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幸いな道はどれか エレミヤ書6章16~30節

聖書箇所:エレミヤ書6章16~30節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「幸いな道はどれか」

きょうは、エレミヤ書6章の後半の箇所から「幸いな人はどれか」というタイトルでお話します。この6章は、預言者として神のことばを語ったエレミヤの最初の預言のまとめとなる箇所です。神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、神に立ち返るようにと語りますが、民は全く聞こうとしませんでした。それに対して神は滅びを宣告されました。北からのわざわい、バビロン軍がやって来て彼らをことごとく破壊すると。それでも彼らは聞こうとしなかったのです。彼らは頑なで、どんなに悪を取り除こうとしても取り除くことができませんでした。それで神は彼らを捨て去ることになります。きょうの聖書箇所の30節には「彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」とあります。彼らに必要だったことは、へりくだって、悔い改めることでした。幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいの安らぎを見出すことだったのです。

 

Ⅰ.「私たちは歩まない」(16-20)

 

まず16~20節までをご覧ください。「16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。19 この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。20 いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」

 

「道の分かれ目に立って」とは、新改訳聖書第三版では「四つ辻(つじ)に立って」と訳しています。「四つ辻」とは、十字路のことです。東西南北に視界が開けた場所のことを指しています。四方とも開けているので、どの方角にも進むことができるわけですが、そこに立って見渡すようにというのです。幸いな道はどれであるかを。しかし往々にして私たちは、自分がどちらの道を進んで行ったらよいのか迷います。それで主はこう言われます。「いにしえからの通り道、幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

「いにしえからの道」とは、昔からの道という意味で、これは神の律法のことを指しています。この道はすでにイスラエルの歴史を通して、そこに歩めば幸いな人生を送ることができると実証されていた道でした。にもかかわらず、彼らは何と言いましたか。彼らは「私たちは歩まない」と言いました。こういうのを何というんですかね。こういうのを反抗的と言いますね。彼らは実に反抗的だったのです。

 

「律法」と聞くと、私たちの中にも否定的なイメージを抱く人がおられるのではないでしょうか。でも「律法」そのものは良いものです。それは、人間が正しく歩ために神が与えてくださった道しるべです。それは、私たちを幸いな道へと導いてくれるものなのです。しかし残念なことに、この律法の要求を完全に満たすことができる人はだれもいません。ですから、律報によって義と認められることはできません。もしそのように求めるなら、律法が本来目指しているものからずれてしまうことになります。いわゆる律法主義となってしまうのです。律法主義は、律法を行うことによって救いを得ようとすることであって福音ではありません。でも律法そのものは救い主イエス・キリストへと導いてくれる養育係です。イエス・キリストこそ、律法本来が指し示していた方であり、私たちが救われる唯一の道なのです。そのイエスに導くもの、それが律法です。律法によって私たちは自分の罪深さを知ることで、そこからの救いを求めるようになるのです。ですから、律法は良いものであり、幸いな道なのに、彼らは、「私たちは歩まない。」と頑なに拒んだのです。

 

17節に「見張り人」とありますが、これは預言者のことです。神は預言者を立て、迫り来る神のさばきからのがれるようにと警告したのに、彼らは何と言いましたか。彼らは「注意しない」と言いました。また出ましたよ。「こうしなさい」というと、必ずそれと反対のことを言う。こういうのを何というかというと、「あまのじゃく」と言います。人の言うことやすることにわざと逆らう人のことです。ひねくれ者です。「角笛に注意しなさい」というと「「注意しない」と言いました。反抗期のこともが親に逆らうように逆らったのです。

 

18節と19節をご覧ください。それゆえ、諸国の民は聞かなければなりませんでした。何を?彼らに対する神のさばきの宣告を、です。それは彼らの企みの実、たくらみの結果でした。身から出た錆であったということです。彼らが主のことばに注意を払わず、それを退けたからです。

 

20節のことばは、少し唐突な感じがしますね。18節と19節で言われていることと、どんな関係があるのかわかりません。「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」どういうことでしょうか。

「シェバ」とは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りにある国です。聖書には「シェバの女王」として有名です。そこから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がささげられます。そうです、「乳香」とか「菖蒲」とは、礼拝のために用いられた香りだったのです。いったい何のためにこれらをささげるのかと、神は問うておられるのです。こうした香りのささげものや彼らの全焼のささげものは受け入れられず、彼らのいけにえは、主にとっては心地よくないものだからです。それは主に喜ばれるものではありませんでした。つまり彼らが当たり前にしていることが的を外していたのです。彼らが当たり前にしていた礼拝が、神に受け入れられるものではなかったということです。それはただ形だけの、形式的なものにすぎませんでした。彼らは形では神を礼拝していましたが、その心は遠く離れていたのです。なぜでしょうか?神のみことばから離れていたからです。神のことばを聞こうとしていなかったからです。ですから、神が何を求めておられるのかがわからなかったのです。

 

皆さん、これは大切なことです。信仰生活においてこの一番大切なことを忘れると、その中心からズレると、このように周りのことというか、それに不随するものに心が向いてしまうことになります。皆さん、教会にとって最も大切なことは何でしょうか。それは祈りとみことばです。つまり神のみことばを聞いてそれに従うことです。それが祈りです。教会の中心は美しく立派な会堂でもなければ、どれだけの人が集まっているかということではありません。どれだけ地域社会に奉仕しているかとか、どれだけすばらしい賛美がささげられているかということでもないのです。教会の中心は、信仰生活の中心は、神のみことばを聞いてそれに従うことです。そのみことばに生きるということなのです。

 

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でしたが、彼はこの中心からズレてしまいました。彼は神様からアマレク人を聖絶するようにと命じられたのに、しませんでした。聖絶というのは、完全に破壊するという意味です。どんなに価値があるように見える目ものでも、神が聖絶せよと言われるなら聖絶しなければならないのにしませんでした。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。それゆえ、サウルは王としての立場から退けられることになってしまったのです。その時、主が言われたことはこうでした。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

いったいサウルは何を間違えたのでしょうか。何を履き違えたのでしょうか。礼拝とは何であるかということです。その本質が何であるかということをはき違えたのです。サウルは、立派なものをささげることで神が喜んでくださると思い込んでいましたが、神が喜ばれることはそういうものではありませんでした。神が喜ばれることは、ご自身の御声に聞き従うことだったのです。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさるのです。

 

この時のイスラエルの民もそうでした。彼らは、外国からの高価な香りや多くの立派なささげ物を神が喜んでくださると思っていましたが、それは全くの彼らの勘違いでした。神が喜んでくださるのは、神のみことばに聞き従うことなのに、それがないのに、どんなに高価なささげものをしても全く意味がないのです。神のことばを拒むことによって彼らの礼拝がダメになってしまった、崩れてしまいました。つまり、人生の中心部分が壊れてしまったわけです。その結果、いにしえからの通り道、幸いな道を見失うことになってしまいました。

 

皆さん、私たちも注意しなければなりません。人生の中心部分を見間違うと大変なことになってしまいます。私たちの人生の中心とは何ですか。それは何度もお話しているように、神を喜び、神の栄光を現わすことです。ウエストミンスター小教理問答書にはこうあります。

「人の主な目的は、何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

皆さん、これが私たちの人生の中心です。神は人をそのように造られました。ですから、この人生の中心部分が壊れると、幸いな道を失ってしまうことになります。

 

英国の有名な神学者C・S・ルイスは、50年前に幸福を次のように定義しました。「車はガソリンで走るようにできているのであって、それ以外のものでは走れない。神は人間という機械が神によって走るように設計された。私たちは、神ご自身が燃料となり、食する糧となるように設計された。私たちには、他に頼るものはない。だから、宗教を度外視し、私たちのやり方で幸せにしてくださいと神に願うのは正しくない。神が、ご自分と無関係に幸せや平和を私たちに下さるなどということはあり得ない。そのようなものは、存在しないのだから。」

まあ、現代はガソリンに代わる新しい燃料が研究されていますが、今から50年前はガソリンしか考えられなかったわけで、その燃料こそ神ご自身だと言ったのです。それ以外のものを燃料としようものなら、走ることはできません。神との関係こそ、私たちが走ることができる燃料なのであって、その中心を外してはならないのです。その中心は、神のことばに聞くことなのです。

 

Ⅱ.恐怖が取り囲んでいる(21-26)

 

第二のことは、その結果です。21~26節をご覧ください。「21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」22 主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。23 彼らは弓と投げ槍を固く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。娘シオンよ。彼らは馬にまたがり、あなたに向かい、一団となって陣を敷いている。」24 私たちは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが私たちをとらえた。産婦のような激痛が。25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐怖が取り囲んでいるからだ。26 娘である私の民よ。粗布を身にまとい、灰の中を転げ回れ。ひとり子を失ったように喪に服し、苦しみ嘆け。荒らす者が突然、私たちに襲いかかるからだ。」

 

その結果、彼らはどうなったでしょうか。21節には「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」」とあります。その結果、主は彼らにつまずきを与えます。「つまずき」とは、22節にある北から攻めて来る大きな国がやって来るということです。これはバビロンのことです。彼らは残忍で、あわれみがありません。情け容赦なく攻め寄せてきます。彼らは馬にまたがり、一致団結して攻め寄せてくるのです。

 

そのようなうわさを聞いたユダの民はどうなったでしょうか。24節、彼らは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみ悶えました。産婦のような激痛が走ったのです。それは、恐怖が彼らを取り囲んだからです。これがエレミヤ書のキーワードの一つです。このことばは他に、20章3節、10節、46章5節、49章29節にも出てきます。繰り返して語られています。たとえば、20章3節には、「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」。と」(エレミヤ20:3)とあります。これはエレミヤが偽預言者のパシュフルに語ったことばです。「パシュフル」という名前には「自由」という意味がありますが、偽りのことばを語るパシュフルは自由ではなく不自由だ、「恐怖が取り囲んでいる」と言ったのです。それはパシュフルだけではありません。神に背を向けたすべての人に言えることです。神に背を向けたすべての人にあるのは「恐怖」です。恐怖が彼らを取り囲むようになるのです。

 

まさに預言者イザヤが言ったとおりです。イザヤ書57章20~21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

皆さん、悪者どもには平安がありません。「悪者ども」とは悪いことをしている人たちというよりも、神を信じない人たちのことです。神の救いであるイエスを信じない人たちです。そのような人たちは自分を信じ、自分の思う道を進もうとしています。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、心に不安を抱えているのです。水が海草と泥を吐き出すように、彼らの口から出るのは泥なのです。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけています。それが悪者の特徴です。心に平安がないからです。平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。仕事で成功しても、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされていても平安がありません。心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。常に恐怖が取り囲んでいるのです。それは荒れ狂う海のようで、静まることがありません。泥を吐き出すしかありません。

 

26節には、それはひとり子を失ったようだと言われています。これは最悪の悲しみを表しています。なぜなら、自分の名を残せなくなるのですからです。自分たちの将来が無くなってしまいます。このように神から離れ、神のみことばを聞かなくなった結果、彼らは恐ろしい神のさばきを受けるようになったのです。

 

Ⅲ.心を頑なにしてはいけない(27-30)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、心をかたくなにしてはいけないということです。27~30節をご覧ください。「27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ。」28 彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。29 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。30 彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」

 

これが、エレミヤが1~6章まで語ってきた内容の結論です。27節の「試す者」とはエレミヤのことを指しています。主はエレミヤを試す者として立てられました。それで彼は神のことばを語っていろいろと試してみたわけです。たとえば、5章ではエルサレムの通りを行き巡り、そこに正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。でも結果はどうでしたか?そういう人は一人もいませんでした。「義人はいない、一人もいない」です。

 

次にエレミヤは、別の方法で彼らを試しました。それは彼らを懲らしめて悔い改めるかどうかということです。しかし、彼らはみな頑なな反逆者でした。そうした彼らが、ここでは青銅や鉄、また銀にたとえられているわけです。銀を精錬するように、神の民を懲らしめてみたらどうなるでしょうか。当時、鉱石から銀を取り除くためには炉の中に鉱石を入れ、吹子で吹いて、鉛を溶かしたそうです。そのように彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。鉛は溶けましたが、悪いものは取り除けなかったのです。いくら精錬しても、不純物、銀かすが残ったのです。それゆえに彼らは、「捨てられた銀」と呼ばれ、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。

 

皆さん、神は愛する者を精錬されます。へブル人への手紙にはこうあります。「6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:6-7)

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられます。ですから、訓練と思って耐え忍ばなければなりません。そして、イスラエルの民のように、心を頑なにしないで、神のことばに聞き従わなければなりません。聖書にこうあるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7-8)

 

あなたはどうでしょうか。あなたはどのような御声を聞いておられますか。もし、今日御声を聞くなら、心を頑なにしてはいけません。その御声に聞き従ってください。なぜなら、主ご自身があなたのために先ず十字架で死んでくださったからです。主が懲らしめを受けてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを受けるためです。この方があなたの救い主です。その方がこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)これが真理の道、いのちの道、幸いの道なのです。

 

イザヤ書30章21節にはこうあります。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」

あなたが人生を歩むとき、右に行ったらいいのか、それとも左に行ったらいいのか悩む時があるでしょう。しかし、これが道です。これがいのちの道、幸いな道なのです。主は聖霊を通して、「これが道だ。こけに歩め」と言っておられます。どうか道を間違えないでください。永遠に変わることがない神のみことばこそ、真理の道なのです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。どうかこの道を歩み、たましいにやすらぎを見出してください。特に若い方々には自分がやりたいと思うことがたくさんあるでしょう。でもそのすべてが正しいとは限りません。どうか道を踏み外さないでください。もし踏み外したと思ったら、すぐに主に立ち返り、主が示される道を歩んでください。あなたがへりくだって主のみことばに従い、幸いな人生を送ることができるように祈ってやみません。

偽りの平安 エレミヤ書6章1~15節

聖書箇所:エレミヤ書6章1~15節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「偽りの平安」

エレミヤ書6章に入ります。今日のタイトルは「偽りの平安」です。14節に「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」とあります。「彼ら」とはエレミヤの時代の預言者たちのことです。彼らはみな偽りを言っていて、本当は平安じゃないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。いわゆる「偽りの平安」です。世の終わりが近づくとこうした偽りの預言者が現れ、平安がないのに「平安だ、平安だ」と言いますが、そうしたことばに騙されないで、聖書が言っていることはどういうことかをよく聞いて、主が与えてくださる本物の平安をいただきながら歩みたいと思います。

三つのことをお話します。第一に、平安ではなかった神の民、エルサレムの姿です。彼らは悪に満ちていたので、神は彼らに大いなる破壊を宣言されました。その悪は何と井戸水が湧き出るようにコンコンと湧き出ていました。

第二のことは、その原因です。それは、彼らの耳が閉じたままになっていたからです。ですから、主のことばを聞くことができませんでした。聞き従うためには耳が開かれていなければなりません。耳に割礼を受けなければならないということです。

第三のことは、そのためにどうしたらよいかということです。そのためにはイエス・キリストに聞かなければなりません。真の平安は、平和の君であられるイエス・キリストによってもたらされるからです。

 

Ⅰ.湧き出る悪(1-8)

 

まず、1~8節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。2 娘シオンよ、おまえは麗しい牧場にたとえられるではないか。3 そこに羊飼いたちは自分の群れを連れて行き、その周りに天幕を張り、群れの羊は、それぞれ自分の草を食べる。4 「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」5 「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」

エレミヤは預言者としての召命を受けると、2章から神のことばを語ります。それは神に立ち返れという内容でした。彼らは妻が夫を裏切るように、主に背いて自分勝手な道に走って行きました。そんなエルサレム、ユダに対して主は、北からわざわいを起こすと宣告されました。バビロンによる破壊です。きょうの箇所にはそのわざわいがどれほど破壊的なものなのかが、具体的な描写をもって語られています。この6章は、2章から語られてきたエレミヤの最初の預言のまとめとなる部分です。

 

1節には「ベミヤミンの子らよ」とあります。「ベミヤミン」とは、エルサレムに住んでいた人々のことを指しています。というのは、エルサレムはもともとベニヤミン部族の領土にあったからです。それがユダ部族のダビデによってイスラエル統一王国の首都となったので、いつしかユダ部族の領土であるかのように思われていますが、もともとベニヤミンの領土にありました。ですから、これはエルサレムの住民のことを指しているわけです。そのベニヤミンの子らに、エルサレムの中から逃れ出よ、と言われています。

 

また「テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。」とあります。「テコア」とは、エルサレムの南約20㎞に位置している町です。また「ベテ・ハ・ケレム」は、はっきりとした位置はわかりませんが、エルサレムとそのテコアの間にあった町ではないかと考えられています。そのテコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしをあげよというのです。なぜでしょうか。北からわざわいが見下ろしているからです。大いなる破壊が迫っていることを知らせなければならなかったのです。「のろし」は10~20Km先からも見えたと言われています。この「のろし」を上げて、北からわざわいが迫って来ているよと知らせ、それに備えるようにと言われたのです。いわば緊急地震速報のようなものです。地震が起きると、その数秒前に「地震です。地震です。」とスマホが知らせます。それが夜中だったりするとびっくりして起き上が、何があったのかとすぐにテレビをつけて確かめますが、それと同じように、北からわざわいが、大いなる破滅が迫って来ていることを、角笛を吹いて、のろしを上げて警告するようにというのです。

 

2節をご覧ください。「娘シオンよ」とあります。「シオン」とは、「エルサレム」の別の呼び方です。ですからこれは、1節の「ベニヤミン」とも同義語でもあるわけですが、そのシオンが、ここでは「麗しい牧場」にたとえられています。そこに暮らす民は美しい羊たちでした。本来であれば、羊飼いたちは自分の群れの羊たちを連れて行き、その周りに天幕を張り、そこで草を食べるよことができるようにするわけですが、今回はそうではありません。そのシオンに向かって聖戦を布告せよ、と言われているのです。4節と5節です。「「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」どういうことでしょうか。

聖書では、「羊飼い」というとイスラエルの王や預言者といった霊的リーダーたちのことを指していますが、ここでは別の人のことを指して言われています。それはバビロンの王ネブカデネザルのことです。彼は羊たちを緑の牧場にふさせ、いこいのみぎわに伴うどころか、その麗しい牧場、神の民に対して聖戦を布告するのです。そのように命じているのは誰かというと、イスラエルの神、主です。主がバビロンの王ネブカデネザルに対して、イスラエルに向かって聖戦を布告するように、と言われたのです。ですからここに「聖戦」とあるのです。「聖戦」とは神の戦いのことです。一般的には神の民が外国の民に対して行うものですが、ここでは逆です。バビロンが神の民に対して戦う戦いを聖戦と呼んでいます。なぜなら、それは聖なる神によって命じられたものだからです。そうです、これは神が主導された神の戦いなのです。神の民であるイスラエルを懲らしめるために、神が外国のバビロンを用いられるのです。それはどのような戦いでしょうか。

 

4節には「われわれは真昼に上ろう」とあります。そして5節には「われわれは夜の間に上って」とあります。通常、戦闘は夜明けとともに始まり夕暮れには終わりましたが、日中はかなり暑くなるので少し休んだりするわけですが、この敵はそうではありません。ここに「真昼に上ろう」とあるように、真昼の暑い中でも休まずに攻撃してくるのです。それは通常ではあり得ないことです。そんなあり得ない力を持っているということを表しているのです。また「夜の間に上って」とは、昔は懐中電灯のようなものがなかったので夜の間に戦うことはできませんでしたが、この敵は違います。夜の間も上って来ます。ものすごいパワーです。そんな敵が攻め寄せて来たら、たまったものではありません。

