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士師記6章

士師記6章を学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

Ⅰ.主の声に聞き従わなかったイスラエル(1-10)

 

1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。

2 ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。

3 イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。

4 彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。

5 実に、彼らは自分たちの家畜と天幕を持って上り、いなごの大群のように押しかけて来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。彼らは国を荒らそうと入って来たのであった。

6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。

7 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに主に叫び求めたとき、

8 主は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、

9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。

10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 

デボラとバラクによって四十年の間、穏やかだったイスラエルでしたが、彼らは再び主の目に悪であることを行いました。せっかく主がカナン人の王ヤビンの支配から解放してくださったというのに、再び主の目に悪を行ったのです。これが人間の姿です。どんなに偉大な主の御業を見ても、その御業をすぐ忘れてしまい、すぐに自分勝手な道に歩もうとするのです。

 

そこで、主は七年間、彼らをミディアン人の手に渡されました。ミディアン人の勢力があまりにも強かったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟やほら穴や要害に住むことを余儀なくされました。

イスラエル人がどんなに種を蒔いても、いつもミディアン人やアマレク人がやって来て、彼らを襲ったので、イスラエルにはいのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばも残りませんでした。5節にあるように、彼らはすなごの大群のように押しかけて来たので、そんな彼らの前にイスラエルは何の成す術もありませんでした。

 

こうしてイスラエル人はミディアン人の前に非常に弱くなったのです。その結果、イスラエルはどうしたでしょうか?6節をご覧ください。「すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。」だったら初めから主の目に正しいことを行っていれば良かったのに、その主の目の前に悪を行ったので、このような結果となってしまったのです。しかし、それでも彼らは主に叫び求めた時、主は彼らに答えてくださいました。8節から10節をご覧ください。

「8イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 

どういうことでしょうか?彼らは今、ミディアン人によって圧迫されているので主に叫んでいるのに、主の使いは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷の家から解放されたことと、その後約束の地を彼らに与えてくださったことを思い起こさせています。それは、彼らがこのようにミディアン人によって圧迫されている原因がどこにあるのかを告げるのです。

それは、「あなたがたが住んでいる地のアモン人の神々を恐れてはならない」と言われた主の声に、彼らが従わなかったことです。つまり、主との契約を破り、自分勝手に歩んだことが原因だと言っているのです。「わたしは主、あなたがたの神である。」主がついているならどんな敵も恐れることはありません。主は全能の神であって、どんな敵も討ち破られるからです。それなのに彼らは目の前のアモリ人を恐れ、主を忘れてしまいました。それが問題だったのです。彼らはまずこのことをしっかり受け止めなければならなかったのです。

 

それは私たちにも言えることです。私たちも何か問題が起こったり、置かれている状況が悪くなったりすると、その問題の原因をどこか別のところに持っていこうとしますが、その原因は他でもない自分自身にあることが多いのです。自分が神様に背いているために起こっているのに、そのことになかなか気づきません。イスラエルは主の御声に聞き従っていませんでした。それが問題だったのです。

 

Ⅱ.ギデオンの召命(11-16)

 

それで主はどうされたでしょうか。そこで主はイスラエルに五人目の勇士を送ります。それがギデオンです。11節から18節までをご覧ください。ここには、主がギデオンを士師として召されたときの様子が描かれています。

「11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。

12主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」

13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

14 すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

16主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

 

11節にある「ぶどうの踏み場」とは、酒ぶねのことです。ぶどうの実を足で踏みつぶして、ぶどうの汁を出しました。ギデオンはそこで小麦の脱穀を行なっていました。ミディアン人に見つかるとみな荒らされてしまうので、彼らに見つからないようにこっそりと、静かに小麦を脱穀していたのです。彼もまた他のイスラエル人同様、ミディアン人を恐れていました。ギデオンという名前を聞くと、学校やホテルなどで聖書を配布している「ギデオン協会」のことを思い浮かべることもあって、勇士だったのではないかというイメージがありますが、実は、彼は臆病で、敵に対してびくびくしているような小さな存在でした。

 

そんな彼を主はご自身の働きへと召されました。12節をご覧ください。主の使いが彼のところに現れて、「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」と告げました。ギデオンは、これはいったい何のことかと思ったでしょうね。全く考えられないことです。敵を恐れて隠れているような者ですよ。そんな臆病な者が大それたことができるわけがありません。

 

それでギデオンは御使いに言いました。13節です。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

これはどういうことかというと、主がともにおられるのであれば、なぜこのようなことが起こるのですか。確かに過去においてエジプトで主が行なってくださった偉大な御業のことは聞いています。ではなぜそのような御業を私たちには行なってくださらないのですか。主がともにおられるのなら、こんなはずがありません。これは主がともにおられないということの確たる証拠ではありませんか。

このような疑問はだれでも抱きます。神がともにおられるのなら、どうして主はこのようなことを赦されるのか・・・。しかし、それは主がイスラエルを捨てたからではなく、イスラエルが主を捨てて自分勝手に歩んだからです。だから、主は敵の手の中に彼らを引き渡さざるを得なかったのです。

 

すると主は何と仰せになられたでしょうか。14節です。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

すると主は、ギデオンの疑問に一切答えることをせず、「行け。あなたのその力で。」と言われました。どういうことでしょうか。それは、彼の力が強かろうが弱かろうが、そんなことは全く関係ないのであって、彼に求められていたことは、主の命令に従って出て行くということでした。なぜなら、主が彼を遣わされるからです。主が遣わされるのであれば、主が最後まで責任を取ってくださいます。むしろ、「私が、私が」という人はあまり用いられません。神様の力が働きにくくなるからです。大切なのは自分にどれだけ力や能力があるかということではなく、自分を遣わしてくださる方がどのような方であるかということ、そして、その方が自分とともにいてくださるかどうかということなのです。

 

私は18歳で信仰に導かれ、信仰に導かれるとすぐにテモテへの手紙第二4章2節のみことばが示されました。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)

しかし、どのようにみことばを宣べ伝えていったらいいのかわからず、与えられた奉仕を手あたり次第しました。やがて青年のスモールグループをリードするようになって、もしかすると神様は牧師に召しているのではないかと思うようになりました。でも私の夢は社会でバリバリ働いてお金持ちになり、豊かな生活をすることでしたので、そういうことではないと思いましたし、小さい頃から勉強があまり好きではなかったので、そちらの方に進むことに抵抗がありました。というか、あまり自信がなかったのでしょうね。

家内と結婚する時に言いました。「私は、牧師にならないかもしれないけれども、それでもいいんですか。」。すると家内が何を思ったのか、「私はモーセであなたはアロンです。」と言いました。要するに、口べたな私のために話してください、ということでした。それもありかなということで教会を始めたわけですが、救われてバプテスマを受ける人たちが出てくるとそこから逃げられなくなってしまいました。それまでは、いつでも逃げられると思ってやっていたのに、もう逃げられないと思ったとき、主にすべてをゆだねようと、決心しました。それから神学校での学びをしながら牧会するようになりました。

要するに、私がどのような者であるかとか、どれだけ牧師にふさわしい者であるのかということではなく、だれが私を遣わされるのかということです。主が遣わしてくださるなら、主が最後まで責任を持ってくださいます。たとえ私がどんなに小さな者であっても、主が御業を成してくださるのです。私たちはただ主の召しに従えばいいのです。

「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

私たちもギデオンのように臆病で、弱い者かもしれませんが、主が私たちを遣わしておられるのです。そう信じて、その力で出て行かなければなりません。

 

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか?15節をご覧ください。

「ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

自分にはできないという言い訳です。モーセもそうでした。モーセは、イスラエルの子らをエジプトから救い出せ、との命令を神から受けたとき、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに生き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)と言いました。とても無理です。だれか別の人を遣わしてくださいというモーセに対して、「あなたの手に持っているものは何か。」と言って、その杖を地に投げるように命じられました。するとそれは蛇になりました。

続いて主は、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と命じると、それは手の中で杖になりました。それは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が彼に現れたことを、彼らが信じるためでした。

するとモーセは何と言ったでしょう。「ああ、わが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が思いのです。」(出4:10)と言いました。言い訳です。最初からそんなに流暢に語れる人なんていません。また、語れるからといって、必ずしも神のことばを語れるとは限りません。問題は、だれが語るのかということです。語るのはモーセではなく神です。そのことを示すために主はモーセにこう言いました。

「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。」(4:11)

それでもぐずくずしているモーセに対して主は、彼の兄アロンを備えてくださいました。アロンは雄弁なので、彼に語り、彼の口にことばを置け、というのです。そこまでして神はモーセを励まし、ご自身の働きに遣わしてくださいました。

ギデオンも同じです。彼は、自分がマナセの中で最も弱く、彼の父の家で一番若いということを理由に、とても自分にはイスラエルを救うことなんてできないと言ったのです。

 

すると主は何と言われたでしょうか。16節をご覧ください。「主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

主は彼とともにいるので、彼はあたかも一人の人を倒すようにミディアン人を打つ、というのです。主がともにおられるなら、一人を打つように敵を打つことができます。大切なのは、あなたがどのような者であるかということはではなく、あなたはだれとともにいるのかということです。主がともにおられるなら、あなたは敵を打つことができます。あなたがどれほど小さいく、弱い者であっても、あなたは敵に勝利することができるのです。

 

Ⅲ.しるしを求めたギデオン(17-40)

 

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか。彼はそれでも安心できず、自分と話しておられる方が主であるというしるしを求めます。17節から24節までをご覧ください。

「17 すると、ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。

18 どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持って来て、御前に供えますので。」主は、「あなたが戻って来るまで、ここにいよう」と言われた。

19 ギデオンは行って、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作った。そして、その肉をかごに入れ、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て差し出した。

20 神の使いは彼に言った。「肉と種なしパンを取って、この岩の上に置き、その肉汁を注げ。」そこで、ギデオンはそのようにした。

21 主の使いは、手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種なしパンに触れた。すると、火が岩から燃え上がって、肉と種なしパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。

22 ギデオンには、この方が主の使いであったことが分かった。ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」

23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。」

24 ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。」

 

ギデオンは、自分と話しておられる方が主であることを確認するために、また、主が彼とともにおられるということを確信するためにしるしを求めました。すると主の使いは、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作り、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来るように命じました。そして、その肉と種なしパンを取って、岩の上に置き、その肉汁を注ぐようにと言ったので、そのとおりにすると、主の使いが手にしていた杖の先を伸ばして、肉とパンに触れました。すると、火が岩から燃え上がって、肉と種なしパンを焼き尽くしたので、この方が主の使いであることがわかりました。

 

彼はそのことがわかったとき、こう言いました。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」

ギデオンは、主を見たことを恐れました。なぜなら、主を見る者は殺されなければならなかったからです。(出19:21,33:20)けれども、主は「安心しなさい」と言われました。それでギデオンは、そこに主のための祭壇を築き、「アドナイ・シャロム」と名付けました。意味は「主は平安」です。主は、ギデオンが平安を求めたとき、平安を与えてくださいました。主は平安を与えてくださる方なのです。

 

するとその夜、主はギデオンに言われました。25節、26節です。「25 その夜主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛で、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒せ。

26 あなたの神、主のために、その砦の頂に石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のささげ物を献げよ。」

どういうことでしょうか? イスラエル人たちは、主とともにバアルやアシェラ像を拝んでいました。あるときは主を礼拝し、そしてまたある時はバアルを拝んでいたのです。その祭壇を壊しなさい、というのです。そして、あの第二の雄牛を取り、その壊した偶像の木で全焼のいけにえとして献げるように、と言われたのです。それは主なる神がバアルやアシェラといった偶像とは違ってはるかに力ある方であることを示すためでした。

 

ギデオンはどうしたでしょうか?27節をご覧ください。ギデオンは自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにしました。しかし、彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間はそれをしないで、夜に行いました。どんなに主がともにおられるということがわかっていても、そんなことをしたら殺されるのではないかと思うと、恐れが生じたのでしょう。しかし主は、そんな弱いギデオンさえも用いてくださいました。

 

それがどれほどの怒りであったかは28節から30節までをご覧ください。町の人々は、「だれがこのようなことをしたのか」と調べて回り、それがギデオンであるということがわかったとき、父親のヨアシュにこう言いました。「おまえの息子を引っ張り出して殺せ。あれはバアルの祭壇を打ちこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」

 

すると、ギデオンの父ヨアシュは自分に向かって来たすべての者に言いました。「あなたがたは、バアルのために争おうというのか。あなたがたは、それを救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺される。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えばよいのだ。」

これはどういうことかというと、なぜあなたがたはバアルのために争おうとするのか、バアルが神であるなら、どうして我々がバアルを救ってあげなければならないのか、おかしいではないか、そんなの神ではない。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が壊されたんだから、自分で争えばいいのであって、そのために我々が争うというのはおかしい、ということです。

 

よく考えてみるとおかしな話です。神は我々を助ける存在なのに、我々に助けてもらわなければならないというのは変です。でも、このような変なことを比較的多くの人々が何の矛盾も感じることなく信じています。偶像の神々は、我々が守らなければ壊されてしまうような、はかないものなのであって、そのようなものが神であるはずがありません。神はわれわれが守ってあげなければならないような方はなく、我々をはじめ、この世界のすべてを創造され、我々をいつも守ってくださる方なのです。

 

こうして、その日、ギデオンの父ヨアシュは、「バアルは自分で彼と争えばよい。なぜなら彼はバアルの祭壇を打ち壊したのだから」と言って、ギデオンをエルバアルと呼びました。

 

33節から35節をご覧ください。一方、ミディアン人やアマレク人、また東方の人々が連合してヨルダン川を渡り、イズレエルの平野に陣を敷いたとき、主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従いました。またギデオンはマナセの全域にも使者を遣わしたので、彼らもまた、ギデオンに従いました。その他、アシェル、ゼブルン、ナフタリも上って来て合流しました。

 

なぜこんなに大勢の人々が集まることができたのでしようか。それはギデオンに力があったからではありません。34節にはこうあります。「主の霊がギデオンをおおったので」。主の霊がギデオンをおおったので、多くの人々が、彼に従ったのです。つまり、主の霊によってギデオンが戦うと決断したので、多くの人々がつき従ったのです。私たちも時としてなかなか決断できない時がありますが、そうした決断さえも主が与えてくれるものです。ギデオンのように主がともにおられるなら、主の霊が彼をおおったように私たちをもおおい、そうした決断も与えてくれるのです。

 

36節から40節までをご覧ください。

「35 ギデオンはマナセの全域に使者を遣わしたので、彼らもまた、呼び集められて彼に従った。また彼は、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わし、彼らも上って来て合流した。

36 ギデオンは神に言った。「もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのなら、

37 ご覧ください。私は刈り取った一匹分の羊の毛を打ち場に置きます。もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、あなたが言われたとおり、私の手によって、あなたがイスラエルをお救いになると私に分かります。」

38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日朝早く、羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。

39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りるようにしてください。」

40 神はその夜、そのようにされた。羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りていたのであった。」

 

ここにきてギデオンは、主にもう一つのしるしを求めました。それは、本当に主が言われたとおり、主は自分の手によってイスラエルを救おうとしておられるのかを知るためでした。そこで彼は、羊一頭分の毛を打ち場に置き、もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、主が言われたとおり、自分の手によってイスラエルをお救いになるということです。

すると、そのようになりました。それはちょっとの露ではありませんでした。鉢がいっぱいになるほどの水でした。

 

するとギデオンは、再び主に言いました。その羊の毛でもう一度だけ試させてください、と。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体に露が降りるようにしてくださいと言ったのです。いったいなぜギデオンは何度もしるしを求めたのでしょうか。

