ヨシュア記22章

2023年9月13日(水)バイブルカフェ
聖書箇所:ヨシュア記22章

 きょうは、ヨシュア記22章から学びます。

 Ⅰ.同胞を捨てず(1-9)

まず1~9節までをご覧ください。「1 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、2 彼らに言った。「あなたがたは、【主】のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。3 今日まで、この長い間あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、【主】の命令に対する務めを果たしてきた。4 今あなたがたの神、【主】は、約束したとおりに、あなたがたの兄弟たちに安息を与えられた。今、【主】のしもべモーセがヨルダンの川向こうであなたがたに与えた、自分たちの所有地、自分たちの天幕に引き返しなさい。5 ただ、【主】のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、【主】を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい。」6 ヨシュアが彼らを祝福し、送り出したので、彼らは自分たちの天幕に行った。7 マナセの半部族にはモーセがバシャンに所有地を与えたが、残りの半部族には、ヨシュアがヨルダン川の反対側、すなわち西の方に、彼らの兄弟たちと並んで所有地を与えた。ヨシュアは彼らを天幕に送り出すとき、彼らを祝福して、8 こう言った。「あなたがたは多くの財、つまり、非常に多くの家畜と銀、金、青銅、鉄、たくさんの衣服を持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの兄弟たちと分け合いなさい。」9 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエルの子らと別れ、モーセを通して示された【主】の命により、彼らが得た自分の所有地、すなわちギルアデの地へ帰って行った。」

前章のところで、ヨシュアはすべての部族に占領した土地の割り当てを行ない、また、のがれの町と、レビ人の町々を定め、すべての仕事を終えました。そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言いました。それが2節から5節までに記されてある内容です。彼らはすでにヨルダンの東側に相続地が与えられていました。ですから、人間的に考えるなら、わざわざ戦いに出て行く必要はなかったわけです。しかし、ヨシュアは、ヨルダン川を渡る前にこれら2部族と半部族に、妻子と家畜を残し成年男子の勇士たちはともにヨルダン川を渡って戦いに参加するように命じました。そして、すべての戦いが終わり安住することができるようになったら、自分たちの所有地に戻りなさい、と言ったのです。彼らはその命令を最後まで守り通しました。それに対してヨシュアはここで、その働きの功績に対してねぎらいのことばを語っているのです。ヨシュアはヨルダンの東側の土地が割り当てられていた彼らがモーセの命令を守り、わざわざ川を渡ってまで同胞イスラエルを助けるために労を惜しまなかったことに対して、深く感謝しました。そして多くの財宝とともに彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕へと帰って行きました。

パウロはピリピ人への手紙の中でテモテの働きについてこう言っています。「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)
自分のことを考えれば、人はばらばらになります。けれども、キリスト・イエスを求めるとき、自分を無にして他の人々のことを考えることができるようになり、そこで思いを一つにすることができるようになるのです。私たちに求められているのは、このキリスト・イエスを求めることです。キリスト・イエスを求めることで一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしたいものです。

Ⅱ.戦いの危機(10-20)

次に10節から20節までをご覧ください。ルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族がヨルダンの東側の自分たちの領地に帰って行ったとき、ある一つの事件が起こります。まず、10~12節までをご覧ください。「10 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。11 イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川のイスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。12 イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。」
ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そのヨルダン川のそばに一つの祭壇を築きました。しかもそれは大きな祭壇で、遠くからも見えるものでした。いったいなぜ彼らはヨルダン川のほとりにそんなに大きな祭壇を築いたのでしょうか。また、そのことがなぜイスラエル民族に戦いをもたらす程の重大な事だったのでしょうか。

13~20節までをご覧ください。「13 イスラエルの子らは、ギルアデの地のルベン族、ガド族、マナセの半部族のところに祭司エルアザルの子ピネハスを送った。14 彼に同行したのは、イスラエルの全部族の中から一族につき族長一人ずつ、計十人の族長であった。彼らはみな、イスラエルの分団の中で一族のかしらであった。15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げた。16 「【主】の全会衆はこう言っている。『これは何事か。あなたがたが今日、【主】に従うことをやめてイスラエルの神の信頼を裏切るとは。あなたがたは自分のために祭壇を築いて、今日、【主】に反逆したのだ。17 ペオルでの不義は、私たちにとって小さなことだっただろうか。私たちは今日まで、あの不義から身をきよめていないではないか。そのために神の罰が【主】の会衆の上に下ったのだ。18 あなたがたは今日、【主】に従うことをやめようとしている。あなたがたは今日、【主】に反逆しようとしている。明日、イスラエルの全会衆に向かって主は怒られるだろう。19 ただし、あなたがたの所有地が汚れているのなら、【主】の幕屋が建つ【主】の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、【主】の祭壇のほかに自分たちのために祭壇を築いて、【主】に反逆してはならない。私たちに反逆してはならない。20 ゼラフの子アカンが、聖絶の物のことで主の信頼を裏切り、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼一人ではなかった。』」」

ここを見ると、なぜ他のイスラエルの部族がそれを問題にしたのかがわかります。それは、ヨルダンの東側のイスラエル人たち、すなわち、ルベン人、ガド人、マナセの半部族が、シロにある幕屋の祭壇ではない祭壇をつくり、自分たちで勝手に、イスラエルの神ではない異なる神にささげものをしようとしていると思ったからです。イスラエル人たちは、自分たちの中に罪があれば、大変なことになることを知っていました。それは彼らだけの問題ではなく自分たちの問題でもあり、イスラエル全体に影響を及ぼすものであると考えていました。ですから、彼らが主に背いて罪を犯すなら、彼らと戦わなければいけないと思ったのです。それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせました。

イスラエル人の偉大さは、そのことを聞いたときシロに集まってルベン族、ガド族、マナセの半部族と戦うために上って行こうとしましたが、すぐに上って行ったのではなく、まずその事実関係を確かめたことです。彼らはまずその調査団をギレアデに派遣しました。その団長はピネハスという人物でしたが、彼は信仰的にも人格的にも大変優れた人物であって、常に神様のみこころを求めていた人でした。私たちは人のうわさ話によってすぐに翻弄されてしまいものですが、こうして事実関係を調べ事実を正しく把握することは極めて重要であることです。

そのピネハスを団長にイスラエルの10の部族から一人ずつ、全部で十人の族長とギルアデの地の彼らのところに出かけて行くと、彼らはルベン族、ガド族、マナセの半部族の人たちに、自分たちが危惧していたことを告げました。それはイスラエルの神に対して不信の罪を犯すことであり、主に反逆していることだと。なぜこのことが不信の罪を犯すことなのでしょうか。なぜなら、レビ17:8~9こう書いてあるからです。「イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。」
シロにおける主の幕屋の祭壇以外のところでいけにえをささげたら、その人は断ち切られる、つまり神にさばかれる、ということです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝すべきであって、どこで礼拝するかは関係ありません。しかし、神は礼拝する場所を定めておられるのです。自分の気持ちや感情、好き勝手なことをすることは、神が喜ばれることではありません。そのようなことは神に不信の罪を犯すことであり、主に反逆することなのです。そうなれば、彼らだけでなく、イスラエル全体に神罰が下ることになります。

彼らはそのようなことをかつて経験していました。17節をご覧ください。ここに、「ペオルで犯した不義」とあります。これはイスラエルの民が荒野で放浪していた時に、モアブの地のペオルでバアルを礼拝したことを指しています(民数記25:1-9)。彼らは偽りの預言者バラムの策略によってモアブの娘たちとみだらな行為をしたことで、彼らが慕っていたバアル・ペオルを慕うようになってしまいました。それに対して主の怒りガイスラエルに対して燃え上がり、偶像礼拝に陥った者たち2万4千人が神罰で死んだのです。それと同じことにならないように、主に反逆してはならないと言ったのです。そればかりではありません。20節には、ゼラフの子アカンが聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に神の怒りが下ったことを示し、それが彼だけでなくイスラエル全体に影響を及ぼしたように、自分たちにも影響が及ぶのではないかと懸念しています。

それなのに、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、なぜこのように大きな祭壇を築いたのでしょうか。21~29節までをご覧ください。ここで彼ららがなぜそのようにしたのか理由が記されてあります。「21 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。22 「神の神、【主】よ、神の神、【主】はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、【主】に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。23 私たちが祭壇を築いたことが、【主】に従うのをやめることであるなら、あるいは、その上で全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げるため、あるいはその上で交わりのいけにえを献げるためであるなら、【主】ご自身が私たちを責めてくださいますように。24 しかし、私たちがこのことをしたのは次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが、私たちの子らに次のように言うかもしれません。『あなたがたとイスラエルの神、【主】との間に何の関係があるのか。25 【主】はヨルダン川を、私たちと、あなたがたルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは【主】のうちに取り分がない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、【主】を恐れることをやめさせるかもしれません。26 私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。27 それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけにえを献げて、主の前で【主】への奉仕をするためです。こうすれば、後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに『あなたがたは【主】のうちに取り分がない』と言うことはないでしょう。28 私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫がそう言われたとしても、私たちはこう言うことができる。『私たちの父祖が造った【主】の祭壇の型を見よ。これは全焼のささげ物のためでもなく、いけにえのためでもなく、私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ』と。29 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、【主】の祭壇のほかに、全焼のささげ物や穀物のささげ物や、いけにえを献げる祭壇を築いて、今日、【主】に反逆して【主】に従うことをやめるなど、絶対にあり得ないことです。」」

彼らが大きな祭壇を築いたのは、あることを恐れたからです。それは、後になってヨルダン川の西側の子孫たちが東側の子孫たちに対して、「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか・・・・。こうしてあなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれない。」と思ったことです。つまり彼らが祭壇を築いたのは、ヨルダンの東側に住んでいるために、将来自分たちの子孫がイスラエルの同胞であることを忘れ去られ、除外されるかもしれないという恐れからであり、そういうことがないように、イスラエル民族の一員であるという連帯のしるしを示そうと思ったからだったのです。だから、この祭壇は自分たちがヨルダンの西側のイスラエル民族と一つであることの象徴であって、決してそこでシロの祭壇と同様の宗教儀式を行うためではありませんでした。東側の人たちにとっては自分たちが善意で良いことだと思ってしたことが、思いもかけず、西側の人々の誤解を受け、危うく戦いに発展するところでした。

時として私たちも、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあります。善意や好意でよかれと思ってしたことが、かえって仇となり悪い結果をもちらしてしまうことがあるのです。その根底にはやはり彼らの中に少なからずうしろめたさがあったのは否めません。彼らが住んでいたヨルダンの東側は放牧地として最適の地でした。多くの家畜を飼っていた彼らにとってその地は都合のよい場所であり、是が非でも手に入れたい場所でした。一方、ヨルダンの西側のカナンの地は山間部が多く、放牧には適していませんでした。そこで彼らは半ば奪い取るようにしてモーセに頼み込み、その地を受けました。つまり、彼らは自分たちの勝手な願い、肉的な願望によって、神に従うよりも、自分たちの願いを優先したわけです。その後ろめたさが不安を呼び起こし、もしかしたら自分たちはイスラエルの選民からも除外されるのではないかという恐れとなって行きました。

私たちも自分の肉的な思いから自分を優先してしまい、その結果、不安と恐れにさいなまれることがありますが、忘れてならないことは、主なる神はそのような失敗をも益に変えてくださるということです。主の十字架の出来事がそのことを物語っています。神のひとり子が十字架で死なれるという出来事は、この人類の歴史の中で最悪の出来事でした。しかし、神はその最悪の出来事を通して、人類に救いをもたらしてくださいました。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。(ローマ8:28)

ですから、私たちは自らの罪のゆえに、また弱さのゆえに、時として間違った行動を起こし、誤った選択をし、そんな中で翻弄されて悩み苦しむことがありますが、この十字架のみもとに行く時、神はそのすべてのことを働かせて益としてくださるのです。確かに、私たちの肉的な選択や人間的な決断は、苦しみをもたらすことになりますが、しかし、神はそれで終わらせないで、やがて大きな祝福へと変えてくださるのです。だから、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあっても、神はそれさえも益に変えてくださると信じて、神に信頼して歩み続けることが大切です。

Ⅲ.神をほめたたえたイスラエル(30-34)

「30 祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。31 エルアザルの子、祭司ピネハスはルベン族、ガド族、マナセ族に言った。「今日、私たちは、【主】が私たちの中におられることを知った。あなたがたが【主】の信頼を裏切らなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの子らを【主】の手から救い出した。」32 エルアザルの子、祭司ピネハスと族長たちは、ルベン族およびガド族と別れ、ギルアデの地からカナンの地のイスラエルの子らのところに帰り、このことを報告した。33 イスラエルの子らはこれに満足した。彼らは神をほめたたえた。そしてもはや、ルベン族とガド族が住んでいる地を滅ぼすために戦をしよう、とは言わなかった。34 ルベン族とガド族はその祭壇に「これは私たちの間での、【主】が神であることの証しだ」と言って名をつけた。」

祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足しました。そして、彼らにこう言いました。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」(31)
主が私たちの中におられる、という言葉はいい言葉ですね。主を愛している者たちの間には、このような誤解や悲劇はよく起こります。意思伝達が上手くいかずそこに誤解が生じて互いに対峙したり、敵対したりすることさえありますが、主がその中にいてくださり、主がその会話を導いてくださると信じて、愛と忍耐をもって和解することに努めていきたいものです。

こうして、ピネハスとその一行はカナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告しました。そこで、イスラエル人はこれに満足し、一つとなって神をほめたたえました。私たちのうちには、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派といった肉の思いがあるために、必ずこのような問題が生じますが、しかし、聖書に書かれてある方法で主にあって語るなら、悪魔に自分の思いをそそのかされることなく、必ず互いに理解し合うことができるだけでなく、そのことを通しても主に栄光を帰することができるのです。

預言者たちについて エレミヤ書23章9~22節預言者たちについて 

聖書箇所:エレミヤ書23章9~22節(エレミヤ書講解説教44目)
タイトル:「預言者たちについて」
前回は、23章1~8節から回復の希望について語りました。ユダの民はバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、神はそこに「残りの者」を残しておかれ、70年にわたる期間の後に元の場所に帰らせてくださるということでした。勿論、これはバビロンからの帰還だけでなく世の終わりにおける回復の預言でもあます。世の終わりに神は世界中に散らされているユダヤ人を再び約束の地に帰らせてくださるという預言です。それが今の時代にも成就していることを思うと、本当に聖書の預言はすごいなぁと感じます。神様はご自分が語られたことを必ず成就してくださるのですから。
今日はその続きです。9節には、「預言者たちについて」とあります。この「預言者たち」とは、にせ預言者たちのことです。ここで神はにせ預言者たちに対するさばきを語られるのです。なぜにせ預言者について語られるのでしょうか。私たちは、その前のところでイスラエルの残りの者について学びましたが、彼らはバビロンへと散らされた人たちでした。なぜ?牧者たちがちゃんと牧場の群れを牧会していなかったからです。彼らは、神の牧場の群れを滅ぼし散らしていました。1節にあるとおりです。そして、この「牧者たち」というのは、具体的には南ユダ王国の王たちのことでした。彼らは、牧場の群れを牧さなければならないのに滅ぼし散らしていたのです。いわばにせの牧者だったのです。ここではそれに対応して、牧者ではなく預言者のことが取り上げられているのです。にせ牧者ならぬ、にせ預言者です。彼らは神が語ってほしことではなく、民が聞きたいこと、民の耳さわりの良いことを語っていました。その結果、ユダはどうなってしまったでしょうか。その結果、北王国イスラエルも南王国ユダも共に滅びてしまうことになりました。ですから、この預言のことばをどう受け止めるかということは、とても重要なことなのです。それは国の将来を決めることになります。今日の箇所には、そのにせ預言者に対して、私たちはどのように対処したら良いかが教えられています。
Ⅰ.酔いどれのようになったエレミヤ(9-14)
まず、9~14節をご覧ください。9~10節をお読みします。「9 預言者たちについて──私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。【主】と、主の聖なることばのために。10 地が姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧場は乾ききる。彼らの走る道は悪で、その力は正しくないことに使われる。」
「私の心」とはエレミヤの心のことです。にせ預言者たちのことで彼の心はうち砕かれ、彼の骨は震えました。このにせ預言者たちの甘いことばにユダの民がすっかり魅了され、惑わされていたからです。その民がエレミヤを嫌い除け者にしていました。なぜなら、彼のことばが厳しかったからです。エレミヤが語ることばが真理のことばだったからです。彼のことばは民の心にグサッと突き刺さりました。神のことば、真理のことばは、人の心に突き刺さります。でも、にせ預言者たちのことばは心に突き刺さるどころか、それは実に耳さわりの良いことばでした。「あなたはそのままいいんですよ」「心配する必要はない」「あなたはありのままで愛されている」と、包み込むような、安心感を与えるようなことばです。そのにせ預言者たちのことばにマインドコントロールされたユダの民は、エレミヤが語ることばに耳を貸しませんでした。耳さわりの悪いことばだったからです。そんなことばは聞きたくない。エレミヤはすっかり嫌われ、孤独を体験していたのです。そのエレミヤの嘆きがこれです。
 「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。」
エレミヤはすっかり打ちひしがれてしまいました。酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになりました。もう立っているのがやっとです。まともに歩くことができません。酔っぱらってフラフラした状態になりました。これは文字通り酒に酔っていたということではなく、自分の力では歩けないほど弱りきっていたというニュアンスです。「主と、主の聖なることば」のことを考えると、あまりにも逸脱したにせ偽預言者たちのことばに、立っていることができないほどのショックと憤りで満たされたのです。
その結果、ユダはどうなったでしょうか。姦通する者で満ちるようになりました。主に背き、偶像を拝む者でいっぱいになりました。また、地はのろわれて乾ききり、作物は実らなくなってしまいました。人々は悪に走り、その力は正しくないことに使われるようになりました。すなわち、不正な力により頼むようになったのです。
11~14節をご覧ください。「11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。──【主】のことば──12 それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──13 サマリアの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。14 エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」」
「預言者」とか「祭司」とは、霊的リーダーたちのことです。彼らもすっかり汚れていました。「わたしの家」とは神の家のこと、つまり、エルサレムの神殿のことです。その神の家である神殿の中にも悪が横行していました。教会も神の家と呼ばれています。世の終わりになると、その神の家である教会にも悪が横行すると言われています。Ⅱペテロ2章1節にこうあります。「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」
「御民の中には」とはイスラエルの中にもということですが、イスラエルの中ににせ預言者が出たように、あなたがたの中にも偽教師が現れるようになります。「あなたがた」とは神の教会のことを指しています。神の教会の中にもにせ教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。何と自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くようになるというのです。異端というエホバの証人とかモルモン教をイメージするかもしれませんが、これはそうした異端のことでありません。ここに「あなたがたの中にも」とあるように、教会の中にそうした偽教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。
その原因を作ったのが2種類のにせ預言者たちでした。それはサマリアの預言者たちとエルサレムの預言者たちです。「サマリアの預言者たち」とは、北王国イスラエルの預言者たちのことです。この時北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされていました。彼らはバアルによって預言し、イスラエルの民を惑わしました。その結果、アッシリアによって滅ぼされてしまったのです。しかし、さらに悪いのがエルサレムの預言者たちでした。「エルサレムの預言者たち」とは、南ユダの預言者たちのことです。北王国の預言者たちはバアルの名によって預言しましたが、南ユダは、主の御名によってかたりましたが、主が語っていないことを預言しました。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせませんでした。 悪を行う者を糾弾するどころか、むしろ、それに加担しそれを助長するようなことをしたのです。
その結果、どうなったでしょうか。12節です。「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──」
それゆえ、彼らは暗闇の滑りやすい道のように、そこで転び、倒れてしまうことになります。これがこの後で起こるバビロン捕囚という出来事です。B.C.586年のことです。南ユダ王国、エルサレムもバビロンによって完全に滅ぼされてしまうことになるのです。
どのような分野でも指導者には大きな責任が伴います。一握りの権力者たちの誤った判断が、国を戦争と破滅に導き、社長の甘い経営判断が、企業を倒産に追い込みます。また、医者の誤った判断が、患者の命を危険にさらします。同じように、預言者や祭司といった霊的指導者の誤った指導が、国全体に混乱と破滅をもたらすことになるのです。 
ところで、ここに、「主のことば」ということばが何回も繰り返して使われているのにお気づきになられたでしょうか。実にこの23章だけで17回も使われています。(1、2、4、5、7、11、12、そして23、24に2回、28、29、30、31、32に2回、33です。なぜこんなにも繰り返して使われているのでしょうか。それは、そこに主の御名で語る者が大勢いたからです。神の御名を利用して語る偽預言者が大勢いたので、真の預言者であるエレミヤは、そうじゃない、これが主のことばであると強調しているのです。たとえそれが耳さわりの悪いことばであっても、これが主のことばだ!と強調しているのです。そして主のことばに従うなら祝福があり、そうでなければのろいがもたらされることになります。主のことばに従わないなら、そこはソドムとゴモラのようになってしまいます。これが主のことばです。エレミヤはそれを強調しているのです。私たちはとかく耳さわりの良いことばには心を開きますが、そうでないことば、たとえば、警告とか忠告といったことばには心を閉ざしてしまう傾向があります。しかし、この主のことばをしっかりと聞かなければなりません。そうでないとかつての北王国や南ユダ王国のようになってしまいます。
Ⅱ.預言を吟味する (15-17)
次に、15~17節をご覧ください。 「15 それゆえ、万軍の【主】は、預言者たちについてこう言われる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。」16 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは【主】の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『【主】はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」」
それゆえ、万軍の主はにせ預言者たちに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。これは神のさばきです。「苦よもぎ」は麻酔としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものです。つまり、彼らが神のみことばを捨て、自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。なぜなら、不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからです。それだけ預言者が語ることばの影響は大きいということです。
16節には、そうした偽預言者たちのことばを聞くなと言われています。なぜなら、彼らはあなたがたを空しいものにしようとしているからです。口語訳と新共同訳聖書では、これを「あなたがたに、むなしい望みをいだかせ、」と訳しています。それは空しい望み、空しい希望です。希望があるかのようでも、そこには実体がありません。ただの気休めのことばにすぎないのです。たとえば、彼らは神を侮る者に対してさえ、「主はあなたがたに平安があると告げられた」としきりに言ったり、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない」とか言っていましたが、それは主のことば、主の御口から出たことではなく、単に自分の心の幻を語っているにすぎません。どうして彼らはこのようなことを語るのでしょうか。聞こえがいいからです。聞く人に喜んでもらえるからです。聞く人が嫌がることは避けようとします。でも真の預言者は聞く人が喜ぶかどうかよりも、その人が主にある真の幸福を得るために、滅びから救い出すメッセージを語るのです。でも、偽りの預言者たちはそうではありません。彼らは主の御口から出たことではなく、自分の心の幻を語るのです。自分の心に浮かんだことやアイディアですね。そういうことを語るのです。
皆さんは聞いたことがありますか。「預言カフェ」というのを。よくマスコミでも取り上げられています。この預言カフェに行くと預言してもらえるのです。私たちから見たらただの占いにすぎませんが、それが正当なプロテスタントの教会のブランチでやっているので、しかもそこには牧師もいるので、神からの導きを受けることができると、みんな安心して出かけて行くのです。あなたは今、どうしたらいいか判断に迷っていませんか。だったら個人預言をしてやりますから予約してください。費用は一切かかりません。但し、席上献金があります。預言をしてもらって感謝したいなら、感謝のいけにえとして献金してくださいというのです。
いったいそれが神からのことばであるかどうかをどうやって判断することができるのでしょうか。それは聖書によってです。それが主の御口によって語られたことばであるかどうかは、神のことばである聖書によって吟味されなければなりません。それが聖書のことばと一致していなければ、それは単なるひとりごとか、その人の心に宿ったただの思い付きにすぎません。いずれにせよ、それが本当に神から出たものなのかどうかは、聖書に照らし合わせて吟味しなければならないのです。それが私たちクリスチャンに与えられた役割であり、責任です。鵜呑みにしてはいけません。
こうした預言には、大きく分けて三つの要素があります。それは神から来たものか、それとも人から来たものか、あるいは、自分の思いでしゃべっているのに、あたかもそれが神からきたかのように錯覚して大胆に語っているかの三つです。神から来た預言とは、このエレミヤのように神から受けた啓示を、そっくりそのまま正確に伝えます。人から来た預言とは、ここでも言われているように、それが神から来たものではないのに、あたかも神から来たものであるかのように語るのです。たとえば、主を侮る者たちに向かって、「主はあなたがたに平安があると告げられた」とか、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない。」というようなことを告げるのです。その方が聞こえがいいからです。そしてもう一つの神からの預言だと錯覚して語るというのは、確かにその人は真の預言者で、大抵の時は大丈夫ですが、急にどこで血迷ったのか、とんでもないようなことを言ってしまうというケースです。そういうこともあります。あんなに立派な説教をする牧師なのに、時々とんでもないことを言うことがあるということが。人間だから、そういう間違いもあります。でも、あの牧師が言うことは間違いないという先入観があると、その牧師が言ったことを鵜呑みにしてしまうことがあるのです。だから吟味しなければならないのです。それが神から来ているのか、人から来ているのかを。にせ預言者は悪霊からきているのでわかりやすいのですが、真の預言者でも時には肉的になることがあります。極めて人間的になることがあるのです。だから私たちは吟味しなければなりません。神のことばだからと鵜呑みにしてはいけないのです。
Ⅰヨハネ4章1節にこう勧められています。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」
霊だからと言ってすべて信じてはいけません。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。にせ預言者がたくさん世に出て来ているからです。
また、Ⅰテサロニケ5章20~21節にもこうあります。「預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。」
  皆さん、預言を軽んじてはいけません。預言とは、神のことばを預かることです。ですから、とても重いことです。ただし、すべてを吟味しなければなりません。すべてを吟味して、良いものを見分けて、本当に良いものをしっかり保たなければなりません。堅く守らなければならないのです。ちゃんと検証するように、ちゃんと吟味するようにということです。もしそれが本当に神からきているものであるならば、必ず神のことばと一致しているはずです。神のことばである聖書は聖霊によって書かれてあるので、それが神の霊、聖霊から来ているならば、必ず聖書の裏付けがあるからです。それは聖書のここに書いてあるから神から来た預言だと証明することができるのです。でも聖書に書いていなければ、あるいは、聖書に書いてあることに反しているなら、それは神からきた預言であるということはできません。それは偽りの預言です。
いずれにせよ、それがどこからきているのかをしっかり吟味しなければなりません。そしてその際の基準になるのが神のことばです。もしそれが神から出たことであるならば、絶対に聖書に相反することはありません。聖書に矛盾するようなことは、聖霊は絶対にしないからです。みことばと聖霊は切っても切り離せない関係があります。だからパウロはこう言ったのです。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。実に聖霊に満たされるとは、みことばに満たされることです。みことばに満たされたら御霊に満たされます。そうすれば、知恵を尽くして互いに教え、戒め、詩と賛美の歌をもって、感謝をもって心から神に向かって歌うことができます。あなたは空しい希望を抱かせられることはありません。空しいものに振り回されることはないのです。
Ⅲ.主との親しい交わりに加わる(18-22)
ですから、第三のことは、主との交わりを大切にしましょう、ということです。18~22節をご覧ください。「18 しかし、だれが、【主】との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。19 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。荒れ狂う暴風が悪者の頭上で荒れ狂う。20 【主】の怒りは、その心の御思いを行って成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る。21 「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。22 わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。」
18節に、「だれが、主との親しい交わりに加わり」とありますが、新改訳第3版、並びに口語訳、新共同訳では「主の会議」と訳しています。「だれが、主との会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」ということです。にせ預言者たちの問題はここにありました。この主との親しい交わりに加わっていなかったことです。そこで、主のことばを見聞きしませんでした。
皆さん、天でも会議があるのを知っていましたか。それは王である神が玉座に着いて、その左右に天の万軍が集まっている会議です。たとえば、Ⅰ列王記22:19~23にその様子が描かれています。イスラエルの王アハブは約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきか、それとも、やめるべきか尋ねますが、イスラエルの預言者たちは皆アハブ王が喜ぶことしか告げなかったので、おかしいと思った南ユダの王ヨシャファテは、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのか」と言うと、ミカヤという預言者が連れて来られました。でもアハブ王は彼があまりすぎではありませんでした。というのは、彼はアハブについて良いことは預言しないで、いつも悪いことばかり預言していたからです。いわゆる、目の上のたんこぶみたいな存在だったわけです。でも、まあそう言わないでミカヤの言うことも聞いてみましょうと言うと、彼はこの天上での会議で見聞きしたことを告げるのです。それは、悪霊は偽預言者を用いてアハブを惑わすというものでした。この時預言者ミカヤは天上で行われていたこの会議に参加していたので、そこで主が語られることを見聞きしたのです。
でも、エレミヤの時代の預言者たちはこの会議に参加していなかったので、主のことばを見聞きしていませんでした。だから、彼らは主が語っておられることがどういうことなのかを知らなかったのです。知らなかったのに走り続けたので、主のさばきを受けることになりました。
22節をご覧ください。もしこの主との親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、主の民に主のことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから、立ち返らせることができたでしょう。でも、そうでなかったので、彼らは預言者としての役割りを果たすことができませんでした。
皆さん、これが最も大切なことです。もし私たちも主との親しい交わりに加わっていなかったら、主のことばではなく自分のことば、自分の心の幻を語ってしまうことになります。イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられました(マルコ1:35)。なぜでしょうか。この会議に加わるためです。父なる神と親しい交わりを持つためです。
詩篇143篇8節にはこうあります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
  この詩篇の作者は、「私はあなたに信頼して祈っていますから」と言っています。彼は、神と交わり、神に期待して祈っていたのです。また、「行くべき道を示してください」と言っています。自分の道、自分の思いではなく、神に信頼し、神の道が示されることを求めて祈りました。このような人に神のみこころが示されないわけがありません。神との親しい交わりに加わり、その中で神のことばを聞き、神に信頼して祈るなら、確かに神はご自身のみこころを示してくださるのです。
すべてのクリスチャンに、福音を伝えるという責任が与えられています。そのために最も重要なことは何かというと、どのように福音を伝えるかということではなく、この主との親しい交わりに加わるということです。そこでみことばに耳を傾け、御霊の声を聞くことを学ぶことです。どんなに不評を買っても、神のことばを真っ直ぐに伝えなければなりません。
パウロは、若き伝道者テモテにこう書き送りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-5)
世の終わりが近くなると、人々は健全な教えに耳を傾けなくなったり、自分に都合がいいようなみことばを聞こうと、自分の好みにしたがって教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになります。けれどもそれに屈してはいけません。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと、パウロはテモテに命じたのです。そのためには、私たちがいつも主の会議に連なること、主との親しい交わりに加わり、主との親しい交わりの中で、主のことばを聞かなければなりません。
最近、アメリカのカリフォルニア沿岸のモントレーという浜に、ペリカンの天国があったという話を読みました。漁師たちは網にかかった小さな魚をその浜に捨てていたので、それがペリカンのえさになり、大量のペリカンが集まっていたのです。そこにいたペリカンたちは、何の苦労もなくえさが食べられるので、魚を捕まえる方法を徐々に忘れていきました。しかし、いつからか漁師たちが捨てた小さな魚が商業用に利用されるようになると、えさにしていた魚がなくなってしまいました。しかし、ペリカンたちは相変わらず、捨てられた魚を求めて浜をさまよいました。時間が経つと、ペリカンは1羽、2羽と死に始めました。そこで漁師たちはペリカンたちを助けるために、別の場所にいる自らえさを探すことができるペリカンを連れて来て、放しました。新しくやってきたペリカンは、海に放たれると上手にえさを取り始めました。この姿を見たモントレーのペリカンも必死に飛び回って、えさを取り始めたのです。
このペリカンの話は、誰かが投げてくれたえさに慣れてしまい、自らたましいの糧を求めようとしない、今日の私たちの姿を物語っています。キリスト教は、みことばの宗教、聖書の宗教であるともいえます。モントレーのペリカンのように、1週間に1度投げてもらえるみことばを食べることに満足していないか、自分自身を振り返ってみなければなりません。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(コロサイ3:16)主との親しい交わりに加わる、これが真の預言かにせ預言かを吟味するために必要なことであり、真理のみことばをまっすぐに解き明かすために必要な鍵なのです。