 

6節をご覧ください。ここで万軍の主がこう言われます。「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。これは罰せられる都。その中には虐げだけがある。」

これは誰に対して語られているのでしょうか。そのバビロンに対してです。バビロンに対して「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。」というのです。「塁」とは、英語で「mounds」(マウンド)です。盛土とか、土手、土塁のことですね。野球のピッチャーが投げるところをマウンドと言いますが、それは盛土された所だからです。ここでは土ではなく木でそれを築くようにと命じられています。木を切って、エルサレムに向かって塁を築くようにと。エルサレムは城塞都市でしたから、たやすく攻めることができませんでした。それで木を切って、それで城壁よりも高い物見やぐらのようなものを作り、そこから侵入を試みるのです。いわゆる「塁」を築くわけです。これを命じておられるのは万軍の主です。万軍の主である神様が、ご自分の民であるエルサレムを攻撃するために、その戦術をバビロンに命じているのです。4節に「聖戦を布告せよ」とありましたが、これは皮肉でも何でもなく、エルサレム、ユダの民に対する神の戦い、聖なる戦争だったのです。主はそのためにバビロンを用いました。主は外国の敵を用いて神の民を罰しようとされたのです。なぜなら、彼らは罪と悪によって腐敗していたからです。

 

その悪がどのようなものであったかが7節に記されてあります。「井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた。暴虐と暴行がその中に聞こえる。病と打ち傷がいつもわたしの前にある。」

井戸の水が湧き出るように、エルサレムは自分の悪を湧き出させていました。神が彼らをさばかれるのは、彼らの中に井戸水のように悪がコンコンと湧き出ていたからです。表面的にではなく、根っこの部分が腐っていたわけです。彼らの内側は暴虐と暴行で満ちていました。それが病と打ち傷となって、こんこんと外側に溢れ出ていたのです。悪は外側からではなく内側から出るものです。イエス様は、マルコ7章14~23節でこのように言われました。「14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」」

皆さん、人を汚すのは外から入ってくるものではありません。人の内側から出るものです。人の内側から出るものが人を汚すのです。悪いことをするから罪人なのではなく、罪人なので悪いことをするのです。それは心から、内側から溢れ出てきます。見た目にはいくらでもよく見せることができますが、神は心を見られます。心は人の努力ではきよめることはできません。心をきよめることができるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストによってその心をきよめていただかなければならないのです。

 

私たちの心は、悪が井戸水のようにこんこんと湧き出てくるようなものですが、神はこんな私たちをあきらめることはなさいません。そんな者でも癒してくださると約束しておられるのです。イザヤ書1章5~6節にこうあります。「あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」しかし、主はこう仰せられます。「さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。足の裏から頭のてっぺんまで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷が絶えず、絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえないような者でも、主はそんなあなたを招いておられるのです。そして、その罪を雪のように白くしてくださいます。羊の毛のようにしてくださるのです。その声を聞いて、神に立ち返る人は何と幸いでしょうか。

 

8節をご覧ください。「エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」

これは神の懲らしめ、Disciplineです。ここには親が子どもをしつけるというニュアンスがあります。愛する子がダメにならないように叱る親のように、神様はご自分の子に懲らしめを与えられるのです。子どもに向かって親が「きちんとしなさい」と言うように、神はご自分の民に言われるのです。「そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も少ない荒れ果てた地とする。」からです。原文では「そうでないと」ということばが2回使われています。「そうでないと、わたしの心はお前から離れ、そうでないと、おまえを、人もすまない荒れ果てた地とする。」ここまで来てもなお、あきらめない神の御思いが表れています。神様はギリギリまで待っていてくださるのです。

 

ここで注目していただきたいことばは「離れ」ということばです。これは脱臼するという意味の語で、聖書には、ここともう1箇所にしか出てこない珍しい言葉です。神と民がどれほど深く結びついているかが表されているのです。それほどまでに、神が民をさばくということは辛いことなのです。不本意ながらも離さなければならないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。なぜなら、彼らが汚れたままであることを選ぶからです。自分の悪を悔い改めことを拒むからです。

 

神様はきよい方であられます。罪や汚れと交わることはできません。ですから、私たちの罪がきよめられなければならないのです。そうすれば、神から離れることはありません。脱臼することはないのです。強く結びついたままでいることができます。あなたはどうですか。脱臼していませんか。この神の思いを受け止めて、神に立ち返り、罪を赦していただいて、神と深く交わる者でありたいと思います。

 

Ⅱ.閉じたままの耳(9-10)

 

第二のことは、彼らがこのように悪に満ちるようになった原因です。いったいどうして彼らは神から離れてしまったのでしょうか。それは、彼らの耳が閉じられていたからです。9~10節をご覧ください。「9 万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」10 私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

 

「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。」とは、ぶどうを収穫する際に隅々まで摘むように、イスラエルの民をすっかり摘み取れということです。ユダの民はバビロンの攻撃によって完全に滅ぼされ、その住民はバビロンへと連れて行かれることになります。この「イスラエルの残りの者」とは、4章7節や5章18節に出てきた「残りの者」、「レムナント」のことではありません。ここで言われていることは、バビロンの破壊は徹底的であるということです。エルサレムはもう完全にバビロンの手に落ちるのです。

 

10節をご覧ください。それを聞いたエレミヤはこう言っています。「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

エレミヤは彼らに主のことばを語りましたが、だれも聞こうとしませんでした。聞く耳を持たなかったのです。完全に耳を塞いでいました。そんな人たちにエレミヤは40年以上も語り続けるのです。どれほど大変だったことかと思います。39年前の今日、私は福島で最初の礼拝をスタートしました。1年半ほど前から開いていたフライデーナイトという聖書を学ぶ小さなグループのメンバーと教会をスタートすることを決め、その最初の礼拝が39年前の今日だったわけです。若干22歳の若造が何を語ったのかさっぱり覚えていませんが、それから半年後の11月23日に最初の受洗者が与えられて教会を設立しました。あれから40年は経ちませんが、39年間いろいろなことがありましたが、神様のあわれみと助によってとにかく語り続けてきたわけですが、エレミヤは40年以上です。どんなに大変だったことかと思います。10節にあるように、主のことばは彼らにとってそしりの的となっていたわけですから。彼らはそれを喜ぶどころか、馬鹿にして、嘲笑っていたのです。

 

ここで注目していただきたいのは、「耳は閉じたままで」ということばです。これは下の欄外の説明にあるように、直訳では「耳に割礼がなく」という意味です。無割礼なのです。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。ユダヤ人の男子はみな、自分たちが神の民であるというしるしに、生まれて8日目にこの儀式を行いました。その耳に割礼がないというのです。実は4章4節にも、この割礼のことが語られていました。「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」大切なのは肉体の割礼ではなく心に割礼を受けるということです。いくら肉体に割礼を受けていても心が肉で覆われていたら、神のことばが心に響かないからです。何を言っているのかさっぱりわかりません。理解できない。ここでも同じことが言われています。耳が肉で覆われていると何を言っているのかわかりません。聞こえないのです。音声としては聞こえますが、それがどういうことかがわからないということです。聞く耳を持っていなかったからです。聞こうとしていませんでした。それが「耳に割礼がない」ということです。「耳が閉じられたまま」の状態のことです。まさに耳は、従順さとか服従さが表れる場所なのです。聞いたら従うのです。聞いても従っていないというのは、それは聞いていないということです。聞こえていないのです。

 

あなたの耳はどうでしょうか。だんだん耳が遠くなってきたと感じることがありますか。でもそれは年のせいではありません。心が神から遠く離れているということです。「前はもっとはっきり聞こえたけど、今は耳が遠くなって何を言っているのかわかりません」「以前は聖書を読むとピンときたのに、今はどこを読んでも無味乾燥です。全然響かないんです」というのは、実は耳が肉で覆われているからなのです。耳かすがたまっているからではありません。耳が肉で覆われているからなのです。ですから、耳に割礼を受けなければなりません。そうすれば、よく聞こえるようになります。

 

イエス様は種まきのたとえの中でこう言われました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)ここに「みことばを聞くが、みことばをふさぐため、実を結ばない」とあります。ふさぐものは何ですか。ここでは、この世の思い煩いとか、富の惑わしとあります。そうしたものがみことばをふさぐため、聞いても実を結ばないのです。

 

私たちにはいろいろな思い煩いがあります。仕事のことや家庭のこと、自分の健康のことや人間関係の問題、あるいは最近は特にコロナや戦争のことで不安を抱えているという人もおられると思います。でもそうしたものに捉われていると、みことばが聞こえなくなってしまいます。それらのものがみことばをふさいでしまうからです。だから聖書はこう言っているのです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

神があなたがたのことを心配してくださいます。ですから、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねてください。そうすれば、神のことばが聞こえてきます。私たち人間には、どうすることもできないことがたくさんあります。それらのことを心配するのではなく、神に信頼しなければなりません。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、神の御声が聞こえてくるのです。

 

Ⅲ.平和の君イエス・キリスト(11-18)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、イエス・キリストに聞きなさいということです。11~18節をご覧ください。「11 主の憤りで私は満たされ、これを収めておくのに耐えられない。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。夫はその妻とともに、年寄りも齢の満ちた者も、ともに捕らえられる。12 彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。わたしがこの地の住民に手を伸ばすからだ。─主のことば─13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。14 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。─主は言われる。」16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。」

 

みことばを聞こうとしないユダの民に対して、エレミヤの心は主の憤りで満たされました。もうそれを自分の心に収めておくことができなくなりました。だれも聞いてくれないのです。完全にバーン・アウトしたわけです。疲れ果ててしまいました。皆さんもよくあるでしょう。疲れ果てた・・・・ということが。

するとエレミヤに主のことばがありました。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。」と。「それ」とは主の憤りのことです。それを道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎだすようにというのです。幼子や若い男たちだけではありません。夫も妻も、年寄りも、非常に齢の満ちた者、これはかなりのご老人にもということですね。彼らも捕えられることになります。さらに彼らの家と畑は、妻もろとも奪われ、他人の手に渡ることになります。

 

どうしてでしょうか。13節にその理由が述べられています。「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」

身分の高い人とか低い人までみんな自己中心になっていたからです。そしてその腐敗が宗教的なリーダーたちにまで及んでいました。彼らはみな偽りを行っていました。たとえば、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。これはある種のマインドコントロールです。主はそのように言っていないのに、そのように言っているかのように装うからです。私たちも注意しなければなりません。彼らは神の民の傷をいいかげんに癒していました。民は元気じゃなかったのに表面的に治療して「大丈夫、元気、元気!」と言い聞かせ、思い込ませていました。いわゆるやぶ医者と一緒です。ちゃんと治療しないのです。ここでは医者というよりも祭司とか預言者のことですから、やぶ牧師です。神様が言っていないのに「大丈夫だよ。神様はあなたのありのままを愛しているから」とか、いいかげんに語るのです。その方が相手も心地よいからです。それはやぶ医者と同じです。神の民の傷をいいかげんに癒しているにすぎません。しかし、真の牧者は民の傷をいいかげんに扱うことはしません。神のことばが言わんとしていることはどういうことなのかをしっかりと受け止め、みことばと祈りによって癒すのです。たとえそれがどんなに聞こえが良くないことでも、神のことばにしっかりと立つことが真の解決につながると信じているからです。

 

ところで、この「平安」ということばですが、これはヘブル語では「シャローム」と言います。「シャローム」とは、単に戦争がないとか、心が平安であるというだけでなく、その本質は「何の欠けもない理想的な状態」のことを意味しています。ですから、争いがなければ平和となるし、病気がなければ健康となるわけです。問題が解決すれば勝利となり、祝福に満たされていれば繁栄となります。欠けがあれば完全ではありません。でもこの「シャローム」は何の欠けもない完全な状態を意味しています。

 

あなたはどうでしょうか。あなたには何か欠けがありますか。その欠けが「シャローム」によって満たされるのです。他のもので満たされることはありません。お酒やギャンブル、仕事、お金、趣味などであなたの心が満たされることはありません。あなたの心を満たすのは、シャロームなる方、平和の君イエス・キリストだけです。イザヤ書9章6節にこうあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ひとりのみどりごとはイエス・キリストのことです。キリストは生まれる700年も前から、私たちを救う救い主として来られることが預言されていました。その名は何でしょうか。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。イエス・キリストはその名の通り、私たちの罪を赦すために十字架にかかられ、三日目によみがえられたことで、この平和をもたらしてくださいました。

また、エペソ2章14~19節にもこうあります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」

ですから、イエス・キリストだけがシャローム、真の平和をもたらすことができます。イエス・キリストだけが救いをもたらすことができます。勝利を、繁栄を、満たしをもたらすことができるのです。それ以外に平和を得る方法はありません。だから、キリストはこう言われたのです。「28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんの中に、疲れている人がいますか。重荷を負っている人がいますか。そういう人はイエス様のもとに来てください。イエス様があなたを休ませてあげます。なぜなら、イエス様は柔和でへりくだっておられる方だからです。イエス様はあなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。それはあなたがいのちを得るためです。ここに「そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。「安らぎ」「平安」それはイエス・キリストにあるからです。

 

偽預言者は平安がないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。彼らは表面的で安易な平安を約束しましたが、そこには本当の平安はありませんでした。悪者には平安がないからです(イザヤ48:22)。真の平安を得るためには、その罪、汚れをきよめていただかなければなりません。そのために神は救い主を送ってくださいました。その救い主の贖いの業によって罪の赦しが実現したのです。平和がもたらされました。ですから、あなたが真の平安を得たいと思うなら、キリストのもとに来て罪をきよめていただかなければなりません。これが真のシャロームです。この方に聞くべきです。

世の終わりが近くなると、こうした偽預言者たちが安易な平安を約束しますが、そのようなことばに騙されてはいけません。平安がないのに、「平安だ、平安だ」ということばに聞いてはならないのです。真の平和はイエス・キリストにあります。この平和の君なるイエス・キリストに聞き従いましょう。それが神のさばきから免れ、神の平安をいただき、幸いな人生を送るキーなのです。

民数記28

 

きょうは、民数記28章を学びます。

 

Ⅰ.主へのささげもの(1-8)

 

まず1節から8節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしのための食物、わたしへのささげ物を、わたしへの食物のささげ物、芳ばしい香りとして、定められた時に確実にわたしに献げなければならない。3 彼らに言え。これがあなたがたが主に献げる食物のささげ物である。傷のない一歳の雄の子羊を、毎日二匹、常供の全焼のささげ物として。4 一方の子羊を朝献げ、もう一方の子羊を夕暮れに献げなければならない。5 穀物のささげ物として、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパ。6 これはシナイ山で定められた、常供の全焼のささげ物であり、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。7 それに添える注ぎのささげ物は、子羊一匹につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。8 もう一方の子羊は夕暮れに献げなければならない。朝の穀物のささげ物、および、それに添える注ぎのささげ物と同じものを、これに添えて献げなければならない。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ってから、ささげなければならないささげものの規定が記されてあります。このささげものの規定については15章でも語られましたが、ここで再び語られます。なぜそんなに繰り返して記されてあるのでしょうか。なぜなら、このことがとても重要なことだからです。イスラエルが約束に地に入ってからどうしても忘れてはならなかったこと、それは彼らをエジプトから贖い出してくださった神を覚えることでした。私たちはすぐに忘れがちな者ですが、そのような中にあっても忘れることがないように、何度も何度も繰り返して語られているのです。しかも、ここでは語られている対象が変わっています。エジプトを出た20歳以上の男子はみなヨシュアとカレブ以外全員死んでしまいました。彼らは神のみことばに従わなかったので荒野で息絶えてしまったのです。今そこにいるのは新しい世代です。以前はまだ小さくて神のことばを聞いたことがなかった子どもたちが、大きく成長していました。彼らが約束の地に入るのです。そんな彼らが忘れてはならなかったのは、彼らの父祖たちが経験した神の恵みを忘れないことだったのです。

 

ここで主は、ご自身への芳ばしい香りとして、神への食物のささげ物をささげるようにと命じています。それは三つの種類がありました。一つは全焼のいけにえであり、もう一つは穀物のささげものです。そしてもう一つが注ぎのささげ物です。全焼のいけにえは、小羊をすべて祭壇の上で焼きます。穀物のささげものは、油をまぜた小麦粉です。そして、注ぎのささげ物はぶどう酒です。全焼のいけにえをささげ、このいけにえに穀物のささげものと注ぎのささげものを供えたのです。これらは常供のいけにえです。常供のいけにえとは、日ごとにささげるいけにえのことで、それは毎日、朝と夕にささげなければなりませんでした。

 

それにしても、ここには、「わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、確実にささげなければならない」とあります。どういうことでしょうか?主はこのささげ物を食べるというのでしょうか?主は私たちからのこのようなささげ物を必要としているのでしょうか?そういうことではありません。それは、神によって罪の中から贖い出された者としてこの恵みに応答し、感謝して生きるためでした。

 

パウロは新約聖書の中でこのように言っています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

「ですから」とは、それまで語られてきたことを受けてのことです。そこには、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、価なしに義と認められたということが語られてきました。そのように神の一方的な恵みによって罪から救われたクリスチャンに求められていることは、自分を神にささげることなのです。これこそ、霊的な礼拝です。神の喜びのために生きるということであります。神が求めておられるのは私たちの何かではなく、私たち自身なのです。私たちのすべてであります。私たち自身が神と一つとなり、私たちを通して主の栄光があがめられること、主はそれを求めておられるのです。それが主の喜びなのです。そして、それが現される手段が礼拝であり、ささげ物なのです。その時、私たち自身にも究極的な喜びがもたらされるのです。

 

今週の礼拝のメッセージはテモテ第二の手紙4章からでしたが、その中でパウロは、「私は今や注ぎの供え物となります。」(4:6)言っています。彼はそのように生きていたということです。彼の生涯は、自分のすべてを主にささげる生涯でした。彼は全く主に自分をささげていたのです。これを「献身」といいます。主が求めておられたのはこの「献身」だったのです。イスラエルは今神が約束してくださった地に入ろうとしていました。そんな彼らに求められていたことは、主に自分自身をささげるということだったのです。

 

Ⅱ.安息日ごとのささげもの(9-10)

 

次に9節と10節をご覧ください。「9 安息日には、傷のない一歳の雄の子羊二匹と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それに添える注ぎのささげ物。10 これは、安息日ごとの全焼のささげ物で、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」

 

ここには、安息日ごとのささげものについて記されてあります。安息日ごとのささげものは、常供のいけにえの他に加えてささげられるものです。ここで大切なのは「加えて」ということばです。プラスしてということですね。私たちは日毎に主の御前に出ていかねばなりませんが、安息日(主の日)にはそれにプラスして主の前に出て行かなければなりませんでした。毎日礼拝していればそれでいいということではなく、安息日を覚えそれを聖なる日としなければならなかったのです。毎日礼拝していればなおのこと、安息日(主の日)を大切にして、それに加えて主の前に出て行かなければならなかったのです。それは、毎日忙しいので安息日だけは礼拝するというのとも違います。安息日が、常供のささげものを代用することはできません。ですから、主の日に礼拝すれば自分の務めを果たしているということではなく、それは日ごとの礼拝の他にささげられるものであり、むしろ日毎の礼拝の延長に、他の信者と集まっての礼拝があると言えるのです。

 

Ⅲ.新月の祭り(11-15)

 

次に、新月の祭りについてです。11節から15節までをご覧ください。「11 あなたがたは月の最初の日に、次のものを献げなければならない。主への全焼のささげ物として、若い雄牛二頭、雄羊一匹、傷のない一歳の雄の子羊七匹。12 雄牛一頭につき、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一匹につき、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパ。13 子羊一匹につき、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらが主への全焼のささげ物、芳ばしい香り、食物のささげ物である。14 それに添える注ぎのささげ物は、雄牛一頭につき二分の一ヒン、雄羊一匹につき三分の一ヒン、子羊一匹につき四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のささげ物である。15 主への罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹。これは、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」

 

今度は、月の最初の日、つまり新月に献げるささげ物についてです。これは民数記で新しく出てきた規定です。新月のささげものは全焼のいけにえが中心ですが、罪のきよめのいけにえもささげられます(15)。しかしそれは全焼のいけにえと比べると非常に少ないことがわかります。この後のところに、例年行う祭りのささげ物の規定が出てきますが、そこでも同じです。罪のためのいけにえが、全焼のいけにえと比べて圧倒的に少なくなっています。どうしてでしょうか?

