ヨシュア記9章

2023年2月22日(水)バイブルカフェ
ヨシュア記9章

きょうはヨシュア記9章から学びたいと思います。

 Ⅰ.敵の策略(1-6)

 まず1~6節までをご覧ください。「1 さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、2 ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。3 ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、4 彼らもまた策略をめぐらし、変装をした。古びた袋と、古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、5 繕った古い履き物を足にはき、古びた上着を身に着けた。彼らの食糧のパンはみな乾いて、ぼろぼろになっていた。6 彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約を結んでください。」」

ヨルダン川の西側の山地の王たちはみな、これを聞くと、ともに集まり、一つとなってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとしました。「これを聞き」とは、ヨシュア率いるイスラエルがエリコとアイを打ち破ったことを聞くと、ということです。これを聞いたパレスチナの王たちはおののき、何とかイスラエル軍の進撃を阻止しなければならないと連合して戦おうとしたのです。

しかし、ギブオンの住民たちは別行動を取りました。ギブオンは、イスラエルが攻め取ったエリコとアイの南に位置する町です。このギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞いて、イスラエルと盟約を結ぼうとしたのです。彼らはわざわざ遠くから来たかのように見せかけるため、古びた袋と古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、繕った古い履き物を足にはき、古びた上着を身につけて、ヨシュアのところにやって来ました。また、かわいて、ぼろぼろになったパンを持っていました。なぜ彼らはこのような策略を企てたのでしょうか。彼らはそのことを聞いて、ヨシュアとその民に対して勝つことはできないと判断したからです。それにしても、わざわざ変装したり、偽ってまで盟約を結ぶ必要があったのでしょうか。おそらく彼らは戦いに勝てないというだけでなく、この戦いがどのような戦いであるのかをよく理解していたのでしょう。すなわち、これは聖なる戦いであり、カナン人を聖絶するためのものであるということです。それゆえ、彼らがその地の住人であることがわかったら聖絶されるのは見に見えていました。でもそれだけは避けなければなせないと思ったのです。
孫子の兵法には、戦いに絶対に勝つ秘訣は負ける相手とは戦わないとありますが、まさに彼らは最初から負ける戦いはしないという選択をしたのです。それはとても賢い判断でした。一方、イスラエルにとっては判断を誤り、後々までも尾を引く結果となっていくことになります。私たちの敵である悪魔はこのように巧妙に襲いかかってきます。悪魔は偽りの父であり、このような策略をめぐらし、変装を企て、知らず知らずのうちに私たちの内側に忍び込んで来て、私たちを信仰から引き離そうとするのです。だれの目にも明らかな方法によってではなく、だれも気付かないような罠を仕掛けてくるのです。

ペテロは「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)と言っています。彼はだれよりもこのことを体験させられました。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言った次の瞬間、イエス様が捕らえられ大祭司のところに連れて行かれましたが、そこで彼はイエス様を知らないと三度も否定したのですから。人間の力とはそんなものです。私たちがどんなに「私はこうだ」と豪語しても、自分の決意などは脆くも崩れてしまいます。私たちの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜しながら歩き回っているということを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.主の指示を求めなかったイスラエル(7-15)

次に、7~15節をご覧ください。「7 イスラエルの子らはそのヒビ人たちに言った。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」8 彼らはヨシュアに言った。「私たちは、あなたのしもべです。」ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」9 彼らは彼に言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました。主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべてのこと、10 主がヨルダンの川向こうのアモリ人の二人の王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさった、すべてのことを聞いたからです。11 私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。『旅のための食糧を手にして彼らに会いに出かけなさい。そして彼らに、「私たちは、あなたがたのしもべです。今、どうか私たちと盟約を結んでください」と言いなさい。』12 これが私たちのパンです。私たちがあなたがたのところに来ようと出た日、それぞれ自分の家で食糧として準備したときには、まだ温かかったのですが、今はご覧のとおり、干からびて、ぼろぼろになってしまいました。13 これがぶどう酒の皮袋です。私たちがこれらを満たしたときには新しかったのですが、ご覧のとおり破れてしまいました。これが私たちの上着と私たちの履き物です。とても長い旅のため古びてしまいました。」14 そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、主の指示を求めなかった。15 ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。」

それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。ここでギブオン人がヒビ人と言われているのは、ギブオン人がヒビ人のグループの一つだったからです。イスラエルの人々はそのことを見抜いてこう言いました。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」
それは、かつてモーセによって次のように命じられていたからです。「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記7:1-6)

すると、彼らは偽って、彼らが非常に遠い国から来たということ、そこで主がエジプトで行なわれたこと、またヨルダン川の東側でエモリ人の王とヘシュボンの王、またバシャンの王にしたすべてのことを聞いたと、イスラエルの過去の出来事に言及しています。しかし、つい先ごろ起こったエリコとアイをイスラエルが攻め取ったことについては言及していません。なぜなら、彼らは遠くの国に住んでいるため、そのようなことは聞いていないふりをしているからです。悪魔は実に巧妙に襲いかかってきます。そして、彼らは古くなった着物、古くなったぶどう酒の皮袋、また古くなったパンを見せて、それを遠い国から来た証拠として差し出すのです。その結果、ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるという盟約を結んでしまいました。

どうしてヨシュアは彼らと盟約を結んでしまったのでしょうか。あれほど主がモーセを通してカナンの民と盟約を結んではならないと命じられたのに。14節にその理由が記されてあります。それは、彼らが「主の指示を求めなかった」からです。私たちは7章でイスラエルがアイとの最初の戦いで敗北したことを見ました。その原因は、イスラエルが罪を犯したからです(7:1)。彼らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切ったのです。それで主の怒りがイスラエル人全体に燃え上がりました。それなのに彼らは偵察を送り、二、三千人の兵を上らせれば十分だと判断しました。自分たちが見たことで判断し、主の指示を仰がなかったのです。ここでも同じ失敗を繰り返しています。彼らは自分たちで判断し、主の指示を求めませんでした。

このことはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。自分たちで判断して主の指示を仰ごうとしない傾向があります。イスラエルが同じ失敗を繰り返したのは、それだけ人間にはその傾向が強いということを示しています。
箴言には、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)とあります。また、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)ともあります。私たちは自分の判断に頼るのではなく、主を恐れ、主の知恵を求め、主の判断を求めていかなければなりません。

Ⅲ.約束に忠実な神(16-27)

さて、そのようにギブオンの住民と盟約を結んだイスラエルはどうなったでしょうか。16~27節までをご覧ください。「16 彼らと盟約を結んでから三日たったとき、人々は彼らが近くの者たちで、自分たちのただ中に住んでいるということを聞いた。17 そこでイスラエルの子らは出発し、三日目に彼らの町々に着いた。彼らの町々とはギブオン、ケフィラ、ベエロテ、およびキルヤテ・エアリムであった。18 イスラエルの子らは彼らを討たなかった。会衆の上に立つ族長たちがイスラエルの神、主にかけて彼らに誓ったからである。しかし、全会衆は族長たちに向かって不平を言った。19 族長たちはみな全会衆に言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。20 私たちは彼らにこうしよう。彼らを生かしておこう。そうすれば、私たちが彼らに誓った誓いのために、御怒りが私たちの上に下ることはないだろう。」21 族長たちは全会衆に言った。「彼らを生かしておこう。」彼らは全会衆のために薪を割る者、水を汲む者となった。族長たちが彼らについて言ったとおりである。22 ヨシュアは彼らを呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは私たちのただ中に住んでいながら、なぜ、『私たちは、あなたがたからとても遠いところの者です』と言って私たちを欺いたのか。23 今、あなたがたはのろわれる。あなたがたの中から、奴隷たち、私の神の家のために薪を割る者と水を汲む者が絶えることはない。」24 彼らはヨシュアに答えた。「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、主がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。25 ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」26 ヨシュアは彼らが言うようにし、彼らをイスラエルの子らの手から救った。それで彼らは殺されなかった。27 ヨシュアはその日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で薪を割る者と水を汲む者とし、今日に至っている。」

彼らと盟約を結んで三日後、人々は、彼らが近くの者たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞きました。イスラエルは騙されたことに気付きました。彼らが自分たちのただ中に住んでいることが判明したのです。そのことが判明したとき、ヨシュアはどうしたでしょうか。イスラエルの全会衆は族長たちに不平を言いました。しかし、ヨシュアは彼らを滅ぼしませんでした。なぜでしょうか?18節にその理由が記されてあります。それは、「全会衆の上に立つ族長たちがすでにイスラエルの神、主にかけて誓っていた」からです。

ヨシュアはなぜギブオン人たちにこれほどまでに義理を立てなければならなかったのでしょうか。なぜこの契約を無効にしなかったのか。ギブオン人たちはヨシュアを騙したのです。騙した契約は無効なはずです。民法でも、騙された契約はそれが騙されたものであることが証明されると無効にされます。その上、主はヨシュアにカナンの地の異邦の民をみな聖絶するようにと命じておられました。であれば、その契約を無効にし、彼らを滅ぼしても良かったはずです。それなのに、どうして彼らを助ける必要があったのでしょうか。それは、19節にあるように、ヨシュアと族長たちがイスラエルの神、主にかけて誓ったからです。ヨシュアは一度契約したことに対してどこまでも忠実に果たそうとしたのです。なぜなら、主なる神ご自身がそのような方であられるからです。イスラエルの神は人間との契約、約束に対してどこまでも忠実に守られる方です。それは私たちがどのような者であるかとか、私たちがこれまでどれほどひどいことをしてきたかということと関係なく、主の語られた約束に同意したことによって、それを最後まで果たしてくださるのです。なぜなら、主は真実な方だからです。主は真実な方なので、どこまでもそれを貫いてくださるのです。