ヨシュア記21章

2023年8月23日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:ヨシュア記21章

 

 きょうは、ヨシュア記21章から学びます。

 

 Ⅰ.執り成すことの大切さ(1-7)

 

まず1~7節までをご覧ください。「21:1 レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、21:2 カナンの地のシロで彼らに告げた。「【主】は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」21:3 イスラエルの子らは【主】の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。21:4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。21:5 エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。」


 「そのとき」とは、ヨシュアが主の命令に従ってイスラエル人に「のがれの町」を定めるようにと命じたときのことです。そのとき、レビ人の一族のかしらたちが祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、ある一つの願い事をしました。その願いというのは、自分たちの住む居住地と家畜を飼うための放牧地を与えてほしいということでした。この要求は民数記35章において、すでにモーセがレビ人たちに与えていた要求に基づくものでした。レビ人はかつてイスラエルが荒野を放浪していた時に、イスラエルの民が不信仰に陥り、金の子牛を作って偶像礼拝した時でもモーセの命令を守り、またモーセに従って決して偶像礼拝に走らなかった民です。その結果、神はこのレビ人を祝福し、祭司をはじめとした聖なる仕事に携わるように選ばれました。それ故レビ人は聖なる部族なのです。したがってこの部族は神から直接に養われるべく相続地を持っていませんでしたが、イスラエルの民への相続地の分割が終わった時に自分たちの居住地と放牧地を与えてほしいと申し出たのです。

 このレビ族には大きく分けて、三つの部族がありました。ゲルション族、コハテ族、メラリ族です。これは彼らの父祖レビの三人の子供の名前に由来します。長男がゲルションであり、次男がコハテ、そして三男がメラリでした。これらの三つの氏族に対する領地の分割を見ていくと、6節にゲルション族は13の町を与えられ、コハテ族には23の町が(4-5)、そしてメラリ族には12の町が与えられました(7)。

 ところで、レビの長男はゲルションなのに、このゲルションよりも次男のコハテ族の方が先に、しかも多くの領地が与えられていることに気づきます。ゲルションが13の町、メラリ族には12の町しか与えられなかったのに、コハテ族には23もの町が与えられているのです。いったいどうしてコハテ族の方が優遇されたのでしょうか。

 その理由については、4節に少しだけ説明されています。それは、彼らがアロンの子孫であったからです。しかし、アロンの子孫であるからというだけで、なぜこのように優遇されたのでしょうか。実はアロンの弟モーセもまたコハテ族であるのに、そのモーセについては何も言及されておらず、ただアロンの子孫であることが強調されているのです。旧約聖書を見るとモーセこそイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地に導いた偉大な預言者です。アロンはいつもそのモーセの陰に隠れていてあまり目立たない人物でした。それどころか、アロンは指導者として相応しくない優柔不断な面もありました。そうです、モーセがシナイ山に登り、なかなか降りて来なかった時に、待ちくたびれた民が偶像礼拝に走っていったのにそれを止められなかったばかりか、自分が先頭に立ってそれを導きました。アロンにはそうした弱さがあり目立たない人物であったのに、ここにはモーセのことについては何も触れられておらずただ祭司アロンの出身氏族であったことだけが述べられているのです。これはどういうことでしょうか。それはこのアロンが祭司であったがゆえです。アロンは決して偉大な人物ではありませんでしたが、祭司であったというこのただ1点において、コハテ族が優遇されたのです。いったいこのことはどんなことでしょうか。

 そもそも祭司とは何でしょうか。旧約聖書には預言者という人物が出てきます。預言者は神の言葉を語り、民はその言葉を聞いて悔い改めるわけです。それに対して祭司はあまりぱっとしません。むしろ地味で、日常的な人物が祭司です。また祭司は預言者のように民の罪を指摘して悔い改めを迫るということはしません。むしろ神と民との間に立って犠牲をささげ、民のためにとりなして祈るのです。祭司は預言者のような激しさや厳しさはありませんが、にもかかわらず、罪深く弱い私たち人間にとっては、不可欠な仲保者としての役割を持つのです。

 コハテ族はこの祭司職であったアロンの直系であったがゆえに、特別に重んじられたのです。そして、この祭司一族は単に居住地を多く受けたというだけでなく、イスラエル12部族によってささげられた生産物の十分の一の、そのまた十分の一を得ることが許されたのです。このアロンの一族は極一握りであったことを考えると、いかに彼らが優遇されていたかがわかります。それは、彼らが神と民との間に立って、それを執り成す務めがゆだねられていたからです。

 このことから、執り成すという働きが、私たち人間にとっても、きわめて重要な意味を持っていることがわかります。Ⅰペテロ2章9節には、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」とあります。クリスチャンにはみな、この祭司の務めがゆだねられているのです。私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるために、神とこの世の人々を執り成すという務めです。とりわけ牧師には、この務めがゆだねられています。牧師には神の言葉を語るという預言者的な側面もありますが、基本的には、神の祭司としてとりなす者でなければなりません。カトリック教会や聖公会では牧師を司祭と呼ぶのは興味深いことだと思います。祭司としての務めを司る者という意味があるのでしょう。それは牧師も同じであり、すべてのクリスチャンにも言えることです。私たちはみな司祭(祭司)なのです。そのすばらしい務めをゆだねられた者として、これを全うしていかなければなりません。

聖書には、イエス・キリストのことが祭司と呼ばれています。へブル人への手紙の中には、「私たちの大祭司」とあります。イエス様は預言的な務めもされましたが、それ以上に大祭司として、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださいました。ご自分の身も心もすべて犠牲にしてささげ、私たちのためにとりなしてくださったのです。そればかりか、この大祭司であられるイエス様は、今もなお天で私たちのためにとりなしておられます。そのとりなしのゆえに、私たちのすべての罪は赦され、立ち上がり、生きることができるのです。このことのゆえに、私たちも他者のためにとりなす者となっていきたいと思います。ただ口先だけでなく、行動をもって、人々のためにとりなしの業に励もうではありませんか。

Ⅱ.イスラエルの居住地とのがれの町(8-42)

次に、8~42節までをご覧ください。「21:8 イスラエルの子らは、【主】がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。21:9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。21:10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。21:11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。21:12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。21:13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、21:14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、21:15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、21:16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。21:17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、21:18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。21:19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。21:21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、21:22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。21:23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、21:24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。21:25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。21:26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。21:27 レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。21:28 またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、21:29 ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。21:30 またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、21:31 ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。21:32 またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。21:33 ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:34 レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、21:35 またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。21:36 またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、21:37 ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。21:38 ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、21:39 ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。21:40 これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。21:41 イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。21:42 これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。」