それは、礼拝とは「悔い改めにいくところ」ではないからです。毎日の生活で罪を犯してしまうので、その罪が赦されるために礼拝に行くのではありません。勿論、悔い改めは重要なことですが、それが礼拝の中心ではないのです。礼拝とは自分自身を主にささげることであり、そこにある喜びと平和、そして聖霊による神の臨在を楽しむところなのです。イスラエルの民は新しく入るそのところで、自分たちを愛し、そのように導いてくださった主を覚え、日ごとに、また週ごとに、そして月ごとに、すなわち、いつも主と交わり、主が良くしてくださったことを覚えて、主に心からの感謝をささげなければならなかったのです。

 

Ⅳ.春の祭り(16-31)

 

最後に、春の祭りの規定を見ておわりたいと思います。16~25節までをご覧ください。「16 第一の月の十四日は、過越のいけにえを主に献げなければならない。17 この月の十五日は祭りである。七日間、種なしパンを食べなければならない。18 その最初の日には、聖なる会合を開く。いかなる労働もしてはならない。19 あなたがたは、主への食物のささげ物、全焼のささげ物として、若い雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。20 それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパとする。21 子羊七匹については、一匹につき十分の一エパとする。22 あなたがたのために宥めを行うには、罪のきよめのささげ物として、雄やぎ一匹とする。23 常供の全焼のささげ物である朝の全焼のささげ物のほかに、これらのものを献げなければならない。24 このように七日間、主への芳ばしい香り、食物のささげ物のパンを、毎日、献げなければならない。これは常供の全焼のささげ物とその注ぎのささげ物に加えて献げられなければならない。25 七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。26 初穂の日、すなわち七週の祭りに、新しい穀物のささげ物を主に献げるときには、聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。27 あなたがたは、主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げよ。28 さらに、それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパ。29 七匹の子羊については、一匹につき十分の一エパ。30 あなたがたのために宥めを行うには、雄やぎ一匹とする。31 常供の全焼のささげ物とそれに添える穀物のささげ物とは別に、これらのものを、それらに添える注ぎのささげ物とともに献げなければならない。それらは傷の」

 

例祭、すなわち、毎年恒例の祭りは、過越の祭りからはじまりました。これがユダヤ人にとってのスタートだったのです。なぜ過越の祭りなのでしょうか?それは、これが贖いを表していたからです。私たちの信仰も贖いから始まります。だから、過ぎ越しの小羊を覚え、それを感謝しなければなりません。それは十字架に付けられたイエス・キリストを示しているからです。新約聖書、ペテロの手紙にこうあります。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)

これが私たちの信仰の土台です。それは新しいイスラエルの民が、新しい約束の地に入ってからも変わりません。彼らはこれまでと同じように、まず過ぎ越しの祭りから始めなければならなかったのです。

 

そして、この過ぎ越しの祭りに続いて、種なしパンの祭りが行われました(17)。その時彼らは種を入れないパンを食べなければなりませんでした。なぜでしょうか?罪が赦されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。第一コリント5章7~8節で言われていることはこのことです。「7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」これが種を入れないパンの祭りです。それは、キリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りのことだったのです。

 

次は、初穂の祭り、すなわち、七週の祭りです。26節から31節をご覧ください。「26 初穂の日、すなわち七週の祭りに、新しい穀物のささげ物を主に献げるときには、聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。27 あなたがたは、主への芳ばしい香りとして、全焼のささげ物、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊七匹を献げよ。28 さらに、それに添える穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一匹につき十分の二エパ。29 七匹の子羊については、一匹につき十分の一エパ。30 あなたがたのために宥めを行うには、雄やぎ一匹とする。31 常供の全焼のささげ物とそれに添える穀物のささげ物とは別に、これらのものを、それらに添える注ぎのささげ物とともに献げなければならない。それらは傷のないものでなければならない。」

 

初穂の祭りは、過ぎ越しの祭りの三日目、つまり、過ぎ越しの祭りの後の最初の日曜日に行われました。これはキリストの復活を示しています。キリストは過越の祭りの時に十字架で死なれ、墓に葬られました。そして安息日が終わった翌日の日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスのからだに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を指示していたのです。使徒パウロはこう言いました。Ⅰコリント15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そのことを覚えて、主に感謝のいけにえをささげるのです。それが全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして注ぎのささげ物です。

 

それは初穂の日だけではありません。ここには七週の祭りに、とあります。これが「ペンテコステ」です。ペンテコステにもささげ物をささげなければなりませんでした。それは聖霊が天から下られたことを記念する祭りです。もちろん、ユダヤ人にとってはこれが何を意味しているのかはわからなかったと思いますが・・・。

 

このように、イスラエルが約束の地に入ってからも忘れずに行わなければならなかったことは、火による全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげ物をささげることでした。それは神への献身、神への感謝を表すものです。これが、イスラエルが約束の地に入るための備えだったのです。約束の地に入るイスラエル人にとって求められていたことは、神へのいけにえをささげていつも神を礼拝し、神と交わり、神に感謝し、神の恵みを忘れないだけでなく、その神の恵みに応答して、自分のすべてを主におささげすることだったのです。日ごとに、朝ごとに、そして夕ごとに。また、週ごとに、新しい月ごとに、その節目、節目に、主が成してくださったことを覚えて感謝し、その方を礼拝することが求められていたのです。

 

あなたはどうですか?新しい地に導かれた者として、いつも主を礼拝し、主に心からの感謝をささげているでしょうか?神があなたのためにしてくださった奇しい御業を覚えて、いつも主に感謝し、心からの礼拝をささげましょう。

あなたはどうするつもりなのか エレミヤ書5章20~31節

聖書箇所:エレミヤ書5章20~31節(エレミヤ書講解説教13回目)
タイトル:「あなたはどうするつもりなのか」

きょうは、エレミヤ書5章の後半からお話します。タイトルは「あなたはどうするつもりなのか」です。このタイトルは、31節の最後のことばから取りました。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか」。「あなたがた」とは、南ユダ王国の人たちのことです。イスラエル王国は、ソロモン王の後で北王国イスラエルと南ユダ王国に分かれました。B.C.931年のことです。北王国イスラエルはすでにB.C.722年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされてしまいました。そして今、B.C.627年頃ですが、預言者エレミヤは南ユダ王国の民に向かって、神のことばを語っているのです。テーマは「神に立ち返れ」です。

ユダの民は神との契約を破り、神でないものによって誓っていました。いわゆる偶像礼拝です。霊的姦淫ですね。その背信はすさまじいものでした。エルサレム中のどこを探しても、公正と真実を求める人は一人もいませんでした。5章1節には「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。」とあります。でも、そういう人はエルサレム中どこを探しても一人もいませんでした。義人はいない。一人もいない、です。
  それで主は、さばきを宣告されました。遠くの地から一つの国を来させて、彼らを食らうと言われたのです。それはバビロン軍のことです。17節には、「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」とあります。まさにいなごがすべてを食い尽くすように、バビロン軍によってユダのすべてを食い尽くすと宣告されたわけです。しかし、すべてを滅ぼし尽くすことはなさいません。そこにわずかながら残りの民を残してくださるとも約束されました。このような神のさばきの宣告に対して、結局、あなたがたはどうするつもりなのか、と問い掛けられているのです。

 

三つのことをお話します。第一のことは、どこまでも主を恐れないユダの民の姿です。彼らには強情で逆らう心がありました。それで彼らは神から離れて行きました。

第二のことは、その結果です。彼らの悪事は社会全体に及んでいきました。それは彼らの咎と罪のゆえです。社会悪の根本的な原因はここにあるのです。

そして第三のことは、このようなことに対する神のさばきです。神は黙ってはおられません。必ずその悪を罰します。それに対して、あなたはどうするつもりなのかということです。

 

Ⅰ.神を恐れない民(20-25)

 

まず、20~25節までをご覧ください。「20 ヤコブの家にこれを告げ、ユダに言い聞かせよ。21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。23 しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。24 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。25 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

21節では、ユダの民を「愚かで思慮のない民よ」と呼び掛けられています。なぜこのように呼び掛けられているのでしょうか。神を恐れていなかったからです。神の民である共同体が神を恐れない。本当の神がいらっしゃるのに、恐れないのです。聖書には、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とありますが、その一番大切な主を恐れるということを捨ててしまったわけです。それで「愚かで思慮のない民」になりました。新共同訳では「心ない民」と訳されています。「愚かで、心ない民よ」。心に神様の導きを求めないということです。心は私たちと神様が結ばれる所です。エレミヤは4章4節のところで、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言いました。大切なのは肉体の割礼ではなく心の割礼です。心が神様と結ばれるということが大事なのです。でもその大切な心がだめになっていました。23節のことばでいうなら、強情になってしまったのです。出エジプト記にはよく「うなじのこわい民」とありますが、まさにうなじのこわい民となりました。神に対してコチコチに固まっていたのです。神に逆らい、神を無視して生きるようになってしまいました。

 

その結果、どうなりましたか。21節には「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」とあります。詩篇135篇15~18節にはこうあります。「15 異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。16 口があっても語れず目があっても見えない。17 耳があっても聞こえずまたその口には息がない。18 これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。」
 偶像を拝むことで偶像のようになってしまいます。目があっても見えず、耳があっても聞こえません。偶像に頼る者はみなこれと同じです。目があっても見えず、耳があっても聞こえなくなります。本当の神様のことばがわからなくなってしまうのです。

 

彼らがどれほど強情であっかが22節にあります。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」どういうことでしょうか。

創造主訳聖書には「わたしは海と陸を分け、それぞれの地域を定めた」とあります。神が天と地を創造されました。神はそこに海と陸の境界を設けられたわけです。被造物全体は、その神が定められた境界を越えることはありません。すべては神が定めた秩序と法則によって保たれているのです。どんなに波が荒れ狂っても勝てず、鳴りとどろいても越えられません。自然界のすべては神の定めに従います。境界を越えることはないのです。しかし、この民はそうではありません。この民には逆らう心がありました。神を恐れ、神に従うどころか、自分勝手な道に向かって行ったのです。
  

ヨハネ1章10~11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。「この方」とは、イエス様のことです。イエス様はもとからこの世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この世はすべてイエス様によって造られたのですから、被造物であるこの世は、当然イエス様を受け入れるはずなのにそうではありませんでした。神に逆らい、創造主であるイエス様を受け入れませんでした。別のことばで言うと、境界を越えてしまったということです。それはこのユダの民だけではありません。私たちも同じです。

 

そればかりではありません。24節と25節をご覧ください。「彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

「初めの雨」と「後の雨」とは、下の欄外の説明にあるように「秋の雨」と「春の雨」のことです。「初めの雨」が「秋の雨」、「後の雨」が「春の雨」です。このようにイスラエルには年2回雨季がありました。この雨がイスラエルを潤し、豊かな収穫をもたらしてくれたのです。それなのに彼らには、神に対する恐れも、感謝もありませんでした。その結果、25節にあるように、この恵みの雨がとどめられてしまいました。25節の「良いもの」とは、この恵みの雨のことです。エレミヤ書14章1~6節を見ると、南ユダに干ばつがあったことがわかります。14章1節には「日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。」とあります。

「2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」(エレミヤ14:2-6)

もちろん、水道もない時代ですから、干ばつになると食料も十分に用意することができず、いのちの危険がありました。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる」というのは、そういう状態を表しているのだと思います。それは、この恵みの雨がとどまったからです。いったいどうしてこの恵みの雨がとどまってしまったのでしょうか。
  25節にその理由が記されてあります。それは「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」ということです。神があなたに良いものを拒んでいるのではありません。あなたの咎がこれを追いやり、あなたの罪がこの良いものを拒んだのです。罪によって雨が降らなくなったのです。

私たちは天気予報という技術があって、今年の夏は暑くなりそうだとか、台風がもうすぐ来るのでそれに備えた方がいいという報道を聞いて行動するわけです。私たちの生活のかなりの部分が、こうした科学技術に頼ることで成り立っているわけです。でも、たとえば、今年の夏は罪によって酷暑になるでしょうと言われても、あまりピンとこないのではないかと思います。でもここではそういうことが言われているわけです。

 

エレミヤの時代、天気がどうなるかは、私たちよりも深刻だったはずです。彼らはまことの神である主を信じてエジプトを出て約束の地にやってきましたが、そこに元々の宗教、土着の宗教がありました。それはバアルと呼ばれる宗教で、豊穣をもたらすと信じられていました。私たちはバアル宗教というと遠い宗教のようで、自分たちとは全く関係ないと思っていますが、それは私たちにとっても身近なものだと思います。というのは、バアル宗教が求めていたのは豊かさであったからです。私たちも豊かさを求めているという点では同じではないでしょうか。手段は違います。でも科学技術というものを絶対的なもののように頼って豊かさを求めているとするなら、バアル神を信じている人たちと何ら変わらないのです。真の神を捨てて、雨を降らせると言われるバアル神に、神の民が反れて行ってしまったわけです。それで干ばつがやって来ました。雨の神、豊穣の神を信じていたのに干ばつで飢饉がやって来たというのは何とも皮肉な話です。つまり、バアルには本当の力がないわけです。世界を創られたのは聖書の神様です。世界を創り、それを保っておられるのは真の神様ただ一人なのです。この神様がいのちの源です。いのちの源から反れて行くということは切り離されるということであって、結果的に民は飢えと渇きに襲われることになったのです。近年、毎年のように異常気象が起きるようになって、異常が普通のようになって来ていますが、その原因はどこにあるのかというと、聖書はこういうのです。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。

 

人間の罪によってこの気象が壊れていると言っても過言ではないのです。詩篇34篇9~10節にこうあります。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」

主を恐れる者には、何一つ欠けることはありません。もし良いものに欠けることがあるとしたら、それは私たちの罪がその良いものを拒んでいるからなのです。神は良い方ですから、良いものを与えてくださるのは当然なのです。天のお父さんは、私たちを祝福したいと願っておられるのです。でも、その祝福を私たちが自分の罪によって拒んでいるのです。折角、お父さんとお母さんが子どもに良いものを与えたいと思っているのに、子どもの方で拒んでいるとしたら悲しい限りです。こんなに子どもを愛しているのに、こんなに子どもに与えたいのに、子どもの方で「いらない」と拒む。「欲しくない」と言う。残念です。

 

Ⅱ.根本的な原因(26-28)

 

次に、26~28節をご覧ください。ユダの民の罪が列挙されています。「26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きで満ちている。だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる。28 彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。」

 

ここには、ユダの社会全体に悪が溢れているような状態が描かれています。彼らの中には悪しき者たちがいて、鳥を捕まえるように人を捕まえて、わなをかける人がいました。つまり、社会的弱者の人たちが、搾取されていたわけです。彼らは弱者を食べてしまって、自分たちは太っていました。不正な手段で富を築き、私腹を肥やしていたのです。単に霊的姦淫を犯して偶像礼拝に走っていたというだけでなく、それが社会全体にも大きく反映していました。エレミヤはこのような状態を見て、こう言っています。30節、「恐怖とおぞましいことがこの国に起こっている。」恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっていると言ったのです。

 

いったいどうしてこのようなおぞましい社会になってしまったのでしょうか。それは南ユダだけでなく、現代の世界にも言えることです。おぞましい社会、おぞましい世界になってしまいました。いったいどうしてこのような社会になってしまったのでしょうか。それは社会ということよりも、一人一人の罪に起因しているのです。その罪の最たるものは、神を神として崇めないということです。神を認めない、感謝もしない、そして、神以外のものを神とすることです。つまり、神を恐れないということです。ここに原因があります。これがすべての社会悪の根本原因なのです。ここにスポットを当てずにいくら社会改革をしようとしてもできません。政治の力、経済の力、福祉の力、慈善活動によって、それをしようとしても限界があるし、究極的な解決にはならないのです。根本的な原因が処理されなければ解決できません。次から次に悪が生まれてきます。オレオレ詐欺が後を絶ちません。次から次に新しい技を繰り出してきます。頭がいいんですね。そんなことに頭を使うなら、もっと良いことのために使えばいいのにと思いますが、実に巧妙に手を変え品を変えて襲ってきます。政権が交代しても何も変わりません。だから、人々は失望するのです。だれがやっても同じだというあきらめになってしまいます。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのです。

 

Ⅲ.あなたはどうするつもりか(29-31)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて神に立ち返れということです。29~31節をご覧ください。「29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。30 荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」」

 

こうした状況に対して主はどうされるでしょうか。29節には、主は必ず罰せられると言われます。神様はこの状況を把握していないのではありません。見て見ぬふりをしているのでもありません。主はこのような状況を十分知っておられ、それに対して必ずさばきをなさるのです。黙認するということは絶対にありません。水に流すとか、帳消しにするといったことはなさらないのです。なぜなら、神は正義の神であり、聖なる方だからです。罪を放置するなどとてもできない方なのです。必ず罰せられるのです。

 

30節と31節は、神様の驚きを表しています。荒廃とおぞましいことがこの国に起こっています。預言者たちは偽りの預言をし、神に仕えるはずの祭司は自分勝手に治めています。そればかりか、ユダの民はそれを喜んでいるのです。このことに神は驚かれ、嘆いておられるのです。こうした彼らの罪、咎には、必ず神の審判がくだることになります。結局、あなたはどうするつもりなのか、と神はチャレンジしておられるのです。

 

でも、どうぞこのことを覚えておいてください。神様がこのようにチャレンジしているということは、その前に悔い改めのチャンスを与えているということです。だから警告を与えているのです。今ならまだ間に合います。今ならまだやり直せます。あなたにも神のあわれみがあるのです。あなたもやり直すことができます。あなたには罪の赦しが提供されているのです。罪の滅びから免れる道が用意してあるのです。その道とは何でしょうか。イエス・キリストです。イエス様は言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことはありません。永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

 

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。

「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。

『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」これが、クリスチャンが抱く希望です。

 

あなたには、この希望があるでしょうか。どんなに恐ろしい神の審判があっても、私は神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているという確信があるでしょうか。イエス・キリストを信じるなら、だれも、また何も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」神のさばきに会うことがないように、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じてください。そういう人はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。また、そのような人の人生を神が祝福し、初めの雨と後の雨をもって潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。