これはギデオンが不信仰だったからではありません。34節には、彼は主の霊におおわれていたとあります。主が彼とともにおられることはわかっていました。しかし、その戦いが本当に主から出たものなのかどうかを確かめたかったのです。私たちも主の働きを行なうとき、はたしてこれは自分の思いから出たことなのか、それとも神のみこころなのかがわからなくなることがあります。そのようなときに、それが神のみこころであると確信することは大切です。ギデオンが主のみこころを求めて祈ったように、私たちも主のみこころを求めて慎重に祈り求めていくことが認められているのです。

 

主イエスは言われました。「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

これは私たちにも求められていることです。私たちは、主のみこころを求めてもっと祈るべきです。求めるなら与えられます。ギデオンは主に確信を祈り求めた結果、その確信を得ることができました。だからこそ彼は、大胆に出て行くことができたのです。私たちも主のみこころを求めて求めましょう。探しましょう。たたきましょう。そうすれば、主は与えてくださいます。それによってもっと大胆に主の御業を行うことができるのです。

ヨハネの手紙第一5章6~12節「その証しとは」

きょうは、「その証しとは」というタイトルでお話しします。その証とは何でしょうか。11節、その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。つまり、イエスが神の子、救い主であるという証しです。いったいそれをどうやって証明することができるでしょうか。それが、今日のテーマです。今日の箇所には「証し」という言葉が何回も出てきます。「証し」というのは法廷用語で、「証言」のことです。つまり、神の御子イエス・キリストについて、いろいろな証言がある、ということです。

 

普通、証言の数が多ければ多いほど、それが真実であるということが確かになります。ですから、旧約聖書の申命記19章15節には、こうあるのです。「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」つまり、何かを立証するためには、一つの証言だけではなく、複数の証言が必要だ、ということです。
そこで、ヨハネは、今日の箇所で、イエス様がまことの救い主であるということを立証するために、複数の証言をもって立証しています。それは何でしょうか。8節には、それは御霊と水と血です、とあります。この三つは一致しています。つまり、三つの証言は、完全に調和のとれた証言であり、また、そのうちの一つでも欠けてはならないということです。いったいこれはどういうことでしょうか。今日は、この神の証言についてご一緒に見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.神の証言(6-8)

 

まず6節をご覧ください。ここには、「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」とあります。ここには、イエスが水と血によって来られた方である、とあります。この水と血は、いったい何を指しているのでしょうか。

 

そこで、まず「水」ですが、イエスが水によって来られたということを理解するために、イエスが公生涯の初めに何をされたのかを思い出していただきたいと思います。イエスは公生涯の初めにヨルダン川に行かれ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。30歳になられた時のことです。

 

いったい、イエス様はなぜバプテスマを受けられたのでしょうか。バプテスマのヨハネが授けていたバプテスマとは罪を悔い改めるためのバプテスマであって、神の御子であられたキリストには全く罪がなかったわけですから、本来ならば、受ける必要などなかったはずです。

 

そのことは、バプテスマのヨハネ自身がよくわかっていました。彼は、以前、ユダヤの宗教指導者たちから「あなたはキリストですか」という質問をされたとき、このように答えていました。

「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履物のひもを解く値打ちもありません。」(ヨハネ1:26-27)

そして、その後、実際にイエス様が彼のもとに来られた時、「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:15)と言いました。
ですから、イエス様がバプテスマを受けたいと申し出た時、彼はびっくりしたのです。そして、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と言ったのです。

イエスはバプテスマを受けなければならなかった理由など全くありません。しかし、イエス様は、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と言って、バプテスマを受けられました。

すると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下られました。そして、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神の声が聞こえたのです。これは何を表していたのかというと、イエスが神の御子救い主であり、そのイエス様がバプテスマを受けることは神の計画でり、父なる神と聖霊が承認なさったということです。

今日の箇所でイエスが水によって来られたとか、水があかしするとあるのは、この

バプテスマのことを指していたのです。本来ならば、イエスはバプテスマを受ける必要などありませんでしたが、それでもあえて受けられたのはイエスに罪があったからではなく、ご自分が人として来られたことを示すためであり、それが神のみこころであったことを示すためだったのです。

 

それは血についても同じです。この方は水だけでなく、水と血によって来られました。血によって来られたとはどういうことでしょうか?

聖書で「血」が象徴するものといえば、それはもちろん十字架です。イエスは十字架の上で血を流してくださいました。それによって私たちの罪が赦されました。それは、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、この世全体の罪のためでした。ですから、血によって来られたとか、血があかしするというのは、イエス様が血を流されたあの十字架の出来事を指していたのです。イエス様が十字架で死なれたという事実こそ、彼がキリスト、救い主であるということを証言している、というのです。

 

というのは、ヘブル人の手紙9章22節には、「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」とあるからです。律法によれば、私たちの罪が赦されるためには血が流されなければなりませんでした。旧約聖書の時代には、そのために毎年多くの動物が犠牲となりました。けれども、動物の血は人の罪を完全に贖うことができませんでした。そのためには全く罪のない完全ないけにえが求められました。それがイエス・キリストの十字架での贖いでした。キリストが、ただ一度十字架に架かり、私たちの罪のためのいけにえとして血を流してくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されました。私たちは神様の目にきよい者とされたのです。ヘブル9章26節に「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」と書かれているとおりです。

ですから、バプテスマのヨハネは、イエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)と言ったのです。イエス様ご自身が、私たちの罪のためのいけにえの小羊となって、十字架で血を流してくださるからです。

 

すなわち、イエス様が血によって来られたというのは、イエス様が十字架で血を流してくださったことにより、イエス様がまことの救い主であることを証ししているのだ、ということなのです。

 

きょうは、このあとで聖餐式が行われますが、いったい聖餐式は、何のために行うのでしょう。それは、イエス様の十字架の出来事を思い起こし、イエス様こそ罪を赦し救いを成し遂げてくださった救い主であることを覚え、神様の愛と赦しの恵みを味わうためです。
イエス様は、十字架につけられる前、弟子たちとの最後の晩餐の時に、ぶどう酒の杯を手にしてこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と。イエス様が十字架についてくださることによって私たちは、神様と新しい契約を結ぶことができるようになったのです。イエスを救い主として信じることによって、私たちのすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けて、神様と親しい関係の中に入れられるという契約です。つまり、イエス様の十字架こそ、はるか昔から預言されていた神様の救いのご計画を成就するものなのです。

 

先々週、講壇交換のため宇都宮の教会を訪問しました。「礼拝後、求道者クラスがあるので先生も入ってください」と言われたので、2階のお部屋に行ってみると、そこに62歳になる男性とその娘さんがおられました。すると男性の方がこう言われました。「家内が約30年前にクリスチャンになったけど、自分はなぜキリストを信じなければならないのかわからない。」別にキリストでなくてもいいんじゃないかと思っている・・と。

そこで、「せっかくだから聖書を開いてみましょう」と、あのヨハネの福音書3章にあるニコデモの箇所を読みました。ニコデモはとても優秀な人で、真面目に生きて来た人ですが、一つだけどうしても分からないことがありました。それは、どうしたら神の国を見ることができるか、ということでした。どうしたら救われ天国に行くことができるのかということです。

イエス様はそんなニコデモに、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。どうしたら新しく生まれることができるのでしょうか?それは決して人間の努力や功績によってではありません。御霊によって生まれなければなりません。それではどうしたら御霊によって生まれることができるのでしょうか?

イエス様は、旧約聖書にある一つの出来事を引用して教えられました。それはかつてイスラエルがエジプトを出て約束の地に向かっていた時のことです。途中荒野でパンもなく、水もなかったとき、イスラエルの民は神とモーセに逆らったので、神様はイスラエルの民の中に燃える蛇を送られました。それで、多くの人がそれにかまれて死んだのです。民はモーセのところに来て悔い改め、主に祈ってくれるように願ったので、モーセが民のために祈ると、神は不思議なことを言われました。それは、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民数記21:8)ということでした。

それでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けました。すると蛇がかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。その青銅の蛇とは何でしょうか。それはイエス・キリストの十字架でした。聖書に、「木にかけられた者は呪われた者である」とありますが、イエス様は呪われた者となって木にかけられたのです。それは蛇にかまれたイスラエルの民が救われたように、神に背いたことで神に呪われた私たちを救うためでした。これが神様の救いの方法でした。それは旧約聖書の時代から、神様によって示されていた救いの道だったのです。それゆえ、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、救われるためにはこのイエスを信じなければなりません。それが、神様が永遠の昔からこの人類の救いのために用意しておられた計画だったのです。

 

そして、このことをはっきりとあかしするのが、三つ目の聖霊です。6節には、「御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」とあります。三つのものが証しします。それは御霊と水と血です。この三つは一致しています。ですから、水だけでなく、また水と血だけでなく、御霊も証しします。御霊が証しするとはどういうことでしょうか?

 

ここで7節と8節の訳についてちょっと触れておきたいと思います。新改訳聖書には、「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。」とありますが、英語のKing James Versionでは次のように訳しています。

7 For there are three that bear witness in heaven: the Father, the Word, and the Holy Spirit; and these three are one.

8 And there are three that bear witness on earth: the Spirit, the water, and the blood; and these three agree as one.

これを日本語に訳すとどうなるかというと、「7 天において証しをするものが三つある。それは父と、ことばと、聖霊である。そしてこれら三つは一つである。8 地において証しをするものが三つある。それは御霊と水と血である。これら三つは一致している。」

どういうことですか?訳が全然違います。これは写本の違いから生じています。聖書は原本が残っていないため、それを書き写したいくつかの写本から復元しているのですが、新改訳聖書をはじめほとんどの聖書が採用しているのは、バチカン写本やシナイ写本といった聖書校訂本と言われるものであるのに対して、英語の欽定訳(KJV)は、公認本文と呼ばれている写本を採用しています。どうして新改訳聖書は聖書校訂本を用いているのかというと、その写本の方が古いからです。単純に考えれば、古い写本の方がよりオリジナルに近いと考えられるので、聖書校訂本の方がオリジナルに近いものと考えているのですが、果たしてそうでしょうか。

 

新改訳聖書を見る限り、その写本にない文章、もしくは、このヨハネの手紙のように文章が欠けている箇所がいくつかあります。

代表的なのは、マルコの福音書16章9節から終わりまでと、ヨハネの福音書7章53節から8章11節まででしょう。マルコの福音書の16章はマルコの福音書の最後の箇所ですが、ここには有名な、「全世界に出て行って、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ。」もあります。しかし、新改訳聖書には本来欠けている内容です。でもないと不自然なので( )して加えてあるのです。

ヨハネの福音書7章53節から8章11節までには、あの姦淫の現場で捕らえられた女の話があります。しかし、新改訳聖書には本来無い内容です。ですから( )して加えてあるのです。

他に、ヨハネの福音書5章4節もそうです。ここには、38年もの長い間病に伏していた人がいやされたことが書かれてありますが、この節がないと、なぜ多くの病人がベテスダの池の周りに伏せていたのかわかりません。しかし、欽定訳にはその理由として4節があるのですが公認本文には無いため、 欄外に4節としての説明が書かれてあるのです。

その他、ローマ8章1節もそうです。しかし、たとえ写本に違いがあっても聖書の重要な教理にはほとんど影響がないことから問題にしてこなかったのですが、このヨハネ第一の手紙5章7節と8節は、大切な三位一体の教理を擁護するものとしてとても重要な箇所です。というのは、父なる神とことばなるキリスト、そして聖霊なる神の三つが一つであると書かれてあるからです。

また、このイエス・キリストが神の御子と証しするものが、天において三つあり、それが父と御子と聖霊であるというのは、完全な証であることを示していることからです。したがって、この箇所の写本をどこから取るかは極めて重要であるよう思います。

 

しかし、新改訳聖書では、イエス・キリストが神の御子であることの地における証しとしての水と血と御霊の三つの証言を取り上げていますので、そのことに焦点を絞ってみていきたいと思います。

 

それで、イエス様について証しするもう一つのもの、御霊について見ていきたいと思います。7節と8節には、「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。」とあります。御霊が証しするとはどういうことでしょうか?

ヨハネの福音書15章26節には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」とあります。ここにははっきりと、真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます、とあります。その方とはどの方でしょうか?そうです、真理の御霊です。聖霊です。その方が来ると、その方がイエス様について証してくださるのです。

 

その後、イエス様は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、四十日の間多くの弟子たちの前に復活の姿を示されてから、天に昇って行かれました。そして、その十日後に弟子たちの上に、イエス様が約束した、真理の御霊であられる聖霊が下ったのです。あのペンテコステの出来事です。
「使徒の働き」2章にその時の出来事が記されてあります。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒2:1-4)

 

この出来事をきっかけに、弟子たちの姿は大きく変化していきました。以前は、自分のことしか考えられないばかりか、イエス様の教えを十分に理解することができず、弱く臆病だった彼らが、聖霊を受けてからは、まるで別人に生まれ変わり、確信をもって大胆に、イエス様がまことの救い主であり、よみがえって今も生きておられることを宣べ伝えるようになりました。
このヨハネとマタイは、イエス様の生涯の記録である福音書を書きました。また、パウロをはじめとした多くの弟子たちが、各地にある教会に手紙を書き送りました。その福音書や手紙をまとめたものが新約聖書です。

 

聖霊が弟子たちにイエス様についてあかししてくださったからこそ、福音が全世界に伝わり、私たちも今のような形で聖書を手にすることできるようになったのです。聖書は「イエスは神が人となってこられたまことの救い主だ」ということを告げる書物であり、聖書がこうしてあること自体が、聖霊の働きを証明するものなのです。
また、聖霊は、私たち一人一人にもイエス様が救い主であることをあかししてくださいます。聖霊の助けによって、私たちは、自分が神様から離れた罪人であるということに気付かされ、イエス様を救い主として信じ、神様の愛と恵みを知り、聖書のことばによって養われ、成長していくことができるのです。

 

Ⅱ.人の証しにまさる神の証し(9)

 

第二のことは、この神の証しは人の証しにまさるということです。9節をご覧ください。「私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。」

ここでヨハネは、もし私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものであると、と言っています。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。つまり、「水」と「血」と「聖霊」の三つのあかしは、神様が私たちに示してくださったあかしだというのです。

 

ヨハネの福音書8章18節で、イエス様は次のように言っておられます。「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」ここには、イエス様ご自身と、父なる神様がイエスは救い主であることを証ししているとあります。

また、先ほど見たように、ヨハネの福音書15章26節には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(ヨハネ15:26)とあります。すなわち、聖霊もイエス様が救い主であることを証しされるのです。ということは、父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神が一致した証言をしておられる、ということです。

これは7節のKJVの訳にも通じますね。三位一体の神がそのことを証ししておられるのです。それは、人間の証しにまさる完全な証しです。神様は、ご自分の中に完全な証を持っておられ、その証しは人間の証言いかんによって変わってしまうようなものではありません。人間の考えや感情に左右されることもありません。永遠に変わらないものなのです。

 

私たちはイエス様を救い主と信じていますが、時々、自分が落ち込んだり、悩んだり、問題に直面しますと、信じていることに疑問を持ったり、聖書の約束が変わってしまうかのような錯覚を持つことがありますが、しかし、神様ご自身の証しがあるのですから、イエス様がまことの救い主であり、私たちの罪を赦し、世の終わりまでいつまでも共にいてくださるということは決して変わりません。私たちの信仰の在り方で、神様の計画が変わるというようなことはないからです。

 

