、私たちは今を生きなければならないからです。であれば、今がいかに困難な状況であっても、この今をどのように生きるかを考えることのほうがもっと重要なのです。もしこのように言うことがあるとしたら、何が問題なのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。それは終わりまで待つことができずイライラしてしまう心と、すぐにそのように判断してしまう思いです。だから伝道者は8節で、「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」と言ったのです。私たちは「待てない」のです。すぐに結果を求めてしまいます。すぐに判断してしまうのです。そんな私たちに聖書は、「あわてない、あわてない。一休み、一休み」と問いかけているようです。事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまるのですから。私たちはすぐに結果を求めるのではなく、事の終わりがどうなのかを見て判断しなければなりません。終わり良ければすべて良し、です。それまでは神の平安の中でじっと忍耐し、神に示されることをコツコツと行っていけばいいのです。大切なのは自分がどう思うのか、どう感じるのかではなく、永遠に変わらない神のことばである聖書が何と言っているのかであり、そのみことばに堅く立ち続けることです。

11節と12節をご覧ください。「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」

「資産を伴う知恵は良い」とはどういう意味でしょうか。新共同訳では、「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。」と訳しています。創造主訳聖書では、「知恵は、相続財産のように価値がある。いやそれ以上に、人々に有益だ。」と訳しています。ここでは10節の「知恵によるのではない」にかけて、知恵をたたえているのです。それは遺産に劣らず価値があり、いや、それ以上に人々にとって有益であるということです。

なぜでしょうか。その理由が12節にあります。それは、金銭と同様に人を守ってくれるからです。「陰」というのはそういうことですね。金銭は、たとえば病気をしたり、災害にあったりした時にとても役に立ちます。そういう意味で守ってくれるわけです。「金銭の陰にいるようだ」というそういう意味です。それと同じように、知恵はその人を道徳的堕落から守ってくれます。いや、知恵はその持ち主を生かすという点でもってすぐれています。考えてみるとそうですよね。どんなに資産があっても、どんなに金銭があっても、それが人を生かすことにはなりません。むしろ、その人をダメにしてしまうことさえあります。しかし、そこに知恵が伴うことによってそうした資産や金銭が生かされるだけでなく、ひいてはその人自身を生かすことになります。そういう点で、知恵は金銭よりもさらにまさっていると言えるのです。

皆さん、私たちにはこの知恵が与えられています。コロサイ2:3には「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています。」とあります。どこに知恵と知識の宝が隠されているのですか。「このキリストのうちに」です。神の恵みによってキリストを信じ、キリストのうちにある者とされた私たちは、この知恵と知識が与えられているのです。それは金よりも、純金よりも慕わしいものです。それなのにどうしてあなたは金がないと嘆くのでしょうか。私たちには金よりももっとすぐれた知恵と知識が与えられていることを覚え、日々感謝と喜びをもってキリストに聞き従う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(13-14)

最後に、13節と14節を見て終わりたいと思います。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」

それゆえ、伝道者はこのように勧めるのです。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。」神のみわざを、だれも変更することはできません。起こったことは受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのです。それが知恵のある人です。

でも、私たちの人生には順境の日ばかりではなく、逆境の日もありますね。そういう時にはどうしたらよいのでしょうか。ここには、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」とあります。新改訳聖書第三版では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」となっています。私はこちらの訳のほうが好きですね。順境の日には喜び、逆境の時には反省すればいいのです。なぜなら、「順境」も「逆境」も共に神がお与えになるからです。どうせなら「順境の日」ばかりだといいのですが、そういうわけにはいきません。私たちの人生には「順境の日」も、「逆境の日」もあります。どうして神様は順境の日ばかり与えてくれないのでしょうか。それは、もし順境の日ばかりなら、人は反省することを忘れて高慢になり、神をないがしろにするからです。逆に、逆境の日ばかりならば、人は喜びと希望を失い失意に沈み込んで、神を忘れてしまうでしょう。ですから神は、私たちの人生に順境の時と逆境の時をバランスよく与えてくださり、すべての主権が神にあることを教え、神に信頼することを求めておられるのです。

