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ローマ人への手紙5章1~11節「神との平和」

きょうは「神との平和」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは、人は信仰によって義と認められるというテーマで語ってきました。すなわち、人はイエス・キリストの十字架の血潮を信じることで、悪魔と罪の支配から解放されるということです。これがローマ人への手紙の全体のテーマです。

 

ところで、このようにイエス様を信じて救われた人は、その後、いったいどのようになるのでしょうか。それがきょうのテーマです。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。

第一に、信仰によって義と認められた人は、神との平和を持つようになります。第二のことは、それだけではなく、患難さえも喜ぶ力が与えられます。そして第三ことはその理由ですが、それは、信じる者に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

Ⅰ.神との平和(1-2)

 

まず第一に、1節と2節をご覧ください。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

 

これまでパウロは、信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、これまで述べてきたことを受けて、この5章ではその結果について語っています。

信仰によって義と認められるとき、私たちの人生にどのような実が現れるのでしょうか。ここには、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。これまで全くなかった神との平和が、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのです。逆の言い方をすると、私たちは10節にあるとおり「神の敵」であったわけですが、神のひとり子であられるキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったので神様との間にあった敵意が取り除かれ、和解が実現したのです。

 

もし神との関係が敵対関係のままであったらどうなるでしょうか。それは人間関係に置き換えてみるとよくわかると思います。たとえば夫婦の間に亀裂が生じますとお互いにイライラするだけでなく、悲惨な結果を招くことになってしまいます。家庭においてはどうでしょうか。家庭に平和がないと地獄になってしまいます。なぜなら、本来やすらぎを感じるはずの家庭にやすらぎがなくなってしまうからです。これが国家間の関係になるとどうでしょうか。国家間に平和がないと戦争が起こり、世界中が大混乱になってしまいます。職場での最も多いトラブルは何かというと、給料の額の問題ではなく人間関係のトラブルです。それは実に耐え難いものがあります。いつも嫌な人の顔を見て仕事をしなければならないことに耐えきれず、辞めてしまうことさえあるのです。それは教会でも同じです。教会に平和がないと愛も恵みも感じなくなり、絶えず争いが生じるようになります。平和は、人間が生きていく上で最も重要な原理です。その平和をもたらしてくださるのが神様です。この神との平和が基になって、この社会のさまざまな関係においても平和が生まれてくるのです。そしてこの神との平和は、私たちの主イエス・イエスキリストによって、与えられたのです。

 

それまで人間は神に対してどういう立場にあったのかというと、10節にあるように「敵」だったわけです。神様との間に平和がありませんでした。いわば神様に敵対しているような状態でした。そういう人間が神様の前に出ようものなら死ぬしかありませんでした。そのため旧約聖書の時代には、神に仕えていた祭司長ですら神の前に出ることができませんでした。神に近づくことのできる唯一の方法は、年に一度、過ぎ越しの祭りの大贖罪日に小羊の血をもって進み出ることでした。大祭司はその血を携えて、至聖所という奥の部屋に置いてあった契約の箱の上にその血を注ぎかけなければなりませんでした。なぜなら、血が注がれることがなければ、罪の赦しはないからです。その血によって、神の怒りがなだめられたのです。

その時大祭司は、二つの物を身につけて至聖所に入って行きました。一つは腰にひもを結びつけることで、もう一つは鈴です。服の下に鈴を下げて入りました。なぜなら、神様はあまりにも聖い方なので、その神の前に触れることによって死ぬ人がいたからです。聖い神の御前に出ることは、まさに命がけだったのです。そこでもし鈴がならなかったら「あっ、死んだな」とわかりました。それでも人が中に入って行くことができませんから、ひもをつかんで引っ張り出したのです。そのひもと鈴です。神に敵対した罪深い人間にとって、神様の御前に進み出るということは、それほど恐ろしいことだったのです。

 

しかし、このイエス・キリストの血潮によって、この神様との間に平和が与えられました。大胆に神様の御前に進み出ることができるようになったのです。ヘブル人への手紙10章19節には次のようにあります。

 

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」

 

イエス様が十字架で死んでくださったことによって、そのような恐れから解放され、大胆に御前に出ることができるようになったのです。そのことは、イエス様が十字架につけられた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたという出来事によってもわかります。マタイ27章51節です。

 

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 

それまで神様と私たちとの間を隔てていた壁が完全に取り除かれたのです。このイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、神様のみもとに行くことができるようになったのです。

 

パウロはこの事実を、2節のところで次のように言っています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」「いま私たちの立っているこの恵み」とは何のことでしょうか。このことです。神様の御前に恐れなく、大胆に進み出ることができるようになったということ。それまではまったく恐れの対象でしかなかった神が、幼子が「おとうちゃん」と言って父親の胸元に飛び込んで行くように、大胆に近づくことができるようになったことです。この「導き入れられた」ということばは「プロサゴーゲー」というギリシャ語ですが、「近づく」という意味のことばです。「連れて行って紹介する」という意味もあります。罪のために、聖い神様との関係が断絶している私たちの手を取って、父なる神様のみもとに連れて行って紹介し、父なる神様に近づくことができるようにしてくだったという意味です。その方法というか、手段が、私たちのために十字架にかかって、罪を贖ってくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰だったのです。

 

何という恵みでしょうか。私たちはイエス様によって、この恵みの中に導き入れられました。私たちが何かをしたからということではなく、何もできないにもかかわらず、ただ信じることによってその道を開いてくださったのです。それゆえに私たちは、今、イエス・キリストの御名によって大胆に神の御前に進み出て、祈ることができるようになったのです。

 

Ⅱ.患難さえも喜ぶ(3-5a)

 

第二のことは、そればかりではなく、患難さえも喜ぶことができるようになりました。3~5節をご覧ください。

 

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

 

キリスト教信仰とほかの宗教、いわゆるご利益宗教と言われている新興宗教との大きく違う点はここにあります。すなわち、一般的に宗教と言われているグループでは、患難、苦難を悪いものと見てそこから逃れる道だけを説きますが、キリスト教ではそうではないということです。キリスト教では、患難さえも喜びます。勿論、それを歓迎しているわけではありませんが、たとえ患難があっても、それさえを喜ぶことができるのです。なぜでしょうか。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そして、この希望は失望に終わることがありません。失望に終わることのない希望とは何でしょうか?それは、やがて世の終わりの時にもたらされる天の御国のことです。イエス・キリストを信じる者には、この天の御国が約束されています。それは確実にもたらされるものなので失望に終わることがないのです。

 

よくテレビやドキュメントレポートの中で会社のために自分の一生を捧げ尽くした人の姿が映し出されることがあります。これまでずっと会社のために身を粉にして働いて来たのに晩年になってリストラされたり、裏切られる結果となって、いったいこれまでの人生は何だったのかと愕然とすることがあります。しかし、この希望は失望に終わることがありません。

 

そのような希望はいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。患難です。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出していくのです。だから患難さえも喜ぶことができるのです。苦しみはできたら避けて通りたいものですが、そうした苦しみが精錬された金のように私たちを一回りも二回りも大きく成長させ、やがて天国へと導いてくれるのであるから、むしろそれは喜ぶべきものなのです。ですからヤコブは次のように言っているのです。

 

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

 

信仰が試されると忍耐が生じます。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。いわば練られた品性が生み出されるのです。もしいま、練られた品性を備えられた人を見ることが出来るなら、私たちは憧れと尊敬の眼差しで見ることでしょう。この「練られた品性」ということばは「試験済みの」という意味のことばです。それは、テストに合格した状態の、円熟した性質、練達した人柄のことを指しています。ある人は鍛錬された名刀のようなものだとも言いました。その工程を見るならうなずけるに違いありません。火によって引き出され、真っ赤に熱せられた鉄は打ち付けられ、また火の中に入れられ熱せられ叩き延ばされます。何度も何度も繰り返すことによって、真の硬さと粘り強さが引き出されます。人が神によってそのように取り扱われるなら、円熟した品性が生み出されるのです。

 

聖書には、このような神の取り扱いを受けた多くの聖徒たちが登場していますが、そのひとりが創世記に登場しているヤコブでしょう。彼は生まれながらにずる賢い性格で、生まれた時にも双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたほどです。そしてその生涯も自らの利益のためには他者をだましてそれを奪い取るという醜いものでした。そんなヤコブを神様は何度も何度も取り扱われました。父をだまし、兄をだまし、家を去って叔父のラバンの下に身を寄せましたが、今度はラバンからだまされます。そのような彼の前途には多くの苦しみが待ち受けていました。そうした人生の苦しみを通して彼は、神を求め、何度も何度も苦難を通らされることによって、霊的な鋭さと円熟した性格を持つに至ったのです。そこには練られた品性がありました。それがイスラエルです。彼はラバンのもとから帰る途中でヤボクの渡しというところを通ったとき、そこで一晩中神と格闘し、そのもものつがいを打って足を引きずらなくてはなりませんでしたが、そうした格闘を通して彼は、イスラエル、すなわち神こそ勝利であることを悟ったのです。

それは彼がラバンの下から出て行くときに見られます。難産の子を妻ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)という名で呼びました。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとしていたからです。しかし、ヤコブは何と名付けたでしょうか。「ベニヤミン」です。「(私の)右手の子」という意味です。

苦しみのさなか、誰の目から見ても耐えがたい苦しみに面していると認められるときでも彼は希望を見出したのです。そのような人こそ、熟練された人です。最愛のラケルの死は、ヤコブにとって打ちのめされる出来事でしたが、その中でもヤコブはラケルの死にあって尚希望を見出したのです。そこには神に取り扱われた者の姿がありました。

このような姿を見るとき私たちは、「練られた品性が希望を生み出す」ということに対して、アーメンと言えるのではないでしょうか。

 

口に筆をくわえて詩と絵を描いておられる星野富弘さんは、中学の体育の教師として赴任したばかりの頃、鉄棒の実演中に頭から地面に落ちて首の骨を折り、首から下が全く動かなくなりましたが、その療養中にイエス様を信じました。その時の様子を、「いのちよりも大切なもの」という本の中で紹介しておられます。

元々、体力には自信があって、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたためか、怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。

そんなある日、星野さんの治療にあたっていた看護婦さんが悲しそうな顔をして星野さんにこう言いました。「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」

「えっ、俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」

星野さんのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。しょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたのです。

幸せな人を見れば、憎らしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、お母さんを起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、自分の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。

その様な時にふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)

生まれてから、怪我をするまで、どのくらい嬉しい事があったか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを誰に感謝していただろうか。反対に、辛い事も沢山あってもそのつらさや苦しみを誰に打ち明けていたか。誰にも言えないでいたことがたくさんありました。そんな自分に「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言ってくださるイエス様が、何よりも、誰よりも、大きな存在であると思い、このイエス様を信じたのです。

それからというもの、星野さんの心が少しずつ変えられていきました。見方、考え方が180度変わりました。そして、神様のために詩と絵を描くようになったのです。「ことばの雫」という本の中で、星野さんは次のようなことを言っています。

 

「苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。」

 

まさに、練られた品性から生み出されたことばです。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と語りましたが、同じような心境に至ったのでしょう。これが福音の力です。これこそ奇跡ではないでしょうか。人間の本当の強さとはこういうところにあるのではないでしょうか。ほかの人々が耐えられないことを耐え忍び、ほかの人々がしたくないことを静かに行える。患難さえも喜べる力、それこそ本当の力です。主イエスを信じる者には、このような力が与えられるのです。

 

Ⅲ.神の愛が注がれているから(5b-11)

 

第三のことは、その理由です。どうしてこの希望は失望に終わることはないのでしょうか。なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」5節後半のところにそのようにしるされてあります。このことは、私たちが大きな患難に直面したときそれに対してどのように自分をコントロールしたらよいかということを教えているのではありません。最近ではこのような心理学的なアプローチをあたかも聖書の教えであるかのように語る人がいますが、それは福音ではありません。私たちが患難を喜ぶことができるのはそのように考え方の問題ではなく、聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているという事実に基づいているのです。聖霊によって神の愛が私たちの心に満たされるとき、平安と喜びと希望に満ち溢れ、どんな患難が襲って来ようとも、それさえも喜ぶことができるようになるのです。では、その神の愛とはどのようなものなのでしょうか。パウロはここで、その神の愛がどのようなものなのかということについて語っています。6~8節です。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 

ここでパウロが語っている神の愛の大きさは、全く愛されるに値しない者に注がれたことによって明らかにされました。パウロはここで、全く愛されるに値しない者を表すことばとして、三つのことばを使っています。一つは「弱かったとき」ということばで、もう一つは「不敬虔な者」、そしてもう一つが「罪人」です。まず「弱かった」ということばですが、これは、力が欠如していることを表していることばです。つまり、霊的に無能力であったということです。たとえば、パウロはエペソの人たちに、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・」(エペソ2:1)と言っておりますが、そういう意味での弱さです。ですから、この「弱かったとき」というのは、からだが弱かったとか、意志が弱かったとか、立場が弱かったということではなく、人間として霊的本質的に欠陥があったということなのです。このような欠陥があるとどうなるかというと、いつでも外的なものでそれをごまかそうとします。たとえば地位とか権力といったもので自分を飾ろうとするのです。そうした弱さが私たちの中にります。

 

もう一つの不敬虔な者というのは、神を敬う心が欠如している人たちのことです。人は神によって造られたとき、神のかたちに造られましたが、罪に陥ったことで、それを失ってしまいました。1章のところで見てきたように、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりました。不敬虔な者とはそういうことです。

 

それから罪人ということばですが、これはもともと「的をはずした」人のことです。人は神がお造りになられた本来の姿からそれてしまい、してはならないことをするようになってしまいました。自分の思いのままに生きるようになったのです。これが罪人の姿です。

 

このような人間には、神の怒りが天から啓示されているということについては先に述べてきたとおりですが、ここではそのような人に対して、キリストが死んでくださったことによって、ご自分の愛を明らかにしてくださったというのです。神は、罪を憎まれますが罪人を愛されるのです。そしてどんなに深く罪人を愛しておられるかということは、その尊いひとり子を犠牲にされたことによって表してくださいました。「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 

人間は、正しい人を尊敬します。権力とか財力に屈しない正しい人を英雄視するのです。しかし、だからと言って、その人のために死んであげるという人などいません。けれども、私たちのために何かをしてくれた慈善家のためなら、死んでもいいという人もいないわけではありません。しかし、正しい人でもなく、まして慈善家でもない、むしろ神に敵対し神の戒めを少しも聞こうとしない罪人のために死んでくれる人などいるわけがありません。がしかし、いたのです。それが神の御子イエス・キリストでした。そしてこのキリストの愛は、絶対に変わることがありません。その変わることのない神の愛が、聖霊によっていま私たちの心に注がれているのです。であれば、この希望が失望に終わるということがあるでしょうか。絶対にありません。心はコロコロ変わるから「心」だと言った人がいますが、神の愛は人の心のようにコロコロ変わるようなものではありません。ですからパウロはこう言うのです。9~11節です。ご一緒に読んでみましょう。

 

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

 

ここで注目すべきことばは「なおさらのことです」ということばです。ここでは二回も繰り返して使われています。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちはそれほどまでに愛されているのですから、私たちの希望は決して失望に終わることがないばかりか、この神を大いに喜ぶことができるのです。

 

私たちは時としてジレンマに陥ることがあります。「イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないか」「信仰によって救われたとは言っても、実際の生活は火の車だ!」とかと嘆くことがあります。しかし、実のところ私たちには、これほどの力が与えられているのです。信仰によって義と認められた私たちは神との平和をいただいているばかりか、患難さえも喜ぶことができるのです。聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。この愛が私たちを生かすのです。私たちも、この神の愛によって、新しいしい一歩を踏み出させていただきましょう。

士師記8章

士師記8章からを学びます。まず1節から9節までをご覧ください。まず3節までをお読みします。

 

Ⅰ.仲間からの敵対心(1-9)

 

「エフライムの人々はギデオンに言った。「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。

ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに比べて、私が今、何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが良かったではありませんか。

神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べて、私が何をなし得たというのですか。」ギデオンがこのように話すと、彼らの怒りは和らいだ。」

 

「エフライムの人々」とは、イスラエル12部族の一つですが、彼らはギデオンに対して激しく責めました。それは、ギデオンがミディアンとの戦いに出て行ったとき、彼らに呼びかけなかったからです。このような人が意外と多くいます。たとえそれがどんなにすばらしいことでもそこに自分が関わっていないと喜ぶことができないのです。逆に、うまくいくと苦々しい思いを抱いてしまう。それは生まれながらの肉の性質です。

 

それに対してギデオンはどのように対応したでしょうか。2節と3節を見ると、彼は、「あなたがたに比べて、私が今、何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが良かったではありませんか。神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べて、私が何をなし得たというのですか。」 と言っています。

これはどういうことかというと、彼らの手柄に比べたら、自分の働きなど何でもないということです。アビエゼルとは、ギデオンが属していた家系のことです。つまり、ギデオンのぶどうの収穫よりも、エフライムの人たちのぶどうの収穫の方がずっと良かった、というのです。それは何を意味しているのかというと、彼らが殺したミディアン人の二人の首長オレブとゼエブのことです。つまり、ギデオンが倒した相手よりもエフライムの人たちが殺した二人の首長たちの方がずっと価値があるということです。

 

すると、彼らの怒りは和らぎました。ギデオンは、彼らの自尊心を傷つけないように細心の注意を払ったからです。すごいですね。同胞からこんな非難をされたらすぐにカッとなってしまいますが、彼はそうしたことに対して忍耐し、寛容な心で受け止めました。箴言15章1節に、「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。」)とありますが、彼は柔らかな答えで怒りを鎮めたのです。私たちもこうした状況の中で怒りを鎮めるというのは難しいことですが、自分の感情をしっかりとコントロールし、主に喜ばれる人間関係を求めていきたいですね。

 

しかし、いつもそうした態度だけが望ましいのではなく、時としては毅然とした態度で臨まなければなりません。4節から9節までをご覧ください。

「それからギデオンは、彼に従う三百人とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。

彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来た兵に円形パンを下さい。彼らは疲れているからです。私はミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」