 

あなたの過去には取り返しがつかないこともあるでしょう。人から絶対に許さないと言われたこともあるかもしれない。自分でも自分を赦せないと思うこともあるでしょう。でも、全然関係ありません。神には赦せない罪など一つもないからです。もう罪悪感や罪責感に苛(さいな)まれる必要もありません。人を責める必要もなければ、人に攻められる必要もありません。イエス・キリストがあなたの代わりに罰を負ってくださったからです。罰せられるべきあなたの代わりに罰せられたので、あなたには赦しが提供されているのです。

神のさばきは確実に及んできます。でもそれは神の本意ではありません。神の本意は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返り、神のさばきから免れることなのです。今は恵みの時、今は救いの日です。あなたには神のあわれみが注がれています。その神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くのです。

 

あなたはどうするつもりなのか。この神のチャレンジに、今のうちに応答してください。神の赦しと神の救いを受け取ってください。そうすれば、神のさばきに会うことはありません。必ずバビロンがどこからかやって来ます。想像もつかないような破壊と喪失がもたらされます。でもイエス様を信じる者は救われます。それを決断するのはいつですか。今なのです。

 

民数記27章

民数記27章

 

きょうは、民数記27章から学びたいと思います。前回の学びで、モーセとアロンがシナイの荒野で登録したときのイスラエル人はみな荒野で死に、ヨシュアとカレブのほかには、だれも残っていなかったという現実を見ました。残された民が、神が約束してくだった地を相続します。そして、その相続の割り当てについて語られました。すなわち、大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならないということです。きょうの箇所には、その相続に関する神様のあわれみが示されます。

 

Ⅰ.ツェロフハデの娘たち(1-11)

 

まず1節から11節までをご覧ください。「1 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たちが進み出た。ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子であり、その娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。:2 彼女たちは、モーセの前、祭司エルアザルの前、また族長たちと全会衆の前、すなわち会見の天幕の入り口に立って言った。:3 「私たちの父は荒野で死にました。父は、コラの仲間と一緒になって、主に逆らったあの仲間たちには加わらず、自分の罪過によって死んだのです。しかし、父には息子がいませんでした。4 息子がいなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」5 そこでモーセは、彼女たちの訴えを主の前に差し出した。6 すると主はモーセに告げられた。7 「ツェロフハデの娘たちの言い分はもっともだ。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えよ。彼女たちに、その父の相続地を渡せ。8 あなたはイスラエルの子らに語れ。人が死に、その人に息子がいないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡さなければならない。9 もし娘もいないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えよ。10 もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えよ。11 もしその父に兄弟がいないときには、その相続地を、彼の氏族の中で彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせよ。これは、主がモーセに命じられたとおり、イスラエルの子らにとってさばきの掟となる。」」

 

ここに、ヨセフの子のマナセの一族のツェロフハデの娘たちが出てきます。彼女たちは、モーセと祭司エルアザル、族長たちと全会衆との前、会見の天幕の入り口に立って、自分たちにも所有地を与えてくださいと言いました。どういうことでしょうか?26章33節には、ツェロフハデの娘たちの名前が記されてあります。彼女たちの父ツェロフハデには息子がなく、娘たちしかいませんでした。ということは、ツェロフハデには何一つ相続地が与えられないということになります。ですから、彼女たちは、そのことによって相続地が与えられないのはおかしい、とモーセに訴えたのです。

 

これに対して主は何と言われたでしょうか。6節です。主は、この訴えは正しいと言われました。そして主は彼女たちの訴えに基づいて、父が子を残さなかったときについての相続の教えを与えられました。子がいないという理由で相続地がないということがあってはならないというのです。その相続地を娘たちに与えなければなりませんでした。娘たちもいなければ、それを彼の兄弟たちに、兄弟がいなければ、それを氏族の中で彼に一番近い血縁の者に与えてそれを受け継がせなければなりません。

 

これはどういうことでしょうか?このことについては、おもしろいことに、ここで話が終わっていません。36章を見ると、マナセ族の諸氏族のかしらたちがモーセのところにやって来て、この娘たちが他の部族のところにとついだならば、マナセ族の相続地が他の部族のものとなってしまうので、彼女たちはマナセ族の男にとつぐようにさせてください、と訴えているのです。そしてその訴えを聞いたモーセは「それはもっともである」と、彼女たちは父の部族に属する氏族にとつがなければならないと命じます。そのようにして、イスラエルの相続地は一つの部族から他の部族に移らないようにし、おのおのがその相続地を堅く守るようにさせました。そして民数記は、この娘たちは主が命じられたとおりに行ったことを記録して終わるのです。

 

つまり彼女たちの行為は信仰によるものであって、約束のものを得るときのモデルになっているのです。そうでなければ、このことをモーセが記録するはずがありません。主がアブラハムの子孫にこの地を与えると約束されたので、彼女たちはその約束を自分のものとしたいと願いましたが、相続するためには男子でなければなりません。しかし、そうした障害にも関わらず、彼女たちは主の前に進み出て大胆に願い出ました。ここがポイントです。ここが、私たちが彼女たちに見習わなければいけないところです。つまり私たちはその約束にある祝福を、自分たちの勝手な判断であきらめたりしないで、彼女たちのように信仰によって大胆に願い求めなければならないということです。

 

マタイの福音書15章に登場するツロ・フェニキヤの女もそうでした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」「子どもたちのパンくずを取り上げて、子犬にやるのはよくないことです。」と言われた主イエスに対して、彼女は、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:27)と言いました。そして、そのとおりになりました。信仰をもって、あきらめないで願い出るなら、主は惜しみなく与えてくださるのです。もちろん、その願いは自己中心的なものではなく、主のみこころにかなったものであることが重要ですが、しかし、あまりにもそれを考えすぎるあまり求めることをしなければ、何も得ることはできません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」(マタイ7:7)私たちは、キリストにあってすべてのものを施してくださる神の約束を信じて、神に求める者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.モーセの死(12-14)

 

次に12節から14節までをご覧ください。「12 主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの子らに与えた地を見よ。13 それを見て、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたのと同じように、自分の民に加えられる。14 ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、彼らの見ている前で、あの水のところで、わたしが聖であることを現さなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。」

 

これは、モーセも他のイスラエルの民と同様に約束の地に入ることができないという、厳粛な主の宣告です。この宣告は、イスラエルの民以上に彼自身にとってどんなに辛かったことでしょうか。モーセはこの120年間、ただイスラエルの民がエジプトから解放され、約束の地に導くという神から与えられた使命に生きてきました。その約束の地こに入ることはできないのです。なぜでしょうか?それは14節にあるように、ツィンの荒野で会衆が争ったとき、主の命令に従わなかったからです。

 

どういうことでしょうか?もう一度民数記20章を振り返ってみましょう。これはイスラエルがエジプトを出て40年目にツィンの荒野までやって来たときのことです。もうすぐ約束の地に入るという直前のことです。そこでモーセの姉ミリヤムが死にました。そこには水がなかったので、彼らはモーセとアロンに逆らって言いました。それで主はモーセの杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そのようにすれば、岩は水を出す・・・と。ところが、モーセは主の命令に背き、岩に命じたのではなく、岩を二度打ってしまいました。それで主はモーセとアロンに、彼らが主を信じないでイスラエルの人々の前で聖なる者としなかったので、彼らは約束の地に入ることができないと言われたのです。

 

Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストのことであると言われています。その岩から飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを示しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。しかし、彼は岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従いませんでした。彼は自分の思い、自分の感情、自分の方法に従ったのです。それは信仰ではありません。それゆえに、彼らは約束の地に入ることはできないと言われたのです。あまりにも厳しい結果ですが、これが信仰なのです。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること以外にはないのです。御霊の岩であるイエスを信じる以外にはありません。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたので約束の地に入ることができませんでした。それは他のイスラエルも同様です。彼らもまた不信仰であったがゆえに、だれひとり約束の地に入ることができませんでした。ただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らだけが神の約束を信じたからです。神の約束を得るために必要なのは、ただ神のことばに聞き従うということしかないのです。

 

Ⅲ.モーセの後継者(15-23)

 

しかし、話はそれで終わっていません。それでモーセは主に申し上げます。15節から23節までをご覧ください。「15 モーセは【主】に言った。16 「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、17 彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」18 主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。19 彼を祭司エルアザルの前に、また全会衆の前に立たせ、彼らの目の前で彼を任命せよ。20 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、ウリムによるさばきを自分のために伺わなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルの子らのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって入らなければならない。」22 モーセは主が命じられたとおりに行った。ヨシュアを連れて来て、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、23 自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに任命した。」

 

モーセは自分が約束の地に入れないことを思い、であれば、イスラエルの民がそこに入って行くことができるように、だれか他のリーダーを立ててくださいと言いました。そうでなかったら、彼らは羊飼いのいない羊のようにさまよってしまうことになるからです。皆さん、羊飼いのいない羊がどうなるかをご存知でしょうか?羊飼いのいない羊はどこに行ったらよいのかがわからずさまよってしまうため、結果、きちんと食べることもできずに死んでしまいます。それは霊的にも同じです。牧者がいない羊たちは、めいめいが勝手なことをするようになり、その結果、滅んでしまうことになります。士師記を見るとよくわかります。彼らは指導者がいなかったときめいめいが勝手なことをしたため霊的に弱くなり、たえず敵に脅かされてしまいます。それで彼らが叫ぶと主はさばき司を送られたので立ち直ることができました。ですから、リーダーがいないということは群れにとっては致命的なことなのです。モーセはそのことを心配していました。

 

それに対して主は何と言われたでしょうか。主はモーセに、ヌンの子ヨシュアを取り、彼の上に手を置き、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼をその務めに任命するように、と言われました。

 

主はヨシュアを、モーセの後継者としてお選びになりました。主はヨシュアが「神の霊の宿っている人」と言っています。ヨシュアにはどのように神の霊が宿っていたのでしょうか?このヨシュアについてそのもっとも特徴的な表現は、出エジプト記24章13節の、「モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり」という表現です。彼はいつもモーセのそばにいて、彼に従い、彼を助けていました。出エジプト記17章には、イスラエルがエジプトを出て荒野を放浪していたときアマレクと戦わなければなりませんでしたが、その実働部隊を率いたのがこのヨシュアでした。また、彼はあのカデシュ・バルネヤから12人のスパイを遣わした時にもその中にもいて、カレブとともに他の10人の偵察隊が不信仰に陥って嘆いても、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と進言しました。彼は特にめざましい働きをしていたわけではありませんでしたが、常にモーセのそばにいて、モーセの助手として彼を支え、彼に仕えていたのです。いわば彼はモーセのかばん持ちだったわけです。モーセに言われたことを行ない、モーセが猫の手を借りたいときには猫の手になり、難しい仕事も不平を言わずにこなし、とにかくモーセを助けていました。Ⅰコリント11章28節には、「助ける者」という賜物がありますが、ヨシュアにはこうした助けの賜物が与えられていました。ですから、ヨシュアこそモーセの後継者としてふさわしい人物だったのです。

 モーセは主が命じられたとおりに行ないました。彼はヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命しました。彼は約束の地に入ることはできませんでしたが、アバリム山に登り、イスラエル人に与えられた約束の地を見て、その後を後継者にゆだねたのでした。

義人はいない、一人もいない エレミヤ書5章1~19節

聖書箇所:エレミヤ書5章1~19節(エレミヤ書講解説教12回目)

タイトル:「義人はいない、一人もいない」

 

エレミヤ書5章に入ります。きょうは、エレミヤ5章1~17節から「義人はいない、一人もいない」というタイトルでお話します。これは有名な聖書のみことばの一つです。この世には何十億という人がいますが、神の目にかなう正しい人は一人もいません。それゆえ、私たちは自分もまたその罪人の一人であることを自覚して、イエス様によって与えられる神の義をまとい、イエス様の御声に聞き従う者でありたいと思います。

 

きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、義人はいない、一人もいないということです。第二のことは、神を求めない者に対する神の訴えです。第三に、そのような者に対する神のさばきの実行です。

 

Ⅰ.義人はいない、一人もいない(1-5)

 

まず、1~5節までをご覧ください。「1 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。2 彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」3 「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」4 私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

きょうのところでエレミヤは、エルサレムの町を行き巡るようにと命じられています。何のためでしょうか?そこに公正を行う、真実を求める人がいるかどうかを見つけるためです。「公正を行う、真実を求める人」とはどういう人でしょうか。それは、神の目にかなった人のことです。単にいい人であるとか、優しい人であるというのではなく、聖書の基準に従って生きている人、神の目にかなった正しい人のことです。

 

彼らは、口先では「主は生きておられる」と言っていました。これは4章2節にも出てきましたが、中身が伴っていませんでした。ただ口先だけの、偽りの誓いにすぎなかったのです。「偽り」ということばは、「真実」の反対語で、「空っぽ」という意味です。つまり、彼らの誓いは空っぽでした。信じてはいるがその通りには生きていませんでした。主が求めておられたのは、そのような空っぽの信仰ではなく中身が伴った真実の信仰です。そのような人が1人でもいれば、主はその人のゆえに、エルサレムのすべての人を赦そうと言われたのです

 

この話で思い出すのは、創世記18章で、神がアブラハムに語られたことばです。ソドムとゴモラの罪は非常に大きいので、それを見た主は彼らを滅ぼし尽くそうとされましたが、その時アブラハムは、必死にとりなします。そこに甥のロトが住んでいたからです。それでアブラハムはこう言います。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい人が50人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお許しにならないのですか。」(創世記18:23-24)と。

すると主は、「もしソドムで、わたしが正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」(18:26)と言われました。

じゃ45人だったらどうですか、30人だったら、20人だったら、10人だったら・・・と、その人数を少なくしていきます。値切るように神様と交渉するわけです。おそらく、ロトの家族だけでも10人くらいはいたので、10人くらいにすれば大丈夫だろうと思ったのでしょう。すると主は言われました。もし10人でも、そこに正しい者がいけば、滅ぼさない、と。

しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされました。10人もいなかったのです。でもきょうのところには10人どころじゃありません。1人です。もしも、そこに公正と真実を求める正しい人が1人でもいたら、その人のゆえにエルサレムを赦そうと言われたのです。つまり、神様はどこまでも愛の神様であるということです。たった1人でも正しい人がいれば赦してくださる。そしてその1人を最後まであきらめずに捜してくださるのです。本当に小さな可能性まで捜そうとされるわけです。

 

そうしてエレミヤは町に行きました。その結果どうだったでしょうか?3節をご覧ください。「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」

そこでエレミヤが見たのは、コチコチになった民の姿でした。神様から悔い改めるようにと懲らしめを受けても、悔い改めようとしませんでした。堅い甲羅をまとったアルマジロのように、顔を硬くして、立ち返ることを拒んだのです。人が深刻な病気をして、命からがら助かった人が、その病気の前と後で生活が変ったという人は、だいたい10人に1人くらいしかいないそうです。ここでも、イスラエルは神様から深刻なさばきを受けても全然変わらず、はねつけてしまうだけでした。神様のさばきが悔い改めの機会とならなかったのです。

 

ところでここには、「顔を岩よりも硬くして」とありますが、顔は私たちの意志とか思いが表れる場所でもあります。つまり彼らは心が表れる顔を、岩のように堅くしたのです。別のことばで言うと、信仰が顔に出ていたということです。神様との関係が顔に出ていたのです。頑なな顔ですね。カチカチで、堅い顔になっていました。皆さんの顔はどうでしょうか。カチカチになっていませんか。

 

いったいどうしてか。エレミヤは考えます。そして彼は思いました。4~5節をご覧ください。「4私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

エレミヤは思いました。公正と真実を求める正しい人を見つけることができなかったのは、卑しい者たちの中から探していたからだ。もっと身分の高い人たちのところへ行って探せば、きっと見つかるはずだと。なぜなら、彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているはずだからです。この「主の道」とか「神のさばき」とはいうのは類似語で、神のことばのことを意味しています。貧しい者たちは、仕事とか食べることで忙しくて、聖書を学んでいる暇がないのだから、主の道を知らないのも無理もないでしょう。でも身分の高い人たちは、お金に余裕があるのでそんなに働かなくてもいいし、その分聖書を学ぶことができるので、神様のことを、神様の道を知っているに違いない。そういう人たちのところに行って探せば、きっと見つかるに違いない。そう思ったのです。実際、エルサレムには神のことばを学ぶ学校があったそうです。そういうところで祭司とか、預言者とか、レビ人たちは学んでいました。そういう人たちならきっと知っているに違いないと考えたのです。

 

この「身分の高い者」という言葉ですが、原文には定冠詞が付いています。英語の「The」ですね。「その人」とか「あの人」です。英語のKing James Versionでは、「The great man」と訳しています。「あの身分の高い人」です。きっとエレミヤの心の中には、だれだかわかりませんが、思い浮かぶ人がいたのかもしれません。あの人のところに行けば、きっとわかっているに違いない。

 

結果はどうでしたか?5節をご覧ください。5節の後半には、「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」とあります。「くびき」とか「かせ」というのは、神の教え、律法、聖のことです。それは、神の民が成長していくうえで欠かすことができないものでした。イエス様も「わたしのくびを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と言われました。しかしユダの民はこのくびきを砕き、かせを断ち切っていました。ないがしろにしたのです。

 

このようにユダの民は、神の民であるにもかかわらず、意識的に、また無意識的に神の教えを無視し、神に逆らっていました。そこには公正と真実を求める人が一人もいなかったのです。それはユダの民、イスラエルだけのことではありません。私たちも同じです。公正と真実を求める人は一人もいません。神の目にかなう正しい人はだれもいないのです。このことを使徒パウロは聖書を引用してこう言いました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)

 

ノーマン・ビンセント・ピール牧師が書いた「聞かれない祈り」という本の中で、こんな逸話が紹介されています。

ピール牧師がまだ少年だったころ、彼は1本の大きくて真黒なシガレットを拾いました。彼は、面白半分に、路地裏に隠れてそのシガレットに火をつけました。味は悪かったのですが、なんとなく大人になったような気がしました。

ところが、近づいてくる父親の姿が目に入りました。彼は急いでシガレットをうしろに隠し、平静を装いました。

父親の感心を他のことに向けるために、彼はサーカスの宣伝が載った大きな広告板を指さしました。

「行っていい?お父さん。この町にサーカスが来たら、行こうよ。」

父親の答えは、ピール少年にとって、一生忘れられない教訓となりました。

父親は静かな声で、しかし、威厳を込めてこう言いました。

「息子よ。不従順の煙がくすぶっている間は、決して願い事をしてはいけないよ。」

 

皆さん、おわかりでしょうか。私たちは、この少年のように不従順の煙がくすぶらせているのに、「主は生きておられる」と平気で誓うのです。しかし、そのような偽りの誓いのゆえに、神のさばきを受けることになります。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはでき」(ローマ3:23)とあるように、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのです。それはあなたも例外ではありません。義人はいない。一人もいないのです。

 

Ⅱ.神の告訴状(6-13)

 

それゆえ、ユダに神のさばきが下ります。6~13節をご覧ください。6節には「そのため、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。豹が彼らの町々をうかがい、町から出る者をみなかみ裂く。彼らは背くことが多く、その背信がすさまじいからだ。」とあります。