順境の日と逆境の日、あなたは今、どちらの日を迎えていますか。順境の日には喜び、逆境の日なら反省しましょう。それがどちらであっても、それも神のみわざであることを思い、神の主権を認め、神に信頼したいと思うのです。

過去の偉人たちも挫折を乗り越えて成功に導かれています。エイブラハム・リンカーンは小学校を中退し、若いときには、ピジネスのトラブルにより無職になります。恋人が病気で亡くなると鬱になり、州議会、上院、下院選挙に立候補するも計8回落選しました。しかし、最後に彼は大統領になりました。51歳の時です。

彼は、このような言葉を残しています。「転んでしまったことなど気にする必要はない。そこからどうやって立ち上がるかが大事なのだ。」まさに、逆境の日には反省せよ、ですね。彼がそのようにして立ち上がることができたのは、彼が神に信頼し、聖書を通して神の知恵に生きていたからです。

発明王として有名なトーマス・エジソンは、若いころ「生産性がなさすぎる」という理由で解雇されました。電球の発明のために失敗を繰り返しますが、「千回の失敗をしたのではなく、千回のステップを経て電球の発明ができた」と語ったそうです。

ウォルト・ディズニーといえば、今では知らない人はいません。しかし、彼は若いころ、新聞社を解雇されましたが、「彼は想像力に欠け、良い発想は全くなかった」と言われていました。彼は、ディズニーランドを建てる前に何度も倒産を経験しています。

偉人たちの生涯をみると、大きな働きをする人ほど、周りに理解されず辛い日々を過ごしていたように思います。しかし、周囲の評価に左右されない信念を持っていたことが分かります。

イスラエルには砂漠の花園と呼ばれる地域があります。普段は砂漠で全く何もないような所ですが、いったん雨が降ると、一週間後には一面の花園が出現します。雨が降らなければ、2年でも3年でも花を咲かせるために待機するのです。私たちの人生にも砂漠の時、逆境の時があります。けれども、時がくれば、必ずや神様が花を咲かせてくださいます。大切なのは、その逆境の時をどのように過ごすのかということです。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。どんな日でも共にいてくださる神様に目を留め、神のみわざに期待しながら、神のみことばに学び、根を深く張っていきたいと思います。それが聖書の言う、知恵のある者の生き方なのです。

大きな喜びの知らせ ルカ2:8-12

2020年12月20日(日)クリスマス礼拝メッセージ

聖書:ルカ2:8-12(新約P110)

タイトル:「大きな喜びの知らせ」

 

 主の年2020年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。聖書には、イエス・キリスト誕生という驚くべきニュースが最初に伝えられたのは、ユダヤの田舎のベツレヘムという町で、羊を飼っていた羊飼いたちのところでした。彼らが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていると、突然、主の使いが彼らのところに来て、こう告げたのです。

 

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)

 

 どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。救い主が生まれたからといって、彼らの人生が劇的に変わるわけではありません。救い主が生まれようが生まれまいが、彼らは依然として羊飼いを続けていかなければなりません。いったいなぜこれが喜びの知らせなのでしょうか。 きょうは、その三つの理由を見ていきたいと思います。かなわち、第一に、キリストはダビデの町でお生まれになられたということ、第二に、キリストは飼い葉桶に寝かせられたということ、そして第三に、あなたの救い主としてお生まれになられたということです。

 

 Ⅰ.ダビデの町で生まれた救い主(11)

 

 まず、11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。

キリストは、どこで生まれのでしょうか。ダビデの町です。ダビデの町とは、ユダヤのベツレヘムという小さな町です。実は、旧約聖書においては、「ダビデの町」はいずれもエルサレムでした。Ⅱサムエル5:7には、「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ですから、ダビデの町というのはエルサレムのことなのです。それなのに、ここには「ベツレヘム」とあります。どうしてルカはベツレヘムをダビデの町と言ったのでしょうか。それは、このベツレヘムこそダビデが生まれた出身地であったからです。Ⅰサムエル記17:11をご覧ください。ここには「 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。」とあります。元々、ダビデとはダビデの出身地のベツレヘムでしたが、ダビデがエルサレムを攻め取ったとき、そこをイスラエルの政治的、宗教的な中心地としたことから、これをダビデの町と呼ぶことにしたのです。しかし、ルカはそうではなく、ベツレヘムであることを強調しました。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが生まれるのはペレツへ無でなければならなかったからです。旧約聖書にそのように預言されていたました。ミカ書5:2を開いてください。ここには「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)」とあります。