ここには、1~7節までの記述を受けて、レビ族に対する居住地と放牧地がくじによって与えられたことが列挙されています。彼らの町は一つのところに集まっておらず、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっていることがわかります。これを地図で見ると、のがれの町と同じように、イスラエルの土地全体に、広がっているのを見ることができます。また、20章において定められたあの6つののがれの町が、彼らの居住地に置かれていたこともわかります。このことは何を表しているのでしょうか。イスラエル全体に、レビ人たちの霊的奉仕の影響が、まんべんなく広がっていたということです。レビ人たちの霊的奉仕とは何でしょうか。それは、神に仕え、神と人との間の仲介者として、とりなしをすることです。言い換えるならば、彼らの役割は、人々にもう一度やりなおす機会を与えることであり、そのために励ましを与え立ち直らせていくことです。これは単に聖職者であるレビ人だけにゆだねられた務めではなく、私たちの教会にもゆだねられている務めでもあります。イエス・キリストはご自身のからだを通して贖いの御業を成し遂げられました。そしてこの世を罪から救い、この世のさまざまな束縛から解放し、また癒されました。教会はキリストの体としてこのキリストの贖いの御業を継承し、この地上において実現していくという役割が与えられているのです。罪を犯した者、失敗した者、悪魔の手にある者たちをもう一度引き上げて、やり直しさせていくという務めがゆだねられているのです。

Ⅲ.神の約束は一つもたがわずみな実現する(43-45)

最後に、43~45節をご覧ください。「21:43 【主】は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。21:44 【主】は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。【主】はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45 【主】がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」

レビ族に対する居住地並びに放牧地の割り当てが成され、これを以って、イスラエルの12部族すべての相続地の割り当てが完了しました。それはかつて主がイスラエルの家に約束されたことであり、主はその約束したとおりのことをしてくださいました。主は、イスラエルに約束したすべての良いことを、一つもたがわずみな実現したのです。これだけを見ると、何もかもめでたし、めでたしであるかのようなイメージがありますが、この後の士師記を見ると、イスラエルのパレスチナの占領は必ずしもこれで終わったわけではなかったことがわかります。イスラエルのカナン人に対する戦いは継続して行われていて、戦いに次ぐ戦いの連続なのです。特に士師記3章を見ると、占領すべき地がまだたくさんあったことが明記されています。ということは、この箇所は、事実に反する記述をしているということなのでしょうか。

そうではありません。確かに、まだ占領すべき地はたくさん残っていましたが、神の側から見ればすべては完了していたということです。つまり、これは事実的描写ではなく、信仰的描写なのです。実際にはまだそうではなくとも、信仰的にはもうすでに完了していたのです。主なる神の側においては、この時点において一切合切その通りに成ったのです。このように、信仰とは実に、この神の側での完成を受け取り、その上で私たちが最大限の努力を成していくことであるということがわかります。時としてそのように努力していく時、事が成就するどころかむしろ逆の方向に進んでいくような場面に遭遇することがあります。神が約束を反故にされたのではないかと思えるような事態に対して、私たちはなぜこうなってしまったのか、主は確かにみことばを通して私に語ってくださったはずではないか、あれはただの思い違いであったのかと悩むことがあります。時にはそのことで不信仰に陥ってしまうことさえあります。実はこの時が肝心です。神は約束してくださったことを必ず実現されますが、時としてそれとはまったく逆の事態に遭遇することがあるのは、それが本当に神のみこころなのかどうかを吟味するためであり、むしろ、そのことをバネにして、さらに大きく飛躍するためでもあるのです。丁度、私たちがジャンプをする前に、一旦、屈むようなものであって、大きくジャンプをしようとすればするほど、身を低くしなければならないのと同じです。

ですから、そうした見せかけの困難に騙されてはならないのです。主が約束されたことは、決して変わることなく、事態がまったく違う方向へ向かって進んでいるように見える場合にも、必ず実現するのです。逆風はより素晴らしい成就に至るために通るべき試練なのです。

大切なのは、神はみことばを通して私たちにどんなことを約束してくださったかということであり、それは必ず実現すると信じることです。困難があるのは、神の御力は私たちが考えているよりもはるかに大きく、高く、広いということを示すためであり、私たちの信仰を取り扱ってくださるためであって、神の側ではもうすでにみな実現していることなのです。主がイスラエルに約束されたすべての良いことは一つもたがわず、みな実現したように、神があなたの人生に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現するのです。私たちの目ではそれとは逆に進んでいる現実を見て落ち込むことがありますが、神の目をもって物事をとらえ、一つもたがわず、みな実現したことを信じて前進させていただきましょう。

朝のこない夜はない エレミヤ書23章1~8節朝のこない夜はない 


聖書箇所:エレミヤ書23章1~8節(エレミヤ書講解説教43目)
タイトル:「朝のこない夜はない」
エレミヤ書23章に入ります。きょうは「朝のこない夜はない」というタイトルでお話します。これは、小説家の吉川英治(1892~1962)が言ったことばです。「朝のこない夜はない」、今日の箇所は、まさにこのことばに集約されるような内容です。
私たちはこれまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、そのほとんどがさばきのメッセージで、とてもヘビーな内容でしたが、そんな中にも例外的に希望のメッセージが語られたことがあります。それは、3章16~18節の終わりの日の回復の預言です。そして今日の箇所にもその希望のメッセージが語られています。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいでしょう。預言者エレミヤはここでさばきのメッセージを語るだけでなく、神にある希望を語り、ご自身の民を励まします。朝のこない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではなく、いずれ必ず回復するのです。
Ⅰ.主の群れの残りの者(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。
「23:1 「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──【主】のことば。」23:2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる。「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰する──【主】のことば──。23:3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──【主】のことば。」
1節に「わたしの牧場の群れ」とあります。「わたしの牧場の群れ」とは、南ユダ王国の国民のことを指しています。その国民の上に立つのが「牧者たち」です。「牧者」というと今で言う教会の牧師のことを連想する方も多いのではないかと思いますが、もともとは指導者全般を表す言葉でした。文脈によってそれが王たちであったり、預言者や祭司たちといった霊的指導者であったりしますが、ここでは22章で取り上げた南ユダ王国の最後の4人の王たちのことを指しています。それは、エホアハズ、エホヤキム、エコンヤ(エホヤキン)、そしてゼデキヤのことです。彼らは主の羊の群れを守り、養なわなければならなかったのに、追い散らしていました。牧者が羊を養わなかったらどうなるでしょう。羊はやせ衰えて死んでしまいます。南ユダはそのような状態だったのです。
しかし、私たちの真の牧者であられる主イエスはその逆で、追い散らした群れの残りの者を集めてくださる方です。3節と4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。」
ここに「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧者に帰らせる。」とあります。これが3章16~18節でも語られたいた希望のメッセージです。主は、ご自身の残りの者を、追い散らしてすべての地から集め、元の牧者に帰らせてくださいます。これは「残りの民」という思想です。これはエレミヤ書全体で19回使われています。英語では「remnant」(レムナント)と言いますが、神学用語になっています。これはどんなに罪深い社会にあっても、主は必ず残りの者を残しておられるという思想です。どんなに神に背き、神から離れ、腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を残しておられるのです。
使徒の働き18章には、パウロがコリントで伝道した時の様子が記録されていますが、それは激しい迫害が伴いました。果たしてイエス様を信じる人がこの町にいるだろうかという不安と恐れの中にいたとき、主はある夜、幻によってパウロに語られました。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)
そこでパウロはそこに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたところ、幾人かの人たちが信仰に入りました。これが「レムナント」、「残りの民」です。神はどんなにご自身に背いているような腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を必ず残しておられるのです。
実際、このあとバビロンがやって来て南ユダは壊滅されてしまいます。住民は皆、バビロンへと引き連れて行かれていくわけですが、神様はその中にもわずかながらこの残りの者を残しておられました。70年間のバビロン捕囚の帰還が終わった時、そのわずかな残りの者が再びエルサレムに帰って来て、もう一度エルサレムを再建し始めるのです。それが3節にある預言です。エレミヤがこの預言を語った時はまだバビロンに捕えられ移されていませんでした。しかし、それは必ず起こるし、避けられないことでした。でもその70年後に主はその中の残りの者を再び集め、元の牧場に帰らせると約束してくださったのです。そこで彼らは多くの子を生んで増えるようになると。
皆さん、朝の来ない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではないのです。いずれ必ず好転します。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいくらいです。
実際、70年のバビロン捕囚後に約5万人がエルサレムに帰ることができました。バビロンに捕らえ移されたユダの民は約200万でしたから、それは本当にわずかな人たちでした。彼らはこの神のことばを信じていたので、エルサレムに帰り、神の都を再建しました。でも大抵の人たちは帰らないでバビロンに残りました。今さらエルサレムに帰っても意味がない。ここには家族もいれば、仕事もある。確かに生活は楽ではないが、何とかそれなりに生きて行くことが出来る。エルサレムに帰るよりもここにとどまっていた方がずっと良いと思ったのです。それが普通の考えかもしれません。でも、残りの者たちはそうではありませんでした。彼らはバビロンに築き上げたすべてのものを捨てて、神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めてエルサレムに帰って来たのです。
それは私たちも同じです。私たちは約束の地を受け継ぐようにと神によって選ばれた残りの者です。そんな残りの者に求められていることは、アブラハムが神から召しを受けたとき、どこに行くのかもわからなくても信仰によって出て行ったように、彼は神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めて出て行くことです。