聖書に書かれている通り、神様は、「水」と「血」と「聖霊」によってイエス様が救い主であることを証ししておられます。その証しにどのように応答するかによって、おのずと結果も決まってきます。

 

Ⅲ.神の御子を信じる者(10-13)

 

ですから、第三のことは、その証を受け入れる者は永遠のいのちを持つということです。これが、ヨハネが伝えたかったことです。10節から12節までをご覧ください。10節には、「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。」とあります。

 

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っており、神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。

その証とは何でしょうか。その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 

あなたは、神の証を受け入れて、その証しに基づいてイエスを救い主として信じているでしょうか。それとも、神の証しを信じないで、神を偽り者としているでしょうか。どちらにするのかは、あなたの選択にかかっています。信じない者にならないで、信じる者になってください。なぜなら、神の証しは、人の証しよりもはるかにまさる確かなものだからです。この証しは信頼に値するものなのです。

 

イエス様は、ご自分が復活した後で復活を疑っていたトマスにこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)信じない者にならないで、信じる者になりましょう。信じて、永遠のいのちを持つ者となりましょう。それが、ヨハネがこの手紙を書いた目的だったのです。

私たちは、イエス様がまことの救い主であることを示す神の確かな証を持っているのですから、この神の証しに信頼し、イエス様の十字架によって罪赦され、神様のいのちが与えられているということを確信して、日々信仰に歩みましょう。

士師記5章

士師記5章を学びます。ここにはデボラの賛美の歌が記されてあります。デボラはバラクを励まし、カナンの王ヤビンを滅ぼし、イスラエルに40年間、平和をもたらしました。そのデボラが敵に勝利した時、主に向かってほめ歌を歌いました。

 

Ⅰ.主をほめたたえるデボラ(1-11)

 

まず1節から5節までをご覧ください。

 

1 その日、デボラとアビノアムの子バラクは、こう歌った。

2 「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身を献げるとき、主をほめたたえよ。

3 聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。

4 主よ。あなたがセイルから出て、エドムの野から進んで行かれたとき、大地は揺れ、天も滴り、密雲も水を滴らせました。

5 山々は主の前に流れ去りました。シナイさえもイスラエルの神である主の前に。1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。

 

デボラは、なぜ主を賛美しているのでしょうか。2節には、イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身をささげるとき」とあります。この「かしらたちが先頭に立ち」ということばは、「髪の毛を伸びるままにするとき」という意味の言葉です。これはどういうことかというと、イスラエルのかしらたちがなり振り構わず自ら進んで身をささげて戦ったということです。

あるいは、これは民数記6章にあるナジル人の誓願のことだったのかもしれません。つまり、イスラエルが苦しんでいる状況を悲しみ、主が助けてくれるようにと、主に献身して祈る人々がいたということです。

いずれにせよ、デボラを通して語られた主の御声に、イスラエルの民は自ら進んで戦いに出て行きました。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに出ていきました。デボラは、そのような信仰を与えてくださった主をほめたたえているのです。なぜなら、そのようなところに、主の偉大な御業が現されるからです。

 

4節をご覧ください。イスラエルがキション川で勝利したとき、天候がそれを左右しました。天候を変えたのは主ご自身に他なりません。主は密雲も水も滴らせ、イスラエルに勝利を与えてくださいました。

 

6節から8節までをご覧ください。

6 アナトの子シャムガルの時代、またヤエルの時代に、隊商は絶え、旅人は脇道を通った。

7 農夫は絶えた。イスラエルに絶えた。私デボラが立ち、イスラエルに母として立ったときまで。

8 新しい神々が選ばれたとき、そのとき、戦いは門まで及んでいたが、イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られただろうか。

 

デボラはイスラエルに母として立ちました。その時までイスラエルはカナンの国々にひどく圧迫されていました。アナトの子シャムガルは3章に出て来る士師です。ヤエルは4章に出て来る女性ですが、有名だったのでしょう。彼女は、カナンの王ヤビンの軍の将軍シセラのこめかみに杭を打ち込んで殺しました。その時代はハツォルの王の勢力が強く、安心して商業や農業ができない状態でした。恐ろしくて、主要な道路を歩くことができませんでした。彼らの心はしなえ、盾と槍を取る者もいませんでした。

 

しかし、デボラが立ち、イスラエルに主のことばを語ったとき、イスラエルは立ち上がりました。 10節の、「茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たち」とは、イスラエルのすべての人たちのことを指しています。「茶色の雌ろばに乗る者たち」とはいわゆる金持ちのことです。また、「敷き物の上に座す者たち」とは裁判官たちのことです。第三版では、「さばきの座に座する者」と訳しています。そして、「道を歩く物たち」とは道を歩く一般の人たちのことです。ですから、ここにはすべてのイスラエルの人たちのことが語られているのです。

 

どんなことを語っているのでしょうか。11節には、「水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは主の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、主の民は城門に下って行った。」とあります。平穏な暮らしが戻ってきたということです。そのことをほめたたえています。

 

Ⅱ.共に戦った者たち(12-23)

 

その戦いに出て行った人たちはどのような人たちだったでしょうか。12節から23節までをご覧ください。

12 目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク。捕虜を引いて行け、アビノアムの子よ。

13 そのとき、生き残った者は貴人のように下りて来た。主の民は私のところに勇士のように下りて来た。

14 エフライムからはその根がアマレクにある者が下りて来た。ベニヤミンはあなたの後に続いてあなたの民のうちにいる。マキルからは指導者たちがゼブルンからは指揮を執る者たちが下りて来た。

15 イッサカルの長たちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵たちとともに平地に送られた。ルベンの諸支族の決意は固かった。

16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

17 ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。

18 ゼブルンは、いのちを賭して死をいとわぬ民。野の高い所にいるナフタリも。

19 王たちはやって来て戦った。そのとき、カナンの王たちは戦った。メギドの流れのそばのタアナクで。彼らが銀の分捕り品を取ることはなかった。

20 天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った。

21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。

22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する。

23 主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士たちとともに、主の手助けに来なかったからだ。』 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

 

12節では、デボラとバラクが自分たち自身に目をさませと呼びかけています。そして13節以降には、自分たちとともに戦ったイスラエル部族が列挙されています。それはエフライム、ベニヤミン、マキル、マキルというのはマナセの総称です。そしてゼブルンも参戦しました。イッサカルも同じく戦いました。

 

しかし、ルベンは参戦しませんでした。どうしてでしょうか?彼らは鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたからです。この二つの鞍袋とは何を指しているのかは不明です。創世記49章14節には、イッサカルについて「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」とあり、それはおそらくマナセの二つの領土に挟まれる形で住むことを表していたのではないかと思われますが、そうであれば、このルベンの鞍袋とは何のことでしょうか?おそらくこれは家畜に適した場所のことを指していたのでしょう。ヨルダン川の東側は家畜に適した場所でした。それゆえ、イスラエルがカナンを占領するために出かけて行こうとした時、マナセの半部族とガド族は行こうとしませんでした。彼らは多くの家畜を有していたので、ぜひともその地を相続したかったからです。ルベン族も同じくヨルダン川の東側で、家畜に適した場所だったので、彼らは戦いに行くことを嫌ったのでしょう。

しかし、イスラエルが大勝利を収めたという知らせを聞いて、彼らはひどい良心のとがめを感じました。深く後悔したのです。

 

それはギルアデも同じでした。ギルアデは、ヨルダン川東岸のガドやマナセの一部ですが、彼らも参戦しませんでした。同じ理由からでしょう。ダンは自分の水産業の仕事をしていたので、戦いに行くのは煩わしいと思ったようです。アシェルも同様です。

 

しかし、ゼブルンとナフタリは、いのちを賭して戦いました。いのちを賭してとは、いのちをかけてという意味です。彼らはいのちをかけて戦いました。この違いは何でしょうか。

パウロは、テモテに対してこのように書き送りました。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)」同じ思いは、自分ではなくキリストを求めるところから出ます。主に用いられる人は自分の利益よりも、他者のことを、神のことを考えるのです。

 

彼らはどのように戦ったのでしょうか。19節からのところをご覧ください。20節の「天から、もろもろの星が下って来て戦った。」というのは、天使のことではないかと思われます。聖書には天使のことを指して「星」と表現しているところが多くあります。ですから、ここは主が何千、何万という天使の軍勢を遣わして、シセラと戦ったということを意味しているものと思われます。

22節の「馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する」というのは、敵の戦車が全く使いものにならず、敗走する様を表しています。

つまり、イスラエルはこの勝利に、精鋭部隊も、最新装備も持ちえなかったということです。まさに神の介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのです。

 

23節では、「メロズをのろえ」とあります。メロズの町の位置は不明です。「メロズをのろえ」とあるのは、この町の住民が主の手助けに来なかったからです。

ヨーロッパには、この記事についての有名な絵があります。ある安全な山上近くに、メロズの町があり、谷底では神の戦いが行われているのです。その間中、神がイスラエルを助けられますが、メロズの人々は、その城壁を頼みに、これをはるかに見下ろしている。
それはまるで、劇場にいるかのように、神の戦いを遊び半分に、怠惰な気持ちで傍観しているのであり、その戦いぶりについて、愉快そうに語り合い、主のためには指一本動かそうとはしないのです。ですから、神の使いは、深く怒り、呪いの言葉すら口にしたのです。「メロズを呪え、その住民を激しく呪え」!

これはどんなことを意味しているのかというと、この世で人々のたましいを救うための戦いへ参与するようにということです。神は、かつてイスラエルの民にそうされたように、わたしたちの敵と抑圧者に対抗して、その戦いを導かれておられます。人間を閉じ込めている罪や悲しみ、運命や死に、神の子は、自ら挑まれました。神は、わたしたち人間が、もはや古きものに留まることがないようにされたのです。イエス・キリストが、「神の国は近づいた」と宣言されたとき、それはまさに、神様による公式の宣戦布告であったのです。その戦いに私たちも招かれているのであって、それをただ傍観していてはならないのです。

 

Ⅲ.ケニ人ヘベルの妻ヤエル(24-31)

 

その中でも主から大いに祝福されたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルです。24節から31節までに、彼女に対する祝福が語られています。

24女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。

25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。

26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。

27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。

28 窓から見下ろして、シセラの母は格子窓から見下ろして嘆いた。『なぜ、あれの車が来るのは遅れているのか。なぜ、あれの戦車の動きは鈍いのか。』

29 知恵のある女官たちは彼女に答え、彼女も同じことばを繰り返した。

30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。勇士それぞれには一人か二人の娘を、シセラには染め織物を分捕り物として。分捕り物として、刺?した染め織物を、刺?した染め織物二枚を首に、分捕り物として。』

31 このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」こうして、国は四十年の間、穏やかであった。

 

天幕を作るのは、当時、女性の仕事でした。それで彼女は槌をかざし、シセラのこめかみに杭を打ちつけて彼を殺しました。とはいえ、 失敗したら自分のいのちが危ないことは重々知っていたはずです。だから相当恐れがあったはずです。それなのに、彼女の行動からはそのような恐れは微塵も感じられません。彼女は、主のみこころを確信していたので、信仰によって行動することかできたのです。それで彼女は、主から誉れを受けました。

 

28節から30節までは、シセラの母親の嘆きです。シセラがなかなか戻らないのをどうしているかと心配しているシセラの母を、女たちが励ましているのです。

 

31節は、デボラの告白の祈りです。「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」すばらしい励ましです。主を愛する人が輝き、敵は滅びるようにと祈っています。一般的に主を愛する者が輝くようにと祈ることはできても、敵が滅びるようにとまではなかなか祈れません。しかし、デボラは「あなたの敵がみな滅びるように」と大胆に祈りました。

 

ダビデは、詩篇68篇1節から3節までのところで、「1 神は立ち上がりその敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。:2 煙が追い払われるように追い払ってください。ろうが火の前で溶け去るように悪しき者が神の御前から滅び失せますように。3 しかし正しい者たちは小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ。」と祈っています。

また、パウロも、「主を愛さない者はみなのろわれよ。主よ、来てください。(Ⅰコリント16:22)」と言っています。

 

イスラエルの民は常に、外敵と外圧にさらされ、その中で、いつも信仰を持って、主の民として戦うように召しだされていました。その召しに、信仰を持って応える者もあれば、そうでない民もいました。それは今日も同じです。主の招きがあり、それに応じることなくして、主の与えられる勝利を味わうことはできません。主の招きに応じることがなければ、主の御業を見ることも、信仰それ自体も強くされることもないのです。主を愛し、主に応じて初めて闇が過ぎ去り、光が力強く差し出ることになるということを覚え、信仰をもって神の召しに応答していきたいものです。

そのようにしてこそ、イスラエルは四十年間、穏やかであったように、私たちも主の勝利のゆえに、穏やかであることができるのです。

ヨハネの手紙第一5章1~5節「信仰は勝利」

ヨハネの手紙第一から学んでおります。きょうは最後の5章の最初の部分から「信仰は勝利」という題でお話ししたいと思います。ヨハネの手紙を読んでいくと、大切な信仰の告白が二つ出てくるのがわかります。一つはイエスが神の御子であり、救い主であるということ(2:22、3:23)、もう一つは、そのイエスが人となって来られた(4:2)ということです。

 

ヨハネがこの手紙を書き記した当時、偽りの教師たちがいて、このイエス様に対する信仰の告白を真っ向から否定しました。しかし、もしこの告白を否定するなら信仰の土台が破壊されることになり、教会はいのちを失ってしまうことになります。そして、クリスチャン一人一人の信仰も揺らいでしまいます。

 

イエス様はピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時、弟子たちに、「人々は人の子をだれだと言っているか」と尋ねました。すると弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もいます。また、ほかの人たちはエレミヤだとか、預言者のひとりだとか言っています。」と答えると、イエス様は弟子たちに、「ではあなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と質問しました。

すると、ペテロは「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。すると、イエス様はペテロにこう言いました。とても重要なことばです。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。」(マタイ16:17-18)

 

イエス様は、「この岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われました。この「岩」とは何でしょうか。この「岩」とはペテロのことではなく、ペテロが発した信仰の告白のことです。ペテロが告白した信仰の内容とは、「人の子として来てくださったイエス様は生ける神の御子であり、救い主です」という告白でした。この告白の上に教会を建てると言われたのです。そして、この告白の上に建てられた教会は、よみの門も打ち勝つことができないほど揺るぎないものなのだ、と宣言されたのです。

ですから、このイエス様に対する信仰の告白は非常に重要です。きょうはこの信仰による勝利についてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.神から生まれた者(1)

 

まず第一に、イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれた者であるというヨハネのことばを見たいと思います。1節をご覧ください。

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。」

 

イエスがキリストであると信じる者とはだれのことでしょうか。そうです、それは私たちクリスチャンのことです。クリスチャンはみな神から生まれました。それは血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってではなく、ただ、神によって生まれたのです。

 