私たちがこのような神のご性質を覚えておくということは、極めて重要なことです。なぜなら、神が私たちといったん約束されたなら、それは必ず成就するからです。神は契約を遵守される方なのです。それゆえに私たちは神の約束を求め、その約束を受け取るまで、忍耐して祈らなければなりません。なぜならヘブル10章35~36節にはこうあるからです。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

それならばなぜ神はすぐに約束を成就されないのでしょうか。それは私たちのためです。私たちがあえて忍耐することによって主の御前にへりくだるためなのです。もし約束されたことがすぐに成就するとしたらどうなるでしょうか。いつの間にかそれを自分の手によって成し遂げたかのように思い込み、高ぶってしまうことになります。自分自身の努力や熱心さによって達成したかのように思い込み、神の栄光を奪い取ってしまうことになるでしょう。ですから、神は忍耐することを通して、待つことを通して、それが自分の力ではなく神の力によって成し遂げられたことを深く刻みつけようとされるのです。

もう一つの理由は、そのように忍耐することによって、私たちの信仰や人格を磨き上げようとしておられるからです。ローマ5章3~5節にはこうあります。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」
こうした忍耐を通してこそ練られた品性と希望が生み出されていくということを覚えるとき、むしろ困難を静かに耐えることが神のみこころであり、そのとき私たちの人格が成長させられていくのです。

それゆえ、神が約束されたことが成就しないと嘆いたり、疑ったりしてはなりません。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。その忍耐を働かせることによって、練られた品性が生み出され、寝られた品性が希望が生み出されると信じて、この神の約束の御言葉に信頼して歩みましょう。主は必ずご自身の約束を成就してくださいますから。

 

苦難の時の救い主 エレミヤ書14章1~9節 苦難の時の救い主 

2022年2月19日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書14章1~9節(エレミヤ書講解説教30回目)
              タイトル:「苦難の時の救い主」

Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

■エレミヤ書2章13節
「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

■ヨハネ4:13-14
「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

■申命記28章24節
「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」

■ヨハネ15:5
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

■エレミヤ13章22節
「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」

■ホセア書6章3節
「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

Ⅱ.主の御名のために(7)

■エレミヤ7章16節
「あなたは、この民のために祈ってはならない。」

■エレミヤ11章14節
「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」

■Ⅰヨハネ1章9節
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

■出エジプト記34章6~7節
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」

Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)

■エペソ2章11~13節
「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 

■詩篇50篇15節
「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」

■詩篇91篇15節
「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」

■詩篇37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

ヨシュア記8章

2023年2月8日(水)バイブルカフェ
ヨシュア記8章

きょうはヨシュア記8章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アイの攻略(1-9)

 まず1~2節をご覧ください。「1 主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。2 あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町の裏手に伏兵を置け。」」

前回は7章からイスラエルがアイとの戦いに敗れた原因を学びました。それは、イスラエルの子らが、聖絶のもののことで罪を犯したからです。ユダ部族のカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取ったため、主の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がったのです。そこでヨシュアは失意の中で主に解決を求めると、イスラエルの中から悪を一掃するようにと命じられました。そこでヨシュアはそれがアカンによる犯行であることが明らかになると、その言葉のとおり、彼とその家族のすべてと、彼の所有するすべてをアコルの谷に連れて行き、彼に石を投げつけ、火で焼き払いました。

あまりにも残酷な結果に、いったいなぜ神はそんなことをされるのかと不思議に思うところでしたが、それは神の残酷さを表していたのではなく罪の恐ろしさとともに、私たちも皆アカンのような罪深い者であるにもかかわらず、神はひとり子イエス・キリストの十字架の死によってその刑罰を取り除いてくださったがゆえに、そうしたすべての罪から赦されている者であり、神にさばかれることは絶対にないという確信を与えるためであったということでした。それゆえ、神を信じる者にとって最も重要なのは自分には罪がないと言うのではなく、その罪を言い表して、悔い改めるということです。悔い改めこそが信仰生活の生命線なのです。

今回の箇所では、聖絶のものを一掃しイスラエルに対する燃える怒りをやめられた主が、再びヨシュアに語られます。主は、ヨシュアに対してまず「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語られました。「戦う民全部を連れてアイに攻め上」らなければなりません。ヨシュアは前回の敗北の経験を通してどれほどのトラウマがあったかわかりません。相当の恐れがあったと思いますが、恐れてはならないのです。おののいてはなりません。なぜなら、主が彼らとともにおられるからです。彼らの罪は取り除かれ、かつてヨルダン川を渡ったときのように、またエリコの町を攻略したときのように、主が彼らに勝利を与えてくださるからです。その勝利はここに「見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた。」とあるように、もう既に彼らに与えられているのです。ですから、彼らはかつてエリコとその王にしたように、アイとその王にもしなければなりませんでした。しかし、ここにはエリコの時とは三つの点で違いがあることがわかります。第一に、「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということ、第二に、「分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい」ということ、そして第三に、「町の裏手に伏兵を置け」ということです。どういうことでしょうか。

まず「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」というのは、前回の攻略で攻め上ったのは3千人でしたが、今回は「全部の民」です。この時イスラエルの軍隊は20万人ほどであったと考えられます。その20万人すべてが戦いに参加するようにというのです。それは神が助けを必要とされるからではなく、すべての神の民が神の戦いに参加するためです。できることはひとりひとり皆違います。できないこともあるでしょう。しかし、神の戦いは全員で戦うものなのです。

先日サッカーのワールドカップで日本は、ドイツ、スペインという強豪国を破って決勝トーナメントに進出しましたが、スペイン戦での三苫選手のエンドライン1mmまであきらめないでボールを王姿勢に、世界中から称賛の声が上がりました。でもこの戦いで活躍したのは三苫選手だけではなく他のフィールドに立つ選手も、ベンチにいる選手も、さらには日本中のサポーターたちも一つになりました。みんなで戦った勝利でした。その結果、強豪国ドイツ、スペインを破るという大金星をあげることができたのです。

それは、神の戦いも同じです。戦う民全員が出て行かなければなりません。自分ひとりくらいいなくても大丈夫だろうなどと考えを抱いてはならないのです。全員で戦うという覚悟が求められているのです。

次に、「その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい」ということですが、エリコとの戦いにおいては、金、銀、銅、鉄以外のすべてを聖絶しなければなりませんでした(6:18-19)。しかしアイとの戦いにおいては、その分捕り物と家畜だけは、彼らの戦利品とすることが認められました。すなわち、普通の聖絶の原則が適用されたのです(申命記2:34-35,3:6-7)。重要なことは、この原則の適用が人によって判断されるのではなく、神のみことばによってなされなければならないということです。自分が欲しいから取るのではなく、主が与えてくださるのを待たなければならないのです。主は、ご自分が良いと思われるときに、必要なものをちゃんと与えてくださるからです。

そして、「町のうしろに伏兵を置け」ですが、エリコの戦いのときとは戦術にかなりの違いが見られます。エリコの戦いでは伏兵を全く用いず、ほとんど戦わずして勝利することができました。彼らは神の指示されたとおり6日間町の周りを回り、そして7日目には7回ひたすら回り、ラッパの音とともに時の声を上げると、エリコの城壁が崩れ落ちました。しかし、アイとの戦いにおいてはそうではありません。町のうしろに伏兵を置くようにと言われたのです。これはどういうことでしょうか。神は必ずしも超自然的な方法のみによって敵を打ち破られるわけではないということです。むしろ、ご自分の民が正々堂々と戦い、また、ある場合には戦略をも用いて敵を打ち破られることもあるということです。神はそのときそのときに応じて最善に導いてくださるのであって、神が成されることを一定の法則の中に当てはめることはできないのです。よく「前の教会ではこうだったのに・・」という不満を耳にすることがあります。確かにそれまでの経験が生かされる時もありますが、神の働きにおいてはその時、その時みな違うのです。事実、私たちは大田原と那須とさくらで同時に教会形成を担っていますが、この三つの場所での働きを考えてもそこに集っておられる方々や置かれている状況が違うため、やり方は全く違います。ですから、大切なことは主が言われることを行なうことであり、御霊に導かれて進むことなのです。

次に、3~9節までをご覧ください。「3 そこでヨシュアは戦う民すべてとともに、アイに上って行くために立ち上がった。ヨシュアは三万人の勇士を選んで夜のうちに派遣し、4 彼らに命じた。「見よ、あなたがたは町の裏手から町に向かう伏兵だ。町からあまり遠く離れないで、みな身構えていなさい。5 私と、私とともにいる兵はみな町に近づく。アイの人々がこの前と同じように、私たちに立ち向かって出て来たら、私たちは彼らの前から逃げることにする。6 彼らは私たちを追って出て来るので、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは『この前と同じように、われわれの前を逃げて行く』と言うだろうから。私たちは彼らの前で逃げることにする。7 あなたがたは伏せているところから立ち上がり、町を占領せよ。あなたがたの神、主がその町をあなたがたの手に渡される。8 その町を攻め取ったら、その町に火を放て。主のことばどおりに行うのだ。見よ、私はあなたがたに命じる。」9 ヨシュアは彼らを派遣し、彼らは待ち伏せの場所へ行き、ベテルとアイの間、アイの西側にとどまった。ヨシュアはその夜、兵とともに夜を過ごした。」

ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をしました。そしてその中から勇士たち3万人を選ぶと、主が命じられたとおり、伏兵として夜のうちに彼らを派遣し、町のうしろに配置しました。ヨシュアは前回と同じようにアイの町を北のほうから攻めますが、それはおとりです。アイの人々を町からおびき出すためです。アイから人々が出て来たら、ヨシュアたちは彼らの前で逃げるふりをします。そしてアイの町に戦う人たちがいなくなったところに、伏兵として待機していたイスラエルの勇士たちが入って行って占領するという戦略です。それはヨシュアの考えに基づいてのことではなく、主に命じられた命令に基づいてのことでした。ヨシュアは、主が言いつけられたとおりに行ったのです。