Ⅱ.主は私たちの義 (5-6)
次に、5~6節をご覧ください。しかし、祝福の預言はそこで終わっていません。さらにその先のことが語られます。 「23:5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。23:6 彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。」
「見よ、その時代が来る。」これは預言書の中のキーワードの一つです。「その日」とか「その時代」とは、世の終わりの時を指し示している言葉です。そのとき、主はダビデに一つの正しい若枝を起こします。これは、ダビデ王家に正しい王を起こすということです。これまでの王たちは、ダビデ王家の血筋を持ちながらも正しくありませんでした。彼らは公正と正義を行わないで、自分のやりたい放題、好き勝手に振る舞っていました。
しかし、世の終わりに来られる真の王は、この地に公正と正義をもたらされます。6節にあるように、彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになるのです。その方は「主は私たちの義」と呼ばれます。その名はエホアハズではありません。エホヤキムでもない。エホヤキンでもなく、ゼデキヤでもありません。その名は、「主は私たちの義」です。この王は、公正と正義を行い、ありとあらゆる腐敗を是正されるのです。そのお方とは誰でしょう。そのお方こそやがて来られるメシヤ、救い主イエス・キリストです。そうです、ですからこれはメシヤ、救い主イエス・キリストがやって来られることを預言していたのです。5節に「ダビデに一つの正しい若枝を起こす」とありますが、これもそうです。これもやがて来られる救い主のお名前です。その名は「正しい若枝」です。これもイエス・キリストのことを預言していました。世の終わりに主はダビデの家系から一つの正しい若枝を起こし、彼が王となって治め、栄えて、この地に公正と正義を行うのです。その時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになります。そのお方は「主は私たちの義」と呼ばれるようになります。そのお方とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。
キリスト教に異端と呼ばれるグループがありますが、その一つにエホバの証人というグループがあります。そのエホバの証人にとってこれは都合の悪い箇所です。というのは、エホバの証人は、主とは父なる神のことだと考えているからです。しかし、ここでは明らかにこの「主」(ヤハウェ)とはやがて来られるメシヤ、救い主、すなわちイエス・キリストのことを指して言われているからです。そのイエス・キリストがここでは「主」「ヤハウェ」と言われています。エホバとヤハウェは同じです。そして、この「一つの正しい若枝」とはエホバではなくイエス・キリストのことであり、そのイエス・キリストが「主」、「エホバ」、「ヤハウェ」と呼ばれているのです。「主は私たちの義」、「エホバは私たちの義」だと。
皆さん、主が私たちの義です。私たちが義なのではありません。義なるお方は主イエス・キリストなのです。イザヤ64章6節にこうあります。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」
皆さん、私たちはみな、汚れた者のようです。私たちの義、私たちの義、私たちの行いはみな、不潔な衣のようなのです。神様の目にはそのようでしかありません。ローマ3章10~12節にはこうあります。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」 義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となりました。でも、主が私たちの義となってくださるのです。
Ⅱコリント5章21節を開いてください。ここにこうあります。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
アーメン!神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。これが良い知らせです。グッド・ニュースです。私たちの義は、神の目には不潔な着物でしかありませんが、神は私たちをイエス・キリストにあって義としてくださいます。ですから、ローマ8章1節にこのように約束されているのです。 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
アーメン!すばらしいですね。私たちの罪が罪のない方、イエス・キリストに転嫁されたので、私たちの罪は贖われて罪のない者とされました。罪が贖われるために必要なのは罪のない方の代価ですが、この地上にはそんな人など一人もいませんから絶望しかありませんが、しかしキリストは違います。イエス・キリストは人となられた神であり、全く罪のない方ですから罪を贖うことができるのです。私たちの罪を贖うことができるのは、ただ一人、人となられた神、イエス・キリストだけです。イエス・キリストだけがあなたの罪を贖うことができます。だから、聖書はこう言っているのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
  私たちは、このイエス・キリストによって神の義とされました。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。今、私たちは神の目には義と認められました。私たちがどんなに汚れていても、このイエス・キリストによって聖なる聖なる聖なる神の御前に立つことができるのです。主イエス・キリストが罪を贖ってくださったから。主は私たちの義であられる方なのです。
ところで、この預言は、最終的には終末の時代にイエス・キリストの再臨によって成就するものです。今から二千年前にキリストは救い主として到来しましたが、これはその時のことではなく、私たちもまだ経験していないキリストの再臨の時に成就することです。英語では、二千年前の到来をFirst Comingと言い、世の終わりの再臨をSecond Comingと言います。このSecond Comingによって成就する預言です。イエス・キリストは、今から二千年前に私たちを罪から救う救い主としてこの世に来られましたが、世の終わりには、この世をさばくために来られるのです。腐敗していた南ユダを裁くために神がご介入されたように、この世の終わりにも、腐敗したこの世界を裁くためにご介入されるのです。具体的には、王の王、主の主と呼ばれるキリストが来られて、神の国をこの地上に樹立してくださいます。それが千年王国と呼ばれているものです。主は再びこの世に来られるとき、すべての悪を一掃され、悪によって壊滅状態になってしまった地球をあの天地創造の時のように再創造されるのです。この地球全体があのエデンの園のように回復するのです。そして私たちはキリストとともにこの地球を千年間治めるようになるのです。復活のからだをもって。これが私たちの真の希望です。やがてその時がやって来ます。今はイエス様を信じて罪が贖われ、神に義と認められましたが、この世にあっては患難があります。不条理なこと、理不尽なことがあって、悩みは尽きないわけですが、やがてダビデの王家から出る一つの正しい若枝によって、すべてが正しくさばかれる時がやって来ます。それが私たちの真の希望です。私たちはここに希望を置かなければなりません。そして、この地上での様々な問題をただしく裁かれる主にゆだね、主が私たちの義となってくださったことを感謝し、この主にすべてをお委ねしたいと思うのです。
Ⅲ.ここに希望を置いて(7-8)
ですから、第三のことは、ここに希望を置きましょうということです。7節と8節をご覧ください。「23:7 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた【主】は生きておられる』と言うことはなく、23:8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた【主】は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、「イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられる」と言って、自分たちの土地に住むようになります。どういうことでしょうか。
これは、16章14節、15節で語られたことと同じ内容です。出エジプトの出来事は、エレミヤの時代から遡ること900年も前の出来事ですが、それはイスラエルがエジプトの支配から解放されたすばらしい主の御業です。それはイスラエルの歴史においては偉大な神の救いの御業を語る象徴的な出来事で、イスラエルはこの出来事を忘れることがないように過越の祭りを祝うことによってその子孫に語り伝えてきました。それは、イスラエルの歴史における最大の出来事と言っても良いでしょう、その出エジプトの出来事が、そのときには、もはや人々は、主は生きておられるということはないというのです。なぜなら、もっとすばらしい主の御業が行われるからです。それが第二の出エジプトと言われるバビロン捕囚からの解放です。この「北の地」はそのバビロンのことを指しています。北海道のことではありません。そのバビロンからの解放の御業があまりにもすばらしいので、そのとき、もはや人々は、イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、イスラエルの末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられると言って、自分たちの土地に住むようになるというのです。
しかし、実はこれはバビロン捕囚からの解放の預言だけでなく、今も、またこれからも、最終的には終末において起こることの預言でもあります。実際に、今も世界中に散らされているユダヤ人が祖国イスラエルに帰還しています。A.D.70年にローマの将軍ティトスによって破壊され、世界中に散らされたユダヤ人は、この預言の通り、散らされたすべての地から彼らを上らせ、何と1948を年にイスラエル共和国として独立を果たしました。考えられないことです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が、ユダヤ人というアイデンテティーを失うことなく守られ、自分たちの土地に戻ってくるようになるなんて考えられません。でも、神はご自分が語られた通りにしてくださいました。そしてそれは今も続いています。今も毎年毎年大勢のユダヤ人が世界中から自分たちの土地、約束の地に帰還しているのです。ということはどういうことかというと、今は世の終わりに限りなく近いということです。もうすぐそこまで世の終わりが来ています。そして、神が語られたことは100%成就するということです。バビロン捕囚から帰還して自分たちの土地に住むようになると約束してくださった主は、遠い未来においても、この約束を成就してくださるということです。つまり私たちの神は、このユダの民をバビロンから解放したように、あなたにも解放の御業を成してくださるということです。
中には、そんなことが私の人生に起こるはずがない、考えておられるかもしれません。ほとんどの人がそう思っているかもしれない。それは聖書の話であって、遠い中東で起こった昔ばなしにすぎないと思っているかもしれません。でもそうではありません。聖書の神は同じ神です。いつまでも変わることのない永遠の神です。出エジプトの時代にイスラエルをエジプトから解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださいます。バビロン捕囚から解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださるのです。さすがに現代には神様をもってしても解決できない問題がある。これは複雑すぎるだろうと考えておられるかもしれませんが、バビロンから解放してくださった主は、今も同じ力をもって働いておられるのです。あなたは、あまりにも神を過小評価しすぎています。イスラエルをエジプトから救い出された神は、あなたにも出エジプトさせることができます。イスラエルをバビロンから解放してくださった神は、あなたを縛るあらゆる問題からも解放することができるのです。もしあなたが神に叫ぶなら、神はあなたの叫びに耳を傾けてくださり、第二のモーセと言われるイエス・キリストをあなたのために解放者として立ててくださるのです。イエス・キリストによって私たちは、今も救われ続けるのです。イエス・キリストによってあなたも出エジプトできるようにしてくださるのです。
イスラエルの民は、神の小羊として過越しの小羊の血をほふり、それを家のかもいと門柱に塗ることで神のさばきを免れて出エジプトが出来ました。同じように、あなたがあなたの心に子羊なるキリストの血を塗るなら、あなたも神の裁きを免れて、出エジプトすることができるのです。エジプトを出て救われ、神の助けをいただいて、約束の地へと導き入れられるのです。そしてそこで、私たちをそこへ上らせた主は生きておられると言って主をほめたたえ、その土地に住むようになるのです。それはイスラエルという約束の地よりもはるかにすばらしい、乳と蜜の流れる本当に素晴らしい神の国です。その神の国へと導かれて行くのです。ハレルヤ!
これはファンタジーでも何でもありません。これは聖書の預言であり、神の約束です。かつてイスラエルの歴史に起こった出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放という出来事は、歴史の事実です。その事実は、私たちの救いの物語のひな型になっているということです。来るべき救い主のひな型になっています。来るべき救い主はどのようなお方なのか、どのようにして私たちを罪の奴隷から解放して約束の地に導いてくださるのか、そのひな型となっているのです。そして、それが聖書の中に預言されていて100%その通りに成就したということは、これから先のことにおいても成就するということ、実現するということを物語っているのです。私たちはやがて聖書にある通りにイエス・キリストが再臨されるそのとき、死者の中からよみがえり、あるいは、まだ死なないで地上に生き残っているなら、そのまま空中に挙げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが私たちの慰めであり、真の希望です。たとえこの世がどんなに暗くても、私たちには、このような希望の光が与えられているのです。
「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)
「これらのことば」こそ、やがて来るべきキリストの再臨のことです。これらのことばが私たちの真の希望です。これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。これらのことばから目を離さないようにしましょう。やみの中に輝いている真の希望をもって、この世の終わりの時代を生きて行きましょう。ここに真の慰めと希望があるからです。