すると、スコテの首長たちは言った。「おまえは今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。われわれがおまえの部隊にパンを与えなければならないとは。」

ギデオンは言った。「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野の茨やとげで、おまえのからだを打ちのめす。」

ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに話した。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々と同じように彼らに答えた。

そこでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらを打ち壊す。」

 

次に、ギデオンに心無い態度を取ったのはスコテの人々でした。ギデオンは確かに大勝利を収めましたが、まだミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追っていました。ギデオンは、彼に従う三百人とヨルダン川を渡り、かなり疲れてはいましたが、追撃を続けていたのです。そこでスコテの人々に、この三百人の兵に円形のパンを下さい、とお願いしましたが、スコテの主張たちは、「おまえは今、ゼパフとツァルムナの手首を手にしているのか。」と言って、ギデオンの申し出を断わりました。

 

スコテの人々とは、ガド族の割り当て地の中、ヨルダン川を渡ってすぐの所にあります。ギデオンは、ミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追ってヨルダン川を渡って追撃を続けていましたが、彼に従う三百人の兵士たちが付かれていたので、そのスコテの人々にパンを与えてくれるようにと願いました。

ところが、スコテの首長たちはそれを断りました。ゼバフとツァルムナの首を手にしているのなら与えてもよいが、そうでないのに与えることなどできないというのです。たかが三百人の兵士で敵を打ち破ることができるという考えは甘い。ゼバフとツァァルムナが武装していつ逆襲してくるかわからない。パンを与えるとしたら完全に敵に勝利してからであって、それまでは少しのパンでも分けてやることはできないと、見下すような態度を取ったのです。考えてみると、彼らは、デボラとバラクの戦いの時にも参戦をしませんでしたが(5:15-17)、この戦いに勝算があるかどうかわからなかったからでしょう。

 

このように、彼らはいつも日和見的な判断に終始し神のみこころに積極的に関わろうとしないばかりか、そういう人たちを軽んじては神の民の一致を破壊していました。そのような者は、神のさばきを受けることになります。7節には、このような彼らの態度に対して、ギデオンはこう言いました。

「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野の茨やとげで、おまえのからだを打ちのめす。」

厳しいことばです。パンを与えなかっただけでどうしてこれほどのさばきを受けなければならないのか。それはただギデオンを見下げたというよりも、神を見下げたことになるからです。というのは、イスラエルの士師としてお立てになったのは神ご自身であられるからです。そうしたリーダーへの不平不満、非難は、神への非難であって、そのような態度には神の厳しいさばきが伴うということを覚えなければなりません。神は高ぶる者には敵対視、へりくだった者には恵みを与えられる。」(Ⅰペテロ5:5)のです。

 

それは、ペヌエルの人たちも同様でした。ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように話すと、彼らはスコテの人々と同じように答えました。そこでギデオンはペヌエルの人々にも言いました。「私が無事に帰って来たら、このやぐらを打ち壊す。」

 

ペヌエルは、かつてヤコブがエサウに会う前に神と格闘した場所です。その時ヤコブは顔と顔とを合わせて神を見たので、その場所を「ペヌエル」と名付けたのに、そのペヌエルの人たちもギデオンの要請に応じなかったので、ギデオンにより、その町は破壊され、住民は虐殺されることになりました。

 

Ⅱ.報復(10-21)

 

次に10節から21節までをご覧ください。まず17節までです。

「ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千人からなる陣営の者もともにいた。これは東方の民の陣営全体のうち、生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていた。

そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の、天幕に住む人々の道を上って行き、陣営を討った。陣営は安心しきっていた。ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らの後を追った。彼は、ミディアンの二人の王ゼバフとツァルムナを捕らえ、その全陣営を震え上がらせた。」

こうして、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。彼はスコテの人々の中から一人の若者を捕らえて尋問した。すると、その若者はギデオンのために、スコテの首長たちと七十七人の長老たちの名を書いた。

ギデオンはスコテの人々のところに行き、そして言った。「見よ、ゼバフとツァルムナを。彼らは、おまえたちが私をそしって、『おまえは、今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。おまえに従う疲れた者たちに、われわれがパンを与えなければならないとは』と言ったあの者たちだ。」

ギデオンはその町の長老たちを捕らえ、また荒野の茨やとげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。

また彼はペヌエルのやぐらを打ち壊して、町の人々を殺した。」

 

ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千人からなる陣営の者もともにいました。すでに十二万人がギデオンによって倒されていました。残されたのはたった一万五千人でした。ギデオンは果敢に彼らの天幕に上って行き、陣営を打ちました。ゼバフとツェルムナは逃げましたが、ギデオンはその後を追って行き、ついにこの二人の王を捕らえ、ヘレスの坂を通って帰って来ました。

 

するとギデオンはスコテの人々の中から一人の若者を捕らえて、スコテの首長たちと長老たちの名前を尋問したので、彼はその名前を書きました。するとギデオンはスコテに行き、自分たちをそしった者たちと長老たちを捕らえ、荒野の茨やとげを取って、スコテの人々に思い知らせました。また彼はペヌエルのやぐらを打ち壊して、町の人々を殺しました。

 

それからゼバフとツァルムナが、以前タボル山でイスラエルを殺したことの報いとして、長男エテルに、「立って、彼らを殺しなさい。」と言ったが、長男はまだ若く、恐ろしかったので、剣を抜くことができなかったので、ギデオンが彼らを殺しました。

 

Ⅲ.罠(22-35)

 

最後に、22節から35節までを見て終わりたいと思います。まず22節と23節をお読みします。

「イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」

しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。主があなたがたを治められます。」

 

ギデオンがミディアン人に完全に勝利すると、イスラエルの人々が彼にいました。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」

これはどういうことかというと、世襲制による支配のことです。政治でも政治家の世襲というのが話題になっていますが、ここでもギデオンの世襲による支配が求められたのです。

 

これに対してギデオンはきっぱりと断りました。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。」なぜなら、「主があなたがたを治められ」るからです。これはすごいことです。だれでも成功を収めると、それを自分の支配に置きたいと思うものです。そして、自分だけでなく、自分の子孫に継がせたいと考えるものですが、ギデオンは、そのようには考えませんでした。なぜなら、神の民を治められるのは神ご自身であられるからです。

 

ここに真のリーダーの姿を見ることができます。ギデオンは、イスラエルを守り導いたのは自分ではなく、神の恵みであることをよくわかっていました。だから自分が治めるのでも自分の子孫たちが治めるのでもなく神が治めるべきであって、その神に目を向けさせたのです。自分の地位に執着するのではなく、そうした支配欲から解放されていたギデオンの態度は立派であったと言えます。

 

しかし、そんな彼にも弱さがありました。24から28節までをご覧ください。

「ギデオンはまた彼らに言った。「あなたがたに一つお願いしたい。各自の分捕り物の耳輪を私に下さい。」殺された者たちはイシュマエル人で、金の耳輪をつけていた。

彼らは「もちろん差し上げます」と答えて、上着を広げ、各自がその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。

ギデオンが求めた金の耳輪の重さは、金千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、耳飾りや、ミディアンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首に掛けてあった首飾りなどもあった。

ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。

こうしてミディアン人はイスラエル人の前に屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。」

 

これはどういうことでしょうか?敵の部族はイシュマエル人で、金の耳輪をつける習俗を持っていました。イスラエル人は、それらをたくさんぶんどってきていたのです。人々は、「もちろん差し上げます」と、金の耳輪をどっさり差し出しました。その重さは金千七百シェケル、約20㎏もありました。このほかにも、いろいろな飾り物類や、ミディアンの王たちが着ていた豪華な服や首飾りなどが差し出しました。

 

いったい何のためにギデオンはこうした物を求めたのでしょうか。27節には、「ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。」とあります。エポデとは、大祭司の装束の一部であって、胸当てのようなものであったり、占いの道具であったり、様々な形で使われたものです。大祭司でもなかったギデオンが、なぜエポデを作ろうと考えたのかはわかりません。おそらく、勝利のしるしに記念を残したかったのではないかと思います。偉そうに王様として君臨することは望まなかったギデオンでしたが、神が自分に語り、自分を通して勝利を与えてくださったことを記念に残しておきたいと思ったのでしょう。

 

しかし、そのことがギデオンとその一族にとって大きな罠となりました。イスラエルの人々はみなそれを慕って、そこで淫行を行ったのです。つまりイスラエルの民は、神の与えてくださった定めとおきてから目をそらしてしまい、神に示された正しいことではなく、間違ったこと、おぞましい行いをするようになってしまったのです。

この「罠となった」という言葉は、「落とし穴となった」という意味です。第三版にはそのように訳されてあります。気づかないうちにいつのまにか深く掘られ、普通に歩いているつもりで一歩を踏み出した先に待ち受けていて、人を飲み込むことです。私たちは神さまに守られています。信仰によって歩めば、勝利を得させていただくことができますが、油断してはなりません。喜びに気持ちが高ぶる時こそ、静かに祈ることが大切です。日々、神さまが示してくださるみことばに淡々と従い、自分や自分の過去、役割に執着しないで、いつも新しい道を示してくださる神に従うことなのです。

 

それだけではありません。29節から35節までをご覧ください。

「ヨアシュの子エルバアルは帰り、自分の家に住んだ。ギデオンには彼の腰から生まれ出た息子が七十人いた。彼には大勢の妻がいたからである。

シェケムにいた側女もまた、彼に一人の男の子を産んだ。そこでギデオンはアビメレクという名をつけた。

ヨアシュの子ギデオンは幸せな晩年を過ごして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。

ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。

イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、【主】を、心に留めなかった。彼らは、エルバアル、すなわちギデオンがイスラエルのために尽くしたあらゆる善意にふさわしい誠意を、彼の家族に対して尽くさなかった。」

 

ギデオンの支配した40年間、イスラエルは平和でしたが、彼の死後、悲劇は起こりました。彼には大勢の妻がいたため、息子が70人もいました。そのうちの一人が、国を我がものにしたいという欲望にかられ、残りの兄弟を皆殺しにしたのです。名前はアビメレクです。そればかりか、ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、あっと言う間にバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分の神とし、主を、心に留めることはありませんでした。

 

何ということでしょうか。主が、周囲のすべての敵の手からイスラエルを救い出してくださったというのに、また元の状態に戻ってしまったのです。いったいどうしてでしょうか?どんなに信仰の勝利を体験したとしても、そのような体験はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうからです。大切なのは、神のみことばに従い、神の御霊に満たされることです。

 

パウロは、このことを次のように言っています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:24-25)

パウロはここで、キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたといっています。十字架につけたというのは、もう死んでいるということです。死んでするのですから何もすることができません。そのとき、自分ではなく神の御霊に支配されて生きることができます。それが御霊によって生きるということです。そうするなら、一時的な平穏ではなく、永続する平和を見ることができるでしょう。神は私たちにそのように歩むことを願っておられるのです。

ヨハネの福音書1章6~8節、19~34節「ヨハネの証し」

 

 

 

今日は、ヨハネの福音書1章6節から8節、19節から34節までの箇所から、「光について証しする人」」というタイトルでお話ししたいと思います。

ヨハネは、この福音書を書いた目的を20章31節でこのように述べています。すなわち、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

それでヨハネは、前回の箇所でイエスが信じるに値する方であることのいくつかの理由を述べました。それは、イエスが初めから神とともにおられた神でありこの天地万物を造られた創造主であるということ、そして、この方にはいのちがありました。それは人の光であって、その光は闇の中に輝いています。どんな闇をも打ち破ることができるのです。

 

そして、きょうのところでは、バプテスマヨハネの証言を取り上げています。きょうは、このヨハネの証言からイエスが神の子キリストであるということを、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.光について証しするために来たヨハネ(6-8)

 

まず、6節から8節までをご覧ください。

「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」

 

ここに登場する「ヨハネ」とはこの福音書を書いているヨハネではなく、別のヨハネ、バプテスマのヨハネのことです。彼は、イスラエルの人々が悔い改め神に従って生きるようにとヨルダン川でバプテスマを授けていたので、バプテスマのヨハネと呼ばれていました。

 

このヨハネが登場した時代は、沈黙の時代と呼ばれていました。旧約聖書の最後の預言者はマラキですが、そのマラキが登場してからイエス様が登場するまでの約四百年間は、預言者らしい預言者はほとんど登場していませんでした。その期間の出来事は聖書に全く記録されていないので、沈黙の時代と呼ばれていたのです。
しかし、四百年が経ってその沈黙を破るかのように、一人の預言者が登場しました。それがバプテスマのヨハネです。彼は、荒野に住み、らくだの毛の衣を着て、腰には革の帯を締め、野密といなごを食べていたので、もしかするとこの人がキリストではないかと人々から思われていました。というのは、彼の格好と生活のスタイルは、昔の預言者そのものだったからです。

 

そのバプテスマのヨハネに対して、この福音書を書いているヨハネは何と言っているかというと、こうです。7節と8節です。

「この人は証のために来た。光について証するためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」

 

彼は光(キリスト)ではありませんでした。ただ光について証するために来たのです。26節と27節には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と言っています。人々からキリストではないか、光ではないかと思われていた人が、「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と言うとしたら、人々は、果たしてこれから来られる方は、どれほど偉大な方なのだろうと思ったに違いありません。人々の目は自然と、今まさに現れようとしていたイエス・キリストに向かって熱く注がれたことでしょう。

 

これがバプテスマのヨハネに与えられていた使命でした。彼は光ではありませんでした。ただ光について証しするために来たのです。つまり光の先駆者にすぎなかったのです。太陽が昇ると月がその光の中に消えていくように、キリストが来られると、バプテスマのヨハネは消えていくのです。それはバプテスマのヨハネが、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったとおりです。彼は光ではありませんでした。ただ光について証するために来たのです。それが彼に与えられていた使命であり、目的、役割だったのです。

 

皆さんは、何ために生まれてきましたか。そして、今、何のために存在しているのでしょうか。その答えがここにあります。それは、光について証しするためです。これがバプテスマのヨハネが来た目的であり、私たちすべての人に与えられている目的でもあります。私たちは光について証しするために来たのです。その証しによってすべての人が光を信じるために遣わされているのです。その方法はいろいろあるでしょうが、目的は一つです。それはキリストを証しすることです。

 

1640年代にまとめられた小教理問答書に「ウエストミンスター小教理問答書」というものがあります。これはプロテスタントの偉大な教理の宣言であるとみなされているものです。

その第一の設問にはこうあります。「人の主な目的は何ですか。」皆さん、考えたことがありますか?これを言い換えるとこうなるでしょう。「あなたは何のために生きていますか」何のために生きていますかって、食うためですとか、生きるためです、といった声が聞こえてきそうですが、答えはこうです。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。」

 

すばらしい答えです。これが、私たちが造られた主な目的です。私たちは生まれてから死ぬまでに、力を尽くして立ち向かうべき様々な課題が与えられます。勉強や育児、仕事など、課題は尽きることがありません。

けれども、その時々の課題に身をすり減らし、ベルトコンベアーで運ばれるようにいつの間にか死という終着点に辿り着くのであれば、それは本当に空しい一生ではないでしょうか。

また現代では、様々な課題を抱えた老後の生活も長いのです。その時々の課題だけが生きる目的であるならば、長い老後の生活は何の意味もなくなってしまいます。
人間として生きている限り、生き甲斐のある人生を送るためには、どんな時も変わらない「人の主な目的」を知る必要があります。それが、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。

 

どうしたら神の栄光をあらわすことができるでしょうか。二つあります。一つは、こうして賛美や祈り、礼拝、証し、教会での奉仕といった信仰生活によってです。もう一つは、私たちの生活全体そのものによってです。言うならば、私たちの置かれている場所は神によって遣わされている場であり、神の栄光を現す場であるということです。いったい私たちはなぜそれぞれの場所に遣わされているのでしょうか。それは「この方」を証しするためです。私たちはそのために遣わされているのであり、私たちの証しによってすべての人が信じることを神様は願っておられるのです。

 

皆さんは、「クリスチャン」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。もともと「クリスチャン」というのは、「キリストさん」という意味のあだ名です。

使徒の働き11章26節には、このように記されています。「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
アンティオキアはエルサレムの北、シリヤにありますが、パウロやバルナバはそこにあった教会から世界宣教へと遣わされました。弟子たちは、このアンティオキアに来て初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。なぜこのように呼ばれるようになったのかというと、彼らが口を開けば「キリスト」「キリスト」と言っていたからです。どこを切ってもキリストなので、「キリストさん」と呼ばれるようになったのです。それだけ彼らはキリストに夢中だった、キリスト信仰が板についていたということです。彼らはそのように生きていました。それが彼らの生き方だったのです。

 

先日の祈祷会にIさんというクリスチャンの方が参加されました。祈祷会の終わりに小さなグループに分かれてお祈りの時を持っているのですが、たまたま同じグループになったので一緒にお祈りをさせていただいました。お祈りの後で、「ところで、Iさんはどのようにしてクリスチャンに導かれたのですか」と尋ねると、彼女がこう言われました。

「私は、小さい時に小学校の校門のところで宣教師の人たちが聖書の紙芝居をしているのを見ていたので、あまり聖書に違和感がありませんでしたが、中学校、高校、大学と進んで行く中でそういう世界とは無関係な日々を過ごしていました。けれども、大学を卒業後職場で行き詰ったとき、同じクラスの中にクリスチャンという人が三人いることがわかったのです。思い返すと、その人たちはクリスチャンだということで教授からいろいろな嫌がらせ受けていましたが、そのような中でも明るく、親切に、みんなと接していました。それを思い出して自分も教会に行くようになったんです。」

「どうやってその人たちがクリスチャンだとわかったんですか。」と尋ねると、「それは風の便りで・・」と答えられました。

風の便りで彼らがクリスチャンだということがわかり、それで彼女も教会に行くようになりました。それは、風の便りで伝わってくるくらい、彼らがよく証ししておられたということでしょう。それこそクリスチャンの特徴です。

 

私たちもどこを切ってもキリストが出てくるような、キリストについて証しするために来たということをしっかりと覚えながら、それぞれの場所に遣わされていきたいものです。

 

