人は獣にまさっているのか 伝道者の書3章16~22節

2020年10月25日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章16~22節(旧約P1142)

タイトル:「人は獣にまさっているのか」

 

 きょうは、伝道者の書3章後半から学びます。前回のところで伝道者は、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある」と語りました。そして、神のなさることのすべてを私たちは見極めることができませんが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のだから、その神にすべてをゆだね、永遠の今を生きることが大切だと言いました。

 

けれども、その目を一旦日の下に向けると、上向いた伝道者の心がまたダウンします。さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見たからです。それでは獣と同じではないか、人は獣にまさっているのか、まさっていない、と結論付けるのです。皆さん、どうですか、人は獣にまさっているのでしょうか。よく「あの人は動物以下だ」というのを聞くことがありますが、人は動物以下の存在なのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。きょうは、このことについてご一緒に考えてみたいと思います。

 

 Ⅰ.神のさばき(16-17)

 

 まず、16節と17節ご覧ください。16節、「私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」

 神のなさることは、すべて時にかなって美しいと、神の計画の完全さを述べた伝道者は、ここではそれとは裏腹に、日の下で行われている空しさの一つの事例を取り上げています。それは、さばきにおいて不正が行われているという現実です。この「さばきの場」とは、正義が行使されるはずの法廷のことを指しています。その後の「正義の場」とは、これも「さばきの場」と同じ意味です。ある人(G・A・バートン)はこの「正義の場」を「さばきの場」と区別して、「正しい人の場」、つまり、神との関係においての正しい場のことであると解釈していますが、そういう意味ではありません。むしろ、同じことを、異なった言い方で二度繰り返して強調することによって、正義のみが行使されるはずの法廷において、不正がはびこっているということを訴えているのです。法律が曲げられている。法律が機能していません。そういう社会の現実を見たのです。

 

 17節、「私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」

このような社会の矛盾を見て、伝道者は心の中でこう考えました。神は悪者を決して見逃しはしない。いつか正しい人も悪者も裁かれるが、それは人間が考える時ではなく、神が定めた時である。今それがなされないのは、すべての営みと、すべてのわざには、神の時があるからだと。

 

皆さん、すべての営みには時があります。これは前回のテーマでもありました。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」(3:2-8)

神が裁きを行われることにも時があります。たとえ、この地上で不正が見逃されたとしても、最終的に神のさばきがあります。へブル9:27には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。最終的な神はさばきの時に、すべての正しい人と悪しき者の行いを義によってさばかれるのです。世のさばきは正しくなくても、神のさばきは正しく行われます。であれば私たちは、正しくさばかれる神の御前に、しっかりと備えておかなければなりません。どのようにして備えていたら良いのでしょうか。イエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神の子としていただくことです。イエス様を信じる者はさばかれることがありません。

 

使徒パウロは、ローマ2:16で「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」と言っています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われます。それが明らかにされるのはいつでしょうか。終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、神の義であられるイエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神に喜ばれる歩みを求めて生きなければなりません。

 

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やすほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは何一つありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼は、自分が望むすべてのものを手に入れることができました。にもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋に幾つもの鍵をかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視していなければなりませんでした。絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも度々ありました。心の孤独と悲しみやつらさに、来る日も来る日も身震いしながら過ごしていたのです。イザヤ48:22に「悪者どもには平安がない」とありますが、彼には平安がなかったのです。これが裁きです。

 

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまったのです。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったことは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」ということでした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼には平安がありませんでした。

 

終わりの日に受ける神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対して、明確な解決を持っていない人はみな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きていかなければならないのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 

あなたは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられますか。キリストの下に来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何も恐れることはありません。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちが与えられ、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、神の怒りと憤りがくだるのです。そのさばきがいつであるかはわかりません。すべての営みと、すべてのわざに、神の時があるからです。しかし、それがいつであっても「備えあれば憂いなし」です。確かな神のさばきに備えて、救い主イエス・キリストを信じ、神の御心に歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.人は獣にまさっているのか(18-21)

 

次に、18-21節までをご覧ください。18節には、「私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」とあります。

正義の場に不正がはびこり、それが当然のような社会が存在するのはどうしてなのか、伝道者はここでもう一つの理由を述べています。それは、人間を試みて、彼らが獣にすぎないということに気付かせるためです。人間と動物は何ら変わらない、同じだというのです。

 

皆さん、どう思いますか。輪廻転生を信じている人は、「そのとおり」と言うかもしれませんね。彼らは、死んであの世に行った霊魂は、また生まれ変わってくると信じています。つまり、輪廻と転生を繰り返すと考えているのです。どんな世界に生まれ変わるのかというと、仏教では人の生まれ変わりには、生前の悪行が関連していて、それに応じて六道のいずれかに生まれ落ちると言います。つまり、必ずしもまた人に生まれ変われるとわけではないのです。もしかすると、動物に生まれ変わるかもしれません。「ワン、ワン」、「ニャーン」です。「あら、また会いましたニャン」とか、「元気でしたワン」とか言うのです。

 

しかし、これはウソです。人間は動物とは全く違います。なぜ伝道者はそのように言っているのでしょうか。19節と20節をご覧ください。ここには、伝道者がそのように言う理由が記されてあります。「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。」

なぜ、人と獣は何ら変わらないのか、伝道者は、その結末が同じだからだと言います。これも死ねば、あれも死ぬ。どちらも同じ所に行きます。すなわち、すべてのものは土から出て、土に帰るからです。つまり、人も獣も、どちらも最終的には死を迎えるということです。

 

さらに、21節には「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」とあります。これは伝道者が死という点では同じだが、その霊の行き着く所は人の子らと獣とでは違うと言っているのではありません。実際にはそのとおりで、人の子らと獣が行くところは違いますが、この時点で伝道者がそのように悟っていたわけではないのです。ここで伝道者が言いたかったことは、「人の子らの霊が上に昇るかどうか、また、獣の霊が下に降りて行くかどうかを、だれが知るだろうか、だれも知らない。」ということです。つまり、人間の行きつくところと獣の行きつくところ、その運命は同じであるということです。それゆえ、人は獣にまさっているのかというとそうではありません。まさっていない。人も獣も同じです。すべては空しいからです。これが、伝道者の結論でした。

 

けれども、そうでしょうか。注意して見てください。この時、伝道者の信仰はバックスライドしていました。日の下で行われる一切のことを見て、すべては空だと思っていました。この世の何をもってしても自分の心を満たすものがないのを見て、すべてが空しいと感じていたのです。何のために生きているのかがわかりませんでした。人生に失望し、落胆していたのです。信仰によって物事を見ることができませんでした。ですから彼は、この世の人たちと何ら変わらない目しか持っていなかったのです。その目で見たら、人も獣もみな同じでしょう。人が獣よりもまさっているのは何もないと思ったのです。

 

しかし、そうでしょうか。これは完全に間違っています。もし進化論に立てばそうかもしれません。進化論では、宇宙の起源を物質と考えています。進化論者たちは、宇宙と人間の起源が、水や火、土、空気、原子、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと考えています。ですから、すべては偶然であり、人生や宇宙には何の意味もないということになります。試験管を振ったら偶然にいのちが生まれたというようなものです。すべては偶然なのです。だとしたら、それは空しいことです。

 

一方、聖書では何と言っているのかというと、聖書は、人間は決して偶然の産物ではなく、神様によって造られたと教えています。神様は天と地と海と、その中に住む一切のものを造られ、最後に人を創造されました。しかし、人はそれまで造られたものとは全く違います。それは、神のかたちに造られたという点です。創世記1:26には、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」とあります。そして、こう仰せられました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)。

神のかたちとして造られたとはどういうことでしょうか。それは霊を持つ者として造られたということです。この霊をもって神に祈り、神に感謝し、神を賛美し、神と交わりを持つためです。そうです、私たち人間は、霊的に造られたのです。私たちは肉体と精神を持っていますが、そればかりではなく、霊を持つ者として創造されました。ですから、どの時代の、どの民族であれ、どんな人でもみな手を合わせて生きてきたのです。それがどういう神であるかは別として、人はみな神を礼拝する者として造られているのです。これが動物とは決定的に違う点です。動物は肉体と本能を持っていますが、この霊を持っていません。これは人間にだけ与えられているものです。皆さん、動物が祈っているのを見たことがありますか。かわいい犬が手を組んで「ワン、ワン」と祈ったり、猫が目を閉じて「ニャン、ニャン」と祈っているのを見たことがあるでしょうか。ないでしょう。もしかると、祈っているのかなと思うような行動をしているのを見たことがあるかもしれませんが、それは単に甘えているか、じゃらけれているだけです。祈っているのではありません。しかし、人はいつの時代でも、どんな人でも、手を合わせます。なぜ?そのように造られているからです。11節には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますね。第三版では、「永遠の思いを与えられた」となっています。人にはそのような思いが与えられているのです。

 

娘が小学生の時、バスケットボールの試合で青森に行く機会がありました。先生や父兄の方々は飲み会ばかりやっていましたが、あまりおもしろくなかったので、一人で青森市内にある三内丸山遺跡を見に行きました。三内丸山遺跡は、日本最大級の縄文時代の集落跡です。今から約4,000年から~5,000年前の人々はどんな暮らしをしていたのかとても興味がありました。

行ってみると、その集落の真中に大きなやぐらが建っていました。地面に穴を掘って、直径1mもあるクリの木を6本立て、それを組み合わせて作ったものです。高さは15mくらいありました。いったいどうして集落の真中にこんなに大きなやぐらが建てたのかと不思議に思いガイドさんに尋ねてみたら、それはいろいろな用途のために作られたようですが、中でもそこで暮らす人たちが農業の収穫に感謝して、神を礼拝する祭りのために作られたのではないか、と教えてくれました。

今から5,000年も6,000年も前の人たちはすでに、神に祈ることをしていたのです。それは、人は神によってそのように造られているからであり、永遠を思う心が与えられているからです。そのように造られた人によってむしろそれは自然の営みなのです。

 

ですから、人は死んだら肉体はちりに帰りますが、霊はこれを造られた神に帰るのです。伝道者も、後でこのことに気付きます。12:7に「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。しかし、この時点ではまだそのことに気付いていませんでした。全部一緒じゃないか。人も獣もみんな一緒。すべてのものは土から出て、土に帰る。人が獣にまさっていることなど何もない・・と。

 

しかし、そうではありません。人は神の計画によって、特別に神のかたちに造られました。そして、やがてその霊は神のもとに帰るのです。ですから、伝道者の「それでは、人は獣にまさっているのか。」という問いに対しては、私たちはこのように答えることができます。「Yes,人は獣にまさっています。神の計画によって、特別に神のかたちに造られたのですから。」決して人の子と獣の結末は同じではありません。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」のです。

 

であれば私たち人間には、私たちを造られた方、創造者の目的があるはずです。それは何でしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウエストミンスター小教理問答書第一問にはこうあります。

「人のおもな目的は何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」

これが私たちに与えられた人生の目的です。この目的に従って生きるとき、私たちの心は真の満たしを受けます。そうでしょ、たとえば、ここにマイクがありますが、このマイクは何のためにあるのかというと、ここで話をする人の声を大きくし、聞きやすくするためです。もしこれが故障していてその役割を果たさなかったら、逆に、ハウリングを起こして使いものにならないとしたら何の意味もありません。同じように、私たちも私たちを造られた創造主なる神の目的に従って生きるとき、すべては空しいのではなく、真の喜びと満足を得ることができるのです。

 

Ⅲ.だれが、これから後に起こることを見せてくれるか(22)

 

 最後に22節をご覧ください。「私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」

人生の目的がわからなかった伝道者は、ここで一つの結論を見出します。それは、生きているうちに楽しむ以外に良いことはないということです。それにまさる幸いはないと。なぜなら、これから後に起こることを見せてくれる人がいないからです。「これから後に起こること」とは、これから後の将来のことという意味もありますが、むしろ、死後のことを意味しています。人は死んだらどうなるかということです。人は死んだらどうなるかなんてだれもわからないのだから、生きている今を思う存分楽しむしかない、それが人の幸いというものだ、というのです。それが人の受ける分であるからだ。果たしてそうでしょうか。

 

もしこれから後に起こることがわからなければ、そうかもしれません。この先どうなるのかがわからなければ今を存分に楽しむしかないでしょう。しかし、もしこれから後に起こること、死んだらどうなるのかを見せてくれる人がいるとしたら、そしてそれが真実であると受け止めることができるなら、そのような価値観は一変し、それに備えた生き方をするようになります。そして、「これから後に起こること」を見せてくれることができる方がおられます。だれですか。そうです。死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。

 

キリストはソロモンよりも偉大な方です。ソロモンは偉大な知恵の持ち主で、シェバの女王がその知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たほどですが、そのソロモンさえわからなかったことを、キリストは知っておられるのです。なぜなら、この方は天から来られた方だからです。ヨハネ3:13には「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来られた者、人の子は別です。」とあります。キリストは天から下って来られました。永遠の神であられるお方が人の姿を取って、この地上に来てくださったのです。ですから、この方は別格です。この方は生も死も、また永遠の世界も、また三位一体の神の関係についても、目に見えない世界のこと、天地創造以前の世界についてもすべてご存知であられました。ソロモンとは比較にならないほどの知恵を持っておられた方なのです。この方は、死からよみがえられました。ですから、これから後こと、すなわち、死後のことまでも完全に知っておられたのです。このような方は他にはいません。確かに、これまで死んで蘇生した人はいます。しかしそのような人たちは、やがてまた死んで行きました。けれども、キリストは死からよみがえられただけでなく、永遠に死ぬことのないからだによみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。

 

伝道者ソロモンはここで、「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」と言っていますが、キリストはこの問いに対する明確な答えをもっておられるのです。私たちはよく「死ぬのが怖い」と言いますが、なぜ怖いのでしょうか。先が見えないからです。死んだらどうなるのかがわかりません。だから怖いと感じるのです。しかし、私たちにはそれを見せてくださる方がいます。だから、私たちは不安に苛まれる必要はありません。恐怖に脅える必要もないのです。イエス・キリストが答えです。神はイエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって、死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

プロテスタントのホーリネス系の団体で日本宣教会という団体がありますが、その創立者の一人で、相田登代という先生がおられました。この方は新潟県の有名な神社の神主の娘でしたが、キリストを信じ、さらに伝道者とて歩まれました。先生はお元気な時に、説教の中で「死を恐れてはなりません。一階から二階に上がるように、私達にとって死は、この地上の住まいから、天の御国に移ることなのです。」と言いました。

 

すばらしいですね。死は一階から二階に上がるように、この地上の住まいから、天の御国に移ることです。確かに、愛する者との一時的な離別では悲しみが伴いますが、それは永遠の離別ではありません。天に於いて、再び、愛する者と再会します。そして永遠に、喜びと祝福、そして愛に満ちている御国に住むのです。神はイエス・キリストを信じる者にこの永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

私たちはイエス・キリストを通して、この希望を持っているのですから、ここで伝道者ソロモンが言っているようにこの地上で楽しむことがすべてだと言わなくても良いのです。私たちはイエス・キリストによって永遠のいのちが与えられていることを感謝し、この地上での生涯を、日々神と交わりながら、すべてを神にゆだねて生きていくことができるのです。

さばいはいけません ローマ人への手紙14章1~12節

2020年10月18日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章1~12節

タイトル:「さばいはいけません」

 

 きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になったのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうためです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。それなのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすくなるのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。

 

 きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一に、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている人もいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きているという意識をしっかりと持つことです。

 

 Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)

 

 まず1~4節までをご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

 

 ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じたことによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。

 

 信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマはその当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人、ローマ的な背景の人、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、ない人など、実にさまざまな人々いたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いに原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。

 

 まず食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人がいれば、野菜よりほかに食べてはならないと信じている人がいました。それは、いわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらした自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。

 

 あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法に捕らわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。

 

 しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。

 