ヨハネの福音書3章に、ニコデモという人の話があります。ニコデモは、厳格なユダヤ教徒でユダヤ人の指導者でした。サンヘドリンと呼ばれていたユダヤの最高議会のメンバーであり、教師でした。そんな彼がある夜、人目を避けて、こっそりとイエス様のもとにやって来ました。なぜなら、彼にはどうしてもわからないことがあったからです。それは、どうしたら神の国を見ることができるかということでした。彼は、旧約聖書の教えにも精通しており、自分の出来る範囲で模範的な生活を送っていましたが、どうしてもそのことがわからりませんでした。。そこで、思い切ってイエス様のもとにやって来たのです。
イエス様は、そんなニコデモにはっきりと言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
しかし、ニコデモは、この「新しく生まれる」ということがどういうことなのか理解できませんでした。そして、「自分のような年寄りが、どうやって新しく生まれることができると言うのですか。もう一度、母の胎内に戻って生まれ直すということですか。」と答えました。
でも、イエス様が言われた「新しく生まれる」というのは、肉体が生まれ変わるということではありまません。この「新しく生まれる」という言葉は、「上から生まれる」とも訳すことができますが、「上から生まれる」とは、神様によって人の内側、つまり霊の部分が新しく生まれることを意味していました。人は神の命令に背いたことで罪を犯したことで心の奥底にある霊の部分が神様から離れて死んでしまったので、その霊が神様のいのちを受けて新しく生まれる必要があるというのです。それは、人の努力や頑張りによって出来ることではありません。神様の力が必要です。「救いとは上から差し伸ばされた手である」と言った方がいますが、神様が上から差し伸ばしてくださった手によって、人は新しく生まれ、神様との関係を回復することができるのです。
イエス様は、ニコデモに言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:13-15)これはどういうことかというと、天から下って人となってくださったイエス様が、これから人々の救いのために十字架にかかってくださるので、そのイエス様を信じるならば、永遠のいのちを持ち、新しく生まれて神の国に属する者になれる、ということです。
つまり、イエス様は、ニコデモに「あなたは立派な生活をしてきたが、それによって神の国に入ることはできない。わたしを信じて神様から永遠のいのちを受け取ることによって、新しく生まれるのだ」と言われたわけです。
それは赤ちゃんが生まれるときのようです。赤ちゃんは自分の力や努力によって生まれてくるわけではありません。それと同じように、私たちも自分の努力や頑張りによってではなく、ただ神様によって新しく生まれることができるのです。

 

ですから、私たちの努力や功績は、救いとはまったく関係ありません。もし、人間の努力や功績などで救いを得ることができるなら、その救いは限られた一部の人たちだけのものとなるでしょう。それに、人の力で獲得できる程度の救いは、相当安っぽいものです。しかし、神様が与えてくださる救いは、神様のひとり子イエス・キリストのいのちと引き替えにしたほどに高価で尊いものです。あまりにも高価なので私たちが代価を支払うことなど到底できません。その高価な贈り物を神様は私たちに無償で差し出してくださいました。神様は、それほどまでに私たちを愛してくださったのです。

 

私たちは、その差し出された贈り物に対してどういう態度を取ったらいいのでしょうか。その贈り物に対して、ただ「ありがとうございます」と感謝して受け取ることを神様は願っておられます。それが神から生まれた者です。「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」、つまり、イエス様がキリストであると信じるだけで、神によって生まれることができるのです。それが福音の素晴らしさです。

 

そして、そのように神から生まれた者は、同じように神から生まれた者を愛します。1節の後半をご覧ください。ここには、「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者を愛します。」とあります。

「生んでくださった方」とはもちろん神のことです。そして「その方から生まれた者」とはクリスチャンのことを指しています。この「その方から生まれた者」という言葉が単数形であることから、ある人たちは、これはイエス様のことを指しているのではないかと考えていますが、前後の文脈から考えると、これは神から生まれた者たち、すなわち、クリスチャンのことであると言えます。神から生まれた者は自分を生んでくださった方を愛し、またその方から生まれた者をも愛するようになるのです。父親を愛する者が、その子どもである兄弟姉妹を愛するのは当然のことです。この人間の社会に見られる原則は、霊的な世界においても「然り」であると言うことが言えるのです。

 

Ⅱ.神の命令は重荷とはならない(2-3)

 

では、どのようにしたら兄弟を愛することができるのでしょうか。次に2節と3節をご覧ください。ここには、「このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」とあります。神を愛することと、神の命令を守ることは切り離すことができません。というのは、神を愛することは、神の命令を守ることだからです。

 

イエス様はヨハネの福音書15章9節~12節でこう言われました。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

「あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあるように、神を愛するとは、神の戒めにとどまることであり、神の戒めを守ることなのです。その神の戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

 

このように、クリスチャンが互いに愛し合うというのは、クリスチャンが神を愛し、その命令を守ることの表れであって、単なる人間的な感情によるものではないということがわかります。このことをよく理解していないと、教会の中でもこの世の一般社会と同じような人間的な親しさや、家族的な甘え、気心の知れた人々との楽しいおしゃべり、傷のなめ合いといった閉鎖的なものになってしまいます。しかし、聖書が言っているクリスチャン同士の愛とは、いつでも神を愛しその命令を守るという神を中心としたものがその土台にあるということを忘れてはなりません。このことが土台になって初めて本物の愛となるのです。

 

ですから、3節にはこうあるのです。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」神の命令を守ること、それが神を愛することです。

神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。3章23節にそのことがはっきりと語られています。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」これが神の命令です。

神の命令とは、私たちがイエス・キリストの名を信じて、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。神を愛すると言いながら兄弟を憎むということはありません。もしそういうことがあるとしたら、その人は偽り者となってしまいます。なぜなら、兄弟を愛することが神の命令だからです。それなのに、兄弟を愛さないとしたら、神を愛していないし、神の命令をも守っていないことになります。

 

神を愛する者は、その命令に喜んで聞き従います。それは重荷とはなりません。「しょうがないな、やりたくないし、面倒くさいけど、命令だからやらなければならなくちゃいけない」とか、「悪いのは相手であって相手が折れるべきであって、自分から頭を下げるなんてもってのほかだ」というのではなく、喜んでその命令に従うのです。

 

それはちょうど結婚したばかりの夫婦のようです。結婚したばかりの夫婦はそうでしょう。お互いに喜んで従ったはずです。「こうしてほしい」と言われたら、「はい、わかりました。喜んでやりますよ」と言っていたのに、あれから40年、あの新婚当初のフレッシュな気持ちはどこかへ行ってしまったのでしょうか。「自分でやってよ」となってしまいました。「自分のことは自分でやって、人に迷惑かけないでほしい・・・」とかと言うようになってしまいました。

 

しかし、神を愛するなら、神の命令は重荷とはなりません。この「重荷」と訳された言葉は「重い」という言葉から出たもので、「難しい、実行困難」という意味です。「御子イエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合いなさい」という神様の命令は、重くありません。難しくないし、実行できないことではありません。なぜなら、まずイエス様が私を愛してくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。この愛を知りました。だから私たちは互いに愛し合うことができるのです。

 

もちろん、まだ完全にされているわけではありませんから、愛せないと思うこともあるでしょう。苦手だという人もいるかもしれません。しかし、イエス様のように愛せる者へと変えられているのです。私たちの内に住む聖霊がその愛を育ててくださっています。その御業に期待したいと思います。そして、今、自分にできる範囲で愛を示していこうではありませんか。人と比べて自分をさばいたり、他人をさばいたりする必要はありません。人に見せるために何かをするわけでもありません。ただ自分に関わりのある人々の最善を願い、自分なりの方法で神様の愛に応えていくのです。ですから、互いに愛することは、決して実行困難ではないのです。神の命令は重荷とはならないのです。

 

Ⅲ.世に勝つ者(4-5)

 

どうしたら神の命令は重荷とはならないのでしょうか?4節と5節にもう一つの理由が記されてあります。

「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 

神の命令を守ることが重荷とならないもう一つの理由は、神から生まれた者は世に勝つからです。世とは何でしょうか。ここにある「世」とは神に反抗する、いっさいのこの世の勢力のことです。あるいは、イエス・キリストを否定する偽りの教師たちとその教えのことであるとも言えます。また、「世」には、「神様抜きの秩序」という意味がありますから、私たちを神様から引き離そうとする様々な働きを指しているといってもいいでしょう。この世はあらゆる面からクリスチャンを攻撃してきます。それは強大であり、強力ですから、そうしたこの世の様々な攻撃に翻弄されたり、不安や心配に悩まされることもあります。しかし、この世の力がどんなに強くても、神から生まれた者はみな、世に打ち勝つのです。それは私たちに力があるからではありません。そうではなく、イエスをキリストと信じる者には、神の聖霊が与えられているからです。聖霊が与えられているということは、父なる神様、子なるイエス様も共にいてくださるということです。それは、「わたしはあなたを離れず決してあなたを捨てない」という約束の成就でもあります。神様がいつも私たちと共にいてくださるので、私たちは、この神の力によって勝利することができるのです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙8章37~-39節のところで、このように言っています。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

私たちを神様の愛から引き離そうとするいろいろな力が襲ってきます。しかし、私たちは私たちを愛してくださる神様によって、これらすべてのものの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。

 

今、山中さんが闘病中にありますが、皆さんで寄せ書きをすることになりました。私たちの祈りを何らかの形らしたいということで、色紙を用意しました。その真中には先生が書いてくださいとハートの形のシールを渡されたので、何を書こうかと考えましたが、自分の言葉よりも聖書の言葉の方が励ましになると思い、この言葉が与えられました。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

山中さんは決してひとりではありません。主がともにいてくださいます。これほど力強い約束はないでしょう。

それは山中さんだけではありません。私たちクリスチャンのすべて、イエスがキリストであると信じる者、神によって生まれた者はみな、同じ約束が与えられているのです。

 

この信仰こそ勝利のかぎです。この信仰が私たちをキリストに結びつけ、キリストから勝利する力を受け取らせてくれます。イエス様が十字架でその勝利を獲得してくださいました。私たちはこのイエスこそ神の御子、救い主と信じる信仰によってイエス様に結びついて一つとなり、この世に勝利することができるのです。

 

私たちには日々戦いがあります。私たちの内には肉の思いや欲との戦いがあり、外にはこの世で生きる上での思い煩いや不安、恐れ、プレッシャー、また病気との戦いなど、実に多くの戦いがあります。しかし、イエス様がすでに勝利してくださいました。私たちはこのイエスを神の御子、キリスト(救い主)と告白することによって、そうした戦いに勝利することができるのです。

 

イエス様はこう言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

 

皆さん、イエス様はすでに世に勝利されました。このイエス様があなたとともにおられます。あなたがこのイエスをキリストであると信じることによって、イエスを神の御子と信じることによって、あなたも勝利者となるのです。だったらどうして下ばかり見ているのでしょうか。どうしてまるで敗残兵のように落ち込んでいるのでしょうか。あなたは神から生まれた者です。だったらあなたは世に勝つことができるのです。イエスを神の御子と信じる者に敗北者は一人もいません。イエスをキリストと信じる信仰によって、イエスを神の御子と信じる信仰によって、本当に弱い私たちですが、イエス様によって勝利することができるのです。イエスがキリストであると告白して、それぞれの置かれたところで力強く歩ませていただきましょう。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利なのです。

士師記4章

士師記4章を学びます。まず1節から9節までをご覧ください。まず1節から5節までをお読みします。

 

Ⅰ.女預言者デボラ(1-5)

 

1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。

2 【主】は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの軍の長はシセラで、ハロシェテ・ハ・ゴイムに住んでいた。

3 すると、イスラエルの子らは【主】に叫び求めた。ヤビンには鉄の戦車が九百台あり、そのうえ二十年の間、イスラエルの子らをひどく圧迫したからである。

4 ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。

5 彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た。

 

前回3章で、三人の士師たちについて学びました。オテニエル、エフタ、シャムガルです。この三人にはそれぞれ特徴がありました。オテニエルは勇士で、主の霊が彼の上に臨み、力強い戦いをしたので、彼はアラムの王クシャン・リシュアタイムを抑え、40年間イスラエルを穏やかに治めました。

そしてエフタは左利きであることが強調されていました。彼はそうした人と異なる点を有効に用いてモアブの王エグロンを打ち破り、イスラエルに平穏をもたらしました。

それからもう一人はシャムガルです。彼は牛を追う棒でペリシテ人六百人を撃ち殺しました。牛を追う棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒でしたね。そうです、シャムガルは普段農作業をしていた普通の人でしたが、主はそのような人をも用いられたのです。

今回の箇所にはデボラという人が登場します。この人の特徴は何かというと、女性であったということです。主はイスラエルの解放のために女性も用いられました。

 

1節を見ると、イスラエルの子らは、主の目の前に悪であることを重ねて行ったとあります。エフデは死んでいました。エフデは自分に与えられた利点を用いてモアブの王エグロンを打ち破り、八十年もの間イスラエルに平和をもたらしましたが、そのエフタが死ぬとイスラエルはおのおの自分勝手なことをして、主の目の前に悪を行うようになったのです。

 

すると主は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手にイスラエルを売り渡されました。ヤビンの軍の長はシセラという人でしたが、彼はイスラエルの子らをひどく圧迫しました。ヤビンには鉄の戦車が九百台もあったので、イスラエルは彼らの前に何の成す術もなかったのです。それでイスラエルはどうしたかというと、主に叫び求めました。人は苦しくなると主に叫び求めるようになります。そうでないと主を振り向くこともしないのに、しかし苦しくなると主に助けを求めて叫ぶようになるのです。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)と言われましたが、まさに心が貧しくされるような時、人は神に救いを求めやすくなるのです。そういう意味では、イスラエルが敵に圧迫されるという経験は、彼らが主に向くチャンスの時でもあったと言えます。

 

すると主はひとりの士師を彼らのもとに送りました。誰ですか?デボラです。4節を見ると、「ラピトデの妻で女預言者デボラが、そのころイスラエルをさばいていた。」とあります。彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるなつめ椰子の木の下に座しており、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来ていたのです。デボラの特徴は何かというと、女性であったということです。女預言者です。このように聖書にはしばしば女預言者が登場します。たとえば、モーセの姉ミリヤムは預言者でした。また、Ⅱ列王記22章14節には、女預言者でフルダという人が登場しています。彼女は、ヨシヤが南ユダの王であったとき、預言を行なっていました。そしてイエス様がお生まれになったとき、エルサレムにはアンナという女預言者がいました(ルカ2:36)。それから使徒の働き21章10節には、伝道者ピリポには四人の娘がいたことが記されてありますが、彼女たちは預言をしていました。そしてコリント第一11章6節には、女が預言をしたり祈るとき、と書かれてあります。

このように女性も神のみことばを語るために用いられていたことがわかります。ですから、女性はいっさい神のみことばを教えてはならないというのは誤った教えです。女性も主の働きに用いられるのです。しかしながら、聖書にはそこには神の秩序があることが教えられています。1コリント11章3節から11節までを開いてください。

3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。

5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。

6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。

8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。

9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。

11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

ここには、すべての女のかしらは男であり、男のかしらはキリストであり、キリストのかしらは神です、とあります。これが神の秩序です。男性が女性よりも偉いとか、能力があるということではありません。多くの場合男性よりも女性の方が能力が高い場合があります。特に霊的な面においてはそうです。しかしだからといって女性が勝手に預言してもよいのかというとそうではなく、そこには男性の権威があるということをわきまえなければなりません。このことが女預言者デボラにも見られます。彼女はバラクが戦いに出るように彼を励ましていることがわかります。そのために用いられているのです。自分がかしらとなるのではなく、そのかしらを手助けする働きに徹しているのです。彼女はどのようにバラクを励ましたでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

6 あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。

7 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」

8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」

9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。【主】は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。

 