「森の獅子」とか「地の狼」、「荒れ地の豹」とは、バビロン軍のことを指しています。意識的であろうが、無意識的であろうが、神に背いたイスラエルの民に対して、神はバビロン軍を送り、侵略させるというのです。

 

このような神のさばきに対して、中には、「えっ、神様はそんなに厳しい方なんですか」「神は愛です、と聖書で言っているのに、それは嘘なんですか」と言う方がおられるかもしれません。しかし、そうじゃないんです。神様は赦したいのです。しかし、ユダがそれを拒んでいるのです。それが7~13節で語られていることです。いわばこれは神様の告訴状ということができると思います。

「7 「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた。8 彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。9 これらについて、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。10 ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない。そのつるを除け。それらは主のものではないからだ。11 実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──主のことば──12 彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。13 預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」」

「これでは」というのは、神が警告を与えたのに、それでもかたくなって拒み、なおも罪を犯し続けるのでは、ということです。甚だしいにも程があると。これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。できません。これは、裏を返せば赦したいということです。神様は彼らを赦したいのです。助けたいのです。でも彼らの側でそれを受け入れないのです。むしろ、悪に悪を重ねるようなことをしました。

 

7節から、その悪が具体的に挙げられています。まず、彼らは神を捨て、神でないものによって誓っていました。これは偶像礼拝のことです。このようにまず、神を礼拝するということが破壊されていたわけです。

それでも神は、なおも驚くべき恵みをもって彼らを満ち足らせると、今度は姦淫を犯し、遊女の家で身体を傷つけました。これは文字通り姦淫を犯したということと、霊的に姦淫したということの両方を含んでいます。というのは、こうした霊的姦淫、偶像礼拝には、肉体的姦淫が伴っていたからです。

 

さらに8節には「肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。」とあります。「いななく」とは、馬が声高く鳴くことです。それは発情した状態を指しています。理性を失って、完全に情欲、欲望に支配された状態のことです。もうどうにもとならない、です。十戒の最後、第十戒は、「あなたの隣人の家を欲してはならない。」(出エジプト20:17)ですが、これは第十戒の違反です。むさぼりの罪です。欲望ですね。このように、神様との垂直の関係が壊されると、人同士の横の倫理関係が成り立たなくなります。

 

ですから、9節で主は「これらについて、わたしは罰しないだろうか」と言われるわけです。この9節の最後のところに、「このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」とありますが、この「国」と訳された語は、「異邦人の国」を指すことばです。神の民が神にとって、もう異邦人のようになってしまっているわけです。このような民を、どうして赦すことができるだろうか。どうして罰しないでおられるだろうか。復讐しないでおられるだろうか。それはできない、というのです。どこまでもかたくなになって神に背き、罪を犯し続けるなら、神様は罰せずにはおられないのです。罰したくなくても、罰するしかないわけです。それは神様からしたら不本意なことです。なぜなら、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。Ⅰテモテ2章4節にこうあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」でも、神の慈愛を無視し、悔い改めずに罪を犯し続けるなら、罰せずにはおられないのです。

 

続く10節にはぶどう畑が出てきますが、この「ぶどう畑」とは、イスラエルのことを指しています。このぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせと言われるのは神様ご自身です。神様はぶどう畑であるイスラエルの石垣に上り、それをつぶすようにと、バビロンに命じているのです。

 

その理由が11節にあります。イスラエルの家とユダの家はが、ことごとく主を裏切ったからです。イスラエルの家とは北イスラエル王国のこと、ユダの家とは、南ユダ王国のことです。北王国イスラエルは既に滅ぼされていました。B.C.722年に、アッシリヤによって滅ぼされました。そして、それが今南ユダ王国にも語られているのです。この後B.C586年に、彼らもバビロンに滅ぼされてしまうことになります。それは彼らがことごとく神様を裏切ったからです。神様は真剣に彼らに向き合おうとしておられたのに、神の民の方は、自分たちのしていることを深刻に受け止めていませんでした。

 

それは12節を見るとわかります。彼らは主を否定してこう言いました。「主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない。」

どういうことでしょうか。どんなに主が警告を与えても、それをまともに受けませんでした。わざわいが来る、さばきがあると言われても、そんなことは起こらないと、悠々自適に生きていたわけです。やりたい放題、好き勝手に生きていたのです。

 

そればかりではありません。13節には「預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。「風になり」とは実体がないということです。預言者たちの存在はあってないようなもの、風のようなものだと揶揄しているのです。

この12節と13節のことばは、エレミヤが預言者として何回も聞かされて来た、自分が体験してきたことばだったのでしょう。彼が預言者として神様のことばを伝えても、民の方は「なに、預言者か、あいつらは風みたいなもんだ」と馬鹿にしていたのです。それはこのエレミヤが預言のことばを語った時代、それはヨシヤ王の時代ですが、政治的には強大なアッシリヤ帝国がちょっと力が弱まって、政治的な空白ができた時代でした。そのためユダは比較的に平穏だったのです。だからエレミヤのことばを民は真剣に受け止めなかったのです。風のように流していたわけです。しかし、神様は侮られるような方ではありません。神のことばが無に帰することはないのです。神のことばは必ず成し遂げられます。必ず、実現するのです。

 

アメリカの有名なリバイバリストであったD・L・ムーディーは、イエス様を信じて生まれ変わり、最初のうちは喜びに満たされていました。ところがいくらもたたないうちに、生まれ変わった喜びはなくなり、世の楽しみを求め始めました。そこで彼は山に登って一週間の断食祈祷をして、恵みに満たされて山から下りてきました。しかし、その恵みもしばらくすると消えてしまいました。彼はひどく落胆し、「主よ、私は捨てられた者です」と嘆きました。そんなある日、聖書を読んでいると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)というみことばに目が留まりました。その瞬間、彼の心が熱くなりました。「私は聖書を読んでいなかった。だから信仰が育たず、成熟できなかったんだ。」その時から彼は聖書を一生懸命に読みました。すると、彼の生活が代わり始めました。罪と世のことが消え去り、心が聖められて聖霊に満たされていったのです。

 

信仰生活の基本は、神が生きておられると信じることです。そして、その神のことばに生きることなのです。神のみことばに満たされると、みことばが生きて働き、その人を変えていきます。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。そして、そのみことばに従うとき、私たちの生活が変わっていくのです。イスラエルの問題はここにありました。みことばを聞きませんでした。主のことばを否定していたのです。つまり、はみことばがなかったのです。自分の思いのままに、勝手気ままに生きていました。その結果、神のさばぎか彼らに臨んだのです。神が生きておられると信じるなら、神の御前で生きるようになり、罪を捨てる人生へと導かれていきます。そして、すべてのことにおいて神を認める信仰は、みことばを毎日黙想して従う生活に現れるのです。

 

Ⅲ.イスラエルを攻める遠くから来る一つの国(14-19)

 

しかし、主は侮られる方ではありません。「主は何もしない」と言っている間に、民は自分の頭の上に神の怒りを積み上げていました。そして、ついに神の堪忍袋の緒が切れる時がやってきます。神様がみことばで語られた通り、民に対するさばきが実行に移されます14~19節をご覧ください。まず14節には「それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「あなたがたがこのようなことを言ったので、見よ、わたしはあなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす。」とあります。

ユダの民がそのようなことを言ったので、主はエレミヤの口から出ることばを火炎放射器のように、彼らに浴びせます。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くすのです。それは神様による神の民への徹底したさばきです。具体的には外国が襲ってくるわけです。15~17節をご覧ください。「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めるために、遠くの地から一つの国を来させる。──主のことば──それは古くからある国、昔からある国、その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。その矢筒は開いた墓のよう。彼らはみな勇士たち。彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」

神様は神の民をさばくために、外国を道具として用いられわけです。「古くからある国」とか「昔からある国」とはバビロン帝国のことです。この時は新バビロニア帝国でしたが、それは昔からありました。旧バビロニア帝国です。その起源は、創世記11章のバベルの塔にまで遡ります。あの「バベル」とは「バビロン」のことです。人類はここから地の全面に散らされていきました。ですから、歴史は古いのです。ユダの民はその言語を知りません。何を話しているのか聞き取れない国、それがバビロンです。主はイスラエルを攻めるために、この外国のバビロンを用いるのです。

「その矢筒は開いた墓のよう」とは、その放つ矢によって確実に死ぬということです。つまり、バビロン軍の破壊力を表しているのです。それはスピーディーで、パワフルで、すべてを食い尽くすいなごのようです。17節には「食らい」ということばが4回も繰り返して用いられています。「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、」彼らはすべてを食らい、エルサレムを廃墟とするのです。

まさにモーセが警告した通りです。モーセは約束の地に入るイスラエルの民に、もし彼らが主の御声に聞き従わず、モーセが彼らに命じた、主のすべての命令と掟を守り行わなければ、すべてのわざわいが彼らに臨み、彼らをとらえると言いましたが(申命記28:15)、その通りになったのです。

 

18~19節をご覧ください。ここには、「18 しかし、その日にも──主のことば──わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない。」とあります。19『われわれの神、武捨は、何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか』と尋ねられたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、自分の地で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分の地ではない地で、他国の人に仕えるようになる。』」とあります。

19節のことばは、自業自得ということです。「主は、何の報いとして、こんなことを私たちにしたのか」それは、彼らの神、主を捨てて、異国の神々に仕えたからです。それは神様の問題ではなく、身から出た錆なのです。

18節のことばは、10節にもありましたが、滅ぼし尽くすこときしないという約束です。そのような徹底した神のさばきの中にも、神は残りの民を残してくださるという約束です。ここに希望があります。絶望的に見えますが、ここにかすかな希望が残されているのです。神は、ユダが絶滅することを赦されたのではありません。敵の攻撃に、一定の制限を設けられました。それはすでに4章27節でも語られたとおりです。そこでは「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」とありました。ここでも同じことを語っておられます。神様は、アブラハムの約束のゆえに、イスラエルをお守りになられるのです。まさに「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とある通りです。

 

きょうのところをまとめると、ずっと罪のリストが挙げられて、最終的に外国からバビロン軍がやって来て、その国を食い尽くすわけです。その結果、社会の崩壊に至ります。彼らの安心した暮らしが破壊され、混乱に陥ります。今の日本も同じではないでしょうか。表面的には安心を装っていても、社会は崩壊し、混乱をきたしています。いつ崩壊するかわかりません。いったい何が問題なのでしょうか。その悲惨の原因をずっと辿って行くと、公正と真実、正義と真実を求めなかったからではないかということが、きょうのところが教えていることです。公正と真実を求めなかった民の行き着く先が、彼らのおかれている社会状況の大変さ、悲惨さに至るのです。逆に言えば、公正と真実を一人一人が求めるなら、このような悲惨な結果を招くことはないと言えます。

 

「大草原の小さな家」というアメリカのテレビドラマがありますが、その中にこんな話がありました。舞台は19世紀のアメリカの西部の開拓された小さな田舎町です。その小さな町には、人口も少ないので、小さな教会がありましたが、日曜日は教会がありますが、ウイークデイは子どもたちの小学校になっていました。

ある日曜日の礼拝が終わって、牧師が提案するのです。私たちの教会ももうそろそろ会堂の入り口のところに鐘を付けたらどうかと。集まった教会の人たちは、その提案をそれぞれ喜んで受け入れ、みんなうれしそうにしていました。ところが、そのドラマでよく出てくる雑貨屋を営んでいる金持ちの家庭がいて、奥さんがすごく見栄っ張りなんです。「じゃ、私が全部寄付しますわ。思いっきり隣町に負けないようないい鐘を付けましょう」と言うんですね。「その代わり私が寄付をしたというプレートを下に付けてください」と言うわけです。その発言で、教会のメンバーが一気にその意見が割れてしまいました。自分はお金が無いから、寄付は受けてプレートはつけていいという人がいれば、教会にそんな寄付した人の名前を彫り込むなんていうのは滅相もないという人の意見が、喧々諤々となってしまいました。その結果礼拝出席が半分くらいになってしまいます。半分くらいいなくなってしまったのです。牧師は提案した責任を感じて辞任することが決まりました。

その話を聞いていた目立たないおじさんがいました。ジョーンズさんという人なんですが、彼は話すことができない障害を持った方でした。彼の仕事は鋳物師で、鉄とかを溶かしてやかんとか鍋とかを作る仕事でした。彼は子どもたちに人気者でした。鋳物でキリンとかウマとかを作ったりしてプレゼントをしていたからです。そこで彼は考えました。子どもを集めて、話すことができないので黒板に書いて、子供たちに指示をするんです。すると、学校が終わった子どもたちがワァーとジョーンズさんの家に集まって来て、こそこそと指示を受けたら自分たちの家に帰って、家にある鉄のものをジョーンズさんのところにこそっと持って行くのです。灯油缶とかやかんとか使われていないものを持って行くわけです。ジョーンズさんはそれを溶かして鐘にするんですね。

しばらく経って、牧師が辞任のあいさつをする時です。日曜日の朝でした。小さな町全体に鐘の音が鳴り響きました。大人はびっくりして音のする方向に馬車を走らせて行きます。教会の上に鐘が付いていて、紐を引っ張ってジョーンズさんが鐘を鳴らしていました。大人たちは何となく気付いていたんですが、自分の家から鉄の物が無くなった理由がやってわかったわけです。そして子供たちが喜ぶ姿を見て、自分たちの過ちを認めました。

 

私はこのドラマを見て思ったことは、それは大草原の小さな家に出てくる教会だけでなく私たちの教会も、私たちの家庭も、いや、私たちのこの社会すべてに言えることではないかということです。その原因は何か、自分は正しいと思い込んでいることです。そのことに気付かないのです。しかし義人はいない、一人もいない。神様の前に正しい人は一人もいないのです。きょうの箇所にあったように、私たちの中にはだれ一人として正しい人はいないのです。しかし、聖書が言うのは、ただ一人の正しい人がおられたということです。イエス様だけが公正と真実を求めて、ひたすらそこに生き抜いてくださいました。この方が勝ち取ってくださった正しさを、私たちは身にまとうことが許されています。会堂の入り口に高く掲げられたこのジョーンズさんの鐘が、和解の調べを告げたように、十字架につけられたイエス様から私たちは、和解のことばを聞くことができるのです。イエス様は十字架の上からこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないからです。」(ルカ23:34)

私たちは、自分でも知らないうちに、また知りながら、罪を重ねて行きます。しかしそれを全部知った上で赦してくださった方がおられます。罪で死に、罪で滅ぼし尽くしかねなかった私たちを救ってくださったイエス様、このイエス様の御声を私たちは聞き、これを信じ従っていきたいと思います。

民数記26章

きょうは、民数記26章から学びます。

Ⅰ.人口調査をせよ(1-4a,52-56)

 まず1節と2節をご覧ください。1節、2節にはこうあります。「1 この主の罰の後のことであった。主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げられた。2 「イスラエルの全会衆について、一族ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦に出ることができる者すべての頭数を調べなさい。」」

「この主の罰」とは、25章で見た神罰のことです。バラムの企みによってイスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ不品行を行い、偶像礼拝を行ったことで、なんとイスラエル人二万四千人が死にました。その神罰の後に、主はモーセと祭司エルアザルに、イスラエルの全会衆の中から父祖の家ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦いに出ることのできる者すべての人口調査をするようにと命じられました。いったいなぜ神はこのようなことを命じられたのでしょうか。

人口調査については、この民数記の1章ですでに行われました。それはエジプトを出て二年目の第二の月のことでしたが、イスラエルがシナイの荒野に宿営していたとき、やはり氏族ごとに二十歳以上の男子で、戦いに出ることができる人数が数えられたのです。それは戦うためでした。戦うためには軍隊を整えなければなりません。それで主はイスラエルの軍隊を組織させ、その戦いに備えさせたのです。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられました。しかし、ここではそのためではありません。あれから38年が経ち、イスラエルは今ヨルダン川の東側までやって来ました。彼らはもうすぐ約束の地に入るのです。いわば荒野での戦いは終わりました。それなのに、いったいなぜ人口を調査する必要があったのでしょうか。

それは約束の地に入るために備えるためです。52~56節までをご覧ください。「52 主はモーセに告げられた。53 「これらの者たちに、その名の数にしたがって、地を相続地として割り当てなければならない。54 大きい部族にはその相続地を大きくし、小さい部族にはその相続地を小さくしなければならない。それぞれ登録された者に応じて、その相続地は与えられる。55 ただし、その地はくじで割り当てられ、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がれなければならない。56 その相続地は、大部族と小部族の間で、くじによって決められなければならない。」
ここには、これから入る約束の地において、その地をそれぞれの部族の数にしたがって相続するようにと命じられています。大きい部族には大きい相続地を、小さい部族にはその相続地を少なくしました。彼らはその人数によって相続地を割り当てたのです。

このように、主は荒野で戦いに備える前に人口を調査し、今度は約束の地に入るための準備として相続地を割り当てるために人口調査をしたのです。それは決して自らの数を誇るためではありませんでした。これから先の行動に備えるためだったのです。彼らが約束の地に入るには、まだ先住民と戦わなければなりませんでした。その後で相続地の割り当てが行われます。しかし主はそれに先立ち、すでにこの時点で相続地の分割を考えておられたのです。それはまさに先取りの信仰ともいえるものです。主の約束に従い、それを信じて今それを行っていくのです。そうなると信じて、たとえ今はそうでなくとも、そのように行動していかなければならないのです。

Ⅱ.イスラエルの人口(4b-51,57-62)