Ⅱ.ヨハネの証し(1:19-28)

 

では、ヨハネはどのように証ししたのでしょうか。次に、その内容について見たいと思います。1章19節から28節をご覧ください。ここには彼の証しが゛のようなものであったかが記されてあります。

「さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。

それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

彼らは、パリサイ人から遣わされて来ていた。彼らはヨハネに尋ねた。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」

ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。

 

19節の「ユダヤ人たち」とは、国家的、宗教的に権威を持っていた人たちのことです。そうした人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちを遣わして、彼にこのように尋ねさせたのです。

「あなたはどなたですか」なぜこのように尋ねたのかというと、ヨハネが非常に大きな影響力を持っていたからです。イスラエルの全土から人々が彼のところにやって来てバプテスマを受けていました。彼の説教は力強く、人々は悔い改め、神に立ち返りました。ですから、多くの人々が、もしかしたら、この人がキリストではないかと思っていたのです。それで、指導的な立場にあったユダヤ人たちが、祭司とレビ人を遣わして、はたしてそうなのかどうか尋ねさせたのです。

 

その質問に対してヨハネとどのように答えたでしょうか。彼はためらうことなく告白して、こう言いました。20節、「私はキリストではありません。」

それでは何者なのか。彼らはヨハネに尋ねました。21節です。「あなたはエリヤですか」

エリヤというのは、旧約聖書に出てくる代表的な預言者で、後に来られるキリストの先駆者でもありました。旧約聖書の最後の部分に、こう書かれてあります。「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5-6)

ん?この預言を見る限り彼はエリヤではないのですか?彼は主の前に遣わされ、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせるわけですから。しかし、彼は「違います」と答えました。確かに、その役割についてはそうなのですが、それはイエスを信じる人たちにとってはそうであるということであって、そうでない人たち、すなわち、イエスを拒んだ宗教的指導者たちにとってはそうではありません。それは、マタイ11章14節のイエス様の言葉からわかります。イエス様はこう言われました。「あなたがに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来るべきエリヤです。」

ですから、確かに主が来られる前触れをするという点ではエリヤなのですが、どんなに彼がエリヤであってもそれを受け入れない人たちにとっては、そうではないのです。それでヨハネは、「違います」と答えたのです。

 

それでは彼はだれなのか?彼らは続いて尋ねます。「では、あの預言者ですか。」「あの預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。申命記18章15節で、モーセはこのように言いました。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」ですから、「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。モーセのように神からのメッセージをそのまま語る預言者のことです。しかし、ここでは単なるモーセのような預言者のことではなく、やがて神から遣わされる神の御子イエスのことを指していました。つまり、モーセがイスラエルをエジプトから救い出したように、人々を罪から救う救い主のことです。ですから、これはメシヤ預言だったのです。これに対しても、ヨハネは否定しました。

 

それで彼らはヨハネに言いました。「あなたはだれですか。・・・あなたは自分を何だと言われるのですか。」

するとヨハネはこう言いました。23節です。ご一緒に読みましょう。

「「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

どういうことですか?これは、イザヤ書40章3節の御言葉からの引用です。彼はこの御言葉を引用して、自分に与えられている使命がどのようなことであるかを述べたのです。それは、キリストが来られる前に、人々の心をまっすぐにして、神に立ち返らせるために荒野で叫ぶ声にすぎない、ということです。

これは、当時、王がある地方を通るときに前もってその地方にやってくる人のことです。王が来る前にやって来て、王が通る道をまっすぐにします。石が転がっていたら取り除けて、くぼみがあったからそれを埋めます。こうして、王が通る準備をしたのです。

 

かつて福島で国体が行われた時、道路がすばらしく整備されたことがありました。こんなところにと思われるところにも、片側二車線のすばらしい道路ができました。それはその道を天皇陛下が通られるからです。そのためでこぼこ道は平らに舗装され、曲がった道もまっすぐなりました。天皇陛下が通る前にやって来て道路を整備したからです。ヨハネも同じです。彼は、預言者イザヤの書に書いてあるように、キリストの前に遣わされ、主の道を用意し、主が通られる道をまっすぐにするという使命が与えられていたのです。

 

それにしても、彼は、自分のことを「荒野で叫ぶ者の声」と言いました。「ことば」ではなく「声」です。なぜ「声」だと言ったのでしょうか?あくまでも「ことば」はキリストであられるからです。この書の最初にこうありましたね。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

彼は「ことば」ではありませんでした。あくまでも、「ことば」について証しする声でしかなかったのです。

ここに、人がわきまえなければならない立場があります。ヨハネは、「私は王なるキリストを指し示す声にすぎない。大切なのは私ではなく、神のことばであられるキリストだ」と言っているのです。

 

作者不明ですが、このような詩があります。

私ではなく、キリストがあがめられ、愛され、高められますように。

私ではなく、キリストが見られ、知られ、聞かれるように。

私ではなく、キリストがすべての行動の中にいますように。

私ではなく、キリストがすべての思いと言葉の中にいますように。

私ではなく、キリストが謙遜で静かな働きの中にいますように。

私ではなく、キリストがつつましく熱心な労苦の中にいますように。

キリスト、キリストだけです!

 

見栄や、見せびらかせがあってはいけない。

キリスト、キリストだけが魂を集めてくださる方です。

キリスト、キリストだけが遠からず私のビジョンを満たされるでしょう。

すばらしい栄光を私はすぐに見るでしょう。

キリスト、キリストだけが私のすべての願いを満たすのです。

キリスト、キリストだけが私のすべてとなられるのです。

 

私たちは、しばしばイエス様よりも自分が評価されることを求めることがあります。しかし、バプテスマのヨハネは、ただキリストだけがあがめられることを願いました。

 

それは彼の26節と27節のことばからもわかります。ここもご一緒に読んでみましょう。

「ヨハネは彼らに答えた。「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」

つまり、ヨハネは、「私よりもはるかに偉大な権威を持っておられる方があなたがたの中に来ておられる。私は、ただその方の到来を知らせている声にすぎないのであって、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもない」というのです。

 

当時、家の主人のくつのひもを解いていたのはその家のしもべたちでした。しかしヨハネは、そのくつのひもを解く値打ちもない者、値しない人間であると告白したのです。なぜなら、自分はただの人にすぎないが、この方は神の子であられるからです。

 

彼がこのように証しすることで、人々のキリストに向かって注がれる思いは、どれほど大きなものだったかと思います。ただキリストだけがあがめられますように!ヨハネの証しは、このキリストだけがクローズアップされるものだったのです。

 

私は今、こうして説教していますが、このような説教や証しは自分の体験談や自慢話をするのではありません。また、説教や証しを聞くというのは、証しする人のことを知るためではなくキリストを知るため、あるいは、キリストをより身近に感じるためにするのです。時々キリストよりもそれを話している人に注目が向けられて、肝心のキリストがどこかへ行ってしまうことがありますが、証しするというのはそういうことではないのです。聖書を通してキリストを人々に伝え、それを聞いた人々がキリストに心が向くようにするためなのです。それが証しの本来の目的です。ただキリストだけがあがめられますように!そう願いながら、私たちもキリストを証しする者でありたいと思います。

 

Ⅲ.神の子である証し(29-34)

 

第三に、ヨハネはキリストが単に偉大な方であるというだけでなく、この方が神の子、救い主であることを証ししました。29節から34節までをご覧ください。

「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」

そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」」

 

29節に、「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」とありす。その翌日とは、ユダヤ人たちから遣わされた祭司たちとレビ人たちの質問に答えた翌日のことです。ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見ました。すると彼は何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」ヨハネはなぜこのように叫んだのでしょうか?

 

当時、ユダヤの人にとって、「子羊」には特別な意味がありました。それは「過ぎ越しの子羊」を表していたからです。イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しんでいたとき、神はモーセを遣わして、イスラエル人をエジプトから脱出させようとされました。イスラエル人を行かせまいとするエジプトの王パロに対し、神は十の災いをお下しになりましたが、十番目の災いは、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプト中の初子という初子を殺すというものでした。ただし、子羊の血を取って二本の門柱とかもいに塗れば、主はその血を見て、災いを通り越してくださる、と約束されたのです。

それで、エジプト中の初子からすべての家畜の初子に至るまで死んでしまいましたが、神様が言われたとおり子羊の血を取って、それを二本の門柱とかもいに塗ったイスラエルの家だけはこの災害を免れました。

それ以来、イスラエル人は毎年この出来事を記念して「過越の祭り」を祝っているのです。ですから、「子羊」という言葉には、神の災いから救うものというイメージがあるのです。

 

また「子羊」という言葉には、罪を贖うというイメージもありました。神殿では毎日、人々の罪が贖われるために、罪のためのいけにえである子羊がささげられていました。子羊は、人々を罪から解放するためのいけにえだったのです。

 

ここでヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と叫んだのは、こうした背景があってのことです。つまり、イエスこそ、私たちの罪を贖うための犠牲となって死なれる神の子羊である、ということです。

 

これが彼の証しでした。彼はキリストを信じれば病気が治るとか、心に平安が与えられるとか、商売が繁盛するとか、すべての願いが叶えられるとか、人生が豊かになると証言したのではなく、キリストは、私たちを罪から救ってくださる救い主であると証言したのです。勿論、イエス様を信じればすべての罪が赦され神との平和が与えられるわけですから、その結果、心に深い平安と喜びがもたらされるのは当然のことです。これまでは人の顔色ばかり気にしながら生きていたのが神を恐れて生きるようになるので、誠実な人となり、周りの人からも信頼され、仕事もうまくいくようになるでしょう。家族の中に喜びと楽しさがあふれるようになります。しかし、それはイエス様を信じた結果であって目的ではありません。私たちの人生の幸福の根源は罪が赦されることであって、それはこのキリストにあるということです。イエスこそ、世の罪を取り除く神の子羊であり、そのために永遠の昔から神によって備えられていた方だったのです。

 

ヨハネは、「その方は私にまさる方です。私より先におられたからです。」と言いました。この「先におられた」というのは、先に生まれたということではなく、初めからおられたということです。つまり、永遠の初めからおられたということ、永遠の神であるということです。その方こそイエス・キリストであると言っているのです。

 

ヨハネはこの方のことを知りませんでした。バプテスマのヨハネは、イエスの従兄弟に当たりますから、面識がなかったということではありません。面識はありました。しかし、見識がなかったのです。見識というのは、物事の本質を見通すことです。ヨハネはイエスの従兄弟としてイエスのことを知っていましたが、その本質がわからなかったのです。イエスが神の子キリストであることを知らなかったのです。

 

このことが、私たち一人一人にも問われています。イエス様のことを聞いているかもしれません。しかし、イエスが神の子キリストであるということ、この方が私たちを罪から救ってくださる方であるということを知っているかというと、意外に知らないということがあります。

 

いったい彼はどのようにして知ったのでしょうか。32節をご覧ください。「そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。」

神の御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見たのでわかったのです。なぜなら、水でバプテスマを授けるようにと彼を遣わされた方が、彼にこう言われたからです。33節、「『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』」彼はそれを見たのです。それで彼は、この方こそ神の子であると証ししたのです。

 

これは何を表しているのかというと、イエス様のバプテスマの出来事です。イエス様は、バプテスマを受けるためにヨハネのところにやって来ました。勿論、ヨハネは罪のないキリストがバプテスマを受けるなんてとんでもないと断るのですが、そのときイエスが、「今はそうさせてもらいたい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにふさわしいのです。」(マタイ3:15)と言われたので、ヨハネはイエスが言われたとおりにしました。

するとどうでしょう。イエスがバプテスマを受けて、すぐに水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスの上に降られるのを見たのです。それで彼は、この方こそ、神の子キリストだと確信したのです。そのことです。ヨハネはそれを見ました。それで、この方が神の子であると証ししているのです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは、それを見たでしょうか。この方の上に、神の御霊が降られたのをご覧になられたでしょうか。確かに、ヨハネのようにそのことを以前から聞いていたかもしれません。しかし、実際にこの方の上に神の御霊が降られるのを見ていないかもしれません。この方が、私たちを罪から救ってくださる方であるということを確信しなければなりません。水でバプテスマを受けているかもしれませんが、聖霊のバプテスマを受けなければなりません。聖霊のバプテスマとは、イエスを信じて、新しく生まれ変わることです。

 

ニコデモとの会話の中でイエス様がこう言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれければ、神の国に入ることはできません。肉によって笑まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」」(ヨハネ3:5-6)

 

この方こそ、聖霊によってバプテスマを授けることができる方です。この聖霊のバプテスマを受けておられるでしょうか。聖霊のバプテスマを受けること、つまり、キリストを信じて心に受け入れることで、すべての罪が赦され、神の聖霊があなたの心に住まわれるようになります。そして、この聖霊に支配され、満たされると、キリストの香り放つようになります。その結果、主が共におられるという確信が与えられ、聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が実っていきます。イエス様は、そのような人生の変革をもたらしてくださいます。それはこの方のことを聞いたことがあるというだけでなく、この方の上に御霊が降られるのを見たからです。この方が私たちを罪から救ってくださり、聖霊によってバプテスマを授けてくださったからなのです。

 

ヨハネはこのことを証ししました。私たちも罪から救われた者としてこのことを証ししましょう。ヨハネの「声」が荒野に響き渡ったように、あなたの「声」があなたの周りにキリストの恵みの声となって響き渡っていきますように。

ヨハネの福音書1章1~5節「闇の中の光」

 

先週までヨハネの手紙から学んできましたが、今週からヨハネの福音書から学んでいきたいと思います。きょうはその第一回目となりますが、「闇の中に輝く光」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.初めにことばがあった(1-2)

 

まず初めに1節と2節をご覧ください。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」

 

このヨハネの福音書は、何とも不思議な始まり方をしています。果たして初めてこれを読んで理解できる人がいるでしょうか。私も初めてこれを読んだ時、いったい何のことを言っているのかさっぱりわかりませんでした。しかし、分からなくても、そのまま読み進んでいくうちに、「ああ、これはイエス様のことだ」と分かるようになりました。というのは、1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあるからです。

ことばは人となられました。そして、私たちの間に住まわれました。私たちは、父のみもとから来られたひとり子としての、この方の栄光を見ました。このお方は、恵みとまことに満ちておられました。

ここまで読めば、分かってきます。それは、イエス・キリストのことです。そしてこの福音書を読み進んでいくと、そのことがさらにはっきりと分かっていくように書かれています。

 

ヨハネはまず、イエス・キリストを、「ことば」として紹介しました。なぜ「ことば」と紹介したのでしょうか。

ことばは、コミュニケーションをする上で大切な手段です。私たちは言葉によって自分の考えを表現したり、説明したりします。確かに、「目は口ほどに物を言う」ということわざがあるように、目を見ればその人が何を言いたいのか、何を考えているのかがある程度わかる時もありますが、やはりことばで言わないとわからないこともあります。そういう意味で、ことばはとても重要です。

 

しかし、それ以上に、ことばはその人の性質を表しています。その人がどのようなことばを発するかによってその人がどのような人であるかがわかります。汚いことばを発する人はそのような性質を持っており、丁寧なことばを発する人は、そのような性質を持っています。どのようなことばを発するかで、その人がどのような人であるかをある程度判断することができるのです。キリストは神の子として、完全なことばを持っていました。キリストは、神の人格として現れた方だからです。

 

また、ことばには大きな力があります。創世記1章3節には、「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」とありますが、神は、ご自身のことばをもって天地万物を創造されました。それは天地を創造する力があるのです。

 

また、ことばは、人を傷つけたり、破壊したりする力を持っているかと思えば、逆に、傷つき、苦しんでいる人を慰め、励まし、力づけ、絶望から救い出すこともできます。キリストは神のことばとして、私たちを人生のさまざまな苦しみから解放するだけでなく、罪によって死と絶望の淵にある私たちを、そこから救い出すことができるのです。

 

しかし、ヨハネがここでキリストをことばとして表現したのは、それ以上の意味があります。それは、キリストは神の知恵、神ご自身であられたということです。このヨハネの福音書もそうですが、新約聖書は、当時の共通語であったギリシャ語で書かれていますが、この「ことば」と訳されている語はギリシャ語の「ロゴス」で、これは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味があります。神の知恵、神ご自身が現れたということです。

 

どういうことかというと、当時のギリシャの哲学者たちは、すべての物は、形が存在する前に「考え」において存在していた、と考えていました。その考えをロゴスと呼んだのです。つまり、その考え、もしくはそれを考えることのできる存在、それを「ロゴス」ということばで表現したのです。

聖書を一番初めに日本語に訳したのは、オランダ伝道協会の宣教師カール・ギュツラフという人です。彼は、遠州灘で遭難し奇跡的に助け出された3人の日本人がマカオに到着した時彼らから日本語を学び、最初の日本語訳を学び、翻訳作業を開始しました。そして、ついに、約一年かけて、「ヨハネ伝」が翻訳されたのです。これが「ギュツラフ訳」聖書です。

このギュツラフ訳には、ヨハネの福音書1章1節と2節が次のように訳されています。

「はじまりに かしこいものござる

このかしこいもの ごくらくともにござる

このかしこいものは ごくらく

はじまりに このかしこいもの ごくらくともにござる」

これによると、「初めに、ことばがあった」という文章が、「はじまりに かしこいものござる」と訳されています。「ことば」をどのように訳したらよいのか相当悩んだことがわかります。ただのことばではなく、賢いもの、知恵ある者としての神、それを「かしこいもの」と訳したのです。また、「神とともにあった」を、「ごくらくとともにござる」と訳しました。神をごくらくと表現したところに、当時の日本人の神に対して抱いていた思いが伝わってくるかのようです。

 

ですから、この「ことば」がどのようなものであったのかが、その後のところでこのように紹介されているのです。すなわち、この「ことば」は神であったということです。なぜなら、この方は「初め」に神とともに存在しておられたからです。この初めとは永遠の初めのことです。この方は永遠の初めから存在しておられました。すべてのものが存在する前に、すでに存在しておられたのです。最初に父なる神がおられて、その後にイエスが存在したということではありません。初めから存在しておられ、父なる神とともにおられました。この方は神とともにおられた神なのです。

 

したがって、「初めに、ことばがあった。」というのは、すべての物の存在の前に、それを考える方がおられた、と言うことです。ヨハネは、世界を創造し、すべての人に知恵を与える神のことば、神御自身がおられたということ、そして、この神のことばはイエスにおいてあなたがたの間に来られたのです、と宣言しているのです。

 

 

Ⅱ.すべてのものはこの方によって造られた(3)

 

そればかりではありません。3節をご覧ください。3節には、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあります。どういうことですか?