デボラは人を遣わしてバラクを呼び寄せると、彼に、「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」と言いました。ここでデボラは、「主はこう仰せられる」と言わず、「命じられたではありませんか」とバラクに念を押しています。なぜなら、おそらくバラクにも同じような主のことばがあったからです。しかし、バラクはなかなかその重い腰をあげませんでした。そこでデボラは「主はこう命じられたではありませんか」と言って彼を励まし、それを行なうようにと勧めているのです。これは女性ならではのいい方ではないでしょうか。男性だったら、「ダメじゃないか。主はこう言っておられるのにどうしてやらないんだ」と言うでしょう。そうするとそれを受けた人はもうやる気を失せてしまいます。しかし、デボラのように「こう言われたではありませんか」と優しく念を押した上で、だからこうするようにと主はお語りになっておられますよ、と言われると、「そうか、じゃ行くとしようか」となります。

8節を見ると案の定バラクは彼女にこう言っています。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」デボラが一緒に行ってくれるのなら大丈夫だという確信を得ているのです。それほどデボラに励まされているのです。言い換えるなら、バラクはデボラの手のひらの上で転がされていたのです。デボラは男性の扱いをよく心得ていたのですね。

 

そのようにせがむバラクに対してデボラは、「私は必ずあなたと一緒に行きます。」と約束しました。「ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。」どういうことでしょうか。

確かにバラクはデボラに励まされて戦いに出て行きますが、彼が信頼していたのは主ではなくデボラであったということです。ですからここで一つの条件を付けているのです。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。」主が彼に求めていたことはこうした条件を付けることではなく、絶対的に従うことでした。神の国とその義とをまず第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、すべてのものは備えられるからです。それなのに彼は神ではなくデボラを求めました。それゆえに、彼は誉れを受けることはできなかったのです。

 

私たちも神さまに呼ばれるとき、必要な物や必要な人がいます。けれども、その必要が満たされなければ神の命令に従わないというのは神のみこころではありません。主が私たちを呼ばれるとき、無条件で従うことが求められます。必要な物がなくても、必要な人がいなくても、主が「こうしたなさい」と言われるのなら、無条件でそれに従っていかなければならないのです。そうすれば、それに加えてすべてのものが備えられるのです。

 

Ⅱ.主の御業(10-16)

 

その結果どうなったでしょうか。次に、10節から16節までをご覧ください。

10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

11 ケニ人ヘベルは、モーセのしゅうとホバブの子孫のケニ人たちから離れて、ケデシュに近いツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。

12 一方シセラに、アビノアムの子バラクがタボル山に登ったと知らされた。

13 シセラは自分の戦車すべて、すなわち鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をみな、ハロシェテ・ハ・ゴイムからキション川に呼び集めた。

14 デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、【主】があなたの手にシセラを渡される。【主】があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」そこで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼の後に従った。

15 【主】は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた。

16 それでバラクは、戦車と陣営をハロシェテ・ハ・ゴイムまで追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいなかった。

 

バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上って行きました。もちろん、デボラも一緒です。するとシセラは自分の戦車のすべて、すなわちあの鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をキション川に呼び集めました。

するとデボラはバラクに言いました。「立ち上がりなさい。今日、【主】があなたの手にシセラを渡される。【主】があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」ここでも彼女は、「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか」と言って主のみことばを語って励ましています。本当に励ましの人です。

それで、バラクはタボル山から下り、一万人の兵とともに出て行くと、何と主がシセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を混乱させたので、敵はみな剣の刃に倒れ、残された兵は一人もいませんでした。シセラも戦車から飛び降り、自らの足で逃げ去りました。

 

強大な戦力であったはずの戦車がかえって戦いの邪魔になってしまいました。主が混乱させたからです。主はその強さを逆に弱さにされました。逆に、主は弱さを強さに変えてくださいます。私たちは時々不利な状況を見て戦うことができないと思うことがありますが、主はそれを強さに変えてくださいます。こんな田舎で伝道してどれだけのことができるかわかりません。しかし、主はそれを利点に変えてくださいます。主がともにいてくださるなら、どのような状況も最善なのです。主は宣教のことばの愚かさを通して、そこから救われる人を起こしてくださるからです。

 

Ⅲ.ヤエルの鉄の杭(17-24)

 

最後にその結末を見たいと思います。17節から24節までをご覧ください。

17 しかし、シセラは自らの足でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げた。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからである。

18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人様。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼を布でおおった。

19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてくれ。喉が渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋を開けて彼に飲ませ、また彼をおおった。

20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入り口に立っていてくれ。もしだれかが来て、ここにだれかいないかと尋ねたら、いないと言うように。」

21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の杭を取ると、槌を手にしてそっと彼に近づき、そのこめかみに杭を打ち込んで地に突き刺した。彼は疲れて熟睡していたのである。こうして彼は死んだ。

22 ちょうどそのとき、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て言った。「おいでください。あなたが捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに行くと、なんと、シセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには杭が刺さっていた。

23 こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させた。

24 イスラエル人の勢力は、カナンの王ヤビンに対してますます強くなり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

 

シセラの兵はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいませんでしたが、シセラだけは戦車から飛び降りて、自らの足で逃げました。彼が逃げたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕でした。

ケニ人というのは11節にあるようにモーセの義兄弟の子孫です。モーセはエジプトを逃れてミデアンの荒野へ行き、そこでチッポラ(ツィポラ)という女性と結婚しました。その兄弟がホパブです。そしてその子孫がケニ人です。ヘベルは、ケニ人から離れて、ケデシュに誓ツァフアニムの樫の木のそばで天幕を張っていたのですが、シセラはそこへ逃げ込んだのです。それはハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからです。シセラがヤエルの家に逃れると、彼を布でおおい、水を飲ませました。そして彼がヤエルに「天幕に立ってくれ・・」と言うと、彼女は天幕の杭を取って、彼のこみかめに打ち込み、地に突き刺しました。彼は疲れて熟睡していたのです。こうしてシセラは死にました。こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させました。

 

こうしてデボラの言ったあの預言が成就しました。つまり、「あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」とバラクに言ったあの預言です。カナンの王ヤビンの将軍シセラと戦ったのはバラクでしたが、誉れを受けたのはヘベルの妻ヤエルでした。彼女は天幕の杭でシセラを地に突き刺しました。当時天幕を張るのは女性の仕事でした。ですから鉄の杭も槌(つち)もいつも使っているものだったのです。シャムガルと同じですね、普段使っているもので戦っています。台所で調理しているような普通の主婦が、あの強靭なシセラを倒すために用いられたのです。このように神はご自身の働きのために女預言者デボラばかりでなく普通の主婦も用いられました。か細い女性であっても主の御手の中にあることによって、主はご自身のために用いてくださるとのです。そのことを覚えて、私たちもいつもへりくだって主に主に仕えて行きたいと思います。

 

 

ヨハネの手紙第一4章7~21節「ここに愛がある」

きょうは「ここに愛がある」というタイトルでお話しします。ヨハネは偽りの教師たちが間違った教えを教会の中に持ち込み教会が混乱する中、そうした教えに惑わされることがないようにこの手紙を書きました。そのために必要なことは何でしょうか。それは、神がどのような方であるのかを知ることです。そこで彼は1章と2章で神は光であると述べました。ですから、神のうちにとどまっている人は、神が光であられるように光の中を歩まなければなりません。3章と4章のテーマは愛です。神は愛です。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょうか。その愛を考えなければなりません。

 

きょうの箇所は、その続きです。16節にははっきりと「神は愛です」(16)とあります。神は愛を持っている方であるとか、愛なる方であるというのではなく、愛そのものだというのです。その神を信じた人はどうあるべきでしょうか。当然その愛に生きるべきです。11節には、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」とあります。きょうはこの「神の愛」について三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.ここに愛がある(7-10)

 

まず7節から10節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。なぜなら、神は愛だからです。」

 

ヨハネはここで再び互いに愛し合うことを勧めています。なぜ私たちは互いに愛し合うのでしょうか?3章11節には、それは私たちが初めから聞いている教えであり、それによって私たちが神から生まれた者であることがわかるからだとありましたが、ここには別の理由が上げられています。それは、愛は神から出ているからです。愛はどこから出ているのでしょうか。それは人の心の中からでも、この世の何かからでもなく、神からです。したがって愛がある者はみな神から生まれ、神を知っていますが、愛のない者には神がわかりません。なぜなら、「神は愛だからです。」神は愛です。愛そのものなのです。ですから、この神を知っているならば当然互いに愛し合うはずですし、知らなければ愛し合うことはできません。私たちが兄弟を愛するのはこの神の愛の性質のゆえであり、その結果なのです。

 

では神はこの愛をどのように示されたのでしょうか。9節と10節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

皆さん、愛はどこにあるのでしょうか?聖書は「ここある」と言っています。神がそのひとり子を遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。そのことの中にあるというのです。この「神はそのひとり子を世に遣わし」というのは、神の御子が人となって来てくださったことを意味しています。神の御子が人となって来られ、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださいました。その事実のことです。それは、私たちがこの方を信じていのちを得るためでした。同じヨハネが書いた福音書には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とあります。

 

私たちが神を愛したのではありません。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」この「宥めの供え物」についてはすでに2章2節で説明しましたが、罪に対する神の怒りを宥めるものという意味で、つまり、キリストの十字架のことを表しています。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、全世界の罪のための宥めのささげ物です。」(2:2)

キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくれました。イエス・キリストが十字架にかかってくれたことで、私たちの罪に対する神のすさまじい怒りが完全になだめられたのです。それはイエス・キリストが神の怒りを宥めるために、神が要求するすべてのものを満たすものであったということです。それゆえ、このキリストの十字架の死によって、私たちの罪はすべて赦されました。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいました。」(Ⅰヨハネ1:7)もう愛を求めて探し求めて走り回る必要はありません。ここに愛があるからです。

 

私の知っている方に薬学を極めた方がおられまして、その方はWHOでも働いたという経歴をお持ちの方ですが、長年難病の治療薬の研究に携わり、世界中を巡回して薬草と言われるものを求めて、薬の原料になりそうなものを捜し回ったそうです。しかしそれはなかなか大変で当たり外れが大きい仕事であったようです。薬は人間にとって必要なものですが、それを見出すのは簡単なことではありません。しかし、「愛」を求めて捜し回る必要はありません。愛はここにあるからです。ここにしかありません。それは既に神がしてくださり、私たちがいつでも受け取ることができる十字架の事実の中にあるのです。

 

先ほど、チルドレンズタイムのお話しの中で紹介されたショーンは、ほんとうの愛を探し求めました。愛し合うはずの両親がどうしていつも言い争ったり、けんかばかりするのか、そして離婚することを決意した両親に仲良くなってもらいたいと、ほんとの愛探しが始まりました。もしほんとうの愛を見つけることができたら、両親を助けてあげる事ができると思ったのです。

どこを探したら良いのか、と思いました。彼のクラスの先生は、答えは辞書の中にあると言っていたから、きっとその中に答えがあるはずだと、翌日教室の大きな辞書を開きましたが、そこにはこう書かれてありました。「愛とは、あるものに引き付けられ、それを慕い、あるいは慈しみ、可愛がる気持ち」全く意味不明です。ショーンはため息をつきました。どうしたらその愛を手に入れることができるのか、辞書はその答えを教えてくれませんでした。余計に分からないことが増えただけでした。

それで彼は別のところを探さなければなりませんでした。どこを探したら良いだろう。そうだ、以前パパがママに愛してるって伝える時には、カードのお店に行って「愛してます」というカードを買っていたから、そこに行けば答えが見つかるかもしれないと思いました。

それで彼は赤い自転車を走らせて、近くのカードのお店に行きました。「すみません」とショーンはお店の人に言いました。「本当の愛を教えてくれる特別なカードが欲しいんです。」するとお店の人はにっこりと笑って「こちらが一番素晴らしいカードになっています。お探しのものが見つかればいいのですけれど。」と案内してくれました。ショーンはその中から何枚かのカードを読んでみました。その中の一枚にはこんな風に書いてありました。「愛は一日を一緒に過ごすこと。」なるほど、パパとママはずっと一緒に過ごしてはきたけれど、していた事はけんかばかりだな。今では、家族として一緒に住んでさえいない。別のカードにはこうありました。「愛はごめんなさい、ということ。」ショーンはこれがパパたちに必要な事だと思いました。「ごめんなさい」と言って仲直りしないと。

しかし、彼は自分に必要な答えのカードを見つけることができませんでした。でもあきらめないぞと彼は思いました。両親のためにほんとうの愛をみつけなければならないと思いました。

次の日、学校に行く途中で友達のタイソンが近寄って来て言いました。「なんだか元気がないようだけれど、どうしんだい?君を元気づけるためにぼくにできることないかい?」

「ないと思うよ、元気になれる方法は一つしかないんだ。本当の愛は何か、どうやったらそれを手に入れることができるかってことだから。」

するとタイソンは大きな笑みを浮かべて言いました。「それなら僕、助けられると思うよ。」

「助けられる?どうやって?」

「僕と一緒にグッドニュースクラブに行こうよ。先週ネルソン先生が、今日のバレンタイン・パーティーで今まで聞いたこともないようなすばらしい愛のお話しをしてくれるって言ってた。本当の話なんだって。」

それで、ショーンは急いでパーティーに行くと、先生が言うことを一言も逃さないように、一番前の席に座りました。

するとネルソン先生は、本当の愛のお話しは神様の本、聖書の中に書いてありますと言って、イエス様のお話しをしました。イエス様は神の御子で、神様はこのイエス様を特別な目的のために天国からこの世に送ってくださったということ、そして、その目的とは私たちが罪の罰を受けることがないように身代わりとなって十字架で死んでくださるということでした。ショーンは、みんなが幸せになる愛のお話しだというので来たのに、死ぬだなんて悲しくなっちゃうと思いましたが、それは私たちが死ぬことがないためであったと言うことを知り、イエス様がどんなに自分の事を愛してくださったかが、分かってきました。そして、自分のためにイエス様が死んで、よみがえってくださったことを感謝し、イエス様に救い主となってくださるようにお願いしました。ショーンは、本当の愛とそれがどこから来るのかが分かってとてもうれしくなりました。

そして、急いで家に帰ってそのことをママにお話しすると、その午後ママもイエス様を信じて受け入れたのです。そしてその週の週末に自分を迎えに来たお父さんにそのことを話すと、お父さんは、残念ながら、「ショーン、悪いけどお父さんは神様やお前が話している愛について興味がないんだよ。」と言って拒絶しました。お父さんが受け入れてくれなかったことは残念でしたが、彼は、いつかお父さんも神様からの特別な贈り物を受け取ることができるようにと祈り、本当の愛がどこから来るのかを見つけることができたことを感謝しました。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自分の御子を遣わされたのです。ここに愛があるのです。もう愛を求めて探し回る必要はありません。それは神がすでに神の側でしてくださった十字架の御業にあります。私たちはいつでもその愛を見出し、受け取ることができるのです。

 

Ⅱ.互いに愛し合うなら(11-16)

 

第二に、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。11節から16節までをご覧ください。11節と12節をお読みします。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 

ここでヨハネは神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです、と言っています。ヨハネは、私たちがこれほどまでに神に愛されたのだから、私たちも神を愛すべきですとは言っていません。神を愛するというのは確かにそうですが、しかし、神を愛することは兄弟を愛する事であり、そのことによって表されるというのです。

 

20節と21節にはそのことが明確に語られています。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けているのです。」

ですから、神を愛するという者は兄弟をも愛すべきなのです。それによって、私たちが神を愛しているかどうかがわかるからです。ここに愛の流れがあることがわかります。愛は神から私たちへと流れ、そしてその愛は、今度は私たちから兄弟へと流れていくのです。その時神が私たちのうちにおられることがわかります。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、もし私たちが兄弟を愛するなら神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちにうちに全うされるのを見ることができるのです。

 