 これは、キリストが生まれる約700年前に預言されたものですが、ここには、イスラエルの支配者となる者が、ベツレヘムから出ると預言されてありました。イスラエルの支配者とはイスラエルを治める者のことですが、それはユダ族のベツレヘムという小さな町から出ると言われていたのです。それはダビデの家系につながる方ですが、ダビデ王とは違いダビデの家系から将来出てくる支配者のことです。つまり、キリストはエルサレムではなくベツレヘムから生まれるという預言だったのです。それは、昔から、永遠の昔から定めでした。キリストはそのとおりにお生まれになられたのです。ということはどういうことかと申しますと、この方こそ間違いない救い主であるということです。

 

 まさか偶然でしょう、と思われる方もいるかもしれません。しかしこれは偶然ではありません。もしこの預言だけが的中したというのなら、あるいは偶然だと言えるかもしれません。しかし、キリストに関する預言の成就はここだけでなく、聖書の至るところに見ることができます。たとえば、キリストの誕生に関して言うなら、皆さんもご存知のように処女から生まれると預言されていましたが、その通りになりました。イザヤ書7:14です。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」有名な「インマヌエル」預言です。この預言のとおりに、キリストは処女マリヤからお生まれになられました。

そればかりではありません。イザヤ書9:6~7には、この方がどのような方であるかも預言されてありました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。やがて来られるみどりごは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。その方はダビデ王のように王座に就きますが、ただの王座ではなくとこしえの王座です。その王座に就いて、王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えるのです。だれがこんなことができるでしょう。だれもできません。しかし、神はおできになります。万軍の主の熱心がこれをするのです。その方はだれでしょう。そうです、神の子イエス・キリストです。

 

 このように、キリストに関する預言は旧約聖書の中にたくさんあります。直接的な預言だけで少なくても300以上あります。間接的なものも含めると、実に400以上あります。そのすべての預言が成就したのは、この人類の歴史上、イエス・キリスト以外にはおられません。イエス・キリストこそ、永遠の昔から、神が定めておられた救い主なのです。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

皆さんはあまり見たことがないと思いますが、1万円札の肖像となっている人物が誰だかわかりますか?そうです、福沢諭吉です。慶応義塾大学の創設者ですね。彼は、私たちが思っている以上に聖書の影響を受けていました。自分の子どもたちに、日々の教えという人生訓を書き残しましたが、そこには、天地万物を造られた神を敬うようにと書いていました。

それはともかく、彼が生まれたのは大阪にあった中津藩の蔵屋敷でした。彼の活躍を称えて、大阪の中津藩蔵屋敷があったところには福沢諭吉誕生の地という石碑が建っています。

偉大な生涯を歩んだ人の誕生を記念する、というのはよくありますが、約束通りに生まれたことを確認し、それを喜ぶためにお祝いするというようなことは聞いたことがありません。けれども、キリストは旧約聖書に約束された通りに生まれ、その通りの生涯を歩まれました。偉大な生涯を歩んだためにその人の誕生を記念する、というのではなく、約束通りに生まれたことを確認し、喜ぶためにお祝いするのがクリスマスなのです。

 

 Ⅱ.飼い葉桶に寝ているみどりご(12)

 

 第二のことは、キリストは飼い葉桶で生まれたということです。12節に、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。」とあります。飼い葉桶で生まれたことが、どうして大きな喜びなのでしょうか。

 