ともしびは消されなかった エレミヤ書22章20~30節ともしびは消されなかった 

聖書箇所:エレミヤ書22章20~30節(エレミヤ書講解説教42回目)
タイトル:「ともしびは消されなかった」
前回は、エレミヤ書22章前半から「人生の目的を知る」というテーマでお話しました。きょうは、22章後半から「ともしびは消されなかった」というタイトルでお話します。
Ⅰ.若い頃からのあなたの生き方(20-23)
まず、20~23節をご覧ください。
「22:20 「レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。あなたの恋人たちがみな、砕かれたからだ。
22:21 あなたが平穏であったときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。
22:22 あなたの牧者たちはみな風に追い立てられ、あなたの恋人たちは捕らわれの身となって行く。そのとき、あなたは自分のすべての悪のゆえに、恥を見、辱めを受ける。
22:23 レバノンの中に住み、杉の木の中に巣ごもりする女よ。あなたに陣痛が、産婦のような激痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」」
20節の「あなたの恋人たち」とは、南ユダと同盟関係にあった近隣諸国のことです。南ユダは主なる神とパートナーにならないで、近隣諸国とパートナーになりました。この世とつり合わぬくびきを負ったのです。その結果どうなりましたか?その結果、その恋人たちはみな、粉々に砕かれてしまいました。ここでは、それを、「レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。」と命じられています。「レバノン」とは、エルサレムから見て北方にある高い山々のことです。「バシャン」は、ガリラヤ湖の北東にある高原地帯です。そして「アバリム」とは、ヨルダン川の東にある山々です。そうした地域に行って叫ぶようにというのです。つまり、あらゆる所に行って叫べというのです。あなたの恋人たちがみな砕かれたということを。これは、具体的には、バビロンによって滅ぼされることを示しています。そうした近隣諸国はバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として引き連れて行かれることになるのです。22節の「あなたの牧者たち」とは、国の指導者たちのことです。彼らもまた捕囚の民として連れて行かれることになります。
23節にある「レバノンの中に住み」とは、エルサレムの住民のことを指しています。彼らがバビロンに捕囚の民として引き連れて行かれるようになったのは、21節にあるように、彼らが平穏であったときに、主が彼らに語り掛けたのに、彼らが「私は聞かない」と言って主のことばを退けたからです。聞く耳を持ちませんでした。そして、主なる神以外の偶像や近隣諸国に頼り、それらを自らの恋人としたのです。これが若いころからの彼らの生き方でした。つまり、彼らは若い時からずっと不信仰であったということです。あなたはどうでしょうか。
私たちもうまくいっている時、平穏な時、繁栄している時、順風満帆なとき、何不自由のない生活をしている時は、そのようになりがちです。神様があなたに語りかけても、「私は聞かない」と言って主のことばを退けようとするのです。そういう時、神様は何をなさいますか。あえて試練を与えるようなことをなさいます。試練が与えられて初めて目が覚めるようになるからです。ようやく神様に目が向くようになります。そして、神の声に耳を傾けるようになるのです。ですから、詩篇の作者はこう言ったのです。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇 119:71)
苦しみはできたら避けて通りたいものです。苦しみが与えられてうれしい人など誰もいません。それなのになぜ神は試練や苦しみを与えられるのでしょうか?それは、そうした試練や苦しみを通して私たちが自らの限界を悟り、神に向くようになるからです。その時、はじめて神のことばがただ頭だけでなく体験として知るようになります。神を知るとはそういうことなのです。
平穏な時でも神はあなたに語りかけてくださいました。何も語っていなかったのではありません。何度も語っておられました。それなのに、あなたは聞きませんでした。「私は聞かない」と言って。だから聞こえなかったのです。仕事が順調だったからです。特に問題がなかったからです。万事うまくいっていると思っていました。でも、試練に直面してようやく気付かされました。自分は神のことばを全然聞いていなかったということを。それでようやく神の声に耳を傾けるようになったのです。初めて神のことばをもっと知りたいと思うようになりました。試練に直面して初めて、神のことばが今までとは違って心に迫るようになったのです。何度も何度も読んだはずなのに、なぜかみことばが心に響くようになりました。平穏な時には気付かなかったのに、試練に直面して初めて理解できるようになりました。まさに、苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。それによってあなたのおきてを学ぶようになるからです。
それなのに、彼らは神の声を聞きませんでした。その結果、彼らはどうなりましたか。彼らは大きな苦悩を経験するようになります。23節に「あなたに陣痛が、産婦のような激痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」とあります。それは産婦に激痛が襲うような苦しみでした。バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼすことになります。そして、捕囚の民として連れて行かれるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの人生に試練や困難が襲うとき、あなたは何に信頼していますか。目に見えない神に信頼していますか、それとも、この時のイスラエルのように近隣諸国と同盟を結んで安全を確保しようとしますか。現実の問題を抱えた時こそ、本当の意味で信仰が試される時でもあります。イスラエルの民は常に後者の道を選んでいました。彼らは神ではなく恋人たちに信頼したのです。それが彼らの生き方でした。その結果、彼らの恋人たちはみな打ち砕かれ、捕らわれの身となって連れて行かれることになってしまったのです。
平穏な時から、あなたの人生が順風満帆の時から、あなたの人生が繁栄している時から、神の声に聞き従うべきです。何かがあったからではなく、何もない平穏な時こそ主のことばに聞き従う時です。また、こうした危機に直面したとき、それはあなたの信仰を発揮する良い機会であると信じて、その試練の中ですべてを働かせて益としてくださる神を見上げなければなりません。ローマ8章28節にある通りです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28新改訳改訂第3版)
Ⅱ.右手の指輪を抜き取られた王(24-27)
次に、24~27節をご覧ください。「22:24 「わたしは生きている──【主】のことば──。ユダの王、エホヤキムの子エコンヤは、わたしの右手の指輪の印ではあるが、わたしは必ずあなたを指から抜き取り、22:25 あなたのいのちを狙う者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカドネツァルの手、カルデア人の手に渡し、22:26 あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。22:27 彼らが帰りたいと心から望むこの地に、彼らは決して帰らない。」」
ユダの王エホヤキムの子「エコンヤ」に対するさばきの宣告です。エコンヤは、別名「エホヤキン」と言います。彼は、B.C.598年に18歳で南ユダの王に即位しました。しかし、その在位期間はわずか3か月と10日でした。なぜなら、神が彼を王位から退けたからです。それは、彼が神を退けたからです。彼の父親はエホヤキムという王でしたが、エホヤキムは、エレミヤの預言が記された巻物を切り裂いて火で焼き、神のことばを冒涜しました(36:23,32)。その結果、より厳しいさばきを受けることになってしまいました。その息子がこのエコンヤ(エホヤキン)です。彼は父を反面教師にすべきでした。それなのに彼はしませんでした。父エホヤキム同様、主のことばをないがしろにしたのです。また、彼は青年時代、エレミヤが語る神のことばも聞いていたはずなのに、そこから学ぼうとしませんでした。バビロンの王ネブカデネザルの脅威が迫る中、主に信頼すればよかったのに、逆に主の目の前に悪を行いました。それで彼はわずか3か月で王位から退けられてしまうことになったのです。
そのことがここではこう言われています。24~26節です。「わたしの右手の指輪の印ではあるが、わたしは必ずあなたを指から抜き取り、あなたのいのちを狙う者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカドネツァルの手、カルデア人の手に渡し、あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。」
「右手の指輪の印」とは、王の権威のシンボルです。それは公式文書に法的な効果を持たせるために用いられる非常に大切なものでした。いわゆる実印のようなものです。エコンヤ(エホヤキン)は神の指輪の印のように尊く権威ある存在でした。しかし、神はご自分の指輪の印であるエコンヤ(エホヤキン)を抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われたのです。このことがなぜ重要なのかというと、エコンヤがバビロンに捕虜として連れて行かれそこで死ぬということは、ダビデ王家が絶たれてしまうということを意味していたからです。実はエコンヤの後にゼデキヤが王として立てられますが、ゼデキヤはエコンヤの叔父にあたります。でも、彼はダビデの血筋ではありませんでした。ですから、神の右手の指輪の印であるエコンヤが引き抜かれるということは、彼だけの問題ではなく、ユダ王国全体、強いて言うなら、それはダビデ王家が絶たれてしまうということですから、ダビテの子孫として生まれるはずのメシヤ、救い主がやって来るという神の救いのご計画全体に関わる問題だったのです。それが絶たれてしまうのです。
「私は聞かない」と神の御声に聞き従わないで、この世の声に従って生きる人は、神の恵みが閉ざされることになるということを覚えておかなければなりません。決して栄えることはありません。この世の王には、究極的な望みがないからです。私たちの王はただ一人、それはイエス・キリストだけです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。確かに、私たちが生まれる状況を選ぶことはできません。しかし、生まれた後で、自分に与えられた環境の中で学ぶことはできます。そういう自由が与えられているのです。神はどんな人にも、この方を知る機会を与えておられます。残念ながら、ここに出てくるエコンヤは、そのような機会が与えられていたにも関わらず、その機会を生かすことができませんでした。私たちはこのエコンヤのようにならないように注意しなければなりません。機会を十分に生かして用いなければならないのです。
Ⅲ.ともしびは消されなかった(28-30)
最後に、28~30節をご覧ください。「22:28 この人エコンヤは、蔑まれて砕かれる像なのか。だれにも顧みられない器なのか。なぜ、彼とその子孫は投げ捨てられ、見も知らぬ地に投げやられるのか。22:29 地よ、地よ、地よ、【主】のことばを聞け。22:30 「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」」
エコンヤ(エホヤキン)は、神から与えられた機会を用いようとせず、父エホヤキムの失敗から学ばなかった結果、バビロンに連れて行かれ、その地に放り出されて死ぬことになります。30節には、このエコンヤ(エホヤキン)について次のように言われています。「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」
エコンヤ(エホヤキン)は、「子を残さず、一生栄えない男」と記録されることになります。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着く者はいなくなるということです。Ⅰ歴代誌3章17~18節を見ると、彼には7人の息子がいたことがわかりますが、その7人とも彼の後を継ぐことはありませんでした。なぜなら、神が彼を退けたからです。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着く者はいませんでした。ということは、この時点でダビデ王家が滅亡してしまうことになります。350年近く続いたダビデ王家の血筋は、ダビデの後にソロモンが、そしてその後はソロモンの子どもたちによってずっと引き継がれてきましたが、このエコンヤ(エホヤキン)を最後に絶たれてしまうことになるのです。
サタンはどれほど喜んだことでしょう。というのは、サタンは知っていましたから。ダビデの王家からやがてメシヤが生まれるということを。Ⅱサムエル記7章11~16節に、そのことがはっきりと語られています。ダビデが主の家を建てようと考えていた時、主は預言者ナタンを通してこのように言われました。
「7:11 それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。
7:12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
7:14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
7:15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
7:16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
12節の「彼の王国」とは、メシヤによって支配される王国、神の国のことです。これはダビデの子と呼ばれるメシヤによって確立される王国のことです。これは、メシヤがダビデの子によって神の国がもたらされるというメシヤ預言です。メシヤ、救い主は、このダビデの家系から生まれて来るのであって、それ以外から来ることはありません。ところが、エコンヤが神のことばを聞かなかったせいで、その約束が頓挫することになってしまいました。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいなくなるのです。つまり、神の救いのご計画が頓挫してしまうのです。サタンにしてみればヤッター!!!ですよね。救い主の到来を阻むことが出来たのですから。大喜びです。
でも、神様はそこで終わっていません。大どんでん返しをされるのです。ともしびは消されなかったのです。それは、イエス・キリストの系図を見るとわかります。
イエス・キリストの系図はマタイ1章とルカ3章に記されてありますが、そこにはいくつかの違いが見られます。たとえば、マタイは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあるように、アブラハムからイエスに至るまでの系図を記しているのに対して、ルカは「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、」(ルカ3:23)と、イエスからアダムまでさかのぼった系図を記しています。また、マタイはヨセフの家系を辿って記録しているのに対して、ルカはマリヤの家系を辿って記録しています。こういう違いが見られます。でも、どちらにも共通しているのは、イエスはアブラハムの子、ダビデの子であるということです。救い主はダビデの身から出ているという点です。
けれども、そのダビデからイエスまでの系図が全く違うのです。マタイは、 「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、ソロモンがレハブアムを生み」(マタイ1:6-7)と、いわゆる南ユダの王国の王の家系を記しているのに対して、ルカは南ユダの王たちの家系を全く記していません。つまり、マタイはイエスの系図に、ソロモンからエコンヤのライン(マタイ1:6-12)を載せているのに対して、ルカはイエスの系図に、ナタンからネリを載せているということです。(ルカ3:27-31)。いったいこれはどういうことでしょうか。別にこれを書いたルカがこの流れを知らなかったということではありません。この系図はⅠ歴代誌3章5~16節にもありますから、彼はこの事実をちゃんと知っていたはずです。それなのに彼はイエスの系図に南ユダの王たちの家系を載せなかったのです。なぜなら、ダビデ王家の家系はこのエコンヤで途切れてしまったからです。確かにエコンヤの後にも子どもたち生まれましたが、彼らが王位に着くことはありませんでした。
ですから、マタイでさえ1章16節でこう記しているのです。 「ヤコブがマリヤの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリヤからお生まれになった。」
マタイはここで、「キリストと呼ばれるイエスは、このヨセフからお生まれになった」ではなく、「このマリヤからお生まれになった」と記しています。イエスはヨセフではなくマリヤから生まれました。なぜこのヨセフからお生まれになったと書かなかったのでしょうか。それは、実際にはイエスとヨセフは血のつながりがなかったからです。そして、ダビデ王家はエコンヤで途絶えていたので、その子孫であるヨセフをダビデの子としては描くことができなかったからです。
では、救い主がダビデの子孫から出てくるという神様の救いのご計画は頓挫してしまったのでしょうか。そうではありません。神は別の方法を通してダビデの子として生まれるメシヤ、救い主を誕生させてくださいました。それがルカ3章に見られるイエスの系図なのです。ルカ3章23節には「ヨセフはエリの子で、さかのぼると」とありますが、実際にはヨセフはエリの子ではありません。エリの子はマリヤです。当時、ユダヤ人は女性の系図を使わなかったので、マリヤの夫であるヨセフの系図になっているだけです。でも実際はマリヤの系図です。そのマリヤの系図をたどっていくと、31節にダビデが出てきますが、その子は「ナタン」となっています。「メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ」(ルカ3:31)です。ルカは逆からたどっているので、ダビデがナタンの子どものように見えますが、実際は「ナタン」がダビデの子どもです。この「ナタン」はダビデとバテ・シェバの間に生まれた三番目の息子でした(四番目がソロモン)。でも実際にダビデの後を継いだのはソロモン王でした。そして、そのソロモンの息子たちが南ユダの王として代々ダビデ王家を継承していったのです。でもダビデには別の子どもがいました。それがナタンです。そのナタンの子孫がマリヤなのです。イエスはこのマリヤから生まれました。つまり、エコンヤが神を退けたので、彼は一生栄えない男になってしまいました。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者は出ませんでしたが、神は別のラインから同じダビデの血筋であるナタンのラインによって救い主をこの世に送ってくださったのです。それがマリヤの系図が示していることなのです。すごいですね!これは驚くべき神の救いのご計画です。
一度はエコンヤのせいで人類は呪いを宣告されましたが、神はご自身の救いの計画をそれで頓挫させることをせず、人知をはるかに超えた方法でダビデの血筋をキープしながらこのナタンの家系からイエスが生まれるという大どんでん返しをなさったのです!!!これはサタンも思いもつかないような方法でした。そんな方法があったのかとびっくりするような方法でした。人間の思いをはるかに超えたとんでもない方法で神はご自身の救いの御業を成し遂げてくださったのです。これこそまさに神業です。確かにイエスはダビデの子として生まれた救い主であるということを、サタンも否定できなかったでしょう。
Ⅱ歴代誌21章7節にこうあります。「しかし、【主】はダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると約束されたからである。」主は与えると約束されたともしびを消されなかったのです。主はどこまでも真実な方、約束を守られる方です。私たちは真実でなくても、神様は常に真実な方で、契約を守られるお方なのです。
神は、この驚くべき方法をあなたのためにもしてくださいました。あなたのために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
イエス・キリストはあなたのために天から下って来てくださったのです。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。確かに、聖書には「木にかけられた者はみな、呪われている」(ガラテヤ3:13)とありますが、しかし、神はその呪いを祝福に変えてくださいました。その死からよみがえられることによって。木にかけられた者は呪われた者ですが、キリストはその死からよみがえることによって、その死に打ち勝つことによって、その呪いを祝福に変えてくださったのです。ですから、あなたがキリストにあるならどんな呪いでも祝福に変えられるのです。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)どんなに闇が深くても、闇は光に打ち勝ことはできません。光は闇の中に輝いているのです。
もしかすると、あなたはもうダメだ!と思っているかもしれません。エコンヤのように、自分は人生に失敗したと。もうダメだ!呪われていると思っていると、そう思っているかもしれない。お先真っ暗だ。もうどうにもならない。だってあんなことをしたんだから。こんなことをしたんだから。もう希望はない。そう思っているかもしれません。でも神はこのエコンヤの呪いを驚くべき方法によって祝福に変えてくださったように、敗北にしか思えない十字架と復活という方法によって救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、キリストにあるならどんな呪いでも祝福に変えられるのです。
これが良い知らせです。悪い知らせとは、神と神のことばを退ける者には呪いがあるということです。そこには未来はありません。あるのは呪いだけ。さばきだけ。破滅だけです。そこには何の希望もありません。しかし、ここに良い知らせがあります。イエス・キリストを信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを持つということです。ここに希望があるのです。あなたがどんなに呪われたような人生を送って来ても、あなたがイエスを救い主として信じるなら、あなたの呪いは希望に変えられるのです。私たちが真に頼れる王は、真の王であられるイエス・キリストだけです。ここに出てきた王たちは1人として頼りにはなりません。私たちはこの方、私たちの救い主イエス・キリストだけを王としなければならないのです。
あなたの王は誰ですか?あなた自身ですか、それともあなた以外の別の人でしょうか。あるいはそれは人ではなく財産であったり物かもしれません。そういうものを頼りにしても何の役にも立ちません。そのようなものがあなたの心の王座に置くなら、あなたは失望することになります。それはあなたが一番よく知っていることです。それがあなたの若い時からの生き方だったからです。何でも自分の思うように、好きなようにと生きてきた結果、そこにはただ呪いがあるだけでした。神と神のことばを退けるものに希望を置いたらあなたは必ず失望することになります。でも、王の王であられるイエス、主の主であられるイエス、ダビデの子と呼ばれるイエス・キリストに全幅の信頼を置くなら、その方にあなたを任せるなら、あなたは守られます。まことの王の国民として永遠の祝福を受けることになるのです。神はあなたの期待を裏切ることはなさいません。あなたは神から永遠の祝福を受けることになるのです。まことの王であられるイエスをあなたの心の王座に迎えてください。