ソ連のある博物館にガガーリンの写真が飾られていて、その下に次のようなことばが書いてあるそうです。それは、「彼は宇宙へ行った最初の人間である。彼はそこで周囲を見渡したが神は見えなかった。故に、われわれは神が存在しないと確信する。」(ハンス・クリスチャン「鉄のカーテンと十字架」、いのちのことば社)

どうでしょう、確かに肉眼で神を見た者はだれもいません。しかし、それで神がいないということの証明にはなりません。なぜなら、私たちが愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちの内に全うされるからです。それを見ることができます。

 

以前、私が福島で牧師をしていた時、町内会の会長さんが教会にやって来て、よくこう言われました。「いや、お宅のところに来ている若い人たちは大したもんだ。会うたびにニコニコして挨拶してくれんだもの。」「なかなかいねぞい!」「まあ大したもんだ」

またある日全く知らないおばあさんが教会にやって来て、お茶菓子の包みを差し出すと、「これ、キリストの神様に供えてくれ」と言いました。「何ですか、これは?」と聞くと、「いやない、ここに来てる○○さんっていっぺした。あの人ない、ここに来るようになってから愚痴一つ言わなくなったんだぞい。キリストの神様は大したもんだ!」

いまだかつてだれも神を見た者はいません。しかし、私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

そればかりではありません。13節をご覧ください。ここには、「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」とあります。どういうことですか?今、私たちは互いに愛し合うことによって、神の愛が私たちのうちにとどまっているのを見ることができると言いましたが、そればかりではなく、神が私たちに与えてくださった御霊によって、そのことが分かるというのです。他の人に、「神がいるなら見せてみろ」と言われても、神は目で見ることができない方ですから見せることができません。しかし、私たちは確かに神はおられることを知っています。それは神が私たちに与えてくださった御霊によってです。御霊によって神が私たちのうちにおり、私たちも神のうちにいることが分かるのです。

 

ヨハネは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証をしました。そしてその証を受け入れる人、すなわち、イエスが神の御子であることを心に受け入れ、また告白する人に、ご自身の御霊を与えてくださいました。この御霊によって確かに神が私たちのうちにおられ、私たちも神のうちにいることを見ることができるのです。

 

16節はヨハネの確信です。ご一緒に読んでみましょう。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」

神が私たちのうちにおられ、私たちが神のうちにいることを確信することができるのは、私たちがこの愛にとどまっているかどうかによってです。神は愛ですから、この愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられるのです。

 

あなたはこの愛を信じていますか?この愛にとどまっているでしょうか?神は愛です。もしあなたがこの愛にとどまるなら、あなたは神のうちにおり、神もあなたのうちにいてくださいます。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、私たちが互いに愛し合うなら、その神をはっきりと見ることができるのです。

 

Ⅲ.全き愛は恐れを締め出す(17-21)

 

第三のことは、その結果です。それは、愛は恐れを締め出すということです。17節と18節をご覧ください。

「こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

 

こうして神の愛が私たちに全うされます。「こうして」とは、神の愛が神から出て私たちの内にあふれ、その愛が兄弟に向かって流れて行くことによって、神は生きておられるということがすべての人に証されることによってということです。その結果どうなるのでしょうか。その結果、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。何ですか、さばきの日とは?聖書にはさばきについて二つのことが言われています。一つは、永遠の行き先を決めるさばきです。主イエスを信じて罪赦され、いのちの書に名前が書き記された人は永遠のいのちに、しかしこのいのちの書に書き記されていない人は、火の池に投げ込まれます(黙示録21:15)。

 

もう一つは、神の国に入れられた人たちの中で行われる、報いを決めるためのさばきです。Ⅱコリント5章10節には、「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」ここで言う「私たち」とは、クリスチャンのことを指しています。また「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしい人なのか地獄にふさわしい人なのかを決めるさばきのことではありません。そこに集められた人はみんなクリスチャンですから、天国に行くことは決まっているのです。ただ、その人が、与えられた命や人生を、神のためにどのように使ったのかが試さる時があるのです。そのさばきのことです。もっと言うなら、目に見える兄弟を愛することによって、目に見えない神を愛したかどうかが試されるのです。

 

みなさんは、テレビで美人コンテストを見たことがあると思います。美人コンテストに参加している人はみな美人です。あれは、美人かどうかを決めるコンテストではありません。もうすでにみんな美人なのです。あとは、その人の持っている特技とか内面性をアピールして、どの人が一番美人かを決めるためのコンテストです。このさばきの座に似ています。クリスチャンはみな義人です。ただ、クリスチャンがその与えられた永遠のいのちを、この地上でどのように神と人々のために使ったのかを評価されるのです。神の栄光のためにしたのか、自分の栄誉のためにしたのか、神の喜びのために生きたのか、自分の喜びのために生きたのかが問われるのです。だからパウロはⅠコリント15章58節でこのように勧めているのです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

イエス様も、「自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(マタイ6:19)と言われましたが、神の恵みによって救われた私たちは、この地上にあって、天に宝を蓄える者でありたいと思います。

 

ヨハネがここで言っているさばきとは、この二つの神のさばきの両方のことを言っています。もしあなたが神の愛を知り、神の御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うなら、確信を持つことができます。大胆でいられるのです。このことについてはすでに3章19節と20節でも語られました。「そうすることによって、私たちは自分自身が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。」「ああ、また失敗しちゃった、何であんなことをしてしちゃったんだろう。なぜあんたなことを言っちゃったんだろう。こんな者でも天国に行けるだろうか。」と、私たちは自分を責めることがあります。しかし、私たちがイエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合うなら、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。そういう確信を持つことができます。なぜなら、その次のところに理由が記されてありますが、「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。」つまり、神の愛が全うされることによって、私たちはこの世にあってキリストに似た者としての歩みをしていることになるからです。

 

このように、愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。全き愛にはさばきを恐れる心がないのです。したがって、今恐れがあるという人の愛は全き者となっていないということになります。やがて神の御前に立たされる時どのような宣告を受けるのか、どのような報いを受けるのかがわからないので不安なのです。それは10節と14節にある神の愛を受けていないのか、それともそれを受けていてもその人の中にその流れを妨げるものがあって、互いに愛し合うという神の命令を行っていないかのどちらかです。そのような人は、主が再び来られるときその御前に立つ日が恐ろしくて不安でしょう。けれども兄弟を愛するなら、こうした恐れは消え去ります。全き愛は恐れを締め出すからです。この神の愛に生きるなら、さばきの日に確信を持つことができるばかりか、この地上にあって日々喜びと平安をいただき、大胆に生きることかできるのです。

 

日本で最初にバプテスマを受けたプロテスタントの信者は矢野元隆という人です。彼は医者で、幕府の紹介によりブラウン、バラといった宣教師の日本語教師となりました。1864年11月4日、彼はバラからバプテスマを受けましたが、翌月12月5日に結核のためこの世を去りました。バプテスマを受けた翌日、彼はバラ夫妻に言いました。「私は間もなくイエス様にお会いします。その時あなたがたが私にしてくださったことをイエス様にお話ししましょう。」するとバラ夫妻は、「イエス様に私たちの名が告げられること以上に貴いものがこの世にあるだろうか」と言って喜んだそうです。矢野はバラ宣教師を通して神の愛を受けました。バラ宣教師は神から受けた愛を矢野に伝えたのです。そして共々イエスの御名をあがめました。両者は共々にさばきの日の確信を持つことができました。それは共々に神の全き愛の中にとどまっていたからです。

 

ですから、結論は何かというと、私たちは互いに愛し合いましょう、ということです。なぜなら、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちはその愛を神から受けたのです。であれば、その神への愛は、兄弟への愛となって現われるはずです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者となります。目に見える兄弟を愛さない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。それは一致していません。神への愛と人への愛は一つでなければならないからです。祈りのことばと人へのことば、教会での態度と家庭での態度がバラバラであるなら、その人の行動はなかなか理解できません。神を愛しているとは言っても、実際には愛していません。この「目に見える兄弟」とは「ずっと見ている兄弟」という意味で、一番身近なクリスチャンのことです。一番身近なクリスチャンを愛していない、すなわちすぐできることをしていないのに、神を愛しているなどとはとても言えないのです。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。私たちはこの愛にとどまり、この愛に生きる者となりましょう。それこそ、神が私たちに求めておられることなのです。

ヨハネの手紙第一4章1~6節「神から出た者」

きょうから4章に入ります。ヨハネはクリスチャンに神を知ってほしいとこの手紙を書きました。1章と2章では神は光であるということ、そして3章からは、神は愛であるというテーマで語っていますが、この4章はその続きです。3章1節には、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあります。それがどんなにすばらしい愛であるのかを知ってほしい。それは単に頭で知るだけではなく心で深く体験することです。深く交わることです。

 

Ⅰ.吟味しなさい(1)

 

まず、1節をご覧ください。

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」

 

神の愛について語るというのですからもっと温かい内容かと思ったら、ヨハネは突然、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」と語ります。神の愛といったいどんな関係があるというのでしょうか、全く関係ないじゃないですかと思われる方もおられるのではないかと思います。でもそれは愛とは何であるかを知らないからです。愛の賛歌として有名なⅠコリント13章6節には、愛は、「不正を喜ばずに真理を喜びます。」とあります。皆さん「愛」とは何でしょうか。愛とは何でも受け入れるということではありません。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(Ⅰコリント13:4-7)これが愛です。愛は不正を喜ばずに真理を喜びます。ですから、真理は何かを吟味しなければならないのです。

 

ここには、「霊をすべて信じてはいけません」とあります。この「霊」とは原語で「プニューマ」という言葉です。これはその前の3章24節の「御霊」と訳されている言葉と同じ言葉です。3章24節の「御霊」も4章1節の「霊」も同じ「プニューマ」という語ですが、それが神の霊であるということが文脈上でわかる場合は「御霊」と訳されているのです。英語では大文字の「Spirit」と大文字で表記することで、それが神の霊であることがわかります。しかし、「御霊」も「霊」も原文では同じ「プニューマ」が使われているので、どの霊のことを言っているのかは文脈をよく見なければわかりません。神の霊もあれば、悪魔の霊、悪霊もあります。また天使も霊的存在ですし、私たち人間も神のかたちに造られたとあるように霊をもっています。いろいろな霊があります。ですからヨハネは、霊だからと言ってすべてを信じてはいけないと言っているのです。何でもかんでも聖霊の働きだとは限りません。私たちは時々、これは聖霊の力だとか、聖霊の導きだと聞くことがありますが、それを鵜呑みにしてはいけないということです。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。偽預言者がたくさん世に出て来ているからです。

 

パウロはコリントの教会に宛てて書き送った手紙の中でこのように言っています。

「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受けたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。」(Ⅱコリント11:3-4)

パウロの時代、コリントの教会の中にも別のイエスを宣べ伝えたり、異なった霊、異なった福音をもたらす者たちがいました。パウロはそのような者たちの悪巧みによって彼らの純粋な信仰が汚されてしまうのではないかと心配していたようですが、コリントの教会はそうした教えに惑わされることなく、純粋な信仰を保っていたのです。

 

それは二千年前のコリントの教会ばかりでなく、二千年後の今日の教会にも言えることです。同様の問題が起こっています。新しい教えの風が吹いてくると、何でもかんでも信じたくなります。信仰が未熟であればあるほど、聞いたらそのまま受け入れてしまいたくなるのです。勿論、神のみことばに対しては幼子のように素直に聞き従うという姿勢が大切です。でもほんとうにそうなのかどうかは、よく吟味しなければなりません。

 

イエス様は12人の弟子達を伝道に送り出すとき、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16)と言われました。それは狼の中に羊を送り出すようなものだからです。それは安全が保証されているような気楽な務めではありません。そのような彼らに求められていたことは、蛇のように賢く、鳩のように素直であることでした。どちらか一方だけではいけません。蛇のようにいつもしかめっ面ばかりしていてはいけません。疑い深いトマスのように、「俺は絶対に信じない」といった態度では良いものも入ってこなくなります。しかし、鳩のようにただ素直であればいいというのでもいけません。そうした教えに惑わされて信仰の純粋さを失ってしまうことになるからです。ですから、霊だからといって何でもかんでも信じるというのではなく、その霊が神からのものであるかどうかを、よく吟味しなければならないのです。時には蛇のような賢さを持ち合わせていなければならないということです。

 

使徒の働き17章10,11節には、ベレヤの人たちの信仰について紹介されています。迫害によってテサロニケを追われたパウロとシラスはこのベレヤの町に逃れますが、そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入りました。会堂に入るとびっくり!彼らはテサロニケにいた人たちよりも素直にみことばを受け入れただけでなく、果たしてそのとおりかどうか、毎日熱心に聖書を調べていたからです。その結果、彼らのうちの多くの者が信仰に入りました。

 

みことばを熱心に聞き、それを素直に信じることは大切なことです。しかしそれが本当かどうかを調べることは、私たちが祝福された信仰生活を送っていくためにとても重要なことなのです。ローマ・カトリック教会では、聖書は私的解釈を施してはならないとあることから教会の正式な解説がなければ読めないと主張しますが、そうではありません。このベレヤの人たちのように「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」ることができます。霊だからといって何でもかんでも信じてはいけません。その霊が神からのものかどうかを、吟味しなければならないのです。

 

Ⅱ.神からの霊(2-3)

 

では、それが神からのものであるかどうかをどうやって見分けることができるのでしょうか。2節と3節をご覧ください。

「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」

 

いったいどのようにしてそれが神からの霊であると知ることができるのでしょうか。それは、人となって来られたイエス・キリストを告白する霊であるかどうかによって分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。しかし、イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。告白するとは信じるということです。人となって来られたイエス・キリストを信じているかどうか、それを信じている霊はみな、神からのものですが、それを信じていない霊はみな、神からのものではないのです。

 

ところで、ここではただイエス・キリストを告白しない霊というのではなく、人となって来られたイエス・キリストを告白する霊ということが強調されています。どういうことでしょうか?これは以前にもお話ししたように、当時教会の中に吹き荒れていたグノーシス主義という考えの影響があります。グノーシス主義の特徴は霊肉二元論です。つまり、この世界は物質と霊によって成り立っており物質は悪であるが、霊は善であるという考えです。ですから、このグノーシスの考えによると、神の子であるキリストが人となって来られるはずがないというのです。神は霊であって善であるのに対して、肉体は物質であって悪だからです。だからキリストが人となるわけがないのです。それは人の目でそのように見えただけであって、まるで人の姿をとって生まれ、人として生き、人として死に、人として復活したかのように見えにすぎないというのです。こういうのを何というかというと「仮現論」と言います。仮に現れたかのように見えるという意味です。それは本当ではなくただの幻影にすぎないが、そのように見えたというものです。これがキリスト教会の中に蔓延していました。

 

こうしたグノーシス主義の教えは、当時のクリスチャンたちにとんでもない結果をもたらしました。一つは禁欲主義です。すべての肉は悪なので、その肉を打ちたたいて悟りを開こうとしました。それが断食であったり、難行苦行という形で現われました。しかし、残念ながらそのようなことによって霊の世界を開くことはできません。私たちの霊が救われるのはただ神が人となって来られたイエス・キリストを信じ、私たちの罪の贖いとして十字架で死んでくださったと信じることによってでしかありません。それ以外に救われる道はないのです。

 

グノーシス主義がもたらしたもう一つの結果は放縦主義です。放縦主義とはほしいままにふるまうとか、やりたい放題に生きるということです。これは禁欲主義とは正反対です。つまりこの肉の世界と霊の世界は何の関わりもないし、肉の世界ですることは霊の世界には何の影響も与えないのだから、何をしてもいいという考えです。