Ⅱ.勝利の投げ槍(10-29)

さて、その結果どうなったでしょうか。10~29節をご覧ください。23節までをお読みします。「10 翌朝ヨシュアは早く起きて、兵を召集し、イスラエルの長老たちとともに、兵の先頭に立ってアイに上って行った。11 彼とともにいた戦う民はみな、上って行った。彼らは町の前に近づき、アイの北側に陣を敷いた。彼とアイの間には谷があった。12 彼は約五千人を取り、ベテルとアイの間、町の西側に伏兵として配置した。13 兵は町の北側に全陣営を置き、町の西側にはその後陣を置いた。ヨシュアはその夜、谷の中に下って行った。14 アイの王がそのことに気づくと、町の男たち、王とその兵はみな、急いで朝早く起き出し、イスラエルに立ち向かって戦うために、アラバの手前の決めておいた場所に出て来た。しかし、王は町の裏手に伏兵がいることを知らなかった。15 ヨシュアと全イスラエルは彼らの前で打たれるふりをし、荒野への道を逃げた。16 アイにいた兵はみな彼らの後を追うために呼び集められ、ヨシュアを追撃し、町から誘い出された。17 そのため、イスラエルの後を追って出なかった者は、アイとベテルに一人もいなかった。彼らは町を開け放しのまま捨てておいて、イスラエルを追撃した。
18 主はヨシュアに告げられた。「あなたの手にある投げ槍をアイの方に伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」ヨシュアは手にある投げ槍を町の方に伸ばした。19 すると、伏兵はすぐその場所から立ち上がった。ヨシュアが手を伸ばすやいなや彼らは走り、町に入ってそれを攻め取り、ただちに町に火を放った。20 アイの人々はうしろを振り返って見た。すると、町の煙が天に立ち上っていて、彼らには、どちらにも逃げる手立てがなかった。荒野へ逃げていたイスラエルの兵は、追って来た者たちの方に向き直った。21 ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見たので、引き返してアイの人々を討った。22 伏兵たちは町から出て来て彼らに向かった。そのため彼らは両側からイスラエルの挟み撃ちにあった。ヨシュアたちは、彼らを打ち殺し、生き残った者も、逃れた者も一人も残されないまでにした。23 しかし、アイの王は生け捕りにして、ヨシュアのもとに連れて来た。」

ヨシュアは先の3万人に加えて5千人を伏兵として町の西側に回らせました。そして民を町の北側に置くと、ヨシュアはその夜、谷の中で夜を過ごしました。アイの王がそのことに気付くと、翌朝早く、急いでイスラエルを迎えて戦うために出てきました。ヨシュアと全イスラエルが打たれたふりをして荒野への道に逃げたとき、アイの民はみな、彼らのあとを追って出て来ると、ヨシュアの合図とともに伏兵が走って町に入りそれを攻め取り、急いで町に火をつけました。荒野に逃げていた民も追って来た者たちのほうに向き直ると、ちょうどアイの民をはさみ打ちにするような形となり、アイの者たちを打ちました。イスラエルはアイの民を打つと、生き残った者ものがれた者もひとりもいないまでにしました。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れてきました。イスラエルは、主が言われるとおりにしたことで、完全な勝利を収めることができたのです。

ところで、18節には、アイがイスラエルの戦略にはまり、町を明けっ放しのままにしてイスラエルのあとを追ったとき、主はヨシュアに「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し出せ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」と言われました。いったいこの「投げ槍」とは何だったのでしょうか。その手が伸びたとき、陰に隠れていた伏兵が立ち上がり、町に入ってそれを攻め取り、急いで町に火をつけました。それはかつてイスラエルがアマレクと戦ったときモーセが神の杖を手に持って、戦いの間中手を上げていた姿を思い起こさせます(出17:8-16)。ヨシュアはそれを記録するようにと命じられましたが、ここでは投げ槍が差し伸ばされたことが勝利の合図となり、敵を聖絶することができました。まさにそれは祈りの手だったのです。ヨシュアは主に命じられたとおりに投げ槍をアイの方に差し伸ばし、主が戦ってくださるのを祈ったのです。

これは私たちにも求められていることです。祈りの手を差し伸ばさなければなりません。それを止めてはならないのです。主がよしと言われるまで差し伸ばし、主が働いてくださることを待ち望まなければならないのです。

次に24~29節をご覧ください。「24 イスラエルがアイのすべての住民を野で、すなわち彼らが追って来た荒野で殺したとき、アイの住民はみな一人残らず剣の刃に倒れた。全イスラエルはアイに引き返し、町を剣の刃で討った。25 その日、倒れた者は男女合わせて一万二千人、アイのすべての人々であった。26 ヨシュアはアイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し出した手をもとに戻さなかった。27 イスラエルは主がヨシュアに命じられたことばのとおり、その町の家畜と分捕り物だけを自分たちの戦利品とした。28 ヨシュアはアイを焼き、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそうである。29 さらに、ヨシュアはアイの王を夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ人々に命じた。それで彼らはその死体を木から降ろし、町の門の入り口に投げ捨て、その上に大きな石塚を積み上げた。今日もそうである。」

こうしてアイの軍隊を打ち破ると、イスラエルはアイの町に入って住民を皆殺しにしました。女、子供を含めた全住民を殺すことは人道主義に反するようですが、聖絶するためという明白な理由のためにそのようにしたのです。聖絶とは何ですか?聖絶とは、神のものを神のものとすることです。神のものとして分離することです。そうでないものを徹底的に取り除のです。イスラエルにとってこれは聖戦だったのです。彼らがその地に入って行っても、神の民として神の聖さを失うことがないように、主はそうでないものを聖絶するようにと命じられたのです。

それは、神の民である私たちも同じです。私たちは常に肉との戦いがあります。そうした戦いの中でそれと分離しなければなりません(Ⅱコリント6:14~18)。それによって主は私たちの中に住み、共に歩んでくださるからです。それなのに、私たちはどれほどそのことを真剣に求めているでしょうか。この世と妥協していることが多くあります。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(Ⅰペテロ2:15)とあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされることを求めていきたいと思います。

Ⅲ.エバル山の祭壇(30-35)

終わりに30節から35節までを見ていきたいと思います。「30 それからヨシュアはエバル山に、イスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。31 それは、主のしもべモーセがイスラエルの子らに命じたとおり、またモーセの律法の書に記されているとおり、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で【主】に全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げた。32 ヨシュアはその場所で、モーセがイスラエルの子らの前で書いた律法の写しを、石の上に書いた。33 全イスラエル、その長老たち、つかさたち、さばき人たちは、寄留者もこの地で生まれた者も同様に、主の契約の箱を担ぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、半分はゲリジム山の前に、もう半分はエバル山の前に立った。それは【主】のしもべモーセが以前命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。34 その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。35 モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが、イスラエルの集会全体、および女と子どもたち、および彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。」

それからヨシュアは、エバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築きました。ヨルダン川を渡ることも、エリコとアイの攻略も信仰生活の一部であり、祭儀の執行であったにもかかわらず、また、ギルガルでは40年ぶりに割礼を施し過越しのいけにえをささげました(5:2-12)。にもかかわらず、なぜアイの攻略後に再び祭壇を築いたのでしょうか。

「エバル山」は「はだかの山」という意味の、アイの北方50㎞にある山です。標高は940m、谷からは367mもそびえている山です。アイからそこへ向かうには最低でも2日はかかります。それゆえ、戦いを終えたばかりのヨシュアがこのような遠路を旅することができるはずがなく、これは後代の挿入ではないかと主張する人たちもいるほどです。

しかしそれは、申命記27章においてモーセによって命じられていたことでした。すなわち、イスラエルがヨルダン川を渡ったならばエバル山に主のための祭壇、石の祭壇を築き、そこで全焼のいけにえと和解のいけにえをささげなさい、ということです。ヨシュアはそのとおりにしたのです。それにしてもなぜこの時だったのでしょうか。それは、エリコとアイとの戦い、またアカンの事件を経験し、これからさらに多くの敵と戦わなければならないイスラエルにとって、エバル山での祝福と呪いの律法の確認は、まことにふさわしいものであったからです。

石の上に律法の写しが書かれると、イスラエルの民はゲリジム山とエバル山の二つに分かれて立ち、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げました。ヨシュアはモーセが命じたとおりにし、読み上げられなかったことばは一つもありませんでした。それは、イスラエルの中心は神のことばであり、その神のことばによってこそ彼らは強くなり、勝利することができるからです。それは、私たちも同じです。私たちも神のみことばによって強められ、神のことばに徹底的に従い、信仰によって神の約束を自分のものにしていく者でありたいと思います。

 