 しかし、自分はクリスチャンだと自認している人でも、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?それは、こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いは主イエスにあります。そのイエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないと言う人たちがいるのです。いわゆるリベラル派の人たちです。自由主義神学と言います。リベラル派の中にもいろいろな人たちがいるので一概にこうだとは言えませんが、その特徴の一つは、聖書の無謬性、無誤性を信じていないことです。聖書の無謬性とか無誤性というのは、聖書は誤りのない神のことばであるということです。それを信じていません。ですから、たとえば天地創造とか、ノアの箱舟、バベルの塔の物語があるでしょ。そうした物語は科学的・歴史的に事実ではなく、宗教的に有益な神話であるとみなすのです。一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも否定するのです。そんなの関係ないのです。大切なのはそれが事実であるかどうかではなく、そこから何を読み取るのか、何を学ぶのかということです。この自由主義神学の立場に立つドイツの神学者にルドルフ・ブルトマンという人がいますが、彼は聖書の非神話化に取り組んだ人です。聖書の中から神話的な要素を取り除き、それが意味していることを信仰によって受け入れるという取り組みでしたが、その結果何も残りませんでした。聖書はそれほど人間の想像を超えた記述に満ちているということです。その内容を受け入れないとしたら、それはもはやキリスト教だとは言えなくなってしまいます。だって聖書の信条や、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱することになるからです。それは異端というより、その宗教そのものが根本から問われることになります。ですから、こういうのは論外です。クリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていないとしたら、そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。

 

 1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。しかし、それは事実です。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、聖霊様を、そして、イエス様の十字架の贖いを信じない教えは腐っているとしか言いようがありません。私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条だからです。そのことばを信じることによって救われるのであって、それ意外に救われる道はありません。このような根本的な問題については、はっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければならないのです。

 

 しかし、グレーな部分があります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、いやバプテスマというのはもともと「浸める」という意味だから全身を水に浸さなければならないと主張する人たちもいます。私たちが属している保守バプテスト同盟はバプテストの流れを汲んでいますから、中には滴礼で洗礼を受けた人が教会の会員として加わる時にもう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法で洗礼を受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けるということです。信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても信じてバプテスマを受けたのであればそれは神様に喜ばれることであると、私たちは考えています。ですから、このようなことで考え方が違うからと言ってさばいてはいけないのです。

 

 このようなことは、バプテスマのやり方ばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいます。もし女性がズボンをはいてはならないとしたら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。

1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。

 考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があるのです。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。

 

 イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるでしょう。

 

 信仰の共同体(教会)の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどと言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈ればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということではないでしょうか。

 

 Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)

 

 第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければならないということです。4節をご覧ください。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 

 なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロはここで、私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それはしもべにすぎないということです。それなのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などありません。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない証拠です。それは神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのです。

 

 Ⅲ.主のために生きる(5-8)

 

 ではどうしたらいいのでしょうか?ですから第三のことは、主のために生きなさいということです。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり根本的なことです。5~8節までをご覧ください。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 

 ここには「・・のために」ということばが7回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ、何のために食べないのか、何のために日を守り、何のために守らないのかということが重要であるということです。そしてクリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」ということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきであって、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうかです。私たちが主のために生き、主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているのです。

 

 パウロはローマ人への手紙6:12で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ、私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6:18です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ2:20にはこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。

 

 皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。

 

 先週も紹介しましたが、ドイツの有名な音楽家ヨハネ・セバスチャン・バッハですね、彼はあるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りました。その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところにはいつも「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」です。これはラテン語でが、「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。

 

 白衣の天使と言われたナイチンゲールは、クリミア戦争中にスパイとして追われ死刑に処せられました。敵は治療するな、という軍の命令に逆らったためです。そのナイチンゲールが死刑に処せられる直前に語ったこと言葉があります。それは「愛国心だけでは足りません」という言葉です。愛国心だけでは足りません。もっと大きな愛が必要です。そう言って彼女は敵、味方関係なく傷ついた人々を介抱しました。その結果、スパイとして処刑されましたが、この言葉は、私たちクリスチャン一人一人が心に刻まなければならない叫びです。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは駄目です。受け入れる広い心が必要です。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけないのです。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないのです。

出エジプト記33章

2020年10月14日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記33章

 

 出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

 

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

 

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

 

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

 

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

 

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

 

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

 

 次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

 

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

 

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

 

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

 

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

 

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

 

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

 

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

 

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

 

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

 

 それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)

第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

 

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

 

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

 

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「【主】はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

 

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

 

 するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

 

 これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

 

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

 

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

 

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

 

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

 

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。

すべての営みに時がある 伝道者の書3章1~15節

2020年10月11日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章1~15節(旧約P1141)

タイトル:「すべての営みに時がある」

きょうは、伝道者の書3章前半から学びます。「空の空。すべては空」と言った伝道者は、その空しさを埋めるものを日の下で徹底的に追及してきました。たとえば、知恵と知識を身につけたり、快楽を味わってみたり、さらには事業を拡大して、ありとあらゆる金、銀、財宝を手に入れ、立派な邸宅を建て、森を造成したり、美しい庭を造り、そこで最高のエンターテインメントを催したりしましたが、それもまた空しいものでした。彼は、おおよそ人間が望むもの、これさえあれば、あれさえあれば、自分は満足できるのではないかといったすべてのものを手に入れましたが、それらのもので満たされることはなかったのです。「ヘベル、ヘベル。すべてはヘベル」です。日の下で行われるわざは、すべは空しく、風を追うようなものでした。

そのような中で伝道者は、一つの真理を見出します。それは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」ということです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.すべての営みに時がある(1-8)

まず、1節から8節までをご覧ください。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」

有名な「時の詩」です。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があります。この「営み」とは、人間が意図的に行う行為のことです。ここには全部で28の営みを列挙していますが、これは、人生全体を示していると言えるでしょう。動詞に注目していただくと分かりますが、対句になっていて、それが14回繰り返されています。

まず、2節をご覧ください。ここには、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」とあります。人生には始まりと終わりの時があるということです。その時を自分で決めることはできません。親でさえ、わが子の誕生の時を知りません。誰もその時を選ぶことができないのです。生まれるときと死ぬ時は、神によって定まっているのです。これは単なる運命論ではありません。私たちは神の時に生まれ、神の時にこの地上での生涯を送り、神の時に召され、やがて神のもとに帰るのです。

次にソロモンは、農業のサイクルに言及しています。「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」植える時と収穫の時には、神が決めた時があるのです。昨日はアジア学院で収穫感謝礼拝が行われそこでメッセージをしましたが、講壇の前にはこの秋に収穫された作物がきれいに並べられているのを見て、収穫を与えてくださった主に心から感謝しました。植える時と収穫の時を誤ると、その恵みを逃すことになります。

3節をご覧ください。「殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。」
「殺すのに時がある」とは、人を殺すのに時があるということではありません。おそらく、人のいのちが取り去られることにも時があるということでしょう。それは事件や事故、戦争などすべての営みの中においてです。癒すのにも時があります。たとえば、大切な人と死別する時だれでも痛みと悲しみを持ちますが、その悲しみが癒されるのにも時があります。何らかのことで受けた心の傷が癒されるのも同じです。癒されるのに時があるのです。
また、古くなった建物を取り壊し、そこに新しい建物を建てるのにも時があります。それは建物だけではなく、たとえば、組織の態勢の立て直しにおいても言えることです。崩すのに時があり、建てるのに時があるのです。

4節には、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」とあります。私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりあればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うような中にも、必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

5をご覧ください。「石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」
「石を投げ捨てる」とは、耕作に適した農地を開墾するために、石を取り除くことを指しています。イザヤ5:2には、「彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。」とあります。これはイスラエルをぶどうの木にたとえ、良いぶどうがなるのを期待していた神が、農地を開墾して、石を取り除き、心待ちにしている様子を描いたものです。神はイスラエルが良い実を結ぶように石を取り除いて、開墾したのです。逆に、「石を集める」とは、家や塀などを作るのに石を集めることを示唆しています。それぞれの行為には、定まった時があるのです。
「抱擁するのに」とは、愛を表現するのにという意味です。愛を表現する時も2種類の時があります。それは、抱擁によって積極的に愛を示す時と、抱擁をやめることによって愛を示さない時です。抱擁をやめる時とはどういう時のことかというと、それが不道徳の場合のことでしょう。ですから、やみくもに抱擁すればいいということではなく、抱擁するのにも時があり、抱擁をやめるのにも時があるのです。

6節には、「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」とあります。ビジネスや商売をやっている人はわかりますが、あるいは、それ以外の事に携わっている人にも言えることですが、求めるのに時があり、あきらめるのに時があります。すべての物事が順調に進んで行けばいいのですが、いつもそうとは限りません。今日はうまくいっても、明日はどうなるかなんてだれにもわかりません。自分の力ではどうしようもないこともあるのです。また、それがいつ逆転するかもわかりません。求めるのに時があり、あきらめるのに時があるのです。
また、保つのに時があり、投げ捨てるのに時があります。「断捨離」がブームですね。断捨離とは、不要なものを捨てるというイメージが強いですが、実はそうではなく、物の整理を通して人生が変わる効果的な方法だと言われています。その「もの」でさえ、保つのに時があり、捨てるのに時があるのです。

7節をご覧ください。「裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。」
「裂く」と「縫う」とは、衣服に関する表現です。「裂く」とは、激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣から来ています。創世記には、息子ヨセフが死んだと思い激しく痛み悲しんだヤコブが、自分の着ていた衣服を引き裂く場面があります(創世記37:34)。この裂く時が喪に服することを表現しているのならば、「縫う時」とは喪に服していた期間が終了した時のことを指していると考えられます。
黙っているのに時があり、話すのに時があります。私たちの人生には黙っているべき時と、反対に、口を開いて話さなければならない時があります。黙っていなければならない時に話し、話さなければならない時に話さないで失敗することがどれだけあるでしょう。黙っているのに時があり、話すのに時があることを心に留めたいと思います。

そして、8節です。「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」どういうことでしょうか。当時ソロモンの回りでも紛争が絶えなかったのでしょう。戦闘、殺戮、破壊といった悲劇的な事件が、日常的に繰り返されていました。そうした戦いに翻弄され、多くの涙が流されていたのです。そのような中で、束の間の愛する時、平和の時を経験していたのだと思います。

このように私たちの人生には定まった時期があり、すべての営みには時があります。その「神の時」に逆らうのではなく、今がどういう時なのかを見極めてその「時」に従って生きる人生こそ、幸いな人生だと言えるのです。

ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1748年に両眼の視力を失ってしまいました。そのころライプチヒに来ていた英国の名医によって二度も手術を受けましたが、ついに全くの盲目になってしまいました。それ以来、バッハの生活は昼も夜も暗黒に包まれてしまいました。しかし、作曲活動は依然として続けられ、ついにその暗黒の日々の中からカンタータ第106番「神の時は最上の時なり」を作り上げたのです。
「神の内に私たちは生き、動き、在在する 神の意思であるかぎり。
私たちは最善の時に神の中で死ぬ、神が望まれる時に。
あぁ主よ、私たちの心に刻んでください、我々が死すべき者であることを、我々が賢明になるために。
あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ 生き続けるのではない。
これが いにしえの契約;人は必ず死ぬ。
そうです、主イエスよ、来てください!」
(「カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」対訳:国井健宏」

ここに、バッハの心の思いが表れています。私たちは、神の内に生き、動き、在在しているのです。そして、神の最善の時に死にます。この神の時が最上の時なのです。自分であれこれと頑張らなくてもいいのです。神の時を待ち望むことが重要なのです。すべてのことに定まった時があるのですから。それゆえ、この神にすべてをゆだね、神のみ旨に生きる人こそ、真に幸いな人だと言えるのではないでしょうか。

Ⅱ.神のなさることは時にかなって美しい(9-11)

次、に9-11節をご覧ください。「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

9節は、1節から8節までの結論です。すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があるのならば、私たち人間がどんなに頑張ってもそれに何かを付け加えたり、差し引いたりすることはできません。したがって、私たちがどんなに労苦しても何の益も得られないということになります。

しかしその一方で、伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言っています。すばらしいことばです。天の下のすべての営みには時がありますが、神がなさることは、すべて時にかなって美しいのです。

この「時」とは、へブル語で「エーマ」と言いますが、これは時間で計ることができる「時」ではなく、計ることができない時です。私たちは、有限な時間の中に生きていますが、この「神の時」はその時間の中に、突如として現れるものです。人生には、「あのとき、あの人に出会ったから、今ここにいる」とか、「あのときあの場所に行ったから、あの人に出会うことができた」ということがあります。あとから振り返ってみると、それは私たちの運命を決める決定的瞬間の「時」であったわけです。ある人はそれを偶然と言う人もいるし、神の摂理だという人もいますが、私たちの人生には、確かにそういう時があるのです。一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」です。その時が人生を決めることがあります。神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」第三版には、「永遠の思いを与えられた」とあります。人は本能的に、有限な時間の先に何かがあることを感じながら生きています。なぜなら、神は人を造られた時、ご自身のかたちに創造さられたからです。永遠に神とともに生きるように造られました。ですから、人間の中にはどこか永遠の世界へのあこがれがあるのです。動物が巣に帰る、帰巣(きそう)本能があるように、人間も本来いるべきところに帰りたいという本能があるのです。この伝道者が「空の空。すべては空。」と言ったのはそのためです。心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しんでも空しさを感じたのは、この地上は永遠の世界ではないからです。人の心に永遠の思いが与えられているならば、その永遠の今を生きることこそ、真の解決につながるのです。

ところで、その後の言葉を見てください。ここには、「しかし人は、神が行うみわざを始まりから終わりまで見極めることができない。」とあります。人間は絶対者であられる神が持っている計画の全貌を知ることができません。神の計画を知らないでいくら労しても、それは空しい結果をもたらすだけです。せっかく上向いてきた伝道者の心が、ここでまたトーンダウンしています。「やっぱりだめだ」という思いになっているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。

すべての営みに時があります。そして、神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。神は、私たちの思いをはるかに超えた神のタイミングで、また、想像もしなかったご自身の方法でその御業を成してくださいます。しかし、その時は隠されているため、人はその時を見極めることができないのです。確かに、生まれる時と死ぬ時は、どんなに知恵を尽くしても、力を尽くしても、人には知ることも、変えることもできません。私たちは、そのことを理解しているので、人間の誕生の神秘に驚いたり、死の厳粛さを覚えるのです。しかし、ほかの「時」はどうでしょうか。日々のスケジュールを自分で決めて、人生の選択を自ら下しながら生きています。そのため、自分の人生は自分で完全にコントロールしている、コントロールできるものだと思い込んでいます。

ですから伝道者はここで、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と言ったのです。「神の時」は、いつ、どんな形でやってくるかわかりません。であれば、私たちは、この「時」を支配しておられる神の前にひれ伏し、へりくだるしかありません。「神の支配」と聞くと、「自分の人生は自分で決めるんだ」と反発する人もいるかもしれません。もちろん、人生は各人が自由に選択して、主体的に生きていくべきです。しかし、神の行うみわざを、初めから終わりまで見極めることはできないのは事実です。であれば、私たちにできることは何でしょうか。その神の時に身を任せ、その中で、神の時を待ち望むことではないでしょうか。