創世記1章1節に戻ってください。聖書の一番初めのことばは、神の天地創造について私たちにこのように告げています。「はじめに神が天と地を創造された。」

 

確かにここには、神が天と地を創造されたとありますが、どこにもキリストが創造されたとは書いてありません。実はこの「神」ということばは、ヘブル語で「エロヒーム」ということばですが、これは複数形です。複数形ということは、2人以上おられるということです。しかも「創造した」ということばは単数形が使われていることから、複数の神が全く一つとなってこの天地を創造したことがわかります。どういうことかというと、神は唯一ですが、その神は父と子と聖霊という三つの位格を持っておられるということです。位格というのは存在とも言えます。神は三人おられ、これら三つの存在が完全に一つであるということです。これを三位一体といいます。

 

聖書には三位一体ということばは出てきませんが、この創世記の1章1節は、三位一体の神が天地を創造したということを表しています。ですから、創世記1章26節には、神が人を創造されたとき、「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」と言われたのです。何ですか、「われわれ」とは?神はご自身のことを「われわれ」と言われました。普通、私たちが「われわれ」というとき、それは2人以上の時です。英語では「We」です。なぜ神はご自分のことを「われわれ」と言われたのでしょうか。それは、神は三人おられるからです。父と子と聖霊です。

 

エホバの証人は、これは尊厳の複数だと言います。神はあまりにも威厳に満ちておられる方なので「わたし」とは言わないで、「われわれ」という複数形で表現しているのだと言うのです。そうでしょうか。違います。神がここでご自身を「われわれ」と表現されたのは、神は2人以上おられるからです。神は3人おられ、その神が人をご自身に似るように、ご自身のかたちに人を造られたのです。

 

それは、このヨハネの福音書でも言われていることです。1章1節には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」ことばであられたキリストは神とともにおられた神であったとあります。そうです、キリストは初めから神とともにおられた神として、この天地を創造されたのです。

 

パウロは、この事実を確認して、コロサイ人の手紙1章15節でこのように言っています。

「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」

このようにして読むと、イエスがなぜ病人を癒したり、嵐を静めたり、悪霊を追い出したり、死人をも生き返らせることができたのかが分かります。なぜなら、この方は天地万物を創造された神だからです。

 

ところで、ここにはキリストについては書かれてありますが、もう一人の神である聖霊についは書かれてありません。聖霊についてはここで詳しくお話しすることはできませんが、聖霊も神であるということが聖書にはっきりと記されてあります。たとえば、コリント第二3章18節には、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。御霊とは聖霊のことです。ここではこの聖霊について、「御霊なる主」と言われています。

 

また、創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇がおお水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。地は茫漠として何もなかったとき、神の霊、これは御霊、聖霊のことですが、神の霊が水の上を動いていました。この地に何もなかったとき、神の御霊が水の上を動いていたのです。そのとき、神のことばがありました。「光よ、あれ。」と。そのとき、光ができたのです。ですから、聖霊も永遠の存在であり、この天地創造に関わっておられたことがわかります。

 

ですから、イエス様は復活後天に昇っていかれる直前、弟子たちにこう言われたのです。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」」(マタイ28:19-20)

有名な大宣教命令です。ここには、「父、子、聖霊の御名」と言われています。何ですか、父、子、聖霊の御名とは?父、子、聖霊という神の名のことです。神は三つにして一つなる方なのです。

この神が天地万物を創造されました。ことばであられたキリストが、この天地を創造されました。

 

この歴史上最も偉大な人物として日本人に人気があるのは、織田信長や坂本龍馬です。坂本龍馬はちょうど今、大河ドラマ「Segodon」に登場していますが、薩長同盟を結ばせ幕末を終わらせて新しい日本の礎を築いた人物として有名ですが、キリストはそれどころではありません。キリストは神ご自身であられるからです。

世界で人気がある有名な偉人は、レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)とか、アインシュタインです。ダ・ヴィンチは、芸術家であり数学者であり発明家でもありましたが、様々な分野ですばらしい功績を残してきたことから「万能人」と称されました。

しかし、キリストはこうした世界の偉人と呼ばれる人たちとは全く比較にならないほどものすごいお方なのです。なぜなら、キリストはこの天地を創造された神ですから。

 

かつてJ.B.フィリップスが「あなたの神は小さ過ぎる」という本を書きましたが、私たちが考え、想像している神様はあまりにも小さすぎるのではないでしょうか。私たちが考えたり、想像したりするキリストはあまりにも小さすぎます。ヨハネはキリストを紹介するに当たり、まず初めにキリストは永遠のはじめから存在しておられた方であり、この天地を創造された神ご自身であると告げているのです。

 

Ⅲ.光は闇の中に輝いている(4-5)

 

さらにこれを読み進めていくと、ヨハネは印象深いイメージをもってキリストを私たちに紹介していることがわかります。4節と5節です。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 

すべての物を造られた神は、人のいのちも造られました。すべてのいのちの源は、この方にあります。この「いのち」とは何でしょうか。「いのち」というと、普通肉体のいのちを考えますが、ここで言われている「いのち」とは、永遠のいのちのことです。

 

神が初めに人を造られた時、単に肉体が生きるというだけでなく、また精神的に生き生きとしているというだけでなく、霊的に生きるように造られました。それが「神のかたち」、霊的いのちです。創世記1章26節と27節にこうあります。

「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」

それは神につながることによって、初めて可能となります。ですから、人類はどの時代の、どの民族でも、それがまことの神であるかどうかは別として、神を慕い求めて手を合わせてきたのです。

 

以前、青森に行く機会がありました。その時三内丸山遺跡を見学に行ったことがあります。それは縄文時代の竪穴式住居などの遺跡です。その集落の真中にこの遺跡のシンボル的な3層の大きな掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が再現されていたので、これは何のために造られたのですか?とガイドさんに尋ねたら、ガイドさんが教えてくれました。「これは祭り櫓です。この村落の中心に櫓が建てられ、神への祈りがささげられていたのです。」

紀元前五千年の時代に生きていた人たちも、神への感謝と祈りを中心に生活が営まれていたのです。それはいつの時代の、どの民族も同じで、神につながることを求める人間の自然な姿だと言えるでしょう。なぜなら、人はそのように造られているからです。それが人間にとって最も自然な姿で、幸福な瞬間なのです。それは、パスカルのこのことばからもわかるでしょう。「私の心には、本当の神以外にはとても満たすことのできない、真空がある。」

 

しかし、最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したことで、神との関係が断たれてしまいました。すなわち、霊的に死んでしまったのです。それゆえ、神はその罪から私たちを救い永遠のいのちを与えるために、ご自身の御子をこの世に与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)イエスが来られたのは、このいのちを私たちにもたらすためだったのです。

 

このいのちが私たちを生かします。ですからヨハネはここで、「このいのちは人の光であった。」と言っているのです。つまり、イエス様のいのちは、私たちの人生に欠くことのできない光のようなものとして注がれているということです。

 

「光」が注がれるとどうなるでしょうか。光が注がれると、それまで見えなかったものが見えるようになります。真っ暗の中では、どこをどう進んで行ったらよいかわかりません。しかし、闇が照らされることで、進むべき道がはっきりと見えます。また、今まではっきりわからなかったことが、わかるようになります。たとえば、かなり汚れていた部屋が、光に照らされることによってこんなにひどかったのかということがわかると愕然とすることがあります。しかし、光であられるイエス様が私たちの心の中に来てくださることによって、どんなに汚れた心も新しくしてくださり、喜びと感謝の中を生きることができるようになるのです。

 

つまり、このいのちは人の光であったという時、そのことが意味していたことは、光であられるイエス様は、闇を消し去ることができるということです。このことをヨハネは5節でこう言っています。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

「光」の反対は、「闇」です。キリストは闇ではなく、光なのです。キリストと共に人生を歩むということは、闇の中ではなく光の中を歩むことです。

 

ヨハネがキリストを紹介しながら、私たちに伝えようとするメッセージがここにあります。「いのち」という言葉は、ヨハネ福音書の中に何と50回も出てきます。また、「光」という言葉は、23回も出てきます。キリストは「いのち」であり、「光」であるということをヨハネは何回も繰り返し強調することによって、キリストはどのような闇をも消し去ることができる方であるということを伝えたかったのです。

 

皆さん、イエス・キリストにはいのちがあります。そして、このいのちは人の光です。どんなに闇が襲ってきても、これに打ち勝つことはできません。どんな闇があっても、キリストが私たちを照らしてくれます。この方にいのちがあり、このいのちが人の光であるからです。

 

たとえば、先ほど「ことば」についてお話ししました。それは人を傷つけたり、破壊したりしてしまうほどの実に恐ろしい力をもっています。しかし、生涯忘れられないほど傷つけられたことばを投げつけられたとしても、ことばであられるイエス様は、それをはるかに超えて、私を慰め、励まし、力づけてくれることがおできになります。この方は神とともにおられた神で、すべてのものを造られた創造主であられるからです。この方にいのちがあり、このいのちは人の光として、あなたの心の中で輝くからです。

 

あなたには今、どのような闇がありますか。それがどのようなものであっても、闇はこれに打ち勝ちません。ヨハネは語っています。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。これこそ、ヨハネがこの福音書を通して私たちに語りかけようとしているメッセージです。これがあなたの希望となり、生きる力となります。私たちは闇の中で右往左往するような者ですが、そのような私たちにキリストが光となってくださるということを信じ、この方に信頼して歩んでいきたいと思います。まことのことばであり、まことのいのち、まことの光であられるキリストは、今ここに、私たちと共にいてくださるのです。

ヨハネの手紙第三1章1~15節「真理のうちに歩む」

これまでヨハネの手紙からずっと学んできましたが、きょうは、そのヨハネの手紙全体の最後の説教です。この手紙は第二の手紙同様、短い内容になっています。この中にガイオとディオテレペス、デメテリオという三人の名前が出ておりますので、きょうはこの三人にスポットを当ててお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.真理のうちに歩んだガイオ(1-8)

 

まずガイオについて見ていきましょう。1節から8節までを注目してください。まず4節までをお読みします。

「長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」

 

この手紙は長老ヨハネから、ガイオに宛てて書き送られました。「ガイオ」という名前は、当時はありふれた名前で、新約聖書にも何人か出てきます。

まず、ローマ16章23節に、「私と教会全体の家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。」とあります。このガイオはコリントでパウロからバプテスマを受け(Ⅰコリント16:23)、後に教会全体の家主になっていました。

次に、パウロの第三回伝道旅行に同伴し、エペソにある期間滞在していたマケドニヤ人ガイオです。エペソにデメテリオという銀細工人がいて、アルテミスの神殿の模型を作りかなりの収入を得ていましたが、パウロがエペソで伝道したことで自分のたちの評判が悪くなることを恐れ、その仲間たちといっしょにパウロに同行していたこのマケドニヤ人ガイトとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込みました(使徒19:29)。

それから、同じくパウロの第三回伝道旅行に同行していたデルベ人ガイオです(使徒20:4)。この手紙の受取人であったガイオがこの三人のうちのだれかなのか、それともこの三人以外のガイオなのかはっきりわかりません。ただ一つだけ言えることは、この手紙を書いたヨハネと親しい間柄にあったということです。それは間違いないでしょう。

 

では、このガイオはどのような人物だったのでしょうか。2節には、「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。

もしかすると彼はたましいに幸いを得ていましたが、健康に問題があったのかもしれません。そんな彼のためにヨハネは、たましいたけでなく、すべての点で幸いであるように、また健康であるようにと祈るのです。どちらかというとクリスチャンは、貧しくて下っ端でいることが美徳であるかのように考え、このようにすべての点で幸いを得るようにと祈ることに罪悪感というか、抵抗を覚えている人も少なくないのではないかと思います。けれども、そのような中にあっても、良い環境にあることを願うことは何も悪いことではありません。もちろん私たちの信仰はご利益宗教ではありませんが、むしろそうした中にあって、すべての点で幸いを得るように、また健康であるようにと祈ることは大切なことなのです。

 

2節と3節をご覧ください。

「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」

 

「兄弟たちがやって来ては」とは、巡回伝道者たちのことです。そうした人たちがヨハネのところにやって来ては、このガイオについて証してくれたので、ヨハネは大いに喜んでいました。なぜなら、ガイオが真理のうちに歩んでいたからです。ヨハネにとって、自分の子どもたちが真理のうちを歩んでいるということを聞くこと以上に大きな喜びはありませんでした。

 

私が福島で伝道していた時最初に信仰を決心してバプテスマを受けたのは、私と同じ当時22歳の女性でした。彼女は市内のデパートに勤めていましたが、毎週金曜日の夜、私の家で開いていた聖書研究会に参加していたので、仕事の帰りに彼女の職場に迎えに行き聖書研究会に連れて行き、終わってからは自宅まで送って行くということを続けていました。

そんなある晩のこと、聖書研究会が終わって自宅まで送る車の中で、彼女がこう言ったのです。「私、イエス様信じたいと思っているんだけど、信じると華やかな生活ができなくなるんじゃないかと思うと信じられないんです。」彼女は、どうもイエス様を信じる=貧しくなるというイメールを持っていたようなのです。「そんなことないよ。イエス様を信じて豊かになることは全然問題ないし。華やかな生活もいい。大切なのは、どういう生活であってもイエス様と一緒に歩むことだよ。」と言うと、彼女はあっさりと「じゃ信じます!」と言ってイエス様を受け入れました。

私はその晩のことを忘れることができません。それは私を通してイエス様のもとに導かれた最初の人だったからです。彼女を送って帰宅してから家内に話すと、家内もとても喜んでくれました。それで私たちは教会を設立することにしたのです。それは1983年11月23日のことでした。

それから20年が経ち私たちが大田原に移転した年、彼女は山形の教会の兄弟と結婚しました。時々、その教会の牧師とお会いすることがありますが、その度に、「いや、いい姉妹を送ってくれてありがとうございました。教会のためによく仕えてくださっています。」と言ってくださいます。私たちにとってそのようなことをお聞きすることは、本当にうれしいことです。

先日、久しぶりにお電話があり、なんだろうと思って出てみたら、「間違いました。すみません。」と言うので、「間違うくらい慕われているんだなぁ」と感謝しました。

ヨハネはここで、「私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」と言っていますが、その気持ちがよく分かるような気がします。ガイオは真理のうちを歩んでいたのです。

 

でもそれは具体的にどのような歩みだったのでしょうか。5節から8節までにはこうあります。

「愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。」

 

「兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働き」とは、巡回伝道者たちへのもてなしのことです。6節には、「あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。」とありますが、ガイオは巡回伝道者たちをそのような仕方で送り出していたのです。今のように旅館やホテルが整っていた時代ではありません。旅人をもてなすことは現代以上に必要なことであり、大切な愛の業だったのですが、ガイオはそれを喜んで行っていたのです。

 

ですから、へブル13章2節には、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」とあるのです。

この「ある人たち」とはアブラハムのことです。創世記18章にあります。主が二人の御使いとともにアブラハムに現れたとき、アブラハムはそれが御使いであるとも気が付かず丁重にもてなしました。それが板についていたのです。それほど信仰に生きていました。だからこそ主はアブラハムにご自身がしようとしていたことを話さずにはいられなかったのです。またアブラハムも親しい友に話すかのように、甥のロトのために必死でとりなしの祈りをしました。それゆえに彼は神の友と呼ばれたのです。旅人をもてなすというアブラハムの姿を、主がとても喜ばれたのです。

 

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。ガイオもまたそのような信仰を持っていました。その立派な行いが、ここで称賛されているのです。それはガイオだけに限らず、主イエスを信じ、その真理に歩むすべてのクリスチャンにも求められていることです。というのは、そのようなことによって、私たちも真理のために働く同労者となれるからです。

 

8節に、そのように約束されてあります。「私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。」これはどういうことかというと、たとえ自分が宣教に出かけて行けなくても、そのために祈り、またささげることによって宣教師の同労者になることができるということです。ガイオは、そういう人々を迎え、もてなし、送り出すという地味な黒子に徹した働きをしていました。実際に各地を巡回して福音を伝える人たちも必要でしたが、その人々を背後で支援するガイオのような働きもなくてはならないものでした。福音が伝えられていくためには、伝える人とその人を支え送り出す人の両輪が必要であるということです。宣教の第一線に立つ働きもあれば、その働きを背後で支える働きもあります。何も伝道に出て行くことだけが伝道ではありません。ガイオのようにその働きを陰で支えることもまた立派な伝道の働きであり、そのことによって真理のために働く同労者となれるのです。

 

Ⅱ.ディオテレペスに警戒して(9-10)

 

次に9節と10節をご覧ください。ここには、ディオテレペスという人物について書かれてあります。

「私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」

 

このディオテレペスの特徴は、彼らの中でかしらになりたがっていたということです。人間はだれでも人の上に立ちたがるものですが、教会の中にもそのような人がいるということはまことに残念なことです。ディオテレペスは、そういう人でした。彼は人々の言うことを聞き入れず、他の人をののしり、相手を受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出していました。言うまでもないことですが、人間社会は人と人との関わりによって成り立っています。そこには秩序があり、ルールがあります。ところがかしらになりたがる人はこのルールを無視し、秩序を乱します。それは自分の思いや欲望のままに事をなそうとするからです。

 

たとえば、天使が堕落して悪魔になったときもそうでした。明けの明星、暁の子であった天使が、どうして天から堕ちたのでしょうか。それは彼が心の中で、「天に上ろう。・・・いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13-14)と言ったからです。すなわち、高ぶったからです。彼はもともと神の栄光を現すために造られたのに、その目的、秩序を逸脱し、混乱をもたらしました。ルールを守られないところには当然混乱が生じます。なぜなら、神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。この神に反逆し神のルールに従わなければ、そこには当然混乱が生じるのです。