酒壺に満たされた酒 

聖書箇所:エレミヤ書13章12~27節(エレミヤ書講解説教29回目)
タイトル:「酒壺に満たされた酒」
きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回の箇所でエレミヤは、主が命じられたとおり、亜麻布の帯を買い、それをユーフラテス川まで行って隠しました。するとかなりの日が経ってから、再び主からことばがありました。それは、もう一度ユーフラテス川へ行き、今度はそれを取り出すようにということでした。エレミヤは主の言われたとおりにすると、その帯はぼろぼろになって何の役にも立たなくなっていました。いったいこれはどういうことかと思っていたら再び主のことばがあり、それはユダとエルサレムの大きな誇りであると示されました。その帯がぼろぼろになったように、主は彼らの誇りをぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、このように行動を通しての預言はもっと強烈です。
きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて語られました。このたとえを通して主は何を語ろうとしたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民イスラエルはいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないのです。それで主は彼らの酒壺に、ご自身の怒りの酒で満たされるのです。
Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」
主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が、神の怒りで満たされるのです。
それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。
これは、彼らは神様の徹底的なさばきを受けるようになるということです。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。だから、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちは、これっぽっちもなかったのです。たとえば、その前のところに、主は「酒壺には酒が満たされる」と言われましたが、それに対して彼らは何と言いましたか。「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。
ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思って奉仕しながら、結果的に自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。
ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶と一緒にご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますとのメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じました。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたも、この天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来ます。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。
16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。ヨハネの福音書11章9~10節にこうあります。「9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
 主イエスは世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かれました。いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられています。それに応答しなければ、闇があるだけなのです。
もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロンに捕えられて行くことになるということです。バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通です。それなのに彼はそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。
そして、これが私たちの主の涙でもあります。主の心です。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を迫害する者たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。
ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。
Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)
次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」
高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきが宣言されています。18節の「王」とは、先週「王と預言者」たちの一覧表を配布しましたが、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。
そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らは王の位から引きずり落されるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。
20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるということです。彼らは羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありませんでした。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても。「あなたがともにおられますから。」主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも、彼らは真の羊飼いではなく、他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも同じです。神との関係が正しければあらゆる人間関係は正されすべての問題は解決しますが、その関係を無視し、この世に解決を求め、神をないがしろにするなら、このような結果を招いてしまうことになります。
それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国の脅威に対して神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。
その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それはあなたの咎のためです。あなたの多くの咎のために、あなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うのです。あらゆる不幸の原因はここにあります。すなわち、神を神としないことです。イザヤ書に書いてある通りです。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)
交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」というのを聞いたことがあります。それと同じように、罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で神に立ち返らなければならないのです。
Ⅲ.神に心を明け渡して(23-27)
では、どうしたら良いのでしょうか。ですから、第三のことは、あなたの心を神に明け渡してということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」
「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪に慣れた人を、善を行う人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることは不可能だということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。
使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造のことです。全く新しい人として造り変えられることです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければならないからです。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人間として生まれ変わるのです。
それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。自分はどうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去るのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だ!持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。
使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)
それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。
27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。
この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることがないということを知ってほしいと思います。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

ぼろぼろになった帯 エレミヤ書13章1~11節ぼろぼろになった帯 

2023年1月29日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書13章1~11節(エレミヤ書講解説教28回目)
タイトル:「ぼろぼろになった帯」
きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られるのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。
Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)
まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」
主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならない、つまり、洗濯してはならないということだからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も身に着けた帯を洗わないというのは不衛生です。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことを言われるのだろう」とか、「そんなことをしていったいどうなるというのか」という思いもあったかもしれませんが、彼は主が言われるとおりにしたのです。
ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範とすべき点です。私たちも聖書を読んでいると、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、エレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。
創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、アメリカンフットボールのコートの1つ半の長さで、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。
時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に解釈して従おうとしないことがありますが、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりに受け止める必要はないと考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれを文字通り受け止めそれに従うことが求められます。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。
すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか、「主のことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次の指示が来ないのです。
エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。それは4節にあるように、「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」ということでした。どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはアナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方が、この後の説き明かしの際に神が意図していたことが明確になるからです。
その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。
ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。
するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですかと言いたくなります。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。彼は主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・・。皆さん、知っていますか?キャビア。世界三大珍味の一つで、高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは他に、フォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。
するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐っていて、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。
Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)
いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」
すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。
いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇り、高慢とはどういうことでしょうか。高慢とは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し、自分の考えで進もうとすること、これが高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆に謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しい、謙遜であるということを、「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の心を全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になった心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それが謙遜であると言うのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それは謙遜であるかのようですが高慢であるということです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。
第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持つことができないのです。「そういう道もあるでしょうね。参考までお聞きしておきますが」とか、「でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。
第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。
あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。
Ⅲ.主に結び付いて(11)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」
ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であり、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司の帯であるとしたら祭司の務めは礼拝ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。主はそこまで私たちと一つになりたいのです。それが神の願いなのです。
これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。
それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これが、イスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。
パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

ヨシュア記7章

ヨシュア記7章

 

きょうはヨシュア記7章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.アカンの罪(1-9)

 

まず1~9節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。2 ヨシュアは部下をエリコからベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わし、彼らに言った。「上って行って、あの地を偵察せよ。」部下たちは上って行って、アイを偵察した。3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民をみな上って行かせるには及びません。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを討たせるとよいでしょう。彼らはわずかですから、民をみな送って骨折らせるには及びません。」4 そこで民のうち、およそ三千人がそこに上って行ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。5 アイの人々は彼らの中の三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを討った。民の心は萎え、水のようになった。」

 

神の不思議な方法によってエリコで勝利を収めたイスラエルは、さらに西へと向かい、次の攻撃の目標であるアイへと進みました。アイは、エリコから20㎞ほど北西に離れたところにあります。そして、さらに7~8㎞ほど西に進むとベテルがあります。それはエリコよりも標高が1,000メートルほど高いところにあったため、そこへ行くには道を上っていかなければなりませんでした。しかしそこは難攻不落と言われていたエリコに比べ以前から廃墟となっているような町で、難なく攻略できるかのような町でした。実際、事前にヨシュアによって派遣された偵察隊によると、その地にいるのはわずかなので民全部を行かせる必要はないと報告したほどです。当時アイの人口は12,000人で、戦闘可能な兵士は約3,000人でした。ですから、民をみな上らせる必要はなく、2,000~3,000人ぐらい上らせて打たせるとよいでしょうと進言したのです。それでイスラエルの民3,000人がそこに上って行くと、彼らは思いがけない攻勢を受け、アイの人々から逃げてしまいました。アイの人々はイスラエルの中の36人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追い、下り坂で彼らを打ちました。それでイスラエルの民の心は萎え、水のようになってしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。6~9節までをご覧ください。

「6 ヨシュアは衣を引き裂き、イスラエルの長老たちとともに、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。7 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうして、この民にヨルダン川をあえて渡らせ、私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼそうとされるのですか。私たちは、ヨルダンの川向こうに居残ることで満足していたのです。8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができるでしょう。9 カナン人やこの地の住民がみな、これを聞いて私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさるのですか。」」

 

ヨシュアは衣を引き裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶりました。そして、いったいどうしてこのようなことになってしまったのかと嘆きました。ヨシュアの信仰はどこへ行ってしまったのでしょうか。ヨルダン川渡河を導き、エリコの攻略を成功させた指導者のことばとは思えないことばです。けれども、これが人間の現実なのです。神の前に正しい人であったヨブも、試練の中で信仰の弱さを露呈しました。それは私たちも同じです。どんなに奇しい主の御業を体験しても、ちょっとでも自分の思うようにいかなかったり、嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあると、次の瞬間にはもう嘆いてしまいます。ヨルダン川の向こう側にいた方が良かった、というようなことを言ってしまうのです。ただヨシュアはそれだけで終わらず、そのような悲しみの中にあってもその敗北の原因は何だったのかを主に尋ねます。敗北を味わうことは人生の中で多々あることですが、大切なのはその敗北の原因をつきとめ、それを除り除くように努めることです。

 

Ⅱ.身をきよめなさい(10-15)

 

主はへりくだって祈るヨシュアに、その敗北の原因を示されます。10~15節までをご覧ください。「10 主はヨシュアに告げられた。「立て。なぜ、あなたはひれ伏しているのか。11 イスラエルは罪ある者となった。彼らはわたしが命じたわたしの契約を破った。聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れることまでした。12 だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せたのだ。彼らが聖絶の者となったからである。あなたがたの中から、その聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。13 立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。イスラエルの神、主がこう告げられるからだ。『イスラエルよ、あなたの中に聖絶の物がある。あなたがたがその聖絶の物を、あなたがたの中から取り除くまでは、敵の前に立つことができない。14 明日の朝、部族ごとに進み出よ。主がくじで取り分ける部族は氏族ごとに進み出、主がくじで取り分ける氏族は家族ごとに進み出、主がくじで取り分ける家族は男一人ひとり進み出よ。15 聖絶の物のことでくじで取り分けられた者は、彼も彼に属するすべてのものも、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破ったからであり、彼がイスラエルの中で恥辱となることをしたからである。』」

 

いったい何が問題だったのでしょうか。油断したことですか、それとも戦術の不備でしょうか。いいえ、もっと本質的な原因がありました。それは、イスラエルが罪ある者となったことです。彼らは主が命じた聖絶の物の一部を取り、盗み、欺いて、それを自分のものの中に入れたのです。だから、敵の前に立つことができなかったのです。それゆえ、彼らの中から聖絶の物を滅ぼし尽くしてしまわないなら、主は彼らとともにいることはありません。彼らは聖別しなければなりませんでした。6章で見たように、エリコはカナン攻略の最初の町として神のものとしてささげられた町でした。それはすべて神のものだったのです。彼らの中のある者が、その神のものを盗み、自分のものにしたのです。それが問題でした。それが、彼らがアイに敗北した原因だったのです。つまり、1節に書かれてあることがその鍵だったのです。

「しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった。」

 

これは7章全体の鍵になるみことばです。イスラエルに起こった出来事が語られる前に、1節で問題点がすでに指摘されていたのです。大勝利の陰に、次の敗北の芽が生えていたということです。聖絶すべきものをアカンが隠し持ったので、イスラエル全体が聖絶の危険に陥ってしまいました。ここではアカンの罪がアカン一人の罪ではなく、「イスラエルの子らは」とイスラエル全体の責任として問われています。イスラエルは神のいのちで結ばれた有機体であることを考えると、それはアカン一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題なのです。それは伝染病を囲い込んだ群れと同じなのです。