愛喜恵のためにお祈りいただきありがとうございます。愛喜恵はシカゴの大学を卒業することができ、現在は来年1月から大学院で学ぶための準備をしています。しかし、生活のために何らかの仕事をしなければならないと、3月頃からずっと仕事を探していましたが、コロナウイルスの影響もあってなかなか見つけることができませんでした。車いすの状態ということもあって仕事も限られおり、どうしようかと悩んでいましたが、奇跡的に与えられました。それはノースとリッジグループという会社なのですが、電話でクレームの対応をしている人を評価する仕事です。その会社の顧客には日本の会社もあるので、日本語ができて、なおかつ日本人の心というか、文化もある程度理解できる人ということで採用されたようです。それは意外と時給も高く、チャレンジのある仕事で、自分のスケジュールに合わせて働くことができるので大学院での学びにも影響することがないという点でベストな仕事でした。本人もよほどうれしかったんでしょうね、珍しくラインでメッセージが届きました。
「神様は、いつも祈りに答えてくれる。それが、グレースが願っていた時と違うかもしれないけれども、神様は人生において、完璧な計画を持っていて、神様のタイミングで、恵みを与えてくださる!・・・3月から仕事を探していて、9からの仕事。半年間、仕事が見つかるかとか、インタビューしても、返事がなかったり、ストレスや困難が続いていたけれども、恵みに満たされて、神様はいつもその痛み、嘆きを聞いてくださる!」
本人としては、かなりストレスがあったんでしょう。そんな苦しみの中で主に祈ったとき、主がベストのタイミングで、ベストの仕事を与えてくださいました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。このみことばは、あなたの人生においてもしかりです。神は、あなたの人生にも時にかなって美しいことをされるのです。そのことを信じて、神にすべてをゆだねて歩みたいと思います。

Ⅲ.神がなさることは永遠に変わらない (12-15)

最後に12-15節を見て終わりたいと思います。「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。」

ここでのキーワードは「知った」という言葉です。この言葉が繰り返して使われています。伝道者は何を知ったのでしょうか。まず12節には、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」とあります。彼は、人の心には永遠の思いが与えられていることを知っていました。しかし、働く者が労苦して何の益もないとしたらも、果たして人生にはどんな意味があるというのでしょうか。彼は、人は生きている間に喜び楽しむことのほかは、何も良いことがないことを知ったのです。しかし、これまでの心境に変化が見られるのは、それだけで終わっていないことです。13節では、「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と言っています。人が食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことができるとしたら、それもまた神の賜物だということも知ったのです。

伝道者はまた、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことも知りました。それゆえ、それに何かをつけ加えたり、取り去ったりすることはできません。人間は何かとつけ加えたがります。たとえば、神の救いについても、キリストの十字架だけでは足りないと、それに何かをつけ加えようとするのです。たとえば、信じるだけでは足りない、もっと聖書を読まなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕をしなければならない。もっと献金をしなければならない。もっと伝道しなければならない。もっといい人にならなければない、といろいろとつけ加えようとするのです。律法主義と呼ばれるものです。そうでないと救われないし、神に祝福してもらえない、神に認めてもらえないと考えるのです。しかし、そうではありません。神の救いの御業は完了しているのです。あなたはそれに何かをつけ加える必要は全くないのです。

また、取り去ろうとしてもなりません。神が語られることについて、それをすべて自分に語られたこととして受け入れなければなりません。それが他人について語られている分にはうなずいて、その通りだと言いますが、自分に語られていることだと思うと、どこか割り引いて受け止めようとする傾向があります。そして、自分に都合の良い部分だけを選り好みして聞いてしまうのです。そのように自分の都合に合わせた受け止め方、自分主体になるのではなく、神主体に、神が語られたすべてを受け入れなければなりません。それは、私たちが神を恐れるようになるためであり、神の計画に従って生きるためです。

15節には「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを、神はなおも求められる。」
神が支配される歴史は、同じことの繰り返しです。今あることは、すでにあったこと、これからあることも、すでにあったことです。追い求められてきたことを、神はなおも求められます。つまり、永遠に変わることのない完全な神の御業を認め、その神を恐れて生きることこそ、それがすべての問題の解決なのです。

私たちの人生は空です。それはほんの束の間です。しかしその空しい人生は、神が定めた「時」に支配されています。その不思議な神の時で満ちた人生は、謎に満ちていると言うほかありません。生まれる時も、死ぬ時も、いや私たちの人生のすべてが、神の時で満ちているのです。

人間は、有限な時間のあとを追いかけるようにして生きています。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決して掴むことはできません。この手で「時をつかんだと思っても、すぐに指の間からこぼれ落ち、手には何も残りません。それだけではありません。人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」もあります。すべてのことには定まった時があるのです。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返ると、意味のある時だったとわかる時がくるでしょう。そんな今という「時」が、神からの賜物として私たち一人一人に与えられているのです。

であれば、たとえ人生が空、ヘベルであっても、あるいは、人生に悲しみや痛み、辛さといったものがあっても、いや、そうした現実だからこそ、むしろ、神から与えられた今という「時」を生きるようにと伝道者は語っているのではないでしょうか。すべての営みには時がある。その神の時を見極めながら、神のなさることに期待して、永遠の今を生きていきたいと思うのです。

神のみこころのままに 伝道者の書2章12~26節

2020年10月4日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書2章12~26節(旧約P1139)

タイトル:「神のみこころのままに」

 

 伝道者の書から学んでおります。きょうは、2章後半の箇所から「神のみこころのままに」というタイトルでお話しします。

エルサレムの王、ダビデの子、伝道者ソロモンは、日の下で行われるすべてのことを見て、そこに何の益も見出すことができないと、「空の空。すべては空」と言いました。たとえば、この自然界を見てもそうです。一つの時代が去り、次の時代が来ますが、地はいつまでも変わることがありません。日は昇り、日は沈み、また、元の昇るとこへと帰ってきます。風は南に吹いたかと思うと、巡り巡って北に吹きますが、結局のところ、巡る道に帰って来ます。川はみな海に流れ込みますが、また元の場所に戻ってきます。つまり、同じことを繰り返しているだけなのです。

私たちの人生はどうでしょうか。私たちの人生も、もっと何かがあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、昔からすでにあったものにすぎません。

そこで伝道者は、日の下に何か益になるものはないかと探究します。彼はまず、知恵と知識を得ました。しかし皮肉なことに、知恵が多くなると悩みも多くなり、知識が増すと苛立ちも増しました。

次に試してみたのは、笑いと快楽でした。しかし、それもまた、空しいものでした。

それでは、事業を拡張したらどうでしょうか。そこで彼は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果実を植えました。木の茂った森を潤すために、いくつもの池も造りました。たくさんの男女の奴隷を得、多くの牛や羊、金、銀、財宝を集めました。毎晩有名なエンターテーナーを招き、ショーを催しました。人の子らの快楽である、多くの女性も手に入れました。彼は心の赴くままに、あらゆることを楽しみましたが、すべては空しく風を追うようなものでした。日の下には何一つ益になるものはなかったのです。

 

これが私たちの人生です。日の下でどんなに労苦しても、それらのものは私たちの人生に何の益ももたらしません。あの人はいいなぁ、あんたにお金持ちで、あんな豪邸に住んで、優秀な家族がいて、社会的にも地位があって、どんなに幸せなんだろうと思うことがありますが、そうでもないということです。日の下で、神様の抜きの生活は、たとえ心の赴くままに、あらゆることを楽しんだとしても、実に空しいのです。風を追うようなものなのです。それでは、どうしたらいいのでしょうか。ソロモンは、さらに二つのことに着目してその解決を求めます。

 

Ⅰ.知恵の空しさ(12-17)

 

まず、知恵です。12節から17節までをご覧ください。14節までをお読みします。「私は振り返って、知恵と狂気と愚かさを見た。そもそも、王の跡を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない。私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。」

 

伝道者が行ったさまざまな探究は、空しい結果に終わりました。そこで彼は、次に知恵ある生き方と愚かな生き方を比較し、どちらの方が優れているかを探ろうとしました。その結果は、彼の跡を継ぐ後継者たちにも伝えられます。なぜなら、後継者たちがこれ以上のことを発見することはないからです。1:9に、日の下には新しいものは一つもないとあったように、「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは前の時代にすでにあったものにすぎません。ですから、彼の後継者たちが、これ以上のものを発見することはありません。

 

そして、わかったことは何ですか。知恵は愚かさに勝っているということです。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっています。当たり前と言えば当たり前のことですが、14節には、「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」とあります。知恵のある者は頭に角があるのではなく目があります。これはどういうことかというと、先が見通せるということです。将来の具体的な人生設計まで描くことができます。しかし、愚かな者はそれができません。愚かな者は闇の中を歩くからです。闇の中を歩く者は、心が盲目なので先を見ることができないのです。だから、闇の中を歩くしかありません。

 

しかし、です。確かに知恵のある者は愚かな者にまさっています。しかし、両者の結末はどうでしょうか。同じ結末に行き着きます。同じ結末とは、死ぬということです。どんなに知恵があっても、あるいは愚かであっても、結局のところ、どちらも死ぬわけです。死ぬときは何も持って行くことができません。よく言われますよね。「あなた、どんなに稼いだって、死ぬときは何も持っていけないのよ。」人は皆裸で生まれ、裸で死んで行きます。どんなに棺桶の中にいろいろな物を入れたとしても、すべて焼かれて無くなってしまいます。あの世には何も持っていくことはできないのです。どんなに知恵があっても・・。

 

そこで伝道者は何を思うのでしょうか。15節をご覧ください。「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」

伝道者はこう考えます。もし自分も愚かな者と同じ結末を迎えるのであれば、なぜ、知恵を追及する必要があるのか。死の現実を考えると、生涯をかけて知恵を追及することに、いったい何の意味があるというのでしょう。これもまた空しいことです。

 

16-17節を見てください。「事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはありません。どんなに有名な人でも、ノーベル賞を取るような偉大な人でも、死んでしまうと、いつかは忘れられてしまいます。悲しいですね。

「大田原キリスト教会の牧師、だれだったか覚えている。」

「ええと、大橋富男という人じゃない。」

「あっ、そう」

「だれ、それ?」

こんな感じです。でも、これが現実です。すぐに忘れ去られてしまいます。その現実を悟った伝道者は何と言っていますか。「私は生きていることを憎んだ。」と言っています。生きていること自体を憎むようになりました。最近、テレビのドラマで俳優の三浦春馬さんを見ることがあります。亡くなる前に収録されたのでしょう。番組の終わりには、「三浦春馬さんは・・お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。」というテロップが流れます。生前の三浦春馬さんのお顔を見ながら、いったいどんなお気持ちだったんだろうと思います。つい最近も、私の好きな女優さんで竹内結子さんが亡くなりました。詳しい事情はわかりませが、もしかしたら、この伝道者と同じような気持ちだったのかもしれません。伝道者は、「日の下で行われるわざは、私にとってわざわいだからだ。」と言っています。すべては空しく、風を追うようなものだったのです。

 

人生を真剣に考えれば考えるほど、同じような結論に達するのではないでしょうか。死という現実の前に、私たちは何の成す術もありません。この伝道者の絶望は、私たち現代人の絶望でもあります。日の下でどんなに労苦しても、それが人にとっていったい何の益になるでしょうか。すべては空しく、風を追うようなものです。私たちの人生は、この地上生涯を越えたところに生きる目標を持たない限り、何の希望も見出せず、空しいままで終わってしまうのです。

 

Ⅱ.労苦のむなしさ(18-23)

 

次に伝道者が着目したのは「労苦」です。18~19節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」

 

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を憎みました。なぜでしょうか。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからです。なぜそれが問題なのでしょうか。立派なことじゃないですか。そうです、立派なことです。跡を継ぐ者のために自分が労苦して残してあげる。立派なことです。問題はその跡を継ぐ者がどういう者であるかがわからないことです。その者が知者なのか、それとも愚かな者なのか、だれも知ることができません。その知らない者が、自分が骨折り、知恵を使って築いてきた財産を、支配するようになるのです。

 

事実、ソロモンの後継者はレハブアムという息子でしたが、彼は本当に愚かな者でした。ソロモンが築いた国の繁栄と栄華を、国家を二分させることで台無しにしたからです。彼については列王記第一12:6以降に記されてありますが、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退け、自分に仕えている若者たちの助言を受け入れてイスラエルの民のくびきを重くしたため、結局、国が二分されることになってしまいました。そしてそれ以降、北はアッシリア帝国に、南はバビロニア帝国に捕囚され衰退の一途をたどることになりました。ソロモンが建てたエルサレムの神殿も破壊されてしまいます。日本でも、初代起こして、二代目まずまず、三代目につぶれるということを耳にすることがありますが、自分の跡を継ぐ者がどういう者であるかが、企業においても、教会においても、非常に重要なことです。しかし、それがどういう者なのかが分からないのです。ソロモンの場合は、自分のすぐ下、二代目でつぶれました。イスラエル王国はダビデによって盤石なものとされ、ソロモンによって黄金期を迎えましたが、三代目のレハブアムの時に衰退の一途をたどることになったのです。ですから、自分がどんなに汗水たらして一生懸命働き、立派なものを残したとしても、それを継ぐ者がそれをちゃんと使ってくれるかというと、その保証はありません。これはまた空しいことです。そういう目的のために労苦することも空しいことです。せっかく努力して築き上げたものが台無しにされてしまうのですから。逆に、そうしたものが仇になってしまうことさえあります。こうやって見ると、聖書って非常に現実的ですね。

 

20~21節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望しました。21節には、「これもまた空しく、大いに悪しきことだ」とあります。「大いに悪しきことだ」は、第三班では「非常に悪いことだ」と訳されています。これが悲観主義の根底にあるものです。「非常に悪い」という感情に支配されることです。非常に悪いという感情に支配されますと、悲観的になってしまいます。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないとしたら、そして、その築き上げたものが台無しにされてしまうとしたら、いったい労苦そのものに何の意味があるというのでしょう。何もありません。これもまた空しいことです。最悪です。

 

それゆえ伝道者は、この労苦について次のように結論しました。22~23節です。ご一緒に読みましょう。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」

日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何の意味もありません。その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休めないのです。なかなか眠れません。どうですか、皆さん、共感するところがあるのではないでしょうか。毎日、朝から晩まで働いても、その労苦と思い煩いは、いったい何なのでしょうか。そう考えると早く退職して、自分の好きなことでもして、ゆっくりと過ごしたいと思うのもわかります。やっとその歳になったかと思ったら、病気にかかって死んでしまうということも少なくありません。そうであるなら、日の下だけを見て労苦することがどんなに空しく、悲しいことであるかがわかります。そこには絶望しかありません。

 

しかし、私たちは日の下だけではなく、日の上があることを知っています。そして、日の下での私たちの労苦はその日の上でのためであり、そこでもたらされる報いにつながるものであるということを知っているのです。Ⅰコリント15:58には、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」とあります。「ですから」とは、私たちは、一瞬のうちに変えられるのですから、という意味です。すなわち、終わりのラッパが鳴るとき、死者は朽ちないからだ、栄光のからだ、霊のからだによみがえるからです。そのとき、「死は勝利に呑まれた」と記されたみことばが実現します。そうです、神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利と希望を与えてくださいました。「ですから」です。この死に対する勝利、永遠の希望が与えられている人にとって、日の下での私たちの労苦は決して無駄ではありません。確かにどんなに労苦しても、人は死ななければならない存在であることを思うと、この地上での労苦に何の意味も見出せないかもしれませんが、しかし、日の下での労苦が日の上に続くものであることを知るなら、それは決して無駄ではないことがわかるのです。この地上で主に対して行われた労苦が、天の上でもたらされる報いから漏れることがないということを思うとき、むしろ、喜んで主のわざに励むことができるのです。

 

Ⅲ.神のみこころを求めて(24-26)

 

ですから、第三のことは、神のみこころを求めて生きましょうということです。24~26節をご覧ください。「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

 

「食べたり、飲んだりして」とは、ただいのちをつなぐだけの人生のことです。人には、食べたり飲んだりして自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがありません。しかし、そのようにすることもまた、神の御手によるのです。つまり、それもまた神の恵みによるのであって、神を除外してはあり得ないことなのです。実に神から離れては、だれも食べだれも楽しむことはできません。イエス様はマタイ6:34で、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」と言われました。明日のための心配は無用です。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。だれが、明日どうなるかを知っているでしょうか。私たちは、しばらくの間現れてすぐに消えてしまう霧にすぎません。であれば、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをとよう」と言うべきではないでしょうか。ヤコブは、彼の手紙の中でそのように勧めています(ヤコブ4:13-15)。それなのに私たちは、「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言うのです。これは、神を無視して富だけを追及する罪人たちへの警告であります。罪人は神を無視して富だけを追い求めるので、日毎に与えられる糧にさえ満足できないのです。使徒パウロは言いました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