皆さんは、飼い葉桶という言葉を聞くと、家畜小屋に置かれた家畜のえさを入れる箱を思い浮かべるかと思いますが、当時の飼い葉桶は、桶といっても大きな石や岩に細い溝が掘られただけのものでした。そこに動物のエサになる藁が敷かれてあったのです。その上にキリストは寝かされました。また、飼い葉桶があったということは、そこが家畜小屋であったことを意味していますが、当時の家畜小屋も私たちが想像しているような木で作られた小屋ではなく、一般に洞穴を掘って作られただけのものでした。その中に家畜を入れていたのです。キリストが生まれたのはそのような所でした。それがどうして喜びなのでしょうか。最悪じゃないですか。皆さんに待望の赤ちゃんが生まれたら、そんなところに寝かせるでしょうか。だれでも暖かくて柔らかいベッドに寝かせたいと思うでしょう。それなのに、キリストは冷たくて堅い、しかも汚いベッドに寝かせられました。ベッドじゃありません。エサ置きですよ。キリストはそんなところで生まれてくださったのです。どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。ここには、「それが、あなたがたのためのしるしです。」とあります。これは羊飼いたちにとってのしるしだったのです。どんなしるしだったのでしょうか。

 

第一に、それはだれでも、どんな人でもこの方の許に行くことができるというしるしです。もしイエス様が王宮のような所で生まれたなら、羊飼いたちは行くことかできなかったでしょう。そこに行くことができるのは本当に限られた人だけです。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かせられました。ですから、社会的に最も低い職業であると思われていた羊飼いでも、行くことができました。どんなに汚れた人でも、どんなにみじめな人でも、どんなに貧しい人でも、どんなに孤独な人でも、どんなに問題を抱えている人でも行くことができたのです。

 

昨日は、スーパーキッズのクリスマスがありまして、「したきりすずめのクリスマス」を劇でやりました。そこには、欲張りなばあさんや人を殺した罪人をはじめ、自分は正しいと思っていたじいさんなど、いろいろな人物が登場するのですが、イエス様はそのすべての人の罪を負って十字架にかかり、死んでくださいました。だからこそ、すべての人の悩み、すべての人の苦しみ、すべての人のも問題を解決することができるのです。へブル2:10には「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者(イエス様)を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」とあります。それはイエス様にふさわしいことでした。多くの子たちを栄光に導くために、キリストは多くの苦しみを通られたのです。もしキリストがこうした苦しみや痛みを通らなかったら、そのような人たちを十分理解することも、助けることもできなかったでしょう。けれども、キリストは飼い葉桶で生まれてくださいました。それは、そのような境遇の中いるすべての人々を助け、救うことができるためです。

 

キリストが飼い葉桶に寝かせられたことのしるしの第二は、そのことによってイエス様がどのようなお方であるのかを示していました。先ほど、当時の家畜小屋は天然の洞窟を掘って作られたものであると申し上げましたが、これらの洞穴にはもう一つの使い道がありました。何だと思いますか。そうです、お墓です。当時ユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置しました。イエス様が葬られたのもこのようなお墓でした。ですから、その入口に大きな石が置かれてあったのです。そして、ここでは赤ん坊のイエス様が布に包まれて天然の洞穴に寝かされていました。それは当時の人々の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこれが喜ばしい知らせなのでしょうか。キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということを示していたからです。このことによって、いかなる罪人も赦されるという道が開かれたのです。

 

ここに、神様の愛が表されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

また、マルコ10:45には、「人の子(イエス様)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」とあります。

イエス様が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるため、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。この全宇宙の創造主であられる方が人の姿を取ってこの世に来てくださったというだけでも奇跡なのに、そればかりか、私たちを救うために十字架にかかって死んでくださいました。これこそクリスマスの奇跡です。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

Ⅲ. あなたのための救い主(11)

 

第三のことは、キリストはあなたの救い主として生まれてくださったということです。11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。この方は、あなたのために救い主として生まれてくださいました。

 

先日NHKの番組で「サードマン現象」を扱うものを見ました。「サードマン」というのは「第三の人」という意味です。実はこの世界には崩壊するビルの中から一人脱出できたり、深海の洞窟の中で命綱を失ったのに戻って来ることが出来たり、宇宙空間でトラブル続きのステーションで落ち着きを与えられたりして、九死に一生を得た人々が沢山いらっしゃいます。彼らは皆、異口同音に「ピンチの時、誰かの声に導かれて平安を取り戻し、すべきことが分かり、正しい選択を奇跡的に積み重ねて脱出することが出来た」と証言しています。この声を彼らにかけた存在をサードマン、第三の人と呼んでいるのです。 それは、私たちの人生においても言えることで、私たちが絶体絶命のピンチに陥った時、このような存在がいたら、どれほど大きな助けとなることでしょう。この助けこそ、あなたのために生まれてくださったキリストです。キリストは、単にピンチの時に助けというだけでなく、私たち人間の本質的な問題である罪を解決し、その罪から救ってくださるためにこの世に来てくださいました。これこそ、私たちにとっての真の希望です。