さて、そのイスラエルの人口ですが、38年前(民数記2章)と比較してどうなったでしょうか。5節から51節までにそれぞれの部族の人口が記録してあります。「5 イスラエルの長子ルベン。ルベン族は、ハノクからはハノク族、パルからはパル族、6 ヘツロンからはヘツロン族、カルミからはカルミ族。7 これらがルベン人諸氏族で、登録された者は、四万三千七百三十人であった。8 パルの子孫はエリアブ。9 エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラム。このダタンとアビラムは会衆から召し出された者であったが、コラの仲間としてモーセとアロンに逆らい、主に逆らった。10 そのとき、地は口を開けて、コラとともに彼らを呑み込んだ。それは、その仲間たちが死んだときのこと、火が二百五十人の男を食い尽くしたときのことである。こうして彼らは警告のしるしとなった。11 ただし、コラの子たちは死ななかった。
12 シメオン族の諸氏族は、それぞれ、ネムエルからはネムエル族、ヤミンからはヤミン族、ヤキンからはヤキン族、13 ゼラフからはゼラフ族、シャウルからはシャウル族。14 これらがシメオン人諸氏族で、登録された者は、二万二千二百人であった。
15 ガド族の諸氏族は、それぞれ、ツェフォンからはツェフォン族、ハギからはハギ族、シュニからはシュニ族、16 オズニからはオズニ族、エリからはエリ族、17 アロデからはアロデ族、アルエリからはアルエリ族。18 これらがガド人諸氏族で、登録された者は、四万五百人であった。
19 ユダの子はエルとオナン。エルとオナンはカナンの地で死んだ。20 ユダ族の諸氏族は、それぞれ、シェラからはシェラ族、ペレツからはペレツ族、ゼラフからはゼラフ族。21 ペレツ族は、ヘツロンからはヘツロン族、ハムルからはハムル族であった。22 これらがユダ諸氏族で、登録された者は、七万六千五百人であった。
23 イッサカル族の諸氏族は、それぞれ、トラからはトラ族、プワからはプワ族、24 ヤシュブからはヤシュブ族、シムロンからはシムロン族。25 これらがイッサカル諸氏族で、登録された者は、六万四千三百人であった。
26 ゼブルン族の諸氏族は、それぞれ、セレデからはセレデ族、エロンからはエロン族、ヤフレエルからはヤフレエル族。26:27 これらがゼブルン人諸氏族で、登録された者は、六万五百人であった。
26:28 ヨセフ族の諸氏族は、それぞれ、マナセとエフライム。29 マナセ族は、マキルからはマキル族。マキルはギルアデを生んだ。ギルアデからはギルアデ族。30 ギルアデ族は次のとおりである。イエゼルからはイエゼル族、ヘレクからはヘレク族、31 アスリエルからはアスリエル族、シェケムからはシェケム族、32 シェミダからはシェミダ族、ヘフェルからはヘフェル族。:33 ヘフェルの子ツェロフハデには息子がなく、娘だけであった。ツェロフハデの娘の名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。34 これらがマナセ諸氏族で、登録された者は、五万二千七百人であった。
35 エフライム族の諸氏族は、それぞれ、次のとおりである。シュテラフからはシュテラフ族、ベケルからはベケル族、タハンからはタハン族。36 シュテラフ族は次のとおりである。エランからはエラン族。37 これらがエフライム人諸氏族で、登録された者は、三万二千五百人であった。これがヨセフ族の諸氏族である。
26:38 ベニヤミン族の諸氏族は、それぞれ、ベラからはベラ族、アシュベルからはアシュベル族、アヒラムからはアヒラム族、39 シュファムからはシュファム族、フファムからはフファム族。40 ベラの子はアルデとナアマン。アルデからはアルデ族、ナアマンからはナアマン族。41 これらがベニヤミン族の諸氏族で、登録された者は、四万五千六百人であった。
42 ダン族の諸氏族は次のとおりである。シュハムからはシュハム族。これらがダン族の諸氏族である。43 シュハム人の全諸氏族で、登録された者は、六万四千四百人であった。
44 アシェル族の諸氏族は、それぞれ、イムナからはイムナ族、イシュウィからはイシュウィ族、ベリアからはベリア族。45 ベリア族のうち、ヘベルからはヘベル族、マルキエルからはマルキエル族。46 アシェルの娘の名はセラフであった。47 これらがアシェル人諸氏族で、登録された者は、五万三千四百人であった。
48 ナフタリ族の諸氏族は、それぞれ、ヤフツェエルからはヤフツェエル族、グニからはグニ族、49 エツェルからはエツェル族、シレムからはシレム族。50 これらがナフタリ族の諸氏族で、登録された者は、四万五千四百人であった。
51 以上が、イスラエルの子らの登録された者で、六十万一千七百三十人であった。」

まずルベン族は、43,730人です。38年前のシナイの荒野にいた時は46,500人でしたから、2,770人少なくなっています。ここには、16章のコラの事件に加担した者ダタンとアビラムの名前があります。彼らはこのルベン族に属する者たちでした。ダタンとアビラムは会衆に選ばれた者でしたが、コラ(レビ族ケハテの子)の仲間に入り、モーセとアロンに逆らい、主に逆らったのです。その結果、彼らはコラとともに滅びました。ただし、コラの子らは死にませんでした。2,770人少ないというのは、こうしたことが影響したいものと思われます。

次は、シメオン族です。シメオン族で登録された者は、22,200人でした。シナイの荒野にいた時は59,300人でしたので、半分以下になりました。

次は、ガド族です。ガド族で登録された者は、40,500人でした。シナイの荒野にいた時は45,650人でしたので、ガド族も少なくなっていることがわかります。

次は、ユダ族です。ユダ族で登録された者は、76,500人でした。シナイの荒野にいた時は74,600人でしたので、ユダ族も若干少なくなっています。

次は、イッサカル族です。イッサカル族で登録された者は、64,300人でした。シナイの荒野にいた時は54,400人でしたので、イッサカル族は増えています。

次は、ゼブルン族です。ゼブルン族で登録された者は、60,500人でした。シナイの荒野にいた時は57,400人でしたので、ゼブルン族も少しですが増えています。

次は、マナセ族です。マナセ族で登録された者は、52,700人でした。シナイの荒野にいた時は32,200人でしたので、かなり増えていることがわかります。

次は、エフライム族です。エフライム族で登録された者は32,500人でした。シナイの荒野にいた時は40,500人でしたので、かなり増えていることがわかります。

次は、ベニヤミン族です。ベニヤミン族で登録された者は45,600人でした。シナイの荒野にいた時は35,400人でしたので、大きく増えています。

次はダン族です。ダン族で登録された者は64,400人でした。シナイの荒野にいた時は62,700人でしたので、ほとんど同じ人数になっています。

次はアシェル族です。アシェル族で登録された者は53,400人でした。シナイの荒野にいた時は41,500人でしたので、大きく増えています。

最後はナフタリ族です。ナフタリ族で登録された者は45,400人でした。シナイの荒野にいた時は53,400人でしたので、大きく減りました。ちょうどアシェル族と逆です。

以上が、イスラエルの子らの登録された者で、合計601,730人でした。38年前にシナイの荒野で数えられた時の合計は603,550人でしたから、ほとんど同じ数です。ここからも、荒野の生活がかなり過酷であったことがわかります。イスラエルは神の祝福によってたちまち増え続けてきましたが、この荒野の40年はほとんど増えませんでした。かろうじてほぼ同じ人口は保つことができましたが、それは試練と忍耐の時であったのです。

次にレビ族の人数が記されてあります。レビ族にはゲルション、ケハテ、メラリという三つの氏族がありました。ここで特筆すべきことは、ケハテから生まれたアムラムとその妻ヨケベテとの間にアロンとモーセとその姉妹のミリヤムが生まれたということです。そして、このアロンにはナダブとアビフ、エルアザルとイタマルという四人の息子がいましたが、ナダブとアブフは主の前に異なった火をささげたので死にをささげたため、つまり、大祭司しか入ることができなかった至聖所に入っていけにえをささげたので殺され(レビ10:1-3)、その弟エルアザルが大祭司となりました。

それから、このレビ族の記録でもう一つ重要なことは、彼らの場合は二十歳以上の男子ではなく一か月以上のすべての男子が登録されたということです。そして、彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されませんでした。なぜなら、彼らはイスラエル人の間で相続地を持たなかったからです。神ご自身が彼らの相続地だったのです。

Ⅲ.シナイの荒野で登録された者はひとりもいなかった(63-65)

最後に63節から終わりまでを見たいと思います。「63 以上が、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセと祭司エルアザルがイスラエルの子らを登録したときに登録された者たちである。64 しかし、この中には、シナイの荒野でモーセと祭司アロンがイスラエルの子らを登録したときに登録された者は、一人もいなかった。65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたからである。彼らのうち、ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」

これがこの章のまとめです。また、民数記全体の要約でもあります。イスラエルの民は約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その地に入ることができたのはヨシュアとカレブだけでした。それ以外は誰も入ることができませんでした。彼らは約束のものを受けていたにみかかわらず、その約束にあずかれなかったのです。なぜでしょうか?神は彼らを約束の地に導くと行ったのに彼らが信じなかったからです。信じないで十度も主を試みたので、主は彼らに「彼らは必ず荒野で死ぬ」(14章)と言われたのです。

これは本当に厳粛な話です。私たちがどんなに信仰の恵みに預かっても、不信仰になって主を何度も試みるようなことがあれば、約束の地に入ることはできません。パウロはこのことを第一コリント10章でこう言っています。「1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:1-13節)

ここでパウロは、彼らの父祖たち、すなわち、イスラエルの民が御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく荒野で滅ぼされてしまったのは、私たちへの戒めのためであると言って、7節からその要因を列挙しています。それは金の子牛を造ってそれを拝んだことや、バラムのたくらみによってモアブの女たちと姦淫を行い、その結果、モアブの神々を拝んでしまい、一日に二万三千人が死んだという出来事、さらには、ある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいたりしたことです。これはコラたちの事件のことでしょう。私たちはこれらの出来事一つ一つを見てきました。それらのことによって、イスラエルの民はせっかく神から約束のものを受けていたのに、それを手にすることができなかったのです。そしてそれは私たちへの教訓のためでした。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなければなりません。

私たちは今、世の終わりの時代に生きています。世の終わりになると困難な時代がやって来るということをイエス様も語っています。いつ倒れてもおかしくない状況に置かれているのです。自分は大丈夫だと思っていても、そうした傲慢な思いが神様のみこころにかなわない場合があります。それなのにいつまでもかたくなになっていると、この時のイスラエルのように約束の地に入ることかできなくなってしまいます。倒れてしまう可能性があるのです。けれども神は倒れないようにするための約束も与えておられます。それが13節です。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

神が与えておられる試練は必ず耐えることができるものです。耐えられないような試練は与えません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。この約束を信じて、いつまでも神様の道に歩まなければなりません。もしその道から外れてしまうことがあったら、すぐに悔い改めて、もう一度立ち返る必要があります。そうすれば、主はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださいます。いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、かつてイスラエルが荒野で滅びたように、約束のものを手に入れることはできません。それがヘブル人への手紙3章13節から19節までのところに進められていることです。「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

私たちは、この世の歩みにおいていろいろな試練を受けますが、しかし、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしたいと思います。そして信じた時に与えられた最初の確信を最後まで保ちたいと思います。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうことがないように、いつも柔らかな心をもってみことばに聞き従う者でありたいと思います。

さあ、朝の食事をしなさい ヨハネ21章1~14節

聖書箇所:ヨハネ21章1~14節

タイトル:「さあ、朝の食事をしなさい」

 

主の御名を賛美します。今年も主の復活に感謝し、共に主を礼拝できることを感謝します。全世界はいまコロナウイルスに加え、ロシアのウクライナ侵攻、またそれに伴う食糧難、暴動、地震とまさに闇の中に置かれていますが、このキリストの復活のメッセージが、暗闇の中にある人たちにとって希望の光となることを祈ります。今日は、ヨハネの福音書21章から「さあ、朝の食事をしなさい」という題でお話しします。

 

Ⅰ.私は漁に行く(1-3)

 

まず1~3節をご覧ください。「その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」

 

イエス様は、ユダヤ人たちのねたみによって十字架に付けられて死なれ、墓に葬られました。しかし、キリストを墓の中に閉じ込めておくことはできませんでした。キリストは、聖書が示す通りに、三日目に死人の中からよみがえられました。復活によって、ご自身が神の御子、救い主であることを公に示されたのです。そして40日にわたり弟子たちにご自身を現わされ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを示されました。

 

イエス様が最初にご自身を現わされたのは、マグダラのマリアに対してでした。20章1節には、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来たとあります。何のためでしょうか。イエスの遺体に香油を塗るためです。ところが墓へ行ってみると、墓から石が取りのけられてありました。よみがえられたのです。でもイエスのからだがありませんでした。マリアが途方に暮れて泣いていると、復活の主が彼女に現れ「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と言われました。彼女は、それを園の管理者だと思いましたが、やがて、それが愛する主イエスだということがわかりました。彼女はそのことを弟子たちに告げると、弟子たちにはたわごとのように思われました。しかし、その日の午後、エマオに向かっていた二人の弟子たちに現われると、その日の夕方には、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた弟子たちのところに現われてくださいました。イエス様が手と脇腹を彼らに示されると、「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20:20)とあります。

 

しかしそこに、12弟子の1人でデドモと呼ばれるトマスがいませんでした。彼は疑い深い人で、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「私は決して信じません。その手に釘の跡を見て、そこに指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」(21:25)と言いました。本当に疑い深い人ですね。私たちの回りにもそういう人たちが結構いるのではないでしょうか。いや、私たちもかつてはそうでした。見ないと信じない。

 

しかし、その1週間後のことですが、弟子たちが集まっていたところに、再び主が現れてくださいました。今度はトマスも一緒でした。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(20:27)と言われました。するとトマスは、「私の主、私の神よ。」と言ってひれ伏し、主を礼拝しました。主はそんな彼にこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」(21:29)見ないで信じる人は幸いです。

 

きょうの箇所はその後の出来事です。その後、イエスはティベリア湖畔で再び弟子たちにご自分を現われてくださいました。ティベリア湖とはガリラヤ湖のことです。ティベリア湖とは、ガリラヤ湖のローマ風の呼び方なのです。そこで主は再び弟子たちにご自分を現われてくださったのです。その現わされた次第はこうです。

 

舞台は、エルサレムからガリラヤに移っています。なぜ弟子たちはこの時ガリラヤ湖にいたのでしょうか。主がそのように言われたからです。「ガリラヤに行くように。そこであなたがたに会う」(マタイ28:10)と。

ガリラヤ湖は彼らの故郷でした。彼らは、このガリラヤ湖で漁をしながら生計を立てていました。そこは彼らが小さい頃から慣れ親しんだ場所だったのです。しかし3年半ほど前に、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)と言われ、すべてを捨ててイエス様に従って行きました。ところが、イエス様は十字架に付けられて死んでしまいました。それで彼らは完全に望みを失ってしまったのです。これまで主として、先生として仰いできたイエス様が死んでしまったのですから。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。その復活された主イエスが彼らに現われ、ガリラヤに行くようにと言われたのです。

 

2節をご覧ください。そこにいたのは、シモン・ペテロとデドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナの出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子がいました。おそらく一人はペテロの兄弟アンデレでしょう。そしてもう一人はナタナエルを誘ったピリポではないかと思います。とにかく全部で7人です。彼らはかつて漁をしていたガリラヤ湖畔にいたのです。

 

すると、シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言いました。なぜ彼はこのように言ったのでしょうか。わかりません。ある学者は、このときペテロは伝道者としての生活をやめ、元の仕事に戻ろうとしていたのではないかと言っています。また他の人は、いや、その日の食料を求めて漁に行っただけだという人もいます。はっきりしたことはわかりません。しかし彼がそのように言うと、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言いました。一つだけ確かなことは、このとき彼らは無力で、みじめな状態であったということです。なぜなら、自分の仕事まで捨てて従って行ったイエスが十字架につけられて死んでしまったのですから。いったい今までのことは何だったのか、そういう思いに駆られていたのではないかと思います。そして、自分たちの最も得意な領域で自分たちの存在というものを確かめたのではないでしょうか。それが「私は漁に行く」という言葉に現れたのだと思います。彼らはもともと漁師でしたから、これが自分の本業だと思ったのでしょう。ちょうど牧師が以前の仕事のことを思い出して懐かしむ姿に似ているかもしれません。それがうまくいなかいと元の仕事に戻りたいと、牧師なら一度や二度思うことがあります。「人間をとる漁師にしよう」と言われてイエス様について行ったのは良かったけれども、その結果がこれです。「これこそ自分のライフワークだ」と、以前の状態に引き戻されたのだと思います。

 

結果はどうでしたか?3節後半をご覧ください。「彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」収穫ゼロです。漁をするには一番いい時間であったはずです。彼らは漁のプロでしたから、そんなことくらい百も承知でした。それなのに何も捕れなかったのです。なぜでしょうか?漁から離れていた3年半の間にすっかり腕が鈍ってしまったからではありません。それは彼らの本来の仕事ではなかったからです。彼らの本来の仕事は何ですか?人間をとる漁師です。それなのにそれを見ないかのようにして、自分の思いと自分の力で何とかしようとしたのです。その結果がこれだったのです。

 

ここからどんなことを学ぶことができるでしょうか?神のみこころから離れた努力は空しいということです。努力をすることは大切なことです。聖書にも「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)とあります。箴言には、怠けないで、勤勉であるようにと勧められています。勤勉に働くことによって家族を養うことができます。世の光、地の塩としての役割を果たすことができます。しかしそれがどんなに良いことでも優先順位を間違えると、それは神に喜ばれません。ペテロは何も悪いことをしたわけではありません。漁に行くこと自体は良いことですし、熱心に働くことは悪いことではありません。しかし、彼に対する神の使命は、魚をとることはなく人間をとる漁師になるということでした。これが彼に対する神のみこころだったのです。それなのに彼は、神のみこころではなく自分の思い、肉の力を優先しました。その結果がこれだったのです。

 

私たちも神のみことばに従わないと、以前の生活に逆戻りしやすくなります。自分の力が、肉の力が働きやすくなるのです。だんだん祈らなくなります。神に信頼するよりも自分で頑張ろうとするのです。自分のやりたいことを、自分のやりたいときに、自分のやりたいようにやろうとするわけです。神のみこころを求めるのではなく、「私はやります」となるのです。ここでペテロは「私は漁に行く」と言いましたが、それと同じようになるのです。神様が何を願っておられるのかではなく、あくまでも「私」がしたいと思うこと、私の思いが強くなるのです。たから日曜日ごとに教会に来て主を礼拝することが重要なのです。そこで自分が拠って立っているもの、自分が信頼しているものが何であるのかを確認することができるからです。漁に行くこと自体は問題ではありません。でも彼に求められていたのは漁に行くことではなく、イエス様のことばに従って待つことだったのです。彼は主のことばに従わないで自分で判断して物事を決め、自分の力でやり遂げようとしました。主のことばに従わないと祈らなくなり、自分の判断で物事を決め、自分の力でやり遂げようとするようになります。

 

その結果、どうでしたか?夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。空振りに終わってしまいました。こんなに頑張っているのになぜ?優先順位が間違っていたのです。人生の優先順位を間違えると、実を結ぶことができません。イエス様が言われたことばを思い出します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)イエス様を離れては何もすることはできません。その夜は何も捕れませんでした。それはこの時の弟子たちの心を象徴していたかのようです。イエス様を離れては実を結ぶことはできません。しかし、そんな暗い夜にも明るい朝がやって来ます。

 

Ⅱ.湖に飛び込んだペテロ(4-8)

 

4~8節をご覧ください。「4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。」

 

弟子たちは夜通し漁をしたのに何も捕れませんでした。その夜が明け始めていたころ、イエス様は岸辺に立っておられましたが、弟子たちにはそれがイエス様だとはわかりませんでした。見てはいましたが、わからなかったのです。なぜでしょうか?もしかすると弟子たちは湖の上にいたので、遠くてよく見えなかったのかもしれません。しかしそれは距離が遠かったからではありません。距離以上に彼らの心が遠く離れていたからです。だから主を見ていても、それが主だとわからなかったのです。

 

でも感謝ですね。そんな弟子たちにイエス様の方から声をかけてくださいました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」それに対して弟子たちは答えました。「ありません。」ここで弟子たちは、自分の弱さというか、無力さを素直に認めています。しかし、そのように素直に認めたとき、彼らに新しい道が開かれました。どういう道でしょうか。それはイエス様の恵みに生きる道です。6節をご覧ください。イエス様は彼らにこう言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」これが主のことばです。「舟の右側に網を打ちなさい。」舟の右側に打てって、もうとっくりやりましたよ。夜通しやったんです。でも何も捕れませんでした。今さらやっても無駄です。捕れるはずがありません。と弟子たちは言いませんでした。彼らは一言も反論せず、ただ主が言われたとおりにしました。

 

するとどうでしょう。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き揚げることができませんでした。ガリラヤ湖は魚の豊富な淡水湖です。魚が群れをなして湖面近くに現れるとき、水面は、遠くから見ると夕立にたたかれたように波立って見えたといいます。まさにそんな光景だったかもしれません。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには引き上げることができませんでした。7人の侍ならぬ7人の漁師でも引き上げることができないほどの大漁だったのです。自分の力で頑張った時には100%力を出し切ってもだめだったのに、主のことばに従い、主が言われたとおりにしたとき、想像することもではないほどの大漁が与えられたのです。