 

それゆえ、伝道者の結論は何かというと、26節です。ご一緒に読みたいと思います。「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

神のみこころにかなう生き方をする人には知恵と知識と喜びが与えられるが、罪人には労苦の人生が与えられることになります。この伝道者の書のことばで言うなら、こういうことです。12:13-14、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

 

あなたはどうですか。食べること、飲むことに執着するあまり、それを豊かに与えておられる神に目を向けているでしょうか。

リビングライフのエッセイに、韓国のイ・チェチョルさんの証があります。ハンさんという聖徒が日曜日に礼拝をささげるために子どもたちと一緒にタクシーに乗りました。料金を払おうとして1万ウォンを出すと、運転手はおつりがないと言いました。ハンさんは子どもたちから小銭を借りて支払いましたが、その運転手から1万ウォンを返してもらっていないことに気付きました。しかし、手遅れでした。タクシーはもう行ってしまったのです。ハンさんは不愉快になりました。しかし、その瞬間「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)とのみことばが思い浮かび、「神様がお金に対する執着を捨てる訓練をさせてくれているのだ」と悟り、心が平安になりました。

子どもから借りたお金を返そうと近所の店で両替していると、子どもが叫びました。「お母さん!さっきタクシーのおじさんが、道の向こう側から窓の外に1万ウォンを振りながら小道に入って行ったよ。行ってみよう。」

しかし、ハンさんは次のように答えました。「いいのよ。あのおじさんは、あのお金を受け取る価値がある人なの。あの1万ウォンよりももっと大切な平安をお母さんにくれたんだから。」そして道を歩きながら心の中で祈りました。「イエス様、もしあの人がイエス様のことを知らないなら、きょうをきっかけに主を信じて、この平安が与えられますように。」

すごいですね。生活のすべてに主が生きて働いています。「主のみこころなら、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というみことばに生きておられます。これこそ、伝道者が見出した結論でした。

 

あなたはどうですか。人は、神から離れては真の幸福を得ることはできません。それがなかったら、すべてが空しいだけでなく、絶望的な人生となってしまいます。しかし、神を恐れ、神とともに生きるなら、そこに感謝と喜びと平安が溢れるようになります。実に、人の幸せは神の御手にかかっているのです。神が恵みを施してくださらない限り、私たちは生きることがでないのです。神を喜ぶ人、神を喜ばせる人、神を第一にして生きる人に、神はこの世の知らない平和と喜びとあらゆる恵みを与えてくださいます。人の手ではなく、神の御手によるものが、私たちを幸せにするのです。

あなたの心を満たすもの 伝道者の書2章1~11節

2020年9月27日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書2章1~11節(旧約P1139)

タイトル:「あなたの心を満たすもの」

 

 前回から伝道者の書を学んでおります。前回もお話ししたように、この書のポイントはこれです。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「日の下」というのは「日の上」に対する表現で、神様抜きの、神様なしのという意味です。神様なしの人生は、実に空しい。どんなに楽しいことやすばらしいことをやっても、イマイチ心が満たされません。喜び、平安がありません。全然ないと言っているのではありません。イマイチなのです。それをやっている時はいいのですが、その後で急に空しさが襲って来ることがあります。日の下でどんなに労苦しても、それは人にとって何の益にもならないのです。

 

伝道者は「空の空。すべては空。」という言葉を繰り返して語っています。「空」という言葉は、文字通り「空っぽ」という意味です。実がないのです。見てくれは良くても、中身は空っぽです。それは煙のようにつかみようがありません。伝道者はいろいろな人生の経験を通して、このことを語るのです。たとえば、知恵とか知識ですね。人はみないろいろなことを学びたいし、知りたいです。私たちは好奇心でいっぱいですのでどの本屋さんも、どの図書館も、いつも人が絶えません。新しい情報、新しい知識、そうした知的関心や好奇心が旺盛なのです。しかしこの伝道者は、1:16に「今や、私は、私より前にエルサレムにいただけよりも、知恵を増し加えた。」とあるように、いろいろなことを知ろうと熱心に知恵、知識を増しました。もう知識王ですよ。もしクイズ王決定戦にでも出ようものなら、ピンポーン、ピンポーンと、すぐにスイッチを押して答えられるような人でした。本当にいろいろなことを知っていて、彼に抜きん出るような人はいませんでした。それほどよく学んだ人だったのです。

 

 ところが、それほど多くの知識を得た伝道者は何と言いましたか。1:17には、「それもまた、風を追うようなものだ。」とあります。「空」です。「ヘベル」です。いろいろなことを学び、いろいろなことを探究しましたが、彼の心にあったものは、風を追うようなもの、つまり、何とも掴みようのないもの、ヘベルだったのです。むしろ、知恵が多くなることで皮肉なことに悩みも多くなりました。知識を増したことで、苛立ちも増しました。何か物事が整理できたかというとそうではなく、学べば学ぶほど、聞けば聞くほど、知れば知るほど、逆に心の中には喜びや満足感といったものが消え失せ、不安や恐れ、空しさが残ったのです。きょうの箇所はその続きです。

 

Ⅰ.快楽を味わってみて (1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」

 

 伝道者が次に試してみたのは快楽でした。快楽を味わってみるということです。彼は心の中でこう言いました。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」彼は人生を十分楽しむことができれば、人は幸せになることができるのではないかと考えたのです。ソロモン王は最高の知者であるのみならず、富者、大金持ちでもありました。列王記第一10章を見ると、彼がどれほどの富を持っていたかがわかります。彼のところには1年間に666タラント、すなわち、数億円もの金が入ってきました。このほかに、隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがありました。彼は、大縦1つに六百シェケルの金を使いました。大盾とは、足から頭まですっぽりおおってしまう大きな盾のことですが、これをすべて延べ金で作ったのです。六百シェケルは数十万円の価値になるでしょうか。金ですから、初めから戦うための実用性はなく、威光を表していた過ぎません。また延べ金で盾三百を作り、レバノンの森の宮殿に置きました。そこには大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。彼が飲み物に用いる器もすべて金です。レバノンの森の宮殿にあった器もすべて純金で、銀の物はありませんでした。銀はソロモンの時代には価値あるものとは見なされていなかったのです。それだけ富んでいたということです。私の名前も富んでいる男ですが、数億倍、いやそれ以上の違いがあります。信じられないほど富んでいました。ということはどういうことかというと、どんな快楽でも味わうことができたということです。

 

 まあ、私たちも庶民の快楽を味わうことがあります。この辺は温泉も近いですから、ちょっと車を走らせるとゆったりと温泉に入ることができます。佐久山温泉。那須温泉。大田原温泉。喜連川温泉。いろいろありますね。私も温泉に入るのは好きですが、もう一年以上行っていません。寒い日などに行くことがありますが、本当に気持ちがいいです。他にも、楽しいことはたくさんあります。私の趣味は食い道楽なんですが、さくらに向かう途中、佐久山温泉の近くに小さな和菓子屋さんがあって、そこを通るたびに「アンドーナッツあります」という張り紙がしてあるんです。しかも、土日限定です。私は小さい時から母が買ってくれた「あぶら饅頭」の味を忘れられず、そこを通るたびに「ああ、食べたい」「ああ、食べたい」と言うものですから、家内が「だったら買って食べたら」と言うので買おうと思っても、いつも「本日完売」の張り紙が出ているのです。そうなると、ますます食べてみたくなるでしょう。ある日曜日さくらの教会に行く途中で言ってみたらありました。しかも最後の1袋でした。1袋に3つしか入っていなかったので、教会の皆さんの分はないなと、家内に1つ、私が2つ食べました。しかし、思っていたような味じゃなくてがっかりしました。でも楽しいものです。食べ歩きは。

 

 中にはカフェに行ったり、映画を観たり、野山を散策したり、釣りに行ったり、スポーツを観戦したり、農作物を作ったりと、いろいろなことを楽しんでおられるのではないかと思いますが、ソロモンが味わったのは私たちのそれとは比較にならないものでした。ありとあらゆる快楽を味わうことができたのです。そのソロモンが感じたことはどんなことだったか。1節、「しかし、これもまた、なんと空しいことか。」何とも冷めた言い方です。そうした快楽や楽しみは全く無意味なものであり、何の実りももたらさなかったのです。

 

 2節をご覧ください。ここには、「笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」とあります。第三版は、「笑いか。ばからしいことだ」と訳しています。笑いは、内容にもよりますが、おもしろいですよね。私はよく「笑点」をよく見ますが、一つのお題に対して回答者が答えるわけですが、実におもしろい。よくぞまあこんなことを考えられるものだなあと感心してしまいます。何だか心が軽くなるのを感じます。でもそんな笑いさえも、この伝道者は狂気だと言い切るのです。もちろん、ここで伝道者が言っていることはそうした笑いそのものがばかばかしいとか、趣味や楽しいことが全く無意味だということではありません。ここで伝道者が言っていることは、日の下で行われること、つまり、神を抜きにしての快楽や笑いは空しいということです。人間が自らの手で満足を作り出そうとすることの愚かさを言っているのです。というのは、その背後には狂気と悲しみが潜んでいるからです。この新改訳聖書2017で、「笑いか。それは狂気だ。」と訳しているのはそのためです。神を無視した人生において、どんなに快楽と笑いを求めても、結局それは意味のないことであり、何の役にも立たないのです。

 

 心に病を抱えているひとりの男の人が、精神科医を訪ねました。彼は、極度のうつ病で苦しんでいたのです。それであらゆることを試してみましたが、なんの効果もありませんでした。朝目が覚めると、心に重いものがありました。その状態は、時間の経過とともに悪化して行きました。彼はこのままでは生きていくことができないと思い、助けを求めて精神科医のところに行きました。

 その日の診察が終わって部屋を出ようとした時、精神科医からこんな提案を受けました。「町の劇場でショーが行われているから、それを観に行くといいですよ。イタリア人のピエロが出ています。彼は毎晩、腹がよじれるほど観客を笑わせてくれます。あなたもそれを観て苦しいことを忘れ、2時間ほど笑ったらどうですか。治療効果があると思いますよ。」

 するとその患者は、無表情でこう答えました。「私がそのピエロなんです。」

 

 ですから、ここで伝道者はやみくもに快楽や笑いはみな悪いものだとか、必要ないものだと言っているのではありません。クリスチャンはこうした楽しいことをすべて避けるようにと勧めているわけでもないのです。むしろ、クリスチャンも笑いのある楽しい生活であったらいいと思います。しかし、その楽しみというのはこの世の楽しみとは違い、日の上での楽しみ、神の御前で喜ぶことです。

 

 ダビデは、人生における真の喜びについてこのように歌っています。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)

 クリスチャンの喜びとはこれでしょう。神の御前での喜びです。ダビデが経験した喜びは、この喜びでした。「日の下」ではなく、「日の上」での喜び、神の御前での喜びだったのです。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

 

 いつだったか忘れましたが、私がまだ20代の頃、アメリカの家内を日本に派遣した教会の礼拝に行った時のことです。その教会の青年の方々が私たちを歓迎して礼拝後にポットラックパーティーを開いてくれました。その教会の牧師は、今はもう天国におられますがキュースターという牧師で、日本の宣教にとても重荷をもっておられた方で、私たちがアメリカに帰国するたびにいつも暖かくもてなしてくれました。その牧師から依頼されたのでしょう。青年の方々が私たちのために楽しい時を計画してくれたのです。

私たちが連れて行かれたのはある若い夫婦の家でした。バックヤードにはプールがあって、バーベキューができるスペースもありました。彼らはそこで思いっきりはしゃいでいました。私たちをウエルカムするのかと思ったら、私たちのことはそっちのけで、キャー、キャー言いながら自分たちが思いっきり楽しんでいるのです。そうかと思ったらランチの後で私たちについて話を聞きたいと言い、真剣に聞いて祈ってくれました。オンとオフがはっきりしているんですね。別に気取らないし、かた苦しさもないのです。本当にリラックスした一時でした。日の上での喜び、神の御前での楽しみというのはこういうことなんだなぁということを教えられたような気がしました。

 

 Ⅱ.愚かさを身につけてみて(3-8)

 

次に、3節から8節までをご覧ください。3節には、「私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。」とあります。

 

そこで伝道者が次に考えたことは、ぶどう酒によって元気づけられることでした。ぶどう酒は伝道者が好んでいたものです。最良のぶどう酒を飲めば、からだは元気づけられるだろうと思ったのです。さらに「愚かさ」も身に着けてみることにしました。「愚かさ」とは1:17にも出てきましたが、「知恵」と真逆のものです。そこにも、知恵と知識を、そして、念のためにその真逆の狂気と愚かさを知ろうと心に決めたとあるように、自由奔放に生きる方が楽しいとは思うが、何が良いかを見つけるまでは、念のために愚かさも試してみようとしたのです。しかし彼の心は知恵によって導かれていたので、完全に愚かになることはありませんでした。心のどこかでブレーキをかけながら、からだはぶどう酒で元気づけようとしたのです。そういう時がありますよね。ちょっと羽目を外してみようと思っても、心のどこかでブレーキをかけているということが。そうやって少し愚かさを試してみようとしましたが、それでも彼の心が満たされることはありませんでした。

 

そこで伝道者が次にしたことは、自分の事業を拡張することでした。4-6節をご覧ください。「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。」

すごいじゃないですか。彼は自分に与えられた仕事や、さまざまな事業をどんどんやる人でした。今日でもすばらしい事業家、サクセスストーリーを歩んでいる人がいます。ソロモンも彼は彼なりにその時代、自分に与えられた仕事に一生懸命打ち込み、事業を拡大していったのです。そして豪邸も建てました。広々としたぶどう畑もいくつも造りました。立派な庭園も造りました。そんな暮らしにあこがれませんか。私の家の前はセブンイレブンなので、もっと静かで森に囲まられたところでクラスことができたらなぁと思うことがあります。ソロモンにはそれがありました。いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹も植えました。いいですね。園を歩きながらリンゴを取っては食べられる。いろいろな果実をとってそれをシリアルに入れれば、あとは牛乳を注ぐだけです。そして、その森を潤すために池も造りました。もう彼の右に出る人はいませんでした。それくらいのすばらしい事業を展開していたのです。

 

一方でまた男女の奴隷もいました。7-8です。「私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。」

ここをよく見ると、家で生まれた奴隷も何人もいたとあります。つまりお金で買った奴隷だけでなく、自分が所有していた奴隷が生んだ奴隷がいたということです。それだけ多くの奴隷がいたわけです。当時はどれだけ奴隷を所有しているかも、その人の豊かさのステータスであり、一つのバロメーターだったのです。そして同じ7節には、「私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。」とあります。羊何頭、牛何頭を所有していたというのも、その人がいかに豊かな人であったか、富裕な人であったかを表していました。

 

そしてまた彼は、自分のために金や銀、それに王たちの宝や諸州の宝も集めました。もう珍しい金銀財宝をいっぱい手にすることができたのです。先ほども紹介したように、列王記第一10章を見ると、彼は銀を石ころのように使ったとあります。そしてシェバの女王など、諸国が宝をもって彼のところに貢ぎました。かつては無名の若い青年でした。そのソロモンが一代でここまで築くことができたというのはすごいことです。普通なら先代の成し遂げた事業の上にそれを拡張していくわけですが、彼は一代でここまで財を築きました。どれほど頑張って来たかがわかります。

 