ヨシュア記20章

ヨシュア記20章

 きょうは、ヨシュア記20章から「逃れの町」について学びたいと思います。まず、20章全体をお読みしたいと思います。

「20:1 【主】はヨシュアに告げられた。
20:2 「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
20:3 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。
20:4 人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。
20:5 たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。
20:6 その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」
20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」


 イスラエルのそれぞれの部族にくじによる相続地の割り当てを行うと、主はヨシュアに逃れの町を定めるように言われました。逃れの町とは、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むことができるためのもので、その町々は、彼らが血の復讐をする者からのがれる場所となりました。この逃れの町については、民数記35章において既にモーセを通してイスラエルの民に語られていました。(民数記35:10-11) ヨシュアはカナンの地に入った後で各部族に相続地を分割すると、それを実行したのです。
3節には、「意図せずに誤って人を殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。」とあります。この逃れの町は、あやまって、知らずに人を殺した者が、血の復讐をする者から逃れるために設けられたものです。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:12)とありますが、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合はその限りではありませんでした(出エジプト21:13)。逃れの町にのがれることができたのです。
では、どうやって故意による殺人と誤って人を殺した場合、すなわち不慮の事故によるものなのかを判別することができるのでしょうか。民数記35章22~29節には、そのことが詳しく述べられています。
「35:22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
35:23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、35:24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。
35:25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
35:26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、
35:27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。
35:28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。
35:29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。」
つまり、動機と手段によって判断されるということです。すなわち、相手に対して「憎しみ」「悪意」「敵意」といった思いがなかったかどうか、そのためにどのような道具が用いられたのか、人を殺せるほどの道具であったかどうかということです。がなかったかどうかです。それが、殺してしまったのであれば、それは彼が意図して行ったことではなく誤って殺してしまったということであって、この逃れの町に逃れることができました。
4節には、「人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。」とあります。逃げてきた人の切羽詰った様子が窺えます。一刻も早く町の中に入らなければ、殺されてしまうかもしれなかったからです。ユダヤ教の言い伝えによると、この逃れの町までの道は整備がしっかりと施されており、「こちらが逃れの町」という標識があったほどです。それほど早く逃げ込むことができるように保護されていました。彼らがこれらの町に逃げ込む場合、その者は、その町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べると、長老たちは、自分たちの町に彼らを受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼とともに住みました。もしそれが嘘だったら、たとえのがれの町に入ったとしても、殺されなければなりませんでした。
しかし、それが本当に誤って起きたものであれば、たとい、血の復讐をするものがその者を追ってきても、殺人者をその手に渡してはなりませんでした。その者は会衆の前に立って正しいさばきを受けるまで、その町に住まなければならなかったのです。つまり、公正な裁判を受けるまでしっかりと保護されなければならなかったのです。あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければなりませんでした。それから後に彼は、自分の町、自分の家に帰って行くことができました。すなわち自由の身になることができたということです。なぜ、大祭司が死ぬまでその町に住まなければならなかったのでしょうか。
それは、この大祭司がイエス・キリストのことを指し示していたからです。へブル4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とありますが、この大祭司が死ぬまでとは、イエス・キリストが十字架で死ぬまでのことを示していました。大祭司が死ねば、逃れの町に逃れた殺人者は自由になり、自分の家に帰ることかできたように、真の大祭司であられるイエス・キリストが十字架で死ぬなら、すべての人の罪が赦され、罪から解放されて自由になることができました。キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。
多くの人は問題を抱えると、環境を変え、場所を変えれば、やり直すことができると考えますが、それは無駄なことです。あるいは、どこか遠くの別の場所に行けばもう一度人生をやり直すことができると考えますが、そのようなことをしても状況を変えることはできません。なぜなら、これは霊的なことだからです。主イエスはニコデモとの会話の中で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。どうしたら人は神の国を見ることができるのでしょうか。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。これがすべての解決です。神の国を見ることがでるなら、神が共にいてくださるなら、私たちのすべての問題は解決します。そのためには罪が赦されなければなりません。罪が赦されて新しく生まれなければならないのです。私たちのその罪を贖ってくれる唯一の道が、キリストの十字架の死であり、この他にはありません。それゆえ、私たちはこの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければなりません。そして、その御前にへりくだって悔い改めなければならないのです。そうすれば、私たちは主イエスの贖いのゆえにすべての罪が聖められ、悪魔の力から解放されて、全く新しく生まれ変わるのです。
この十字架の贖いこそ、私たちが罪から解放され、失敗と挫折の中からもう一度立ち上がる道であり、その力の源なのです。多くの人はそのことを知らないので、環境を変え場所を変えればやり直すことができると考えますが、いくらそのようにしてもこの罪の縄目から解放されることはできません。そんなことをしてもこの罪から抜け出すことはできないのです。私たちを罪から贖い、新しく生まれるためには、主イエスの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければならないのです。そうです、この大祭司こそ、主イエス・キリストそのものを指示していたのです。
  詩篇46篇1節には、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」とあります。本来であれば、罪のために私たちが殺されなければいけないのに、主が避け所となって救ってくださるのです。これが、逃れ町が示していたことだったのです。
私たちは、ここに逃れれば絶対に安心だというところがあります。それがイエス・キリストです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」イエス・キリストにあるものは罪に定められることはありません。イエス・キリストにあるものは、ちょうど逃れの町の中にいる者が復讐者によって殺されることのないように、決して罪に定められることはありません。もしあなたが過去に犯した罪があるなら、あるいは、現在も肉の弱さによって犯している罪があるなら、このイエス・キリスト、逃れの町に逃れてください。そこで悔い改めて、キリストにある新しい人生を始めてください。あなたにもこの逃れの町が用意されてあるのです。
次に7節から9節までをご覧ください。
「20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」
それで彼らは、ヨルダン川の向こう側と、こちら側にそれぞれ三つの町をのがれの町に当てました。それはかつてモーセが命じたように距離を測ってすべての相続地の中で均等に置かれました。それは何のためかというと、9節にあるように、あやまって人を殺したものが、そこに逃げ込むためです。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をするものの手によって死ぬことがないように、すべての人にとってできるだけ近いところにのがれの町を置きました。つまり、神は相続地の中でだれもがすぐに逃げ込むことができるようにと配慮してくださったのです。神はそれほどまでにあやまって罪を犯した者を救うことを願っておられるのです。神は私たちをさばくことを良しとし常にその眼をさばきに向けておられるのではありません。神は私たちを愛し、赦すことに向けておられことがわかります。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかを神は知っておられ、深く理解しておられるからです。ですから、私たちはその度に悩み、落ち込むものですが、その度にこの逃れの町に逃げ込み、神の赦しと力をいただかなければなりません。
へブル人への手紙4章15~16節には、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵をいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
キリストは、私たち人間の弱さに同情できない方ではありません。私たちを思いやることができます。なぜなら、ご自身があらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解してくださいます。だから安心して、喜んで恵みの御座に近づかなければなりません。
時として私たちはこのような試練に会うとき、「神がおられるならどうしてこんな苦しみに会わせるのだ」と、神を呪い、信仰から離れてしまうことさえありますが、そんな私たちのためにこそ逃れ町が用意されておられるということを知り、そこに身を寄せなければなりません。そして、私たちを完全に理解してくださる主のあわれみと恵をいただいて、立ち上がらせていただきたいと思うのです。聖書を見ると、そのようにして人生をやり直した多くの聖徒たちのことが記されてあります。

 たとえば、パウロはどうでしょう。彼は非の打ちどころがないほどのパリサイ人で、正義感に燃え、それ故クリスチャンを迫害し、牢に投げ込み、殺害していきました。しかしダマスコに向かう途中で、復活のキリストと出会い、数年に及ぶアラビヤでの悔い改めの期間を経て、やがて世界的なキリスト教の指導者として用いられていきました。パウロはキリストによって新しい人生をやり直した人物の典型です。パウロはこのように言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
ペテロもそうです。彼もまた、主イエスを三度も否むという大きな過ちを犯しましたが、主の前に悔い改めて立ち直りました。そして、イエス様のあの言葉にあるように、イエス様のとりなしによって立ち直った彼は、兄弟たちを力づけてやる者へとなりました。パウロのように、ペテロのように、イエス・キリストは人々が立ち直り、やりなおすことを願っておられるのです。
旧約聖書における最高の指導者の一人であるモーセもそうです。彼は民族愛に燃え、ある日エジプト人を撃ち殺し、それがばれるのを恐れてミデヤンの地へのがれました。しかし、40年の荒野での空白期間を経て、神はモーセをイスラエルの解放者として召されました。モーセもまた、失敗してもやり直した人物です。
またイスラエルの最大の王であったダビデは、バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その罪をもみ消そうと夫エリヤを戦場の最前線に送り込ませて殺しました。彼は道徳的に失敗し、家庭的にも失敗し、子供たちの反逆にも遭いましたが、その度に悔い改めて神の恵みにすがりました。その結果彼はその罪を許していただき、再びやりなおすことができたのです。
このように聖書は繰り返し人生をやり直した人物にスポットを当てています。神が用いられる人とは失敗やあやまちを犯さない人ではなく、そうした失敗やあやまちを犯しても悔い改めて神のあわれみにすがる人のことであり、そのようにして人生をやりなおした人なのです。その失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いていかれたのです。
まとめてみると、この逃れの町が示していることはこれです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
これは、主イエスの宣教の第一声です。それは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。これは、イエスを信じて、もう一度やり直しなさい、ということです。逃れの町であられるイエスの下に逃れるなら、あなたももう一度やり直すことができる。これが福音です。神の福音は私たちを立ち直らせることができます。あなたも悔い改めて、主イエスを信じてください。主イエスにあって、あなたも必ずやりなおすことができるのです。