 

イエス様はこう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:30)まず神の国とその義とを第一に求めることです。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。聖書はそう約束しています。私たちは自分の必要を満たそうとあくせくしていますけれども、空回りしないように注意しなければなりません。第一のことを第一にしなければなりません。第一のことを第一にするなら、あとのことは主が満たしてくださいます。これが、聖書が約束している聖書の原則です。

 

それでイエスに愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言いました。イエスが愛されたあの弟子とは、これを書いているヨハネのことです。彼は自分のことをみるとき、主に愛されている者であるというイメージを持っていました。これは正しいセルフイメージではないでしょうか。他の人があなたをどのように見るかではなく、神があなたをどのように見ておられるかということです。ヨハネは自分のことを、イエスが愛された者とみていました。私たちも同じです。確かに罪だらけな者です。同じ失敗を繰り返すような愚かな者ですが、そんな者を主は愛してくださったのです。私は、あなたは、主に愛された者なのです。

 

そのヨハネが、「主だ」と言いました。どうして彼はそのように言ったのでしょうか?ここには「それで」とあります。「それで」とは、その様子を見て、ということです。おびただしい数の魚のためにもはや彼らには網を引き上げることができなかったのを見て、「主だ」と叫んだのです。なぜでしょうか。なぜなら、彼の中に決して忘れ得ぬ一つの記憶が一気によみがえってきたからです。それはルカの福音書5章にある出来事です。イエス様がペテロの舟に乗ると、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われました。しかし、彼らは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですからと、網を下してみると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。あの出来事です。感受性の鋭いヨハネは、この二つの出来事の関連性というものを瞬時に分析し、結論を下したのです。「主だ」と。

 

それを聞いたペテロはどのように反応したでしょうか?彼は「主だ」と聞くと、すぐに湖に飛び込みました。おもしろいですね。ヨハネは、この二つの関連性を瞬時に分析してそのように結論づけましたが、ペテロは何も考えないで湖に飛び込みました。ペテロは理性よりも感性、感覚で生きるような人間でした。ですから「主だ」と聞いただけで、からだが反応したのです。本当に純粋で、行動的な人でした。すぐに反応しました。何だか自分の姿を見ているようです。どうして彼はすぐに飛び込んだのでしょうか。一刻も早く主のもとに行こうと思ったからです。舟は陸地から二百ペキスほどの距離でした。二百ペキスとは100m足らずです。下の欄外の説明には「約90メートル」とあります。そのくらいの距離だったらもう少し待っても良かったのに、彼は待てませんでした。なぜ?確かに彼は行動的な人間でしたが、それ以上に主を愛していたからです。90メートルほど舟が進むのを待つことができなかったのです。一刻も早く主のもとに行きたかった。そういう思いが、こうした行動となって現われたのです。しかし彼は裸だったので、上着をまとって飛び込みました。これもおもしろいですね。普通は反対です。泳ぐ時は上着を脱ぎます。でも彼は上着を来て飛び込みました。主にお会いするのに、せめて身なりだけでも整えようと思ったのでしょう。そばにあった上着まとうと、急いで湖に飛び込んだのです。

 

皆さん、これが愛です。愛とはこういうものなのです。距離など関係ありません。後先の計算もしません。とにかく飛び込むのです。とにかくそばに行きたい。とにかくそばにいたいのです。あれから40年・・・、皆さんも40年前はそのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。主を愛する思いが、ペテロをこのような行動に駆り立てたのです。

 

あなたはどうですか?ペテロのような主への燃える愛があるでしょうか。冷静に分析することも必要でしょう。客観的に考えることも大切です。でも、分析だけで終わってしまうことがないように、客観的に考えるだけで終わることがないようにしたいですね。それが主だとわかったら、ペテロのようにとにかく飛び込むという情熱も必要です。主は、私たちがそのような愛を持つことを願っておられます。特に愛が冷えている現代においてはなおさらのことです。ペテロのように熱心に主を愛する者でありたいと思います。

 

Ⅲ.さあ、朝の食事をしなさい(9-14)

 

さあ、彼らが陸地に上がると、どんな光景が待っていたでしょうか。9~14節をご覧ください。「9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。」

 

弟子たちが岸に上がると、そこには炭火が起こされていました。そこで魚とパンが焼かれていたのです。それはイエス様が用意してくださったものでした。イエス様がバーベキューをして待っていてくださったのです。その魚とパンはどこから来たのでしょうか?それは弟子たちが捕ったものではありません。彼らが来る前に用意してあったのですから。それはイエス様が用意してくださったものです。イエス様ご自身がどこかで魚をとって来て、彼らのために用意してくださったのです。

 

すると、イエス様は彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われました。何のためでしょうか?イエス様があらかじめ用意してくださった魚に、彼らがとって来た魚を何匹か加えるためです。それでペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げました。すると、魚は網には何匹ありましたか?153匹です。網は153匹の大きな魚でいっぱいでした。おもしろいですね、ここには魚の数まで詳細に記録されています。なぜ153匹という数字が記録されているのでしょうか。ある人たちは、この153という数字が何かを象徴していたと考えています。たとえば、153という数字は3分の1を代表していることから、三位一体の神の完全性を象徴しているのではないかとかです。でも、それは読み込み過ぎです。そういうことではありません。これを書いたヨハネは、これを生涯忘れることができない数字として記録したのです。あのノアの箱舟の虹が人類への神の約束を思い起こさせるように、いくつかの具体的な数字をもって、確かに私は主にお会いしたという事実を、心に深く刻み付けようとしたのです。そういう意味では、8節の「二百ペキス」もそうです。わざわざ「二百ペキス」と書かなくても、比較的近くまで来たという表現でも良かったはずです。あまり離れていなかったとか。でもあえてこのように書き記したのは、確かに主はよみがえられて、自分たちに会ってくださったということを、その心に深く刻み込もうとしたからなのです。

 

Ⅰヨハネ1章1節でヨハネ自身が、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と言っているとおりです。これは、いのちのことばであられるイエス・キリストについて彼が自分で聞いたもの、自分の目で見た者、じっと見つめ、自分の手でさわったものなのです。確かに主はよみがえられたのです。14節に「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自身を現わされたのは、これですでに三度目である。」とありますが、これはイエス様が死人の中からよみがえられて、三度目に弟子たちに現われてくださった出来事として、彼が自分で経験したことを、確信をもって伝えたかったのです。ですから、この「153匹の大きな魚でいっぱいであった」というのは、「ほら、見てください。そこには153匹の大きな魚があったんですよ。これは紛れもない事実です。」と言わんばかりです。そうしたヨハネの息づかいが聞こえて来そうです。

 

もう一つ重要なのは、それほどたくさんの魚でいっぱいだったのに、網は破れていなかったということです。どういうことでしょうか?それは、弟子たちが「私は漁に行く」「私たちも一緒に行く」と言って夜通し働きましたが何も捕れなかったことと対比されています。すなわち、彼らがイエスに従ったとき多くの収穫を見たということです。しかも、収穫したものは少しも漏れていませんでした。それはあのルカの福音書5章で経験したことと同じです。イエスが言われたとおりに網を下すと、おびただしい数の魚が入り、網は破れそうになれましたが、破れませんでした。そうです、イエス様のことばに従うとき、多くの収穫がもたらされるだけでなく、その網は破れないのです。主が支えておられるからです。これが主に従う者にもたらされる祝福です。

 

そればかりではありません。ヨハネはここに一つの重要な出来事を記録しています。それは、復活したイエスが、弟子たちを食事に招いてくださったという事です。12節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『さあ、朝の食事をしなさい。』」

一緒に食事をするということは、それが親しい関係であることを表しています。弟子たちは、主のことばに従いませんでした。以前の生活に戻ろうとしていました。彼らが求めていたのは食べること、自分の生活を守ることでした。それで自分の力で頑張って漁に出ましたが、結果は惨憺(さんたん)たるものでした。何も捕れなかったのです。けれども主が約束されたとおりに彼らに現れてくださり、彼らが主のことばに従ったとき、豊かな収穫を見させてくださいました。そればかりでなく、彼らのために朝食まで用意してくださったのです。そして「さあ、朝の食事をしなさい。」と招いてくださいました。ここではイエス様がウエイターのようになって弟子たちに給仕してくださっています。パンと魚を焼いて、自らがそれを取り、彼らに与えられたのです。

これが私たちの主イエスです。このことによって主は、彼らを受け入れておられるということをはっきり示してくださいました。そのことは彼らもよく理解したことでしょう。イエス様との親しい交わりが回復したのです。

 

あなたはどうですか?イエス様との交わりを回復しているでしょうか。イエス様と共に食事をしていますか。親しく交わっているでしょうか。敵対関係があると親しく交わることができません。でも主は本当に優しい方です。愛のお方です。なかなか主に従えない、そんな私たちのために自ら歩み寄ってくださり、朝食を用意して待っていてくださいます。そして「さあ、朝の食事を食べよう」と招いてくださるのです。そのために主は自ら十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。私たちを神から引き離す罪を赦し、神との平和、永遠のいのちを与えるためです。親しい交わりを回復するためには神との平和を持たなければなりません。すなわち、自分の罪を赦してもらわなければなりません。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)。このことを覚えてください。そして、もしあなたが今神から離れているならば、御子イエスのもとに来てください。主は喜んであなたを赦してくださいます。赦されることによって、神と親しい交わりを回復することができるのです。

 

昨日、S姉の家を訪問しました。86歳になるお父さんが月曜日に特別老人ホームに入所することになったので、その前にもう一度イエス様のことをお話してもらいたいということでした。もう一度ということは以前にも何度か訪問してお話させていただいたことがあるということです。しかしその時は薬が効いていたためか、私を無視していたのかわかりませんが、話しかけてもすぐに眠ってしまう状態でしたので、よくお話することができませんでした。仕方がなかったので、その時にはイエス様のお話をして帰りましたが、姉妹として入所するにあたりきちんとイエス様のお話を聞いてほしかったのです。

約束の時間に伺いましたがお父さんはデイサービスに行っていて留守でした。もう少しで帰宅するというので、姉妹とお話をしながら「お父さんに天国のお話をしてもいいですか」と確認したら、「ええ、是非。最近「死ぬ、死ぬ」と叫んでいるので、地獄に行くと思っているんだと思います。だから、イエス様を信じるようにお話していただけだと思います。イエス様を信じて、同じお墓に入るということを確認したいのです。」と言われました。「お墓のことならその後でもいいんじゃないですか」と言うと、「いや、きちんと父親の確認を取ってきたいのです。」というので、「わかりました」と私も覚悟を決めました。

するとお父さんがデイサービスから帰って来られました。「きょうはお父さんにキリストのお話をしてくれると、私が行っている教会の牧師さんが来てくれたから、お話聞いてない」と言うと、車いすに乗ってキッチンに連れて来られました。するとテーブルをそばに置いて、私のためにお父さんの左側に椅子を置いてくれました。左の耳が聞こえるので、あえてそのように配置してくれたのです。

私は心の中で主に祈りながら、「お父さん、デイサービスはどうでしたか。気持ちよかったでしょ。きょうは暖かかったし、お風呂に入れたから。お顔がキュキュッとしてますよ。」と言うと、わかったんでしょうね、にこっとして「ニコっときょうはあったかかったから」と言われました。「ところで、お父さん、お父さんはこれから先のことで不安なことはないですか。私はS妹が行っているキリスト教会の牧師なんですが、お父さんにもぜひ天国に行ってほしいと思ってるんです。どうしたら行けるかわかりますか。天国に行くにはイエス様を信じなければなりません。イエス様は神様なのに今から二千年前に私たちと同じような姿でこの世に生まれてくださり、何も悪いことをしなかったのに十字架で死んでくださいました。それはお父さんの悪い心、罪の身代わりのためです。でも三日目によみがえってくださいました。だから、このイエス様を信じるとお父さんのすべての罪が赦されて、天国に行くことができるんです。お父さんもイエス様を信じて天国に行きましょう。」と言うと、じっと私の顔を見て、ウンともツンともしませんでした。するとS姉妹がお父さんの耳元で、「お父さん、わかった?お父さんはいつも地獄に行くと言ってるでしょ。でもキリストを信じると、キリストが十字架にかかってお父さんの罪をかぶってくれたから、地獄に行かなくてもいいの。天国の行くの。そして私と同じお墓に入るんだよ。信じようね。わかった?」と言うと、「わかった!」とはっきり言われました。ハレルヤ!それで私は、「まことに、まことにあなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)と宣言して祈りました。祈り終えるとS姉の目は真っ赤になっていました。認知がひどく何もわからないと思ったお父さんが、はっきりと信じて救われたからです。主の深いあわれみに心から感謝します。

 

そして主は、毎朝、あなたも朝の食事に招いておられます。その招きに応答して、主とともに心の朝食をとりましょう。これは、イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現わされた三度目の出来事でした。確かに主はよみがえられたのです。主は今も生きておられます。すべては主の御手にあります。私たちのために復活してくださり、親しい交わりを回復してくださった主に心から感謝します。

民数記25章

 きょうは民数記25章から学びます。

 Ⅰ.バアル・ペオルの事件(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。「1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。:2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。3 こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。4 主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」5 そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」6 ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。7 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、8 そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。9 この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。」

 

三度目の正直もならず、イスラエルを呪うようにお願いしたバラクでしたが、バラムは逆にイスラエルを祝福しました。むしろイスラエルがバラクの民族であるモアブのこめかみを打ち砕くと預言したので、二人は喧嘩別れのように、それぞれ自分のところへ帰って行きました。

 

けれども、バラムの話はこれで終わりません。25章に入ると、話はイスラエルの民そのものに戻りますが、実はここにもバラムの陰が見られます。「シティム」は、ヨルダン川の東にある所ですが(巻末の地図6参照)、イスラエルがそのシティムに宿営していた時、ある一つの事件が起こりました。その宿営の中にモアブ人の女たちが入って来たので、イスラエルの民はその女たちとみだらなことを行っただけでなく、彼女たちが持ち持ち込んだ神々「バアル・ペオル」を拝んだのです。「バアル・ペオル」というのは、ペオルにある「バアル」という意味です。バアルはモアブの地で礼拝されていた豊穣神ですが、イスラエルはこの偶像を拝むようになってしまったのです。いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。

 

おそらく約束の地を前にして、気が緩んだのでしょう。もうすぐ神が約束してくださったカナンの地に入るということで、心に隙間が生じたのです。このことは長い間信仰生活を送り、天国が間近に近づいたクリスチャンにも言えることです。まさかそんなところに落とし穴があるなんて考えられません。しかし意外とそのような時に、私たちを信仰から引き離すさまざまな誘惑が待っているのです。このような時こそ信仰の原点に立ち返り、幼子のような素直な信仰をもって主に従うことが求められるのです。

 

しかし、ここには書いてありませんが、このようにイスラエルがモアブの女たちと結婚し、彼らの偶像を拝むようになった背後には、あのバラムのたくらみがあったことがわかります。31章16節を見ると、そこでモーセは、「よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒涜させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。」と言っています。新改訳聖書では「バラムの事件」となっていますが、口語訳ではこれを「バラムのはかりごと」と訳しています。実はこちらの方が正しいです。これはバラムによって仕組まれた企みだったのです。自分のところに帰って行ったはずのバラムでしたが、実は戻って来てバラクに悪知恵をさずけ、イスラエルを罪に陥れたのです。何のためでしょうか。不義の報酬のためです。彼は一時悔い改めて神のことばを語りましたが、その後また罪に陥り、不義の報酬を愛してしまったのです。

 

えっ、嘘でしょう。確かにⅡペテロ2章15節には、彼は不義の報酬を愛したとありますが、それはバラクに頼まれてイスラエルを呪えと言われた時であって、その後彼は立派に悔い改めたじゃないですか。そして、主が語ることしか語りませんでした。そのため彼はイスラエルを呪うどころか祝福したのです。その彼が再びこのような事件を引き起こすなんて考えられません。でも、これは本当なのです。新約聖書そのように記れてありますから。黙示録2章14節ご覧ください。ここには「けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」とあります。そうです、このペオル・バアルの事件のことです。バラムは不義の報酬を愛してバラクの所に戻り、どうしたらイスラエルをそそのかすことができるのかを教えたのです。そして、それがモアブの女たちを用いることだったのです。

 

こうやって見ると、バラムはひどい人間です。神に従ったかと思ったら、次の瞬間にはまた罪に陥ってしまいました。彼はどこまでも不義の報酬を愛していました。そこから離れることができませんでした。しかし、それはバラムだけことではありません。私たちも同じではないでしょうか。私たちもこうした信仰と罪の狭間で、たえず揺れ動いています。だからこそ、こうしたバラムの不信仰から学び、堅く信仰に立ち続けることができるように祈り求めなければなりません。箴言4章23節には、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」とあります。私たちはいつも私たちの心を力の限り、見張って、見守らなければならないのです。

 

さて、こうしたイスラエルの罪に対して、主の怒りが彼らに対して燃え上がりました。それで主はモーセに、この民のかしらたちをみな捕えて、白日のもとに彼らを主の前にさらし者にするようにと命じました。それで彼はさばきつかさたちに、ペオル・バアルを慕った者たちを殺すようにと言いました。それはイスラエルにどれほど大きな悲しみをもたらしました。あのコラの事件の時にも何万人という民が神罰で死にましたが、今回の事件でも多くの者たちが、実に2万4千人もの民が殺されてしまうことになります。

 

モーセとイスラエルの全会衆は、このことで天幕の入り口で泣いていると、そこにひとりのイスラエル人が、ひとりのミディアン人の女を連れてやって来ました。ミディアン人とは、アブラハムと後妻のケトラとの間に出来た子供の子孫です(創世記25:1-4)。ここでは、ヨルダン川の東側に住んでいた民族の総称のことでしょう。この時ミディアン人はモアブの王によって治められていたとも考えられるので、これはモアブ人の女と言ってもいいのです。自分たちが罪を犯したことを主の前で悔い改め泣いて祈っていたところに、公然とモアブの女を連れてやってきたのです。何のためですか?みだらなことをするためです。

 

そこで祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、それを見るや会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女のふたりとも、腹を刺し通して殺しました。するとイスラエル人への神罰がやみました。この神罰で死んだ者は、二万四千人でした。

 この神罰については、使徒パウロはⅠコリント10章8節でこう言っています。「また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。」

二万三千人という数字が、この民数記25章にある二万四千人と異なりますが、コリント人への手紙では、「一日に」二万三千人とありますから、残りの千人は、次の日か、その後の日に死んだものと思われます。

  このようにして、イスラエルは、バラムによる、どのようなのろいからも守られていましたが、自分たちが罪を犯したときに弱くなってしまいました。私たちは迫害とか、苦難とかといった外からの攻撃にはそれなりに対処できますが、こうした内側からの攻撃には弱いものです。そして敵である悪魔はこうした私たちの内側にある肉の欲に引き込み、そこから信仰を崩しにかかるのです。ですから、私たちは、自分の心を力の限り、見張らなければなりません。

 

 Ⅱ.主のねたみ(10-13)

 

 次に10節から13節までをご覧ください。「10 主はモーセに告げられた。11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。:12 それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」