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。13節で、主はその解決策を語られます。「立て。民を聖別せよ。そしてこう言え。あなたがたは、明日のために自らを聖別しなさい。イスラエルの神、主がこう告げられるからだ。『イスラエルよ、あなたの中に聖絶の物がある。あなたがたがその聖絶の物を、あなたがたの中から取り除くまでは、敵の前に立つことができない。」

その解決のために主がイスラエルに求められたことは、民を聖別せよ、きよめよということです。彼らのうちから聖絶のものを除き去るということです。それまで主は彼らとともにはおらず、敵の前に立つことはできないと言われました。

 

主は人の目に隠れた小さな罪でも見逃しません。私たちに罪があるなら、主がともに働くことはできないのです。イザヤ書59章1~2節をご覧ください。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもありません。私たちの咎が、私たちと神との間の仕切りとなり、私たちの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。私たちに起きている問題の原因はどこか別のところにあるのではなく、私たち自身にあるのです。失敗のきっかけになった原因を「あの人」「あの事」にばかりにして目を奪われずに、もう少し深いところを見つめなければなりません。その根本的な問題が、神との関係なのです。その神との関係のために、罪が取り除かれなければならないのです。

 

そして、主が示された方法は、彼らが部族ごとに進み出て、その中からくじで取り分けるという方法でした。部族、氏族、家族は、男ひとりひとり進み出なければなりませんでした。そして聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければなりませんでした。アカンを特定する方法について、くじによって違反者を見出すというのは、冤罪を生み出す懸念もありますが、これは神がこの問題に限って定めた方法であり、アカンの自白によって、適切な方法であったと見ることができます。

 

Ⅲ.悪を取り除く(16-26)

 

16~26節をご覧ください。まず21節までをお読みします。「16 翌朝ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させた。ユダ部族がくじで取り分けられた。17 ユダの諸氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族がくじで取り分けられた。ゼラフ人の氏族を男一人ひとり進み出させると、ザブディがくじで取り分けられた。18 ザブディの家族を男一人ひとり進み出させると、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが、くじで取り分けられた。19 ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。おまえが何をしたのか、私に告げなさい。私に隠してはいけない。」20 アカンはヨシュアに答えた。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。21 私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。」:22 そこでヨシュアは使いたちを送った。彼らは天幕に走って行った。すると、それらはアカンの天幕に隠されていて、銀もその下にあった。23 使いたちはそれらを天幕の中から取り出し、ヨシュアとすべてのイスラエルの子らのところに持って来て、主の前に置いた。24 ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと銀、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに彼のすべての所有物を取って、アコルの谷へ運んだ。25 ヨシュアは言った。「なぜ、おまえは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は今日、おまえにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼の所有物を火で焼き、それらに石を投げつけた。26 人々はアカンの上に石くれの大きな山を積み上げた。今日もそのままである。主は燃える怒りを収められた。それで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。」

 

そこで、翌朝ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させました。するとユダの部族がくじで取り分けられました。さらにユダの諸氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取り分けられました。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取り分けられ、ザブディの家族を男一人ひとり進み出させると、アカンが取り分けられました。原因はこのアカンでした。

 

するとヨシュアはアカンに言いました。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。おまえが何をしたのか、私に告げなさい。私に隠してはいけない。」ここでヨシュアはアカンに対して「わが子よ」と言っています。罪に対しては厳しいですが、罪人に対しては優しさを感じます。わが子よ、あなたが何をしたのかを私に告げなさい・・と。するとアカンは、自分が聖絶のものを盗んだことを告白します。するとヨシュアは使いを遣わして、アカンが言ったことが本当であることを確かめると、確かに彼が言ったとおり、聖絶のものが彼の天幕に隠されてあったので、アカンと彼の息子、娘、家畜、それに彼の所有物のすべてをアコルの谷に連れて行き、彼らを石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけました。そこで、主はイスラエルに対する燃える怒りをやめられました。

 

この大変な罪のためにアカンとその全家族が滅ぼされました。それにしても、あまりにも残酷です。アカンだけならまだしも、ここではその家族全員が打ち殺されています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。それは、神は罪を赦すお方ですが、罪を見過ごしたり大目に見たりすることはないということです。必ずけじめをつけられます。これは神の無慈悲を表しているのではなく、罪の悲惨さを表しているのです。そして、その罪のもたらす影響がどれほど大きいものであるのかを示しているのです。パウロはコリント人への手紙の中でこう述べています。Ⅰコリント5章6~7節です。「6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」

ここには古いパン種を取り除くように、と言われています。この古いパン種とは神の目にかなわない罪、咎のことです。なぜなら、そのようなものがあると、それが粉全体をふくらませることになるからです。つまり、パン全体に影響を及ぼしてしまうことになります。だから古いパン種を取り除かなければなりません。それは粉全体、教会全体を守るためです。それはちょうど体を蝕む癌のようなもので体全体を蝕んでしまいます。そのための最善の処置は何かというと、癌細胞のすべてを取り除くことなのです。それと同じように、教会の中に悪があれば、その細胞のすべて取り除かなければなりません。それはひどい話ではなく、そうしなければ全体が滅んでしまうになるのです。それゆえ、私たちは私たちの内に罪があるならそれを取り除かなければなりません。

 

しかし今日において、私たちがアカンのように神に滅ぼされることはありません。なぜなら、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。私たちの罪は既に赦されているのです。主はご自身の御子イエス・キリストの贖いによって、私たちに対する燃える怒りをやめられたのです(26節)。Ⅰヨハネ1章6~9節を開いてください。ここには、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。ですから、この箇所を人々の心の中に隠されている罪の糾弾と、それに対する神の裁きとしてだけ適用してはなりません。私たちはみな神の前に罪人であり、神のさばきを受けなければならない者ですが、そのような者も赦してくださる神の恵み、あわれみが語られなければならないのです。私たちに求められているのは、悔い改めることであり、主の赦しのもとに新しい一歩を踏み出すことなのです。

絶望の中にある神の希望 エレミヤ書12章7〜17節

聖書箇所:エレミヤ書12章7~17節(エレミヤ書講解説教27回目)
タイトル:「絶望の中にある神の希望」

クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

 

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

 

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

 

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

 

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「斑(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

 

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

 

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

 

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

 

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

 

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

 

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

 

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

 

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を蔑(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

 

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。

10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。

「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」

その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

 

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

 

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

 

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

 

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

 

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

 

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」

ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。

これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

 

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

 

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。

ヨシュア記6章

2023年1月11日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:ヨシュア記6章

 

きょうはヨシュア記6章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.城壁がくずれるために(1-11)

 

 まず1~11節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1 エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。2 主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」

 

主の奇跡的な御業によってヨルダン渡河を果たしたイスラエルは、まず割礼を施し、過越しのいけにえをささげました。それからヨシュアがエリコの近くにいたとき、抜き身の剣を手にした主の軍の将から、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」(5:15)と命じられ、ヨシュアはそのようにしました。すなわち、彼は主の御前に自らを明け渡し、主の命じられることに従っていく決心をしたのです。そして、カナンの地の占領に向けて突き進んで行きます。

 

その最初の取り組みは、エリコの町を攻略することでした。エリコの町はパレスチナ最古の町と言われており、その町はパレスチナの主要都市であっただけでなくパレスチナにおける交通の要所であり、軍事的にも重要な拠点でした。ですから、このエリコの町を攻略することができるかどうかは、その後のヨシュアの戦いにとって極めて重要なことでした。

 

しかし、1節に「エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。」とあるように、周囲には高い城壁が巡らされておりだれひとり出入りすることができない難攻不落の町でした。この難攻不落の要塞を前にしてヨシュアは早くも壁にぶち当たり、悩んでいたのではないかと思います。

 

そのような時主がヨシュアに語られました。2節です。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」

ここで注目していただきたいのは、主がヨシュアに、エリコとその王、および勇士たちをあなたの手に渡したと、完了形で言われたことです。まだ起こっていない未来のことが、もう既に彼の手に渡っているということです。このことは、私たちの信仰生活において極めて重要なことを示しています。それは、たとえそれがまだ起こっていない未来のことであっても、神の約束の言葉があれば必ず成就するということです。すなわち、たとえそれが未来のことであっても完了形となるのです。ですから、私たちは何かを始めていくときまず主の前に祈り、主から約束の言葉をいただいてから始めていくことが重要です。

 

以前、礼拝後にM神学生を招聘することについて祈りと話し合いが持たれました。教会の将来のことを考えるとどうしても若い働き人が必要なことは明らかですが、経済的状況をみるとそれはとても不可能なことのように思えました。しかし、みことばを読めば読むほど神のみここはどこにあるのだろうかと祈らされるようになりました。その一つがこのヨシュア記3章にあるヨルダン川渡河の出来事でした。イスラエルの民はどのようにしてヨルダン川を渡ることができたのでしょうか。それはヨルダン川の水がせき止められたので渡ったのではなく、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川の水が完全にせきとめられたので、彼らはその乾いたところを渡ることができたのです。状況的には完全に不可能なことのようでしたが、神のみこころは状況を見ることではなく、神のみことばに聞き従うことだったのです。そのとき、主の御業がなされました。ですから、私たちはまず神のみこころは何かを祈り、それに従うことが求められるのです。結局、その後にか月間祈り求めていくことになり、最終的にO教会の牧師に着任することになりました。

 

ところで、主はどのようにしてエリコの町を彼らの手に渡されたのでしょうか。次に、3~5節までをご覧ください。「3 あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。4 七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」」

 