 

民数記16章にこの秩序を無視し、モーセとアロンを非難した人たちがいました。誰でしょうか?そうです、コラの子たちです。彼らはイスラエルが荒野を彷徨っていたとき、モーセとアロンに詰め寄ってこう言いました。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)これはどういうことかというと、モーセとアロンだけが特別な存在なのではなく、主の民残らず聖なる者なのだから、あなたが人々の上に立っているのはおかしいというものです。なるほど、民主主義という観点からすればそうでしょう。特に会衆政治を重んじるバプテスト派の強調点の一つは皆同じということですから、そういう意味では彼らが言っているのも理解できます。

しかし、ここに欺瞞があります。ローマ13章1、2節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」とあります。それは神によって立てられた権威であって、それが神によって立てられたものであるなら、それを神からのもとして尊重し、また尊敬することが必要であり、これを無視することこそ、高慢そのものなのです。

ですからモーセがコラの子たちに言いました。「レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」(民数記16:7)それはコラの子たちが一番になりたくて言ったことであり、コラの子たちがかしらになりたがっていたことが問題だったのです。

それゆえ神はお怒りになり、コラとその家族に属する者たちをさばかれました。地面が割れ、地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物をのみ込んだので、彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下って行きました。神の権威に反抗し、その定めに逆らう者に対して、主はそのようにされたのです。

 

教会は、キリストをかしらとする秩序ある群れであると同時に、主の御旨を行うキリストのからだという有機体です。このキリストのからだには調和があります。けれどもサタンは癌細胞が調和のとれた体の組織を破壊するように、ディオテレペスのような人物を用いて、教会の働きや成長を妨げようとするのです。そのような人は、ディオテレペスのように人の言うことを聞こうとせず、人との調和も考えず、自分の意見や考えのとおりに行動しようとします。その結果、教会の中に混乱とが引き起こされるのです。教会がなかなか成長しない要因の一つには、このような背景があるからです。

ヨハネはここで、「私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。」と言っていますが、教会の健全な成長を願うなら、ディオテレペスのような人物が出ないように常に警戒しておくことが求められます。

 

感謝なことに、私たちの教会は主の恵みによって守られてきました。それは私たちの伝道と牧会の中で、常にこのことを大切にしてきたからだと思います。ディオテレペスのようなクリスチャンが出ないように、あるいはディオテレペスのようにならないようにみことばから学び、警戒してきました。キリストにある自由の中で、主のみことばにはへりくだって従うこと、自分を主張しないで、兄弟姉妹と心を合わせること、神の秩序を重んじること、教会形成のために一致を大切にすることを強調してきました。それはこれからも同じです。教会には絶えずいろいろな形の自由が入り込んできますが、かしらになりだったディオテレペスのような出現によって教会の秩序が乱されることがないように注意したいと思います。

 

Ⅲ.善を行ったデメテリオ(11-15)

 

最後に11節から15節までを見て終わりたいと思います。ここにはもう一人の人デメテリオについて記されてあります。11節と12節をお読みします。

「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。」

 

ここでデメテリオについてはどのようなことが言われているでしょうか。それは、彼は善を行っている良い模範であるということです。どうしてそのように言えるのでしょうか。12節には、それはすべての人が証ししていることであり、また真理そのものが証ししていることです。さらに、私たちも証ししています。イスラエルでは、二人また三人の証言によって真実であると証明されました。このデメテリオの正しさは、すべての人たちから、また真理そのものから、さらにヨハネたちからその正しさが証言されていました。彼は模範的なクリスチャンだったと言えるでしょう。彼とその前のディオテレペスを比較すると、同じクリスチャンでも、本当にピンからキリまでいろいろな立場のクリスチャンがいるものだなぁと驚かされます。

 

いったい彼はなぜすべての人が認めるほど善を行うことができたのでしょうか。その鍵は11節にあると思います。すなわち、「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。」とあるように、善を模範としていたことです。もし皆さんが健全なクリスチャンとして成長したいと願うのなら、良い模範を見習う必要があります。

 

今年の6月末、パット先生を宣教師として送り出してくださった時のアメリカの教会の教育牧師であったカールソン先生が天に召されました。このカールソン先生ご夫妻は、主任牧師のキュースター先生と30年以上その教会を牧会されました。キュースター先生とカールソン先生ご夫妻は、生涯一つの家族のように過ごされました。というのは、キュースター先生がまだ若い頃奥様が癌で召されたとき、カールソンご夫妻はキュースター先生家族といっしょに生活し、キュースター先生の子どもたちも育てられたからです。

キュースター先生も、カールソン先生も、そして今は既に天に召された奥様のグレース・カールソンも、本当にすばらしいクリスチャンでした。約千人の教会の牧師として本当に多忙であったでしょうに、私たちがアメリカに行くたびに温かくもてなしてくれました。忙しいことを感じさせないくらい個人的に時間をとって祈ったり、励ましてくれました。それは私たちにだけではなく、すべての人に対してそうでした。特にグレース・カールソンは教会のお母さんのような存在で、教会で悩んでいる人たちがいればいつも耳を傾け、励ましておられました。

そればかりか、宣教の情熱は衰えることなく、教会を退職後もヨセミテ国立公園近くのオーカーストという町で過ごしておられましたが、地元の教会に仕えるだけでなく、世界宣教のために熱心に祈っておられました。

ある晩、このキュースター先生が1枚のボロボロになった紙切れをもってリビングにいた私たちのところにやって来て、「これはずっと前にパットからもらった祈りのリクエストだけど、答えられたものがありますか。もっと付け加えるものがあったら教えてください。祈りたいから。」と言いました。私たちはびっくりしました。もう何十年も前に渡した祈りのリクエストを、ボロボロになるまで毎日祈っていてくれたと言うことを思うと、あついものがこみ上げて止まりませんでした。

どんなに離れていても、祈りによって励ましと祝福を与えてくれる。こんなすばらしい生き方があるだろうか。ここに私たちの信仰の模範があります。私たちは、イエス・キリストの生きた証人であるキュースター先生やカールソン先生ご夫妻のように、祈りとみことばによって、人々に励ましと祝福を与える人になりたいと思っています。

 

愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。へブル12章1節、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

私たちの回りにはすばらしい証人たちが昔も今もいます。デメテリオのように悪を見習わないで、善を見習ったように、私たちも善を見習って、善を行う者となろうではありませんか。

 

最後に13節から15節までをご覧ください。

「あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。」

 

結びのことばです。墨と筆で書きたくないというのは第二の手紙と同じです。ヨハネはガイオと顔と顔を合わせて直接語りたかったのです。それは主にあって愛し合っている者同士であれば当然のことでしょう。一人ひとりのクリスチャンの間にこの麗しい交わりが深められ、主の弟子としてのあかしがこの世に対してなされていくことを強く願うものです。

ヨハネがガイオと会う日を強く待ち望んでいるように、私たちの愛する主イエスは、私たちに会いに来られることを強く望んでおられます。「しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)と言われる主に、私たちも「アーメン。主イエスよ、来てください。」という切に待ち望むものでありたいと思います。

士師記7章

士師記7章を学びます。まず1節から8節までをご覧ください。

 

Ⅰ.三百人の主の勇士(1-8)

 

「エルバアルすなわちギデオンと、彼とともにいた兵はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミディアン人の陣営は、その北、モレの丘に沿った平地にあった。

主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。」すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

主はギデオンに言われた。「兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。わたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきである』と言うなら、その者はあなたと一緒に行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきではない』と言うなら、だれも行ってはならない。」

そこでギデオンは兵を連れて、水辺に下って行った。主はギデオンに言われた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にせよ。また、飲むために膝をつく者もすべてそうせよ。」すると、手で口に水を運んですすった者の数が三百人であった。残りの兵はみな、膝をついて水を飲んだ。

主はギデオンに言われた。「手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。」そこで三百人の者は、兵の食糧と角笛を手に取った。

こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引きとどめた。ミディアン人の陣営は、彼から見て下の方の平地にあった。」

 

神の召命に対してしるしを求めたギデオンでしたが、主の霊に満たされ、神のみこころを慎重に求めて、ミディアンとの戦いに立ちあがりました。きょうの箇所には、そんなギデオンがどのように敵と戦ったのかが記録されてあります。

 

ギデオンは、ミディアン人と戦うために、ハロデの泉のそばに陣を敷きました。一方ミディアン人は、その北、モレの山沿いの平野に陣を構えました。それはちょうどイスラエルが、敵の連合軍を上から見下ろす布陣です。

 

その時、主はギデオンに言われました。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。」どういうことですか、イスラエルの民は多すぎるというのは?この時ギデオンの兵力は三万二千人です。一方、ミディアン人の連合軍の兵力は十三万五千人です。どうして十三万五千人であったということがわかるのかというと、8章10節にそのように記されてあるからです。十三万五千人に対して三万二千人でもわずかなのに、主はさらなる兵力の削減を求めたのです。なぜでしょうか?ここにその理由が記されてあります。それは、「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」人は、愚かにも、ちょっとでも成功したり、勝利したりすると、あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのような錯覚を持ちがちです。そのように思って主に対して誇ることがあるとしたら、それは本末転倒です。これは主の戦いであり、主が勝利を与えてくれるのだから、主に栄光を帰さなければなりません。

 

それで主はどうされたかというと、3節です。兵士たちに呼びかけ、「だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデの山から離れよ。」と言われました。その最初のテストは「恐れおののく者」であるかどうかでした。「恐れおののく者」は帰らなければなりませんでした。なぜなら、戦いにおいて恐れおののく者は戦力にならないからです。すると、二万二千人が帰って行き、一万人が残りました。

 

すると主は続いてギデオンに言われました。「まだ多すぎる。」えっ、たったの一万人しかいないんですよ。それなのに、まだ多すぎるとはどういうことですか。これ以上少なくなったら戦いになりませんと、私たちなら思うでしょう。しかし、主のお考えはそうではありませんでした。主にとっては兵力がどれだけいるかなんて関係ないのです。主にとって大切なことは、主を恐れ、主に従う信仰の勇士がどれだけいるかということです。なぜなら、主はその兵士を用いて圧倒的な勝利をもたらしてくださるからです。

そこで、主が用いられた次のテストは、彼らを水辺に連れて行き、彼らをより分けるということでした。すなわち、ハロデの泉で水を飲む際に、「犬がなめるように、舌で水をなめる者、ひざをついて飲む者」ではなく「手で水をなめた者」だけが残されたのです。

これはどういうことかというと、犬のように水をなめる者は水をなめることに注意が向きすぎ、敵の攻撃に対して無防備となるので、戦力になりません。また、ひざまずくという行為は、バアルに仕える偶像礼拝の習慣を暗示していると考えられたのでしょう。それに対して手ですくって水を飲む者は、敵からの不意の攻撃にも備える注意力があるということではないかと思われます。

 

すると、兵力は三百人に絞られました。それはまさに焼け石に水です。人間の目には何の役にも立たないかのように思われたでしょう。しかし、主はギデオンに、「手で水をすくった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。」と言われました。

そこで、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人だけを引きとどめました。

三百人の兵力で十三万五千人の陣営に攻め下るというのは、無謀なことです。しかし神のみこころは、どんなことにおいても、私たちが主の命令に従うことです。全ての勝利は神から与えられるものだからです。たとえそれが人の常識を超えたことであっても、ただ神の命令に従うことが求められるのです。

 

Ⅱ.主の戦い(9-23)

 

さあ、いったいどうなったでしょうか。その戦いの様子を見ていきましょう。9節から23節までをご覧ください。

「その夜、主はギデオンに言われた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。 もし、あなたが下って行くことを恐れるなら、あなたの従者プラと一緒に陣営に下って行き、 彼らが何を言っているかを聞け。その後、あなたの手は強くなって、陣営に攻め下ることができる。」

ギデオンと従者プラは、陣営の中の隊列の端まで下って行った。ミディアン人やアマレク人、またすべての東方の民が、いなごのように大勢、平地に伏していた。彼らのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。

ギデオンがそこに来ると、ちょうど一人の者が仲間に夢の話をしていた。「聞いてくれ。私は夢を見た。見ると、大麦のパンの塊が一つ、ミディアン人の陣営に転がって来て、天幕に至り、それを打ったので、それは崩れ落ちて、ひっくり返った。こうして天幕は倒れてしまった。」

すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣でなくて何であろうか。神が彼の手に、ミディアン人と全陣営を渡されたのだ。」

ギデオンはこの夢の話と解釈を聞いたとき、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。」

彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせて、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもしなければならない。私と、私と一緒にいるすべての者が角笛を吹いたら、あなたがたもまた、全陣営を囲んで角笛を吹き鳴らし、『主のため、ギデオンのため』と言わなければならない。」

真夜中の夜番が始まるとき、ギデオンと、彼と一緒にいた百人の者が陣営の端に着いた。ちょうどそのとき、番兵が交代したばかりであったので、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊した。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。彼らはそれぞれ持ち場に立ち、陣営を取り囲んだので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。

三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので、軍勢はツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げた。」

 

主はギデオンに、「立って、あの陣営に攻め下れ。」と命じました。なぜなら、主が「それをあなたの手に渡したからです。」とは言っても、主はギデオンがそのことを恐れるということを十分承知のうえで、「もし、あなたが下って行くことを恐れるなら、あなたの従者プラと一緒に陣営に下って行き、 彼らが何を言っているかを聞け。その後、あなたの手は強くなって、陣営に攻め下ることができる。」と言われました。それは、敵陣の戦力や配置を知り、作戦を練るためではありません。ギデオンの心によぎる恐れを、解消するためでした。どのようにして解消されたでしょうか?

 

ギデオンと従者プラが、陣営の中の隊列の端まで下って行くと、そこにミディアン人やアマレク人、またすべての東方の民が、いなごのように大勢、平地に伏しているのを見ました。彼らのらくだは、海辺の砂のように多くで数えきれませんでした。そしてギデオンがそこに来ると。ちょうど一人の者が仲間に夢の話をしていました。それは、「大麦のパンの塊が一つ、ミディアン人の陣営に転がって来て、天幕に至り、それを打ったので、それは崩れ堕ちて、ひっくり返った。こうして天幕は倒れてしまった。」というものでした。大麦とは貧しい人が食べるパンですが、それは貧弱なイスラエルを指し、天幕とは遊牧民のミディアン人を指していました。ほんの小さなイスラエルの群れが、いなごのようなミディアンの大群を打ち倒すというのです。戦う前からすでに、敵はギデオンとの戦いに恐れを抱いていました。主はそのような思いを敵に植え付けておられたのです。

 

それを聞いたギデオンは、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って言いました。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。」

圧倒的な敵の兵力の前に恐れていたギデオンでしたが、主が戦ってくださると言うこと、そして、必ず勝利を与えてくださると確信したので、彼は立ち上がることができたのです。私たちも置かれた状況を見れば恐れに苛まれますが、主が顧みてくださるということがわかるとき立ち上がることができます。

 

昨日、さくらチャーチで創世記21章から学びました。アブラハムの下から追い出されたハガルとイシュマエルは荒野で食べ物と飲み水が尽きると、彼女はイシュマエルが死ぬのを見たくないと、一本の灌木の下に彼を放り出し、自分は、弓で届くぐらい離れたところに座り、声をあげて泣きました。

そのときです。神の使いは天からハガルを呼んでこう言われました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたのだから。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。ほたしは、あの子を大いなる国民とする。」(創世記21:17-18)

するとどうでしょう。神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけて残ました。それまでは、そこに井戸があるのに気付きませんでした。目が閉じられていたからです。

私たちも現状ばかりに気が捕らわれていると目が閉じられてしまいます。しかし、そこに主がおられるということ、そして、主が戦ってくださるということがわかるとき、主が勝利を与えてくださると確信して起き上がることができます。

 

さて、恐れが解消されたギデオンはどうしたでしょうか。16節をご覧ください。ギデオンは、三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせました。空の壺は、敵に近づくまでたいまつを隠し、近づいたところでその壺を一斉に割り、大きな音を立てるために用意しました。そうすれば、三百人しかいないイスラエル軍が、数多くの軍隊のようにと見せることができるからです。ギデオンは三百人に、武器を取って戦うようにと言いませんでした。そんなの必要なかったのです。必要なのは、主が戦ってくださると信じ、ただ主の命令に従うことでした。

それは18節のことばを見ればわかります。敵はギデオンを恐れていました。すでにギデオンの名前は広まっていました。でも全陣営が角笛を吹き鳴らす時に叫ばなければならなかったのは、「主のため、ギデオンのため」ということでした。なぜなら、これは主の戦いだったからです。

 

19節をご覧ください。真夜中の夜番が始まるとき、ギデオンと、彼と一緒にいた百人の者が陣営の端に着きました。ちょうどそのとき、番兵が交代したばかりだったので、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊して、「主のため、ギデオンのための剣」と叫んで、宿営に乱入しました。

するとどうでしょう。陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げて行きました。それは三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので、軍勢はツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げたからです。

 

神への完全な信頼と、神の御業による奇跡的な大勝利です。まさにⅠサムエル14章6節にあるように、「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」のです。

神が私たちの味方であるかどうかが勝負の分かれ目です。恐怖におののいた心では戦うことはできません。たとえ勝ち目がない戦いであっても、主が勝利を約束してくださったものは、必ずそのように導かれます。私たちは、主に信頼し、主の勝利に与る者となりましょう。

 

Ⅲ.エフライムへの応援の要請(23-25)

 

最後に、23節から25節を見て終わりたいと思います。

「イスラエル人は、ナフタリ、アシェル、また全マナセから呼び集められて、ミディアン人を追撃した。

ギデオンはエフライムの山地全域に使者を遣わして言った。「下りて来て、ミディアン人を迎え撃て。彼らから、ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取れ。」エフライム人はみな呼び集められ、ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。

彼らはミディアン人の二人の首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で殺し、ゼエブをゼエブのぶどうの踏み場で殺した。こうしてエフライム人はミディアン人を追撃したが、オレブとゼエブの首は、ヨルダン川の反対側にいたギデオンのところに持って行った。」