 

 ここで主は、祭司エルアザルの子ピネハスがした行為について語っています。それは神のねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたということです。どういうことですか。神に代わって、イスラエルの民を罰したということです。それは7~8節にある行為ですが、ミディアン人の女二人と淫らなことを行うためにテントの奥の部屋に入っていたイスラエル人と、そのイスラエル人の腹を刺して殺したということです。そのピネハスがした行為は、永遠の義に値することでした。それで、ピネハスからの祭司職が、今後ずっと続くと約束されたのです。

 

しかし、彼のした行為は一見、残虐であるようにも見えかねません。そこまでしなくてもと思われるかもしれませんが、このことは私たちの霊的な歩みにおいてきわめて大切なことなのです。コロサイ書3章5節にはこうあります。「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」ここでパウロは「殺してしまいなさい」と命じています。これらのことを丁重に扱いなさいとか、押さえつけなさいということではなく「殺してしまいなさい」と言っているのです。これが、私たちクリスチャンが唯一これらの誘惑を退けることが出来る方法なのです。すなわち、殺すのです。自分に死ぬのです。それらはもう死んでいるとみなさなければならないのです。90%は死んだけれども、10%は残っているというのではなく、すべて殺さなければならないのです。それがバラムの問題でした。彼は、90%は従ったかもしれませんが、残りの10%が死んでいませんでした。ですから彼は引き返して来たのです。自分の中にこうしたむさぼりが出てきたとき、これらの情欲に対しては、私はすでに死んでいると宣言していかなければなりません。キリストはすでに私たちの肉の欲望と情欲とともに十字架につけられたのですから、私たちが信仰をもって自分が死んでいるとみなすとき、その誘惑に抵抗する力が与えられるのです。

 

Ⅲ.偽教師たちに注意して(14-18)

 

最後に、14~18節をご覧ください。「14 その殺されたイスラエル人の男、すなわちミディアン人の女と一緒に殺された者の名は、シメオン人の一族の長サルの子ジムリであった。15 また殺されたミディアン人の女の名はツルの娘コズビであった。ツルはミディアンの父の家の諸氏族のかしらであった。16 主はモーセに告げられた。17 「ミディアン人を襲い、彼らを討て。18 彼らは巧妙に仕組んだ企みによって、ペオルの事件であなたがたを襲ったからだ。ペオルの事件の主の罰の日に殺された彼らの同族の女、ミディアンの族長の娘コズビの一件だ。」

 ここには、公然とミディァン人の女を連れて来て殺されたイスラエル人の名前が記されてあります。それはシメオン人の父の家の長サルの子ジムリでした。また、殺されたミディアン人の女の名前は、ツルの娘コズビでした。ツルもミディアン人の父の家のかしらでした。ですから、どちらもそれぞれの一族の長の息子・娘だったのです。

 

それでモーセはミディアン人を襲い、彼らを打つようにと命じました。彼らが巧妙に仕組んだたくらみによって、ペオルの事件を引き起こしたからです。でもこの事件の本当の黒幕は誰でしたか?バラムです。バラムは自分の故郷に戻りましたが、またモアブに戻ってきました。そして不義の報酬を得るためにバラクに悪知恵を授け、イスラエル人を惑わしたのです。彼は、表面的には「神が言われることだけしか言いません。」とか、「銀や金の満ちた家は受け取らない」などと言いながら、ろばに乗っていた時のように下心がありました。不義の報酬を愛しました。それで彼は正しいことを語りながら偽教師となってしまったのです。

 

この偽教師については、パウロも警戒するように注意していました。たとえば、使徒20章29-30節には「私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。」とあります。また、ペテロはⅡペテロ2章1-3節でこのように言っています。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」とあります。

 

民数記22章から24章まで読むと、バラムは悔い改めた預言者、イスラエルの神の啓示を受けた異邦人のように見えますが、自分の貪欲を優先させた結果、人々を滅びに招き入れた張本人となったのです。そしてやがてミディアンの5人の王たちとともにつるぎで殺されてしいます(民数31:8)。彼はイスラエル人がミディアン人を殺す時に、いっしょに殺されました。その富はあまりにもはかなく、空しいものでした。

 

ですから、私たちも注意しなければなりません。主のことばを学びながら、そのみことばに応答するための心の備えができていなければ、バラムのように、正しいことを語っていながら自分が自分の身に滅びを招いてしまうことになります。そういうことがないように、心の中のむさぼりを捨てなければなりません。そして神のことばに従って生きていかなければならないのです。そのためにはいつも自分を見つめ、自分の行ないを悔い改め、神に立ち返り、神のみこころに歩んでいるかどうかを絶えず点検しなければなりません。力の限り、見張って、あなたの心を見守りましょう。

エレミヤの苦悩 エレミヤ書4章19~31節

聖書箇所:エレミヤ書4章19~31節(エレミヤ書講解説教11回目)

タイトル:「エレミヤの苦悩」

 

きょうは、エレミヤ4章19節から31節までの箇所から、「エレミヤの苦悩」というタイトルでお話します。エレミヤは、前回のところでユダの民に、「悪から心を洗いきよめよ」と勧めました。彼らの生き方と彼らの行いが、彼らの身に滅びを招いたからです。その滅びから救われるためには、悪から心を洗いきよめなければなりません。ユダの民に神のさばきを伝えなければならなかったエレミヤの心境は、いかばかりであったかと思います。

 

きょうの箇所には、その預言者エレミヤの苦悩が描かれています。きょうはエレミヤの苦悩について三つのことをお話します。第一に、エレミヤの苦悩は、はらわたが引き裂かれるような激しいものでした。第二に、この神のさばきの結果です。そこには何もなく、あったのはただの絶望だけでした。第三のことは、だから神に立ち返れ、ということです。この神のさばきから救うことができるのは、イエス・キリストだけです。

 

Ⅰ.私のはらわた、私のはらわたよ(19-22)

 

まず、19節から22節までをご覧ください。「19 私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。20 破滅に次ぐ破滅が知らされる。まことに、地のすべてが荒らされる。突然、私の天幕が、一瞬のうちに私の幕屋が荒らされる。21 いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。22 「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」」

ユダの不従順に対する神のさばきは、バビロンを用いて彼らをさばくというものでした。それを示されたエレミヤは、こう叫びました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」

ドキッとしますね。「私のはらわた、私のはらわたよ」と叫ぶのですから。「はらわた」とは、人間の感情の中心があるところという意味です。日本語にも「はらわたが煮えくり返る」という表現がありますね。言いようがないほど激しく腹を立てることです。それほど悶えたということです。なぜエレミヤはそれほど悶えたのでしょうか?ユダに対する角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからです。それはバビロンによってエルサレムに破滅がもたらされるということです。エレミヤはそれを聞いたとき、はらわたが引き裂かれるような思いになったのです。

 

エレミヤの愛国心、そして祖国の滅亡を告げられた悲しみは、いかばかりだったかと思います。ロシアがウクライナに軍事侵攻しましたが、ウクライナの人たちはどれほどの痛みと悲しみはいかばかりかと思います。彼らが何か悪いことをしたから侵攻されたわけではありません。一方的なロシアの策略によって侵略されているのです。しかも、もしNATOやアメリカが軍事参入すれば第三次世界大戦に発展しかねないということで、ウクライナ軍が自国防衛のためにも戦っているのです。かわいそうです。でもこれは今回のロシアのウクライナ侵攻だけのことではありません。いつ、いかなる時にこのような事が起こるかわからないのです。それはある日突如として襲ってきます。もしあなたが、2011年3月11日に東日本大震災が発生するということがわかっていたら、あるいは2001年9月11日に同時多発テロが起こることを事前に知っていたら、必死になって同胞たちに警告を発したのではないでしょうか。でも、だれひとり耳を傾けてくれないのです。それがこの時エレミヤが体験した苦悩でした。彼は、民がこの後もずっと悔い改めなければユダの国は滅びると聞いたとき、はらわたが悶え、「黙っていられない」と叫んだのです。

 

使徒パウロも同じでした。彼は、同胞のユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないのを見て、こう言いました。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:2-3)

ユダヤ人は神に選ばれた民なのに、神の救いであるイエス・キリストを受け入れようとしませんでした。それどころか、信じているユダヤ人を迫害したのです。パウロもかつてはそうでした。まさか十字架につけられたイエスがメシヤであるはずがないと思っていました。しかし彼はダマスコに向かう途中で復活の主と出会って変えられました。「サウロ。サウロ。どうして私を迫害するのか。とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ・・・。」そのとき、彼の目からうろこが落ちました。彼は、このイエスこそキリスト、救い主であるということがはっきりわかったのです。そして彼の名は「サウロ」から「パウロ」へと変えられました。意味は「小さい者」です。イスラエルの最初の王であった「サウロ」という名前から、だれよりも小さな者、罪深い者という意味の「パウロ」になったのです。そして、それまではクリスチャンを迫害していましたが、今度はキリストを伝える者になりました。

彼はどこへ行っても、「イエスこそキリスト、救い主。この方を信じる人はだれでも救われる」と語りました。けれども、同胞のユダヤ人たちは信じようとしませんでした。それどころか、パウロを憎み、激しく迫害したのです。同胞のユダヤ人が信じようとしないのを見たパウロは、大きな悲しみがあり、絶えず痛みがありました。いや、「自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよい」とさえ思ったほどです。

この時のエレミヤと同じです。それは、一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っていたからです。

 

あなたはどうでしょうか。羊飼いのいない羊のように弱り果てている隣人を見て、どのような思いをいだいているでしょうか。エレミヤは、「私のはらわた、私のはらわたよ。私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と叫びました。イエス様も、そのような群衆を見て、羊飼いのいない羊のような彼らを、深くあわれまれました。私たちも同じです。神様を信じないで自分勝手に生きている人を、聖書では罪人と言っていますが、そうした人たちには永遠の滅びがあることを知ったなら、黙ってなどいられないはずです。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と、嘆かずにはいられないはずなのです。

 

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」の最後のシーンで、シンドラーが自分の指輪などの貴重品を見ながらこう叫びます。「ああ、これでもう一人の命を救うことができたのに・・・。」シンドラーは自分の身分を利用してナチスから多くのユダヤ人を救ったにもかかわらず、さらに多くの人を救えなかったことを後悔して涙を流したのです。

 

エレミヤも、ユダが神に背き続けた結果彼らにもたらされる神のさばき、具体的にはバビロンに滅ぼされるということですが、その宣告を示された時、もう黙ってなどいられませんでした。彼のはらわたは激しく引き裂かれました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、嘆いたのです。これこそ、神のさばきの宣告を示された者の自然な応答ではないでしょうか。

 

なぜイエス様は死んだラザロの墓の前で泣かれたのでしょうか。ラザロが生き返ることを知っておられたのに・・。それは、ラザロが死んだことを悲しんだ人々の涙をご覧になられたからです。それは罪によってもたらされたものです。「罪の報酬は死です。」(ローマ6:23)とある通り、それは永遠の死に至ります。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

イエス様が永遠のいのちを与えてくださいました。それなのに、罪の中にとどまり、このいのちを失うことがあるとしたらどんなに悲しいことでしょうか。イエス様が群衆を見て、羊飼いのいない羊のようであるのを見て悲しまれたように、罪によって滅んでいくたましいを見て、このエレミヤのように「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、悲しむのではないでしょうか。最近、自分以外の人たちのために痛み、苦しんだことがあるでしょうか。罪によって滅んでいくたましいのために痛み、悲しみ、一人も滅びることがないように、涙をもって祈る者でありたいと思います。

 

Ⅱ.私が見ると(23-28)

 

次に、23節から28節までをご覧ください。「23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。24 私が山々を見ると、見よ、それは揺れ動き、すべての丘は震えていた。25 私が見ると、見よ、人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていた。26 私が見ると、見よ、豊かな地は荒野となり、町々は主の前で、その燃える怒りによって打ち壊されていた。27 まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。28 このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。」」

 

バビロンの侵略によってユダに下る惨状が語られます。ここには、「私が見ると」ということばが何回も繰り返されています。23節には「私が地を見ると」とあります。また「天を見ると」とあります。24節にも「私が山々を見ると」、25節にも「私が見ると」、26節にもあります。「私が見ると」。何回も「見ると」ということばが繰り返されてあるのです。なぜ何回も繰り返しているのでしょうか?これを語っているのはエレミヤです。エレミヤはバビロンの侵略によってユダがどうなったのかを見て、それを具体的に伝えようとしたのです。エレミヤが見たのは、まず地と天でした。彼が地を見ると、そこは茫漠として何もなく、天を見ると、そこに光はありませんでした。山々を見ると、それは揺れ動き、すべての丘が震えていました。つまり、神のさばきが下った時の状態が、天地が創造される以前の混沌とした状態にたとえられているのです。

 

創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇が大水の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。これと同じです。茫漠としていました。「茫漠」とは、混沌としている状態のことを言います。新改訳聖書第2版では「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、実際には何もなかったのではなく「混沌としていた」ので、新改訳聖書第3版からは「茫漠」と訳すようにしました。2017版でもそうです。茫漠として何もない状態になるのです。

 

次にエレミヤは、カメラがズームインしたかのように、ひとりの人間もいなくなり、空の鳥も飛び去った状態を描いています。25節です。さらにエレミヤは、あの乳と蜜が流れる豊かな地は荒野となり、町々は、打ち壊されているのを見ました。つまり、そこに見たのは絶望であったということです。悔い改めない者にもたらされる結末は、恐れと絶望なのです。それは主の燃える怒りによってもたらされたものです。28節には「わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない」とあります。この「語り」、「企て」、「悔いず」、「やめることはしない」という四つの動詞は、それが確実に起こる事を示しています。

 

しかし、このところをよく見ると、そのようなさばきの中に、救いの希望が語られていることがわかります。27節をご覧ください。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」どういうことでしょうか?これは、全地は荒れ果てるが、滅ぼし尽くすことはしないということです。つまり、ユダの民がすべて滅ぼし尽くされるわけではないということです。残された者がいるのです。主は、アブラハムと交わした約束のゆえに、ご自身の民を完全に滅ぼすことはなさらないのです。ユダの民がバビロンに捕囚の民として連れて行かれても、少数の残りの者たちを残し、約束の地に帰らせてくださり、そこで国を再建できるようになさるのです。すごいですね。ここに希望があります。エレミヤはユダの荒廃と破滅のみを見ていましたが、その中に希望も含まれていたのです。それが滅ぼし尽くしはしない、ということだったのです。

 

この預言のとおり、イスラエルはB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれますが、主は彼らを滅ぼし尽くすことはなさらないで、70年後に彼らをイスラエルに帰還させてくださいました。残りの者を残してくださるのです。

 

つまり、神がイスラエルをさばかれるのは、彼らをさばくためではなく、彼らを救うためなのです。時として、神様は私たちに鞭を与えることがあります。神の鞭は非常に痛いものです。適当に打つのではなく、強い力で振り下ろします。それは、私たちをさばいて死に至らしめるためではなく、私たちへの深い愛のためなのです。このようにして神は、ご自身の救いのご計画を成し遂げてくださるのです。ですから私たちは、難しい状況ではなく神ご自身を見つめるとき、神が鞭を与えられる究極的な目的を知り、喜ぶことができるのです。まさに、神がバビロンを通してイスラエルをさばかれたのは、彼らを滅ぼすためではなく、救うためだったのです。

 

あなたはこの神の救いのご計画と摂理を信じていますか。さばきの中にも神のあわれみがあると受け止めましょう。その中にある神の愛と慰めのメッセージを、しっかりと受け止めたいと思います。

 

Ⅲ.神に立ち返れ(29-31)

 

ですから、第三のことは、神に立ち返れということです。29節から31節までをご覧ください。「29 騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った。すべての町が捨てられ、そこに住む人はいない。30 踏みにじられた女よ、あなたはいったい何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を塗って大きく見せたりして。美しく見せても無駄だ。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとしている。31 まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」」

 

実際に、どのように神の審判が下るのでしょうか。ここには、騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った、とあります。すべての町が捨てられ、そこに住む人は一人もいなくなります。「踏みにじられた女」とはユダのことです。その時彼らは何をしていましたか。彼らは緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を大きく見せたりして、美しく見せようとしていました。どうしてこんなことをしていたのでしょうか。「緋の衣」とは、高級ブランド品のドレスのことです。「目を塗って大きく見せる」とは、化粧をして美しく見せようとすることです。つまり、ここではユダの姿を、緋の衣や化粧で自分を飾り立てる遊女にたとえているのです。この遊女はかつての恋人たち、つまりバビロンに媚(こ)びを売って助かろうとしますが、そんなことをしても無駄です。その滅びから免れることはできません。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとするからです。

 

結局のところ、彼らはバビロンの攻撃によって、悲惨な状況に陥ることになります。それが、31節にあることです。「まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」

ここでは、ユダの最後が二つのたとえで表現されています。一つは初子を産む女のようなうめきで、もう一つは、敵の手によって殺される者の姿です。「殺す者たち」とは、バビロン軍のことです。その攻撃によって気力さえも失ってしまうほどの、何もかも空しくなってしまうような状態になるということです。まさに廃人のようになるのです。

 

これが罪のもたらす結果です。ですから、いつまでも罪の中にとどまっていてはいけない。神の忍耐を軽んじて、神に背き、自分が好むように、自分の好き勝手に生きるというのでだめなのです。もしそういうことがあるとしたら、このイスラエルやユダのように、神のさばきを受けてしまうことになってしまいます。そして、そのような状態から自力で救済しようとしてもできません。だから、神に立ち返らなければならないのです。もっと具体的に言うならば、神の救いを受け入れなければなりません。それは、私たちの救い主イエス・キリストです。私たちを罪から解放できるのは、イエス・キリストだけです。ローマ5章9節にこうあります。「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によっての怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ですから、あなたがキリストを通して神に立ち返るなら、あなたは義と認められ、この神の怒りから救われることができるのです。キリストを通して、神に立ち返りましょう。そして、神の怒りから救われたことを感謝しようではありませんか。

 

私は小さい頃から口笛が下手で、あまりうまく吹くことができませんが、無意識に口笛を吹いたり、口ずさむときがあります。最もよく口ずさむ賛美は、新聖歌268番です。

  • 悲しみ尽きざる 憂き世にありても 日々主と歩めば 御国のここちす

ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

  • かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の 中にも建てらる

ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

  • 山にも谷にも 小屋にも宮にも 日々主と住まえば 御国のここちす

    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

 

この世を歩んでいると、誰でもさまざまな苦しみを味わいます。しかし、人間のまことの苦しみと不幸は、外の環境によって生まれるものではありません。それは私たちの中に神がおられないために生まれるのです。

悲しみの多いこの世では、高い山、荒野、粗末な家などが、私たちにとって不幸と苦しみになることがあります。しかし、この聖歌の歌詞のように罪の荷を降ろし、主とともに歩むなら、それはどこにあっても御国となるのです。

この世の多くの苦しみと悩みが私たちを不幸にするのではありません。私たちの心にイエス・キリストがおられないために、不幸になるのです。

しかし、イエス・キリストの血によって義と認められるなら、どんなに不幸のように見えても、さながら天国のようになります。聖霊によって、神の愛があなたの心に注がれるからです。このキリストを通して神に立ち返りましょう。これが、私たちが神の怒りから救われる唯一の道です。このキリストによって、私たちは高らかに神を賛美し、神に感謝をささげましょう。