さらに彼は男女の歌い手を得ました。ニューヨークのエンターテーメント、音楽、ショーを、毎晩自由に楽しむことかできたということです。そして人の子らの快楽である、多くの側女も手に入れました。列王記第一11章には、彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいたとあります。そんなに妻がいれば名前を覚えるも大変だったと思いますが、彼はそれだけの女性がいれば充足できるのではないかと思ったのです。しかし残念ながらその結果は、そうした妻たちによって心が転じられてしまうということでした。彼の心がほかの神々へと向けられ、イスラエルの神、主から離れることになってしまったのです。結局、そのようなものによって心が満たされることはありませんでした。後に残ったのは何ですか?ただの空しさだけでした。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。決して事業を拡張したり、邸宅を建てたり、いくつものぶどう畑を設けたり、きれいな庭や園を造ったりすることが問題なのではありません。問題は、それがすべて自分のためであったことです。この4節から8節までには「自分のために」ということばが繰り返して用いられていることがわかります。「自分の事業を拡張し」、「自分のために邸宅を建て」、「自分のためにいくつものぶどう畑を設け」、「自分のためにいくつもの庭と園を造り」、「自分のためにそこにあらゆる種類の果樹を植え」ました。また、「自分のために銀や金」を集め、「自分のために男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れました。」全部自分のためです。それは、自分の欲求にしたがって事業をするのだという意図です。

イザヤ書55:2にはこうあります。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」神に聞き従うことが、私たち人間にとって最良の食物なのです。自分のためではなく、神のために働き、神のために邸宅を建て、神のためにぶどう畑、庭や園、池を造り、神のために金銀財宝が用いられるなら、神の喜びと栄光で満たされるのです。

 

Ⅲ.すべてが空しい(9-11)

 

第三に、その結論です。9節から11節までをご覧ください。「こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

 

こうして彼は偉大な者となりました。それ以前にエルサレムにいただれよりも、です。彼は最高の富める者、富者になりました。しかも、その間、彼は知恵を失うことはありませんでした。9節後半の「私の知恵は私のうちにとどまった」とは、知恵を失うことがなかった、つまり、正気を保ったということです。もう知恵も豊かで、近くの国の王たちが謁見にやって来るほどでした。彼はそれほど知恵においても、働きにおいても、富においても、何事においても、成功した人だったのです。いろんな苦労もあったでしょう。しかし10節を見てもわかるように、彼はどんな苦労もいとわず、その苦労に立ち向かっていきました。しかし、どんなに物を手に入れても、いくら心の赴くままに、あらゆることを楽しんでも、彼の心が満たされることはありませんでした。彼は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った結果、こう言いました。11節です。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

 

本当に信じられないことばです。あんなにビジネスで成功し、立派な邸宅を建て、多くの財を築き、何もかもうまく行き、心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しむことができたソロモンが、その労苦を振り返って発した言葉は、「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」ということだったのです。ここには書いてありませんが、ため息を入れるとピッタリするかもしれませんね。「見よ。すべてが空しいことか。ハァ~。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」これが、この時点における伝道者の正直な思いでした。私たちから見ればもっと喜んでいいはず、もっと感謝していいはず、もっと幸せですと言っていいはず、もっと私の人生は本当にすばらしいと言っていいはずなのに、彼は「空しい」と言ったのです。「すべては空しく、風を追うようなものだ」と。

 

何がこの伝道者の心に足りなかったのでしょうか。何が彼をしてそのように言わしめたのでしょう。その答えは11節の最後に書かれてあります。つまり、「日の下には何一つ益になるものはない。」ということです。「日の下」とは、先ほども申し上げたように、神様なしの、神様を無視した、ただ自分のために生きる人生という意味です。それが人の目にどんなに魅力的なもののように見えても、神様抜きの生活は空しいのです。それは、人は神のかたちに造られているからです。人は神と交わりを持ち、神のいのちをいただいてこそ、真に生きることができるからです。前回も紹介しましたが、そのことをパスカルは、「私の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある」と言いました。私たちの心には、本当の神以外には満たすことができない真空があるのです。それが満たされて初めて、人は生きることができるのです。それを満たすことができるのは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストだけです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあるとおりです。ですから、救い主イエス・キリストを信じ、罪を赦していただいて、神のいのち、永遠のいのちをいただき、神と共に生きるとき、私たちは何をしても喜ぶことができるし、感謝することができるのです。それが上からの知恵です。

 

現代を生きる私たちも、この伝道者の生き方から学ぶべきです。物や快楽は、私たちに本当の喜びや満足をもたらすことはできません。大切なのは「何を手に入れ、何を成し遂げたか」ということではなく、「どのような人になり、どのように生きたか」ということです。あなたは何を求めて生きていらっしゃいますか。この世の富や快楽、名誉ですか。そうした物欲による葛藤や競争ではなく、日の上の喜び、神の国とその義を第一に求める生き方こそ、私たちが求めなければならないものです。

 

アメリカ中西部になだたる金持ちがいました。彼は、愛する娘にどのような遺産を残こしたらよいかを考えました。現金、証券類、株、不動産などと考えていきましたが、それらの遺産では満足できませんでした。そうした物質的なもので人は幸せになれないことを、十分に経験していたからです。

「信仰以外に、人を真に幸福にするものはない」

ついに彼は、信仰が最も安心できる遺産であるとの結論に達しました。しかし、そこには大きな問題がありました。彼はお金持ちではありましたが、信仰を持っていなかったからです。そのうえ、信仰というものは娘自身が選び取らなければなりません。

「そうと決まったら、自分自身がまずその信仰を手に入れることだ」と、彼は聖書を読み始め、ついにイエスこそ救い主であると信じるに至りました。その結果、娘を誘って教会に行くようになったのです。

 

どうぞ、この伝道者のことばを聞いてください。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものです。日の下には何一つ益になるものはない。」(11)しかし、日の上には、あなたを真に満たすものがあります。神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さるということを、私たちは知っています。この神の下に来てください。イエス・キリストがあなたの救い主です。イエスはあなたを満たすことがおできになります。この地上のことに振り回された生き方から、主のみこころにかなった生き方へと、主体的に生きることができるようになります。それは、真にあなたの心を満たしてくれるでしょう。私たちは今朝、私たちに与えられているものがどんなに価値があり、真に私たちの心を満たすものであるかを知り、主だけで満足する人生を選び取る者でありたいと思います。

 

出エジプト記32章

2020年9月24日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記32章

 

 出エジプト記32章から学びます。

 

Ⅰ.金の子牛(1-6)

 

まず、1-6節までをご覧ください。「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」

 

モーセがシナイ山に登り40日40夜主と会っている間、地上ではどんなことが起こっていたでしょうか。1節には、「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」とあります。彼らの心は、モーセがいなくなると主から離れてしまいました。神の時を待つことができず、自分たちの手で神に代わるものを求めたのです。それが、過去に慣れ親しんでいたエジプトの神の一つであった子牛でした。彼らは、自分の手で安心を勝ち取ろうとしたのです。つまり、自分たちを守り導いてくれる神を造り出そうとしたのです。エジプトから救い出されたという神の救いの力を体験しても、神の臨在が感じられなくなると、過去のもの、目に見えるものに心が奪われてしまったのです。人は目に見えないものを待ち望むのができません。その代わりに目に見えるもの、手っ取り早いものを造ろうとします。それで彼らもアロンに、自分たちに先立って行く神を求めたのです。

 

それでアロンは、彼らの妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外させて、自分のところに持って来るように言いました。そしてそれをのみの鋳型に流し込み、鋳物の講師にしたのです。そしてこう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」そして、翌朝その金の子牛の像に全焼のささげものを捧げ、交わりのいけにえを捧げました。

 

それにしても、どうしてアロンまでもが民の要求を受け入れ金の子牛を造ってしまったのでしょうか。アロンはそれが罪であるということを十分知っていたはずです。人を恐れたからです。「人を恐れるとわなにかかる。」(箴言29:25)とあります。アロンは人を恐れてしまいました。このままでは民は何をするかわからない。だから、民の怒りを鎮めるために彼らの気持ちを満足させなればならない。それで民が要求したとおりのことを行ったのです。しかし、彼は人ではなく、神を恐れるべきでした。神を恐れる者は守られるのです。

 

このようなことは、私たちにもよくあります。人を恐れることてしまうことがあるのです。それで、人

の顔色を伺いながら話したり、行動したりするのです。しかし、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、

主を恐れる者は守られる。」とあるように、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主にのみ従う者であり

たいと思います。

 

Ⅱ.モーセのとりなし(7-14)

 

 次に、7-10節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

 

主は、そのことをモーセに伝えます。そこには、イスラエルの民に対する主の悲しみが表れています。7節には、イスラエルの民を「わたしの民」と呼ばないで、「あなたの民は」と呼んでいます。ご自分の民と呼ぶはずの親密さが無くなっているのです。そして、「堕落してしまった」と言っています。これは創世記6:12で、ノアの時代の人々が堕落した時に使った言葉と同じです。すなわち、ノアの時代の人々が水によってさばかれた時に匹敵する罪を行ったということです。

 

9節には「うなじを固くする民だ」とあります。「うなじを固くする」とは、これからもよく出てくることばですが、これは馬の乗り手が手綱で馬を引いても全然言うことをきかない状態のことを指しています。まさに彼らの心はかたくなで、どんなに神がみことばを語っても聞こうとしませんでした。

 

そのような彼らに対して、主は断ち滅ぼすと言われましたが、モーセに対しては、彼を大いなる国民と

すると言われました。これはモーセにとって大きな誘惑であったにちがいありません。彼らが滅ぼされ

ても自分は大いなる国民となるのだから。

 

 しかし、モーセはそのことを良しとせず、主に嘆願してこう言いました。11-14節です。「しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」

 

彼はまず、「ご自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。」と言いました。彼らは神が創造された民であるばかりでなく、その偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導きだされた民です。それほど愛されたご自身の民なのです。その民に対してどうして御怒りを燃やされるのでしょうか。

 

そんなことをすれば、神の名がそしられることになってしまいます。12節には、「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。」とあります。そんなことをしたらエジプト人たちが神の名をそしることになるでしょう。ですから、彼らのためだけでなく主の名誉にかけて、その名誉が傷つけられないためにも、わざわいを思い直してくださいと訴えたのです。

 

そればかりではありません。ここでモーセは神の約束にも訴えています。13節には、「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」」とあります。

 

つまり、モーセは神の贖い、神の御名、神の約束に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいと懇願したのです。徹頭徹尾、神を中心に、それを前面に押し出して訴えたわけです。イスラエルの民の正しさ、理屈などは一切関係ありません。ただ神の義に訴えたのです。これが神のみこころにかなった祈りです。私たちがだれかの救いのために祈るとき、それはその人がどういう人であるかということ以上に、それが神にとってどういうことなのかを考えて祈らなければなりません。

 

すると、主は何と言われましたか。14節です。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」どういうことでしょうか。主が考え直すということがあるのでしょうか。Iサムエル15:29には、「実に、イスラエルの栄光であられる方は、偽ることもなく、悔いることもない」とあります。神は悔いることのない方です。ですから、神の御心が変わることはありません。それなのに、ここで神の御心が変わったかのような印象を与えているのは、モーセにとりなしの祈りの機会を与えるためだったのです。ここに祈りの本質があります。私たちの祈りも、神の御心を変化させるためではなく、神の御心がなるようにというものなのです。

 

Ⅲ.懲らしめ(15-29)

 

 次に、15-20節までをご覧ください。「モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。」

 

モーセが二枚の石の板を手にして山の中腹まで降りて来ると、そこに留まっていたヨシュアが麓で民が叫ぶ声を聞いて、「宿営の中にいくさの声が聞こえる」と言いました。それは何の声か?それは勝利を叫ぶ声ではなく、歌いさわぐ声でした。すなわち、民が金の子牛の前でどんちゃん騒ぎをしている声でした。モーセは宿営に近づき、そこで子牛と踊りを見るなり怒りが燃え上がり、手にしていたあの二枚の石の板を投げ捨て、山のふもとで砕いてしまいました。そして、彼らが造った子牛を火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らすと、イスラエル人に飲ませました。これはどういうことかというと、イスラエルの民が神の戒めをことごとく破ったことに対する神の怒りを表すものであり、それがどれほどこの大きな罪であるかを示し、もう二度と同じ罪を犯すことがないようにとその苦さを味わうようにさせたのです。

 

21-29節をご覧ください。「モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも【主】につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、【主】に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」

 

モーセがアロンに、「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」と言うと、アロンは何と答えたでしょうか。彼はまず「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。」と言いました。つまり、民は本質的に悪い性質を持っていると言い訳したのです。つまり、自分の責任逃れです。

 

さらにアロンは、民がそのことを自分に強く要求したのだ、と答えています。「彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』」(23)ここでアロンは、なかなか山から降りて来なかったモーセにも責任があるのではないかと訴えていいます。

 

極めつけは、子牛は自然に出て来たという言い訳です。「民が、自分たちに先立って行く神々を作ってほしいというので、彼らが身に着けていた金を集めて火の中に入れたところ、この子牛が出て来たのです。」(24)そんなことがあるはずないじゃないですか。アロンがのみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にしたのです。それなのに、彼は火の中に金を入れたら子牛が出て来たかのように言いました。全く反省の色がありません。なぜアロンはこのようなことを言ったのでしょうか。申9:20に、「主はアロンに向かって激しく怒り、彼を滅ぼそうとされたが・・」とあることから、彼はそれを恐れたのではないかと思います。

 

モーセは民が乱れていてアロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見て、神のさばきを執行します。モーセについたレビ族によって、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺すというさばきを行ったのです。その日、民のうち約三千人が剣で倒れました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは、神の共同体の中に聖さがなくなれば、共同体全体が崩壊してしまうことになるからです。これは旧約聖書だけの話ではありません。新約聖書にも、アナニヤとサッピラの事件が記録されています。地所の代金の一部を自分のために取っておいたアナニヤとサッピラは、息が絶えてしまいました(使徒5:5)。また、父の妻を自分の妻にしていた者に対して、自分たちの中から取り除くべきだと言っています(Ⅱコリント5:2)。それは、わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることになるからです。その結果、どうなったでしょうか。アナニヤとサッピラの事件の時は、「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(使徒5:5)とあります。しかし、こうした執行は決して人間の思いとは違うので、これを行う時にはかなり注意が必要となります。

 

ところで、この時、主についたのは誰でしたか?レビ族です。彼らはモーセを通して主が語られた通りに自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺しました。愛する家族を殺すことはなかなかできません。しかし彼らは家族よりも主のみこころに立ったのです。なぜ彼らは主のみこころに立つことができたのでしょうか。それは、彼らが学んでいたからです。

 

創世記34章をご覧ください。ここには、シメオンとレビの妹ディナがヒビ人ハモルの子シェケムに犯されるという事件のことが記録されてあります。その解決のために出された条件は、互いに婚姻関係を結ぶということでした。しかし、割礼を受けていないヒビ人のところへイスラエル人をとつがせるわけにはいきません。そこで割礼を受けてイスラエルのようになるならそれを受け入れましょうと提案すると、ヒビ人はその条件を受け入れ、割礼を受けることになりました。ところが、彼らが割礼を受けて三日目になって、ディナの兄シメオンとレビが剣を取って何なくその町を襲い、ハモルとシェケム、そしてその町のすべての男子を殺してしまったのです。このことはヤコブにとって困ったことでした。なぜなら、そのことによってカナン人とペリジ人に憎まれることになったからです。シメオンとレビの問題は何だったのでしょうか。シェケムの住人を許せなかったということです。彼らはその過ちから学んだのです。

 

私たちも、主のみこころに立てず、時に失敗することがあります。しかし、その失敗をいつまでもくよくよするのではなく、そこから学ぶことが大切です。その失敗を次の機会に生かさなければなりません。レビ族はかつての失敗から学んでいました。そして、このような主のさばきを執行する苦しい局面でも、主につくことができたのです。

 

Ⅳ.神の書物(30-35)

 

 最後に、30-35節を見て終わりたいと思います。「翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」【主】はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」こうして【主】は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。」

 