 

ミディアンの軍勢がツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げたので、ナフタリ、アシェル、全マナセが呼び集められて、ミディアン人を追撃しました。

また、ギデオンはエフライム山地全域にも使者を遣わして、ミディアン人を追撃するために応援を要請しました。それは、エフライムがマナセの南に相続地を割り当てられていたので、彼らの土地を通ってミディアン人が逃げて行くのを阻止するためです。ヨルダン川の向こう側に行かれては困るので、そこで彼らを攻め取ろうとしたのです。

 

彼らはミディアン人の二人の首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で殺し、ゼエブをゼエブのぶどうの踏み場で殺しました。こうしてエフライム人はミディアン人を追撃しましたが、オレブとゼエブの首は、ヨルダン川の反対側にいたギデオンのところに持って行きました。ふたりの首長オレブとゼエブを打ち倒したことは、詩篇83編11節とイザヤ書10章26節に決定的な打撃を敵に対して与えた出来事として記されています。

 

こうしたナフタリ、アシェル、また全マナセもそうですが、その中には先に帰って行った人々も含まれていたことでしょう。初めは恐れがあっても、後に勇気が与えられて、再び立ち上がる人たちもいます。今だめだからもう何もできないというのではなく、神に用いられる時に備えて待ち望むことも大切です。

しかし、ギデオンとあの三百人の勇士のように、主のために立ちあがり、霊的突破口を開いていく人たちが求められています。彼らのように、主が共におられるなら必ず勝利が与えられると信じて、主の戦いに勤しむ者でありたいと思います。

ローマ人への手紙4章1~25節「アブラハムの信仰」

きょうは、「アブラハムの信仰」についてご一緒に学びたいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を取り上げ、すべての人が神の前に罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないと語ってきました。神様の御前ではだれも、何一つ誇れるものはありません。人は、救われるためにいろいろな方法を試してみますが、こうした試みは、人間の罪を解決する上で何の助けにもならないのです。人間の力では決して神様のみもとに行くことはできません。従って人間に残されているものは絶望と落胆しかありません。

しかしあわれみ豊かな神様は、そんな人間が救われるために一つの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。3章21節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」とあります。神様は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって義としてくださると約束してくださったのです。

このように信仰によって義と認められることを、「信仰義認」(Justification by faith)と言います。つまり、信仰によって義とされ、救われたと見なされる、という意味です。しかし、人々はこのことを理解できないと言って、なかなか信じようとしません。救いがただで与えられるということがピンとこないのです。「ただ」ということに慣れていないからです。特に私たち日本人にとってはそうでしょう。「ただほど怖いものはない」というように、「ただ」で受けることに抵抗感を持っています。ですから「お返し」という習慣があるのです。何か自分の体を動かして、一生懸命に努力して受け取ることで、安心します。それが人間の本性なのです。

しかし、聖書では、ただ神の恵みにより、信仰によってのみ救われると教えられています。その一つの例がアブラハムです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:23~24)とパウロが語ると、ユダヤ人のある人たちから、「そんなことはない。アブラハムは行いによって義と認められたではないか」という疑問が起こりました。

そこでパウロはこのアブラハムの例を取り上げながら、救いはただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるということを論証するのです。

 

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一に、アブラハムが義と認められたのは彼が神を信じたからであって、割礼やその他何らかの行いをしたからではありません。

第二のことは、ではそのアブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。それは死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神を信じる信仰、あるいは、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰でした。

第三のことは、その信仰とは主イエス・キリストを信じる信仰であったということです。

 

Ⅰ.神を信じたアブラハム(1-16)

 

まず第一に、アブラハムが義と認められたのは神を信じたからであって、何らかの行いをしたからではないということについてみていきたいと思います。1~16節までのところに注目したいと思いますが、まず1~3節までのところをご覧ください。

「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」

 

ここでパウロは、自分たちの先祖アブラハムはどうだったのかについて取り上げています。なぜなら、アブラハムこそ自分たちの民族のルーツだと考えていたからです。そのアブラハムが義と認められたのはどうしてか?彼が神の命令を行ったときなのか、それとも神をただ信じたときだったのか?もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば誇ることもできますが、実はそうではありませんでした。なぜなら、聖書には、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあるからです。

これは創世記15章6節のみことばです。アブラハムは約束の地カナンに入って15年が経っており、だいたい90歳になっていましたが、彼にはこどもがありませんでした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:3)と約束されたのに、まだこともが与えられていなかったのです。妻のサラも80歳を越えていました。一体あの約束は何だったのでしょうか。そんなことを考えながら絶望の淵にいたアブラハムに、ある夜、主が臨まれました。神様は彼を外に連れ出してこのように言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)

人間的にはどう考えても実現しがたい約束でした。にもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。そして、主はそれを彼の義と認めてくださったのです。つまり、アブラハムの信仰が神様の心を動かし、その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。

 

ユダヤ人たちは、救いは信仰によって得られるということを聞いたときひどく反発しました。なぜなら、アブラハムは行いによって義と認められたと信じていたからです。割礼を受けなさいと命じられたときに割礼を受け、モリヤの山でイサクをささげなさいと言われたときにも、本気で彼をほふろうとした。彼はそのように行ったからこそ救われたのであって、厳しい従順の行為こそが義と認められる根拠であったと信じていたのです。

 

そんな彼らに対してパウロは、ここで、「誤解しなさんな」と言っています。聖書の順序をよく見なさいと言うのです。彼らが割礼を受けた時やモリヤの山でイサクをささげようとしたのはいつだったのか?それは創世記17章と22章にある出来事です。つまり、アブラハムが神を信じて義と認められたという出来事の後で起こったことなのです。まず信仰によって義とされてから、その検証として割礼を受けたり、イサクをささげたのです。

 

ですからアブラハムは行いによって救われたのではなく、信仰によって救われたということになるのです。その結果、信仰の行為が生まれたのです。この順序が大切です。旧約聖書でも新約聖書でも、救いの原理はただ一つです。それは信仰によって救われるということなのです。

 

それはダビデを例にとっても言えることです。6~8節をご覧ください。ここには、「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」とあります。ダビデ王とは旧約聖書を代表するイスラエルの王様で、救い主は彼の子孫から生まれると預言されていた重要な人物です。いわば旧約聖書のキーマンとも言える人物です。

そのダビデが、罪が赦される者の幸いについてこのように告白したのでした。これはバテシェバとの姦淫のことで苦悩していたダビデが、神の御前には隠すことができるものなど何一つないことを知り、その罪を告白した時に体験したことです。

彼の罪が赦されたのは、彼が何か善行をしたり、償いをしたからではなく、神の御前に自分の罪を認め、告白したことによってでした。その時神がその罪を赦し、義と認めてくださいました。ただ悔い改めて、神の恵みに信頼しただけです。つまり、ダビデもまた信仰によって義と認められたのです。

 

ということはどういうことなのでしょうか。結論は16節です。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

そういうわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に保証されるためなのです。

 

新聖歌233番の曲は、「おどろくばかりの」という賛美歌です。英語では、「Amazing Grace」です。「Amazing」とは「あっとおどろくばかりの」という意味です。これを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから英国に奴隷を運んでいました。人間のくずのような仕事です。しかしその船で帰る途上大嵐に会い、いのちからがら助け出されたとき、そこに神の不思議な御手を感じました。イギリスに戻ってから教会に行くようになり、自分の罪の大きさとその罪をも赦してくださる神の恵みに触れたとき彼は、「Amazing Grace!」と叫んだのです。こんな者でも赦してくださる神の恵みを体験したのです。

 

  1. 驚くばかりの 恵みなりき
    この身の汚れを 知れるわれに
  2. 恵みはわが身の 恐れを消し
    任する心を 起(おこ)させたり
  3. 危険をもわなをも 避け得たるは
    恵みの御業と 言うほかなし
  4. 御国に着く朝 いよよ高く
    恵みの御神を たたえまつらん

 

私たちが救われるのは、私たちの中に何か少しでも徳があるからではありません。そういうものとは全く関係なく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められるのです。

 

人間にはじっと我慢していることができないという性質があります。ですから、何かをしてこそ、あるいは何かをがんばってこそ、安心するのです。たとえば、ここに重病の患者さんがいたとします。この方に医者が、「あなたは何もする必要はありませんよ。ただじっとしていたらいいんです。じっとしていたら治ります」とでも言うものなら、この患者さんはひどく落胆するのでしょう。「ああ死ぬ時が来たんだ。だから医者はそんなことを言うんだ。もう望みはないんだ」と。その結果、病状がかえってひどくなってしまうこともあるのです。

 

ところが治らない病気でも、消化剤を与えられ、「これで全快しますよ」と言われると、一生懸命飲んで治ろうとします。不思議なことに、治らないと思われていた病気が、それで治ってしまうということさえあるのです。それが人間なのです。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないことを要求する宗教に、多くの人々が列をなして入って行くのです。

 

しかし、本当の宗教は「ただ」なんです。ただ、信じれば救われるのです。それはこの救いが神様からの一方的な恵みによるためであり、すべての人が受けることができるためなのです。昔、イスラエルが荒野で不平不満を言ったとき、それを怒られた神は蛇を送られたので、多くの人たちが蛇にかまれて死にました。そのとき神様はどうされたでしょうか。高価な薬を飲まないと救われないと言ったでしょうか?お百度参りをしたら治してやろうと言われたでしょうか?いいえ、ただ青銅の蛇を一つ造り、それを仰ぎ見なさいと言われました。そうしたら救われる・・・と。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見たすべての人が癒されました。これが信仰です。この信仰によって人は義と認められるのであって、自分の努力や行いによるのではありません。そのようなものによっては、私たちは神の御前に正しいとは見なされないのです。ただ神を信じること、それ以外に道はないのです。

 

Ⅱ.アブラハムの信仰(17-22)

 

では、そのアブラハムの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。17~21節までをご覧ください。

「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

 

ここにアブラハムの信仰がよく説明されていると思います。ここには、彼の信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方、とあります。そうです、アブラハムは、神はどんなことでもおできになられる全能の方であると信じていたのです。

 

私たちは、その人がどんな神様を信じているかで左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きている神を信じている人は、その人の中に生きておられる神様のみわざがどんどん現れてきます。皆さんは自分が信じている神様が全能者であると信じていますか?今も生きておられ、できないことは何一つない方であると信じていますか。もしそうならば、何も落ち込む必要はありません。神様がともにいてくださるなら、すべてのことが可能となるからです。

 

宗教改革者のマルチン・ルターは「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまうのです。その全能のお力を認めないのです。

 

私たちはしばしばこのような錯覚に陥ってしまうことがあります。「神様にも難しいことはあるだろう」本当にそうでしょうか。神様にも難しいことがあるでしょうか。たとえば、神様にとって、風邪を治すことはできても、がんを治すことは難しいことなのでしょうか。いいえ。神様にとっては、風邪を治すこともがんを治すことも朝飯前のことです。簡単なことなのです。私たちの目では、風邪がいやされることよりも、がんがいやされることの方がはるかに難しいように感じますが、神様にとってはどちらも簡単なことなのです。イエス様が死人を生き返らせた時には相当長く祈られたのではないかと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。イエス様は簡単に死人を生き返らせました。イエス様にとって死人を生き返らせることなど簡単なことだったのです。なぜなら、イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主だからです。目に見えるものも、見えないものも、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。(コロサイ1:16)ですから、イエス様にとってできないことは何もありません。

 

であれば私たちは、神様にはできないことはないと信じて、いつでも大胆に主に頼って前進することが必要です。私たちの周りにどんなにかたくなな人がいたとしても、全能の神様を信じて進み出るとき、神様はそのたましいを救ってくださると信じることが大切です。18節を見ると、アブラハムは「望み得ないときに望みを抱いて信じた」とあります。彼はおよそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

 

ルカの福音書5章には、夜通し漁をしても全く魚が捕れなかったペテロに対して、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われたことが出ています。

このイエス様の御言葉は、人間の理屈には合わないことでした。第一に、そのときは網を投じる時間帯ではありませんでした。第二に、網をおろす場所が間違っています。魚は普通、プランクトンがたくさんいる浅瀬にいるのであって、深みに網をおろしてはいけないのです。第三に、このときはもう漁が終わり、網を片付けているときでした。そんな時にもう一度舟を出すことが、どんなに面倒くさいことだったかわかりません。第四に、ペテロはイエス様に指示される立場ではありませんでした。彼は漁師でした。漁のプロで、魚を捕る専門家でした。なぜに大工だったイエス様に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい」と言われなければならないのでしょうか。大工が漁師に漁について指図するというのは見当違いです。しかし、ペテロは「でもおことばですから、網をおろしてみましょう」と答えました。するとどうでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が捕れたのです。

これが信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信するものです。(ヘブル11:1)神様が言われたことは必ずなると信じることなのです。アブラハムは信じました。神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。それが自分の感情や理屈に合わなくてもです。100歳にもなって、自分のからだはもう死んだも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。この「死んだも同然」ということばは現在完了形で現されていて、「もう死んでしまった」という意味です。つまりもう死んでいて、その体には生産能力はありませんでしたが、それでも、その信仰は弱まらなかったのです。

この信仰が重要です。「神様のみことばを聞いていると心は熱くなるけれども、周りを見たらもう大変で、何にもならない。すべて夢のようだ」と落胆する時がありますが、アブラハムはそのような絶望的な状態を見ても、その信仰は弱まるどころか、反対にますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

 

ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいました。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶづふつ言いながら歩きました。不思議に思った人が尋ねました。「おばあさん。あなたはどうしてそういうふうにぶつぶつ言いながら歩いているんですか?」するとそのおばあんが、こう答えました。「あたしゃもう年をとって、神様のお仕事をすることはできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に、「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて従っているの」。不思議なことに、この方が足で踏んで歩いた所には、ユダヤ人の店が立ち並び、ユダヤ人たちが不動産を取得しているそうです。

 

「そのまま信じて従うこと」です。自分の理屈や常識に合わなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様の前では、理屈や常識は無用だからです。神様が用いられるのに難しい人というのは、常識を主張する人です。「それは常識的に可能でしょうか」といつも聞く人です。また何かをしようとすると、自分の経験ばかり言う人もいます。「やったこともないのにどうしようと言うのですか」と。しかし神様は、経験のあることを私たちにしろと言っておられるのではありません。全くやったことのないことや、まだ未知の領域のことでも信仰を持って出て行き、開拓するようにと呼んでおられるのです。

 

パスカルは言いました。「信仰とは理性を十字架につけることだ」と。汚染されるだけ汚染されてしまった理性を十字架に付けて、みことばどおりに信じ、従う人にならなければなりません。アブラハムはまさに、そのような信仰を持っていたのです。

 

Ⅲ.イエス・キリストを信じる信仰(23-25)

 

そして第三のことは、このアブラハムの信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰であったということです。23~25節をご覧ください。

「しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

 

アブラハムの信仰とは、神は約束されたことを成就する力があると堅く信じる信仰でしたが、それは同時に、イエス・キリストを信じる信仰でもありました。というのはここに、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあったとあるからです。どういうことかいうと、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちもまた、その信仰によって救われるということです。つまり、アブラハムが信じた神とは、死人を生かし、無から有をお造りになることのできる方、すなわち、復活の主であったということです。キリストの十字架と復活を信じる信仰こそ、私たちの罪が赦され、神に義と認められるために必要な唯一の信仰であるという意味です。ですからパウロはコリント人への手紙の中で、これが私たちが救われるべき福音であると、次のように言ったのです。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:1~5)

 

私たちが救われるべき福音のことばとは、十字架と復活のことばです。キリストの十字架と復活なしに、私たちの救いはあり得ません。この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのであって、それ以外に道はありません。キリストの十字架と復活こそ、私たちが救われるべき方法として、神が示してくださった道なのです。なぜなら、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりのためであり、キリストが復活されたのは、この十字架上で成し遂げられた御業を、父なる神様が完全に受け入れられたということの宣言にほかならないからです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。

 

今から7年前に、東日本大震災が起こりました。私は那須で行われていた聖書入門講座から帰り自宅にいましたが、激しい揺れに世の終わりが来たかと思ったほどです。後でテレビの報道で特に福島、宮城、岩手沿岸に大津波が襲いかかり、多くの方々が犠牲になられたことを知って、本当に悲しみで胸が痛みました。涙が出ました。そして、この福音を知らずして亡くなられた方々のことを思うと、心が痛みます。何とかしてこの福音を宣べ伝えなければならないと思いました。そのためにも私たちは、この福音のことばをしっかり保っていなければなりません。この国の人々が福音を信じて救われますように。この国の回復と復興が、福音を信じる信仰によって、神の恵みと全能の力によって為されていきますように。心からお祈り致します。

ローマ人への手紙3章9~31節「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということです。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決ということではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

 

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

 

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

 

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかった者はひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられるので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

 

本当にそうです。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなにひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。

私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

 

よく教会に行くとすぐに「罪」「罪」って罪のことばっかり言われるから行きたくないの、と言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のことであり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。

しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

 

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味しています。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪です。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いのことであって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

 

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

 

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことですか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

 

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人アダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに創造主なる神が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されたのです。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

 

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に架けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

 

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。古代キリスト教の神学者で説教者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus,354-430)は、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが、私たちが救われる唯一の道なのです。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難など山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。

「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできません。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

 

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

 

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

 

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によるからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行や、慈善事業をしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神からの賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけを頼りとし、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなります。

 

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの人々があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思います。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。主があなたとともにおられます。主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

 

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。

ヨハネの手紙第二1章1~13節「真理と愛のうちに」

きょうは、ヨハネの手紙第二から学びます。ヨハネの手紙第二は、見ていただくとおわかりのように、とても短い手紙となっております。あまりにも短いので章に区切ることができず、いわば1章だけにまとめられています。そのためこの手紙は個人的な傾向が強く、教会宛てに書かれた他の手紙のように広く公の場で読まれなかったということもあって、正典に入れるべきかどうか大いに論じられたという経緯があります。しかしどんな過程をたどったとしても、この手紙が疑いのない神のことばであることは、今日全世界の福音的な教会において受け入れられていることから明らかであり、かえってそのような批判を受けたことによって、この手紙が自らの正当性を証明することになりました。