人生の目的を知る エレミヤ書22章1~19節人生の目的を知る 

2023年8月6日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書22章1~19節(エレミヤ書講解説教41回目)
タイトル:「人生の目的を知る」
エレミヤ書22章に入ります。今日は22章前半から、「人生の目的を知る」というテーマでお話します。自分は何のために生きているのか、何のために存在しているのかということです。多くの人が、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、なぜこの世に存在しているのかがわからず、自問自答しながら生きています。クリスチャンになることの素晴らしさの一つは、この目的を知っていることです。皆さんは何のために生きていますか。今日は、そのことをご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.私たちの人生の目的(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「22:1 【主】はこう言われる。「ユダの王の家に下り、そこでこのことばを語れ。22:2 『ダビデの王座に着くユダの王よ。あなたも、これらの門の内に入って来るあなたの家来も、またあなたの民も、【主】のことばを聞け。22:3 【主】はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。22:4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着く王たちは車や馬に乗り、彼らも、その家来も、またその民も、この家の門の内に入ることができる。22:5 しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが──【主】のことば──この家は必ず廃墟となる。』」」
主からエレミヤに主のことばがありました。それは、ユダの王の家に下り、そこで主のことばを語れということでした。「ユダの王の家」とは、王たちの住まいであった王宮のことです。エルサレムにあった神の宮、神殿から、自分たちの住まいであった王宮に下れということです。そこで主のことばを語るように。ダビデの王座に着くユダの王とその家来たちに、です。
その内容は、3節にあるように「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ」ということでした。「公義」とは、神の律法にかなった行為のこと、つまり、神の律法に従って社会的弱者と呼ばれる人たちを踏みにじることがないように、正しいさばきを行うように。そして、そうした社会的弱者と言われる人たちをあわれみ、決して虐げることないように、いやむしろ、そのように虐げる者の手から救い出すようにということでした。
また、「正義」とは、神様との正しい関係のことを言います。平たくいうと、神のことばに対して忠実に生きるようにということです。この公義と正義は、神にとって最も重要なことでした。
それなのに、ダビデの王座に着く王たちは、本来すべきことをしないで、私腹を肥やしていました。この王たちは誰のことを指しているのかはっきりわかりません。お手元に「南ユダ王国の年代表」を用意しましたが、南ユダの王たちの中の最後の4人の王たちのいずれかの王です。すなわち、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの中の誰かです。いや、誰というよりも、この4人の王たちに代表されるすべてのユダの王たちと言ってもいいでしょう。彼らは王として自分が成すべきことをしていませんでした。彼らはダビテの王座に着いていましたが、ダビデの心を持っていなかったのです。ダビデの心とはどんな心ですか。使徒13章22節にはこうあります。「そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』」
ここには、「彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる」とあります。「彼は」とは「ダビデ」のことです。彼は主の心にかなった者で、主が望むことをすべて成し遂げました。これがダビデの心です。それは、神が望むことをすべて成し遂げる心です。しかし、彼らは王という立場にありながらも、その使命とか責任を果たしていませんでした。社会的弱者と呼ばれる人たちを虐げる者の手から救い出すところか、寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、咎なき者の血を流したりしていました。
もし、あなたがたが主の心にかなった者であるなら、彼らはそのまま王座にいることができ、家来や民たちもこの町に住み続けることができますが、そうでなければ、ユダの王も国も必ず亡びることになります。
これは、クリスチャンにも言えることです。Ⅰペテロ2章9 節にはこうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
  ここには、すべてのクリスチャンは王である祭司と言われています。イエス・キリストを信じたことでクリスチャンは神の子どもとされました。聖なる国民、神の所有の民とされたのです。神の民です。それは何のためですか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の栄誉を宣べ伝えるためです。それなのに、その使命を果たしていないとしたら、それはここで糾弾されているダビデの王座に着くユダの王たちと何ら変わらないことになります。毎週日曜日教会に集い、神を賛美し、みことばに感動して、神をほめたたえることはすばらしいことです。神の家族としての教会の交わりに加えられ、時には美味しい食事を囲んで満足すこともすばらしい恵みです。でも、ただそれだけならば、この王たちと何ら変わらないのです。その使命を果たしていないからです。私たちは自分が救われた目的を知り、そこに生きる者でなければなりません。
カトリックの神学者で、晩年を知的障害者とともに過ごしたヘンリー・ナーウェンは、このように言っています。
「自分が神に「選ばれている」ということをいつも喜ぶのです。神に、「選んでくださってありがとう。」と言い、選ばれたことを思い起こさせてくれる人にも、「ありがとう。」と言うのです。 感謝をすることによって、自分が意味もなく、偶然、この世に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むのです。」
とても含蓄のあることばではないでしょうか。自分が意味もなく偶然に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むために、神に「選んでくださったありがとう」と言う。大切なことです。あなたはどうですか。あなたは神によって選ばれていることを感謝し、喜んでいるでしょうか。そういう人は、自分に与えられた特権や立場を感謝し、自分に与えられている使命に生きようと願いますが、そうでなければ、ただの自己満足で終わってしまいます。私たちが王である祭司、聖なる国民、神の民として選ばれたのは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を告げ知らせるためです。私たちにはそのような使命が与えられているのです。その使命をしっかり押さえている人こそ、自分がどこから来て、どこへ行くのか、何のために生きているのかということを正しく理解し、それに向かって生き生きと生きることができるのです。
6~9節をご覧ください。「22:6 まことに、ユダの王の家について、【主】はこう言われる。「あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂だが、必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む人もいない町々にする。22:7 わたしはあなたを攻めるために、それぞれ武具を持つ破壊者たちを取り分ける。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒して火に投げ入れる。22:8 多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、【主】はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、22:9 人々は、『彼らが、自分の神、【主】の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」」
「ギルアデ、レバノンの頂」とは、エルサレムのことです。ギルアデ、レバノンは森林地帯でした。ユダの王たちは、その森林地帯にある高級建材を輸入して王宮を建てていました。ですから、王宮のことを「レバノンの森」と呼んだのです。そこにはまさにレバノン杉という当時の最高建材がふんだんに使われていました。しかし、その王宮が敵の攻撃によって火で焼かれてしまうことになります。神の都エルサレムが、住む人のいない廃墟のようになってしまうのです。
さらに8節と9節を見ると、そのエルサレムが崩壊するのを見た異邦人が、どうしてエルサレムはこんなことになってしまったのかと言う時、それは「彼らが、自分の神、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ。」と、人々が噂するようにまでなるというのです。
これが文字通りB.C.586年に起こります。バビロン捕囚という出来事です。バビロンの王ネブカデネザルがやって来てエルサレムは火で焼かれ、町の中心にあった神殿も完全に滅ぼされてしまうことになります。いったいなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らが神に背き、神の民として自分たちに与えられた使命を見失ってしまったからです。
伝道者の書1章5~8節にこうあります。「日は昇り、また沈む。風も吹いては、同じことを繰り返す。川の流れはやがて海に行き着くが、めぐりめぐってまた元に帰り、再び海に向かって流れ出す。すべては退屈な繰り返しにすぎない。」(TEV)
皆さん、人生の目的を見失うと、このようになってしまいます。人生がただの退屈な繰り返しになってしまうのです。
ですから、私たちは私たちに与えられている役割、自分が存在している理由を知ることが重要です。そうすれば、私たちは、その役割を果たすために、そこに向かって進むことができます。そうです、私たちは神に選ばれた者、神の民として、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい御業をほめたたえ、神の栄光を現わす者となるのです。
Ⅱ.彼に信頼する者は失望させられることはない(10-12)
次に、10~12節をご覧ください。「22:10 死んだ者のために泣くな。その者のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼が再び帰って、故郷を見ることがないからだ。22:11 父ヨシヤに代わって王となった、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、【主】はまことにこう言われる。「彼はこの場所から出て行って、二度とここには帰らない。22:12 彼は引いて行かれた場所で死に、再びこの地を見ることはない。」」
何のことを言っているのか、ちょっと読んだだけではピンときません。ここに「死んだ者」とありますが、これは誰のことを指して言われているのかというと、南ユダ王国の第16代の王であるヨシヤ王のことです。彼は宗教改革を行うなど、善王としてよく知られています。彼は民の大きな期待を集めていました。しかし、B.C.609年にエジプトの王パロ・ネコとの戦いで死してしまいました。彼は8歳で王になると、16歳で献身し、20歳で国内にあったありとあらゆる偶像礼拝の施設を取り除きました。南ユダ王国にリバイバルをもたらしたのです。ですから、そのヨシヤ王が死んだ時、民はヨシヤ王の死を悼み悲しんだのです。
でもここには、そのヨシヤ王のために泣くな、と言われています。その者のために嘆くなと。どうしてですか?もっと他に嘆き悲しまなければならない人がいるからです。それは、ヨシヤ王の息子の「シャルム」です。
「シャルム」とは、ヨシヤ王の子「エホアハズ」のことです。エホアハズの幼名がシャルムです。彼はその後改名して「エホアハズ」となります。意味は「ヤーウェーは捉えてくださる」、「主は捉えてくださる」です。エホアハズ王はヨシヤ王の息子で、第17代の南ユダの王でしたが、その在位期間はたったの3か月でした。たった3か月しか王座にいることができなかったのです。彼はエジプトに連れて行かれ、そこで死ぬことになります。10節に「去って行く者のために、大いに泣け。」とありますが、これがこのエホアハズ王のことです。彼のために嘆けというのです。なぜでしょうか?なぜなら、彼が再びエルサレムに帰って来ることはないからです。そして次に王になるのが「エホヤキム」です。ここには「エホアハズ」とか「エホヤキム」とか「エホヤキン」とか、「きん」さん、「ぎん」さん、みたいな名前がたくさん出てくるので、皆さんどうぞ混乱しないでください。エホアハズの後がエホヤキムです。実はエホヤキムはエホアハズの2歳上の兄でしたが、最初に王になったのは弟のエホアハズの方でした。なぜなら、南ユダの民が兄のエホヤキムではなく、弟のエホアハズに希望を託したからです。エホアハズこそエジプトから自分たちを解放してくれるに違いない、そう思ったのです。しかし、そのエホアハズはどうなりましたか?彼も神のことばに聞き従わなかったので、結局のところ、王位から退けられエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。南ユダ王国の歴史の中で初めて、自分の国ではない他の国で死ぬという不名誉な死に方をするわけです。民にとって希望の星だったエホアハズがエジプトに幽閉されて惨めな死に方をするわけです。このエホアハズのために嘆き悲しむように。主はそう言われたのです。どういうことでしょうか。あなたの希望が打ち砕かれたので嘆き悲しみなさいということです。
あなたはどこに希望を置いているでしょうか。エホアハズですか。でもエホアハズに希望を置くなら失望することになります。必ず裏切られることになります。この人なら何とかしてくれるに違いない、あの人なら大丈夫だろう。気を付けなければなりません。そのような人があなたを救うことはできないからです。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方に希望を置かなければなりません。聖書にこうあるからです。「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)
あなたはどこに希望を置いていますか。あなたが希望を置かなければならないのは、あなたの救い主イエス・キリストです。なぜなら、彼に信頼する者は、決して失望させられることはないからです。どんなことがあってもびくともすることはありません。
Ⅲ.主にあって死ぬ者は幸いである(13-19)
次に13~19節をご覧ください。「22:13 「わざわいだ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者たち。隣人をただで働かせて報酬も払わず、22:14 『私は自分のために、広い家、ゆったりとした高殿を建てよう』と言い、それに窓を取り付けて、杉の板でおおい、朱を塗る者は。22:15 あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。あなたの父は食べたり飲んだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。22:16 虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。──【主】のことば──22:17 しかし、あなたの目と心は、自分の利得に、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことにだけ向けられている。」22:18 それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、【主】はこう言われる。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」
そんなエホアハズの次にユダの王になったのが、先程申し上げた兄のエホヤキムという人です。18節に彼の名前が出て来ます。エホヤキムは、エホアハズの2歳年上の兄でした。意味は「主は起こされる」です。彼はまさに弟亡き後に主が起こされたかのように王位に就きました。
彼は25歳で即位し、11年間南ユダを治めました。しかし、残念ながら彼も弟同様、悪い王に成り下がってしまいます。というのは、当時、南ユダ王国はエジプトの属国だったので、エジプトの王パロ・ネコの操り人形にすぎなかったからです。すべてエジプトの言いなりでした。ですから、エジプトの異教的な習慣を積極的に取り入れたので、霊的には真っ暗な状態だったのです。
そればかりか、エジプトの王パロ・ネコが重税を課したので、彼は民に重税を課さなければなりませんでした。さらにそれに輪をかけるかのように、自分の王宮を建てるために労働者に正当な報酬を支払わないで強制労働させました。もう贅沢三昧です。15節と16節には、父ヨシヤ王と比較されていますが父のヨシヤ王は正しい政治を行い、虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護して王として幸福な生活を送りましたが、息子のエホヤキムはそうではありません。17節にあるように、彼の目と心は、自分の利益のことばかり、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことだけに向けられていました。
それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう言われるのです。18節と19節をご覧ください。 「「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」
誰も彼の死を悼み悲しむ人はいません。葬式もなければ、国葬も行われないのです。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められるのです。野ざらしにされたのです。
なんと寂しいことでしょう。でもこの預言の通りになります。ここでエレミヤが預言したとおり、エホヤキムはネブカデネザル王によって送られたカルデア人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊によって殺されることになります。どういうことかというと、人は生きてきたようにしか死ぬことができないということです。あなたがどのように生きたかによって、その死に方も決まります。
ある母親が次のような実話を語っています。
息子が6歳の時でした。教会の礼拝で「世の終わりのラッパ」という讃美歌が歌われました。  「その時我が名も、呼ばれなば必ずあらん。」という歌詞の歌です。
家に帰ると息子が歌詞の意味を知りたいと尋ねてきました。そこで私はこう説明しました。 「学校で、先生が生徒たちの名前を呼んで出席を取るでしょう?それと同じように、天国に行ったら神様も私たちの名前を呼ばれるの。神さまが「パパ・ロジャースさん」。と呼んだら、パパは「はい、ここにいます。」って答えて、「ママ・ロジャースさん。」って読んだら、ママも「はい。ここにいます。」って答えるの。神様が「デニス・ロジャースくん。」って読んだら、あなたも「はい。ここにいます。」とお返事するのよ。」
そんな出来事があってしばらく後に、息子は重い病気にかかってしまいました。様態はどんどん悪くなり、ついに意識もなくなり、何の反応もしなくなりました。そんな状態のある日、突然、息子がはっきりした声で「はい。ここにいます。」と叫んだのです。そして、そのまま息を引き取りました。医師が息子の死亡を確認したときに、私は、ふと、息子が神さまに名前を呼ばれて天に召されたことを悟ったのでした。
黙示録14章13節に、「主にあって死ぬ死者は幸いである」とあります。主にあって死ぬ者は何と幸いでしょうか。私たちも、永遠に価値あるものを求めましょう。私たちはそのために生かされているのですから。あなたが今ここに存在しているのは、あなたを愛し、あなたのためにご自身の命を捨ててくださった神の御子イエス・キリストのすばらしい御業を宣べ伝え、その御心に生きるためなのです。その人生の目的を知り、イエス・キリストにあって目標を目指して走ってまいりたいと思います。

いのちの道か死の道か エレミヤ書21章1~10節 


聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節(エレミヤ書講解説教40回目)
タイトル:「いのちの道か死の道か」
きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。
Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。
しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」
14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。
エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。
神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。
これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。
だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。
では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。
どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。
ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。
確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。
皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。
私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。
Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)
それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」
イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。
エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。
これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。
このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。
ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。
だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。
Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)
ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。
旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。
バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

生きておられる主 1列王記17章1~24節

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「生きておられる主」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。

主は生きておられる 1列王記17章1~24節主は生きておられる 

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「主は生きておられる」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。