 

今は「イベントオリエンテッド」の時代であると言われています。これは、人々は、何か楽しみをもたらすできごとやイベントがあってはじめて喜びを感じることができる、というものです。そしてそれが過ぎ去ってしまうと、急に虚しさがやって来るのです。「イベント」やお金の多い少ないといった外側のものに喜びの基礎があるなら、ジェットコースターのように喜んだかと思ったら次の瞬間には落ち込んでしまうことの繰り返しになります。しかし、キリストが与える喜びは罪の赦しによってもたらされる神との平和であり、神がいつも私とともにいて、私を支えてくださるという喜びです。それは永続的なものですから、いつでも喜びで満たされていることができます。のどが渇けば水を飲めば潤されますが、また渇きます。しかし、キリストが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがなく、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでるのです。

 

2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞したのは、京都大学の本庶佑教授でした。薬物療法、手術治療、放射線治療に続く第4の手法として免疫療法を確立した功績が評価されたのです。彼の発見はガン免疫治療薬オプジーボの開発に繋がりました。この薬でガンを克服できた方がインタビューに答えて「命の恩人です。感謝し尽くせません。」と言っていました。その気持ちがよくわかります。しかし、キリストはそれ以上です。なぜなら、キリストは肉体だけでなく、永遠のいのちの恩人だからです。

 

2015年に同じ分野でノーベル賞を受賞した大村智教授も、メクチザンという薬の開発に貢献しました。この薬は、河川盲目症に対する特効薬です。この病気はアフリカ、中南米の熱帯地域に蔓延していて、毎年1800万人が感染、そのうち約27万人が失明し、50万人が視覚障害になってしまうという恐ろしい感染症でした。ところがこの薬を飲むと一回で完全にその感染症を防ぐことができるのです。

大村さんと製薬会社は、この薬を感染地域の人々にプレゼントし、当時は3億人の人々を失明の危機から救ったと言われています。この大村さんがアフリカのガーナに行き、子どもたちとお話をしたことがありました。ジャパンとかトウキョウと言っても、誰も知らないそうですが、でもメクチザンという薬の名前を出すと、みんな「知ってる!」と言うのです。通訳の人が「この人がメクチザンを造った先生です。」と紹介するとひときわ高く、歓声が上がり「メクチザン、メクチザン」と口々にはやし立てました。子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。人類の命を守る働きに貢献した人を称え、記念に覚えることは当然のことでしょう。しかしここに、肉体のいのちだけでなく、霊的ないのち、肉体は朽ちても永遠に生きる真のいのちを人類にもたらした方がおられます。それがイエス・キリストです。

 

あなたは、この喜びを受け取られたでしょうか。多くの人にとって自分の主人は自分自身です。あなたのために生まれてくださったのに、多くの人たちは「いらないよ」とか、「No, Thank you」と言うのです。しかし自分を超えた本物の救い主を信じ、この方にあなたの人生の舵取りをしていただくなら、あなたもこの喜びを得ることができます。

 

10節には、「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とあります。私たちにもいろいろな恐れと不安があります。孤独だという方もおられるでしょう。まさに一寸先は闇です。しかし、この世がどんなに暗くても恐れることはありません。きょう、ダビデの町であなたのために救い主がお生まれになりました。この方が主キリストです。この方はあなたの心の闇を照らすまことの光です。どうぞこの方をあなたの救い主として心に迎えてください。また、既にこの方を信じておられる方は、あなたの人生の舵取りをしてくださる主としてください。あなたの心が家畜小屋のようにどんなに汚れていても、また、どんなに酷い状態であっても、キリストあなたの心に喜びを与えてくださいます。クリスマスの奇跡は2000年前のことだけではなく、今もあなたに起こる大きな喜びの知らせなのです。