きょうはこのヨハネの手紙第二から、「真理と愛のうちに」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ. ほんとうに愛しています(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」

 

この手紙は「長老から、選ばれた婦人とその子供たちへ」宛てて書かれています。長老とはヨハネのことです。ヨハネが自分を「長老」と呼んでいるのは、もちろん彼が霊的な面で教会の指導者であったということもありますが、実際にこの手紙を書いていたとき、かなりの高齢であったからでしょう。この手紙を書いた時、彼は90歳を超えていたのではないかと言われています。彼は、自分の晩年に、残された人々に伝えたい大切なことを、この手紙に託したのです。

 

それは何か?それは、真理のうちに歩むということです。ですから、この手紙の書き出しの部分には、この「真理」という言葉が何度も繰り返して書かれてあるのです。まず1節には「真理を知っている人はみな、愛しています。」とあります。また2節には、「真理は私たちのうちにとどまり」とか、「そして真理はいつまでも私たちとともにあります。」とあります。また3節にも、「父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」とあります。

 

これは、「選ばれた婦人とその子どもたちへ」宛てて書かれました。選ばれた婦人とその子どもたちとはだれのことを指しているのかははっきりわかりません。おそらくこれは特定の婦人とその子どもたちというよりは、教会のことを指して言われていると理解して良いかと思います。というのは、教会はキリストの花嫁であり、その教会にはいろいろな霊的成長段階にある神の子どもたちがいるからです。

 

その手紙の書き出しにおいて、ヨハネはいきなり「私はあなたを本当に愛しています。」と言っています。このように言える人はあまりいないのではないでしょうか。特に、自分の気持ちをストレートに伝えるのが苦手な私たち日本人にとっては、なかなか勇気のいることです。

しかもここには「本当に愛しています」とあります。「本当に愛しています」を英語で言うとどうなるかというと、I really love you.̋です。しかし、英語の訳ではここを、̏I love in the truth̋と訳しています。つまり、真理をもって愛する、です。

ですからこれは真理に基づいた愛で、決して感情的なものではないということがわかります。どんなにすばらしい愛でも、真理にもとづいてなければ、真理に結びついていなければ、中味の薄っぺらいものになってしまいます。

残念ながら私たちの感情はいつも一定ではありません。その感情にのみ左右されているとしたら、とても「永遠の愛」と呼べません。そのような愛が長続きすることは望めないからです。

ヨハネがここで「私はあなたを本当に愛しています」と言っているのは、その愛が真理に基づいていることを前提にしたものだったのです。

 

では「真理」とは何でしょうか。古今東西、多くの哲学者や宗教家、賢人と言われる人たちがこの答えを模索してきましたが、彼らが到達した答えは、あのピラトのように「真理とは何ですか?」という疑問符でしかありませんでした。

しかし、聖書にはその答えがはっきりと示されてあります。それはイエス・キリストです。ヨハネの福音書14章6節には、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とあります。「わたし」とはだれのことでしょうか?イエス様です。イエス様こそ真理そのものであられます。そして、その真理についてあかしするためにこの世に来られました。ですから、イエス様を見れば真理がわかります。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

ヨハネは、このイエス様を見て、真実の愛とはどのようなものなのかがわかりました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

ヨハネがここで、「本当に愛しています」というとき、それはこの真理に基づいたものだったのです。このような愛こそいつまでも残るものであり、いつまでも長続きするものです。

パウロはコリント第一13章の中で、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)と言っていますが、このような真実な愛こそ何ものにもまさって尊いものなのです。

 

このように、この手紙の書き出しが愛の呼びかけによって綴られていることは、まことに興味深いものがあります。というのは、ここに、私たちの人間関係の土台が何であるかがはっきりと示されているからです。それは身分の違いや金銭関係によって結びついたものではなく、愛という一番すぐれているものを土台にしているということです。愛によってこそ最高の人間関係が成り立つのであって、愛がなければこうした人間関係が築き上げられることはありません。これは夫婦関係や友人関係など、あらゆる関係において言えることです。

 

ですから、もしあなたが人間関係で悩んでいるとしたら、ここから点検する必要があります。自分は聖書の言う真実の愛を持っているだろうか。自分のことしか考えられないということはないか、

この本当の愛を土台とした人間関係を築いていかなければなりません。ヨハネが「私はあなたを本当に愛しています。」と言っているように、私たちも「あなたを本当に愛しています」と堂々と言える愛の実践家になりたいものです。

 

Ⅱ.互いに愛し合いましょう(4-6)

 

第二のことは、そのような真実な愛をもって互いに愛し合いましょう、ということです。4節 から6節までをご覧ください。

「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」

 

ヨハネは、「あなたの子どもたちの中に」、すなわち、選ばれた婦人の子どもたちの中に、真理のうちに歩んでいる人たちがいるのを知って非常に喜んでいました。「歩んでいる」というのは、生活スタイルそのものです。それは単なる知識ではなく、その中を生きているということです。

 

それをベースに、ヨハネは彼らにお願いしています。それはヨハネが新しい命令として書いているのではなく、初めから持っていた命令ですが、互いに愛し合いましょう、ということです。これこそ、神の命令に従って歩むということです。愛のうちに歩むこと、それが神の命令だからです。

 

明治の文豪、徳富蘆花(Tokutomi Roka)は、「天に星あり。地に花あり。人には愛無かるべからず」と言いました。星があってこそ天の雄大さを見ることができます。花があってこそ地上は美しく彩られます。そして愛があってこそ人と人との交わりや社会生活が健全に営まれます。その愛が無ければならない、と言ったのです。

 

パスカルは「パンセ(瞑想録)」の中でこう言っています。「彼は十年前に愛した婦人を、もはや愛さない。そのはずである。彼女は以前とは同じではなく彼も同じではない。彼も若かったし、彼女も若かった。今や彼女は別人である。彼は、彼女が昔のようであったら今なお愛したかもしれない。」つまり、十年前とは容姿がすっかり変わってしまったため、もはや愛さない、というのです。

皆さん、どうですか。このような愛ほど不安定なものはないですね。だれでも年を取れば老けていくものです。昔のような美しさを保つのは不可能だとは言いませんが、かなり困難なことです。それなのに、そうなったら愛さないというのではたまったものではありません。

 

しかし聖書が私たちに示している愛とは、そのようなものではありません。それはイエス様によって表された、人知をはるかに越えた愛です。それはどこまでも赦し、どこまでも受け入れ、どこまでも与えて行く愛です。よくキリスト抜きの愛は「だからの愛」だと言われます。「美しいから愛する」とか「性格が良いから愛する」、「親切にしてくれるから愛する」といった条件付きの愛です。

しかし神の愛は違います。神の愛はこうした条件を一切付けずに相手を無条件で受け入れ、与える愛です。「汚いども愛します」「ひどい食べ方だけれども愛します」「いつまでたっても悪い癖が治らないけど愛します」という「けれどもの愛」です。それが、主イエス様が十字架で示してくださった愛です。ヨハネは十字架の下でその愛を見ました。ここに愛があるということがわかったのです。

 

イエス様は、自らの特権を主張されることなく、十字架の死をもってすべてを与えてくださいました。私たちは「~だから愛する」というのに値しない者であるにもかかわらず愛してくださったのです。何という愛でしょう。だから私たちもこの愛をもって互いに愛し合うべきなのです。

 

札幌キリスト福音館の牧師だった三橋萬利(Mitsuhashi Kazutoshi)先生は、3歳のとき小児麻痺にかかり、両足と右手の機能を失いましたが、21歳の時にイエス様の御言葉を聞いてクリスチャンになりました。その後、教会で出会った幸子夫人と結婚されると、2004年までの50年間、教会で牧師をしながら幸子夫人に背負われて、国内、国外で幅広い伝道活動をされました。結婚当初は今のように乗用車が少ない時代でしたので、リヤカーに乗った萬利先生を幸子夫人がそのリヤカーを自転車にくくって伝道するという凄まじいものでした。

それにしても幸子夫人はよく萬利先生の伝道活動を支えたものです。というか、よく結婚を決断されたなぁと思います。幸子夫人が萬利青年と結婚したのは、二十歳の誕生日を迎える二日前のことでした。当時看護学生だった彼女は、両親や兄弟たちの猛烈な反対の中を、看護学校を中退して結婚されました。小児麻痺のため片手と両足の自由を失っていた相手です。生活するにも経済力がありませんでした。そんな相手と結婚して、一生夫を背負って生きていかなければならない娘の行く末を案じない親などいません。勘当までしてその結婚に反対した肉親の気持ちを踏みにじるようにして相手との結婚に踏み切ったのは、幸子夫人の方でした。何が彼女をそうさせたのでしょうか。

実は、その頃、三橋先生は教会員の兄弟姉妹たちによって、送り迎えされていたのですが、幸子夫人はそのお手伝いをしていました。お手伝いをしているうちに、「もしこの人に手足となる良い助け手が与えられたら、彼自身の持つすばらしさがもっと引き出されて、生かされていくのではないだろうか」と思っていました。そしてあるクリスチャンの姉妹を思いながら、「あの人が三橋さんの良い助け手となるといいなぁ」と思って祈りはじめたら、その祈りとは裏腹に、「あなたはどうですか?あなたは?」とのささやきを神様から受けました。いいえ、私はできません、と反論しましたが、聖書のみことばが与えられました。

「人がその友のために自分のいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

幸子夫人にとっては、自分の都合や計画を主張することをやめ、相手を受け入れ相手の益を図ることがいのちを捨てることに通じる愛だと思いました。

人を受け入れるのに自分を主張していたのではどうしようもありません。相手を認め、相手を受け入れ、自分を与えていくところに愛の行為が生まれてくるのです。

 

主イエス様は、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と言われました。ご自分の御子をお与えになったほどに世を愛され、一人も滅びることを望まれない神の御旨を自らの心の内にはっきりとどめて歩む者、それがクリスチャンの性質であると言えるでしょう。それが神の命令です。それは新しい命令ではなく、初めから与えられていた命令です。これがクリスチャンの本質です。神の命令を心から受け入れそれに従って生きる者だけが、「私は神を愛しています」と言える者なのです。すぐにはそうなれないかもしれませんが、少しずつでもその愛に生きる者となるように祈り求めていきたいと思います。

 

Ⅲ.キリストの教えにとどまる(7-13)

 

最後に7節から13節までを見て終わりたいと思います。まず11節までをお読みします。

「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」

 

「こう命じるのは」とは、その前で勧められてきたこと、すなわち、互いに愛し合いなさい、という命令です。こう命じるのはなぜか、ここにはその理由が述べられています。すなわち、「人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。」

 

ヨハネの第一の手紙のメッセージでもお話ししましたが、この手紙が書かれ当時、危険な教えとして警戒していたグノーシス主義の教えが教会の中に入り込んでいました。グノーシス主義は、霊は善であり物質は悪であるという極端な二元論を唱えていました。この教えに立つと、霊である神が物質である肉体をとってこの地上に生まれるはずがないということになります。7節の「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たち」というのは、こうした教えが背景にあっての警告です。神が肉体をとって人間として生まれてくるはずはないし、人の姿をしたイエスが神であるわけがないというのは、昔も今も変わらない人間の哲学的思想なのです。

 

このような人を惑わす者たち、反キリストに対して、私たちはどうあるべきなのでしょうか。8節には、「気を付けなさい」とあります。「気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。」彼らの特徴の一つは、私たちが労して得たものを失わせる、すなわち台無しにするところにあります。「労苦して得たもの」とは、イエス・キリストの御名による救いのことです。これが無駄になってはいけません。これは神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに与えられたものです。この恵みが無駄にならないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなければなりません。初めに信じるだけでなく、それを最後まで保たなければなりません。そこに大きな意義があります。

 

9節の「先を行って」とは「行き過ぎ」のことです。「境界線がある領域から出て行く」ことを意味します。行き過ぎはよくありません。ではその境界線とはどこでしょうか。ここには、「キリストの教え」とあります。「キリストとの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています」

キリストがどのような方なのか、その本性についての教えは、私たちが御父と御子を持っているのか、いないのか、つまり永遠のいのちを持っているのか、いないのかの重大なに分かれ目です。ここを逸脱してはいけません。キリストの教えにしっかりととどまっていなければなりません。

 

この「教え」と訳されたことばは「教理」とも訳せますが、私たちはどちらかというと教理を軽視しがちです。もう分かっていることだ。神さまとの出会いと体験が大事なのであって、聖書を体系的に知的に理解するのは信仰を死なせる、というのです。違います。キリストの教えは、知的ではなく、霊的なのです。この教えにとどまっていれば、御父と御子を持っている、つまり交わりがある、ということです。キリストの教えにとどまっていなければ、どんなにすばらしい体験でも全く無意味なのです。

 

では、このような反キリストに対して、人を惑わす者たちに対して、どのように対処したらいいのでしょうか。10節と11節をご覧ください。ここには、「あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。

ちょっと厳しすぎるんじゃないですか。愛がありません。クリスチャンならもっと優しくすべきです。家に受け入れてはいけないとか、あいさつのことばをかけてもいけない、そういう人にあいさつをすれば、その悪い行いをともにすることになるというのは、ちょっと狭いんじゃないですか。

皆さん、どうでしょう。意外とこういうことばにつまずかれる方も少なくありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

当時は家々で礼拝が行われていました。ですから、この「家」というのは、一般的な私たちの「家」とは違い、そうした信者たちが集まっているところにキリストの教えを持っていない者が入り込んで来たらということです。そういう時には断固とした態度を取らなければなりません。伝道者だから、牧師だから、教師、預言者だからと、簡単に受け入れてはならないということです。私たちはとかく「イエス様」の御名を使っていれば大丈夫だろうと、何でも安易に受け入れてしまうことがありますが、それは必ずしも安全だというわけではありません。

最近の異端は羊のなりをした狼のように、まるで私たちと同じ格好で教会に入り込み、十分に安心させてから、ごっそりと奪っていくというケースが少なくないのです。お隣の韓国ではそうしたケースが横行しているとよく聞きます。

 

ですから、「イエス」という名を使っていれば安心だというわけではないのです。キリストの教えの核心について間違った教えをしているのであれば、それは偽りであって、本物のイエス・キリストとは似ても似つかぬものなのです。そうした者たちを受け入れてはなりません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになるからです。

これは新しくクリスチャンになった人には、特に必要なことです。安易に受け入れてしまうと、こちらの弱点を突いてどんどん入り込まれてしまうことになります。彼らはそうした訓練を受けているのですから。

 

キリスト教の代表的な異端の一つにエホバの証人というグループがありますが、彼らは教会にまで来て伝道します。教会の前には「大田原キリスト教会」と書かれた看板があるのに、その教会に堂々とやって来るのです。なぜ教会まで来るのか不思議に思い聞いたみたことがありました。「どうして教会にまで来られるんですか」すると、二人のうちの一人がこう言われました。「教会の牧師はあまり聖書を知らないと聞いているので良い知らせを伝えたいと思いまして・・」エホバの証人の方々は、キリスト教会の人たちはほとんど聖書を学んでいないので、一番ターゲットにしやすいと思っているのです。

しかし、その人が帰り際に言われました。「でも、こちらの教会の牧師は聖書をよく知っておられるので驚きました。一般の教会の牧師さんはこれほど知りません。」いや、一般の教会の牧師さんは聖書を知らないのではなく、ただ相手にしないだけです。でも私は心優しくへりくだっているので、できるだけわかってほしいと、すべての人に接しているので知っているかのように見えただけのことです。

 

ですから、もしこちらが曖昧な態度を持っていたら、相手はそこを付いて攻撃してくるでしょう。柔和で、優しい態度で・・。危険です。キリストの教えを持っていない者は、神を持っていません。そのような人が訪ねて来た時は、丁重に断りつつも、毅然(きぜん)とした態度で臨むべきです。そして、人が何と言おうと、人間が救われる道は、まことに神であられ、まことに人であって、あの十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリスト以外にはないということを、天下に示さなければなりません。

 

異なった教えに惑わされず、健全なキリストの教えにとどまることを、ヨハネはどれほど強く願っていたことでしょうか。

今日の私たちも、ちまたのさまざまな教えに惑わされずに、唯一のキリストの教えにとどまって、主に喜ばれる信仰生活を全うしていきたいものです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。ここには最後のあいさつが書かれてあります。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」

愛の使徒と呼ばれるヨハネは、キリストの教えを持っていない者、いわゆる反キリストや、惑わす者に対しては、あいさつをしてもいけない、と警告しましたが、キリストの教えを持っているクリスチャンに対してはそうではありません。ここには、「たくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」とその心情を綴っています。

それは何のためでしょうか。ここには、それは「私たちの喜びが満ち溢れるために」とあります。

 

これがキリストの愛の中にある者同士の姿です。キリストの愛を信じ、その愛に生かされているクリスチャンは、互いに交わりを求め、互いに祈り、共に喜び合うのが自然なのです。へブル10章25節には、「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」とありますが、それはむしろ、キリストの愛の中に入れられた者であれば当然すぎるほど当然なことなのです。

 

もし互いに愛し合っているなら、夫婦でも、親子でも、友人でも、愛のある交わりを求めることでしょう。クリスチャンでありながら同じ主にある兄弟姉妹たちとの交わりに対して無関心であるとしたら、その愛はどこか間違っていることに気付かなければなりません。そして、キリストの愛の中に入れられた者として、その集いを尊び、その交わりに積極的に関わりながら、ますます篤く愛し合う者でありたいと思います。

ヨハネのように、紙と墨ではしたくありません。あなたがたのところに行って、直接お話ししたい。喜びも、悲しみも共有したいと言える、そんな交わりを求めていきたいと思うのです。それがキリストによって救われた者の、真理と愛に生きる者の姿なのです。

ヨハネの手紙第一5章13~21節「まことの神、永遠のいのち」

ずっとヨハネの手紙第一からメッセージしてきましたが、きょうはその最後です。前回の箇所でヨハネは、神ご自身の証について語りました。イエスが神の御子であり、救い主であられるという証です。その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