ここで主は、大変不思議なことをヨシュアに言われました。戦士はみな町のまわりを回れ、というのです。町の周囲を一周し、それを六日間続けます。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進みます。そして七日目には、町の周囲を七回周り、祭司たちは角笛を吹き鳴らすのです。そして祭司たちが長く吹き鳴らす角笛の音を聞いたなら、民はみな大声でときの声をあげよ、というのです。そうすれば、城壁が崩れ落ちると。崩れ落ちたら、民はそれぞれまっすぐ攻め上らなければなりませんでした。

これは全く軍事的な行動ではありません。宗教的行為です。こんなことをして一体どうなるというのでしょうか。途中で敵がそれに気づいて襲ってくるかもしれないし、襲って来なくても、その行動を見てあざ笑うことでしょう。いったいなぜ、主はこのような命令を出されたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの考えではなく神のみこころに徹底的に従うなら、神が勝利を与えてくださるということを示すためでした。

 

イザヤ55章8~9節には、このようにあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

私たちの思いと神の思いとは異なります。私たちがどんなに愚かな知恵を絞って、ああでもない、こうでもないと話し合っても、結局は複雑な迷路に落ち込み不信仰に落ち込んでいくだけですが、しかし人知をはるかに超えた神の知恵に自分自身をゆだね、あるいはその問題をゆだねるなら、そこに不思議な神の御業が現されるのです。

 

今から5年前、妻がこれまで13年間働いてきたさくら市の小学校を突然解雇されました。次年度からは担任の先生が英語を教えるようにしたいという教育委員会の方針が変わったからということでした。それにしても長年働き、来年もお願いしたいと言われていたのにどうして急に話が変わったのか、当初はなかなか受け止められませんでした。自分たちの生活を考えると、もう少し働く必要があったからです。その時、では大田原市の教育委員会に聞いてみようと電話したところ、ちょうど一人のALTが欠員になってしまったのでお願いしたいということになり、大田原の教育委員会で働くことになりました。それは3月に入ってからのことだったので考えられないことでしたが、神様は私たちをあわれんでくださり、その道を開いてくださったのです。

そればかりではありません。さくら市の小学校を解雇されたお陰で、これまでできなかった小学生への伝道ができるようになりました。教会でサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプを行うことになったとき、それを小学校で配ることができたのです。以前働いていた小学校の教頭先生にお願いしたところ、「どうぞ配ってください」と快く了承してくれただけでなく、「たくさん集まるといいですね。」と後でお電話までくださいました。するとその翌日から申し込みが相次ぎ、結局その年のキャンプには66人の参加申込があったのです。

それを見て、私は「はっ」としました。妻が小学校を解雇されたのはこのためだったのかと思ったからです。もしそこに留まっていれば妻の写真が載ったチラシを学校で配ることはできなかったでしょう。しかしそこを完全に辞め、しかもよく知っている先生方がおられたので、むしろ効果的にチラシを配布することができました。まさに私たちの思いと神の思いとは異なり、神の道は完全であるということを実感させられました。

 

ですから、それがたとえ私たちに理解できないことであっても、あるいは、敵にあざけられるようなことであっても、主が命じておられるのであれば、そのみことばに従わなければなりません。特に、ここには「七」という数字が強調されていることに注目してください。エリコの町を七日間回ること、七日目には七度回ること、七人の祭司、七つの雄羊の角笛と「七」が強調されているのは、これが完全な神の御業としてなされることが強調されているのです。

 

それに対してヨシュアはどうしたでしょうか。6~11節をご覧ください。「6 ヌンの子ヨシュアは祭司たちに呼びかけた。「契約の箱を担ぎなさい。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を持ち、主の箱の前を進みなさい。」7 そして民に言った。「進んで行き、町の周りを回りなさい。武装した者たちは主の箱の前を進みなさい。」

8 ヨシュアが民にそう言ったとき、七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って【主】の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱はそのうしろを進み、9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前を行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら箱のうしろを進んだ。10 ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」11 こうして主の箱は町の周りを回り、その周囲を一周した。彼らは宿営に帰り、宿営で夜を過ごした。」

 

ヨシュアは、主が言われたとおりにしました。イスラエルの民も、そのヨシュアの声に従いました。それは世界の戦争の歴史の中でも最も異様な光景でしたが、彼らは主が言われるとおりにしたのです。

10節に注目してください。ここには、「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」とあります。口からことばを出してはいけません。黙っていなければなりませんでした。なぜでしょうか。主の戦いに人間の声は必要ないからです。人間が口から出すことばによって、主の働きが妨げられてしまうことがあります。しかし、黙っているということはなかなかできることではありません。特に女性にとっては大変なことでしょう。ある若い婦人は、「私は夫が聞いていても、いなくても、とにかく話します」と言っておられました。話さないではいられないのです。まあ、これは女性に限ったことではありませんね。男性にも言えることです。私も良く妻に言われます。しかし、主の戦いにおいては黙っていなければなりません。

 

また、主の戦いにおいてもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、焦らないということです。11節を見ると、ヨシュアは1日に一度だけ町の回りを回らせたとあります。これはなかなか忍耐のいることです。どうせなら一日に七度回ってその日のうちに終わらせた方が効率的だと思うのですが、ヨシュアはこの点でも主に従いました。主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちはに必要なのは、自分の悟りに頼らないで、主に拠り頼むことです。

 

Ⅱ.くずれた城壁(12-21)

 

次に、12節から21節までをご覧ください。「12 翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担いだ。13 七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱のうしろを進んだ。14 彼らは二日目も町の周りを一周回り、宿営に帰った。六日間そのようにした。15 七日目、朝早く夜が明けかかるころ彼らは起き、同じようにして町の周りを七周回った。この日だけは町の周りを七周回った。16 七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。17 この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ。遊女ラハブと、その家にともにいる者たちだけは、みな生かしておけ。彼女は私たちが送った使いたちをかくまってくれたからだ。18 あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。19 ただし、銀や金、および青銅や鉄の器はすべて主のために聖別されたものである。それらは主の宝物倉に入れよ。」20 民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。そこで民はそれぞれ、まっすぐに攻め上り、その町を攻め取り、21 町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。」

 

翌朝ヨシュアは早く起き、主が言われたことを実行に移しました。すなわち、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らしました。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱の後ろを進みました。京都の祇園祭の山鉾巡業みたいですね。「エンヤラヤー」の掛け声とお囃子の響きに合わせて神輿が進んで行きます。ただ違うのは、イスラエルの行進はエリコとの戦いのためであったということです。

イスラエルの民は、その翌日も同じように町を一周して宿営に帰り、六日間同じようにしました。いったい彼らはどんな気持ちだったでしょうか。最初のうちに希望とか期待に喜び勇んでいたかもしれませんが、それが二日、三日と続く中で無駄なことではないかという思いも芽生えていたかもしれません。しかし、そのように彼らの中に無意味とも思えることの繰り返しで希望が潰えてしまうような時に、神は勝利の合図を送られました。七週目に祭司たちが吹き鳴らす角笛の音を聞いて、大声で時の声をあげると、城壁はくずれ落ちたのです。

 

これが神の時だったのです。私たちも時として「主よ、いつまでですか」と叫ばずにはいられないような時がありますが、そのような時にこそ神は御業を成されるのです。モーセの死後、あのヨルダン渡河の奇跡と、このエリコの城壁が崩れたという奇跡によって、出エジプトの神はその大能の御手をもってヨシュアとその民と共におられるということが、ここで完全に立証されました。そして、民はまっすぐに町へ上って行き、その町を攻め取りました。

 

ところで、ヨシュアはこのエリコの町を占領するにあたり、この町のすべてのものを、主のために聖絶しなさい、と命じました。その町にあるもの、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて聖絶しなければなりませんでした。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものなので、主の宝物倉に持ち込まなければなりませんでした。

 

「聖絶」とは、ヘブル語の「ハーラム」(חָרַם)ということばで、旧約聖書に51回使われていますが、このヨシュア記には14回も使われています。それは神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンにおいて、そこを征服し、占領していく戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されていたからです。

この「ハーラム」(חָרַם)は英語訳では、「totally destroyed」とか「completely destroyed」と訳されています。つまり、徹底的に破壊すること、完全に破壊することです。すべてのものを打ち殺すという意味です。すなわち、神のものを神のものとするために、そうでないものを完全に破壊するということです。このことばの意味だけを考えるなら、「なんと残酷な」と思うかもしれませんが、しかしイスラエルが神の民として神の聖さを失い、他のすべての国々のようにならないようにするためにはどうしても必要なことだったのです。つまり、「聖絶」とは、神の「聖」を民に守らせる戦いなのです。

 

それは神の民であるクリスチャンにも求められています。Ⅱコリント6章17~18節に、次のようにあります。「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17)

神の民として贖われたクリスチャンも、この世から出て行き、彼らと分離しなければなりません。勿論それはこの世と何の関係も持ってはならないということではありません。この世に生きている限り、この世と関わりを持たずに生きることはできません。ここでパウロが言っていることは、この世に生きていながらもこの世から分離して神のものとして生きなければならないということです。そのためには、常に世俗的なものと戦う必要性があるのです。世俗的なものは何でしょうか。それを定義することは難しいことですが、あえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。私たちがこの世に生きる限りこうした世俗的なものが絶えず襲い掛かって来て神への信頼を脅かしますが、神の民として生きるために、いつもこの世と分離しなければなりません。私たちにもこの「聖絶」(聖別)することが求められているのです。

 

Ⅲ.神のあわれみ(22-27)

 

最後に、22~27節を見たいとと思います。「22 ところで、ヨシュアはこの地を偵察した二人の男に言った。「あの遊女の家に行き、あなたがたが彼女に誓ったとおり、その女とその女に連なるすべての者を連れ出しなさい。」23 偵察した若者たちは行って、ラハブとその父、母、兄弟、彼女に連なるすべての者を連れ出した。彼女の親族をみな連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。24 彼らはその町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。銀や金、および青銅や鉄の器だけは主の家の宝物倉に納めた。25 しかし、遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。26 ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」27 主がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。」