モーセは、罪を犯したイスラエルの民をいさめると、主のもとに上って行きました。彼らの罪の宥めをすることができるかもしれないと思ったからです。そこで彼は主のもとに上って行くと、驚くべき祈りをささげました。それはもし、主が彼らの罪を赦してくださるのなら、自分の名前を神の書物から消し去っても構わないということです。この「あなたの書物」とは何でしょうか。これは「いのちの書」のことです。ルカ10:20で主イエスは、70人の弟子たちに対してこう言われました。「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。また黙示録3:5には、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してない。」と言われました。この「いのちの書」のことです。だからここでモーセが言っていることは、彼らが天国に入るために、代わりに自分を地獄に送ってくださいということだったのです。かつてパウロも同胞ユダヤ人の救いのために同じように祈りました(ローマ9:3)。モーセは、それほどの愛をもって祈ったのです。

 

 けれども主は、モーセの祈りを聞かれませんでした(33-34)。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。」と言われました。こうして主は民を打たれました。二十歳以上の男子はみな荒野で死に絶えたのです。それは35節にあるように、アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからです。アロンはモーセに代わって民を治めなければならなかったのにそれを怠り、民が欲していたこと、民が願っていたことにそのまま追従してしまいました。これは主に仕えるということではありません。主に仕えるとは主の御心を行うことです。人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。この神を恐れ、神の中に人々を導いていくこと。そのために労することが求められているのです。

主イエス・キリストを着なさい ローマ人への手紙13章11-14節

2020年9月20日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙13章11-14節

タイトル:「主イエス・キリストを着なさい」

 きょうは、「主イエス・キリストを着なさい」というタイトルでお話したいと思います。中世の偉大な神学者アウグスチヌスは、このみことばによって回心し、その生き方が劇的に変えられたと言われています。彼は成績が優秀で、カルタゴの大学に留学し、真理探求に情熱を燃やしていましたが、マニ教にはまり、ある女性との間に子どもまでもうけてしまいましたが、結婚が許されず、彼の内面に葛藤を生みました。それで、383年にイタリアのミラノに行くのですが、そこで「取って読め。取って読め」という子供が歌う声を聞いて、そこにあった新約聖書を開いたのです。そのとき偶然に開いたのがこの箇所でした。それまで、自分の力でいくら努力してもなかなか聖い生活に入ることができずもがき苦しんでいた彼は、この箇所を読んだときたちまち心が平安に満たされ、疑惑の雲がすっかり消え失せたのでした。それで383年にミラノの司教アンブロシウスからキリスト教の洗礼を受けたのです。彼はこれまでの深い眠りから覚め、新しいいのちある生活へと変えられたのでした。

 きょうは、この箇所から、世の終わりに生きる私たちクリスチャンはどのように歩むべきなのかつにいてお話したいと思います。第一のことは、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということです。第二のことは、ですからクリスチャンは目を覚ましていなければなりません。第三のことは、古い着物を脱ぎ捨て新しい着物を着なければならないということです。

 Ⅰ.今がどのような時か知っているのですから(11a)

 まず、11節をご覧ください。ここには、「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。」とあります。

クリスチャンは、今がどのような時なのかを知っています。この「時」という語は、ギリシャ語で「カイロス」という語です。新約聖書には「時」を表す言葉として二つの言葉が使われています。一つは「クロノス」で、もう一つが「カイロス」です。「クロノス」は、すべての人に平等に与えられている時のことです。その時の流れの中で、私たちは生まれ育ち、年を取り、死んでいくのです。時計の針がカチカチと時を刻んでいるその間に、流れていくその時のことです。それに対してもう一つの「カイロス」は、多くの人は知りませんが、クリスチャンだけが知っている時のことです。それはどのような時かというと、「神の時」のことです。今、伝道者の書を学んでいますが、3章に有名な言葉が出てきます。それは、「天の下のすべての営みには時がある。」(3:1)この「時」が「カイロス」です。もちろん旧約聖書はへブル語で書かれていますので、へブル語では「エーマ」という語ですが、これをギリシャ語に訳すと「カイロス」となるのです。同じ3:11にも「神のなさることは時にかなって美しい。」とありますが、その「時」も「カイロス」です。これは時間で計ることができる「時」ではなく計ることができない「時」、その中に突如して洗われる「神の時」のことなのです。ここでは、キリストが再臨される時、この世の終わりの時のことを指して使われています。11節に、「今は救いが私たちにもっと近づいているのですから。」とあることからもわかります。これはキリストの再臨の時のことであり、救いが完成する時のことです。その時が近づいているというのです。

 皆さん、この世はただいたずらに続いていくのではありません。やがて終わりの時がやってきます。その時主イエスが天から再び来られ、すべてのクリスチャンをこの世の闇から救い出してくださるのです。黙示録にはその時の様子を、次のように描かれています。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1-4)

 その時神に従うすべてのクリスチャンの目から涙が拭い去られ、もはや痛みも悲しみも叫びも苦しみもありません。警察やレスキュー隊、病院、リハビリセンターも必要ありません。すべての悲しみや苦しみから解き放たれるからです。その真ん中には神と小羊であられる主イエスがおられ、水晶のように光るいのちの水の川が流れ出ていて、そのいのちの水の川が諸国民の民をいやすのです。それは私たちクリスチャンにとってもっとも喜ばしい時です。そういう時がやって来るのです。

 皆さん、この世には何と多くの悲しみや苦しみがあるでしょうか。今もコロナ禍にありますが、他にもは毎年のようにじしん台風といった自然災害によって家を失い、家族を失って、どれほど多くの人たちが深い悲しみを負っているでしょうか。どれほど多くの方々が病気で苦しんでおられることでしょう。。人間関係の問題でどれほど多くの人々が悩み、苦しんでいることか。結婚や子育て、仕事のことで疲れ果ている人もたくさんおられます。しかし、やがてそうした悩み、苦しみ、悲しみ、痛みから完全に解放され、真の喜びと平安がもたらされる時がやって来るのです。それはキリストが再臨される時であり、私たちの救いが完成する時です。

 クリスチャンは、この時を知っているのです。それがいつなのかはわかりませんが、確実に近づいています。パウロがこの手紙を書いたのは今から約二千年前ですが、その時に比べたらはるかに近づいていると言えます。マタイ24章を見ると、イエス様はその前兆について語られました。その時には、「私こそキリストだ」という偽キリストが大ぜい現れ、多くの人々を惑わします。あるいは、戦争も絶えないでしょう。方々でききんと地震が起こります。やがて反キリストが現れ、にせ預言者が多く起こって、キリストを信じる者を激しく迫害するでしょう。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです。「これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいているということを知りなさい」(マタイ24:33)と言われました。

 私たちはこのようなしるしの多くを見ています。3.11では未曾有の大地震を経験しました。津波や原発の被害は大きく、未だに復旧できていない状況です。世界中を見ても、自然災害は至る所で起こっています。最近も「ドコモ口座」不正引き出し事件がありましたが、非常に巧妙な手口でサイバー金融犯罪が発生しています。何がどうなっているのかもわからないくらい、社会全体がパニックに陥っています。確かにその時は近づいているのです。イエス様は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)と言われましたが、この世の終わりは必ずやって来るのです。

 Ⅱ.目を覚ましなさい(11b)

 ではどうしたらいいのでしょうか。パウロは11節の後半のところで次のように言っています。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。」クリスチャンは世の終わりが近づいているということを知っているのですから、目を覚ましていなければなりません。

クリスチャンの内科医の天里(あまさと)待三(たいぞう)さんは「眠れぬ夜のために」という小論文の中で、現代の社会は情報を得やすい社会であると同時に、その情報が刺激となり、睡眠を妨げることがあるので、夜9時以降はテレビの番組などもよく注意して選択し、なるべく刺激にならないような番組を選んで見るべきだと助言しています。そして何よりもの解決は、主に身を横たえることだと言っています。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

 私たちが思い煩ってなかなか眠れないとき、それを考えないようにとその問題から逃げようとしたり、その問題を後回しにするのではなく、その問題を神様にゆだねること、それが最も良い解決方法だというのです。ですから、私たちが一番眠りやすいのはいつかというと礼拝の時なんです。神様が平安を与えてくださるので、いつもはなかなか眠れない人でもぐっすりと休むことができます。ただ礼拝中に休まる時には一つだけ注意が必要です。それは聖書を持ったまま居眠りしてはいけないということです。周りの人が起きてしまうから・・・。これは、今は亡き本田弘慈先生の冗談です。

 しかし、ここでは居眠りのことではなく、眠りから目を覚ますようにと言われています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています・・・と。どういうことでしょうか?キリストの再臨が近づいているので、それに備え、目を覚ましていなさいということです。

 マタイ25章には、愚かな5人の娘と賢い5人の娘のたとえがあります。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。一方、賢い娘たちはというと、自分のともしびといっしょにちゃんと油も用意していました。花婿が来るのが遅れたので、娘たちは、みな、うとうとと眠り始めました。ところで、夜中になって、突然、「そら、花婿が来たぞ。迎えに出なさい。」という声がしたのです。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えましたが、愚かな娘たちは、ともしびは持っていても油を用意していませんでした。焦った娘たちは油を用意していた娘たちにお願いしました。どうか油を分けてくれださいと。ところがその賢い娘たちは、「いいえ、分けてあげるだけの余分な油はありませんので、店に行って、自分の分を買ってください」と答えました。仕方なく娘たちが油を買いに店に行くと、ちょうどその時に、花婿がやって来たのです。油の用意をしていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼に祝宴に行くことができましたが、用意していなかった娘たちは、間に合いませんでした。「ご主人さま。どうぞ開けてください」とお願いしても、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言われ、戸は堅く閉められてしまいました。まさに備えあるところに憂いなしです。目を覚ましているとは、それがいつ来ても大丈夫なように、備えておくことなのです。

 私は、毎週日曜日朝9時に那須の礼拝に行き、その後で11時に大田原で行われる礼拝に向かいますが、以前那須から大田原に向かう途中、スピード違反の取り締まりをやっていました。ちょうど前の車が捕まってしまいました。それほどスピードを出していなかったのに、あれで捕まっては大変だと思いましたが、もし、スピード違反の取り締まりをやっているとわかっていたら事前に用心していたでしょう。泥棒に入られるのも同じです。夜の何時に来るかがわかっていたら、目を覚まして見張っているはずです。おめおめと家に入られるというようなことはしません。イエス様が来られるのも同じです。いつ来られるのかわかりません。ですから、いつ来られてもいいように、よく用意しておかなければなりません。

 Ⅲ.イエス・キリストを着なさい(12-14)

 第三に、では、どのように用心していたらいいのでしょうか。古い着物を脱ぎ捨てて、新しい着物を着なさい、キリストを着なければならないということです。12-14節までをご覧ください。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

 パウロはここで、夜が更けて、昼が近づいたので、着替えをしなさいと言っています。やみのわざを脱ぎ捨てて、光の武具を着けなさいと言っています。やみのわざとは何でしょうか。パウロはここで、やみのわざを三つのグループに分けて説明しています。最初のグループは「遊興と酩酊」です。これは酒を飲んでどんちゃん騒ぎすることです。泥酔は人の感覚が麻痺した状態です。クリスチャンは信仰的に、倫理的に鈍くなってはいけないのです。

 第二のグループは「淫乱と好色」です。これは性的不道徳を指しています。この手紙を書いたコリントでは、このような罪が広くはびこっていました。「好色」は破廉恥なことで、はずかしさを忘れることです。

 第三のグループは「争いとねたみ」です。これは争いに関する罪のことです。ある注解書によると、これは酔っぱらったり、性的な罪の中に深く落ち込んでいかないような比較的正しい人が陥りやすい罪だとありました。

 要するに、これらの行為は生まれながらの古い人の生き方で、肉の欲を満たすことです。それが表れるとこうしたわざになるのです。それは、ガラテヤ書にある肉の行いのリストを見てもわかります。そこには、「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19-21)とあります。

 しかし、クリスチャンはこうしたやみのわざを捨てて、光の武具を身につけなければなりません。ここで「武具を身につけようではないか」と言われているのは、まさに今は戦いの時だからです。戦いに出かけようとするとき、ゴムの切れたズボンをはいて行くようなことはしません。そんなことをしたらズボンをあげている間に、敵にやられてしまいます。戦いに出かける時には、それにふさわしい武具を身につけなければなりません。すなわち、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取らなければなりません。(エペソ6:14-17)

 それは、主イエス・キリストを着るということです。ここでパウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。キリストを着るとはどういうことでしょうか?キリストを着るとは、キリストと一つになることです。ひかりの子どもとして、ふさわしい生活をすることです。

 よく街の中を歩いていると「イエス・キリスト以外に救いはない」とか、「イエスは主です」と書かれたTシャツを着ている方を見かけることがあります。また、車を運転していても、魚のかたちをしたステッカーをはっているのをよく見かけます。あのさかなのマークが何を意味しているかを知っている人は、「あ、あの人もクリスチャンだ」とわかりますが、そうでないと、「あれっ、このマークは何だろう」となります。あれは、ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字「イクトゥス」ですが、それがちょうどギリシャ語で「魚」という意味になるのです。そこで、自分もクリスチャンだということを表すためにあの魚のマークをつけているわけです。

 そのようにして自分の信仰を表すこともすばらしいことですが、ここではむしろそれにふさわしい生き方、生活をしなさいということです。当時のクリスチャンは、キリストという着物を着て歩いていると人々から思われるほど、それがにじみ出ていたのです。そのように歩みなさいということです。

 先日、数年前まで大田原にいて、今は千葉県の鴨川にいる中国人のクリスチャンと電話でお話ししました。結婚したばかりなのに、奥様が中国に戻っている間にコロナウイルスが発生し、来日できなくなってしまいました。長期滞在のビザの在る日とは来日して二週間の自宅待機をすれば大丈夫なのですが、婚姻関係のビザが切れてしまい来れなくなってしまったのです。こちらから中国に行くことはできますが、そうすれば中国で二週間の自宅待機をし、日本に帰国してまた二週間の自宅待機をしなければならないので、約1か月を自宅待機しなければならないため行くにも行けないのです。それで電話の声もトーンダウンしていて、何となく寂しい感じでした。

 彼をさらに寂しくさせたのは、最近、鴨川にある日蓮宗のお寺に行った時、そこで日本のクリスチャンの評判を聞いたのですがそれがとても悪かったので、とてもがっかりしたらしいのです。中国でクリスチャンというととても優しく親切で、温かく、隣人を心から愛するので評判がいいのです。私も実際に中国に行ってみてそれを肌で感じました。私たちを心からもてなしてくれるのです。自分たちの暮らしもそんなに楽でなさそうなのに、自分たちのことよりも訪問した客のために最大限のもてなしをしてくれるのです。これはすごいです。どこに行ってもそうです。中国人がみんながそうかというとそうではなく、やはり自分勝手な人が多いらしいのですが、クリスチャンになると他の人のことを顧みるようになるのです。しかし、彼が日本で接するクリスチャンは意外と自分のことばかり考えていて、この人がクリスチャンなのかどうかわからないのです。いわゆる、キリストの香がしないのです。日本のキリスト教はどうなるんでしょうかと問われましたが、日本のクリスチャンのことを考える前に、今自分が置かれているところから始めていかなければならないんじゃないかなと言うと、「そうですね」と納得してくれました。

以前、阪神タイガースにスタンリッジという投手がいましたが、彼はクリスチャンでそのような生き方をしていました。チームが勝ってヒーローインタビューを受ける時はいつも、チームメイトのマートン選手と同様に、必ず「神様は私の力です!」とメッセージを送ります。それは彼が、自分が神様の良い証人になりたいと願っているからです。ですから、シーズン中であるにもかかわらず、横浜市にある本郷台キリスト教会が主催する野球教室に出かけて行っては子供たちに野球を教え、神様の話もするのです。

「私はクリスチャンとして野球をしています。それは野球をしている時もそうでない時も、神様のために自分は生きているからです。なぜ、私が神様を信じるようになったか?それはイエス様が私のことをとても愛してくれたからです。イエス様は全世界のすべての人たちのためにこの世に来られ、私の罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。だから、私はマットと共に、野球を見てくれている人たちに「神様は私の力です」と言いたいのです。」

 ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」と歌いました。(詩篇16:8,9)また、ネヘミヤは、「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:9,口語訳)と言いましたが、そのようにいつも神様を目の前に置いて、神様を中心として生きること、また、イエス様を喜びたたえながら生きること、それがイエス・キリストを着るということなのではないでしょうか。それこそ、主の再臨が近い今、私たちクリスチャンに求められている姿なのです。

 皆さんは、このような備えができているでしょうか?イエス様がいつ来られても大丈夫でしょうか?普通、人はどこかに出かける時にはよく準備して行くものです。それなのにイエス様の再臨が近いのにその備えができていないとしたら、それこそおかしいことです。なぜなら、私たちは二,三日の旅にではなく、永遠の旅に出かけるわけですから。そのための準備をしっかりとしておかなければなりません。イエス様が来られるというのに、罪に汚れた衣服を着ていたとしたら大変です。そうではなく、ひかりの武具を身につけなければなりません。主イエス・キリストを着なければならないのです。「マラナ・タ」という祈りがあります。意味は、「主よ。来てください」です。私たちはいつも「マラナ・タ」と祈りつつ、主のご再臨に備えておきたいと思います。

空の空 すべは空 伝道者の書1章1~18節

2020年9月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書1章1~18節

タイトル:「空の空 すべは空」

今日からご一緒に伝道者の書を学びたいと思います。4月から放映されているNHKこころの時代、宗教・人生という講座で東神大の小友聡(おとも さとし)先生が、この「伝道者の書」からお話しされておりますが、そのタイトルは、「それでも生きる」です。私が観たのは1度だけで、その内容もほとんど覚えていませんが、そのタイトルだけはずっと心に残っていました。今、社会はコロナウイルスの問題で表向きには平和に見えていても、そこに生きる人々は、先が見えず、息苦しさに喘いでいるのではないかと思います。ある意味でそれは闇の中を歩むようなものです。しかし、それでも生きよと、この書は語りかけているのです。それは、空しさを生きることへの励ましです。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」(11:1)とのメッセージは、現代の私たちに向けられた将来への希望のメッセージでもあります。私たちは、この書を通して空しいかのように見えるこの世にあって真の希望を見出し、「それでも生きよ」と語りかけてくださる主の御言葉に励まされながら、力強く生きる者でありたいと思うのです。きょうは、1章全体から学びます。

Ⅰ.空の空 すべては空 (1-3)

まず、1~3節までをご覧ください。「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

これはこの書全体の序論であり、読者である私たちに対する問題提起です。1節には、「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。」とあります。エルサレムの王で、ダビデの子と言えば、ソロモンですから、これはソロモンのことばと考えて良いでしょう。

しかし、この「伝道者」という語が、へブル語では「コヘレト」と言いますが、これは集会を主催する人、あるいは説教者という意味のことばであることから、この書の著者はイスラエルの知者であり、ユダヤ教の会堂に人々を集めて「知恵」を語っていた人で、その人が賢王ソロモンの名を借りて語ったのではないかと考える人もいます。それで新共同訳ではこの伝道者という語の原語である「コヘレト」から、これを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。また英語の聖書では、「伝道者のことば」を「The words of the Preacher」、説教者のことばとなっています。

では、伝道者は何を伝えたかったのでしょうか。伝道者はその基本的なメッセージを一番最初と最後にまとめています。2節をご覧ください。ここには「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とあります。「空」と訳されたことばは、へブル語で「ヘベル」です。これは「蒸気」とか「煙」のことを表しています。伝道者は、人生とはどのようなものかを表す比喩として、このことばを38回も使っています。つまり、人生とは煙のようにつかの間のもので、はかなく消えていくものであり、謎と矛盾に満ちているものであるということです。皆さん、煙を掴んだことがありますか。煙は確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。たとえば、この世には美しいもの、良いものがたくさんありますが、それを楽しんでいる最中に悲劇が起こるとすべてが吹き飛んでしまいます。また、人は正義を信じていますが、往々にして善良な人々に悪いことが起こります。旧約聖書に登場するヨブの人生はまさにそうでしょう。そのように人生とは予想がつかず、安定せず、伝道者のことばを借りれば風を追うようなもの、つまり、「へベル」なのです。この「空の空」という言い方は、「主の主、王の王」という言い方と同じで、「空の中の空」という意味です。つまり、最も強い空しさを表しています。「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」ということです。「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」これが、伝道者が伝えたかったことです。何とも気がめいってしまうような話です。しかし、伝道者はそれだけで終わっていません。ずっと「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」と語りながら、最後にこう言うのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

これが、伝道者の結論です。伝道者が本当に言いたかったことです。この世のすべては空しいのだから、どこに希望を置くのか、何を見て生きるのか、どのように生きるべきなのか、そうです、結局はこれなのです。神を恐れること、神の命令を守ること、これが人間にとってすべてなのです。伝道者は、このことが言いたくて、この世がどれだけ空しいものなのかを、これでもか、これでもか、というくらいたたみかけるのです。

おそらく私たち日本人は、このことば、すなわち「空の空。すべては空。」ということばを聞くと、変に納得するものがあるのではないかと思います。ある雑誌の中で、脚本家の山田太一さんがこのことばを読んで「たぶんキリスト教には行かないが、信仰の芽は私にもあると思う」と感想を述べておられます(「考える人」2010年春豪、新潮社)。それほど私たち日本人の心を引き寄せることばでもあるのです。それは、仏教の経典の一つである「般若心経」に、これに通じるところがあるからです。

般若心経は仏教の教えを262文字に集積した経典ですが、そのなかに「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」という言葉が出てきます。これは、すべての営みは過ぎ去る風のように空しく、ただ繰り返され、後には何も残らない。それゆえ、この世の移り変わる物は実体ではなく、人間の体も思いも実体ではない。いつか死に、無くなるものであることを理解し、それを嘆くのではなく、自分自身が無常であることを受け止めるというものです。あの平家物語の冒頭に出てくる「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。」に似ているところがあります。  すべてが空であることを悟るなら、富や貧しさ、快楽や苦しみ、老いることにも死ぬことにも、煩わさされることはありません。空を悟ることにより、嘆くことなく前を向いて歩むことが出来る。これが「空即是色」です。  仏教では神の救いがないので、救いを何に求めるかというと、この「無の境地」です。この世の煩わしさに捉われずに、心を空(カラ)にするとき、一切の煩悩から解き放たれて歩めるようになる。これが悟りです。仏となるということなのです。しかし、それらは人間の理想であり、おおらかな慈悲深い心をもって歩みたいという人間の希望にしかすぎません。心と精神の理想を追い求めるという点で仏教は素晴らしい宗教だと言えますが、うがった見方をするなら人間の限りない欲求の追及でもあるのです。

伝道者は、釈迦が生まれる500年も前に、般若心経が成立する1000年も前に、このことばを語っています。彼はすでに仏教でいう一切が諸行無常であることを悟り、人がむなしいことや、すべての営みが繰り返されているだけに過ぎないことを認めていますから、聖書の教えは卓越していると言えるでしょう。

それにしてもなぜ伝道者はこんなことを語ったのでしょうか。聖書と言えば、キリスト教の正典であり、敬虔で神聖な言葉が書かれている書だと誰もが思っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と聞くと、そうだ、こんなことでつぶやいていちゃだめだ。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなきゃいけない。さすが、聖書の教えは違うな。神の教えだ、と思うでしょう。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)と聞けば、そうだな、なんで明日のことをそんなに心配しているんだろう。明日のことは明日が心配するんだから、神様にすべてをゆだねよう。感謝!となるのですが、「空の空。すべては空。」とあると、何だから生きる気力が削がれてしまうようで、何とも力が湧いてきません。それはこれを書いた伝道者が、物事を斜に構えて見ては皮肉なことばかりを語るニヒリストであったからではありません。むしろ、こうした現実を突きつけることによって、ある一つの真実を強く訴えたかったからなのです。その真実とは何ですか。それは、神を抜きにしての人生がいかに無意味であるかということです。一般に人々は、究極的には意味のないどうでもいいことに多くの時間とエネルギーを費やしては一喜一憂しているわけですが、果たしてそこにどれだけの価値を見出すことができるのかということです。そのことを伝えるために彼は、逆説的に「ヘベル。ヘベル。すべてはヘベル。」「空の空。すべては空。」「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」と最上級の表現を用いて、そうではないと、神を信じて生きることの重要さを訴えたかったのです。

その空しさの一つの事例が、「日の下で労苦すること」です。3節には、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」とあります。この「日の下で」ということばも、この書のキーワードの一つです。全体で29回、「地上」ということばと合わせると、全体で35回も使われています。これは地上の目に見える世界のことを表しています。それは神を忘れた人間の世界であり、神を抜きにした人生のことを意味しています。その日の下でどんなに労苦しても、いったいそれが人に何の益になるでしょうか。なりません。

人間は常に、より良い世界、より住みやすい世界を作り出そうと頑張ってきました。しかし、この驚くべき文明の発展が、どれだけ人の幸せにつながっているでしょうか。たとえば、この30年の間にインターネットは驚くべき発展を遂げ、社会はとても便利になりました。カナダのバンクーバーにお住まいの方が、私たちの教会のライブ配信を毎回楽しみにご覧になっておられますが、祈祷会の配信がなかったとき、それはちょうど九州で豪雨災害があったときですが、メールをくださいました。「熊本の川が氾濫した様子をネットで見ると、栃木県には荒川も鬼怒川も箒川もあるし・・・と悪い方向へ考えが向いてしまい おまけに今日の祈祷会がないとなるとこれはもしかしたら大変な状況になっているのかもしれない と想像しておりました。」いや、大田原での祈祷会そのものが隔週で行われているためライブ配信もなかったのですが、このインターネットの時代ですから、寸時に様子を知ることができるので、心配してくださったのです。家内もついにスマホデビューし、家族の皆とラインでつながりましたが、あまりにも早いスピードについて行けず毎日「面倒くさい!」とヒーヒー言っています。国際金融や貿易に関わっておられる方は、昼夜を問わずに仕事をせざるを得なくなって疲れ果てています。つまり、技術の進歩が競争を世界的なレベルに広げ、私たちの心の余裕をますます奪っているのです。まさに、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」です。適度な労働は、神が人間に与えてくださった祝福ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人間が神から離れてしまったことでその労働の真の意味が色あせてしまい、むなしいものになってしまったのです。

Ⅱ.日の下には新しいものが一つもない(4-11)

次に、4節から11節までをご覧ください。日の下で、つまりこの世の人生には何の益もないということを述べるにあたり、伝道者はここでその理由を3つの角度から語ります。まず、4節です。「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。」

人生の空しさの最初の理由は、人生はうつろいやすいということです。地はいつまでも変わりませんが、人は過ぎ去って行きます。新共同訳聖書ではこう訳されています。「一世代過ぎればまた一世代が起こり、永遠に耐えるのは大地。」しかし、その大地でさえ消え去ると聖書は言っています。ペテロはこう言っています。「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)こうやって見ますと、変わらないものは何もないということになります。過ぎ去るのは人間の命だけでなく、大地もまたそうなのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。」

次に伝道者が上げる理由は、自然現象の繰り返しです。自然界は同じ動きを繰り返しているだけで、何か益があるものを作り出しているわけではありません。たとえば、日は上り、日は沈みます。そしてまた、元の昇るところへと戻って行きます。また、風は南に吹いたかと思うと、巡って北に吹きます。つまり、ぐるぐると巡り巡って吹いているのです。これは科学的にも証明されていることです。伝道者はそれを、今から三千年も前に既にわかっていました。川はどうでしょうか。7節、川はみな海に流れ込みますが、それで海が満ちるかというとそうではありません。なぜ?水は蒸発して元の場所に戻って行くからです。すごいですね。どの川も同じ行程を繰り返しているだけなのです。水の循環システムです。私たちにとっては当たり前のことですが、このことは近代まで証明させていませんでした。ですから、日が昇ったり、風が吹いたり、雨が降ったりしても、実質的には昔から何も変わっていないのです。それらは単調な、延々とした繰り返しで、何の変化もありません。

では、私たちの人生はどうでしょう。8節から11節までをご覧ください。次に伝道者は、私たちの人生も同じであることを語ります。「すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」

どういうことでしょうか。人生も同じで、満たされることはないということです。もっと、もっとと、何かあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。

人間の労苦も同じことで、過去にあったものの繰り返しです。新しいものは何一つありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、それも昔からあったものにすぎいということがわかります。たとえば、新しい技術の発達ですね。コンピューターやインターネットのおかげで文章を書くときや通信手段は便利になりましたが、どうでしょう、そのおかげで漢字が書けなくなったという人が多いのではないでしょうか。また通信が便利になったおかげで、必要もないことに時間をかけてしまい、大切な時間を無駄にしてしまったということがあります。こんなことになるなら手で書いた方がよっぽど楽だ・・と。ですから、やっていることは昔と変わらないというのが現状なのです。むしろ退化しているということも言えるでしょう。流行はどうですか。新しいファッションは、実は昔あったものと同じものであることが多いのです。考え方にしてもそうです。何か奇抜なアイデアのようなものでも、ずっと昔に既に考えられていたものであることが多いのです。たとえば、ビル・ゲイツなどの名経営者が愛読したことでも知られる孫子の兵法は、現代の企業経営のバイブルとして用いられていますが、それは、紀元前500年頃に既に書かれていたものです。そして、私たちが手にしている聖書ですが、これは紀元前1400年から紀元100年頃までに40人の著者を用いて書かれたものです。これは現代でも変わらず用いられています。人間の本質は昔も今も変わらないので、また、どの民族にも適用できる普遍的なことばなので、毎年のベストセラーであり、本の中の本、本当の本と言われているのです。何も変わりません。日の下には新しいものは何一つないのです。「これを見よ。これは新しい」と言われるものは何一つありません。

しかし、新約聖書を知っている私たちは、新しいものがあることを知っています。何ですか?それは霊の誕生です。Ⅱコリント5:17を開いてください。ここには、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。だれでも、キリストのうちにある者は、新しく造られた者です。ソロモンは、日の下には新しいものは一つもないと言いましたが、日の上には新しいものがあります。神は、新しい創造をされました。イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく造られるのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。それは、今までになかったものです。ですから、聖書にはイエス・キリストを信じた人は新しい人と呼ばれているのです。それに対して古い人もいます。考え方が古いというのではありません。イエス・キリストによって新しく生まれ変わっていない人のことです。イエス・キリストを信じるなら、だれでも新しく造られます。その新しさを私たちは知っているのです。ですから、私たちは日の下に新しいものが一つだけあることを知っているのです。この新しい創造です。キリストによって新しく造られた者は、たとえ無意味なように思える日の下にあっても、空しさに囚われることなく、創造的に生きることができるのです。

11節には、「前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」とあります。過去のことは忘れられてしまいます。これは老人になって記憶が衰えてしまうということではありません。どれほど偉大なことをしてもそれはその時のことだけで、後の時代の人々がずっと覚えていることはないということです。たとえば、もうすぐ総理大臣の指名選挙が行われますが、ちょっと前の時代の総理大臣のことを覚えているでしょうか。一つクイズを出しましょう。当たった人には豪華な景品があります。あの小渕官房長官が「平成」と書いて始まった時の総理大臣はだれですか。もう忘れているでしょう。「竹下登」です。私も忘れていたのでネットで調べましたが、そうやって調べないと出てきません。私たちが今話題にしていることや注目していることも、少し時間が経てばすぐに忘れ去られてしまいます。そのような一時的なもののために自分の人生のすべてを費やしているとしたら、それは本当に空しいことではないでしょうか。そのように語る伝道者のことばは、実に私たちの人生の空しさを的確に言い当てています。