 

ヨハネはこのことを知ってほしかったのです。ですから、きょうの箇所には、この「知る」とか「分かる」ということが何回も繰り返されているのです。13節には「分からせるためです」とあり、15節には「分かるなら」とか、「分かります」とあります。また、18節、19節、20節にも「知っています」とあります。ヨハネが福音書を書いた目的は何だったでしょうか。それは、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」(ヨハネ20:31)でしたが、同じヨハネがこの手紙を書いた目的は、信じた彼らにそのことを分からせるため、つまり、確信を持たせるためでした。

 

私たちはイエスが神の御子であると信じるだけでなく、その事実について確信を持たなければなりません。そうすれば、私たちは神との深い交わりの中に入れられるのです。

きょうは、私たちが持たなければならない三つの確信についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.救いの確信(13)

 

第一に、私たちが知らなければならないことは、私たちがイエスを信じて永遠のいのちを持っているという確信です。13節をご覧ください。「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」

 

先ほども申し上げたように、ヨハネがこの手紙を書いた目的は、神の御子を信じている彼らが、永遠のいのちを持っているということを、分からせるためでした。そのことを確信することによって、この世に鬱かつことができるからです。5章4、5節をご覧ください。ここには、こうありました。5章5節です。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

何が世に打ち勝つことができるのでしょうか。私たちの信仰です。これこそ、世に打ち勝った勝利です。その信仰とは何か。それは、イエスが神の御子と信じることです。ただ信じるというのではありません。そのことについて確信を持っていなければなりません。ただ頭で「そうか」と理解するだけでなく、そのことを自分のこととして受け止めてほしかった。ヨハネは、そのためにこの手紙を書いたのです。

 

どうしたらその確信を持つことができるのでしょうか。ヨハネはその前の12節のところでこう言い増した。「御子を持つ者はいのちをもっており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」また4章9節では、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。」と述べました。ですから、この御子を持つ者は、いのちを持っていると確信することができるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは神の御子を持っていますか?持っているとは信じているということです。イエスを神の御子と信じて、このイエスによって成し遂げられた救いの御業を受け入れておられるでしょうか。もしそうであるなら、皆さんは永遠のいのちを持っています。

なぜそのように言うことができるのでしょうか。ここに、そのように約束してあるからです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持ちない者はいのちを持っていません。この御子を持っているということの根拠のゆえに、永遠のいのちを持っていると確信することができるのです。

もしだれかがあなたに「あなたはキリストを信じ、受け入れたというが、まさかそれだけで救われ、罪が赦されたなんて思っていないだろうね」と言っても、「いいえ、こんな者でも罪赦されて永遠のいのちを持っています。」とはっきりと言うことができます。なぜなら、神の御子を信じているからです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。聖書にこのように約束されているので、これでも私は救われて永遠の命を持っているのですと、はっきりと言うことができるのです。

 

私は、18歳の時イエス様を信じてバプテスマを受けましたが、正直のところ、救われているという実感がありませんでした。確かに、イエス様を自分の罪からの救い主信じましたが、その救いとはどのようなものかはっきりわかりませんでした。いわゆるグッとくるものがなかったのです。

当時、私が通っていた教会では、この後で賛美しますが、新聖歌262番の「わが生涯は」という賛美歌が歌われていました。

「わが生涯は改まりぬ イエスを信ぜしより

わが旅路の御光なる イエスを信ぜしより

イエスを信ぜしより イエスを信ぜしより

喜びにて胸はあふる イエスを信ぜしより」

皆さん、どうですか?アーメンですか?アーメンですね。でも私の中では、喜びにて胸はあふる、という感じではありませんでした。確かにイエス様を信じて罪が赦されたというのが頭ではわかりましたが、喜びにて胸はあふる、という心境ではありませんでした。教会の牧師も、兄弟姉妹も、みんな喜んで賛美していたので、どうしたらそんなに喜びにあふれるのですか、と聞くこともできず、若き大橋富男青年はひとり悩んでいました。それで一生懸命に奉仕をすればそうした心境になれるに違いないと、礼拝の司会から日曜学校の教師、青年会のリーダーと、与えられた奉仕をことごとくしましたが、それでも喜びにて胸はあふる、という心境にはなりませんでした。

 

そのような私が救いの確信を得られたのは、後日国際ナビゲーターで出版している「確信の学び」という教材を使って聖書を学んでいた時でした。そこには、「信仰生活の確信は、自分の意思や感情から来るというより、神のことば、すなわち聖書の真実さから来るものです。自分がどう思うかより、聖書が保証している確かさに基づいています。」と書いてありました。その中でこのみことばに触れたのです。

「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

そして、このみことばを心に深く刻み込んだとき、主イエスが私の内にいてくださり、永遠のいのちを与えてくださっていることを確信することができたのです。ちょうどきれいな花が咲くためには種を蒔かなければならないように、救われたという確信は、神のことばという種を蒔いた結果もたらされるのです。自分の感情に頼らないで、神のみことばに信頼することです。そのことを分かっていただきたいのです。

 

Ⅱ.祈りの確信(14-17)

 

第二に、私たちが知らなければならないとは、何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということです。14節から17節までをご覧ください。まず14節と15節をお読みします。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」

 

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちが信仰生活を続ける上でよく受ける攻撃のもう一つのことは、祈りに関することです。すなわち、「祈ったって無駄だ、何の意味もない」ということです。悪魔はあなたの耳元でこうつぶやくでしょう。「あなたのことを神が心配してくれるはずがない。神はあなたの祈りが届くことがない遠いところにおられるのであって、祈りに答えてくれることはない」その結果、祈ることを止めてしまい、神とのいきいきとした関係が薄れてしまうのです。神に期待することもなくなり、ただ惰性で信仰生活を続けてしまうことになるのです。

 

しかし、私たちはイエス・キリストを信じたことで神の子としての特権が与えられました。私たちが神の子どもであるということは、神が私たちに、また私たちが必要としていることに関心を持っておられということです。ですから、子どもである私たちの願いを無視したり、耳をふさいだりするようなことはされません。私たちのすべての思いは神の耳に届いているのです。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださいます。これこそ神に対する私たちの確信です。

 

ところで、ここには「何事でも」とあります。私たちは祈るとき、「こんなことを祈っても大丈夫だろうか」とか、「まさかこんなことは聞いてくださらないだろう」と思い、祈ることを躊躇してしまうことがありますが、ここには「何事も」とありますから、何事でも祈ることが大切です。ヤコブは、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4:2)と言いました。私たちは、自分たちで何とかしようとして、神に祈らないことが多いのです。しかし、何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、神に対する私たちの確信なのです。

 

しかし、ここには一つだけ条件があげられています。それは「神のみこころにしたがって願うなら」ということです。ほらみなさい。やっぱり無理じゃないですか。だって、神のみこころにしたがって願うならと言われても、神のみこころが何だかさっぱり分かりません。神のみこころだと思って祈っていても、結局のところ、自分の思いで祈っているということが結構ありますから。ですから、神のみこころにしたがって願うなんて無理ですよ。だから祈らなければならないのです。そのようにして祈るなら、少しずつ神のみこころがわかってくるからです。

 

私たちもそうでした。信仰に導かれた頃は何が神のみこころなのかもわからなかったので、とんでもないようなことを祈っていました。今思い返すと本当に恥ずかしくなったり、身震いをしたりしますが、祈っているうちに、だんだんと神のみこころがわかるようになりました。また、たとえそれが自分の思いのようであっても、それが答えられなかったり、別の形で答えられたりするのを見て、「ああ、これが神様のみこころだったんだ」と、はっきりわかりました。ですから、それが神のみこころなのかどうかわからなくても、とにかく何事でも祈ることが大切です。

 

神が求めておられるのは私たちが私たちの願いを申し上げるということ以上に、神との親しい交わりを持つことなのです。それがどんなにつらないことであっても、それを聞いて関係を持ちたいと願う親のように、天の父である神様は、私たちとの交わりを求めておられるのです。

 

主イエスはこう言われました。「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ16:24)

私たちの喜びが満ちあふれるようになるために必要なことは何でしょうか。イエスの名によって祈ることです。イエスの名によって祈るなら、受けます。それはそのことによって私たちの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

皆さんはどうでしょうか。日々のいろいろなことで意気消沈しておられないでしょうか。神様に祈っても何の意味もないと、あきらめていないでしょうか。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。この確信を捨ててはなりません。

 

15節をご覧ください。ここには、「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」とあります。どういうことですか?私たちが願うことは何でも神が聞いてくださるということが分かるなら、それはもう叶えられているということです。もちろん、これは私たちの要求が何でもそのとおりになるということではありません。そうではなく、神に願ったら、神は最善の結果に導いてくださるということがわかるので、安心して結果をゆだねることができるという意味です。

ヤコブは「疑わずに、信じて願いなさい」(ヤコブ1:6)と言っていますが、これも神様との信頼関係を示しています。神様は私たちの父です。父であれば自分の子どものことを愛していて、子どもが必要としておられるものを与えてくれます。でも有害なものは与えません。良いものしか与えないわけです。私たちがその良いものを神に求めるなら、その求めたことは何でも、神は与えてくださいます。これこそ神に対する私たちの確信なのです。

 

ところで、16節と17節には、その祈りの確信を兄弟愛に適用するようにと勧められています。

「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。17 不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。」

 

ここは難解な箇所です。だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、どうしたらよいのでしょうか。ここには「神に求めなさい」とあります。

兄弟愛がなければ見て見ぬふりをするか、内心軽蔑するか、他の人にその人のうわさ話をするかのいずれかでしょう。しかし、クリスチャンはそうであってはならないというのです。

5章1節には、「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたものです。」とあります。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者、すなわち兄弟姉妹をも愛するのです。それがクリスチャンの特徴です。もちろん、感情的になかなか受け入れられないという人もいるでしょう。しかし、少なくともそのように努力します。なぜなら、生んでくださった方を愛しているからです。それが生んでくださった方のみこころであり、命令だからです。私たちは神を愛するので、神の命令に従うのです。では、その神の命令とは何でしょうか。それは互いに愛し合いなさい、ということです。

ここでは、その愛するということがどういうことなのかがきっきりと示されています。それは、「兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、神に求めなさい。」ということです。そうすれば神はその祈りを聞いて、罪を犯している人を悔い改めに導き、いのちを与えてくださいます。これは、兄弟を滅びにいかせないで、最終的に永遠のいのちに至らせてくださるという意味です。

 

ヤコブ5章19、20節には、「私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。」とあります。物質をもって兄弟姉妹を助けることも大切なことですが、このように真理の道から迷い出た者のために祈り、そこから連れ戻すことも大切な愛の奉仕なのです。

 

ところで、ここには、それは死に至らない罪を犯している人たちの場合であって、死に至る罪を犯している場合はその限りではないと言われています。これについては、願うようにとは言いません、とあります。どういうことでしょうか。死に至る罪と死に至らない罪の違いとは何でしょうか。

イエス様はマタイの福音書12章31節と32節でこのように言われました。「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」

イエス様はここで、人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、聖霊を冒涜する罪だけは赦されないと言われました。聖霊を冒涜する罪とはどのような罪でしょうか。それは聖霊の働きを否定し、聖霊の働きを拒むことです。なぜ聖霊を冒涜する罪だけは赦されないのでしょうかというと、聖霊は神への救いに導く案内人ですから、それを拒むということは悔い改めを拒むということであり、悔い改めを拒むということは救いを拒むということになるからです。そのような人が赦されることはありません。ですから、そのような人については、願うようにとは言いません、とあるのです。

 

ヨハネはこのことについて、既にこの手紙の中で述べてきました。1章7節から10節です。

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。それなのに、頑なになり、聖霊の働きを拒んで、自分には罪がないと言うなら、つまり、悔い改めないとしたら、その人のうちには真理はありません。もはや神のいのちは残されていないのです。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

私たちは頑なになって聖霊の働きを拒んだりせず、神の御前にへりくだって、自分の罪を悔い改め、神のいのちに与るものとなりましょう。そして、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、神に求め、兄弟をその滅びの道から立ち返るように祈りましょう。それこそ愛の業なのです。

 

Ⅲ.勝利の確信(18-21)

 

第三に、18節から21節までを見て終わりたいと思います。

「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」

 

ここには何度も「知っています」ということばが繰り返されています。何を知っているのでしょうか?神から生まれた者はみな罪を犯さないことです。罪を犯さないということは、全く罪を犯さない完全な者になるということではありません。罪に支配されることはないということです。クリスチャンでも罪を犯します。しかし、その罪を悔い改め、神のみこころにかなった歩みをしたいと願うので、その罪に支配された生活を続けることはないということです。神から生まれた方、これはイエス様のことですが、イエス様がその人を守っておられるからです。イエス様が守っておられるので、悪い者、これは悪魔のことですが、悪魔はその人に指一本触れることができないのです。これはどういう意味でしょうか。これは、クリスチャンは悪霊に取りつかれることはないということです。

 

ある人たちはクリスチャンでも悪霊に取りつかれることがあるので、悪霊を追い出してもらわなければならないと主張する人がいますが、それは違います。なぜなら、ここに、神から生まれた方がその人を守っておられるので、悪い者はその人に触れることはできない、とあるからです。「私たちの内におられる方は、この世にいるあの者よりも強い」(4:4)のです。キリストの霊、聖霊と悪霊が同居するということは絶対にありません。そんなことをしたらキリストの霊、聖霊の方がはるかに強いので、悪霊は追い出されてしまうことになります。ですから、イエス様を信じその内に聖霊が住んでおられるクリスチャンには、悪魔は指一本触れることはできないのです。ですから、どうぞ安心してください。あなたがイエスを持っているなら、イエスを神の御子と信じているなら、悪霊に取りつかれるということは絶対にありませんから。もし、まだイエスを信じていないという方がおられるなら、今、イエスをあなたの罪からの救い主として信じ、心に受け入れてください。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。そうすれば、悪魔はあなたを支配することはありません。

 

でも、クリスチャンでも悪魔に惑わされることがあります。悪魔に誘(いざな)われることがあるのです。イエス様も悪魔の誘惑を受けられました。同じように、私たちも悪魔に取りつかれることはありませんが、悪魔の誘惑を受けることはあるのです。どうしたらいいでしょうか。マルチン・ルターはこう言いました。

「悪魔と論争するな。彼は五千年の経験を積んでいるのだ。彼はアブラハムやダビデにあらゆる術策を十分にためしてきて、正確に弱点を知っている。悪魔は素手で向かったら絶対に勝ち目のない相手である。キリストに頼れ。キリストはペテロのために祈られたように、私たちのためにも折にかなった助けを与えてくださる。」(「われここに立つ」聖文舎)

そうです、私たちの力では絶対に勝ち目はありません。しかし、私たちには、私たちを守ってくださる方がおられます。この方に頼ることです。そうすれば、この方が勝利を与えてくださいます。

 

私たちの人生にはいろいろな患難があります。神がおられるならどうして・・・と思うような出来事が起こります。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは世全体が悪い者の支配下にあるからです。これが現実なのです。だからこそその現実にしっかりと向き合っていかなければなりません。神から生まれた者はみな、神から生まれた方が守ってくださるという確信を持たなければなりません。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5:5)イエスを神の御子と信じる者は必ず勝利することができます。イエス様が私たちを守ってくださいますから。

 

20節をご覧ください。ここには、私たちがこのように神から生まれた者とさせていただいたのは、神の御子が来て、その理解力を与えてくださったからだ、とあります。それは、私たち自身によっては理解できるものではありませんでした。そしてその理解力によって今、私たちは御子イエス・キリストのうちにいるのです。すなわちこの方との交わりの中に入れられているのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

 

この言葉ほど、イエス様の神性をはっきりと言い表している箇所はないでしょう。この方こそ、まことの神です。永遠のいのちです。この方がすべてであり、この方から離れては、何もありません。イエス・キリストを離れた人生や哲学はみな、空しいのです。

伝道者ソロモンは、それをこう言いました。「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」(伝道者1:2-3)

この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。すべてはこの方にあり、この方を中心にすべてが動いています。私たちはイエス・キリストを知ることこそが、そのすべてであり、永遠のいのちなのです。

 

ですから、ヨハネは最後にこう勧めるのです。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」

手紙の終わり方としては、変な言い方ですね。手紙の最後に、「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」なかなか言いません。だから祈っていますよ、とか、いつも主が共にいてくださいますように、と言うのが普通であって、「偶像から自分を守りなさい」言いません。しかし、ヨハネは今「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」と言ったので、それ以外のものが偶像であると指摘して、この方のみをあがめるべきであり、それ以外を神とすべきではない、と言っているのです。

 

偶像礼拝は何も木や石で造られたものを拝むだけではありません。パウロはコロサイ3章5節で、「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」と言っています。貪欲とか、むさぼることが偶像礼拝だというのです。つまり、まことの神を愛し、この神を第一とすることを妨げるものがあれば、それこそ偶像礼拝だと言っているのです。

 

まことの神とはだれでしょう。それはイエス・キリストです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。本物のいのちはイエス・キリストの中にしか見出せません。本当の喜び、本当の幸せ、本当の希望、本当の平安、本当の満たしは、イエス・キリストにあるのです。それに代わるどんなものも、どんな活動、どんな遊び、どんな学問、どんな趣味、どんな仕事も、あなたにいのちをもたらすことはできません。ただ神が人として来られたイエスを信じ、この方との交わりの中にのみ、永遠のいのちがあるのです。だから、この方を第一にして歩んでほしいと勧めて、ヨハネは筆を置くのです。

 

今回でヨハネの手紙第一を終わります。この手紙のテーマは、「いのちのことばについて」でした。それはイエス・キリストのことでしたね。イエス・キリストが人となって来られ、私たちのために救いとなってくださいました。そのイエスを信じる者は神のいのち、永遠のいのちを持ちます。それは世に打ち勝つ力です。私たちの信仰の歩みにも、それを妨げようとするいろいろな力が働きますが、このイエスを信じる信仰によって、勝利ある人生を歩ませていただきましょう。この方こそ、真の神、永遠のいのちなのです。