 

エリコの町とその町の中にあるすべてのものは、主のために聖絶されましたが、遊女ラハブと、その家にいた者たちは助け出されました。それは以前ラハブが偵察したふたりの者をかくまったからです。あの時に遊女ラハブに誓ったとおり、ふたりの斥候は彼女の家に行き、彼女と彼女に属するすべての者を連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておきました。すぐに彼らを宿営の中に入れなかったのは、おそらく彼らが異邦人だったので、その前に信仰告白と割礼を受ける必要があったからでしょう。しかし、そんな異邦人であった彼らもやがて神の民の中に加えられました。そればかりか、ラハブは遊女でありながらも救い主の系図に名を連ねるという栄光に浴することになるのです(マタイ1:5)。

 

こうして旧約聖書においても神は、この世における最も卑しい者に対しても救いと恵みを与えてくださる方であることを示してくださいました。それは限りない神の恵みとあわれみの表れです。たとえ私たちが、「こんなにひどい罪を犯したのだから、決して赦されることはないだろう」と思っても、神の恵みとあわれみは尽きることがありません。神はその罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

 

26節と27節には、このエリコの町の聖絶が徹底的なものであったことが記されてあります。いや徹底的であっただけでなく、それはヨシュアの時代を超えた未来にまで及ぶまでの徹底さでした。Ⅰ列王記16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とありますが、エリコの町を再建させようとするヒエルがエリコの町の礎を据えたとき、長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子セクブが死んだことで、この言葉が文字通り成就しました。ここにはイスラエルをかくまったラハブと、イスラエルに敵対したエリコとの姿とが対比されています。

 

私たちも遊女ラハブのように救われるべき資格のない者でしたが、一本の赤いひもが彼女とその家族を救ったように、イエス・キリストの血に信頼することによって、神の怒りから救い出されました。そのように救い出された者として、神の民、神のものとして、神の深いご計画の中で、神に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。

 

主を知ることを切に追い求めよう ホセア書6章1~3節

聖書箇所:ホセア書6章1~3節
タイトル:「主を知ることを切に追い求めよう」

新年おめでとうございます。皆さんは、どのような思いをもって新年を迎えられたでしょうか。今年は1月1日が日曜日となり、こうして1年の最初の日に共に主を礼拝できることを感謝します。

毎年、新年に示されたみことばから新年の教会の目標を掲げておりますが、今年は、昨年礼拝で示されたみことばから特に私の心に響いてきた聖句を目標に掲げました。それは、エレミヤ9章3節にこうあります。「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。」
 イスラエルの民が、悪から悪へと進み、主に対して真実でなかったのは、主を知らなかったからです。その結果、悪から悪へと進み、人間関係がギクシャクし、社会全体が混乱するようになりました。これは私たちにも言えることです。すべはこの「主を知る」ということで決まるのです。

それできょうはその「主を知る」ことについて、ホセア書6章1~3節のみことばからお話したいと思います。特に6章3節が、今年の教会の目標聖句となります。ご一緒に読んでみましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 これはB.C.790年頃に、神が預言者ホセアを通して北王国イスラエルの民に対して語ったことばです。当時の王様はヤロブアム2世という王様でしたが、国全体に偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。その最大の原因は、彼らが主を知らなかったからです。そんなイスラエルの民に対してホセアは、「主を知ることを切に追い求めよう」と語るのです。
 これはいつの時代でも、どの民族にも言えることです。私たちの人生における問題は、このことに関わっています。ですから、私たちは今年このみことばを心に留め、主を知ることを切に追い求める年でありたいと思うのです。

Ⅰ.さあ、主に立ち返ろう(1)

 

それでは、本文を見ていきましょう。1節をご覧ください。ここには、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあります。

ホセア書は神に背き神から離れて行ったイスラエルの民との関係を、ホセアとその妻ゴメルとの関係を通して語ります。すなわち、ホセアとゴメルという夫婦関係を通して、神に背いたイスラエルが神に立ち返るようにと勧告するのです。夫ホセアの愛は人知をはるかに超えた愛でした。夫を裏切り、不貞を働いた妻ゴメルを、その結果、奴隷として身を売る羽目になっていた妻ゴメルを見離さず、見捨てず、お金を払って買い取のです。そして、こう呼びかけてくださいます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

 

このことばは、その前にある5章14~15節のことばを受けてのことばです。そこには、「14 わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」とあります。

ここで主は姦淫の妻ゴメルのように神から離れて偶像に走って行ったイスラエルの民に対して、彼らを引き裂くと言われました。これは、具体的にはアッシリアという国によって滅ぼすということです。だれも彼らを助けることはできません。そうすることで、もしかすると彼らは自分の罪を悔い改めて神に立ち返り、神を慕い求めるようになるかもしれません。それまで当たり前だった神の存在が感じられなくなることで、神を慕い求め、神を捜し求めるようになるかもしれない。それまでは自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと、主は言われたのです。

 

それを受けてホセアは、北王国イスラエルの民に「さあ、主に立ち返ろう」と呼び掛けるのです。それはいつですか?今でしょ。今が主に立ち返る時だと。主が御顔を隠しておられるのは、私たちが主を慕い求めるようになるまでなのだから、今、立ち返ろうではないかと呼び掛けているのです。これはすばらしい招きです。なぜなら、ここに「主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあるからです。もし主に立ち返るなら主が癒し、包んでくださいます。主は引き裂かれるだけでなく癒やしてくださる方です。打つことはあっても包んでくださいます。事実、主は彼らを引き裂かれました。主が預言者を通して何度も何度も主に立ち返るように語ったのにそうしなかったので、アッシリアという国を用いて彼らを引き裂かれるのです。でもそれは彼らを滅ぼすことが目的ではありません。そうではなく、建て上げることが目的なのです。癒すために引き裂くのです。包むために打たれるのです。誤解しないでください。神様があなたを引き裂かれるようなことがあるとしたら、それはあなたを滅ぼすためではなく癒すためです。ちょうど外科医がメスを入れてあなたを蝕(むしば)んでいる悪いものを取り除き、その痛んだ傷を包帯で巻くように、主はあなたを蝕んでいる罪を取り除くためにメスを入れ悪いところを取り除いてくださいます。そして、取り除いた後はちゃんと巻いて包んでくださいます。彼らはアッシリアに引き裂かれることになりますが、その後で癒され、包んでいただくことになります。だから主に立ち返らなければならないのです。

 

Ⅱ.生き返らせてくださる主(2)

 

次に2節をご覧ください。ここには、「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」とあります。どういうことでしょうか。

聖書に「三日目」とある時、それはイエス・キリスト復活との関係で書かれてある場合がありますが、ここもその一つと言えるでしょう。たとえば、Ⅰコリント15章3~4節でパウロはこう言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」
 ここに「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中のどこにイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえるということが預言されているのでしょうか。たとえば、ヨナ書はそうですね。ヨナは主の命令に背いてニネベではなくタルシシュに逃れようとしましたが、大嵐に遭い船が転覆しそうになりました。それで、いったいだれのせいでこんなことになったのかとくじを引いたところ、それはヨナのせいであることが判明しました。それで水夫たちは彼を海に投げ込むと、神様は大きな魚を備えておられたので、その魚に呑み込まれてしまいました。三日三晩です。彼は魚のお腹の中に三日三晩いました。そこで彼は悔い改めるわけですが、この三日三晩というのはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえることの予表でした。

 

ここでもそうです。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。それは、主がひとり子イエス・キリストを死からよみがえらせたように、ご自身のもとに立ち返り、ご自身の御名を信じる者を生き返らせ、立ち上がらせてくださるということです。そのように言っても間違いではないでしょう。古代教父のテルトリアヌスもそのように理解しています。

 

あれからどのくらいが経ったでしょうか。あれからというのはイエス様が死からよみがえられてから、復活してからです。あれから二千年が経ちました。聖書には、一日は千年のようであり、千年は一日のようだとありますが、そういう意味ではこの「二日の後」とは二千年の後とも受け止めることができると思います。イエス様が復活してから二千年が経ちました。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。その日は限りなく近いのです。

 

Ⅲ.主を知ることを切に追い求めよう(3)

 

では、どうしたら主に立ち返ることができるのでしょうか。第三に、それは主を知ることによってです。3節をご覧ください。ご一緒に声に出して読みましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

 

イスラエルの民が主に背いたのは、本当の意味で主を知らなかったからです。それはホセアの妻ゴメルにも言えることです。ゴメルが他の人を慕い求めたのはどうしてでしょうか。それは夫のホセアの愛を知らなかったからです。それがどんなに大きなものであるか、どんなに真実の愛であるのかを知りませんでした。そして、その愛をもって愛されているということがわかりませんでした。

 

それで神はゴメルがその愛を知るために、ホセアにこのように言われました。3章1節です。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
 ホセアとゴメルの婚姻関係は完全に破綻していました。夫に愛されていながらゴメルが他の男と姦通したからです。しかし、主はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。」と言われました。ある人がこの箇所から「再婚」という題で説教しました。皆さんがホセアだったらどうですか。嫌ですよ。そのような妻と再婚することを誰が望むでしょうか。カール・ヒルティは、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消すことではありません。痛みを忘れるということです。許すとは、痛みを忘れることなのです。相手から受けた痛みが残っている以上、本当の意味で許していることにはなりません。本当に許すとは忘れることなのです。でもそう簡単に忘れることなどできません。でも神様は忘れてくだいました。私たちの罪を、十字架と復活の御業を通して完全に忘れてくださったのです。イザヤ43章25節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしいですね。主はあなたの背きの罪をぬぐい去り、あなたの罪を思い出すことはなさいません。これが私たちの主の約束です。