映画やテレビの脚本を数多く手がけ、随筆集「花の百名山」を書いたことでも知られている田中澄江さんは、23歳のとき東京にある聖心女子学院の教師になりました。そのとき、彼女は英国人のマザー・ラムから、公教要理の講義を受けました。
「人は何のために生まれましたか。神を知るためですね。」
これは彼女に取って衝撃的なことばでした。「『神を知るためだ』と言われたとき、大粒の涙が机の上にこぼれ落ちて、『そうだ、ほんとうにそうだ、神を知るために生まれたのだ」と全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。』」と言いました。

あなたはいったい何のために生きていますか。私たちももし神を知らなかったら、どんなに有名人になったとしても、決して心の飢え渇きを満たすことはできません。それは、神を知り、救い主イエス・キリストを信じることによってもたらされる恵みです。イエス・キリストを信じたことで永遠の命が与えられ、永遠の命に至る食物のために働く者とされたことを感謝しましょう。

Ⅲ.知的探求の空しさ(12-18)

第三に、知的追及です。しかし、伝道者はそうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見いだそうといくつかのことを試みました。まず知恵の探究です。12節から18節までをご覧ください。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

ここで伝道者は、改めて自分の立場を書き記します。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。」つまり、彼はエルサレムでイスラエルの王であり、富も地位も力も持っていたということです。彼は天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。つまり、知的探求によって人生の意味を見いだそうとしたのです。しかしそれは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事でした。つまり、人は「何のために生きるのだろう」「この人生の苦しみに意味があるのだろうか」などと思い巡らしているうちに、そのこと自体に疲れ果ててしまったというのです。17世紀のフランスの哲学者であり、科学者、数学者でもあったパスカルは、「人間は考える葦である」(パンセ347)と言いましたが、確かに人が他の被造物に勝っているのは考えるという能力ですが、しかし、どんなに考えても究極的な答えを見出すことができなかったのです。結局のところ、伝道者が見出した結論は次のことでした。14-15節です。「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」

伝道者は、日の下で行われるすべてのわざを見ました。彼は最高の教育を受け、科学、哲学、歴史、芸術、文化、宗教などあらゆる分野において豊かな知識を得ました。しかし、彼が経験したすべてのことは空しく、風を追うようなものでした。「風を追うようなもの」とは、あの「ヘベル」、「空」であるということです。「ヘベル」とは、蒸気とか、煙のことだと申し上げましたが、煙のように確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。風も同じです。確かに吹いているのに、どんなに掴もうとしても掴むことができません。つまり、風を追うように、空しく、空虚で、無意味であるということです。

曲げられたものをまっすぐにすることはできません。欠けているものを、教えることはできません。これは、この世には不可解なものがたくさんありますが、それを人間の知恵で理解したり、修正したりすることはできないということです。ではどうすれば良いのでしょうか。どうすれば曲げられたものをまっすぐにすることができるのでしょうか。どうすれば、欠けているものを、数えることができるのでしょうか。

伝道者は、続いてこう述べています。16-18節です。「私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

彼は、自分はエルサレムにいただれよりも豊富な知恵と知識を増し加えたと言っています。そればかりではありません。知恵と知識とともに、狂気と愚かさも知ろうとしました。念のために、両極端を試してみたというわけです。その結果わかったことはどんなことでしたか。それもまた、風を追うようなものであるということです。知恵と知識だけでなく、反対の狂気と愚かさも試してみて、それもまた、風を追うようなものであったというのは、何をやってもダメだということです。風を追うようなもの、ヘベルです。すべては空なのです。それどころか、彼は重要な真理を見出しました。それは何ですか。18節です。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」知恵が多くなればなるほど悩みも多くなり、知識を増せば増すほど苛立ちも増します。このことがわかっただけでも大したものです。なぜなら、人は、知的探求の道に限界を感じる時、神を見上げるようになるからです。

ひとりのインテリ青年が牧師のところへきて、科学的、文学的にキリスト教に対して難解な質問をあびせかけ、牧師を困らせました。ついに牧師は答えに行き詰り、沈黙してしまいました。すっかり得意になってしまった青年は、牧師に別れを告げて意気揚々と帰ろうとしました。その時、その牧師が静かに言いました。
「もしもあなたに、謙遜があったなら」
このひとことが青年の胸を打ちました。彼は、自分はさまざまな知識を持ち、立派な人間だと思っていましたが、謙遜がなかったことに気がついたのです。そして心から悔い改め、その夜、彼は救われました。この青年こそ、後に伝道者になった河辺(かわべ)貞(てい)吉(きち)(1864~1953)という人です。彼は、日本自由メソジスト教会の創立者となり、説教者として活躍しました。

そうです。知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、本当に知るべきことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。本当の知恵は、イエス・キリストにあります。キリストは神の知恵、神の力と呼ばれました。ですから、この神の知恵であるキリストを知り、キリストを愛するなら、人生の生きる意味が教えられ、空しさから解放され、心満たされて生きることができるのです。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるというのでしょうか。何の益にもなりません。しかし、キリストを知り、キリストを愛するなら、すべてが益になります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)とあるとおりです。

日の下には、新しいものは一つもありませんが、しかし、だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。どんなに知恵を求めても、どんなに知識を求めても、あるいは、その逆のことを求めても、日の下にはあなたの心を真に満たすものは何もありません。それらのことは、すべて空しく、風を追うようなものなのです。しかし、神の知恵であられるイエス・キリストを求めるなら、あなたの心は真の満たしを受けるでしょう。これが、伝道者が見出したことでした。

先ほどのパスカルですが、彼は、「私の心の中には、本当の神以外にはとても満たすことができない、真空がある。」という有名なことばを残しています。彼は、ソロモン王のように様々な知識を探究しいろいろな発見もしましたが、それらのものが自分の中にある空洞を満たすことはできないことに気付いたとき、回心して、キリスト教に入信しました。彼が23歳の時でした。
しかし、残念ながらその後彼は、数学や物理の研究に熱中するあまり、生ける神から離れてしまいました。そして31歳になったとき、真の悔い改めに導かれ、神に立ち返ることができました。その時の彼の祈りが記録されています。それは1654年のことでした。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。あなたは哲学者や学者の神にあらず。感動、歓喜、平安。ああイエス・キリストの父なる神よ。あなたが私の神となって下さったとは。キリストの神が私の神。私は、あなたを除くこの世のすべてと、その一切のものを忘れ去ります。福音書に示された神こそ真実の神です。私の心は大きく広がります。正しき父よ。世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。私はあなたから離れていのちの水の源を塞いでいましたが、わが神よ。あなたは私を捨てたりなさいませんでした。どうか私がこれより後、永久にあなたから離れませんように。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト、イエス・キリスト、私は、彼から離れて、彼を避け、彼を捨てて、彼を十字架につけました。しかし、これより後、私が彼から離れることが永遠にありませんように。福音書に記されたあなたこそ、まことの神です。ああ、全き心、心地よい自己放棄、イエス・キリストよ、私はあなたと、あなたのしもべたちに全く従います。私の地上の試練の1日は、永遠の歓喜となりました。私はあなたのみことばを永遠に忘れません。アーメン。」

この祈りの中には、彼の充実した思いが込められています。これまで知的に探究することで満たされるであろうと思っていた心の真空は満たされませんでしたが、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じたことによって与えられた神の霊によって、彼の心の空洞は完全に満たされたのです。

イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

あなたは、イエス様が与える水を飲みましたか。この水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

あなたが探究しているものは何ですか。日の下で行われるものは、すべてヘベルです。空です。しかし、日の上から与えられるもの、イエス様が与えてくださるものは、あなたの心を完全に満たしてくださいます。どうぞこのイエス・キリストを信じてください。もう信じている方は、パスカルのように、もう一度自分の心を点検しましょう。あなたの心がキリストから離れていないかどうかを。そして、もし離れているなら、悔い改めて、主に立ち返りましょう。そして、主が与えてくださる永遠のいのちを受け取ろうではありませんか。イエス・キリストはあなたを満たしてくださいます。この方は、決してあなたを裏切ることはありません。ここに答えがあります。このキリストにすべてをゆだね、キリストに従い、あなたも真の満たしを受けてください

 

出エジプト記31章

出エジプト記31章から学びます。

Ⅰ.ウリの子ベツァルエル(1-5)

まず、1節から5節までをご覧ください。
「【主】はモーセに次のように告げられた。「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

モーセは今、シナイ山の頂上で、幕屋建設に関する指示を神から受けています。これまで、幕屋の建設と、それに仕える祭司の任職式について、また、常供の香のりささげものについて、そして祭司の奉仕に必要な聖なる油注ぎについて語ってきました。しかし、ここではもっと実際的な奉仕について語られます。すなわち、幕屋を建設する人についてです。それがユダ部族に属するフルの子ウリの子のベツァルエルです。「フルの子」の「フル」とは、アマレクとの戦いにおいてモーセの手を両側から支えた2人のうちの一人です(17:8-13)。そのフルの孫にあたるのが、このベツァルエルです。主はこの幕屋の建設にあたり、彼を名指しで召されました。彼は自分がやりたいからとか、自分から望んでいたからというよりも、神が名指しで召され、神から命じられてこの働きに就いたのです。この意識はとても重要です。よく、「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と聞かれることがありますが、私は迷わずこう答えます。「それは、主が召してくださったという召命です」と。それは神によって召された奉仕であるということです。そうでないと続けていくことはできません。自分をみたらあまりにも能力がないことに落胆して、途中でその働きを放棄してしまうことになるでしょう。しかしこれは主が召してくださったのであり、主が命じられたことである故に、主が最後までこれを成し遂げる力を与えてくださいます。それは牧師だけではありません。こうした実際的な奉仕においても言えることなのです。どんな奉仕においても、神によって召されているという確信が大切です。

3節には、主は「彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。」とあります。英語の訳では、知恵はwisdom、英知はunderstanding、知識はknowledgeとあります。こうした実践的な奉仕においても、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊に満たされる必要がありました。確かに彼には生来そうした才能が与えられていたのかもしれませんが、それだけでなく、それを成し遂げることができるように神の霊、聖霊の賜物が必要だったのです。それは幕屋建設に際しては、人間の能力以上の力が必要であったからです。

その仕事の内容に関しては、4節と5節にこうあります。「それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

彼の働きは祭司のような霊的な奉仕とは違い、幕屋の建設という実際的な奉仕でしたが、どちらも聖霊の力が求められました。教会には祈りとみことばといった霊的な奉仕もあれば、人々がよく礼拝できるように礼拝堂を掃除したり、司会や受付、献金、会場案内、プログラムの印刷、送迎といった実際的な奉仕があります。いずれも大切な奉仕であり、そうした奉仕もまた聖霊によって成されていかなければなりません。

Ⅱ.アヒサマクの子オホリアブ(6-11)

次に6-11節をご覧ください。
「見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、 机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

幕屋建設の統括者はベツァルエルですが、その補佐役としてオホリアブが任命されます。すなわち、アシスタントです。No2としてトップを陰で支えていた人です。このような人はとても貴重な存在です。トップはまとめ役で気遣いが必要です。あれもこれもと細かなことまで気を遣わなければなりません。それを陰で支えてくれる人がいれば、自分の働きに専念することができます。こうした補佐をする人、アシストをする人の存在が、教会ではとても重要となります。でもなかなかなれません。なぜなら、みな上に立ちたいと思うからです。そんな器じゃないのに、上に立ちたいと思うのが人間の性です。人を補佐するには謙遜が求められるのです。

オホリアブは、「ダン部族に属する、アヒサマクの子」とあります。ダン部族は12部族の中で最も小さな部族です。そこから無名の人物が選ばれました。そして、ベツァルエルとオホリアブを中心に、すべての知恵ある者たちが集められたのです。それは彼らが、主が命じられたすべてのものを作るためです。彼らは、幕屋とその中に入れる器具、祭司の装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香を作りました。ここでの鍵は、彼らは、すべて、主が命じられたとおりに作らなければならなかったということです。自分が良いと思う方法ではなく、主の方法によって作らなければなりませんでした。信仰生活が長くなると、いつしか自分の考えややり方を通そうとする傾向になることがあります。これまでの経験から、自分がやっていることは何でも正しいと錯覚していることがあるのです。しかし大切なのは自分の考えややり方ではなく、主の考えに従わなければならないということです。そのためには、何が良いことで神に受け入れられ、正しいことなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。神の言葉をつまびらかに読み、幼子のような純粋で、謙虚な心で、御言葉に聞く必要があります。そうでないと用いられません。こうした実際的な奉仕も、祭司のような霊的奉仕と同様、どちらも大切な奉仕なのです。

Ⅲ.安息日(12-18)

次に、12-17節をご覧ください。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが【主】であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」

今モーセは、シナイ山の山頂で神から幕屋建設に関する指示を受けているわけですが、ここで急に安息日の規定について語られます。すなわち、幕屋を建設している人も、安息日を守らなければならないということです。なぜここで急に安息日について語られたのでしょうか。幕屋建設のプロジェクトと安息日の規定は無関係のように感じますが、実はそうではありません。なぜなら、こうしたプロジェクトに取り組んでいこうとするとプロジェクトそのものに心が奪われ、大切なものが置き去りにされてしまうことがあるからです。最も重要なことが何であるかが忘れられてしまうことがあるのです。最も大切なこととは何でしょうか。それは神ご自身であり、神を礼拝することです。神を第一とするということです。たとえ神の幕屋を作る仕事であっても、神を礼拝することが最も重要なことなのです。神に対する奉仕よりも神を礼拝することの方がもっと重要なことなのです。それはイエス様がマルタに語られた通りです(ルカ10:41-42)。私たちはややもすると教会の奉仕や周りの付随的なことを優先させ、主の前に静まることを忘れてしまうことがありますが、それでは本末転倒です。まず神を第一とし、神を礼拝し、神に仕えることから始めなければなりません。それを忘れてはなりません。だからここで主は安息日の規定を語ることによって、もう一度主ご自身に目を戻すようにされたのです。

13節には、「これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。」とあります。これは神とイスラエル人との間のしるしです。ノアの契約のしるしは虹でした。また、アブラハム契約のしるしは、割礼でした。それと同じように、このシナイ契約のしるしは、安息日だったのです。安息日の規定の目的は、イスラエルの民を聖別することでした。聖別とは、神のためにこの世から区別するということです。彼らが神の民であることの一つのしるしが、この安息日を守ることだったのです。彼らは、安息日が来るたびに、自分たちは神のものであるということを思い出しました。第二の目的は、神の性質を教えることでした。すなわち、主は六日間でこの天と地を造り、七日目に休まれたことを思い出すためだったのです。そして第三の目的は、イスラエルの民の信仰を育てることでした。安息日に休息することは、神がすべての必要を満たしてくださる方であるということを信じるためでもあったのです。

この規定に違反した場合は、だれでも殺されなければなりませんでした(14)。新約時代に生きるクリスチャンは、このモーセの律法はそのまま適用されません。セブンスデーアドベンティストという団体ではこれをそのまま守らなければならないと信じ、今でも毎週土曜日に礼拝しています。しかしこれはユダヤ人に対する契約であって、それをそのままクリスチャンに適用することはできません。たとえば、アブラハム契約としての割礼も、使徒の働き15章を見ると、異邦人クリスチャンに対してこの割礼を強いることはしないことが決議されました。それはユダヤ人に対する神の定めであって、クリスチャンに対する定めではないのです。新約に生きるクリスチャンにとって大切なのは、愛によって働く信仰だけです。神を愛し、人を愛することが、この律法の要求を完全に満たすことなのです。

最後に18節をご覧ください。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を2枚、それは神の指で書き記された石の板でしたが、それをモーセにお授けになりました。神の指で書かれたというのは、神ご自身が書かれたということです。

パウロはこの石の板について、次のように言及しています。Ⅱコリント3:6-9にこうあります。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」

パウロは、古い契約と新しい契約を比較しています。文字に仕える者と御霊に仕える者を比較しているのです。そして、「文字は殺し、御霊は生かすからです。」と言っています。さらに、罪に定める務めさえ栄光があるのなら、これはシナイ契約のことですが、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちていると語っています。「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今は恵みの時代です。文字によってではなく、恵みによって生かされる道を求めましょう。