 

ですから、ヨハネはここで神からの霊がどのようなものであり、何が真理で正しい教えなのかをはっきり示してくれたので、私たちはその真理に堅く立つことができるようになりました。グノーシス主義は自分たちの勝手なイメージで神を作り上げ、教会の中に混乱と破滅をもたらしましたが、それは今日も同じです。特に聖書を読まない人に限って神はこういうものだと決め込んで、特別な知識がなければ本当の神を知ることもできないと主張し、その結果とんでもない生き方をするようになっていますが、本物の救いは聖書に記されたイエス・キリストにあります。人となって来られた神の御子イエス・キリストにあります。このイエスを告白する霊はみな神からのものであり、そうでないものはみな、神からのものではありません。それは悪魔からのもの、反キリストの霊なのです。

 

Ⅲ.神から出た者(4-6)

 

第三のことは、その結果です。神から出た者は、彼らに勝利することができるということです。4節から6節までをご覧ください。4節には、「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」とあります。「彼ら」とは、反キリストの霊によって動かされている人たちのことです。またその背後で働いている悪の力、悪霊のことです。神からの霊を受け、人となって来られたイエス・キリストを告白する者たちは神から出た者であり、そうした者たちに勝つことができるのです。それは私たちに力があるからではありません。私たちのうちに偉大な方が住んでおられるからです。それは聖霊なる神です。キリストの霊とも言われます。私たちの内には聖霊が宿っておられます。キリストの御霊が住んでおられます。それによって私たちはこの世にいる者、これはこの世の支配者である悪魔、サタンのことですが、それに勝利することができます。この世での信仰生活にはさまざまなプレッシャーがありますが、そのようなプレッシャーの中でも勝利することができるのです。

 

それはちょうど深海魚のようです。深海魚は不思議なもので水深何千メートルという海の底で生きています。どうしてあんな深い海の底で生きられるのでしょうか。海の底は深ければ深いほど相当の水圧がかかるため、普通の魚は生きていくことはできません。それなのに深海魚はその水圧をもろともせずに平気でスイスイ泳いでいます。それは深海魚の皮が潜水艦のように分厚い鉄板に覆われているからではありません。実は深海魚は中が脂身でいっぱいだからです。アンコウを思い出してください。脂がのっていておいしいですよね。その脂が浮袋のようになって水圧を押し戻すので、どんなに水圧がかかっても大丈夫なのです。

 

クリスチャンは深海魚のようです。アンコウに似ています。別に見た目が似ているということではなく、そうした世の中の圧力、プレッシャーを受けながらも、内側にイエス・キリストの聖なる御霊に満たされているので、どんなプレシャーにも勝利することができます。神を信じない罪の世界にいても、それに屈することなく、勝利の人生を歩むことができるのです。確かに、私たちは弱い者です。深海魚をみればわかります。皮は薄くブヨブヨしています。潜水艦のような分厚い鉄板で覆われているわけではありません。でも私たちの内には強い方、聖霊様が住んでおられるので、この方の力によってこの世にあっても圧倒的に勝利することができるのです。

 

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 

私たちがもしこの世に勝利しようと自分の外側を強めようとするならば、打ち負かされてしまうでしょう。どんなに鉄の鎧で自分を固めようとしても、すぐにつぶされてしまいます。私たちが作り上げるものでは、どうやってもこの世の敵に立ち向かっていくことはできません。でもどんなに私たちが弱くても、私たちの内にキリストの御霊、神の聖霊が住んでくださるなら、どんなプレッシャーにも耐えることができ、必ず打ち勝つことができます。なぜなら、私たちのうちにおられる方は、この世にいるあの者よりも力があるからです。

 

しかし、彼らはこの世の者です。ですから、この世のことを話し、この世も彼らの言うことを聞きます。その方がとても魅力的にも見えます。彼らは深海魚のような人たちではなく潜水艦のような人たちです。彼らは肉を誇ります。自分たちの力で何とかプレッシャーに打ち勝とうと躍起になっています。でもどうでしょうか。昨今のこの社会の動向をみると、それが間違っているということに少しずつ気付いてきているのではないでしょうか。学生のスポーツの在り方も勝利至上主義から人格形成のための一つの手段にすぎないということが見えて来て、今までの在り方がどこか間違っていたということに気付いてきているのです。私たちはアンコウのようなものです。この世の方がよっぽど強そうに見えます。でも見た目に騙されてはいけません。それが必ずしも強いわけではないのです。どんなに弱そうな者でも、その内側に神の霊を宿している人こそ本当に強い人です。あの人はまるで深海魚のように弱々しい。見た目もちょっと似ているかもしれないが、でもあの人の内にはものすごい力が働いている。それは神の力であるということを、イエス・キリストを信じて、その方が内に住んでくださることによって証明されるのです。

 

6節をご覧ください。「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者たちは私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。」

 

神から出た者は、私たちの言うことを聞くとあります。私たちの言うこととは、ヨハネたちの言うこと、すなわち、聖書の言うことです。神から出た者は聖書の言うことを聞きます。聖書の言うことを聞くか聞かないかによってそれが真理の霊なのか、偽りの霊なのかを見分けることができます。なぜなら、聖霊が聖書を書きました。聖霊は真理の御霊とも言われています。ですから、聖霊は聖書が言っていることと矛盾しません。しかし、聖書のことばに耳を傾けない、聖書の教えから外れていくなら、それは偽りの霊です。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けることができます。

 

あなたは神から出た者ですか。もしそうであれば、必ず神の御声、聖書の声に聞き従います。羊が羊飼いの声を聴き分けるように聞き分けます(ヨハネ10:27)。私たちの周りには実に多くの声がありますが、私たちの内におられる真理の御霊によって、また真理のみことばによって、真理の霊と偽りの霊をしっかり見分ける者でありたいと思います。愛はそこから始まります。愛は不正を喜ばずに、真理を喜ぶからです。

 

士師記3章

士師記3章を学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.主が残しておかれた異邦の民(1-6)

 

「カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。――これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。――すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。」

 

2章の終わりのところで言われていたように、確かにイスラエルの民は神の命令に背き、その地の住民を追い払うことをせず、かえって自分たちの首を絞めることになりましたが、それはまた、その地の住民によってイスラエルを試みるためもありました。1節、2節には、「主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、イスラエルの次の世代の者で、まだ戦いを知らない者たちに、戦い方を教え、知らせるためであった」とあります。

 

私たちの信仰生活にも、確かに、神の御心に従って、神の御心を成し遂げるための戦いがあります。それはこの世との戦いであり、罪との戦い、肉の欲望との戦い、悪魔との戦い、信仰をきよく保つところの戦いです。もちろん、戦いはできれば避けて通りたいことですし、平穏に暮らせるのであればそれに越したことはありません。しかし、私たちはそうした戦いの中で自分自身ではなく主に拠り頼むようになるのです。特に戦いを知らない次の世代の者にとっては、どうしても避けられないことでした。神は、それを教えるために、試練と苦しみを残しておかれたのです。

 

その信仰の試練を、イスラエルの民はどのように乗り越えたでしょうか。5節6節には、「彼らはカナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただなかに住み、彼らの嫁を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」とあります。つまり彼らはその地の住民と同化してしまったのです。神のみこころは、その地の住民と縁を結んではならないということでしたが(申命記7:3)、彼らは神の命令に背いてしまったのです。なぜでしょうか。

 

イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりはその地の住民と結婚し、平和的に同化してしまうことの方がずっと得策のようにすら思われからです。しかし、その結果どうなったでしょうか。イスラエルの民は、相手の神々を受け入れ、拝むことになりました。そしていつしか自分たちの神を忘れ、信仰の遺産を捨て去ることになってしまったのです。

 

ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。神の民であるクリスチャンはこの世にあっても、この世と調子を合わせてはいけません。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなければならないのです。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまいました。イスラエルの民の課題は、私たちの課題でもあります。聖書の真理を世に伝え、神の恵みの福音を語り伝える信仰的な戦いを意識できなければ、結局はこの世に流されてしまいます。神は戦いを教え、知らせようとされていることを忘れてはいけません。主がともにおられることを覚え、信仰の戦いに勝利させていただきましょう。

 

Ⅱ.オテニエル(7-11)

 

次に、7節から11節までをご覧ください。

「こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。主の霊が彼の上にあった。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。」

 

「こうして」とは、イスラエルの子らがその地の住民と婚姻関係を結ぶことで彼らと同化するようになり、彼らの神々に仕えるようになってということです。イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えました。すると主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡されたので、彼らは8年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えることを余儀なくされました。アラム・ナハライムはメソポタミアのことであり、現在のシリヤの北部に位置します。つまり、ずっと北に位置していた王がイスラエルまでやって来て、彼らを支配したのです。それでイスラエルが主に叫び求めると、主はイスラエルのために一人の救助者を起こして、彼らを救われました。それがオテニエルです。

 

彼はユダ族の出で、カレブの弟ケナズの子でした。すなわち、カレブの甥です。彼については1章11節のところに紹介されてあります。カレブがキルヤテ・セフェルに攻め入った際その地をなかなか攻略することができなかったとき、カレブは、「キルヤテ・セフェルを打って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言うと、このオテニエルが手を挙げ、それを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました(1:13)。ですから彼はとても勇敢な者であったことがわかります。主はこのオテニエルを最初の士師としてイスラエルを救うために遣わされたのです。

 

しかし、それは彼が勇敢だったというよりも、彼の上に主の御手があったからです。10節には、「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。」とあります。彼に特別な能力があったからではなく、また彼に軍事力や政治力があったからではなく、彼に主の霊が臨んだので、彼は勝利することができたのです。オテニエルがイスラエルをさばいていた40年間、イスラエルは穏やかでした。しかし、オテニエルが死ぬと状況は一変します。

 

Ⅲ.エフデとシャムガル(12-31)

 

12節から30節までをご覧ください。まず12節です。

「そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らが主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。」

このように新改訳聖書第三版では「そうすると」とありますが、原文では「ワウ」というへブル語の接続詞で、これは単純に「また」を意味するものなので、必ずしも、時間的な順序で、オテニエルが死んでからエフデの活躍があった、と理解する必要はありません。おそらくそういう理由から新改訳2017ではこの接続詞が省略されているのだと思われます。実際オテニエルが戦ったクシャン・リシュアタイムは、北方のアラムの王であり、エフデが暗殺したエグロンは、南方のモアブの王です。時間的にも、場所的にも、何の繋がりもありません。実際には、個別的で、部族的な事柄だったのです。

 

ですから、オテニエルの死とは直接的な関係はありませんが、イスラエル人は主の目の前に悪であることを重ねて行いました。それで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせました。

 

「エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。」

「なつめやしの町」とはエリコのことです。モアブはヨルダン川の東に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西にまでやって来て、エリコを占拠していたのです。こうして、イスラエルの子らは18年の間、モアブの王エグロンに仕えました。

 

そこで、イスラエルの子らが主に叫び求めると、主は彼らのために一人の救助者を起こされました。誰でしょう。エフデです。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きであったとあります。なぜここに左利きであったと強調されているのでしようか。左利きでも右利きでもどうでもいいじゃないかと思いますが、ここには左利きであったことが強調されているのです。その理由は後で明らかにされます。ここにはイスラエル人はそのエフデの手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送ったとあります。

 

その時です。エフデは長さ約1キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上の帯にはさみました。そして貢ぎ物を携えてエグロンのもとに行きました。ここにはわざわざエグロンがたいへん太った男であった紹介されています。なぜこんなことまでわざわざ記録されているのかわかりませんが、おそらく22節のところに、彼が剣で刺されたとき柄も刃も一緒に腹の中に入ってしまい、脂肪が刃をふさいでしまったということを言いたかったのでしょう。もしかすると、もっとダイエットしなさいと言っているのかもしれません。いずれにせよ、エグロンがたいへん太っていたということで、この時の様子がリアルに伝わってきます。

 

19節を見てください。エフデがエグロンに、「王様、私はあなたに秘密のお願いがあります」と告げると、エグロンは彼に、「今は、言うな」と言いました。どうしてエグロンはこのように言ったのでしょうか。エフデが秘密のお知らせがあると言ったことで、そばにいた者たちを出て行かせようと思ったのでしょう。それにしてもなぜエグロンが付き人たちを外に出させたのでしょうか。そこにはエフデの巧妙な手口があったことがわかります。それは21節の「あなたに神のお告げがあります」という言葉です。この「神」は、当時のイスラエル人が使う神の名「ヤハウェ」ではなく、その地域で広く使われていた一般的な神の名「エロヒーム」です。その「神」から王に秘密の知らせがあると言ったことでエグロンが興味を持ち、「今は言うな」とお付きの者を外に出させたのでしょう。つまり、エフデは実に巧妙な手口で彼を騙したのです。どうしたらエグロンを打ち破ることができるかを考えて、考え抜いて、見出した方法が、この方法だったのです。

 

そんなやり方を使うなんて汚いと思うかもしれません。しかし、私たちの戦いには綺麗な戦い方だけではなく、ある意味で泥まみれの戦いもあります。だからこそ、私たちは戦うことを避けたいと思ってしまうのです。もちろん、聖書はそのような戦い方を肯定しているわけではありません。パウロはⅡテモテ2章5節で、「規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」と語っているように、規定に従って競技をすること、労苦する農夫であることを勧めています。そのようなイメージで戦い抜くことを勧めています。しかし、この時のエフデにとってはそれが最善の策として神が彼に与えてくださったのです。

 

21節をご覧ください。「このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を指した。」

ここに、なぜエフデが左利きであることが記録されているのかがわかります。彼が左手を伸ばして右もものところに手を入れても、瞬時にそれが剣であるとは相手も気づきにくいでしょう。人間的には一般から離れているような特徴、他の多くの人と異なるので恥ずかしいと思うことがありますが、主はそれをご自分の栄光のために用いられるのです。

 

23節をご覧ください。彼は用意周到な人物でした。エグロンを指した後窓から出て廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めました。それは時間かせぎをするためです。案の定、彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来ますが、王のいる屋上の部屋にかんぬきがかけられているのを見ると、王は涼み部屋で用をたしていると思い、戸をあけませんでした。しかし、いつまで待っても出て来ないので、しもべたちが鍵を取って戸を開けると、王は床に倒れて死んでいました。

 

26節をご覧ください。エフデは、しもべたちが手間取っている間にセイラに逃れました。そして到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らし、イスラエルを招集しました。何のためでしょうか。28節にあるように、モアブに通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、彼らを打つためです。ヨルダン川の西にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをエフデは阻止しようとしたのです。そのようにしてイスラエル人は約1万人のモアブ人を討ったのです。モアブ人はみな、頑強で、力のある者たちでしたが、一人として逃れた者はいませんでした。

 

このようにして、モアブはその日イスラエルの手に下り、イスラエルはエフデのもとで80年間、穏やかに過ごすことができました。これは士師の中で最も長く続いた平和の期間です。

 

最後に31節をご覧ください。

「エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」

 

エフデと同時期に、違う地域でペリシテ人と戦った士師がいます。それはシャムガルです。彼は、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打ってイスラエルを救いました。牛の突き棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒です。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっていました。シャムガルは、おそらくは農作業をしていた普通の人だったのでしょう。このように、普通の人でも主に用いられます。普段の生活の場で大きな働きをするように主が用いられるのです。神学校に行かなければ伝道や牧会の働きができないというのではなく、主はその置かれているところで、その人が持っているもので仕えることができるように用いてくださるのです。