 

ホセアはこの神の愛を知っていました。ですから、彼はゴメルを受け入れることができたのです。いや、彼はこのような痛みが与えられたのは、その痛みによってそれまで以上により深く神を知り、神と交わるためであるという意味を悟ることができました。そうです、『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』のです。皆さん、知ってますか? 『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』ということを。これは、「This is us」という映画の中で、産婦人科の医師が語ることばです。ある夫婦が三つ子の赤ちゃんを身ごもるのですが、1人目と2人目は無事に生まれてきたものの3人目は死産します。涙する夫を慰めようと医師は彼の隣に座り、こう告げるのです。『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』。

 

それでホセアは主が命じられた通りにしました。3章23節です。「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
 ホセアは、自分を裏切って他の男と姦通していた妻ゴメルのためにお金を払って彼女を買い取りました。再婚したのです。当時、成人男子の値段は30シェケル(銀30枚)でした。未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。ですから、相当の金額を支払って買い戻したわけです。「買い取った」という言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表しています。この世的に言えば、他の男の所有になっていたということです。そんなゴメルを買い取ったのです。

神を信じないという罪、いわゆる原罪ですね、そういう罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9章22節)。とあるとおりです。

 

同じように神様も私たちに実際のわざによって、その愛を示してくださいました。それが十字架の愛です。この十字架を通して主を知ることが本当の救いです。ヨハネ17章3節にこうあるとおりです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

つまり、神を知るというのは、神に対しての知識を持つというだけではなく、この十字架と復活の御業を通して体験的に知るということなのです。このことについては既にエレミヤ書の中でもお話しましたが、「ヤダー」というヘブル語でしたね。これは創世記4章1節にある「人は、その妻を知った。」の「知った」ということばと同じです。それはアダムがエバと対面してその存在を知ったということ以上のことで、もっと親密なレベルで、体験的に知ったということです。それが夫婦であれば性的関係を持つことを意味しています。これ以上に親密なレベルはありません。そのように知ろうと言っているのです。

 

そのように主を知るとどうなりますか。ここには「主は暁ように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。

「暁」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださいます。5章15節では、主は自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと言われましたが、時として主がどこにおられるのかわからないことがあります。暗闇の中にいるように感じることがあります。しかし、主を知ることを切に追い求めなら、暗闇の中で主を捜し求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。主はいつまでも身を隠しておられる方ではありません。いつまでもあなたから遠ざかっておられる方ではないのです。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。

 

そればかりではありません。ここには「大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。「大雨」とは、12~2月頃に降る雨のことで、「先の雨」とも呼ばれているものです。イスラエルには雨季と乾季という2つの季節しかありません。雨が降らない乾季は、土地がカラカラに乾いています。その乾いた土地がこの大雨によって潤されるのです。

そして3~4月に大雨が降ります。これが「後の雨」です。これは春に降る雨なので「春の雨」とも言われますが、夏の収穫のためには絶対に欠かすことができない雨です。それは穀物を実らせる祝福の雨なのです。この雨が降らなければ作物は実りません。真っ先に冬に雨が降って地が潤され、その後に春の雨、「後の雨」降って豊かな収穫がもたらされるのです。

実り豊かな人生を送るためには、この雨が必要です。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、先の雨、大雨によってカラカラに乾いたあなたの心が潤され、後の雨によって多くの収穫がもたらされるのです。ですから、この雨は恵みの雨なのです。主を知ることによって、このような恵みの雨があなたの心に注がれるようになるのです。感謝ですね。

 

日本のキリスト教の大衆伝道者に笹尾鉄三郎という牧師がおられますが、彼は「これは再臨の前に来るべき聖霊の大傾注を意味している。」と言っています。つまり、先の雨がペンテコステの時の聖霊降臨であるとすれば、後の雨とは、世の終わりにおけるリバイバルのことでもあるというのです。そのようにも言えるでしょう。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。それは、主との関係のことなのです。決して何かをすることによってではありません。何らかのイベントや活動によるのではないということです。それはただ主を知ることによってもたらされる聖霊の御業なのです。

 

ゼカリヤ10章1節に、「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」とあります。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。ですから、私たちは今年、主を知ることを切に追い求めたいと思うのです。そして、主が後の雨、実りの雨、収穫の雨、聖霊が豊かに注がれることを祈り求めようではありませんか。

 

最後に、一つだけ注意すべきことを見て終わりたいと思います。それは4~6節にあることですが、一時的なもので終わらないようにということです。「4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

彼らの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようでした。一時的なものだというのです。「さあ、主に立ち返ろう」という招きのことばを聞いて、「主を知ることを切に追い求めよう」と言われ、「わかった!そうしよう」と思うのですが、それが一時的であって夕方になる頃には消えて無くなってしまってはダメだと言うことです。そうだ!明日は箱根駅伝だ。今年は駒沢か、青学か、それとも順天堂か、あるいは東京国際かということで心が一杯になり、すっかり主のことを忘れてしまうのです。これは私のことです。私はスポーツが大好きですから、そういうことにすぐに熱中するのですが、あまりにも熱中するあまりいつしか主がどこかに行ってしまうことがあります。皆さんもそうでしょう。それがスポーツでないにしても、皆さんの関心が心を奪い、全く主を忘れてしまうということが。朝もやのように、朝早く消え去る露のように、その思いがすぐに消え去ってしまうことがあるのではないでしょうか。あるいは、明日のこと、この先のこと、老後のこと、いろいろなことを考えて不安になり右往左往してしまうことがあるのではないでしょうか。それではダメです。朝もやのように、露のように消えてしまうことがないように、このみことばを心に刻まなければなりません。6節です。ご一緒に読みましょう。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

 

皆さん、主が喜びとするのは真実の愛です。いけにえではありません。全焼のささげものでもありません。全焼のささげものよりも、神を知ることなのです。どうか朝もやのようにならないようにしましょう。朝早く消え去る露のようにならないようにしましょう。主を知ることは今日だけでなく、この1年を通して、いや、私たちの信仰生活のすべてにおいて追い求めていかなければならないことなのです。そのような中でも、特に今年、この新しい年、このことを切に求めたいと思うのです。神を知ることです。その時主が暁の光のように現れ、大雨のように私たちのところに来られて、地を潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。この一年がそのような年となりますように。主を知ることを切に追い求めましょう。

ヨセフのクリスマス マタイ1章18~25節ヨセフのクリスマス 

聖書箇所:マタイ1章18~25節
タイトル:「ヨセフのクリスマス」

メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図からキリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びましたが、きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際にはイエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼は聖書の中で一言も発していないのです。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と、気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と、宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書の中にはそういうことばはありません。黙ったままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

 

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

 

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には18節と19節の冒頭に、それぞれ「デ」(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たことを受けて「しかし」ということです。1節から17節にはキリストの系図が記されてありました。そこには、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという系図が記されてありましたが、それに対してイエス・キリストの誕生はどうであったのかということです。つまり、1節から17節までの系図にある誕生というのはごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったということです。イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったのです。それはどのような方法だったのでしょうか。

 

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」ですね。できちゃったから結婚するというのはよくあることですが、ここではそのようにできちゃったから結婚したというのではなく、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもったと言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

 

当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。

第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

 

そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと考えられていますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時に「実は、聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と、頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことです。とても信じられないことでした。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。ですから、彼女は相当悩んだはずです。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えたのです。

 

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

普通だった怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

 

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語では「ディカイオス」(δικαιος)という言葉です。これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

 

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

 

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべく人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

 

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかるのではないかと思います。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、それは彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていたという何よりの証拠だと思います。正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

 

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

 

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

 

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

 

ヨセフがこのことで思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。順序が逆のような気がします。マリアの時のように、先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフもそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。どうして神様は先にこのことを教えてくれなかったのでしょうか。それは、ヨセフにとって思い巡らす時が必要だったからです。そうした思い巡らす時、地下黙の時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われその理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

 

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく私たちの弱さなり、危険性を、このように鋭く突いたのです。

 

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできないのです。ですから、神の前に静まることなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはできません。ボンヘッファーはそれを言いたかったのはそういうことだったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、キリストの召しを否定することになるし、そうすれば、召された者たちの交わりとは何の関わりを持つことはできません。まあ、バランスが必要だということですが、そのバランスの中でも、ひとり神の前に立つこと、神様と1対1となって思い巡らす時が必要であり、そのとき、神のみこころが明らかにしてくださるのです。そういう意味でみことばと祈りの時、ディボーション、静思の時を持つことがいかに重要であるかがわかります。

 

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。その方は罪なき方でなければなりませんでした。その罪なき方として、人間の姿をとらなければならなかったからです。

 

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

 

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

 

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

 

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたというか、心が奮えるような体験をしたのです。

 

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。主の前に静まり、黙って主を待ち望むのです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれない。今すぐ何かをしなければならないといろいろな対応策が頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書は「私たましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というのです。あれやこれやと自分で考え、慌ただしく動き回るのではなく、主の前に静まり、神を待ち望むのです。そして、主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいというのです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

 

ですから、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。

 

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

 

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

 

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従いました。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な関係を持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

 

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもやめ、身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや噂の前に立ちはだかり、神の約束、インマヌエルの神に信頼しました。彼は、神の救いにすべてをかけて生きたのです。

 

私たちの人生においても、ひとり静かに黙しなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある兄弟姉妹との交わりの中に身を置きながら持つのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。ですから、沈黙とはただことばを発しないということではなく、神のことばを聞くこと、神が語られることばに傾聴することなのです。

 

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前で静まり、主のみことばを聞く所へと導かれていきたいものです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、「わたしはあなたとともにいる」ということばと出会い、そのことばによって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。