ローマ人への手紙3章1~8節「神は真実な方です」

きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらその神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であることを誇りから形式的に律法に仕えていました。そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であると言いました。御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てました。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、なぜ神は彼らをご自分の民として選ばれたのか、その理由を語ります。それは神が真実な方だからです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実です。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に応えましょう。

 

Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)

 

まず、第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったいと何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。

 

「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」

 

パウロは2章で異邦人同様、ユダヤ人も罪を犯しているのなら、しかも彼らは律法を知りながらそれを破っているのであれば、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっとひどいのではないかと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、と自問自答します。ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何なのか。

 

これに対してパウロは、「大いにあります」と答え、ユダヤ人のすぐれている点を語ります。それは彼らには神のことばがゆだねられていることです。これはシナイ山で与えられた十戒を中心とした神からのことばのことです。申命記4章12節には、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られました。このような民族は他にはありません。これはユダヤ人にとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地が与えられました。またソロモンの時代には世界で最も栄え、世界中のあこがれの的になったほどです。しかし、彼らにとって最もすばらしい特権は、この神のことばがゆだねられていたことでした。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい祝福です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これがすべてです。これで十分です。これは他の民族にはありませんでした。これはユダヤ人だけに与えられた特権であり、他の民族はユダヤ人を通して聞かなければならなかったのです。そういう意味でユダヤ人は、神と他の民族の橋渡しをする務め、使命が与えてられていたと言えるでしょう。彼らにはこのような特権が与えられていたのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持ってはいませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力ある神のことばが与えられていたのです。

 

イスラエルの長い歴史の中で彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であったということに尽きると思います。永遠のまことの神を知ること以上に大きな祝福はないのですからです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりもすぐれたものであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法律、中国の政治の知恵よりもはるかに優る宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。

 

そして、実は私たちにもこの特権がゆだねられています。第二テモテ3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)とありますが、この神のことばである聖書が与えられています。今から150年前、200年前はまだ日本語に訳されたばかりだったので、英語とか、ラテン語で読まなければなりませんでした。しかし、最近は日本語にも翻訳され、昨年も新改訳2017が出版されたように、少しずつわかりやすくなっています。訳としてまだぎこちないところもありますが、ラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすくなっています。いづても、だれでも、自由に、聖書のみことばを読めるようになりました。それは本当に祝福ではないでしょうか。

 

1,450年頃まではヨーロッパにも印刷機がなかったので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことができませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられるかと思いますが当時の聖書は非常に大きなもので、すべて手書きで書かれてあり、それに盗まれないように鎖までかけられていました。教会に来て聖書を盗むのです。今では国際ギデオン協会の方々が、「どうぞ聖書を読んでください」と学校の校門で配っても、「い~らない」と言ってゴミ箱に捨てる人も多くいます。昔では考えられないことです。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管されていたのです。それでクリスチャンはいつ聖書のことばを聞くことができたのかというと、日曜日に礼拝に集まった時だけでした。ですから、礼拝では牧師がみことばを長く朗読しました。できるだけ神のみことばを聞きたかったのです。今でも伝統的な教会に行くと、毎週の礼拝で旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師によって朗読されることがあります。教会員は聖書を持っていなかったので、日曜日の礼拝で、みことばをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができました。それほど貴重なものなのです。ですから、みことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。長い時には2~3時間続きました。立っていますから居眠りなどはできません。彼らは礼拝のために礼拝堂入った時から終わって出て行く時までずっと立ちっぱなしで礼拝することも少なくなかったのです。それでもみことばが聞きたかった。みことばに飢え渇いていたのです。聖書が少なかった時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったのです。

 

私たちは今、聖書を読もうと思えばいつでも読むことができます。しかも一冊だけでなく何冊も持っているという人もいるでしょう。いや私はスマホで見てるという人もいます。日本語だけでなく英語や他の国の聖書も持っているという人もいます。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは神のことばが与えられていることに感謝して、みことばから教えられ、これをまだ知らない人たちに伝えていくという使命を果たしていく者でありたいと思います。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことだったのです。

Ⅱ.神は真実な方です(3-4)

 

次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。

 

どういうことでしょうか。ユダヤ人にのことばが与えられていたとしても、もし彼らがそれに従わなかったとしたらどうなるのでしょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。パウロは力を込めて言います。「絶対にそんなことはありません。」なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方だからです。神は彼らにみことばを与え、もしこのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)。それで彼らはこのみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。むしろこれを背き続けてきました。ではこの約束は全く意味がなかったということなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、彼らが不真実であったとしても、神は常に真実な方だからです。人間は平気で約束を破ります。どんなに神の前で誓ってもいとも簡単に破ってしまいます。しかし、神は違います。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。どこまでも守られるのです。なぜなら、神は真実な方だからです。ここに神との契約の確実性があるのです。ですからこれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になるものではないのです。イエス様は次のように言われました。

 

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

 

キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではありません。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)

 

何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、あしあとが一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですか。」いてくださらなかったのではありません。一緒におられました。ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、主があなたを背負っていたからだ・・と。

 

本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさいません。あなたが不真実でも、常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。

 

Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)

 

ではこの真実な神の前に、私たちはどうあるべきでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えましょうということです。5~8節です。

 

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

 

このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんどん悪いことをしようではないか」と言う人がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと言っています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じレベルにまで引き下げてしまうのであって、神は絶対者であってさばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を創造されただけでなく、この世界を動かしておられます。そして最後にこの世界をさばかれます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張しても通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすです。ローマ人への手紙5章15節に、「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」とあります。

 

皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ち溢れているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに越えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と言いました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)カナの結婚式では一瓶や二瓶ではない、庭にあった大きな石がめ六つの水をぶどう酒に変えてくださいました。男だけで五千人の人たちが腹ペコだった時には、五つのパンと二匹の魚で彼らの空腹を満たされたばかりか余ったパン屑を集めると大きなかごで十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じる者に、神は溢れほどの恵みを注いでくださいます。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の恵みに答える者でありたいと思うのです。

 

中国の家の教会の指導者でアクラ張という牧師がおられましたが、私が福島の教会を牧会していたとき先生は二度も教会に来て説教してくださいました。一見、よれよれのおじいちゃんのようですが、一度説教が始まったら、それは火が出るような説教でした。

「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に国が管理する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きに従って教会を辞めました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごすことになりました。

1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され1982年にアメリカへ移住、その後まもなくして人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。

アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2つの教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業しフルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6)とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。

あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)

私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。

「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)

選ばれた民に主はこう語っておられます。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)

愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。

「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18)

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)

「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実とご慈愛を仰ぎます。

残り少なくなった私たちの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」

 

これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。

士師記2章

士師記2章を学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.声を上げて泣いたイスラエル(1-5)

 

「さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。」

 

前回の箇所には、イスラエルの民が神の命令に反してその地の住民を完全に追い払わなかったので、多くの未占領地を残す結果となったことが記されてありました。その結果どうなったのかが今回の箇所に記されてあります。 1節から3節までのところに、主の使いがギルガルからボキムに上って来て、神のみことばを伝えます。ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。そこからボキムに上って来てこう言ったのです。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから上らせ、彼らの先祖に誓ったカナンの地に導き入れる時、イスラエルの民に命じた約束を彼らが守らなかったので、神が彼らの前から彼らを追い払わないだけでなく、彼らはイスラエルの敵となり、彼らの神々はイスラエルにとって罠となるということです。神がイスラエルに命じた命令とは申命記7章1~4節にあるように、主がその地の住民をイスラエルに渡すとき、イスラエルは彼らを必ず聖絶しなければならないということでした。彼らと何の契約も結んではなりませんでした。彼らにあわれみさえも示してはなりませんでした。それなのに彼らは神の声に聞き従わず、その地の住民を聖絶しませんでした。それゆえ神は彼らを追い払わず、彼らはイスラエルの敵となって彼らを苦しめることになるというのです。

 

4節と5節を見てください。主の使いがこれらのことばを語ったとき、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。それでその場所の名は「ボキム」と呼ばれるようになりました。意味は「泣く者たち」です。そこでイスラエルの民は、神にいけにえを献げました。このようなことになったのは、イスラエルの民が神のみことばを完全に守らなかったからです。イスラエルの民が妥協して神の命令に従わず、偶像崇拝をするカナン人を完全に追い払わなかったからなのです。

 

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。どこか割り引いて神のことばを聞いてしまうため、自分の首を絞めるようなことがあるのです。それは神が悪いのではありません。私たちが悪いのです。神がこのようにしなさいという命令してもそこまでしなくてもとか、そんなに熱心になる必要はない、信仰はほどほどがいいとか言って、徹底して従うことを嫌うのです。むしろ、そこまで従おうとする人たちはバランスを崩しているとか言って非難することもあります。しかしそれはこの時のイスラエルのようにカナン人が敵となり、彼らの神々が自分たちにとって罠となる結果となり、声をあげて泣くことになるのです。幸いな人とは詩篇1篇にあるように、「主のおしえを喜びと死、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。その人は水路のそばに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄えるのです。

 

Ⅱ.主を知らない別の世代(6-15)

 

次に6節から15節までをご覧ください。まず10節までをお読みします。

「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあそれで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。とに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」

 

この箇所は、ヨシュア記24章28~31節までの繰り返しとなっています。それでこの箇所はヨシュア記と士師記を直接結び付ける役割をしているのではないかと考えられています。その中心的なことは、ヨシュアが生きていた時と死んでからとでは、イスラエルの民はどのように変わったかということです。6,7節には、ヨシュアが生きていた時のイスラエルの様子が描かれています。ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ自分の相続する土地を占領しようと出て行きました。彼らはヨシュアが生きていた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、主に仕えました。ところが、主のしもべヨシュアが死ぬと、10節にあるように、「彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない」別の世代が起こりました。つまりヨシュアが生きていたときは、みな主に仕えましたが、ヨシュアが死ぬと、そこには「主を知らず、主のわざも知らない」世代が起こったのです。この「知る」ということは抽象的な概念ではなく、出エジプトや、荒野での奇跡、ヨルダン渡河、さらにはエリコやアイといった町々を攻略した神の奇跡を体験したということ、つまり、彼らをエジプトから救ってくださった神が今も生きて働いているということを信じる信仰を持っているということです。なぜ彼らは主を知らず、主のわざも知らなかったのでしょうか。それはイスラエルの民がその子孫に信仰教育と歴史教育をきちんと行わなかったからです。

 

このことは信仰の継承について大切なことを私たちに教えています。先日、国際ギデオン協会の田村兄弟が来られ、西那須野教会の初期の頃のことを証してくださいました。初めは5人しかいなかったそうです。そうした中で福本先生が牧師として赴任して来られた時、これからは農業の時代だから農業を研修する施設を作らなければならないと、全県に農業研修の施設を作ろうをされました。その一つがアジア学院でした。ただ農業研修の施設を作ったのではありません。それを通して地域に福音を宣べ伝えていくというビジョンがありました。そのビジョンが教会の力となりました。ですからみんなでよく祈りました。ところが、あれから何十年と経って行く中でそうしたビジョンが無くなり、信仰が形骸化してきたと言います。それはこの時のイスラエルのように主を知らない、主のわざを知らない世代が起こったからです。そういう世代になっても心から主を愛する人となるように教会は次世代のこどもたちにしっかりと信仰を継承していかなければなりません。

 

その結果、彼らはどのようになっていったでしょうか。11節から15節までをご覧ください。

「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。」

 

読んで字のごとくです。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えました。彼らは、自分たちをエジプトの地から導き出された父祖の神、主を捨てて、ほかの神々を拝み、それらに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡されました。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらしたのです。

バアルとは、カナン人が当時拝んでいた主体となる神でした。農耕を行なっていたので、その天候などすべてを左右する神であったと考えられています。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じ起源であるとされています。カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていただけでなく、自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。主を忘れたイスラエルの子らは、こうしたバアルやアシュタロテに仕え、主の目の前に悪であることを行い、主の怒りをかい、彼らがどこへ行っても、わざわいを受けることになってしまいました。

 

イスラエルは初め、周囲の住民を追い払うことをせず、いわば、殺さないで共存しました。その結果、他の神々に仕え、それらを拝み、神の怒りを招くことになってしまいました。私たちも肉をそのままにしておくと、結果的にその肉に仕えることになり、神の怒りを受けることになってしまいます。ですからパウロは、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言ったのです。それらを殺さなければなりません。妥協してはならないのです。学校や職場で未信者と一緒にいるうちに、神を忘れて自堕落な生活に陥ってしまったということはないでしょうか。そうした未信者と一緒にいることも大切ですが、しかし、主を忘れてもろもろのバアルやアシュタロテに仕えるようなことがあるとしたら、この時のイスラエルのようにわざわいを招くことを肝に銘じておかなければなりません。

 

Ⅲ.信仰の試練(16-23)

 

次に16節から23節までをご覧ください。

「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかそれで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」の神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

 

「そのとき」とは、イスラエルが主の命令に背いて、主の目に悪であることを行ったために、主の怒りが燃え上がり、彼らを略奪する者の手に渡されたので、彼らは大いに苦しんだとき、です。そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われました。ここでわかることは、神がイスラエルをさばかれるのは神が契約に不忠実な方であるとか、愛がないからではなく、どこまでも罪を憎まれるからです。にもかかわらず神は、罪と背信のイスラエルを滅ぼすことをせず、さばきつかさを起こして、彼らを救われました。具体的には3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されます。ところが、19節を見てください。そのさばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻ってしまいます。そして、先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝むということが繰り返されます。イスラエルはそうした頑なな生き方から離れませんでした。それゆえ、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らの前から異邦の民を追い払わないと言われたのです。その結果、彼らはまた苦しみ、叫び、助けを求めます。実に、背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されるのです。それはなぜでしょうか。22節には、「試みるためである」とあります。これは「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」どういうことでしょうか。

 

これは、3章1節にもあるように、イスラエルを試みるためでした。つまり、そのように異邦の民を残しておくことによって、カナンでの戦いを全く知らないイスラエルの民がどのようにそれを乗り越えるのかをテストするためだったのです。神はしばしばこのように私たちの信仰を試すことがあります。創世記22章1節には、神はアブラハムを試練にあわせられました。自分のひとり子イサクを主にささげなさいと命じました。考えられないことです。いったいなぜ神はそんなことを言われたのでしょうか。それは彼を試みるためでした。信仰の試練です。その命令に対して彼がどのように従うのかを試したのです。アブラハムはそのテストに合格しました。荒野の民もマナによって信仰を試されました(出16:4,申8:16)。このように私たちの信仰もしばしば試される時があるのです。神が起こされたさばきつかさは「家庭教師」のようなもので、イスラエルはその家庭教師に助けられている間だけ成績があがる不良学生のようなものでした。

 

私たちにもこうした異邦の民が残しておかれることがあります。しかし、それは私たちを倒すためではなく、反対に私たちの信仰を強くするためです。そのような試練の中で主はどのような方なのか、どのように偉大な方なのかを知り、この方にますますより頼む者となるためなのです。ヤコブ1章2~4節にはこうあります。

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところがない、成熟した、完全な者となります。」

また、へブル12章7~11節にもこうあります。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。・・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 

いったいどうやって私たちは主を知ることができるのでしょうか。残された異邦の民を通してです。その試練の中で主がどのような方なのかを知り、この方に心からより頼むことができるようになるのです。主を知らない別の世代が起こります。どんな世代が起こっても、彼らが主を知るようになるのはこの試練を通してであるということを覚え、試練が来るときには、それをこの上もない喜びと思って受け止めましょう。